人生で、一番長い時間を過ごした実家の机でこのブログを書いている。

 








価値観や、周りを取り巻く環境はいくら変わっても、5月の新緑と強い西風が靡く景色は何一つ変わらない。





 





こうして窓の外を眺めていると、ふと高校時代を思い出す。純粋で、ある意味それは常識外れで、無謀な「野望」を抱え続けた三年間だったと。

 










 

 






本気で成し遂げられると思っていた。

 

 








いくら悪あがきだと知っていながら、「野望」を追いかけ続けた。
 










実際、成し遂げることができてしまった。

 

 

 

 

 

 








40436

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 











幼い頃から、上京することが「野望」だった。























東京は根源的な憧憬の対象だった。

 

 











東京じゃなきゃだめだった。

別に東京に似た町は日本中どこにでもあるし、大抵のことは東京以外でもできる。

 

 

 



だけど、どうしても東京じゃなきゃだめだった。

東京とは別の場所で生きる未来は想像できなかった。

 

 

 




それは未熟な人生の中での一種脅迫的な「野望」であり、今すぐにでも成し遂げなければならない「野望」であった。

 

 

 

 

 

















東京を目指した、18の冬。

 

 

 

 




GOING STEADY
「銀河鉄道の夜」を聴きながら、

 

シベリア発東京行き銀河鉄道上り列車の片道切符を持って、

 

 

 

 

 

長渕剛「とんぼ」を歌いながら、

 

死にたいぐらい憧れた華の都大東京に南へ南へ向かった。

 

 

 

 

 





仲間と、東京に行こうと誓い、東京を目指した。

 

 

 

 

 



 
今となっては大した距離ではないが、当時の自分はその300kmの中に、明確に時間と人生を分ける境界線があると信じていたのだ。

 

 

 

 


















銀河鉄道の名を冠する東北新幹線は、僕たちの希望の列車だった。

 

 

 

 

 

















振り返ると、2025
年の春、人生最大の「野望」を成し遂げて以来、何の「野望」も抱いていなかったように思える。

 

 

 

 




空虚な日々が続く。

追われることも無い、追いかけることも無い、安穏とした日々。

 

 

 

 

 

 




「野望」は一度成し遂げられてしまえば、風化するものなのだと知った。

 

 

 

 

 

 




ただ、果たしてその考えは正しいのだろうか。

大きな「野望」は、成し遂げただけで本当に終わってしまうものなのだろうか。

「野望」は一回きりのものなのか。

 

 

 

 







いや、認めたくない。

 

 

 

 








その「野望」に向かって身を奮い立たせ続けた日々は、過程は、果たして不可逆的で、もう効力を持たないとは。

 

 

 

 

 

 

 

 

人間が抱く野望の本質には、「何者かになりたい」という自己実現的な願望があると、最近感じるようになった。

 

 

 

 

 



当たり前のことかもしれない。

 

 

 

 

 

ただ、自分が何者かになりたい、もしくは何者かになる力を持つ存在だと証明するために、「野望」を抱くのだとしたら―

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今までの自分の抱いてきた「野望」はまさにその本質的な欲求によるものなのではないか。

 

 

 


自分が何を求め、何を追い、何を得ようとするのか。

 

 


 


自分がどんな存在で、どんな存在になりたくて、どんな存在になる力を持ち合わせているのか。

 

 



 



その証明こそが「野望」そのものなど実感できた今、自分の「野望」は「何者かになりたい」この一つに集約される。

 

 

 

 

 



そう思うと、陸上競技はまさに「野望」に向かって胸の灯を燃やし続ける行為そのものではないかと思える。

 

 

 

 



「野望」が成し遂げられたとき、どう思うのか、どんな感情になるのか。

 

 

 

 



彼らがどのような景色を見ているのかは、彼らにしか分からない。

 

 

 

 



自分もある一点ではそれを実感できたが、まだまだ未熟な現在では知らないことばかりである。

 

 

 

 







「野望」の、自分自身が「何者かである」ことの証明の先にある景色。

 

 

 

 

 



死ぬまでこの「何者かになる」ことへの欲求はついえないと思う。

 

 

 




それは我々の人生が有限だから。

生きた証を遺したいから。

 

 

 





そう考えると、「野望」と命は表裏一体で、生まれてから死ぬまで持ち続けるものなのではないか。

 

 

 

 


















高校時代に感じた、胸が苦しくなるほどの「野望」を、今後も追い続けていきたいし、またそれはある意味必然的に追い続けていくものだろう。

 





二年 清野叶多

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 










タマちゃんありがとう。毎日タマちゃんのジャンプと笑顔に元気をもらっています。

今度ペース飲みしようね!

 

 

 




次は照葉君の自己紹介ブログです。登山で鍛えた脚力でタータンを駆け回ってね!