2017年04月23日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-6 スラヴ主義

(国立新美術館 〜6/5)
前2回は戦争に次ぐ戦争で勝っても喜べない暗澹たる場面が続いたが、最後の部屋で雰囲気は一変し、明るく希望に満ちた作品に出会う。
ここの5点のみが撮影可というのも、重苦しい悲惨な光景はさておいて、晴れやかな印象を持ち帰って広く共有してほしいということなのだろう。

15. イヴァンチツェの兄弟団学校 (1914年、610×810cm) は、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の故郷でもあるモラヴィアに設立された兄弟団の学校の庭で、チェコ語の聖書が初めて印刷されたところだ。
刷り上がった真新しい聖書(クラリツェ聖書)をみんなが手に取って、自分たちの言語で書かれていることの喜びをかみしめている。
盲目の老人に読み聞かせている少年は自身をモデルにしたとのことからも、ムハの強い思い入れが分かるこの作品の、明るく平和な情感あふれる画面は、連作中の実質的な頂点と言ってもいいのではないかと思う。

17. 聖アトス山 (1926年、405×480cm) には、ギリシャ正教の聖地らしい超自然的な空間が再現されている。丸天井のモザイク画である聖母子像は天上の姿そのもののようにも見え、その前では天使たちが聖堂の模型を持つという、冒頭の3点以来のイリュージョン的構成だ。
ただ、ここでアトス山が出てくることに戸惑いを覚えるのは、おそらくスラヴ民族はまず東方正教会からキリスト教を受け入れたと思われるが、東・南スラヴの国々の多くはそのまま正教の世界に留まったのに対し、ムハの祖国を中心とした北西部ではカトリックの影響を受けつつプロテスタントが勢いを得ていた時代が長かったからだ。
それでも、最終段階で正教の聖地にあらためて敬意を表したのは、ビザンティン文化によって民族は文明社会への仲間入りを果たしたという歴史の記憶があり、また今なお正教を奉じている国や民族が多いことから、スラヴ民族の心のふるさとのような思いがあったからなのだろう。

18. スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い (1926年(未完成)、390×590cm) は、1894年にスラヴ文化の再興を求めて結成されたオムラジナという団体を直接的な題材としているが、いかにも愛国主義者の集いという感じが強い画面は、汎スラヴ主義を理想化したものと思われる。
しかし、ムハは十分な時間があったにもかかわらず本作を ”未完成” の状態に留め、1928年にチェコスロヴァキア独立10周年を祝してプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で開かれたお披露目会でも、この1点のみ除外し19点を公開した。
それは、少なくともその時点では本作をシリーズの中に入れたくなかった、さらに言えば敢えて隠したかったという意識が働いてのことに違いない。

一方、それでも破棄してしまわず、他の19点ほどの完成度には至らないものの、一応は鑑賞の可能な程度にまで完成形に近づけているのはどういうことだろうか。
ナチスのような敬礼のポーズが問題視されたという説もあるようだけれど、1926年ないし28年の時点では関係があるとは思われず、むしろ、第一次大戦の終結によりハプスブルク帝国の崩壊、ロシア革命、そしてチェコスロヴァキアの独立と事態が急速に動いたことから、スラヴ統一という壮大な夢、とりわけロシアを盟主とする ”解放” というプランが現実に合わなくなってしまったことの方が大きかったのであろう。
実の娘と息子を前景に大きく描き込むほど特別な作品だったにもかかわらず、あまりに現実離れしてしまった楽観的なイメージは連作の中で浮き上がりかねず、さらに筆を加えて完成させようとする気がすっかり失せてしまったのか・・・

それにしても、ムハ自身はいつの日かこの 「オムラジナ会の誓い」を完成させることもあり得る、と考えていかどうかがどうしても気にかかる。
これは無理な想像ではあるけれど、もし第一次大戦が同盟国側の勝利で終結していたとすれば、その時点ではチェコスロヴァキアをはじめとする東欧諸国の独立はなく、本作はスラヴ民族を鼓舞し悲願達成に向かわせる理念の絵となって、全く違う形で注目を集めていたかもしれない。


>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2)  勢力伸長 (3, 4, 5, 6)  言葉の魔力 (7, 9, 10)  フス戦争 (8, 11, 12)
フスの残光 (13, 14, 16)

hokuto77 at 18:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年04月21日

茶の湯展-1 牧谿筆 「観音猿鶴図」

(東京国立博物館 〜6/4、展示替えあり)
牧谿筆 「観音猿鶴図」(南宋時代・13世紀 京都・大徳寺、展示は5/7まで)三幅を見るために、特別展 「茶の湯」に足を運んだ。
茶碗をはじめとする茶道具類が主役の展覧会場で、この大作が脇役のような扱いになっている状態はどうかとも思うが、禅、茶とともに日本に渡ってきた唐物、東山御物の代表的な 唐絵としての久々のご登場は、とにかくも有り難いものだった。

入ってすぐ右に掛かっていたこの三幅対に向き合ってみると、以前もそうだったのだが、まず強く引き込まれたのは右幅の 「猿図」だった。
向こうに伸びて行く枯れ木の上の方にいる親子の猿の姿は静謐そのもので、しんとした気配が画面全体に漂っている。超然とした猿に特段の動きはみられないが、この後に等伯が何度も模倣することになるふんわりとした毛の表現によって、そこに確かな生命があることはよくわかる。
驚くべきは、樹の部分に見られる奔放な筆捌きだ。
荒っぽいともいえる大胆な墨跡、それも一様ではなく実に多彩な筆触と墨の濃淡によって、古木の表面の硬さや枯れ具合が的確に表現されている。手前に垂れさがる枝の大胆な描きっぷりは、等伯の 「松林図屏風」につながるものだろう。
そんな中で、観る者の視線が収斂していく猿の顔は、本当にこれでいいのかと思うくらいに単純化されている。しかし、もしここに写実的な猿の顔を持ってきたとしたら、この絵の超絶的な気配は損なわれてしまうだろう。
全てが完璧な、単独でも充分に見応えのある、精神性の高い絵というほかはない。

中央の 「観音図」は、牧谿の作品としては異例とも思えるほど、丁寧にかっちりと描かれている。
対象が観音菩薩であり、礼拝図の中心に来るべき尊像にふさわしくという発注者の指示があったからなのか、他の作品には見られない遅い筆で、緻密に組み上げるように描かれている。
そのようにして現れた観音様は、なにやら憂い顔をされているように見える。この世の中を嘆いているのか、超絶的な存在としての抽象性や慈悲の心を表す微笑といったものはとりあえず抑えて、人間の救い難さを噛みしめておられるところのようだ。
宝冠から鼻筋、襟元と続く中心線がやや入り組んで見えるのも、ほとけの神秘性とはやや違う形で、我々に近い存在として、人間的な悩みの中にいる観音を表現するためだっただろうか。
重量感のある岩に座る観音を、湿気を含んだ柔らかな空気がしっとりと包む中で、向かって右の岩の上に置かれた水瓶がほのかに光っていることによって、絵全体の格調が高められている。

これらに対して、左幅の 「鶴図」は、羽根や足などの表現は見事なものだと思うけれど、前二者のような静けさや気高さは希薄になっている。
静止している観音や猿と違い、この鶴は左から右へと大きく動いているし、口を開けて鋭く声を発している。近づいて見ると目には獰猛さがあり、全体に落ち着きがなく、観音はもとより樹上にいる猿とも、明らかにステージが違うようだ。
それが、ここでの鶴に課せられた役割ということなのか、しかしその鶴の呼びかけには誰も応えることがない・・・

そうなると、この三幅は当初からこのような形だったのかと思ってみたりもするけれど、それでも、この 「観音猿鶴図」全体の素晴らしさは比類がなく、妙心寺と大徳寺に遺産分けが行われた際に50貫文の現金より本作を選んだという 大徳寺が、ここまでこの良好な状態を維持してきた幸運にも感謝しなければならない。


牧谿画ベストテン

hokuto77 at 22:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)東洋絵画 

2017年04月19日

仲道郁代〜3台ピアノの響きとともに-2

仲道郁代さんが スタインウェイ、ベーゼンドルファ−、ヤマハを弾き比べるコンサート、前半の解説に続いて後半は、セクションごとに3台のピアノを使い分けたリサイタルとなった。
(4月13日(木)19:00 なかのZEROホール)

<プログラム>
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調op.27-2 「月光」
シューマン:アベッグ変奏曲op.1
ブラームス:6つの小品 作品118より、第2番 間奏曲 イ長調
ショパン:12の練習曲op.25第1番 変イ長調 「エオリアンハープ」
ショパン:12の練習曲op.10第3番 ホ長調 「別れの曲」
ショパン:バラード 第1番 ト短調 op.23

まずは ヤマハ(以下Y)による ベートーヴェン
仲道さんの説明は、「月光ソナタ」にはメロウでまろやか感のあるYを選んだということだったが、3つのセクションに3台を割り当てるにあたっては、ベートーヴェンの曲は最もピアノの響きに依存しない構造を持っているということもあったようにも思われた。

次は スタインウェイ(S)、シューマンの 「アベッグ変奏曲」が始まった途端、これは楽器だけの要因というわけではないかもしれないけれど、パッと明るい花が咲いたような気がした。
広い音域で弱音も強音もくっきりと聞かせるところは、やはりSならではの持ち味だろうか。
続く ブラームスの 「間奏曲」では、仲道さんの演奏の方に思わず引き込まれ聞き惚れることになった。
慈しむようなテンポで紡ぎ出される甘美な旋律は微妙な綾をなし、陶酔の世界を彷徨っていく。
このセクション、若きシューマンはともかくとしても、晩年のブラームスは是非Bでも聞いてみたいと強く思った。
(余談ながら、仲道さんのCDでシューマンのソナタ第3番と一緒に入っていたのはこの曲だっただろうか。とてもお気に入りのディスクだったのに最近見当たらないので買い直そうと思ったのだが、会場の出店ではさすがに扱っていないようだった。)

最後の ショパンはその ベーゼンドルファー(B)、「エオリアンハープ」では率直なところBの持ち味がよくわからなかったのだが、「別れの曲」では控えめな旋律が肉声のように説得力を持って聞こえてきた。
そしてフィナーレの 「バラード第1番」はとにかくドラマティック、豊饒な響きの中から印象的な旋律が浮かび上がってくるところには楽器の余裕といったものも感じられ、実のところこの曲をこんなに感銘深く聞かせてもらったのは初めてだ。
それは一義的にはショパンと仲道さんのおかげではあるけれど、Bの貢献もまた大きかったのではないか。それと、この日の本番前に一人で3台を調律したというヤマハ所属の調律師の方も、プロとしてフェアないい仕事をされたというべきだろう。

以上のプログラムが終わった段階で舞台上は右から Y、B、S、この状態でアンコールに入り、仲道さんは再び3台の聴き比べができるように ショパンの ワルツを中央のBから始めて、Y、B、S、B、Y、Bとロンド形式のように、楽器の間を小走りで移動しながら少しずつ分けて弾いてくれた。
そして最後は エルガー、これをどのピアノで聴きたいかを客席の拍手で決めることになり、僅差だったようだがSとの決戦投票でBが残り、ベーゼンドルファーによる 「愛の挨拶」でしっとりと締めくくられた。

それにしても、同じホール、同じピアニストによる弾き比べというのは、普通では考えられない貴重な体験だった。
もちろん仲道さんが再三強調していたように、楽曲の雰囲気や作曲家の特性などとの相性がまず第一なのだろうし、聞く方でもホールの前か後か、中央かサイドの席かによっても響き方が違い、もちろん音色に対する個人の好みもあるだろう。
さらにピアノの個体の出来栄えやコンディションも大きいと思うので、メーカーの優劣ということはないのかもしれない。
それでも、最初に中央にあった ベーゼンドルファーが、目まぐるしい移動の最後に再び中央に来ていたのは偶然とは思われず、確かに他の2台より一回り大きいインペリアルには王者の風格というものが漂っていた。

私としても、以前から気になっていた ベーゼンドルファー の音色をこのような形で確かめられたのは本当に有意義だったし、仲道郁代さんのブラームスのインテルメッツォとショパンのバラードの名演に接することもできて、とても満足できた一夜だった。
しかし、これから先、ピアノのコンサートに出かけるたびに、そのほとんどで スタインウェイが使われると思うのだが、ここは ベーゼンドルファーで聞いてみたい、ベーゼンドルファーならどんな音楽になるだろうか、という思いが、どうしても頭をよぎってしまうのではないか。
悩ましいことになった・・・

hokuto77 at 21:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年04月18日

靖国神社 夜桜能-3 西行の分身としての桜

花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科(とが)には有りける」という不用意な一言を発した 西行(ワキ)と、これに異議を申し立てるべく現れた 桜の精(シテ)は、語り合ううちに意見の対立を解消して意気投合し、桜の名所を愛でて廻る架空の花見に興じることになる。
清水寺や嵐山といった桜の名所を次々に想起させるところは、幻想的な笛の旋律と相俟って観る者を夢見心地へと誘うのだが、都中の桜を楽しむ至福の時が長く続くことはない。
「あら名残惜しの夜遊やな、惜しむべし 惜しむべし、得難きは時、逢ひ難きは友なるべし。春宵一刻価千金、花に清香 月に影」という詠嘆は、満開となった桜がすぐ散り急いでしまうように、何事もやがて峠を越えて下り坂に入って行かざるを得ないことの標でもある。

美しい風景、気のおけない友との語らい、そうした幸福な時間の中に少しでも長くとどまりたいと思うのは無理もないことなので、「待てしばし 待てしばし、夜はまだ深きぞ」という台詞は誰もが共感するものだろう。
だがこれは、西行が桜の精に呼びかているのかと思っていたのだが、実際には 桜の精が自らこの言葉を発しつつ、舞台の中央から徐々に橋懸りの方に進み、影が薄くなるようにだんだんと遠ざかっていった。
散る桜、明ける宵、消えゆく桜の精、全てははかなく、時は無常に移りゆく。刻一刻と死に向かう我々だからこそ、生きている間は美しいものに包まれて、親しく人と触れ合いながら楽しく過ごしたい。
しかしそんな思いを断ち切るように、桜の精は、橋懸りをかなり左に進んだところで 「夢は覚めにけり」と最後の声を発し、揚幕の向こうへと消え失せる。
それは、我々にも夢から醒めなければならない時が来たことを教えながら、全ては過ぎ去って元に戻ることはないのだという思いを強く印象付ける結末であった。

夜桜能の頃は満開を迎えていた桜も、昨夜の嵐でもうほとんど散ってしまった。
散る花をどれほど惜しんでも、橋懸りの向こうに消えて行く桜の精のように、それを押しとどめることはできない。
自分の人生も、既に橋懸りにかかっているのだろうか。
何かを成し遂げたいという気持ちが残っている以上は舞台の上にいると思いたい一方で、生まれた時から橋懸りを揚幕の方へ少しずつ移動しているのが人生というものかもしれない。

本曲は、「西行桜」という表題の下に、ワキである 西行がシテの 桜の精に出会う形を取っているけれど、途中からはなぜか、シテの老人の姿が西行その人のように見えて仕方がなかった。
つまるところ、西行と桜と老人の姿をした精は ”三位一体” であるようでもあり、桜の精は西行の分身にほかならないのかもしれず、さまざまなイメージが交錯しながら、実のところは何を見ているのかよくわからなくなるような夢幻の境地に誘うところも、世阿弥の巧みさなのかと思ったりもした。
名曲と、舞台を囲む見事な花を通して、二度と帰らない ”時” というものへと自ずと思いが誘われていく夜桜能の宵だった。


<能・狂言の過去記事>
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか)  
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

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2017年04月16日

スケーエン、デンマークの芸術家村-2

(西洋美術館 〜5/28)
スケーエン芸術家村のもう一人の主役、ペーダー・セヴェリン・クロヤー(1851年生)は、同じ海岸の光景を描きながら ミカエル・アンカーとはだいぶ趣を異にした作品を残していた。
浜辺の白いボート、明るい夏の夕べ」(1895)は、ごつい漁船が華奢なボートに代わり、それさえも画面の奥に小さく描かれるのみ、手前を黒い服の謎めいた女が行き、その全体は青白い光に包まれて詩情豊かな世界となっている。
展覧会チラシに載っている 「ばら」(1893)は、みずみずしい緑の中で白いバラの花が画面いっぱいに咲き乱れ、爽やかな風がその香りを運んでくるようだ。
木陰のチェアでくつろいでいるのは妻のマリー、青い服を着た肖像画を見ても美しい彼女は、しかし、ただ夫の作品のモデルないし霊感の源というだけではなかった。

その マリー・クロヤー(1867年生)の 「縫い物をする女性のいる室内」は、左の窓から射し込む光が白いカーテンを輝かせ、花や暖炉のある部屋を明るく華やいだものにしている。
空間のつくり方、縫い物に集中している女の様子などにはフェルメールを思わせるところがあるけれど、そこまで突き詰めが強くない代わりに、より身近なものに思えるような親密な生活感があった。


今回の ”スケーエン:デンマークの芸術家村” 展は、明るい新館の2階部分を広々と使ったことによって、作品の魅力がよく引き出されていたし、素描展示室では漁師ひとりひとりの息遣いが感じられるようだった。
それにしても、”日本・デンマーク外交関係樹立150周年記念” ということでもなければ、こうした画家たちに出会うこともなく、また スケーエンという漁村を知ることもなかったかもしれない。
そこは、ストロイエ通りやチボリ公園のあるコペンハーゲンの洗練された雰囲気と違うのはもちろん、岬の先で荒れる海はノルウェー・フィヨルドの静けさやバルト海の穏やかさとも全く異なる様相を見せており、古来はバイキングの木造船やハンザ同盟の商船が行き交い、日露戦争時にはバルチック艦隊が大挙して通過し、大戦時にはドイツの潜水艦が遊弋していた海域でもあった。

今回の主力メンバーである ミカエル・アンカー(1849年生)と ペーダー・セヴェリン・クロヤー(1851年生)は、1848年生まれのゴーギャンと53年のゴッホの間に入る世代だ。
と言ってもこの2人は ”時代を超えた” 感じがあるので、むしろ48年生まれのカイユボット、49年のウォーターハウスや エミール・クラウスあたりを同時代と考えた方がいいだろう。

ところで、デンマークの画家といえばこの美術館でも展覧会があった ハンマースホイ(1864)なのだが、15年ほども生年の違わないアンカーらとの間に何らかの関係はあったのだろうか。
小さな国の中の画家同士で全く接点がなかったとも思いにくいけれど、コペンハーゲンの旧市街から一歩も出たことがなさそうで、妻以外とは言葉を交わしそうもない(あくまでも印象だが)ハンマースホイが、スケーエンの彼らに興味を持ち接近するということは、多分なかったのだろう。

>ハンマースホイ (2008、西洋美術館) 

hokuto77 at 19:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年04月14日

仲道郁代〜3台ピアノの響きとともに-1

スタインウェイ、ベーゼンドルファ、ヤマハの3台のピアノを同じステージに並べ、仲道郁代さんが弾き比べてくれるというピアノ・リサイタルを聞いた。(4月13日(木)19:00 なかのZEROホール)

舞台の上には右から スタインウェイ(以下S)、ベーゼンドルファー(B)、ヤマハ(Y)が並び、3台が初めて同じステージに出てきてお互いに闘志を燃やしているのではないか、というコメントから始まった前半は、実際に同じ音を鳴らしながらそれぞれの特徴などが紹介された。

まずは調律師も加わって楽器の長さ、幅、重さなどの説明、SとYはほぼ同じサイズなのに対し、中央に置かれたBは見るからに大きく感じられたのだが、実際にBは長さが10センチほど長く、幅も鍵盤が通常の88より多い97ある分広く、高いテンションに対応する構造になっていることもあって重量は60キロ近く重いのだそうだ。
また、鍵盤の高さも微妙に異なるため椅子を合わせるのも大変だとのこと、内部の構造も違うらしく、本当はお値段も聞きたかったのだが、同じピアノといってもそれぞれの差異は思ったより大きいらしい。

各楽器の弾き比べは、コンテストやコンサートの前に使用楽器を選ぶときに近いイメージということで、同じ音型を舞台右のSからB、Yの順に弾く形で進められた。
最初は、鳴りっぷりを確かめるために、ショパンの練習曲冒頭のようなスケールや半音階などを低音から高音まで強音で、次に、低音の響きを見るということで「ワルトシュタイン」冒頭の第一主題部分、さらに メロディラインを歌わせるためにショパンのポロネーズとノクターンの一部が弾かれた。

仲道さんによれば、これらの作業はあくまでも曲想に合うかどうかをみるためのもので、楽器の優劣をつけるわけではなく、むしろ音が縦に響くか横に伸びるか、小ぢんまりとしているか拡がっていくか、近くできれいに聞こえるか遠くに届くか、といった違いなどにも注目するのだそうだ。
また、協奏曲ではピアノの音がオケの上に出られるかが重要とのことで「皇帝」の冒頭部分を試奏、さらにチャイコフスキーの1番を弾きながら、Sは打ち込むように強く弾けば響く、しかしBで同じことをしても音が固まってしまうので、鳴らし方を変えなければならないといった説明があった。

このあたりまで来ると、確かに3台の個性というものがはっきりしてきて、個人的な感想で言えば、B=ベーゼンドルファーのニュアンス豊かで音楽的によく歌う感じが最も好ましいものに思えた。
一方、S=スタインウェイはコンサートで多く使われるだけあって、くっきりとした音が明快に聞こえ、きらびやかさと同時に強靭さもある。
Y=ヤマハも健闘しており、バランスよく優等生的に響いている感じがあるので、学生や子どもの練習には最適なのではないかと思ったりした。

また、Bはウィーンのメーカーで古典的な楽器を徐々に進化させてきたといった解説があったのだが、これに対し、Sは北ドイツでピアノ音楽の可能性の拡大を支えるように発展し、Yもその路線を踏襲してきたといえるのではないか。
だから、と言っていいのかどうかは分からないが、オーケストラならBはウィーン・フィル、Sはベルリン・フィル、そしてYはN響に準えてもいいような気がした。
前半の最後には、”後半は今日のプログラムの各曲に相応しい楽器を選んでお聞かせします”、という言葉があって休憩に入った。

hokuto77 at 19:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年04月11日

大エルミタージュ美術館展-1 スルバランのマリア

(六本木ヒルズ 〜6/18)
フランシスコ・デ・スルバランの絵といえば、厳しく、静謐で、硬質といったイメージが強く、十字架上の苦しみがそのまま伝わってくるような磔刑図、白い衣を身に着けた寡黙な修道士、実物よりも堅固そうな静物、といった作品が、まず脳裏に浮かぶ。
ところが、今回の ”大エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち” 展で来日した 「聖母マリアの少女時代」(1660年頃)は、幼さを残したマリアがとても可愛らしく、甘美過ぎるとも思えるような親しみやすい作品だ。
ふっくらした頬、かすかに開いた口もと、軽く合わせた両手には、生身の女の子をそのまま写したようなあどけなさが感じられる。

しかし、この少女は今、視界に入っている以上のものをその視線の先に感じているのか、上の方を見上げる目には、啓示を受けた時の宗教的恍惚が宿っているようだ。
彼女は、何かの呼びかけに応えるように、針仕事の手を止めて手を組み、心を鎮め、聞こえない声を聴き、見えないものを見ようとしている。
その目には、神の姿が見えているのだろうか。
あるいは、自分に課せられるであろう宿命を感じたということなのか。
そして、もしかしたら、将来の自分と、生まれてくる我が子に起こること、と言ってもまだその具体的なイメージまでは見えていないとしても、そのことの途方もない重さは悟っているのかもしれない・・・

もちろんこれは聖書に記述の無い想像の場面なので、あまり深読みをする必要もないのだろう。
だからここでは、マリアが幼い頃から聡明で、純真で、敬虔な信仰心を持ち、性格も申し分なさそうな少女だったということを感じれば、それで充分なのかもしれず、それだけでも聖母マリアを讃えるのに相応しい絵画だともいえる。
膝の上の白い布や赤い服の質感はスルバランならではのものだし、すべてがしっかりと決まっていて無駄なものや調和を破るものが何ひとつないところにも、スルバランらしい突き詰めを感じてもいいだろう。
しかし、この少女の表情に、普通の少女が祈っているという以上の、はかり知れない重みを引き受けたという自覚、そして、孤独に聖なるものと向き合った時に初めて訪れる宗教的法悦、そうしたものを感じさせているところこそが スルバランなのであって、やはりこれは、真摯に向き合うべき、精神性の高い宗教画に違いない。

 
>スルバランの過去記事
コンスタンティノープルの聖キュリロス、聖ペトルス・トマス (2010、ボストン美術館展)
聖家族 (2009、THE ハプスブルク展)
聖顔布 (2009、奇想の王国展)
幼い聖母 エル・ソティーリョにおけるキリスト教徒とムーア人の戦い (メトロポリタン美術館) 
祝福する救世主、神の愛の寓意 ボデゴン (2006、プラド美術館展)

hokuto77 at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年04月09日

靖国神社 夜桜能-2 桜の精との問答

能 「西行桜では、ワキ=西行がひとりで桜を楽しもうと思っていたところに花見客が来たために、「花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科(とが)には有りける」と嘆じるところから物語が動き出す。

夜になって、このやや配慮を欠いた発言を聞き咎めた シテ=桜の精が、老人の姿で桜の樹の中から現れて、「さて桜の科(とが)は何やらん」と尋ねる。
西行は、「いや これはただ浮世を厭ふ山住みなるを、貴賎群集の厭はしき心を 少し詠ずるなり」、即ちひとりで桜の風情を楽しみたいので騒がしい花見客は迷惑だという趣旨の返答をするが、桜の精は、「おそれながら この御意こそ少し不審に候へとよ、浮世と観るも山と観るも、唯その人の心にあり。 非情無心の草木の、花に浮世の科(とが)はあらじ」、要は心の持ち方の問題であって桜のせいではないと説く。
これは、桜の精という立場上当然の言であるだけでなく、確かにまことにごもっともな道理であるので、西行はすぐに自説をあらため、「げにげにこれは理なり」と賛同する。
そして、「さてさて かやうに理をなす、おん身はいかさま 花木の精か」と問い返すところから、桜の精との心の交流を経て想像上の花見へと展開していく。

桜と言えば、”世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし” という 在原業平の歌に共感する人も多いと思うけれど、これも桜の精に言わせれば、とんだ濡れ衣を着せられているということになりかねない。
しかし、西行や業平に倣うというわけではなくとも、そういう発想をしてしまいがちなのが我々人間の性でもあるので、桜の精の言うとおり、物事を見る目は本人の心持次第と認識し、安易に他人のせいにすることなく、常に自らを省みる視点を持ち続けるべきだというのが、本曲にこめた 世阿弥のメッセージのひとつでもあるのであろう。

それともうひとつ、能には珍しいと思われるこうした議論の場面が持ち込まれたのは、道理ある言葉を素直に受け入れることの大切さ、そこから新たに開ける世界の豊饒さ、ということを伝えたかったということもあったのではないか。
ここ数年、何を言われても自説を繰り返して言い張るのみで、そこから議論が深まることも共通の理解に達することもない、そんな不毛な場面を見せられることが多くなっているように思う。
もし西行が、自分が過去に発した言葉に必要以上にこだわったり、プライドが邪魔をして非を一切認めないような頑なな人物だったら、また逆に、桜の精が西行をやり込めたことに満足して優越感に浸るだけであったなら、その後の両者の心に触れる語らいもなく、桜の名所巡りなど有り得ようはずもなかった。

世阿弥がこのように理にかなった言葉のやりとりの場面を描いたのは、それがごく自然に行われている世の中だったからなのか、それとも、やはり問答無用の強弁がまかり通る風潮に危機感を感じていたからなのか、そこのところは分からない。
ともあれ、この世の中でははかない存在である ”同士” が、知性と良心を共通の価値観とし、一期一会の出会いを大切にして互いを尊重し合ったからこそ、両者にとって至福の時が訪れた・・・

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2017年04月07日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-5 フスの残光

(国立新美術館 〜6/5)
13. フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー (1923年、405×480cm) は、1436年の バーゼル協約でローマ・カトリック側がフス派の要求を部分的に受け入れ、ボヘミアへの十字軍派遣を取りやめることとしたにもかかわらず、後にその合意を一方的に覆してきたために、使者の前で椅子を蹴飛ばして怒る イジー王の姿を伝える。
緊迫の場面はプラハ王宮のステンドグラスを通しての美しい光で彩られており、民族の誇りを貫くことによってスラヴ結束につながったことの意義が、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)によって強調されているようだ。
摂政として国難に対応した手腕が民衆の支持を集めたことから初めてフス派の王となったイジーは、恒久的な平和の枠組みを作るために キリスト教諸侯同盟を提唱、この理念は後にEUや国連として結実することになる国際機関構想の先駆的なものとされている。

14. ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛 (1914年、610×810cm) では、スラヴ民族共通の脅威である オスマン・トルコとの戦いの場面が描かれる。
1566年、ハンガリーの要塞で スレイマン大帝率いるトルコ軍の侵攻を迎え撃った際、指揮官の妻が火薬塔に火を放ったことにより修羅場のような戦闘風景となるが、その後の運命を画面を縦に貫く黒い煙の柱で暗示させたところは、ポスター・デザイナーならではの処理と言えるだろうか。

16. ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々 (1918年、405×620cm) は、”フス戦争” が20年ほどで一応の終結をみた後も続いた ”フス派運動” が、ドイツの宗教改革や三十年戦争の影響を受けながら、なお紆余曲折を経て200年後に最終局面を迎えたことを示す作品。
1620年の ビーラー・ホラの戦いにおける改革派の敗北によりプロテスタント教徒たちは国を追われることとなり、ボヘミア兄弟団の指導者コメンスキーはオランダに逃げ延びた。
画面には凍てつくような海に向かい息絶えようとする彼の姿があり、寒々しい風景の中に仄かに灯るランプの光が印象的だ。

フス戦争とそれに続く フス派運動の成果は何だったのか。
教会の堕落を諌めるという本筋の部分は、後のルターに始まるドイツの宗教改革に引き継がれる形である程度実現したという見方もできると思うが、ボヘミアのフス派が ”聖杯派” として最後まで主張を続けたという ”二重聖餐” の議論はどうも分かりにくい。
これは 聖体拝領の時に庶民にもパンだけでなく聖職者と同じようにパンとワインが与えられるべきだとする考え方で、” 10. クジーシュキでの集会” でとり上げられている ウトラキスト派の名もここに由来する。
それがどれほど切実なものなのかを実感として理解することは難しいのだが、おそらくは単に聖書に忠実かどうかということに留まらず、ボヘミア社会における市民の台頭という背景を踏まえて、ローマ教会の硬直した特権意識に分かりやすい形で一矢報いたかったということではないかと思われる。
そして、この運動を通じて涵養された民族意識が19世紀のナショナリズムの時代に復権し、その後の独立への動きの原動力となっていった。


>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2) 勢力伸長 (3, 4, 5, 6) 言葉の魔力 (7, 9, 10) フス戦争 (8, 11, 12)

hokuto77 at 23:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年04月06日

ルネサンス・フルートによる「バベルの塔」展コンサート

”東京・春・音楽祭−東京のオペラの森2017−” の中から、ブリューゲルの 「バベルの塔」と2点のボス作品が来日する展覧会(4/18〜)の開催に合わせて、同時代のフランドル音楽をルネサンス・フルート中心に紹介する、「バベルの塔」展プレ・コンサート vol.1 を聞いた。
(2017年4月4日(木)14:00、東京都美術館 講堂)

■出演 ソフィオ・アルモニコ
 ディスカウント&テナー・ルネサンス・フルート:前田りり子
 テナー・ルネサンス・フルート:菊池かなえ、菅 きよみ
 バス・ルネサンス・フルート:国枝俊太郎
 ルネサンス・リュート:佐藤亜紀子
 パーカッション:近藤郁夫

■曲目
H.イザーク:うら若き娘
  C.モレル:満足すべきか、耐えるべきか
  T.クレキヨン:断られるほどに
  J.クレメンス・ノン・パパ:ジャカン・ジャケ
P.サンドラン(T.スザート編):甘い思い出
P.サンドラン(D.オルティス編):《甘い思い出》によるレセルカーダ 第2番
T.スザート:良いことは終わり
  J.オブレヒト:タンデルナーケン
T.スザート:《ダンス集》より 戦争〜モーロ人
P.ファレーズ:ブルゴーニュのブランル (リュート・ソロ)
T.スザート:《ダンス集》より ロンドV 「君はどこですか」〜ロンドVI〜サルタレッロ
  ジョスカン・デ・プレ(T.スザート編):はかりしれぬ悲しさ 3声
  T.スザート:はかりしれぬ悲しさ 5声
G.P.d.パレストリーナ(?):第1旋法と第6旋法によるリチェルカーレ
C.デ・ローレ(G.B.ボヴィチェッリ編):別れによって
  作者不詳:通りがかりの少女が
  J.バストン:縫い針
T.スザート:《ダンス集》 より アルマンド〜ナーハタンツI&II〜パッサメッツォ
 〜1000ドゥカーテン金貨(パヴァーヌ〜ガイヤルド〜ロンドVIII)

ルネサンス期の芸術の中でも、イタリア絵画に比べてフランドル音楽はなかなか接する機会がないが、今回は ブリューゲルも活躍したアントワープの スザートという作曲家兼楽譜出版業者が出版した作品を中心としたプログラムとのこと、曲間の解説も周到だったおかげでこの分野が一気に親しみやすいものになった。

解説の中で特に示唆的だったのは、宗教改革の影響を受けて1545年に開かれた トリエント公会議により、イタリアではパレストリーナの作曲法が規範として位置付けられたということだった。
ルネサンス期の音楽をごく大雑把に眺めてみれば、ヤン・ファン・エイクと同じ1380年生まれの ダンスタブルから デュファイオケゲムと時代が進む中で作曲技法は古拙から洗練へと進み、ヒエロニムス・ボスより10年早い1440年生まれの ジョスカン・デ・プレが形式・内容ともに頂点に立ったとみていいだろう。
15世紀の音楽界はこうしたフランドル楽派の独壇場だったのに対し、16世紀に入りブリューゲルと同じ1525年生まれの パレストリーナ以降台頭してくるイタリア勢の楽曲は、きれいに整い陶酔感の強いものもある一方で、それまでのフランドル勢と比べて自発性に乏しく面白みに欠けるような気がしていたのだが、その原因もまさにここにあったと理解していいだろうか。
宗教画に厳格さを求めヌードをご法度にしたことと軌を一にするように見えるこの決定、時代の要請だったとはいえ芸術にとってはなんとも罪深いものだったように思えてならない。

ともかくも、簡素な横笛4本にリュートとパーカッションが加わった演奏は、ブリュージュ(ブリュッヘ)の街並みを彷彿とさせる雅さがある一方で、しっとりと霧に包まれたような哀愁も感じられ、また明確な主旋律も和声も低音も持たないまま各々の声部が絡み合って進む音楽には、不思議な浮遊感も漂っていた。


アントネッロによるカラヴァッジョの時代の音楽 (2016)
西山まりえが歌う ”中世貴婦人たちの恋模様” (2013)
没後400年、スペインの光の中のビクトリア (2011)
ブリューゲル・コンサート、絵の中の楽器たち (2010)
アンサンブル・エクレジアの ”サンティアゴ巡礼の歌” (2009)
アントネッロ レオナルド・ダヴィンチ 音楽の謎解き (2009)
ラウダ・スピリチュアーレ、中世イタリアの賛美歌 (2007)
>支倉常長と音楽の旅 (2007) 
>天正少年使節と音楽の旅 (2006) 

hokuto77 at 22:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年04月05日

靖国神社「奉納夜桜能」-1 桜の花と西行

第25回 靖国神社 「奉納夜桜能」” の第2夜を観た。
(2017年4月4日(火) 18時40分、靖国神社能楽堂)

   舞囃子 「絃上」    梅若長左衛門
   狂言   「仏師」    野村万作、野村萬斎
   能    「西行桜」  梅若玄祥、森常好

今年の桜は、どういうわけか、なかなか咲き揃わない。
東京では開花宣言からちょうど2週間、千鳥ヶ淵もほぼ満開の大樹がある一方で、まだまだ咲き始めの木もあり、集団がばらけて長く延びたマラソンレースのよう、全体としては五分咲きといったところだった。
それでも標本木のある靖国神社境内はかなり咲き進んでおり、夜風はまだ冷たかったものの、拝殿横の会場は申し分のない花の苑となっていた。

それにしても、白く浮かび上がる桜の下で見る ”夜桜能” の演目として、「西行桜」ほどふさわしいものはないだろう。
長い冬がようやく終わり春を実感させてくれる桜ではあるが、それはわずかな期間を楽しませてくれただけで、急ぐように散っていく。
今年は見られる期間がやや長くなりそうだとはいえ、桜そのものがまことに夢のようであり、季節の移ろいや時の流れ、生きとし生けるものの運命というものを強く感じさせる花だ。

西行は、それまでは ”花” と言えば梅が主役とみられていたところに、さまざまな歌を詠むことで桜をその地位に押し上げた。
ここでの桜はもちろんソメイヨシノではなくヤマザクラ系ではあるが、今に続く日本人の春の心象風景を決定づけたという意味で、それは ”桜の発見” と言ってもよさそうな、日本文化史上の一大功績に違いない。
さらに、”願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の 望月のころ” という歌で、桜花に、単なる鑑賞や見物の対象にとどまらない特別の意味を与えたことも大きかった。

心待ちにしていた桜は、咲いてもすぐに散っていき、その姿をとどめておくことはできない。
とは言え、桜の花は来年も同じように咲くだろう、でもそれを見る一年後の自分がどうなっているかは分からない。
我々は大きな円環を巡っているようでありながら、実は二度と帰ってこない直線的な時間を生き、そしていつかは死によってそこから離れていく。
それは桜とは本質的に関係のない話ではあるけれど、桜だからこそこんな思いを強く引き出すこともまた争いようのないところで、そここそが本当の 「桜の科(とが)」ではないかとすら思う。

もっとも、本演目で 西行のいう 「桜の科」は、本当は独り静かに春の風情を楽しみたいのに花見客の騒がしさは迷惑だ、というところから出た嘆きであるが、この思いは現代にも十分に通じるもので、まだ花見の宴会などというものが一般的ではなかったであろう頃からの人間の性の普遍的な姿をよく言い当てている。
もちろんそれは 「桜」の側の「科」ないし責任ということであるわけはないのだが、西行が思わずそのように嘆くということがなければ、”桜の精” との邂逅はなかった・・・


>2016年 靖国神社 「奉納夜桜能」 (能 「鉄輪」ほか) 

hokuto77 at 19:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年04月03日

パロディ、二重の声-3 パロディ裁判の顛末

(東京ステーションギャラリー 〜4/16)
本展の最終コーナーは ”パロディ裁判”、マッド・アマノ白川義員の雪山の写真にタイヤ画像を付加したモンタージュ作品が争点となった著作権侵害訴訟が扱われていた。
といってもその大部分は判決文を長々とパネルにしたもので、読ませるのが目的ならば印刷物で配るべきところ、それを美術品のように展示したところもパロディ的発想なのかとも思うが、あらためてその経過を追ってみれば、なかなかに興味深いものだった。

15年に及んだ本訴訟を、一応ここではパロディを楽しむ側(パロディ・サイド)としてアマノの方から見れば、東京地裁で敗訴、高裁で逆転勝訴するも、最高裁では差し戻し(実質敗訴)、さらに 高裁から再び 最高裁に上がってまた差し戻しされ 高裁で和解、という経過を辿る。
このうちの  銑の判決文の一部が ”展示” されていたわけだが、画期的だったのは △旅盧枷酬茲澄

その前の 地裁では 「無断での取り込みだから剽窃」と切り捨てたのに対し、高裁はアマノ作品を 「新たな創作であり独立した著作物」としてパロディの価値を正面から評価し、フェア・ユースの概念も認めた。
ところが の最高裁では 「引用が明確でパロディが ”従” ならいいがこれはダメ、同意もない」としてあえなく破棄差戻しとなってしまう。
素人目にもなんとも噛み合っていない議論だという感じがするが、特にその中で △旅盧枷酬茲録癖眦に見えるのにどうも勇み足っぽく、これが最高裁で否定されたことで ”パロディ” 自体が否定されたことになったのは逆効果だったようでもある。

少し前にあった ”タテカン” に、「元ネタがばれると困るのが盗作、ばれなきゃ困るのがパロディ」という とりみきの発言が 竹熊健太郎によって紹介されていたが、確かに ” 至言” と評しているとおり、言い得て妙の定義と言える。
しかしこの分類に従えば、本件のアマノ作品は、どちらでもない、ということにならないだろうか。
発表時点で白川のオリジナル写真はほとんど知られていなかったと思われるので、少なくともここでいう ”パロディ” には該当せず、無断使用という点にも注目して強いて分類すれば、やはり ”盗作” ということになるだろう。

だが遡って考えれば、もともとの原作者の意図は、雪山にカメラを担いで行ってシャッターチャンスを待つといった苦労もせずに、他人の撮った写真を勝手に使って自分の作品として商売するな、ということだったと思われる。
それなら高裁がパロディの是非や善悪にまで踏み込む必要はなかったように思うのだが、むしろ当事者が主張したからその趣旨に沿って判断をしないわけにはいかなくなったということか。
そうであれば、本件は ”パロディ” という表現方法について一石を投じたというよりは、自ら墓穴を掘って自滅したという感じがしないでもない。

ところで、最近見に行った 「三井寺」などが典型的だが、は過去の文学作品などからの引用で成立していると言っても過言ではないだろう。
和歌でも ”本歌取り” が教養やセンスを示すものとして重視されてきた歴史があるように、我々日本人は長きにわたり引用の妙を楽しむ文化を持ってきたともいえる。
その場合、とりみきの言うとおり受け取る人間がオリジナルを知っているのかどうかが重要ということになるが、最高裁判決に従えば、引用が明確で主従関係が明示されていなければ許されないということになりかねない。
しかし、実際には、分かる人は分かる、ということでよかったはずだし、オリジナルを知っていてコメントできればそれに越したことはない、という程度の柔軟さで長い間楽しまれてきたのではないか。
そのような土壌があれば、引用されることは原作者にとってもむしろ光栄であり、引用がさらなる引用を生んでも構わない、その反面で、引用した結果が稚拙だったりオリジナルを損ねるようなものであればいつの間にか廃れて残らないだけであって、その評価は歴史が決める、というのが健全なありかたなのではないか。

全くの余談ながら、展示室には当時の判決を伝える 新聞記事の現物もあったが、昔の新聞はこんなに字が小さかっただろうか。
これで老眼の人は大丈夫だったのか、電車の中などで読めていたのか、一方で情報量は当時からどのくらい減ったのか、などと思わぬところが気になったりもした。


(関連過去記事)
>ハイレッド・センター、 直接行動の軌跡 (2014、松涛美術館) 
>日本の70年代 (2012、埼玉県立近代美術館) 

hokuto77 at 21:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)掘り出し物など 

2017年04月01日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-4 フス戦争

(国立新美術館 〜6/5)
8. グルンヴァルトの戦いの後 (1924年、405×610cm) は、15世紀初頭に侵攻してきたカトリック・ドイツ騎士団を、ポーランド王がボヘミアやリトアニアの援助を得て撃破した戦いを扱う。
それは歴史的に見てもスラヴ民族にとって記念すべき勝利であるはずなのだが、画面手前には敵軍の骸が転がり、それをとりまくスラヴ側にも沈痛な気配が漂っていて、戦勝の喜びが爆発しているという図ではない。
スラヴ人にとっては物足りないとも思われかねない抑制的な表現の中に、戦争の勝者とは何か、人間はなぜ殺し合わなければならないのか、といったことが深く問いかけられているようだ。

1911年に着手され1928年に完成を見たという 「スラヴ叙事詩」は、第一次世界大戦(1914-1918年)をまたいで制作されたわけだが、本作は24年完成なので戦後のものということになる。
愛国心や民族主義が動機となって制作に入った アルフォンス・ムハ(ミュシャ)だが、この頃には戦争の悲惨さや愚かさを痛感していたのか、反戦平和思想やヒューマニズムも感じられる ”戦争画” といえる。

11. ヴィートコフ山の戦いの後 (1923年、405×480cm) は、フス戦争のさなかに占領されたプラハに ターボル派が駆け付け、ヴィートコフ山を要塞化して皇帝率いる十字軍を撤退させた戦いが主題。
対カトリックの戦いのハイライトともいうべき1420年の戦勝後の、これは勝利に感謝する儀式が行われている場面ということなのだが、指導者 ヤン・ジシュカには光が当たっているものの、ここにも凱歌を上げ美酒に酔うような雰囲気はない。
空しさや虚脱感も重く漂う画面には、勝っても勝ってもまた次の攻撃に怯えなければならないという、おそらく15世紀当時も第一次大戦後も変わることはない厭戦気分が反映しているだろうか。
荒廃した土地で生きていかなければならない民衆の思いが、画面左手前でこちらに顔を向ける女性に凝集している。
スメタナの 「わが祖国」の第5曲目は、この戦いにおける英雄的な活躍を想起させる 「ターボル」だが、もちろん音楽だから高揚感のあるものになっているけれど、全曲を覆う重々しい響きには同じような意識が通底しているようにも思われる。

12. ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー (1918年、405×610cm) は、上記2点とよく似た戦いの後の光景ながら、これはフス派と反フス派の内戦の場面、火をかけられた町には煙が上がり、焼け出された人々は力尽きて倒れていく。
同胞たちが殺し合う救いようのない悲惨な状況下で、司祭 ヘルチツキーは悲しみにくれる人々に復讐心を捨てよと諭したというけれど、その言葉は果たして届いたのか。

前回ふれたように、宗教改革者 ヤン・フスは異端として断罪されたわけだが、この処刑を不公正であると批判し、聖書に立ち返るべきというフスの主張に共鳴したボヘミアの貴族や民衆たちの支持は根強く、これをさらに異端として撲滅しようとしたドイツ王との間で戦闘が起こる。
こうして始まった ”フス戦争” は、ヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派が中心となって十字軍を撃退し、一旦は国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を実現する。
しかし、彼の死後は統率を失って野戦軍化し、周辺国の批判や農村の疲弊が問題化する中、フス派内穏健派が台頭して皇帝と和解し、カトリック教会に復帰する形で1436年頃に一応の収束をみる。


>スラヴ叙事詩  原風景 (1, 2) 勢力伸長 (3, 4, 5, 6) 言葉の魔力 (7, 9, 10)

hokuto77 at 19:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年03月30日

オルセーのナビ派展-5 ヴァロットンのボールの行方

(三菱一号館美術館 〜5/21)
”5.子ども時代” は フェリックス・ヴァロットンの 「ボール」(1899年)に尽きる。
ここ数年の間に少なくとも3回目の来日となるこの作品は、子供の他愛無いボール遊びの光景を描いているようでいて、子供のいる広場と女たちのいる草地はと同じ空間とは思えない隔絶感があり、心理的な距離感やねじれが強い不安感や疎外感を醸し出す。
子供時代に見ていた世界の不思議さ、特に、ふとしたきっかけで見慣れた世界が全く別のものに感じられたり、それまでは思いもつかなかった深淵が突然口を開けたような気持ちに襲われたり、といった感覚を呼び覚ましてくれる稀有な絵画作品だ。

しかし、これはヴァロットンの代表作ではあっても象徴主義的な傾向の強いもので、色彩表現の斬新さを追究したナビ派の代表作とは言い難いのかもしれない。
いずれにせよ本コーナーでは、ボールを思い切り蹴り出すことによって、子供を描きながらも底知れぬ意識の闇へと入っていったヴァロットンが異質なのであって、ドニは家族の絵となると理論派の冴えも霊感も失せ、ただ気のいい子煩悩なオヤジになっているようだし、ヴュイヤールの 「公園」(1894年)シリーズも装飾の域を出ていない。
しかし、次の ”6.裏側の世界” に行くと、この二人が名誉挽回をする。

エドゥアール・ヴュイヤールの 「ベッドにて」(1891年)は、今回出ていた多くの作品の中でも特に個性的で独特の世界観を持つものだ。
上が欠けた十字架の下で白っぽい布に覆われて眠る人物が、生きているのか死んでいるのかは問題ではない。
微妙に様相を変える淡い色合いの寝具が支配する画面は静謐そのもの、この寡黙で清澄な感じはゴーギャンにもセリュジエにもドニにもなかったし、今回もう一点印象に残った 「自画像」の激しい色調とも違うものながら、ナビ派という芸術活動が生み出した一つの成果には違いない。

モーリス・ドニの 「プシュケの物語」(1907年)は、得意のギリシャ的空間に明るい光と神話的な物語世界が充溢している。
装飾壁画の下絵ということによる大雑把さはあるけれど、のびのびとした自由な遊び心が楽しい作品だった。

ところで、本展のようにひとつの ”派” ないしグループをとりあげる場合、今回のようなテーマ別構成の他に、ひとりずつアーティスト別に、あるいは全体を年代順で、という見方をしてみたくなる。
しかし、特にこの美術館のように部屋が細かく分かれ順路も複雑だと、行きつ戻りつして見るということが困難なので、実際に並んでいる形とは異なる文脈での鑑賞はほとんど不可能だ。
そこでせめて、”縦軸を年代、横軸を画家” にして複製写真を貼りつけたパネルをどこかに置くといったような工夫がなされないものだろうか。


>ヴァロットン (2014、三菱一号館美術館)
    冷たいヌードと肖像 日常を逸脱する風景 抑圧と嘘、女性不信の闇
    挑戦的な裸婦図と写実 アンドロメダと世界大戦
>モーリス・ドニ (2011、損保ジャパン)
    神話的世界と現実世界 家族の肖像から象徴的世界へ

hokuto77 at 20:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年03月28日

シャセリオー展-2 眠る女優、目力の女

(西洋美術館 〜5/28)
”2 - ロマン主義へ─文学と演劇”のコーナーの奥に、「泉のほとりで眠るニンフ」(1850年 フランス国立造形芸術センター)が横たわっていた。
画面いっぱいの全裸の女性、それはイタリアでもルネサンス期以来ヴィーナスの名を借りて追及されてきた図像だけれど、シャセリオーの描く女は手前の方の足を少し上げて陰部を隠している一方で、草の上には高価そうな布が敷かれ、腕を頭の方に持って行ったことによって露わになったワキには体毛らしき黒い影が見えている。
それはまさしく、これが生身の女の絵であることを示すものであって、ゴヤの 「裸のマハ」の系譜に連なるものだ。

「裸のマハ」との共通点はそれだけではない、シャセリオーのこの作品で全裸モデルになっているのは、当代一の女優として誰もが知る女性なのだそうだ。
裸体のプロポーションはおそらく理想化されているので ”ニンフ” に見えなくもない、しかし美しい顔立ちは正確にその女の風貌を再現しているようで、そうであればスター女優のヌード公開としてスキャンダラスなものになるのは必至であり、この時点では彼女と恋愛関係にあったという画家の、当事者としての心理はいったいどのようなものだったのかと余計な心配をしてしまう。
この2人の関係が ヴィクトール・ユゴーの報告した通りなら、彼女はシャセリオーを軽んじていたみたいで愉快な話ではないが、後からモデルの女性本人が否定しているようなので真相は分からず、もしかしたら ”成り上がり” で社交界に入り込んできた若き画家に対する、ユゴーの嫉妬心が表れたものであったかもしれない・・・

”3 - 画家を取り巻く人々” には、シャセリオーの腕前を評価した各界の人々とのつながりが分かる肖像画が並んでいた。
その中でも特に、「シャルル・ド・ビュース・ドルベック男爵の肖像」(1839年 バーゼル、ジャン=フランソワ・エム)という素描には、19歳の早熟な腕前によって、今にも語り出しそうな老人の姿が生き生きと捉えられていた。
チラシにも使われている 「カバリュス嬢の肖像」(1848年 カンペール美術館)は文句なしの美人画、しかも冷たくも固くもならずに、モデルとなっている女性の魅力をよく引き出している。
その要因のひとつは僅かに開いた口もとで、何かを語り出しそうな生命感を感じさせながら、ややはにかんでいるようにも見せて女の好感度を高めているようだ。
また、手に花束を持たせ髪飾りも花にすることによって、彼女に ”フローラ”=花の女神の属性を纏わせて現実感を薄めてみせたところにも、この画家の高等戦術というものが感じられた。

”4 - 東方の光” は、シャセリオーの特色のひとつであるエキゾティスム、オリエンタリズムに纏わる作品が並ぶ。
それは27歳でアルジェリアに旅行したことが契機となったものといわれるが、そもそも彼は生まれがカリブ海のイスパニョーラ島で、ナポレオンに従軍して現地に滞在していた父とクレオールの母との混血ということなので、オリエンタリズムは天性のものでもあろう。
だからこの傾向の作品がもっと多いものと期待していたし、実はオリエンタルな舞台での艶めかしいヌードこそがシャセリオー芸術の核心だとさえ思っていたのだが、今回は残念ながらそういう作品はなかった。
それでも、「コンスタンティーヌのユダヤ人女性」(1846-56年 パリ、エティエンヌ・ブレトン・コレクション)は、着衣の胸像ながら異国の女性の魅力が十分に詰まっている。
時間をかけずに早い筆で描かれたらしいカラフルな衣装に包まれて、濃い肌の色をした端正な顔から鋭い視線が発せられている、その目の力は他の誰よりも強いものだった。

hokuto77 at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年03月26日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-3 言葉の魔力

(国立新美術館 〜6/5)
第2室正面の3点は 「言葉の魔力」の三部作と呼ばれ、舞台も アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の出身に近いチェコにフォーカスされていく。

7. クロムニェジージュのヤン・ミリーチ (1916年、620×405cm) は、フス改革の先駆者であった聖職者が、モラヴィアの娼館を修道院に変え、売春婦を悔い改めさせたという事跡を描いている。
それに応じた女たちは白い服に着替えているが、前景の中央にはそうではなさそうな女が一人座っていて、マスクをしているのか猿ぐつわを嵌められているのか、顔の下半分は見えないながらも強い視線をこちらに送っている。
ムハ(ミュシャ)のこの連作には、一人こちらを向いて見る者に訴えかけるような人物が登場することが多く、緊張感を漂わせながら絵の中の世界と我々の世界を繋ぐ役割を果たしているのだが、特にこの女の存在感は突出しており、そして意味が分からない。

9. ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師 (1916年、610×810cm) で ヤン・フスが登場、15世紀初頭に信仰のあるべき姿を考え抜き教会を烈しく非難することとなったこの宗教指導者は、プラハの教会で演壇から身を大きく乗り出して熱心に説教をしている。
そこには王妃ゾフィーもいるのだが、彼女も含めそこに集まってきている聴衆はみな沈痛な面持ちで、必ずしもフスの説教に熱狂しているように見えないのは、ムハの慎み深い性格の故なのだろうか。
果たしてプロテスタント運動の先駆者の言葉は彼らに届いているのか、しかしここでも一人険しい眼をした女が右端にいて、絶対的な権威であったはずのカトリックを批判する場の緊張感が伝わってくる。

10. クジーシュキでの集会 (1916年、620×405cm) は、異端とみなされたフスがコンスタンツ公会議の決定で火刑に処せられた後に、チェコ改革派の指導者となった司祭が説教をしている場面だが、彼は信仰を守るためには武器も必要と説いたことから、赤と白の旗のもとに武器を携えた民衆が集結する図となった。
それは 「言葉の魔力」というより 「言葉の無力」ということではないのかとも思うが、おそらくそれは今だから言えることであって、武力が全てを決する弱肉強食の時代にあっては現実的な選択だったということなのだろう。
中景が光の効果により美しく輝くような作品ではあるが、フスの改革はこのあたりから ”フス戦争” となっていき、夥しい命が失われることになる。

”言葉の魔力” の主役である ヤン・フス(1369 -1415年)が、ジョン・ウィクリフの影響を受けてキリスト教のあるべき姿を人々に説き始めたのは1402年頃とされるが、当初は純粋な信仰の問題としての議論であり、国王の支持の下でカレル大学の学長に任命されるなど比較的平穏裡に推移していた。
しかし、1412年に贖有状を批判するに及び、ローマ教会や帝国にとって看過できない存在となったことから、教会に破門されコンスタンツ公会議を経て1415年に火刑に処された。
これは、ルターが九十五カ条の論題を発表した1517年より100年も前のことなので、そこにボヘミアの先進性やローマとの距離感を見ることもできよう。
火刑にあたっては数々の過酷な仕打ちにも耐えてその信念を曲げず毅然とした態度を取ったことが伝えられ、フスは民族の英雄として今もプラハの市庁舎前広場に銅像が立っている。
しかし、その後に続いた フス戦争は、カトリックによる十字軍侵攻で国土を荒廃させただけでなく、国内的にもフス派、反フス派の対立を激化させることとなった。


>スラヴ叙事詩  1.原風景 2.勢力伸長

hokuto77 at 19:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年03月24日

ティツィアーノとヴェネツィア派展-4 残照

(東京都美術館 〜4/2)
”第3章 ティツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ ― 巨匠たちの競合” の冒頭、「教皇パウルス3世の肖像」(1543年、カポディモンテ美術館)は、ティツィアーノ・ヴェチェッリオという売れっ子画家が、肖像画で媚びることはしなかったということが窺えて興味深いものだった。
頑固な隠居爺いといった感じのその風貌は、ローマ教皇らしい高潔な人物でも栄誉を極めた人物でもなさそうなのだが、ただ世俗的な力は十分に持っていたらしい重みを備えている。
それにしても、完成したこの絵を見た本人は一体どんな反応を見せたのだろう。

マグダラのマリア」(1567年、カポディモンテ美術館)は2010年に来日した作品、口をわずかに開け眼を潤ませた宗教的法悦の表情はティツィアーノの代表作のひとつとしての力を示しているけれど、対抗宗教改革の影響で着衣の姿となってしまったの惜しまれる。
ともあれ、今回はこの2点に「ダナエ」とティツィアーノの真筆3点を出してくれた カポディモンテ美術館の底力を感じさせてくれる展覧会でもあった。(次の機会には是非ブリューゲルをお願いします。)

さて、良くも悪くも ヴェネツィア派を決定づけたティツィアーノの後継として、昨秋の ”ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち” では バッサーノを入れて3人を紹介していたけれど、今回は順当なところに戻ってティントレットとヴェロネーゼだった。
ティントレットの 「レダと白鳥」と並んで印象に残ったのは パオロ・ヴェロネーゼの 「聖家族と聖バルバラ、幼い洗礼者聖ヨハネ」(1562-65年、ウフィツィ美術館)、これは特に時間をかけて取り組んだものだったのか、緊密な構図の中心におかれた短縮法によるイエスが効いているし、聖女バルバラの華麗な衣服の質感も好ましい。
普段はあまり感心させられることのない画家だけれど、ルーブルにある 「カナの婚礼」の大画面を描けたのだから、腕は確かだったということなのだろう。

とはいうものの、やはり ディントレットと同じように何かが足りない感じは残るし、その思いは率直なところ ティツィアーノにも若干あてはまってしまう。
ヴェネツィア派といえば明るく鮮やかな色彩と躍動感が魅力ではあるものの、半面で甘さや饒舌さが気になることがないでもなく、ヨーロッパの大美術館なら時間や体力を考えて足早に通り過ぎてしまうことも多い。
それでも日本に来てくれるのはもちろん有り難いのだが、欲を言えば、ティツィアーノ以降の絵を何十点並べるよりも、ジョルジョーネ、カルパッチョ、そしてクリヴェッリあたりが1点でも含まれているような企画を期待したいと思う。


>ヴェネツィア関連過去記事
ヴェネツィア絵画のきらめき (2007、ザ・ミュージアム):
   ベッリーニ工房の聖母子 ティツィアーノのサロメ ジョルジョーネ?とベッラ
ヴェネツィア展 (2012、江戸東京博物館):
   カルパッチョの「二人の貴婦人」 アドリア海の女王の出自 共和国の繁栄と斜陽、ロンギ
   ベッリーニ、カルパッチョ 雨の夜の奇跡 町の命の長さについて
ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち (2016、国立新美術館):
   クリヴェッリ ベッリーニ ティツィアーノ バッサーノ 肖像、次世代へ
ティツィアーノとヴェネツィア派 (2017、東京都美術館):
   曙光 フローラ ダナエ 残照

>カポディモンテ美術館展 (2010、西洋美術館) 

hokuto77 at 19:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年03月23日

これぞ暁斎! 鴉、象、鬼や遊女にみる画力

(ザ・ミュージアム 〜4/16)
”ゴールドマン コレクション これぞ暁斎!” 展は、”世界が認めたその画力” という副題が示すように、河鍋暁斎(1831-1889)は何を描いても見事に絵にしてしまう上手さがある絵師であり、ユーモアや意外性で見る者を飽きさせないサービス精神も旺盛だったことがよくわかる。
しかし、歌川国芳に入門したあと狩野派でも修業を積み、またほとんどが明治に入ってからの作品ということもあるのか、ひとりの芸術家の作品に向き合ったという実感が得られたかと言えばやや心許ない。

”序章:出会いーゴールドマン コレクションの始まり” で戯画風の動物を見た後の ”第1章:万国飛ー世界を飛び回った鴉たち” は、最も期待していた部分だったのだが、どうも居並ぶ鴉たちに思ったほどの緊張感がない。
それは、ここに出ているのが第二回内国博で妙技二等賞牌を受賞したという 「枯木寒鴉図」ではなく、後にそのイメージを量産した文字通りの ”百枚描き” だからなのだろうか。
簡素な筆による鴉と枯れ木はもちろん素人のレベルのものではなく、日輪を背景に3羽かたまってみたり、鷺とペアになったりといったヴァリエーションも豊富なのだが、どうにも芯になるものが弱いという感じが否めない。
その中では、口を開けて威嚇するように啼く 「柿の枝に鴉」に、この画家の持ち味がよく出ているように思った。

”第2章:躍動するいのちー動物たちの世界”では、薄墨を含ませた太い筆が大きく動いただけのように見える「」が、この特異な外観を持つ動物の質感を意外なほど的確に表現していた。

”第3章:幕末明治ー転換期のざわめきとにぎわい” にあった 「船上の西洋人」は、蒸気船の上に二人の西洋人がいる光景が水彩画のようにさらさらと描かれており、煙突やマスト、シルクハットなどが新しい時代が来たことを伝えていた。
五聖奏楽図」は、十字架上のキリストが扇子を持ち、下にいる釈迦、孔子、老子が三味線、鼓、笛で賑やかに囃し、5人目として神武天皇も登場するという破天荒なものだった。
これは暁斎の宗教観というよりは、明治初期でいろんなことが続いて起こり、天井も底も一気に抜けてしまったような当時の気風を伝えるものなのであろう。

”第4章:戯れるー福と笑いをもたらす守り神” は鍾馗のさまざまな姿を描き出す闊達な筆も面白かったが、その中の春画コーナー ”笑うー人間と性” にあった 「笑絵三幅対」のゆるい感じが出色だった。
細密でリアルな画面に登場するキツネいいけれど、この左幅の手前でちょっかいを出しているネコが絶妙だ。

”第5章:百鬼繚乱ー異界への誘い” は力作揃い、「幽霊図がかくも真に迫り、「地獄太夫と一休では一休を徹底的に笑いのめしながらも地獄模様の打掛や骸骨がここまで上手ければ、敬服するほかはない。
百鬼夜行図屏風」は、想像力あふれるユーモラスな妖怪たちが、六曲一双の屏風上に迷いのない筆でくっきりと描き出されていた。

しかし、最後の ”第6章:祈るー仏と神仙、先人への尊崇” に登場する観音や達磨には戸惑わされた。
暁斎はこうした絵をどのような思いで描いたのか、確かに上手い、人間臭いと思うほど迫真的な表現だともいえるのだが、上手いだけでは ”祈り” や ” 尊崇” の絵にはならない、という思いもまた残った。

hokuto77 at 19:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本絵画(近現代) 

2017年03月21日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-2 勢力伸長

(国立新美術館 〜6/5)
3. スラヴ式典礼の導入 (1912年、610×810cm) は、城の中庭でローマ教皇の使者がモラヴィア王に対し、スラヴ式典礼を公式に認める勅書を読み上げている。
”汝の母国語で主を讃えよ” という副題のつくこの場面は、ローマおよびゲルマン世界にスラヴ民族の存在感を示したものである一方、スラヴの神々を離れキリスト教社会の中で生きていく、という苦難の始まりでもある。
しかし、この時点では西欧文明世界の中に確固たる地位を示したという誇らしいものであったことが、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の描いた晴れやかな情景から伝わってくる。

ここまで、実風景とイリュージョンの合成による30畳に及ぶ巨大画面が3点続いたが、この先は単一の写実的な場面による少し小さめのサイズ(といっても12畳ほどありそうだが)の作品へと移っていく。

4. ブルガリア皇帝シメオン1世 (1923年、405×480cm) は、スラヴ文学の創始者とされる皇帝が、王座の近くに学者を集め、ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳させている様子が描かれる。
文化面でビザンティンに肩を並べるまでになったというブルガリアを賛美する図であろう。

5. ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世 (1924年、405×480cm) は、姪とハンガリー王子ベーラの婚礼の場面を描いたもの、婚姻政策で中欧における足場を固めつつ、スラヴ内外に積極的な外交を展開していたことが分かる。
この王は、ドイツへも勢力を拡大して七選帝侯の地位を得るが、これがボヘミアへの警戒感を呼んでハプスブルク家台頭のきっかけを作ることになる。

6. 東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン (1923年、405×480cm) は、1346年にスラヴ人として初めて東ローマ皇帝となり、スラヴ法典を制定した ステファン・ドゥシャンの戴冠式の場面で、大勢の参列者が集う明るい画面には祝祭的な雰囲気が横溢している。
スラヴ側から見た、ビザンティン帝国の衰退期における一つのエピソードだとはいえ、スラヴ民族が旧来の権威ある地位に上り詰めた、ひとつの絶頂期の記憶ということになるだろう。

ここに挙げた4点は、宗教、文学、外交、政治といった各分野で スラヴ民族がヨーロッパ世界の中に確実に地歩を築いてきたことが紹介されている。
また、ムハの祖国であるチェコ以外のスラヴの国々にも目配りして広くとり上げているが、やや馴染みの薄いこれらのスラヴ系国家は、
 東スラヴ= 旧ソ連西部(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)
 北スラヴ(西スラヴとも)= 旧東欧の北部(チェコ、スロバキア、ポーランド)
 南スラヴ= 旧東欧の南部(ブルガリア、旧ユーゴ諸国)
と大きく分けてとらえることができる。

しかし、この3つのパートが現実にひとつの ”スラヴ” を構成しているとは言い難く、ムハのチェコを含む 北(西)スラヴから見てみれば、ロシア帝国・ソビエト連邦と強大化して周囲を圧した 東スラヴとの間には心理的な距離感が大きく、またバルカン半島を中心とする 南スラヴとはオーストリア、ハンガリー、ルーマニアによって南北に分断されていた。
さらにもう少し時代をさかのぼれば、東欧諸国と呼ばれたこれらの国々は、ブルガリアなどの一部を除き地図上に存在しないも同然で、この地域はハプスブルク(オーストリア=ハンガリー)帝国を中心に、ドイツ、ロシア、トルコといった大帝国がせめぎ合い消長を繰り返していた。
このように、自分たちの確たる領域を持てず、”スラヴ” としての一体感も持ちにくかったという民族の現状をムハが憂いたことが、「スラヴ叙事詩制作の大きな動機となった。

hokuto77 at 19:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年03月19日

パロディ、二重の声-2 晩鐘の預言、地下鉄の薬味

(東京ステーションギャラリー 〜4/16)
今回初めて名前を知ったグラフィックデザイナー 木村恒久(1928-2008)の 「ニューヨークの晩鐘」(1981)は、なかなかショッキングなものだった。
2001.9.11のテロ攻撃で崩壊した世界貿易センタービル(WTC)が、ここでは夕日に照らされてメカニックな外壁をギラリと輝かせて立ち、その前でミレーの 「晩鐘」と同じ農家の夫婦が祈りをささげている。
背後にそそり立つツインタワーは墓標のようであり、合掌する農婦の姿には 20年後の 9.11の悲劇を悼んでいるかのような沈痛さがある。
今となってはやや言いにくいことだが、何の造作もない無機質な外観をもつWTCの2本のビルは、建築物として美しさを感じることができず、ニューヨークの景観を壊していたように思えてならなかった。
木村もそのあたりの違和感を感じていたのか、機能のみを追求した究極の姿に危うさを感じていたのか、ともかくも不吉な予兆を嗅ぎ取る力に敬服だ。

月面条約」(1978)は、でこぼこした月の表面に築かれた万里の長城を挟んで、アメリカとソ連の国旗が向かい合っている。
これはアポロ計画など米ソの宇宙開発競争が激しかった時期のものだが、同じ赤い旗でも今なら米中の縄張り争いのように見えてきてしまうし、それはけっして月世界だけの話ではない。
焦土作戦」(1970)は、コカコーラの瓶が昭和の日本の街並みに焼夷弾のように降り注いでいる。
大阪万博のあった1970年でも、アメリカとの心理的な差はこんなにもあったのかと思う一方で、わが日本におけるアメリカの影響の強さは相変わらずであることにも思い至る。
下の階にあった 木村恒久の作品集には、彼方のキノコ雲をアメリカ人の親子がコカコーラを飲みながら眺めているという図もあった。
過去の話としてはまあ仕方がないけれど、これもまた預言となってしまわないことを祈るばかりだ。

河北秀也(1947年-)という名前も初めて知ったけれど、70年代に次々と登場した 営団地下鉄のマナーポスターはよく覚えている。
マリリン・モンローが傘を持つ 「帰らざる傘」、チャップリン扮するヒトラーが足を広げてシートに座る 「独占者」(1976)、一休さんがホームで得意気な 「このはし通るべからず」などは、今貼り出されても古さを感じさせることはないだろう。
一方、タバコがらみのものは、もちろん作者や作品の側のせいではないけれど、混雑時は遠慮しろ、とか、禁煙タイムを守れ、といった注意喚起に留まっているところに時代の流れを感じる。

同じように河北秀也の作品集を見てみたら、これでも持ち込んだ企画の中では最も無難=つまらないものが選ばれたケースが多かったとのことだ。
周知のオリジナルについてスパイスを利かせたパロディを公共の空間に出すのだから、各方面との調整や承認取り付けのご苦労がしのばれるが、それでも、帝都高速度交通営団というお堅い事業体でこのようなものが実現したことには、あらためて拍手喝采を贈りたい。

hokuto77 at 19:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)掘り出し物など 

2017年03月17日

オルセーのナビ派展-4 ヴュイヤールとボナール

(三菱一号館美術館 〜5/21)
自画像と肖像画が並ぶ ”4.心のうちの言葉” では、エドゥアール・ヴュイヤール八角形の自画像」(1890年頃)が斬新さで光っていた。
出ている点数は多いのにいまひとつ個性のはっきりしない画家という感じがつきまとっていたのだが、ここで一気にナビ派の先頭集団に躍り出たという感じだ。
本作での色使い、振り返る男=画家自身への光の当たり方、その影の部分から発せられる視線の強さは、突然に一体どうしたのかと思うほど尋常ではない。

展覧会チラシに載っていてナビ派の顔かという扱いの ピエール・ボナール格子柄のブラウス」(1892年)は、逆にボナールにしてはさらりと描いて良さが出たようだ。
縦長で平面的なところは日本美術のよう、浮世絵風というよりは竹久夢二を思い出したりしたのだが、夢二はこの時点では8歳なので作品が出てくるのはまだ先だ。
それでも、日本版画に影響されたためなのであろう、左右を切り詰めて画面いっぱいに人物をおいただけでなく、色を混ぜて濁ったり厚ぼったくしてしまわなかったことがよかった。
女の顔や格子柄の服や白いテーブルが、水彩かと思うような軽やかさに保たれたことによって、他のボナール作品とは一線を画す魅力を備えることになったように思う。

この章でも フェリックス・ヴァロットンは独特だ。「自画像」(1897年)は斜に構えた顔を影が覆い、そこから発せられる視線には自信と自負が籠められている。
アレクサンドル・ナタンソンの肖像」(1899年)も、一瞬にしてその人物像が伝わってくるような強い存在感だった。

図らずもこのコーナーは、あくまでも私の主観だが、ヴュイヤールとボナールが名誉挽回し、ヴァロットンとともにナビ派の担い手としての自己主張をしているように感じられたのだが、同時にそこには、ゴーガンやセリュジエからはやや遠いところに来たという印象がないでもない。
果たしてナビ派とは、どの程度まで理念を共通にしグリップが効いた芸術家集団だったのか・・・

ところで、ナビ派の画家たちの生年を見てみると、師匠格の ゴーガンだけは1848年と突出するが、その他は61年の マイヨールと ランソン、63年の セリュジエ、65年の ヴァロットンから70年の ドニまで、ほぼ10年のレンジに入っている。
ところが、同じこの10年の間に、62年 クリムト、63年 ムンク、66年 カンディンスキー、69年 マティスと生まれてきていることを考えると、革新的な芸術家集団だったはずのナビ派の面々が、実は同時代の中ではむしろ保守的な作風を固守していたのではないかという気もしてきた・・・


>マティスとボナール (2008、川村記念美術館) 

hokuto77 at 19:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年03月15日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-1 原風景

(国立新美術館 〜6/5)
長い間 ”幻” の作品だった アルフォンス・ミュシャムハ、1860-1939)の 「スラヴ叙事詩」(1911-1928年)のことは、特に2013年のミュシャ展でその周辺作品を見て以来ずっと気になっていた。
といってもまさか日本に全20点が揃って来てくれるとは思いもしなかっただけに、国立新美術館開館10周年 チェコ文化年事業という ”ミュシャ展” の会場に入ってすぐに巨大な画面が見えて来たときには、唖然として息をのむほかはなかった。

それにしても、予想以上に重量感のある展覧会だった。
それはもちろん、大きなものはタタミ30畳にも及ぶサイズの画面が20枚も並ぶという規模だけをいうのではなく、パリの売れっ子デザイナーがキャリア半ばで故郷に帰り祖国と民族のための作品に後半生を捧げたというひとりの人間の生き様、そして、強い創作力を呼び起こし完成まで導いたスラヴという民族のこれまで積み重ねてきた厳しい歴史の重みが、会場全体を濃密に支配していたからだ。

1. 原故郷のスラヴ民族 (1912年、610×810cm) は、スラヴ民族の祖先が他民族の侵略から身を隠す様子を描く。
鎌を取り落としてうずくまる二人の怯えた目は、遊牧民やゲルマン人たちに圧迫されてきた農耕民族スラヴの民の、これから始まる苦難の歴史を物語っている。
画面右上に見える巨大な神は、本当に無力な民を守ってくれるのか、その右に立つ平和の女神の憂いは深い。
それでも、背後に輝く満天の星が、せめてもの希望ということだろうか。

2. ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭 (1912年、610×810cm) は、今はドイツの北東部に浮かぶ島での収穫祭の様子が画面下に描かれ、見事な群像表現によって素朴な民衆の生きる喜びというものが伝わってくる。
しかしその上部には、狼をけしかける異民族の影が左から現れてきており、1168年のデンマーク侵攻によりこの地を失うことになる運命が暗示されている。
すでに混乱は始まっているらしく、ミューズの慰めもその不吉な流れを押しとどめることはできない・・・

長大な 「スラヴ叙事詩」の冒頭を飾るこの2作品は、キリスト教化されヨーロッパ社会との関係性を深めていく前の、スラヴ民族の前史を描いている。
スラヴの神々の下での大地に根ざした生活、その素朴で活力ある人々の姿をもっと見たかったという気がしないでもないけれど、今は文字を持たなかった時代のそうした原風景が、ともかくも2点の大画面に残されたことに感謝したい。


>ミュシャ展 (2013、六本木ヒルズ)
世紀末パリの夢の請負人 祖国への回帰とモラヴィアの祈り パリとモラヴィア、二人の美女

hokuto77 at 21:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年03月14日

スケーエン、デンマークの芸術家村-1

(西洋美術館 〜5/28)
北海とバルト海を繋ぐ海峡に突き出したユトランド半島最北端の スケーエンは、都会の喧騒を離れた芸術家コロニーである前に、まずは北の厳しい海で働く漁師たちの生活の場であり、しかも目の前の狭く折れ曲がった海峡は航海の難所でもあった。
そこでひとたび海難事故があれば漁師たちが救助に出ることになるのであろう、ミカエル・アンカー(1849年生)の 「奴は岬を回れるだろうか?」(1880)という作品は、悪天候で荒れる海を行く船が岬の先を無事にやり過ごして目指す海に出られるかを、浜に集まった男たちが心配そうに見ている場面の切実さがよく捉えられている。
そして、もし沖の船が波や海流に呑まれたりすれば、「救命胴衣のベルトを締める漁師たち」(1901)や、「ボートを漕ぎ出す漁師たち」(1881)の出番となる、そんな厳しい北の海での暮らしの重みが、この展覧会について事前に想像していたところに反して、まず強く感じられたことだった。

一方、ミカエルの妻 アンナ・アンカー(1859年生)の視点は少し違い、「戸外の説教」(1903)では村の女たちが海岸の斜面に集まってきて坐り、遠くから来たらしい牧師の説教を聞いている場面が描かれている。
青空学級のようなその光景は、宗教的な営みであると同時に日々の厳しくも単調な暮らしの中での貴重なひとときであり、辺境の地に生きる人々の暮らしというものをさまざまに想像させる。
アンナにはもう少し穏やかな作品もあり、「明かりのついたランプの前の若い娘」(1887)はお伽噺の中のシーンのようにメルヘンチック、この地に生まれ育った彼女の、これは理想として夢に見た空間だろうか。
ダンスパーティーのための青いドレスを縫う3 人の老女」(1920)は、明るい光の入る窓辺に集う老女たちが楽しそうで、見る者の心をもほぐしてくれる女性らしい視点の作品だ。

こうした妻の影響を受けたということもあるのだろうか、ミカエル・アンカーの }海辺の散歩」(1896)という作品は、冬の海の漁師たちを厳しいリアリズムで捉えていた作風から一変し、上流階級らしく優雅に着飾った女たちが穏やかな海辺を歩いていく。
明るい光を浴びた薄い色のドレスの女たち、夏ならばデンマーク北端でもこれに近い状況になるのかもしれないが、画面の印象は全く現実感のない ”ありえない光景” であって、その夢幻的な雰囲気もまた、全く予想外のものだった。

hokuto77 at 19:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年03月12日

シャセリオー展-1 泣く娘、木になる女

(西洋美術館 〜5/28)
”時代を駆け抜けた異才” なのか、腕は達者な通俗画家に過ぎないのか・・・
そんな思いとともに会場を巡りながら感じたのは、もしかしたら テオドール・シャセリオー (Theodore Chasseriau 1819-1856) は、ある部分でかなり先駆的な役割を果たした画家だったのではないかということだった。

”1 - アングルのアトリエからイタリア旅行まで” でまず注目したのは 「石碑にすがって泣く娘(思い出)」(1840年 モントリオール美術館)、絵の中の女はタイトル通りの姿で悲嘆にくれ、背後でざわめく木がそのただならぬ気配を伝えている。
こうした表現は、彼の影響を受けたというシャヴァンヌやモロー、またラファエロ前派などにも見られるところで今は特に珍しいものではないが、この作品が描かれた1840年当時、ここまでのストレートさはかなり珍しいものだったのではないか。
19世紀ロマン派を一気に通り越した感もあるこうした絵を、わずか20歳前後で描いたところにシャセリオーの先見性があったかもしれず、同じような悲しみの表現が見られる 「オリーヴ山で祈る天使」(1839-40年 ニュー・ジャージー、プリンストン大学美術館)は、宗教画の習作であるにもかかわらず後の耽美主義を先取りしているようにも思われた。

両手を上に挙げて頭上の木の枝を手折ろうとしている若い母親の足元で小さな男の子が甘えている 「森の中で小枝を手折る女性とその子供」(1840年頃 ルーヴル美術館素描版画部門)は、淡彩と白のハイライトで描かれた情景が、思いがけず幼い頃の記憶を呼び起こすようだった。
西洋絵画における母親と男の子なら、まずは ”聖母子像” でありそれに尽きるような感じもする中で、普通の親子をこんなにも親密に描いた例はちょっと思い当たらない。
そこには、父は外交官として海外にいることが多かったため、ほとんど母のみを頼りに育ったというこの画家の特別な心理が働いているということかと思われる。
ただ、この男の子の右手は、母のスカートの裾を掴むというようなものではなく、襞のかなり奥に深く入って行っていて、もしかしたらとんでもないところまで到達しているのかもしれないのだが、そこにもシャセリオーが描きたいことがあったのだろうか。

”2 - ロマン主義へ─文学と演劇” にあった 「アポロンとダフネ」(1845年 ルーヴル美術館)は、シャセリオー的な官能の絵の典型というべきものだろう。
ひざまづいて女の豊かな腰のあたりを抱きしめようとする男、しかし女は彼の求愛から逃れるように大きく腕を上げ、その美しい裸体の足元はすでに樹木に変わっている。
やや芝居がかったポーズに見える腕も、次の瞬間には木の枝になって葉をつけ、ついにはこの女の全身が木になってしまうのであろう。
美しいその顔からは人間らしい表情が失せかかっているのだが、彼女の一糸まとわぬ裸体はしっとりと柔らかそうで、これが固い樹皮に変わってしまうとはとても思えない、その信じ難いことがこの先に本当に起こるのだと納得してしまいそうなところが、シャセリオーの絵筆の力だ。
このテーマも古来からあるものだけれど、ここまで決定的な場面を活写した作品は、前例がちょっと思い当らない。

”もっと純粋で、もっと完璧な、​もっと明確な画家は他にいた。しかし​テオドール・シャセリオーほど​われわれの心をかき乱した​画家はいなかった” と ゴーティエが言ったとき、どのあたりの作品が彼の念頭にあったのかは分からないが、勝手ながら早くも全面的に賛成だ。

hokuto77 at 19:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年03月10日

能 「三井寺」-3 アイ狂言、その他の雑感

2月24日、国立能楽堂での 「三井寺は、シテの 観世清和、ワキの 森常好はもちろんのことだけれど、アイ狂言で登場した山本東次郎、山本則俊という二人も強く印象に残った。
山本東次郎が演じた清水寺門前の夢合せは、淡々とした口調の中に素朴な人物の善意が感じられ、山本則俊による三井寺の能力は、物狂いの女の扱いに逡巡する様子や鐘の音が彼方へと消えて行く感じが見事だった。

思えばこの曲は、ワキ=三井寺の僧は母親を物狂いの女と決めつけ、悪意はなくとも最終局面までは親子の再会を妨げる役回りを演ずるのに対し、夢占いをして三井寺に行けと背中を押した 清水の男、女人禁制を破ってまで彼女を寺内に入れて鐘を撞くきっかけを与えた 三井寺の能力、という二人とたまたま遭遇したことによって、シテ=母は我が子との再会を果たすことができた。
だから、人との出会いが大切だ、とか、一途な思いがあれば協力者を呼び込むことになる、といった教訓話にしてしまっては底が浅くなるが、運命の歯車が大きく回っていくにあたって、人の縁というものが時に果たす役割の大きさをあらためて感じさせられた。

本曲で三井寺に向かう道中の部分は、昨年の 「能狂言の名人 幽玄の花」 では ”一声一調として披露された場面だったが、同じ 大倉源次郎の小鼓でも、やはり単独で謡に合わせる場面と、笛も大鼓もある通常の舞台ではだいぶ趣が違っていた。
一声一調で ”五色流し” が聞かれた 「乱れ心や狂ふらん」の部分は、本番ではシテではなく地謡だったくらいなのだから、やはり一声一調というのは別に再構成された演目ということなのだろう。

ところで、この母子の出身は 駿河の国 清見の関で、清見寺(きよみでら)の鐘を聴き慣れていた、というくだりがある。
清見寺といえば 白隠禅師の大きな達磨図を蔵する寺で、白隠の 松蔭寺が寂れていたところを末寺として復興させたこともある、臨済宗妙心寺派でかなりの寺格を有する寺だ。
そんな禅宗の名刹が、一体どのような経緯でこの 「三井寺」の中に登場することになったのだろう。
寺のHPには 「平安時代には天台宗の寺院であったと思われます。」とあるので、室町時代にも三井寺との関係が残っていたかとも思われるのだが、何度も固有名詞が出てくるだけに特別の事情があったのではないかと思えてならない。

もうひとつ、本曲でどうしても気になるのが、最後の 「…富貴の家となりにけり、げに有り難き孝行の、威徳ぞめでたかりける」の部分だ。
富貴も孝行も悪いことではないが、これまでの話がこう結ばれてしまっては、取って付けたような唐突さを覚えずにはいられない。
この前で 「鐘故に逢ふ夜なり、嬉しき鐘の声かな」と言っているように、母子が再会を果たせたのは、まずは三井寺の月と鐘のおかげであるし、元を辿れば清水の夢のお告げ、つまりは観音様の霊験でもある。
しかし、人智の及ばないこの二つを一応別格とすると、前述したように門前の夢合せの男、三井寺に招き入れた能力との出会いといった要素も大きいが、それもこれも母の一途な思いがあったればこそのことだ。

”物狂い” となって三井寺に入り込み、制止を振り切って鐘を撞き、古典の知識を駆使して子=仙満丸の注意を引く、そのようにして周囲も巻き込みながら自分で道を切り拓いて目的を達成した母の、我が子を思う強い心に感じ入ったところで、なぜ最後に子の孝行話、出世話として纏められることになってしまったのだろうか。
このあたりに想像を巡らせてみると、もともとは三井寺の鐘を賛美したところで終わっていたか、あるいはもう一歩進めて、子は三井寺の僧として大成し母も近くで幸福に暮らした、といったあたりで締められていたのではないか。
しかしそれでは三井寺以外の寺社の領域ではやりにくく、もしかしたら比叡山の山門派からクレームがついたかもしれず、そんな各方面への配慮もあって終曲部分で三井寺色を薄めたバージョンを作ってみたところ、次第にその無難な方が繰り返し演じられて定着することになった・・・


<能・狂言の過去記事>
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか)  
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

hokuto77 at 22:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年03月08日

ティツィアーノとヴェネツィア派展-3 ダナエ

(東京都美術館 〜4/2)
本展で初来日となった ティツィアーノ・ヴェチェッリオの 「ダナエ」(1544-46年頃、ナポリ、カポディモンテ美術館)は、文句なしの充実した作品だった。
塔に閉じ込められている女に近づきたいユピテルが黄金の雨に姿を変えて部屋に忍び込み、既にその一部は金貨となって女に降り注いできている。
傍らにいたクピドはびっくりして思わず避けようとしているのに、ダナエはベッドに横たわったままで熱いまなざしを送っている。
彼女には何が起こっているのかわかっているし、この瞬間を待っていたのだろう、既に全裸になって、わずかに両足を開き、恍惚の表情でユピテルを受け入れようとしている。

ミケランジェロはこの絵を見て、素描の修練が足りないと言ったと伝えられている。
それがどの部分を指しての発言かはよくわからないが、特に両足の角度には不自然さがあるようであり、実際にどんな姿勢になっているのかは判然としない。
とはいえ、その部分の曖昧さがこの画題に適度の緊張感と奥ゆかしさを与えているのかもしれず、もし解剖学的に正確にデッサンされていたら、もっと即物的な絵になった可能性もある。
だから意図的にこうしたとまでは言えないと思うが、このすぐ後にはクリムトが描いたような官能の時が訪れる、その一瞬前を劇的な場面として表現したところにも、ティツィアーノの深謀遠慮があっただろうか。

すぐ右にあった ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)の 「レダと白鳥」(1551-55年、ウフィツィ美術館)は、白鳥になってレダに迫るというもうひとつのユピテルの求愛物語だ。
華やかな装飾をつけながらも体の方は隠す気配もない、そんな大胆なヌードが大きな画面を斜めに横切り、赤や緑の布も豪奢な華々しい画面、ティントレットのものとしては落ち着いた雰囲気の方だとは思うものの、やはりどこか品が感じられない。
それに、彼女は寄ってくる白鳥にはさほど関心がなさそうで、画面向かって左の方をしきりに警戒している風情だ。
せっかく艶っぽい場面が成立しようとしているのに、ティツィアーノの「ダナエ」とは違って、この後にレダが本当にユピテルを受け入れて愛欲の場面になるのか、どうにも心許ない。

その向かい側、ポリドーロ・ダ・ランチャーノ(帰属)という 「眠るウェヌスのいる風景」(1540年頃、ウフィツィ美術館)は、もうひとつのジョルジョ―ネ亜流作品だ。
ドレスデンにある代表作「眠るヴィーナス」(1510)を踏まえていることは明らかに見えるが、アイテムが増えた分だけ詩情が後退していくのは、この画家の場合はやむを得ないものとしよう。
しかし、ティツィアーノにもそのあたりはよく分かっていたはずなのに、同じジョルジョーネを出発点としたに違いない ウフィツィの 「ウルビーノのヴィーナス」や プラドの 「アモールと音楽にくつろぐヴィーナス」にもそれが当てはまってしまうのは、時代の嗜好ということで理解すべきものだろうか・・・


>ウルビーノのヴィーナス展 (2008、西洋美術館) 

hokuto77 at 19:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年03月06日

マティスとルオー展-4 晩年の聖なる世界

(汐留ミュージアム 〜3/26)
”第4章 『ジャズ』と《聖顔》1945年〜1956年” には、それぞれの到達点と言える作品群が対置されていた。
マティスの 「ジャズ」(1947、宇都宮美術館・うらわ美術館)は、具象がほとんど溶解し抽象へと向かう形の上に、フラットな色彩の饗宴が展開し、連作は音楽的な広がりをもって理屈抜きの快感を呼び興す。
一方、「聖顔」など宗教的な画題や聖なる風景を極めていった ルオーの方は文学的というべきか、重々しい画面が苦悩の向うにある光の確かさを実感させてくれるようだ。

と、馴染みの作品が続いた最終章の最後に、マティスが手がけた南仏 ヴァンスロザリオ礼拝堂の映像展示があった。
青、緑、黄色から成るステンドグラスを透した光が室内にもたらす清澄な色彩、そして簡潔な線描による聖人像・聖母子像に行き着くまでの試行錯誤の過程などを見ていると、これは色も形も「ジャズ」の延長上にあるマティス究極の世界だという思いを強くする。
また同時に、そこは単なる芸術作品に留まらない敬虔な祈りの場、魂を浄化してくれる空間になっていると思うのだが、それにしても一体どのような僥倖で最晩年のマティスがここで腕をふるうことができたのだろう。

そんなことを思うのも、ルオーの手紙の中に、”君の礼拝堂も非の打ちどころがない、それが僕には何より嬉しい” という賛辞があったからだ。
これこそ ”非の打ちどころのない友情の手紙” という感じがするのだが、ルオーにしてみれば、裸婦や南仏風景を描き抽象世界にも足を踏み入れそうなマティスよりも、自分こそがこの仕事に相応しかったとは思わなかっただろうか。
聖書世界に近いところにいて聖なる風景を描き続けてきたのに、最後の最後に礼拝堂という形で出し抜かれてしまったことへのやるせなさや嫉妬心はなかったか・・・

もちろん ルオーはそうした思いを封印できるだけの大人だったであろうし、むしろそんな心の狭いことなど思わずに純粋に友の成功を喜んだに違いない。
しかし、”非の打ちどころがない” と称賛しながらも、ルオー自身は礼拝堂そのものを見てはいない、そのあたりに、この二人の ”友情” が長続きした理由のひとつがあるようにも思われる。
そして、もし ルオーが実際にその空間に立ったとしたら、自分にはこれほど軽やかで透明感のあるものは作れないと思ったかもしれないが、自分だったらどんな礼拝堂にするか思いを巡らせたことだろう。
それが、清春芸術村にある 「ルオー礼拝堂」のようなものだったかどうかは分からないけれど、そのような機会があったならばと思わずにはいられない・・・


ルオーとマティス (2008、汐留ミュージアム)
  ギュスターヴ・モローのアトリエ アトリエのモデル、田園風景 人物像と風景
  サーカス キリスト教的風景 テリアードと”ヴェルヴ”誌、悪の華
マティスとルオー (2017、汐留ミュージアム)
  静物、強く生きる女 風景、アンニュイな女 抵抗と祖国愛の女神 晩年の聖なる世界

hokuto77 at 19:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年03月04日

東日本大震災復興支援チャリティコンサート 2017

東日本大震災復興支援チャリティコンサート 〜クラシック・エイド Vol.7 』を聞いた。
(2017年3月4日(土)14:00、東京オペラシティ・コンサートホール)

<第1部 わたしの夢>―――――
川本嘉子&アンサンブル・リヴィエール
 モーツァルト:ディヴェルティメント ヘ長調 K. 138
林美智子 <Pf:多田聡子>
 ドヴォルザーク:歌劇「ルサルカ」より“月に寄せる歌”
森麻季 <Pf:多田聡子>
 マスカーニ:アヴェ・マリア
松田華音
 ムソルグスキー:古典様式による間奏曲
成田達輝
 パガニーニ:24のカプリース Op. 1より 第1、5、9番
福島県立橘高等学校合唱部 指揮:瓶子美穂子
 群青(作詞・福島県南相馬市立小高中学校平成24年度卒業生/作曲・小田美樹/編曲・信長貴富)
 瑠璃色の地球(作詞・松本隆/作曲・平井夏美/編曲・源田俊一郎)
 信じる(作詞・谷川俊太郎/作曲・松下耕)

<第2部 あなたとわたしの夢>―――――
成田達輝&川本嘉子
 ヘンデル/ハルヴォルセン:パッサカリア
松田華音&カルテット・アマービレ
 シューマン:ピアノ五重奏曲変ホ長調 Op. 44 第4楽章
森麻季&林美智子 <Pf:多田聡子>
 フンパーディンク:歌劇「ヘンゼルとグレーテル」より“夕べの祈り”
舘野泉
 山田耕筰/梶谷修:赤とんぼ
 光永浩一郎:ちきゅうといっしょに
錦織健 <Pf:多田聡子>
 カッチーニ:アヴェ・マリア
 いきものがかり(水野良樹):風が吹いている
林美智子&橘高等学校合唱部 <Pf:多田聡子>
 菅野よう子:花は咲く
(構成:新井鷗子、司会:好本 惠)

今年のコンサートで最も感銘深かったのは、舘野泉氏のピアノによる 「ちきゅうといっしょに」、これは熊本地震に遭遇した作曲家が後にひらめいた楽想に基づき作った合唱曲を、さらに左手用に編曲し今回が初演ということだった。
元の曲がどのような歌詞なのかは分からないが、一歩ずつ着実な歩みを進めていく中でなにか大きなものと出会うような、淡々とした響きが深く心にしみてくる演奏だった。

被災地の高校生たちによる合唱は、相馬市の中学生たちが卒業式にあたって作ったという曲があり、松田聖子の歌った曲や谷川俊太郎の詩による曲もあって、普段のコンサートとは違った感動を与えてくれた。
ただ、幸か不幸かこのホールは響きが良過ぎて歌詞がやや聞き取りにくかったので、せっかくこうしたメッセージ性の高い曲が選ばれていただけに、歌詞が印刷物として配られていたらさらによかったのではないかと思った。

震災から6年が経つことになるが、被災地の復興や被災者の生活再建はまだ道半ばのようだし、特にフクシマ原発の絶望的な状況とそれにも拘わらず全国で進む再稼働への動きなどを聞くと、まだまだ風化させてはいけないという思いを強くする。
その上で、しかしこうしたチャリティーコンサートは率直に言って曲がり角に来ているようでもあり、この先も持続可能であるための工夫もまた求められているような気がした。


>東日本大震災復興支援チャリティコンサート 2012 (1, 2) 2014 2015

>舘野泉コンサート
2012年01月14日 ピアノ・リサイタル 
2013年11月10日 77歳のピアノ協奏曲 

hokuto77 at 23:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年03月03日

パロディ、二重の声〜日本の1970年代前後左右-1

(東京ステーションギャラリー 〜4/16)
右も左もパロディづくし! 機知と批評の技を呼び戻せ” という、やや勇み足気味のキャッチ・コピーの ”パロディ、二重の声 ――日本の一九七〇年代前後左右”展は、70年代を中心に ”パロディ” 文化を振り返るだけでなく、当時の熱気を ”呼び戻す” べきだとの主催者のメッセージが籠められたものだったろうか。
展示されていた多くの作品は、今見れば生硬さを覚えるものもあるけれど、毒を含んだ諷刺の切っ先が鋭い感じがするのは、そこに60年代の挫折を経て権力への向きあい方が変わってきた70年代の空気が反映されているようでもあるからだ。
ストレートな権力批判が挫折した結果 ”ひねり” が求められた、当時はそれが歯がゆく思えたこともないではなかったけれど、結果として表現の世界に新ジャンルを誕生させたと評価されるとしたら、当時の表現者たちはどう思うだろう。

さまざまな 「モナリザ」が並ぶプロローグの先でまず登場する ハイレッド・センターおよび 赤瀬川原平の作品は、やはりこの時代を語る上で欠かせない。
伝説の ”千円札裁判”にも絡んだ 「大日本零円札ポスター」(1967)は、表現というものの領域を一気に拡大し、ここまでやれるのか、と人々に思わせたという点で画期的なものだった。

横尾忠則の作品では、アンリ・ルソーの絵をパロディにしたものが面白く、「森の中の散歩」や 「フットボールをする人々」(1967)などは、もうこのイメージなしにはオリジナルを見ることはできないのではないかと思うくらいの見事な嵌り方だ。
ややどぎつい感じは残るものの、あらためて見ればかなり繊細かつ丁寧に原画を再現しており、それはオリジナルへの敬意もあろうが、ここまでやらないとパロディとして面白くならないということでもあったかと思われた。

今回の企画全般について、おもちゃ箱をひっくり返したような会場にはタイムトリップ感の楽しさもあり、写真撮影が可となっていたのも有難かったが、やはり原則には例外があって、上述の赤瀬川、横尾作品が不可というのはまあやむを得ないところか。
下の階では雑誌の現物を自由に閲覧できるようになっていた中で、閉じたまま展示されていた「朝日ジャーナル」が(夕日はともかく)本物だったのかどうかが気にかかる。
これはまあ一例で、パロディの元となったオリジナルの紹介も丁寧だったけれど、それでもリアルタイムで体験していたかどうかで理解度は異なってくることだろう。

解説パネルが立て看板=タテカン風になっていたのも、いかにもこの時代らしい味わいだったが、単にその形態だけではなく、中身の文体までが当時のキャンパスに溢れていた口調と同じだったのは、根の深いところで共通するものがあったからなのか、などととあらためて思った。


(関連過去記事)
>ハイレッド・センター、 直接行動の軌跡 (2014、松涛美術館) 
>日本の70年代 (2012、埼玉県立近代美術館) 

hokuto77 at 22:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)掘り出し物など 

2017年03月01日

能 「三井寺」-2 物狂いの女の真相

能 「三井寺」の主人公である母は本当に ”物狂い” だったのか、というのが見終わっての率直な疑問だった。

本曲は古来、子別れの狂女物の名曲と言われ、”四番目物、狂女物” に分類されている。
ストーリーの骨子は、母が京都・清水寺で霊夢を占ってもらったところ、わが子に会いたいなら近江国の三井寺へ急いで行け、ということになり、僧たちが月見をしているところに物狂いとなって入っていって鐘を撞くと、その姿を見た子が声をかけて互いに母子だと分かり再会が叶う、というものだ。

しかし、舞台を見た印象で言えば、シテである母はそのほとんどの場面で冷静沈着であり、格調高い雰囲気の中でむしろ気高さの方が勝っていた。
前場の夢占いのやりとりが正気なのは当然としても、”物狂い” として登場した三井寺の場面でもその表現は抑制的なもので、僧たちが月見の余興に面白がるような展開にはならない。
三井寺に向かう場面で、「我は物に狂ふよなう」と言ってるのは、演劇の中での自己紹介の必要性から出た台詞ともいえるが、続けて 「いや我ながら理なり」と自分について客観的に述べていることからも、こう言っている本人は正気だとみるのが自然でもあるだろう。

そうなると、彼女は ”物狂い” などではなく、女人禁制の寺に入り込むための方便としてそのように演技をしたのだと理解した方がいいのではないか。
そう考えた方が、母の子を思う気持ちの強さ、清水での夢のお告げを確信に変えていく行動力といったものがストレートに感じられるように思われる。
もっとも、子と生き別れになった母の切なさとか、子に会えそうだとなったら何でもしてしまう一途さ、そのあたりに普通とは違うものが感じられないわけではなく、それも清水寺での夢のお告げから異常心理に入っていったのだとすれば、憑き物が付いた状態に見えないこともないのだが、それを ”物狂い” と決めつけてしまうのは酷というものであろう。

それよりも、我が子に会えるはずの三井寺は女人禁制であり、”物狂い” を装わなければ入ることはできなかった、まして鐘を撞くことなどありえなかったことを考えれば、これはやはり母の確信犯的な偽装だったということではないか。
そのどこまでが夢のお告げの内容なのかは判然としないが、「桜川」が ”物狂い” としての母をまさにそのように描いていたのとは対照的に、「三井寺」で母が狂っていた(ように見えた)のは、ごく僅かな時間帯だった。

曲の重要な転機となる場面、すなわち鐘を撞くことを制止されたとき、彼女は中国の古詩を持ち出して、詩聖でさえ名月に心狂わせて高楼に登り鐘を撞くというのにましてや狂女の私が、と三井寺の僧を理詰めでやり込めてしまう。
これほどの博識と度胸の持ち主であり、その後も古典に通じたインテリとしてさまざまな詩句を繰り出すなど、曲の佳境では ”物狂い” どころか敬意を表すべき素晴らしい女性へと変貌していく。
最後の方で、目の前の少年が我が子であることが分かった時、母は 「逢ふ時は何しに狂ひ候ふべき」と今は狂っていない旨を語るが、そうした流れの中にもこの女性の深謀遠慮が見えるように思われた。

hokuto77 at 23:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年02月28日

オルセーのナビ派展-3 ヴァロットン、親密さの裏側

(三菱一号館美術館 〜5/21)
”3.親密さの詩情” の ピエール・ボナールベッドでまどろむ女(ものうげな女)」(1899年)は、第2章までのボナールとは別人のように強い絵だった。
ベッドに全裸で横たわり足を大きく広げた女、そこに亡霊のように近づく妖しげな翳、それらがナビ派の理念に合致するのかどうかは分かりかねる荒々しいタッチで描かれ、激しい情事の後の無気力な朝の気配を伝えていた。

フェリックス・ヴァロットンの 「髪を整える女性」(1900年)は、これとは対蹠的に丁寧な筆で、朝の寝室の様子が整然と緻密に描かれている。
そして、化粧箱や時計、脱ぎ散らかした服や乱れたベッドなどの様子が詳細に知らされるのだが、主人公であるはずの女は画面の左端に追いやられ、しかも挙げた腕に隠されて彼女の表情を窺うことはできない。
つまりは髪を整える女が主役といった画面ではなく、一見すると構図がおかしいようにも感じられるけれど、そのことによってボナールと同じように、寝乱れた夜の名残りの朝の無気力な雰囲気を強調しているのではないか。
明るい光と澄んだ空気に包まれた部屋の佇まいが、生々しかった夜の闇をネガのように反転して想起させる・・・

それにしても、ヴァロットンは一筋縄ではいかない。
戸棚に首を突っ込んでいる女の後ろ姿だけを見せている 「室内、戸棚を探る青い服の女性」(1903年)、猫のような腕を持つ女を斜めから見た 「化粧台の前のミシア」(1898年)も、見る者を戸惑わせつつ自分の世界に引きずり込もうと謎をかけているようだ。
その先には 「」、「取り返しのつかないもの」といったパーツを含む版画 「アンティミテ」シリーズ(1897年)の原画が4点あった。
前のヴァロットン展では版画のきっぱりした白黒の世界を楽しませてもらったけれど、白と黒の中間もある原画のドロドロした世界は、ヴァロットンの闇の深さをより一層感じさせてくれるものだった。


>ヴァロットン (2014、三菱一号館美術館)
   冷たいヌードと肖像 日常を逸脱する風景 抑圧と嘘、女性不信の闇
   挑戦的な裸婦図と写実 アンドロメダと世界大戦

hokuto77 at 20:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年02月26日

ティツィアーノとヴェネツィア派展-2 フローラ

(東京都美術館 〜4/2)
初期ヴェネツィア派の作品が並んでいた ”第1章 ヴェネツィア、もう一つのルネサンス” の最後に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオの 「復活のキリスト」(1510-12年頃、ウフィツィ美術館)が出ていた。
しかし、近寄ってキャプションを見るまでは、これがティツィアーノのものとは思わなかったし、キリスト復活の絵だとも分からなかった。
赤い十字の復活の旗を持っているのだが、22歳頃のこの作品は特にデッサンが甘い感じは否めないし、のけぞるような顔は一体どういうことになっているのか、そこにキリストの神々しさは感じられず、しかし色彩と迫力で見せるという意味でのティツィアーノらしさは確かに表れている。

そんなことを思いながら2階に上がり ”第2章 ティツィアーノの時代” に入ると正面には 「フローラ」(1515年頃、ウフィツィ美術館)、これはさすがに名品としてのオーラがあった。
早い筆触が特徴の画家にしてはかなりしっかりと時間をかけて丹念に塗り重ね、輝くばかりの顔や肌、髪や衣の質感が緻密に追究されている。
出世作になるとの予感があったのか、注文主の思いがかなりのものだったのか、いずれにしてもこれは聖書や神話の中の架空の女ではなく、由緒正しい貴婦人の肖像でもないだろう。
この自然体で自由な表情、大きくはだけた胸を見れば、それは娼婦のものである可能性が高そうだが、しかしただモデルとして使っただけではなく、おそらく彼女の面影を永遠のものとしてとどめ自室に飾りたい、そんな貴族の発注があって生まれた作品ということなのではないか。

フランチェスコ・ヴェチェッリオの 「聖家族とマグダラのマリア」(1530年代、キエリカーティ宮絵画館)はティツィアーノの兄の作品とのこと、解説にあるように衣服や布地の質感は傑出しているが、人物は相対的に弱い感じは否めない。
しっかりした腕を持つのに歴史に名を残す画家ないし芸術家にはなれない、そんな世の中の現実を感じながら、”強ければ大関になれる、しかし横綱は宿命だ” という白鳳の言葉を不意に思い出した。

ロレンツォ・ロットの工房による 「聖母子」(1546年頃、キエリカーティ宮絵画館)は、正面向きの聖母マリアが、向かい合う我々には微妙に視線を外して祈りを捧げており、その眼の前には横になって何も知らずに眠りこける幼児イエスがいる。
絵そのものは工房作らしい力の弱いものだけれど、憂愁のマリアに対しこれほど自然体のイエスを組み合わせた聖母子像は珍しいのではないか。
ロットの真筆があるならぜひ見てみたい・・・

hokuto77 at 23:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年02月25日

能 「三井寺」-1 詞章が紡ぎだす月の光

能にもいろいろある、と言えば当然すぎる話かもしれないが、劇的に展開するストーリーに引き込んでいく曲、賑やかな囃子で華麗な舞を見せる曲を、それぞれ演劇的、音楽的と呼べるだろうか。
そんな中で 「三井寺」は、清水寺から園城寺に至る道行きと琵琶湖を望む月の夜の情景を想像させる謡の力が強く、また故事等への言及も多いことから文学的であるし、ヴァーチャルなイメージを眼前に提示するという意味では絵画的な能と言ってもよさそうだ、というのが第一印象だった。
(2017年2月24日、国立能楽堂 観世流 観世 清和ほか)

ワキが登場して 「名を望月の今宵とて… 月の名頼む日影かな」と舞台を設定すれば、橋懸りのシテは 「雪ならば幾度袖を払はまし、花の吹雪と詠じけん志賀の山越うち過ぎて、眺の末は湖の、鳰照る比叡の山高み…」と運命の場所へ急ぐ。
そして、「げにげに今宵は三五夜中の新月の色、二千里の外の故人の心、水の面に照る月なみを数ふれば、秋も最中夜も半ば、所からさへ面白や」と謡うことで、舞台を冴え冴えとした月の光で満たしていく。

やがて物語が進み鐘を撞く段になると、「煩悩の夢を覚ますや、法の声も静かに、まづ初夜の鐘を撞く時は、諸行無常と響くなり、後夜の鐘を撞く時は、是生滅法と響くなり、晨朝の響は、生滅滅已、入相は、寂滅」とたたみかけることによって、厳かな鐘の音が堂宇や背後の山に響き、遮るもののない穏やかな湖面の上をどこまでも広がっていく。
そうした月の光と鐘の音は、「我も五障の雲晴れて、真如の月の影を、眺め居りて明かさん」と厳粛な気持ちを起こさせただけでなく、古来から月や鐘を愛でてきた先人たちの境地へも思いを誘う。

「月落ち鳥鳴いて、霜天に満ちてすさましく、江村の漁火もほのかに、半夜の鐘の響きは、客の船にや通ふらん、蓬窓雨滴りて、馴れし汐路の楫枕、浮き寝ぞ変はるこの海は、波風も静かにて、秋の夜すがら月澄む、三井寺の鐘ぞさやけき」、このあたりの幽玄な感じは、テーマは異なるとはいえ同じ琵琶湖に取材した 「竹生島」での情景描写、「波もうらゝに海の面、霞み渡れる朝ぼらけ、長閑に通ふ舟の道、憂き業となき、心かな」、「魚木に登る氣色あり、月海上に浮かんでは、兎も波を奔るか面白の島の景色や」などの趣きに近い。

ところで、三井寺と言えば琵琶湖を中心とする近江八景の中の 三井晩鐘が当然思い浮かべられるところではあるが、近江八景が選定されたのは本曲の成立より後のことらしい。
それでも今の鑑賞者は、三井寺の鐘から近江八景を思い、さらにその原型である瀟湘八景へと連想は及んで、いつのまにか 煙寺晩鐘や 洞庭秋月の光景を思い浮かべてしまったりもすると思うのだが、それは誤りということになるだろうか。

しかし、そもそも能を観るということは、限られた詞章の言葉を各自の想像力で補いつつ無限の空間に再構築することでもあり、その出来栄えは観る側の資質や準備状況にかなり依存していると言える。
本曲でも、シテが鐘を撞こうとするあたりで繰り出される台詞は、古典に関するかなりの知識が無ければ引用の妙が分からず、面白味が半減せざるを得ないほどに難解だ。
それでも、能は全てを知り尽くした人にのみ開かれていると考えなくてもよいとすれば、それぞれが理解可能な範囲で楽しむほかはなく、その中では先ほどの例のような多少の齟齬があってもおそらくは許されるということになろう。

その上でのことだが、本曲のシテは、本当に ”物狂い” だったのだろうか・・・


余談ながら、今日は太鼓の入らない3人の囃子だったなと思いながら千駄ヶ谷駅に戻ったら、構内に雛人形が飾られていた。
そこで、3段目は ”五人囃子” だったことを思い出し、五人の楽器編成はどうなっているのかと近寄って見てみたところ、左端の太鼓から笛までの4人は能の囃子方と同じような並びとなっており、そして右端の一人は扇子を持っているだけなので、謡の担当ということかと思われる。
和楽器にもいろいろな種類があり編成がある中で、そして上2段とのバランスからは雅楽の楽器の方が収まりがよさそうにも思われるところ、雛祭りの五人囃子が能と同じというのは、いったいどのような影響関係によるものなのだろう。

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2017年02月23日

能 「葵上」-3 加持祈祷の作法と結末

能 「葵上」は、通常は最初に登場して曲の全体に関与することが多いワキの出番が少なく、舞台回しは朱雀帝の臣下であるワキツレとその部下を演ずるアイにより行われる。
また、横川の僧都であるワキをアイが呼びに行って対面する横川での場面は橋掛かりで行われ、ワキは全登場人物の最後に本舞台に入ってきた。

そうした流れの中で特に意外に思えたのは、ワキ = 横川の僧都修験行者のように見えたたことだ。
といっても、結袈裟というのか、丸い大きな房の付いた袈裟を着ているだけでそう判断してはいけないのかもしれないが、イメージとしては吉野山や大峯山の 山伏といった出で立ちであり、また自分から 「役の行者の跡を継ぎ」と言っているので、ここではそのような修験者として位置づけられているのだろう。

源氏物語における 横川の僧都は、浮舟の救済者として最後の方に登場する人物だが、彼の信仰や服装がどのようなものであったかは今はよくわからない。
源信がモデルになっているという説に従えば、「往生要集」を著して浄土思想の基礎を築いた人物で、一般に伝えられる姿は普通の僧形だ。

一方、横川といえば比叡山の奥なので 天台宗の領域であるはずなのだが、祈祷の場面で五大明王を呼び出すところはむしろ 真言密教のイメージが強い。
祈祷の文句で北方を金剛夜叉明王としているところからも、これは東密系の修法と見るべきであろう。
そうなると、ここでは加持祈祷を行った宗派・流儀はあえて特定せずに、いわば祈祷の行のトータルイメージを見せているということになるだろうか。

この 「葵上」では、囃子の方にも通常とは異なる部分があった。
冒頭からワキツレ、ツレ、シテの語りだけで進み、「梓之出」の部分になって初めて聞こえてきた囃子は、笛を含まずに大小の鼓のみで奏され、軽快でリズミカルなものに聞こえた。
それは、霊を呼び出すことを命じられた 照日の巫女(ツレ)が梓の弓を鳴らしている様子を表しているのであろう、特にここではニュアンスの豊かな小鼓と切れ味の鋭い大鼓のアンサンブルが効いていた。

後場では、加持祈祷を表すという 「ノット」が、やはり通常の囃子とは違う独特の雰囲気のものだった。
頭を隠したシテが橋掛かりを滑るように登場し正体を現すこの場面、おそらくは実際の加持祈祷で使われる鉦や太鼓などの音を模倣し、さらには護摩木がパチパチと燃えるイメージなどをも取り込んでいるのかどうか、テンポの速いリズムによって祈りが次第に最高潮に達していく様子が実感されるものだった。

そして、生霊と僧都が対決する場面は太鼓の連打で盛り上がり、息詰まるような決闘シーンが効果的に演出されていた。
般若面となった生霊が小袖=葵上を掴んでどこかへ連れて行こうとする、それを僧都が取り返す、一旦は生霊が力を失って去っていく、しかし一ノ松のあたりで息を吹き返し反撃に転じ再び大立ち回りを演じる・・・
そんな激しい攻防を繰り返したのち、最後には生霊が打ち杖を投げ捨てておとなしくなるのだが、それは、敗れ去ったというよりは自滅した感じであり、むしろ憑き物が落ちて我に返ったような様子を表しているようだった。

この結末は、以前見た 「鉄輪が 「時節を待つべしや、まづこの度は帰るべし」という捨て台詞で終わり、一旦は引き上げるものの怨みは晴らされていないので必ず復讐にやってくると言っていたのとは実に対照的だ。
「鉄輪」では、決定的な別れに至った妻は貴船神社の神託に従い、夫は安倍清明の力を頼ったことから、両者の勝負はつかずに(つけるわけにはいかずに?)終わり、怨恨は残ったままとなった。

しかし、「葵上」における六条御息所の怨恨は、突き詰めれば根拠薄弱で筋違いなものかもしれず、むしろ恥を知る女としては呪い殺したりするより自分自身が納得したかった、自分としても早くそこから脱したいという思いが強かったのであろう
だからこそ、「怨霊この後またも来たるまじ」という形で決着することができ、さらに救いが得られたことに対し 「成仏得脱の、身となり行くぞ有難き」と感謝するに至る、そのように加持祈祷の霊験が最大限に効果を挙げるというストーリーが可能となったのではないか・・・


<能・狂言、過去記事>
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (芸の真髄シリーズ)  
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

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2017年02月21日

春日大社 千年の至宝-3 雅楽と能の継承

(東京国立博物館 〜3/12)
”第4章 奉納された武具” には、刀剣鎧兜が並んでいた。
第2章にあった古神宝の刀や鉾、弓矢は象徴的なものとしての理解が可能だとしても、こちらの方は直接的に実用を目的とした武器類としか言いようがない。
なぜ神社にこうした物騒なものがあるのか、という疑問については以前書いたから繰り返さないが、同じ刃物でも包丁とか斧や鎌の類ならまだしも、刀は人を殺傷する以外の用途が考えられないので、どうしても違和感が残る。

そこへいくと ”第5章 神々に捧げる芸能” の方には平和な営みが感じられて好ましい。
春日大社では特に神事と芸能とが密接不可分なものとして発展・継承され、若宮おん祭は国の重要無形民俗文化財にもなっている。
また、かつては自前の能楽師を多く抱え、参道の影向の松が能舞台の鏡板の老松になったり、薪能という上演形態が今も神事能の性格をよく示すなど、春日大社と猿楽・能楽の関係も深いものがあるようだ。
このあたりが、興福寺に伝わった 南都楽所の 舞楽面伎楽面、金春座に伝来した 能面・装束、日と龍で装飾された巨大な 鼉太鼓(もうひとつは月と鳳凰)の複製などで紹介されており、このところ雅楽や能に触れる機会が増えていただけに興味深く見ることができた。

雅楽装束は 太平楽、崑崙八仙、陵王、納曽利 が出ていて、基調となる色や面の表情で 左方右方の差が大きいことをあらためて感じた。
音が入ればさらに明瞭になるはずなのだが、笙の雅な音が持続し赤や金でゆったりと舞われる左方は、華麗で祝典的な印象が強いのに対し、緑が貴重となり舞の動きも比較的大きくまた早い右方には、デモーニッシュな生命力や翳りが感じられることが多い。
それは、アポロンとディオニューソスになぞらえてみたい気がするほど対称的に思われるのだが、これは単に左方が中国で右方が朝鮮半島をルーツにするというだけでなく、ひとつの舞台で連続して演じられるという形態を前提として、後にそれぞれを性格付けしながら発展させてきたということもあるのではないかと思ったりもした。

”第6章 春日大社の式年造替” には、4つの本殿を護っていた 獅子・狛犬(鎌倉時代13世紀、一部は室町時代16世紀)4対8躯が並んでいた。
そこには、威儀を正し落着きの感じられる第一殿(会場では ”長男” になぞらえていた)から、第四殿にかけて徐々に、上を向く、立ち上がる、駆け出す、といった動きが見えて、長屋のように隣り合った4つの社殿の厳かな均衡を破るような微笑ましさが感じられた。


<関連過去記事>
春日大社 千年の至宝 (2017、東京国立博物館)
  神鹿の集う杜 春日の曼荼羅と神々の姿 雅楽と能の継承
春日の風景 (2011、根津美術館)
  春日宮曼荼羅 春日権現験記絵、興福寺と神鹿
大神社展 (2013、東京国立博物館)
  幽けき謎の女神たち 古神宝と祀り、神社の風景 神社に刀があるということ
  男神・女神像の誕生と発展 神像表現の多様化と大衆化 狩野元信の絵馬を巡って

増上寺の聲明と雅楽
乃木神社管絃祭

hokuto77 at 19:31|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本彫刻 

2017年02月19日

坂田燦の版画でめぐる 「おくのほそ道」展

(松濤美術館 〜3/19、展示替えあり)
”坂田燦(あきら)の版画でめぐる「おくのほそ道」 芭蕉の句の心象世界を表した48点を2期で” という展覧会を見た。
松濤美術館の2階展示室のみを使う(地下1階は公募展)無料の小規模展だが、松尾芭蕉の代表作 「おくのほそ道」を、
 1.禊の旅 (江戸〜白河)
 2.みちのくの歌枕の旅 (〜尿前)
 3.宇宙の旅 (〜市振)
 4.人間界の旅 (〜大垣)
の4つの部分に分けて紙芝居のように説明してくれていたおかげで、久しぶりにその足跡を思いながら全行程を辿り直すことができた。

今年80歳という 坂田燦氏は、山寺での句、閑さや 岩にしみ入る 蝉の声 をきっかけに1990年から 「おくのほそ道」に因む版画の制作を始め、昨年に全48点を纏めて版画集を出版されたとのことだ。
作品そのものの展示は前後期に分かれるが、会場には全貌が分かる周到な印刷物が用意されており、また 五月雨の 降りのこしてや 光堂 で有名な平泉の中尊寺金色堂を題材にした作品の製作過程が分かる展示もあった。

一番驚かされたのは 松島の作品、それは五大堂の辺りや船上から見慣れた海に浮かぶ松島の光景ではなく、かなり上空から俯瞰した風景の手前に大きな鳥が飛んでいるというものだった。
それは、曽良の 松島や 鶴に身をかれ ほととぎす を踏まえてのことらしいのだが、アップになっている鳥はツルでもホトトギスでもなく、遊覧船に乗ると群れてついてくるカモメというところにも意表を突かれた。

その他の作品では、名所旧跡に関する説明的な図柄のものよりも心象風景的な作品が面白く、尾花沢の 涼しさを 我宿にして ねまる也 は、宿に着いて涼風に吹かれひと心地ついている感じがよくわかり、月山の 雲の峯 幾つ崩て 月の山 には、次々と雲の湧く霊山の ”気” が感じられた。
一家に 遊女もねたり 萩と月 と詠まれた市振宿での一晩は、紀行全体の中でも特に芭蕉の人間味あふれる筆致が印象的な部分だが、ここでの遊女の後ろ姿にも翌朝の苦い思いがよく出ていた。

金沢の 塚も動け 我泣声は 秋の風 からは、親しい人を失った慟哭の声が聞こえてくるようで、確かに旅も終盤になっていくと、人との別れや自らの老いへと意識が向いていっていることに、今回あらためて気づかされた。
連作の最後は、「おくのほそ道」の中のものではないが芭蕉最後の句とされる 旅に病で 夢は枯野を かけ廻る、その秋風が吹き過ぎていくような寂しい風景は、同じく最晩年に大阪で詠まれた この道や 行く人なしに 秋の暮 をも思い出させる蕭条としたものだった。

hokuto77 at 21:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本絵画(近現代) 

2017年02月17日

オルセーのナビ派展-2 ドニとマイヨールの女たち

(三菱一号館美術館 〜5/21)
ゴーガンとセリュジエが開拓した ”ナビ派を大衆的・商業的に成功させたのが モーリス・ドニだったと言っていいだろうか。
”2.庭の女性たち” にあった大作 「ミューズたち」(1893年)は、今風の服を着た寡黙な女たちが木立の間に集っている。
それは、普通に考えればパリの公園か邸宅の庭の情景であって、ドニが得意としたギリシャ風の舞台ではないのだが、しかしその実在性の希薄な音のない空間にいるのは、確かに芸術や学術を司るミューズ=ムーサたちといった趣だ。

その他のドニ作品では、12枚組と思われる 「若い娘の寝室装飾のためのパネル」(1891年)の中の2枚(9、10月)は、結婚祝いに相応しいメルヘンチックな世界が広がり、淡い色がいい味を出していた。
また、”愛と純潔の賛美” のために描かれたという 「鳩のいる屏風」(1896年頃)は、4曲の屏風に仕立てられて立体的になった面が、ドニが理想としたであろう夢見るような空間になっていた。

アリスティード・マイヨールの 「女性の横顔」(1896年頃)は、以前から彫刻家として知っていた名前とこの絵の雰囲気が結びつきにくかったのだが、これは確かに ”ナビ派の画家” の作品だ。
ミケランジェロの絵が彫刻的であるのとは対照的に、淡い色彩が支配する平面的・装飾的な画面には奥行きが感じられず、横向きの女性には立体感も量感もない。
しかしそれは、マイヨールがもともとは画家として出発し、目を病んで彫刻に転向したということであれば充分納得できることであり、むしろ彼の彫刻の方が絵画的というべきなのかもしれない。
そんなマイヨールの絵画は、ゴーガン(ゴーギャン)やセリュジエに始まるナビ派の本流ではないかもしれないが、美しさや優しさという点では独特の魅力を持っているので、もう少しこの路線の絵を続けてくれていたらなどと思った。

ここには他に ルーセル、ヴュイヤール、そして ボナールの絵が多く登場していたが、ナビ派=預言者という観点から見るとやや弱い感じは否めない。
それはけっして絵そのものの良し悪しを言っているつもりではないのだが、セリュジエの 「タリスマン」を原点とした前衛的なグループの活動としては、そして ”絵画とは、本質的に、一定の秩序の下に集められた色彩で覆われた平坦な表面である”という理念への貢献度という点で、甘さが残るように思われる・・・

そういえば、本展のチラシには ”はじめまして、ナビ派です。” というキャッチコピーがあり、ナビ派に関する日本で初めての本格的な展覧会と説明されているが、記憶が正しければ1980年代に伊勢丹美術館で ”ポン=タヴェン派とナビ派” という展覧会があった。
ここでも ポン=タヴェンか ポン=タヴァンかが悩ましいが、セリュジエや ドニという名もそこで知ったように思う。
当時の ”ポン=タヴェン派とナビ派” 展がどのくらい ”ナビ派” ならざるものを含んでいたのかは分からないけれど、まあ四半世紀以上も前のことなので、全てが記憶違いかもしれない。


>モーリス・ドニ (2011、損保ジャパン)
   神話的世界と現実世界 家族の肖像から象徴的世界へ
>ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち (2015、汐留ミュージアム)
   ゴーギャン セリュジエ ラコンブ ドニ

hokuto77 at 22:35|PermalinkComments(2)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年02月16日

能 「葵上」-2 生霊自らが求めた救済

能 「葵上」で生霊として登場する 六条御息所は、もともとは身分も教養も高い女性なので、曲の前半では品位を保ち抑制的な人物として描かれている。
しかし、徐々に病に伏せる 葵の上=舞台上の小袖を掴んだり打ち据えようとしたりと激しい気性を見せるようになり、前場の最後には 「なほも思ひは真澄鏡、その面影も恥かしや、枕に立てる破車、うち乗せ隠れ行かうよ」と言って去っていく。

ここは、解説によれば、御息所が葵上の魂を車に乗せて連れて行こうとしているということなのだが、しかし、この時点ではシテ=御息所の生霊は橋掛かりの途中にいて、既に舞台中央の葵上とはかなり離れてしまっていた。
つまり、葵上への攻撃はもっと前に終わっていて、周囲の制止も功を奏したのか多少落ち着きを見せていたところからも、実際に葵上(の魂)を強引に連れていこうとしている場面のようには見えなかった。
そうなると、破れ車に 「うち乗せ隠れ行かう」としている対象は葵上ではなく、また詞章でもこのあたりは自分のことを主に語っているように読めるので、乗せていくのは自分自身の悩める心であって、御息所の生霊が自らの思いとともに去って行こうとしている場面なのではないかと思われた。

後場に入ると、ワキ=横川の僧都による 加持祈祷が中心となる。
この 加持祈祷なるものが実際にはどのように行われるのかが、高校の古文の時間からずっと疑問だったのだが、ここでそれが 五大明王(降三世、軍荼利、大威徳、金剛夜叉、不動明王)の各尊名と、不動明王の真言(ノウマク サンマンダ・・・)を唱えるものだということが分かった。
といってもおそらくこれはエッセンス部分を取り出したものであって、本来の祈祷はもっと複雑かつ長大かと思われるけれど、最後のクライマックスというか決め所はこのようなものなのだろう。

ともあれ、それは導師が依頼人の前で目に見えぬ怨霊に向かって発する言葉であるはずで、その流れでいけば舞台で唱えるのはワキ=横川の僧都かと思いきや、実際にここで主導権をとっていたのはシテ=生霊の方だった。
もっとも最初のきっかけを作っているのは呼ばれてやって来たワキなのだが、その後は数珠を鳴らしてひたすら祈るのみの役回りとなり、五大明王を呼び出す肝心の場面で尊名を唱えていたのは、シテと地謡の掛け合いだ。
こういう場合は、地謡はシテに呼応する心の声のように聞こえるので、シテこそが祈祷場面の主体であり、つまりはワキが生霊と対決しているのではなく、生霊となった御息所自身が自ら救いを求めているようだった。

この部分の詞章を見ると、シテの 「やらやら恐ろしの般若声や」に続き、地謡の 「これまでぞ怨霊この後またも来たるまじ、読誦の声を聞くときは、読誦の声を聞くときは、悪鬼心を和らげ、忍辱慈悲の姿にて、菩薩もここに来迎す、成仏得脱の、身となり行くぞ有難き、身となり行くぞ有難き」で閉じられている。
こうした、最終的には御息所の心が和らぎ成仏するという結末は、生霊の恨みは正当なものか、という前回ふれた思いに対応するものとして、迷える御息所の魂自体が救済を求めた結果辿りついたものとみていいのではないか。

実際に最後の場面の舞は、それまでの戦闘モードから一転して明るくのびやかなものになっていて、吹っ切れたように晴れ晴れとした心の表れと見えた。
六条御息所自身が悩んでいた、それが、いきさつはどうあれ祈祷の力で解決され、迷いの域から脱することができた、本曲はそんな自己浄化の悦びを体現したものであるように思われた。

hokuto77 at 20:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年02月15日

Index Oct.-Dec., 2016

風景との対話 (損保ジャパン日本興亜美術館) 
小田野直武と秋田蘭画 (サントリー美術館) 
円山応挙 (根津美術館) 
篠山紀信 「快楽の館」 (原美術館) 
ゴッホとゴーギャン (東京都美術館) 
アレシンスキー (ザ・ミュージアム) 
デトロイト美術館展 (上野の森美術館)) 
クラーナハ (国立西洋美術館) 
カリエール (損保ジャパン) 
白隠さんと出会う (龍雲寺) 
禅―心をかたちに― (東京国立博物館) 
大仙囘検 塀亳美術館) 
白隠とその会下 (早稲田大学會津八一記念博物館) 
ペール北山の夢 (2016、東京ステーションギャラリー) 
ボルタンスキー さざめく亡霊たち (庭園美術館) 
櫟野寺の大観音とみほとけたち (東京国立博物館) 
願成就院 
ヒエロニムス・ボス紀行 番外

増上寺の聲明と雅楽 
イェルク・デムスと小林研一郎、読響 
イェルク・デムス ピアノ・リサイタル 
ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞 
乃木神社管絃祭 
音楽の花束 芝崎久美子メモリアル 
メータ、ウィーン・フィルの「第九」リハーサル 
西山まりえの歴女楽〜細川ガラシャ 

2016年のベストスリー 

hokuto77 at 22:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)Index 【記事一覧】 

2017年02月14日

マティスとルオー展-3 抵抗と祖国愛の女神

(汐留ミュージアム 〜3/26)
”第3章 出版人テリアードと占領期” では、ナチスによるパリ占領の時期に芸術誌 『ヴェルヴ』を発行し、困難な時代にも関わらず芸術家たちに発表の場を与えた気骨の出版人 テリアードに光があてられる。
ここには ルオーの 「気晴らし」のための原画全15点が展示されていたが、こちらは、同じ連作ながら先の 「悪の華」と比べると、肩に力が入らない自由さが感じられた。
「気晴らし」らしい自発性が強いように見えるのは、ボードレールという名前や文学との関連というプレッシャーがなかったということもあると思うが、アイロニーも程よく含まれた自然体の連作が生まれたのには、テリアードのプロデューサーとしての力も大きかったのだろう。

ここにはルオーとマティスの二人が表紙を描いた 『ヴェルヴ』誌の現物が7冊展示されていて、戦時下のパリにおける芸術の力というようなものを感じさせられた。

マティスの 「ラ・フランス」(1939、ひろしま美術館)、この赤い服を着て肘掛椅子に座る女性を真正面から捉えた絵は馴染みのあるものだが、これがナチスの侵攻に対する抵抗の絵として 『ヴェルヴ』誌に掲載されたものだというのは初めて知った。
率直なところ、この作品がフランスを象徴しているということは万人にすぐ分かるほど明白ではないように思うけれど、この女性が、というよりはこの豊かな色彩が、自由や美、明るさといった価値を体現し、シンメトリーの画面の安定感が、動じない心、不屈の精神といったものを感じさせたのだろうと推測することはできる。
そしてまた率直に、マティスは政治的・社会的なことに関心を向けるタイプの人物ではないような印象があったのだが、しかしナチスの脅威を目の当たりにすればフランスの滅亡すらも覚悟せねばならない、そんな危機的状況の下では芸術一筋ではいられず、祖国への愛を形にしてフランスの理念や歴史に対する誇りを取り戻そうとしたということだったに違いない。

ルオーも、同じ『ヴェルヴ』第8号にジャンヌ・ダルクを題材にした作品を掲載して戦線に加わった。
展示されていた 「聖ジャンヌ・ダルク(古い町外れ)」(1951年 個人蔵(ジョルジュ・ルオー財団協力)はその掲載作品とは違うもののようだが、歴史上の救国の聖女を扱った分だけ、より直截的・具体的に愛国心と抵抗姿勢を示したものと言えるのではないか。
しかし、それならば是非その 『ヴェルヴ』誌に掲載された作品を見てみたいと思うし、第8号の現物がそこにあるのだから、せめて該当ページの写真くらい展示してもよかったのではないか。


ところで、”マティスとルオー展 ―手紙が明かす二人の秘密―” の 手紙の部分だが、展示されているものを見る限り、互いに尊重し合った良い関係が続いていたことは伺えるものの、親密で率直な心の通い合いというよりは、当たり障りのないやりとりを続けていたという印象が強い。
もちろん、そうした節度ある大人の関係だったからこそ、芸術家同士で半世紀も続いたということもあろうが、期待していたほどのドラマティックな展開とか、赤裸々な心情の吐露といったものは見当たらなかった。
そんな中で、ルオーがマティスに ”君の 「黒は色である」 の言葉を出発点にしようと思う” と書き送り、マティスが ”あれほど 「黒」 に巧みな君こそこの展覧会に参加すべきだ” と返すあたりには、この二人ならではの肉声が聞こえるようだった。

hokuto77 at 20:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(現代) 

2017年02月12日

能 「葵上」-1 源氏物語の因縁と怨みの行く末

光源氏の正妻である女性の名を標題に持ち、彼女を呪う六条御息所の生霊がシテとなる 能 「葵上」(あおいのうえ)を見た。(2017年2月11日、国立能楽堂 金剛流 今井 清隆ほか)
源氏物語「葵」の帖の該当場面を普通に考えれば、物の怪となって表れる 六条御息所と、それによって苦しむ 葵上との攻防が見どころとなりそうなところだが、ここでの葵上は病に伏せる姿が舞台に置かれた小袖で表現されるのみなので、それだけでもいかにも能らしい象徴性の高い演出と言える。

舞台に囃子方や地謡が揃ったところで、後見がその小袖を正先に広げて置き、次いで 照日の巫女(ツレ)が無言で入ってきて舞台を横切りワキの位置に坐る。
そのあたりについてももちろん何の説明もなく、そもそも、源氏物語の中における人間関係や、本場面の重要な伏線となっている 「車争い」についても、その経緯が語られるわけでもない。
それでも、「三つの車に法の道」とか、「破れ車に召されたる」といった台詞で車をめぐる因縁を想起させ、朝顔や早蕨といった言葉を散りばめて過去の栄光を語ることによって、源氏の物語世界に徐々に導いていくようになっているわけだが、そのような手法によって見る者にスクリーニングをかけているような感じがしないでもなかった。

ともあれ、話は六条御息所の 生霊の悩める姿を軸に進んでいく。
しかし、源氏の寵愛を奪われ、車の場所取り争いで敗れ、お忍びがばれて恥もかかされ、それに加えて葵上が子を授かって幸せになろうなどとは許せない、という御息所の怨みは、心情としては理解できるとしても、それを葵上個人に向けるというのは正当なものだろうか。
葵上の方に悪意がないのはもちろん、自分でコントロールできる範囲は明らかに超えているし、さらに言えば葵上自身も源氏に本当に愛されていたわけではない。
もっとも結果としては、この後に体調を崩した葵上に対し源氏が初めて心のこもった言葉をかける場面が来るので、御息所の恨みが裏目に出て成就したと言えなくもないのだが、この襲来の時点では、葵上への嫉妬を抑えきれない御息所も、物の怪に苦しむ葵上も、その双方ともにお気の毒だとしか言いようがない。

源氏物語に登場する夥しい女たちは、みなそれぞれに悩み多き人生を歩んでいると言ってもいいと思うけれど、その中でも、物の怪になって害悪をまき散らすのは 六条御息所ただ一人だ。
そして、その人が物語中でも屈指の身分や教養を備えた人物だったところに、時代を超えた作者の人間観察の慧眼を感じないわけにはいかない。
源氏は来てくれない、正妻の出産は近いらしい、それでも賀茂祭でその姿を垣間見ることができれば心を決めて静かに伊勢に下ったものを、不幸な偶然が重なったせいで屈辱を抱え、どうにも気持ちの整理がつかないことになってしまった・・・
それが真っ当な怨みとは言えないとしても、逆恨みというほど不当なわけでもない、そんな鬱屈にどう整理をつけたらいいのか、だから物の怪として呪うことになったけれど、それもけっして本意ではない、そのあたりが、本曲の最後で御息所の生霊が無事成仏できるという意外な結末への伏線ということになるだろうか。

hokuto77 at 21:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年02月10日

オルセーのナビ派展-1 ゴーガンとセリュジエの革命

(三菱一号館美術館 〜5/21)
オルセーのナビ派展:美の預言者たち ―ささやきとざわめき” は、まずその方向性を決めたとされる ”1.ゴーガンの革命” の章から始まる。
ここには先ごろ ゴーガン(ゴーギャン)のベストテンにも選んだ 「《黄色いキリスト》 のある自画像」(1890-91年)が来ていた。
黄色いキリスト像と茶色い顔に挟まれた画家の険しい表情は、信仰と野生の狭間で悩める人間の、のっぴきならない状況をよく表している。眠るような ”信仰” がナイーヴに見えるのに対し、ふてぶてしいほどの ”野生” の方には迷いがない。そんな二つの価値観の中で引き裂かれる人間の、これは普遍的な心象風景なのだろう。
ところで(正確なところは分からないが)この画家は、昔は ゴーガンと呼ばれることが多かったのに最近は ゴーギャンの表記が優勢になってきていたように思うのだが、ここでまた ゴーガンに戻るほど元の発音は微妙なのだろうか・・・

次の部屋には ポール・セリュジエの 「タリスマン (護符)、愛の森を流れるアヴェン川」(1888年)、ナビ派を語るにあたりこの2枚が揃うことの意義はやはり絶大だ。
これまでに何度かふれた作品だが、あらためて少し遠くから見れば、これは紛うかたなき川辺の風景にほかならない。しかしそれはけっして写生画ではなく、近付くにつれて形は溶解し幾つかの色面で構成された絵画になっていく。
ゴーガンの指導のもとに感じるままの色を大胆に置いていったとされるこの作品は、小さいけれどナビ派にとって記念碑的な成果としての地位は揺るがない。しかし、ゴーガン自身はここまで抽象に接近した作品は残さず、この前も後もモノの形に捉われていた、というか、少なくともここまできっぱりと対象から離れることはなかった。

この 「護符」が描かれた1888年といえば、ゴッホの耳切り事件があった年だ。
この年の秋、ゴーガンは セリュジエに啓示を与えた後にゴッホのいるアルルを訪ね、2年後に上記の自画像を描き、そしてタヒチへと旅立っていった。
そうした経緯を考えると、88年の段階でゴーガンの中に ”ナビ派” 的な方向性が確立していたとは言えず、ゴーガンの指導がきっかけだったとはいえ、セリュジエこそが本当の創始者ということになるのではないか。

「護符」の5年後の作品となる セリュジエの 「にわか雨」(1893年)には、街角で雨に降られ傘をさして急ぐ女が描かれている。糸を引くようなその斜線で表現された雨、長い服の裾を翻していく女といったあたりには浮世絵の影響が感じられるが、そこに降っているのはパリの雨ではなく(もちろん江戸の雨でもなく)、ブルターニュの重く冷たい雨だ。
ともあれ、実景を描きながら二次元の平面性が強調されているところはナビ派のエースならではであり、ほぼ同時期にブルターニュの女たちを描いたベルナールが三次元性にこだわりを見せているのとは対照的に、セリュジエにはもう迷いはなかったということなのだろう。


>ゴーギャンとポン=タヴァンの画家たち (2015、汐留ミュージアム)
   ゴーギャン セリュジエ ラコンブ ドニ

hokuto77 at 20:07|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年02月08日

ゴッホとゴーギャン-6 ゴッホ、私のベストテン

(東京都美術館 12/18終了、名古屋へ巡回)
ゴーギャンはほぼ年代順に選んでみたけれど、ヴィンセント・ファン・ゴッホの場合は極めて恣意的なアプローチで行きたい。

私にとってのゴッホは、まずは夜景だ。 
1.夜のカフェテラス (1888年、クレラー=ミュラー美術館)
青と黄の対比が実に鮮やか。眩しい照明が石畳の道にこぼれるカフェテラスは、1日の終わりである夜の時間を楽しく生きることの根源的な意味を教えてくれる。
2.ローヌ川の星月夜(星降る夜) (1888年、オルセー美術館)
こちらはもう少し広々とした場所で川辺から橋を眺めている。月と星と街灯が川面に映り幻想的な光のまたたきとなっている光景はこの世のものとも思えない。
3.星月夜 (1889年、MoMA)
ここに描かれているのは夜空だけではない。地球の、いや宇宙の鼓動と回転が確かな実在感をもって伝わってくる稀有な絵だ。

次はアルルらしい光の充溢する3点。
4.アルルのゴッホの寝室 (1888年、ゴッホ美術館)
パリからアルルに移りゴーギャンを待つ、それはゴッホにとっての人生のピークに向かう時期であり高揚感もあったのだろう。理想を実現しようとする日々、しかし画面は歪んでいる。
5.ラ・クロの収穫 (1888年、ゴッホ美術館)
一見平凡ながら、ここには南仏の眩しい光とともに生きる喜び、充実感がストレートに表現されている。
6.ひまわり (1888年、?)
ゴッホを代表するテーマでありこのリストから外せないが、何点もあるうちのどれがいいのか分からない。見た回数にもよるのかどうか、いつの間にか新宿の高層ビルにある作品が基準になりつつある。

耳切り事件以降、精神を病んで行く時期の作品には一層の深まりが感じられる。
7.刑務所の中庭 (1890年、プーシキン美術館)
狭い空間をひたすら歩く囚人たち、彼らは結局あなたであり私であり、人類の姿でもある。人間の業というものを思わずにはいられない。
8.オーヴェールの教会 (1890年、オルセー美術館)
精神のバランスが崩れていく、その過程がそのまま形になったような作品だ。この時期の作品として、サン=レミの療養院の庭(クレラー=ミュラー)、オーヴェールの家々(ボストン)、オーヴェールの家(フィリップス・コレクション)も甲乙付け難い。
9.鴉の群れ飛ぶ麦畑(烏のいる麦畑) (1890年、ゴッホ美術館)
なんとも壮絶な、ゴッホという魂が辿り着いた究極の世界。

ここまで、伝記もバランスも顧みず ”魂に迫ってくる絵” という視点で9点を選んだ結果、”夜” と ”狂気”、そして1988年に偏ってしまった。
それは承知の上で、最後の1枚はどうしよう。
オランダ時代の「馬鈴薯を食べる人たち」(1885、ゴッホ美術館)、ミレーや浮世絵に取材した作品、パリ時代の明るい風景などもゴッホという画家を語る上で重要なマイルストーンに違いないが、作品としての魅力はやや見劣りがする。
「薔薇」(ワシントンNG)もいいがベストテンには及ばない。
やはり最後は「自画像」だろうか、1点に絞るなら希望に満ち生気あふれる「暗色のフェルト帽を被った自画像」(1887、ゴッホ美術館)になるが、それよりはやはり明るい風景がいい。

10.アルルのはね橋(ラングロワの橋) (1888年、クレラー・ミュラー)
小学生だった私がゴッホといわず西洋美術の中で最初に好きになった絵だということもあるが、何よりもここには希望があり悦びがある。


>ゴッホとゴーギャン (2016、東京都美術館) 
>ゴッホ展 (2010、国立新美術館) 


<ベストテン・シリーズ>
ボスブリューゲルクラーナハレンブラントフェルメールゴーギャンムンク
牧谿宗達白隠蕪村若冲応挙

hokuto77 at 21:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(近代) 

2017年02月06日

願成就院-3 毘沙門天立像、宝物館と古跡

願成就院のご本尊 阿弥陀如来坐像の向って右に立つ 「毘沙門天立像」(国宝、1186年)は、対となる左の 不動明王以上に人間らしい、自然な立ち姿だった。
その姿勢にはまったく無理がなく、意志の強そうな顔つきを見ると、誰かはっきりしたモデルがいる彫刻という感を強くする。
戦闘モードに入っているわけではないが、力を内に秘めた姿勢をとり、口をきりりと結び、眼光は鋭く、どこにもスキがみられない姿でその任に当たっている。
それは鎌倉武士そのものを表現したものか、彼らに受け容れられやすい造形を追究してみたということなのか、いずれにせよ超越した存在ではない極めて人間らしい彫刻として、不動明王とともに 運慶という仏師の特性をよく示すものだろう。

ほぼ同時期ながら若干遅れて制作されたと考えられる 浄楽寺の像を思い出しながら比較してみると、浄楽寺の 不動明王は天地眼や牙上下出を取り入れて伝統的なスタイルに戻り、毘沙門天では右腕右足に決めポーズをとっているような動きがみられるので、やはり ”自然体” こそが願成就院の二像の特色ということになる。
と同時に、肌合いは光沢が感じられるほど実に滑らかで、鎧や甲冑も丁寧に造り込まれており、若い頃の取り組み姿勢がよく分かる作品でもある。

本堂裏手には宝物館があって、毘沙門天と不動明王及び二童子の4体から出てきたという 胎内銘札が展示されていた。
五輪塔型の木片には 運慶と発注者 時政の名があり、文治2年(1186年)という年号も見える。
通常は誰の目に触れることもなく終わってしまいそうなところに、それでも名前とともに制作にかかる記録を残しておいたのも運慶の深謀遠慮だっただろうか。
もしこの銘札がなければ、これらの像が運慶作品と断定されることも、そして国宝指定を受けることも、多分なかった・・・

正面右側には 「北条政子地蔵尊」という像があり、七回忌の供養に三代執権泰時が奉納したといった経緯が説明されていたので、その剃髪された僧形の端正なお顔は、”尼将軍” と呼ばれた政子の風貌を伝えているのだろう。
一方その左の 「北条時政像」は素人くさいユーモラスなものだったが、時政の生前に奉納されたということであれば、鎌倉幕府の礎を築いた人物の豪放な性格をそのままに表しているのだろうか。

ここには周辺を発掘調査した際の記録や埋蔵品の展示があり、本堂右側にあった模型も併せて見ると、この願成就院は 平泉の 毛越寺や 金沢文庫の 称名寺のように、堂前に大きな池の広がる 浄土式庭園を持つ大寺院だったようで、広大な敷地には時政の館や頼朝の館もあったらしい。
その頼朝の館というのはもちろん政子の婿となってからのものだろうが、配流先となっていた蛭ヶ小島も近く、すぐ西側の急峻な山腹には頼朝挙兵の地となった守山八幡宮もあった。

まさに鎌倉幕府のルーツとなった地であるわけだが、それにしても配流になった頼朝を監視すべき立場の 時政が、娘の政子の後を追いかけるように支援する側になった時点で、いったいどこまでの展望があったのだろう。
そして、この5体の仏像を 運慶が引き受けて着手した1186年は、その前年に壇ノ浦の合戦で平家が敗北したとはいえ、未だ頼朝が完全に実権を掌握したとは言い難く、義経が平泉の全面支援を受けたり京の朝廷や寺社勢力が暗躍するといったことがあれば、もう一波乱あった可能性も否定できないだろう。
そんな中で本像の制作に取り組み、新政権のナンバーツーとして幕府の屋台骨を支えた北条時政の信頼を獲得し、奥州征伐後に繁栄する鎌倉のニーズを引き受ける体制をいち早く固めたところにも、希代の天才 運慶の慧眼があった・・・

hokuto77 at 20:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本彫刻 

2017年02月04日

ティツィアーノとヴェネツィア派展-1 曙光

(東京都美術館 〜4/2)
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488-90頃- 1576)を中心に、彼の親方ベッリーニの世代から次の世代までをカバーする展覧会。
一般的にはティツィアーノに代表される明るく大胆な色彩と自由でのびやかな筆触が特徴といわれる ヴェネツィア派だが、昨秋に国立新美術館で開かれた ”ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち” 展 でもそうだったように、そこへ至る道の方が私には面白い。
ヴェネツィアの航空写真と鳥瞰図から始まる ”第1章 ヴェネツィア、もう一つのルネサンス” は、やわらかく弧を描く壁面に、そうした ティツィアーノの色に染まる前のヴァネツィアの絵画が並んでいた。

バルトロメオ・ヴィヴァリーニの 「聖母子」(1465年頃、ヴェネツィア、コッレール美術館)はその中でも特に古風なもので、ビザンチン様式の影響が濃厚な金地の画面はイコンのような厳粛さだ。
そこにいるマリアが憂い顔なのはさほど珍しいことではないが、幼子イエスもここでは憂愁に閉ざされたうつろな表情で立っている。
その小さな足が母マリアの膝をしっかり踏まえず宙に浮いたように見えるのは、意図的なものではないと思うけれどイエスの将来の危うさや儚さを暗示しているように感じられた。

ジョヴァンニ・ベッリーニの 「聖母子(フリッツォーニの聖母)」(1470年頃、同)は、2012年のヴェネツィア展(江戸東京博物館)にも来日したものだろうか、青空をバックに聡明そうな顔を見せているマリアの爽やかさは、周囲にある聖母子像の中でも際立っている。
目が覚めるように明るい画面の中でイエスはちょっとお疲れの気配だけれど、マリアはしっかりとした知的な表情をしており、おそらくは特定の人物を再現したものか、聖書の中の聖母というよりはリアルタイムで実在する女性のように見えた。

しばらく小さめの板絵による聖画が続いた後、 マレスカルコ(本名 ジョヴァンニ・ボンコンシリオ)の 「田園の奏楽」(1520-25年、ヴィチェンツァ、キエリカーティ宮絵画館)にはアルカディアの風景が広がり、3人のミューズがヴィオール、リュート、リコーダーを演奏している。
その穏やかで抒情的な作風は、今回の ”ヴェネツィア派展” におけるジョルジョーネの不在をほんの少しだけ埋め合わせてくれるようだった。


<ヴェネツィア関連過去記事>
ヴェネツィア絵画のきらめき (2007、ザ・ミュージアム):
   ベッリーニ工房の聖母子 ティツィアーノのサロメ ジョルジョーネ?とベッラ
ヴェネツィア展 (2012、江戸東京博物館):
   カルパッチョの「二人の貴婦人」 アドリア海の女王の出自 共和国の繁栄と斜陽、ロンギ
   ベッリーニ、カルパッチョ 雨の夜の奇跡 町の命の長さについて
ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち (2016、国立新美術館):
   クリヴェッリ ベッリーニ ティツィアーノ バッサーノ 肖像、次世代へ

hokuto77 at 20:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年02月02日

岩佐又兵衛と源氏絵-2 源氏の物語世界

(出光美術館 〜2/5)
今回の ”開館50周年記念 岩佐又兵衛と源氏絵― 〈古典〉への挑戦” は、以下のようなの章立てになっていた。
 1.〈古典〉をきわめる ―やまと絵の本流による源氏絵
 2.ひとつの情景に創意をこらす ―又兵衛の源氏絵の新しい試み
 3.さまざまな〈古典〉を描く ―又兵衛の多彩な画業
 4.単一場面から複数場面へ ―又兵衛の〈型〉とその組み合わせ
 5.物語のながめ ―いわゆる54帖屏風にみる〈古典〉と創造
 6.江戸への展開 ―又兵衛が浮世絵師に残したもの

このうち、前回岩佐又兵衛の筆の冴えが楽しめる第2、3章を中心にふれたが、もうひとつのテーマである 源氏物語は、第1章の 土佐光吉筆 「源氏物語画帖(花宴)」(1613頃、京都国立博物館蔵)に始まり、後半に向かって規模が拡大していく。

”4.単一場面から複数場面へ ―又兵衛の〈型〉とその組み合わせ” では、ひとつの情景に創意をこらした又兵衛の持ち味とは逆に、複数の場面をコマ割でひとつの屏風に仕立てたものが工房で量産されたことが示されていた。
確かに、「野々宮図」において 又兵衛がクライマックスをずらして切り取ったシーンは、嵯峨野を訪れた源氏の心象風景としては面白いものになったけれど、六条御息所との対面という 「賢木」の帖の主要場面の説明にはなっていない。
だから工房での仕事として修正が加えられたのもやむを得ないかとは思うが、こうした話の分かりやすさと引き換えに、絵は類型的で平板なものになっていく・・・

思えば 「源氏物語図屏風」は、絵画作品と言うよりはちょっと気の利いたインテリアであって、芸術性よりも説明的・教育的効果の方が求められたのであろう。
その行き着いた先が ”5.物語のながめ ―いわゆる54帖屏風にみる〈古典〉と創造” にあった、全54帖を網羅した伝 土佐光吉岩佐勝友の 「源氏物語図屏風」ということになる。
といっても素養のない者には何が描いてあるのか容易には分からないのだが、今回は各場面を紙芝居のように解説するコーナーがあって、おかげでほとんど頭の中から抜けかけていた物語の流れもある程度呼び戻すことができた。
各帖の説明はコンパクトによくまとまっていて、もちろんもう少し文章があった方がよく繋がったかもしれないが、展示室で立ったまま読み進めるにはこのあたりのボリュームが最適解ということになろう。
こうしたものを早く見ていれば高校の古文ももっと楽しくなったかもしれず、全体が分からないままに細部の文法や主語の探索に辟易していたことを不意に思い出した。

それにしても、源氏物語といえば登場人物が多過ぎて似たようなエピソードが重なり話が錯綜し過ぎている、といったところが率直なイメージだったのだが、実際に54帖の ”挿絵” を見ても似たような場面が多く、そこから大きな流れを感じとることは難しい。
もっとも、これは今でいえば連続ドラマのようなもので、次々と筆写されてくる話を待って読み進める身にとっては、次はどうなるというスリリングさが魅力だったであろうし、書き手もそのあたりを分かっていたからこその展開であったのだろう。

とはいえ、実際に各帖一場面の屏風に向き合ってみて、解説に頼らずにすぐ分かったのは 「5.若紫」の小柴垣、「9.葵」の車争い、「12.須磨」の嵐の場面くらい、それに 宗達の国宝屏風絵のおかげで 「14.澪標」や 「16.関谷」も近しいものになっていたけれど、それ以外の宮廷風景の判別は今の私の手には負えない。
それでも、もしもう一度読み直せば各場面が生き生きと感じられるようになるのではないかとの予感がないことはなく、それはまあ老後の楽しみの一つに取っておくことにしようかと思ったりもした。

hokuto77 at 19:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本絵画(近現代) 

2017年01月31日

クラーナハ展-8 実見作品ベストテン

(国立西洋美術館 1/15終了、大阪に巡回)
日本初の大回顧展が開かれたのを機に、ルカス・クラーナハ (ルーカス・クラナッハ)のベストテンを選んでおきたい。

1.イヴ (アントウェルペン(アントワープ)王立美術館)
クラーナハといえば冷徹な女、妖艶な女が主流を占める中で、何の飾りも付けず透明な布も持たずに、夢見るような表情を見せているこの清純派女性をトップに推したい。

2.ヴィーナス (1532年 シュテーデル美術館、フランクフルト)
この、クラーナハにしか描けない ”裸の貴婦人” には最大限の敬意を表しつつ、それでも一位にすることを躊躇わせるものがどうしてもある。

3.ホロフェルネスの首を持つユディト (1525/30年頃 ウィーン美術史美術館)
絵の出来栄えでは最高傑作とすべきかと思うが、やはり独特の裸婦像こそがクラーナハであって、着衣の美女路線だけならここまでの名を残し得たかどうか・・・

4.正義の寓意(ユスティティア) (1537年 個人蔵)
今回のクラーナハ展までは知らなかった作品だが、間違いなく代表作に加えられるべきものだ。

5.アダムとイヴ (ライプツィヒ美術館)
この二人を描いた図としては、来日していたウィーン美術史美術館の作品も面白かったし、ご本家にはもっと知的なイブもいる。おそらくウフィツィ所蔵作品が最も有名かと思うが、私としては80年代に来日していち早くクラナッハの魅力を教えてくれたこの作品を挙げたい。

6.風景の中のヴィーナス (1529年 ルーヴル美術館)
少女のような顔と妙にリアルな背景が、例のヌードとの間で不協和音を奏でながらもなお魅力的な作品。

7.ルクレティア (1532年 ウィーン造形芸術アカデミー)
2.のヴィーナスより美形で若く健康的なプロポーションを持ち、同情を誘う劇的な場面でもあるのに、クラーナハの持ち味はどうもそこではない・・・

8.ヴィーナスとクピド (1509年 エルミタージュ美術館)
最初期の ”北のヌード” なのでクラーナハらしさはまだ出てきていないが、それでも眼を引きつけてやまない力がある絵だった。

9.不釣り合いなカップル (1530/40年頃 ウィーン美術史美術館)
これはヴァリエーションが多く並べて見ないとどれが決定版かわからないが、クラーナハの発見した貴重な図像には違いない。

10.マルティン・ルターの肖像
これも、どれか1点ではなく作品群として挙げさせてもらう。

次点としては 「若返りの泉」、既視感の強い作品だがベルリンには行っていないので、来日してなければ見たのは工房作か模作かもしれないし、絵として特に優れているというわけではないけれど、こんな伝説をもっともらしく視覚化してくれた功績は小さくないと思う。

以上、できるだけテーマの重複を避けて画業の全体を視野に選んできたが、絵の出来栄えや女性の魅力を優先させるなら、ウィーン美術史美術館とウフィツィ美術館の「アダムとイヴ」をランクインさせたい。
なお、実見する機会があれば上位に入る可能性がある最右翼は、ボルゲーゼ美術館の「ヴィーナスとクピド」


<クラナッハ(クラーナハ)関連記事>
>クラーナハ展 (2016、西洋美術館)
ヴィーナスルクレツィアアダムとイヴユスティティアユディトメランコリー聖母子他
>その他
洗礼者聖ヨハネ、無原罪の御宿りの聖母と幼子イエス (2014、ポルディ・ペッツォーリ美術館展)
聖エウスタキウス (2012、リヒテンシュタイン展)
マルティン・ルターの肖像、ルクレティア (2012、ベルリン国立美術館展)
洗礼者ヨハネの首を持つサロメ、聖人と寄進者のいるキリストの哀悼 (2009、THE ハプスブルク)
ユーディット、バーバラの殉教 (2007、メトロポリタン美術館)
不釣合いなカップル、ルクレツィア、聖ドロテア (2006、ウィーン美術アカデミー名品展)


<ベストテン・シリーズ>
ボスブリューゲルレンブラントフェルメールゴーギャンムンク
牧谿宗達白隠蕪村若冲応挙

hokuto77 at 21:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)西洋絵画(古典) 

2017年01月29日

春日大社 千年の至宝-2 春日の曼荼羅と神々の姿

(東京国立博物館 〜3/12)
”第3章 春日信仰をめぐる美的世界” には、京の貴族たちが現地に赴いて参詣する代わりに拝礼したという 「春日宮曼荼羅が並んでいた。
これは、第1章にあった神鹿ではなく社殿を中心に据えるもので、2011年に根津美術館で開かれた ”春日の風景” 展にも出てきていた 南市町自治会蔵(重文、鎌倉時代・13世紀)が、その中では最大規模で画面も充実した標準作ということになるのだろう。
一の鳥居から参道を進んでいくと4つの本殿が並ぶ神域に達し、その先に神聖なる山や祭神をも感じることができるもので、参拝の代替という目的に合致した鳥瞰図にして概念図といえる。
その他、雲に乗る本地仏の姿が見える 石山寺蔵、興福寺南円堂の不空羂索観音と組み合わされた 徳川美術館蔵、北円堂を含む興福寺全体が下部に表された奈良国立博物館の 「春日社寺曼荼羅」、浄土曼荼羅が上部に広がる 奈良・能満院蔵の 「春日浄土曼荼羅」など、それぞれの世界観を伝える多彩なヴァリエーションが見られた。

第2会場の 「春日権現験記絵」(かすがごんげんげんきえ)には、春日大社の祭神が貴族の姿で登場していた。
徳川美術館本(江戸時代・19世紀 愛知・徳川美術館)は、第四殿に祀られる 比売神が貴女の姿で自宅まで来てくれたり、雲に乗って飛び去って行ったりする優美なもので、確かにこんな神様がいてくれたらと思わせる作品だ。
一方、紀州本(詞書:林康満筆 絵:冷泉為恭ほか、江戸時代・1845年)は 春日明神が束帯の貴人の姿で死後の世界に現れ、閻魔の裁判や地獄の責め苦の様子を案内する様子がリアルに描写されている。
地獄行きを避けたければ親孝行をしろというメッセージは、釜茹でなどの刑の場面が悲惨に描かれているからこそそれなりの説得力を持ったのかもしれず、このあたりの絵巻物は春日の神々が案外近しい存在であることを示すようで興味深かった。

ただ、本章のパネルでは、見えない神を礼拝するための ”形” が求められたことから神仏習合や本地垂迹が進んだ、といったことが説明されていたが、これはやや不正確というかむしろ誤解を招くのではないか。
もっとも、少し先の 「地蔵菩薩立像」(善円作、鎌倉時代・1240年 奈良・薬師寺)は雲に乗って片足を前に出して軽く前傾するという、確かに本地垂迹ということがあっての地蔵の姿だった。
ここには、昨年サントリー美術館の ”水 神秘のかたち”展で見た、室生寺伝来の 「春日龍珠箱」(南北朝時代・14世紀 奈良国立博物館)も出てきていた。
これは八大龍王の仮の姿を外箱、真の姿を内箱に描いて水と龍神の神秘を感じさせる興味深い品だが、2/12までは外箱、2/14からは内箱という分割展示では、その意味するところは伝わらないだろう。
今回の直接の主題ではないとはいえ、相変わらずの無神経な ”展示替え” は残念だった。

その先は 若宮の本地仏である文殊のコーナーとなり、東博所蔵の彫刻が続いていた。
文殊菩薩立像」(鎌倉時代・13世紀)は平常展で何度も見たことがあるものだが、あらためて春日大社の本地仏五尊の一体だと紹介されると、やや見方が変わってくる。
康円作で5軀一具の 「文殊菩薩騎獅像および侍者立像」(興福寺伝来、1273年)も、本館1階彫刻室の突き当りにいたときよりは少々立派に見え、5軀の関係性も緊密なものに感じられた。
それは照明や展示台の効果でもあるし、もちろん文脈ということもあるけれど、本展の絵画・彫刻全体の水準の影響もまた否定できないように思われた・・・

hokuto77 at 20:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本絵画 | 日本彫刻

2017年01月28日

仲道郁代、”磔刑” のソナタ、闘うポロネーズ

国立新美術館 開館10周年記念ウィーク” のイベントとして行われた 仲道郁代 のロビーコンサートを聞いた。(1月27日(金)18:30、国立新美術館)

ドビュッシー: 月の光
ベートーヴェン: 月光ソナタ
シューマン: トロイメライ
リスト: 愛の夢
ショパン: 幻想即興曲
ショパン: ノクターン第20番
ショパン: 英雄ポロネーズ
(アンコール)
エルガー: 愛の挨拶

全体で1時間ほどのコンサートだったが、仲道郁代 さん自身による曲の間の解説が思いのほか深く、あらためていろいろと教えられるところの多いひと時だった。

ベートーヴェンの 「月光ソナタ」については、月光という他人の付けたタイトルとは別に、音型から見ると神や十字架、ゴルゴダの丘への歩みとの関係が考えられるという説明があり、直後の演奏では特に第3楽章の不穏な気配と劇的な展開が、いつもとは全く違うものに聞こえてきた。
また、ホロヴィッツの演奏に感動したという シューマンの 「トロイメライ」や リストの 「愛の夢」では、4度や6度の跳躍が天(天使)やあこがれを意味していることなどが語られた。

ショパンについては、「幻想即興曲」はパリのサロンで注目を集めるために技巧を凝らし、「ノクターン第20番嬰ハ短調」ではウィーンから故郷を懐かしみ、そして儀式で隊列の行進に使われる舞曲のリズムを持つ 「英雄ポロネーズ」は、自分は遠く離れていても故国ポーランドのために戦う人々の戦列に加わるような思いで書いたということだった。
そのおかげで、何度も聴いて耳に慣れていた曲が初めてかと思うくらい新鮮に響き、ショパンの肉声のように切実なものとして感じられた。

美術館の吹き抜けホールというやや騒がしい環境はお気の毒な感じもしたが、そんな悪条件をものともしない、充実した中身の濃い演奏会だった。

hokuto77 at 19:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)音楽の部屋 

2017年01月27日

岩佐又兵衛と源氏絵-1 感情表現の試み

(出光美術館 〜2/5)
開館50周年記念 岩佐又兵衛と源氏絵― 〈古典〉への挑戦” は、この美術館ならではの独特の切り口と丁寧な解説によって、あらためて源氏物語の世界へと誘ってくれる企画だった。
その核となるのは、岩佐又兵衛(1578-1650)が一枚の画面にひとつの情景だけを描いたというところに着目した ”2.ひとつの情景に創意をこらす ―又兵衛の源氏絵の新しい試み” だろう。

源氏物語 野々宮図(岩佐又兵衛筆、17世紀、出光美術館、以下同じ場合は省略)は、”はるけき野辺を分け入り給より”、と源氏が六条御息所のいる野々宮を訪ね、かつての愛人と久しぶりの再会を果たそうとする場面なのだが、しかしそこに高揚感や色艶の香りは感じられない。
くぐろうとする鳥居の幣や足元の秋草は松風になびき、その風は男の心の中をも吹き過ぎているようだ。
心ときめかしたこともあった女なのに今はそれもない、しかし遠くへ行ってしまう前に一度は会わねばならない、それは半ば義務のようなものでもあるのだが、でもそれだけで来たわけではない。
もちろん会いたい気持ちがないわけではないのだが、ではいったい何を話せばいいのか、はたして心が通い合うような会話が成立するのか、そんな思いがここまでの経緯とともに頭の中を駆け巡り、男はしばし立ち止まって静かに心を調えようとしている。

この場面を含む第10帖 「賢木」(さかき)は、普通はこの後の六条御息所との場面が取り上げられることが多いのだが、又兵衛はその少し前の時点に注目し、そこへ向かおうとする源氏の姿のみを描いている。
もう一点、これに連なる場面とされる 「官女観菊図」(山種美術館蔵、写真で展示)は、六条御息所が娘を伴って伊勢に向かう車に乗り込むところだという。
都を離れ二度と戻ってくることはないかもしれない寂しい旅立ち、だがそれは、源氏が既に退出したあとの、本筋ではさほど重視される場面ではない。

ではこの間にある、榊(さかき)を使った六条御息所との邂逅の場面を又兵衛が描くことはなかったのか、という疑問に答えるように、この2枚は、かつては 金谷屏風(金屋屏風)の中に含まれていたという解説パネルがあった。
しかしこの六曲一双屏風のかつての写真を見れば、両端を龍虎図が挟み、「野々宮図」は右から3枚目、「官女観菊図」は左から2枚目が ”居場所” となっていて、その間には伊勢物語や老子の図があるという支離滅裂なものだ。
だから分解して一枚ずつ掛軸にしたというのも暴挙とは言えず、むしろ屏風自体がもともと寄せ集めとして仕立てられた可能性が高いのであれば、又兵衛の「賢木」関係図がこの2枚だけだったかどうかは結局のところよく分からない。

ともあれ、この 「野々宮図」は、クライマックスから少しずらした一場面にフォーカスしたことによって、見る者の想像力を掻き立て余韻を感じさせる作品になったといえるのだが、これは ”能” の手法と似ていないだろうか。
能も、事件の中心場面や経緯をそのまま再現することは稀で、その中の一部をとり上げてふくらませたり後日談という形で回想されることが多いだろう。
又兵衛の 「野々宮図」も、源氏物語の場面を親切に説明したとは言い難いにしても、人間の感情をより細やかに描き出すことには成功した。

もう少し小さな作品になるが、和漢故事説話図(福井県立美術館蔵)の 「須磨」では、荒れる海を前に蕭然と立つ源氏の姿に、不本意な流謫の身の悲哀を滲ませている。
また、秋の野で無邪気に遊ぶ鹿を見遣る 「夕霧」、揺れる小舟で宇治川を渡る 「浮舟」にも、そのときの気持ちに寄り添おうとする視線が感じられた。
これらは、第4章に展示されていた 宗達の 「源氏物語図屏風残闕」が構図の緊密さや色彩の効果で見栄えのするシーンを作り上げたのとは対照的なアプローチで、源氏世界を王朝文学の古典というよりは現在進行形の人間ドラマとして表現したものと言えると思う。

こうした 岩佐又兵衛の持ち味は、源氏物語以外の作品にも見られた。
第3章の 「四季耕作図屏風」ではおどろおどろしい樹木に眼が行きがちだけれど、農作業に勤しむ人々の多様な姿が生き生きと描かれて収穫の喜びなどが感じられ、「瀟湘八景図巻」でも江天暮雪図の場面で驢馬に乗る人物に強力な磁場が発生しているようだった。

伊勢物語 くたかけ図」は、一晩を共にした男が興醒めて早々と女の許を退去しようとするところを、女は ”くたかけ”=鶏が早く啼いたからなのだと思い見送るという場面の図。
そのすれ違う心は何とも情けないものだが、なぜ鶏のせいでこんなことが起きるのか、こうした場面を見るたびに実のところ釈然としなかった。
しかし考えてみれば、当時は鶏の声がその時点での唯一の情報なのであって、今なら時計やテレビやスマホなどで本当の時刻を容易に知ることができるが、昔はそのような再確認のしようもなかったのだろう。
空の明るさだって季節や天気で変わるし、月が出ているとも限らない、寺の鐘の音でも聞こえてくればそこで修正できるだろうが、そうした新しい情報が入ってこない限りは、誤った時間軸の中に居続けるほかはない・・・

hokuto77 at 00:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日本絵画