取返しのつかない大きな失敗をしてしまった。
父母の遺品を整理&処分している時に、もう23年も前に他界した父のスーツもそろそろ来世に旅立つ時と思って、自治体のリサイクルに出すことに決めた。
一枚一枚、確かめて出したのだが、あまりにも古いスーツは肌ざわりもごわごわして、その服に込められた由緒も思い起こすこともなく、礼節を表する気持ちで畳み直して袋に入れた。
1週間程経過した後、ある記憶がよみがえった。
もしかしたら・・・と、記憶の糸を辿ると、父のスーツの一番下にあった黒い見慣れない形の襟のスーツ。
しまった!
と、思ったのは後の祭。すでに、他の衣類と共にどこかに搬送されてしまった後だった。
それは、男の子がいなかった大伯父が、戦前、ゆくゆくは自分の跡継ぎにと一番目を掛けていた父に、大伯父が初めて国会議員として議事堂に登壇した時の記念に与えたものであったのだ。
伝承は思い出したが、そんな大切な物を父の服の一番下に入れてあったなんて。。。
後悔先に立たず!
・・・私は、取返しのつかないこの大きな失敗に愕然とした。
とは言え、大伯父は、既に、小学校の郷土史の教科書にも写真付きでその功績が掲載されているし、その筆跡や文や人柄を含めた功績の解説や写真も各地の資料館に保存されている。
保管続けても、更に古びてゆくだけでもある。
当時の代議士の気質や人格からは想像もつかないほど俗人ばかりになった現代の代議士のイメージしか持たない次世代の親族にとっては、平民議員として登壇した伯父の意気地と志を伝えることは物語にでもしない限り、無理であるし、古びて型崩れしごわついた衣服を新たに保管し続けてくれる次代はいない。
私自身も、実際に最後にその服を手にしていながら、大切な由緒を思い出すことなく、古汚く感じるばかりで手元に置く気にならない・と判断してしまったのだから。
という言い訳をして、自身の失敗の後悔を慰めながら、大伯父と父への償いの思いを込めて、その大伯父の記憶を、どこかに私的に書き残さなければと思った。
いつか、自身が生を受けた一族其々の個性あふれる人生の流れを物語に纏めたく思いながら、失念したまま時間が過ぎた。
祖先は、時代を遡れば、紀氏という家系に行き着く。
総本家に伺った時に、都に上がった紀貫之の傍系として今日まで続いて来た家系図とそのエピソードが要約された古い文献を拝見させて頂いたことがあった。
江戸時代までは、都の中心部近くに広大な荘園を有する屈指の庄屋だった記録と史跡が残っている。
江戸末期に干ばつが続き大飢饉が発生し、祖先の領地の田園でも収穫が激減し、1年間の百姓さんたちの食糧にも事欠く有様になった。
大伯父の祖父は、大名にもお金を貸していた大庄屋で、当時30代。先進気鋭の志を持った剛腹な人情家であったと伝え聞く。
それまでも、徳川の権威主義による封建社会の矛盾の改革を求め、百姓の自立性を高め荘園に今の株式会社的な運営方式を取り入れる運動を行っていた記録もある。干ばつでの飢饉と、隣地の荘園間での戦さの勃発など、当時の惨状は、現在のウとロの戦火に彷彿されるような状況だったようだ。この民に降りかかった百姓さんたちの惨状を見るに見かねた彼は、郡山藩の藩主に、1年間の年貢の免除と戦の平定を直訴した。
当時のしきたりとして、庄屋が百姓の年貢の免除を願い出るなら、その責任を取り庄屋を辞し打ち首となるという罰則ががあったと聞く。
彼は、思案の末に、自らの決意を家族に告げ、自らの命と引き換えに、民への年貢の免除と、城主が隣地の荘園同士の戦を治め民と領地をを守る約束を藩主に願い出、承諾された。
藩主は、荘園間の土地や水の侵略戦を平定させ、民は1年間の年貢を免除され、先祖の広大な荘園の民には安寧な暮らしが戻った。
しかし、本人は打ち首を命じられ、潔く首を差し出した・と親族には伝承されているが、記録には無いので実際どうなったのかは、真偽不明のままである。只、妻と長男など家族が所払いになったことだけが記録に残っている。
長男は商人になり、私が生まれた郷里に商いに来ていた時に、その地の豪族に見込まれ、その豪族の長女と縁組し、醬油の醸造を業としてこの地で家を再興した。
そこで誕生したのが、私の祖父の兄弟だった。長男は家業を継いだ。次男が父を跡継ぎにと望んでいたという大伯父で、3男の祖父は大伯父の片腕でもある一方で、独自で幾つかの事業を営んだ。
大伯父は、先代からの気質を最もよく受け継いだ剛腹な人情家だったと記録されている。
青年時代から頭角を現し、当時は鉄道も通っていない田舎町で、「地方の発展は交通網の整備にあり、産業の育成にあり」と言う志を掲げ、電力発電会社を始めとして、私の祖父と共に、土木会社や運送会社他各種事業を興し、30代で、鉄道の敷設申請を政府に承認させ、難路を切り開き鉄道を敷くに至った大実業家となった。
郷里に鉄道を敷くことは、交通不便な当時の郷里の人々の最大の夢と希望であった。先に、後に世界的に有名になった山林王がその事業を手掛けようとしたがその計画が頓挫し失意のどん底にあった事業であったにも関わらずの成功には、おそらく、先達の豪族たちの人脈を得た大伯父が、庶民的な人柄と情熱で更に広く人望を集めたことが大きく貢献したのだろうと思われる。
但、山河の多い地域での工事は殊の外難工事となった。近年、近代建築としてモニュメントのようになった陸橋の美しさもさることながら、トンネルの多い土地柄、この工事は、人命の危機にも瀕する難工事だったと現場を仕切っていた祖父の数々の苦難を祖母から伝え聞いている。
予想以上の難工事に建設費用が嵩み、最終的に、この鉄道会社の出資者であった他の役員が、出資をストップしたことで、工事人に給与が支払われなくなるという事態が勃発した。郷里の民の悲願であったこの工事を中断することは出来なかった。大伯父はこの工事を自腹で完成させたが、流石に大伯父の資金も尽き、発起時に投資した分の株式を郷里の銀行に売却し自身は役職を辞して支払ったが、それでも間に合わず、開通時には、会社から工事人たちへのの支払いが完全に滞った。
賃金の支払いがされなかったことから、工事人たちが、開通式の時に鉄道の上に寝そべるストライキを行うに至った。伯父は、鉄道を見下ろす自宅で始発電車が通過するのを待っていたようだったが、定時になっても電車は走らなかった。そこに、郡長から、ストライキの知らせが届いた。伯父は、駿馬を郷里の銀行に走らせた。家屋敷を抵当に入れ、かなりの借金をして、工事人たちに賃金を自腹で支払い、ストライキを辞めるように言い聞かせ、無事、この鉄道は開通を迎えることになった。
その後の大伯父は、今でいう鬱が入って、別荘に半年余り隠遁していた・と、当時の大伯父の世話をしていた女中さんから、直接伝え聞いたことがあった。お膳を部屋の前まで運び、下げる時に、ああ、今日は箸をつけて下さったとか、今日は何も召し上がらなかったとか、随分心配をして下さったようだった。
そんなある日のこと、銀行の頭取が、伯父を訪ねて来た。
「君は、こんな田舎に居るような人間ではない。都市部に出てはどうか?これからの君の活躍の舞台は日本。そして全世界だ。」と提案したらしい。
この励ましに新たな方向性を見出した大伯父は、都市部への進出を決意。当時同様に都市部で鉄道会社を発起していた企業家たちと共に、数々の事業を成し遂げ、都市部の主要ホテルの経営なども含め多くの事業に携わった。
そうした中で、大伯父は、時の首相や重鎮から推薦や招聘を頂き平民代議士となり、国家の発展の為に国議に参画することになった。
ところが、時代はww2前の政界の大混乱期。
米国の実業家たちとも交友のあった大伯父は、勝ち目のない戦争に断固として反対した。
その数週間後に、弟であった私の祖父の県議会議員選挙で選挙違反に加担したという罪を捏造され、国会から追放される憂き目に遭ったのだ。
親族の多くは、当時戦争に反対する者は国賊と見なされていた社会的体裁を気にして、その時の事情はひた隠しにし続けていたので、その気持ち悪さの原因を究明したくなって、国会図書館の資料を調べてみたら、同時期に、戦争に反対した代議士が30名程、様々な理由で辞職を余儀なくされていたことが分かった。
当時は気骨のある代議士が多かった。
大伯父の性格を推測するにおいても、相手がどのような権力者であろうが軍を指揮する暴力の権化であろうが、たとえ闇討ちを仕掛けて来そうな相手であろうが誰であろうが、今流行りの「忖度」をしたり「権威に盲従」するような軟弱者では決してなかった。
時の戦争推進者たちから見れば、何が何でも因縁をつけて議会から追放したい存在と見なされたのは想像に難くない。
祖父はその後も県議や町長として勤めていたから、大伯父が着せられた濡れ衣は、戦争に反対した大伯父への大政翼賛会あたりからのあからさまなパワハラがあったのだろう・
と、数年前に、従兄に話したら、その話は口外しないようにと言われた程、当時の言論の自由に対する抑圧は、未だに日本人一般に巨大なPTSDとして残存していることを、私は実感することになった。
大伯父から見て一番年上の甥であった伯父は長年郷里の町長を務めていたが、町長室の伯父の机の引き出しに常に日本刀が入っていたことを当時の職員さんが記憶している。政治家たるもの、万が一の事態が発生した時は、自らが命を張って民を守るという規範の証であったと言う。
中央・地方を問わず、いざという時は身を呈しても民を守るという抜きんでたノブリスオブリージュ・武士道を有した当時の政治家の自覚は、現代の政治家や常人にはうかがい知れないレベルであったことの象徴のようだ。
かつて、よど号のハイジャック事件で、人質の解放の身代わりに名乗り出た代議士がおられたことが、これを証明している事案だとも言える。
さて、都市部に出た後の大伯父はその後高級住宅街となっている見晴らしの良い閑静な地に郷里の実家に似た別荘屋敷を構え、数百人の従業員を抱える会社の他にも様々な事業を展開した。満州にも進出し、病院や学校を建設し運営するなど現地でも多くの功績を残している。中国で建設した病院と学校は、時代を経た今も使われていて、当地で育った親戚が訪ねると、さながら第二の故郷に帰ったように、今も当時の恩義を重んじる現地の人々から盛大な歓迎を受けている。
とはいうものの、当時の時代の潮流は過酷さを増してゆく。
当時の平均寿命を越えて歳を重ねた祖父の世代には、戦争という人類の大脳の弱さが引き起こす最大の罪業のストレスが、健康面でも影響を及ぼしたようだ。
祖父は病に倒れる少し前に、たまりかねたように、祖母に「何故、戦場にこれほど多くの若者たちを送り出させるのか!私にはもう誰ひとり送り出す手伝いなどできない!!」と、心中の怒りと苦悩を吐露していたと聞く。
そのストレスに耐えかねたように、兵士を送り出す式典で祖父は脳梗塞に倒れ、敗戦へと続く惨事を人一倍苦悩していた伯父も、やがて、同様に脳梗塞に倒れ、晩年は、大伯父も郷里で療養するとが多くなり、祖父と囲碁を打つことが多かったと聞く。
どちらも囲碁の腕はかなりの達人で、碁盤の展開から相手の性格や人格やその時の心情を見抜き合うコミニケーションツールともなっていたらしい。
私は、大伯父の他界後に生まれたので、この世では会う機会はなかったが、大伯父や祖父に世話になったと言う郷里のご高齢の方々から、大伯父や祖父の人情あふれる剛腹なお人柄を伝え聞く光栄に恵まれる幸いを得ることが多くあった。
そして、大伯父が見込んだという父・の子として生まれた私は、我が父にその人格と気質を垣間見ることも多かったように思う。
大伯父や祖父とは、この世で直接会えなかった分、郷土史の中で仰ぎ見るばかりのちょっと煙たいようなくすぐったい感じのする肉親でもあり続けたのだけど、大伯父と祖父の気質は、父を介して、私のどこかにも息づいているのかもしれない。
~この世で会ったことのなかった大伯父さまへ~
父に下さったモーニングスーツは、こちらではあまりにも古くなってしまったので、迂闊にも、わたくしの落ち度で今回、失くしてしまいました。一番末っ子の末っ子に生まれた私は、大伯父様と祖父にも私は、この世でお目に掛かる機会がなくて、こんなに身近に感じたことはありませんでしたが、大伯父様の愛娘の伯母様とは何度かお話する機会を頂き、人生を生きるにおいての大切な心得をしかと諭して頂く幸福にも恵まれました。
史実には、大伯父様は、剛腹な人情家と記されておりましたが、史実以上に優れて人間味豊かなお方で、皆への心配りが豊かで、思い遣り深く責任感強く、優しい繊細なお心も併せ持ったお方であったエピソードもお聞きする光栄に恵まれました。
もう、伯母様も他界されて長くなりましたから、そちらの世界は賑やかになっていることと思います。私は、もう少しこちらで、居る時間が続きそうです。
心ならずも、大伯父様の服を失くしたことには、寂しい気持ちと自責の念を感じてなりません。
今まで、大伯父様の形見のスーツの存在は伝え聞いていましたが、私は、このように、大伯父様の御霊に直接語りかけることもなく、肉親として想起したこともありませんでした。
大伯父様は、若い頃、屋敷が火事で全焼してしまって、着の身着のまま本当に無一文になった時、「朝火事は縁起がいい!」
と、明るく言い放った・と言う伝承が史書に残っています。
無一物無尽蔵・という言葉よりも、明るく分かりやすく周囲を慰められた明言です。火事も、紅炉一点の雪に過ぎない。燃え盛る自宅の炎にも狼狽えず、家族や周囲の皆を勇気づけるその言葉に込められた思いの熱さを尊く仰ぎ見ながらも、今、私は、大伯父様と父、そして私を繋ぐお品を自身が迂闊にも失くしてしまった寂しさと自責の念に、打ちひしがれています。
「おうおう、そうかそうか。
それは、悲しむことも寂しがることもないのだよ。あの私の言霊は、火事はすべてを灰にするが、どんなに辛いことでも、それを良い縁起だと思えば、本当に良い縁起になることを言い表したものだ。」
どこからか、父の声によく似た、大伯父のゆったりとしたよく響く美しい低音の声が聞こえて来た。
子孫の一人が、突然、こんな風に大伯父を身近に感じ、思いを語っていることに、大伯父はきっと思っていることだろう。
「おお、誕生を見ることもなかった子孫が、私のことを身近に思い始めたようだ。ほうら、私の言葉通り、実にいい縁起になったじゃないか。過去の物など火事でもあればすべて燃え尽きる。大切なのは、人の心に思いを馳せることが出来る真心と、そのひと時の時間なのだよ。」と。
20代の頃から、いつか、私は一族の語り尽くせぬ個性あふれる活躍の記録を書き残したく思いながら、その仕事も半ば忘れてしまっていた。
今回の縁起を頂いたことで、書き残すことの大切さを改めて想起した。
屋敷の整理を始めてから、父母が残した沢山のカセットテープを前に、あの父の声がどこかに録音されていないかどうかを探している。
今は亡き伯父たちの声は父の声によく似ていたし、従兄の一人に、僅かにその声の面影は感じられるものの、オペラ歌手にもそのような声の持ち主が見当たらないほど、父のようによく響く低音の声を持つ人には他には出会ったことがない。
低く太く響く美しいバスボイスは、父方の祖父系の遺伝子に限られた美声だったのだろうと思う。
父もまた、大伯父と同様に、常に周囲の者にそこはかとない安心を与える言霊を大切にする人だった。残念なことに、手元のビデオには父の挨拶を残したものは見当たらず、他界後まもなく、郷里の役場の資料にあるはずだと、ダビングをお願いしてみたのだが、タイミング悪く、新庁舎への移転時に古い資料は廃棄されてしまった後だった。
生命と同じく、形あるものは、すべて壊れ自然に還る宿命にある。
永遠に存在し続けることが出来るものは無い。
それでも、ふと、時を超えて、魂は永遠に存在し続けるのではないだろうか?という想念が去来する時がある。
ケモブレイン以来、自身の脳の働きを客観的に把握している自分もいる。自分を客観視している自分とは、どういう脳の部分の働きなのか?
人間の精神とは?、そして、魂とは?、一体なんなんだろう?
大伯父の記念の燕尾服を失くした私に、大伯父が突然身近に感じられる存在として立ち現れたのは、自身の夢想の世界のことだ。
私たちが生きる地球も銀河系もやがて、宇宙の摂理に従って宙に還る時が来る。
想念
言霊
祈念
キーワードは、そのあたりにあるのかもしれない。
本日は、私の誕生日です。
誕生日が来る度に、この年まで生きれたことに感謝感激。
数年前に、一番親しかった父方の従兄がこともあろうか私の誕生日の朝、他界しましたので、彼のことを思い出す命日にもなったという不思議な偶然もあるのですが。
人生でご縁を頂くすべての方々に感謝の気持ちが溢れます。
人生で実際のご縁を頂かなくても、大伯父を思うように、想念でのご縁を頂くこともあることにも感謝しながら、縁起のいい新しい歳を迎えました。
父母の遺品を整理&処分している時に、もう23年も前に他界した父のスーツもそろそろ来世に旅立つ時と思って、自治体のリサイクルに出すことに決めた。
一枚一枚、確かめて出したのだが、あまりにも古いスーツは肌ざわりもごわごわして、その服に込められた由緒も思い起こすこともなく、礼節を表する気持ちで畳み直して袋に入れた。
1週間程経過した後、ある記憶がよみがえった。
もしかしたら・・・と、記憶の糸を辿ると、父のスーツの一番下にあった黒い見慣れない形の襟のスーツ。
しまった!
と、思ったのは後の祭。すでに、他の衣類と共にどこかに搬送されてしまった後だった。
それは、男の子がいなかった大伯父が、戦前、ゆくゆくは自分の跡継ぎにと一番目を掛けていた父に、大伯父が初めて国会議員として議事堂に登壇した時の記念に与えたものであったのだ。
伝承は思い出したが、そんな大切な物を父の服の一番下に入れてあったなんて。。。
後悔先に立たず!
・・・私は、取返しのつかないこの大きな失敗に愕然とした。
とは言え、大伯父は、既に、小学校の郷土史の教科書にも写真付きでその功績が掲載されているし、その筆跡や文や人柄を含めた功績の解説や写真も各地の資料館に保存されている。
保管続けても、更に古びてゆくだけでもある。
当時の代議士の気質や人格からは想像もつかないほど俗人ばかりになった現代の代議士のイメージしか持たない次世代の親族にとっては、平民議員として登壇した伯父の意気地と志を伝えることは物語にでもしない限り、無理であるし、古びて型崩れしごわついた衣服を新たに保管し続けてくれる次代はいない。
私自身も、実際に最後にその服を手にしていながら、大切な由緒を思い出すことなく、古汚く感じるばかりで手元に置く気にならない・と判断してしまったのだから。
という言い訳をして、自身の失敗の後悔を慰めながら、大伯父と父への償いの思いを込めて、その大伯父の記憶を、どこかに私的に書き残さなければと思った。
いつか、自身が生を受けた一族其々の個性あふれる人生の流れを物語に纏めたく思いながら、失念したまま時間が過ぎた。
祖先は、時代を遡れば、紀氏という家系に行き着く。
総本家に伺った時に、都に上がった紀貫之の傍系として今日まで続いて来た家系図とそのエピソードが要約された古い文献を拝見させて頂いたことがあった。
江戸時代までは、都の中心部近くに広大な荘園を有する屈指の庄屋だった記録と史跡が残っている。
江戸末期に干ばつが続き大飢饉が発生し、祖先の領地の田園でも収穫が激減し、1年間の百姓さんたちの食糧にも事欠く有様になった。
大伯父の祖父は、大名にもお金を貸していた大庄屋で、当時30代。先進気鋭の志を持った剛腹な人情家であったと伝え聞く。
それまでも、徳川の権威主義による封建社会の矛盾の改革を求め、百姓の自立性を高め荘園に今の株式会社的な運営方式を取り入れる運動を行っていた記録もある。干ばつでの飢饉と、隣地の荘園間での戦さの勃発など、当時の惨状は、現在のウとロの戦火に彷彿されるような状況だったようだ。この民に降りかかった百姓さんたちの惨状を見るに見かねた彼は、郡山藩の藩主に、1年間の年貢の免除と戦の平定を直訴した。
当時のしきたりとして、庄屋が百姓の年貢の免除を願い出るなら、その責任を取り庄屋を辞し打ち首となるという罰則ががあったと聞く。
彼は、思案の末に、自らの決意を家族に告げ、自らの命と引き換えに、民への年貢の免除と、城主が隣地の荘園同士の戦を治め民と領地をを守る約束を藩主に願い出、承諾された。
藩主は、荘園間の土地や水の侵略戦を平定させ、民は1年間の年貢を免除され、先祖の広大な荘園の民には安寧な暮らしが戻った。
しかし、本人は打ち首を命じられ、潔く首を差し出した・と親族には伝承されているが、記録には無いので実際どうなったのかは、真偽不明のままである。只、妻と長男など家族が所払いになったことだけが記録に残っている。
長男は商人になり、私が生まれた郷里に商いに来ていた時に、その地の豪族に見込まれ、その豪族の長女と縁組し、醬油の醸造を業としてこの地で家を再興した。
そこで誕生したのが、私の祖父の兄弟だった。長男は家業を継いだ。次男が父を跡継ぎにと望んでいたという大伯父で、3男の祖父は大伯父の片腕でもある一方で、独自で幾つかの事業を営んだ。
大伯父は、先代からの気質を最もよく受け継いだ剛腹な人情家だったと記録されている。
青年時代から頭角を現し、当時は鉄道も通っていない田舎町で、「地方の発展は交通網の整備にあり、産業の育成にあり」と言う志を掲げ、電力発電会社を始めとして、私の祖父と共に、土木会社や運送会社他各種事業を興し、30代で、鉄道の敷設申請を政府に承認させ、難路を切り開き鉄道を敷くに至った大実業家となった。
郷里に鉄道を敷くことは、交通不便な当時の郷里の人々の最大の夢と希望であった。先に、後に世界的に有名になった山林王がその事業を手掛けようとしたがその計画が頓挫し失意のどん底にあった事業であったにも関わらずの成功には、おそらく、先達の豪族たちの人脈を得た大伯父が、庶民的な人柄と情熱で更に広く人望を集めたことが大きく貢献したのだろうと思われる。
但、山河の多い地域での工事は殊の外難工事となった。近年、近代建築としてモニュメントのようになった陸橋の美しさもさることながら、トンネルの多い土地柄、この工事は、人命の危機にも瀕する難工事だったと現場を仕切っていた祖父の数々の苦難を祖母から伝え聞いている。
予想以上の難工事に建設費用が嵩み、最終的に、この鉄道会社の出資者であった他の役員が、出資をストップしたことで、工事人に給与が支払われなくなるという事態が勃発した。郷里の民の悲願であったこの工事を中断することは出来なかった。大伯父はこの工事を自腹で完成させたが、流石に大伯父の資金も尽き、発起時に投資した分の株式を郷里の銀行に売却し自身は役職を辞して支払ったが、それでも間に合わず、開通時には、会社から工事人たちへのの支払いが完全に滞った。
賃金の支払いがされなかったことから、工事人たちが、開通式の時に鉄道の上に寝そべるストライキを行うに至った。伯父は、鉄道を見下ろす自宅で始発電車が通過するのを待っていたようだったが、定時になっても電車は走らなかった。そこに、郡長から、ストライキの知らせが届いた。伯父は、駿馬を郷里の銀行に走らせた。家屋敷を抵当に入れ、かなりの借金をして、工事人たちに賃金を自腹で支払い、ストライキを辞めるように言い聞かせ、無事、この鉄道は開通を迎えることになった。
その後の大伯父は、今でいう鬱が入って、別荘に半年余り隠遁していた・と、当時の大伯父の世話をしていた女中さんから、直接伝え聞いたことがあった。お膳を部屋の前まで運び、下げる時に、ああ、今日は箸をつけて下さったとか、今日は何も召し上がらなかったとか、随分心配をして下さったようだった。
そんなある日のこと、銀行の頭取が、伯父を訪ねて来た。
「君は、こんな田舎に居るような人間ではない。都市部に出てはどうか?これからの君の活躍の舞台は日本。そして全世界だ。」と提案したらしい。
この励ましに新たな方向性を見出した大伯父は、都市部への進出を決意。当時同様に都市部で鉄道会社を発起していた企業家たちと共に、数々の事業を成し遂げ、都市部の主要ホテルの経営なども含め多くの事業に携わった。
そうした中で、大伯父は、時の首相や重鎮から推薦や招聘を頂き平民代議士となり、国家の発展の為に国議に参画することになった。
ところが、時代はww2前の政界の大混乱期。
米国の実業家たちとも交友のあった大伯父は、勝ち目のない戦争に断固として反対した。
その数週間後に、弟であった私の祖父の県議会議員選挙で選挙違反に加担したという罪を捏造され、国会から追放される憂き目に遭ったのだ。
親族の多くは、当時戦争に反対する者は国賊と見なされていた社会的体裁を気にして、その時の事情はひた隠しにし続けていたので、その気持ち悪さの原因を究明したくなって、国会図書館の資料を調べてみたら、同時期に、戦争に反対した代議士が30名程、様々な理由で辞職を余儀なくされていたことが分かった。
当時は気骨のある代議士が多かった。
大伯父の性格を推測するにおいても、相手がどのような権力者であろうが軍を指揮する暴力の権化であろうが、たとえ闇討ちを仕掛けて来そうな相手であろうが誰であろうが、今流行りの「忖度」をしたり「権威に盲従」するような軟弱者では決してなかった。
時の戦争推進者たちから見れば、何が何でも因縁をつけて議会から追放したい存在と見なされたのは想像に難くない。
祖父はその後も県議や町長として勤めていたから、大伯父が着せられた濡れ衣は、戦争に反対した大伯父への大政翼賛会あたりからのあからさまなパワハラがあったのだろう・
と、数年前に、従兄に話したら、その話は口外しないようにと言われた程、当時の言論の自由に対する抑圧は、未だに日本人一般に巨大なPTSDとして残存していることを、私は実感することになった。
大伯父から見て一番年上の甥であった伯父は長年郷里の町長を務めていたが、町長室の伯父の机の引き出しに常に日本刀が入っていたことを当時の職員さんが記憶している。政治家たるもの、万が一の事態が発生した時は、自らが命を張って民を守るという規範の証であったと言う。
中央・地方を問わず、いざという時は身を呈しても民を守るという抜きんでたノブリスオブリージュ・武士道を有した当時の政治家の自覚は、現代の政治家や常人にはうかがい知れないレベルであったことの象徴のようだ。
かつて、よど号のハイジャック事件で、人質の解放の身代わりに名乗り出た代議士がおられたことが、これを証明している事案だとも言える。
さて、都市部に出た後の大伯父はその後高級住宅街となっている見晴らしの良い閑静な地に郷里の実家に似た別荘屋敷を構え、数百人の従業員を抱える会社の他にも様々な事業を展開した。満州にも進出し、病院や学校を建設し運営するなど現地でも多くの功績を残している。中国で建設した病院と学校は、時代を経た今も使われていて、当地で育った親戚が訪ねると、さながら第二の故郷に帰ったように、今も当時の恩義を重んじる現地の人々から盛大な歓迎を受けている。
とはいうものの、当時の時代の潮流は過酷さを増してゆく。
当時の平均寿命を越えて歳を重ねた祖父の世代には、戦争という人類の大脳の弱さが引き起こす最大の罪業のストレスが、健康面でも影響を及ぼしたようだ。
祖父は病に倒れる少し前に、たまりかねたように、祖母に「何故、戦場にこれほど多くの若者たちを送り出させるのか!私にはもう誰ひとり送り出す手伝いなどできない!!」と、心中の怒りと苦悩を吐露していたと聞く。
そのストレスに耐えかねたように、兵士を送り出す式典で祖父は脳梗塞に倒れ、敗戦へと続く惨事を人一倍苦悩していた伯父も、やがて、同様に脳梗塞に倒れ、晩年は、大伯父も郷里で療養するとが多くなり、祖父と囲碁を打つことが多かったと聞く。
どちらも囲碁の腕はかなりの達人で、碁盤の展開から相手の性格や人格やその時の心情を見抜き合うコミニケーションツールともなっていたらしい。
私は、大伯父の他界後に生まれたので、この世では会う機会はなかったが、大伯父や祖父に世話になったと言う郷里のご高齢の方々から、大伯父や祖父の人情あふれる剛腹なお人柄を伝え聞く光栄に恵まれる幸いを得ることが多くあった。
そして、大伯父が見込んだという父・の子として生まれた私は、我が父にその人格と気質を垣間見ることも多かったように思う。
大伯父や祖父とは、この世で直接会えなかった分、郷土史の中で仰ぎ見るばかりのちょっと煙たいようなくすぐったい感じのする肉親でもあり続けたのだけど、大伯父と祖父の気質は、父を介して、私のどこかにも息づいているのかもしれない。
~この世で会ったことのなかった大伯父さまへ~
父に下さったモーニングスーツは、こちらではあまりにも古くなってしまったので、迂闊にも、わたくしの落ち度で今回、失くしてしまいました。一番末っ子の末っ子に生まれた私は、大伯父様と祖父にも私は、この世でお目に掛かる機会がなくて、こんなに身近に感じたことはありませんでしたが、大伯父様の愛娘の伯母様とは何度かお話する機会を頂き、人生を生きるにおいての大切な心得をしかと諭して頂く幸福にも恵まれました。
史実には、大伯父様は、剛腹な人情家と記されておりましたが、史実以上に優れて人間味豊かなお方で、皆への心配りが豊かで、思い遣り深く責任感強く、優しい繊細なお心も併せ持ったお方であったエピソードもお聞きする光栄に恵まれました。
もう、伯母様も他界されて長くなりましたから、そちらの世界は賑やかになっていることと思います。私は、もう少しこちらで、居る時間が続きそうです。
心ならずも、大伯父様の服を失くしたことには、寂しい気持ちと自責の念を感じてなりません。
今まで、大伯父様の形見のスーツの存在は伝え聞いていましたが、私は、このように、大伯父様の御霊に直接語りかけることもなく、肉親として想起したこともありませんでした。
大伯父様は、若い頃、屋敷が火事で全焼してしまって、着の身着のまま本当に無一文になった時、「朝火事は縁起がいい!」
と、明るく言い放った・と言う伝承が史書に残っています。
無一物無尽蔵・という言葉よりも、明るく分かりやすく周囲を慰められた明言です。火事も、紅炉一点の雪に過ぎない。燃え盛る自宅の炎にも狼狽えず、家族や周囲の皆を勇気づけるその言葉に込められた思いの熱さを尊く仰ぎ見ながらも、今、私は、大伯父様と父、そして私を繋ぐお品を自身が迂闊にも失くしてしまった寂しさと自責の念に、打ちひしがれています。
「おうおう、そうかそうか。
それは、悲しむことも寂しがることもないのだよ。あの私の言霊は、火事はすべてを灰にするが、どんなに辛いことでも、それを良い縁起だと思えば、本当に良い縁起になることを言い表したものだ。」
どこからか、父の声によく似た、大伯父のゆったりとしたよく響く美しい低音の声が聞こえて来た。
子孫の一人が、突然、こんな風に大伯父を身近に感じ、思いを語っていることに、大伯父はきっと思っていることだろう。
「おお、誕生を見ることもなかった子孫が、私のことを身近に思い始めたようだ。ほうら、私の言葉通り、実にいい縁起になったじゃないか。過去の物など火事でもあればすべて燃え尽きる。大切なのは、人の心に思いを馳せることが出来る真心と、そのひと時の時間なのだよ。」と。
20代の頃から、いつか、私は一族の語り尽くせぬ個性あふれる活躍の記録を書き残したく思いながら、その仕事も半ば忘れてしまっていた。
今回の縁起を頂いたことで、書き残すことの大切さを改めて想起した。
屋敷の整理を始めてから、父母が残した沢山のカセットテープを前に、あの父の声がどこかに録音されていないかどうかを探している。
今は亡き伯父たちの声は父の声によく似ていたし、従兄の一人に、僅かにその声の面影は感じられるものの、オペラ歌手にもそのような声の持ち主が見当たらないほど、父のようによく響く低音の声を持つ人には他には出会ったことがない。
低く太く響く美しいバスボイスは、父方の祖父系の遺伝子に限られた美声だったのだろうと思う。
父もまた、大伯父と同様に、常に周囲の者にそこはかとない安心を与える言霊を大切にする人だった。残念なことに、手元のビデオには父の挨拶を残したものは見当たらず、他界後まもなく、郷里の役場の資料にあるはずだと、ダビングをお願いしてみたのだが、タイミング悪く、新庁舎への移転時に古い資料は廃棄されてしまった後だった。
生命と同じく、形あるものは、すべて壊れ自然に還る宿命にある。
永遠に存在し続けることが出来るものは無い。
それでも、ふと、時を超えて、魂は永遠に存在し続けるのではないだろうか?という想念が去来する時がある。
ケモブレイン以来、自身の脳の働きを客観的に把握している自分もいる。自分を客観視している自分とは、どういう脳の部分の働きなのか?
人間の精神とは?、そして、魂とは?、一体なんなんだろう?
大伯父の記念の燕尾服を失くした私に、大伯父が突然身近に感じられる存在として立ち現れたのは、自身の夢想の世界のことだ。
私たちが生きる地球も銀河系もやがて、宇宙の摂理に従って宙に還る時が来る。
想念
言霊
祈念
キーワードは、そのあたりにあるのかもしれない。
本日は、私の誕生日です。
誕生日が来る度に、この年まで生きれたことに感謝感激。
数年前に、一番親しかった父方の従兄がこともあろうか私の誕生日の朝、他界しましたので、彼のことを思い出す命日にもなったという不思議な偶然もあるのですが。
人生でご縁を頂くすべての方々に感謝の気持ちが溢れます。
人生で実際のご縁を頂かなくても、大伯父を思うように、想念でのご縁を頂くこともあることにも感謝しながら、縁起のいい新しい歳を迎えました。