富士山麓の自然

富士山麓には、古くから「御厨(みくりや)」と呼ばれてきた地域があり、御殿場市、裾野市、小山町の一帯におよんでいます。そこには、日本の各地で絶滅危惧種に指定されている希少種が多数生息する貴重な自然が残されています。その一方で、気候変動の影響や開発、外来種の侵入などにより、年々変わりつつある「みくりや」の自然の現状も目にしています。この豊かな自然が長く保たれることを願いつつ、富士山麓の自然の生物多様性の一端をこのブログを通して記録していきます。

9月4日に撮影した双翅目の昆虫がキイロコウカアブであることがわかりました。専門家の方のご教示では、キイロコウカアブは近縁種のコウカアブよりもずっと衛生的な環境に生息しているということです。
キイロコウカアブは、生態学者可児藤吉の「小さな昆虫記」というエッセイに登場します。キイロコウカアブとコウカアブが時として同一箇所に混在することに気付いた可児藤吉はエッセイの読者に向けて、両者のより厳密な生息場所の特定への協力を呼びかけています。
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この「小さな昆虫記」というエッセイは可児藤吉を知る上でたいへん重要なエッセイです。
『可児藤吉小伝』には次のような一節があります。

第1章 勝央町での幼年時代

 

可児藤吉について知り得る資料は少ない。例えば、多くの人が利用するフリー・エンサイクロペディアのウィキペディアの説明も数行に留まる。それは以下のような内容である。

 

可児 藤吉(かにとうきち、190811 - 1944718日)は岡山県勝田郡勝間田町(現・勝田郡勝央町)に生まれた日本の先駆的な群集生態学者。京都大学農学部卒。河川の蛇行と、河床形態である瀬と淵に注目し、「河川形態型」を提唱した。また、昆虫が生息するそれぞれの環境を研究することで今西錦司とともに「棲み分け理論」の基礎を築いた。河川形態型を発表した同年、太平洋戦争において36歳という若さでサイパン島にて戦死した。

 

幼時についての資料はさらに少ないわけだが、可児藤吉の「小さな昆虫記」(『可児藤吉全集』所収)の中に可児藤吉の幼年時代の思い出を記した貴重な文章がある。

 

私の生れ故郷は美作国で、その国唯一の都市津山から東に約三里、中国山脈の一峰那岐山から北北東に約三里半の小さい山間盆地の真中にある。出雲街道に沿った一並びの街村である。標高は約100メートル。

私は子供の時、「昆虫」とは、あまり縁がなかった。採集網など振り廻さなかった。だが田舎の子供であったから、深い馴染の「むし」もあった。蝉、とんぼ、かぶとむし、はち(みつばち、あしながばち、中ばち、大ばち)いなご、すいむし、ぎす、ぶと、のみ、か等、とんぼの内では特に「おはぐろとんぼ」――黒翅、金緑色の尾、日蔭の草木にとまって翅を時々ゆっくり拡げては畳む。その様子が好きであった。それからあぶ(水あぶと呼んだ)――夏になると私は友達と近所の川に「水あび」に行った。おやにらみの泳ぐ小さい里川だが所々に深い碧い淵があった。岸には水面へ梢を出張った何かの大木があった。そこから淵へ飛び下りる。高い所から飛び込むほど偉いのである。それから犬泳ぎで泳ぐ。大きい波を立てて泳ぐ程偉いのである。「水あぶ」が来たと誰かがいう。私達は大急ぎに慌てて水に潜りこむ。もうよいかと呼吸をころしているうち、何時の間にやら浮き上っていた背中にちくりと痛みを感ずる。「水あぶ」だと叫んでまた潜りこむ。それは大きい緑色の眼をしたあぶ(Tabanus sp.)であった。

 

短い文章ではあるが、可児藤吉の幼年時代を彷彿とさせる文章である。1910年代の勝央町には、昆虫少年であろうとなかろうと、生活の中で知らず知らずのうちに自然との関わりを深めていける豊かな環境があったことを「小さな昆虫記」の一節は伝えている。

この文章には、何点か留意したい点がある。一つは、遊び場として「淵」が挙げられていることである。後に「淵」と「瀬」を川の基本的な構成単位として河川形態を考えた可児藤吉が、淵に潜って遊んだ幼年時代の思い出を持っていたことに注目しておきたい。

次に注目すべきは、可児藤吉が親しんだ川に生息する魚として「おやにらみ」が挙げられていることである。

オヤニラミは、スズキ科の淡水魚で近年個体数が激減し、積極的な保護の必要性が叫ばれている魚の一つである。生息環境は以下のように、かなり限定されている。

 

・水質の良い川であること。    ・流れのゆるやかな淵があること。 ・産卵用の水草があること。

・隠れ場所としての岩があること。 ・水温が15度から25度程度で安定していること。

 

 これだけの条件をそろえた川は、他にも多様な生物の生息を可能にする川であり、可児藤吉が少年時代に親しんだ川がどのような川であったかをうかがい知ることができる。

 ちなみに、1980年に財団法人日本自然保護協会が発表した「動物分布調査報告書」では、オヤニラミの生息が現在確認されているのは、岡山県では旭川水系だけと記されているが、筆者は、勝央町を流れる川が属する吉井川水系におけるオヤニラミの生息を2012年に確認している。吉井川水系の川で半日水遊びをした経験もあるが、わずかな時間で水生昆虫のタガメを採集したり、オヤニラミの稚魚を餌とすると言われるドンコを見つけたりした。しつこくアブにつきまとわれたこともよく記憶している。吉井川水系には、可児藤吉の幼年時代を偲ぶことができる環境が残存している事実は特筆すべきことである。

 

 勝央町の自然がナチュラリスト可児藤吉の誕生に大きく影響したと思われる。可児藤吉は豊かな自然にかこまれて生活する中で生物への関心を高めていったのだろう。やがて農学部に進学してより専門的に学びたいと考えるようになる。しかし、彼の進学への希望は容易にはかなえられなかった。

 可児藤吉の父二代目藤十郎は藤吉の農学部への進学について不満を持っていた。20155月に可児家七代目当主である可児敬志氏から筆者がいただいた手紙には次のように書かれていた。

 

 藤吉の父、二代目藤十郎は藤吉を何としても医者にしたかったようです。そこで、京都大学の医学部に入学させようとしましたが、その意に反して藤吉は自分が興味がある農学部へ進学してしまいました。そのことを知った父二代目藤十郎は怒り、学費を一切ストップさせたようです。生活費は養母与志乃が細々と送金していたようですが、学費となると難しく、困り果てた藤吉が万代順四郎を頼った可能性はあります。

 

 最後に出てくる万代順四郎は、勝央町の名誉町民である。『勝央町誌』は第十三章「教育と文化Ⅱ」の「勝央町名誉町民」の節で万代順四郎の事跡を記し、その業績を顕彰している。万代順四郎の業績の中で特筆すべきは彼が奨学金制度を創設したことである。前途有為でありながら学費に困窮している学生に対して自らも苦学してきた経験のある万代順四郎は、支援の手を差し伸べることを惜しまなかった。可児家に万代順四郎との関わりを示す資料は残されていないが、おそらく万代順四郎は同郷の可児藤吉に対して、何らかの支援をしていたことと思われる。そう考えられる理由は、彼の研究仲間であった宮地伝三郎が著書『淡水の動物誌』(朝日新聞社)の中で次のように書いているからである。

 

 可児さんの生国は岡山県勝田郡勝田町で、明治四十一年一月一日の生れ。同郷の先輩万代順四郎さんから奨学金をもらっていた。もちこまれる縁談にはのってこないで死んでしまったが、友人たちの手でまとめられたその遺稿『木曽王滝川昆虫誌』(木曽教育会発行)を、私は万代家や御老母にとどけた。

                                    

 可児藤吉の最も近くにいて、可児藤吉の戦死の報を受けて真先に勝央町に向かおうとした宮地伝三郎の言は信頼を置くに足るものである。勝央町に万代順四郎という有徳の人物がいなかったならば、可児藤吉が学問を続けることは困難であったかもしれない。

 


裾野市を流れる黄瀬川でカワセミを確認しました。川面を水平に飛ぶ姿はあまりに速く画像に収めることはできませんでした。
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セグロセキレイの写真を撮りました。ハクセキレイとよく似ていますが、頭部の黒色の割合は明らかに異なります。ハクセキレイが川から少し離れたところでも見られるのに対して、セグロセキレイは主として川の周辺でのみ姿を見ることができます。それぞれの生き方の選択の違いです。
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アレチウリの花についていたワラジムシは、専門家の同定によりPorcellio scaberの可能性が高いことがわかりました。以前、カラスノゴマについていたのと同じ種です。受粉昆虫の役目を果たしているとしたら非常に珍しいことです。
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昨日、ヤブツルアズキが咲いている場所でウラナミシジミを見かけました。すでに卵も相当数、産みつけられたはずです。ウラナミシジミは花蕾に産卵するということを明らかにした研究があります。ヤブツルアズキの花蕾を丁寧に調べてみたいものです。
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