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今はまだそんなに若い娘はダメだな。
『今のままでいて』(78年アルベルト・ラトゥアーダ)
そのうちどうか分かんないけど。

仕事を終えたジュリオ(マルチェロ・マストロヤンニ)がフェレンツェに帰ろうとすると、「乗せて行ってくれませんか?」さっき庭園で会ったばかりの少女だった。ジュリオは造園士なのだ。
フランチェスカ(ナスターシャ・キンスキー)はまだ17歳だったが、その魅力には抗いがいものがあり、気がつけばジュリオは彼女とベッドを共にしていた。
翌日、友人のロレンツォ(フランシスコ・ラバル)から信じられない話が。「君の昔の恋人の娘だぞ」もしかしたらフランチェスカは実娘かも知れない!現在50歳のジュリオには、18歳になる娘のイラリア(バルバラ・デ・ロッシ)がいて年齢的にもあっている・・・。
久しぶりに妻ルイーザ(モニカ・ランドール)の待つ家に帰ったジュリオは、イラリアに妊娠したことを告げられてパニックに陥る。
おまけにフランチェスカは抱いてくれないことに腹を立てはじめている。仕方なくジュリオはフランチェスカを呼び出し、真実を話しはじめた。

ナスターシャ・キンスキーのヌードが美し過ぎる、ということだけで語られるという意味ではジャクリーン・ビセット『シークレット』(71年フィリップ・サヴィル)を連想させるけど、内容も『シークレット』同様、興味深いものだ。
歳の離れたカップルを指して「親娘のようだ」なんてよく言われることだけど、あるいはそんなところから発想されたのかも知れないこの物語がすごいのは、親娘の疑惑が最後まで曖昧なことだ。悩んだ挙げ句、打ち明けたジュリオにフランチェスカはこう言ってのける。「私、お父さんみたいな恋人が欲しかったの!」それに対するジュリオの答えに唸らせられた。「僕は子供だよ」マストロヤンニだけに、場数を感じさせもする台詞だ。
さておき、普通ならだから別れよう、となるはずだけど、このふたりは開き直ってランデヴー、だって愛し合っているのだから、これはもうしょうがないことなのだ。
愛の炎にわけが分からなくなっているふたり、というかフランチェスカはジュリオにオシッコを飲ませたり、お尻を噛ませたりして(信じられないかも知れないが本当にある描写なのだ)やりたい放題。しかしそんな幸福(?)が長く続けわけはなかった。
「別れましょ」「こんなに幸せなのに?」「最高潮に達した時に別れるの」フランチェスカはジュリオに映画に行こうと誘った。よし行こう。その時ジュリオはすっかり忘れていた。フランチェスカの母親との恋の結末を。彼女は映画館で、気がつけばいなかったのだ。そしてそれは繰り返された。
ひとり寂しく去るジュリオ・・・をフランチェスカは見送っていた。その時の彼女の表情は、ヌード以上に美しい。
この胸に沁み入るシーンを、より完璧なものにしているのがエンニオ・モリコーネの主題曲「Cosi come sei(今のままでいて)」。




モリコーネの膨大なキャリアを作品ごとに丁寧に解説した労作『エンニオ・モリコーネ映画音楽大全』(16年)には、「フランシス・レイのようなメランコリックなラブ・サウンズ」に仕上がって」いるとあり、同時に当時17歳のキンスキーをどうやってラトゥアーダは口説いたのだろう?と疑問を呈している。
どうやったんだろう?それは分からないけど、ラトゥアーダがネオレアリズモの時代から活躍するヴェテラン作家で、その方面(芸術的エロス)で評価されていることは大きかったかも知れない。ジャン・ピエロ・ブルネッタの『イタリア映画史入門』(04年)にはこう記されている。
1960年代に、アルベルト・ラットゥアーダは、まるで新人のごとく若々しい精神で、思春期に体験する初めての性的苦悩を分析する作品から、現代や16世紀の文学作品に至るまで、11本の映画を世に送り出している(略)ラットゥアーダは女性の肉体美を発見する“のぞき趣味”の喜びさえ隠そうとはせずに、いつも視覚芸術の観点から、知的で優美な映画を生み出す喜びを持ち続ける
そういえばフェリーニを監督デビューさせたのもラトゥアーダだった。
そんなわけでまあすごい人なんだけど、ジャクリーヌ・ササールのデビュー作『芽ばえ』(57年)なども作っているラトゥアーダはこの主人公に共感するところがあったのだろう。当時マストロヤンニは53歳、ラトゥアーダは彼よりも10歳年上で、今の自分の10年後、20年後のふたりである。
枯れているのかそうでないのか、その間のように見えるけれど、そうなりたいというよりもこういうこともあるかも知れないと肝に命じてはおきたい。
しかしながらこの映画でもっとも強烈に響いた台詞は、ジュリオが娘イラリアから言われるひと言なのだった。「気をつけてね、若い人の考えは別だから
イラリアはお腹の子を産んで未婚の母になるという。生まれてくる子はフランチェスカになるだろう。なぜならフランチェスカは、父親の亡霊を追い掛けてジュリオと出会ったのだ。今もどこかで、そういうことが繰り返されているだろう。本作はそれを描いていて、本当に切ない。

※下記書籍を参考にしています。

エンニオ・モリコーネ映画大全
東京エンニオ・モリコーネ研究所編著
洋泉社
2016-04-02


イタリア映画史入門―1905‐2003
ジャン・ピエロ ブルネッタ
鳥影社
2008-07-01