2013年06月03日

夜泣き梅女の伝説

この伝説を記するには「八王子千人同心」
(蝦夷地開拓移住隊士)の説明をしなければならない。
 
寛政12年(1800年)、幕府は北方警備と開拓のために
多摩郡八王子近郊の半士半農の千人同心頭、
原半左衛門以下100人を蝦夷地へ派遣した。
しかし、寒さと栄養失調、流行り病のため
わずか1年足らずで隊士の3割が死亡。
その後も開墾は続いたが4年で断念、解散し開拓地は放棄した。
さて、八王子千人同心頭、川西佑助の妻、
梅はこの地「勇払(ゆうふつ)」へ来たただ一人の和人女性だった。
その中で梅は、佑助の子を身ごもり出産するが寒さ厳しく、
食べ物も少ないため乳も満足に出ない有様であった。
入植して3年後の享和3年(1803年)5月22日夜、
幼い赤子を気にかけつつ25歳という若さで梅は亡くなってしまった。

梅の死後、雨の夜になると赤子を抱いた若い母親が
「この児にお乳を下さい」と言って泣きながら
近所の家の戸をたたいてまわり、
可哀想にと思って外に出てみると誰も居らず、
若い女性が墓場の方へ消えて行くという姿が
何度も目撃されるようになった。

近所の人は
「あれは梅さんが、幼い子供を気にかけて亡くなったせいだろう。可哀想に…」とうわさしたと言う。
夫の佑助は妻への追慕と哀惜の情を「哭家人(かじんなげく)」と題し、
七言絶句を墓碑銘に刻んだ。
梅の墓は勇払開拓史跡公園に建っている。
又、昭和48年には苫小牧市が千人同心隊の偉業をたたえ、
その下には赤子を抱いた梅の像も建立した。
亡霊の銅像は世界的に見ても珍しいだろう。
この銅像は苫小牧市民会館前にあるので、すぐ分かると思う。
興味のある方はぜひどうぞ。



 


hokkaido_fuzoku at 01:09|PermalinkComments(0)開拓史 | 男と女

2013年05月30日

おいらん淵

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藻南公園には「おいらん淵」と呼ばれている場所がある。  
これは、明治時代に起きた本当の話である。  

明治時代、札幌市中央区南2条西3丁目にある洋物の呉服店があった。 
ここの呉服店の若月為吉は、仕入れのために訪れていた東京で
すっかり吉原通いを覚えてしまい とうとう「花魁」を身請けしてしまった。 

そして花魁は、札幌へと連れてこられたのだった。
しかし彼女には、心に寄せる男性がいて 三ヶ月ほどたった頃、
東京へ帰ると言い出した。 激昂した為吉は、なんと座敷楼を作り
彼女をそこへ監禁して毎日のように凌辱したと言う。 

彼女の泣き叫ぶ声は使用人にも聞こえるほどだったらしい。 
ある夜、とうとう彼女は座敷楼を抜け出し、おいらん淵から身を投げてしまった。 
身元の確認は、抜け出す際に持った高下駄と蛇の目の傘から分ったそうだ。 

これが明治二十八年におこった話である。 
これ以来、誰がいうとはなく「おいらん淵」と言うようになった。 

その後、為吉は洋物店を廃業。土地の売買に成功して大地主となった。   
これがおいらん淵の由来である。 

子供の頃は、このおいらん淵には女の幽霊が出るというウワサがあったりしたが、
この史実を知ればうなづけるだろう。  
また、近くの公衆トイレ(男子)では警察官の自殺があったりと
なにか曰くのある場所なのかもしれない。



hokkaido_fuzoku at 23:02|PermalinkComments(0)開拓史 | 男と女

2013年05月26日

八垂別墓地(はったりべつぼち)




札幌市南区に「八垂別墓地(はったりべつぼち)」という墓があります。
ここは心霊スポットとしても密かに知られている場所です。

でも子供の頃は、そんな事も知らなくて普通に
遊び場の一つとして遊んでいました。
今の墓地のように整地にはなってなくて、
当時は林の中にある墓地って感じでした。
クワガタとかもよく採れたから、
地元の子供には人気があったかもしれませんね。

ただ、大人からよく注意されていたのは
そこは「土葬」されている墓もあるから
気をつけて歩くようにと言われていました。

それだけ、古い墓地だったんでしょうね。
だから遊びにいって、足元が柔らかい感触の所は
子供心に気持ち悪い思いをした事もあります。

現に隣に住んでいた、近所のおばさんちは
墓地を移動するときに遺体を掘り起こして移してました。 
(かなり昔の遺体だから、すでに骨になってましたよ)

高校くらいに入ってから、あの場所が
心霊スポットとして有名だという事を知りました。
知らないって怖いですよね。。。


 
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hokkaido_fuzoku at 23:59|PermalinkComments(0)心霊スポット | 札幌