ほいみのそれから

銀行員→専業トレーダー→再就職→破産から復活へと歩み出すアル中廃人の日記

2018年05月

休日の過ごし方

日勤になって一週間が過ぎました。

時差ボケはなんとかなってきましたが、休みの日は朝二度寝をするとそこから6時間とか寝てしまうほど、まだ完全に昼型になったわけではないです(^^;

そしてこれは夜勤の時からそうでしたが、休みの日にやりたいことが何もない・・・
丸一日暇というのもあれなんで、ここのところ昔ハマっていたアメリカドラマを観ています。
リーマンショック前後にトレードから距離をおき始めた頃、ザラ場の時間をもてあまして観ていたものですが、当時あまりにも一気に観てしまったのとあれから10年ほどが経ち記憶も薄れてきたのでもう一度楽しめるかな、と思ったのが動機でした。

心配していたのはそんな昔のドラマがまだ近所のゲオで借りれるかどうかでしたが、久々に訪れたゲオにはしっかり当時観たドラマが全て揃っていました(^^)とっかかりとしてプリズンブレイクから観始めていて、今日でシーズン2まで観終わりました。しかしやっぱり面白いなあ。こんな感じでしばらくは暇な時間のお供はゲオになりそうです。

そして自分の娯楽面が最近貧しいのを感じていてその理由を考えてみたんですが、スマホアプリも新しいネタがなく、ずっとやってるクラクラもかなり過疎気味で盛り上がらない。そしてなにより思うのが、ここのところ新しく面白いと思える本に出会ってないからですね。ブックレビューも持ってる本についてはだいたい書き尽くしたし、新しい出会いがないと何も書けません。

シリーズで読んでいる作品も最近はどれも停滞気味でほとんど新刊が出てこないし、活字中毒の自分としてはちょっと深刻な事態。新しいジャンルに挑戦してみようかと思うけど、思いつくのは歴史ものくらいですかね。
歴史ものは三国志以外は読んだことがなく、日本中国ともにたくさんのシリーズがあるので、これにハマれば当分の娯楽には不自由しなさそうです。まあハマればですが(^^;


昨日はボスと今後の業務の戦略の要となりそうな会社に訪問し、いろいろ勉強してきました。その後ボスと二人で飲みに行き今後の部門の運営についていろいろ語りました。自分はまだヒラですが、ボスとしては片腕として使っていきたい意向のようで、いろいろ忌憚ない話が聞けたうえに、今後の自分の役割がより明確になってきたのはよかった。

招かれて勤め始めた以上期待通りかできればそれ以上の結果を残したいもんです。


ルーツ余談

ルーツ全24話いかがでしたか?

改めて思うに「あの頃はホントに株が好きだったんだなあ」と。
何故今はあの頃と180度変わってしまったかを考えるに、「相場にドラマがあるかどうか」だと思います。
昔は政治・経済・企業業績などが株価に密接に結びつき、株式市場そのものが一つの劇場のようなものでした。今ではほとんど実感のないシリコンサイクルという明確な経済の波もありました。
このルーツを読んでもらってもわかるように様々な出来事あり、激動の時代だったと言ってもいいと思います。

企業の勃興や、それにともなう株価の変動は、自分の投資にも密接に結びつき、ともすればいち消費者としてもそれを実感できるような時代でもありました。なんというか「肌で感じられる相場」だったのかなと。
それが経済がグローバル化し、株価の大きな変動要因が海外に移ってしまい、また国内での大きなイノベーションがほとんど見られなくなってしまった。このあたりに原因があるのかな、と思います。

もう相場に戻ることはないと思いますが、大きな技術革新や構造変化があり、産業地図が塗り替わるようなことがもしあれば、そういったドラマに惹かれてまた復活はあるかもしれません。まあ、その可能性はほとんど感じないですけどね。

金融小説も黒木亮の作品を見ていると、90年代後半から2000年代前半くらいまでが素材として面白いのかよく題材として選ばれていますね。まあ、作者が投資銀行にて経験した時期がそれだっただけかもしれませんが。

なんにせよ、投資をするには非常に面白い時代だったわけで、だからこそあれだけ相場に夢中になっていた自分が、今の無味乾燥(自分のイメージです)な相場に興味を持てないのは当然かもしれませんね。
もう今となってはあれほど夢中になれるものはありませんが、また自分がひたむきになれる「何か」が見つかればいいな、と思ってます。


ルーツ

日勤になって二日出勤しましたが・・・
睡眠がきれいに取れない(^^;

思えば10年ほど夜型生活をしていたわけですから当然かもしれませんが、ひどい時差ボケのようなもので、夜は寝てもすぐ目が覚めるし仕事をしている日中は無条件で眠くなる。

体が慣れるまでもうしばらくかかりそうですが、精神のほうも慣れが必要なようで明るい時間に起きて暗い時間に寝るというのは違和感がありまくりです(笑

ルーツはこれで最終話となります。

23


彼らは、それぞれが完成度の高い独自のスタイルを持っていた。

自分が散々苦しめられていた時期に、彼らは相場で生計を立てていたのだ。突出した武器がないと生き残れないし、同じスタイルのトレーダーを大勢養ってくれるほど、甘い相場でもなかった。全員が暗黒の時代をくぐり抜けた猛者だった。

自分はその頃には、今のスタイルの原型である短期スウィングが中心となっていたが、彼らとの出会いによりトレードの幅が広がったのは言うまでもない。もちろん、まだその時は兼業である。注文は仕事の合間にIモードで出していたので、スキャルピングなどはできない。1年くらいの間、彼らのトレードを見て経験地を高めていった。


2004年は、専業となるための修行の期間と言ってよかっただろう。前半は好調な地合いにも恵まれ、既に6月には前年以上の利益を稼いだ。自分としても自信があったし、彼らからも専業になるようすすめられたのもあった。そこである日、軽い気持ちで妻に相談してみた。彼女の答えは・・・


「資金が1億以上になったらね♪」

最初は冗談だと思ったがそうではなかった。兼業でもいつかは1億に到達するかもしれないが、こんないい相場は何年続くかわからない。正直ちょっと焦っていたが、彼女の了解無しには専業にはなれない。もう少し様子を見ることにした。


そんな頃、本業のほうでは不況の最後のあおりがきていた。
給料が2割カットされたのだ。ボーナスは既に2年間全くもらっていない。組織に見切りをつけ同僚が次々と辞めていくが、リストラ中のため補充はない。仕事のしわ寄せがくる。それはまだいいが、仲間が減ると言うのはとても気分が滅入るものだ。
同期と飲んでもみな疲弊し希望を失っていた。

だんだん家に帰って仕事の不満を言うようになった。12年間どんなに忙しくても逆に充実してたくらいなのに、もうその充実感がない。初めてのことだった。我慢の日が続く。仕事への不満は募る一方だ。そして逆にトレードへの情熱は高まっていく。妻はそんな自分を徐々に理解をしてくれるようになった。いや、自分が最初に専業になりたいと言った時点で既にその覚悟を持っていたのだろう。

ついにゴーサインが出たのだ。




24


2004年の年末。年後半は調整を続けていた新興市場が新しい波動に入った。

仕事のスケジュールを考え、タイミングを見て上司に退職したい旨を告げた。退職日は2005年2月末。それまでに、PCも購入し準備を整えた。思い立ってから専業になるまで1年半ほどかかったのだ。気持ちは逸るばかりだった。


そして迎えた専業初日。
気負いがあったのだろうか?気持ちとは裏腹にいきなり負けた。出鼻を挫かれた自分に仲間の一人が言ってくれた。「 それは市場の洗礼だよ 」と。この一言で気が楽になった。最初は慣れないデイトレで無理をしたりもしたが、やがて自分の基本スタイルである短期スウィングで安定した利益が出るようになった。

そして今日の自分がいる。



自分のトレード人生を振り返って、今まで様々な人達に教えられ影響を受けてきた。

・最初に株を教えてくれた会社の先輩。
・楽しい時期と苦しい時期を共に歩んできたMLの仲間たち。
・相場というものを教えてくれた先輩ディーラーたち。
・専業のあり方を教えてくれた、専業仲間たち。

他にも多くの人達との出会いや関わりがあり、相手の経験値や資金量に関係なく、それは全て自分の血肉となってきた。

そしていいかげんな夫に今までついてきてくれた妻。
彼女がいなければ「専業トレーダーほいみ」は存在しなかっただろう。

まだ成功と言うには遠いが、専業トレーダーという人生の新しいステージに立ち、ここまで順調にやってこれたのは決して自分だけの力ではない。いつも彼らへの感謝の気持ちは忘れない。


また、今度は自分が人にあげられるものがあると思う。それが何かはわからないが、自分をオープンにすれば何か感じてもらえるものがあるだろう。そんな思いもあり、インフォに登録し日記を書き始めた。

そして、ここでもまた新しい出会いがあり、世界が広がる。
そう、「ルーツ」に終わりはないのだ。


ルーツ 完

ルーツ

来週から昼勤務になります。
昼がメインになるのは元から決まっていた話ですが、タイミングが決まったのが3日ほど前で、自分が教えていたアルバイト達には突然の話だったようで皆一様に不安そうな様子(笑
こうなることは最初からチラホラ話ししていたし、自分たちだけでやっていけるように教えてきたので、まあたぶん大丈夫でしょう。
中には自分が退職すると思ったのか「お世話になりました」なんて挨拶してくる人いましたが(^^;


21


2003年2月。どん底まで落ちたはずの銀行株が大暴落を始める。

もう何度目になるかわからない金融危機が勃発したのだ。2ヶ月以上の間銀行株が徹底的に売り込まれ、みずほやUFJが10万を割れた。そして2003年4月。ソニーの下方修正発表で225は最安値の7603円をつけた。
あの「ソニーショック」である。


この頃自分は銀行株も売買していたが、より値動きの軽い新興市場が売買の中心になっていた。そして4302オープンIFに余力の大半を投じていた。「なぜオープンIFだったのか?」仲間にも言われた事があるが、自分でもよく覚えていない。株価が10万円前後で手掛けやすかったのもあり、前年からよく売買していた銘柄だった。

それと、2003年に入ってからは、4563アンジェスの大相場があり、7709クボテック、7717Vテクなどが強い相場を作っていたので、新興に流れがあると感じていた。
何よりITバブルの始まりの頃の、新興市場の暴騰がイメージにあった・・・


業績は赤字でよくない。瞬間的に大きく買われてもすぐに売り直される。でも不思議と迷いはなかった。ソニーショックの直前に、大赤字の決算発表をし最安値をつけた時も、最後の余力でポジションを追加した。

「腹をくくった」そう表現するしかない。
そして最後の勝負は自分が扱い慣れた銘柄に決めた。ただそれだけだった。


ソニーショック以降225はリバウンドを始める。新興市場ではチラホラと大きく上昇する銘柄が出始めた。オープンIFも決算発表後は、悪材料出尽くしでジリジリ上がり始めていた。もう後は待つだけだった。そしてほどなくしてその時はきた・・・


大幅黒字転換予想!


ニュースを見た瞬間体が震えた。大相場になる確信があった。
そして自分の予想通り、オープンIFは発表から4日連続でS高し、その後も急騰を続けた。

含み損だったポジションは大幅な含み益となり、信用分はいったん益出しをして、増えた資金で更に乗せていった。株価は業績修正発表後の1ケ月弱の間に、7万から30万に急騰した。
そして自分も一気に500万ほどの利益を得たのだ。大勝利だった・・・


「生き返った・・・」心の底から実感し、そして妻に感謝した。




22


妻に大勝した話をすると「よかったね♪」簡単な答えが返ってきた。

妻はまだいいと言ったが、一息ついた時点で150万出金し「家計の貯金」に戻した。これは自分にとってけじめだった。それにまだ妻に借りた200万が残っているのだ。


2003年5月のりそな銀行の国有化で一連の金融危機が終息に向かった。3年間の長く暗いトンネルを抜け、株式相場は底打ちをした実感があった。自分は、オープンIFで手にした資金を、他の銘柄に次々と振り向けていった。その頃には、まさにITバブル初期と同じ光景が繰り広げられていたのだ。もう迷う必要はなかった・・・


2003年は株式投資を始めてから最も幸せな1年になった。
この1年間で、年収の2倍を超える収入を得たのもそうだが、それよりも株式市場が復活した事のほうが喜びは大きかった。「相場さえ生きていれば勝てる」8年の投資経験の中でも最悪のどん底相場を経験し、そんな自信が芽生えつつあった。そして大好きな株で生計を立てる、つまり専業になりたいと考え始めたのもこの頃からだった。


後に「新興バブル」と呼ばれることになる新しい大相場は、本家バブルやITバブルに比べればスケールの小さいものではあった。だが、その最大の魅力である値動きの軽さにつられ、仲間たちも徐々に新興市場に参入しつつあった。


そんなある日、仲間の掲示板に新しいメンバーが加わった。彼は専業トレーダーだった。専業といってもデイトレができるくらいで、やってる事は自分達とそんなに変わらないだろうという思い込みがあった。しばらく経つと飲みの席で面識ができ、その彼が主催する別の掲示板に誘われたので、なんとなく興味本位で参加した。


そこのメンバーは、なんとほとんどが専業トレーダーだった。彼らのトレードを見て、驚愕する毎日が続く。一番驚いたのはトレードスタイルの多様さだろう。スウィンガーが多かったが、もちろん皆デイトレもする。BB獲得から初値買いまでのIPO攻略や、スキャルピング、逆張りでの買い下がり、S高ハンティングetc.

トレード資金も回転数も桁違いの世界を見て、最初はしり込みしたものの徐々にそのパフォーマンスに目を奪われるようになった。


ルーツ

先日学生時代のバイトの後輩と飲みました。

彼は2年ほど前に自分の地元に引っ越してきたのはわかってましたが、自分の状況が状況だっただけになかなか飲みに誘えなかった。念願がやっとかなったわけですが、25年ぶりくらいの再会にも関わらず、波長の合う人間ってのはブランクは関係ないもんなんだなと思ったもんです。もっと早く誘えればよかったな。


19


自分が壊れていっているという自覚はあった。でも自分ではどうすることもできない。こんな夫を妻はどういう思いで見ていただろう?一言やめろと言って済む話だったら簡単だが、自分はのめりこむとじっくりとこだわり続ける人間なのだ。それに人の言うことにはあまり聞く耳を持たない。
今思えば、あの頃によく離婚されなかったと思う。


過去の売買の記録を見ると、ITバブル崩壊時のショックをもろに受けた2000年が一番大きなマイナスを計上したが、続く2001年も鳴かず飛ばずでマイナスとなった。2002年の春先にはハイテクのリバウンド相場があり、底打ちを期待したものの、夏にはそれがあっさりと失望に変わった。

自分は株を始めてから今までの、全ての売買明細をEXCELに入力している。取引の分析や資産の管理に必要だからだが、この頃は取引報告書を見るのが嫌で、数ヶ月放置していたことも多い。だから当時どんな銘柄を売買していたかもあまり記憶がない。
それに、なんというか頭の中が濁っていた・・・・


2002年の後半には、資金は風前の灯火となっていた。
もう株の資金を補填するどころではなかった。そしてある日、信用を全て決済すれば資金が30万を割れるところまできた。いよいよ「退場」の2文字が何度も頭に浮かんだ。だが、自分にとって株は、既に金や趣味のレベルにとどまらず、ライフワークと化していた。
「退場」とは人生の欠落と同じ意味だった。
ましてこんなひどい地合いの時に負けたまま市場から去る悔しさには耐えられなかった。相場はいつ底打ちしてもおかしくない水準まできているのだ。負けるだけ負けて、あの活況相場がくれる快楽を逃す。そんなことがあったら一生後悔するだろう・・・


そんな自分の気持ちを知っていた妻がある日言った。
「貯金を使う?」

ここでいう貯金とは、妻に強制的にさせられていたあの「家計の貯金」のことだ。
その時点で150万しかなかったが、当時の自分には大金で、そして我が家の唯一といっていいくらいの資産だ。

2002年の年末。相場で負け続けてはや3年が経っていた・・・



20


彼女に言われるまでもなく、それまでにその150万を使うという選択肢は当然にあった。だが、自分は既に彼女に借りた200万も溶かしているのだ。普通に考えれば、負け続けている人間に資金を追加しても、同じ結果が待っているのは明らかだ。自分もそれをわかっていたし、これ以上我侭を言えないという思いから、正直戸惑った。

でも、彼女は言った。
「今のままじゃ納得いかないんでしょ?」

つまり、金がなくなっても仕方ないから、納得がいくところまでやれということだった。


涙が出そうになった・・・

株を続けられる嬉しさにではなく、そこまで自分のことを考えてくれる彼女に対してだ。相場で負け、自堕落な生活をし、自滅していきつつある夫に、彼女は失望しているだろうという自覚があった。それだけにその予期せぬ言葉は自分を大きく揺さぶった。


少し悩んだ結果、その150万は全額使うことにした。
思い切りやって散ったほうがいい、そう思った。
そしてその資金を追加して、再度ポジションを張った。もちろん信用も使ってだ。


だが、しょせん落ち目というべきか、一番大きくポジションを持った4297ISSがいきなり下方修正を発表した。ISSはMM銘柄である。MMの恐怖をこの時初めて味わい、投げた時には資金が一気に80万ほど減り、再び100万を割れそうだった。

ガックリと落ち込んで、このことを妻に素直に話した。
「それはヘコむね」彼女はそう言って笑っただけだった。その表情を見て、まだ覚悟ができておらずオロオロしてるだけの自分を、情けないと思った・・・


2003年に入った頃になると、仕事が猛烈に忙しくなり、日付が変わる時間まで会社で残業する日が多かった。株で資産を失い、これで仕事もできないとただのバカだと思い、キツかったがそれでも真面目に仕事をした。ポジションは持っていたが、家に帰って株のことを考える時間もなく、当然資金も増えない。妻は深夜1時近くに帰宅する自分に、毎日何も言わずに暖かい料理を作ってくれた。

「彼女に報いたい」深夜の食事をしながらそう思った。



ルーツ

連休は予想通りアルコール漬けでした。
仕事してる時のほうが体調がいいって何か間違ってる?(^^;


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「自分のことは書かないで」という本人の希望もあり、最後まで書くかどうか悩んだが、ここからの話には彼女のことがどうしても欠かせないので書くことにする。

自分には結婚6年目になる妻がいる。子供はいない。エピソード14で書いた「大きな出費」とは結婚費用のことで、200万を借りた「身内」とは妻のことだ。

どんな話かは・・・まあ読んでみてください(^^)



・・・前回の続き


結婚は2000年2月。ちょうどITバブルがはじけた時だった。彼女は自分が勧めたこともあり結婚直前に株式投資を始めていた。株式投資という共通の趣味を持つ新婚夫婦。普通ならこんな楽しいことはない。相場さえ良ければ・・・


しかし、自分はここまで書いてきたとおり大きく資産を減らし、彼女も最初に買った銘柄が大きく値下がりし塩漬けとなった。それでも最初は楽観的だった。すぐに返すつもりで、彼女の余裕資金から200万を借りたことが気負いになったのかもしれない。ダウントレンドに信用枠をめいいっぱい使って買い向かう。その頃にはそれなりにトレード技術はあったと思うが、今から思えば負けるのは当然だった。
証券口座の残高はゆっくりとだが確実に減っていった・・・


家計の管理については結婚当初から自分に任されていた。だが、ここで大きな落とし穴があった。
自分はケチと言うわけではないが物欲があまりない。だからそれまでの人生でも、あまり金は使わないし不自由したこともない。よって、計画的なお金の使い方を知らなかった。それと、今もそうだが自分は麻雀バカだった。独身時代から週末はデートの日以外は雀荘に入り浸っていた。結婚後しばらくはおとなしかったが、じきに独身時代よりレートの高い地元の雀荘に通うようになった。


相場で負け懐は寂しくなっている。
知っている人はわかると思うが、金がない人間が勝負事をしても勝てるわけがない。給料は麻雀の負け分で消えていった。最初はストレス解消だからと大目に見ていた妻も、やがて耐えかねて給料から強制的に「家計の貯金」を始めさせられた。



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では、毎月の貯金を始めたことで、状況はよくなったのだろうか?

答えはNOだ。行動が変わらないのだから支出は減らない。自分は我慢ということができない人間なのだ。貯金をすることで「小遣い」が減ったわけだから、すぐに手元の金に困った。

それまでは手元の金がなければ、証券会社から出金をして補填していたが、証券口座もマイナス続きで火の車だ。そんな余裕はない。「いつでも必要な時に必要な金がある」そんな暮らしに慣れた人間が金に困る。生まれて初めて知る苦痛だった・・・


減った資金を補おうと、多少残っていた投信や、積み立て式の生命保険なども解約した。
ボーナスが入るとそれもつぎ込んだが、ボーナスは毎年何回かはいく旅行に大半を充てていたし、何しろ手元の金も足りないのだ。証券口座に追加できた資金は全部で100万もなかっただろう。

だが、自分がかき集めて投入した資金をも、マーケットは容赦なく奪っていった・・・もう解約するものもなくなった自分は、当然のようにキャッシングを利用するようになった。


自分が株を始めた理由は「お金は貯めるのではなく増やすもの」という考えからだったが、その考えとは裏腹に大金を失った自分に腹が立つと同時に、「自分はダメな人間だ」といつの頃からか自己否定をするようになった。そして楽観的な自分もさすがに、「株をやめたほうがいいのか?」と自問自答することが多くなった。

誰でもそうだと思うが、どんなに負けても株は大好きなのである。

「やめたくない。勝たなければいけない。」
だが現実は厳しい状況だった。既に書いたとおり、史上最悪といっていいくらいのズル下げ相場なのだ。相場で勝てない苦しみから逃れようと麻雀はよりエスカレートした。麻雀を夢中でやっている間は嫌な事を考えなくてすむ。まさに現実逃避だ。週末などは妻を家に置いて、雀荘に入り浸ったまま家に全く帰らないことも多かった。

自分が些細なストレスにも弱いという事を知ったのはこの時期だったが、まだこの頃は自分をコントロールする術は持っていなかった。


ルーツ

しかし4連休ともなると何をすればいいのかわかりませんね。
入ってる予定もあるんですが結局は飲みだおれになりそう(笑


15


2000年4月から2003年4月までの3年間で、225は高値20800円台から安値7600円台まで、実に14200円の幅を下げ続けた。

途中リバウンドで大きく上昇する時期もあったが、必ずその後倍返しで下がる。無論ナンピンは論外だし、長期投資では全く勝てない相場だった。この頃には、自分の売買スタイルは、チャートをベースとした短期売買が中心となっていた。
リバウンドのたびに「今度こそ底打ちだ!」と、強気で買いにいくがすぐに失速して叩かれる、ということを何回繰り返しただろう。


今だったらトレンドに従いショート中心のトレードをするのだろうが、株価はあまりにも考えられない水準まで下げていた。セリングクライマックスを見た後買った銘柄が、その数ヵ月後には底割れする、ということも何度もあった。まだそれでもロスカットをきちんとしていたので、一気に退場という事はなかったが、真綿で首を絞められるように資金はジリジリと減っていった。


どの銘柄のチャートも右肩下がりで、左側のはるか上空から移動平均線が降りてくるものばかり。いつまでたっても底が見えない株式市場。テクニカル指標は、割れるために存在するんではないかと思うほど、あらゆる節目は下にブレイクされた。3年の間に、数え切れないほど期待を裏切られ続け、自分の心はどんどん疲弊していくと同時に、相場に対し無力感を感じ始めていた。


MLはというと、地合が悪いのもあったが、感染者からのウィルスメールが相次いだこともあり、投稿は激減し実質的に機能を停止していた。そこで、MLの常連の一人がプライベート掲示板を開設し、そこに常連達は集まった。この掲示板は、現在までメンバーの出入りはあったものの、当時の仲間が集まるコミュニティとして、自分にとっては故郷のような存在だ。
だが、当時はみんな傷ついていた事もあって、それほど投稿は多くはなかった。


まだブログなんてものが一般的になっていなかった時代である。たまに仲間と飲みに行く時以外、株の話を見る機会もする機会もない。一人悶々と苦しみに耐えるしかない運命のはずだったが、そんな自分にも救いがあった。

当時、会社の同僚にも株をやっている人が多かったのだ。



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もうわかってる人もいると思うが、自分はとある金融機関の債券のディーリングルームに所属していた。すぐクビにはなったが、ディーラーの経験もある。職場には百戦錬磨の先輩ディーラー達がいて、自分が仕事を辞めるまでの約6年間、同じルームで仕事した。また、同期の中には株のファンドマネージャーもいた。さらに、職場にはロイターやQuickなどの情報端末があり、使いたい放題だった。自分でもかなり恵まれているという自覚はあったが、ディーラーと投資家、そしてプロ仕様のシステムに囲まれた職場環境であった。


手が空いた時間に、なんとなくロイターでチャートを眺めながら同僚と話をする。彼らは自分のような株の短期売買はしていなかったが、相場に対して独自の哲学を持っていた。個別銘柄の話もしたが、それよりもより大きな「相場というもの」についての見識が深められたのが大きかった。
そして何より、相場で傷ついていた自分は、株の話ができるだけで癒された。



こんなエピソードがある。

ITバブルが崩壊して1年以上たった頃だろうか。ロイターで225のチャートを眺めながら、自分が溜息をついていた時である。自分が株で苦労していることを知っていたある先輩ディーラーが言った。


「あのな、こんなでっかい山を作ったチャートはな、普通2~3年はあかんで」


その時自分は「そんなバカな!」と鼻で笑った。3年も相場が死んだままなんてことがあるはずがないと。あの時この言葉を受け入れていれば・・・。残念な事に自分はそれほど柔軟ではなかった。この言葉を本当に理解できたのは、2003年に225が底打ちしてからだった。
先輩の言ったとおり復活まできっちり3年かかったのだ・・・


単純で何気ない一言だったが、この言葉は今も自分の中にしっかりと生きている。そして、今では自分なりにアレンジして、自分の相場観を形成するのに役だっている。

なおその先輩ディーラーは、組織が変質しつつある会社の将来に失望し、悪化する職場環境の中で仕事への情熱を失い、同時に同僚たちからの人望をも失ったまま職場を去った。
自分ともあれほど仲が良かったのに、最後は絶縁に近い状態で別れる事になってしまった。
とても悲しい出来事だった・・・ 

Profile

ほいみ

48歳♂ 会社員
東京都某区在住

資産を全て失いフリーターから人生をやりなおす日々
13年ぶりにサラリーマンに復活

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