その名が示すとおり、東海道本線はおおむね江戸時代の東海道に沿って敷設されましたが、名古屋から西では経路が大きく異なります。宮宿(名古屋市熱田区)から海路で桑名宿(三重県桑名市)に渡り鈴鹿峠を越えて京都に向かっていた旧東海道に対し、鉄道は昔の街道でいえば美濃路・中山道を経由したのです。のちに関西鉄道という私鉄が旧東海道に近いルートで開業しましたが、こちらも鈴鹿峠ではなく少し南寄りの加太(かぶと)越えと呼ばれる経路を採用しました。これが現在の関西本線(と草津線)です。

いずれにしても、東海道の鈴鹿越え区間は東西交通の主役の座を降り、次第に活気を失うこととなりました。辛うじて鉄道が通った関は微妙な位置にあり、坂下(さかした)や土山(つちやま)ほどひなびてはいないものの、やはり東海道のほかの地域に比べると取り残され感は否定できません。町が急激に発展しなかったおかげで歴史的な町並みが残った(残ってしまった)宿場町は各地に点在しており、関もその典型例です。


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関宿旅籠玉屋歴史資料館では、建物が江戸時代のありようを再現しているだけでなく、当時使われていた調度品や道具類も展示されています。
上がり框(かまち)には足を洗う桶が置いてありました。女中さんが宿に着いた宿泊客の足を洗うシーンは時代劇でよく見かけます。心のこもったおもてなしに見えますし、実際そうした意味もあったのでしょうが、むしろ汚れた足で上がられては困るという現実的な理由のほうが大きかったようです。未舗装の道をわらじ履きで歩いてきたわけですから、足が泥だらけになっているのは当たり前でした。床が汚されるのを未然に防ごうという巧妙な作戦です。

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土間(台所)もそれらしくしつらえられています。旅籠は食事付きの宿でしたが、客が自分で食材を持ち込んで自炊する木賃宿(きちんやど)という宿泊施設もありました。現代同様供食の有無で価格は大きく異なり、木賃宿は貧乏旅行者御用達の格安な宿泊施設でした。時代が下るにつれ、一般庶民も旅籠に泊まることが増えたようです。

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間口はそれほど広くなくても奥行きが深いのが昔の宿屋や商家の特徴。いわゆるうなぎの寝床です。奥のほうに蔵があるのも一般的で、玉屋の土蔵は展示室に使われています。このときは、おなじみ歌川広重の浮世絵が展示されていました。ここのみ写真撮影NGです。

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主屋に上がらせてもらいました。縦長の建物は坪庭をはさんで主屋と離れに分かれています。

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通りの喧噪から隔てられた離れは落ち着いた雰囲気。直前まで見学していたグループ客が引き上げ、ひときわガランとしていました。
武士など身分が高い客が利用したと考えられています。旅籠というと庶民の宿のイメージが強いのですが、参勤交代や公務出張の武士が泊まることも珍しくありませんでした。欄間の彫刻は宿の主人自らが製作したものと伝えられています。趣味と実益を兼ねていたのかも知れません。町人階級の文化水準の高さが知られます。

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主屋は二階建てです。現代人の感覚からするとはしごとしか思えない急階段を登ります。バリアフリーの観点からは話にならないレベルですが、昔はこれが当たり前だったということはよくわかります。

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2階の客室はちょっと凝った設定がほどこされています。
手前の部屋は布団が敷かれた状態。高くて固い枕と薄っぺらなせんべい布団がリアルです。火鉢をたいておけば冬でも結構暖かかったものと思われますが、問題は夏でしょうか。
次の間には食膳が用意されています。やけに数が多い気がしますが、実際多いときにはひと晩で200人近くが宿泊したと推定されています。相部屋は当たり前でしたし、そもそも各室は襖や障子で仕切られているだけです。プライバシーなんていう発想自体がなかった時代ですから、旅とはそういうものだと誰もが思い込んでいたのでしょう。

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2階の部屋から格子窓越しに街道を見おろします。時代劇の登場人物になったようなタイムスリップ感。

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平入り二階建てが大半を占めるなかにあって異彩を放っているのが橋爪(はしづめ)家住宅です。橋爪家は両替業を営む豪商で、かの有名な大阪の鴻池(こうのいけ)家とも並び称されていたんだそうです。江戸末期になると芸妓の置屋に転身し、現在のスタイルに改築されたのは明治時代に入ってからのこと。妻入りになっているのは、むくり屋根(ふくらんだ屋根)を強調するためでしょうか。

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橋爪家もスタンプラリーポイントになっています。興味深かったのは時代ごとのひな人形が対比的に並べられていたこと。意外とシックなのが平成時代のひな飾りです。色使いも渋く、むしろ昭和のひな人形のほうが新しく見えるほどでした。イケイケドンドンだった昭和時代に比べると、やはり平成の30年間はおとなしい時代だったのかも知れません。次なる御代は如何に?

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旅籠がしっかり残っているのに対し、各2軒ずつあった本陣・脇本陣は全滅しました。もっとも、これは関宿に限ったことではありません。数自体が少なかったこともあり、東海道筋で現存しているのは二川宿(愛知県豊橋市)と草津宿(滋賀県草津市)だけです。伊藤本陣は、辛うじて街道に面した部分の建屋が生き残っています。
近くでは甘酒が振る舞われていました。予想以上にアルコールが高めで、飲み干した途端に目の周りがポーッとしてきました。“歩くアルコール検知器”が昼間から赤ら顔で街歩き。

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問屋場(といやば)というのは、宿場で荷物や貨物の中継業務を担当していた半官半民の施設です。人馬が足らないときに近隣の村に応援を頼む助郷(すけごう)の管理を行うほか、宿場自治の中心的な役割も果たしていました。関宿の問屋場跡は山車の保管庫になっています。

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建物の基本的な構造は共通していても、窓や破風の形状で家ごとに個性を主張しています。
こちらは関宿屈指の大旅籠で幕末期には脇本陣も務めた鶴屋です。クリーム色の壁に千鳥破風がアクセントになっています。

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関まちなみ資料館は、一般の民家である町屋を解体修理のうえ復元したものです。推定建築年代は江戸時代末期。やはり縦に長い短冊状の地割りに建てられています。

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当時の家具や民具、道具類が陳列されているほか、町並み保存の歩みを説明したパネル展示が行われています。たまたま運よく歴史ある建物や景観が残ったなどという話ではなく、住民や関係者の高い意識により積極的に守られてきたことがわかりやすく解説されていました。と同時に、古いものを保存しながら生活していくことの難しさも痛感させられます。

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立体模型を見ると、鈴鹿峠から広がる谷と伊勢平野が接する場所に関が位置しており、いわゆる交通の要衝だったことが理解できます。

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入口になぜか突如としてマンホールのふたが置いてありました。場違いとしかいいようがありませんが、最近全国各地の珍しいマンホールを訪ね歩くことが流行していて、ここもマニア向けの展示スペースになっているようです。ご当地マンホールをデザインしたマンホールカードなるもの(無料)のコレクションもブームになっているらしく、これを集めるためにあちこち飛び回っている人もいるんだとか。関まちなみ資料館の受付でもマンホールカードが配布されており、喜々として受け取っていくオタク趣味人を何人か見かけました。おそらく、ここに来ればカードがもらえるという情報をキャッチして訪れたのでしょう。グッズ系には原則として興味はありませんが、この手のアイテムは集め出すと見境がなくなってくるものです。ムキになる気持ちもわからないではありません。


2027年の開業を目指して東京(品川)・名古屋間の工事が進められているリニア中央新幹線。名古屋から先のルートは未定ですが、基本計画では奈良市付近を経由することになっています。もし直線コースを採用するのなら、鈴鹿峠を越えなければなりません。もちろん長大トンネルで貫通するのでしょうが、峠の麓にあたる三重県亀山市は早くも駅の誘致運動を始めています。まだまだ先の話とはいえ、鈴鹿越えが200年ぶり(?)に主役の座に返り咲く可能性は大いにあります。それが関の町並みにどう影響するのかも気になるところです。


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