2007年05月08日

久生十蘭の仕事部屋から(42)

f3729c28.jpg129773b3.jpgすっかり間が空いてしまい、愛読者の皆様には申し訳なく思っています。週末ごとにブログの更新が気にかかっていたのですが、年度末締め切りの仕事の後始末があって、ようやく一息ついたところです。

十蘭の母・阿部鑑のアルバムに貼ってあった十蘭から母親宛ての絵葉書を、前回に続いてご紹介します。この絵葉書には鑑の筆跡で「ウラジオストック停車場」のメモがついています。鑑は渡仏に当たって船を利用したので不思議に思って裏を見てみると、十蘭の筆跡でこう書かれていました。

阿部 鑑 様
凾館市會所町十八

Hakodate
Japan

少しの障害もなくウラジオストツクに着きました。
昨夜は一晩こヽに泊り今日午后六時に
この繪葉書が示すところの停車場から巴里に向けて出発します。
東京を出発する晩には岸田先生夫人が僕のために
「銀座グリル」で送別会をしてくれ、停車場迄送って下さいました。
僕は非常に元氣です。少しもご案じなさることはありません。では、ごきげんよう



消印は12.12.29.MOSKBAとなっています。1929年(昭和4年)12月12日、「モスクワ」ということですね。十蘭は当時27歳。初めての海外旅行を心配する母親に宛てての、心の通う文面です。

十蘭は若い頃、「うそつき阿部」と呼ばれていたそうで、事実とも虚構ともつかない話をして友人達を煙に巻くことが日常茶飯事だったといいます。ですから、私もそんな十蘭がフランスに行ったという話もどこまで信用してよいものかと考えていたこともありますが、この絵葉書で、確かに十蘭はシベリア鉄道でパリに向かったことが分かりました。

ユリイカ(1989年6月号)「特集 久生十蘭 文体のダンディズム」に掲載されている渡辺紳一郎との対談「第3回 話の泉」で、十蘭はシベリア鉄道でのエピソードを語っています。

(前略)
久生 日本にいたくない、という風潮はあの当時あったね。ぼくはヨーロッパへいく時に、一等でいったけど、ベルリンまで日本金で六十何円かだった。
渡辺 じゃ、ウラジオストックから行く、あの手をやったんだろう。

久生 そう。どうしても朝鮮やシナを通りたくない。往きはシベリアで行って、帰りは船にしよう、と計画をたてていた。その時、ロシアのルーブルは国内の公定相場は、一ルーブル1円十銭だったが、函館の日魯漁業へ行くと、三十六銭という闇ルーブルが買える。だから六十何円でベルリンまでいけちゃった。金がどうだとうんじゃない。そんな冒険をしてみたかった。事実、露見すれば、ウラジオストックの砲台監獄へぶちこまれるんだが、それを承知でやったんだ。

渡辺 シベリア鉄道はどうだった?
久生 よかったよ。冬の初めでね、客はいないし、第一次五カ年計画の完成した年だから、食べ物もよかった。一等のカテゴリーAだから、二人の個室で、ボーイが一人付いていた。こいつが怠け者で、脚でドアを開けたてするひどい“オブロモフ”(ゴンチャロフの同名の小説の主人公で安楽を求める怠け者の代名詞)だったが、退屈だから友達にして、シベリアの固いチーズで、サイコロを三つ作って二人で床の上にあぐらをかいて、朝から晩まで、そればかりやていた。ほかになにもすることがないから、モスクワに着いたとき、三十ルーブルの負け勘定になっていた。

渡辺 ロシア語はできたの?
久生 どういたしまして。だが、函館で生まれたせいで、ロシア文字の格好は心得ているし、「ありがとう」「今日は」くらいなことは調子よく、スラスラしゃべれた。
(後略)


そして、パリに着いた時のことについては、石川正雄が「海峡 第71号 久生十蘭追悼輯号」(昭和35年)で、「惜しい男!」と題した一文の中で触れていています。

(前略)
阿部がパリの私達をおどろかしたのは、その年の十二月十日だった。東京で巴里の話をした時、欧州行貨物船でマルセーユまでデッキパッセンジャーになっていくと、ひどく安く行けるなどといっていたが、私達同様シベリヤ経由だった。

何分突然なので、近所に恰好な宿もなく、十日ばかり私の室のダブルベットに三人雑魚寝した。まもなくとなりのホテル―パンション―にいる知り合いで、若い夫婦者の声楽勉強の巽清次郎という人の世話で、そこのホテルの四階かの一室が空いたので、そこへ移った。

炊事のガスがないので、かれは小さな石油コンロを買って自炊を始めた。しかし函館時代のかれを思うと、おどろくほどつましいものだった。もっとも手料理など面倒だったのかも知れない。
(後略)

十蘭のパリでの生活はこんな様子で始まったようです。ウラジオストック停車場の絵葉書が貼られたアルバムのページには、もう1枚「巴里、近海岸オルヌ」とメモのある絵葉書がありました。(つづく)


hisaojuran at 00:22│Comments(6)TrackBack(0)久生十蘭の仕事部屋から 

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この記事へのコメント

1. Posted by pumpkin   2007年05月10日 07:50
次々と貴重な資料ありがとうございます。
対談の中の「日本にいたくない」「朝鮮やシナを通りたくない」はどのような心情なのでしょうか。満州事変は始まっていませんが、前年に張作霖事件は起きていますので、そのあたりが関係しているのでしょうか。
2. Posted by 亜子十郎   2007年05月11日 16:41
pumpkinさん、いつも書き込みありがとうございます。

本人に聞けるわけもなく、推察に過ぎないのですが、戦乱とかの安全性の問題ではなく、どうも生理的嫌悪感のように私は思っています。これも根拠なしですが、中支従軍の影響ではないでしょうか?

                         亜子十郎 拝
3. Posted by pumpkin   2007年05月11日 23:50
中支従軍は後年(昭和十六年)のことですから、パリ行きとは関係ないのではないでしょうか。
ちょっとこだわったのは、十蘭がみずからの戦中と戦後の作品をどう考えていたかがよく分からないからです。十蘭のような作家に対して戦争責任などというのは野暮なことですが、それにしても不思議なところがありますから。

わたしは戦前戦中の作品の方が面白いと感じていますので、批判するつもりはありません。
4. Posted by 十蘭ファン@岐阜   2007年05月12日 06:13
>若い夫婦者の声楽勉強の巽清次郎という人

「黒い手帳」の若夫婦のモデルかも・・・と妄想してしまいました。

5. Posted by 亜子十郎   2007年05月15日 14:02
>中支従軍は後年(昭和十六年)のことですから、パリ行きとは関係ないのではないでしょうか。

そうですね、前後関係を勘違いしました。

                           亜子十郎 拝

6. Posted by 河童頭   2007年05月15日 21:04
「黄金遁走曲」も「中国の海は物騒な黄土色に濁っているのに、日本の海は・・澄んでいる」と始まっていますね。

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