2006年09月01日

三国湊と鉄道

三国湊の鉄道交差地点明治時代に鉄道敷設の国の審議機関として「鉄道会議」が設けられており、 明治26年2月に北陸線について審議がなされた 政府案は従来の福井の名望家たちも参画した東北・北陸鉄道会社の計画と異なる「三国を経由しない」ことであった 「坂井港ニヨラズシテ真直ニ往クト云ウコトハ至極軍事上ニ於キマシテモ利益」がある 鉄道を海岸沿いに敷設することにより、外国の攻撃を受けやすく、そのようなルートは軍事上の観点から避けられるべきであるという、陸軍の考え方である 敦賀の杉津の山腹を通る線路も覆われるように設計せよとのことである 折りしも翌27年7月には日清戦争が起こり、37年には日露戦争が始まっている 軍の懸念も現実化しそうな時代であった
しかし鉄道が海岸線を軍事上から通らないことは、石川県の美川や富山県の滑川など海岸から500mほどのところを通っていることからも説得力は弱いのではないか
その後26年12月に三国は鉄道会議に対して三国迂回論を提出した
「坂井港・・・ニ接続セヌト云ウコトハ・・・鉄道其物自身ノ経済」の欠陥となるおそれがあり、坂井港への迂回が不利益である(政府は、既成の物資集散地と鉄道の敷設は無関係とする)なら「支線ヲ接続サセルト云ウ設計ガ希望シタイ」これは明治財界をつくった鉄道会議議員の渋沢栄一の意見である
三国湊に住む者は、北陸線敷設が実現しなかったことに対して、当時の三国が海上輸送に連綿とした希望を持ち、新しい交通時代の到来を展望することに熱心に取り組まなかったと忸怩たる感を持っている
しかし、当時の政府の方針からすれば三国湊に北陸線が迂回することは極めて困難な状況にあったともいえる これは三国の地理的位置が福井から最短距離で石川県へ入るという政府の方針に適合しないのである
同様の理由で国道8号線、高速道路、新幹線のルートも三国から遠く離れて決定されている
北陸線は明治26年4月に着工し、今から110年前の明治29年7月には福井、三国に鉄路が来ることなく31年4月に金沢、32年3月には富山まで開通したが、この敷設のスピードは今の北陸新幹線の状況を照らしてみるとすごい勢いである
そして鉄道の延長は三国湊の繁栄の基であった海運業の衰退をもたらし、三国湊に大きな影響をあたえた
一方、渋沢や杉田定一らの努力で北陸線金津駅を起点とする三国支線が明治43年7月21日の起工し、44年12月6日に三国まで開通した 三国港へは大正2年の竣工となる
その後三国芦原電気鉄道(株)は昭和3年福井と三国を結ぶ鉄道を開通させ、さらに昭和7年には東尋坊口へと延伸する
これによって三国には2本の鉄道が並行することとなる
戦時の昭和19年鉄路の転用のため国鉄三国支線と電鉄三国〜東尋坊口間は撤去され、芦原〜三国間は戦後も復活することは無く、三国〜三国港間は三国芦原電鉄を引継いだ京福電鉄が使用することになった
終点の三国港駅その京福電鉄も度重なる事故によって、平成13年運行停止となるが、三国町民の強い存続運動によって14年9月17日第三セクターの「えちぜん鉄道」に引継がれる 翌15年8月10日三国芦原線に再び電車が走ることになった

上の写真は滝谷に残る三国に2本の鉄道が走っていたことがわかる線路の立体交差跡である
下が国鉄三国支線で橋脚の上を走ったのが三国芦原電鉄である
現在はえちぜん鉄道が下を走っている

下の写真は終点のえちぜん鉄道三国港駅である



hk392 at 20:01│Comments(0)TrackBack(0)clip!歴史 

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