2008年12月03日

久生十蘭を探して(14)阿部鑑と杉邨てい

毎年のように渡仏していますが、別に十蘭の研究の為に出かけている訳ではありません。単に「フランスかぶれ」であるだけです。今回も特に目的も無く(ある意味では贅沢な話ですが)「巴里で飯でも喰うか」と言う程度の理由です。「ついで」に十蘭関連の手がかりでも見つかれば御の字と言う程度です。しかも、「十字街」の中に出てくる巴里市内の具体的な地名や建物を巡ってみようと思っていながら肝心の「十字街」の文庫本を持ってゆくのを忘れました。

旅立つ前に杉邨ていについて何か手がかりは無いかと事前に調べている時に「高田ハープサロン」と言う楽器店のホームページ内に「日本ハープ物語 その1 演奏家編」と言うコンテンツを見つけました。以前、杉邨ていについて調べた時には見当たらなかったので比較的最近作られたホームページのようです。(ブログも併設されていて最も古いのが二〇〇七年四月なのでその頃開設されたようです)

テキストの中に「杉邨てい」の記述は存在しないのですが、「来日したハーピストではスペインのソランジェ・レニが1937年4月に来日し、「相当な名手」と評され、当時のハーピストにレッスンを授けている写真が現存しています」と言う記述があり、添えられた画像に「ソランジェ・レニ 山崎光子/杉村テイ子」とあります。画像の二人の日本女性のうち右側の女性が「杉邨てい」のようです。一九九二年の北海道新聞に掲載された須田千里さんの寄稿に添えられた写真と同一人物であるかどうかは断言できませんが、まず間違いないと思います。



この「日本ハープ物語」には「その3 1935年の名簿から」と言うページもありそこには「日本におけるハープ愛好者の集まりである『日本アルプ協会1935年度名簿』」を見たところ、「協会員は30名で、東京以外では8名が関西、1名が外国在住です」と言う記述もあります。関西の八人のうちに「杉邨てい」あるいは「杉村テイ子」の名前があるのか問い合わせて見たいと思います。

ただ、これだけでは文章にまとめるだけの内容ではないので、元著作権継承者にメールで報告だけして渡仏しました。

帰国後どうしても杉邨ていのことが気になって一度目を通した資料を再点検していると林芙美子の「下駄で歩いた巴里」(岩波文庫)所載の「春の日記」の中に衝撃的な記述を見つけました。「同室者は(中略)ハープをパリーで四年も勉強していたと言うお嬢さん…」です。直感的に杉邨ていではないかと思い。他の資料に当たりました。

前述の北海道新聞の記事です。この中に「杉邨氏のお話では、ていははじめ、パリへ行って洋裁を勉強したい、と言っていたが、途中からハープの勉強を志したという。彼女は佐伯の死後三年間フランスで勉強していたから、日本に帰ったのが昭和六年、十蘭は昭和四−八年まで在仏していたので時期はぴたりと合う。」(一九九二年五月十一日「北海道新聞」夕刊)

これを読んで軽く落胆しました。林芙美子が帰国したのは昭和七年のことで、五月十三日の夕刻マルセイユを経って、六月に日本に着いていることが史実として確定しているからです。

しかし、この時には全神経が杉邨ていに向けられていたので、今思うとなぜこのように重要な記述にその場で気付かなかったのか自分でも理解できないのですが、「中略」した部分には「Aという生花を教えているお婆さんと」とあるではないですか。

全身をアドレナリンが駆け巡りました。震える手で元著作権継承者が日本郵船から入手した阿部鑑の資料を読み返しました。みなさんも二〇〇六年大晦日のこのブログをご参照ください。

「<榛名丸> マルセイユ 昭和7年5月13日
      ナポリ        5月15日
      ポートサイド     5月19日
      スエズ        5月20日
      コロンボ       5月30日
      シンガポール     6月4日、5日
      香港         6月10日
      上海         6月13日、14日
      神戸         6月16日、20日
      横浜         6月21日
行きの鹿嶋丸については、往復とも他の何枚かの写真の日付と合致しました。鑑が知人宛てに書いた書き損じの絵葉書にも、「六月十六日神戸、二十一日壥醒紊緑定」とありましたので、これが往復航路に間違いないでしょう。」

なんと阿部鑑と林芙美子は同じ年の同じ月同じ日にマルセイユを出帆した日本郵船の「榛名丸」に同船していたのです。ここまでは断言して良いでしょう。

そして、もしこの世に「Aと言う生花を教えているお婆さん」が二人いて一九三二年と言う海外旅行など「夢のまた夢」の時代に同じ「榛名丸」に乗っていたのでなければ、阿部鑑と林芙美子は三十五日間(林芙美子は神戸で下船)同じ部屋で生活していたのです。これも、まず間違いないと思います。

ここからはここまで書いてきたことより可能性は低くなります。ただ、杉邨ていの実兄、房雄氏の記憶がパスポートなどの書類で裏付けられていないのであれば、これまた、あの時代に「ハープをパリーで四年も勉強していたと言うお嬢さん」が二人も(杉邨ていの帰国が昭和六年で間違いないとすれば「三年も勉強」だが)いた可能性はそれほど高くないのではないでしょうか?もしかしたら、阿部鑑は杉邨ていを伴って帰国したのではないでそうか?

以後は亜子十郎の妄想です。

半年余り、巴里で十蘭、いや阿部正雄の生活を見て、杉邨ていに溺れる息子の姿に将来の不安を覚えた母親が、二人の仲を割こうとしたか、交際の条件として「巴里での一層の精進」を与え、杉邨ていを連れ帰ったと言う仮説が立つのではないでしょうか?

この仮説で考えると、杉邨ていが帰国した後の十蘭の落胆あるいは失意は想像するに易いですし、サントオバンスルメール(二〇〇七年六月九日の当ブログをご参照ください)からのはがきの「この十日から余ホド劇しい勉強が始まりさうで充分身体を錬へて置かねはならぬといふので、一生懸命です」と言う刻苦勉励を臭わす、十蘭らしからぬ文面も腑に落ちるのです。なお、このはがきの消印の日付は読めませんが、添付された切手が一九三一年に開催された「パリ国際植民地博覧会」の記念切手なので一九三一年以降に出されたことは明らかです。(と言って、一九三一年夏の可能性も否定できませんが)

さて、再度、杉邨ていと林芙美子の周辺を洗う必要が出てきたようです。

hisaojuran at 07:36│Comments(2)TrackBack(0)

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この記事へのコメント

1. Posted by 河童頭   2008年12月06日 07:28
「野萩」をおもいだしますね。今読み返したところです。
2. Posted by 亜子十郎   2008年12月06日 08:13
河童頭さん、コメントありがとうございます。
現在、杉邨ていに関して情報が集まりつつあり、それによって十蘭のフランスにおける足掛け四年の大体の流れが分かってきました。断片的な証言の一致と矛盾を検討し、証言の隙間を大胆な推測で埋め、それを裏付ける文献を探すのは正直言って発狂しそうな営為ですが、発狂しても良いと思うほど面白いです。

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