2007年12月03日

洛北詩仙堂から曼殊院 5

金福寺

金福寺

 

洛北の金福寺は俳句の聖地といわれる。もとは貞観6年(864)、安恵(あんね)僧都が慈覚大師、円仁の遺志により創建した天台宗の寺であったが、元禄年間に鉄舟和尚が再興し、臨済宗南禅寺派の寺となった。当時、和尚を芭蕉が訪ね親交を深めた。和尚はおもてなしをした庵を芭蕉庵と名づけ、いつまでもその高風をしのんでいた。和尚の死後、庵は荒廃したが、藁葺きの風雅なたたずまいをとどめている現在の芭蕉庵は、その80年後に訪れた蕪村が再興したものである。芭蕉の碑、芭蕉像、蕪村の遺愛品なども残されている。また、小説『花の生涯』のヒロインである村山たか女が波乱の生涯を終えた寺でもある。

 

詩仙堂

詩仙堂

 

もとは江戸初期の文人、石川丈山が隠棲した山荘であった詩仙堂は、丈山寺という名の曹洞宗の寺である。丈山は徳川家康の家臣で、90歳までこの山荘で悠悠自適の風雅な暮しをしたが、その一室の壁に、狩野探幽に描かせた中国の詩仙三十六人の肖像と詩があることから、いつからか詩仙堂と呼ばれるようになった。回遊式の庭は白砂とさつきの刈り込みが美しく、藤、花菖蒲、杜若、紫陽花、萩、山茶花など、四季それぞれに美しい花姿が見られる。快い竹の音をひびかせる鹿おどしは丈山が発案者と考えられている。

 

円光寺

円光寺

 

慶長6年(1601)徳川家康は国内数学の発展を図るため,下野足利学校弟九代学頭・
三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に圓光寺を建立し学校とした。(元佶禅師は郷里・
肥前三岳寺、駿府圓光寺の開山である)圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学
を許した。また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版また
は圓光寺版と称された。当寺には出版に使用された木活字が現存しており、我国出版文化
史上特筆すべき寺院であるといえよう。その後、圓光寺には相国寺山内に移り、更に寛文
7
年(1667)現在の一乗寺小谷町に移転された。寺内には本尊千手観音像(伝運慶作)開山
元佶禅師像・竹林図屏風六曲・近世初期製作の木製活字五万個がある。庭園には水琴窟・
栖龍池(洛北で最も古い池)があり、春の新緑、秋の紅葉時のは美観を呈している。また,
境内山上には徳川家康を祀った東照宮や、墓地内には村山たか女(花の生涯のヒロイン)、
マレーシア留学生オマーアル氏(広島原爆にて死亡)の墓がある。

 

修学院離宮

修学院離宮

 

初期江戸幕府は日本の支配固めに、法律の面では「禁中並公家諸法度」を、そして実務面では「紫衣事件」を起こし、朝廷、天皇の権力と権威を縛りつけた。
これに激しく怒った後水尾天皇は突然譲位してしまう。退位した後水尾院が別荘地として選んだ地がこの修学院離宮で、比叡山、音羽山の山麓54万平メートルの広大な敷地内に「御茶屋」と呼ばれる庭園を3つも配した巨大な山荘を造営した。

曼殊院

曼殊院


 曼殊院(まんしゅいん)は京都市左京区一乗寺にある天台宗仏教寺院である。山号はなし。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は是算(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院三千院(梶井門跡)、妙法院毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動画像や曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。

 

赤山禅院

赤山禅院

比叡山延暦寺の別院。 創建は仁和四年(888年)。 円仁(慈覚大師)は入唐して大陸登州の赤山法華院に一時身をおいた。帰朝して日本に赤山禅院の建立を思い立ったが、果たせず、遺言で弟子の安慧が仁和四年に赤山明神(唐名で泰山府君)をこの地に勧請、比叡山東の日吉社とともに天台の鎮守とした。
 ここは京の表鬼門で方除けの神として信仰も篤かった。また陰陽道の祖神の泰山府君祭の流行もあり、疫病・災除けの神としても崇敬された。京の盆の五山の送り火の大文字はこの慈覚大師の遺徳をしのんだものとされる。

 



hodaka2700 at 14:45コメント(2)トラックバック(0)ハイキング 

2007年09月06日

京の初秋 5

相国寺

相国寺

 

京都御所の北にあるこの相国寺は正式には相国承天禅寺といい、足利義満によって室町殿に隣接して創建され京都五山の第二位にあった寺である。足利三代将軍義満は、蔓窓国師を開山とし第二世を春屋妙葩とした。それからこの寺は京都五山の中心となって室町時代の禅文化を支えてきた。しかし、大火や応仁の乱の兵火などによって堂宇はことごとく焼失した、だが大正年間はいると豊臣秀吉が寺領をあたえまた秀頼は法堂を再建し、さらに徳川氏や後水尾天皇などによる堂宇の寄進よって一時は再興があったが、天明の大火にあい、またしても焼失したのである。現在では、秀頼の再建による法堂や方丈、庫裏などが貴重な建築物として遺されている。

 

 

幸神社

 

幸神社

 

猿田彦命を主神としほかに八柱の神々を祀る。創建は延暦(782〜806)とも天慶年間(938〜947)ともいわれる。本殿の東側には日吉山王の神使である猿が御幣を肩にしたすがたの木造が安置されている。境内の東北隅には「神石」が祀られ縁結びの神として人気がある。

 

廬山寺

 

廬山寺

 

平安時代川のほとりに邸を建て池に水を引いて庭を造るのが貴族の間で流行したが、紫式部の曽祖父で堤中納言とよばれた藤原兼輔もそうした邸を建てた。紫式部もこの邸で育ち「源氏物語」などを著した。1964(昭和39)この地がその邸と考証され、本堂前には、白砂と苔とききょうが映える「源氏の庭」が造られています。

 

梨木神社

梨木神社

 

明治維新の功労者である三条実方、実美親子の業績を称え1885(明治18)に創建された。

境内には清和、陽成両天皇の生誕地である「染殿」の名残とされる「染井」がある。京都洛水で現存するのはここだけである。萩の名所で毎年9月末におこなわれる萩祭りは多くの人で賑わう。

 

京都御苑

京都御所

 

京都御所は広大な京都御苑の中央北にあり周囲は御清水が流れ築地塀がめぐらされている。大内裏というのがその名称で平安時代の大内裏は現在地より西にあった。

築地塀に囲まれた敷地内に建ならぶ寝殿造の優美な数々の建物の中でも南殿といわれる紫宸殿は即位などが行われる最も重要な建物である。南面に広がる白砂なの前庭は回廊に囲まれた清楚な庭で建物の両端に左近の桜、右近の橘が植えられ優雅な建物に見事に調和している。

北西にある清涼殿は天皇の日常の御座所でまたおごそかな儀式が行われたところで中殿とも言われる。その東には、お池庭とよばれる池泉回遊式の広々とした庭園がある。

 

近衛邸跡

近衛邸跡

 

五摂家の筆頭、近衛家の邸があったところで、池泉回遊式庭園の近衛池がのこり江戸時代の石組みや石橋をみることができる。また近衛邸は「洛中洛外図」に描かれた有名な近衛の糸桜という桜の名所でもあったことから今も枝垂れ桜が植えられている。なお、中世の近衛家の本邸宅のあった場所は現在の護王神社の周辺で別宅のあった場所は現在の同志社大学新町キャンパス。新町キャンパスは、2002年〜2004年に発掘調査され、室町時代の近衛家別邸に関わる資料が見つかっており、その一部が同志社大学寒梅館に展示されている。

 

京都御所

京都御所

 

京都御所は広大な京都御苑の中央北にあり周囲は御清水が流れ築地塀がめぐらされている。大内裏というのがその名称で平安時代の大内裏は現在地より西にあった。

築地塀に囲まれた敷地内に建ならぶ寝殿造の優美な数々の建物の中でも南殿といわれる紫宸殿は即位などが行われる最も重要な建物である。南面に広がる白砂なの前庭は回廊に囲まれた清楚な庭で建物の両端に左近の桜、右近の橘が植えられ優雅な建物に見事に調和している。

北西にある清涼殿は天皇の日常の御座所でまたおごそかな儀式が行われたところで中殿とも言われる。その東には、お池庭とよばれる池泉回遊式の広々とした庭園がある。

 

蛤御門

蛤御門

 

京都御所御苑の西側、烏丸通に面して建っている真っ黒な棟門がそれである。本は、新在家御門と言いいまのところより苑内北側に何面し、ふだんは閉ざされた門であった。それが天明8(1788)の大火によって開門されたので「焼けて口あく蛤」にたとえて蛤御門とよばれるようになった。この門が史上有名なのは元治元年(1864)719日長州藩兵と京都御所を守備する会津、薩摩を主力とする藩兵との間に起こった「禁門の戦い」中、蛤御門を中心としての戦いが最も激しく一に「蛤御門の戦い」とよばれたからである。戦いは長州藩の惨敗に終わったが戦火で多くの民家を焼き、死傷者を出した。

 

拾翠亭

拾翠亭

 

旧九条家の屋敷跡で勾玉池を中心にした庭園と拾翠亭が残っている。建物は木造二階建てで珍しい茶室が付属している風流なものである。九条家の離れとして歌会や茶会に用いられたといわれる。池に臨んで立っている姿は

いかにも貴族の風情が漂い町中と思え閑静なたたずまいが素晴らしい。勾玉池を中心にした庭園は回遊式の庭園であり東口滝口が設けられとぃる。中央を朱塗りの擬宝珠や欄干がある高倉橋という反り橋が横切っている。またなかの島にも厳島神社が建っておりここの石鳥居は京都三珍鳥居の一つである。夏ともなれば池面にスイレンの花がさき風情もひとしおである。

 

二条城

二条城

 

徳川家康が1603(慶長8)に造営した。将軍上洛時の居館として築城されたが、朝廷や諸国諸藩に意向を示すためのものであった。家康はここに勅使を迎えて征夷大将軍宣下の儀式を行い諸大名や公家衆を招いての祝賀の宴を催したという。のちに、後水尾天皇行幸のための大改修がおこなわれ1626(寛永3)に現在の規模となった。しかしその後火災や地震の被害を受けて改修されることもなく荒廃していった。1867(慶応3)15代将軍徳川慶喜は、二条城に諸大名を集め大政奉還を宣言した。明治以降の二条城は朝廷の離宮となり、現在は京都市に移管されている。

 



hodaka2700 at 14:44コメント(0)トラックバック(0)ハイキング 

2007年08月20日

下呂温泉 5

下呂温泉

 

飛騨川の流域に湧く下呂温泉は、徳川家康から四代の将軍に仕えた儒学者林羅山により、有馬・草津と並ぶ「三名泉のひとつ」と称された天下の名泉。薬師如来が傷ついた一羽の白鷺に姿を変え、飛騨川で傷を癒し、源泉のありかを村人に知らせたと言われています

その歴史は古く、天暦年間(947956)の頃から湯治場として知られていました。温泉街は飛騨川を中心に歓楽的な賑わいと山里の風情が調和して、下呂温泉の魅力を醸しだしています。

温泉街では共同浴場やクア施設、足湯などが気軽に楽しめ、のんびりと散策しながら楽しみたい湯の国です。

 

下呂温泉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下呂温泉下呂温泉下呂温泉

 

 

 

 

 

 

 

                      

    幸乃湯       白鷺の湯    クアガ−デン露天風呂   

 



hodaka2700 at 16:14コメント(0)トラックバック(0)ハイキング 

2007年08月12日

伊吹山のお花畑 5

伊吹山

 

伊吹山にとって一年を通じて一番快適に過ごせるのが夏になります。山頂の気温は四季を通じて810℃程低く、清涼感を堪能する最高の季節となります。

7月中旬から8月のはじめにかけて伊吹山の頂上はまさに百花繚乱、高山植物が咲き乱れ山頂一面が色鮮やかなお花畑になります。夏に咲く高山植物シモツケソウ、イブキトラノオ、イブキフクロウ、オオハギボウシ、キリンソウ、クガイソウ、コオニユリ、メタカラコウ、ルリトラノオ、シシウドなどがあります。鮮やかなピンク色のシモツケソウがお花畑一面に広がる山頂の風景は伊吹山の夏のお花畑の代名詞です。

 

     「そのままよ 月もたのまし 伊吹山」

                    芭蕉

     「お花畑 天下分け目の 伊吹かな」

                    遊民

 

     「登り詰めたる お花畑 空低し」

                    遊民

 

伊吹山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊吹山

 

 

 



hodaka2700 at 13:58コメント(5)トラックバック(0)ハイキング 

2007年07月14日

マキノ高原 3

                               マキノ高原

関西屈指のスキー場として昭和初期から有名な「マキノスキー場」に由来する全国でも珍しいカタカナの町「マキノ町」は、四季折々に恵まれた自然と歴史・文化に育まれた町。日本のさくら名所100選に選ばれた「海津大崎」の桜、「マキノサニービーチ」や「マキノ高原」でのアウトドアライフを楽しんだり、農業公園「マキノビックランド」での果樹の摘み取りやスキー場でのウインタースポーツの後には温泉「さらさの湯」でリフレッシュも最高。延々2キロののびやかで美しいメタセコイヤの並木道が続いていく自然景観はまさにビッグランドにぴったりです。マキノ高原

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                         メタセコイア並木道

マキノ高原

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  調子が滝

マキノ高原



hodaka2700 at 15:15コメント(10)トラックバック(0)ハイキング 

2007年06月26日

京都洛西の旅 5

平野神社

平野神社

平安時代創建の古社

 平安京遷都の際、大和国(現在の奈良県)に鎮座していた今木神(百済の聖明王、染め織の守護神)久度神(竈の神)古開神(洗浄の火の神)、などの神を桓武天皇が勧請したことに始まるという古社。朝廷からの崇敬は厚く、天元4年(981)には円融天皇の行幸が行なわれた。

 

 

等持院

等持院

足利尊氏が創建した足利氏の菩提寺

 もとは、仁和寺の一院だった寺で、暦応4年(1341)、足利尊氏が夢窓疎石を開山として禅宗に改宗。中京にあった等持寺の別院としたのが等持院のはじまり。

等持寺は足利氏の菩提寺で当初は等持寺を南寺、等持院を北寺とか北等持寺などと呼んでいた。

その足利尊氏が亡くなった延文3年(1358)この寺で尊氏の葬儀が」おこなわれ、以来歴代の足利将軍の廟所となった。

京都五山に次ぐ十刹の第1位となり栄えたが、室町幕府とともに衰退。慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再興された。

 

 

妙心寺

妙心寺

広大な境内はまるで寺院都市

 暦応年間(13381342)に花園上皇の発願でこの場所にあった離宮を禅寺に改めたのが始まり。大徳寺ゆかりの関山慧玄という僧侶を開山として招いたため、当初は大徳寺の末寺的な存在だった。応仁の乱で荒廃するが室町幕府の管領細川勝元らの援助をうけて復興。永正年間「15041521」には大徳寺から独立、その後も織田信長や武田信玄,今川義元など戦国武将の帰依を受け、寺領を拡大していった。江戸時代にはいっても時勢は盛んで多くの武将が堂宇を建立。46の塔頭が立ちならぶ大伽藍は洛西隋一の規模だ。

 

退蔵院庭園

 

妙心寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

法金剛院

法金剛院

四季折々の庭園美

 この寺の回遊式庭園は、春の枝垂れ桜、初夏は花菖蒲や紫陽花、はすの花、秋は白花の彼岸花や嵯峨菊、晩秋の紅葉と椿など四季折々の美しい花の庭だ。

この庭には、「青女滝」のなで知られる滝がある。高さ5mで、平安時代の姿を伝える滝石組としては最大級の規模という。

 

 

仁和寺

仁和寺

旧御室御所

 仁和寺の創建は平安時代、第58代光孝天皇が西山御願寺として着工されたのに始まります。

仁和4(888)宇多天皇が先帝のご意志を継がれ仁和寺を完成されました。

宇多天皇は退位後出家して仁和寺を住坊にされ、30余年もの間真言密教の修行に励まれました。

以来明治維新まで皇子王族が仁和寺の門跡となられ仁和寺は御室御所とよばれ親しまれてきました。広大な境内は自然に恵まれ春は御室桜が秋は紅葉など四季折々の風情を楽しんでいただけます。

 

 

 

仁和寺青女の滝

仁和寺

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



hodaka2700 at 14:11コメント(15)旅行 

2007年06月15日

万葉の里公園 5

万葉の里

 

万葉集に詠まれた約4500首のうち約1500首には植物を愛した万葉人のロマンがつずられ人々の共感を得ています。

そうした先人達のめでた万葉の植物を約180種集め源歌を添えて紹介したのが「万葉の里公園」です。そこかしこ咲く草花を眺めながら歩く道があり、春夏秋冬それぞれに詩情あふれる安らぎが漂っています。

 

「旧町の庁舎の跡や七変化」

 

「紫陽花に囲まれ食べる粗食かな」

 

「屈み観る雨傘の下四葩咲く」

 

「紫陽花やローカル線の無人駅

            

「大粒の雫が似合うよ手毬花」

 

「屈み観てふれてやさしや手毬花」

     遊民

 

 

紫陽花



hodaka2700 at 14:25コメント(6)ハイキング 

2007年06月13日

花菖蒲 5

九華公園

 

民謡「桑名の殿さん」で有名であった松平公の居城であった桑名城跡で、現在も周囲に濠を残している。城は、慶長15(1610)に本多忠勝が築城したもので、のちに松平家の居城となり明治元年まで続いた。現在本丸跡は九華公園と命名され約77500平方のなかに桜、ツツジ、花菖蒲が植えられており花の名所としても知られている。

花菖蒲

 

あやめ科の多年草、ノハナショウブを原種として日本で改良された。高さ約80センチ、葉は剣状でとがり、平行脈と中助脈がある。初夏のころ、白、桃、紫色などの美花を茎頂につける。

俗に「しょうぶ」というが節句に用いるしょうぶ「サトイモ科」とは別のものです。 

 

           「井出達も役者姿や花菖蒲」

 

           「元服の若武者のごと白菖蒲」

                      遊民  

 

花菖蒲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花菖蒲花菖蒲花菖蒲

 

 

 

 

 

 

 

花菖蒲花菖蒲花菖蒲

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



hodaka2700 at 09:04コメント(8)ハイキング 

2007年06月04日

近江湖の辺の道 5

賤ヶ岳

 

琵琶湖と余呉湖の間にある賤ヶ岳は北国街道を見下ろす要衝でもあったため、

天正11年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が織田信長亡き後の主導権争いの主戦場になった。

山頂には合戦跡を示す記念碑や輪郭跡とおぼしき土塁が兵どもを感じさせる。

山頂からの展望は開け、北方に余呉湖、勝家の本陣があった行市山、南方に山本山などが望める。

 

        「天下治むる賤ヶ岳立葵」

 

        「賤ヶ岳七本槍や立葵」

 

                「鬨あげる七本槍や立葵」

 

        「夏草や七本槍の鬨の声」

 

                 遊民

 

 

賤ヶ岳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    賤ヶ岳から余呉湖展望

 

 

琵琶湖琵琶湖琵琶湖

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山本山山本山山本山

 

 

 

 

 

 

 

 

山本山

 

山本山(標高324.9m)、この山の別名は朝日山、田中山、白山、と言い又、その優美な形が琵琶湖の何処から見てもすぐに分かることから見当山とも言います。

この山が陸上と湖上とを見渡す重要ないちにあることから、平安時代から戦国時代にかけて山城が築かれ土塁と堀切の跡に古城の姿をとどめることができます。

 

 山本山

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山本山から琵琶湖を望む

 

 

 

 



hodaka2700 at 13:51コメント(12)ハイキング 

2007年05月26日

伊良湖岬めぐり 5

伊良湖岬

伊良湖

 

太平洋と三河湾に面した渥美半島は温暖な気候に恵まれたリゾートエリアです。

季節毎に花畑やフルーツ狩りが楽しめるのが最大の魅力、メロン、苺、トマトなど野菜の収穫体験もあります。又、芭蕉の句碑を初めとする文化史跡、岬の景勝を堪能するビュースポットが豊富、サイクリングロードで半島の先端を巡るのもお勧めです。

伊良湖岬からは、鳥羽や知多半島の師崎まで観光船が出ているので少し足を伸ばして訪れることもできます。

 

日出の石門

 

日出(ひい)の石門

 

太平洋の荒波の浸食によって真ん中が洞穴となった日出の石門は、沖の石門、岸の石門と二つあり、その名の通り日の出の時に美しいシルエットを見せてくれます。西に神島を経て志摩半島を望み、東に延々と続く片浜十三里を眺める雄大な風景が満喫できます。

 

片浜十三里

片浜十三里

 

日出の石門から浜名湖まで約70キロ、白い直線

の砂浜が続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

椰子の実記念碑

 

椰子の実記念碑

 

明治31年、民俗学者柳田国男が恋路が浜で拾った椰子の実の話を親友島崎藤村に語り「椰子の実」の詩が生まれました。昭和11年には、大中寅二の作曲により国民歌謡となりました。

ここには、詩、曲二つの記念碑が揃って建てられています。

 

 

伊良湖神社

伊良湖神社

 

御衣(おんぞ)(まつり)で有名なこの神社は、昔伊良久大明神といわれ、その草創は貞観17年(875)にまでさかのぼります。この地が伊勢神宮領伊良湖御厨であったことから、神宮と深い関わりをもっていました。現在の御衣祭は、4月の第3日曜日におこなわれます。

 

 

芭蕉の句碑

(

)(

 

)

 

芭蕉句碑

 

「鷹一つ見つけてうれし伊良湖岬」

芭蕉が伊良湖に来たのは貞享4(1687)年11月12日です。流罪となり保実に住んでいた杜国に合うための旅でした。句碑は寛政5(1793)年に当地の俳人たちによって建立されました。

 

伊良湖灯台

伊良湖岬灯台

 

昭和4年に開設されたこの灯台は、光度1万7千カンデラで潮騒が聞こえる半島の先端に立っています。海の難所といわれる「伊良湖水道」で行きかう船舶の安全を対する神島灯台とともに守っています。「日本の灯台50選」に選定されています。

 

 

 

 

 

万葉の歌碑

万葉の歌碑

 

岬の先端、灯台背後の古山の斜面に,天武朝の皇族

であった麻績王の歌碑「うつせみの命を惜しみ浪に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す」があります。麻績王は遠く都を追われ伊良湖の浜に身をよせていました。

それを憐れむ里人の思いやりに応えた歌で、潮騒の浜にふさわしい万葉の名歌といわれています。

 

 

恋路が浜

恋路が浜

 

恋路が浜は、伊良湖岬灯台から太平洋に面して日出の石門まで1キロ続く湾曲する美しい砂浜。昔、高貴な男女が恋ゆえに、都大路から渥美半島に逃れて来たという伝説から恋路が浜という名前がついたと言われています。

「海霧や夫婦の絆恋路ヶ浜」

 

「神島を海霧の遮る恋路ヶ浜」

遊民

 

田原城

 

田原城跡

 

文明12年(1480)頃、戸田宗光によって築城されました。

周囲を海に囲まれ、湾の形が巴形になっていたので「巴江城」とも呼ばれていました。

現在は、石垣、堀、土塁などが残っていて、桜門と二の丸櫓が復元されています



hodaka2700 at 15:08コメント(6)ハイキング 
QRコード
QRコード
最新コメント
最新トラックバック
成人の日 (七五白書 (しらけないために))
なばなの里よりおめでとう
  • ライブドアブログ