2017年10月21日

宮内庁楽部 秋季雅楽演奏会、胡徳楽の背景

宮中の儀式や饗宴、園遊会などに登場する 宮内庁式部職楽部による 秋季雅楽演奏会を聞いた。
(10月20日(金)午後2時30分、皇居楽部庁舎)

【管絃】
盤涉調音取、青海波、千秋楽
【舞楽】
陵王 (左方)   
胡徳楽 (右方)   

1時過ぎに大手門に着くと既に長い列、入場券(往復はがきの返信)と本人の確認や手荷物検査の後、皇居東御苑の坂道を上り本丸跡の横の楽部庁舎まで歩く。
古風な建物に入ると中は予想以上に明るい大きな空間で、中央の舞台には太鼓が用意され、砂利敷きの床に簡素な椅子が並べられていた。

前半は楽器のみの 【管絃】、「盤涉調音取」(ばんしきちょうのねとり)に続いて演奏された 「青海波」(せいがいは)は、海の大きな波が寄せては返す感じが音で表現され、波長の大きなうねりを聞いているうちに、ドビュッシーの交響詩 「海」を思い出した。どこがどう似ているとかいうことではなくても、同じものを目指した音楽として共通する何かがあるように思われた。
この曲はまた、源氏物語 「紅葉賀」で、若き源氏が舞を披露する場面として屏風絵などにも取り上げられている。

千秋楽」(せんしゅうらく)は落ち着いた趣の曲で、盤涉調の響きの典型といえそうだ。
四季の中では冬に例えられ、”ただ静かに吹くべし” とされる 盤涉調は、西洋音楽の調性ではロ短調に近く、ロ短調といえばバッハのミサ曲やチャイコフスキーの悲愴交響曲が思い出される。
そういえば 「青海波」はもとは 平調(≒ホ短調)だったものが移調されたということなのだが、両者を聴き比べてみればかなり趣が変わるものなのだろうか。
この曲での 鞨鼓は、「千秋楽」という意識で聞いたからか、枯葉がはらはらと散るような感じを受けた。近頃はリズムセクションをコンピューターの打ち込みにすることが流行っているらしいが、鞨鼓はそうしたことに最もなじまない打楽器の一つに違いない。

後半の 【舞楽】は、左方唐楽は一人舞だったのに対し、右方高麗楽は6人による ”コント” という変則的な演目だった。
陵王」(りょうおう)は、ずしりと腹に響く太鼓のシンプルなリズムで始まる勇壮な舞で、軍を自ら指揮する王の風格というものが伝わってきた。
ただ、舞の動きは長安の洗練というよりは北方民族の感じが強いように思いながら見ていたのだが、これは 北斉の王が 北周との戦いに勝った時の話ということなので、そうした要素も幾分かは入り込んでいるのだろう。
竜頭という面は獰猛なネコ科の獣のようにも思われたが、いずれにしても大陸の風を感じさせる格調高い舞だった。

胡徳楽」(ことくらく)は、4人の舞人のほかに、彼らを客人として接待する主人役の 勧杯(けんぱい)と、給仕をする召使役の 瓶子取(へいしどり)という二人が加わり、滑稽な動きをする 瓶子取が実質的な主役という寸劇風仕立ての演目だった。
まず入ってくる2人の舞人は、赤い顔で鼻の長い天狗のような面をつけていて、微笑んでいるようにも見えるのだが、その鼻は象のように下に垂れている。衣は緑系統の優美なものなのに、この赤い仮面と頭を覆うストライプの頭巾がなんとも異様な感じを醸し出す。
それは遠くからやってくる異民族のイメージなのかもしれないが、宇宙人だといわれてもおかしくないほどの近寄りがたさと妖しさだった。
次いで白い布に図形が描かれた面(「雑面」(ぞうめん)というらしい、「千と千尋の神隠し」にも出てきていた。)をつけた主人がさっそうと現れ、その後ろから黒い面をつけ酒瓶と杯を持った召使がよたよたとついてきたかと思うと、勝手に座り込んで酒を飲み始めてしまう。

残りの2人の舞人が揃って酒宴となり、召使いが一人ずつ盃を渡して酒瓶から酒を注ぐことになるが、皆が妙に遠慮深いのか、召使いが盃を渡そうとすると ”まずはあちらの方からどうぞ” というような仕草をするので、召使いは右往左往するばかりでなかなか宴が進まない。
これでは能率が悪く召使いも気の毒だが、こうした珍妙なやりとりも全くのフィクションということではなく、多分これに近いことは実際にあったのではないか。そこでは年長者や格上の者への敬意が何より大切とされ、上席者が十分に飲むまでは自分が手を付けるわけにはいかない、そんな文化や風習が根強く存在していたからこその演目なのであろう。
かくて、ほとんど召使だけが立ったり座ったりという舞台が進み、なんとか4人目まで飲み終えて全員が退場する時に、ようやく4人そろった舞が見られたけれど、彼らと主人が去った後に1人取り残された召使は、既にかなり酔っ払ってしまいふらふらとした足取りで、観客の笑いの中を去って行った。

美麗な王と酔った召使い、そんな対照的な趣を楽しむ舞台は、能の後に 狂言を見たと思えばいいのかもしれないが、唐楽と 高麗楽が対置されてのこの構成だと、もちろん 左方 (中国・インド系)と 右方 (朝鮮・満州系)というのは日本への伝来後に整理・再構成されたものだとしても、もしかしたら、やや複雑な思いで見る向きもあるのではないか・・・


増上寺の聲明と雅楽 (2016)
乃木神社管絃祭 (2016)
乃木神社管絃祭 (2009)

hokuto77 at 17:02|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年10月18日

正受老人と白隠禅師-5 正受庵と老師の実像

(飯山市美術館 9/10終了)
飯山市美術館特別展 ”この人なくして白隠なし〜正受老人と白隠禅師” を見るのと併せて、正受老人(道鏡慧端)の住まいだった飯山市の 正受庵を訪れた。

坂の途中にある庵の全体構成は、まず ”白隠蹴落とし坂” と呼ばれる参道を上り、左に折れてさらに数段の階段を上った高台に茅葺き屋根の 本堂がある。
縁側のすぐ先には飯山城主から賜ったという滑らかで独特の形をした 水石があり、その先の庭には同じく寺宝の 一位の木(栂)が複雑な枝ぶりを見せている。
本堂の右には 鐘楼、その先の坂を上ると正受の墓である 栽松塔などが並ぶ墓所、その先には本堂よりだいぶ大きく部屋数もありそうな 庫裡があり、最奥部には立派な 禅道場も出来ている。
正受と二世の 宗覚の後は徐々に寂れ、弘化4年(1847年)の善光寺地震による倒壊や廃仏毀釈による廃寺といった試練があったものの、山岡鉄舟らの尽力や正受庵保存会の活動を通して、本堂周りが往年の姿を取り戻すとともに、現役の座禅道場としての役割も担っているようだ。

本堂は、仏間と二つの居室が見えるだけで、その奥には台所や土間などはあるとしても、確かに狭くて簡素な造りだ。
正受一人が起居するにはいいとしても、弟子入りした母がいたり、宗覚が連れてきた 白隠が8カ月も修業していたというのでは、かなり厳しい状況だったのではないか。
ご本尊は釈迦如来か、他に祖師像があり、展覧会に出ていた 「正受老人(道鏡慧端)坐像」(目録番号1、寺瀬黙山作、正受庵)も普段はここに鎮座されているのだろう。
正受老人の風貌について想像をめぐらせた以前の記事ではふれなかったが、これはかなり細長い顔の木像で厳しい表情をしており、正受庵蔵(2、中野不白賛)、永世文庫蔵(3、自画賛)、龍澤寺蔵(4、白隠筆)の三枚の肖像画のどれかに特に似ているという感じはしなかった。
本作は1971年(昭和46年)のものなので、むしろ現代における正受のイメージということになるのか、あるいは別の原型があるのだろうか。

その意味で興味深いのは 庫裡に鎮座していた像で、ここには十一面観音立像のほかに、大小2体の結跏趺坐した僧形の像がある。
その、毅然とした表情の大きい方も、かすかに微笑んだような小さい方も、おそらく 正受老人像ということになるのだろうが、この2体を真ん中に据えてみれば、上記の(1)〜(4)のいずれもがほぼ等距離で関連付けられるような気がしないでもない。
残念ながらそれぞれの由緒来歴などは分からないし、画像も一方がパンフレットで確認できるだけだが、私にとっては最もしっくり感じられる正受老人像だった。


>飯山市美術館特別展 ”この人なくして白隠なし〜正受老人と白隠禅師
1.白隠の師の面影
2.正受の師と弟子たち
3.長野の白隠作品
4.白隠の信濃巡錫
5.正受庵と老師の実像

hokuto77 at 21:45|PermalinkComments(0)旅の記録 | 日本彫刻

2017年10月13日

三沢厚彦 アニマルハウス: 謎の館

(松濤美術館 〜11/26)
後ろ足で立ち上がり前足を前方に突き出すクマ、四足でしっかりと立ち微動だにしないパンダ、かしこまって坐るウサギ・・・
どこかで見たことがあるそんな動物たちにも ”作者” がいたんだ、という当たり前のことにまず気づかされた展覧会だったが、間近で見るとさらに新鮮な驚きがあった。

キリンやイヌ、一角獣やサメまで多岐にわたる動物たちは、つるんとしたおもちゃのようなものかと思い込んでいたのだが、それらはしっかりとした木彫りの像で、基本的に等身大だというだけあってかなりの大きさがあり、しかもその表面には鑿の彫り跡が隙間なく並んでいる。
それは仏像の ”鉈彫り”を思わせるところがあるが、こちらの方が毛並みや体型に忠実に彫り込まれているようで、木の重量感とともに人間の手の業がリアルに感じられてきた。

1961年生まれの 三沢厚彦は、幼い頃から京都や奈良の寺によく訪れていたということなので仏像にも馴染みがあったに違いなく、また若い頃は アール・ヴィヴァンや ディスク・ユニオンに足しげく通っていたというから、アナログ世代でありモノの手触り感にもこだわりを持つタイプなのだろう。
だからなのか、遠目にはポップで現実離れした造形のように見えながら、近付いてみると手仕事の確かな痕跡があり、それが一見すると硬直したようなポーズをとる動物たちに、不思議な生命感を与えているように思われた。

展示は、”アニマルハウス: 謎の館 Animal House: House of Enigmas” と題して、松涛美術館の地下1階を大広間、2階を客間に見立て、それぞれの動物たちも館内にそれぞれの居場所を見つけたというように配置され、思いがけない出会いを演出していた。
さらに、自身は ”謎の館” の主人という設定で、彫刻家の舟越桂、画家の小林正人と杉戸洋、写真家の浅田政志といった面々をその中へと招き入れるという形で、5人の作品が混ざり合った独特の空間が構成されていた。
それによって、ただ動物の彫刻を整然と並べただけでは得られない面白さが生まれたと思うけれど、舟越桂以外は存じ上げない門外漢にとっては、残念ながらどれが誰のなんという作品なのかは分からなかった・・・

舟越桂の作品については、玉眼を使って何故これほどうつろな目になるのかと以前から思っていたが、今回は玉眼ではない 「妻の肖像」(1979-80)や三沢厚彦のアニマルたちの目の方が何かを訴えているように見えただけに、その茫漠さや曖昧さが際立って見えた。
壁面には 三沢厚彦のものらしい絵もあったが、その素朴な力強さには ニコ・ピロスマニの絵に通じるものが感じられた。

それにしても、壁面が大きく彎曲しソファも置かれたこの美術館の広いスペースを生かし、会期中に公開制作も進めていくという企画は、なにやら文化祭的な楽しさもある斬新なものだったと思うけれど、これはリニューアル後の 松涛美術館がさらに新たな領域に入ろうとしているということでもあったのだろうか・・・

hokuto77 at 19:16|PermalinkComments(0)日本彫刻 

2017年10月09日

狩野元信展-2 始祖、狩野正信の実力

(サントリー美術館 〜11/5、展示替えあり)
第2章の中国絵画に続く ”第3章 画体の確立――真・行・草” では、本展の主役である 狩野元信(1477?〜1559)の父で一派の始祖である 狩野正信(1434〜1530)の作品が見られた。

観瀑図」(横川景三賛、室町時代15世紀、栃木・長林寺)は、画面左に険しい岩山が聳え、雲が右上方からその隙間に入り込んできている。そして、水量の豊かな滝が遥かな高みから一直線に落ち、滝壺は波が泡立つように激しく踊っている。
四阿も人物もその存在が霞んでしまうほどの ”水” の底知れぬ力が、幽邃な深山の霊気となって辺りを支配している。

山水図」(室町時代15世紀、個人蔵)は一転して見通しのいい風景で、手前の川に架かる橋や点在する木々から遠くの岩山まで、見事に整理されて秩序立った奥行き感が心地よい。
アイテムの多い画面ながら煩わしさはあまり感じさせず、大きくはない画面の中に山水の全てがあるという印象だ。

芦雁図扇面」(室町時代15世紀、東京国立博物館)は、牧谿の模倣といっていい雁が2羽見えるシンプルな画面で、中国画の学習であり売り物作りの仕事でもあったとは思うけれど、そこに微かな詩情が漂っているところにこの絵師の実力を認めないわけにはいかない。

狩野正信 筆というこの3点、それぞれに見どころがあり、これまであまり注目してこなかったとはいえ、さすがは狩野派の始祖だとあらためて感心もするのだが、これらが全て同じ人物の作品なのかといえば、やや戸惑いを感じなくもない。
特に前二者は、いずれも ”書斎図” という範疇に入るものだと思うが、滝や雲によって水のパワーを象徴的に表現したような 「観瀑図」と、理想郷的な空間の美しさを描いた 「山水図」では、画中の人物の心持ちも随分と違うのではないか。
そして鳥の姿にポエジーを感じさせる 「芦雁図扇面」、これらに加えて展示替えで既に引っ込んでしまった作品もこれから出てくる作品も一度に見ることができれば、狩野正信という画家のことがもっとよく分かるはずなのだが、とりあえずは、禅林の傑作群の精神性には及ばないものの、単なる ”内装屋” ではない画力を持った人物だったと理解しておこうと思う。

hokuto77 at 20:57|PermalinkComments(2)日本絵画 

2017年10月06日

信濃美術館クロージング-2 信州の風景

(長野県信濃美術館 9/30終了)
この9月末で長期閉館となり建て替えられる 長野県信濃美術館の、現建物では最後の展覧会である ”信濃美術館クロージング ネオヴィジョン新たな広がり” は、以下の三部構成になっていた。
【第一部 建築 信濃美術館と林昌二】
【第二部 コレクション 私の、この一点】
【第三部 7人の若手作家】

中央棟奥のスペースを使って本館の建築の特色を紹介していた第一部は前回ふれたとおりだが、第一展示棟を使用した第二部は、長野県信濃美術館のコレクションの中から ”私の、この一点” を募り、その上位24点の作品をコメントとともに展示するというものだった。
”郷土作家の作品、美しい自然に恵まれた信州の風景画を中心” とする当館のコレクション中で、まず旅人の目を引いたのは長野県内各地に取材した風景画だ。

川瀬巴水の 「信州木崎湖」(1941年)は、一見平凡に見える風景の中に、この穏やかな湖を包む空気感がよく捉えられていた。
大糸線沿線にある 木崎湖は、田んぼや民家の先にそのまま続くように周囲に溶け込んでおり、夏には地元の小学生たちが水遊びをするような親しみやすい湖だ。
少し北にある 青木湖が、深い神秘的な青色で近寄り難い雰囲気を湛え、ずいぶん昔の映画のロケで関根恵子がオールヌードで泳いだことで話題になったのとは好対照の性格を持っている。
それでも、北アルプスの峰々が迫る湖畔に吹く清冽な風の印象は、この作品の中の雲と強く響き合うもので、それは本作から40年近く後に私が訪れた時も、そしてたぶん今もそう大きくは変わっていないだろう。

丸山晩霞の 「初夏の志賀高原」(1909頃)は、山々が深い谷を刻みながら塊として連なっているこの高原の景観を大胆に切り取っている。
特に有名な山や湖が見える作品というわけではないが、カーブを曲がるたびに展開していく山並みの際限のなさ、斜面を覆い尽くす緑の旺盛な生命力が、確かな臨場感を持って伝わってくる。
そして、谷底から沸き立ってくる霧を見ながら、いま自分は雲の中に包み込まれようとしているのだと感じた当時の記憶までが甦る・・・

山岳風景には事欠かない信州だが、浅間山は特に画家のインスピレーションに強い刺激を与えたようだ。
小山敬三の 「暮れゆく浅間」(1968)、梅原龍三郎の 「浅間山」(1957)はいずれも、この山が内に持つエネルギーが周囲を圧する勢いで表出していることをありありと感じさせる作品だ。
それはおそらく現在の山の形だけによるものではなく、今なお噴煙を上げる火山への懼れとか、過去に大爆発を起こした記憶とかが作用してのことだろうと思われる。
ともかくも、画面いっぱいにこれだけのパワーを漲らせたくなる山というのも、そう多くはないであろう。

一方、中村琢二の 「伊那谷の春」(1979)は、田植え前の山村を俯瞰した平和な情感あふれる作品だ。
遠くにはまだ雪が残る山並みが見え、木々には新緑が芽吹き、棚田には水が張られて青い空を映している。
そんな風景が素朴なタッチと淡い色で描かれた画面は、”信州の春” どころか ”日本の春” と呼びたくなるほどに郷愁のエッセンスが凝縮されている。
実際にこんな風景を見たことはないし、伊那谷の方には行ったこともないけれど、なぜか懐かしさを感じる作品だった。

hokuto77 at 22:30|PermalinkComments(0)日本絵画(近現代) | 旅の記録

2017年10月05日

西山まりえの歴女楽、アルバ公爵夫人〜スペイン情熱の恋物語

西山まりえの歴女楽 Vol.5 ”アルバ公爵夫人〜スペイン情熱の恋物語”(銀座ぶらっとコンサート)を聞いた。 (10月4日(水)13:30、王子ホール)

D. スカルラッティ: ソナタ K.132 ハ長調 カンタービレ
B. ネブラ: ソナタ第2番 変ロ長調 アダージョ/アレグロ
J. ハイドン: フルート時計のための作品によるアレグレット ト長調
A. ソレル: ファンダンゴ
L. ボッケリーニ: ギター五重奏曲第4番より 序奏とファンダンゴ
(アンコール)
L. ボッケリーニ: マドリードの夜警隊の行進
 西山まりえ(チェンバロ)
 原田 陽、廣海史帆(Vn)、朝吹園子(Va)、懸田貴嗣(Vc)

昨年の ”桃山の美女〜細川ガラシャ”から一転して舞台は18世紀のスペイン、1700年にハプスブルク朝が断絶した後を受けて、フランス王ルイ14世の孫がフェリペ5世として即位、その妻がイタリア人だったこともあって、マドリードの王宮にはフランスやイタリアの風が大きく吹き込んできた。
さらにフェルナンド6世のもとにポルトガルのバルバラ王女が輿入れしてきたことで、彼女の音楽教師としてイタリアからリスボンに来ていた ドメニコ・スカルラッティもマドリードにやってくる。
というわけでまず弾かれた彼の ソナタK.132 はこれまでにも何度か聞いたことのある比較的有名なものだが、今回はそのどれよりもテンポを落としてしみじみと聞かせる演奏で、ソナタというよりは荘重なサラバンドのような趣だった。
続く ネブラソナタ第2番は、スカルラッティほどの洗練はないかわりにスペインの土の香りが漂うよう、しかし低音のオスティナートにのせた高音部の華やかな歌わせ方などは、チェンバロの効果を知り尽くした職人の技という感じがした。

ところで今回の主役の ”アルバ公爵夫人” だが、西山まりえさんも解説の中では ”おんな公爵” と繰り返していたように、”アルバ公爵に嫁いだ夫人” なのではなく、もともとスペイン名門貴族であるアルバ公爵家に生まれ育った女性だったということだ。
だから、落下傘のようなフランス・ブルボン家の王やその周辺との間での鬩ぎ合いもあり、さまざまな軋轢も言うに言えない苦労もあったのだろう。
次の ハイドンは鳥の鳴きまねも入る冗談のような小品、それが取り上げられた理由はアルバ女公爵の夫の肖像画にハイドンの楽譜が描き込まれているからということなのだが、そうなるとスペイン継承戦争では敵方であったオーストリアやイギリスの風までもがそこに吹いているようで、このあたりのコスモポリタンぶりは想像の及ぶ範囲を超えている・・・

アルバ公爵夫人といえば恋多き女として、また ゴヤの 「裸のマハ」と「着衣のマハ」との関係で語られることが多い人物、西山さんのお話もゴドイやペピータにもふれながらその周辺にさまざまな角度から迫ろうとしていたのだが、結局のところは ”永遠の謎” としておくほかはないようだった。
私的なブログなら想像をたくましくして好きなことを書けるけれど、”歴女楽” としては無責任なことを語り散らすわけにもいかなかったかと思われる。

コンサートとしての頂点は ソレルファンダンゴ、”愛と情熱のスペイン” のテーマ曲と言ってもいい熱いエネルギーが迸る曲で、劇的に展開していく中に哀愁が感じられる場面もあり、眩しい光と濃い影が目まぐるしく交代する。
この曲自体はもちろん普遍的な内容の曲だと思うけれど、この日に限っては、王家を敵にまわしながら数々の男を誘惑したというアルバ女公爵の波乱万丈の人生に重ねて聞いてみてもいいのだろう。

最後の ボッケリーニギター五重奏曲は、ファンダンゴ対決というか聴き比べという趣向だったようなのだが、弦楽四重奏が入り厚みは増したものの曲そのものの魅力はソレルに遠く及ばず、グリッサンドやハーモニクス、果てはカスタネットまで登場して目先を変えてみても、音楽としての内容の薄さは覆うべくもない。
もちろん演奏が悪かったわけではなく、聞く機会のない曲に取り組んでくれたところには敬意を表したいと思っていたところ、アンコールの 「マドリードの夜警隊の行進」は愉悦に満ちた楽しいひと時だった。
もっとも曲自体は同じようにシンプルなものだが、夜のマドリッドを監視する自警団が遠くから誇らしげに近付いてきて、賑々しく通り過ぎるとやがて遠ざかっていく様子がよくわかる曲で、マヨール広場あたりのバルでサングリアを飲み、アヒージョやオムレツを食べて過ごすマドリッドの夜の華やぎが目に浮かぶようだった。


ルネサンス・フルートによる「バベルの塔」展コンサート (2017)
西山まりえの歴女楽、桃山の美女〜細川ガラシャ (2016)
アントネッロによるカラヴァッジョの時代の音楽 (2016)
西山まりえが歌う ”中世貴婦人たちの恋模様” (2013)
没後400年、スペインの光の中のビクトリア (2011)
ブリューゲル・コンサート、絵の中の楽器たち (2010)
アンサンブル・エクレジアの ”サンティアゴ巡礼の歌” (2009)
アントネッロ レオナルド・ダヴィンチ 音楽の謎解き (2009)
ラウダ・スピリチュアーレ、中世イタリアの賛美歌 (2007)
>支倉常長と音楽の旅 (2007) 
>天正少年使節と音楽の旅 (2006) 

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2017年10月03日

ボストン美術館の至宝-4 モネ、ゴッホ、ホックニー

(東京都美術館 〜10/9)
”I 異国を旅したボストニアンたち”が集めたエジプト、中国、日本美術のコーナーを抜けて2階に上がると、”II 「グランド・ツアー」─ヨーロッパ美術を集めたボストニアンたち” の ”4 フランス絵画” で馴染みの西洋絵画に出会う。
今までにいくつの ”ボストン美術館展” を見たかわからないし、それ以外の展覧会にも快く出品されてきたボストン所蔵作品は数え切れず、ミレー、コロー、ブーダン、シスレー、ピサロ、モネと続くあたりは既視感も強い。
そんな中で、コローの 「ボーヴェ近郊の朝」(1855 – 65年頃)は淡い緑色に包まれた農村の穏やかな光景が美しく、あらためて私の前世はコローの絵の中の少年であったという確信を強くした。
ピサロの 「ポントワーズ、道を照らす陽光」(1874年)も、緑が爽やかな好感の持てる絵だった。
4点あった モネでは 「アンティーブ、午後の効果」(1888)、強い午後の陽射しを浴びて輝く街並みと白い雪の峰を見ていると、この景色を目の当たりにして言葉を飲み込んでいる画家の感動が伝わってくるようだった。

フィンセント・ファン・ゴッホの 「郵便配達人ジョゼフ・ルーラン」(1888年)と 「子守唄、ゆりかごを揺らすオーギュスティーヌ・ルーラン夫人」(1889年)は、2点揃って日本で展示されるのは初めてということでチラシの中心に載っていたものだ。
描かれているのは慣れない土地で特別な年を過ごしたゴッホの暮らしを豊かなものにした夫妻で、確かにそれは不思議な力を持った絵ではあるけれど、当時はまだ巨匠でもなんでもない風変わりな画家の平均的な作品であり、それまでの肖像画という常識的な範囲から大きく逸脱するものと言わざるを得ず、当人たちは実のところかなり当惑したのではないか。
もし何らかの伝手があるならば、あの画家はその後ずいぶんと有名になって、あなた方もいま日本で大変な話題になっていますよ、と教えて差し上げたい・・・

”III アメリカン・ドリーム─自国の美術を収集するボストニアンたち” の ”5 アメリカ絵画” は、ボストンMFAとしての意義は認めつつも展示としてはあまり面白いものではなかった。
ただし、ワシントン・オールストンの 「月光」(1819年)は月明かりに浮かび上がる人影が鮮やかで、彼の地では月の光がこんなに明るいのか、大気の含有水蒸気量や地面の乾き具合が違うとこういうことになるのか、などと思ったりした。

3階に上がると ”IV 同時代の美術へ─未来に向かう美術館” となり、”6 版画・写真” と ”7 現代美術” でエジプトからの長い旅が終わる。
デイヴィッド・ホックニーの 「ギャロービー・ヒル」(1998年)は、この最後の部屋に入って目に飛び込んできた時にはデジタルアートかネオンサインのようにきっちりと描かれた画面かと思ったのだが、近づけば子供の絵のように粗雑な線と塗りに思わず目を疑った。
しかしそれでも不思議な力強さがあり、画家のこの土地への愛もよく分かる作品だった。

hokuto77 at 20:05|PermalinkComments(0)西洋絵画(近代) | 西洋絵画(現代)

2017年10月01日

狩野元信展-1 手本としての中国絵画

(サントリー美術館 〜11/5、展示替えあり)
狩野派の2代目 狩野元信(1477?〜1559)を ”天下を治めた絵師” としてフィーチャーする展覧会だが、まずは ”第2章 名家に倣う――人々が憧れた巨匠たち” に出てきていた中国絵画から。

伝 牧谿猿猴図」(南宋〜元時代 13世紀、個人蔵)は、牧谿の傑作 「観音猿鶴図」で樹上に坐る猿とは対照的に、片手でゆらりとぶら下がる躍動的な猿で、静謐さの代わりに軽みや親しみやすさが前に出てきている。
それでも、体を包む毛の感じや硬い爪、簡略化された顔は 牧谿を強く感させるもので、長谷川等伯が学び襖絵にも多く描いた ”牧谿猿” の原型のようでもある。
一方、たたまれた足などはあまり突き詰められた感じがしないので、いくつかのポーズを試した習作的なものかと思うが、おそらくは別の人物が下方に水辺の風景を描き加えたことでおかしなことになってしまった。
しかし、「猿猴」の図としては 牧谿のものとみることに無理はないように思うし、もしそうでないとしても等伯並みの腕を持つ追随者の作品ということになるのではないか。

狩野元信の業績のひとつに、中国絵画の ”筆様” を整理・発展させ、真体・行体・草体という三種の ”画体” を生み出したことが挙げられている。
これは、寺院の障壁画など格式の高い公的な場面には 真体を、そして茶室やプライベートな空間には 行体や 草体をといった具合に作品のタイプを標準化するとともに、そうした ”型” を弟子たちに学ばせることで工房としての共同作業をやりやすくしたという効果があり、後の狩野派の発展に大きく寄与したと考えられている。
その前段階として、手本となる中国絵画を 馬遠、夏珪は真体、牧谿は行体、玉澗は草体というように分類して学習の対象としたということがあったようだ。

その 馬遠筆、楊后賛 「清凉法眼禅師・雲門大師図」(南宋時代 13世紀、京都・天龍寺)の二幅は、確かに楷書のようにかっちりとした筆の運びで、真体としての厳格さが感じられる。
これに対し、この2点を含めて全5幅で一具を構成するとされる中のもう1点である 「洞山渡水図」(南宋時代 13世紀、東京国立博物館)の方は、行体らしい流麗で自由度の高い描きぶりだ。
だから 馬遠のものとしては ”伝” がついてしまうのか、絵としての情趣は別にあるとしても、確かにそこでの筆の動きや取組姿勢には大きな違いがあるようだった。

その少し先にあった 沈恢(しんかい)筆 「雪中花鳥図」(明時代 15世紀、泉屋博古館)は、明時代らしく緻密に描き込まれた彩色の大画面で、その華麗さが見る者の目を奪うところは、これまでみてきた南宋絵画とは大きく趣を異にする。
もちろん好みの違いがあり、どこに何のために描く絵かということもあるわけだが、どうやらこちらの路線の方がその後の狩野派の手本となっていったように思われた。

hokuto77 at 19:22|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2017年09月30日

正受老人と白隠禅師-4 白隠の信濃巡錫

(飯山市美術館 9/10終了)
これまでに 白隠慧鶴ゆかりの 松蔭寺、龍澤寺を訪れ、所蔵の多い 永青文庫や 早稲田大学(旧富岡コレクション)、世田谷龍雲寺の所蔵品を含む展覧会でも多くの作品に接してほぼ満足していたのに、長野県内各地の、失礼ながら名前も知らなかった寺にこれだけの遺品があることを知り、あらためて 白隠という禅僧の存在の大きさを思い知ることになった。

出展作品の大部分は、正受庵のある新潟に近い北信濃ではなく、南信と呼ばれる 伊那谷・木曽谷の諸寺のもので、その大部分は1757年(宝暦7年)に行われた白隠の信濃巡錫の時のものと考えられていることから、これらは1回のツアーでの立ち寄り先に残されたものだということになる。
時に白隠73歳、静岡から比較的近いとはいえ山また山の道中を踏破し、訪問先では 「仏祖三経会」(上伊那・西岸寺)や 「法華会」(木曽・興禪寺)などが開かれ、そうした法要のお勤めはもちろんのこと、行く先々で講話や座禅会などがあり、有力者の接待やもっと世俗的な用事もなどもあったであろう中で描かれたと考えれば、驚異的なエネルギーというほかはない。

しかも、「達磨図」や 「親字」といった決まったものを量産して配ったのではなく(そういうものもあったかもしれないが)、様式もひととおりというわけではなく、前回挙げたように画題はヴァリエーションに富んでいるので、この時点でかなりのレパートリーを持っていたことが分かる。
長野県内に残された禅画墨跡の総数はおそらくこんなものではなく、長野以外の各地への巡錫の旅も多くあったことを思えば、それを可能にしたのはもちろん 白隠の精神性や人徳であるけれど、同時に ”仕事人” としても人並み外れたヴァイタリティの持ち主であったに違いない。


<白隠禅画墨跡関連過去記事>
正受老人と白隠禅師 (飯山市美術館) 白隠の師の面影 正受の師と弟子たち
  長野の白隠作品 白隠の信濃巡錫
地獄絵ワンダーランド (三井記念美術館) 地獄極楽変相図
白隠さんと出会う (龍雲寺) 布袋、楊柳観音、猿猴 西行、鍾馗、このつらを 芦葉達磨
禅・心をかたちに (東京国立博物館) 朱達磨 達磨、自画像、寿字 慧可断臂図
白隠とその会下 (早稲田) 宝槌図
書の流儀 (出光美術館) 寿字円頓止観
白隠・遂翁・東嶺 (早稲田)
ドラッカー・コレクション展 (千葉市美術館) 達磨、観音、拂子
白隠展 (ザ・ミュージアム) 隻履達磨、観音十六羅漢 どふ見ても、朱達磨
  布袋吹於福、鍾馗鬼味噌 富士大名行列、吉田猿猴 このつらを、毛槍奴 ベストテン
博物館に初もうで (東京国立博物館) 福神家訓
一行書禅機画 (早稲田)
松蔭寺虫干し 無尽灯、船手和尚、富貴草 十六羅漢、白隠像 龍頭観音、常念観世音菩薩
  白隠禅師坐像、白隠の里
ギッター・コレクション展 (千葉市美術館) 達磨、観音
龍澤寺観楓祭 常念 自画像、初祖大師 蓮池観音、正受老人 明於理 開山堂
諸国畸人伝 (板橋区立美術館) すたすた坊主図
細川家の至宝 (東京国立博物館) 十界図 一鏃破三関
山水に遊ぶ (府中市美術館) 富士山図
妙心寺展 (東京国立博物館) 寿字円頓章 正宗寺大達磨 白隠慧鶴へと注ぐ流れ
素朴美の系譜 (松涛美術館) 亀大黒、猿と蟹
白隠とその弟子達 (永青文庫) 自画像、蓮弁観音 山水図 円相内自画像、郭公孤猿
  弁財天、大燈国師 どふ見ても
白隠禅画墨蹟展 (松島瑞巌寺) 朱達磨 達磨、布袋 鍾馗 鼠大黒、渡唐天神
  真間の継橋 親大字 蓮池観音 蟻と蝸牛 南無地獄大菩薩 面壁達磨、壽老
永青文庫所蔵 白隠画の逸品 (早稲田) 十界図、観音 蛤蜊観音、達磨
白隠和尚・禅僧の書画 (永青文庫) 自画像、出山釈迦 達磨、文殊、六祖衣鉢図
  鍾馗、大黒 座頭渡橋図 死字法語 布袋、達磨 黒牛図、暫時不在
日本美術が笑う (六本木ヒルズ) 蓮池観音、七福神 布袋すたすた坊主
東京国立博物館平常展 白隠の箒

hokuto77 at 19:05|PermalinkComments(0)日本絵画 | 旅の記録

2017年09月26日

信濃美術館クロージング、公園のシンボルの終焉

(長野県信濃美術館 〜9/30)
長野市にある 信濃美術館が、この9月末で長期閉館となり建て替えられるのだそうだ。
といっても私自身がこの美術館を何度も訪れたことがあるわけではなく、本ブログ内でふれているのも2009年の 「”いのり”のかたち 善光寺信仰展」の1回のみだ。
それでも、学生時代を中心に何度か信州に足を運んできた中で、善光寺の東側にある緑豊かな公園の奥に見える白い建物が、鮮やかなランドマークとして風景の一部となっているのが目に馴染んでいたので、この建物がないこのあたりの景観というのはちょっと想像がつかない。

帆船のような、十字架のような、人の顔のような、と言葉を三つ並べては、かえってイメージが錯綜してしまいそうだけれど、あらためてこのユニークなファサードをよく見れば、いかにも美術館らしい見事な造形だと思う。

美術館では、現建物で最後の展覧会として ”信濃美術館クロージング ネオヴィジョン新たな広がり” を開催しており、その第一部 【建築 信濃美術館と林昌二】では、本館の創設経緯や設計者、建築の特徴などを紹介していた。
それによると、そもそもこの美術館は1965年(昭和40年)に地元の新聞社などが中心となり民間の 「財団法人 信濃美術館」として設立され、翌66年10月1日に竣工して開館、69年に県に移管されたことから、「長野県信濃美術館」という、よく考えるとやや違和感のある正式名称になったようだ。
その後1990年に東山魁夷画伯から手元に置いていた作品の寄贈を受けて「東山魁夷館」を併設し、昨年開館50周年を迎え、そしてあと数日で一旦のクロージングを迎えて建て替えられることになる。

第一部の展示では、エントランスとなる建物の特徴的な曲線は 「HPシェル(双曲放物面シェル)構造」が採用されたものであること、その内部は3階講堂前方の広がりとして活用されていること、そしてこのモニュメンタルな 中央棟に対して2つの 展示棟の方は、公園の緑の中に溶け込ませ存在を目立たせないようにしていたことなどを知った。
コンパクトな白い中央棟を美術館の顔として、また公園のシンボルとして鮮やかに浮かび上がらせる一方、大きな展示室は地形を生かしながら緑の中に隠すようにして全体の景観に配慮しているところは、高度成長期である昭和40年初頭の作品のコンセプトとしては、かなり先進的で優れたものと言えるのではないか。

一方、まず正面の階段を上がって中央棟の2階受付に入り、右側の通路を通って階段を下りると第一展示棟、戻って奥に進み階段を上ると第二展示棟、という段差を多用した構造は、バリアフリーが求められる現代にはそぐわないものになってきているのかもしれない。
階段を昇り降りすることで視界が変わり、新鮮な気持ちで作品のある空間に足を踏み入れていくという感覚は、国立西洋美術館や鎌倉近代美術館などにも共通するところがあり、美術館建築のひとつの魅力になってきたことは確かだろう。
もちろん当館でも昇降機やスロープの増築で動線の改善がはかられているし、小部屋や通路が連続したような美術館が多くなっている中で、当館のようにシンプルな大展示室を持つ美術館は貴重だとも思うけれど、時代の要請という逆風が強まっていることも全面建て替えの理由のひとつではないかと思われる。

その他、この建物の設計にあたっては 善光寺本堂の形や参道の軸線などとの調和も図られているといった説明があったが、新しい建物ではそのあたりがどのように引き継がれていくことになるのだろうか。

hokuto77 at 19:47|PermalinkComments(0)掘り出し物など | 旅の記録

2017年09月23日

能 「山姥」-4 ”輪廻” としての山廻り

山姥」という曲をあらためてふり返ってみると、仏教的世界観や民話的エピソードなどさまざまな要素を持ちつつも、つまるところは自然への畏怖を一つの形に昇華させた物語ということになるのだと思う。
”山姥” を、伝承上の怖ろしい化け物というレベルから、自然の神秘を体現する超越的な存在に引き上げることによって、普段は我々の意識の奥底にある何ものかに気付かせる作品と言い換えてもいいかもしれない。
それは、滝平二郎の 「花さき山」*、喜多川歌麿の 「山姥に金太郎」といった作品でも、山姥を意外に人懐こく我々に近しい存在として描きながら、神秘的なイメージを被せることによって自然界に繋がる底知れなさを感じとらせるものだったことと共通しているようにも思われる。

それでも、ひとつすっきりしない思いが残るのは、曲中で ”輪廻からの解脱” ということが問題提起されたにもかかわらず、結局はそこから逃れられないままに終わっているのではないかという気がするからだ。
詞章を見ると、前場では 「妾が身をも弔ひ、舞歌音曲の妙音の、声仏事をも為し給はば、などか妾も輪廻を免れ、帰性の善所に至らざんと」と、その時点では輪廻から免れていないことが語られているので、解脱するために遊女の一行の前に登場したのではないか、とその真意を一応推測してみることができよう。
しかし、後場で自然を讃え仏教に言及するなどスケールの大きな世界を見せながらも、「廻り廻りて、輪廻を離れぬ、妄執の雲の、塵積もつて、山姥となれる、鬼女が有様、見るや見るやと・・・」と、結局は山を廻るという業から逃れられない様子のままに、「山廻りして、行方も知らず、なりにけり」で終わることになる。

あれほどの博識と名文句で我々を魅了し、何も怖いものはないかのように堂々たる姿で歩み、大自然に抱かれた境涯を謳歌しているように見えた ”山姥” であるのに、それでも輪廻から免れることができないのだとしたら、そんな力を持たない悩める存在である我々が、同じ願いを持ち続けることは到底無理なことと思わずにはいられない。
とはいえ、もしかしたら、いかに能舞台といえども輪廻から解脱できたという場面を見せるわけにはいかないのかもしれず、あるいは ”山姥” は、そもそも輪廻からの解脱など求めなくてもいい特別な存在なのだという見方もできるのかもしれない。
そんなことを思ってみるのも、これほど周到なお膳立てでせっかく出てきた ”山姥” なのに、結局はその望みが叶えられることはなかったという事実を認めたくないような気がするからなのだが、そんなことは余計なお世話というものであって、多くの夢幻能の主人公と同じように、自分の謡に耳を傾け舞を見てもらったことで彼女は満足だったのだろうか、たぶんそういうことなのであろう・・・


<能・狂言の過去記事>
能 「山姥」 観世流 野村四郎  
能 「善知鳥」 観世流 観世清和  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
狂言 「二人袴」、「咲嘩」、「首引」  
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか)  
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

hokuto77 at 19:29|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年09月20日

ベルギー奇想の系譜-5 生き残るには脳が・・・

(ザ・ミュージアム 〜9/24)
ヒエロニムス・ボス工房の 「トゥヌグダルスの幻視」を中心とする本展の ”I 15―17世紀のフランドル美術”は、先の 「バベルの塔」展やその他の ボス、ブリューゲル関連企画に近かった一方で、”II 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義” は、世紀末の幻想を扱うものとして既視感が強く、それは ”III 20世紀のシュルレアリスムから現代まで” の前半でも同様だったのだが、あらためて ”ベルギー” の ”奇想” という縦軸を通すことで興味深いものになった。

デルヴォーは、油彩としては 「海は近い」(姫路市美術館)なども楽しめたが、今回新鮮だったのは 3点の 「スケッチブック」(ベルギー王立図書館)、そこには肉筆の親密さがあり、また単体の構造やポーズといったパーツの検討ではなく、ページの隅々までを使い画面全体の構成を丁寧に追及していたところが興味深かった。
青空の形をした巨大な鳥が現れる マグリットの 「大家族」(1963年、宇都宮美術館)は、あらためて近づいて見れば質感の表現に優れ、背景の灰色の空と鳥の青い空の対比や、雲の量感が鳥の頭部に生命を感じさせつつ、その空=鳥が海面に映っている様子まで描くところには、アイディアだけの画家というだけではない緻密で周到な画力も感じられた。

デルヴォー、マグリットという二大スターの後、ベルギー・シュルレアリスムの旅はさらに現代の迷宮へと入って行く。
そこにはアメンボのような水上走行艇、妙に写実的な筆致なのに現実感がなく意味不明な女、心象風景としても曖昧過ぎる森、ハレーションを起こした磔刑図、逆さ釣りにされてティンパニを叩く骸骨、といった ”奇想” のものが並んでいた。

そんな中で特に衝撃的だったのは トマス・ルルイの 「生き残るには脳が足らない」(2009年、ロドルフ・ヤンセン画廊)という彫刻だった。
それは頭だけが異様に大きくなり過ぎて持て余している、というよりは人間の姿としては破綻してしまっている状況にある男の像で、いかにも唐突でありえない姿ではあるのだが、しかしそれこそが我々の真の姿ではないのかと鋭く問いかけるような迫力も感じられた。
”生き残るには脳が足らない” というタイトルは逆説なのか、そこに見えるのむしろ脳のみが異様に肥大してしまった人間の姿であり、それは体を動かさずにPCやスマホに没頭する我々、AIとかビックデータなどでこれまでの生活の根源的な部分を脅かされながらも、否応なく未知の領域に入って行かざるを得ない状況にある我々にほかならない。
いびつでアンバランスなこの世の中で生き残るために、本当に足りないのは脳なのか、もうこのくらいで留めておくべきではないのか、そんなことも考えさせるなんともグロテスクな作品だった。


ベルギー奇想の系譜 (2017、ザ・ミュージアム) 
ベルギー幻想美術館 (2009、ザ・ミュージアム) 
ベルギー象徴派展 (2005、ザ・ミュージアム) 

ポール・デルヴォー (2012、府中市美術館) 

hokuto77 at 19:18|PermalinkComments(0)西洋絵画(現代) | 西洋彫刻

2017年09月17日

正受老人と白隠禅師-3 長野の白隠作品

(飯山市美術館 9/10終了)
今回の 飯山市美術館特別展 ”この人なくして白隠なし〜正受老人と白隠禅師” の主役は 正受老人であるが、長野県内から集められた 白隠の禅画墨跡も思っていた以上に充実していたので、入って左側から振り返っておく。

「乞食図」(目録番号38、木曽・興禪寺)は托鉢旅の僧か、薄墨の早い筆が儚さを感じさせた。
「柿本人麿図」(34、飯田・開善寺)は分かりやすい文字絵。

起上小法師図」(30、飯田・龍門寺)は、坐禅する達磨の姿が子供の玩具のようなバランスで描かれていて、一見すると可愛らしいユーモラスな像。
しかし眼光だけは異様に鋭く、そこに不屈の精神が宿るようだ。

鉄砲図」(31、飯田・龍門寺)も多分見たことなかった図、斜めに立てられた鉄砲の他に弾丸や火薬入れ、鎖鎌、ひょうたん、獲物の雉らしき鳥などが固まって描かれている。この時代にわざわざ物騒なものを持ちだした意図は何なのかと思うが、”はたと打つ 声も地獄の たねが嶋” という賛は、不用意な発言や無駄な大声を戒めるということなのだろうか。

蓮池観音図」(29、1757年、飯田・大雄寺)は白隠の定番だが、彩色付きで丁寧に仕上げられた完成度の高い作品だった。
「出山釈迦図」(28、1757年、飯田・大雄寺)も大判の力作、手のかかっている2作品が残されたこの寺には特別な事情があったのか。

龍杖図」が2点(25、1757年、飯田・龍翔寺)(33、1757年、飯田・開善寺)並んでいた。
こちらは早い筆で描かれた ”分け与える絵” の典型、隻手音声の公案を通過した者に授与されたという、いわば免許皆伝の標とのことなので、これを白隠からありがたく押し戴いている人々の姿が見えるようだ。
「達磨図」(27、飯田・龍翔寺)も ”百枚描き” らしい典型的な白隠達磨、おそらく 「龍杖図」と同じ目的で、あるいはさらに上のステージに達した人への褒美として手渡されたのだろう。

白隠樹下坐禅図」(26、1765年、飯田・龍翔寺)は、穏やかな表情で坐禅する自画像、類作の中でも線が明快で、微笑を湛えた顔には何の迷いも感じられず、見ているだけでこちらの気持ちも明るくなる絵だった。
「鍾馗図」(20、上伊那・西岸寺)は、走る筆の勢いが心地よい迫力ある鍾馗、なおこの西岸寺からは ”仏祖三経会” に関する墨跡3点も出ていた。
「蓮池観音図」(23、下伊那・安養寺)は、モノクロだが細部も濃淡も時間をかけて丁寧に描き込まれた作品。

隻履達磨図」(24、下伊那・龍獄寺)は、2013年白隠展の冒頭に出てきていた迫力の達磨、大胆な描線の勢いや余白に押し込められたような賛からは、これを一回限りの勝負とみて渾身の力で筆を走らせた白隠の気迫が伝わってくる。
1757年(宝暦7年)前後に描かれたと思われる今回の一連の展示の中でも突出した感じがあるので、これは最晩年の作が別の形で伝わったのだろう。

隻履達磨・臨済・雲門図」(22、1757年、下伊那・瑞應寺)の中央の達磨は、龍獄寺のものとほとんど同じポーズながら筆の勢いがまるで違う。
両側にいる臨済・雲門とトーンを合わせ、三幅対としてのまとまりを重視したということもあるかもしれないが、3人の祖師の顔をそれぞれにくっきりと描き分けているところは、余技の域を完全に脱している。

大応・大燈・関山図」(39、塩尻・大寶寺)は、応・燈・関3人の祖師を一枚の中に描き込んだもので、これもそれぞれの逸話が思い出されるほどに個性がよく出ている。
もっとも、師や弟子と一緒では乞食大燈がやや窮屈そうに見えるけれど、そこがまた面白い。

「牛過窓櫺図」(37、飯田・保壽寺)は入り口の右側にあったもの、有名な公案に関するものとはいえ、正直なところ貰った方は有り難かったかどうか・・・
「達磨図」(40、木曽・光徳寺)は白隠大達磨の典型、”百枚描き”らしい筆の勢いが独特の迫力を感じさせていた。

この左側には 白隠筆の墨跡 「古剣銘」、これは唐の龐道玄の作である ”古劒銘” を襖にも使えそうなほど大書したもので、正受庵に伝わる6幅(15)と、東京の3幅(16、金地院)が再会して並んでいた。
その他に、「大極嶺」、「親」といった墨跡6点(17、18、19、21、32、35)、別人の描いた肖像に着賛した「白隠慧鶴像」(36)が出ていた。

hokuto77 at 19:50|PermalinkComments(0)日本絵画 | 旅の記録

2017年09月12日

アルチンボルド展-6 奇想の画家と皇帝

(西洋美術館 〜9/24)
VII. 上下絵から静物画ヘ
本章では、アルチンボルドの 「庭師/野菜」(クレモナ市立美術館)がとにかく面白い。
逆さの状態ではほとんど野菜にしか見えない分だけ意外性が大きく、隣の 「コック/肉」(ストックホルム国立美術館)を含むさまざまな ”上下絵” の中で、特に傑出した作品だと思う。
これは肖像画にして静物画、という作品だが、肖像画は以前からあったのに対し静物画は新しいジャンルとして、画家が晩年に過ごしたミラノで流行ったらしい。
そこからオランダの静物画に至る影響関係はよくわからないが、北の市民社会では徹底した迫真性によるだまし絵効果を求めるか、逆にヴァニタスを感じさせるか、いずれにせよアルチンボルドの寄せ絵的な ”お遊び路線” が引き継がれることはなかった。

そう思ってみるとあらためて アルチンボルドの革新性が際立ってくるような気がするのだが、1526年生まれということはブリューゲルやティントレット、ヴェロネーぜらとほぼ同世代ということになり、73年のカラヴァッジョや77年のルーベンスよりは2世代も前の人物であることを思えば、その時代としてはかなりの前衛だったと言えるだろう。

ところで、本展を通じてみて一番意外だったのは、オーストリア・ハプスブルクの三代の皇帝に仕えた中で、ルドルフ2世との関係が希薄だったことだ。
アルチンボルドの作風は、政治そっちのけでプラハ城に籠り錬金術や博物学に没頭していたという ”変人皇帝” ルドルフ2世の相方として最も相応しいような気がしていたし、またそうした環境の中でこそ彼の名作群が生み出されたものだと思い込んでいた。
以前見た 「ウェルトゥムヌス」は、まさにそのルドルフ2世のために描かれた作品だったのだが、今回の展示でこの2人の関係を強く感じさせられる作品は見当たらなかった。

このあたりを年表的に整理しておくと、1526年ミラノ生まれのアルチンボルドは、1562年に36歳でウィーンの宮廷に奉職する。
この時の皇帝はカール5世の弟 フェルディナント1世だが、わずか2年後には マクシミリアン2世が即位、1576年までの12年間の在位中に代表作 「四季」(1563年)と「 四大元素」(1566年)の連作(第一ヴァージョン)が完成し1569年に献呈される。
「法律家」(1566年)も「ソムリエ」(1574年)も、マクシミリアン2世の時代の作品だ。

次の ルドルフ2世とは、1576年の即位からアルチンボルドがミラノに帰る1612年まで12年間の付き合いということになるが、今回の展示作品でこの期間に相当するのは 「ルドルフ2世に献じられた馬上試合の装飾デザイン集」(1585年)のみだ。
もっとも、ミラノに帰ってからの 「紙の自画像(紙の男)」(1587年)や 「四季」(1590年頃)、そしてこの頃のものと推定されているらしい 「庭師/野菜」は、「ウェルトゥムヌス」(1590-91年)と同じようにルドルフ2世のもとに送られた可能性がないこともないが、現在の所蔵先からはそう推測することも難しそうだ。

そうなると、アルチンボルドはルドルフ2世との濃密な関係の中で刺激を受けたり動機付けられたりして奇抜な絵を制作したのではないか、との思い込みは完全に改めねばならない。
代わりに重要人物として浮かび上がった マクシミリアン2世の人物像をもう少し知りたいとも思ったが、むしろ アルチンボルドその人が独力で切り拓いた世界なのだと理解すべきなのだろう。


アルチンボルド展 (2017、西洋美術館) 、6

進化するだまし絵 (2014、ザ・ミュージアム) 
奇想の王国 (2009、ザ・ミュージアム) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年09月10日

能 「山姥」-3 アイ狂言が示すもの

白隠禅師を導いた正受老人(道鏡慧端)のことを考えていたら、ふと先日観た ”山姥” のことを思い出した。
正受庵という簡素な草庵に起居する風変わりな僧が実は大変な人物で、初めはよくわかっていなかった白隠も徐々にその存在の大きさに気付くといったあたりからの連想なのだが、それが北信濃を舞台にしていることの空気感のようなものもあったかもしれない。

能 「山姥を振り返ってみると、アイ狂言里人の役割はワキやツレ以上に大きく、軽妙な語りを通して、シテの演ずる 山姥が途轍もなく神秘的な存在であることを摺り込んでいく。
特に中入り後に再び登場して、遊女の従者であるワキに 「山姥とはどんなものか」と尋ねられる場面で、「思いもよらぬお尋ね」と戸惑いながらも、知っている限りの説を次々に披露するところは強く印象に残った。

里人はまず、どんぐりが転がり樹の葉がついて、そこに性根が入り山姥になったのだと述べる。
しかしこれをワキの従者に否定されると、少し考えたそぶりを見せた後に 「おお、それそれ」と言ってまた別の説を出す。
それは野老(山芋)に塵芥が取り付くという似たような話で、これも賛同を得られないとわかると、最後には木戸が朽ちて山姥になるというのだが、さすがにそれは 「木戸ではなく鬼女の間違いだろう」と突っ込まれる。

このあたり、狂言方の 山本東次郎とワキの 福王茂十郎のやりとりは滋味豊かで味わい深く、だからこそ、いったいどこまで真面目なのか分からなくもなるのだが、ともかくも里人の素朴で善良な性格や、都人を前にしての一生懸命さがよく伝わってくる名演だった。
また、ドングリや木戸に ”性根が入る” と山姥になるという話は、命が吹き込まれる瞬間のことを言うのであろうが、生命が誕生する神秘のメカニズムについて庶民の知るところを語っているようで興味深いものでもあった。

しかし、ここでのやりとりで最も重要だと思うのは、この一連の会話は人間の小ささ、人知の及ぶ範囲の限界を示しているということではないか。
山姥という極大の存在を、里人の知識という極小のところから照らし出すことによって、人間には山姥のことなどなにも分かっていない、この世界は我々の想像もつかないところで成り立ち動いている、ということをしっかりと伝えている。

前場で 信州善光寺までの道を尋ねるところも同じように考えていいのだろう。
ここは、乗り物を諦めてまで阿弥陀如来が辿ったという険しい道を選ぶことが山姥に遭遇する伏線となる部分だが、アイ=里人とワキ=従者は、ツレ=遊女も巻き込んで一生懸命に議論を展開する。
それは一行が進むべき道としてどんな選択肢があるか、そのメリデメはどのようなものか、といったことをめぐってのものであり、思えば我々の日常的な会話はほとんどこのレベルで成り立っている。
しかし、ひとたびそこから目を上げて形而上レベルに心を及ばせたときに、それまでとは次元を異にする世界が広がってくることもある、そんな彼此の落差の大きさを、この純朴な里人は教えている・・・

hokuto77 at 21:33|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年09月08日

ボストン美術館の至宝-3 エジプトと日本

(東京都美術館 〜10/9)
今回の ”ボストン美術館の至宝展−東西の名品、珠玉のコレクション” 展は、宋時代の中国絵画に先ず注目することになったが、全般的な特色としてはボストン美術館に寄贈した数々のコレクターの物語に光を当てながら蒐集作品を展示しているところだろう。
その結果、特定のテーマや時代に絞るのではなく、エジプトから現代アートまで広いジャンルをカバーするというユニークな構成になった。

”I 異国を旅したボストニアンたち” の冒頭の ”1 古代エジプト美術” では、「メンカウラー王頭部」(古王国時代第4王朝、前2490 –前2472年)が、アラバスターの透き通るような美しさをよく生かしており、「ハトシェプスト女王小像断片」(新王国時代、第18王朝、前1550 –前1458年)も小さいながら威厳ある肖像彫刻となっていた。

一方、「ツタンカーメン王頭部」(新王国時代、第18王朝、前1336 –前1327年)という像は、脆い砂岩で摩耗しかかった中にアマルナ芸術の名残りが感じられるというもので、確かに、よく知られた黄金のマスクの端正な面立ちとは違って ネフェルティティ像の生々しい雰囲気を湛えているように見えたが、この像がカルナック神殿から見つかったというのはどういうことなのだろう。
長いエジプト文明の中における突然変異のようなアマルナ美術は、もちろんアクエンアテン王の強烈な個性も大きかったにせよ、遷都先のアマルナに特殊な才能をもつ工人がいたからこそ成立したのだと思うのだが、この像にその影響や痕跡が見えるとしたら、アマルナの工人がテーベに移ってきたのか、それともテーベの工人たちがアマルナ的表現の価値を認めて学んだということなのか。
この像と黄金のマスクが同一人物の頭部の像であるならば、異なる作風に異を唱えなかった王家の側の柔軟さをも示しているのかもしれないが、アマルナ遷都とテーベへの帰還は単なる気分転換ではなく、多神教対一神教の厳しい対立が引き起こしたのっぴきならない事件ではなかったのか・・・

縛られたオリックス形の壺」(ヌビア、ナパタ時代、前7世紀初期)というアラバスタ―製の器は、まっすぐな角を持つオリックスが足が縛られている像で、丸い体躯が微笑を誘うものではあるが、狭い口からどのように中を彫ったのか、そして化粧に関する壺らしいがいったいどのように使ったのか、どうにもイメージが湧いてきにくいものだった。


”2 中国美術” に続く ”3 日本美術” に入ると、与謝蕪村の 「柳堤渡水・丘辺行楽図屏風」(江戸時代、18世紀)の明るく楽天的な画面で気分が一新された。
老人たちが連れ立って出かけてきている様子がのびやかな筆で描かれ、不自由さを抱えながらも互いにいたわり合い助け合いながら同じ時間を過ごしている屈託のない素朴な姿は、当時としては当たり前のことだったのかもしれないが、決してそうではなく、実はどこにもない理想郷を描いたものだったのではないかというような気もした。

このコーナー、単体の作品としては黒い渦の突風が波や樹の葉や仙人の衣を引き千切らんばかりの 曾我蕭白 「風仙図屏風」(宝暦14年/明和元年(1764)頃)が頭抜けていると思うけれど、英一蝶 の日本版月歴図である 「月次風俗図屏風」(江戸時代、18世紀前期)や、約170年ぶりの修理を経て初の里帰りを果たしたという 「涅槃図」(正徳3年(1713))もなかなか充実した作品で、外国人が見た日本という角度から特に珍重されたことが推測される。
特に、釈迦の死を目の当たりにして嘆く人々と動物たちを描いた大画面は、芸術的評価とは別に彼らに新鮮な驚きを与えたのではないかと思われた。

hokuto77 at 21:58|PermalinkComments(0)西洋古代中世美術 | 日本絵画

2017年09月06日

正受老人と白隠禅師-2 正受の師と弟子たち

(飯山市美術館 〜9/10)
本展は、展示室中央の小部屋に 正受老人(道鏡慧端)に因む書画が集められ、その外周を 白隠の書画がぐるりと囲む形になっていたが、その小部屋の外側にも2枚の白隠画賛作品があった。
簡素な筆で富士と鷹と茄子を描いた 「初夢図」(目録番号13)と、黒地に白い観音が妖艶に浮かび上がる 「蓮池観音図」(14)がそれで、白隠画として特に傑出したものではないが、ほかでもない 正受庵に伝わるものであることによる特別扱いだったようだ。
そうなるとこの2点は、白隠が恩師を慕って献呈したものと思ってしまいそうだが、事実関係はそうではなく 山岡鉄舟高橋泥舟の尽力で龍澤寺から寄贈されたものだということなので、これらが正受庵蔵となったのは明治に入ってからのことと思われる。

もっとも、正受が自らのもとを去った後の白隠の活躍ぶりをどの程度知っていたかははなはだ心許なく、80歳で遷化した時点で37歳だった白隠は ”中興の祖” どころではなく、まだ何者でもなかったと言っても過言ではないだろう。
3年前に妙心寺で法階を得て ”白隠” と号したという消息くらいは聞こえてきていたかもしれないが、「夜船閑話」などの著作を発表するようになるのも、多くの参禅者を集めるようになるのも50歳代後半以降のことだし、個性的な禅画が知られるようになるのは70〜80歳代のことだ。
だから生前の正受が白隠画を知るわけもなく、そういえば昔やって来たあの生意気な若僧は今頃どうしているやら、などと思いを巡らせることがあったのかどうかも分からない。

小部屋入口の左に掛けられていた、やはり 正受庵蔵の 至道無難筆墨跡 「平常道」(7)も、正受が師から押し戴いて飯山まで携えて来たものだと思いたいところだが、明治25年に東北庵から到来したものなのだそうだ。
至道無難の揮毫によるという 「正受庵」の 扁額(8)はさすがに正受の生前からのものに違いないが、このあたりの師弟関係を示す糸はまことにか細く、今日の臨済宗の法系の中締めのようなところが ”至道ー正受ー白隠” となっていることも、正受にとっては想像すらできないことだったのではないか。

さて、白隠はもちろん 正受に再会したかったし、せめて墓参はしたかったのに、忙しい身の上になってしまい果たせなかったのだと思っておきたいが、その弟子の 東嶺圓慈が立派に代わりを勤めてくれたようだ。
彼が正受の 60年遠忌に正受庵を訪れて法要を行ったことが、東嶺圓慈筆の墨跡 「正受老人(道鏡慧端)六十年忌回向文」(11、1781年、正受庵)によって分かるわけだが、これこそは真面目で実務能力にも長けた東嶺ならでは仕事だろう。
さらに東嶺は、正受の墓石 「栽松塔」や母 李雪尼の墓を建立し、また前回ふれた 「至道無難像」(6、正受庵)に賛を付したりしており、この時に ”至道ー正受ー白隠” の法系が公式のものになったとも言えるのではないか。
ただ、大任を果たして気分がよくなったこの孫弟子は、ついでに 東嶺圓慈自画賛 「達磨図」(12、1782年、正受庵)も置いてきたようだが、これは典型的なヘタウマ路線なので、正受老人を慕い尊敬する飯山の人々にどう受け取られたのか微妙なところだったかもしれない。

なお、正受には白隠の他にもう一人、道樹宗覚という弟子がいた。
というよりも彼は、越後の高田で自分は悟ったのだと大言を吐いていた白隠と議論し、自らの師である正受に引き合わせた上に、正受の後を継いで正受庵の二世となった人物なので、弟子としての正統性は白隠よりも強いかもしれない。
その宗覚の墨跡 「遺偈」(9、1730年、正受庵)は、美しい絶句が癖のない素直な文字で書かれている。
正受に 「坐死」の遺偈を求めたのもこの宗覚かもしれず、師の至道と離れて飯山に籠り、悟りに導いた白隠との再会は成らなかったとしても、正受の晩年はきっと孤独ではなかった・・・

hokuto77 at 19:47|PermalinkComments(0)日本絵画 | 旅の記録

2017年09月04日

正受老人と白隠禅師-1 白隠の師の面影

(飯山市美術館 〜9/10)
飯山市美術館特別展 ”この人なくして白隠なし〜正受老人と白隠禅師” が開催されていることを知り、初秋の北信濃に足を運んだ。
30点近い長野県内の白隠作品も思いのほか見応えがあったけれど、まずは若き白隠を厳しく指導したという 正受老人道鏡慧端)とその住まいである 正受庵に関連する作品が集められた、中央の小さな部屋から見て行く。
(なお、以下は ”正受老人” と ”道鏡慧端” が混在するが、出品目録を引用する場合はその表記に従い、それ以外は ”正受老人” または ”正受” とする。)

入って右の壁面には、山岡鉄舟と高橋泥舟が廃寺となっていた正受庵の古書箱の中に埋もれていたところを発見し表装したという同庵の至宝が三尊のように並んでいた。
その中央は 正受老人筆の墨跡 「遺偈」(目録番号5、享保6年(1721年)、正受庵)、2009年の妙心寺展にも出てきていたもので、文も字もまことに軽やかに飄々としている。
坐死 末期一句 死急難道 言無言言 不道不道
(末期の一句 死は急にして道(い)い難し 無言の言を言として 道(い)わじ道わじ)
と、結局のところは何も言っていないようで肩透かしを食ったようにも思えるような辞世の文句ではあるが、それこそが正受の偽らざる心境であり、また死とは誰にとってもまさにそのようなものであるのかもしれない。
これが誰かに求められて即興的に書きつけられたものなのか、或いは、禅僧ならば最期に遺偈を残すべきものであると思い定めた上で考え抜かれたものなのかはよくわからないが、その淡々とした境地が確かに伝わる文章と文字は、正受老人という人物に思いをはせるときの第一級の資料に違いない。

ではその正受老人はどんな風貌だったのか、遺偈の左には 中野不白賛 「正受老人(道鏡慧端)像」(2)が掛けられていた。
これは正受庵に伝来しているもので、賛も正受の絶句をその弟子が書いたということであれば正統性は高いはずだが、作者不詳の肖像は劣化もあって何とも茫洋としており、人物像はなかなかこちらに伝わってこない。
正受老人の風貌を想像してみようとすると、訪れた白隠を坂の上から蹴落としたという厳しさや重さと、先の遺偈にみる淡白さや軽さの間でイメージが揺れ動くのだが、この肖像は軽さの方にかなり振れている。

「遺偈」の右側は 東嶺圓慈賛の 「至道無難像」(6、正受庵)、この肖像画も筆者は不明ながら、賛は白隠の弟子の東嶺が正受の没後60年遠忌(1781年)に正受庵を訪れた際に着けたものなので、その時点で庵に伝わっていたのであれば、正受が師の至道のもとを離れて飯山に下るときに携えてきて、この頂相を死ぬまで師と仰いでいた可能性は高いだろう。
その一方で、先の中野不白賛 「正受老人像」(2)の姿が、偶然とは思われないほどにこれとよく似ているように見えるので、もしかしたらこの正受像を描いた人物は、正受その人よりは至道像の方を見ながら制作したのではないか・・・

反対側の壁面にあったもう2点の正受像は、もう少し正受本人に迫っている。
右の 道鏡慧端自画賛という 「正受老人(道鏡慧端)頂相」(3、永青文庫)は、画・賛ともに正受のものとされている貴重な遺品で、賛の文字は確かに 「遺偈」と共通するところがあるように見える。
一方、頂相の方は髭面で眼光鋭く、確かに白隠を蹴落としかねない重みも感じられるので、理想化せずに生身の人間像に迫ろうとしたリアルな正受の姿なのかと思うけれど、衣の辺りのぼかしなどはかなりの腕前であり、果たして正受自らの筆によるものだろうかという疑問も拭えない。
もちろん正受は絵も上手かったということかもしれないけれど、「遺偈」を書いた人物の自画賛ならば、もう少し質素な衣を着せて淡々とした姿にするのではないか。
それでも自ら賛を付けたということは、この肖像画を自らの頂相として認定したと言ってよく、そのことの方が実際に誰が描いたかよりも重要だろう。

では弟子の 白隠は師をどう描いたのか。
白隠筆 「正受老人(道鏡慧端)像」(4、龍澤寺)は、風貌としては上記2点(目録番号2と3)の中間のように見えるが、白隠の自画像や得意とした達磨像などにも近い感じがあり、どこまで正受の特徴をとらえているのかはよくわからない。
考えてみれば、白隠が正受のもとを訪れたのは1708年、24歳の時であり、そこでの8カ月という滞在期間がいかに濃密な時間だったとしても、それ以降に白隠は正受に会うことはないままに、1753年の正受三十三回忌に山梨の東光寺で本作が描かれたことになる。
その時の白隠は69歳、つまりは45年も前の記憶に頼るほかはなかったわけで、そこに恩師の風貌が正確に再現されていると期待する方におそらく無理があり、むしろ白隠の心の内なる正受の像という見方をしておいた方がいいようにも思われた。


白隠の過去記事まとめ

hokuto77 at 20:20|PermalinkComments(0)日本絵画 | 旅の記録

2017年09月03日

ベルギー奇想の系譜-4 デルヴィルの忘却の河

(ザ・ミュージアム 〜9/24)
”II 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義” の途中で話がずれてしまったので元に戻る。

ジャン・デルヴィルの 「レテ河の水を飲むダンテ」(1919年、姫路市立美術館)は、絵そのものの印象は前回と大きくは変わらないが、忘却の河の水を飲む、という行為の意味が、今回は妙な形で胸に刺さってきた。
愛を貫けなかったというダンテが、差し出された忘却の河の水を身を屈めて飲む場面、こうして自分の記憶の一部を失くしたとして、彼はこの後どのように生きていくことができるのだろう。
そもそもこんなことで記憶がなくなるのか、そんなことを思うのも、認知症患者を身近でみるようになって、忘れてしまうということがどんなに情けなく、空しいものであるかを痛感させられることが多いからだ。

やや事情は違うものの、記憶をなくしたと繰り返す人間を特にここ数カ月は毎日のように見てきたが、しかし本当に記憶が欠落したとすれば、これほど不安なことはないはずで、テレビニュースで見るような表情をしていられるわけがない。
記憶があるから人間であり、覚えていることの総体が ”生きてきた” 歴史でもあると思いつつ、人間は何をどこまで記憶できるのか、その容量やメカニズムの不思議さを思えば畏れ慄かざるを得ず、そうした能力を与えられているということについては謙虚でありたいと思う。

確かに、前世の憂いは消したい、辛い記憶は忘れたい、という気持ちは否定できない。
しかし、ひとつの記憶を楽しいものか辛いものかにはっきり分けられるとは限らないし、相互に連関があって意味を成している記憶の一部を消して断片化することは、絶対にやってはいけないことに違いない。
清らかな水、美しい森、現実感のない明るい光、そこでは何もかもが浄化され救われるように見えながら、忘却という引き返せない橋を渡った先の魔界のようでもあった。

カトリック神秘主義に傾倒し薔薇十字団に参加したという デルヴィルの残る2点は、これとは対照的に暗く陰鬱な画面だった。
赤死病の仮面」(1890年、フィリップ・セルク・コレクション)には背後に死神の来訪を感じるような不吉さがあり、「ステュムパーリデスの鳥」(1888年、ベルギー王立図書館)で来襲する夥しい鳥たちの黒い影は、思わず戦慄を覚え鳥葬を連想してしまうような迫力だった。

ヌンクの 「運河」(1894年、クレラー=ミュラー美術館蔵)は、規則正しく並ぶ木と人気のない建物の窓、そして青みがかった闇によって、そこが死者の棲む黄泉の世界のような気配を漂わせている。
黒鳥」(1895年、同)も、暗闇の世界にひっそり生きる鳥が夜の神秘の世界に誘い込む。
いずれも我々の住む世界の裏側を感じさせてくれる作品だ。

ヴァレリウス・サードレール(サデレール)の 「フランドルの雪景色」(1928年、アントワープ王立美術館)は以前見た作品だろうか、ブリューゲルの風景画に倣っているようで人気のない風景は、どこまでも重く暗い
レオン・スピリアールトの 「堤防と砂浜」は、モノクロームの陰鬱な風景がほとんど抽象と化している。
このあたりは確かにそれぞれの個性が感じられるが、できればもう少し質量ともに充実させて各々の世界をしっかりと見せてもらいたかった。

アンソールは比較的点数が多かったけれど、”仮面の画家” の不気味さはそれほど強く感じられず、「オルガンに向かうアンソール」(1933年、メナード美術館)は、ちょっと信じ難いように穏やかな自画像の見られる作品だった。


>関連過去記事
ベルギー幻想美術館 (2009、ザ・ミュージアム) 
ベルギー象徴派展 (2005、ザ・ミュージアム) 

アンソール (2012、損保ジャパン) 
アンソール (2005、庭園美術館) 

hokuto77 at 19:02|PermalinkComments(0)西洋絵画(近代) 

2017年08月30日

祈りのかたち、真言八祖行状図と六道・十王図

(出光美術館 〜9/3、展示替えあり)
祈りのかたち ─仏教美術入門” 展は、この美術館らしい懇切丁寧な解説で、あらためて仏教の多様な世界に誘ってくれる好企画だった。

”第1章 仏像・経典・仏具―かたちと技法” は 「絵因果経」や北魏や隋唐時代の金銅仏、そして若き 仙僂良致がみられる 「釈迦三尊十六羅漢図などオーソドックスなホトケたちから始まる。

”第2章 神秘なる修法の世界―密教の美術” には 「真言八祖行状図」(平安・保延2年(1136)、重文)全八幅が出ていた。
本作があった 内山永久寺の真言堂は、本尊を中心に金剛・胎蔵の両界曼荼羅が向かい合い、その裏面は2年前に見た国宝の 「両部大経感得図」(藤田美術館蔵蔵)、さらにその外側に真言八祖を顕彰する左右四面ずつの障子があり、表は 「真言八祖図」の頂相、そしてその裏面が当館所蔵の 「真言八祖行状図」という構成で荘厳されていたとのことだ。

密教の教えの系譜を辿ると、大日如来から金剛薩埵(普賢菩薩)に伝えられた金剛頂経を、印度僧の 龍猛(第一祖)が南天竺の鉄塔内で感得し、その弟子の 龍智(二)から教えを受けた 金剛智(三)と、大日経を感得した 善無畏(五)がそれぞれ唐に渡る。
さらに、西域生まれの 不空(四)や中国生まれの 一行(六)を通じて唐に定着、両系統の密教を統合した恵果(七)から、入唐して密教の師を求めていたいた 空海(八)に伝授されて日本にもたらされたとされる。
絵そのものは劣化が激しくて読み取りにくいが、八人の祖師の重要な場面が描き込まれているので、それぞれの事跡を通して大日如来から空海に及んだ伝播の正統性を示すものとして活用されたのであろう。

この章では 「大威徳明王図」(鎌倉時代)に猛々しいほどの迫力があり、「五髻文殊菩薩図」(平安時代末期ー鎌倉時代初期)は童子の姿の文殊に密教的な妖しさが漂っていた。

”第3章 多様なる祈り―弥勒・普賢信仰の美術” の 「普賢菩薩騎象図」(鎌倉時代)も高貴さの感じられる優品だった。

”第4章 極楽往生の希求―浄土教の美術” は、三井の 「地獄絵ワンダーランド」展とかなり重複する内容で、日本橋では意外な作品群を楽しむことができたけれど、死後の世界と閻魔王をはじめとする十王の関わり、八大地獄や六道といった往生要集の世界観などは、こちらの方が分かりやすく解説されていたと思う。
というのも、大きな双幅の上部に十王を交互に並べ下部に地獄を描いた 「十王地獄図」(鎌倉時代末期ー南北朝時代)は、まさにこの説明に打ってつけの図柄であり、七日ごとの節目の意味や本地仏との関係も頭に入りやすいものだった。

また、六幅対の 「六道・十王図」(室町時代)は、右から四幅目までの上部には十王が居並び、下部は三途の川に奪衣婆や賽の河原も見える ”死出の旅” に始まり、地獄の悲惨な光景が三幅続いた後に畜生、餓鬼の世界や修羅と帝釈天軍の戦いとなって、六幅目で人道から天道に至るという大スペクタクル、この一組で全てが説明できる優れものだ。
その先には輪廻を脱した極楽の世界に誘う来迎図や到達点としての 「当麻曼荼羅図」、この曼荼羅の解説も簡にして要を得たものだった。

駆け足ながら懇切な解説に導かれて辿ってきた仏教史の最後のコーナーは ”第5章 峻厳なる悟りへの道―禅宗の美術”、雪舟や白隠も登場していたが、あくまでも館蔵品による紹介なのでここでの主役は 一休と 仙僂世辰拭
一休については、七仏通戒偈 「諸悪莫作 衆善奉行」などの墨跡だけでなく、南浦紹明(大應国師)、宗峰妙超(大燈国師)から徹翁義享、言外宗忠、華叟宗曇を経て一休宗純に至る法系を、自身の賛がつく頂相で紹介していた。
のコーナーには 「指月布袋画賛」や 「坐禅蛙画賛」といった名作、「南泉斬猫画賛」や 「狗子仏性画賛」など禅宗の祖師や禅問答に関する作品が出てきていた。

〇△口」は、壁面に掛けられた他の作品とは独立してガラスケースの中に緩い傾斜で展示されていたが、これはどこまで意図的なものだったのか、本作に向き合って視線を少し上げると、その向こうには十王と地獄の責め苦を描く上述の 「十王地獄図」双幅が見えた。
そのどぎつい色彩による饒舌さと比べると、白紙に墨で図形の線だけを引いた本作はあっけないほどに簡素だけれど、無間地獄までの世界がどんなに広く深いとしても、”〇△口” の指し示す世界の方がはるかに広大無辺であるのかもしれない。
もちろん優劣ということではないが、これでも分からぬか、とばかりに迫ってくる声高な地獄絵よりも、そこに何を見るかはお前次第だ、と謎をかけられたような静謐な世界の方が、この日の私には好ましく思えた。

hokuto77 at 22:43|PermalinkComments(0)日本絵画 

2017年08月29日

地獄絵ワンダーランド-2 大衆化する地獄

(三井記念美術館 〜9/3)
白隠と木喰以外の作品についても、展示構成の順に振り返っておく。

第1 章 ようこそ地獄の世界へ
*入口はのんのんばあと地獄めぐり
*往生要集の世界
*写真画像展示(存統筆「世界大相図(須弥山図)含む)
*六道・地獄の光景
本コーナーの最初にあった 「六道絵」(重文 6幅 中国・南宋〜元時代 滋賀・新知恩院)は、南宋絵画らしい落ち着きのある絵で、往生要集的に煽り立てず謂わば客観的に六道を描写した格調高い作品だった。
だから基本的な世界観は分かるのだが、地獄の悲惨さやその裏返しとしての天道の安堵感などが、相対的に弱い感じは否めない。
そこから振り返ってみると、そもそも平安以降わが国で盛んに描かれた ”地獄絵” とは、恐ろしさを実感させ人々の脳裏に刷り込むことが主目的であって、芸術作品というよりは庶民教化のためのツール、いわばプレゼン資料と思った方がいいのかもしれない。

第2 章 地獄の構成メンバー
*閻魔王・十王・地蔵菩薩
ここに登場していた 源三郎作の木造 「閻魔王坐像、司命・司録坐像」(室町時代・永禄2年(1559)奈良・當麻寺(護念院))は、冥界の王の威厳ある姿を正攻法で印象付ける像だった。
説明的で表現過多になることが多く食傷気味になりがちな絵画の閻魔と違い、しっかりと存在感を示している彫刻を見ていると、レオナルドの見解とは逆になるけれど、絵画より彫刻の方に軍配を上げたくなったりもした。

第3 章 ひろがる地獄のイメージ
*山のなかの地獄
立山曼荼羅」(江戸時代 三重・大江寺)の大画面は、当時の人々が立山にどのような地獄を感じていたのかがよく分かるものだったが、それが大津絵的なゆるさで表現されているところに、この時代の ”地獄” 概念の変容が感じられた。

*「心」と地獄
熊野観心十界曼荼羅」(江戸時代 日本民藝館)が出て来たあたりで、本企画における 矢島新氏の影が濃くなってくる。

*地獄めぐりの物語
*「ひろがる地獄のイメージ」から「地獄絵ワンダーランド」へ
*「心」字の展開
林文吾筆 「心字絵解図絵馬」(明治14年(1881) 和歌山・二沢観音堂)は、巨大な飴か餅のようなものを心の字の形にすべく悪戦苦闘する人々の姿を通して、心を調えることの難しさを ”文字どおり” に伝える楽しい作品だった。

第4 章 地獄絵ワンダーランド
辿りついた ”ワンダーランド” で迎えてくれた 「地蔵・十王図」(江戸時代 東京・東覚寺)は、子どもの絵のように素朴で粗雑ではあるが、細かいところの完成度を別にすれば、画面構成や色使いはしっかりしていて不思議なパワーが感じられた。
この路線を発掘している 矢島新氏の新発見作品だろうか。
もう少し小ぶりの屏風の 「十王図」(8曲1隻 江戸時代 日本民藝館)も、一見すると素人っぽい作品ながら、線に勢いがあり色彩も抑えられていて、洗練されたセンスが感じられた。
この後に 白隠筆 「地獄極楽変相図」と 「南無地獄大菩薩」、木喰明満作 「十王坐像・葬頭河婆坐像・白鬼立像」があって終章となる。

第5 章 あこがれの極楽
*厭離穢土・欣求浄土
ここまでを見てきてあらためて感じるのは、地獄がいかに怖ろしいところであるかを示して浄土思想や阿弥陀信仰へと導くところから始まった ”地獄絵”が、時代が進むにつれて、徐々に恐怖心という毒が取り除かれていき、救いようはある、あまり心配するな、というメッセージに変わっていったらしいということだ。
それは戦乱の後の江戸時代の空気の反映であるとともに、毎日をひたすらに生きる庶民のニーズに応え満足度を高めるという中での変化だったようにも思われた。

hokuto77 at 19:15|PermalinkComments(0)日本絵画 | 日本彫刻

2017年08月27日

”写狂老人A” vs ”静かなひとびと” @初台

(東京オペラシティ アートギャラリー 〜9/3)
荒木経惟という写真家について、以前は多少なりとも好意的に見ていたと思うのだが、今回はどうも勝手が違いついていけなかった。
それは今年77歳という ”写狂老人A” のパワーが今の私にとっては過剰だったのかとも思ってみるのだが、やはりこの展覧会を成立させているのは、個々の写真のもつ魅力というよりは、物量作戦ともいえる圧倒的な展示手法だろう。

大判の素人ヌードがずらりと並ぶ 「大光画」の ”回廊”、10x10=100枚が2組の 「空百景」と「花百景」という ”壁面” はもとより、日常的なスナップが連続する 「写狂老人A日記 2017.7.7」も、二つに切って貼った 「切実」も、これだけのヴォリュームが引き起こす視覚的な刺激が命の、マスゲーム的ともいうべきインスタレーションだ。
一枚の写真の前に立ち止って対話してみるというのではなく、ひと頃はやったコンクリート・ミュージックのような即興性で空間を埋める、それが今の荒木の ”表現” なのだと理解すればいいのかもしれないし、こうした展示を可能にしているのも アラーキーのこれまでの蓄積でありネームバリューであるのは確かだとは思うけれど・・・


一方の常設展は ”静かなひとびと” という特集展示、自己主張の強い喧騒の世界の後だっただけに、そのしんとした静寂が沁みてくるようだった。
小杉小二郎の 「ダンピエール郊外」は、犬の散歩をしていたらそのまま アンリ・ルソー的な異次元の町に入り込んでしまったよう、「瓶の静物」は淡い透明感の中で寡黙な時間が流れている。
何度も見ているはずの 「六区のメトロ駅もまた、単なる駅構内とは思われない奥深い地下空間へと誘いかけていた。

長谷川潔の 「一日の終わり」に描かれているのは、夜になると水の中に帰って行ってひとり安らぐ女なのか、「水浴の少女と魚」も彼女が水の精でなければ成立しない幻想の世界だった。
続く有元利夫の女はいかにも ”静かなひとびと” という感じだが、難波田史男や 奈良美智、五味文彦などまでがこの文脈で紹介されると、絵の持つ静けさや透明感が際立ってくるように感じるのは構成の妙というものであろう。

河原朝生の 「時間の部屋と 「室内機Р討僚わりは、本コレクションの中でも特に注目してきた作品だが、今回は時間を超越した世界の絶対的な静寂というものが強く感じられた。
一方、最大サイズの 「毒の箱」という作品は、大きな部屋の中央に置かれた黒い箱が音もなく、しかし言いようのない不安や胸騒ぎを誘い出すようにそこにあった。

清宮質文の版画にも 「夏の終わり」という作品があったが、こちらの方は河原のような謎がなく分かりやすい。
といっても制作者の真意は別のところにあるのかもしれないが、私としては端的に、夏休みが終わろうとするちょうど今頃の何とも言えない寂しさが、はるか彼方から呼び戻されることになった。
楽しみにしていた夏の行事もあらかた終わり、あんなに強烈で眩しかった太陽の光が弱まり、秋風が今までとは違う匂いを伴って吹いてくるこの時期、小学生の頃であれば宿題を済ませていない憂鬱とか、大学時代にはこの夏もさして劇的なこともないままに終わってしまうという焦燥感を覚えていたことなどを不意に思い出す・・・

これらのコレクションを作った 寺田小太郎氏のことは今までよく知らなかったが、パンフレットによると長く造園の仕事に携わっていてオペラシティ街区の植栽も監修しておられたとのこと、そうした自然へのまなざしがこれらの収集に反映しているということのようだ。

最後にあった 森洋史の受胎告知や最後の晩餐のパロディも、ゴージャスな舞台の中の少女マンガ的な登場人物の表情が思いのほか生き生きしていて面白かった。

hokuto77 at 21:46|PermalinkComments(0)日本絵画(近現代) | 掘り出し物など

2017年08月26日

ベルギー奇想の系譜-3 ロップスとクノップフ

(ザ・ミュージアム 〜9/24)
ボス派やブリューゲルに続き、「反逆天使と戦う大天使聖ミカエル」(1621年、ベルギー王立図書館蔵)などで ルーベンスの筋骨隆々とした肉体を見て ”I 15―17世紀のフランドル美術” が終わると、一気に300年近くも時代が進み、”II 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義” になる。
もちろんこの間にベルギー美術が沈黙していたわけではないが、”奇想” という切り口から特筆すべき潮流は確かにそのとおりで、この分野においてはイタリアやフランスなどの美術大国を凌駕する貢献といえる。

フェリシアン・ロップスの 「娼婦政治家」(1896年、フェリシアン・ロップス美術館)という多色刷銅版画は、黒の手袋とタイツ、青いリボンのみを身に着けることによって逆に豊満な肉体を誇示するような、ほとんど全裸の女が豚を連れ目隠しをして歩いている。
それは見るからに厚顔無恥で貪欲で知性のかけらもなさそうな姿であり、まわりのことは全く目に入っていない傲慢な態度であって、それがタイトルの示すように政治家を批判したものであるならば、その時代を超えた先見の明と洋の東西を問わぬ普遍性に脱帽するほかはない。

敢えて言えば、現代の裸の王様(たち)が踏みつけているのは、ここに見る四芸術に留まらるものではなく、理性や良心や正義や叡智といった人類の宝までもが、我々の目の前で無残にも足蹴にされている。
もっとも、こうした面のロップスには実はあまりなじみがなかったのだが、「聖アントニウスの誘惑」(1878年、ベルギー王立図書館)には神なき時代の誘惑というものが露骨に描かれているし、「偶像」や 「生贄」といった版画にはロップスの屈折した心理が反映されているようだった。

クノップフの 「ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院」(1904年、姫路市立美術館)は、何度見てもそのたびに、動くことのない水、人の気配のない館が喚起する死都のイメージにとらわれる。
と同時に、その向うにはブルゴーニュ公国時代の繁栄の記憶や、メムリンクの夢見るような聖女たちが潜んでいる、そんな重層的な世界までもが見えてくるとしたら、そのどこまでが画家の狙いでありまた成果であるのだろう。
蒼い翼」(1894年、ベルギー王立図書館)は、石膏の顔から横に生えているように見える翼が青く着色され、その背後に夢幻的な女が立つ、謎めいた気配の漂う作品だった。

しかし、この2点は確かに楽しめたけれど、ロップスに比べるとクノップフの方は質量ともに見応えのあるコーナーとは言い難い状況だった。
そこで会場にあったカタログを見てみたら、クノップフは現在の展示の倍くらいの作品が掲載されており、その中でも一線級と思われる魅力的な作品が渋谷には来ていないことが分かった。
そういえば、「トゥヌグダルスの幻視」が宇都宮で展示されていることを知ったとき、これはすぐに出かけて行かなければと思ったのだが、その後に渋谷に巡回してくることが分かったのでここまで待っていたのだった。
しかし、「天使」(ベルギー王立図書館)なども含めてこんなに渋谷には回ってこない作品があるのなら(確かに作品リストの番号が飛び飛びになっている)、やはり宇都宮に行くべきだったという気もするのだが、宇都宮に行ってもやはり出てなくて見られたのは神戸だけだったのかもしれない・・・

そこでだが、このような巡回展の場合、基本的には全ての作品が回ってくるはずだと思っているので、そうでない場合はどの作品がどこで外されるのか、という情報は遅くとも最初の展覧会の開始時点で公表されるべきではないか。
本展は現時点で作品リストがウェブ上で公開されていないので、こうした事実の隠蔽を狙った確信犯のようにも思われるが、たとえそれぞれの館の作品リストが個別に公表されていたとしても(この場合は3/9の宇都宮スタート時点で渋谷のリストが公開されていたとしても)、それでも一つずつ付き合わせるのは大変な作業なので、展示替え情報と同じように、宇都宮(または神戸)に行かなければ見られない作品は予め明示すべきだろう。
もし事前にカタログを通販購入してこれだけのクノップフ作品が渋谷で見られると期待していた人がいたとしたら、詐欺同然の背信的行為と言われても仕方がないのではないか。

hokuto77 at 19:24|PermalinkComments(0)西洋絵画(近代) 

2017年08月24日

地獄絵ワンダーランド-1 白隠と木喰の閻魔

(三井記念美術館 〜9/3)
『往生要集』以来の地獄と極楽に関する美術を通じて日本人の死生観・来世観をたどるという展覧会ではあるが、”地獄絵ワンダーランド” というタイトルが示すように、江戸時代以降の ”たのしい地獄絵” の方にかなりウェイトが置かれた企画だった。

白隠筆の 「地獄極楽変相図」は、白隠の里 原宿の 清梵寺が所蔵する大作で、2013年に渋谷で開かれた ”白隠展” にも出ていたが、今回の文脈であらためて見てみると、中央の大きな閻魔とその上の釈迦三尊の対比が面白かった。

そもそもこの 閻魔は、平安以降庶民を震え上がらせてきた猛々しい姿ではなく、周囲に広がる六道の光景やさまざまな地獄の責め苦に喘ぐ人々に辟易してきている感じで、地獄に堕ちる連中はこんなにも多いのか、わしの手にはもう負えん、と嘆いているように見える。
一方、少女のような文殊と普賢を従えてこの状況を見ている 釈迦は、さすがに他人事ではなく知らん顔はできないとしても、自分の方に何か手立てがあるわけではなさそうなところは、現場からの切実な訴えにもとりあえずもう少し頑張ってくれとしか言えない会社の上層部のようなものか。

と言ってしまうと全体が情けない絵のように捉えられかねないが、地獄の鬼たちはそれぞれの持ち場で頑張っているし、多様な世界が重層的に絡み合っている様子もよくわかり、目をそむけずにしっかり見てリアルなイメージを持ちやすい地獄絵になっているように思う。
これは庶民相手の絵解きに使われたものであろうから、白隠が多く残した禅画墨跡の突き詰められた世界とは違う持ち味のものだが、幼少の頃に地獄の話を聞いて恐ろしくなったことのトラウマがあるのか、過度に恐怖心を煽らずに地獄を含む仏教的世界観を伝えようとする心配りの感じられる作品だ。

隣の一行書 「南無地獄大菩薩」(大阪新美術館建設準備室)の方にはおそらくそのような気遣いはなく、薄墨ながら骨太の文字の直截的な表現は、地獄絵以上に地獄の何たるかを示しているように思われた。

白隠の過去記事まとめ


木喰明満作 「十王坐像・葬頭河婆坐像・白鬼立像」(文化4(1807) 兵庫・東光寺)についても、少なくとも過去に3回ほど言及しているのであまり付け加えることもないが、これまでは満面に笑みを浮かべた 自身像 (自刻像)がセンターポジションにいる13体の群像として見ていたのに対し、今回はその一回り大きい自身像が抜けて、地獄の主役である閻魔が12体のセンターを務めていた。

そうなると今まで以上に 閻魔に注目することになるが、その表情は地獄の王のものとしては穏やかで明るく、前に揃えられた手も可愛らしく、そうしたリーダーの雰囲気はメンバー全体に波及している。
右端の 白鬼はさすがに鬼らしさを保っているものの、左の 葬頭河婆には人のよさそうな笑みもうかがえ、周囲の十王たちも、中にはやや気難しそうな顔で威儀を正している王もいるが、自身像のように柔和な笑みを浮かべている方が主流という印象だ。
けっして見る者を威嚇するわけではなく、我々をみなで受け止めてくれようとしているのだろうか、死後の世界など怖れることはない、とにかく善行を積んでいれば心配はない、そんなメッセージを発してくれている・・・

>木喰過去記事
円空・木喰展 (2015年、そごう横浜) 
木喰展(2008年、そごう横浜) 
対決、巨匠たちの日本美術 日本美術が笑う 仏像、一木にこめられた祈り

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2017年08月22日

タイ〜仏の国の輝き-2 身近な仏陀と聖なる森の扉

(東京国立博物館 〜8/27)
”タイ前夜” を扱った第1章が長くなってしまったが、本当のタイ文化は1238年にタイ族がひらいた ”第2章 スコータイ 幸福の生まれ出づる国” から始まる。

2体の「仏陀坐像」(スコータイ時代・15世紀 ラームカムヘーン国立博物館)は、ちょっとすましたような穏やかな表情で静かに坐る、いかにもタイの仏像らしいお姿だ。
それは、上座仏教の国ならではのブッダ像というべきか、大乗仏教の我が国や中国のように人々を救ったり教え諭したりといった大きな役割を担うのではなく、向き合う人に静かに寄り添う親密なホトケの姿だなのだろう。
我々日本人にとっての仏教は、大陸から渡ってきた超越的で神秘的な体系であり、その受容が国家的な課題となったり ”鎮護国家” の願いを託されたりといったレベルで論じられ、経文なども抽象的かつ観念的な要素が強く、やや近寄り難い感は否めない。
だから、初めてパーリ語由来の上座仏教の言葉、たとえば 「犀の角のようにただ独り歩め」、「全ての生きとし生けるものに無量の慈しみの心を」 (スッタニパータ)や、「うらみを捨ててこそ鎮まる」、「心をつつしみ己を守れ」 (ダンマパダ)などにふれた時、これが同じ仏教なのか、ブッダの教えとは実はこのように平易で直截的なものだったのかと驚いたことを思い出す。
以前は ”小乗仏教” という呼び方で習った上座仏教の国々では、これらの言葉が個人レベルで自然に受け入れられ、生活の一部として根付いているとしたら、同じ仏教国とは言ってもその心のありようには随分と差異があることになり、それがこうした仏像彫刻の表現にも表れているともいえるのだろう。

仏陀遊行像」(スコータイ県シーサッチャナーライ郡ワット・サワンカラーム伝来 スコータイ時代・14〜15世紀 サワンウォーラナーヨック国立博物館)も、どちらかといえば聖性よりは親しみやすさの方が強い優美な像で、一瞬立ち止まったところのようにも見えるが、こちらが歩き出すとつられて動き出すような感じが新鮮だった。
それにしても、そもそも仏像は中性的に表現されるのが基本のはずで、しかしブッダは王子=男なのだからそのように見えてもいいと思うのだが、このすべらかな像の乳首や太腿には女性的な艶やかさがあって、なんとも不思議な雰囲気を醸し出していた。

第3章 アユタヤー 輝ける交易の都” は、14世紀の半ばから400年にわたり国際交易国家として繁栄したいわば絶頂期を扱うのだが、展示は 「金象」、「金舎利塔」、「玉座模型」といった工芸品が中心で、仏像すらも工芸品のように見えた。
脅威だった隣のアンコール朝は既に衰退し、南シナ海とベンガル湾の通商ルートを抑えて安定していた時期のタイの文化的側面は実はそういうことだったのか、そうではなくて今回はたまたま工芸的な作品しか来なかったのかは分からないが、「三界経」の展示部分で六欲天と八大地獄が紹介されていたところに、時代は違うが平安時代に浄土思想が急速に流布したことなどを重ねて思ったりした。

第4章 シャム 日本人の見た南方の夢” では少し視点を変えて、日本からも商人たちがアユタヤに向かい日本人町を舞台に取引した時代を、「アジア航海図」、「異国渡海朱印状」なので振り返ることができた。

最後の ”第5章 ラタナコーシン インドラ神の宝蔵” にあった巨大な 「ラーマ2世王作の大扉」(バンコク都ワット・スタット仏堂伝来 ラタナコーシン時代・19世紀 バンコク国立博物館)は、浮彫があまりに稠密で最初に向かい合ったときには何が表現されているのかわからなかったのだが、徐々に目が慣れてくると、植物が複雑に入り組んだところに夥しい動物たちがいる様子が次々に見えてきて、その豊饒な世界に唖然とすることになった。
これが何層かのパーツに分けて作られてから組み合わせたものならあまり驚く必要はないかも知れないが、一枚の大板を表面から彫っていってこのような重層構造にしたとなると、その技量や手数は信じ難いレベルのものだということになる。
ともあれ、第一級王室寺院 ワット・スタットの正面を飾っていたこの扉が表しているのは、ブッダが独り思索を深めた聖なる森の奥深さであり、そこに棲むすべての生きとし生けるものの多様性に違いない。

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2017年08月20日

レオナルド x ミケランジェロ展-4 未完のキリスト

(三菱一号館美術館 〜9/24)
レオナルドとミケランジェロの ”対決” を見てきた本展のフィナーレは ”終章: 肖像画”、ここでも ミケランジェロ・ブオナローティの 「老女の頭部」(1525-1530年頃)は、この大芸術家がどんな時にもどこまでも真面目に物事に取り組む、そんな真摯な人柄を伝えていた。
レオナルドの 「月桂樹の冠をかぶった男性の横顔」(1506-1508年頃)が、しっかりと陰影をつけて描き込まれているのにカリカチュアのように歪んでいるのを見ると、つまるところ レオナルドは、人の顔を見てもそれを形として把握し、恣意的に誇張することで自らの技量を示すことに熱心だったように思われる。
ルネサンスという一時代を画した文化運動の体現者のような レオナルドが、細かな技に走り表面的な面白さを追求していた一方で、マニエリスムへの道を開いたともいわれる ミケランジェロの方が、正面から人間を見つめそこに現れた人格を正攻法で描いていた・・・

”ロンバルディア地方のレオナルド派の画家(ジョヴァンニ・アンブロージョ・デ・プレディス?)”による 「貴婦人の肖像」(1490年頃 ミラノ、アンブロジアーナ美術館)は、けっして凡作だというわけではないが、 ”レオナルドxミケランジェロ展” の最終盤に登場するのにふさわしい作品なのか、そして、この絵における ”レオナルドの介入” とはどのようなものなのか、なんとも疑問の残るクロージングだった。
と思ったら、その先の1階展示室に、本展最大の問題作があった。

ミケランジェロ・ブオナローティ(未完作品、17世紀の彫刻家の手で完成)” というキャプションのついた 「十字架を持つキリスト」(ジュスティニアーニのキリスト、1514-1516年 バッサーノ・ロマーノ、サン・ヴィンチェンツォ修道院付属聖堂)は、ミケランジェロが着手し進めたものの顔の部分に黒い疵が現れたために制作途中で放棄、未完成のまま行方不明となってが2000年に現在の形で ”発見” されたという作品だ。
確かに左頬のあたりに黒い線が入り痛ましいが、それこそが本作の来歴を示す貴重な証拠であり、並みの出来ではない彫像であることも間違いないが、しかしどこまでが ”ミケランジェロ” なのかは悩ましい。

十字架を抱えた男がなんとも悲しげで弱々しく見えるのは、そういう作品なのだから当然のことなのであって、そこはテーマどおりによく出来ているというべきなのだろう。
「復活のキリスト」という見立てもあったらしいが、ギリシャ彫刻のような全裸像ではあっても、そのような明るさや力強さを示す像だとは思われない。
一方、イエス・キリストという人物のイメージよりはやや太めで、体型も姿勢も弛緩している感じは否めず、立ち姿として自然なものではあっても、高貴さや崇高さといったものはあまり感じられない。
また、顔はしっかり彫り込んであるが体躯に比べて小さ過ぎる感じがするし、背面に回ると大雑把な彫りのままで終わっている。

だから、後世の手が入っていることは間違いないのだが、それは ”完成品” として扱われるようにするための最小限度の手入れにとどまっているのだろうか。
そう思いたいところなのだが、大きな像からは微妙な不協和音も聞こえてくるようで、なんとなくすっきりしない感じが残り、基本的な骨格はミケランジェロで表面の仕上げは別人、という単純な話ですむものでもなさそうだ。
絵の具を上に塗り重ねていく絵画と違い、大理石を削っていく彫刻では、どこが後世の手による部分かを科学的に解明することも難しいのであろう。

それにしても、鼻の突起を残して頬のレベルまで彫り進んだところで致命的な疵が出てきてしまうとは、大理石で彫像を作るリスクは意外なところに隠れているものだと思うけれど、さすがの天才もそこまで読み切れるものではなかったということなのか・・・


>ミケランジェロ・ブオナローティの過去記事
システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡 (2013年、国立西洋美術館)
  レダの頭部 天地創造 最後の審判 階段の聖母 キリストの磔刑 クレオパトラ 建築とソネット
ミケランジェロ展―ルネサンス建築の至宝 (2016年、汐留ミュージアム)
  ブリュージュの聖母 クマエの巫女と天地創造 絵画と彫刻と建築 図書館、要塞、大聖堂

>レオナルド・ダ・ヴィンチの過去記事
レオナルド・ダ・ヴィンチ、天才の実像 (2007、東京国立博物館) 
ダ・ヴィンチ〜モナ・リザ25の秘密 (2011、日比谷公園) 
レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想 (2012、ザ・ミュージアム) 
レオナルド・ダ・ヴィンチ展〜天才の肖像 (2013、東京都美術館) 
ポルディ・ペッツォーリ美術館-5 盾をもつ戦士

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2017年08月17日

ボストン美術館の至宝-2 陳容の九龍図

(東京都美術館 〜10/9)
徽宗皇帝、馬遠、夏珪と続いた ”2 中国美術” の奥には、周季常の 「五百羅漢図」(南宋、淳熙5年(1178)頃)が出ていた。
これは一幅に5人の羅漢を描き百幅で ”五百羅漢” とするもので、以前見た 狩野一信の「五百羅漢図」全100点のシリーズの原型でもあるのだろう。
本作は 大徳寺に全て所蔵されていた1894年にボストン美術館で展覧会が開かれ、その後に売り立てられたうちの10幅をボストンが購入、これがその後の中国美術収集の端緒となったということなので、その意味でも重要なコレクションだと言える。
展示は2幅のみだったが、登場する羅漢の風貌はかなり個性的で、「観舍利光図」には蝙蝠のような悪鬼が飛び交い、「施財貧者図」には襤褸を着た貧者がうごめくなど、見たことのない空想的な世界が広がっていて、当時のアメリカ人が驚いたという話もよくわかるものだった。

陳容の 「九龍図巻」(南宋、淳祐4年(1244))は、10メートル近い巻物に9頭の龍が躍動する作品。
峡谷から姿を表し、風とともに飛翔し、断崖に体を寄せ、玉を掴み左方を睨む、といった場面が右から左に流れていて、特に左前脚でしっかと玉を掴み大きく口を開ける4番目の龍の姿は迫力のあるものだった。
ここまでは、もしかしたら1頭の龍の異なる姿を時系列で描いたものかとも思ったが、その次は年老いた白髪の龍が右にいる若い龍に教えを授ける場面ということなので、やはりそれぞれ別の9頭の龍の姿ということになろう。
その先では荒れ狂う大波に挑み、再び大空を飛び、そして最期は岩の上で休む姿で終わるが、その悠然たる佇まいは死期を悟っている境地のようにも思われた。

ここに見る9頭の龍の体躯は、固そうな鱗にみっしりと包まれ、特に背筋のギザギザした盛り上がりは刃のような鋭さで、今までイメージしていた龍ないし辰よりかなり硬質な手触り感があった。
荒れ狂う波濤と雲烟の表現も見事なもので、それはさまざまな技法が試されて実現しているようだが、そんな水や雲の湿潤な世界を通り抜けてなお乾いた感じを保っているところも、我々の知る仮名文字の龍ではない、本家本元の漢字の龍だという気がした。

先ほどの老龍と若い龍の対話の場面に戻ると、そもそも龍が年を取るということ自体がやや意外でもあり、一方に未熟な龍がいるというのも面白いが、そうした精神的ステージと角の形にはなにか関連があるのだろうか。
というのも、老いた龍はすでに退化したのか角は見えていない一方で、若い方の頭には鹿の角のように分岐した枝を持つ角が生えていたからだ。
しかしこんな立派な角は修行中と見えるこの若造だけであって、それ以外の龍たちは枝のない真っ直ぐな2本の角をつけているだけだ。
このシンプルな棒状の角が一人前の壮年で現役の龍のしるしなのか、最後の休息する龍の角は同じ形態ながら枯れ木のように傷んできていた・・・
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hokuto77 at 22:33|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2017年08月16日

タイ〜仏の国の輝き-1 法輪とスーリヤの軸

(東京国立博物館 〜8/27)
日タイ修好130周年記念特別展 「タイ〜仏の国の輝き〜」は、タイの典型的な仏像群の紹介に留まらない、思っていた以上に変化に富んだ展覧会だった。
タイという国は、アユタヤ朝時代から日本人町を通した交易があり、帝国主義の時代にもアジアでは数少ない植民地にならなかった王国なので、古くから東南アジアの中心的なポジションにいたようなイメージがあるが、この展覧会がまず扱う7世紀頃のこの地域の情勢は、大国であるインドと中国を一応別格とすると、スリランカとクメール族のアンコール朝が繁栄し文化的にも先進的であった。
それらに準じる勢力だったと思われる シュリーヴィジャヤはタイの半島部、現在の地図で言えば象の鼻の部分を含んでいるが、支配範囲はマラッカを経てジャワ島まで及んでいて、インド洋と東の多島海を繋ぐ海洋大国としての性格が強い。

そんな中、現在のタイの中心であるチャオプラヤー・デルタの農村地帯は、豊かな地域ではあったのだろうが政治的には ドヴァーラヴァティーという ”幻の王国” の存在がコインの発掘でようやく確認されたという程度であって、外に対して影響力を発揮する余裕はなく、むしろ周辺からの脅威に晒されていた時期が長かったようだ。
そのあたりの混沌とした時代を扱った ”第1章 タイ前夜 古代の仏教世界” が意外にも面白かったのは、そこにさまざまな勢力が行き来することによって、多様な文化の坩堝となっていたからなのだろう。

法輪」(ウートーン遺跡出土 ドヴァーラヴァティー時代・7世紀 ウートーン国立博物館)は、想像以上に大きく重量感のある石造りの輪で、近くにあった柱や頂板と組み合わせれば周囲を睥睨する迫力だったに違いない。
輪の部分には華麗な彫刻も施され、仏法が広まっていくことを象徴的に表したものとの説明も一応は理解できるのだが、横へ回ると車輪の接地面がこのまま転がしたら地面にめり込んでしまいそうなほど鋭角的なので、むしろ悪を払う武器に近いのではないかとの印象を持った。

少し先の 「舎衛城神変図」(ドヴァーラヴァティー時代・7〜8世紀)という浮彫は、中央のブッダが超人的な能力を発揮しているところをイリュージョン的に表現したもので、異教徒の挑戦を退ける力を期待して制作されたものらしい。
当時のタイの人々にとって、釈迦や仏教がそのような存在だったとすれば、「法輪」に託した思いもまた同じようなものだったのではないか。

本章の後半は、そうしたタイをめぐる東西文化の交流や融合が見て取れる展示となっており、インド風の目鼻立ちのはっきりした 「観音菩薩立像」(スラートターニー県 シュリーヴィジャヤ様式・8〜9世紀)があるかと思えば、「仏陀坐像」(同 6〜7世紀)はボロブドゥールの回廊に並ぶ石像のようだし、少し先の 「観音菩薩立像」(カンチャナブリー県 アンコール時代・12世紀末〜13世紀初)はバイヨン寺院などを建立したジャヤヴァルマン7世の特徴をはっきり伝えるアンコール様式だ。
展覧会冒頭にあった 「ナーガ上の仏陀坐像」(ワット・ウィアン伝来 シュリーヴィジャヤ様式・12世紀末〜13世紀 バンコク国立博物館)も、端正な顔の優品ではあるものの写実的な風貌はタイの仏像らしくないと思ったのだが、カタログ番号ではこの前後となるシュリーヴィジャヤ様式のものだった。

このあたりで一番心に残ったのは 「スーリヤ立像」(ペッチャブーン県シーテープ遺跡ソーンピーノーン仏塔跡出土 ドヴァーラヴァティー時代・7〜8世紀 バンコク国立博物館)、太陽神といいながら随分と身近な感じの像で、立派な髭をたくわえているのに大きな目を見開いた顔は子供のようだし、裸の体躯も幼児のような柔らかさが感じられる。
この素朴でストレートな表現は、インドやアンコールなど周辺諸国の影響や仏教的世界観が浸透してくる以前の、タイ固有の土着的なものではないかと思った。


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2017年08月14日

不染鉄、聖なる塔と富士と心象風景

(東京ステーションギャラリー 〜8/27)
”後40年 幻の画家 不染鉄 展” は、またひとりのユニークな画家と出会う機会となった。
不染 鉄(ふせん てつ、本名哲治、明治24(1891)〜昭和51(1976)年)は、先に見た 吉田博(1876〜1950)より15年、生き方に共通するところのありそうな 横井弘三(1889〜1965)より2年後輩ということになるが、23歳の時に写生旅行先の伊豆大島に住み着いて3年ほど漁師暮らしをしたり、その後京都市立絵画専門学校に学び高い評価を得ても、画壇を離れて奈良の高校長などをしながら独自の創作を続けたという人柄のせいか、彼らより古風に見える作風の中に土着的な魂が見え隠れしているような気がした。

奈良の風景を描いた作品が多い中で、「薬師寺東塔之図」(昭和45(1970)年頃、星野画廊)は、裳階付きの三重塔が画面中央にくっきりと立ち、春日曼荼羅などの礼拝図に近い趣きがあった。
そこには生涯の大部分を過ごし愛着もひとしおだった土地のシンボルとしての力強さが感じられたが、一方では穏やかな風景の中に溶け込んだ東塔の姿を描いた作品もあり、そういえばこれこそが私が奈良に頻繁に通っていた頃の薬師寺、西の京の風景だったことを思い出した。
その後に金堂や西塔などを次々に再建して往時の威容を甦らせたこと、そしてそれを写経による資金調達で実現したり修学旅行生への解説に力を入れたりといった薬師寺の活動には高く評価すべき面もあるが、東塔一基がその優美な姿を見せるこの風景が失われたことを惜しむ気持ちもまた否定しがたい。

代表作といわれる大作 「山海図絵(伊豆の追憶)」(大正14(1925)年 木下美術館蔵)も、初めに目に入った時は富士参詣曼荼羅図のように見えた。
しかし、画面中ほどの主要部分に近づいてみれば、茅葺き屋根の家の傍らには熟した実を付けた柿の木が立ち、集落が点々とする農村地帯を汽車が通っていくという、典型的な日本の秋の風景が細かく描かれている。
そうした人間の世界が昇華していくように中央に屹立するのは霊峰富士、だがその向うはもう日本海側の光景なのか、身を寄せ合うような家々には雪が降り積もり、一方で画面手前には漁村の様子が詳細に描かれ、その先の海では漁が行われ、そして透明度の高い海の中には群れ泳ぐ魚までが見える。
マクロとミクロの目を自在に使い分けて、ひとつの画面の中に山と海、秋と冬、農村と漁村、太平洋と日本海までを描き込んだこの作品は、ここにニッポンの全てがあるという感じがするが、制作動機はいったいどのようなものだったのだろう。

この2点を含む ”第3章 聖なる塔・富士” が、不染鉄の画業の中心になると思われるが、その前の ”第1章 郷愁の家” には朦朧体で描いた四季折々の風景があり、「生い立ちの記」という4点の小さな画面には丁寧な字で素直な文章が書き込まれていて、独特の作風や数奇な生涯にもかかわらず、人柄そのものは穏やかな常識人だったように思われた。
”第2章 憧憬の山水” は、主に伊豆大島と奈良、そして信州の山岳風景をとおして南画風の風景画がさまざまに試されていた。
”第4章 孤高の海” には波の表現の違いによって様相を異にする多彩な海が見られたが、蓬莱山らしい孤島を取り囲み波が打ち寄せる 「南海之図」昭和30(1955)年頃、愛知県美術館蔵)には特に凄味と迫力を感じた。

ここまでの 不染鉄による富士山や塔や海景の絵は、もちろん単なる風景画に留まるものではないが、最後の ”第5章 回想の風景” にはさらに象徴性を帯びたような作品があった。
廃船」(昭和44(1969)年頃 京都国立近代美術館蔵)は、役立たずとなって朽ちていくだけの巨大な船体が画面奥の方に横たわり、手前の集落では火災が発生しているのに誰かが気付く気配は感じられないという、終末の世界のように絶望的なもの哀しい風景だ。

一方、「落葉浄土」(昭和49(1974)年頃、奈良県立美術館蔵)には救いがある。
画面中央の山寺のお堂の中にはご本尊や守護神たち、山門辺りには仁王や六地蔵も見えるのだが、それは仏像彫刻がそこにあるというのではなく、本当にそうした仏たちがそれぞれの持ち場でお勤めに励まれているところのようだ。
左の庫裡では師と弟子が静かに向かい合い、そうしたお寺の営みを傍らの大きな銀杏の樹が見下ろし、その全体をおだやかな山々が懐に抱くように包んでいる。
落葉散る晩秋の薄暗い風景ではあるが、そこには思いがけないあたたかさがありやすらぎが感じられた。

hokuto77 at 21:12|PermalinkComments(0)日本絵画(近現代) 

2017年08月12日

アルチンボルド展-5 強烈なる諷刺の系譜

(西洋美術館 〜9/24)
VI. 職業絵とカリカチュアの誕生
本章では第1章に続いて レオナルド作品が再登場、カリカチュアはこの ”天才” に淵源があるということなのか、レオナルド・ダ・ヴィンチの真筆らしき 「グロテスクなふたつの動物の頭部」(ウィンザー城、イギリス王室コレクション)はまだ抑制が効いているものの、”レオナルド・ダ・ヴィンチにもとづく” というグロテスクな頭部を描いた一連の作品には悪意すら感じられる。
こうして顔のパーツや表情を誇張して醜く描くことと、その形を職業などの属性に合ったもので構成することの間には随分と距離があるのではないかと思うが、”顔” を素材に何をしてもいい、というレールを引き始めたのがレ オナルドだということなら、そこに アルチンボルドの登場を促した先駆者としての功績を認めるに吝かではない。

それにしても、アルチンボルドの 「法律家」 (1566年 ストックホルム国立美術館)は辛辣だ。
遠目には醜い肖像画のように見えるだけなのに、少し近づくと顔に蛙がへばりついているのかと思い、さらに近寄って見ると、その顔自体が羽根をむしられた鳥と魚たちで出来ていることに気づき、愕然とさせられる。
こんなふうに描かれた行政官はどれほどの悪人だったのか、彼に対するあからさまな敵対心がなければ描けない絵であり、、そしてそれがある程度まで共通のものになっていなければ発表できない絵であることは確かだろう。

司書」(スコークロステル城)は以前も来日した作品だが、眼のパーツが左右対称ではないところが面白く、「四季」や 「四大元素」などの横顔よりハードルを上げて見事に解決している。
これも、「法律家」ほどの悪意はないにしても決して好意的なものではないので、当時のハプスブルク宮廷には困った人たちが多かったということでもあるのだろう。
アルチンボルドがもし今も生きていたら、およそ真実や本心を語っているとは思えない厚顔な政治家や官僚たちを、いったいどんなふうに描くことになるだろうか。

ソムリエ(ウェイター)」(1574年 大阪新美術館建設準備室)は、三枚の ”職業絵” の中では一番毒がない。
だからその分インパクトが弱いのか、やはりカリカチュアは批判精神の強さが必要条件なのだということに違いない。

hokuto77 at 20:04|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年08月10日

ベルギー奇想の系譜-2 ボスの追随者とブリューゲル

(ザ・ミュージアム 〜9/24)
ヒエロニムス・ボス工房の 「トゥヌグダルスの幻視」を中心に三章構成で500年のベルギー絵画史を ”奇想” の切り口で見て行くこの展覧会は、”I 15―17世紀のフランドル美術” から始まる。
ボス派=ヒエロニムス・ボスの追随者たちによる初めの方の3枚は、ヘントの聖ヒエロニムス、リスボンの聖アントニウス、プラドの聖アントニウスからそれぞれにアイディアをもらい発展させたという印象で、ヒエロニムス・ボスの影響力の大きさをあらためて感じさせられた。
そこに豊満な裸女やクジラのような舟を登場させたりといった工夫もみられるのだが、それで絵がよくなっているわけではない。

そうした中で、ヤン・マンデインの 「聖クリストフォロス」(制作年不詳、ド・ヨンケール画廊蔵)は独創的な部分がよい効果を生んでいて、新たな世界に一歩踏み込んだものと言えそうだ。
右に見える老女の頭の形をした娼館、その中に広がる地獄、左で行われているいかさま賭博、そして夥しい怪物たちが跋扈するといった要素はもちろんボスのものであるが、そんな世界の中で、中央の聖人とイエスは取り残されたように孤独感を漂わせている。
そして、その全体を包むのは現実離れしたシュールな世界、遠景中央の島は想像上の要塞のようであり、空は嵐がやってくる前触れなのか、独特の色使いによる日常性を超えた風景は、現代のシュルレアリスト(たとえば古賀春江)に通じる斬新さで、ボスの真似だけでは描けない個性が感じられた。

その先には版画が何点かあったが、先に見た ”ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル 「バベルの塔」展” とほとんど重複した図柄を、ロッテルダムではなくブリュッセルやアントウェルペン、パリや鎌倉などから集めてきていた。
もちろんこの二つの展覧会は全く別の企画として準備が進められたはずで、宇都宮からの巡回が3月9日に始まっているこちらの方が日本上陸は若干早かったのかもしれないが、結果としてほぼ同時期にかち合うことになったについては主催者も驚いたのではないか。
ブリューゲルの版画も同様、本当は一年くらい間が空いて再会した方が有難味があったかとも思うが、ボスの 「愚者の石の切除」に似た作品でバベルの塔展では 「石の切除」(71559年)と紹介されていた作品が、本展では 「マレヘムの魔女」というタイトルになっていたなどという ”発見” もあった。

少し先の ダーフィット・テニールス(子) 「聖パウロを訪ねる聖アントニウス」は、90歳のアントニウスが113歳のパウロを訪ね当てた場面で、二人の老人は穏やかな光に包まれて座り親密に語り合っているようだ。
こんな出会いはあり得ないではないか、などと無粋に突っ込まず、二人分のパンをくわえて飛んで来るカラスにも特に注目しなければ、特に ”奇想” と呼ぶ必要性を感じないほどの、それは美しくあたたかみのある絵だった。


>ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル 「バベルの塔」 展 (2017、東京都美術館)
ボスの「放浪者」 ボスの「聖クリストフォロス」 ボス派の油彩と版画
ブリューゲルの版画 バベルの塔という企て 二つの未完の塔 ”正義” が崩れゆくとき
16世紀の聖像と祈念図 多様化する絵画世界 ボス、新たなベスト18

hokuto77 at 19:37|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年08月09日

吉田博展-2 移りゆく画題と多彩な作風

(損保ジャパン 〜8/27、展示替えあり)
本展で思いがけず引き込まれることになった 吉田博だが、これまでに彼の作品を見たことがあったのか、本ブログ内を検索してみたところ、辛うじて神楽坂風景が心にとまったみたいだ。
その他では、東京国立博物館で見た 「精華」という、数頭のライオンが寝そべるすぐ前の岩に全裸の若い女が腰かけて手を差し出している絵が吉田博のものらしい。
”美女と野獣” の組み合わせで、まずあり得ない場面の緊張感に妙に胸騒ぎがしたことは覚えているし、ヌード画としては美しく達者な腕前だとは思ったが、絵画としては失礼ながらあまりいい印象をもつことが出来なかったような気がする。
油彩で157.6cm×270cmという大判のこの作品は、1909年というから 黒田清輝の 「智・感・情」」(1899=明治32年)より10年後なので、もう裸体画論争は決着していたのか、あるいは黒田への長年の対抗心が描かせたのか、そして今回の展覧会では見当たらなかったが他にこれに似た作品はあるのか、といったことが気になった。

ともかくも、吉田博はその生涯の中で、外的要因によって題材や作風を大きく変えている。
季節感あふれる日本の農村風景に始まり、アメリカで成功してヨーロッパに回る中で各地の風景を描き、第一次大戦で渡航が難しくなると国内の山岳風景に没頭する時期があり、そして昭和初期にはインドと東南アジアへの旅に出る。

第五章 新たな画題を求めて:1930-1937” には、このアジア旅行に取材した作品が並んでいて、ヒマラヤを望むダージリンやタージマハルなどが分かりやすいところだが、印象的だったのは光の効果を上手く捉えた2枚の作品だった。
ベナレスのガット」(昭和6年、木版)は、ヒンズー教徒の聖地ヴァラナシのガート(沐浴場)を舟の上から見た光景で、ガンジス河岸で沐浴する人々のゆるやかな動きと、そこから広がる水面の波紋の表現も好ましいが、対岸から昇ってくる朝日を正面に受けて赤茶色の建物が燃えるように輝いている様は神々しいほどだった。
一方、「フワテプールシクリ」(同)はアグラ近郊のファテープル・シークリーというイスラム建築の室内の様子だが、屋外の強烈な陽射しが幾何学模様の網目を通して入ってくることで徐々にやわらぎ、蔀戸の中のように光と闇の中間でほんのりと明るい空間となっている雰囲気がよく表現されていた。

第六章 戦中と戦後:1938-1950” に入ると、60歳を過ぎた従軍画家として戦地へ赴いた吉田博によって、これまでとは全く違う世界に導かれる。
基本的には軍部の意向に沿った記録的な作品を残したものと思われるが、驚くのは 「急降下爆撃」と 「空中戦闘」(昭和16年、油彩)という2枚の大作だ。
それはパイロットの目から見た空中戦の様子が描かれたもので、戦闘機に搭乗してみなければ絶対に描けない光景に違いなく、おそらく訓練などの場面で同乗させてもあったことはあったのだろう。
それでも素人の老人を乗せて急降下や旋回をしたはずもないから、わずかな疑似体験や聞いた話、写真やスケッチをもとに再構成したものと思われるけれど、ある程度の実体験とその時に網膜に焼き付けられた残像、そして何よりも新鮮な驚きがなければ出せない迫力だ。
これらも戦争画というジャンルに分類されるとは思うが、好戦的でも迎合的でもなく、高いところ好きの男の純粋な悦びと、それを描かずにはいられない画家の本能による作品と理解しておきたい。

そしておそらく最後の完成作品と考えられている 「初秋」(昭和22年、油彩)は、これまでの遍歴の全てを総括するような、純日本的な田園風景だった。
どこにもあるような、だからこそ日本の原風景のような農村と山々、ダイアナ妃やフロイトに愛され、マッカーサーも知っていたという 吉田博は、日本人よりも外国人を惹きつけるものを持っていたように思えるが、戦後の荒廃の中で人生の最終盤に取り組んだのが、こうした穏やかな日本風景だったところは興味深い。

hokuto77 at 00:05|PermalinkComments(0)日本絵画(近現代) 

2017年08月07日

レオナルド x ミケランジェロ展-3 異種格闘技

(三菱一号館美術館 〜9/24)
前回はほとんど脱線で終わってしまったので本筋に戻ると、本展は レオナルドと ミケランジェロの 素描を、”序章:レオナルドとミケランジェロ─そして素描の力” に続き、”I. 顔貌表現”、”II. 絵画と彫刻:パラゴーネ”、”III. 人体表現”、”IV. 馬と建築”、”V. レダと白鳥”、”VI. 手稿と手紙”、”終章:肖像画” という各ジャンルで ”対決” させている。

”III. 人体表現” には、この二人が現実に ”対決” することとなったフィレンツェ政庁舎(ヴェッキオ宮殿)大会議室(五百人大広間)のために レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた 「〈アンギアーリの戦い〉のための裸体人物とその他の人物習作」(1506-1508年頃 トリノ、王立図書館)があった。
しかしこれを見る限りは、せっかくの勝負が成立しなかったのは後世の野次馬として残念なことだが、レオナルドにとっては幸運だったのかもしれず、そもそも23歳も年下の ”彫刻家” と壁画の競作をすることなど端から不本意だったのではないか。

ミケランジェロ・ブオナローティの 「〈イサクの犠牲〉のための習作」(1535年頃、カーサ・ブオナローティ)は、彫刻レリーフのための素描なのだそうだが、これを見ると天才ミケランジェロにも試行錯誤はあったことがよくわかる。
しかし、裏面の少しポーズの違う反転した像は、少し前に新発見され今回は貴重な展示ということなのだが、これは意味不明だ。自作を紙の裏からなぞるという行為は大芸術家にとってナンセンスなことに違いなく、輪郭線も弱々しく収まりが悪いので、これは別人の引いた線と見るべきではないか。

同じように両面展示されていた 「〈復活のキリスト〉のための習作」(1532-1533年頃)にも試行錯誤の跡は顕著で、あのミケランジェロもこんなに迷ったのかとの思いをあらためて強くするととともに、同じ ”習作” といいながら冒頭にあった 「〈レダと白鳥〉の頭部のための習作」との出来栄えの落差の方も気になってくる。
おそらく本章の方はモデルを前にしてのものではなく、まずモデルなしで頭の中のイメージを紙に落とすという、制作過程全体の中での最初期の段階のものなのであろう。
そのようにして構成要素を吟味し、ある程度まで構想を固めてからモデルを使っての制作に入ることによって、序章のような完成度に近づく ”習作” が生まれたに違いない。

”IV. 馬と建築” ではレオナルドの馬への傾倒ぶりが分かるが、こんなものにエネルギーを費やした真意は測りかねる。

”V. レダと白鳥” は、以前もコピー作品同士による比較展示があったが、今回出てきているのはそれぞれ別の作品のようだ。
メルツィの作品の可能性があるという、レオナルド・ダ・ヴィンチに基づくレダと白鳥」(1505-10年頃 ウフィツィ美術館)は、裸の女の立ち姿は眼を引くもののあまりに通俗的で、これでは親方のオリジナルがどの程度の品格を備えていたのか全く見当がつかない。
フランチェスコ・ブリーナ(帰属)の 「レダと白鳥(失われたミケランジェロ作品に基づく)」(1575年頃 カーサ・ブオナローティ)もやはり通俗的な印象で、解剖学的にも無理がありそうだし、そもそも女性的な官能の魅力を感じ難いのだが、それでも絵として堅固な感じがするのは、オリジナルの骨組みがしっかりしているからなのだろう。

”VI. 手稿と手紙” には例によってレオナルドの珍妙な設計図が多かったが、「大鎌を装備した戦車の二つの案」(1485年頃)などはどこまで真面目だったのか見当もつかず、余興のお笑いコーナーのようなものとみるべきであろう。
それよりも、ミケランジェロの 「十四行詩(ソネット ”私にはわかりません、…待ち焦がれた光なのか” )」(1533年8月)は、内容は残念ながらよく分からなかったものの、一枚の紙の上に構成された ”書” として美しく心地よいものだった。


>ミケランジェロ・ブオナローティの過去記事
システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡 (2013年、国立西洋美術館)
  レダの頭部 天地創造 最後の審判 階段の聖母 キリストの磔刑 クレオパトラ 建築とソネット
ミケランジェロ展―ルネサンス建築の至宝 (2016年、汐留ミュージアム)
  ブリュージュの聖母 クマエの巫女と天地創造 絵画と彫刻と建築 図書館、要塞、大聖堂

>レオナルド・ダ・ヴィンチの過去記事
レオナルド・ダ・ヴィンチ、天才の実像 (2007、東京国立博物館) 
ダ・ヴィンチ〜モナ・リザ25の秘密 (2011、日比谷公園) 
レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想 (2012、ザ・ミュージアム) 
レオナルド・ダ・ヴィンチ展〜天才の肖像 (2013、東京都美術館) 
ポルディ・ペッツォーリ美術館-5 盾をもつ戦士

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年08月05日

ボストン美術館の至宝-1 徽宗の五色鸚鵡図巻

(東京都美術館 〜10/9)
ゴッホを看板に古代エジプトから現代アートに及ぶ幅の広い ”ボストン美術館の至宝展-東西の名品、珠玉のコレクション” 展、その中で一番注目することになったのは ”2 中国美術” のコーナーだった。

徽宗筆 「五色鸚鵡図巻」(北宋、1110年代頃)は、大きな巻物の右側部分の ”” の立派なことにまず驚かされた。
北宋の皇帝の書らしく繊細で丁寧な文字ではあるが、伸びやかな墨の線には張りも勢いもあって、そこに弱さや線の細さを感じるということはない。
ひとつひとつの文字の形や筆さばきも、文字列となった全体のバランスやリズムにも、水準をはるかに超える美的センスと集中力の高さを感じさせられた。

左側の木の枝にとまる鸚鵡の絵も、穏やかな雰囲気の中に高貴な品格の漂うものだった。
横向きで枝をしっかりとつかむ 鸚鵡(ズグロゴシキインコ)は、揺るぎない凛とした姿勢で尾の先まで緊張感を感じさせ、羽毛のそれぞれの部分の色の付き方や肌触りが分かりそうなほど、細やかな筆で緻密に描き込まれている。
この鳥が協奏曲のソリストだとすると、オーケストラにあたるのが 杏樹ということになるが、その枝ぶりも花のつき方も絶妙だとしか言いようがない。
一見するとぼやけた感じがしないでもないのだが、近寄って覗き込んでみると、淡い色の花は匂い立つばかりにふくよかに咲き、そして開いた花の後に芽吹こうとしている若い葉の緑が、枝のあちこちを微かにふくらませながら顔を出している。
それは単に鳥をとまらせるという付随的な役割を担うだけでなく、生命力の息吹や季節の移ろいを感じさせるものであって、その豊かでニュアンスに富んだ響きに包まれて、一羽の鸚鵡の存在感がくっきりと浮かび上がってきていた。

この 「五色鸚鵡図巻」は、徽宗の代表作とされる 「桃鳩図」の華やかさや装飾性とはやや趣を異にするように思われるのだが、そもそも ”徽宗筆” とされる画家が一人かどうかも定かではないのかもしれす、ともかくも ”徽宗ブランド” の中核に位置付けられるべき名品であろう。
書と絵から成る本作は、開封の宮廷に南方から献上された鸚鵡を、徽宗皇帝以下の高官たち一同が愛でている中で書かれたものだということなので、その場の気分の盛り上がりはよくわかるし、優雅でまことに結構なことだとは思う。
しかし、一国を率いる立場としては時間も手間もかけ過ぎであり、こんなことをしているから国運が傾いて、異民族に征服されることになってしまったという面も否定できないだろう。
それでも、北宋王朝がこの後に何年か続いていくよりも、こうした作品を残したうえで南の江南の地に移り、また別の花を咲かせたことの方が結果としてよかったのかもしれず、それこそがまさに歴史の必然だったのだという気もする・・・


馬遠の 「柳岸遠山図」(南宋、12世紀末期)は、団扇型の小さな空間の右下の岸辺に柳が立ち、川には小さな橋がかかり、その向こうは山々が連なっているという風景だ。
その ”馬の一角” から立ちあがる柳の木の枝は、異次元空間から来たのではないかと思うように妖艶な曲線を見せていて、人知の及ばない悠久の世界に誘うかのようだった。

夏珪の 「風雨舟行図」(南宋、淳熙16 –紹熙5年(1189 – 94)頃)は、風雨に翻弄される手前の木々の固まりと、はるか遠くに霞む山の間に茫漠とした水面が広がり、そこに一艘の舟がはかなげに浮かんでいる。
その簡素な舟は、団扇の形の画面左端に辛うじて収まるほど端の方にあって、そこに風雨がどの程度及んでいるのか分からないが、寄る辺のない天涯孤独の境遇を思わせる寂寥感が漂っていた。


>”徽宗” 関連記事
桃鳩図」 (国宝、北宋時代・大観元年(1107)款)
渓山秋色図軸」 (台北國立故宮博物院)
祥龍石図巻」 (北京故宮博物院)
秋景山水・冬景山水図」 (金地院)
鴨図」 (五島美術館)

hokuto77 at 22:43|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2017年08月03日

アルチンボルド展-4 驚異の世界の背景

(西洋美術館 〜9/24)
今回の アルチンボルド展の見どころとしては、もちろん2つの連作が四方に架けられた中央の部屋が突出しているけれど、レオナルド・ダ・ヴィンチとの関係が示唆されていたところも興味深かったので、そのあたりに留意しながら全体をふり返っておきたい。

I. アルチンボルドとミラノ
冒頭の単体作品 「四季」(1590年頃 ワシントン、ナショナル・ギャラリー)を見て、いつもとは違うルートで右の階段を下りていくと、2枚の自画像があった。
自画像」(プラハ国立美術館)は、意思の強そうな風貌が正面からしっかりと描けている正統的なものだが、その右の 「紙の自画像(紙の男)」(1587年 ジェノヴァ、ストラーダ・ヌオーヴァ美術館ロッソ宮)の方は、遠目には同じようなデッサンに見えるのに、近付けば紙細工で出来ていることに気付かされるような、アルチンボルドらしい自画像だった。

その先には レオナルド・ダ・ヴィンチの 「植物の習作」(1505-10年頃 ウィンザー城、イギリス王室コレクション)と 「鼻のつぶれた禿頭の太った男の横顔」(1485-90年 同)があり、さらに ”レオナルド・ダ・ヴィンチにもとづく” という 「3つのカリカチュア」(ロンドン、大英博物館)で、いくぶんか誇張された顔に出会う。
このあたりは、まず対象物をしっかりと見つめ、それをありのままに紙の上に移す、というところから始めながらも、それを自身の世界観に従って再構築する、というレオナルドの厳格な方法論が感じられるところだが、さらにここでは、さまざまな要素から成る人間の顔というものが探求されており、微調整により思わぬ効果を生む ”形” としての顔の発見ともいうべきことが起こっているようだった。

II. ハプスブルク宮廷
本章ではアルチンボルドが36歳から61歳まで働き盛りの25年を過ごした ハプスブルク宮廷が紹介される。
彼は、カール5世によってスペインと2分割されたオーストリア・ハプスブルク宮廷の最初の三代の皇帝、すなわちフェルディナント1世、マクシミリアン2世、ルドルフ2世に仕えたわけだが、その皇女たちを描いた ”ジュゼッペ・アルチンボルドに帰属” という3枚の肖像画は、その性質上画家の個性を発揮するようなものものではないためか、それほどの非凡さを感じさせる作品ではなかった。
これだけなら、その他大勢の宮廷画家のひとりとして終わってしまってもおかしくないところだが、それでも 「マクシミリアン2世の娘、皇女アンナ」(1563年頃 ウィーン美術史美術館)には、はにかむ少女の一瞬の表情が捉えられていた。

ここから階段を上ったところがメインとなる 「四季と 「四大元素の部屋となり、その先には宮廷画家としての仕事として 「ルドルフ2世に献じられた馬上試合の装飾デザイン集」(1585年 フィレンツェ、ウフィツィ美術館)があった。

III. 自然描写
ここの ”ジュゼッペ・アルチンボルドの追随者” による 「」(ブリュッセル王立美術館)は、以前来日した作品だと思うが、このレベルであれば ”モノ好きな画家の奇妙な絵” 以上のものではない。
オリジナルを写す手腕には一応感心しつつも、これではお遊びの一種であって芸術絵画と呼ぶわけにはいかず、しかしそこから逆に、アルチンボルド固有の ”高さ” を思い知らされるようだ。
ただひとつ釈然としないのは、ウィーンのものと比べて明らかな変更があることで、これは普通の複製画家には許されないことだと思うのだが、いったいどんな事情によるものなのか・・・

IV. 自然の奇跡
前章との間に ”クンストカンマー=芸術と驚異の部屋” を説明するパネルがあった。
世界中の珍品を集めたその部屋は、単に収集癖を満足させるオタク部屋というだけではなく、次々に発見され拡大していく世界の隅々から目新しいものを取り寄せることで、被造物のすそ野の広がりを実感し、それによって世界を把握したという確信を持つために威力を発揮したのであろう。
皇帝にとっては、世の中にはこんな珍しいものがある、それはもちろんオレんとこのコレクションの中にある、と言えることが何よりの悦びであり、それを紙やカンバスの上に定着させることのできた画家もまた重宝されたに違いない。

V. 寄せ絵
本章の 「男根による頭部」や 「擬人化された風景」などは、一見するとアルチンボルドと同工異曲の作品に見えるが、レベルが違い過ぎて同列には論じられない。
ただ、聖像破壊が行われている混沌とした風景が凝縮されて醜い僧の頭になっている ”マルクス・ヘーラート(父)に帰属” の 「聖像破壊の寓意」(1566-68年頃 ロンドン、大英博物館)は、大変な労力をかけて制作された激しい教会批判の図だった。

hokuto77 at 20:56|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年08月02日

能 「山姥」-2 仏教世界と民話とアニミズム

能 「山姥がようやく 〈クセ〉 に入ると、山姥の語りはそれまでの自然賛歌から一歩踏み出し、「法性峯聳えては、上求菩提を顕し、無明谷深きよそほいは、下化衆生を表して金輪際に及べり」と、仏教的な際限のない世界へと入っていく。
そうなると、「そもそも山姥は、生所も知らず宿もなし、ただ雲水を便りにて、至らぬ山の奥もなし」は、大自然と一体となった神秘的存在というだけでなく、修行して一層の高みに上るという感じが強まり、「然れば人問にあらずとて、隔つる雲の身を変へ、仮に自性を変化して、一念化性の鬼女となつて、目前に来れども、邪正一如と見る時は、色即是空そのままに、仏法あれば世法あり、煩悩あれば菩提あり、仏あれば衆生あり・・・」と、仏法に繋がる無限とか空といった絶対的世界を感じさせるようになる。
このあたりは漢文的でリズムのよい対句表現が連続する美しい部分だが、それは相反する二項の対立ということではなく、その全てを含み込んだ仏教的世界観の壮大さを示していると考えていいと思う。

ところが、これに続く 「衆生あれば山姥もあり、柳は緑、花は紅の色々・・・」からは一転して人間界との接点を語り、樵の荷に肩を貸したり機織りの娘の手伝いをしたりすることもあるのだなどと、意外に人懐っこい面を垣間見せる。
しかも、こうした話を都に帰って話して欲しいなどといい出すに至っては、もしかしたら自己顕示欲の強い寂しがり屋なのではないのかとも思ってしまう。
しかし、このあたりで再び立ち上がり、持ち替えていた扇子から登場した時の鹿背杖に戻り、太鼓も入って 「あしびきの山廻り」の 〈立廻り〉 となると、「一樹の蔭一河の流れ、皆これ他生の縁ぞかし」と格調の高さを取り戻し、山々が連なる雄大な世界を渡り歩いていく。

もちろん実際のところは三間四方の舞台をほとんど摺り足で回っているだけなのだが、そこに巨人の歩みのようなスケール感を感じさせるところが、”能” という舞台芸術の大きな特徴であり、また シテ=野村四郎の名人芸というものなのだろう。
そして、「春は梢に咲くかと待ちし、花を尋ねて、山廻り。秋はさやけき影を尋ねて、月見る方にと、山廻り。冬は冴え行く時雨の雲の、雪を誘ひて、山廻り」という美しい詞章を聞く間に、山姥の怪しさや不気味さはどこかに霧消してしまい、すっかり心を許し惚れ惚れとその姿を見つめながら、去って行くのを惜しむ心境になっている。

廻り廻りて輪廻を離れぬ、妄執の雲の、塵積もつて、山姥となれる、鬼女が有様、見るや見るやと、峯に翔り、谷に響きて今までここに、あるよと見えしが山また山に、山廻り、山また山に、山廻りして、行方も知らず、なりにけり
こうして一期一会の得難い時間が終わり、山姥が杖を突いて幕の中に入っていくのを見送っていると、やはり ”山姥” というのは、日本古来の自然信仰やアニミズムをベースに、仏教的世界観や民話的なエピソードなどを加えたもので、捉えどころがないほどにさまざまな要素を持ちつつも、つまるところは自然への畏怖を一つの形に昇華させた壮大な物語であるという感を強く持った。

hokuto77 at 19:05|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年07月31日

吉田博展-1 山と水の風景の紆余曲折

(損保ジャパン 〜8/27、展示替えあり)
”生誕140年 吉田博展 山と水の風景”は、こんな才能を持つ人がいたのかと率直に驚かされる展覧会だった。
吉田博(1876年(明治9年)〜1950年(昭和25年))は、一般的には版画家として知られているようだが、初期の水彩画から油彩を経て木版画という表現に至る創作の過程、黒田清輝ら画壇の主流派に対抗しまず海外で成功したといった人物像が、二つの世界大戦や関東大震災といった時代背景の中でくっきりと浮かび上がってくる展示でもあった。

序章のような ”第一章 不同舎の時代:1894-1899” では、爽やかな 「浅間山」(明治27-32年、水彩)、凛とした 「冬木立」(同、横浜美術館)などに漂う空気感が、瑞々しい感性で捉えられていた。

続く ”第二章 外遊の時代:1900-1906” には、まだ何者でもない画家がアメリカに渡り成功した時期の作品が並ぶ。
街道風景」(明治35年)や 「宮島」は、今見ればこの時代の貴重な記録という感じがするが、当時はこうしたものが外国人にとって珍しくエキゾティックなものに見えたのであろう。
しかし、「」(明治34-36年、水彩)や 「霧の農家」(同、福岡市美術館)などになると、外見的な日本趣味というだけでなく、日本独特の湿潤な空気感を時間とともに移ろう光と大気の中で見事に描き出している。

本章にあった油彩の 「ヴェニスの運河」(明治39年)は、夏目漱石の「三四郎」の中で言及されている作品らしい。
吉田博の画業の中ではそれほど傑出した絵という感じはしないが、当時の日本人の彼の地への憧れを掻き立てるには十分で、ベニスを知っていて語り合うことができるという ”特権” を、美穪子と三四郎にまとわせるのにふさわしい素材となった・・・

第三章 画壇の頂へ:1907-1920” には穂高や槍などの山岳風景やバラを扱った力作が多く並んでいたのだが、ここで最も好ましく思ったのは雪深い山里の水墨画を掛軸にした 「雪景」(大正期か、絹本墨画)だった。
白峯という名の雅号でこの路線を進んでもよかったのではないかと思うくらいだったのだが、この後に 吉田博は版画制作へと大きく舵を切る。

第四章 木版画という新世界:1921-1929” の冒頭の 「明治神宮の神苑(渡邊版)」(大正9年、木版)は、寄付者への記念品という頼まれ仕事だったらしく、前後の作風とは随分と違うがこれが重要な転換点となった。
余談だが、このあたりにあった 「アゼンスの古城」(大正14年、油彩)なる標題の絵は、どう見ても古城ではなくギリシャのパルテノン神殿なので、日本語タイトルが誰の責任なのかは分からないが、「The Ruins of Athens」は 「アテネの遺跡」とすべきであろう。

さて、しばらくは渡邊木版画舗で版画の仕事をしていた吉田は、関東大震災で版木が失われ、再び絵を売りに行ったアメリカで日本版画の人気を知ることになり、浮世絵の亜流ではない本格的、芸術的な版画を作ることを決意する。
その際、彫師や摺師に後を任せてしまうのではなく自ら監修し、時には自分で全工程に関わるという 私家版自刷によって高いクオリティのものを世に送り出したことが画期的だった。
小さな画面ながら充溢する光が印象的な 「瀬戸内海集〜光る海」(大正15年、木版)は、故ダイアナ英国皇太子妃の愛蔵作品でもあり、ケンジントン宮殿内の執務室にもう一点の 「猿澤池」と並んで架けられている写真も紹介されていた。

同じ「瀬戸内海集」の中の 「帆船」(同)は、一組の同じ版木を使いながら摺り色を変えていくことで、朝、午前、午後、霧、夕、夜という6つの作品(別刷)に仕立て上げたものだった。
同じ対象を光線や空気感の違いによって別の味わいを持つ風景画にしているという点で、モネの「ルーアン大聖堂」や「積み藁」シリーズと似た趣向ではあるが、構図や輪郭は全く同じものを使っている分、合理的かつ徹底的な試みといえるかもしれない。

こうした版画の到達点と思われるのが大判で大自然の表現に取り組んだ作品で、「雲海 鳳凰山」(昭和3年、木版)では雲海の向こうの曙光が刻一刻と変えていく空の色が、「渓流」(同、千葉市美術館)では流れ来る水の圧倒的な勢いと量感が、版画とは思えない迫力で迫ってくる。
はっきりした輪郭線がなく色の微妙な諧調が広い画面にわたって続いていくこれらの作品は、版木の数は5〜6枚にもかかわらず色の摺りは30回から多い時は100回近く重ねられているとのことなので、版画らしい特性を生かした作品というよりは、版画という手法でどこまでの表現が可能かという挑戦のようにも思われた。

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2017年07月29日

ベルギー奇想の系譜-1 トゥヌグダルスの幻視

(ザ・ミュージアム 〜9/24)
ヒエロニムス・ボス工房の 「トゥヌグダルスの幻視」(1490-1500年頃、ラサロ・ガルディアーノ財団)、放蕩の騎士が夢の中で見た地獄の様相を描いたというこの作品は、七つの大罪と解釈される要素を網羅的に扱いながら、一つの画面の中に上手く収まっている。
中央に大きな顔、その空洞の目にはネズミがいて、鼻の下の大きな盥には金貨が零れ落ち、その下で水に浸かっている人々はカネの亡者なのか、まさに ”貪欲を絵に描いた” ような様相だ。

この絵は現地で一度見ているのだが、それはプラドで 「快楽の園」など ヒエロニムス・ボスの三つの祭壇画を見た翌日のことであり、またすぐ近くには 「荒野の洗礼者聖ヨハネ」もあったので、相対的にかなり落ちる作品という印象だった。
しかし今回は、追随者たちの亜流作品の後に登場しただけに、それらとは段違いの面白さと充実度を持つ作品として新鮮に感じられ、あらためてボスとの距離の近さを印象付けられることにもなった。

解説によれば、本作品の材質や技法からはボス存命中の同時代作品と推定され、それも同一工房内で制作されたことがほぼ確実視されるようだ。
画面を見た印象からも、ボスのオリジナルをすぐ近くで見て描いたか、親方の指導や助言を受けたか、もしかしたら直接ボスが筆を入れた部分があったかもしれない、という ”正統性” を備えているように思われる。

特にそれを感じるのは、追随作とは一線を画す独創的で緊密な構図であり、絵の中核となる顔と盥の組み合わせや、嘴がそのまま笛になっている鳥が眠る騎士と幻視の世界の橋渡しをしているといった構想は、ボス本人のものと考えていいのではないか。
また、空洞の目が何ごとかを物語り、憂いを湛えたように見える表情、背景の火事の様子や卵の殻のあたりなどの筆致は、ボス作品にかなり接近する水準といっていいものだと思う。

しかし一方で、全体的にシャープさが足りない感じは否めず、細部が曖昧なところも見受けられる。
特に中央手前で邪淫の罰を受けている男、左端で騎士に寄り添う天使、そして頭上の梟などはもう少しなんとかならなかったかっと思う出来映えなので、やはりこの作品は ”工房” 作品にとどまり、ボスの真筆として認められることはないのかもしれない。
それでも、オリジナルをかなり忠実に写しているからこそのクオリティであり、大きく付け加えたり改変したりということのない信頼性の高い一次コピー作品であることは確かだと思うので、オリジナルが発見されるまでの間は、”ボス図像” のカタログに入れておいてもいいのではないかと思った。


<ヒエロニムス・ボス関連記事>
実見作品ランキング 2014 2017
真作に関する議論  2014 2016
ボス紀行(継続中)
1 最後の審判 (ブリュッへ)
2 愚者の舟 (ルーブル)
3 最後の審判 (ウィーン)
4 キリスト架刑、聖ヒエロニムス (ブリュッセル、ヘント)
5 十字架を負うキリスト (ヘント)
6 愚者の石の切除、七つの大罪 (プラド)
7 干草車の祭壇画 (プラド)
8 快楽の園(地上の楽園) (プラド)
9 東方三博士の礼拝 (プラド)
10 聖アントニウスの誘惑 (プラド)
11 荒野の洗礼者ヨハネ (ラザロ・ガルディアーノ)
12 荊冠のキリスト (ロンドン)
13 聖アントニウスの誘惑 (リスボン)

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2017年07月27日

鈴木雅明&BCJ(世俗C)-2 ヴィーダーアウ讃歌

BCJ第124回定期演奏会(2017年 7月17日(月・祝)15:00〜 東京オペラシティ コンサートホール)は、J・S・バッハ世俗カンタータ・シリーズ の終結となるものであった。
鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパンは、1995年から始めた 教会カンタータの全曲演奏を2013年2月の第100回定期演奏会で完結させているので、都合22年で全てのカンタータ演奏が達成されたことになる。

その記念すべき演奏会の最後に登場したのは 「たのしきヴィーダーアウよ」 BWV 30a、これは先の教会カンタータ・シリーズが完結となった第100回定期演奏会で採り上げられた ”カンタータ第30番 「喜べ、贖われた者たちの群よ」 BWV 30” に転用された原曲なので、ほとんど同じ曲が記念すべきプロジェクトそれぞれのフィナーレを飾ったことになるのだが、それはどのような深謀遠慮によるものなのだろう。
実は、教会カンタータとしてBWV 30を聴いた時は戸惑いが大きく、不遜にもこの曲にあまりいい印象を持たなかったのだが、世俗カンタータとして作られた当初の形で聞いてみて、やはりオリジナルの良さというものを強く感じることとなった。

この曲は、ライプツィヒの南西にある ヴィーダーアウという荘園の領主に就任したヘニッケ(ザクセン選帝侯国宰相ブリュールの家臣)を表敬するために作られた音楽劇で、4人のソリストが擬人化された「時」、「幸福」、「エルスター川」、「運命」を演ずるという、世俗カンタータならではの楽しい趣向の作品だ。
特色あるシンコペーションの出だしも、新領主を持ち上げる祝典の場の序曲としてふさわしく、続く舞曲的で歌謡的でもあるアリアも、舞台で一生懸命な役者の姿が見えるようで全く違和感がない。

まずはバスが領主を讃え、アルトの 「幸福」が自己陶酔のような歌を歌い、再びバスの 「運命」が揺るぎない支持を表明する。
ソプラノの 「」が聞かせる早いテンポで緊張感ある歌は、居合わせた人々に移ろう時の宿命を感じさせ、ドラマティックな展開の中で今あることの奇跡に思いを誘ったのではないか。
最後に登場するテノールの 「エルスター川」は、そこに生きる農民たちを含めたその土地を代表する立場なのであろう、ヴィーダーアウを讃え一層の繁栄を呼びかけ、全員がそれに呼応するように合唱して華やかに終わる。

以下は罰当たりな発言と承知してのことだが、この作品はそれほど深い内容を持つというわけではないものの、変わり映えのしない教会カンタータの歌詞より変化があって分かりやすく、露骨な領主賛美であるとしても配役や展開にそれなりの工夫が見え、曲もその要請に完璧に応えて場を盛り上げたのだろう。
この BWV 30a が教会カンタータ第30番 「喜べ、贖われた者たちの群よ」(または「喜べ、救われし群れよ」) BWV 30” に転用されたのも、一回でお蔵入りにするには惜しい出来映えだったからに違いないが、やはりこの曲の持ち味は ”世俗” の方でこそよく生きるものだと思う。
バッハの ”世俗カンタータ” といえば、「農民」、「狩り」、「コーヒー」、「結婚」といったところが有名だが、それはおそらくこの 「たのしきヴィーダーアウよ」が教会カンタータに転用されたことで正統性を失ってしまったように扱われたからで、もし単独で残されていたら ”世俗カンタータの名作” という栄誉に浴したのではないか。


<鈴木雅明&BCJの過去記事>
J. S. バッハの教会カンタータ (2013)  
J. S. バッハの世俗カンタータ (2017)  、2
青山学院レクチャーコンサート 20112016
鈴木雅明 & 若松夏美 in 深大寺本堂 2016
17世紀初期イタリアのオルガンとアンサンブル 2008
ジュネーブ詩篇歌を巡って 2006
支倉常長と音楽の旅 (2007) 
天正少年使節と音楽の旅 (2006) 

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2017年07月26日

Index Apr.-Jun., 2017

ムットーニ・パラダイス (世田谷文学館) 
ランス美術館展 (損保ジャパン) 
ソール・ライター (ザ・ミュージアム) 
源氏物語絵巻 (五島美術館) 
雪村 (藝大) 
滝平二郎 (三鷹市美術ギャラリー) 
バベルの塔展 (東京都美術館) 10
西大寺展 (三井記念美術館) 
茶の湯展 (東京国立博物館) 
大エルミタージュ美術館展 (六本木ヒルズ) 

能 「半蔀」 
ボブ・ディラン、受賞講演と文学賞的ベストテン 
中世音楽合唱団、つのだたかし 
ガブリエル・フォーレと弟子達 
鈴木雅明、BCJのレクチャーコンサート 
幸田浩子&加藤昌則、Cafe ウィーン 
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(熱狂の日) 
狂言の会 「二人袴」「咲嘩」「首引」  
アンヌ・ケフェレックのモーツァルト 
仲道郁代、3台ピアノの響きとともに 
「バベルの塔」展コンサート 
靖国神社 夜桜能 

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2017年07月24日

レオナルド x ミケランジェロ展-2 彫刻と絵画

(三菱一号館美術館 〜9/24)
今回の ”レオナルドxミケランジェロ展”は、単なる二人展ではなく、”〜とその時代” といったものでもなく、”宿命の対決!” という副題をつけてライバルとしての対立を煽っているようなところがある。
それは、壁面で紹介されている二人の言葉でも明らかだ。

その中で、絵画と彫刻の優劣を論じているところがあり、レオナルドは ”平面上に立体を表現できるから絵画の方が上” だという趣旨を述べたらしいのだが、これでは議論の次元が低すぎるし、そもそも説得力のある理屈になっていない。
それよりも、”絵画も彫刻も素描(ディゼーニョ)から生まれた娘” という23歳若い ミケランジェロの方が大人びていて、言葉として美しいのはもちろん、内容的にも正しいというべきだろう。

”II. 絵画と彫刻:パラゴーネ” にあった ミケランジェロの 「河神」(1525年頃)を見ると、このような小品の断片にも天才は宿るのだという思いを強くするが、しかしその材質が蝋(および獣脂、松脂)だというのは意外なことだった。
それは、彫刻の手順として、まず柔らかく成形が容易な で小さな原型をつくり、それをもとに 粘土で実物大模型を作ったであろうことがここから推測できるのだが、ブロンズならそこから型を取って完成作品を作るという直接的な流れがあるのに対し、大理石を鑿で削っていくにあたりこのステップを踏むことは、必ずしも必須条件ではないように思われるからだ。

もっとも、モデルにポーズをとらせたまま石を削るわけにはいかないだろうから、まずは柔らかい素材でイメージを作るのかもしれないが、それでも、天才ミケランジェロはそんな過程を経ずにいきなり石を削っていたのではないか、となんとなく思い込んでいた。
というのも、彼のソネットの中の ”至高の芸術家はいかなる思想もなし ただ大理石のみがそれを知る 知性にみちびかれたる手は 石の重き形よりいらざるものを取り除くのみという言葉から、「奴隷」などの未完成作品や晩年の 「ロンダニーニのピエタ」を思い浮かべて、いつの間にかそんな ”伝説” を信じ込んでいたからだ。
そういう手法の作品もあるいはあったかもしれないと思うのだが、いかに天才と言えども サン・ピエトロの 「ピエタ」や フィレンツェの 「ダビデ」が、行き当たりばったりでできるわけはないということなのであろう。

2点の彫刻の近くには 「ジョヴァン・フランチェスコ・ファトゥッチ宛の書簡(1526年6月17日)」も展示されていたが、遠目には活字のように見える几帳面な文字列もまた、ミケランジェロの手堅い人柄が窺えて興味深いものだった。
公的な性格を持つ文書だから丁寧に書いたというだけではない、ところどころに入れられた装飾の作り出すリズムも美しく、ローマ字ではあるがこれを楷書ないし篆書体の ”書” と呼びたいと思ったりもした。

hokuto77 at 21:32|PermalinkComments(0)西洋彫刻 

2017年07月23日

能 「山姥」-1 壮大なるものの顕現

能 「山姥」を観た。(観世流 野村 四郎ほか 2017年7月19日(土)18:30〜 国立能楽堂)
百万山姥という名で人気を博していた遊女の一行が、信濃国の 善光寺に参詣に向かう途中で本物の山姥に遭遇するというこの話は、前場から後場にかけて山姥をめぐり実にさまざまなイメージが交錯する。
しかし、人を取って喰う怖ろしい化け物という面はほとんどなく、人間的な悩みを抱えながらも大自然と一体化し、山から山へと巡りながら仏教的世界観を説く、そんな壮大で神秘的な ”人物像” が、格調高い名文と大らかな舞で実感される曲だった。

阿弥陀如来が踏み分けたという険しい道を通って善光寺に向かう一行に対し、山姥が急に日が暮れたように暗くして一夜の宿を貸そうと近づき、遊女に ”山姥の曲舞” を所望する、という意外な展開の中で緊迫したやりとりが重ねられ、「鬼女とは女の鬼とや、よし鬼なりとも人なりとも山に住む女ならば、わらはが身の上にてはさむらはずや」の辺りから、シテは徐々に本性を現し始める。
こうした前場の流れは、しかし筋そのものを味わうというよりは、すべては山姥という超自然的存在を登場させるためのお膳立てのようだ。

後場になって真の山姥が鹿背杖をついて現れると、「あら物凄の深谷やな、あら物凄の深谷やな・・・ いや、善悪不二、何をか恨み、何をか喜ばんや、万箇目前の境界、懸河渺々として、巌峨々たり。 山また山、いづれの工か、青巌の形を、削りなせる、水また水、誰が家にか碧譚の色を、染め出だせる」と、いきなりスケールの大きな世界を見せて、霊気漂う山姥の世界に引きずり込む。
ここでのシテはまだ橋懸りの途中にいるので、高い峰に立って深い谷を俯瞰しているような趣があり、能舞台ならではの構造が生かされている場面だ。
次いで、その風貌は 「髪には荊棘(おどろ)の雪を戴き、眼の光は星の如し、さて面の色は、さ丹塗りの、軒の瓦の鬼の形を・・・」と紹介されるが、長い白髪を垂らし白と緑の装束に身を包んだ姿は思いのほか美しく、専用面の表情も達観したような落ち着きが感じられるものだった。

さらに、「春の夜のひと時を千金に替へじとは、花に清香 月に陰」と、いま目の前に起こっている奇跡をよく見るように促し、これが一期一会の出会いであることを強調する。
それは、”能” がそもそも持っている基本的な構造でもあり、これまでも多彩な神や霊や狂女に出会ってきたわけだが、この ”山姥” との遭遇は、特に想像を超える意外性に満ちたものだった。

「よし足引きの山姥が、よし足引きの山姥が、山廻りするぞ苦しき」の辺りから一段とギアが上がり、「それ山と言つぱ、塵泥より起こつて、天雲懸かる千丈の峰、海は苔の露より滴りて、波濤を畳む、万水たり」というミクロからマクロに及ぶ壮大な語りで、地球の成り立ちや天地創造の物語を読むような気分に導かれる。
一洞空しき谷の声、梢に響く山彦の、無声音を聞く便りとなり、声に響かぬ谷もがなと、望みしもげにかくやらん」と、大自然の神秘を描き出す筆致は冴えわたり、「殊に我が住む山家の景色、山高うして海近く、谷深うして水遠し。前には海水滌々として、月真如の光を掲げ、後ろには嶺松巍々として、風常楽の夢を破る・・・」と、言葉だけで崇高な美を彷彿とさせる巧みさに感心させられた。

この、巨大なものが突如として眼前に立ち上がり聳え立つ感じは、バッハのオルガン曲か、あるいは ブルックナーの交響曲の大音響に包まれた時の印象に近い。
しかしここまでは 〈クリ〉 から 〈サシ〉 の部分であって、シテの山姥も蔓桶に腰かけたままだったのだが、この後の 〈クセ〉 で立ち上がり、太鼓も入ってくると、山姥の語りはさらに意外な拡がりをみせることになる。


<能・狂言の過去記事>
能 「善知鳥」 観世流 観世清和  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
狂言 「二人袴」、「咲嘩」、「首引」  
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか)  
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

hokuto77 at 19:21|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年07月20日

アルチンボルド展-3 四季と四大元素の連作

(西洋美術館 〜9/24)
前2回で ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593年)の 「四季と 「四大元素の連作を見てきたが、これは 4点x2セット=8点 が揃って初めて見えてくる世界だと強く思った。
どこかの美術館や展覧会でその中の1〜2点を見ただけでは、奇抜な効果を狙った ”変な絵” にしか感じられず、他の正統的な名品の合い間に一瞥して通り過ぎてしまうことが多かったのだが、こうして全8点が揃うことによって、画家の工夫や構想といったことはもちろん、描かれた時代背景も含めて、作品が表現する世界観というものが大きく立ち顕れてきたのが感じられた。

前にも書いたように、その全てがオリジナルの第1バージョンというわけにはいかなかったが、それでも8点を一つの部屋の揃えたことの意義は大きく、2点ずつを出してそれを可能にしてくれたデンヴァー美術館とスイスの個人にも感謝しなければならない。
ともかくもこの8作品が四方の壁に架けられた部屋の磁力は尋常のものではなく、この3か月間ほどは、西洋美術館の企画展示室が世界中の アルチンボルド・ファンの聖地として注目され、会期後半にはそのための来日客も増えてくるのではないか。

その上で、しかし今回の展示が 4x2 すなわち 「四季」と 「四大元素」という連作ごとではなく、それぞれから1枚ずつを対に向かい合わせて 2x4 (大気/春、夏/火、大地/秋、冬/水) となっていたのは意外なことだった。
右向きと左向きの関係からそういう見方もあると紹介されることはあるかと思ったけれど、この歴史的な展覧会の展示をこの形にするにあたってはどのような議論がなされたのだろうか。
もちろん、1セット4点の展示ならこれまでも、またこれからもあると思われる一方で、今回のこの形は 8点が一堂に会したからこそ可能なものだから、というのが大きな理由ではあるだろう。

しかし、描いた アルチンボルド本人も 1563年に 「四季」、66年に 「四大元素」と各連作を完成させたときには、それぞれを構成する4点の関係を重視していたはずで、こんな 2x4 の関係は、「四大元素」を後から描いていく上では念頭に置いたにせよ、展示方法としては想定外だったのではないか。
1569年の新年にこの8点を マクシミリアン2世に献呈したとき、得意満面の画家はどのように配置してどんな説明を行ったのだろう。
ともあれ今回の展示は、向かい合わせの4組という関係を生かした面白い試みであった一方で、連作4点の横の関係は希薄になった感があるので、ノーマルな 4x2 の展示も見て見たかったという思いはぬぐえない。その意味では、次の部屋のパネル展示では同じ 2x4 ではなく、シリーズごとにまとめた 4x2 の配列にしてもよかったのではないか。

あらためて8点を振り返っておくと、色合いとしては地味なものながら、肖像画としての 「」と博物誌としての 「」の2点が傑出していた。
次いで華やかな 「」、アイテムの構成が面白い 「」と 「大地」、そして 「」が続くという感じだが、繰り返しになるものの 「大気」や 「」も加えた8点が並んだ意義は大きかった。
しかしそれでも、全てがオリジナルないし現存する最良バージョンで固められたらどんなことになっていたかという思いもまた残る・・・

ともかくも、今回かなり見直した アルチンボルドではあったけれど、会場の冒頭にあった 「四季」(1590年頃 ワシントン、ナショナル・ギャラリー)はかなり戸惑わされるものだった。
各パーツは質感の表現に優れており、だから本人の作品なのだろうと思う反面、「四季」というテーマの下でのそれぞれの響き合いは希薄で、構成における意外性も少なく、肖像としてもなんとも曖昧な表情だ。
”冬” が支配的な画面で不気味な魔女か悪霊を表現していると理解すればいいのか、あるいはこれが老いた画家の自画像ということなのかもしれないが、死の3年前になる64歳の時のこの作品が、晩年の アルチンボルドの深化を示すのか衰えの表れなのか、どうにも判断がつかなかった。


>関連過去記事
奇想の王国 (2009、ザ・ミュージアム) 
進化するだまし絵 (2014、ザ・ミュージアム) 

hokuto77 at 20:11|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年07月18日

鈴木雅明&BCJ(世俗C)-1 われは満ち足れり

鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパンの第124回定期演奏会、”バッハ:世俗カンタータ・シリーズ Vol.9 [シリーズ完結]” を聞いた。
(2017年 7月17日(月・祝)15:00〜 東京オペラシティ コンサートホール)

J. S. バッハ:管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV 1068
J. S. バッハ:わたしは自分に満ち足りている BWV 204
J. S. バッハ:たのしきヴィーダーアウよ BWV 30a
 鈴木雅明(指揮)/バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱&管弦楽)
 キャロリン・サンプソン(S)、ロビン・ブレイズ(A)、櫻田 亮(T)、ドミニク・ヴェルナー(B)

冒頭に 鈴木雅明氏が登場し、「管弦楽組曲 第3番」に特に意味はないが記念すべきコンサートで花火を打ち上げたかった、95年から続けてきたバッハのカンタータ全曲演奏が世俗カンタータも含めて今日完結する、世俗カンタータは礼拝目的以外の作品の総称で三分の一ほどしか残っていないが、これらを通して当時の日常生活や社会の様子などが分かり興味深い、シリーズは完結するがこれで終わりではない、といった説明があった。

「管弦楽組曲 第3番」に続いて演奏された BWV 204は、配布されたプログラムでは 「わたしは自分に満ち足りている満足についてのカンタータ」と紹介されていたが、BCJの公式ウェブサイトにもある 「われはおのがうちに満ち足れり」の方が以前から知られていたタイトルだろう。
ところが、祝典などのための機会音楽として作曲されることの多かった世俗カンタータの中で、本作は依頼者や演奏機会などが分からない、謎のカンタータといわれているそうだ。
資料がないだけではなく、歌詞そのものも何かを祝ったり、あるいは楽しめる劇になっているというのではなく、「私は自分に満足している、お金も名誉もないが、満ち足りた時が私に心の平安を与えてくれる。私は自分を誇らない、愚者は鐘を打ち鳴らすが 私は静かに自分を守る。私の魂よ、満足していなさい、自分の中にこそ、満足の真珠を見出すべきなのだ。」と言葉を重ねて、ひたすら 「私は満足だ」と歌う。

貪欲を戒め慎ましい暮らしの中に満足を見い出す、というこの精神は、京都・龍安寺のつくばいにある 「吾れ、唯だ、足るを知る」に通ずるところがあるように思われるが、カンタータの詩はおそらく遺教経とは関係がなく、また特定の聖書の言葉ではなく、哲学的な思弁というほどのものでもなく、一般の親が子に教えるような庶民の道徳観に根差すものなのであろう。
しかし、それが ソプラノ独唱のみという異例の編成の作品になったところに、この作品の成立過程の鍵があるように思われる。

ハープシコードの分散音にのったレチタティーヴォで始まるところは意表を突かれるものの、すぐに美しいアリアが続き、伴奏楽器をオーボエ、独奏ヴァイオリン、フラウト・トラヴェルソと替えながら計4回繰り返すという形式は、多くのカンタータに見られるものだ。
しかし、他の声部もコーラスもなく、一貫してソプラノの独唱で歌われることによって、全ての歌詞は、若い娘の独白ないし決意表明のように聞こえてくる。
そうなると、この曲は娘が最も注目されるべき場面、つまりは結婚式の時に歌われたはずであり、もうひとつの 「結婚カンタータ」ともいうべき制作動機だったのではないか。

もっとも、こんなに長く技巧的な曲を普通の花嫁が歌えるはずもないので、おそらくは専門の歌い手が、これから嫁いでいく娘に成り代わって、結婚生活の幸せを祈りつつ、ある意味での覚悟のようなものを歌い上げたのであろう。
そういえば、少し前の日本でも結婚式の時に 「埴生の宿」がよく合唱されたという話を聞いたことがあるが、「埴生の宿もわが宿、玉の装い羨まじ・・・、 瑠璃の床も羨まじ・・・ 」の思いに共通するものを、このカンタータは持っているように思う。

そんな慎ましい庶民の美徳を讃える歌であるなら、鈴木先生ももう二度と演奏しないだろうなどと仰らず、是非繰り返し取り上げて普及に努めていただければと思う。
もちろんこれはソリストの力量に負うところの大きい曲だが、この日の キャロリン・サンプソンさんはチャーミングでかつ安定感があり、若松さんのヴァイオリン、菅さんのトラヴェルソとからむ部分は特に美しく、最後は確信に満ちたように晴れやかに歌い上げられていた。


<鈴木雅明&BCJの過去記事>
J. S. バッハの教会カンタータ・シリーズ  
レクチャーコンサート 20112016

hokuto77 at 00:46|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年07月16日

能 「善知鳥」-3 救われない結末の真相・・・

全くの余談かもしれないが、能 「善知鳥」(うとう)を見た後に思ったことを幾つか・・・

まず、後場の舞台である 陸奥の国 外の浜 は、前場で立山のこの世ならぬ光景を想起させられ、また死者が甦ってくるという流れになっていたせいで、恐山に関係した土地なのだと思い込んでいた。
しかも ”外の浜” という名前なので、下北半島の外側で大平洋か津軽海峡に面した荒涼とした風景を思い描いてしまったのだが、実際には津軽半島の東側、青函連絡船が通っていたころはそのすぐ沖を頻繁に行き来していた、陸奥湾の西部に面した漁村だったようだ。
もっとも、都から見れば地の果てという印象は変わらないのかもしれないが、連絡船が津軽海峡を渡り切って陸奥湾に入り、それまでの揺れが収まった時の安堵感を思うとなんとも意外な気がした。

さて、本曲では最終盤で猟師の亡霊(シテ)が、「安き隙なき身の苦しみを、済けて賜べや (たすけてたべや) 御僧、済けて賜べや御僧」と僧(ワキ)に救いを求めるのだが、その願いは遂に届くことなく、成仏できないままに 「言ふかと思へば失せにけり」と終わる。
これは、僧の力も及ばず、ということだったのかと思えばそうでもなく、僧の方は祈るどころか地謡の前に座ったままで立ち上がりもしない。
もっとも、亡霊はよほど切羽詰まっていたのか、橋懸りを去って行く余裕もなくその場で ”失せにけり” と断ち切られたように終曲を迎えるので、僧としても手の施しようがなかったということなのだろうか。
むしろ、事情はどうあれ仏法が戒める殺生を行ったのだから、僧の立場としてはそもそも救済を求めてくる方が筋違いなのだということだったかもしれない。

さらにもうひとつ気になったのは、猟師の妻と子 (ツレと子方) の装束が立派過ぎるのではないか、という点だ。
それは ”能” の舞台演出上の ”お約束” でそうなっているのだろうと思っていたのだが、こんな貴族風のものではなくもっと地味な装束はないのだろうか。
そんなことを考えてしまったのは、夫である猟師が死んだのだから、妻子は寒村で貧しく慎ましく暮らしているはず、というのが、もしかしたら誤った思い込みによるものかもしれないという気がしてきたからだ。

考えてみれば、生前に鳥を捕ったことで死後に化鳥に苦しめられるというシテの境涯に共感したのは、それが彼ら親子三人が何とか生きるためにやむを得ない生業だったからだと理解したからにほかならない。
その前提は、殺生が必要最低限の範囲内で行われていたということでなければならないが、しかし、妻子がこんな服を着られるような贅沢をさせるために鳥を捕りまくり、もしかしたら自分も ”善知鳥御殿” など建てられるほど大儲けして豪勢にやっていたのだとしたら、話は違ってくる。
そんな貪欲な男の欲求のために失われた多くの鳥たちの命は浮かばれず、もしそういうことなら、地獄に堕ちて永遠に成仏できなくても当然だということになろう。
だったら前の2回で書いたことは全面的に撤回しなければならないのだが、「善知鳥」とは、果たしてそういう作品だったのだろうか・・・

hokuto77 at 19:54|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年07月14日

レオナルド x ミケランジェロ展-1 素描対決

(三菱一号館美術館 〜9/24)
二人の巨匠を ”対決型” で展示する ”レオナルド x ミケランジェロ展” は、それぞれの個性を一層際立たせる企画だったが、チラシにも大きく載っている肉筆の ディゼーニョ(素描)2枚が、いきなり最初の部屋の ”序章:レオナルドとミケランジェロ─そして素描の力” に登場し、2mも離れていない状態で見られるとは思っていなかった。

ミケランジェロ・ブオナローティの 「〈レダと白鳥〉 の頭部のための習作」(1530年頃 カーサ・ブオナローティ)は、2013年の ミケランジェロ展(西洋美術館)以来の来日だと思うが、静かに目を伏せ、ふっと息をつく人物の存在感は比類がない。
男性のモデルを使っているせいか、その横顔は女性のものになりきっているわけではなく、白鳥がもたらすはずの官能の気配もまだそこにはないけれど、同様に横顔を見せる天地創造の 「リビアの巫女」と比較するとかなり内省的な表情となっていて、沈思するひとりの人間の実在感が、絵画として描かれた作品という以上のものとして伝わってくる。

一方、レオナルド・ダ・ヴィンチの 「少女の頭部/〈岩窟の聖母〉の天使のための習作」(1483-85年頃 トリノ王立図書館)は、斜線の濃淡による陰影や白のハイライトでリアルな顔立ちの女が浮かび上がり、なるほど上手い絵だなとは思う。
その横の 「自画像」のようなファクシミリとは違うオリジナルならではの霊妙さもあるのだが、しかしその表情は微妙に歪み、悲しみをたたえているのか、そこには恨みや後悔といった感情も見え隠れしていて、「岩窟の聖母」の傍に控える天使のように形而上的な謎を秘めている感じはない。
右目にかかる髪やその左側に見えるほつれた髪は、女の情念を引き出しているようでもあり、この線を敢えて引いたところは天才的なのかもしれないが、ひとりの人間としての重みがより強く感じられるのは、やはり ミケランジェロの方だ。

ともあれ、この2点の素描は、どちらも ”習作” としては完成度が高過ぎるというべきか、本制作の過程で普通ここまでしっかりと描き込むものなのだろうか。
次の ”I. 顔貌表現” の章にある ミケランジェロの 「〈トンド・ドーニ〉の聖母のための頭部習作」(1504年頃)は、天井画 「天地創造」の中でも抜群の存在感を示す 「ヨナ」にも共通する、大きくのけぞるように上を向いた顔をあごの方から狙う特別な構図なので、これなら念入りな習作は必要だろう。
だがそれは、あくまでも立体を平面にしたときの見え方を確認するといった目的があってのことで、一般の ”習作” ならば、「システィーナ礼拝堂天井画のための男性頭部」(1508-1510年頃)に見える程度の描き込みで十分かと思われる。
もっとも、天井画の時は膨大な作業をこなすのに忙しく、”習作” は必要最低限のものにしたといった事情もあったに違いなく、その中でこの程度のざっくりしたものが遺されただけでも奇跡と言えるかもしれない。

それはともかく、これらの習作らしい習作と比べると、序章の2作品はここまで念を入れるのかと思うほどの充実ぶりだ。
それは、これらが単なる ”習作” として描かれたものではなく、とは言っても当時これがそのまま ”商品” になったとも思われないので、素描でどこまで可能かを追求する修業として取り組んだか、工房で弟子たちが学習する際の見本か、あるいは完成し納品される本作品の手控えやカタログとしての意味があったのか・・・


>ミケランジェロの過去記事
システィーナ礼拝堂500年 ミケランジェロ展―天才の軌跡 (2013年、国立西洋美術館)
   レダの頭部 天地創造 最後の審判
   階段の聖母 キリストの磔刑 クレオパトラ 建築とソネット
ミケランジェロ展―ルネサンス建築の至宝 (2016年、汐留ミュージアム)
   ブリュージュの聖母 クマエの巫女と天地創造
   絵画と彫刻と建築 図書館、要塞、大聖堂

hokuto77 at 19:57|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年07月12日

アルチンボルド展-2 大気、火、大地、水

(西洋美術館 〜9/24)
アルチンボルドの代表作 「四季」に続いて、同じ部屋に対を成すように展示されている 「四大元素」の連作を順に見て行きたい。

大気」(スイス、個人蔵)は、8点の中では作品として最も弱いことは否めない。
大気だから鳥が集まっているとはいうものの、個体ごとにあまり変化がみられず、さらにこの追随者はどうやら ”顔” としてまとめ上げるのに一生懸命なのか、一羽ずつの鳥が陳腐で存在感が薄い上に、顔としてもよくわからないものになってしまっている。
アルチンボルドのオリジナルならば、一羽ずつにもっと丁寧に生命力を与え、顔の方にも明確な表情がついてきたはずであり、本人のものからはだいぶ距離のある複製バージョンの1枚ということになるのであろう。

」(スイス、個人蔵)も残念ながらオリジナルではないようだ。
もとより ”火” というお題ではアイテムにも限度があって、寄せ絵にするのが難しかったと思うけれど、本作は髪の部分の炎にあまり勢いが感じられず、顔もちょっととぼけた感じの情けないものになっている。

大地」(1566年?、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション)は、一転してさまざまな動物が登場する賑やかな画面だ。
これだけの動物が当時のハプスブルクの都に飼われていたのか、ともかくもその種類の豊富さとそれを描き分ける腕前には感心せざるを得ない。
目の部分を狼のような動物の大きく開けた口で表しているところなどは特に秀逸だと思うが、一方で個々の動物たちの存在感が強い分、その集積としての顔は押され気味となり、やや分かり難くなってしまっているようにも思われる。
もとより前の2点とは段違いの面白い作品ではあるけれど、肖像画としての表情の弱さと、そして動物たちがみな柔和で可愛らしいものになっているあたりに、もしかしたらアルチンボルト本人以外の画家の筆を感じるべきなのかどうか・・・

」(1566年 ウィーン美術史美術館)はそのような心配のない、第1バージョンのオリジナル作品とみて間違いないだろう。
水に棲む生き物たちを博物図鑑のように多彩に登場させ、その全てを学術資料としても通用するのではないかと思うほど正確に描き出しているところにまず驚かされる。
そして、それらをほとんど水平に積み重ねただけのような塊で、悩める孤独な男の肖像に仕立て上げている、その構想力と表現力にはただ敬服するのみだ。
水生動物たちの細部を徹底してリアルに描写することで、肖像画としての人物の風貌が生き生きと表れてくる、そんな、本来は二律背反ではないかと思うような奇跡が、ここでは確かに起こっている。

hokuto77 at 21:42|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典) 

2017年07月10日

能 「善知鳥」-2 罪深さの自覚を促す曲

能 「善知鳥」(うとう)は、庶民が生きていく上で避けがたい殺生が罪業となって、死後に報いを受け続けなければならないという重苦しいテーマを扱い、しかも地獄での陰惨な責め苦が執拗に描かれている作品だ。
それは、現代の我々にも訴えかけるものをもつ意欲作だと感心する一方で、神事から発し高貴、優美が基本的な価値観だと思われる ”能” の中では、かなりの異色作であり問題作だったのではないか。
とりわけ、能楽の主たる享受者であり重要なサポーターでもあった、都の支配階級にはいったいどのように見えていたのかが気にかかる。

本作は、作者不肖ながら 世阿弥の作と広く考えられているらしいが、確かに多くの名作を送り出した権威ある作者の One of them でなければ、こうした曲が普及・定着することは難しかっただろう。
上演にあたっては相当のリスクもあったと思うのだが、それでも敢えてこの曲を発表したのは、世の中はきれいごとだけではない、庶民の辛さも少しは分かってほしい、という世阿弥の強い思いがそこにあったからではないか。
権力者に引き上げられ、ちやほやされながらも、彼らとの間に横たわる埋めようもない立場の違いを思い知らされることも多かったのだろう。
だから、地位や財産に恵まれない普通の庶民には、生き抜くためとはいえ殺生をしなければならない現実がある、あなたがたも肉や魚を食べるときに庶民の苦労や殺生の厳しさをせめて想像してみてはどうか、そんな意識が書かせた曲であるように思われる。

シテである猟師の亡霊は、殺生をしなければ妻子を養えない自らの身の上を嘆きつつも、狩猟の場面になれば思わず没入していくのだが、しかしその報いとして化鳥の激しい攻撃に苦しめられ、僧に助けを求めても救われることはない。
これは現代に生きる人々にも共通する思いに違いなく、たとえ現実に殺生することはなくても、仕事を一生懸命やることが結果として周囲を苦しめているかもしれない、ということに思い当たる人は多いのではないか。
目の前の仕事にのめり込めば周りが見えなくなる、仕事が評価されるためには誰かと競い合わなければならない、その過程で他人の誤りを指摘したりやり込めたりするなどは当然であり、たとえ意図しなくても知らぬ間に人の足を引っ張ったり手柄を横取りしてしまったりということがないとも限らない。

そのどこまでが許されるのかは分からない、しかし、時には真実と違うことを言ったり、つい攻撃的になって他人を貶めてしまったり、そんな事例すらも今の巷には溢れかえっている。
上司やその上の意向を忖度して判断を違えたり、あるものを 「ない」とうそぶき、「いちいち調べる必要なない」と突っぱね、それでも 「全く問題ない」と言いつのって疑問や異論を切り捨てる、そんなことも時と場合によっては必要だという判断も、あるいは有り得るのかもしれない。
しかし、そのように不実なことを繰り返しても報いを受けることはない、口先だけで反省していると言いさえすればそれで済む、そう信じている人がいるとすれば、世の中は決してそんなものではないということを、この曲は警告していないだろうか。

ともあれ、春や秋の風情を楽しむこともなく、暑さ寒さも忘れてひたすら働かなければならず、それでも妻子に理解されない孤独な男の姿は、普通の出自に生まれた労働者の宿命でもあるだろう。
その一人である善知鳥狩りの猟師が地獄に堕ちて化鳥の復讐に遭い続けなければならないのなら、誰がその責め苦を他人事と決め込むことができようか・・・

hokuto77 at 22:57|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2017年07月09日

沖ノ島・宗像大社の世界遺産登録

『 神宿る島 』 宗像・沖ノ島と関連遺産群” が世界遺産に登録された。
沖ノ島と3つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)の登録自体は分かっていたことだったが、5月の段階で諮問機関イコモスが除外勧告を出していた 宗像大社沖津宮遥拝所中津宮辺津宮、さらに 新原・奴山古墳群も含めた8資産全体が一体として登録となったのは喜ばしいニュースだった。

もっとも、私自身はそのいずれも訪れたことがないので、それらがどれくらい密接不可分なのかについて実感はないが、遺産群の中核をなす 沖ノ島が、宗像大社の沖津宮として 田心姫神を祀り、中津宮の 湍津姫神、辺津宮の 市杵島姫神とともに天照大神の御子神 (宗像三女神) とされており、かかる信仰のもとに島全体が御神体として厳しく管理されて現在に至っていることを思えば、宗像大社から 沖ノ島を切り出すというのがいかに乱暴な話であるか推測できる。
沖ノ島そのものや各種の祭祀遺跡、岩上から岩陰、露天へという変遷などももちろん興味深いことだけれど、それらも 宗像大社とのかかわりの長い歴史を踏まえなければ、十分に理解することは難しいだろう。
万一、イコモスの勧告に沿った結論になっていれば、沖ノ島(と3つの岩礁)は歴史的な信仰から切り離されたまま、考古学的な遺跡の世界遺産として知られていくことになり、本来の姿とはかなり性格の異なるものになったのではないか。

振り返れば、平泉の時は幾つかの資産を除外して出直すことでようやく登録となり、富士山では美保の松原が除外勧告を受けたのに逆転で一括登録となったといったように、イコモスの勧告には随分と振り回されてきた。
これを機にイコモスも自らの価値観を押し付けることに謙虚になってほしいと思う一方で、世界遺産委員会がその誤りを正すことができたところには、最近のこうした組織/機関には珍しいほどの理性や良心が生きているという美点を見るべきかとも思う。
そして何より、今回のこの満足すべき結果がもたらされたのは、日本の代表団や関係者の地道な理論武装や説得工作が結実したからに違いなく、こうした真摯な取組み姿勢というのは、政権中枢や国会ではもはや望むべくもない状況になってきてしまっているだけに、今や貴重な ”日本遺産” ではないかと思ったりもした。

>沖ノ島・宗像大社関連
宗像大社国宝展 (2014、出光美術館):
  神の島・沖ノ島と大社の神宝 沖ノ島祭祀遺跡の変遷
  沖ノ島と伊勢神宮、寄物 宗像大社と仙僉⊇亳佐三

>世界遺産関連
西洋美術館 
平泉
長崎の教会群
慶長遣欧使節関係資料
山本作兵衛
世界遺産写真展

hokuto77 at 23:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2017年07月08日

バベルの塔展-10 ボス、新たなベスト18

(東京都美術館 7/2終了)
ヒエロニムス・ボスについては、実見した作品についてランキングしてみたことがあったが、新たにボイマンス・ファン・ベーニンゲン美術館(ロッテルダム)の2作品を見ることができ、またこの間に真偽をめぐる議論もあったので、あらためて現時点での実見作品を整理しておきたい。

1 聖アントニウスの誘惑  (リスボン)
2 快楽の園 (プラド)
3 東方三博士の礼拝 (プラド)
4 十字架を負うキリスト (ヘント)
5 最後の審判 (ウィーン・アカデミー)

6 干草車 (プラド)
7 荒野の洗礼者ヨハネ (ラザロ・ガルディアーノ)
8 荊冠のキリスト (ロンドン)
9 聖アントニウスの誘惑 (プラド)
10 キリスト架刑 (ブリュッセル)

11 放浪者 (ロッテルダム)
12 愚者の舟 (パリ)
13 最後の審判 (ブリュッへ)
14 聖クリストフォロス (ロッテルダム)
15 聖ヒエロニムス (ヘント)

16 東方三博士の礼拝 (ニューヨーク)
17 愚者の石の切除 (プラド)
18 七つの大罪 (プラド)

このうち、4、9、17、18 は、2014年以降は真筆性が疑われているようだが、私としてはその見解に賛同し難く、近いうちに名誉回復される可能性も高いと思っているので敢えて外さない。
一方、13、16 は、昨年に真筆リストに加えるという説が出たものなので、記事を書いた時点では疑義があったことを踏まえた言い回しになっている部分もあるが、これも敢えてそのままにしておく。


<ヒエロニムス・ボス関連記事>
実見作品ランキング 2014 2017
真作に関する議論  2014 2016
ボス紀行(継続中)〜
1 最後の審判 (ブリュッへ)
2 愚者の舟 (ルーブル)
3 最後の審判 (ウィーン)
4 キリスト架刑、聖ヒエロニムス (ブリュッセル、ヘント)
5 十字架を負うキリスト (ヘント)
6 愚者の石の切除、七つの大罪 (プラド)
7 干草車の祭壇画 (プラド)
8 快楽の園(地上の楽園) (プラド)
9 東方三博士の礼拝 (プラド)
10 聖アントニウスの誘惑 (プラド)
11 荒野の洗礼者ヨハネ (ラザロ・ガルディアーノ)
12 荊冠のキリスト (ロンドン)
13 聖アントニウスの誘惑 (リスボン)

>バベルの塔展 (2017、東京都美術館)
ボスの「放浪者」 ボスの「聖クリストフォロス」 ボス派の油彩と版画
ブリューゲルの版画 バベルの塔という企て 二つの未完の塔 ”正義” が崩れゆくとき
16世紀の聖像と祈念図 多様化する絵画世界 ボス、新たなベスト18

hokuto77 at 23:15|PermalinkComments(0)西洋絵画(古典)