2004年12月

2004年12月27日

越前三国湊の日和山 金鳳寺・芭蕉・各務支考・俳諧・北前船

日和山とは日和待ちの船乗りが日和見をするために利用した港付近の小山のことですが、三国湊のそれも金鳳寺(きんぽうじ:曹洞宗)を中心とした丘を指し日和見に相応しい場所である。ここからは三国湊一帯を見渡せ、川湊の様子、日本海の時化具合や西の空模様など北前船の出港に備える場所である。またここは各務支考の来杖の機による日和山吟社発祥の地となった三国湊の日和山。写真の左の松の左横にある細長い角状の石碑が「初雪塚(芭蕉碑)」である。芭蕉翁の余徳を敬慕し芭蕉俳諧の象徴として日和山連が1743年に建立したもので、この地を愛した宗匠たちの記念碑も並んで立っている。

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2004年12月25日

越前三国湊の二つの校歌 三国中学校・三国高等学校・多田裕計・三好達治・秦秀雄


越前三国湊の校歌三好達治は三国にゆかりの秦秀雄の紹介で、また昭和16年(1941)の第13回芥川賞を受けた多田裕計は大陸、南洋から出身の福井へ帰っていたが空襲にあい、妻の実家のある三国へ来た。
これが縁で達治は福井県立三国高等学校、裕計は三国町立三国中学校の校歌を作詞した。
裕計は「光あふれとびは群れまう ・・・」と、青春の旅立ちを祝ってくれた。三好の詩は写真のとおりであるが「心高かれ若人は、ゆかしき友を友垣に、望み遠かれ若人は」と私たち高校生を励まし、持つべき心のあり方を示してくれた。当時の感動を思い出す。
二つの校歌は、今でも深く心の中に刻まれ、口ずさむことが多い。素晴らしい二つの詩は卒業生の人生に大きな影響を与え続けている

越前三国湊の俳諧 各務支考・岸名昨嚢・哥川・永正寺・加賀千代女・伊藤柏翠・蓮如

                  三国湊の永正寺                                        三国湊の俳壇の歴史は1707年に芭蕉十哲の一人である美濃派の各務支考が三国湊へ来たのがきっかけで、「旧岸名邸」の主人である岸名昨嚢が中心となって開いた「日和山吟社」の創設が始まりで今日にいたっている。
そのころ滝谷出村荒町屋の抱え遊女であった「哥川(かせん)」は「永正寺」住職の巴浪から俳諧を学んだ。哥川は教養豊かで容姿端麗、茶、華、香、書に通じ「奥そこのしれぬさむさや海の音」など多くの名句を残した。また「加賀の千代女」との交流を重ねた。写真は滝谷出村にある「永正寺」境内にある「哥川(かせん)」の墓と句碑である。町内の哥川にゆかりのある月窓寺、妙海寺にも哥川の墓と思われる石碑がある。
「元禄の世の名士豪商多数の名が忘れられた三国湊に、哥川が永くその名をとどめているのは、遊女ながらも俳諧という文芸に、心をこめ精通したためであり、まことに文芸の力はとこしえであるといえる。」伊藤柏翠氏は述べている。
「永正寺」の開基は15世紀後半、蓮如上人の弟子である永正である。



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2004年12月22日

三国湊の永正寺

三国湊の永正寺古来三国湊とは思案橋を境に上流側をいい、下流側は滝谷出村といった。軒がつながりながらも三国湊は福井藩領であり、滝谷出村は丸岡藩領である。福井藩は港の権益を守るため物資の輸出入は三国湊に限っていた。そのことをめぐり、江戸期には両者に多くのトラブルがあった。明治になり三国港に加え滝谷が港として開港するが、数年後両港名を廃し坂井港とした。しかし泉州堺港と混同されることも多く、越前滝谷といっても何処かわからず、三国と答えたという。これらの理由により住民から三国港への改称を請願している。結局明治22年(1889)に三国港となった。
現三国町は周辺町との合併協議が混迷の中で行われていますが、新市名について「坂井市」と決定されましたが、昔と同様の問題が起きるであろう。堺市があり長野県には坂井村もある。
司馬遼太郎が言ったように、継体天皇が畿内で自分の出身は「三国(御国)・・・美しいイメージをもった名」と答えた歴史ある名称も協議の表舞台に上って然るべきであった。
住民の投票数で決定するのではなく、どのような名称が地域にとって大切か、歴史的なことも踏まえて検討されるべきだったでしょう。
写真は滝谷出村にある「永正寺」で三国湊で最も下流にある寺である。



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2004年12月21日

三好達治と三国湊 畠中哲夫・小野忠弘・中野重治・たかだや・高浜虚子

三好達治高田屋(1900年生)は昭和19年(1944)3月に秦秀雄の紹介で三国湊に疎開の場を求めた。堂森芳夫(後国会議員)の世話で米ケ脇にある森田家別荘を借り受け、それから5年を三国湊で過ごし、三国を「わが心のふるさと」と呼ぶまでになった。
畠中哲夫(詩人)や小野忠弘らは頻繁に達治のもとに出入りし大きな影響を受けた。小野が多くの青年に強烈な印象を与えたのと同じく、その20年前には小野、畠中のほか当時の青年たち中野重治、多田裕計、則武三雄、雨田光平、竹島泰、森山啓など多くが達治と運命的な出会いをした。さらに小林秀雄、鳥海青児など中央から多数の文化人が達治のいる三国湊を訪れた。また森田愛子、伊藤柏翠のもとを師である高浜虚子が数度訪ねたが、達治もその時の句会に参加している。
このように、終戦直後、三国湊が文学のサロンとなり、文化活動の起点としての役割を果たしていた。
写真は達治が通った「料亭 たかだや」である。

2004年12月20日

三国湊を愛した小野忠弘の世界 ジャンクアート・オノ メモリアル・三国町運動公園

小野忠弘は三国高校の教師をしながら精力的に、絵画とも彫刻ともいえるような独自の世界を持った造形作品を発表し続けた。特に国際的にその評価は高く「ジャンクアート(廃品芸術)」の旗手として、多くの賞を得ている。また、氏は文学・映画・古美術など幅広い活動にも取組んだ。また強烈なる個性の影響を受けて、芸術家になった若者も多い。素人の私にはそれらの評価は出来るはずもないが、氏の作品の前に立つと全く不思議な色であり、形であり、世界である。そしてその小野忠弘100周年造形作品に込められたエネルギーが私を打ちのめす。
氏はアトリエで足の踏み場もない廃品の山に囲まれ創作活動を続けた。そして廃品を芸術の域へと変化させていく。
写真は1989年三国町制100周年記念の造形「宇宙への船出 海・アトラス」で、三国町運動公園の真ん中に立っている。



2004年12月19日

三国湊を愛した小野忠弘 オノ メモリアル


小野忠弘邸
小野忠弘は1913年青森に生まれ、現在の東京芸大卒業後徳島県の中学校を経て、42年に三国高校の美術教諭として赴任してきた。2001年88歳で亡くなるまでの60年間三国湊を愛し続けた。三国湊での後半は写真の住宅兼アトリエで創作活動に情熱を注いだ。強烈な個性で、既成の枠にとらわれることなく、気宇壮大な芸術活動に取組んだ。この場所は瀧谷寺と龍翔館の中程にあり、敷地にある露出した岩頭群がすごく気に入っていて「この場所しかない。岩に座って夕日を見るのが大好きだ。」と私に語ってくれた。三国町では「ONO記念ギャラリー」建設を敷地内に計画しているが、是非早急に実現をして巨人と言われる芸術家の生き様を多くの人に見ていただきたい。
関連記事2005.10.20三国湊に「ONO MEMORIAL」竣工



2004年12月18日

三国湊の瀧谷寺 国宝・重要文化財・名勝庭園

瀧谷寺
山門を通り、苔むした庭を見ながら庫裡より中に入る。江戸時代中期の建造である本堂で寺宝などを見る。「金銅毛彫宝相華文馨」は国宝である。藤原時代の作で、気品あるこの馨(けい)は読経の際の鳴器に使う仏具である。
一段高い観音堂は室町時代に建てられたもので、内陣は緑色の彩色で珍しいものです。ここからは鎮守堂(重要文化財)が見える。観音堂の裏方へ進むと庭園が見えてくる。福井県下最初の国指定名勝庭園です。丘陵の斜面に築造されていますが、南向きであるため明るい庭園です。左上の客殿から見る庭園も素晴らしい。縁に座り時間を気にせずゆったりと日常の喧騒と違った時を持ちたいものです。

三国湊の瀧谷寺 梅田雲浜・柴田勝家・お市の方

「瀧谷寺(たきだんじ)」さんは、南北朝末期1375年創建の三国最古の寺院です。
前庭を歩き、梅田雲浜ゆかりの池に架かる石橋を渡って総門をくぐる三国湊の瀧谷寺と参道が緩やかな坂道となって遠くへと続いていく。やがて体が温まる頃山門に着く。
山門は鐘楼門で総槇両袖付きで、戦国武将の柴田勝家はお市の方を妻とした喜びもあって、当寺に寄進をして建立されたものです。しかし秀吉に北ノ庄城においてお市の方と共に敗れた勝家は、この風格ある山門の完成を見ることはなかったのです。
山門を入っていくと明るくなり、石庭を右に、左から庫裡、本堂、観音堂と並びます。



2004年12月17日

越前三国の古刹「瀧谷寺」  真言宗智山派・性海寺

越前は真宗王国といわれるが、三国湊についても28か寺があるが、そのうち18か寺が浄土真宗越前三国の瀧谷寺の寺である。真言宗の寺は3か寺で、瀧谷寺(たきだんじ)、性海寺(しょうかいじ)そして昭和40年に誕生した成田山福井別院九頭龍寺であり、いずれも真言宗智山派である。
瀧谷寺と性海寺は祈祷寺院として歴代領主の祈願所として栄えてきた。また豪商の財力が寺院経営を支えた。
「瀧谷寺」の広大な敷地の中は深山の趣きがある。杉木立の中に笏谷石の参道は長く続き、訪れる者を深遠な気持ちにさせてくれる。国宝、重要文化財、名勝庭園などゆっくりとひと時を過ごしたいところである。

 



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