[乳房:伊集院静:文春文庫]
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静かで心を打つ短編集です。

短編が5編、入っています。
「くらげ」、「乳房」、「残塁」、「桃の宵橋」、「クレープ」です。
「乳房」と「クレープ」を紹介します。


[乳房]
憲一と里子は夫婦です。
里子は憲一より11才、年下です。

里子は乳がんで入院しています。
里子の病名は憲一が医師から言われましたが、
里子には伝えていません。
憲一が別の女性と結婚している時に
憲一は10代の里子と知り合い、
つきあうようになります。
やがて、憲一は里子と結婚します。

里子が入院してから憲一は仕事をやめて、
看病に専念します。
抗がん剤治療を行いますが、効果が
あまりでません。
里子と憲一はどうなるのでしょうか?

里子と憲一の会話です。
「ねえパパ」
「何だ?」
「どうしてるの、身体の方は?」
「身体って?」
「私が抱っこしてあげられないから・・・」
「大丈夫だよ。適当にやってるから」
「ごめんね」
「退院したら半年分つとめてもらうさ」
「うん、ちゃんとするよ」

「可愛いパジャマだな」
妻はこくりとうなずいた。
細い折れそうな首だった。
「少し汗をかいたみたい。熱帯夜が16日も続いて
いるんだって」
私はナースセンターへ蒸しタオルをもらいに行った。
タオルを受け取り洗面所で水道の蛇口をひねると、
ふいに涙があふれてきた。
タライを持った手が震え出し、奥歯を噛みしめても
身体が震えた。
自分に対する憤りと、見えない何者かへの
どうしようもない怒りがこみ上げて、拳を握り続けた。


[クレープ]
主人公は男の江津祐次です。
祐次は15年前に妻の江津けいこと離婚しました。
二人の娘はけいこが引き取りました。
養育費は払っていますが、娘とは一度も会っていません。
江津祐次は今は可葉子と同棲しています。

下の娘のみのりが高校に合格したと、けいこが
連絡してきました。
みのりが祐次に会いたいと言っているとけいこが言います。
祐次はみのりと会うことを了承します。

娘のみのりと会う日が近づいてきて、祐次は、夜眠れなくなります。

祐次とみのりは会って、話をして、距離を縮めることができるのでしょうか?


その時、娘がくしゃみをした。
「風邪を引いてるの」
娘はハンカチで鼻のあたりをおさえたまま首を横にふった。
「花粉症なんです」
「そうだ、高校に合格したんだってね。おめでとう」
「ありがと・・・」
と言いかけて、またくしゃみがはじまった。
「ありがとう」
顔を上げると、娘の目はうるんでいた。
「涙が出ちゃうんです。すみません」
「かまわないよ。苦しくないの」
「はい」
そう言ってまた娘はうつむいた。


「もうひとつ聞いていいですか」
と娘は少し強い口調で言った。
私がうなずくと、
「私の誕生日おぼえてますか」
今度は先刻より目を大きくして聞いた。
私は動揺した。
娘の生まれた月は覚えていたが、日付を
思い出せなかった。
私は娘の目から視線をそらして、
誕生日を思い出そうとした。
しかしそうすればするほど、頭が混乱して、数字がバラバラと
デジタル時計のようにあらわれては消えた。
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ひょっとして今日なのか。そうだ今日に違いない。
「今日でしたっけ」
「違います」
娘は表情も変えずに言った。
いつでしたかとは聞けるはずがなかった。
「どうもすいません」
私は謝った。娘はうつむいていた。
それからはお茶を飲む間も顔を上げなかった。





本当に静かで、心の奥にしみこんでくる作品群です。
おすすめ小説です。

伊集院静は「伊集院静の流儀」という本の中で
次のように言っています。

「伊集院さん、これほどの災害を前にすると小説は
何かができるのですかね。1個のパン、1杯の水の方を
人々は求めているのではないでしょうか」
「たしかにパンと水は生きるためには必須なものですね。
震災から三日目にインターネットしか通じない中で
被災者が今一番何を欲しているかというアンケートを
した人がいます。一番は水と食料。二番目は正確な情報。
三番目は何だったかとい思いますか?
被災地の人々は歌が欲しいと言ったのです」
「歌ですか?」
「歌は言葉です。私は言葉の力を信じます。
小説は作家が選び抜いた多くの言葉で成立しています。
小説は人の人生をかえるなんてことはできません。
しかし人の哀しみには寄りそえると信じています」

「乳房」と「クレープ」は。人の哀しみに寄りそっている小説だと
思います。(ブログ作者)