endometrioid carcinomaから

ガン・サバイバー・只今人生のサバイバル中です

シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護&シングル・サバイバルライフのブログです。こんなサバイバーもいるってことで、掲載を続けることに。余命が長くなったように、文章も長~いブログです^^

『過去との闘い』 

 例年であれば、確定申告が終わった頃から、花を待つ気分がやってくる。
気候が定まらないうちに気が付くと5月に入り、爽やかな初夏の日々も斑に6月がやって来た。

 今年は季節の移ろいを楽しむ余裕がない。

 今冬から春にかけては、70歳を越えた世代の方々で、父を慕っていたという人からの記憶の提供の申し出に対応していたことでの疲れもあった。

 私は情報提供のご好意を有難く感謝させて頂き傾聴していたが、真剣に話を聴いていた途中から、一般的な人間の記憶の曖昧さと自己顕示欲の強さに圧倒された。
 
 既に父の年表は出来ているから、彼らの話のメモをその年表に付箋してゆくという作業をしながらの傾聴であるので、情報提供を申し出て下さった方々の記憶の正誤は、あからさまに判明する。
彼らの話には、事実と異なる想像を事実のように巧に織り込まれていて、本人は、まるで自分が見たことのように、まことしやかに空想話を滔々と語られる。
 そして、それらの方の話の端々には、ご自分が年老いても尚、如何に健康で記憶が鮮明であるかという自慢が入る。我こそは、歴史の生き証人だという自負を持って話をされるのだった。


 チャットAI等人工頭脳の多くの特性には、「実しやかに嘘を語る」という秀でた能力がある。
役に立つ情報提供を行うという役割を優先するプログラムの目的が裏目に出て、完璧に間違った情報をも、あたかも真実であるかのように、堂々とした文言として表出することが往々にしてある。
このような不出来なAIをアシスタントに使うと、間違った情報と正確な情報の判断能力のトレーニングが出来る。というか、自身の知識が未熟な分野では、AIの会話の見事な嘘に一旦誘導されながら、何か違うという直感が働くことで、その嘘に気が付くことが多い。
 
 父についての個人からの情報提供の多くも、そのようなAIの働きに、そっくり感があった。
年代のずれは致し方ないにしても、出身大学名も違うし職業も違う異なる人物を私の父親だとして話されたり、父の経歴とは全く異なる分野で父が活躍をしていたという記憶の間違いが発生している場合もあった。
 人類の脳も、人工頭脳同様に、私に有用な情報を提供してくれようとするものの、それらは各自の主観的な曖昧性に溢れた記憶に基づく情報提供に過ぎないことを確認する作業となった。

 残念なことに、バイオグラフィーの参考になる情報は殆ど無かった。だけならまだしも、人類の脳が記憶している各自の人生の記憶というものが、これほどいい加減なものだという事を知ったことに、私は、かなりショックを受けた。
 人生の記憶は、それぞれの一人称の私小説でもある。登場人物像は端役でしかなく一人称の作者を引き立てるように主観的に虚実こもごもに脚色され変化する。
つまり、一人一人の人間の脳には、自分の人生の過去の記憶の書き換えが、かなりの割合で発生していて、途方もない自己中記憶になっているという事実が、私にとっての新たな脅威的な知見となった。

 この経験は、私をかなり複雑な心境にした。


 加えて、身近に立て続いた親戚や友達の病気の知らせなどもあったことで、私には、今年は花を愛でる余裕が無かった。

 愚兄の会社から、解離性健忘か、認知症を患っているという知らせがあった。
何故、私の所に連絡が来るのか?と、不審に思って尋ねると、長男長女との連絡が取れないと言う。
 疎遠・絶縁関係にある兄家族であるので、その後の消息すら知らなかったが、彼の住む都市の福祉課に会社からの報告を伝えてサポートの手配を依頼したものの、会社の彼の職場の上司から聞いた話と、行政が本人から確認したと言う本人の現状もかなり違う。
本人に電話で確認した所、どうも、行政の担当者には、本人は大丈夫と空元気で主張しているらしい、認知症の初期の患者さんによくあり勝ちな事実認識の矛盾が発生していた。
 母の介護で、私は行政への介護の手配の難しさを熟知していたことで、最短距離であちこちに働きかけ、再度の現状確認を依頼したところ、6人もの専門職が彼を面談してくれたようで、ようやく、本人が抱え込んでいる問題に気が付いたとの返信が来て、2か月掛かって、ようやく適切な医療の受診サポートが相成ったが、この遠隔手配の苦労の数々に、私の方が、すっかりくたびれ果てた。
 
 そもそも、私の記憶の中の兄という存在は、小姑虐めを趣味としていた元嫁をこよなく庇うばかりか、私の両親の資産を食いつぶしたにもかかわらず、衰弱した両親の介護も一切せず、見舞にさえ来なかった忌まわしさに満ちた過去がある。私にとっては、彼と元嫁とその家族は、両親の仇とも言いたい存在であった。
 更に、両親の兄家族への巨大な生前贈与が父親の他界前から私の労力からも支出されており、父親の遺産相続に際して残された巨額な連帯債務を私が引き受けることになった経緯等、同じ父母の子供であるのに私が被った両親の子供間の差別待遇が、私と両親との間にも、取返しのつかない大きすぎる確執を発生させた。
 
 原家族の追憶には、暗さが立ち込める。 

 愚兄の介護の遠隔手配の最中では、KKKの入れ墨のある白人傷病者を治療する崇高な黒人医師がおられることや、残忍な犯行の死刑囚にも万全の治療をする医師の先生方がおられること、医療者としての倫理、そして、「同じ社会に生きる人としての倫理」、を、何度も自分に言い聞かせる必要があったほど、自身の人格の未熟さとの闘いともなった。

 親鸞聖人でさえ、愚息を絶縁するという人間臭い愚行を仕出かしている。そこが、親鸞が伝播した浄土真宗の根底に宿る人間の愚かさと哀しみを救う阿弥陀如来という概念の魅力でもあるにしても、宗教者としての宗教心や倫理とはかなりかけ離れた行為であったには違いない。 
 愚息をも、気長に見守り成長を促し様々なチャンスを与え養護し続けて来た両親を客観視する時、彼らの人としての偉大さを私は敬わずにはいられない気分になった。
戦後の泥臭い日本史の光陰を走り抜けた父の社会的な活躍などちっぽけな事に思えるほど、時代を超える彼らの宗教心と倫理の深さこそ、記録に残すべきではないかとさえ思えてきた。

 歴史は理想化される。しかし、戦後の日本の近代史が、未だ未だに闇を抱えて理想化されることがないのと同様に、数代前程度の時の流れを綴る歴史は、生身の人間には余りにも身近な過去の記憶自体が生々し過ぎる。
それぞれの人間の記憶が歴史という学問において消え去り理想化されるには、より長い時間が要されるのだろうし、現代のように、膨大な記憶がログ出来る時代にあっては、これまでの歴史のように理想化されることはなく、各自の記憶がそのままに群像化されてゆくのかもしれない。


 私の父親は日本の田舎に土着した戦後人であったが、戦後の米国に渡り日米の交友関係の為にグローバルに活躍された人物を父親に持つ友人がいる。その友人の父親と私の父親には勿論直接面識はないが、資料を辿ってゆくと、吉田首相の秘書であった白洲次郎氏と袖を掠める程度の淡交があった可能性が伺われた。
 自身が父親のバイオグラフィーを書くことになった時に、翻訳家でもあり文筆家でもある彼女に、ついつい、あなたのお父様のバイオグラフィーこそ書き残して欲しい、と提案したことがあった。終戦直後に渡米し某州の大使館に勤務しておられたことからも、戦後の日米関係の生き字引のような方であったと思われるからだ。
 その数か月後に彼女と話していると、「父親の伝記を書こうとすると、翌朝目が覚めてもそれが頭に浮かんでこない?、『過去との闘い』、私は嫌だわ。」と言う返答が返って来た。
 
 そうなのだと、私が言葉に出来なかった自分の心境を、見事に日本語に翻訳してくれた彼女の言葉が心に残った。
「ほんとにそう。父親の伝記を書き終えることが出来たら、その題名は、『過去との闘い』にするわ。」
と、私は彼女にお礼の気持ちを込めて言った。
 
 物語を書くということは、読者以上にその登場人物に感情移入する、ある種一体化する作業になる。

 一人称の人生の記憶の記録は、自己中に専心すれば、私小説のように、恥と外聞を忘れる歳になれば、誰にでも、見事過ぎるほどに実しやかに、虚実織り交ぜて語ることが出来る。

 しかし、この世で親子という生来の縁を受けた親の人生の記憶の記録である伝記を執筆する為は、書き手である子供にとってはあらゆる感情を排して究極の利他的観点に立脚することを必須とさせる。
更に、私の親の世代は、戦後という泥沼を生きて来た時代の淀みが根底にある。時代の淀みを排してはリアリティーが喪失するので、近代史の光陰を描く必要もある。
そして、親の人生に苦難が多ければ多いほど、書き手である子供は自己の共感と反感と感情のコントロールと、ついつい惹きこまれる集中力のコントロールに莫大なエネルギーを費やさざるを得なくなる。

 親の伝記を描くという作業は、精神を即席に病ませることが出来るほど過酷な修行であるのだ。
 
 私は、生真面目でもあるし、人の期待に沿うのが好きでもある。
父親の遺品から垣間見えた私の知らない父親の人生というものに心惹かれてこの課題を引き受けたが、これは決して、人にお勧めしていい種類の書き物ではない。

 自分の生命の輝きを語り終えてから、自身の人生を基準点として描き出す方が、気楽に書けるかもしれない。しかし、そうすれば、私の取材に協力してくれた人達と同様に、父親個人についての記憶は、自分の人生の端役となり、自分に都合の良いように脚色したり、時には虚像を語るようにもなるかもしれないとも思う。

 ともあれ、暫くは父の伝記の執筆という困難な仕事から離れて、未だ途上にある自身の人生を最優先してゆくことが、私の生命の輝きには必要不可欠であるようだ。







 


 

 

書けない・バイオグラフィー

    書けない。
  書けない。
書けない。

 いつもの私は、一体どこに行ったのか?
と思うほど、父のバイオグラフィーが書けずにいる。
 
 自身の記憶に残る昭和40年頃まで郷里の記録は書き出した。
が、明るい話は殆ど無い。

 時代も酷すぎるし、環境も悪すぎる。
戦後、昭和40年代までの日本の社会は暗い。
現代から見れば、暴力と犯罪に満ちた余りにも酷すぎる社会。
その社会の中での人々の苦渋とそれを超えなければならなかった時代の活力には満ちているとは言え、リアルに触れれば触れるほどその時代の粗野さについても、現代の視点から見れば恐怖を禁じ得ない。

 更に、戦後の日本の田舎は、復興国策による衰退という運命の歯車の中で、どうにかこうにか存在を維持して来たものの、昭和30~40年の時期には、致命的な悲劇が始まりつつあったのだ。

 その中で、あくまでも郷里を愛し、生き抜いた父母とは??
さながら、人間存在とは、時代と社会という運命の座標の中に放り込まれた人型のようだと、眩暈がした。

 この時代背景をリアルに把握してしまうと、まるで重篤な鬱病状態で、記憶を辿るような気持ち悪さがある。ネガティブアンカーだらけなのだ。ガンの闘病以来、基本的に鬱は持っているとしても、その描写は、私自身が、かなり重症の鬱病だとしか思えなくなった。

 そもそも、私は、歴史が嫌いだった。
日本史も世界士史も、欠点は取ったことはないが、あの無機質な年表を見ていても味気ない時間軸が面白くなく、古代史を除いて、私は、唯々、大嫌いだったのだ。
 偉人伝という種類の書物も嫌いで、読んでも何も面白くもなかった。
司馬遼太郎の、あの有名な「竜馬がゆく」は、作者の温かな目で描かれた人物像が面白かった。だけど、あれは決して、竜馬という人の伝記ではなかったし、ww2前後は、日本史の中でも明治維新以上に、特殊で異常なムードが漂う時代だったのだ。

 一体、どのように描けばいいのだろうか?


 特に、片田舎の郷里の町で、戦後を生きた身内のバイオグラフィーを描くのは、難しい。
この時期の日本の田舎は、大企業と都市部に人と富を集めるという国策によって衰退する定めの道程を歩み始める。ここには、個々の人為ではどうしようもない無力感が感じられてならない。

 戦後復興の勇ましい掛け声。朝鮮戦争から、1953年の日本の独立を経て、復興景気と史上空前の
経済成長が進行したが、戦争後の復興において、最も国体の根幹となった国策が、「企業立国」であり「企業国家」を目指すものであった。
70年以上前のこの一大政策が、中央集権を強化し、企業立国の為にあらゆる政策を施し、都市部に地方の資本と人材を集中させることを完遂して来た時代が続いた。
 当時、推進されたこの渦の求心力の凄まじさは、時と共に加速度を増して、中央や企業へと集中の渦がブラックホールのようにすべてを飲み込み続けて来た現実に、私は、圧倒された。
 田舎に住み続けた人々の多くが、どれほどの苦渋を強いられてきたことかという現実に直面せざるを得なくなった。 

 国策という名のブラックホールに吸い込まれずに、あくまでも田舎での暮しを持ちこたえて来た田舎人の底力のスゴサには圧倒されるものがあるとはいうものの、同じ日本人でありながらも、都市部と田舎を暮しの舞台にしたそれぞれの者達には格差があり過ぎた。


 都市部の暮しや海外も長かったので、この課題に取り組むにおいては、ともすれば私の視点はズレたままであることにも改めて気が付く。
 快適で便利で豊かな都市部の経済の目覚ましい発展とは逆に、国策的に衰退を運命づけられた厳しい環境に置かれ続けて来た田舎という一つの場で暮らし続ける原動力は、一体何だったのか?

 そこを煮詰めてゆくと、人間愛を抜きにしては語れなくなる。この時期、この環境下におかれた人間の様々な愛情の深さは、利己ではなく、利他。現代とは比較にならないのではないかとたじろぎを覚えることが多すぎる。
 衰退という運命に置かれた田舎の重く深い闇の中で、祖父母の夫婦愛や父母の夫婦愛の根源にある利他的な人間愛が周囲を広く暖かく包む信じられない光彩を放っていたことにも私は驚愕している。
 

 とは言うものの、書けない。
 引き受けるのではなかった・・・という後悔が満々と満ちている。

 好意で引き受けたパンフの作成などで、企業社長などの威風堂々とした所感などを代筆するのは他愛ないことだった。どんな取材内容からでも、現代社会での今後の活躍に期待が膨らむような素晴らしい人物像として描き出すことは出来るのだから、自身の父の伝記も、易々と手中に収まる題材だと思い込んでしまっていた。けど、これは、そんな体裁の軽はずみな仕事ではない。

 生前の父の挨拶や意見書の代筆は、私には全く苦にもならない遊びの一つだった。
父の真直ぐな正義感と倫理意識に基づく価値観、私には旧知の彼の考えに則れば、父の文章を書くことはいとも容易いことだったことも、今回の伝記は容易いと思い込んだ理由でもあった。
 
 なんなんだろう、この違和感は。

 例えば、ややっこしく拗れまくったウとロの戦火について、或いは、現在のイスラエルとガザ地区の在り方についての日本政府が今後取るべき外交姿勢と内政姿勢、より身近には、増税メガネという汚名の払拭の仕方や年金や社会保障の政策問題という題材が与えられたとしたら、私は、今も父を代筆して意見書を書くことが出来る。何事にも父という標準軸で意見を述べることは、私にとっては、自身の意見を述べる以上に容易に感じる。

 バランス感覚と真心に優れた純朴な人であったから、父の意見には、私自身の対立する意見でさえ、議論を闘わせれば、私の意見が自ずと敗退する普遍性があった。だからこそ、私にとっては父の文章は書きやすかった。緻密でありながら、相手を完敗させることなく、敗退させる言論とでも言えばいいのか。
 
 勿論、父のご意見には概ね負けるとしても、私には私の意見もあるのだが。
父の意見を書く時に自身のベースとしていた彼独自の普遍性は、世界人類に共通する倫理観とでもいうか、本来の宗教心に近い利他の摂理を基本に、人類の弱さを許容した懐の大きさを加味して、万物に通じるかのような無私なる純朴な視点から、父の論調を真似て言及すれば、勝手に彼の文章になる。

 自身が、最もよく父の代筆をしていたのは20代~30代の頃で、きっかけは、当時まだ発売されたばかりのワープロを父が買い与えてくれたお礼の気持ちを込めて、自発的に父の代筆を始めたことだった。
最初は、父から簡単な草稿を受け取って書いていたが、そのうち慣れて、草稿が無くてもすらすら書くようになってしまった。というか、父は、あまりにも父本人のような文章を勝手に書き綴る娘に、これはしたりと、思って、草稿も渡さなくなったのかもしれない。
 思えば、その後、ご縁のあった何人かのゴーストライターをお引き受けしたことがあった。金銭を頂く仕事ではなくて、好意でしてきたことで、人格崇高な方の文章は、その人格に則ってあとは文章の個性を真似れば、自分の文章以上に上手に楽に書けることが分かった。

 勝手知ったる父の文体は、当時50代~60代だった父相応の年輪を宿して父の文章として後々にも影響したらしく、父亡きあと、
「お父様は素晴らしい文章を書くお方でした。本当に惜しい人を亡くしました。」
と、内心それって私・私は未だ生きてるんですが・と思いながら、褒めて頂く光栄に預かったほど、私は「父になりきった」文章を得意としていた。
 父の死後、父の交友関係にあった方々に手紙を書く機会があった時などには、私自身の手紙であるのに、父であればどのように思いどのような気持ちで相手に伝えるかを無意識に自覚した文章を書いて来たようにも思う。


 ところが、父の伝記が、私には書けない。

 父に成りすまして、意見を書くことは出来るが、彼の意見と私の意見とは対立することも多くあった。
 つまり、私という主観から見た彼の人生は、彼自身の主体的人生とは違う。
 未だに、父を客観視するのが難しい。
一体、どのような父の記憶や父と交わした会話を記録すれば、彼らしい一面を描くことが出来るのかが分からない。

 父の価値観にはいつの時代にも通じる普遍性があった。そこに父独特の人格になりきる自分が呼応して、父の文章は何処にでも通用する文章になっていた。
 以前、私自身が書いた、父の文章の一つが古いパソコンに残っていた。
読み返すと、まさか私が書いたものとは自分でも思えないような、普遍的倫理をベースにおいた素晴らしい論理的整合性と、時代を超えて今に通じる正義感に満ち満ちた文章だ。
どんな権威に対しても、どんな無知な者に対しても、等しく、威風堂々と余裕を見せながら正論を貫き、皆を導く。
 敢えて、反対意見が入ってくる隙を残しておくというのも父の好んだ言論の仕方で、その隙に感情的に打ち込んで来る言論を論破せずにおいて、周囲の者が反論への反感を感じることで、自ずと自身の言論の論旨の秀逸性を際立たせることを彼は好んだ。

 彼が持っていた普遍性と余裕は、雄大な心の広さと深さと優しさに培われたものだった。

 その根源は、一体何なのか?



 ともあれ、そんな疑問を心の隅っこに掛けて、暫くこの題材は寝かせておけば、やがてワインのように芳醇に熟成してゆくかもしれない時間の効果に期待する今日この頃です。

 某政治団体の歴史担当者が教えてくれた話は、私が幼い頃父母から伝え聞いた話や、父母が行って来た社会活動によく通じるものがあったことに覚えた夏の衝撃も、次第に落ち着いてゆく季節になりました。

 暖かな冬に、こっくりとした甘酒のような美味が誕生することをちょっと期待して、秋の山野の手入れと、冬支度~新年迎えへと、季節は移り変わってゆきます。


 今年もあと2か月余りになりました。

 コロナは小康状態のようですが、インフルエンザ他梅毒等の感染症の増加の報道も目立ちます。
何故、今頃感染症が増加しているのか?については、感染対策で、免疫が弱ったからだと言う意見が主流ですが、ウィルスや細菌に一切暴露しない完璧な感染対策は、たとえ部屋から一歩も出ない完全な引きこもりであっても、運ばれてくる食事を摂る必要はあるのですから、一般には不可能です。
マスクにしても、ウィルスの暴露量を減らし、人体に備わった免疫で感染や発症を防ぐ機能ですから、ノンマスクより暴露量が少なくなるだけ。 抗がん治療中ではないのですから、感染対策程度で、人体に備わった免疫は決して弱ることはない。
 感染症激増の現状に対する推測の中で、最も的を得ているのは、コロナ感染(含・無症状感染、或いはワクチン)の影響ではないかと、懸念されます。
 
 上気道炎の対処の薬が決定的に不足しているという報道が流れています。
経済という言葉に舞い踊る勝手気ままな大人の欲望が先立つあまり、一斉にノンマスクに激変させたことでの、子供や老人や健康弱者にしわ寄せされた心無い影響の大きさを憂慮しないでは居られない時期にもなりました。

 例年通りであれば、12月末からまたコロナも増加シーズンに入りそうです。
今冬は、甘酒に凝りたい気分。
あと、ワンシーズン、どうにか持ちこたえて、新しい年に期待を馳せたい所です。





新型コロナの横顔~進行の早いがん

 病と死が、友達を奪ってゆく。
数週間前、私は、日頃、よく話していた電話友達からの病気の知らせを受けて、再び、限りない悲しみに捉われた。

「肺がんが見つかった。ステージⅢ。リンパ転移で声帯がやられてこんな声になった。」
「冗談?喋りすぎじゃないの?」
「こんな冗談、サバイバーの君に、言えるはずないだろ。
定年する前の人間ドッグでは、何もなかったのに、何なんだこれって!?見落とされたってことか?!」
「それは・・・、まずあり得ないと思う。」
何故ならば、彼の会社では、集団検診ではなく、一般では8万円程もかかる精密度の高い人間ドッグを利用していたからだ。

 呆然とした。
彼の叫びは、2年前により親しかった仕事仲間から聞いた叫びに近い言の葉と同じ言葉だった。
彼がこの世を去って2か月が過ぎた。

「半年前の人間ドッグでは何もなかった。なのに何でこんなに急にガンが進行するんだ?!」


 左右の連続パンチを食らったように、私は本当に唖然とした・
が、私より、本人である相手は、より呆然とした心境にあるに違いないのだから、私が呆然とした様子は見せられない。

 ガンに罹患した時に、大切なのは、原因の究明でもないし、これまでの経緯など関係ない。大切なことは、これから治ることだけだ。
 これから必要な事だけを、私は、丁寧に彼に伝えた。


 彼は、5回ワクチンを接種した後、コロナに罹患していたことが、脳裏をよぎった。

 彼は医療者ではないし、医学やこの感染症に向学心のあるタイプでもなかった。
当時、ワク推の嵐の中で孤立・差別・バッシングの嵐の中にあった私が、アナフィラショックの重篤さとそうした者にはこのワクチン接種は禁忌であることを説明していたにも関わらず、私本人に対してワクチンを推奨し続けた心無い人・に、分類できる友達の1人でもあった。
当時の世論の中にあっては、一般的にはワクチンは余程の精神力を持つ者以外は、皆さん洗脳に流された時期であったから、異端者の私はノーコメントを決め込んで来た。
 とは言え、寸暇なく連続して接種し続けることには、疑義を発していたし、ワクチンを接種しても感染率はさほど変わらないのだから、くれぐれも感染対策だけは忘れないように・とは、言っておいた。
 今まで私の周囲でコロナに感染した方々の多くは、公共交通機関での移動、外食、子供や若年者たちからの感染が主流で、この友人も、外食と子供や若年者たちからの感染の機会は、比較的多かった。


 それにしても、急激に進行したガンの知らせを2度も耳にした現実は、気持ちが悪すぎる。
自身に宿ったがんも、もし、発見の3か月前に受けた小さなクリニッでの婦人科がん検診の結果が見落とし、或いは見えなかったということでないとすれば、急激に進行したがんだったのだが。
 一般的にガンは、発見される10年前~数年前に、何らかのトリガーがあり、その後何らかのプロモーターに養われて人体に備わった免疫機能を逃れてゆっくりと発育すると言われている。


 思えば彼は、4回目の接種後、アレルギー性皮膚炎を発症していた。この時点で、次回の接種はしない方がいいと、私は控えめにアドバイスした記憶がある。が、聞く耳持たない彼は、果敢にも5回目の接種をした数日後にコロナを発症した。
その後、あれこれと、体調不良を訴える電話が続き、精密検査を勧めたところ、今回の進行ガンの知らせとなった。


 もう、冗談じゃない!
 いくらなんでもこんな悲報の連続はヒドスギル!
と、大声で叫びたくなった。
 これが、私の周囲に限定した現実であれば、偶然なのだろうが、所謂反ワクではいない私のF.B.友達の情報を見ても、世間一般に、異変が起きているには違いなさそうだ。
ある脳外科医の記事には、今まで見られなかった小児の脳疾患が頻発しているとの記載まである。


 この半年の間に、プライベートで3名もの同世代の友達を亡くしてしまった。
十名近い友達が、新たに心疾患や脳血管障害、血管障害、免疫疾患を発症した。今も未だワクチンの後遺症で苦しんでいる人も2名おられるし、初期のコロナで後遺症で仕事が出来なくなった人が2名おられる。
 これって、ざっと、100名ほどの友達の中での出来事であるが、自身が年を重ねて、友達たちも年を重ねたと言っても、これまでの60前後の年齢的な疾患や死亡率の増加の統計を勘案しても、これでは3倍以上のペースだ。
 職務上の守秘義務を伴う方々を含めると、今まであり得なかった、異常としか言えない現状が進行中の様子に、心痛む日常となってしまった。

 
 以前の株と比較すれば、オミクロン株が主流になって以降のリスクは低下しているが、他の感染症が妙に増加しているのは、コロナやワクチンと無関係とは考えにくいと思えてならない。

 過日、新型コロナの感染に関しては、コロナに感染した後は数か月ほど樹状細胞という免疫を司る細胞数が激減するという研究報道があった。
 これを前提に考えれば、無症状感染者であっても、ある程度の免疫の低下が発生する可能性も否定できない。そこに、ワクチン接種後の免疫低下も発生する。個体によって異なるとしても、人体の免疫の極端な低下が発生する可能性もある。
 更に、先日の研究報道に拠れば、コロナウィルスが血管内皮に感染することで引き起こされる問題が、IPS細胞で確認されてもいる。

 こちらのブログにも何度か書いた通り、サーズ・コブ2ウィルスは明らかに普通の風邪とは異なる機序を持ち、人体への異なる影響を及ぼす能力を持ったウィルスであることには変わりない。


 個人に委ねられた感染対策がどこまで持続するのか。
この夏の猛暑と、コロナは風邪に過ぎないというおとぎ話のような安全神話が、人々からマスク奪ってゆきつつある。

 未だ、安全とは決して言えない感染症・である事実を認めようとしない者が、弱者に思いを馳せる真心や想像力をどんどん欠落させてゆく有様が情けない。
 感染症の脅威はカルト宗教じゃないんだから、信じる信じないの問題ではない。

 人々の心を科学に関して疑心暗鬼にさせ、ええじゃないか節に浮かれている要因の一つが、新型コロナワクチン問題であることも否めない。日本における厳密な統計の正確な発表が待たれるが、政府の黒塗り体質が変わるかどうかは、甚だ心許ない。
 正確な発表がされない限りは、科学への信頼感は取り戻すことはできない・という、部分を政府がこれからの医療費削減に利用しようとしているのかもしれないが。


 政府厚労省は、専門病院の新設ではなく、在宅看護の充実に舵を切っている。
一方で、在宅介護の充実が抜け落ちたままでは、どうしようもない。

 戦前、戦中、戦後の日本史に埋没している私の目からみれば、大家族が殆どで、コミニティーが充実していた時代と、現代は大きく異なるのだから、せめて、在宅介護分野の保険点数を大幅にUPして対応を強化しないことには、高齢化のピークを迎えつつある日本社会に、コロナによる健康人口の減少が加わっているのだから、個々人の努力が及ばない、棄民政治の危機状態が続くことが予測される。

 新型インフルの特措法から、突然5類相当の行政分類に落とす前に、何故新な立法を行い、徐々に社会的対策を緩和することが出来なかったのか?

 日本政府の政策作成能力の低下が明らかになった。



 サーズ・コブ2ウィルスの全容がまだ見通せないこの時期を利用して、重圧の大きな戦前戦中戦後の歴史と格闘しながら、個人的な感染対策は、全く変わりなく暮らしています。
 
 コロナに見通しが付くまでの間に、できるだけ腰を落ち着けてしておくべきことをするのが、このシーズンには打ってつけのようです。

 今冬の結果眺めで、来春には、少しは見通しが付くことを祈りながら。


 それにしても、バブル時期を経て、円熟国家として成熟するべき我が国であったにも関わらず、何故、未だに、ここまで日本政府は成熟しないままなのかが疑問でなりません。

 70年余り前の政府への提言が、現代の政府にも通じる。というより、70年前よりも、もうそろそろ、政治家諸兄と国民各自が、心しなければならない珠玉の提言が、70年前の日本に数多くあったことに驚いています。
 何も変わらなかったどころか、これでは、70年前よりも現代の方が、ヒドクなっているという危機感が。

 この国は、一体どんな国家を目指しているのか?
20年程前に、自民党と民主党のそれぞれの政策を聞く機会があった時に、前者は10年スパン、後者は2~30年スパンでの政策でした。

 本来は、半世紀後の自国の国体を考えなければならないはずですが、一体何故なのか?

 各政党の政策自体が、つまり日本という国自体が、「進行の早いガン」を患っているかのような政局の有様にも絶句することが多くなりました。


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