endometrioid carcinomaから

-9years after- 卵巣ガン&人生のサバイバル

シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護の本音語りです。

この寂しさは

 裏庭に出ると一足先に春の花たちが咲き誇っていた。

 毎年、裏の山に続く広い裏庭で私が育てた花たちの目覚めを一番に見つけるのは母だった。
枯草の中から見つけた西洋水仙の蕾を一輪差しに、美しく生ける。

 白洲正子さんの花のような、さりげない花なのだけど、その美しさの感動は、私にいつも新鮮な驚きを与えてくれた。

 私は華道の修練を受けた華道家なのだけど、母の生ける花たちは、茶道で言う「花は野にあるように」、さりげなくありながら、凛とした品格高い美しさを誇っていた。何故、彼女があれほどの生け花ができたのかは分からない。
人に教える立場の私自身の目からも、母の生け花は非の打ちようのない美であった。

 美意識の次元で、母を越える人と、私はこの世で出会うことができるのだろうか?
 彼女の崇高な美意識に匹敵する美意識を持つ人が、一体この世にいるのだろうか?

 現代が失ってしまった人間として最上級の感性を持ち続けた人だったのだと思う。


 自分が育てた花たちを愛でてくれる人がいないこと程寂しいことはない。
母は沢山の花の中から、自分の好きな花を選んで実に無造作に、とっても美しく花瓶に生けていた。
ターシャチューダさんにも似ていたように思う。
但し、花たちを育てるのは私だったのだけど。

 私の庭造りは私自身が始めたことで、田舎暮らしならではの素晴らしい楽しみ・であるのだけど、腕一杯の花を抱えて私宅に帰ると、いつも、
「わあ、きれい!」
と、喜んでくれた母がいないことで張り合いを失くしてしまった。
 私の作った花を摘み、実りを喜んで収穫してくれる人がいないことが、これ程寂しいなんて、思いも寄らなかった。

 あらゆる意味で彼女はクィーンだったのだと思う。

 生命は永遠だと私に信じさせてくれたクィーンであったことは、今も間違いない。

https://www.youtube.com/watch?v=MZl07cIZJLI
 


春の階

 梅の香りが漂い始めた。
思いのままという名前の梅が今年も花をつけた。
100年をこえる老木であるからか、今年は花付きが少し少なくなってきている。
この梅は白と桃色が入り混じった様々な花をつけるのだけど、
案の定、今年は白色の花が多い。
 父が他界して暫くの間も白い花をつけていた記憶をたどると、何かしら、庭の植物たちも感じるものがあって、屋敷の主亡きことを思い量っているような気がする。

 寒波が緩むと土の匂いが香り立つ。
春の到来を告げるこの香りに誘われて裏庭に出ると、もう西洋水仙の花が咲き始めていた。

 春の花たちには、今まで開花する順序が決まっていたのだけど、近年は番狂わせに花が咲く。
本来は、日本水仙が咲き終わる頃に、白い鈴のような花をつける水仙が咲いて、その次に、今花開き始めた大輪の水仙やヒヤシンス、そしてチューリップが順々に咲いてゆくはずだったのだけど。

 この10年、自然界の移ろいも目に見えて変化しているように、今、私の住む町も目に見えて人口減少が進んでしまった。

 これからの人生を模索する時期に入った私は、過日、都市部の友達に誘われるまま彼女の住まいを訪ねることにした。ら、自身の住まいの静寂に慣れた私は、ごくお隣に家が存在すること、道を歩く人の声が聞こえる違和感にとても驚いてしまった。

 半日程友達の家にいると、何だか別世界に居るような気がすることに気が付いた。
余りにも長く閑静な環境に居たからだろうか?


 ふと、自分は、大学時代から、都市部の過密を感じる居住空間には不適応性を持っていたことを思い出した。 
郊外の田舎町と都心を行き来していた時代は、柔軟に自身と他人との物理的な距離感覚を広げたり狭めたりしていたのだけど、それが出来るようになるまでには相当の時間が掛かったことを思い出した。

 最もの驚きは、生まれて初めて、メトロの満員電車に乗った時だった。
私は懐かしい友達たちに会うとハグしたり握手する習慣も持っているのだけど、不如意に他人と体を接触させることは初めてだった。
 ある日の朝、とあるホテルから職場に向かう時、タイミング悪く、有名?な東京メトロの満員電車なるものに乗ることになって、突然、他人との体の接触を余儀なくされるという叫びたくなる程の違和感に10分間耐えたその日は、物凄い気持ち悪さが終日残ってしまって、以来、どうしても満員電車に乗れなくなかってタクシーを使うしかなくなったことも思い出した。

 雑草は、より強靭な植物たちのいない空間を選んで生息すると言う。
あの過密空間で生きることに慣れた強靭な人間たちに馴染んで一緒に生活する能力を、私はもともと持っていない雑草のような存在なのだと思う。
 都市部の暮らしに慣れ親しんだ時期でも、時折、無性に人間界を離れた大自然に満ち満ちた原生林の奥山やラグーンの海に帰りたいという衝動が、私を山や海へと逃避させた。

 今回は友達がしきりに都市部への転居を薦めてくれるので、それを考慮する為の訪問だったのだけど、もし都心のマンションに居を定めても、余程他に魅力を感じることがなければ、私は多分落ち着かないだろうってことに気が付いた。都市部から田舎に転居された多くの人々がやがて都市部に再転居されるように。
 以前、マンションで暮らしていた時は、まるで病院の個室にいるかのような利便性が際立って感じられたのだけど、もはや、そこに住まう利便性よりも自由な空間の豊かさを求める価値観が大きくなっているようだ。

 どちらの暮らしの良さも知ってしまった私には、どちらかを選ぶことができなくなってるのかもしれない。
私が最も快適に感じるのは、程よい郊外の田舎暮らしと利便性に優れた都市部の暮らしの二重生活だった。
自然の中の田舎の暮らしも、利便性に優れた都市部の暮らしもどちらも魅力的だ。

 では、都市部に住んで、今の私宅を売却して、昨今流行りの会員制リゾートの権利を購入するのはどうか?と聞かれた。
貧乏性の私は、私宅の売却益を当てにするほど金満思想に落ちぶれてないし、会員制リゾートのビジネススタイルを利用する程、未だ、自身のビジネスセンスが衰退していない。
 会員制リゾートの面白くない所は、自分のしたい旅に合わせた宿泊施設の選択の自由が無いこと。グループ宿泊施設へのお客様の囲い込みスタイルが私には気に入らない。
ネット予約が格安になる昨今、そこに会費を消費する分を、普通の滞在型旅行に当てればよりゴージャスな滞在が可能になる。お膳立てされた旅行は私には合わない。

 
 本来は、現在住まいしている町のような程々の田舎町が、40年前のままの利便性を有していたら、そこを永住の地と定めてもいいと思うかもしれない。もし独りで生涯を送るとしたら、空間的に余裕のある田舎町に住まいして、時に応じてホテルの滞在プランを活用できるような暮らしが好ましい。

 但し、現在のまま推移すれば、郊外の田舎町は益々、医療介護の過疎も進むだろう。
もしもあと30年程人並に寿命があったとしたら、このままでは私自身がウオーキングデッドになりそうだという危機感が強い。
 単身世帯数は、26.5%を越えて増加の一途を辿っている。
 
 病に伏して10年が過ぎようとしている。
 時代は確実に変化した。
昨今のカタカナ・ウヨクの増殖も、利権や経済的利潤の追求目的以外に、変化してゆく時代の加速度に対応できないが故の悲鳴の一つとも感じられる。

 我が国の最もの懸案である2025年問題も、いつの間にかマスコミ操作で国民の意識からかき消されてしまったような昨今。
 地方都市に復興の機運が訪れることは無さそうだけど、自分の欲しいものがこの世になければ、自分で創ればいいじゃない?と思う私の性分が少しづつ復活してきた。
 新しい町創りも、最低限、飼い犬がここで生きてくれている間は、自身の暮らしを守る為にも避けては通れない現実課題として十二分の至近距離に迫って来ている。
 
 今年の始動は、4月からと思っていたのだけど、周囲が先に動き始めてしまって、未だ3月というのに何かと所用が入って来る。
 
 懸案の10年目の検査結果を聞きにゆく前に、確定申告を済ませなければならないのだけど。
試験勉強の時期になると、他のことがしたくなったように、今の私はこの申告書類の整理から逃れる為にこのブログを書いています。

畳の縁を踏む?あるニュースの裏側

 あるニュースに目が留まった。
現首相を巻き込んだ、とある小学校に纏わる事件だ。

 普通なら、日々のニュースは素通りするのだけど、カタカナ・ウヨクの増殖が目に余る昨今、本来の日本文化を愛する私としては、この学校の教育方針なるものが、ほんとうに本来の日本文化に準じたものであるのかどうか?を一応確認するべく義務感を持った。

 で、ユーチューブを見ると、ほんの30秒で、ありえない光景を目にした。
このショックはとても強くて言葉を失くしてしまった。
 五箇条の御誓文を読み上げたり、教育勅語を読み上げたり・・・、ここまでなら、週刊誌レベルであるので、私のブログでわざわざ言及する必要もないと思う。
白人至上主義のグループも存在するアメリカの多様性を見れば、アメリカナイズドした日本にも様々な思想や価値観が認められて来ることも想定内だ。(但し集合的無意識が形成される最中の幼児に偏った教育を行うことはよろしくないが。)

 ありえない!と思ったのは、他でもない、これは、あまりにも付け焼刃のカタカナ・ウヨク過ぎる教育?であって、本来の日本を愛するという言葉に相応しくい正統な教育ではないという事があまりにもあからさまだったからだ。
 
https://www.youtube.com/watch?v=VmWY7Aa7cW8

 この幼稚園の動画の30秒くらいからの時点。幼稚園児の後方に映っている教諭か学校関係者らしい男性の足の運びに、ご注視頂きたい。

 なんともはや、よりにもよって、畳の縁を踏んで歩くのみならず、堂々と畳の縁の上に立って、女性教諭らしき人と雑談をしている。これって、真面目に日本文化の伝承を願う私にとっては、あまりにも見るにも絶えない醜悪な画像としか言えない。

 日本ではごく普通のご家庭でも、畳の縁を踏んではいけないことくらいは、家庭内の教育で教えることなんだけど。。。特に清貧な家庭であればある程、文化的観点を越えて、縁が擦り切れるのは困るという実用的観点からも当然教えられることなのだけど。

 近年では外国人観光客でも日本の畳の文化を知っていると言うのに、この男性は、畳の文化もしらないのか?一体何者なのだろうか?
と思って詳細に見ていると、他の教諭もペタペタと畳の縁を踏んで歩いているではないか?!
 
 一体なんなんだ、この狂気的な幼稚園は????

 畳の縁は踏んではいけないという日本の文化教育も受けていない、自ら自制する素養も持たない大人が、日本を愛する教育など到底できるはずがない!
のは言うまでも無い事。

 目立ったパーフォーマンスに翻弄されて利用されている幼児園児たちがあまりにも可哀そうだ。
この幼稚園児の御父兄は、何故、この矛盾に気が付かれないのであろうか?気が付かないからこそ、パーフォーマンスでカモフラージュされた偏向教育に愛児を託そうとするのだろうか?

 誰から見ても、人が身に付けている日本文化の水準が最も明らかに分かるのは、「玄関での靴の脱ぎ方」と「畳の部屋の歩き方」だ。
 こんな初歩的なことすら出来ない人間に、日本を愛する心など教育する資格などないことも言わずもがな。
グローバル化が進んでゆく国境なき時代への歴史の揺り返しとしても、このような明治嗜好者が演出する時代劇の阿呆な茶番を演じることを右翼とか極右と見ること自体も異常だ。

 余りにも間抜けがヒド過ぎて、これ以上、語るのも阿呆らしくなってしまった。

 
 こんな紛い物が横行する社会で、ストレスレスに生きれる能力は、やはり鈍感力しかないのだと改めて思う。



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