🕌
隣から肩を叩かれ、僕は顔を少しそちらに動かす。隣に座るウズベク人の友達、ここではAとしよう、がスマホの画面を見せてくる。そこには日本語で、こう書かれている。
「アッラーは、一番貧しいもののために祈るように言っています。」
Aは僕の顔を見て、理解できたか?と尋ねるような表情をしたので、僕は軽く頷いて、また前を向く。公式戦ができるサッカーコートくらいの空間だが、その前4分の1に、200人ほどが所狭しと座っている。その視線の先には教壇のような位置で何かを唱え続ける、白い服に身を包まれた男がいる。部屋の装飾も相まってその男は、とても眩しく映っていた。外はとっくに日が沈んでいたが、この空間だけは、まるで北極のように常に明るく、光で満ちていた。
しばらくして、耳に心地よく響いていた唱えが突然終わったかと思うと、その空間にいる皆が、一斉に起立し始める。僕は何が起こったのかよくわからないが、とりあえず後に続いて立ち上がる。Aが隣で囁く。
「準備はいいか?」
よくは、ない。
🖐️
寮の自室で目が覚める。覚めてしまった、というべきか。鉛のように重い体、とよく例えられるが、窓から見えるのは分厚いグレイに霞んだモノクロの世界で、その景色は僕の体をもっとどろっとした、鈍い水銀のようにし、ベッドから離さなくするのである。
ようやく体を起こした僕はしかし、足を地面につけるのを躊躇う。一人一室与えられた寮の自室は目立った汚れもなく、ゴミ屋敷のようになっているわけでもない。
もう一度眠りについたら、今日という日が最初からなかったもののようになるのではないか、そんなぼんやりとした予感めいたものが、寝起きの頭に襲いかかる。
しばらくして僕は奮い立たせるようにして足を室内用のサンダルに通し、ゆっくりと体重をかけて立ち上がる。
その瞬間、針を刺すような鋭い痛みが左の足先から心臓、そして全身に伝わる。わかっていても、その痛みには毎回驚かされる。いや、わかっているから、というべきか。寝る前に出したゴミは、家を出る頃には回収されている。それと同じように、朝起きたらこの痛みもなくなっているのではないかという淡い期待があって、それがこの痛みを実際以上のものにするのかもしれない。
2歩、3歩進むと、夜を通して鈍くなっていた体がほぐれていき、水銀に赤い液体が回り始める。踵の痛みも少しづつ和らぐ。
しかし、今日もダメだ。走ることはできない。僕は宝くじで当たりを引けなかった時のように、短いため息を吐く。初めから、わかっていたことじゃないか。
服はそのままに、靴下と靴を履いて部屋を出る。無音の階段を降り、冷たい扉を開け、モノクロの世界に飛び出す。僕は光に包まれる前のタシケントを、歩き始める。
中長距離における怪我は、恋愛におけるすれ違いと一緒なのではないか、と気づく。不満があっても、言えない、言わない。そんな関係が続き、ちりつもで溜まっていったそれが表に出た頃には、もう当分の間修復できないほどの溝が生まれている。
つまり僕は、足首から見放された男、ということか。
大学内の少しひらけた場所で、僕は歩みを止める。そこにはこじんまりとした人工芝のコートと、その隣に白い鉄の棒の集合体がある。正確に言えば、雲梯と鉄棒が組み合わさった、よく近くの公園で見るあれだ。
仲違い中の足首を刺激しないよう、慎重に体を上に伸ばし、雲梯を掴む。全体重が上半身に重くのしかかる。僕は深く息を吐いてお腹にグッと力を込めると、10年前の無邪気な自分自身を重ねながら、一つ飛ばしで、前に進み始める。
🚇
「〜を信じるか?」
Aが僕を見て、徐に口を開く。地下鉄の車内には防音装置がなく、隣から話しかけられても、暗闇を切り裂く轟音に阻まれてしまう。僕は顔を近づけ、聞こえなかったことをアピールする。
「神の存在を信じるか?」
Aは彫りが深い、猛禽類のように鋭い視線をこちらに向ける。僕は困ってしまう。新年だけにしか祈らない神様を、彼らの前で神と言っていいのか、僕にはわからなかった。たまたま同じ、Godという単語に訳されるだけで、彼の中のGodと僕が抱くGodは、キャベツとレタスくらい、全く違うもののように思えた。
僕は言葉を選んで、絞り出すように答える。
「僕の中には、いないかもしれない」
「いなかったら、」
彼にとって神は、いるかいないか、という次元ではなく、いるのだ。神はいて、そこから全てがスタートしている。彼は困惑したように質問を続ける。
「神がいなかったら、お前は、どう生きていくんだ?」
その言葉は、地下鉄の音に巻き込まれ、僕の頭で何度もこだまする。
🦶
「これはお前にとって大きな試練だ」
Aはまるで自分ごとかのように眉間に皺を寄せる。僕の足の痛みをそこまで心配してくれている彼を、第三者のような気持ちで見てしまう自分がいることに、戸惑う。寮の共有スペースのソファに、僕らは二人でいる。そのスペースは、なぜか電気がついていなかった。もう日付を越えようという時間だった。外の電灯の明かりだけが、二人の空間を静かに照らしていた。
「アッラーはベストを尽くしている人しか助けない。何もせず、ただ祈っているだけの人に、アッラーの目は向かない」
「でもA、こないだのテストはノー勉だったけど、祈ったら乗り切れたんだろ。あれはどうなんだよ」
「まあな」
本当にやばい時は一生懸命祈ったらなんとかなるんだ、と彼は満足げな様子で言うので、僕はなんだか愉快な気持ちになる。
「アッラーは慈悲深いからな」
2週間以上かかとが痛む状況を話すと彼は、初めて饅頭の中にアイスクリームを見つけた時のような表情を浮かべた。それに対して僕は人生二度目の足底筋膜炎であったことから、もちろん毎朝感じる痛みに落ち込むのだが、予想以上に混乱してくれる彼に比べれば、幾分か冷静だった。いや、彼を見て冷静になれた、というべきか。
「僕は足首にみかぎられたんだ」
「僕たちは一年後には、残念ながら、離れ離れになる」
彼は言葉を紡ぐ
「でもアッラーは違う。どんな時も君のことを見ている。君の一番近くにいるし、君の隣にいる」
彼はまるで彼の隣にアッラーがいて、それを抱き抱えるようなジェスチャーをする。僕はそこに下手なアッラーの姿を描いて、Aとアッラーとの距離をどんどん近づけていく。離れたくても離れられないくらい。
判別式が0になり、Aとアッラーが接する。きれいに一つの解が求められた、あの感覚。
アッラーは、神は、自分自身じゃないか?
僕はその言葉を、口にしない
🕌
教壇に座る男の言葉を合図に、集まった200人はそれぞれのタイミングで、祈りを始める。二礼二拍手一礼のようなものだろうか、手を耳に持っていき、天からの声を聞くようなそぶりをすると、今度は膝に手をつき、地面を見つめる。そして膝を地面につき、正面に、おそらくメッカの方向だろうか、に向かってお辞儀をし、神への祈りを唱える。
僕は怪しまれないように、といっても見慣れぬ東洋人がモスクにいる時点で手遅れかもしれないが、隣の人と少しだけ間隔をずらしながら、自分の祈りに集中しているふりをする。
だがおそらく、その心配は杞憂だった。誰も僕のことなど気にしているそぶりはなかった。Aも含め、彼らは彼らの作業に集中し、天をみて、地面を見つめた。まるで彼ら自身の中にいるアッラーと、会話しているかのように。
でも、
僕は淡々と祈りの動作をこなしながら、心の中でつぶやく。
でも、どこかでみんな、不安なんじゃないのか?
僕らは床の模様に沿って、一列に並んでいる。まるで、不確かな問題の回答を、お互いに確認し合う時のように。
この問題、これであってるよね?俺も同じになった。じゃあ大丈夫かな。そんなやりとりが、聞こえる。
正解は、あるけどない。
🦶
「なあ、俺たちはベストフレンドだよな」
ソファで一通り話し終わった後、彼は思い出したように呟く。僕はすぐに答えられない。赤とピンクの間の色を見せられて、これは赤だよな、と迫られているような感覚に襲われる。人によっては赤に見えるし、人によってはピンクに見える。もしかしたら色盲の人には、紫に見えるかもしれない。
その色は、その色としてとっておきたかった。
「ウズベクの友達の中で一番話していることは確かだね」
そう言いながら、初めて揺れる彼の瞳を見て、彼が何か、「確かなもの」を欲しがっているように感じていた。これは赤だ!と一緒に言ってくれる人が、自分の中だけではなく、外に、欲しいのではないか、と。
突然、共有スペースの扉が開き、向こう側から光が差し込む。もう誰もいないと思っていた僕たちが驚いて視線を向けると、暗い通路の先から、寮の管理人さんが呆れたような目でこちらを見ている。
「鍵、閉めるよ」
僕たちは固く握手をして、それぞれの部屋に戻る。
🚇
「〜を信じるか?」
誰かが僕の方を見て、徐に口を開く。その人の言葉は暗闇を切り裂く轟音に阻まれる。僕は顔を近づけ、聞こえなかったことをアピールする。
「自分のことを信じているか?」
その人の顔はよく見えなかった。地下鉄の車内は暗かった。僕は困ってしまう。
その時突然、地下鉄が大きく揺れる。僕は倒れないように足に力を込めて踏ん張る。その瞬間、あの踵の痛みに襲われる。今回はいつもと違って激しい痛みで、脳天まで貫くような感覚に襲われる。僕は立っていられなくなり、隣から喋りかけてきた誰かに寄りかかろうとする。そうして支えてもらおうとした瞬間、隣にいたはずの人はどこかにいなくなってしまう。僕は地下鉄の車内で、倒れる。
「僕の中には、いないかもしれない」
「いなかったら、」
ふと横を見ると、倒れる瞬間はいなかったその人が、何事もなかったかのように立っている。
「自分がいなかったら、お前は、どう生きていくんだ?」
その言葉が、地下鉄の進む音に巻き込まれ、僕の頭で何度もこだまする。
『本当にやばい時は、一生懸命祈ったらなんとかなるんだ』
それは電車が通過駅を通り過ぎるように一瞬だったが、こだまする僕の頭を確かに横切った。
馬鹿馬鹿しい。でも
僕は周囲を見渡す。簡単に立っているように見える人も、よく見ると手すりを必死に持っている。車両の境に立っているあの人も、電車の揺れに必死に耐えているように見えた。
もう一回。どんなにみすぼらしく見えても良いから。
僕は腹にグッと力を込めて、踵に負担をかけないよう、慎重に、でも一気に立ち上がる。
🖐️
雲梯は想像以上に長かった。小学校の頃はあんなに短く感じたが、今は長い、長い道のりだった。夜があけ、日の光が優しく僕を照らす。僕はまだ微睡の中にいて、体は重い。腕がはち切れそうな感覚に襲われ、思わず鉄の棒から手を離したくなる。ぼんやりとした頭の中では、昨日読んだ小説の一節が流れ始めている。
隣から肩を叩かれ、僕は顔を少しそちらに動かす。隣に座るウズベク人の友達、ここではAとしよう、がスマホの画面を見せてくる。そこには日本語で、こう書かれている。
「アッラーは、一番貧しいもののために祈るように言っています。」
Aは僕の顔を見て、理解できたか?と尋ねるような表情をしたので、僕は軽く頷いて、また前を向く。公式戦ができるサッカーコートくらいの空間だが、その前4分の1に、200人ほどが所狭しと座っている。その視線の先には教壇のような位置で何かを唱え続ける、白い服に身を包まれた男がいる。部屋の装飾も相まってその男は、とても眩しく映っていた。外はとっくに日が沈んでいたが、この空間だけは、まるで北極のように常に明るく、光で満ちていた。
しばらくして、耳に心地よく響いていた唱えが突然終わったかと思うと、その空間にいる皆が、一斉に起立し始める。僕は何が起こったのかよくわからないが、とりあえず後に続いて立ち上がる。Aが隣で囁く。
「準備はいいか?」
よくは、ない。
🖐️
寮の自室で目が覚める。覚めてしまった、というべきか。鉛のように重い体、とよく例えられるが、窓から見えるのは分厚いグレイに霞んだモノクロの世界で、その景色は僕の体をもっとどろっとした、鈍い水銀のようにし、ベッドから離さなくするのである。
ようやく体を起こした僕はしかし、足を地面につけるのを躊躇う。一人一室与えられた寮の自室は目立った汚れもなく、ゴミ屋敷のようになっているわけでもない。
もう一度眠りについたら、今日という日が最初からなかったもののようになるのではないか、そんなぼんやりとした予感めいたものが、寝起きの頭に襲いかかる。
しばらくして僕は奮い立たせるようにして足を室内用のサンダルに通し、ゆっくりと体重をかけて立ち上がる。
その瞬間、針を刺すような鋭い痛みが左の足先から心臓、そして全身に伝わる。わかっていても、その痛みには毎回驚かされる。いや、わかっているから、というべきか。寝る前に出したゴミは、家を出る頃には回収されている。それと同じように、朝起きたらこの痛みもなくなっているのではないかという淡い期待があって、それがこの痛みを実際以上のものにするのかもしれない。
2歩、3歩進むと、夜を通して鈍くなっていた体がほぐれていき、水銀に赤い液体が回り始める。踵の痛みも少しづつ和らぐ。
しかし、今日もダメだ。走ることはできない。僕は宝くじで当たりを引けなかった時のように、短いため息を吐く。初めから、わかっていたことじゃないか。
服はそのままに、靴下と靴を履いて部屋を出る。無音の階段を降り、冷たい扉を開け、モノクロの世界に飛び出す。僕は光に包まれる前のタシケントを、歩き始める。
中長距離における怪我は、恋愛におけるすれ違いと一緒なのではないか、と気づく。不満があっても、言えない、言わない。そんな関係が続き、ちりつもで溜まっていったそれが表に出た頃には、もう当分の間修復できないほどの溝が生まれている。
つまり僕は、足首から見放された男、ということか。
大学内の少しひらけた場所で、僕は歩みを止める。そこにはこじんまりとした人工芝のコートと、その隣に白い鉄の棒の集合体がある。正確に言えば、雲梯と鉄棒が組み合わさった、よく近くの公園で見るあれだ。
仲違い中の足首を刺激しないよう、慎重に体を上に伸ばし、雲梯を掴む。全体重が上半身に重くのしかかる。僕は深く息を吐いてお腹にグッと力を込めると、10年前の無邪気な自分自身を重ねながら、一つ飛ばしで、前に進み始める。
🚇
「〜を信じるか?」
Aが僕を見て、徐に口を開く。地下鉄の車内には防音装置がなく、隣から話しかけられても、暗闇を切り裂く轟音に阻まれてしまう。僕は顔を近づけ、聞こえなかったことをアピールする。
「神の存在を信じるか?」
Aは彫りが深い、猛禽類のように鋭い視線をこちらに向ける。僕は困ってしまう。新年だけにしか祈らない神様を、彼らの前で神と言っていいのか、僕にはわからなかった。たまたま同じ、Godという単語に訳されるだけで、彼の中のGodと僕が抱くGodは、キャベツとレタスくらい、全く違うもののように思えた。
僕は言葉を選んで、絞り出すように答える。
「僕の中には、いないかもしれない」
「いなかったら、」
彼にとって神は、いるかいないか、という次元ではなく、いるのだ。神はいて、そこから全てがスタートしている。彼は困惑したように質問を続ける。
「神がいなかったら、お前は、どう生きていくんだ?」
その言葉は、地下鉄の音に巻き込まれ、僕の頭で何度もこだまする。
🦶
「これはお前にとって大きな試練だ」
Aはまるで自分ごとかのように眉間に皺を寄せる。僕の足の痛みをそこまで心配してくれている彼を、第三者のような気持ちで見てしまう自分がいることに、戸惑う。寮の共有スペースのソファに、僕らは二人でいる。そのスペースは、なぜか電気がついていなかった。もう日付を越えようという時間だった。外の電灯の明かりだけが、二人の空間を静かに照らしていた。
「アッラーはベストを尽くしている人しか助けない。何もせず、ただ祈っているだけの人に、アッラーの目は向かない」
「でもA、こないだのテストはノー勉だったけど、祈ったら乗り切れたんだろ。あれはどうなんだよ」
「まあな」
本当にやばい時は一生懸命祈ったらなんとかなるんだ、と彼は満足げな様子で言うので、僕はなんだか愉快な気持ちになる。
「アッラーは慈悲深いからな」
2週間以上かかとが痛む状況を話すと彼は、初めて饅頭の中にアイスクリームを見つけた時のような表情を浮かべた。それに対して僕は人生二度目の足底筋膜炎であったことから、もちろん毎朝感じる痛みに落ち込むのだが、予想以上に混乱してくれる彼に比べれば、幾分か冷静だった。いや、彼を見て冷静になれた、というべきか。
「僕は足首にみかぎられたんだ」
「僕たちは一年後には、残念ながら、離れ離れになる」
彼は言葉を紡ぐ
「でもアッラーは違う。どんな時も君のことを見ている。君の一番近くにいるし、君の隣にいる」
彼はまるで彼の隣にアッラーがいて、それを抱き抱えるようなジェスチャーをする。僕はそこに下手なアッラーの姿を描いて、Aとアッラーとの距離をどんどん近づけていく。離れたくても離れられないくらい。
判別式が0になり、Aとアッラーが接する。きれいに一つの解が求められた、あの感覚。
アッラーは、神は、自分自身じゃないか?
僕はその言葉を、口にしない
🕌
教壇に座る男の言葉を合図に、集まった200人はそれぞれのタイミングで、祈りを始める。二礼二拍手一礼のようなものだろうか、手を耳に持っていき、天からの声を聞くようなそぶりをすると、今度は膝に手をつき、地面を見つめる。そして膝を地面につき、正面に、おそらくメッカの方向だろうか、に向かってお辞儀をし、神への祈りを唱える。
僕は怪しまれないように、といっても見慣れぬ東洋人がモスクにいる時点で手遅れかもしれないが、隣の人と少しだけ間隔をずらしながら、自分の祈りに集中しているふりをする。
だがおそらく、その心配は杞憂だった。誰も僕のことなど気にしているそぶりはなかった。Aも含め、彼らは彼らの作業に集中し、天をみて、地面を見つめた。まるで彼ら自身の中にいるアッラーと、会話しているかのように。
でも、
僕は淡々と祈りの動作をこなしながら、心の中でつぶやく。
でも、どこかでみんな、不安なんじゃないのか?
僕らは床の模様に沿って、一列に並んでいる。まるで、不確かな問題の回答を、お互いに確認し合う時のように。
この問題、これであってるよね?俺も同じになった。じゃあ大丈夫かな。そんなやりとりが、聞こえる。
正解は、あるけどない。
🦶
「なあ、俺たちはベストフレンドだよな」
ソファで一通り話し終わった後、彼は思い出したように呟く。僕はすぐに答えられない。赤とピンクの間の色を見せられて、これは赤だよな、と迫られているような感覚に襲われる。人によっては赤に見えるし、人によってはピンクに見える。もしかしたら色盲の人には、紫に見えるかもしれない。
その色は、その色としてとっておきたかった。
「ウズベクの友達の中で一番話していることは確かだね」
そう言いながら、初めて揺れる彼の瞳を見て、彼が何か、「確かなもの」を欲しがっているように感じていた。これは赤だ!と一緒に言ってくれる人が、自分の中だけではなく、外に、欲しいのではないか、と。
突然、共有スペースの扉が開き、向こう側から光が差し込む。もう誰もいないと思っていた僕たちが驚いて視線を向けると、暗い通路の先から、寮の管理人さんが呆れたような目でこちらを見ている。
「鍵、閉めるよ」
僕たちは固く握手をして、それぞれの部屋に戻る。
🚇
「〜を信じるか?」
誰かが僕の方を見て、徐に口を開く。その人の言葉は暗闇を切り裂く轟音に阻まれる。僕は顔を近づけ、聞こえなかったことをアピールする。
「自分のことを信じているか?」
その人の顔はよく見えなかった。地下鉄の車内は暗かった。僕は困ってしまう。
その時突然、地下鉄が大きく揺れる。僕は倒れないように足に力を込めて踏ん張る。その瞬間、あの踵の痛みに襲われる。今回はいつもと違って激しい痛みで、脳天まで貫くような感覚に襲われる。僕は立っていられなくなり、隣から喋りかけてきた誰かに寄りかかろうとする。そうして支えてもらおうとした瞬間、隣にいたはずの人はどこかにいなくなってしまう。僕は地下鉄の車内で、倒れる。
「僕の中には、いないかもしれない」
「いなかったら、」
ふと横を見ると、倒れる瞬間はいなかったその人が、何事もなかったかのように立っている。
「自分がいなかったら、お前は、どう生きていくんだ?」
その言葉が、地下鉄の進む音に巻き込まれ、僕の頭で何度もこだまする。
『本当にやばい時は、一生懸命祈ったらなんとかなるんだ』
それは電車が通過駅を通り過ぎるように一瞬だったが、こだまする僕の頭を確かに横切った。
馬鹿馬鹿しい。でも
僕は周囲を見渡す。簡単に立っているように見える人も、よく見ると手すりを必死に持っている。車両の境に立っているあの人も、電車の揺れに必死に耐えているように見えた。
もう一回。どんなにみすぼらしく見えても良いから。
僕は腹にグッと力を込めて、踵に負担をかけないよう、慎重に、でも一気に立ち上がる。
🖐️
雲梯は想像以上に長かった。小学校の頃はあんなに短く感じたが、今は長い、長い道のりだった。夜があけ、日の光が優しく僕を照らす。僕はまだ微睡の中にいて、体は重い。腕がはち切れそうな感覚に襲われ、思わず鉄の棒から手を離したくなる。ぼんやりとした頭の中では、昨日読んだ小説の一節が流れ始めている。
『イワンは今でもまだ生きています。人々はその国へたくさん集まって来ます。かれの二人の兄たちも養ってもらうつもりで、かれのところへやって来ました。イワンはそれらのものを養ってやりました。
「どうかたべものを下さい。」
と言って来る人には、誰にでもイワンは、
「いいとも、いいとも。一しょに暮すがいい。わしらにゃ何でもどっさりある。」
と言いました。
ただイワンの国には一つ特別なならわしがありました。それはどんな人でも手のゴツゴツした人は食事のテイブルへつけるが、そうでない人はどんな人でも他の人の食べ残りを食べなければならないことです。』
3年 今泉翔一朗
3年 今泉翔一朗
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