endometrioid carcinomaから

-10 years after- 卵巣ガン&人生のサバイバル

日々の暮らし

ようこそ!
シングル・キャンサーサバイバー&シングル介護&シングル・サバイバルライフのブログです。


テクマクマヤコン教徒の教え

 通常の電話とたま~にメールの他にlineとメッセンジャーを使っている。

 私のスマホはかけ放題で、メールもlineもメッセンジャーも個人的には大嫌いなんだけど、人それぞれによって、スマホの使い方が違うので、lineとメッセンジャーのインストールも余儀なくされた感じ。
とは言っても、私がスマホのメールをチェックするのは、他に何もできない環境を強いられた何かの待ち時間くらいで、通常はちらっと見ても真面目な要件以外は、いちいち返信する視力も時間もないので放ってある。

 そうしていると、特にlineには、意味不明なメッセージが溜まってゆく。

「おはよう」
「こんにちは」
「おやすみ」
時折、
「今電話できる?」
「今電話できます。」
「今何してるの?」
「最近どう?」

 これって、一度に見ると、とっても面白いのだけど、放っておくと、

「返事がない!」
「既読になってるのにあいさつくらい返してよ。」
「何してるの?」
「電話できないの?」
 最後には、
「生きてる?」

 という感じで、またまた、一度に見ると唖然とするようなお叱りを受けることになる。

 こういうlineには、誠に困り続けている。

 基本、lineやメッセンジャーは着信音止めにして、表示も出ない仕様にしているので実害はないのだけど。
延々3日間~1週間くらい、こういうメッセージが続いているのを見ると、次第にこちらが強迫観念に苛まれてくる。返信しなくちゃ・・・と、思うのだけど、いちいち返信していたら、昔あった『秘密のあっこちゃん』という漫画の主人公のように、スマホばかりを眺めてバーチャルな世界で暮すことになりそうな嫌な予感がする。

 で、
「このごあいさつメールの連続とか電話していいとか消息を尋ねる短メールは、どういう意味があるの?」
って、私は、いたって素直にお尋ねするメールを出す。
 これを出すと、何故だか、それまで執拗にメールしていた人から返信が来なくなる場合が多い。

 後日、気になってこちらから電話をすると、こういうタイプの人は口々に、
「lineしたのに返事ないし、変なこと聞いてくるし・・・」
 と怒っている様子。

 どうやら、彼女や彼らは、なんとなく手隙の時に、テクマクマヤコンって気分で、相手をして欲しくってこういう挨拶メールを送り合うのを習慣にしているようだ。
「そういうことだったら、電話してくれたら、出れる時は出るし、出れない時は、コールバックするから。」
 と私が言うと、
「突然電話をするのは気を使うからlineしてるんじゃない。出なかったら気まずいし。」とのこと。
「私、液晶老眼だから、スマホのメールやlineメールはしんどくて一々反応できないし、電話の方がはるかに時間対情報量にもコミニケーションにも優れてるから。」
 と、私。
「でも、いつでも電話できるってことはないでしょ。」
 と、ここから、私は、何故だか、メール&line&メッセンジャーフリークから、高飛車なお叱りに近い教義を聞かされる羽目になる。
「だから、出れない時はコールバックするし、どちらもそうしてたら、何時かは繋がるし。」
「それが嫌だからlineしてるんじゃない。」
「そんなこと言われても、いちいちlineに反応してられないし。」
「友達つきあいは、その程度にしてるってこと?」
「そうじゃなくって、line書いてる時間があったら、電話の方が早いしいろいろ話せて楽しいってことなんだけど。」
「今は、電話の時代じゃないのよ。突然電話するのって失礼じゃない。」
「昔から電話は突然掛かって来るものだし、出れない時は出ないでいいじゃない。」
「だからあ!あなたって、スマホの使い方を知らないの?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 温厚な私は、こんなことで言い争いはしたくないので、
「コミニケーションツールの使い方の違いがあるってことなのね。」
と話を治めようとすると、 
「これからは、もっと、まめにチェックして、返事してね。今は、まめさが大切なのよ。」
と、あくまでも、彼女や彼らのコミニケーションツールの使い方こそ、完全無欠なんだって言わんがばかりの強要を受けることになってしまう。

ここでめげては、lineのスレッドの山になって、面倒くささが何も解消されない。
削除とかいろんな方法はあるみたいだけど、それはそれでまた新たなお叱りを受けることになる予感がする。

「私のスマホは電話機だから。」
「lineは嫌い。いちいち確認なんて出来ない。必要があれば、電話か葉書か手紙。」

いろんな主張をするのだけど、どうも、時代的に私の分が悪いみたいで、押し切られてしまう。

で、致し方なく私が思いついたのは、こういう友達には、lineが来たことに気がついた時に、電話を掛ける法。

「lineありがとう。おはよう!」
「今、電車の中なんだけど。」
とっても迷惑そうな声が返ってきた。
私も、とっても迷惑そうな声で言う。
「えっ?lineくれたから、コールバックしたのにひど~い。」
「ごめん。通勤時間にlineする事にしてるから。」
「あ、そう。じゃあ、今日も一日がんばろうね!」
と、電話を切る。

「lineありがとう。こんにちは!」
「今、ランチしてるんだけど。」
とっても迷惑そうな声が返ってきた。
私も、とっても迷惑そうな声で、
「えっ?lineくれたから、コールバックしたのにひど~い。」
「ごめん。ひとりランチする時にlineする事にしてるから。」
「あ、そう。じゃあ、今度はゆっくり話せる時に電話頂戴ね!」
と、電話を切る。

「lineありがとう。こんばんは!」
「今、クリニックの診察待ちなんだけど。」
とっても迷惑そうな声が返ってきた。
私も、とっても迷惑そうな声で、
「えっ?lineくれたから、コールバックしたのにひど~い。」
「ごめん。待ち時間とかにlineする事にしてるから。」
「あ、そう。じゃあ、今度は普通に話せる時に電話頂戴ね!」
と、電話を切る。

これで、御挨拶や短メール好きな彼女や彼らからのlineはある程度、撃退することができると思ったのは甘かった。

「電話してくれる前には、lineで今電話していいですか?と聞くのが礼儀なのよ。」
テクマクマヤコン教徒の固定観念はかくも強固だ。

無駄な抵抗はやめて、最終通告を出すことにした。
「実は、私液晶老眼がひどくなって。ドクターストップでスマホメールはできないの。」

 これって、本当のことで、私の老眼は、スマホとパソコンを見ないで1週間を過ごすと心地よく改善する。

 テクマクマヤコン教に入信するには、強靭な視力が必要だ。





お盆の情景~日々の暮らしの楽しみ~

 今年は暑さが長く続き過ぎていて、お盆がお彼岸のように感じてしまう。
ビッグ・ホット・フラッシュからは解放されたものの、エストラジオールの補充から遠ざかると、プチホットフラッシュで目が覚める。

 今年は、毎年のようにお盆に生ける槙の格花を買いにゆくのも、うっかりと忘れてしまった。
ご住職さまがお参り下さる日の前日の夕方に、気が付いて、慌ててスーパーで売られてる花を数束買って、裏庭の花と一緒に、今風のフラワーアレンジメントのように華やかに生けてみた。

 玄関のエントランスの客迎えの花から、上がり間の正面の花、居間の花、そして座敷の床の花へと連なる一連の物語を描いて生けるのだけど、案外今年の物忘れで買い求めた花のイメージが、カラフルながらもいい感じに治まって、一段落。

 お寺さまのお参りには、季節の茶菓子を用意するのだけど、今年はこれも手近なので間に合わせることになった。
 葛饅頭がお好きと聞いていたので、スーパーの茶菓子売り場で葛饅頭を買い求めて、それでは余りにも芸が無いので、手持ちの料理用の金箔を散らすことに。

 暑い季節のお参りをもてなすには涼味が何よりも優先だ。
今年は、真塗の盆に裏庭の葉欄を斜めに敷いた。
抹茶碗は、透明な地肌に白の流れの美しいガラスの平茶碗を。
菓子器には、手びねりの薄緑の釉薬を斑に掛けた蓮の葉をイメージした形のものを。

本来は、お客さまの到着時に出す汲みだし茶碗を、忙しい時節柄に配慮して同じ盆に配することにしていて、これには抹茶の口直しができるように、番茶か麦茶を使う。
今回は、美味しい麦茶が手に入ったので、濃い口にに出したものを冷蔵庫で冷やして、そこに氷を入れることにした。

 抹茶の中に、氷山に見立てたローソンの氷を入れるという景色も真夏の接客時には、よく使うのだけど、これは抹茶だけの一椀で済ませる時には良いにしても、2椀を同じ盆に配する場合は、コントラストを付けた方が美味しく頂ける。

 来客時には、季節に応じて、こうしたもてなし遊びをするのが誠に楽しい。
特に、お正月とお盆や季節の節句は、華人であり、茶人でもあったことを思い出す良い機会になっている。
難しい修行の時期が過ぎた今となっては、日常の中で生きる華や茶を楽しむのがいい感じの暮らしの楽しみになっている。

 かつての茶人さまたちとちょっと違うのは、この殺人的猛暑にあっては、空調をフル活躍させることも、忘れてはならないもてなしの根幹になる。暑い外界から空調の行き届いた部屋で涼んで頂く配慮は、これからの時代欠かせない課題となってくるだろう。

 
 愛犬殺害強盗事件後、私は自身の茶名を門扉に掲示していることもあって、正式な来客には、茶人としてのおもてなしをすることを楽しみにしている。
文化は暮らしの中に生かしてこそ、価値がある。
 茶華道教室も休眠して長いのだけど、現役時代にそろえたお道具は、季節に応じて、とても素敵なインテリアになってくれてもいる。
 母が残した色紙絵を季節に応じて取り換えるのも一興であるし、春夏秋冬に拠って入れ替える様々な季節の設えの幸せは日々の暮らしの中での最上級の充実感と幸福という心の豊かさをもたらしてくれる。

 夜の庭には、防犯灯を兼ねたライトアップが美しい緑を映し出し、蹲に落ちる水音が得も言われぬ安らぎの風情を加えている。
 今年は秋の虫の音が遅いけど、もうすぐ鈴虫やこおろぎの声が聞こえる時期になると、この世の楽園に住まいしているかのような気持ちにもなる。

 
 13日に、お墓に故人のスピリットをお迎えに上がり、15日にお送りするという日本のお盆の風習は実によく出来ていると思う。
毎日、故人のスピリットと一緒に暮らすのは重すぎるけど、年に2~3日くらい精霊がお帰り下さるのは、イメージ催眠による癒し的効果があったりもする。
 スピリチュアルワールドと現世を繋ぐ、暮しの中のグリーフケアとして、これほど最適なスピリチュアルケアは他にはないのではないかとさえ思えてくる。

 とはいえ、こうしたお盆の民俗文化を知る人もごく僅かになって、以前にもご紹介した『しばわんこの和の心』
というマンガの中で、可愛いしばわんこに、人間が日々の暮らしの幸せを教えてもらう時代になってしまったのは、いかにももったいない。

 ネットから派生した「リア充」だとか「インスタ映え」という軽薄さを追いかける人々の傾向は、人を外界へと向かわせる反面、日々の暮らしの幸せは、自己の内面に存在する五感を研ぎ澄まし日常に発露させる心の充実の中に存在するように思う。

 お盆の夜の静謐な時空は、あの世とこの世と行き交うスピリットを感じることのできる幽玄の世界だと思う。

 南無阿弥陀仏と唱える時に、スピリットはそのままお浄土に還るとされる神秘の世界は、お盆やお彼岸や、法事という行事を執り行うことによって、人の無意識の中に深く刻まれてゆくのだろう。

 20世紀の半ば、欧米人から見た日本人観として、宗教を持たずに心安らかに死にゆくことができる民族は稀有であると言われたのは、日常の中に仏教文化が、程よく織り込まれて存在し続けていたことで無意識の信仰心が伝承されていたからではないだろうか。
 現代において、日本人の多くが死を受容し難い現状となったと言われるのは、こうした生活文化の中に融け込んでいた折節の行事の割愛傾向が大きく影響しているのかもしれない。

 父母を見送り、これら儀式を行う自身の心の奥底に、古から続いて来たであろう宗教文化が存在していることを実感する機会が多くなった。
 
 
 欧米に長らく居を置いていた妹のような親友から、久しぶりに電話があった。
若い頃は、毎日のように、私の部屋に寝泊まりしていたくらいに親しかった子だったのだけど、大人になるにつれて、小人の交わり甘きこと蜜のごとくから、今は君子の交わり淡きこと水のごとしのレベルにお互いにちゃんと成長し、お互いにとても心地いい信頼関係にある。

 彼女は、自己沈潜の結論として、シングルを貫く決意をしたとのことで、昨年からとある仏教系の大学院で学んでいると言う。
 彫の深いエキゾチックな美女で、優れたピアニスト&音楽家として活躍する一方で、日本初の大型ヘリコプターの操縦士としても活躍した異色の才能に恵まれた精鋭女史であった。
 骨肉腫を患いながらも、何人かの世界的に活躍する欧州の男性との恋愛も経た後に帰国して、数年前に日本でも選りすぐりの日本男性パートナーと共に暮らし始めたのだけど、日本人男性の精神的な脆弱さと未熟さにはほとほと愛想が尽きたと言う。とはいうものの、これから海外で暮らす気持ちもないと言う。
 それで、彼女なりに沈思熟考した結論として、在家で仏門に入ることにしたらしい。

 思えば、仏教の祖、お釈迦様は、結婚しなさいなんてことは仰っていない。
逆に、孤高を貫くことで現世での悟りに近づけるという観念があり、真の高僧になるためには僧侶の妻帯を禁じる宗派が今も存在する。
 独身であるということは、煩悩を排して、物事を沈思熟考するには最適な環境にある。
周囲の雑音から離れて、純粋に自己に沈潜し、人生や生や死や生きるということについて、哲学的、倫理的な思索を巡らせやすいことだけでも、確かに僧侶としての素養を保ちやすいのだろう。

 彼女は、古式豊かな日本の女性教育を受けた女性であるのだけど、彼女の素養は、日本人の域を超えていたことを自覚して海外で暮すことを決断したのと同様に、人生の旅の途上で彼女は、重大な機縁を得たのかもしれない。


 私自身も、大学時代に受けた宗教学の講義を基礎として、その後、様々な文献を読む機会や実際に修行する機会にも恵まれ続けることが出来たことは、自身がそうした機縁を欲したからなのだろうと思えてくる。
 茶人として禅宗に傾倒したり、巫女として神主になることを所望される程神道に傾倒した時期もあった。山好きが嵩じて山岳修験道にも傾倒したり、恩師の影響でキリスト教にも傾倒した時期もあった。
 世界中の全ての宗教のコアは誠の人間愛であって、そこからどのようにして世界にそれを実現してゆくかというそれぞれの道程があることにとっても興味を惹かれて、幾多の宗教に興味を持ち続けて来た分、自身の宗教観にはさまざまな宗教が混在しているように感じる。
 
 浅学な私には、詳細は分からないのだけど、病後は特に、自身の周囲に流れている大きなタオに意識を向けることが多くなっているのだけど、これは浄土真宗で言う自然法爾とか弥陀の本願を観ずることにも通じるものかもしれない。


 本来であれば、明日の朝、川に精霊をお送りに行く行事は、河川の汚染という環境問題としてのバッシングを受けて、現代では執り行うことができなくなってしまった。お供えものは人間が食して、故人の精霊が帰ってゆかれるのを観ずることで、お盆の行事は終わるのは何だか味気ない。
 だけど、日本のお盆の祀りの中で、あの世に旅立った人達を偲んですごす静謐でゆとりある心の情景が描き出され続けてゆくことは、なんと素晴らしい豊かさだろうか。

   

マヤカシ療法の繁茂

 猛暑が続く。

 小一時間、ちょっとだけ畑の草引きと収穫をしただけなのに、今年は暑さがとっても堪える・・・
と、思ってたら、全国で死者が続出するほどの高温が続いている。


 海外に脱出すると何故だか体調が抜群に元気になる私は、病後2度も赤道直下?の南の島に旅をした。
どちらも療養を兼ねたリゾート滞在だったのだけど、最初の旅は少々胃の調子が悪かったものの、どちらもダイビングを楽しむ機会にも恵まれた至福の時間だった。

 その後、7年目の旅は、カリフォルニア方面で、こちらは、体調も既に万全で気候もちょっと肌寒いくらいの紅葉の素敵な時期のとってもロマンティックな旅だった。
 だけど、残念なことに、母の認知障害が進んでいたこともあって、心配性の私の弁護士から旅の途中で何かあった場合の手配を周到するようにとの指示があって、旅の前日まで、弁護士料50万円分もの遺言書と私の万が一の場合の委任手続きが続いて、精神的にとっても気の重い旅になってしまった。
 それでも、海外での時間は、充分に私の心に英気を補給してくれた。


 そろそろ、海外に出ないと・・・と、思うのだけど、心配性の私の弁護士の心配が乗り移ったように、その前にしておかなければならないことが山積みになっている。

 母と飼い犬の他界のグリーフが遠ざかりつつある今、自身の人生へと開かれた未来が見えてくる時期でもあるのだけど、日常の雑事の多さに圧倒されて、なかなか旅の好機が巡って来ないのがちょっと歯がゆい感じ。

 人生の一つの時期が終焉を迎え、新しいシーズンが始まろうとしているには違いないのだけど。
余りにも今年の夏は暑いから、自身を取り巻く何か大きな流れを感じている今この時の心地よさを、もう暫く味わっていたい気持ち。



 そうそう、アフラックと言う名の黒いアヒル君たちとの協議は、審議委員が変わって、どうも風向きも変わった様子で、判断が分かれているらしい。

 我が愛する飼い犬を惨殺した犯人は、黒いアヒル達の手先であったのではないか?という疑いも未だ晴れないので、愛犬の仇討ちの意味においても、もし、裁定委員が、黒いアヒル達を擁護するような最低な裁定を下すのであれば、司法で争うと心を決めた私にとっては、生命保険審議会は、あくまでも、第一段階に過ぎなくなった。
 人生の多くの事象が偶然のタイミングによって生じるように、今回の事案の最中に、飼い犬が殺害されるという不条理な事件が起こったことで、不条理なもの事とは、出来る限り戦い続けるという方向に私の意志が動いた。
 その上、ここまで裁定が遅延した暁に、裁定審査員が不合理な結果を出すようであれば、生命保険協会なるものの存在価値の真偽も問い正す使命も感じてしまう。

 隠居生活を決め込んでる私であっても、偶然が導く、人生でたまたま出遭う不条理とは戦わなくちゃいけない。

 show must be go on
  そんな風に、ちょっとした偶然は未来に向かって有意義に繋がってゆくものなんだと思う。

 それにしても、こんな社会的に重要な役割が私なんぞに回って来る前に、いかにも愛国心があるかのようなハッタリや言いたい放題を並べている声の大きな軍事大好き作家や評論家たちや政治家や官僚その洗脳下にあるカタナカウヨク達にこそ、本当の愛国心というものを自覚して、社会の不合理と戦うべきなのだ。
 彼らの愛国心?は、自己中心的トランスに過ぎないから、世の為人の為が考えられないのだろう。

 ここんとこ、リスクも顧みず、余りにもあんちょこにトランス状態に入ったり、人をトランスに誘ったりする人達が多くなったことに、辟易とすることが多い。


 人間の意識は様々に移ろうものだし、時には、自己の主体性を保ち続ける重責を放棄したくなることもあるのが常だから、様々な方向に意識を向け変えて意識変容を模索するのだけど、基本的にストレスは紛らわすことはできても、軽減なんてできないものだ。

 意識の向け方で、あるストレスに苛まれた気持ちが楽になることはよくあることだけど、ストレスそのものが普遍である場合は、そのストレスは無くなることはない。たとえ『存在と時間』の観念や物理量子学の理論を駆使して見えないようにはできたとしても。

 更に、催眠と同様に、自己が自覚して意識的に意識の方向性を変えるのは比較的に安全であっても、外的な誘導による意識変容は、正しい解催眠を施さないと、やがては自己同一性を揺るがしかねない。

 キルケゴールや多くの実存哲学の論理を借りるまでもなく、人間存在の成長と真価は、主体性にある。
特定の宗教への帰依が、本物の宗教心とは異なった迎合や妄信になりがちな傾向への警鐘は、実存哲学の登場によって20世紀に語りつくされたはずなんだけど、ますます浅層でのトランスが、あたかもストレス解消法や悩みの解決法として商品化されているような昨今の風潮は、如何なものかと思う。


 こちらのブログを始めた当初、殺到した様々ないかがわしい代替療法とも呼べない次元のマヤカシへの勧誘の数多さが物語る以上に、 近年、ますますマヤカシのスピリチュアル療法も大流行りの様子です。

 過日も、気持ちの悪い勧誘コメントがありました。
 新手のスピリチュアル団体のセッションなるものの参加費用は、一日の講演と瞑想が2時間程、3日で十万円。とある寺社に、教祖?らしき主催者と一緒にお参りして瞑想するという会のようですが、これ程、高額であるにも関わらず、ネットで募集すると100名程の参加者が1日で集まるとのこと。
 本当に、深く瞑想する気持ちがあるなら、騒がしい集団で行うよりも、独りの静謐な心で行う方が遥かに効果的なはずなのですが。。。自主性や主体性を持たない瞑想なんてちゃんちゃら可笑しいし、危なっかしさがあるばかりか、主催者には3日間で1000万円もの収益が入り、諸経費を差し引いても、3日間の日当は700万円程ということになります。

 本当に、この主催者が人の心身を癒すことを本意とするのであれば、少なくとも、第一にこれ程巨額な金銭を受け取ることに抵抗を感じる良識を有しているはずです。第二には、信者らしき人達が、果たして本当の意味において成長でき人間としての真価に迫ることができる集いであるのかどうかは、料金の高額さが表すように(人間は費やした費用の元を取ろうとする心理が、こうした場合には妄信状態を作り出す働きをします)、甚だ疑問です。

 現代の多くの新興宗教では、巧みな起業戦略で組織化することで、かなりの利益が集まったとしても利益を程々に分配することでリスクをヘッジできる機能が構築されていますが、小さな組織で、1回のセッションなるものに数万円もの大金を設定し、そこまでの大金を支払う信者?が多数いるとすれば、そのお金が集約される主催者や団体自体に、金満思想や自己中心的意識が恐ろしく肥大化するリスクが回避し切れないでしょう。


 ガンや様々な難病は勿論誰しもが抱える心の苦悩を癒す、あるいは、ある種の解脱や成長?を目指すという名目で、人間が本来持っている心の自然治癒力の根源とも言えるアイデンティティーを、逆に弱めかねない様々なトランス誘導が駆使されることには、脱法ドラックと同様の危険性があります。

 トランスとは、変性意識を意味します。
私たちは、自覚するしないに関わらず、日常の多くの場面で、自身の意識を変容させながら暮らしています。
アルコールなどのドラッグ類、宗教的陶酔、スポーツや映画や小説やテレビへの陶酔、祭りの陶酔、ハイウェイドライブ時のハイウェイトランスと呼ばれる意識や所謂ランニングハイ、他。
 自らが意識して入るトランスは概ね無害であることが多いのですが、余りにも多くのトランスの中にいると意識の網が緩みます。やがて、意識の網をくぐって忍び込んでくるトランスは、オーム真理教事件のような惨劇まで引き起こしかねないリスクに満ちています。 

 また、医学的検証のない様々なハーブやサプリメントの類も出回っていますが、信じる者は救われるという妄信についても言うまでも無く、決して、いかなる奇跡をも、もたらすものではありません。

 公的な学術団体以外で、もし、団体や個人が金銭目的で行っている講演会やセッションや、啓発セミナーだとか、交流会に数万円という大金をはたくほど心の余裕を失った時や、或いは効能定かでないハーブやサプリメントに手を出す程に余裕が無くなった時は、必ず、そこに入り込む前に、ちょっと気分転換して下さい。

 マヤカシ療法や、セミナーや講演会やセッション他、意味不明なものにお金を使いたいとまで思い詰めた時に、最も即効的に、自己を回復し、本来自分が持つ自然治癒力を回復する方法は、そのお金を、多くの難民や虐げられた子供達や災害に被災された方々への寄付や救援金、養育費用、お見舞いに充てることです。
 実際にそれができないとしても、世の為人の為に役立てる方法を考えるだけで、人生の価値観や、自身を取り巻く世界が、劇的に変わります。

 大切なことは、自己中心的世界の中で追い詰められた自身が選ぼうとする邪道から一歩離れて、自分が、本当の意味において最後まで自身の人生の主人公で居続ける正道を探し求めることだと思います。
 

 本来であれば、自分探しの年代である学生時代に、哲学や倫理学、宗教学を出来るだけ深く研究する機会を持つことで、このような精神的危機は避けることができると思います。
 こうしたマヤカシに飛びつくほど追い詰められた時は、もう一度、哲学や倫理学、宗教学に戻ってみる、或いは学び忘れた世界を学習してみることが正道です。
 それが難しい時は緊急介入として、精神科や心理カウンセラーへの受診という救済も現代社会には用意されています。マヤカシのような派手に酔っぱらえる妄想トランスはないでしょうけど。
 

 日常的に、精神科という科目や心理学、哲学や倫理学や宗教学に何らかの抵抗を持つ人が多く見られ、それらに偏見をもっている人が、占いやこの手のセミナーや迷信にのめり込む場合が多く、向精神薬に抵抗を持つ人がアルコールや各種非合法ドラッグにのめり込むケースが多く見受けられることが、とっても興味深いです。
 


 暑い日々を乗り越えて、実りの秋を迎えましょう!

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