絶壁の彼方に





















『絶壁の彼方に』(50年シドニー・ギリアット)

ロンドン。画期的な手術で話題を独占している外科医ジョン・マーロウ(ダグラス・フェアバンクス・Jr)は、東欧の国ヴォスニアからその功績に対して賞を授与したいと招待を受ける。ついでに手術もしてくんない?折しもヴォスニアは選挙の真っ最中で、しかし独裁者ニヴァ(ウォルター・リラ)の勝利は揺るぎのないものだろう。
国賓的歓迎を受けるマーロウ。約束通りに手術を開始するが、患者は昨日見た男ではなく、なんとニヴァ!無事に成功したものの病気が知れれば政権は危うくなる。マーロウはガルコン大佐(ジャック・ホーキンス)の監視下に置かれた。
当初はニヴァの容態も良好だったが、あっと言う間に急変して持ち直すことなく死んでしまったから困った。ガルコンは影武者を使って生きていること偽装するが、秘密を知っているマーロウはいよいよ帰れなくなる。そんなわけで、隙を突いて逃走したのだが、まったく言葉が通じないのでどないしょ?

この映画の存在を知ったのは、和田誠さんと山田宏一さんの映画談議本『たかが映画じゃないか』(78年)だったと思う。その後で、ミステリ映画の特集やなんかでタイトルを挙げている人がいて名作なのだなあと分かった(IMDbでも7.1点と高評価)。
『たかが映画じゃないか』で言及されて、とりわけ興味を持ったのは、舞台となるヴォスニアというのは架空の国なのだが、ということは架空の言語が必要となるわけで、どうしたかというと、映画のためだけにヴォスニア語を作ってしまった
ヴォスニア語を考案したのは、ロンドンの国語学院の教授だったジョージナ・シールド女史。エストニア、チェコスロヴァキア、ハンガリー、フィンランドの各国の言葉を基礎にして文法、単語全体のおよそ50%は完全に創作したというからすごい。劇中、そのヴォスニア語が5000語以上使われ、さらに切手や新聞記事、商店の看板、電話帳に至るまで使用されている。
ところで監督のギリアットは、共同脚本のフランク・ローンダーとコンビで、キャロル・リード『ミュンヘンへの夜行列車』(40年)クリスチアナ・ブランドの『緑は危険』(44年)を映画化した『青の恐怖』(46年シドニー・ギリアット)なんかを手掛けているが、代表作のひとつにアルフレッド・ヒッチコック『バルカン超特急』(38年)がある。

バルカン超特急














『バルカン超特急』は、ヒッチコックがふたりの若い脚本家、つまりギリアットとローンダーのことだが、彼らを発見してエセル・リナ・ホワイトが36年に発表した『車輪は回る』を下敷きに脚本を書かせた、ということになっていた。だがドナルド・スポトーの『ヒッチコック 映画と生涯』(83年)によれば、真相は違う。
ホワイトの小説の映画権を買うようゲインズボロピクチャーズに提案したのはローンダーで、ローンダーは1年に1本、ゲインズボロで脚本を発表出来る権利を有しており、それを行使したのだ。当初、『バルカン超特急』の監督をする予定だったのは、この後、ベイジル・ラスボーンのシャーロック・ホームズシリーズを作ることになるロイ・ウィリアム・ニール。脚本は36年8月に完成して助監督のフレッド・ガン以下のスタッフは、夏の野外シーンを撮影するためにユーゴスラヴィアに飛んだ。が、ガンが事故で足首を骨折して警察に脚本をチェックされ、一同は国外退去を命じられてしまう。祖国に対する外国人の見方にナーヴァスになっていた当局に、冒頭の場面が極めて挑発的に映ったのだ。
政治的ないざこざにすっかりやる気を失ったニールは降板、しかしすでにかなりの資金を投じていたゲインズボロはどうにか完成出来ないか悩んでいたところに現れたのがヒッチコックだったのだ。脚本を気に入ったヒッチコックは、冒頭と結末を数ヶ所直させると、1ヶ月で作れるとゲインズボロを安堵させた。
実際にヒッチコックが修正させたのは僅かな部分で、バルカン諸島に近い架空の国“ブランドリカ”で休暇を過ごし、魅力的な老嬢と知り合いになったヒロインを巡る話であることに変わりはない・・・と、ここで、おや?と思われたことと思う。そう、『バルカン超特急』も『絶壁の彼方に』同様、架空の国が舞台なのだ。そして冒頭、ブランドリカのホテルの主人や女中が架空国語を使って、あるいは『絶壁の彼方に』の出発点は『バルカン超特急』だったのではないか?
『絶壁の彼方に』の原題は『STATE SECRET』。それがこの邦題は、逃げて逃げて絶壁を登るからだけど、この辺りも実にヒッチコックぽいが、舞台となる架空の国の入念な作り込み方などから連想したのはウェス・アンダーソンで、そういえばアンダーソンがヒッチコックを意識して作った『グランド・ブダペスト・ホテル』(13年)も“ズブロフカ共和国”という架空の国が舞台で、断崖からグスタヴ(レイフ・ファインズ)が突き落とされそうになる。『北北西に進路を取れ』(59年アルフレッド・ヒッチコック)か?と言われたが、案外、これじゃないか?
ヴォスニアに向かう機内で、マーロウが読んでいるのは『ニューヨーカー』。アンダーソンはこの時代の『ニューヨーカー』を収集していると聞いた。

※下記書籍を参考にしています。

たかが映画じゃないか (1978年)
山田 宏一
文藝春秋
1978-12


ヒッチコック―映画と生涯〈上〉
ドナルド スポトー
早川書房
1988-06-01