2006年12月13日

久生十蘭の仕事部屋から(37)

4fa217a6.JPG栄子さんによれば、鑑は離婚した後、函館高等女学校でお茶とお花を教えていたそうです。しかし、それだけでフランスへの渡航費を捻出するのは難しいのではないでしょうか。
「一人娘だったので、親から継いだ財産を処分して出かけたようです」

それなら納得できます。昭和3年1月4日、父・真七が他界しています。母・カシは大正14年にすでに亡くなっており、鑑1人が相続人です。廻船問屋ということであれば、それなりの財産があったと考えられます。公表されている十蘭の年譜によれば、昭和5年か6年に渡仏したとありますので、年代も合います。



アルバムの1冊を開くと、最初のページの写真がこれです。「巴里記念」「昭和六年十月 巴里出発の際門下の送別会」と書かれたメモも貼られています。

鑑は真中のテーブルの左側、前から6番目で、留袖を着てこちらを向いています。周りの制服姿は函館高女の女学生たちでしょうか。場所が書かれていないのですが、他の写真と見比べた結果、五島軒と考えられます。ページを繰ると「社中送別会」「華道師範部ノ送別会」「東京ニ於テノ送別会」と送別会が続き、当時はフランス行きがいかに大事だったかが想像されます。

さらにエジプト、セイロン、パリ、上海、マルセーユ、ナポリと、行程や日付には全く頓着していないような順番で写真が並びます。着物姿で鉢植えの木の横に立っている写真もあります。余白の部分に小さな文字でこう書かれています。「印度洋上 鹿嶋丸甲板上にて ○セイロン島産 ニンジン木」

鑑は草月流の生花を教えていたということですが、洋風のフラワーアレンジメントの写真も沢山ありました。現代のセンスにも十分に通じる大胆なアレンジです。2冊目は絵葉書がほどんど。パリ、マルセイユ、ポンペイ、カイロ、スエズ運河、シンガポールとなっています。そして、最終ページの裏表紙に貼られた赤い紙に「歌」が印刷してありました。

巴里の夕ぐれ

夕暮に眺め見渡すセイヌ河
月に風情はエッフェイル塔
ノオトルダムの鐘が鳴る
アレ
ネオン、サインの輝ける
巴里に名所はあるわいな

         雙月


鑑さんという女性に、俄然、興味が湧いてきました。(つづく)


hisaojuran at 23:47│Comments(2)TrackBack(0)久生十蘭の仕事部屋から 

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この記事へのコメント

1. Posted by pumpkin   2006年12月15日 07:41
たしかに鑑さんという方は不思議な人ですね。
息子に会う目的もあるといっても、一人でフランスへ出かけるのは当時としては異例と思います。

函館の町は不思議な人を生むのかもしれませんね。
2. Posted by 亜子十郎   2006年12月15日 20:47
pumpkinさん、いつもありがとうございます。

離婚の決断と言い、店を畳んだ資金で息子が先に行っているとは言え単身渡欧し、(推定ですが)息子とは同居せず、生け花で注目を浴びるなど、並みの人物ではありません。

写真を見た印象も、実際に会ったことのある方々の証言からも怖い(厳格な)人だったらしいです。


                     亜子十郎 拝

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