endometrioid carcinomaから

ガン・サバイバー・只今人生のサバイバル中です

シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護&シングル・サバイバルライフのブログです。こんなサバイバーもいるってことで、掲載を続けることに。余命が長くなったように、文章も長~いブログです^^

大伯父への手紙 ~名残整理に寄せて~

 取返しのつかない大きな失敗をしてしまった。

 父母の遺品を整理&処分している時に、もう23年も前に他界した父のスーツもそろそろ来世に旅立つ時と思って、自治体のリサイクルに出すことに決めた。
一枚一枚、確かめて出したのだが、あまりにも古いスーツは肌ざわりもごわごわして、その服に込められた由緒も思い起こすこともなく、礼節を表する気持ちで畳み直して袋に入れた。

 1週間程経過した後、ある記憶がよみがえった。
もしかしたら・・・と、記憶の糸を辿ると、父のスーツの一番下にあった黒い見慣れない形の襟のスーツ。

 しまった!
と、思ったのは後の祭。すでに、他の衣類と共にどこかに搬送されてしまった後だった。

 それは、男の子がいなかった大伯父が、戦前、ゆくゆくは自分の跡継ぎにと一番目を掛けていた父に、大伯父が初めて国会議員として議事堂に登壇した時の記念に与えたものであったのだ。
伝承は思い出したが、そんな大切な物を父の服の一番下に入れてあったなんて。。。
 後悔先に立たず!
・・・私は、取返しのつかないこの大きな失敗に愕然とした。

 とは言え、大伯父は、既に、小学校の郷土史の教科書にも写真付きでその功績が掲載されているし、その筆跡や文や人柄を含めた功績の解説や写真も各地の資料館に保存されている。
 保管続けても、更に古びてゆくだけでもある。
当時の代議士の気質や人格からは想像もつかないほど俗人ばかりになった現代の代議士のイメージしか持たない次世代の親族にとっては、平民議員として登壇した伯父の意気地と志を伝えることは物語にでもしない限り、無理であるし、古びて型崩れしごわついた衣服を新たに保管し続けてくれる次代はいない。
 私自身も、実際に最後にその服を手にしていながら、大切な由緒を思い出すことなく、古汚く感じるばかりで手元に置く気にならない・と判断してしまったのだから。

 という言い訳をして、自身の失敗の後悔を慰めながら、大伯父と父への償いの思いを込めて、その大伯父の記憶を、どこかに私的に書き残さなければと思った。
 いつか、自身が生を受けた一族其々の個性あふれる人生の流れを物語に纏めたく思いながら、失念したまま時間が過ぎた。


 祖先は、時代を遡れば、紀氏という家系に行き着く。
総本家に伺った時に、都に上がった紀貫之の傍系として今日まで続いて来た家系図とそのエピソードが要約された古い文献を拝見させて頂いたことがあった。
 江戸時代までは、都の中心部近くに広大な荘園を有する屈指の庄屋だった記録と史跡が残っている。

 江戸末期に干ばつが続き大飢饉が発生し、祖先の領地の田園でも収穫が激減し、1年間の百姓さんたちの食糧にも事欠く有様になった。
 大伯父の祖父は、大名にもお金を貸していた大庄屋で、当時30代。先進気鋭の志を持った剛腹な人情家であったと伝え聞く。
それまでも、徳川の権威主義による封建社会の矛盾の改革を求め、百姓の自立性を高め荘園に今の株式会社的な運営方式を取り入れる運動を行っていた記録もある。干ばつでの飢饉と、隣地の荘園間での戦さの勃発など、当時の惨状は、現在のウとロの戦火に彷彿されるような状況だったようだ。この民に降りかかった百姓さんたちの惨状を見るに見かねた彼は、郡山藩の藩主に、1年間の年貢の免除と戦の平定を直訴した。
 当時のしきたりとして、庄屋が百姓の年貢の免除を願い出るなら、その責任を取り庄屋を辞し打ち首となるという罰則ががあったと聞く。
 彼は、思案の末に、自らの決意を家族に告げ、自らの命と引き換えに、民への年貢の免除と、城主が隣地の荘園同士の戦を治め民と領地をを守る約束を藩主に願い出、承諾された。
 藩主は、荘園間の土地や水の侵略戦を平定させ、民は1年間の年貢を免除され、先祖の広大な荘園の民には安寧な暮らしが戻った。
 しかし、本人は打ち首を命じられ、潔く首を差し出した・と親族には伝承されているが、記録には無いので実際どうなったのかは、真偽不明のままである。只、妻と長男など家族が所払いになったことだけが記録に残っている。
 長男は商人になり、私が生まれた郷里に商いに来ていた時に、その地の豪族に見込まれ、その豪族の長女と縁組し、醬油の醸造を業としてこの地で家を再興した。

 そこで誕生したのが、私の祖父の兄弟だった。長男は家業を継いだ。次男が父を跡継ぎにと望んでいたという大伯父で、3男の祖父は大伯父の片腕でもある一方で、独自で幾つかの事業を営んだ。

 大伯父は、先代からの気質を最もよく受け継いだ剛腹な人情家だったと記録されている。
青年時代から頭角を現し、当時は鉄道も通っていない田舎町で、「地方の発展は交通網の整備にあり、産業の育成にあり」と言う志を掲げ、電力発電会社を始めとして、私の祖父と共に、土木会社や運送会社他各種事業を興し、30代で、鉄道の敷設申請を政府に承認させ、難路を切り開き鉄道を敷くに至った大実業家となった。
 郷里に鉄道を敷くことは、交通不便な当時の郷里の人々の最大の夢と希望であった。先に、後に世界的に有名になった山林王がその事業を手掛けようとしたがその計画が頓挫し失意のどん底にあった事業であったにも関わらずの成功には、おそらく、先達の豪族たちの人脈を得た大伯父が、庶民的な人柄と情熱で更に広く人望を集めたことが大きく貢献したのだろうと思われる。
 但、山河の多い地域での工事は殊の外難工事となった。近年、近代建築としてモニュメントのようになった陸橋の美しさもさることながら、トンネルの多い土地柄、この工事は、人命の危機にも瀕する難工事だったと現場を仕切っていた祖父の数々の苦難を祖母から伝え聞いている。
 予想以上の難工事に建設費用が嵩み、最終的に、この鉄道会社の出資者であった他の役員が、出資をストップしたことで、工事人に給与が支払われなくなるという事態が勃発した。郷里の民の悲願であったこの工事を中断することは出来なかった。大伯父はこの工事を自腹で完成させたが、流石に大伯父の資金も尽き、発起時に投資した分の株式を郷里の銀行に売却し自身は役職を辞して支払ったが、それでも間に合わず、開通時には、会社から工事人たちへのの支払いが完全に滞った。
 賃金の支払いがされなかったことから、工事人たちが、開通式の時に鉄道の上に寝そべるストライキを行うに至った。伯父は、鉄道を見下ろす自宅で始発電車が通過するのを待っていたようだったが、定時になっても電車は走らなかった。そこに、郡長から、ストライキの知らせが届いた。伯父は、駿馬を郷里の銀行に走らせた。家屋敷を抵当に入れ、かなりの借金をして、工事人たちに賃金を自腹で支払い、ストライキを辞めるように言い聞かせ、無事、この鉄道は開通を迎えることになった。

 その後の大伯父は、今でいう鬱が入って、別荘に半年余り隠遁していた・と、当時の大伯父の世話をしていた女中さんから、直接伝え聞いたことがあった。お膳を部屋の前まで運び、下げる時に、ああ、今日は箸をつけて下さったとか、今日は何も召し上がらなかったとか、随分心配をして下さったようだった。

 そんなある日のこと、銀行の頭取が、伯父を訪ねて来た。
「君は、こんな田舎に居るような人間ではない。都市部に出てはどうか?これからの君の活躍の舞台は日本。そして全世界だ。」と提案したらしい。
 この励ましに新たな方向性を見出した大伯父は、都市部への進出を決意。当時同様に都市部で鉄道会社を発起していた企業家たちと共に、数々の事業を成し遂げ、都市部の主要ホテルの経営なども含め多くの事業に携わった。

 そうした中で、大伯父は、時の首相や重鎮から推薦や招聘を頂き平民代議士となり、国家の発展の為に国議に参画することになった。
 ところが、時代はww2前の政界の大混乱期。
米国の実業家たちとも交友のあった大伯父は、勝ち目のない戦争に断固として反対した。
その数週間後に、弟であった私の祖父の県議会議員選挙で選挙違反に加担したという罪を捏造され、国会から追放される憂き目に遭ったのだ。
親族の多くは、当時戦争に反対する者は国賊と見なされていた社会的体裁を気にして、その時の事情はひた隠しにし続けていたので、その気持ち悪さの原因を究明したくなって、国会図書館の資料を調べてみたら、同時期に、戦争に反対した代議士が30名程、様々な理由で辞職を余儀なくされていたことが分かった。
 当時は気骨のある代議士が多かった。
大伯父の性格を推測するにおいても、相手がどのような権力者であろうが軍を指揮する暴力の権化であろうが、たとえ闇討ちを仕掛けて来そうな相手であろうが誰であろうが、今流行りの「忖度」をしたり「権威に盲従」するような軟弱者では決してなかった。
時の戦争推進者たちから見れば、何が何でも因縁をつけて議会から追放したい存在と見なされたのは想像に難くない。
 祖父はその後も県議や町長として勤めていたから、大伯父が着せられた濡れ衣は、戦争に反対した大伯父への大政翼賛会あたりからのあからさまなパワハラがあったのだろう・
と、数年前に、従兄に話したら、その話は口外しないようにと言われた程、当時の言論の自由に対する抑圧は、未だに日本人一般に巨大なPTSDとして残存していることを、私は実感することになった。

 大伯父から見て一番年上の甥であった伯父は長年郷里の町長を務めていたが、町長室の伯父の机の引き出しに常に日本刀が入っていたことを当時の職員さんが記憶している。政治家たるもの、万が一の事態が発生した時は、自らが命を張って民を守るという規範の証であったと言う。
中央・地方を問わず、いざという時は身を呈しても民を守るという抜きんでたノブリスオブリージュ・武士道を有した当時の政治家の自覚は、現代の政治家や常人にはうかがい知れないレベルであったことの象徴のようだ。
 かつて、よど号のハイジャック事件で、人質の解放の身代わりに名乗り出た代議士がおられたことが、これを証明している事案だとも言える。

 さて、都市部に出た後の大伯父はその後高級住宅街となっている見晴らしの良い閑静な地に郷里の実家に似た別荘屋敷を構え、数百人の従業員を抱える会社の他にも様々な事業を展開した。満州にも進出し、病院や学校を建設し運営するなど現地でも多くの功績を残している。中国で建設した病院と学校は、時代を経た今も使われていて、当地で育った親戚が訪ねると、さながら第二の故郷に帰ったように、今も当時の恩義を重んじる現地の人々から盛大な歓迎を受けている。

 とはいうものの、当時の時代の潮流は過酷さを増してゆく。
当時の平均寿命を越えて歳を重ねた祖父の世代には、戦争という人類の大脳の弱さが引き起こす最大の罪業のストレスが、健康面でも影響を及ぼしたようだ。
 祖父は病に倒れる少し前に、たまりかねたように、祖母に「何故、戦場にこれほど多くの若者たちを送り出させるのか!私にはもう誰ひとり送り出す手伝いなどできない!!」と、心中の怒りと苦悩を吐露していたと聞く。
そのストレスに耐えかねたように、兵士を送り出す式典で祖父は脳梗塞に倒れ、敗戦へと続く惨事を人一倍苦悩していた伯父も、やがて、同様に脳梗塞に倒れ、晩年は、大伯父も郷里で療養するとが多くなり、祖父と囲碁を打つことが多かったと聞く。
どちらも囲碁の腕はかなりの達人で、碁盤の展開から相手の性格や人格やその時の心情を見抜き合うコミニケーションツールともなっていたらしい。
 
 私は、大伯父の他界後に生まれたので、この世では会う機会はなかったが、大伯父や祖父に世話になったと言う郷里のご高齢の方々から、大伯父や祖父の人情あふれる剛腹なお人柄を伝え聞く光栄に恵まれる幸いを得ることが多くあった。
 そして、大伯父が見込んだという父・の子として生まれた私は、我が父にその人格と気質を垣間見ることも多かったように思う。

 大伯父や祖父とは、この世で直接会えなかった分、郷土史の中で仰ぎ見るばかりのちょっと煙たいようなくすぐったい感じのする肉親でもあり続けたのだけど、大伯父と祖父の気質は、父を介して、私のどこかにも息づいているのかもしれない。

 
 ~この世で会ったことのなかった大伯父さまへ~
父に下さったモーニングスーツは、こちらではあまりにも古くなってしまったので、迂闊にも、わたくしの落ち度で今回、失くしてしまいました。一番末っ子の末っ子に生まれた私は、大伯父様と祖父にも私は、この世でお目に掛かる機会がなくて、こんなに身近に感じたことはありませんでしたが、大伯父様の愛娘の伯母様とは何度かお話する機会を頂き、人生を生きるにおいての大切な心得をしかと諭して頂く幸福にも恵まれました。
史実には、大伯父様は、剛腹な人情家と記されておりましたが、史実以上に優れて人間味豊かなお方で、皆への心配りが豊かで、思い遣り深く責任感強く、優しい繊細なお心も併せ持ったお方であったエピソードもお聞きする光栄に恵まれました。
 もう、伯母様も他界されて長くなりましたから、そちらの世界は賑やかになっていることと思います。私は、もう少しこちらで、居る時間が続きそうです。

 心ならずも、大伯父様の服を失くしたことには、寂しい気持ちと自責の念を感じてなりません。
 今まで、大伯父様の形見のスーツの存在は伝え聞いていましたが、私は、このように、大伯父様の御霊に直接語りかけることもなく、肉親として想起したこともありませんでした。

 大伯父様は、若い頃、屋敷が火事で全焼してしまって、着の身着のまま本当に無一文になった時、「朝火事は縁起がいい!」
と、明るく言い放った・と言う伝承が史書に残っています。
無一物無尽蔵・という言葉よりも、明るく分かりやすく周囲を慰められた明言です。火事も、紅炉一点の雪に過ぎない。燃え盛る自宅の炎にも狼狽えず、家族や周囲の皆を勇気づけるその言葉に込められた思いの熱さを尊く仰ぎ見ながらも、今、私は、大伯父様と父、そして私を繋ぐお品を自身が迂闊にも失くしてしまった寂しさと自責の念に、打ちひしがれています。


「おうおう、そうかそうか。
それは、悲しむことも寂しがることもないのだよ。あの私の言霊は、火事はすべてを灰にするが、どんなに辛いことでも、それを良い縁起だと思えば、本当に良い縁起になることを言い表したものだ。」

 どこからか、父の声によく似た、大伯父のゆったりとしたよく響く美しい低音の声が聞こえて来た。

 子孫の一人が、突然、こんな風に大伯父を身近に感じ、思いを語っていることに、大伯父はきっと思っていることだろう。
「おお、誕生を見ることもなかった子孫が、私のことを身近に思い始めたようだ。ほうら、私の言葉通り、実にいい縁起になったじゃないか。過去の物など火事でもあればすべて燃え尽きる。大切なのは、人の心に思いを馳せることが出来る真心と、そのひと時の時間なのだよ。」と。

 20代の頃から、いつか、私は一族の語り尽くせぬ個性あふれる活躍の記録を書き残したく思いながら、その仕事も半ば忘れてしまっていた。
 今回の縁起を頂いたことで、書き残すことの大切さを改めて想起した。



 屋敷の整理を始めてから、父母が残した沢山のカセットテープを前に、あの父の声がどこかに録音されていないかどうかを探している。
 今は亡き伯父たちの声は父の声によく似ていたし、従兄の一人に、僅かにその声の面影は感じられるものの、オペラ歌手にもそのような声の持ち主が見当たらないほど、父のようによく響く低音の声を持つ人には他には出会ったことがない。
低く太く響く美しいバスボイスは、父方の祖父系の遺伝子に限られた美声だったのだろうと思う。
 父もまた、大伯父と同様に、常に周囲の者にそこはかとない安心を与える言霊を大切にする人だった。残念なことに、手元のビデオには父の挨拶を残したものは見当たらず、他界後まもなく、郷里の役場の資料にあるはずだと、ダビングをお願いしてみたのだが、タイミング悪く、新庁舎への移転時に古い資料は廃棄されてしまった後だった。

 生命と同じく、形あるものは、すべて壊れ自然に還る宿命にある。
永遠に存在し続けることが出来るものは無い。
 
 それでも、ふと、時を超えて、魂は永遠に存在し続けるのではないだろうか?という想念が去来する時がある。
 ケモブレイン以来、自身の脳の働きを客観的に把握している自分もいる。自分を客観視している自分とは、どういう脳の部分の働きなのか?

 人間の精神とは?、そして、魂とは?、一体なんなんだろう?

 大伯父の記念の燕尾服を失くした私に、大伯父が突然身近に感じられる存在として立ち現れたのは、自身の夢想の世界のことだ。
 私たちが生きる地球も銀河系もやがて、宇宙の摂理に従って宙に還る時が来る。


 想念
 言霊
 祈念

 キーワードは、そのあたりにあるのかもしれない。



 本日は、私の誕生日です。
誕生日が来る度に、この年まで生きれたことに感謝感激。
数年前に、一番親しかった父方の従兄がこともあろうか私の誕生日の朝、他界しましたので、彼のことを思い出す命日にもなったという不思議な偶然もあるのですが。

 人生でご縁を頂くすべての方々に感謝の気持ちが溢れます。
人生で実際のご縁を頂かなくても、大伯父を思うように、想念でのご縁を頂くこともあることにも感謝しながら、縁起のいい新しい歳を迎えました。

 
   


 



亜熱帯多雨の進行

 今年は梅雨入りが早く、季節外れの台風情報が続く。
人間界では、サーズコブ2ウィルスが終息したかのような浮かれムードが蔓延し始めている。

 ふと、沖縄のデータを見たら、彼の地ではコロナ感染による入院者数が増加し始めている。
今までから一月遅れで本州も同様の状況が来ていた感があるので、そろそろ、身近でも、再度、要注意時期に入るのかもしれない。
 このウィルスは、人類に様々な影響を投げかけ続けるのかどうか、急に無かったことにしたがっているかのような焦りに満ちた政府や報道と、その示唆に乗りやすい社会はどこに流されてゆくのだろうか。
 「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のは、私の性格の傾向と思っていたが、一般的には、私以上にその傾向が強いのかもしれない。


 小梅の収穫が終わり、南高梅の収穫時期が近づいている。台風が去る頃には、完熟に近く実るのが楽しみだ。風雨の被害が出でも、落ちた梅は梅ジャムにするから、それはそれで美味しい。願わくば、無傷のまま、梅酒にできればより嬉しい。数年前まではホワイトリカー≒焼酎で梅酒を造っていたが、ブランディーに変えて以来、癖のない梅酒を食前酒に頂くことが多くなった。昨年は裏年だったので、プランディー梅酒はもう残り僅かだから、残っているのは年代物用にして、今年は新たな梅酒を仕込むことができればと思う。昨年は、市販されている梅で造ってみたが、収穫時期や品種にもよるのか、思うようなマイルドな梅酒にはならなかった。屋敷の裏庭に、天然で無農薬で実る旬の梅とブランディーのマリアージュが一番のお気に入りになっている。

 寒すぎた冬を温室で越冬させたメダカたちは、梅雨に入る前に、昭和の宅地乱開発で水脈が途絶え干上がった庭の川跡に自然を模した設えの水槽を設置して、そこに放してある。
1日か2日に一度しかエサも与えなくなったのだが、小さな水槽で飼っていた時とは違って、自然に解け込んでのびやかにのんびりと泳ぎ暮らしている。自然に近い暮らしが、生き物にとっては心地いいようだ。

 長らく日本犬を飼っていたが、日本犬もまた、そうであったことを思い出す。
犬と言っても、彼らには彼ら各自の人格を持ち、出来る限り自然に近く暮らしてゆくことを彼らは好んでいた。
猟銃免許を取った日本犬愛好家の友人が、今年の冬は狩りにこちらに来たいと言うので、先に、『老人と狩りをしない猟犬物語』という小説を読むことをお勧めした。
人間が、食を求めて狩猟をする時、興奮と原始の喜びと同時に恐怖に近い哀しさと祈りを感じることが、その中に描かれた日本犬の人格に通じるように、私は思っている。


 人間は勿論、自然界の中に生かされている動物は、他の生命を殺戮し日々自らの生命を保っている。それは、誰にも否定できない今ここに在る生命の真実であって、その原点を忘れる時、人間は驕り高ぶり道を誤って来たのではないか?
と、感染症時代の最中で、ウィルスが消えたかのように前時代に戻りたがる社会、治験中に緊急承認した薬剤の接種を半ば国民全員に強要したワクチンの功罪についての正確なデータ収集も公表も追跡調査すらしないままの政府のあり方も異常であるし、マイナカードの保険証連動強制法案の通過という異常事態にも物申す代議士は少なく、旧時代的戦火を止める国家すら存在しない国際社会の有様、報道統制の進行、天を仰いでも、この激しくなりつつある気候の変化に、嘆息。

 
 便利・快適・経済的繁栄・歓楽・快楽・・・尽きることの無い人間の欲望の追求は、宇宙の中に存在する地球という人類の力の及ばない存在が限界を迎え、あからさまに抑止するまで続くのだろうか?

 2001年宇宙の旅の冒頭に出て来る「類人猿の時代」を思えば、人類の脳が、更により高等に進化するには、ホモサピエンスやネアンデルタール人の誕生に遡るほどのスパン=数千数億ねんという幾星霜の膨大な時間が必要なのだろうか?



 今、2人の友人がガンの末期を闘病中です。
末期と宣言されて、もうすぐ2年になりますが、其々が、それぞれの限界を感じた時点で、抗がん剤治療をやめ、その後、コロナの最中でもご夫婦でこれが最後の機会と決断され、海外旅行や国内旅行に出かけるほど、活発に元気に活動されています。
 人間は、自分の人生しか生きれないですが、友達がいる分、友達の人生も疑似体験することが出来ます。親身になればなるほど、親しい友達の人数が多ければ多いほど、辛いことも楽しいことも多くなりますが、同じ時空を生きる様々な価値観や美意識や感性のきらめきに触れることが自身の人生の厚みを増してゆくことが実感される年代にも入りました。

 誰もが皆、致死率100%の人生を生きています。
コロナ渦で、多くの人々が、死に怯える経験をし、「生命の大切さ」を意識したことが、古臭い戦争などという胡散臭い更に強い刺激でかき消されることなく、いつか必ず死に至る生命へのお互いの「優しさ」を育む方向に社会が動く未来を強く祈らずにはいられません。


 これまでに、私の友人知人の中でも、10人余りがコロナに罹患し、3名が後遺症状に苦しんでいます。亡き母が老人ホームで友達になり親交深かった方の中でも数人が罹患し他界されてしまいました。 
 また、コロナワクチンの接種後に、副作用や後遺症状が続いている人が2名、免疫疾患を発症した方が1名おられ、接種後、暫くの間に血栓関係の疾患で落命された方が2名、心筋炎が1名、ワクチンの副反応とされる高熱が続き脱水症状から腎不全に至り他界された人が1名・・・これらの方々は、ワクチンとの関連性は立証されておらず厚労省にデータは上がってはいませんし、ワクチン接種前からコロナに罹患していた状態が悪化した可能性もあります。しかし、偶然と言うには、それぞれの以前の体調や年齢を鑑みるにおいても、これは多過ぎます。
 多職業柄、私には友人知人が多いからかもしれませんが、不幸事は話さない人も多いですから実態はそれ以上おられるのだろうと思います。

 コロナは、オミクロンから派生したウィルスはある程度弱毒化し、治療方法もある程度普及し、劇症肺炎のような症状を示す人は少なくなったと現場の医師は発信していますが、その発信によれば、肺炎ではなく、各種臓器の機能不全で他界される方が激増したとのこと。
研究論文を追いかけても、まだ全容が判明しない未知のウィルスであり、報道も疑わしい不安材料は報道しない方向性が強くあるように見受けます。
ですが、あと数年以内には、かなり研究が進みその全容が明らかになった時には、私たちは科学的事実を知ることが出来、現実を正確に把握できるという真の安心を得ることが出来ると思います。

 同じことを繰り返し書き続けていますが、コロナはがんとは異なり、明らかな感染症であり、予防で出来る疾患です。 TPOに応じて、出来る限りの予防対策を継続することが、最も安全な予防策であることに変わりはないことを忘れない「優しさ」に満ちた社会通念が存在し続けますように。

 大過なく、台風が通り過ぎることを祈りつつ、ブログに立ち寄って下さる方々へ、ご無沙汰のお詫びと、感謝の気持ちを申し上げます。長きにわたり、お心に留めて頂き、本当にありがとうございます。




 感染症対策に関する政治的判断は、功利主義が目立ち過ぎます。
多くの物事に、功利的判断が抜きんでて先走り始めた昨今、様々な分野で政府の国家統一思想が爆走している焦りが露わに感じられる異常さはかなり気持ち悪いものであり、その方向性の異常さを指弾する能力を逸した大手メディアの報道統制状態は、今まで以上に異常状況に陥っていると、私は、拝見しています。


日本国政府の怪談レクイエム

・2023年1月29日・

新型コロナ感染症、サーズコブ2ウィルスが発生して3年が過ぎた。
WHOの発表では、累積感染者数は7億5250万人を超え、死者は約680万人。
全世界の人口が約80億であるから、10人に1人が感染していることになる。

日本国内の感染者数は、当初極小に抑えられていたが、波を追うごとにうなぎのぼりに上昇し、感染者数のカウント方法が変更された現在の代8波に至って、概算で7波の2~3倍に至っている模様。

ワクチンの効果と治療法の確立と今回のオミクロン株変異株の更なる弱毒化説が、もし本当に真実であると仮定すれば、死亡者数から逆算すると、感染者数は、2~3倍どころか5~6倍以上になるのではないか?と推測できる。
欧米で初期のウィルスが猛威を振るっていた頃の勢いを、日本は今追いかけているかのようだ。


 ところが、何故か政府も報道も妙に静かで、コロナ健忘症のような気配が進行している。
喉元過ぎたら熱さを忘れることが得意な天然呆けの私であっても、これほどの政府と報道の脳天気呆けさ加減には驚愕を禁じ得ない。

 当初、NHKの特番で詳細説明がなされていた通り、この感染症の問題は、変異を繰り返しても、インフル等とは異なり、ウィルスの受容体がACE2で、全身の臓器にあり、血管内皮を始め、多臓器に感染する能力を持っていることで、2022年末には、脳オルガノイドで、脅威的な感染模様が確認され、オミクロン株でも略同率で脳に症状が発症することが確認されて来てもいる。

後遺症の残存率は、各種研究データの平均を取ってざっと3割として、その3~4割に脳に関する症状が発現するという検証が進んでいる。
つまり、罹患した場合約1割程度に大なり小なり何らかの脳の変化が生じるということになる。
何らかの経路でダイレクトに脳に感染するルートが懸念され続けている上に、潜在感染や潜伏感染の懸念も浮上している。


 日本の感染者数は減るどころか、波を追うごとに増加し、世界最大数を記録した。
死者数も増加し、医療崩壊もエスカレートし、3年前の社会になど決して戻ることなど出来ない臨界期に入った。

 ところが、この期に及んで、時限立法の期限が到来し、政府は新しい立法を行うこともなく、この厄介なウィルス感染症を、感染症取り扱い行政区分5類に編入させると言う。
5類扱いにすれば、当然、感染は水面下で増加するから、自己防衛が必須となる。

 それだけであれば、致し方なしの「なし崩し」と見ることもできるが、感染予防のマスクの装着を不要と厚労相が口出した異常事態まで発生。ワクチンのデータ収集も止め、感染者数のカウントすら取れない機能麻痺に陥った日本国政府は、更に、国民の科学的思考のみならず、倫理観まで崩壊させたいかのような方向性を示唆している。

 整合性も無ければ、科学的正論すらない意味不明、が、現政権には目に余る。


 政治家は、最も人と出会い近しく会話を交わす職業だ。代議士の感染率は一般国民よりも高いと思われる。脳感染は、本人には自覚が少ない。日本政府首脳陣にも、自覚しない程度のコロナの脳感染が広がっているのかもしれないと思えて来る昨今。
 トランプがあの米国議会襲撃を引き起こした異常言動も記憶に新しい。
プーチン然り、バイデン然り、岸田氏や加藤氏にも若干なりとも脳感染の可能性がないとは決して言い切れない・・・この想像は、この厳寒期をさらに寒くする。



 さて、こちらのブログでも、マスクについて、改めて解説を。

 かつて、CDCの研究で、一般的なマスクはウィルスの透過性が高く、効果が無いとされていた時期が長くあったが、新型コロナの発生以来、実証が進み、正しくマスクを着用した場合、感染率が半減する論文が幾つか出ている。これらの科学的根拠で、米国で再び感染が拡大している地域で再度マスクが義務化されている。

 ウィルスの大きさはマスクの網目で捕獲できないが、飛沫によるウィルスの大量暴露は避けることが出来ることや、マスクを着用した人間の呼気でマスク内に生じる物理的空間が、ウィルスの被爆量を減少させる効果がある。マスクを着用することで上気道の「荒れ」も予防できることで、ウィルスが感染しやすい状態を避けることも出来る。
 つまり、マスクはウィルスをシャットアウトするものではないが、ウィルスの被爆量を減少させることで、人体に備わった自然治癒力(所謂免疫力)で、ウィルス感染を予防する。

 にもかかわらず、日本の厚労相が、これほど感染蔓延した日本国内で、マスク不要と述べたとすれば、どう考えても、どう考えても、正気とは思えない。


 過日、英語塾の元生徒さんから、何故、欧米人はマスクをしていないのに日本人はマスクするのか?と尋ねられ、説明したことも下記に。

 まず、注意しなければならないことは、報道で見られる欧米では誰もマスクをしていない図?というのは、マスクをしていない騒がしい場面と人達をメインにスポットしているということ。
平均的には3割程、多くの人々はTPOに応じて着用していると現地にいる友人から聞いているが、彼の地は、社会格差と各人の個性差が日本より大きい。
欧米に住まいする知人たちであっても、その人の個性や、周囲の人間環境や行動特性によって、言うことが違うのは日本人以上なので、勿論日本人間でもそうであるように、どういう立場にあるどういう性格の人が語っているのかを前提に考えて平均値を推測しないと、誰もマスクしていないと誤認することになる。

 マスクに関する、欧米と日本との感覚の差についての一般的によく知られている理由は、米国の心理学者が、以前、欧米圏での言語やコミニケーションにおける視線の特徴を論説している文献があり、最近も、彼女がマスクの装着を欠かさない日本人との違いを検証している論考が、一番分かりやすい。

 日本語には「目は口ほどにものを言い」という格言がある通り、欧米人が他者と会話する時の視線は、口元に集中するが、日本人が他者と会話する時の視線は目元に集中する。 
 欧米のビーチでは、殆どの人達がサングラスをしている。特に夏の直射日光の下では、サングラスに日焼け止めが習慣化されていて、私自身、真夏にサングラスをせずに外出していた時「目を傷めるからサングラスをつけた方がいい、そして日焼け止めを塗ってから外に出ないと皮膚がんのリスクが増す」と、現地の友達から注意されたこともあった。米国で眼鏡を作る時には、サンバイザーを一緒に勧められたりもするが、日本で、対人場面でサングラスを掛けるのは少々失礼な感覚があるのは語るまでもない。
 言語学的には、子音が多い欧米の言語の発音と理解は、口元を大きく動かすこと・口元が見えることで容易になるが、日本語は子音が少なくそれぞれに母音がくっついているから、マスクをしても言語が聞き取りにくくなることは特殊な場合のみに限られる。
 
 更に、人体の特徴として、骨格が立体的な欧米人が一般的なマスクをしてもすき間だらけになるから、日本人のようなマスクフィットは望めない事を鑑みると、おそらく一般的なマスクでは着用しても効果は比較的低いようにも推測される。
 
 以上、つらつら書くにおいても、現状の異常さは怪談以上に気持ち悪い。


 ガンサバイバーとして言わせて頂けば、予防が厳しいがんや他の疾患とは異なり、感染症は個々人の他者への思い遣りと配慮で予防できる疾患にも関わらず、日本国民の倫理崩壊と科学的思考の放棄を政府が先導しているとは、一体どういう了見なのだ?


 国民の多くがマスクをつけていたら、G7で他国からの来訪者からどう見られるかが気になるからという、奇妙な憶測まで乱れ飛ぶ昨今。
 もし、岸田氏や内閣、霞が関がそのような考えを持っているとすれば、日本政府には、自国への愛国心も誇りも無いということにもなる。

 人に感染させないよう、自分が感染源にならないよう国民の殆どがマスクを装着してくる国は日本以外にはないだろう。この状況は、『菊と刀』よりも、日本の国民性が科学的理解と倫理性に優れていることを世界にアピールする最高の機会になる。
 と、いうことすら思いつかないとすれば、日本の未来は無いと言っても過言ではない。























 
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