2009年01月07日

久生十蘭を探して(17)十蘭母子と杉邨てい

エッフェル塔、上海の料亭で阿部鑑と一緒に写っている若い女性が杉邨ていだと言う前提で考えてみます。

阿部鑑が巴里に入ったのは1931(昭和6)年12月、マルセイユから直接パリに向ったとすれば、12月14日の朝になります。これは十蘭の「ぼくのおふくろは、六十近くになってから、ひとりで、ヒョッコリと、パリへやってきた。それもノエル(クリスマス)に・・・・ぼくのほうには、当然、女の子と約束があったもんだから、なんて、まァ、バカな日にやって来やがったもんだろうと腹をたてた」と言う「ユリイカ 特集久生十蘭 文体のダンディズム」(平成元年6月1日発行)掲載の、渡辺紳一郎との対談とは多少のズレはあるが、「ほら吹き阿部」と呼ばれてもいることですし、対談を面白くするための発言ではないかと思います。



エッフェル塔の写真を見ると、二人とも完全な冬支度です。阿部鑑は和装コートにショールを巻き、手袋を着けています。若い女性もボアの着いたコートを着、帽子を被り、不鮮明ではあるが手袋を履いています(北海道では手袋は「履く」と言うらしい)。

阿部鑑の帰国は半年後の1932(昭和7)年5月だから、この写真を見る限り、十蘭は杉邨ていを早い時期に母親に引き合わせていることになります。「ノートルダム寺院拝観記念」が1932年1月10日ですから、おそらくその前後ではなでしょうか?あるいは、下宿を早朝に訪れた阿部鑑は同棲中の二人を見つけて目を廻し、それが杉邨ていとの初対面だったのかもしれません。

前述の対談で十蘭は「ぼくは日本へ帰らないつもりで、むやみに金ばかり送らせたもんだから、それやこれやで勘づいたものらしい。おふくろとしては、迎えに来たつもりだったらしいが、そういう運びにはならなかった」とも言っています。また、石川正雄の『海峡71』での「函館に着くと私は、阿部との約束を破って、早速母堂を訪ね阿部の状況を話した」とあります。石川正雄が阿部鑑にどのような話をしたのかは分りませんが、ことによると渡仏以前から十蘭が杉邨ていと交際していることも知っていたのではないでしょうか?そうであれば、到着の日時を詳しく教えずに十蘭の下宿を急襲とも考えられます。そうすると、鹿島丸のマルセイユ到着と「ノエル」の間のズレも何となく理解できます。

「おふくろとしては、迎えに来たつもりだったらしいが、そういう運びにはならなかった」これも前述の渡辺紳一郎との対談の中の十蘭の発言です。言外に、十蘭と阿部鑑の齟齬が感じらないでしょうか。

十蘭にとって「そういう運び」は自分の帰国でしょうが、確かにそうはなり、ませんでしたが、結果として杉邨ていが帰国と言う、安堵半分、失意半分の「運び」となり、それが十蘭のノイローゼの主因となったのではないでしょうか?

                                  
                              (この項つづく)


hisaojuran at 11:15│Comments(0)TrackBack(0)久生十蘭を探して 

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