2009年01月07日

久生十蘭を探して(16)十蘭と杉邨てい

松も取れる時季になりましたが、明けましておめでとうございます。
年末年始の九連休にじっくり久生十蘭を堪能しようとしましたが、資料の整理にことのほか手間取り、果たせませんでした。資料の整理に時間が掛かったのは昨年暮に判明した十蘭と母・阿部鑑、そして杉邨ていの係わり合いについて確認しなければならないことが山積したからです。

一つ謎が解けるとかすかな道が開けたように感じました。しかし、解けた謎がまた新たな謎を産みます。

高田ハープサロンの高木さんとはあれから何度かメールの交換をさせていただきました。高木さんがお持ちの情報からは「1935(昭和10)年の『日本アルプ協会』の名簿に大阪市港区の住所で「杉邨テイ子」の名前が記載されている」こと、また会合記録の中に「会員杉邨テイ子氏の上京を機として、歓迎茶話会を開催、写真撮影」と言う記事があり会場は東京・銀座の「ラスキン文庫」であること、「第一回アルプ演奏会(昭和12年2月8日)集合写真とプログラム」「日本ハープ協会第二回演奏会(昭和13年11月7日)の集合写真とプログラム」「日本ハープ協会第三回演奏会のプログラム」をお持ちであること、「1941年9月12日の東京交響楽団 第一回演奏会 於日比谷公会堂にハーピストとして名前がある」ことを教えていただきました。



原資料を拝見したわけではないので、詳細は分りませんが、1935年の「上京」が一時的なものなのか、1941年9月12日の日比谷公会堂での演奏会まで継続したものだったのかについて知りたくなります。「ラスキン文庫」はイギリスの思想家「ジョン・ラスキンの熱心な研究者であった故御木本隆三(1893-1971)のコレクションを基として1984年9月に開設された図書館」と言うことで東京・中央区築地にあります。ホームページも開設されており「隆三は1931年にラスキン協会を設立、ラスキン協会雑誌を刊行し、34年には東京銀座に「ラスキン文庫」も開設した」とあり、刊行物に「ラスキン文庫たより 合本(創刊号〜第25号)」と言うのが目に付きました。販売用の在庫はないようですが、蔵書としては残っているはずだと、会合記録などがあれば手がかりがあるかもしれないと思い、訪ねてみることにしました。

勤務先がかつて築地にあったこともあり土地勘もあったのですが、迷いました。ここになければ幻であろうと思うビルに行き当たりましたが、看板なども見えません。万事休して管理人室で「ラスキン協会と言うのはこのビルに入っていますか?」と聞くと「ラスキン文庫ならあります。出て左」と言われて出て左に行くと路地の中ほどに小さな看板が出ていました。ドアを開けて入ると明治時代の洋館の書斎と言った感じの薄暗い部屋で、誰もいません。声を掛けると暫くして二階から女性が降りてきました。来意を告げて「ラスキン文庫たより」を見せていただきました。1934年の秋頃から隔月で刊行されたようで活版印刷で二十ページほど、図版は別刷りで挟み込まれている小さな冊子でした。

内容はジョン・ラスキンについての研究論文を載せた紀要のようなもので、編集後記以外には雑記はありませんでした。ただ、その編集後記に「ラスキン・コテージ」の開店告知が出ていたので、女性職員に「ラスキン協会とラスキンコテージはどこにあったのですか?」と訪ねると古い地図のコピーを出してくれて、現在の御木本真珠店の一筋有楽町よりの現在「松崎煎餅」の店舗がある辺りに「文庫」が、「コテージ」は銀座一丁目の有楽町よりにあったことを教えてくれ、さらにこんなものもと別の小冊子を出してきてくれました。こちらには当時の「ラスキン文庫」の従業員の方が書いた「開店二か月で五千五百人が来訪した」などという雑記もありました。この日は時間がなかったのと、室内が暗く、冊子の活字が小さい為に熟読をすることができませんでした。斜めに目を通した感じでは杉邨ていに繋がる記事は見当たりませんでしたが、この日ご不在だった理事長さんであれば多少は昔のこともご存知と言うことで微かな望みを残して「文庫」を後にしました。

そして、数日後のことです。このサイトの過去の書き込みを読み返していて気付きました。2006年8月6日の「久生十蘭の仕事部屋から(33)」の右側の写真に写っている女性のうち、十蘭と並んでいる女性の顔が、どうも杉邨ていではないかと思いました。写真には「昭和12年蔵王」と書かれています。みなさんも是非、エッフェル塔や上海の写真と見比べて下さい。私は似ているように思います。ただ、この二枚の写真は服装から見て冬であろうとは思いますが、ゲレンデに寝転ぶ十蘭の雪景色と、四人の男女が並ぶ景色がともに蔵王なのでしょうか?

仮に蔵王で十蘭と一緒に写っている女性が杉邨ていであるのなら、どうも杉邨ていは昭和10年から数年は東京に住んでいたか、頻繁に東京を訪れていたのではないでしょうか。当然、十蘭との仲も愛情であるか、別離した後も続く友情であるかは別にして続いていたと考えられるのでは無いでしょうか?これについては杉邨房雄さんの証言でも十蘭は大阪の杉邨ていを訪ねて、宿泊していったこともあると認めています。

阿部鑑と杉邨ていが一緒に帰国し、そのため十蘭は強度のノイローゼになり、(動機は不明ですが)一年以内に帰国し、その後も十蘭と杉邨ていは交流があった…。この流れはどう理解して良いのか悩ましいところです。


hisaojuran at 11:03│Comments(4)TrackBack(0)久生十蘭を探して 

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この記事へのコメント

1. Posted by pumpkin   2009年01月08日 09:47
あけましておめでとうございます。
今年も折々よらせていただきます。

それにしてもいろいろ出てきて面白いですね。
亜子十郎さんご指摘の写真、十蘭の左隣の女性、わたしも杉邨ていだと思います。
2. Posted by 亜子十郎   2009年01月08日 14:53
pumpkinさん、明けましておめでとうございます。

私は文芸評論家でも無いので作品論にまで踏み込むつもりはありませんが、小説家としての十蘭の誕生に母の影響と言うか、存在が大きく関わっているように思います。

阿部鑑と杉邨ていが一緒に帰国した、しかも写真を見る限り仲睦まじいとまでは言えないまでも険悪な雰囲気は漂っているようには受け止められません。仮に険悪であったら約四十日間も狭い船室に留まることは難しいでしょうし、険悪な雰囲気があれば同室した作家・林芙美子がそのことに気付かない、あるいは気付いていてその後の作品のネタにしないなどとも考え難いではありませんか。

阿部鑑は杉邨ていを未来の「嫁」と見ていたのでしょうか?それとも素振りも見せずに二人の仲を切り裂いたのでしょうか?この辺りはどう考えて良いのか難しいところです。

『のんしゃらん道中記』についての見方も変わるのではないか思います。

                    亜子十郎 拝
3. Posted by pumpkin   2009年01月08日 21:20
もう一言。

十蘭と杉邨ていの交際は、従来、証言などから確実になっていましたが、確実な証拠はこの写真が初めてではないでしょうか。その点でもこれは重要と思います。

それと、杉邨ていが佐伯祐三に連れられて渡仏したのは、昭和3年でなく、2年です。ケアレスミスと思いますが。

さらに、佐伯祐三の渡仏と滞仏に関しては、ややこしい論争があるようですが、今のところ、杉邨ていはそれには無関係に見えます。
ただ、十蘭が過ごした当時のフランスの状況という点では、それらも全く無関係とは言えないかもしれません。
4. Posted by 亜子十郎   2009年01月08日 22:03
pumpkinさん、ご指摘ありがとうございました。
訂正しました。


                       亜子十郎 拝

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