endometrioid carcinomaから

-10 years after- 卵巣ガン&人生のサバイバル

2012年04月

ようこそ!
シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護&シングル・サバイバルライフのブログです。


介護現場の重大問題・田舎町の介護現場

 季節は駆け足で初夏を迎えた。
桜花が南風に舞い散り、新緑が息吹く季節は生命が賦活する感覚がある。

 毎年、この季節になると、青春の一番いい時期を過ごしたカリフォルニアを思い出す。
病後、4年が過ぎて、昨年の春よりも、僅かづつだけど確実に体力が回復してきていることを実感する。
 
 病後、私は、とある郊外の田舎町で暮らしてきた。
療養には閑静な田舎がいいと思ったし、古くからの友人の多い故郷の私宅が恋しかったという郷愁の念があった。
 しかし、それまで都市部と田舎を行き来する生活であったのが、完全に田舎町が生活のベースとなることは殊の外息苦しいものでもあり、単身の病身での田舎暮らしの物理的な不便さと、一方で、何度か記事にしてきたように、高齢で介護が必要な老母との暮らしは、病身には大変に負担が重いという問題が大きく私にのしかかり続けている。

 ここのところ、老母の介護に追われてブログの更新が出来ていない。
それに、私は古民家に住んでいるので、家の修理と放っておいたら家の中に入ってくる自然界の植物の草刈に追われてもいる。田舎の暮らしの基本的な仕事は、大自然の中で、自分の家の周囲から迫り来る自然の侵食をいかにして食い止めるかというところだ。

 最もの問題は、先のカンフェランスでユートピアの夢を描いたのはよかったのだけど、私はその和やかさの足元に、とんでもなく異常な事態が進行し始めていることに直面することになった。

 元々、介護サービス関係者と老母とのコミニケーションがスムーズに行かずに、結果として、私が引き受ける介護時間と労力が余りにも多くなり、煩雑極まりなくなって、自分自身の生活が成り立っていない現状がある。
 
 私自身の闘病中から長らくの間、「同居家族がいる場合の生活援助」ができない!というとんでも発言の繰り返しを受けて、老母と病身の私は、「公的介護渋り」に遭って来た。
 以前、「同居家族がいる場合における生活援助」の現状については前述した通りであるが、実際の介護現場では、ある意味「同居家族がいる」という理由が、サービスの怠慢やミスを言い逃れる口実としても利用されやすいこという難儀も語るに尽くせなかった。
 その問題については、地方自治体との交渉を重ねてやっと解決がはかられ一瞬、介護の正常化が得られたと思ったのもつかの間、とんでも事件が起きた。

 そして、サービス提供事業所長の言い逃れの口実に新たに、「生活援助は最低限利用者が生きてゆけるだけの掃除や調理だけに限る」とされている。以外は保険の返戻がある。」という発言が出てきた。
 この発言のきっかけは、、衣服の着替えは何日に一回するものなのかとかいう基本的な問題から始まって、食事は何度食べさせればいいのか?床掃除の頻度とか、埃だらけという程度がどの程度であるかとかいう誠に低レベルな問題であるし介護保険法の中では、一例を挙げると、「どこまでが普段の家事で、どこまでが大掃除なのか?老齢者の基本的人権を保障する衣食住の水準とは?」という我が国の国民の生活文化水準に関わる微妙な部分が羅網されていない欠陥がある。
 サービス提供事業者側としては、提供するサービスは出来るだけ少なく楽チンな方がいいという短絡的発想があるのだろう。労少なくして報酬が得られるに越したことはないと考える輩も多い。また、訪問での生活援助や身体援助に関しては、介護支援員の素養による部分が非常に大きい。所長が上から目線で、従業員のミスを庇う為の言い訳にも事欠かない。
 このつまらない論争については、また、私自身がどうしようもない介護現場の重箱の隅を勉強研究して、正当で叱るべき弁論を用意し、行政にも進言してゆかなければならないのだろうけれど。
 正直言って、この次から次へと言い訳や言い逃れを述べる口さがなさには心底あきれ果てているのであるが、介護業務の質をを出来るだけ低くする言い訳の抜け道を作っているらしい厚生労働省の法律にも問題が大きいし、田舎町の介護現場は数少ない事業所が独占的であるから、クオリティーの向上はなかなか望めない。

 茶道の規則の中に「相客に心せよ!」という訓告がある。
これは、茶会を催す際に気持ちの合わないメンバーを一緒に招いてはならなず、和やかな場となるよう招待客を選ぶという教えであり、また相客との和の心を説く。
 幾つかの事業経験のプロジェクトチームを組む時にもこの教則は共通する。

 現代の介護の問題の最大の難点は、介護チームを利用者やその家族が自分で選択し編成できないことだ。
もし、自由に選択が可能であれば、利用者やその家族の苦渋は半減するだろう。
 利用者の選択肢を増やすには事業所を増やすのが最善策だ。

 先月、やっと真面目なケアマネさんに出会えたと思ったがそれもつかの間、今度は、ヘルパーさんに問題が生じた。
 老母とのコミニケーションを大幅に取り違えるのだ。
もともと慎み深い老母が、遠慮がちに口にした会話を30代のヘルパー女子は時には真に受けたり、時に曲解を繰り返し、いつしか、彼女は自身に都合のよい彼女の妄想を描いて、とんでも活動を開始した。
ヤな予感を察知した私は、間違いのないように、彼女に文章でその日お願いしたい母のヘルプを書くようにしていた。が、思い込みが激し過ぎる彼女には、文面など、なんら役に立つことはなかった。 

 ある日、私が目を離していた訪問介護のほんの3時間程の間に、屋敷の裏口に十数袋のゴミ袋が出された。
よく見ると、母の洋服が無造作に詰め込まれていた。一瞬、不用品かと思ったが、よくよく見ると、母が普段着ている服や、お出かけのお洒落着も混じっている。
 誤解がないように言及するが、母は、良いものを長く着るというポリシーをもって生活してきたので、その洋服の殆どは、誰が見ても決してボロ着ではない。
 母に必要なのは、季節毎に服を仕分けて、収納することだけであった。
なのに、全てが捨てられたのだ!

 「何これ?なんでゴミ袋に?!」

 その日、私が書いたリクエストは母が取り出しやすいように衣服の整理整頓を行うことであった。わざわざ、付箋でたんすの引き出しに入れるものやプラボックスに入れるものなどを書き出し、季節毎の洋服の仕分け方法まで記しておいたし、半ば徹夜常態で途中までその仕分けを私自身がしておいた。
母の判断力が衰えてきているので、ゆっくりと母の意向を聞くように、「不用品」と「着るかどうか分からないもの」と大きく書いたビニール袋を何枚も用意し、決してゴミは出さないようにとマジックで書いておいた。
 にも拘らず、結果は、十数個のゴミ袋となって、母の自室のお洋服は壊滅状態に至ってしまったのだった。
話は、母が「もう着れないかも・・・どうしようかしら・・・」と迷った発言が、該当ヘルパー一名が、洋服全てを捨てた原因だったという言い訳に終始した。
 おいおい、母のコミニケーション能力は低いがゆっくりと話をきいてやれば、意思表示は可能である。前夜私はその作業に7時間を費やしたのだ。そして仕分けた服を全部捨てるなんて!!!
 思うに、かつてカウンセリングのプロ経験がありかなり気の長い私でさえ切れかける母の話に、その年若く?物事の曲解が多いヘルパーは内心切れたのだろうとは予測できる。
 で、これ見よがしに全部捨ててしまえ!とぶち切れた結果だろう。
全て捨てて必要な物は新しい物を買えばいいという最近の若者に多い発想があったのかもしれない。
 しかし、しかし、私はボランティアで母の介護をしているが、ヘルパーはプロである。職業規範とプロ意識で仕事をするのだ。プロで在る以上、切れることは決して許されないだろう。
 ったく、全てをゴミに捨てられた私の驚愕と憤怒は言葉に尽くせなかった。

 老母が言うことと、ヘルパー女子が言うことが全く異なる。
 母には認知障害や自己表現力の低下はあるが、それ以上の問題として、ヘルパー女子の心のベースにちょっと困った思い込みと独断があるという前提に私は気がついた。
 
 それまでも、彼女の言動には幾度と無く、私は頭を抱えたことがあった。
とにかく思い込みが激しく、自分の思い込みに従って、確認せずに謝った報告を飛ばす。
以前記録した精神病院への通院の強要のきっかけをつくったのも、ヘルパーだった。
それで、当時、ケアマネのみではなく、彼女も交代をお願いすべきかと迷ったことがあった。
 仕事では、マズイと思った場合は迷うことなく交代させるのが、人事の定石だ。
けれど、悲しいかな、この場合は、母という利用者本人の意向を優先されなければならない。母は彼女を外すことは求めていなかった。
私の失敗は、この母という少々判断力と主体性と自主性に問題のある人間の意向を最優先させたことに起因していたのだ・・・・・・残念ながら、母は好好婆であるが故に、特に人に騙されやすいという難点がある。

 と・・・各20キロもある十数個のゴミ袋を自宅内に回収し、中身を再度仕分けしながら、老母の介護という仕事が如何に重労働であるかをほとほと思い至ることになった。おかげで、過去の脊髄損傷の後遺症がぶり返して再度私が要介護状態に戻った如く、昨夜から、完全にダウンする羽目に陥っている。

 で、それはもう仕方ない、私が余儀なくされた無駄で二度手間な重労働もまあいい。
この結果を事業所長に告げて、業務体制の再建を図らねばと、私は考えた。
 が、既に、徹夜続きで意識が朦朧としていた私は所長の饒舌に呑まれた。
悲しいかな、キャンサーサバイバーの体力は一般人ほど豊かではない。

 そう、所長の老獪な言い訳は、「普通生活援助で出来ないこともやってやってやっている。」というまたまた介護保険制度の法の網を離床した主張が露呈してきた。
 この文言を聞いていて、介護制度には、サービスの怠慢やミスの言い訳や言い逃れに出来る文言が多すぎるのだと気がついた。
そして、介護保険の利用者の支払い額が1割であることで、全額が見えないことも質の低下に甘んじる気持ちを醸しやすい。時給2000円のプロの仕事のレベルとはどういうものか?が全く考慮されなくなる。
 介護現場でも、医療と同様に、明細を記した具体的な領収書の発行の義務付けが急がれる。

 さてさて、田舎町の事業所の所長が言い訳に使っている「普通の生活援助」の範囲がどういうものなのか?またまたお勉強が必要な課題がやってきた。
素人の私が一々勉強し、正しい知識を逐一、時間と労力を費やして勉強・研究・取材して、専門職の彼らにお届けしなければならないこの余分作業のおかげで、私は、最低限の自分の仕事も出来ず、療養やリハビリも進まないのである。
 介護職はプロとして仕事をしてくれているはずなのに、何故、何度もプロ意識の脆弱性が露呈する問題が起きるのだろうか?
 我が国の介護が発展途上であることだけが理由であるのだろうか?

 これ以上の労力と時間の浪費が重なれば、次回は、真面目に民事訴訟を考えようと思っている。
老母の洋服の殆どが、もし、私が見つけていなければ、選別なくゴミとしてすてられようとしたことは事実である。
社会通念上、これは、他人の所有物を無断?で破棄するのは、犯罪であり、そのままなくなった場合は損害賠償事件として提訴すべき種類のものだ。
 大体にして、何事に対しても、意地悪や嫌味や言いがかりのお座成り話に付き合わされるくらいなら、裁判の方がどれほど心地よく清清しいことかと思うし、私のレベルは合う。
 この場合裁判において、問われるのは、①母の了解があったかどうか、②母の判断能力が適切であるかどうか、適切でない場合は、③衣類の取捨に関わるヘルパーの選別基準の問題と、その家族の了承をとったかどうかというい責任問題が問われることになるだろう。

 介護現場が医療現場と決定的に異なることは、業務へのプロ意識と研究心と失敗が許されないことを自覚しているエキスパートとしての誇りの、在る無しだと思う。
 医療現場では、言い訳や言い逃れは通用しない。
 私は、はっきりと気がついた。
 少なくとも、私が現在チームを組んでいるメンバーの約一名は、厚生労働省が行ったちょっとした法改正をその業務の怠慢やミスの言い訳や言い逃れの為のツールとすることが常態化しているのだと。
 私は彼女の性格の偏りをそれとなく撓めて、まっすぐな人心を取り戻させなければならないということに気がついた。できれば、チェンジを要請したいのが本音なんですけど。何せ田舎では、選択肢が余りにも少ないのでそれ以上は求めることが厳しい現実が存在する。

 都市部に在住する要介護家族を抱えた友人達と話していると、どうも私の場合特に公的介護サービスが行き届かない「とんでも地域」に住んでいるという感想が否めない。
 介護制度が、順調に運営されていない実態が、そこかしこに見られる。
行政というのは、どうも、中央から離れるにつれて、質が低下して、通達すら届かないという現実がある。
介護の専門職の知識と職能も同様だ。

 田舎町で、特に目に余るのが、介護認定を受けて生活に不自由を訴えながら、独占企業的な事業所と上手くコミニケーションが取れなかったり、ご本人がサービスについての苦情を言った腹いせに、無視され、放置されている要介護者がおられるという現状がある。
 利用者さんの引き受け競争がある都市部では常識的に考えられないことであるが、事業所数が少なく、競争が無い田舎では、有り得ないことが容易に有り得る。
 
 私自身、旧来の職業的背景があって、現在までにそうのような方々に適 宜介護サービス事業所にご紹介させて頂いた経験があるが、先日、残念なことに私の休業中にその中の1名の方は結局何故か充分な介護が受けられずに孤独死されたことを耳にした。又、他の1名の方とたまたまお目にかかったところ、サービスが粗雑過ぎて利用者さんから断って、今は都市部の大手のサービスに出張費用を出してお願いしていると聞いた。
 また、屋敷内別棟で暮らしていた老父と、その長男家族のケースでは、例の「同居家族がいる場合における生活援助」の問題で「介護渋り」に遭った成れの果てに、老父は何ら介護を受けることが出来ないまま、死後1週間後に見つかったという事例もあった。 
 最も問題なのは、ケアマネさんと契約する際にもヘルパー派遣所と契約するにあたっても、包括支援センターを主として、この町では、「受けて頂けるかどうか確認します」という上から目線の言動を行う慣習がある。
 正確に表現すれば、「当町においては、事業者数と介護従事者が需要に対して少ないので、誠に申し訳ありませんが、担当できる利用者様の数が多い場合は、心ならずもお待たせする場合も発生しています。この事態から、どうか、暫く調整の時間を頂戴いただけないでしょうか?」というのが本義だ。
 一般的にも、こうした民間契約の仲介?に際して、「ご契約のご要望を打診させて頂きます。」とか、「派遣できる人員調整を依頼させて頂きます」などと言った双方対等の取次ぎとして対応をさせて頂くべきであるわけで、私の知る限り、この地域では、介護保険の主体は利用者であり、公的介護保険の経営システムから言っても、実際に派遣に際する給与を支払うのは保険加入者であり納税者である介護利用者であるという介護保険の基本理念の欠落が常態化していた。
 なんらかの場合に病人に対して、「病院に診察していただけるかどうか確認します。受け入れていただける病院があるかどうか探します。」なんて言う仲介者がいたら、彼は即座にその対応によって社会的に糾弾されるという事件も実際に記憶に新しいのだけど。介護の現場は、誠に悠長だ。

人間が犬に噛み付くとニュースになるが、犬が人間に噛み付いてもニュースにならないという話のように、こうした介護現場の問題は余りにも常態化していて、ニュースにさえならない。


 現代の介護の現場の多くは民間企業に委ねられている。
都市部の場合は、多くの事業所が存在することで、良好な市場競争の自然淘汰により、より上質な介護サービスが実現してきている。

 介護事業というのは、経済荒廃が進む田舎町では、唯一の億規模の地場産業とも言える。
ところが、田舎の最もの問題は、事業所の数が少ないことで自由競争によるクオリティーの向上がなかなか期待できないことだ。

 既に顧客を持っている既存勢力の中でも、利用者さんは今後どんどん増加の一途を辿ることが確約されている業界であるので、新しい事業所を起業するには、他にはない差別化した優れた特色を打ち出せばかなりの集客力が想定できる。
 問題は、田舎では若者の定着率が悪いので必然的に従業員の雇用に際する優れた人材の確保が至難であるという点と、優れた起業能力がある場合は、競争が多くても集客量の多い都市部を選択するという自由市場原理も働くことだ。
 今回、老母の介護における不測の問題に直面して、同様に要介護の老親を持つ友人や知人、介護専門職の友人等に現状を聴取したり、厚生労働省や県庁の資料とケアマネの教本や各法律を調べてきた過程において、
最も実感したのは、人口密度の少ない自由競争の市場原理の働かないところにはサービスの質の向上は悪いという点であった。

 田舎町に暮らす中で、現実の生活上、一番困る所は、外食産業が余りにも少ないということだ。
都市部で暮らしていた時は、大概の街では、徒歩5分圏内に各種レストランや食事処が数件はあった。
デリバリーも和洋中各種取り混ぜて数件以上あった。ところが、田舎町では、外食産業も余りにも少ない。
 介護事業所と同様に、数が少ないから、独占企業化したそれらの殆どには、クオリティーを望むことが出来ないというのが実際だ。

 現在の私が住んでいる場所は、駅まで徒歩5分という交通至便と表現できる場所であるにも関わらず、車がないと日々の生活の買出しが出来ない。
30年前までは、駅近くに多くの商店や公的機関が存在していたので、とても暮らしやすい場所だった。
 ところが、右肩上がりの経済成長と人口増加を妄信した強者中心視点を持った都市計画の結果として、それらが分散化され、「駅」という集約力を失った町は物理的人心的に荒廃の一途を辿っている。
 東日本大震災後から、我が国では、分散していた人口を集約化しようという町づくりの方向性が打ち出されはじめている。
しかし、一旦その中心となる何らかの集約力を失った旧来の町を恣意的に集約化することが実際に可能かどうかは、甚だ心許ないと感じる。

 特に、訪問介護事業所の問題を考察するに際しては、この人口密度の高さが、実際の経営と密接に結びつく。経営的に、クオリティーで勝負できる事業所は、人口密度の高い地域での運営を選択することになる。
 田舎町の介護行政の使命は、この経済的競争の中での田舎のペナルティーを直視した視点を持つことから始まるのではないか?
 
 田舎町の過疎化と都市集中化という現代人の習性は、利便性もさることながら、市場競争原理による人的サービスのクオリティーの高水準も大きなポイントを締めているように感じられる。
 だとすれば、旧来交通の至便が果たしてきた「駅」の集約力さえ失い荒廃した田舎町の新たな集約力があるとすれば、それは、人為的にハイレベルな人的サービスのクオリティーの構築だろう。

 田舎町の介護行政の方針を考える時、恣意的に新興事業所の参入を促し、市場競争原理をフル活用ことが、今後の介護の質の向上を図る方向性であり、田舎町の不便を補いひとつの過疎化の歯止めとなると思われるのだけど。
 実際、田舎での起業者が少なく、行政が画期的な力を発揮できない現状維持主義であるという現実の前に、一市民の憂慮や提言も反映されるには時間が掛かりすぎている間に、私の老母の老化と衰弱はどんどん進んでいる。

 こんな介護の現場に長くいると、私は、長寿を全うし老衰するくらいなら、ガンの再発か事故か、少なくとも頭と自己表現ははっきりした状態で、病院での死を選びたいと真剣に思う。在宅介護や看護は余りにも未だ、この国では未熟すぎて、「最後まで住み慣れた自宅で・・・」というと聞こえはいい部分もあるが、余程スーパーケアマネと謙虚で実直なスタッフが揃わない限り介護サービス内で発生するストレスによって、利用者とその家族にとっての精神的苦悩が大きくなりすぎる。
 数年前、都心部でも、「在宅介護スタッフへのストレスが高じて」老妻が夫の酸素吸入器を外したという事件があった。家族の介護スタッフへのストレスは、要介護者への怒りとして表現されることが多い。
この事件のニュースでは、「在宅介護スタッフへのストレスが高じて」という重大な社会問題が抜け落ちた報道がされていたのだけど。それほど、介護は社会的にミスが許される業界だとも言えるのだろう。
 また、介護業者に老親の介護を委託していたにも関わらず、介護事業所が必要な介護をせず、老親を衰弱死させたことに対する裁判の事例でも、その事件は報道されていない。
医療事故は騒がれるのに、介護の現場は杜撰なのが当然、介護の責任は全て家族にあるという、全時代的な固定観念から、まだ、この国は脱皮できていない様相である。


 ガンに罹患したことで、私は、多くの貴重な体験や発見、意識の改革をさせて頂いたし、死に方を考える時、介護現場の現状を見ていると、更に、ガンという病気は決して悪くはない、どちらかと言うととても潔い死に方のできる「サムライ」っぽい病気であると思う。
 そして、私は、出来る限り病院で「プロの介護を受けたい!在宅介護は受けたくはない!」と、心から、今は、そのように考えている。
 

ライフ・サバイバル 介護の充実のユートピア

 ウソだろう???
こんなはずでは・・・・

 2012年4月5日。
それは、想定外の現実として突然私に迫ってきた。

 老齢の実母と実娘の同居生活は危険が多い。
そう、依存が生じることで、自立が妨げられるし、私のような体調不良と老齢の母では、気がつくと双方が引きこもりがちになる。
 マズイ・・・とは思いながら、病後の私は長らく老母と同じ家で暮らし続けてきた。
母は1階、私は2階での家庭内別居という感じではあるのだけど、これが、先月問題となった「同居家族がいる場合における生活援助」の提供に係る問題となっていたのは、前述したとおりだった。

 その件で、ここも私の残命の見せ所とばかり、さながら仕事の交渉に挑む真剣さで、公的介護の充実を行政と事業所に求めてきた。

 結果、誠にありがたいことに、公的介護は実に素晴らしく改善し充実し、日々、母の元にはヘルパーさんが訪問してくれていて、今後の母の一人暮らしの為の生活用品の整理も始まり、素晴らしいケアマネージャーも見つかった。
 この間、一方で、私は、母の為に、素晴らしい物忘れ外来を持つ精神科の主治医も見つけた。

 気がつくと、母と私は、素晴らしい主治医と素晴らしい介護職の皆さん方に恵まれる幸いを頂いた。


 で、昨日と本日、カンフェランスがあった。

 内容は、なんとも意外な展開になっていた。
今後の方向性は、母の介護は公的介護スタッフ全員で責任を持つので、早々に私には私自身の人生を思うとおりに歩ん出下さいとのことで、私宅からの転居も素晴らしい!ということに・・・
 
えっ?確かに、こうした場合の別居の勧めは、とても妥当で理解できることなのだけど、ちょっと待って・・・
ウソでしょう??
この家屋敷、私が買い取った物なのだけど・・・なんで私が出てゆかねばならないん?
 
 決してそういう意味ではないのです。
 お母様がこの家で出来るだけ長く暮らしたいと仰ってます。
 今更お母様はどこか他のところに転居できません。
 それに、一緒におられる時間が長引けば長引く程お母様の自立は不可能になります。
 事態は一刻を争います・・・
 
ええって???それは分かるけど、私どこへゆけば???
 
 当然、仕事熱心な先生ご自身が今までの人生で遣り残された人生の問題のご解決が一番です。
 もういい加減パートナー見つけてとりあえず新しい暮らしを始めて下さい!
 春だから、お相手を一刻も早く探して!それで、八方満足円満にハピーになれます!
 もはや一刻を争う重大課題ですから!・・・
 
ありえない・・・!!!
確かに田舎町では行き届いていない公的介護を充実させてそういう方向性に持ってゆこうと散々介護行政や事業所に物申してきたけど、本当に公的介護でこんなに充分そうな介護環境が用意されるなんて><;
 
 表面上のこの和やかさに安心し切った私は、その後日、更にエスカレートして降りかかるとんでもない介護の実態に巻き込まれようとは夢にも思っていなかったのだった。
 
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