endometrioid carcinomaから

-9years after- 卵巣ガン&人生のサバイバル

シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護の本音語りです。

遺品整理の発想の転換~脱・「断捨離」!

 母の他界後、両親の遺品整理というとんでもなく重い仕事に向き合って来た。

 不要な書類などの整理は概ね完了。洋服の整理も半ばまで来たのだけど、和服は手つかずのままにいた。

 私自身、仕事や趣味の関連で一般的な人よりも和服を着用する機会は多かった。
幼い頃から和の文化に馴染んで来たので、和服にもある程度の知識を持っている。
 だけど、どうしても、自分では、母の和服の整理が出来ずにいた。


 世間は「断捨離」ブームだ。
できる限り多くの物を捨てることができる能力が、さながらトレンドのように認識されていることに、ついつい私も洗脳されていたようで、ここに来て、とんでもない戸惑いを感じ始めていた。
 「断捨離」なるものは、果たしてマトモな行為であるのだろうか?

 ・・・ときめくものを身近に置くと良いことがあるという論理は、さにありなんと思う。
とはいうものの、物質の豊かさが繁茂した現代では、その時々に自分の好きな物だけに囲まれて、トレンドの移ろいに応じて変化する自身の感性に従ってときめくものを暮しに配置してゆくとしたら、永遠に消費社会が加速するだけではないのだろうか?
 百均に行くと、廉価な物達が溢れかえって、労働価値に比して物の価値が余りにも軽んじられる現代となった。1時間の時給で、8品程の新品の日用品が手に入る。
廉価を誇る衣料品店にゆけば、1時間の時給で1枚の洋服が手に入る。
 日銀が、インフレへと経済対策をするにも関わらず、まだまだデフレは進行している。

 「断捨離」って言う新語って、デフレ経済の時代の鬼子ではないのかしら?
多くの不要で価値のない物を持ちすぎている人たちには、確かに「断捨離」は必要なのだろう。
しかし、私は、この現代のトレンドとは、生き方のパターンの根本が違うのではないだろうか?

 何かしら、最近自身がブレているという実感がして、母の和服の整理に関しては、思案の末に、どうしても、私がもう一人の母のように敬愛する友人に、仕分けを手伝って頂きたいと思って、お願いをした。

 彼女は、既に60代後半、もうすぐ70歳になられるのだけど、数々の輝かしいイベントプロデューサーでもあったし、老舗店舗の再生のプロデユーサーとしても素晴らしいキャリアを誇った人で、今も、プロフェッショナルな現役主婦だ。
孫2人を育てている彼女の住まいは、築30年程の新興住宅地の住宅であるのだけど、常に、モデルハウスの展示室のように美しく整えられている上に、モデルハウスにはない季節の美しい模様替えや設えが行き届いている。
家具やファブリックも訪ねる度に陽射しの角度や、採光の照度に合わせて模様替えがなされていて、これ程くつろげる空間があるのだろうか?と思う程、リラックスできる素晴らしい暮らしを演出し続けている。
彼女は、日々の暮しの美学においても、私が知る限りの人たちの中で最上級だ。
 彼女の素晴らしい美意識は、幼い頃、越後の呉服問屋の愛娘として生育した環境に培われ、その後都市部で学生時代を送り、山村の名家に嫁いだことで更に磨かれ、離婚を経て、その美意識を生かした数々のプロデユースを手掛けたことで社会的に彼女の能力は開花し、再び主婦として家庭に入った時点で見事に成熟したのだ。 
 だけど、彼女に、再び御指南をお願いするにはかなりの勇気が要った。
以前にもこのブログに書いたけど、彼女は既に私を育て上げたと認識されていたことで、その期待を裏切るようで心苦しかった。しかし、母亡き後、他に、彼女程の審美眼を期待できる人は居ない。
 彼女はプロフェッショナルな審美眼の天才なのだ。
母の和服の真価を見定めることができるにふさわしいのは彼女だと、私は即断した。

 ここ暫く、手に付かないままに、私宅の整理を敢行していた間に、実は、「断捨離」なる概念は、美意識とは別次元にある本人の心理状態や感情が先走った行為であることを察知した私の脳が、「断捨離」という意識にNO!と言い始めたのだと思う。

 「断捨離」ブームは、廉価な物を衝動的に買い込んで沢山消費する文化には合うが、審美眼を持って良い物を大切に使う人の暮らしには全く合わないのだ。
現代の主婦層で、趣味を生かしたサロンなるものを開いたり、その種の講演を行うことが主婦の成功者のようにもてはやされているらしいブームにもどこか共通するものが感じられる。
 サロンというアマチュアな次元を超えて、20代30代で有名社寺での宴のプロデユースなどを手掛けてきた私の感性からは、「美意識」という限りない練磨と追及を要する崇高な次元の意識が、とってもあんちょこに語られ始めているような軽薄感に嫌気が感じられてならなく思えて来ていた。

 母の「美意識」の集成でもある衣服を、「断捨離」なんていう軽い気分で処分する気持ちには、私はどうしてもなれない。
 
 揺らぎ始めた自身の美意識を立て直すには、「美意識」における師匠が必要だと私の知性が直感した。

 空間的には、できれば、私は、3本の両親の和ダンスを、2本にしたいと思っていたのだけど、物質的に処分することへの強い違和感は無視できるものではなかった。

 私が乳飲み子であった頃に、着ていたと思われる銘仙の着物は、母の普段着ではあったのだけど、控えめな色合いの絵柄がとても美しい。
 母の結婚衣装であったと思われる白無垢はクリーム色に変色しているのだけど、大胆な吉祥模様が素晴らしく織り出されていて、これも見惚れる程の美しさだ。

 招いた師匠は、古い和ダンスから、和服を一枚一枚取り出してくれた。
もう10年、開けることのなかった和タンスから、息を飲む程に美しい衣装が顕れ出て来た。

 そして、祝儀用に使われたのであろう、美しい鶴が舞う金襴緞子の大小の袱紗を師匠が恭しく取り出した時の衝撃は、一流の古美術と直面するあの美意識の高ぶりにも似て、私の心に言葉に尽くせぬ感動を呼び起こした。
 昭和の匠が織りなした素晴らしいアートが、その古いタンスの中に眠っていたのだ。

 次々に現われる時代の美学を象徴するかのような芸術作品に圧倒されている間に、7時間という時間が過ぎた。
食事を摂ることも、ティータイムも忘れて整理していた私たちは疲労困憊していたのだけど、感性は驚く程冴えて美意識の高揚を実感していた。

 「これは・・・、言うまでもないことですが、どなたかに差し上げたり、処分するような種類の着物ではありませんね。」
師匠が微笑みながら、冷静沈着に重々しく口火を切った。、
 「驚きました。仰せの通りに私も思います。師匠に来ていただいてよかった。私は勘違いをしたまま処分する方  
 向に心を進めるべきと苦悩していたんです。「断捨離ブーム」に洗脳されて、取り返しのつかない大きな間違いを犯す所でした。
 これらは、母の人生のコレクション、近代史の遺品として大切に保存すに値する貴重な価値があります。」
私も微笑みながら応えた。
 それから、暫し呉服談議をした。
 幼い頃から熟知していたことであったはずなのだけど、呉服というのは、衣服であるだけではなく、身に纏う和の芸術だったことを、私は改めて確認した。

 昭和の時代に、母が贔屓にしていた呉服屋が、季節に一度、素晴らしい呉服を持って我が家を訪ねて来ていたことを思い出していた。
 彼は、誠に、美意識の崇高な、所謂呉服の目利きが鋭い素晴らしい呉服屋だった。
当時の馴染みの様々な商店がそうであったように、幾つかのお得意さんを持っていて、その家の品格や経済状態に応じて、彼は、卓越した美意識で京都の問屋や作家の工房から選りすぐった作品を、見せに来てくれた。
 同郷には、財閥と呼ばれる古来からの名家があって、そちらに持って行く呉服も一緒に見せて頂いたことが多かった。私の生家も、一時期は地方の名士と呼ばれる勢いがあったのだけど、日本の各地と同様に地場産業の低迷と祖父の時代からの政治道楽等で、多くの財は底をついた時代の分家であったことで、経済的には決して恵まれはいなかった。
 だけど、その呉服屋さんは、母の美意識をとても尊敬していて、財閥と呼ばれる名家や他の家に持って行く前に、必ず私の家に立ち寄って、彼が仕入れて来た素晴らしい着物の数々を見せてくれた。
 母が直感的に気に入って経済的に余裕がある時は、財閥用に仕入れた着物を母が買うこともあったのだけど、大概の場合は、我が家と同等の経済状態の何軒かの得意先用の価格帯のものの中から、母が気に入るものを購入することが多かった。
 その呉服屋さんが来る時は、さながら和の美術展のように、応接間に所狭しと素晴らしい呉服が並べられてた醍醐味が蘇ってきた。
「奥さんと、いとちゃんは、一番目が効かはるさかいに、一番先に持って来ますのや。」
と言いながら、彼は、惜しげもなく広げた商品の中から、母と私がどの着尺を選ぶのかを興味深げに見ていて、選んだ反物や着尺のそれぞれについて、如何に素晴らしいものなのかを物語ってくれたことも楽しかった。
それぞれの着物には、それぞれの物語があり、どこのどの工房で繭から糸を紡いで、どこで織られて反物になって、どこで誰が絵柄をどんな意味をこめて描かれたのか、或いは織の反物に仕上がってきたのか、作り手から着手に渡るまでのストーリーを詳細に聞かせて頂けたことが、更に着物を見る目を高くしてくれた。

 その後、そういう呉服屋が廃業する時代の流れが来た後は、一般の呉服屋の展示会で着物を買うようになったのだけど、そこで母と私が選ぶ着物は、価格帯は程々でも、呉服屋を唸らせるには充分な物ばかりだった。
 ある時、巡回で地方に来る廉価な均一価格の付け下げの着尺のバーゲン会場に、ふと気が向いた私が母を連れて行った時のこと。
 数百点の中から、目ざとく最も価値の高い美しい着尺を選び出した私たちの所に、責任者らしき人が来て、
「どうしてもその着尺をご所望ですか?実はその列の着尺はこちらの手違いで置いてしまったもので、この価格ではお譲りできないのです。他のを選びなおして下さい。」と言われたののを、
「嫌です。この会場は広告でも、会場の表示でも均一価格って表示されてますからこの数百の中からこれを選んだのです。私の美意識がこの作品と巡り合ってしまったのですから、他には代替できません。表示価格でお譲り頂きます。」なんて申し述べて、なんだかちょっと気まずい思いをしながら廉価で素敵な逸品を購入したエピソードまで思い出した。

 着物を選ぶという行為は、美術品を選ぶ目利きのように、母のの美意識の最高の極みの行為だった。

 そのコレクションを「断捨離」ブームに乗って処分すべきではないかしら?な~んて思考になって、苦渋の思いに行き詰まっていたなんて、なんともまあ、恐ろしい程の愚かな思考であったことか!

 そう、時代はどんなに移り変わっても、黄金律の如く、美意識は確固として存在するし、美意識の存在を保護し、保全することが、美しい暮らしを生み出してゆく至高の原理だ。

 旧来から存在する美しいモノをどれだけ長く有効に暮らしの中に生かしてゆけるかどうかが、家主の美意識の見せ所。
 京都の祇園祭に鉾が並ぶ通りの町屋でお披露目される、古い絨毯や、屏風や、和服等、雅な文化が思い浮かんだ。

 
 ようやく、家屋敷の整理の方向性が定まった。

テーマは、「日常生活と美の空間のコラボレーション」

 テーマが決まれば、実行あるのみ!

 人生は、幾つになっても学びと研究を私たちに与えてくれる。
時代のトレンドやブームに乗るのを止めて、自身で、見つける新しいテーマの発見の幸せが新しい暮らしのより豊かな幸せへの素晴らしい原動力になってゆくことに気づいた、心ときめく昨今です!

 




ジェンダー問題2・日本のジェンダーの混迷期

 引き続き、現代のジェンダー問題について。

 1980年に男女雇用均等法が施行されたのだけど、そう簡単にこれが実現されていないのは、この国の根深い集合的無意識の問題に関わっているように概観される。

 2017年を迎える今年まで37年という長い年月が経ったが、ジェンダー問題の解決には程遠い原因は一体なんなのだろうか?

 1898年に戸主を責任者とした家族制度が施行され、1947年に女性参政権と一緒に現在に至る戸籍制度が施行される間、59年に渡って戸主家族制度が続き、その後も、日本では、「戸籍制度」という世界でも稀な家族という括りの民法を持ち続けている現状を鑑みれば、日本の民法が、社会的に、ジェンダー意識を頑なにさせている一因であることは否めない。
 結婚時に、男性の姓を名乗る人の数が圧倒的多数であるし、まだ夫婦別姓すら確立されていないところを見ると、戦前の家長制の59年の影響だけではなく、現行の戸籍制度の問題を避けてはジェンダー問題は解決を見ることは厳しいだろう。

 一時期、ニューヨークなどアメリカの大都市のビジネスシーンで活躍する女性たちの多くが、過労症候群を発症した時代があった。彼女たちは、男性と同等、或いはそれ以上の仕事をし、社会的に成功するのだけど、良き妻、良き母であらねばならないというジェンダー意識から、男性と家事や子育てを分かち合うことなく、自力で全てを背負ったことで、過労で健康を害するという問題が多発した。
 その後、プライベートの生活面で、女性に依存し自立できていなかったことに気づいた男性たちが、料理や子育てをしたり、ベビーシッターやメイドの活躍と雇用が進むに従って、この問題は小康状態になったように見受けられる。
 しかし、日本の特徴としては、男性社会への女性の進出はまだまだレアケースに留まり、代議士の中の女性数は勿論、実業界では要職にある女性の数は先進国最下位、幾つかの後進国より少ない程の状態が続いている。
 人々の心理にジェンダー問題が残存しやすい社会システムが残存している限りにおいては、雇用の機会における男女平等が保障されたとしても、女性の社会進出は進まず、社会の下位層で利用される風潮はなかなか変わらない。

 50歳の年収統計では、1000万円以上の年収を得る男性が約20%に反して、女性では5%にも満たないという現実がある。
22歳で社会に出た人達が、男女雇用機会均等法の施行から37年を経て、略50歳になる。
もし、本当に社会的ジェンダーフリーが実現していたとしたら、現代の50歳の男女の年収はもう少し近しいものになっているだろう。

 この現実から考察されることは、女性は、社会で経済的仕事をする場合、男性以上の努力が必要な社会構造や社会の因習、風潮が残存しているってことだ。
 出産育児の問題以上に、社会のあらゆる面において、女性が昇進したり、経営者としてトップクラスに存在することに対する拒否感が強いという風潮は、未だに大きい。
 10年前でも、同能力の場合の昇進に際してはまだまだ男性が圧倒的に優遇されていたし、今もさほど変わりはないと思われる。
 
 自営業の場合でも、女性であるということで、交渉の場面などでのっけから軽んじられやすい傾向も未だ残存しているし、性別や容姿で侮られる現実のエピソードは枚挙に暇ない。女性が男性と同等の年収を得るには数倍の努力が必要とされるのが常である。

 私個人的には、前述したように、これまでの職業人生において、ジェンダーなど既に無いと思い込んでいた。
だけど、よくよく振り返ってみると、私の感覚は、元々ジェンダー意識と男女差別の強烈な日本に生まれ育ったことで、女性ならではの苦労と努力は、私の無意識の中に当然あって然るべきことと、当初から織り込み済みであったから、余程の差別を受けないと、気にならなかったと言えるのかもしれない。
 もし、男性であれば?と思ったことは一切なかったのだけど、仕事面での人生を振り返るに際しては、男性であった方が先ず体力的にも、また偏見を超える為のパワーを使わずとも済むことで、何かと楽で有利に物事を進めることが容易であったことは否定できないし、収入の獲得にはあらゆる面で有利であったことは断言できる。
 
 少なくとも、ガンを患った時の婦人科病棟の一人の看護師から私の職務的立場や生計所帯主としての立場に対して不当な扱いを受けたことや、私の故郷の田舎町の介護保険係長や包括所長や社協従業員から、母の介護関係者から不当な扱いを受けたことは、特筆すべきジェンダー差別のエピソードだと思う。

 
 このような時代の風潮の中で、利口な女性は、男性以上に必死な努力が必要とされる社会での成功を目指すより、楽ちんな人生の成功を目指すのが最善と判断するだろう。
 つまり、社会的に成功するであろう男性或いは、内助の功で成功に導ける男性と結婚し、夫婦という法的保護の中での自己実現を考えるってことだ。
確かに、女性が年収1000万円を得る努力と試練の数々は、夫が年収2000万円を得る内助の功を発揮するよりストレスフルで厳しい。
 私自身は、経済的自立の道を歩んできたけど、50代になって振り返るに際しては、女性がそんな無理をするよりも、素敵な伴侶をゲットして伴侶を内助の功でサポートした方がそれなりの苦労はあってもストレス指数はかなり低かったように思う。
 夫婦の資産は、同等に分割できるものであり、夫婦である以上は、夫の収入の半分は妻の収入なのだからと、ある良妻賢母の友人は言う。
ジェンダーフリーの思い込みが強かったおバカな私などは及びもつかない多くの聡明な女性たちは、結婚し内助の功を発揮することで、へそくりだけじゃなくって、2人で共動することで、自己実現を果たし、自身の資産形成まで行っているらしい。
 
 また、この現状を推認したかの如く、現政権は、扶養控除枠を拡大した。
現政権に根強過ぎるジェンダー意識のなせる業とも言えるけど、扶養控除を排したところで、既に、人生のプライベートな仕事を女性に依存して生きている男性の意識をただちに変えることは不可能であるし、家庭内で利口に生きて来た女性が直ちに正規社員として家庭外で働くのは難しいだろうという国民の潜在意識を詳細に分析した結果であったのだろうとも思われる。

 熟年離婚の年代になって、過日も、ある知りあいのご夫婦が離婚裁判を終えた。
妻は専業主婦で、御主人とともに形成してきた資産の半額を分与され、年金も折版し、子供も養育費を得て自分の手元に置くことが決まり、悠々自適な再スタートの時点にいる。方や夫は、資産と年金は半額になり、養育費の送金、日々の仕事の激務と、慣れない家事と実親の介護施設探しに途方に暮れている。
 
 それでなくとも、2000年以降、公然と、夫は妻のATM!と言われる時代が続いている。
社会のジェンダー意識がもし今後も延々と続き、職業への女性の進出が遅延したり阻害され続ける限り、家庭内ではかなり以前から男女平等か女尊男卑の地位を獲得した妻の権限がより一層拡大してゆくだろう。
 そして、離婚という人生の危機に際して、男性は取り返しのつかない岐路に立たされ続ける。
って図式が既に成立しているのだけど、そのあたりも含めて、そろそろ、日本社会のジェンダー問題は、女性の問題としてではなく、男性自らの身に既に十二分に降りかかっている重大問題であることを直視して、実直に考えてゆくことが急務と思われる。

 このあたりを察知した現代の聡明な男性たちは、同等の職務を持ち同等の年収や資産を持っている女性しか結婚相手に選ばない傾向が強くなってきている。
2010年以降、現代の結婚情報業界においても、男性が女性の年収や資産を暗黙的に、お相手選びの基本条件と考える傾向が急増している。デート費用は割り勘が半数以上となっている。
 一方で、女性は、家事や育児の為に自分が仕事を退職することを予期して、自分の年収の二倍以上の男性を
基本的条件とする傾向が根強い。
 これでは、非婚化は止まることはない。

 どんなに表層上で欧米を模擬しても、土台や環境が違う日本社会のパラダイムを変化させなければ、時流と現実の狭間で国民の苦渋は続くだろう。

 年金問題などで、少子高齢化を問題視する世相ではあるけど、本来、1億2千万に人口が増えたこの国で少子化が進む事が本当に良くないことかどうかについても甚だ疑問だ。
 そもそも、産めよ増やせよの富国強兵の時代において、子供は労働力であり戦力であった。
20世紀から21世紀を超える間に、科学も人間の存在概念も飛躍的に進化してきた。
 これからの半世紀は、更なる科学の進歩と共に、先進各国ではより大きな発想の転換期が到来すると推測される。

 2067年まで、私は生きていることはあり得ないのだけど、このまま順調に少子化が進めば、豊かな生活や国力を維持する為には、この国の国民の多くが国境を越えて世界の中のエリート・つまり知的職務者となる方向性に迫られるだろう。知性と理性の練磨と進化は、あらゆる差別を排除して進む。
 そのような方向性が進むにつれて徐々に多くのジェンダー問題は解消されてゆくのだろう。

 24時間働いたJapanese businessmanが伝説になった今、一億総戦力と謳うキャッチコピーは男女共同参画社会の樹立がなければあり得ない。
この実現不可能な標語を掲げてまで、もしも現政権が真面目に男女共同参画社会を実現しようとしているのならば、より根本的に人々の集合的無意識を構築する民法や社会的なパラダイム自体の改革が成されなければならない。もし、現政権にそれが実現できたとしても、国民の集合的無意識が変化するには半世紀は必要となるのだ。
 ましてや、憲法改定の自民党草案なるものは、目を覆いたくなる程恥ずかしい時代錯誤のキワモノだ。
万が一こんな憲法を支持する国民が多数であれば、この国は確実に先進国から脱落し、滅びの方向に進む。
 おりしも周辺各国との外交難の最中、個人の権利を排斥し、旧時代的な家族単位での施策がなされるような憲法が容認されれば、確実に日本国籍を持つ個人個人が抹殺されることによって、国力が内部から崩壊し、やがて国土を失いかねない窮地が訪れることは、このグローバル化の時代の潮流の中で、誰しも容易に予測できるだろう。

 この国のジェンダー問題は、まさに今混迷期にある。
 






 


 

デート費用は割り勘?

 とある社会的地位にある方とのお見合いの席でのお話。

 ブランドもののスーツを着こなしたいかにもエリートらしい風貌の男性だった。
とびきり美味しいフルコースを御馳走頂いた後、歓談してたら、突然、
 「これからのデートは、割り勘にしませんか?」
と、宣われた。
美味しく頂いていたデザートが、思わず喉に詰まった。
 「学生じゃないんですから、つまり、私のことがお気に召さなかった。お断りの文言と受け取ってよいでしょうか?」
私は素直に尋ねてみた。
 「いえいえ、これからもお会いしたいから、先々のことを考えると生活費も割り勘がいいと思いますので。」

 「プッ・・・・・・・・・・」
 私は、彼の風貌とのギャップに失笑し、喉に詰まったケーキを本当に噴き出してしまった。

 「あらら、なんて大変な失礼を。。。人生初めての不覚です。本当に申し訳ありません。
・・・・ とは申しますものの、何故そのようなことを言われるのでしょう?割り勘とは真面目に仰っているのですか?」
と、私は笑いをこらえて、問いかけた。
 「勿論です。これまでも、お見合いでお会いした方にはそのように申しました。」
お相手は、本気でそう考えているようだった。
ありえない!だからみんなに断られたんだ!と叫びそうになる気持ちをぐっとこらえて聞き返した。
 「元奥様ともそうだったのですか?」
 「いえ、以前の家内は専業主婦でしたから。」
はあ?こ奴はこんな社会的地位にありながら、一体何てトンマなことを宣うのだろう?
内心の怒りをおくびにも出さず、ここは知性と理性でできるだけにこやかに反論することにした。
 「私も、社会的にこれ程のブランクがあるのですから、今後復職するには、生活費に取り崩してきた事業資金の補填先もあるかどうか・・・ガンサバイバーにも介護家族にも、特に女性である場合は社会的フォローが一切ない社会ですから。もし出資して頂ける機関をご紹介頂けるようでしたら、確かに、私にも僅かながらでよろしければ収入を期待して頂けると思います。今はもう復職は諦めて、新しい人生を歩みたく思っていますが、もし、ご希望なら。」
 「しかし、あなたなら現役時代に蓄えた事業資産は今もお持ちでしょう?」
おいおい、こ奴は私が涙ながらに取り崩して来た大切な事業資金を、更に自分が食いつぶそうと考えてるのか?
 「・・・私は今まで清貧に暮してきました。今後も清貧な生活に困らない程度にキープしている私の事業資金を当てにされるなんて。。。結婚後に私に復職を希望されるというお話なら歓迎しますが、人の事業資金を当てにする話など失敬です。大変遺憾ですわ。」
 「でも、男女は平等ですから。」
再び失笑でケーキを吹き出しかけた。ありえない稚拙すぎる論理だ。
 「本当に男女は平等ですか?そういう理想は、ジェンダー問題が全て解決した社会になってから仰ることではないかと思います。それに、もし生活費を折半するのでしたら、勿論家事も料理も折半される覚悟がおありですよね。女性の方が体力が無いですのでそちらの負担がさぞ大きくなると思います。それでも、私に経済力を期待されるなら、致し方ございません。本気で復職に努力します。」
敵は論理に行き詰まった。
このあたりは流石に、知性と理性の持ち主らしく、ご自身の論旨の矛盾はご自身で自覚される能力も豊かだ。
 「わかりました。我ながら矛盾が過ぎ、大変失礼な表現をしてしまいました。」
 
 と、ここまでは、まだ、よかった。
それから延々、彼がどれ程多くのお金を、元妻との離婚の際に分与させられたか、どれほど多くの養育費と巨額な学費を支払っているか、婚姻中から元妻が介護を放棄しご自身のご両親を施設に預けなければならない憂き目にも遭ってその施設利用費用もどれほど大きな出費になっているか等々・・・経済的苦労のお話を聞く羽目になった。更に年金も折半されているとのことで、今後独りでの生活設計も全く立たないという現状を訴えられたのだ。
 それって、ちょっと変じゃない?と思った。
民法的に従えばお相手の子供は私とは他人である。余程仲良しになって普通養子縁組でもしない限りは赤の他人でしかないし、私の子供にするなんて先妻が許さないだろう。
夫婦の収入は夫婦の収入であるはずなのだけど。。。子供がいる場合はこのあたりが誠に曖昧になるのかもしれない。少なくとも、この男性は、先に自身の人生の債務を収入から差し引いて再婚したいらしい。となると、私はお相手の元妻や子供を含めたハーレム?に私のお金を消費されるっていう図式になってしまう。
 事の次第を理解した私は、謹んで申し上げた。
 「・・・新しいパートナーとの人生を考えるのは無理だと思います。50代に残された社会的活躍の時間はもう長くはないですし、いつ何時病気で倒れるかもしれない年代に入っているんです。全てに目をつむって、復縁された方がいいと思います。」

 以前、ある企業の部長クラスの方からも、同じような話を聞かされた。
彼も勿論年収over1000万プレイヤーである。
一体世の中どうなってるのかしら?
と目が点になる昨今・・・

 ジェンダー問題は、至る所で、男女共に国民にとっての諸刃の剣となっていることを実感する。
このお見合いは、勿論、お断りすることにしたのだけど、後味の悪い結末だった。

 お見合いのプロフィールには年収は書かれるが、可処分所得は書かれない。資産明細も、バツ歴があっても元妻の職歴も書かれないし、養育費の支払いも両親の介護費用も。
離婚歴があって、子供がいる男性場合の多くが、差はあっても同様の債務を抱えている状況にあることが、知り合いの離婚や、ここ数年の縁談で明らかに分かった。

 信頼できるパートナーのいない人生なんて、特に家族の居ない独居になった私には考えられないのだけど、この年代の婚活はスーパーシングルの女性にとっては、つり合いのとれるお相手を探すことさえ非常に厳しい。
 50代にして、女性のお財布を当てにする男性になんて、異性としての魅力は全く感じられないし、そんな人と結婚するくらいなら、このままもう開き直って、独居老人まっしぐらの方が気楽でいい。

 気になって、ググってみると、女性の収入や資産を当てにする男性が増えている統計が目についた。
この時代にバランスのとれるお相手を探すのは、砂漠にダイヤを探すようなものじゃないのかしら。
ここまできたら、スーパー・シングルじゃなくって、ダイヤモンド・シングルと言う方が適切じゃないかしら?ってさえ思えてきた。

 以前関わった結婚情報業界の知人たちに聴いてみたら、バツあり子持ちのシングルは、同じようにバツあり子持ちと結婚するケースが多いらしい。確かに、ス前の伴侶からのサポートが相互に補完し合って生活に困らないという互いの補完作用が働く。
 スーパーシングルはというと、子供のいないバツありか、シングル同士か、バツあり子持ちの男性の場合は最低年収over2000万円、若しくは年相応の資産のある人と結婚って言うのが世間の目安であるらしい。
この年相応の資産は、50歳以上で、相応の女性との結婚を希望する場合年齢×100万円とされると言う。
 確かに、50歳を過ぎたら、これから二人で力を合わせて頑張りましょう!なんていう社会的人生の残り年数はごく僅かなんだから、これもさにありなんと思う。
 問題は、厚労省統計では50歳で結婚歴の無い男性の殆どが低所得層で、結婚歴の無い女性の殆どが高所得層であるというアンバランスだ。20代なら2人で力を合わせて頑張ることもできるが、50代からは余程の地位や特殊な才能のある人以外は、残りの社会的活躍が急降下する年代に突入する。
 更に、たとえ経済力や価値観が合っても、好みのタイプのお相手でなくちゃと思う私のようなタイプは、更に相性が合う確率が低くなるので、まるで、砂漠でダイヤモンドを探しているような気の遠くなるお話になってしまう。

 働きウーマンして、シングルで生きて来てしまった女性にとっては、闘病と介護の期間中の社会的ジェンダー差別はおりえない程大きかったし、プライベートでも、誠に報われない時代だ・・・と溜息交じりの今日この頃。。。
 難儀な年代と時代に生きていることを強く実感せざるを得ない。

記事検索
最新記事
人気ブログランキングへ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ