今回紹介するのは
宋(そう)国の君主襄公(じょうこう)です。


宋という国の名前自体聞き覚えはないでしょうが・・・
中くらいの大きさの国になります。


しかし、この襄公は礼を重んじ
周を救ったことから春秋五覇の1人にも数えられる人物です。


どんなことがあっても自分の信念を曲げなかった人物でも
あります。

それでは早速紹介していきますね♪


~君主への即位~


紀元前651年。
父である桓公(かんこう)が亡くなります。


亡くなる前、桓公は茲甫(じほ)
のちの襄公(じょうこう)を後継者としていました。


しかし、滋甫(じほ)はこれを拒みます。
なぜなら・・・彼には兄の公子目夷(めい)がいたからです。


礼や規律を重んじる滋甫
納得できませんでした。
彼は父の桓公と話しをします。


「なぜです父上!?」
「これまで、即位するのは長子からと決まっていたはず!」
「兄の目夷が継ぐべきではありませんか!?」



「・・・たしかに、おまえの言うことは分かる。」
「しかしこの決断が変わることはない。」

「・・・お前のほうが君主としてふさわしいと思うから選んだのだ。」



「わたしよりも、兄上のほうが頭も切れます!」
「宋(そう)をより発展させられるのは兄上のほうです!」



「・・・お前には君主に必要なものがある。」
「きっと民から信頼されるいい君主になれる。」

「だから・・・任せたぞ滋甫よ!!」



・・・父の死後、襄公は即位します。


彼は兄である公子目夷(めい)を宰相にし亡き父の葬儀の準備を
始めました。


しかし・・・葬儀もまだ終わっていないときに斉の桓公から
使者がやってきます。

その内容は、会盟(話し合い)の日についてでした。
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会盟日までにはとても葬儀は終わりません。
宰相の目夷(めい)は会盟を欠席するように言いますが・・・。


「斉と盟を結んでいる以上。」
「私事で会盟に出ないのは礼に反する。」


「それに父がやっとの思いで関係を築いた斉だ。」
「わたしの代でそれを終わらせるわけにはいかない・・・。」



・・・襄公は会盟に出席します。
その後もどれだけ忙しかろうと必ず会盟に参加しました。


このことから諸侯からは「礼を重んじる君主」として
一目置かれるようになっていました。


~斉の桓公の死~


父の死から7年間。
襄公は宰相の目夷とともに
国政に当たる日々を送っていました。


そんな紀元前643年。
斉の桓公が亡くなったという知らせが届きます!


さらに彼の死によって、斉国内では
血で血を洗う「後継者争い」が起きていました!


これを聞いた襄公はすぐに会盟を開きます!
襄公には考えがあったのです。


「斉に軍を率いて進む!」
これが襄公の答えでした・・・。


・・・


桓公の死去の知らせが届いたとき。
宋国内には、斉の公子昭(しょう)が訪れていました。


そして後継者争いがおき
斉国内で5人の公子による殺し合いがおきます。


公子はすぐに屋敷を出て、斉国に帰ろうとしますが・・・。
襄公目夷が引き止めます!


「待たれよ昭どの!」
「今帰られるのは危険すぎる!!」



「襄公さま!」
「しかし、このままでは斉は大きく荒れることになります!!」

「それだけは何としても・・・!!」


「・・・分かっています。」
「あなたが桓公どのの後継者であることも知っています。」



「ならばなぜ止められるのです!」
「こうしている間にも罪無き人々が・・・!!」



「だからこそです。」
「亡き盟友桓公の意思を継ぐあなたを。」
「むざむざ死地へと送ることはできません!」



「くっ・・・!!」
「ではわたしは一体どうすれば・・・?」



「もうしばらくお待ちくだされ。」
「わたしに考えがあります。」


・・・こうして襄公は会盟を開きます。


襄公は荒れている斉を攻めるような事はせず
「今こそ盟を果たすべく、斉に軍を出そう!」と諸侯に訴えます。


これに従い、友好関係にあった斉を助けるために
各国が軍を出します。


襄公はこの連合軍を率いて斉に入ります。
しかし、公子たちの軍に攻撃され一旦軍を下げます。


襄公はもう一度軍を出し、公子たちの軍を撃破。
公子昭の後ろ盾となって、即位の手助けをしました!


これによって公子昭は無事に即位し
襄公は諸侯から「礼と義を重んずる名君」と認められます。


公子昭からも深く感謝されよりよい関係を築きます。
なにより、宋国内が大いに沸きました!

「なんて素晴らしいお方だ!」

「長く生きたが、ここまで徳を持った名君は始めてじゃ。」

「襄公さまはわれらの誇りぞ!」



これによって襄公は民から絶対の信頼えます。
さらに大きな自信を手に入れました!


そうして紀元前639年。
孝公(公子昭)が会盟を開きます。


これには斉の孝公、楚の成王、宋の襄公が参加しました。
斉と楚は、中華で最も大きな国と呼ばれる大国です。


もちろん、襄公は参加します。
しかし、何についての会盟かは聞いていませんでした。


不思議に思いながら席に着くと・・・
孝公が話しだします。

「お二方、よくぞ集まってくださいました。」
「実はお二方だけにお話ししたい事があったのです。」



「ほう、だから会盟の内容を伏せたのですか?」


「そうですよ、成王どの。」


「ふむ、してその内容とは?」


「・・・宋国も盟主として認めるのはいかがですか?」



「なっ!!」


「そんなこと認められるか!!」


「なぜです?」
「宋は今間違いなく、中華で一番義を示した国です。」

「中華が失いつつある礼や義を重んずる襄公どのなら
必ず盟主として中華を良きほうに導いてくれると思いますが?」



「ぐっ・・・!」


「・・・まぁしかし、話しが急過ぎたのも事実です。」
「これは後日、また決めることとしましょう。」

「襄公どのもよくお考え下さい。」



「孝公どの・・・。」


楚の成王(せいおう)はしぶしぶ認めます。
しかし、ほんとうは聞き入れたくありませんでした。


楚国よりもずっと力のない国に従うのは不服だったのです。


~盟主として~

一方の宋国では・・・。


襄公は盟主になれることを喜んでいました。
しかし、この話しを聞いた宰相の目夷(めい)は・・・。


「盟主になると言うことは、さまざまな問題がついてきます!」
「先の戦の消耗もまだ癒えていません。」


「今回は断り、国力の回復に尽力しましょう。」



「それでは孝公殿の顔に、泥を塗ってしまうではないか!」
「そんなことわたしにはできない!」


「致し方ありますまい。」
「丁重にお断りすれば、孝公さまも・・・。」



「ならぬ!」
「わたしは盟主として、この中華を安寧に導く!」



自信をつけた襄公はこれを聞き入れませんでした。
こうして盟主として認められた襄公。


早速諸侯に会盟の使者を送ります。


次々と盟を結んでいる諸侯が集まる中・・・
楚からは将軍がやってきます。


この将軍の名は子玉(しぎょく)
楚でも猛将といわれる人物でした。


君主が来れないとき、変わりに大夫(領地を持つ貴族)
くることはありましたが・・・。


これには諸侯も苦言を呈していました。
なんとか襄公が場をまとめ、話し合いが行なわれます。


話し合いは問題なく進み、会盟が終わろうとしていたとき・・・
楚の子玉が暴れだします!


襄公を監禁し、宋国内で好き放題に暴れだしたのです。


諸侯がなんとか子玉を止めますが・・・
襄公の盟主としての面目は丸つぶれでした。


あまりに礼を欠いたこの振る舞いに襄公よりも宋国民が大激怒します!


民に信頼されていたからこその怒り。
これは制御できないほど膨れ上がり、国民が楚との戦を望みます!


大軍の楚とことを構えるのは不本意でしたが・・・
もはや歯止めがきかず、襄公はこれに応えます。


諸侯からも軍を出してもらい
楚と盟を結んでいる鄭(てい)国に攻撃を仕掛けます。


楚は鄭を助けるべく、援軍を出してきます。
こうして襄候は泓水(おうすい)の地で楚軍と相対すこととなりました!


~泓水の戦い~


両軍は川を挟んで陣をひきました。
襄公たちはせいぜい5万ほど、対する楚軍は十万以上の大軍。


まともにぶつかっても勝ち目はありませんでした。


先に動いたのは楚軍です。
川を渡り始めた瞬間、目夷襄公に進言します。

「あの大軍とまともに戦っては勝ち目はありません。」
「川を渡っている今が好機です、攻撃しましょう!」



「だめだ、そんなことはできない!」


「な、何を言っているのです!?」
「・・・っく、渡りきってしまったか。」


「それでは、陣が完成する前に攻撃しましょう!」


「それもならぬ!」


「な、なぜです!?」
「あの大軍に真っ向から挑もうというのですか!?」



「・・・。」


「あぁ、陣が完成していく・・・。」
「これは・・・もう・・・。」



・・・襄公は大軍の楚軍に真っ向から挑みます。
しかし数で圧倒する楚軍に全く歯がたたず、矢傷を追い敗走します。


襄公は宋に帰り、治療を受けていると
目夷が足音を立てながらやってきました。


「我が君よ、なぜあのとき楚軍を討たなかったのです!!」


「君主たるもの、敵の不意を突くようなことはしない・・・ぐっ!」


「・・・あぁ、大怪我まで負わされたというのに。」

「・・・我が君よ、あなたの心意気は素晴らしいものです。」
「民達もあなたを誇りに思い、心底信頼しています。」

「しかし・・・戦争中は礼も規則も関係ありませんぬ。」

「宋の権威は地に堕ち、多くの死者によって国は弱りました。」
「あなたを盟主と認める国も、もうありますまい。」



「・・・。」


「・・・しかし、すでに過ぎてしまった事。」
「今は何より、お怪我の治療に専念しましょう。」

「国政はわたしが行ないますゆえ、ご養生ください。」
「・・・それでは、失礼します。」



「・・・兄上。」


「なっ!!」
「・・・どうなさいました?」



「・・・申し訳ない。」


・・・襄公の傷はひどく、容態は悪化していきました。
翌年、晋の王子の重耳(ちょうじ)一行が宋にやってきます。


襄公は動けるような状態ではないのに
無理をして重耳(ちょうじ)一行をもてなします。


彼らが国を出るときには馬車20乗を送ったそうです。


翌年、紀元前637年。
襄公は太ももに受けた矢傷がもとで亡くなります。


宋の君主は息子に引き継がれ、重耳が晋公となったあとは
晋とも盟を結んでいく事となります・・・。


~まとめ~


以上が宋の襄公の史実となります!


泓水の戦いでの目夷と襄公のやり取りから
「宋襄の仁」という故事が生まれています。


これは「無益な情けをかけること」という意味です。


この敗戦から2年で亡くなってしまったのが悔やまれます。
敗戦で学ぶこともあったでしょうに・・・。


圧倒的に不利であっても自分の信念を曲げなかった人物。
愚かと呼ぶ人もいれば、立派と称える人もいるでしょう。


いずれにせよ、書き手として
みなさんの中でなにか響くものがあれば幸いです♪


このブログでも、五覇たちの紹介はしてありますよ♪
さらにより深く知りたい方は参考書をどうぞ!



争覇春秋戦国―五覇七雄、興亡の五百年 (歴史群像シリーズ (78))





襄公をさんざんに辱めた楚の猛将。
その男の名は子玉(しぎょく)!!

[私怨で身を滅ぼした楚の猛将子玉の史実]



春秋五覇のなかでも筆頭といわれる人物。
一時期斉を中華最強の位置まで押し上げた名君。
その男の名は桓公(かんこう)!

[名臣を信じ用い続けた偉人 斉の桓公の史実]