卵巣ガンに罹患し治療を終えて10年が経過しようとしている。

 こんなに長生きできるとは思っていなかったので、本当に有り難いことだと思う。
だけど、未だ後遺症状は残っているし、その後の人生は、病魔の衝撃とその後に続いた後遺症や数々の人生の苦難と苦悩との闘いの日々でもあったし、これからも有り続けるのだろうと思う。


 昨年から、有難いことに新しいプロジェクトを立ち上げる機縁を得て、その事業がいよいよ現実化しそうな所に来た。
なので、そろそろ、広報活動の必要な時期と判断した私は、先ず、何人かの友達にこのプロジェクトを話すことにした。都心まで1時間の田舎町に放置されていつ空き地の再生に民間活力を結集したプロジェクトだ。
この計画が実現すれば、全国レベルでの画期的なふるさと再生モデルとなることが予想される。

 で、このプロジェクトを先ず信頼できる旧友に話すことにした。
皆さん喜んでくれて、私の社会的再起とプロジェクトへの期待と協力の思いを口々に語ってくれる。
旧友程有り難いものはないと心から感謝感謝の思いが尽きない。

 ところが、病後友達になった人に話すと、何故だか、その中の2人に、なんと、突如として、
「ガンになって、本当に良かったね!」
と、宣われてしまった。
 一体何が言いたいのだろう?と、私は一瞬耳を疑った。
 この言葉は、私に大いなるショックを与え、病気に罹患した悔恨の思いを彷彿させるには充分であって、この言葉を聞いたとたん、傷口に塩塗りこまれたように、これまでの病後の苦しみや悲しみが胸に溢れてしまった。
 そして、この二つの新しい友人関係は一瞬にして瓦礫となって崩れ去り、私の心には彼女と彼への嫌悪がくっきりと残った。
 これ程、上から目線でガンサバイバーを傷つける文句は他には考えられない程、劣悪だ。

「病気に罹患して良かったなんてことなんて一切ないわ。
 私は、40代後半の人生の一番の充実期に、社会的にも職業的にもすっかり丸腰になったのよ。私の突然の大病で母は鬱から認知症も発症した。
 愛する会社も事業も従業員も健康への自信も何もかも失ったわ。これから一番社会的に実りを迎える50代っている最盛期を棒に振ることになったのよ。家族にも大きな心の痛手をもたらしてしまった。その悲しみや苦悩の大きさは何をもってしても代替できないわ。良かったなんてよく言えたものね!」

「だけど、ガンになったから、結果的にそのプロジェクトに参画できて良かったじゃない。」

「あり得ない発想だわ。
このプロジェクトは、ガンに罹患したことで得たものではないのよ。
私の職業じゃないし、ほんの小さな田舎町のプロジェクトに過ぎない。
病前の職業は私の天職だったし、あのまま続けることが出来ていたら、50代は、社会的にも経済的にもより大きな貢献ができる一番の活躍時期で収穫期だったのよ。その矢先に私は手足を捥がれた。愛する会社も幾つかの事業も、従業員も、家族の安心も何もかも失った。この喪失と悲しみが良かったなんて決して思えないわ。」

「それでも、新しい事業に参画できたんだから、ラッキーじゃない。」

「あのね。それってなんの慰めにならないどころか、ムカつく誤解としか言いようがないわ。
このプロジェクトは病気をしたことでラッキーに舞い込んで来た種類のものではないのよ。
プロジェクトでは、私がサバイバーであることはマイナスにしかならないから、一切話してはいないわ。
それに、もし病気をしてなかったら、私は、事業主体として、より大きな素晴らしい事業を自力で展開できていたのよ。今のプロジェクトは、私がコーディネイトしているに過ぎない。私の職業ではないし、所詮は他人の資本で自分の夢を実現するっていう自分の実力じゃない仮初の社会貢献に過ぎないわ。」

「そちらの方がいいじゃない?何が違うの?」

「私が失ったものの大きさを貴方が理解できないことが残念だわ。事業主体か、只のコーディネイターかって、土台、根本が著しく違うでしょ?」

「今の方が楽でいいんじゃないの?」

「あなたはそう感じても、楽に生きることが、全ての人間の仕事の目的ではないのよ。」

「楽な方がいいに決まってるじゃない。」
ここまで来たら、もう彼女らのこの途方のない無知と高慢さには絶句するしかない。

 彼女と彼は、病前の私を知らない。
とは言え、ガンの闘病後に友達になった他の多くの人たちは、ガンに罹患した苦労を理解してくれて、こんな軽はずみな文句は決して発することはない。
本人達の人格の問題だと思う。

 「ガンになって良かったね!」
なんて、どう考えても、失敬が過ぎる。
彼女と彼は鼻持ちならない高慢な人間なのか、或いは共感力や想像力に大きな欠落があるのか、或いは性悪だと言うことになる。
 私は何故、こんな異常性を持った彼女や彼とも友達になってしまったのだろう???
この二人と友達になったことこそ、病後の私の気の弱りの象徴だったと深く自戒した。
 
 そりゃあ、私自身、ガンに罹患したことをプラスに考えようとしてきたけど、それは、ある種スピリチュアルな面での物語であったり、私自身で私自身を慰め、周囲を和ませ、前向きに考える為であって、決して、もろ手を上げて病気になって良かったなどとは、生物として決して思わないのが自然の摂理だ。
 おまけに、50代という本当に一番の働き盛り、それも、それまでの苦労が実りとなって返って来る一番充実した時期に失職したことは、社会的にはどこをどう考えても良かったなどとは思えない。
もし、せめてあと5年だけでも元気で仕事を続けられていたら、現実問題としても、少なくとも今の倍額の貯蓄も出来て余生も裕福に暮せただろう・・・等々想像すると、病気を授かった自身の不運が悔しくてならなくなるので、考えないように、言葉にもせずにいるだけだ。
 
 誰だって、もろ手を挙げて病気になって良かったなんて思えるはずがない。
「ガンになって良かったね。」なんて言われると、ガンサバイバーは、もし自分がガンに罹患していなければどれほど幸せだっただろうと思わずにはいられない。
 つまり、こういうことを言う人は、ガンサバイバーを蔑み、憐憫の対象として見たい人なのだ。そして、可哀そうだったはずのサバイバーが再起することにある種の妬みを感じて、こういう発言をするものかもしれないとも思う。

 障害を負った人が、たとえパラリンピックで金メダルを取ったからと言って、「障害者になって本当に良かったですね!」などと言う大バカ者が一体何処にいるだろうか?
 かりそめにも、彼女と彼を、ひと時でも友人だと思って会話した自身の不徳が自戒される。


 ガンサバイバーであることを、私は概ね隠さずに生きてきた。
そうした中で、世の中には、サバイバーに対して、何らかの優越感を覚え、上から目線で蔑視する類の人間もいるのだと思う。
私のような事業職においては、社会的に致命的なマイナスとなることも、これまでに熟知した。
 唯一、ガンに罹患して本当に良かったことがあるとしたら、プライベートの人間関係において、上辺の付き合いしかできない困った人達を自身の友達の枠からふるい落とす機会に恵まれる幸運を得たことだと思う。

 さすがに、こんな失敬な言葉を発する人は、滅多にいないと思うのだけど、
「ガンに罹患してよかったね!」などという言葉は、たとえガンサバイバーがどんなにその後に社会的成功を治めて、たとえノーベル賞を受賞したとしても、決して言ってはいけない言葉である。

 なぜなら、病を経た者が何か事を成し遂げるには、健康に生きている人の数十倍もの目に見えない努力が必要なのだから。