2007年08月26日

久生十蘭の仕事部屋から(45)

酷暑の夏、いかがお過ごしでしょうか。さて、フランス時代の十蘭の写真は、前回ご紹介したもので全てです。今回は、当時のエピソードを一つ取り上げます。

函館時代から女性の出入りが多かった十蘭が、フランスに滞在したのは30歳前後。竹内清は、「海峡」第37号(昭和33年1月発行)「阿部の思い出」の中で、で次のように書いています。

(前略)当時、関西のSという二十二三才の女の子が、ハープの勉強をしていた。佐伯という夭折した天才画家の姪という話であつた。此の女とアパート暮しを三年位したので、巴里でも女に不自由しなかつた。

Sが帰国後、独りぼつちになつた阿部は、猛烈なホームシツクにやられ、先輩青山義雄氏(北海道出身の洋画家)の世話で南仏クロード・キヤンヌの別荘、と云つても物置きを手修しした程度の別荘だが、南仏の明るい海岸でフランス最後の年を過ごしたのだが、ひどい時は、よだれをたらすまでの強い神経衰弱に悩まされたそうだ。(後略)




上記の文中にある「佐伯という夭折した天才画家」とは「佐伯祐三」、「S」とは「杉邨てい」である、と明らかにした新聞記事があります。平成4年5月11日付「北海道新聞夕刊」。筆者は光華女子大専任講師の須田千里さんで、見出しは「異色の小説家 久生十蘭 フランス時代の恋」。

杉邨ていがハープを演奏している写真も付いています。とても美しい女性で、ブログにアップできないのが残念です。記事は兄・房雄氏から直接、滞仏時代の話を聞いてまとめたもので、こんな内容です。

(前略) ていははじめ、パリへ行って洋裁を勉強したい、と言っていたが、途中からハープの勉強を志したという。彼女は佐伯の死後三年間フランスで勉強していたから、日本に帰ったのが昭和六年、十蘭は昭和四―八年まで在仏していたので、時期はぴたりと合う。当時ていは高等女学校の二年生だったが、だとすれば十四歳、逆算すれば大正二年(一九一三年)生まれで、昭和十九年に盲腸炎から腹膜炎を併発して三十一歳の短い生涯を閉じるまで、ハープ奏者として過ごし、独身を通したという。

十蘭は帰国後もていを幾度か大阪に訪ね、二、三日泊まっていったこともあった。房雄氏の記憶では、落ち着いた感じの無口な好紳士で、演劇を好み、二人で見にいったりもしたが、家族は十蘭をていのパリ時代の友人とのみ思っていたという。てい女の、明朗活発で意志の強い性格が、「ノンシャラン道中記」(昭9・1−8)、「黄金遁走曲」(昭10・7−12)の「タヌ子」に生かされていること、いうまでもあるまい。(後略)

フランスで分かれて神経衰弱になるほどだったていとの関係は、帰国後も続いたようですが、十蘭は昭和17年、ていより一回り若い19歳の三ッ谷幸子と結婚しています。十蘭とていの間に何があったのか知る由もありませんが、昭和19年にていが独身のまま亡くなったという話は、ちょっぴり哀れに思います。

江口雄輔さんによれば、十蘭は昭和8年5月までに帰国しているのですが、正確な日付は目下のところ分からないそうです。(つづく)


hisaojuran at 16:05│Comments(3)TrackBack(0)久生十蘭の仕事部屋から 

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この記事へのコメント

1. Posted by pumpkin   2007年08月29日 07:53
お久しぶりです。いつも興味深く読んでいます。

以前須田さんの論文を指摘された方があり、私もそれによって書き込みしましたが、北海道新聞にも書かれていたのですね。

たしか論文にも杉邨ていのことは少し書いてあったと思いますが、新聞の方がずっと詳しいです。

須田さん(男性です)は泉鏡花研究が専門で、特に徹底的な出典研究で知られているようです。十蘭研究も同じ手法ですが、調査範囲が全く違うのに見事です。

どんな理由で十蘭も調べるようになったのか、うかがいたい気もします。
2. Posted by ぴーた@   2007年09月12日 22:52
海峡37号の記事全文はこちらをご覧下さい。
3. Posted by ぴーた@   2007年09月12日 22:54
海峡37号の記事全文は<a href="http://www.soho-e.com/pdf/kaikyo37.pdf">こちら</A>をご覧下さい。

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