2009年04月
2009年04月25日
じゃんけんと老いるということ。
僕はじゃんけんが「強かった」
こういうと全く論理的な感じもしないが、
確かに強かった。
別にいろいろ分析してというわけでもないし、相手が出す瞬間を見て、とかでもなく、当然勘でじゃんけんをしていたわけだが、なぜか勝った。
統計的に見て、明らかに有意に、じゃんけんが強かった。
特に大学時代はじゃんけんが強く、周りでよく知る友人とじゃんけんするときは、ハンデがついていた。
僕が2回勝つのが先か、相手が1回勝つのが先かで勝負していた。
僕も相手も、それがフェアだと思っていたし、もう少しハンデがあってもいいんじゃないかと思うくらいだった。
それでも勝っていたから。
だが、最近弱い。
普通に負けるようになった。
負けると相手に「どうしたの?」と聞かれるじゃんけんもどうかと思うが、勝てない。
これはきっと老いのせいなのだと思う。
先日友人と話していたら、友人も同じような話をした。
「最近麻雀をしてもドラがのらない」
彼はかつて確かにドラがのるやつだったが、こないだ麻雀をしたときは、ドラがのっていなかった。
きっとこれが老いだ。
サラリーマンになったからかもしれない。
ちょっとじゃんけんに弱くなったことを落ち込みながら、友人と先日夜道を歩いていたら、
アントニオ猪木を見た。
まだまだ運もある、人生捨てたもんじゃないな、と思った。
と思ったら、やっぱりその後その友人にじゃんけんで負けた。
やれやれ。
2009年04月11日
アムラーに共感
近頃撮る写真の感じが変わってきた気がする。
つい最近までは僕が写真を撮るのは描写のためであったように思える。
最近のそれは、記録のためである。
現在の記録であり、現在は過ぎ去る。
僕が中高生の頃、女子高生(アムラー)が使い捨てカメラでとにかく写真を撮りまくることが流行っていた。
そのときにテレビ番組でなぜそんなに写真を撮るのか聞かれた女子高生がこう言ったのを鮮明に覚えている。
「忘れない思い出があるなら写真なんていらなくなーい?」
その後彼女が超バッドと言ったかどうかは知らないが、彼女にとっての写真は純粋な記録行為だ。
彼女は現在が二度と来ないことも知っていたし、過ぎ行く現在が何にも替えられないほど貴重なことを知っていた。
なんだか自分が最近撮った写真を見て、歳をとったのかなーと、ベランダにて空を見ながら少し感傷的になる金曜の夜であります。
記録であり表現である、そんな写真を撮りたいものです。