endometrioid carcinomaから

-10 years after- 卵巣ガン&人生のサバイバル?

2016年03月

ようこそ!
シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護&シングル・サバイバルライフのブログです。いつ死ぬかもしれない・・・と思いつつ生きてきた10年が過ぎて、完治?宣告を頂きました。こんなサバイバーもいるってことで、掲載を続けることに。余命が長くなったように、文章も長~いブログです^^

三寒四温

 一日の温度差が20度程の日々が続いている。
異常に湿度が低くて、24時間加湿器を使っていても、湿度はLLから動かない。
冬に入って以来この乾燥をどうにかしないとと思って、洗濯物を室内で干しているのだけど、それでも、湿度はLLの日々が続いている。

 異常気象と言われてもう20年以上が過ぎた。
私は茶を嗜むので、季節の移ろいが特に気にかかる。

 四季が無くなり、冬と夏の二季になった感がある。
大気が乾燥しているからか、太陽の光が異常に熱く鋭くなった。
年毎に、日陰と日向で、同じ花が咲きき始める時期のずれが大きくなっている。

 9年ぶりに、本格的に畑の土起こしをしていると、
 「亜熱帯気候になりましたね。」
と、畑作り好きが高じてご主人の定年後、四国で広大な農園を営むようになった患者さんが言ってた言葉が実感される。

 それでも、春の花たちは3月になるとご機嫌に満開になる。
母の姉であった伯母からもらった十個の水仙は、30年という年月をかけて植え広げているうちに、千本以上の花をつけるようになった。
 彼岸桜と雪柳と水仙が咲き誇る裏庭は、一年で一番幸せなシーズンを迎えている。
花たちの芳香漂う裏庭での野良仕事ほど幸せなひと時はない。
 私は人生の十分の一を野良仕事に費やしてきたように思う。
どんなに忙しい日々の中でも、季節は待ってはくれない。
花を育て野菜を育てることは、生きる原点でもある。
土を握りしめて「私にはタラがあるわ!」と叫んだスカーレットオハラの気持ちがとってもよく分かる。


 朝晩の冷え込みが強い今の季節は山菜化したみつばがとても柔らかく、おひたしにすると得も言われぬ美味と香りが味わえる。
 フキノオウ、つくし、みつば、わらび、たけのこ・・・春の味覚が美味しいシーズンの到来だ。 

 今年は、母の老化が確実に進んでいるようで、フキノトウの佃煮を一夜にして食べてしまった。
そろそろ、母には施設移動の時期が来ている。
母自身も、冬以降、老朽化し空調の行き届かない私宅での暮らしより、快適な空調が整った施設で暮らしたいと言い始めていた。老人ホームには友達が待っていて、一緒にカラオケハウスに出かけたり、近くのスーパーに買い物に行って、おやつを分け合うのも楽しみでもあるようだ。
私自身もいよいよ今春には新しい人生の予定を進めようと考えていたところだった。

 ところが、お彼岸に出会った母方の心無い親戚の一言で、母の気分はものの見事に逆転してしまった。

 間違いは、母をお彼岸の墓参りに連れて行ったことだった。
父の墓参りだけにしておけばよかったのだけど、父方の祖先と母方の祖先の墓参りまでしてたことが迂闊だったた。

 そう、墓場では、いろんな親戚に出会うので、ろくでもないことが往々にして起きる。
特に、彼岸の祖先の墓は、親戚のたまり場になりがちなので、とんでもない邂逅が生じやすいのだ。

 以前、妾宅で闘病していた伯父と出会ったのもこの墓場だった。
その偶然の出会いがきっかけになって、私が伯父の本宅と妾宅との遺憾極まりない騒動に巻き込まれる羽目になったことが思い出される。

 今回も、せっかく、母がご機嫌に施設への移動を自ら進んで決めようとしていた矢先、またまた偶然墓場で従姉親子にであってしまった。
「おばさん、○○○に入ってるの?」と従姉が尋ねてきた。
「いいえ、月に一週間程行ってるだけ。」と、母。
「ああ、それやったらええねんけど。」
はあ?それやったらいいねんけどとは何という言い草であろうか?!
いかにも、施設になんか入ってるの?と言いたげな蔑みを含んだ発言だった。
「もう元気ないの。○○○よりも墓で待ってくれてる人がいるってことね。」と切り返す母。
想定しえない物言いに直面し、ああいえばこういうに慣れていない私は、
唯々唖然と佇んでしまった。
ら、従姉親子主導の施設移動反対会話が弾んで、
「私、やっぱり家にいるわ。」と母が言い出したのだ。
この会話で、完全に母のホーム移動願望は終わってしまった。

 前々からではあるが、田舎町に土着した母方の親戚のこういう物言いは、本当に忌々しいこと、この上ない。
一体何様なんだ!よくもまあ、これほど無責任なことが言えたものだ!
と、憤慨極まりない思いがした。

 決して、母方の親戚の全てがこういうタイプではない。
だけど、母方の親戚に、これ程無責任なことを言われる場面に遭遇すると、敵はつるんで、私を虐めようと画策しているのではないかとすら思えてくる程、情けない気分になる。

 私一人であれば、少々の災難は防げるのだけど、母を連れていたら大変なことになるって場面は、昔から多くあったことが思い出される。
 妾宅で息を引き取った伯父の亡骸を、道義的配慮として本宅に戻すか、それが嫌なら社葬にするようにと私が妾宅を説得していた時も、ありえないことだけど、母は一切私の説得の援護射撃をしないばかりか妾宅に同調し、その場を取り繕うことしかしなかった。その結果、せっかくの私の説得が母にさえぎられて、今も信じられないことだけど、妾宅で伯父の葬儀が執り行われるという前代未聞の骨肉の争いの火蓋が切られたのだ。
せめて母が私に同調していれば、伯父の葬儀は社葬となりどうにか穏便に体裁は整ったはずなのだけど、母は妾宅の主張を黙認してしまった。伯父の弟が再度説得に行ったらしいが、既に彼は人を説得するようなパワーのない年齢だった。
その後、延々と妾宅と本宅との間に骨肉の争いが続き、これまたとんでもないことに伯父の遺骨は本来の彼の墓地に納められないまま、7年経った今でも宙に浮いているのだ。
 そう、母には、私の言動に対してことごとく反論を唱え、私が対立する敵の味方になって同調するというとんでもない習性があることを、私はありありと思い出した。

 田舎に土着した母方の親戚とは絶縁したはずだったのだけど、墓場での遭遇は避けえない。
この日を境に、私は母とは決して行動を共にしない。父の墓以外の墓には参らないと、わたしは固く心に誓うこことにした。

 それにしても、これはない・と、私の心にわだかまりが大きく残った。

 春の花たちが咲き誇る裏庭にいると、母の姉であった伯母がすぐそばにいるような気持がしてならない。
伯母が他界して、もう、数年が過ぎたのだけど。
母方の親戚で、私が最も敬愛し最も親しく想い、私を可愛がってくれた伯母だった。父が他界する前に、最後に会いたいと言って呼んだ3人のうちの一人でもあった。
 彼女は、ターシャチューダかべネシアさんの元祖と言えるナチュラルな素敵な暮らしをしていた。
私が自然を愛し、土と親しみ始めたのも伯母の影響が大きかったと思う。
母性と優しさだけではなく、非常に聡明で素晴らしいバランス感覚と倫理観と真心をもっておられた。
父母に足りなかった部分を補ってくれたのは彼女だった。  
 もしも、伯母の助言がなければ、私は私宅を守ることは出来なかったし、母は住む家もなく路頭に迷うことになっていただろう。
 伯母から頂いた数本の茶掛けを私はいつも自分の茶室の床に飾っている。
母も書をたしなむのだけど、母の書はお手本を忠実に写した個性の無い書なので飾る気持ちにはなれない。
型に嵌らず自由で生き生きとした伯母独自の個性や気風が感じられる書を私は愛している。

 伯母の花たちに囲まれて、伯母の書を見ていた時、私の心に残ったわだかまりが、解けた。

 「・・・そういう時はなあ、もっと早くご主人を病院に連れて行ってあげればよかったのに・って言い返せばよかったんや。」
伯母の声が、耳元で聞こえた。
それが何を意味するのかが最初は分からなかった。
しばらくして、謎が解けた。
 ああ、そういうことなんだ・・・
彼女たちには、ご主人の病状の急変に際しても救急車も呼ばず、救急車が来た時にはご主人が息絶えてしまったというエピソードがあったことを思い出した。病院に連れて行けば助かる可能性があっても、、家に置いておいてしまったのだ。
 田舎に土着した母方の親戚が問題なのではななく、彼女たちの多くが適切な判断力を持っていないということが問題なのだ・・・と。
 伯母は偉大だ。

 次回のショートステイには、ホームの周囲の桜が満開になる。
そこに居るだけで酔うような桃源郷のような景色が全ての窓から見渡せる。
あまりの美しさに、私にも「見においで」と母は言う。
あの美しさが、きっと、また母の気分をホームに移る気持ちにさせてくれるだろう。

 三寒四温が続きます。
どんなに寒い季節も、三寒四温を繰り返しながら次第に暖かくなってゆきます。
 本格的な春まで、あと少し・・・
もうしばらくの間、寒い時には暖かくして、ホッカイロも忘れずに、春の陽ざしに日向ぼっこしながら過ごしましょう。








 

ベッキーとバンドマンの話~スキャンダルがお好き?

 こういう話題は、できれば書きたくないのだけど、 先の記事で僅かに触れたベッキーとバンドマンの騒動?について、 ヒステリックにベッキーをバッシングする誠にはしたないコメントが、なぜか私のブログにまで舞い込んでいたので、返信を兼ねて当該する騒動についての一説を述べておこうと思う。

 基本的に私は、弱いもの虐めやカツアゲや脅迫や加害行為が大っ嫌いであり、得に烏合の衆状態で集団的暴言を吐くことは許されるべきものではないと考える。なので、そういう行為をする人間は心から軽蔑するし、心置きなく指弾させて頂く。

 個人的に井戸端会議的な話や芸能界やゴシップ記事の類には全く興味はない。だけど、他人がそれらに興味を持つことは非難しないし、自分勝手な意見を言う言論の自由も侵害はしない。
 しかし、他人の人生を第三者の立場にある者が加害するに至るほどの言動は嗜虐性が過ぎるとしか言えない。

 今回の騒動の異常性に関しては、物事の筋道を通して考えなければならないことを示唆しておきたい。

 そもそも、この話題の発端は、バンドマンの男性がが婚歴を隠してベッキーと恋愛関係になったことから始まったスキャンダルとされている。
しかしながら、何故かバンドマンの事務所ではなくって、ベッキーの事務所や出演番組のテレビ局に非難が殺到?したとされている。
 先ず、冷静に、このゴシップ記事を読めば、誰しも、他人の色恋事に自分が電話して非難するほど熱狂するかどうか?疑わしさを感じるだろう。

 バンドマンと婚姻関係にある女性やバンドマンにお決まりのグルーピー等一部の熱狂的信奉者は確かに感情的になるだろうし、嫉妬に血眼になった人が電話を掛けたのかもしれない。だけど、その怒りの矛先を彼の恋愛相手の女性に向けるのは筋道が違うのは誰でも分かる。
感情に血走った過激な言動が個人を追い詰めるような事態は、決して社会的に正当化されてはならない。
 残念なことに、今回のスキャンダルでベッキーなる人は精神的被害以外にも多大な経済的被害を受けたとされている。

 この時点で、国際人権規約に基づいて、海外メディアが、この騒動を日本社会に残存する女性差別の異常な事例として一斉に指弾を始め、幾つかの海外オルグがこの日本の風潮に強く抗議する動きを開始した。
悲しいかな、日本は、かねてから国連から、世界をリードすべき立場にある先進国の中で最も遅れいてるジェンダー問題や人権擁護意識の低さを何度も勧告されている人権後進国である。

 この世界的バッシングが開始されるや否や日本のメディアは、直ちに、既婚代議士の男性の恋愛をスクープ記事にした。
この件では、相手のタレント名は公表もされず、男性代議士一人が謝罪し辞任するという一大活劇を演じることで、海外メディアと各国オルグからのジェンダー差別国日本バッシングに対しては、表面上煙に巻く体裁が取り繕われたかのように見える。

 それにしても、他人の個人情報をネタに国際的恥じを晒して、そこに代議士まで登場させて、ただちに取り繕うこの国のマスコミの手腕はある意味すごいとは思うけど。

 さて、地名人を失墜させる悪の手段として、昭和の時代には性的テロ行為が頻繁に用いられていたのが、平成に入った頃から、不倫テロまで多発し始めている。
 問題は、日本の民法、特に戸籍や結婚に関する法律には、既に先進国では希となった奇妙な法律が近年効力を発揮し始めている。既婚者が恋愛した場合、その相手に損害賠償訴訟ができるという法律だ。そして、この法律を悪用し、夫婦で美人局を行って恋愛相手をユスリる事件が多発している状況については、弁護士サイトでも大きく警告されている。
 つまり、ある夫婦の一方が、社会的地位がありお金を持っていそうな独身者を狙って不倫に引きずり込む。そしてそれをリークすると脅しをかける。ここで、多くの場合は、法外な金銭を不倫相手からせしめとる。それをせしめ取れなかった場合、これみよがしに様々な手法で相手が困るようにリークして、社会的批判を煽る。そして、相手が弱った頃合を見計らって、金銭での和解を迫るという法律の一部を悪用した犯罪だ。

 この法律を取り巻く現代社会の問題を鑑みると、今まではこの手の犯罪行為の的になった多くは独身男性であったのだけど、少なくとも売名行為の為には、ベッキーのような優れた独身女性が格好の的となる時代が到来したようにも見て取れる。 
 バンドマンが、自分が愛した女性がこれ程社会的にバッシングされていても、何ら彼女を庇いもしていないばかりか、今も自分は仕事を平気で続け、より華やかに活動している現状からは、この手の目的ではないと彼と彼の周囲の人たちを擁護できる根拠は何も見当たらない。

 しかし、バンドマンの心無い言動が、彼女の心のみならず彼女の人生に被害を与えたことに言及するマスコミの記事も見当たらないし、sns等でも、ベッキー虐めが目に余る状態が続いている。
 さらには、ベッキーバッシングの集団ヒステリーの主役は、男性ではなく、女性が主体となっていて、特に既婚女性がバッシングしているとさえ言及されてい。普段から嫉妬に悶々と苦しみがちな女性たちのサンドバッグに、美しく聡明で清楚で可愛く爽やか・・・その能力で莫大な年間収入を得ている憧れの独身女性を具現化したようなベッキーへは恰好の餌食であったとされている。
 
 法的問題としては、ベッキーは、バンドマンの詐害行為に対しての損害賠償請求が可能である。
一方で、バンドマンの妻は、バンドマンに対して不貞行為に関わる損害賠償が可能である。
問題は、不貞の相手にまで損害賠償が可能とされているという奇妙な法文が存在することだ。この法文を盾にとって、ベッキーバッシング者は、自分の意見を正当化している様子でもある。

 ところで、夫婦の一方が、もう一方の浮気相手に損害賠償を求めることができるという法律は、どのような意図をもって定められたのだろうか?
 で、時代を遡って、現在に至る日本人の婚姻に関する法律を調べてゆくと、明治時代に入ってから、家族意識でがんじがらめにするかの如く施行されている。歴史的資料において、江戸時代までは夫婦と言えどもかなり男女共にフリーな関係であったことは明らかだ。
この法律は、明治政府が家族主義国を樹立する為に作った立法であって、言うまでもなく、嫉妬という感情を正当化する目的で施行された法律ではない。

 この国の明治時代の政府は、西欧列国の脅威にパニック障害を起こして、国民を必死になって結束し、富国強兵に猛進していたのは、当時はそうせざるを得ない外敵があったのだからそれでいいだろうけど、その法律が何故、この国では、現代まで改正されていないのかが誠に不思議でならない。
 ほんの30年程前までは、公然と愛妾を持つ男性も多くいたし、妻が夫以外の愛人を持って愛人の子供を夫公認で産むことも容認されていたこの国の夫婦の実体から鑑みると、この法律は、最近までは、形骸化した明治時代の政府が欧米に迎合化した体裁上の法律であった。

 
 視野を世界に広げてみると、逆に、他の多くの先進国では、一夫一妻を死守し離婚まで禁じているカトリックの国家においても、既にこの法律は改正されたり、実際には使用されない遺物となっている。

 ここにおいて、どうして日本だけが、時代の潮流に逆行しているのだろうか?という疑問が、投げかけられる。
 
 人生の共同体としての大家族が崩壊し、核家族化けた時点で、家族という集合体が個人を自立させる機能を失いがちになり、小さく頑なな共依存家族を形成しがちになったことで、引きこもりというトレンド?が現れたことは、以前の記事に記載した。
 この国の社会病理には、異常な「家族主義」が横たわっていることに、精神医学や心理学、社会学、福祉学の先駆者たちが20世紀から警鐘を鳴らし続けてきた。
 しかし、こと、今に至っては、戸籍法など家族に関わる偏った民法の概念を早急に改正して国民の意識を緩やかにリラックスさせ、家族の絆に男女間の排他的恋愛感情や家族の共依存よりも人間愛を豊かに発展させる方向性を示し、人間が持つ本来のその人間愛を社会に広く行き渡らせることを推進しなければ、突破口は無いだろう。

 自己中という言葉さえ忘れられるくらいに、誰よりも何よりも自分のことだけが大事、自分を保守したいという人が圧倒的多数の昨今。
 ブログの端っこまで、意味不明に啄いてくるような人がいる所を見ると、個人として自立した視点で多角的に物事を理解したくない共依存症候群の人の圧倒的な社会的圧力が疑われる。
 この現状こそ、現代の社会病理の根源であるように拝察される。

 ある代議士が、マスコミ報道に圧力をかける発言をしたことが問題になっているのだけど、電波停止発言は、電波に洗脳される国民がいることを前提としている。
政治的偏向云々はさておいて、報道に扇動されるような国民を生み出した教育と国民意識についての問題の方が遥かに重要なのだけど。



 

ジグソーパズル

 母がショートスティに去った後の母の寝室に異臭が漂っていた。
果物が腐った匂いだ。

 前回のショートスティ時に、私は在宅中に母が溜め込んだ洗濯物とゴミを処理して、母の寝室は当然掃除されていると思っていた間違いに気がついた。
 彼女の在宅介護のケアプランには確か、掃除・洗濯があったのだけど、母のが寝室に立ち入ることができるラポール力のあるヘルパーがいないのか、ヘルパーが気がつかないのか、ショートスティ中私は洗濯と汚物の処理に追われてしまった。
 今回は、前回ほどヒドくはなかったのだけど、その異臭の発生源は、なんと目の前にある母の机の上に置かれたトートバックの下にあった。見事にカビに覆われた腐ったミカンだった。
前回は、母が去った後の惨状を言葉で伝えただけであったので、今回はささやかな事とは言え、一階に充満した異臭の発生源の写真を撮っておくことにした。仕事の改善を依頼するには、現物を見せるのが最善なのだけど、この手のものは置いておく訳にはゆかない。
 母がショートスティに行っている隙に、私は私宅の一階を以前の状態に復元しようとせっせと頑張るのだけど、母が家に居るあいだにひっくりかえってしまう。
彼女の老化の進行に、私の旧来の感覚はついてゆけない。これって、一旦作り上げたジグソーパズルが、一ヶ月に一度、回を追う毎に手ひどくひっくり返されるようなやりきれない感覚がある。
 そう、母の生命の時代は移り変わってゆくのだ。彼女は静かにしかし確実に人生の完結に向かって円熟しつつある。、
 勿論、公的介護体制も適宜発想を転換してゆかないと、老化の進行にはついてゆかなくなっている。
 来週予定されたカンフェランスの会議の進行には、今回はスーパーケアマネの先生に任せるばかりではなく、私自身も熟考して望まなければならない。
 本来であれば、母の身の回りの状況は、ヘルパーがケアマネに報告することになっているのだけど、どこかで母の介護チームに機能不全が発生している。

 どんなプロジェクトのチームでも、定期的に詳細なチェックを入れ活を入れないと余程優秀なスタッフばかりでなければ、士気は必ず低下する。放っておくと怠惰と惰性の細菌が繁茂する。医療現場でチーム医療が可能なのはそれぞれが優れた専門職能をもっているという信頼関係があってのことだ。
 介護チームは、介護家族の直接雇用者ではない。となると、ケアマネの指揮下において、ヘルパー等が信頼できる専門職能を発揮して始めてチームとしての機能が起動する。
 ここにおいて介護チームの機能性は微妙だ。未だ専門職能が充分でないヘルパーたちでチームを組むのだから、自ずとミスは多発する。
 
 現在の母の介護体制は、どうにか機能しているのだけど、未だ介護家族のサポートが必要な状態から脱してはいない。

 かたや、介護家族から見ると、派遣社員とアルバイト人員を集めて、よりにも寄って人の生命と健康的な日常生活を維持する為のレスキューチームを稼働させ続けるなんていう、一般的な仕事感覚で考えると失敗して当然、上手く行く訳が無い、とんでもなく大変なプロジェクトを敢行してゆかねばならないという仕事が課せられているってことだ。
 一般企業内で、こんなプロジェクトにゴーサインを出す経営者がいたら、誰もが無謀だと止めるだろうし、その経営者の資質は限りなくZEROに近く、早晩、会社が潰れるのは目に見えているのだけど・・・・。
 私には未だこのような無駄と苦労の多い公的介護保険の運営システムを考えた厚労省の官僚たちの机上の論理に疑義を感じ続けている。
 ある程度積極的に介護に関わる家族か、関わることを余儀なくされている家族がいる場合は、介護保険点数は家族への直接払いとすべきである。関われない場合はケアマネから委任請求をすることが、2025年問題を乗り越えなければならない日本社会にとっての在宅介護成功の鍵だと思う。

 とはいえ、私は、どんな環境にあっても、天から与えられた仕事は80点以上に行うという習性がある。
母は国民年金受給者であることで、私はこの仕事から一円の収入も得られないどころか、公的介護保険を支払い税金を支払っている上に、月額6万円の現金を補充している。つまり強制的に私も出資させられている以上は、出資者としても失敗させる訳にはゆかないプロジェクトなのだ。

、問題は、ヘルパーと母とのラポールであることは明白だ。
カウンセラーであっても、クライアントとのラポールを形成できるまでには、素養のある場合を除いて10年以上の年月のトレーニングが必要になる。10年経っても出来ないカウンセラーも細菌は増殖中でもある。
このあたりは、本当に、個人の素養・集弾生活の中でどれだけ健全な人間関係力を養ってきたかどうかという問題なので、個人差が激しい。
 これ以上、私宅に他人が入る時間が増えるのも私としては大変困るし、より気を遣うので、できれば、最低限の時間で、業務が遂行されることが望ましい。

 人にはそれぞれに、社会的限界がある。
単身者は、入院に際しても多くの困難があり、充分な治療が受けられない場合があることを私は身をもって知っている。
そろそろ、母は施設に移るべき時期がきている・と、しみじみと思う。
できるだけ長く住み慣れた家で暮らし続けるのが理想である。
しかし、彼女自身には、もうその能力が無くなって久しい・・・現在の公的在宅ケアーではもう既に限界が来ている。
 私が居ることで、ついつい彼女のフォローを行うことが、返って彼女が快適な施設に移り住む機会を逸する原因になっているのではないだろうか・・・。

 それに、いつも思うのだけど、今私が住まいしている家は、私の家である。
大枚を叩いて、昼夜問わず仕事に専心して買い取った家だ。
なのに、自分の家でありながら、自分の思いのままに使えない不自由さはたまったものではない!と、常々思ってきたのだけど、最近は、もう、ショートスティ中も私は一階に降りることが嫌になっていて、訳のわからなくなったキッチンを復元して、食事を作って食べるということすら苦痛になっている。このままでは、私自身が拒食症になりそうだ。

 病気前は、他にマンションを賃貸してそちらを生活の本拠としていた時期があったのだけど、収入が無くなった時点で、二つの所帯を維持することはリスクが大きいと判断して、所帯を私宅にまとめることにした貧乏癖が災いしたのかもしれない。
 人は人を待たせることはできても、限られた人生の時間は決して待ってはくれないのだ。
私は、私が早急に私宅を留守にする自身の方向性を確立することに全力を注がなければならないことを再び自覚する。


 話は長くなるのだけど、
日々、ヒステリカルなニュースが流れるので、最近は、ネット画面からも五月蝿いヤフーの立ち上げ画面を外したのだけど、マスコミもネットも同様に、劇場のイドラのように、民衆に猛烈に舞台催眠を施し集団暗示にかけて集団的ヒステリーに向かわせているような、扇動的記事が多すぎることが目に余る。

 先日の記事に挙げた「格差社会」という言葉が踊り狂う、この時代の風潮は誠にとめどない。

 大学の学費が高沸していることと、卒業時に奨学金の返済を背負うことで、格差社会が激化しているという議論がある。性的奔放さの勢いで結婚し、離婚したシングルマザーの生活環境の悲惨さが、格差社会の最もな事例と掲げられている。

 この言葉を掲げる人達は、一体何を目的としているのだろうか?
これらを、個別的救済が必要な事例として掲げたいのか、社会的改革が必要な社会問題として捉えているのか?
 これらを解決すべき社会問題として掲げているとするなら、その解決の方向性をどこに位置づけるべきかを明らかにしなければならない。
 提案や代案のない批判は人心を荒ませる。

 私が育ってきた従前の社会には、ローンで物を買う等ということは、善良な人間がするべきではない危ないことだと嫌った時代があった。結婚や出産も然りであって、経済的安定のない状態で、それらは社会的常識として許されないという常識があった。
 しかし、今の社会の風潮は、欲しい物は先に手に入れることが善であるかのような即物的な発想が常識化してしまっているようだ。
 クレジットカードでの支払いにも上限金額を設けて、その金額を超えた時点で、内心かなりショックを受けて、その後の出費を半年くらい激しく自省する私は、どうしてもこの時代の変換についてゆけない。

 私は、若い頃に、不出来な兄夫婦を起因として、我知らずのうちに突然借金を背負うことになった。私の人生に課せられた格差は、現代の奨学金の債務とは桁違いだった。

 それぞれに生育環境が異なるという大前提を打破することは、不可能なのだから、もしも、現在語られているような格差を、私たちが本当に社会問題として真摯に考えるならば、そこに給付金を増やすというような付け焼刃だけでは、解決できるような問題ではないことは明らかであるし、ご高齢者の置かれた立場と現在の若者の立場を比較すると、どう考えても、より貧困に苦しんでいる方の格差の是正を優先させなければ、人道に反する。
 
  自分が生まれ育つ家庭環境は誰にも選ぶことはできない。
社会的に是正できる格差は是正に向かうべきだと思う。
しかし、社会問題を考える全ての個人の意識が、より以上に大切なのではないか。
人はそれぞれに違うことを認め、自分を人と比べないこと、大多数と違う人を差別しない意識を堅実に育むことが本来の人権教育の基本であり、平等教育であったはずだ。

 もし、私たちが、社会的格差の是正を考えるなら、先ずは、日本人の特色である異常に家族主義が強すぎる思想的傾向と、ジェンダー差別意識が強すぎる思想的傾向、排他的感情と区別意識の強さの改革から始めなければならないのではないだろうか。
この日本人独特の異常な家族主義と性差別意識については、先ごろからマスコミがドル箱話題として扇動している所謂ベッキーとバンドマンの話題が最もあからさまに雄弁に物語っている。

 私たちが、各自に異なる家庭環境を認めながら、格差社会の是正を必要とし、個人の社会的平等を求めるなら、何よりも先ず、今や日本と台湾にしか存在しない世界でも希な「戸籍制度」を早急に廃止し、家族意識の緩やかな健全化を図る為の民法の改正を行わなければ、どれほどの財政援助がなされようと、トレンドとされるこの「格差社会」問題は、人類が集団生活を続ける限り、永遠に解消することはないのだから。

 マイナンバー制度の施行と引換に、戸籍制度の廃止が語られないこの国は、政治家不在なのでは?とすら思えてくる昨今。
 
  私が復元しようとする我が家のジグソーパズルを、自身の生命の時代の変化に従って、何のこだわりもなく大らかにひっくり返す母のような無邪気さは、至って政治家向きだとさえ思えてくる。
 
 
 

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