2007年01月09日

久生十蘭の仕事部屋から(39)***パリの阿部鑑その1***

おくればせながら皆様、新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

私は、十蘭に会った記憶もなければ、著作も読んだことがない叔父の著作や資料を整理しながら、このブログを書いてきました。いつの間にか“十蘭初心者”が、著作や写真を前にそれなりの説明ができる“ボランティア学芸員”のようになりました。

さて、アルバムに貼られた新聞記事です。1932年(昭和7年)4月22日付フランス・コメディア紙。鑑の筆跡で日本語訳がありました。


魅力ある藝術  パリ藝術新聞 記者 アンドレ・ワルノオ述 
花の藝術家 マダム・アベ(一九三二年四月二十二日 コメデイア紙)

私はマダム・アベにモンパルナッスの花屋アンドレ・ボーマンの地家(ママ)室で逢った。マダム・アベは花が藝術的な表現の一つの手段となり得るといふ事を示すために巴里にこられた日本の婦人である。

日本では花を挿ける事は一つの藝術であって、非常に多くの流派に分れてゐる。フランスの上流の令嬢達がピアノを習ふ様に日本の若い婦人達は各々風尚を以って家庭を花で飾る藝術を学ぶのだ。主人にはそういふ花○我らは何にもまして價値あるものであろう。

マダム・アベは日本に於てその一派を主宰してゐられる人である。見受けるところ、それは何といふ魅力のある將来のある藝術であろう。

私は花屋の地下室の花を撒き散らされた長い卓の前でマダム・アベに逢った。棚の上にはかめや篭や花の壷、手篭などがつまつてゐ、濕つた土と葉と野菜置場のいゝ匂ひがしてゐた。マダム・アベは小さな鋏を持ち、袖の長い黒い衣服に白い線取りした青い前掛をし、毛織物に沓下に草靴(サンダル)を穿いて仕事をしてゐた。

マダム・アベは恰かも詩を作ってゞもゐる様にかめを飾って行った。五本のあらはな長い茎の薔薇、白い二本のリラの小枝、多少の葉○れで全部だ。しかし、バラは茎の上で、この世の最も美しい東邦風の図案畫をそこに描き出してゐた。すべてはこの上もない調和を保ち、○花の前に立つて韻律の整つた詩が○つる喜悦に等しいものを感じさせた。

つゞいてマダム・アベは松の枝を篭に挿した。その一番高い枝は傲然と躍り上るやうに○立ってゐるその下に○つた四つの赤いチウリップは○撥け返るやふな色の例から暗い刺○○松の葉を透し出してゐた。

マダム・アベは偉大な藝術家だ。その人がもう日本に帰られるといふのは実に残念な事である。なぜ、フランスで生花の教授を始めないのであろう。巴里の若い令嬢の中から天分ある人を多く発見するであろうのに。


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この記事で、鑑は5月の帰国を前にしていたことが分かります。なんとも褒めすぎのように思いますが、フランスの生花とは全く異なる趣の草月流生花が、このフランス人記者には驚きと感動を与えたようです。写真上がアンドレ・ボーマンの花屋さんです。
 
その右の写真は「昭和七年一月十日(日曜日)ノートルダム寺院の参拝記念」のメモがある入場券の横に貼ってありました。場所は不明ですが、背景の建物に特徴があります。周りの植物の様子から、植物園のようにも見えます。
後に十蘭の義兄となる親友の竹内清は、十蘭に先駆けてパリに行っていました。同人誌「海峡第71号久生十蘭追悼特輯号」(昭和35年)に、フランス時代の鑑について次のように書いています。

このお母さんが、阿部の巴里滞在中に一年ばかり巴里へやって來て、和服で押し通し、毎日巴里市場まで買物に出かけ、親子水入らずで暮らした。お母さんは遠州流のお花の先生であったので、プチパリジャン紙の後援でモンパルナスのギャレリーで生花の個展を二回開催して、巴里っ子に持てはやされた。

滞在期間については、「一年」ではなく半年。また、後援は「プチパリジャン紙」ではなく“絶賛記事”を掲載したコメディア紙かも知れませんが、いずれにしても親子水入らずの時期があったようです。ということは、「キャスタンヤリーアパートの一室」というこの鑑の写真は十蘭が撮影したと考えられます。

アルバムには写真だけでなく、かなりの枚数の絵葉書もあります。糊付けされた絵葉書と台紙の隙間を覗いてみると、文字が書かれているものがあることが分かりました。(つづく)
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hisaojuran at 20:54│Comments(0)TrackBack(0)久生十蘭の仕事部屋から 

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