久生十蘭を探して

2009年01月07日

久生十蘭を探して(18)十蘭母子と杉邨てい(承前)

1929(昭和4)年の渡仏以前に十蘭と杉邨ていが出会っていた様子は今のところなさそうに思えます。今のところとしたのは、このような予想外の展開続きでは何が起きてもおかしくないからです。

時系列で十蘭、阿部鑑と杉邨ていの関係を見てみましょう。

昭和2年 8月    佐伯祐三、妻米子、娘弥智子、杉邨ていを伴って
             シベリヤ鉄道で渡仏
昭和3年 8月16日 佐伯祐三死去
昭和4年 7月20日 帝国劇場で26〜31日まで上演された
             新築地劇団7回公演『北緯五十度以北』の稽古中の
             十蘭(舞台監督)を石川正雄が
             訪問(『海峡71』石川正雄の「惜しい男」より)
  同年 7月22日 石川正雄が再び十蘭を訪ねると舞台稽古中卒倒した
             十蘭は南佐久間町の岩島病院に入院していた
             (『海峡71』石川正雄の「惜しい男」より)
  同年12月10日 久生十蘭、パリの石川正雄の下宿に現れる
             (『海峡71』石川正雄の「惜しい男」より)
  同年 同月12日 モスクワのこの日付の久生十蘭から阿部鑑宛の
             絵葉書が投函される
昭和6年12月13日 阿部鑑、日本郵船「鹿嶋丸」でマルセイユに到着
  同年 同月25日 久生十蘭は女性と約束、そこへ阿部鑑が現れる(十蘭談)
昭和7年 1月10日 阿部鑑、ノートルダム寺院などを見物
  同年 4月22日 パリの新聞「コメディア」に阿部鑑の紹介記事が掲載される
  同年 5月 4日 ジュネーブの谷梅子からキャスタナリー街30番地の
             阿部鑑宛に絵葉書が届く
  同年 同月13日 阿部鑑、杉邨てい、林芙美子が日本郵船「榛名丸」で
             マルセイユを出港
昭和8年 5月    久生十蘭は遅くともこの頃までに帰国
昭和9年 4月    早大大隈講堂で「ハムレット」の演出
             (『海峡71』清水一郎「久生十蘭ノート」)
昭和10年2月23日 「築地座」第27回公演『職業』を演出〜26日
             (『海峡71』清水一郎「久生十蘭ノート」)
   同年11月   築地座第27回公演「秋水嶺」を岸田国士とともに演出
昭和11年 4月    明治大学文芸科講師の辞令を受ける

これが、今手元にあるジグソーパズルの置き場がはっきりしているピースです。十蘭の足掛け四年のフランス滞在にはまだどこに嵌るか分らないピースがいくつかあります。

「彼が神経衰弱の療養に、南フランスのクロード・キャンヌの別荘(と云っても名ばかりで、物置きを改造したような粗末な代物)にゐた頃」は「丁度キャンヌの盛大で華やかな世界一と謂はれるカーニバルを毎晩二人で見物に出かけた」「『海峡71』「久生十蘭を憶う」竹内清)とありますから、これは杉邨ていが帰国した後、十蘭がフランスでの最後の年となった1933(昭和8)年2月と考えて良いでしょう。ニースでの写真もこの時のものだと思われます。

ブルターニュのベルイル島、ノルマンディのエトルタ、ル・アーブル、サントオバンスルメールなど絵葉書や写真が存在証明をした場所は、それが何年のことかは現状では分りませんが、服装の分析をすればかなり詰めることができるのではないでしょうか?


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久生十蘭を探して(17)十蘭母子と杉邨てい

エッフェル塔、上海の料亭で阿部鑑と一緒に写っている若い女性が杉邨ていだと言う前提で考えてみます。

阿部鑑が巴里に入ったのは1931(昭和6)年12月、マルセイユから直接パリに向ったとすれば、12月14日の朝になります。これは十蘭の「ぼくのおふくろは、六十近くになってから、ひとりで、ヒョッコリと、パリへやってきた。それもノエル(クリスマス)に・・・・ぼくのほうには、当然、女の子と約束があったもんだから、なんて、まァ、バカな日にやって来やがったもんだろうと腹をたてた」と言う「ユリイカ 特集久生十蘭 文体のダンディズム」(平成元年6月1日発行)掲載の、渡辺紳一郎との対談とは多少のズレはあるが、「ほら吹き阿部」と呼ばれてもいることですし、対談を面白くするための発言ではないかと思います。

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久生十蘭を探して(16)十蘭と杉邨てい

松も取れる時季になりましたが、明けましておめでとうございます。
年末年始の九連休にじっくり久生十蘭を堪能しようとしましたが、資料の整理にことのほか手間取り、果たせませんでした。資料の整理に時間が掛かったのは昨年暮に判明した十蘭と母・阿部鑑、そして杉邨ていの係わり合いについて確認しなければならないことが山積したからです。

一つ謎が解けるとかすかな道が開けたように感じました。しかし、解けた謎がまた新たな謎を産みます。

高田ハープサロンの高木さんとはあれから何度かメールの交換をさせていただきました。高木さんがお持ちの情報からは「1935(昭和10)年の『日本アルプ協会』の名簿に大阪市港区の住所で「杉邨テイ子」の名前が記載されている」こと、また会合記録の中に「会員杉邨テイ子氏の上京を機として、歓迎茶話会を開催、写真撮影」と言う記事があり会場は東京・銀座の「ラスキン文庫」であること、「第一回アルプ演奏会(昭和12年2月8日)集合写真とプログラム」「日本ハープ協会第二回演奏会(昭和13年11月7日)の集合写真とプログラム」「日本ハープ協会第三回演奏会のプログラム」をお持ちであること、「1941年9月12日の東京交響楽団 第一回演奏会 於日比谷公会堂にハーピストとして名前がある」ことを教えていただきました。

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2008年12月03日

久生十蘭を探して(15)証拠写真発見

6234c65d.JPG帰途・上海の料亭:榛名丸一行[1]阿部鑑と林芙美子の関連が浮かび上がったことで局面が開けました。久生十蘭に比べれば大衆性でも知名度でも(残念ながら)遥かに高いから豊富な資料が残っているからです。

元・著作権管理人にこの件を連絡したところ「九月末まで、新宿の林芙美子記念館で、パリ滞在を含む写真展が開催されていた」と教えられました。「それでは、問い合わせをしましょう」と言っていたら、早速、電話をしてくれ、展示終了後、写真は所蔵している「新宿区歴史博物館」に返却したのでそちらに当れと言われ、学芸員の方を紹介していただき十一月二十九日に写真を見せていただける運びになりました。

この日、私はよんどころの無い所用があり、静岡県下田市にいなければ、ならなかったので元・著作権管理人に一人で出向いてもらうことにしました。その際に阿部鑑のアルバムも持参して欲しいと頼んだのですが、これが大当たりでした。
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久生十蘭を探して(13)キャスタナリー街再訪

P1250829掲載用P1250832掲載用P1250841掲載用            ************************十一月十一日から十八日までパリに滞在しました。相変わらずこの時期のパリは天気が悪く、あまり動き回ることが出来ませんでした。今回は阿部鑑の住所が判明したのでもう一度キャスタナリー街を踏査することと、植物園と思しき場所で特徴的な建物が遠景に写り込んでいる写真がどこで撮られたのかを特定できればと言う課題を持って行きました。

十三日の午後にキャスタナリー街を訪ねました。その前に十蘭の師であった岸田国士が投宿していたファギエール小路(行き止まりの路地)を確認しました。パスツール研究所のそばの長さ十五メートルほどの狭い路地でした。岸田国士がいた十四番地はちょうど路地の突き当たりで、ここ数十年の間に建ったらしい集合住宅がありました。当時の面影のようなものはほとんど残っていません。一棟だけ、二階に擦りガラスの大きな窓があるアトリエのアパートのような建物がありました。当時はこのような建物がたくさん建っていたようです。

ファギエール小路からキャスタナリー街三十番地まではゆっくり歩いて十五分ほど指呼の間でした。前回は番地の表示板をメモするために雑な撮影をしたのですが、今回は三十番地の現況と周辺に残る一九三〇年以前に建てられた建物をじっくり観察しました。前回は気付かなかったのですがキャスタナリー街三十番地は現在では二つに分かれています。一つは前回の三枚ある画像のうちの真ん中の白い集合住宅です。今ひとつはその隣の不自然な空地です。集合住宅の空地側の壁と、空地を囲う鉄柵のそれぞれに三十番地の表示板が貼ってありました。さらに三十二番地も空地になっています。

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hisaojuran at 06:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)