endometrioid carcinomaから

-9years after- 卵巣ガン&人生のサバイバル

シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護の本音語りです。

闘病&介護からの復興~暮らしの再生へ

 雨が来て、気温が下がった。
今年初めて暖房を付けた。
 過日、人間の文明が生み出した環境破壊が、遂に地球環境を破壊させ、氷河期が到来するというテレビ放映のちょっと前の映画を見た。
 異常気象は年毎に進行しているようで、各地に大きな災害が発生している。
地震・台風・津波等々、様々な災害で暮しを失った方々が暮らしを復興し、新しく生き抜いて行く難儀はいかばかりかと心に痛く実感される今日この頃でもある。

 「仕事は再開しないのですか?」
と尋ねられることが多い最近なのだけど、
 「仕事なんてしてる暇はありません。」
とついつい本音で即答してしまう。

 介護は、看取りとグリーフだけで終わるものではなかった。
私のように、在宅介護の過疎地で、自身の闘病&療養生活から病老介護になだれ込んでしまうと、自身の体調のリハビリや故人の遺品の整理は勿論、古家再生のような生活空間の再建のお仕事が目の前に山積みになる。 
 自身の闘病に引き続いた介護生活の間に荒廃した暮らしの復興作業をしていると、災害被災地の方々が自宅と日常の暮らしの復興にどれほど多大な苦労をされているかがしみじみと思い遣られた。

 
 この10年の難儀から、少しずつ我に返るに従って、様々な現実が見えて来た。
はたと気が付き、眼鏡を掛けて周囲を見まわすと、母のヘルパーにまかせていた、母の生活スペースであった我が家の一階の7割が大変な荒廃状態に陥っていた。
 私自身、長らく一階に降りることを無意識的に苦痛に感じていた一因が、母のヘルパーの職務スペースでは、母が寝起きするには充分にしても、荒れるがまま放置されている部分が余りにも多く発生していた。・・・これって荒廃してゆく日本社会のこれからの惨状の縮図を見ている気分になるからだわって思うくらいに。

 私の屋敷は、私が30代に、自身の貯蓄と結婚と余裕ある暮らしの夢を引き換えに4200万円もの兄の債務を肩代わりして支払い買い取ったものであって、ガンに罹患するまで、まさしく命掛けで守ってきた大切な私自身の城だった。
 一階に降りたくなかったのは、ガンに罹患し、頭脳の働きが弱り衰えたことで、母のサポートの采配も行き届かず、自身の屋敷の掃除の采配さえできず、家族と屋敷が荒れ果てて行く様子を見守るしかない自身の不甲斐なさと所帯の切り盛りで精いっぱいの体力と気力の衰退の上から、公的介護という名の下に、社会が、私が弱ったが最後、それまで命がけで築き上げて来た私自身の人格は勿論、私の家族や人生や暮らしそのものに冒涜を振るってくるかのような介護関係者のふるまいに、強い社会的恐怖を感じ続けていたからでもあった。

 最初からこのブログを読んで下さっている方々には、耳にタコができるお話になってしまうけど、今は少しは改善されたのかもしれないにしても、10年前の私の住む町の介護関連の世界は、一般社会常識とは大きくかけ離れた想像を絶する世界だった。

 ガンに罹患し、職業の多くを休眠させ、闘病と療養期にあった私に、生計所帯主であり、屋敷の所有者であり、数々の事業主であり、各種学問や日本文化の師として活躍してきた私に、私自身の人格を認める介護関係者はごく僅かしかいなかった。
 そこでは、それまでの私の地域社会への寄付や貢献も、家庭内での役割すら全く顧みられることもなく、実名で呼ばれることすら無く、只「娘さん」と呼称され続けた屈辱は生涯決して忘れることはないだろう。介護職が、休職中とは言え医療職にある私の母の病状についての判断を蔑ろにするなど、私はサルの惑星に落ちた人間になったと諦めの境地に至るに十分過ぎる異常なハラスメントの世界であった。

 ガン患者に対しても、ガン患者が抱える要介護者に対しても、社会的救済システムが機能していないこの国のこの地域は、行政運営のシステム自体が根本的に間違っているのではないかとさえ思えた。

 正直言って、ガンに罹患したサバイバーとしての忍耐もさることながら、それ以上に介護家族・要介護者の「娘」としての蔑みと差別に対する忍耐は大きかった。

 更に、受難は、精神面だけではなかったことに気が付いたのは、母の49日の法事の時だった。
 親戚が来訪する用意に、突貫作業であらかたの掃除はしたのだけど、ふと屋敷内を見ると、母の寝室にしていた仏間座敷の天井の杉板にはもう30年程前から変わらない薄い雨漏りの痕跡があったのだけど、そこにカビが生えくっきりはっきりとした黒いシミが全面に浮き上がって来ていた。
聚楽の壁に下塗りの暗褐色の色合いが浮き出て味わい深い「シボ」の風情になってきていた部分には、よりによってダルメシアン柄のような黒カビまでもがぷっくりと繁茂してきていたのだ。
古い埃やゴミが目線より上の部分の様々な所に溜まっていた。

 我が家は築60年とは言え、当時材木屋であり木造建築も手掛けていた父が設計施工した本格的な木造住宅である。
更に私の代に入っても、改築は水回りだけにして、家の窓の多くをサッシ窓に変えることなく木の隅丸窓を維持してきた。サッシ窓の場合は、毎日換気をしなければ室内の空気の循環が保てず、カビが生えたり不衛生な生活環境になりがちである。なので、サッシを入れた部屋は私が気が付く度に青天の日に窓を開けていて、バスルームもカビキラーは半年に一度で十分。改築後17年経った今でも、友達が来ると「改築したばかり?」と聞かれるくらい美しく暮らしている。
 一方で、木枠の隅丸の窓の部屋は、暑い季節や寒い季節に窓を開けたり換気扇を回したりしなくても、湿度に応じて木材が呼吸をし、膨張と収縮をすることで自然の換気が行き、湿度が一定に保たれるという特別な利点が備わっている。更に、念の為に母の寝室にしていた部屋の縁側には換気扇を二つも完備していた。
なので、普通に一応の掃除をして生活していれば決して室内にカビは生えないし、そこまでの荒廃はあり得ない。
 母の居住スペースは、家の構造の特性上、掃除と時折窓の開閉か換気をしていれば、余程のことがないとカビが生えるなどと言う惨状は発生しないはずだった。

 一体、我が家に何が起きたのか?
目を疑う惨状に呆然と立ちすくんだ。

 思えば、父が生きていた頃は、未だ私は一日8時間くらいしか働いていなかったことで、病弱であった母の代わりに家事をしていたほど暮しの時間に余裕があった。
ところが、父が病気に倒れて経済難に遭ったことで、一日16時間労働がごく当たり前になった私は、家事に時間を費やす時間が少なくなったことで、野良仕事と力の要る家事以外は母に任せていた。
 その母が自転車に轢かれて家事が十分に出来なくなって、既に15年以上が経過していた。
母に掃除が出来なくなって以来15年間、母のヘルパーの職務となっていた住まいの掃除の手抜きが、今、レストアと言っていい程多大な重労力が掛かる一大仕事として、再起を期する私の目の前に立ちはだかっていた。

 厚労省の担当官が、「普段から普通に掃除をしていると、大掃除は必要にはなりませんね」と言ってた以上に、構造から考えても、こういう家は一般の住宅程荒れ果てる可能性は低い。
 過日、「介護被害者の会」という会の存在を知ったのだけど、現代の公的介護保険の運営方法は、日々物心共に多くの被害者を生み出しているに違いないと確信できた。
 

 という経緯で、私は、初夏から、本格的に家の掃除を手掛け始めた。しかし、この掃除は普通の掃除と違って、DIYに近い重労働だった。両手両肘に関節炎が発症するし、足関節にも炎症を発症し、主治医からドクターストップを掛けられた。先に病後の体力と筋力のリハビリが必要だと何度も指導され、そこをどうにか・・・と頑張った結果、リウマチか筋繊維性疼痛を疑われる激痛が発症し鎮痛剤と筋肉の弛緩薬で誤魔化しながら、やっとのことで来客ブースだけは、母の一周忌を目途に、70%程復旧清掃作業を進めることができた。
 無理を敢行した私は、遂に主治医に見放されそうになって、来月から真面目にスポーツクラブに通ってリハビリトレーニングを約束することになったのだけど、それまでに炎症が治るかどうか・・・
 無理は禁物なのだけど、タイプC性格が再燃してしまった。

 在宅介護は、健康で心身共に余裕がある家族がイニシアティブをとれる状態でなければ家屋まで物理的に荒廃するってことだったのだと思う。
 
 根本的問題は、行政担当者を含め、介護に直接関係するケアマネやヘルパーが生命の健康と暮らしを維持する職務である以上、大卒或いは、6年間の専門教育とまでゆかなくても、最低限、医療科、福祉科、家政科を学習する為の専門単位として2~3年間の教育を必要不可欠とするか、それらの基礎教養を持つものとすべき所が、その教育が軽んじられたまま放置されている事だ。
 せめてもの改善策と思われるヘルパーの「指名制度」も、未だ実現されていない。

 そんな所感をつらつらと新たに感じながら、全く専門外の仕事に明け暮れること半年が過ぎて、やっと一階の一部を従前の状態に近く復旧することが出来た。

 私室の小さなテレビではなくって、一階に設置した母の32インチのテレビを10年ぶりに見る余裕も出来たし、何と言っても、窓ふきが行き届いて(決して窓磨きではない)庭を見渡せる広々とした全面ガラスの窓から差し込む朝の光は最高だ。
(因みに、以前も窓ガラスの破損事故があったのだけど、ヘルパーの所業としか考えられないカーテンで隠れたガラスの端っこの一部が3か所もひび割れていたのだけど、何の報告も無かったのコンプライエンスは一体どういうことなのだろうと遺憾に思う。在宅で自ヘルパーを入れる介護というのは、余程信頼できる業者だけに限定するか、直接雇用方式が適用されない限り、公的介護保険対価にブラスして隠ぺいされたミスの代償費用も掛かる覚悟が必要だ。)

 半年間、一日2~3時間平均の労働力を掛けて復旧した東南側半分の自宅の佇まいの素晴らしさに、ガン罹患後、初めて本当の我が家に帰った安堵感が込み上げて来た。
 今となっては、父母がいないのは残念だし、とんでもない肉体的な無理をしてしまったのは失敗だったのだけど、その喪失と疼痛を引き算しても、従前のように掃除された本来の我が家の佇まいの快適さの感動は大きかった。

 思えば、ガンの入院からの退院時に、私はどこに帰るか戸惑った。
病室には、元フィアンセから、荷物の着払いの宅急便の送り状が同封されたお見舞いが届いていた。
彼は医師であったし心遣いの行き届いた優しい人だったので、自身の闘病を考えると、甘えさせて頂く方がいいようにも思えたのだけど、その気持ちを凌駕するほど、私は故郷に帰りたいと思った。
 故郷は、私が愛する地であり、そこに私は医療福祉の桃源郷を造ることを夢見る程、歴史的な重みを持った蘇りの地として相応しい地域であるという理由が私を郷里に還らせる最大の動機だった。こと心身の平安を考える場合に、その地域が有する精神的な意味は大きいのだと思う。
故郷に帰れば蘇ることができる。必ず生き延びることができる。と、私は信じた。
 しかし、帰り着いた故郷は、かつて私が描いた夢とはかけ離れた在宅介護の過疎地と呼ばれるまでに荒んだ田舎町だった。
それだけなら未だしも、母が倒れ、私が倒れた後の、余りにも痛々しく荒廃した我が家の姿は、母の長い看取りの悲しみを更に深くし、長らく私の心を曇らせ続けた。

 昨日、10年ぶりに、ごく普通に掃除が行き届いた我が家のサンルームで庭を眺めながら朝の光を浴びてブランチを食べた。そんな風に気持ちのいい朝食を取るのは、もう十数年ぶりのことだった。
・・・ああ、私は、本当に、我が家に帰って来たんだ・・・
と、卵巣ガン罹患から10年後の今になって、やっと、心からそう思える幸せを味わうことができた。
・・・入院中にあれ程、帰りたいと思った私の愛する我が家に辿り着くまでに、なんという長い空白の時間が続いたのだろうか?・・・
 涙が頬を伝った。

 そして、自身の生命の維持に費やしてきた精神力の一部が、既に、無意識の内にこの田舎町の介護関係者への強靭な怒りをバネとして、自然と、あらゆる方策を辿って、町の体質と在宅介護のクオリティーの向上をもたらす新たな事業のコーディネイトを完遂させる方向に向かって走り続けてきたことにも気が付いた。
 夢は出来る限り多くの人に語り続ければ必ず叶う。
それは、これまでの社会的人生の中で自覚した自然のタオの流れの法則だった。
 気が付くと、心身の平安の桃源郷にふさわしい故郷の町を造りたいという夢が、もうあと一歩で実現への扉を開く未来が目の前に出現していた。
 この画期的なプロジェクトについては、後日、改めて記載したいと思う。

 本日は、表題に従って、在宅介護の実情の一部として、公的介護の生活支援の掃除の手抜きがもたらした我が家の荒廃状態と、その再生作業を記録しておこう。

 犬走りから家の周囲に溜まった外埃、玄関のエントランスの埃は、10年前には粉塵であったものがタールのような状態でこびりついており、室内の天井のシミと壁のシボが、分厚いカビに変わっていたのは先述した通り。
 柱や梁にも埃がこびり付き、本来茶色の光沢が出る所が灰色にくすんでいる有様だった。
畳も、泥を被った後のように畳目に汚れが詰まってしまっているし、普通に掃除していたら表面に艶が出る年代になっていると言うのに、表面が荒れて汚れがしみ込んでしまっていた。最後に入っていた母のヘルパーの一人が、この畳の掃除を普通にしていたところを見たら、それ以前の不出来なヘルパーの所業の山積なのだろう。
 トイレや手洗いやバスルームなどの水回りは、私が逐一掃除していたのでさほどの問題は無いものの、他の部屋の目線から上の建具のサンや天井回りの汚れと埃が酷く、手の届く電気のシェードも汚れと埃と蜘蛛の巣の巣窟となり果てていたのだった。
以前から社協の幹部を呼びつけてまで何度も注意していたヤモリの糞の除去すらできていない所も多々あった。
 一時代前であれば、若年の女中見習いでもこれ程掃除が行き届かない者は居なかったことを思うと、時代が人を怠惰にしているのかもしれないのだけど。その対価が、1時間2300円はあり得ない!とついつい何度も書いてしまうのは、少しでも、お嬢様ヘルパー様や奥様ヘルパー様にも一般的な社会的職務意識を持って頂きたいからなのだけど。 

 掃除の基本は、傷口の消毒と同様に、周囲から中心に向かってやらなければかえって状態を悪化させかねないのが常識だ。
 先ず手始めに、私は、家の周囲の犬走の土埃の清掃から始めることにした。
 因みに、家の周囲に巡らされた犬走りは家の構造物で、庭ではなく、家の掃除の範囲に分類される。
この町の介護保険関係者の仕事の手抜きの為のハラスメントや圧力から完全に解放され、一般常識が戻った今、「生活支援の掃除は要介護者が動く範囲だけ部屋の中です!だけど、だけど好意でしてあげてます。」などと抜かした最初のヘルパーの派遣業者の厚顔無恥な開き直りと横柄さには、唯々、呆れ果てるばかりである。
 ここに埃が溜まると、その埃が風と共に家の中に入り込むことは、小学生でも分かることだ。
既に10年前の埃はタールのようにセメントに張り付いてしまっていて、これを除去するにはブラシでごしごし洗う必要があった。
 次に、玄関の間の上がり框に続くコンクリートの土間に積もった埃とこびりついた汚れを掃除した。
ここの汚れも長年浸みこんでいたのであろう、雑巾がけではなかなか除去できるものではなかったので、洗剤と床洗いのブラシで水洗いして除去し、その後日々拭き掃除を日課にしていると、やがて、床の輝きが戻ってきた。
母の要介護中、埃がこびり付いて灰色にくすんでいた我が家の玄関のコンクリートは、本来きらめく石英が散りばめられた空間だった。

 美しい曲線を描いた白木の上がり框も相当痛んでいた。
20年程前迄、母が白木の洗剤をつかって月に一度は美しく拭き掃除していた記憶があるが、ここまで汚れると、ここ一か所の汚れを除去するだけで一体何日、何時間掛かるのだろう?と思うと気が遠くなって、これは、後々に譲ることにして、ヘルパーが掃除機を掛けていただけであったであろう所を、固く絞った雑巾と乾いた雑巾での拭き掃除を毎日繰り返し、ある程度の復元で誤魔化すことにして、本格的な掃除は、改めて行うことにした。

 更に、窓の外枠にもびっちりと汚れがこびり付いている上に、拭かれることがなかったであろう窓枠は泥に浸かった後のように灰色になる程に埃を吸っていた。これも家の掃除の一部であって、木製の建具のここに埃が溜まると風で室内に埃が吹き込む。ここまで埃が詰まってしまうと湿度に応じた換気機能が失われて、室内の空気がよどみ埃の臭いが部屋に忍び込む。室内の壁や天井のカビの原因もこうした埃のこびり付きによる空気の淀みが災いしたのだろう。
 窓枠を取り外してまでの掃除は私にはできないので、ブラッシングと拭き掃除を繰り返してあらかた汚れを取って、従来の窓枠の形態を復元して、灰色の変色を本来の木の色に戻すには、余りにも労力が掛かるので、とりあえずは柿渋で拭いて着色し誤魔化すことにした。
 これら先ず最初の、我が家の復旧の第一歩に、1日3時間。一か月余りの労力が必要とされた。
もしヘルパーが、週に一度でも、普通に正常な掃除を続けていたら、ほんの10分程で済む掃除だったのだけど。
 本当に塵が積もって山となっていた。

 天井と壁の掃除は、古民家再生業の友達に見積もってもらったら、100万円近い見積もりになる程の有様であった。
 長年掃除されずに放置され荒廃した家の再生は依頼者の希望通り仕上がるかどうかの保障は無いし、近年は、親が住まいしていた家など、多くの古家の再生作業の依頼が立て込んでいて、腕のいい業者だと作業を依頼しても着手は数カ月後になると言う。
 ここに待ち時間と予算を費やすなら、自分でやろうと私は志した。

 しかし、ここに至って、大病を経て力の弱った私の肉体が悲鳴を上げ始めた。最初に両手の関節が炎症を起こし、肘関節と両足根骨にも炎症が発症した。一日2時間にペースダウンし、真夏を乗り切ることにした。

 最も時間を要した難関は、畳の復旧だった。古民家再生業者でも、古い畳の清掃は費やす労働時間と比較して、新しい畳を入れる方が廉価だと言う。しかし、我が家の一階の畳みは、ほんの数年前に新調した畳で、再び入れ替えるのは余りにも贅沢過ぎる。
 畳の掃除も、最初にホウキで掃き掃除をして、固く絞った雑巾で優しく汚れをふき取り、乾いた雑巾で柔らかく拭き上げるだけなのだけど、畳目に詰まった汚れを取るにはホウキでは歯が立たない。
そこで、歯ブラシで入念に畳目の汚れをそっと静かに掻きとってゆく。下手すると畳が傷むので、一畳仕上げるのが、一日仕事になる。その上、畳み目の表に付いた汚れをこれまたそうっと優しくふき取る必要がある。これは米酢を希釈した液を使って気長に回数を重ねて、二日に一度、数か月続けると畳が蘇る。
 それでも、どうしようもなかったのは、母の寝室の床畳だった。
汚れてるって状況を通り越して、埃と汚れがしみ込んでどうしようもない状態であった。畳の裏には青カビが発生していた。
 この畳だけは、例外として、思案の末に、水で汚れを浮かせて、カビの除去も兼ねてアルカリの塩素剤を使うことにした。
部屋の畳みよりも、床畳みは、一色深く色あせた畳を使うのが日本文化の粋である。
ならば、米酢で明るくした畳よりも、深い褐色に仕上げてもいい。
本来畳は、塩素系の漂白剤では色が褐色に変色する。これを逆手にとれば、古色豊かな畳に変えることができる。畳は水を嫌うので、水分を吸収させることは厳禁なのだけど、これも例外措置を取ることにした。最悪に汚れが溜まって沁み込んだ畳は水分を含ませて汚れを浮き上がらせないと再生することができないので、一か八かで選んだ方策だった。
 一日がかりで、この作業を終えたら、深夜になっていた。照明の中では、程々の仕上がりだったのだけど、朝日の中でどう見えるかが心配になった。次の朝、恐る恐る見てみると、自然の造化のように、まだらに褐色に変色した畳には光沢まで戻って、古式豊かに艶やかに輝く床畳みに仕上がっていた。

 最後に、艶がはげ、汚れと傷まみれになった床板という最難問が残った。
メラニンスポンジで優しく表面を削って、塗装を施そうとしていたら、先に記載した素晴らしい庄屋屋敷を買い取ってリストア中の友達から電話があった。
「それは、そのままにしておいて。うちの彼氏に頼んでみるから。」と、打てば響くような嬉しい心遣いが返ってきた。
 思えば、彼女と彼は、私に救世主から遣わされたようなタイミングで連絡をくれる有り難い友達だ。
闘病中の通院に困っていた時も、通院の車の運転をかって出てくれたのが、彼女と彼だった。
 
 暑い夏の夕刻、ご近所付き合いの草刈りを終えた彼と彼女がやって来てくれて、2~3時間程、流石に楽器職人である。私は、彼の上腕が、まるで振り子のような正確さで床板を均等に整えてゆく様子にうっとりと魅了された。これ程人間の腕が巧みに正確に同じ動作を繰り返すことが出来るなんて、神業だ。
 無造作にすうっと削ってゆく様は、カゲロウの羽のような軽やかさでもある。
仕上げに、食品添加物にも使用されているという特殊な塗料をひと拭きして下さると、美しいメイプルと杉の木目が見事に蘇った。
 私の素人仕事とは違って、木材の扱いの最上級のエキスパートの彼が手掛けてくれた床板は、60年前に建築された当時を彷彿する程に美しく仕上がった。

 主な作業以外にも、付箋に書き出したら、数十枚に渡る細々とした作業が山積みになっていた。
 母は、最後の時期に良いヘルパーさん達に恵まれることができたけど、介護は最初が大事だったのだ。最初から、せめて普通に掃除していたら、後々の掃除も普通に楽になるし、介護に適した清潔で気の晴れる空間の維持が可能になる。

 荒廃した屋敷が、被災した災難から復旧してゆく様子は、自身の腕と足の痛みを除けば、元気だった頃の日々の暮らしが確実に戻って来る手ごたえと感動を私に与えてくれた。
自分で復旧することは、自己達成感の源ともなり、病後の私が長らく失っていた自己肯定や自信を取り戻すにも効果的だった。
 普通に暮らしていたらごく当たり前だった暮らしの空間が、こんなに幸せに感じられるのは、寒い冬を過ごして初めて春の陽気の幸せを感じることができることに似ている。

 とはいうものの、現代社会の一角で起きたこの現実を、広い視野から見ると、現行の公的介護の平均的職務レベルの低さや医療システムの規制方向から生じる国民の暮らしの弱体化が、既に我が国に多大な苦しみと荒廃をもたらしていることの重さを感じざるを得ない。
 今後更に介護や医療の切り詰めが進めば、弱者を抑圧し見捨てることが当然である風潮が拡張し、心の非人間化の時代が到来するだろう。

 老後を、自分が選んだり建築した住み慣れた家で最後まで暮らすことは多くの人々にとって、最も幸せな末期であることは否めない。
現行の介護保険運営において、在宅介護を充実させるには、2025年問題までに時間が足りなさすぎる。
心ある介護業者が徹底した社員教育を行って、業界内の効率と競争力を上げるという方策は需要の増加に人手が不足している状況下では、手遅れだ。
 お世話してもらっているという斟酌で十分にものを言えない介護弱者の切り捨てや虐待、そして日本の生活文化は博物館に残る遺物となり、日常生活は益々荒廃し、廃屋と化した家屋が残されるゴーストタウンがあちこちに出現し、高層マンションもやがてスラム化してゆくだろう。
 とは言え、今や、「国難?」と言われるこの2025年問題を乗り切るささやかな効果的方策も、この復旧作業の中で、コロンブスの卵のように、自然と私の心にころころと転がって来たのだけど、この方策の卵の記載も後日に譲りたい。

 我が家の暮らしの復旧には、面積的にあと3倍の時間が掛かる計算になる。暫くは、関節の炎症の治癒を待って、これからの復旧作業に耐える体力を養う為に先に筋力リハビリをしないといけないので、あと2年程は故郷に留まる予定になるのだろう。
 その間に、新しく育ち始めたプロジェクトの半分は現実になる。半分が実現すれば、山岳の走井のような私がこの町を離れても、既に大河となりつつある流れが、未来に向かって豊かに大地を潤しより大きな流れになってゆくことだろう。そうして、私はまた新しい場所でまた新しい問題に対峙し、新しい流れを造り続けてゆきたい。
 そういう生き方が、私は好きなのだと思う。だけど、多くの場合、一旦関わったプロジェクトから手が離せなくなって、泳ぐように生きることができない性格なので、長らく日本から出ないことも、同じ場所に留まることも私には苦痛なんだと思う。
 大切なことは、もし、再び同じ問題に遭遇した時に、絶対に失敗しないと確信できた時に、人はミスを乗り越えることができるように、同じ環境に遭遇した時に、絶対に同じ苦難に被災しないと思えた時に、人は、社会を再び信じることができるってことだ。
 

 それにしても、ここ3日間、休養を取っていますが、身体を動かすたびに筋肉の付着部が引き裂かれるように疼いています。
 ガンは治っても、大病後の無理は禁物です。
私には環境的にできないことでしたが、同病に罹患した場合は、自身の体調と医師の指示に従って、できるだけゆっくりと気長に療養し、体調が整ったら、先ずはリハビリを行い、体力と気力、筋力の回復に努め、徐々に日常生活に戻ってゆくのが、本来の健康を取り戻す近道だと、つくづく思います。同じ病気であっても、回復への道のりはそれぞれに全く違いますので、自分の体の声に耳を傾けることが大切に思います。
 私のように病老介護や過度のストレスに被爆するような無理をすると、私のように再度また他のガンを発症する可能性もありますし、予後の体調の回復も拗れます。
 
 10年間生き延びたブログになったことで、「そのような暮らし方が生き延びる方法なのですね!」と誤解されてるコメントを一昨日頂きましたが、それは全くの誤解で、私は、決して模範的なガン生還者ではなくて、医学的にも心理学的にもハイリスクな生還者です。なので、昨年は、皮膚がんまで罹患してしまいました。

 無理せず、日々のほほんと、できればストレスの風雨を避ける大きな傘の中で心安らかに暮すことが、生存率の高い本当に望ましく健康的な暮らし方であると思います。
 あと、もう1つ、ご質問コメントの返信になりますが、私が罹患した卵巣ガンの種類は、類内膜線癌と明細胞癌でした。

 このような、気ままなつれづれブログにお立ちより頂く皆様には、心より感謝申し上げたく思います。そして、長らくお付き合いいただいています皆様からはお励ましのコメントやいいね!のエールを頂くことを励みに、このように長くブログを続けられたこと心深く御礼の気持ちでいっぱいです。

 気候不順な折柄、皆様におかれましては、お体ご自愛頂き、ご無理のないよう暖かくしてお過ごし下さいますように。今は、先ずわたくし自身が、暫くは疼痛治療をしながら、心身自愛の習慣をつけなければと心しております。

老犬との対話~深刻化する社会の予期不安神経症

 気が付くと、母が他界して1年が過ぎようとしている。
 
 飼い犬が呆け始めたのは、母が他界してひと月ほど経った頃からだっただろうか。
昨秋、弱りが出始めた彼が冬を越えてくれるかどうか・・・檜造りの犬小屋に、母の毛布を敷いて、屋根にもブランケットを掛けて、出来る限りの保温をした。
 家の中に入って遊ぶことも好きな子だったので、いつでも家に入れるようにサンルームの戸をあけっぱなしにしていたのだけど、私が風邪を引いただけで、彼はいつからかもう家の中に遊びに入ることは無くなっていた。
日々ハラハラと心配続きの厳寒の時期を越えて、春が来た。
 家の前に広がる野原に春の花が咲く頃には、彼の呆けた意識が覚醒し散歩を楽しみながら、彼は気ままに蝶や小鳥を追いかけていた。

 彼の急激な老化に、もうそんなに長くはないことを予期した私は、戸惑った。
この飼い犬は、我が家で生まれた子ではなくって、この犬種の専門店で、一目惚れしたある犬の兄弟が欲しいと依頼して、偶然誕生した子犬の一匹を譲り受けた子だった。

 18年前に、父が他界した後、半年ほどして、父の飼い犬も後を追うように他界した。先代の飼い犬は子犬を残してはいなかった。
  その後半年程、もう犬は飼わないと思っていたのだけど、犬のいない屋敷の庭が、なんとも無味乾燥な空間に思えてならない寂しさに耐えかねた私が、その犬種の保存会のリーダー的役職であった兄から名前を聞いたことのあるブリーダーに子犬を分けて欲しいと頼み込んだのだった。
 そのお宅を訪ねると、成犬の中に数頭の若犬がいた。
ゲージの中で遊んでいたポチと言う名の若犬が私の目に留まった。
子犬の時期を過ぎて数か月くらいの子で、その犬種の純血種に最もふさわしい被毛の色合いと硬さ、骨格の美しさ体幹のバランスといい、筋肉が付く頃には素晴らしい純血種としての威風堂々とした成犬に育つことは間違いなかった。その上、これは、この純血種が保存される前の洋犬の遺伝子が残っているのかもしれないのだけど、笑うと口角が上がる表情筋の癖と全体の精悍さとのアンバランスが得も言えぬ程可愛かった。
私は、直ぐに気に入って、どうしてもその子が欲しいとお願いした。
だけど、ポチは譲り手がなくてここにいるのではなくてコンクール用の子で、どうしても譲れないとのことだった。ならばと思って、私は、ポチの兄弟がもし誕生したら、是非にとお願いをしたのだった。
 子犬が産まれるまでの間、生まれるかどうかも分からないのに、私は母を連れて一緒にその店に月に一度はポチを見に行った。私は狐顔のポチが気に入ったのだけど、私以上長らく犬を飼って来た母は、タヌキ顔のサンタという犬が気に入ってそちらの子供か兄弟がいいと言い出したのだけど、こればかりは、先にお願いした私の好みを優先することにした。
 家にはいつも、犬がいるという環境で生きて来た人間にとって、犬が居ない家に居ると、たまらなく犬が恋しくなる。
只、ペットショップで犬を買うのと、ブリーダーに依頼して、犬の誕生を待つには大きな差異がある。
 犬にも雌雄の相性やタイミング、その時の状態や様々な要因があるので、周囲の人間がいくら努力したとしても仔犬が生まれないことがある。犬は人間よりも直感的な分、より好みが激しいように思う。
 これは、さながら、人間の養子を待つような、自然の気紛れな偶然の重なりでしかやって来ない幸福を待つことになる。
 願いが祈りに変わる時期が過ぎて、やがて父の一周忌が近づいて準備に明け暮れていた日、丁度命日の前日に、「可愛い仔犬が生まれました。赤毛の雄です。」というメールが入った。
 父からの最高のプレゼントのように、彼がこの世に誕生した至福の瞬間だった。
 そんな、経緯があって誕生した仔犬は、我が子のように可愛く思えた。
だけど、犬は犬である。日本では、幼犬の売買が盛んなのだけど、本来、仔犬は8カ月くらい親元で育ててから、1人立ちさせるのがいい。早く離すと、アレルギーや様々な疾患に罹患しやすいという難題が生じる。
 仔犬は小さければ小さい程可愛い。耳が垂れている頃の仔犬の愛おしさは格別で、早く引き取りたいのは山々であったのだけど、母犬の母乳をしっかり頂いて思い切り母犬に甘えながらすくすく育って、耳が立った頃、そう、生後3か月くらいになってから私宅に連れて帰ることにした。
 父の形見の車で、母の膝の上に乗せられて、「このふにゅふにゅとした感触は気持ち悪いわ・・・」と母に不平を言われながら、彼は至って元気に我が家にたどり着いたのだった。

 
 やがて、我が飼い犬は立ち上がることも困難な程に弱ってしまった。
私は、もう長くはないだろう彼の生涯の最後に、彼を私に譲って下さったご夫婦に電話を掛けて、現状を報告し、何かしてあげて欲しいことがないかどうかを尋ねた。
 貰われていった仔犬がどんな人生を生きるかは、その子の運命なのだけど、生み出した人は、手放した子であるが故の飼い主とは違った控えめな、だけど、もしかしたら飼い主以上かもしれない愛情が続くものなのだ。
 「私は育てさせて頂いただけで、そちらから頂いた子ですので、この子をこの世に生み出したお父さんお母さんから最後に何かしてやってほしいことがあれば、遠慮なく仰って下さい。」と。
 「これほどいい飼い方をして頂いたことは、お譲りした私たちにとっても本当に嬉しいことです。ゲージの中や家の中で飼っておられる人には、徘徊が始まるとサークルに入れることを勧めたりもしますが、自然の中で自由に暮させて頂いた子ですから、最後まで、自然の中で自由にしてやって下さい。のびのびと暮して来た子ですから、こちらから申し上げることは無いくらいに安心しています。」
 「私の育て方がよかったのかどうかは、よくわかりません。時代がリジッドになった現代では、犬も昔のように自由に生きれなくなりました。私自身の怪我や病気や母の介護もあって、もっと自然に育てることができなかったことが残念です。でも、今日も、庭で、時折我に返ったように、小鳥やチョウチョを追いかけてます。犬が持つ野性の本能は素晴らしいです。」、
 そんな会話をしていたら、愛犬ロストの時にと、ぬいぐるみの制作を勧められた。
抜け毛を洗ってぬいぐるみの詰め物にするらしい。
思わず、それって怖いんですけど・・・と言いそうになって息を飲んだ。
 そりゃあ飼い犬は可愛い。子供より可愛いと思う人も多いとも聞く。だけど、これはちょっと私の感性が合わない。
もしも、目の前に歴代の犬のぬいぐるみがあったら、一刻も早く自然界に還してやらねばと焦ると思う。しかし、何より亡き犬の形見のぬいぐるみであるが故に、どこかのお寺か神社に相談に行きたくなるくらい怖い!と思ってしまいそうだ。

 
 梅雨に入って彼の老化は一段と進んだ。
毎年梅雨になると、中耳炎か内耳炎を起こすことがあって、耳が痒いと訴える。
 今年もまた、同様の症状が出たのだけど、既に、彼には、自分で耳を掻く仕草が出来なくなって、首が折れるのではないかしらと思う程の姿勢で何度も何度も頭を地面にこすりつけるので、慌てて動物病院に連れて行った。
 彼は、動物病院が好きなような気がする。
いろんな犬や猫に会えるのを楽しがっていたのかもしれないのだけど、獣医さんが気に入っているのかもしれない。
 毎年ワクチンの接種とフィラリアの薬をもらいにゆくのだけど、昨年からワクチンは控えていたし、フィラリアの薬の量も減らしていた。 これは、長年、何頭かの犬を飼って来た私の直感に近い犬にとって最善と思うが故の判断だ。
 1年ぶりに行くと、獣医さんは、かなりびっくりした顔をしたかと思うと、彼の名前を読んで、微笑んで
「おお!頑張ってくれてるんだ!・・・痩せたね。17歳だと、人間だとこの犬種は92歳くらいになるかなあ。」
「9.5Kが9キロになりました。お蔭様で元気に長生きしてくれています。純血種は短命で今までの子は12歳くらいが平均でしたけど、歴代の犬の最高年齢を日々更新してくれてるんです。」
「よかったよかった。今日は、ワクチンですか?」
「いえ、耳が痒くて仕方ないと言います。」
「ああ、前もそう言ってたことがありましたね。」
「ステロイドの軟こうを塗ってますが、2~3日は効いても、再発を繰り返します。」
「う~ん。細菌感染かもしれないので、とりあえず点耳薬を出しておきます。」
 そんな感じで、我が飼い犬はその長寿に驚かれ、何かしら褒めてもらったことにご機嫌そうだった。
その点耳薬が効いたのか、その後、彼自身が試行錯誤?の上ドクダミの繁みに耳をこすりつけるとかゆみがマシになることを発見したからか、2週間程で、首が折れそうな程地面に頭をこすりつける仕草はしなくなった。
 
 やがて、雷と一緒に蒸し暑い今年の夏が来た。
夏の間中、彼は庭の中で一番涼しい縁の下で死んだかのように眠り続けた。
 起きるのはほんの僅か、食事と排泄だけだった。
 食事も摂らずに3日くらい寝続けることもあった。
流石に、死んだのかも?と心配になって、最初は匍匐歩行で縁側の下に救出に入っていたのだけど、触ると煩そうに手を除ける。生きているには違いないことに気が付いて、その後は、棒でつついて消息を確認することにしていた。
 夏の間の彼の行動時間は、深夜と早朝に限られていて、食事も真夜中と早朝にしか食さなくなっていた。
日が沈んで辺りの気温が下がった頃に、散歩に連れ出す時、しぶしぶ顔で起きて来るのだけど、外に出ると、他の野性生物の匂いがするようで、急に元気が出る。でも、庭に帰ると一目散に縁側の下に入って、伸びていた。

 今年の秋の訪れが少し早かったのが、彼の体調に幸いしたようだった。 
それでも、歩くのも精一杯、寝起きはやはり立ち上がるのも精一杯の様子である。
特に雨が降ると、雨の中でクルクルと円を描いて歩き回って、ずぶぬれになる。
なので、雨の日は、玄関に入れることにしているのだけど、限られた空間に閉じ込めると、更に筋力の低下と認知障害が悪化する。
 この環境の影響は、人間のご高齢者と全く同じである。

 思えば、私が飼い主であるのだけど、彼にとっては母は彼の母親のような存在であったらしい。
最後まで忘れなかった母の日々の仕事は、飼い犬に食事を与えることであったのだけど、母はいつからか、彼が鳴く度に食事を与えていたので、腐敗した食事を私がこっそり捨てるという塩梅になっていた。
 母の他界後、私が与える食事量は定量になって食べ残しは殆どなくなったのだけど、彼にしてみれば、母がいなくなってから暫く、食生活が貧相になった!と私に訴えた。
ペットフードや気に入らない食事を鼻先で放り散らすのだ。このあたりの感情表現も人間の認知症と酷似している。
母は、彼の食事は別鍋でキャベツと鳥の胸肉を炊いたものを白米に掛けて与えていたのが、やがて私が食事を摂るのが遅い日などは、私の夕食をそのまま彼に与えてしまっていたので、ここ数年の間に彼はグルメになっていたのかもしれないのだけど。
 何れにしても、母が他界してから、自身の食事を作ることも億劫になっていた私は、飼い犬がいたことで食事作りをかなり助けられていた。
飼い犬にとってのメインディナーは、あくまでもササミとキャベツの鳥ガラ風味煮なので、食事を作る気力も失せた私の食事にこのメニューが度々加わることになって、彼の為に食事を作ることが、自分の食事の用意の原動力になっていた時期が長くあった。

 ところが、真夏に入って彼の食欲ががっくりと落ちたのだ。
認知症と筋力の弱りも進行するにつれて、以前と同じ食事では彼の健康が保てないことに気が付いた。
真夏を乗り切れるかどうかが最大の問題だった。

 ドッグフードの研究は良く進んでいて、認知症対応の栄養素に特化したフードや、筋肉や関節の衰えを防ぐに特化したフードが販売されている。これらを適宜配合して、キャベツと鳥肉の煮物のスープでふやかす。そこに、白米とその日の私の夕食のメニューに合わせて、トッピングを加えた食事を与えることにした。
 犬も毎日同じ食事では飽きることがよく分かった。トッピングを変えると食欲が出る。

 夏場に落ちていた食欲を補うかのように、最近はこの食事をよく食べてくれるので、一安心。
17歳と3か月になった。
本来なら、岩の祠で眠り呆けて、餓死という最も苦痛の少ない死を迎える一頭の犬が、人間との関わりによって、その生命の限りを尽くそうとしていることに、生命と生命が触れ合う最高の感動を覚えることが多くなった。


 最近、下界では、2025年問題に関して、「働けなくなった人は死んでもらう。高齢者で自費で介護や医療を賄えない人は安楽死。でないと若者が医療や福祉に捕られて国力が落ちる!」等という、悪魔のささやき以下の最悪な発言がネット上に散見される。
こういうたわけた言を目にするたびに、2025年問題神経症が発症している~と心の底から嘆息が出る。
 彼らの論旨の多くは、これからの若者が医療と福祉分野に集中すれば、2025年問題が終わった時に、日本の生産力?が低下し、経済競争力が下落し、国力が落ちると短絡的に危惧しているのは、余りにもノウタリンが過ぎるのだけど。
 「真面目に相手するとこちらがおかしくなりそうだと思う時は、相手に向精神薬が必要な時である!」という、英語のドクターズ格言なるものを思い出す程不思議な暴言が横行する時代になったものだと思う。

 そもそも、多くの製造業が労働力が廉価な海外に移転した日本では、既に生産力で国力を維持する時代は過ぎ去った。この半世紀で、国の産業形態は劇的に変化を遂げ、厚労省の年収統計を見ると、50代の大卒男性の平均年収は900万円以上に上る時代になっているのだけど、その中でも最も高給なのは、保険会社や銀行など「マネー」を扱う種類のサラリーマンたちである。
この現実は、私たちに、私たちが「マネー・ゲーム」の真っ最中の経済大国に生きていることを実感させる。
「マネー」が「マネー」を生み出す時代は更に加速するだろう。
 「マネー・ゲーム」の勝者達はますます果敢に世界の「マネー」を掌握する方向性に向かう。この方向性は止むことはない。 
 この現実を前提として、考える時、何故、少子高齢化社会に激論を飛ばしている人達が、今自国内で必要とされている医療と福祉をより充実させることを、ちゃっかり未来の国家の繁栄の基礎とし、国際社会における最強不倒の経済競争力の要にするように考えないのだろうか?とすこぶる不審に思う。
 既に、欧州では、自国の医療福祉政策の貧弱さに愛想を尽かした人たちが、隣国の病院や介護施設に集客されているのは事実であるし、優れた病院や施設は国境を越える集客力があることで、経済的繁栄を生んでいる。
 医療福祉産業は、人間が病病に罹患し老化する限りは、永遠に存在する市場であり、かつ人間の心を優しくする最も人間らしさを育むことができる最上級の業種で高い経済効果を生み出し続ける産業だ。
 更に、日本には、「おもてなしの心」と呼ばれる、気踏み・気遣い・気回し・など「気」を読む能力が未だ僅かに生きている。この日本人のきめ細やかな洗練された性格を練磨した本当のホスピタリティーをより一層力を注いで育てて、先ず、自国に医療福祉のユートピアを造り出すこと、更に、元々日本には優秀な研究者が多くおられるのだから、医学の研究により多くの投資を行い医療福祉立国とすることを何故語らないのだろうか?

 人間には、富や名声や権力を持てば持つほど、自身の生命と健康に執着する心理傾向がある。
もしも、この国が、「あの国に行けば心身を蘇らせることができる」「出来る限り健康で、たとえ寝たきりになっても幸せに心安らかに暮すことができる」と想われせるような医療福祉大国になれたとしたら、更により多くの資本が日本に流入し、日本の国力は衰えるどころか世界最強に育ってゆく。
 軍備や核大国は人類を破壊するというマイナスの意味において威力を持つが、医療福祉大国は人類を救うというプラスの意味において世界人類に欠くことができない絶対的な威力を有することができる。

 日本が揺らげば自身の生命の安寧も揺らぐと、世界に思わせることができる程の医療福祉大国を立国することを語る者がいないのも、今流行りの情報操作なのだろうか?

 
 我が飼い犬は混迷の時代に生まれた犬である。
以前の飼い犬は、現代よりも世の中がシンプルでマイルドであったので、家の周囲約10㎞程をテリトリーとしていて、ご近所の人間たちにも可愛がってもらっていたし、犬同士の付き合いも幅広かった。
 なにかとリジッドに窮屈に自由が失われつつある時代には大いなる反骨精神を持っている私は、彼を以前の犬と同様に自由に育てようとした。
私の気持ちを察したのかどうか、子犬の頃から、彼は、庭の塀の下に穴を掘って、勝手に外出してご近所さんの人気者になってくれていた。
 そして、もう1つ、私は彼を山歩きの相棒として育てたいと思った。
元々が猟犬であるので、彼は山に入ると獣の匂いを追う習性を持っていた。
よく躾けられた猟犬であっても、獣を深追いして、飼い主の元に戻れなくなる犬もいる。
 その為のトレーニングを始めていた時に、私が追突事故に遭って重症を負ったことが私のみならず彼のその後の人生まで変えてしまったのだった。
トレーニングに最も必要な時期を逸してしまった。この躾けが出来ていないと、彼を自由に外出させたり、山歩きに同行させた時に、生命の危険に関わる事故が起こりかねないことを危惧した私は、彼のテリトリーを散歩以外は、屋敷の庭に限定して、番犬として飼うことにした。
 彼の人生は、いかなるものであったのだろうか?と思う時、全権をゆだねられていた私としては、切なさが心に痛い。より、もっと、本来の犬らしく奔放に生きさせてやりたかったと思う。

 ただ、ひとつだけ、私の所に来たことが、彼にとってよかっただろうと思えることは、彼がペットとして溺愛されたり、飼い主に支配され何かを強制される対象ではなく、100坪ほどしかない狭い庭ではあっても自分の王国を持ち自分で考え、自由に自分の意志に従ってのびのびと生き、飼い主と意志の疎通が交わせる自立した犬として生きて来たことだと思う。
 そして、彼が私の所に来たことが、私にとってよかったと思えることは、何よりも、弱った人間をどうにかして助けようとする気性、永遠の眠りについた母を揺り起こそうとする程拙くはあるがいざと言う時の愛に満ちた行動、自身が既に弱り果てて呆けていながらも、人の健康と心情を静かに気遣う仕草を見せる程気踏みが出来る心優しい子に育ってくれたことだ。
 
 飼い犬には、何の生産力もなければ経済効果も生み出すことは無い。
働けなくなったら安楽死を!などと狂気の叫びをあげている者には到底理解できないだろう、最上級の幸せに満たされた心豊かな生命の蜜月を、今、私は感受しているのだけど。


 それにしても、社会に役に立たない自分は自殺したいと言う話を聞く時に感じる直感と、社会に役に立たない者に安楽死を!という暴言を聞く違和感には大いなる違いがある。
 前者は、鬱病と診断されている場合においても自身の存在否定から自己肯定への過渡期に生ずる自然な苦悩であるのだけど、後者には、集団殺人思想犯になりかねない人格障害が疑われる。
 
 社会の軍備拡張路線と戦争予期不安神経症の進行と同時に、消排斥的殺人思想の一種が同時に進行していることが、前時代の戦争史に見られる傾向でもあることがとても興味深い。
 経済恐慌・人心の荒廃・排他主義等々・戦争への序章は枚挙に暇ないが、全てに共通して見受けられることは、一般人の予期不安の高ぶり、集団催眠のような洗脳の繁茂、そして、ある引き金が引かれることだ。
 おバカなまやましに乗らない為に肝心なのは、社会の未来をマイナス思考で考えずにプラス思考で考える能力を堅持すること、情報を客観的に見て自身の直感を磨くこと。マスコミやネット情報はその情報ソースを確認すること。常に海外の情報に触れ続けること。少なくとも3人以上の異国の友達との交信を続けること。

 20世紀の世界戦争以降、我が国において、どれだけ個々人のレベルにおいて理性と知性を成長させることができ、個々人が真に自立できているかを見定めることができる好機が到来しているようだ。

 

3度目のガンの疑い ~ガン商法の心理

 突然のお話なんだけど、しばらく前に、私の右大腿部に残っていた比較的小さな黒子に、またまた皮膚ガンの疑いが掛かって細胞診を受けた。
以前のボーエン病で懲りてたので、露出部のシミや黒子はレーザー治療で除去していたのだけど、以前ボーエン病が発症した右大腿部の少し内側に除去しないで経過観察していた小さな黒子があった。

 この黒子は、ボーエン病と診断されたシミ同様、以前から私の皮膚に存在していた。
しかし、皮膚科主治医の見解では、こちらの黒子にもガンの可能性が否定し切れないとのことで、ガン細胞があったとしたらレーザー治療で蒸散させると病理検査ができなくなるので、ボーエン病の手術が終わって傷が癒えた頃から、可及的速やかな細胞診を勧められていた。

 だけど、この半年程、私の心には、よくあるガン商法に酷似した「藁にもすがる心理」が発生していた。

 それは、「上皮内新生物」は「悪性新生物」ではないという、甘露この上ないアヒルの暗示だった。

 この小さな黒子も、前回のボーエン病の手術後、本来であればもっと早く細胞診をお願いすべきところを、なんとなく経過観察で放って置いたのは、去年の日帰り手術のハードさが酷く心身に堪えたことも大きかった。もう一度、同じように外来で切除手術を受けて、自力で支払いと処方箋を済ませて、自宅まで無事帰宅する自信はなかった。

 このハードな難儀を眼前にして、聞こえて来たのは、あま~い蜜の池の中から「ボーエン病」は「悪性新生物」ではなく浸潤も転移もしないと断言するアフラックのアヒルの鳴き声だった。
 
 同じ内容の約款であった日本の保険会社は、「ボーエン病は悪性新生物ですから、その根治手術になります。」と断言され、手術給付金が支払われて来た。

 ところが、アヒルは、マニュアルらしき言葉を手を変え人を変えて私の耳に甘~く囁いたのだ。

 これは払い渋りの一環だと即座に私の理性は判断したのだけど、感情が理性的反応を抑止し、とんでもないアヒルの言葉を私は信じたく思った。
アヒルの言うように、悪性新生物じゃなくって、上皮内新生物っていう未ガンの状態なんだ・・・と。

 母の喪中から未だ立ち直れていない心の弱りもあって、自身のことに投げやりになっていた心情もあったのかもしれない。
 
 「そろそろ、細胞診しませんか?メラノーマの可能性も否定できませんから。」
メラノーマ!?・・・この一言で、私の恐怖心をカモフラージュしていたアヒルの群れの鳴き声が津波にのまれたかのように一瞬にして脳裏から消え去った。

 メラノーマは、御存じの通り皮膚がんの中でも最も致死率の高いハイリスクなガンだ。
ダーモスコピーの精度は優れている。
他の色素沈着とメラノーマの鑑別の精度はある程度以上信用できる。
1年前に以前からあったシミに僅かに病変が生じた時点で有棘細胞癌であることを見抜いた医師である。万が一の可能性ではなくて、少なくとも数%の確率はあると考えられる。
 
 恐怖回避の心理でアヒルの甘言を信じることを心のどこかで良しとしていたおバカな私であっても、流石に、メラノーマまで疑われる再々度のガンの罹患という恐怖の感情が吹っ飛んで、現実対応の理性の力が蘇った。

 アフラックはガン保険で肥え太った生え抜きの営利企業である。「浸潤も転移もしない」なんて悪性細胞が存在するはずはないのは当然なのだけど、こういう甘い説明は、さながら、悪徳ガン商法と同様に、ガンという概念の恐怖に傷ついた心には、信じる者は救われるような効果を私の心にももたらしていた。

 そもそも、ボーエン病という皮膚がんは、一般的にも、医学的にも、正真正銘のガン=悪性腫瘍=悪性新生物なんだけど、アフラックはガン保険や医療保険の大部分で、国際疾病分類の「上皮内新生物」と「悪性新生物」の区分を約款に記載してあるらしく、約款にその記載のない私との契約においても、同様の説明をしていた。
 この国際疾病分類っていうのは、元々が死因統用の分類であったことから、悪性新生物から比較的致死率の低い上皮内新生物を区分しているのだろう。

 しかし、実は、病気として見つかって手術が完了した時点で「上皮内新生物」と診断されたとしても、本質は「悪性新生物」であることには違いない。
 つまり、手術を受けた時点で、「表皮内」に留まっていると判断された「上皮内新生物」も、放置すればやがて「悪性新生物」と同様に、浸潤もすれば転移もし、生命を死に至らせる能力をもっているし、「上皮内新生物」と思われる外観のガンであっても、病理検査をすれば、他の種類のガン細胞である可能性も否定できないのだ。

 ガン患者はガンという病気の恐怖から逃れたいと切望する。
この「上皮内新生物」はガンではないと言う説明は、ガン患者の恐怖を和らげる素晴らしい蜜の味がする。
とは言っても、アヒルの囁きは独自の論理であって、社会通念とも医学的通念とも異なる。

 同一の契約内容の他の医療保険会社からは手術給付金が支払われてきているし、ボーエン病の手術後5年間無病で過ごさなければ私は新しい保険契約ができない。つまり、日本の保険会社では、5年という再発を医学的統計に基づいて換算しているのだ。

 つまり、保険会社によって、用いている統計資料が異なるってことだ。 

 いずれにせよ、放置しておいてよいガン細胞など無いし、ガンはガンなのだ。
ガンに関する甘い言葉の裏には、金儲け主義のほくそ笑みが繁茂している。
拝金主義の弄する甘言の藁に縋っている場合ではなかった。気が付くのが遅すぎたのだけど、卵巣ガンから折角生き延びたのに、ここで発見を遅らせて手遅れになる訳には行かない。

 最悪メラノーマで万が一転移があれば、オブシーボは試したいと思うものの、ガン拠点病院までの通院は殊の外厳しい。既にその黒子が出来て年月が経過していることを考えれば、私に残された生存期間はかなり短いものとなるだろう。

 流石に3度目のガン疑念は、心に堪えた。

 おまけに、主治医は、手術に備えて各種感染症の検査や血液の凝固速度の検査までオーダーしていた。
この検査の丁寧さは、病院の経営方針が検査重視に変化したのか、はたまた私の病状からの主治医の判断なのか???この判断は聡明なのか、早計なのか⁇
 人生の苦難を乗り越えて来た私が身をもって知っていることは、一大事に際しては、最悪の場合を考えて行動することが、災難を最小限に食い止めることができる秘策だということだ。

 母が他界した今となっては、手術の保証人も身元引受人もいない現状の厳しさをどうするかも真剣に考えなければならない。こればかりは、万が一の場合、火葬してくれる人でなければならないこともあって、友達や親戚にも気軽には頼めない。
で、可も無く不可もなく仕事として引き受けてくれそうな、役場の福祉課にお願いしよう・・・と、私は考えた。
 そう、先日、偶然、町長から、天涯孤独の私の身の上を思い量った言葉をかけられた時、すかさず、私は、「困った時は役場に電話します!」と念をいれておいたのだった。引き取り手のない遺体は地方共同体が引き取ることになっている。
早く寿命が尽きたら経済的余裕は残るので、永代供養と墓の管理もお寺への寄付か、どこか公的機関を探して契約することも可能だろう。

 それにしても、10年のブランクからようやく這い出ようとしているというのに、また、闘病生活に逆戻りはもうごめんだと思う。単身の身の上では、どう考えても所謂ガンの標準治療を行うことは無理だ。

 以前の卵巣ガンの時にも感じたことだけど、人間には社会的な治療の限界というものがある。
心優しくサポート力のある家族に恵まれた場合に受けることが出来る治療と、単身で受けることが出来る治療には、格差が生じる。
 このような現状は、一刻も早く解消すべきなのだけど、昨今の国会は、医療福祉は既に見捨て縮小することを暗黙の了解として異常な運営を続けている。
思えば、福島原発以来、日本国民の方向性がアグレッシブに変化し、その国民が支持する政府の運営は、協奏曲から狂騒曲に変わったような調べを奏でている。

 閑話休題。

 そんなこんなで、メラノーマの脅威を前にして、流石にアヒルの甘言の甘ちょろさはぶっ飛んで皮膚科主治医の囁きに耳を傾けた私は、意を決して、細胞診を受けたのだった。


 ガンの細胞診の待ち時間は長く、強度の緊張が強く長く続く。

 この待ち時間に、私は、ガンに関する甘言を弄するアフラックの営利主義体質との対峙すべき使命を実感することになった。
思えば、アフラックが、「上皮内新生物」は安全です!」と言わんがばかリの甘言を呈さなかったら、より早く細胞診を受けていたには違いない。
気の弱りに付け込んでくるのは、悪徳ガン商法と宗教の勧誘だけではない。保険会社の営利追及の為の払い渋りも同様なのだ。

 この検査の結果待ちの間に、私はアフラックへの書類を提出することにした。
「表皮内新生物は安全です!」というアヒルの囁きに判断力が左右されるおバカは私だけだと思うのだけど、まんまとこの甘言に嵌って誤魔化そうとしていた自分自身が誠に情けなく思えた。

 アフラック社の体質を考慮すると、民間で調停を持ちかけた場合に、「債務不存在の裁判」を提訴してくる可能性がある。こちらから提訴するには、裁判費用がこちら持ちになるから、手術給付金程度の少額の場合は相手から提訴させるのが得策だ。
その可能性を想定して、裁判になった場合にも使える証拠書類と文面を用意しておかなければならない。
3日間でどうにかまとめ上げた書面は、簡易書留よりもゆうパックで送る方が安いほどの量になってしまった。

 こういう書簡を書いていると、さび付いた脳のシナップスがスパークしながら繋がってゆく感覚がある。
書き上げた時の達成感も大きい。人生でやり残したことの先ず一つは終了した。
 この書類の作成作業は、大変疲れるものであったのだけど、メラノーマの恐怖にアップセットした精神力は、疲れを感じさせない程のパワーがあった。
 次にすべきは入院の用意だ。金融機関の手続きを始めた半ばで、1週間が過ぎた。
入院までどれくらいの時間が確保できるだろうか?
もし、メラノーマであった場合でも、切除範囲は最小限に留めると心に決めていた。
抗がん治療も限定しようと決めていた。
日常生活に不自由を強いられたり、生活の質が今以上に落ちる生活は二度としたくないからだ。
 
 私は、最悪の覚悟をして結果を聴きに受診した。
生憎、主治医はお休みらしく代診の医師だった。

 「結果はいかがでしたでしょうか?」
恐る恐る尋ねてみたら、あっけない返事があった。
 「あ、今日は検査結果を聴きにこられたんですね。ちょっとお待ちください・・・」
私もパソコンの画面を覗き込んだ。
malignant melanomaという文字はそこにはなかった。
 「ああ、黒子でしたね。」 

 一瞬にして心にかかった暗雲が晴れた。
こんなことなら、もっと早く検査しておけばよかった・と、心底思った。

 ガンの民間療法や悪徳商法なんぞに、私は引っかかるタイプではないと自負してきたけど、アフラックのアヒルの鳴き声を信じたく思ったのは、同じ心理だったことに気が付いた。

 恐怖から逃れたいという本能的欲求の強さが、たとえそれが嘘と分かっていても信じたいと思わせることがある。
 信じる者は救われる・というたぐいのものならまだマシなんだけど、恐怖に溺れた私は藁を掴んでいた。

 ガン・・・何れの病気にも罹患したくはないけれど、ガンの恐怖は、自身の死期を知るという人間ならではの恐怖なのだろうと思う。

 老化の進んだ飼い犬は、歩くにもよろけるのだけど、涼しい夜になると、以前と同様に番犬の役割を果たそうとして、野良ネコや野生動物を追いかけて、庭の小川に落ちては、私を呼びつける。
彼を見ていると、死期はもう数年以内、既に平均寿命を数年過ぎているので、数か月以内に迫っていても不思議ではないのだけど、自身の視力の低下にも嗅覚の低下にも咀嚼能力の低下にも、筋力の低下にも、全く屈託がない。若い時と同じように、行動しようとしていることがよく分かる。
今、ここで、そして次の瞬間と未来しか彼には無いのかもしれなく思う。

 無常の世に生きる術は、未来永遠を信じることなんだと・・・父の遺言を思い出す今日この頃です。
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