2024年09月14日

空間と作品-2 古賀春江「素朴な月夜」

(アーティゾン美術館 〜10/14)
空間と作品“ という企画展の第2部となる5階の展示は作品の所蔵者に注目するもの、友人たちが持っていたという青木繫に続いて、川端康成旧蔵の 古賀春江作品が出ていた。
素朴な月夜」(1929)という大判の油彩画は文豪の床の間にあったというのだが、素朴という言葉とは裏腹になかなか賑やかで込み入った作品だ。
フクロウや蝶が飛び交い、花や果物がいっぱいのテーブルを満月が照らす歪んだ空間で、これからいったいどんな時間が始まるのだろうか。
ブリヂストン美術館時代に所蔵品のベストテンを選んだことがあったが、その時までにもししっかり見ていたら当然入れるべき作品であった。

遊園地 」(1926)もメルヘンチックな画面、こうした親密な作品は川端と古賀の親交の深さをあらためて感じさせる。
それにしても、昔の遊園地は今のテーマパークなどと違って素朴なものだったはずなのに、想像力を遊ばせる余白があったせいか、非日常空間として魅力的な場所だったことを思い出す。
美しき博覧会」(1926)は安井曾太郎の旧蔵ということで少し先にあったが、クレーのように繊細で夢幻的な作品だった。

ピカソのブロンズ像 「道化師 」(1905)は色彩のない立体作品ながら、ばら色の時代らしい道化師の頭部に青の時代の哀歓が滲む。
これは海老原喜之助の旧蔵だが、この画家の作品は素描のみで、最近文庫本の表紙で久しぶりに見た「ポアソニエール」の面影はなかった。
ロートレックの 「サーカスの舞台裏」(c. 1887)も、この画家には珍しいモノクロームの油彩で、華やかな表舞台の背後で光の当たらない裏の部分を描いている。
それぞれの衣裳をつけた3人が馬の世話をしている様子からは、華やかなショーを続けていくことの厳しさ、それを支える人々の一生懸命さが伝わってくる。
ピカソもロートレックも、それぞれのキャリアの本流からは外れた作品ながら、20歳代半ばで既に人間観察の達人だったことを示していた。

最初にふれた 因陀羅禅機図断簡 丹霞焼仏図」(元時代・14世紀)もこのフロアの奥の方にあり、筑前黒田家の所蔵品として紹介されていた。
同じコーナーには 龍泉窯 「青磁鉄斑文瓶(飛青磁花瓶) 」(同)と雪舟 「四季山水図 」(室町時代・15世紀)全4点もあり展示の趣旨は理解したが、このために国宝の水墨画作品を3カ月近く出しておくのもどうなのかという気がしないでもなかった。

5階の最後の部屋はブリヂストン美術館時代を思い出させる名品コーナー、ここでも コローの 「ヴィル・ダヴレー」(1835–40)は林忠正、マネの 「自画像」(1878–79)は松方幸次郎、マティスの 「画室の裸婦」(1899)は細川護立、セザンヌの 「サント=ヴィクトワール山とシャトー・ノワール 」(c. 1904–06)は原善一郎が旧蔵者だったことが紹介されていた。
そう言われてみると、美術商だった林忠正、西洋美術館の基礎となるコレクションを築いた松方幸次郎はともかくとしても、それぞれの絵の購入を決めた際にどのくらいほれ込んでいたのか、潤沢な金のあるところに話がたまたま持ち込まれたのか、ビジネスや投資の要素がどのくらいあったのか、といったことが気にならなくもなかったのだが、ともかくも日本に来てよかったと感謝しておくことにしたい。

2024年09月11日

神護寺-4 五大虚空蔵菩薩坐像

(東京国立博物館 9/8終了)
神護寺―空海と真言密教のはじまり” 展の最後となる “第5章 神護寺の彫刻” の入り口に、「五大虚空蔵菩薩坐像」(国宝、平安時代 9世紀)5躯が揃って登場していた。
広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持つ、という “虚空蔵菩薩” (こくうぞうぼさつ)は、一般にはあまり馴染みがない仏様だが、空海が室戸岬の洞窟に籠もって虚空蔵菩薩求聞持法を修したということから、“空海展” にとっては重要なメンバーだ。

五菩薩とも、結跏趺坐して腰のあたりに止めた左手に三鈷鉤を持つところは共通しているが、体躯の色と右手の形や持物が違っており、中央の一段高いところに座る 法界虚空蔵は白色で、右手は来迎印のような印を結んでいた。
他の4体はこれを中心にして四方を向くように配置されており、正面の右手前は 東方・黄色の 金剛虚空蔵で右手の持物は 独鈷杵、その左は 南方・青色の 宝光虚空蔵で 火焔宝珠(如意宝珠?)、左奥は 西方・赤色の 蓮華虚空蔵で 蓮華、そして右奥は 北方・黒色の 業用虚空蔵で 羯磨を持っていた。

以上を四神や四天王の方位順にふれてみたが、色は北方の黒以外は一致していない。
神護寺では多宝塔内に横一列に並んでいたはずだし、東西南北を担当する場合でも東寺講堂の立体曼荼羅のようにこちら(拝観者)側を向くのが一般的であろう。
今回は、五重塔の初層などで四方を向く場合に准えた博物館的配置ということかと思われるが、これによって虚空蔵らしい宇宙的な広がりを感じさせようということだっただろうか。

小柄な体形は全体に柔らかな印象を与えていた上に、木屎漆で整形されているせいか滑らかに見え、それが官能的な艶っぽさに繋がっているようだ。
そうした造形面では人間的で親しみやすい姿でありながら、寡黙な目には異界を見ているような妖しさがあり、空海没後の作ながらやはり密教の像だという思いを強くした。

その手前に出ていた 「愛染明王坐像」(重文、鎌倉時代 文永12年(1275))は、憤怒像ながら写実的なアプローチでのゆえか過剰さがなく、生身の人間が怒っているという感じを与える像だった。
運慶の孫 康円の作という本像は6本の腕もそれぞれに有機的な動きをしていて、慶派の力の確かさが感じられた。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本彫刻 

2024年09月08日

ロートレック-5 未完の象徴主義者…

(SOMPO美術館 〜9/23)
フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線” という展覧会は、“ほら、劇場の喧騒が聞こえる---” というコピーが示すように、世紀末パリの夜の華やぎに繋がる作品が当然のことながら主流だったけれど、中に幾つか、それらとは全く異なる世界の深淵を垣間見せる作品があった。

ひとつは ”第3章: 出版−書籍のための挿絵、雑誌、歌曲集の終盤にあった クレマンソー 『シナイ山の麓で』(1897)の連作の末尾に置かれた、2枚の墓地を描いた作品だ。
ガリツィアの墓地」は枯れ木が何本か立つ荒野に髑髏が転がり、空には烏と思しき鳥が飛んでいる。
ブシクの墓地」はもう少し樹木が密になった森の中で月に祈る人影が見え、闇に沈んだ地面にはやはり髑髏が転がっていて、いずれも生の儚さや死の避け難さを強く訴えかけてくる作品といった印象を受けた。
なぜこの2点が連作の中で “未使用” になったのか、それは作品自体の出来栄えというよりは話の流れとの関係といったことなのかもしれないが、ここから醸し出される虚無感や無常感は、ロートレックに対して持っていたイメージを大きく超えていくものだ。
もしこの “風景画” が連作版画に採用され、さらに油彩やポスターへと発展していたとしたら、象徴主義絵画の巨匠をもう一人誕生させていたかもしれない・・・

もう一点は “第4章: ポスターの後半にあった 「警鐘」(1898)、描かれているのは月夜に森の中をそぞろ歩く夢遊状態の女城主で、彼女の後ろを追いかける痩せた犬や、遠くに微かに見える鐘が尋常ではない気配を増幅させている。
憑かれたような女の表情が危うい感じを呼び起こすこの状況は、原作からのインスピレーションによるところが大きいであろうから、ロートレックのこの面の才能を過大評価してはいけないのかもしれない。
それでも、もしアルコール依存や梅毒により36歳という年齢で亡くなるということがなければ、後年には思わぬ境地に至る芸術家になっていた可能性も否定できないのではないかと思った。


余談ながら、本展の最後に当館所蔵の ゴッホひまわりがあり、ここにロートレックとの関係を開設したパネルが追加されていた。
それによればゴッホの方が生まれは11年早いものの、2人の人生が交錯したモンマルトルではロートレックの方が先輩で、あとからやってきたゴッホにアルルに行くことを奨めたのもロートレックなのだという。
22歳のロートレックの言葉が33歳のゴッホにどう響いて行く末に影響を与えたのか、その後のゴッホ芸術の大爆発を考えれば、ロートレック最大の功績というべきかもしれない。


>ロートレック過去記事
ロートレック・コネクション (2009、ザ・ミュージアム) 
パリ♥グラフィック (2017、三菱一号館美術館) 

2024年09月05日

空想旅行案内人 フォロン-4 世界人権宣言

(東京ステーションギャラリー 〜9/23)
“第2章 なにが聴こえる?”に続く ”第3章 なにを話そう?“ ではポスターなど商業的な制作物が増え、空想旅行というよりはメッセージ性の高い作品が中心となっていた。

フォロンが生涯に手掛けた作品の中でおそらく最も多くの人の目に触れることになったと思われる 「『世界人権宣言』表紙 原画」(1988)は、手のひらから小さな鳥たちが飛び立っていくような繊細で優しい絵だった。
さらにフォロンはいくつかの条文に挿絵を描いているが、「第1条 みんな仲間だ」には隔絶された絶壁の両側で言葉を交わそうとしているような二人の子供、「第2条 差別はいやだ」には天秤の両側で釣り合っている人々がいるなど、押しつけがましくない控えめな表現で各条の趣旨を伝え、さらに一歩進んで考えることを促す作品となっているように思えた。

第12条 ないしょの話」は、 “第1章 あっち・こっち・どっち?”にあった大きな矢印が部屋の開口部から飛び込んできていて、プライバシーが不当に侵害される現場の緊迫感や無力感がよくわかる図となっている。
第27条 楽しい暮らし」は、これも第1章にいたニューヨーカーと同じように無数の矢印が頭の中から溢れ出ている図だが、こちらはいろいなアイディアが湧き出してくるのを楽しんでいるようであり、矢印にも肯定的な意味を持たせていることが窺われた。

この少し前には作品が表紙となった雑誌の現物が展示されていて、TIME 誌には確かにかつてこの雑誌が纏っていた雰囲気があった。
実際の作品に見覚えがあるわけではない、しかしどこかで見たような感じは会場全体を通して常について回り、それはおそらくフォロンの作品を目にしたことがなくても、その可能性が全く考えられない人にとっても、強烈な既視感を感じさせる何かがあるように思われた。


ここで ジャン=ミッシェル・フォロン(Jean-Michel Folon, 1934-2005)について少しまとめておくと、ベルギーで生まれ1955年21歳の時にヒッチハイクでパリへ、イラストレーターとしてすぐに売れることはなかったが、60年にドローイングをニューヨークに送ったところ、『ザ・ニューヨーカー』や『タイム』などの表紙を飾るようになったという。
65年からはオリベッティ社との関係が始まり、生活も安定したフォロンはよりメッセージ性の高い作品も発表するようになる。
また、当初はパリやニューヨークなどの大都市の景観に触発された作品が多かったのに対し、68年にビュルシー、85年にモナコにも拠点を持つようになると、自然に馴染み地平線や水平線が近しいものになっていったようだ。

2024年09月02日

神護寺-3 釈迦如来像、山水屛風

(東京国立博物館 〜9/8、展示替えあり)
神護寺―空海と真言密教のはじまり” 展の “第1章 神護寺と高雄曼荼羅”に続く “第2章 神護寺経と釈迦如来像―平安貴族の祈りと美意識―” に登場していた 「釈迦如来像」(国宝、平安時代 12世紀)、通称 “赤釈迦” は実に明るく穏やかで、ほっとできる感じの釈迦如来像だった。
目は半眼に優しく開かれ、小さくまとまった口は紅を入れたように鮮やか、繊細に曲げられた指は妖艶なほどで、赤い色と截金で実物を想像しにくいような衣の質感と相俟って、ふんわりとした印象を与えていた。
空海(774-835)が活躍していた9世紀からはかなり時がたち、密教性も希薄になっているように思える像は、弘法大師とはあまり縁のない貴族の女性の持物ででもあっただろうか。

第3章 神護寺の隆盛” に進むと、“第1節 神護寺に伝わった中世文書と絵図の世界” には 高雄山神護寺伽藍図や 高山寺絵図などがあって、都を離れた山あいに築かれた伽藍のかつての姿が俯瞰できた。
そう言えば私が 神護寺を訪れたときは、三尾(さんび)の三寺院を一度に見て回ろうと思い、最奥部の 栂尾・高山寺から、槙尾・西明寺、高雄・神護寺の順で拝観した。
大垣行夜行列車で東京を発って朝の京都駅に着き、1時間ほどバスに揺られて栂尾まで行ってから、高山寺、西明寺と歩いて神護寺に辿り着いたので、その頃にはさすがに疲れが足にきていて、上り坂や階段がかなりきつかったという記憶が妙に鮮明だ。
それだけに、やっとのことで上り詰めた石段の先に、山の中とは思えない広壮な伽藍が広がっていたのを目の当たりにした時は、蜃気楼でも見るような信じ難い思いだった。

閑話休題、 “第2節 密教空間を彩る美術工芸品” には 「山水屛風」(国宝、6曲1隻、鎌倉時代 13世紀)の穏やかな山野が広がっていた。
灌頂会用の屏風と聞くと金剛寺の「日月四季山水図屏風」のように超自然的、神秘的な屏風絵を思い浮かべてしまうのだが、本作は緑豊かな風景に特別なところはなく、そこでは普通の日常が繰り広げられているように見える。
それは最古のものだから素朴なのだということなのか、あるいはむしろこの当時、災害や戦乱などで平穏な生活が脅かされ、末世的な絶望感や恐怖心に苛まされていたとすれば、この絵の世界こそが仏の力を借りてでも実現したい理想郷だったということになろうか。

この後の “第4章 古典としての神護寺宝物” に属する展示品のうち「両界曼荼羅」については先述、その他「伝源頼朝像」などの複製品があり、展覧会は最後の “第5章 神護寺の彫刻” へと続いていた。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2024年08月30日

空間と作品-1 応挙「竹に狗子図襖」

(アーティゾン美術館 〜10/14)
因陀羅の禅機図断簡「丹霞焼仏図を見ることができたのは、“空間と作品“ という企画展の中でのことだった。
全て館蔵品ではあるが、”作品が見てきた景色をさぐる” という狙いで、作品が置かれた状況の再現や来歴に注目する部分が若干新鮮だったので簡単に振り返っておく。

まずは祈りの対象として 円空の 「仏像」(江戸時代・17世紀)が登場、2体のみをほぼ背中合わせに1室の中央に置く展示は、確かに普通の彫刻展の見せ方ではない。
しかし、毎日人々に拝まれたであろう村落の仏堂や個人の礼拝スペースなどを思わせるわけではなく、空間の再現と言えるものではなかったけれど、背面も含めて全体の構造や鑿の入り方などはよくわかった。

依頼主との関係に着目した ピサロの 「四季 春夏秋冬」(1872)は、銀行家の別荘のダイニングルーム用に制作されたもの、特に見どころがあるわけでもない平板な作風も、そうした目的にはよく叶うものだったのだろう。
ところで全く同じサイズの4枚の絵は季節ごとに取り換えたのか、かつての日本家屋では掛け軸を季節に合わせて掛け替えるということが行われていたが、この場合は4枚とも同じ室内の壁面に常時並んでいたと考えた方が自然だろうか。

ピカソの 「腕を組んですわるサルタンバンク」(1923)は、ホロヴィッツが所蔵していたということが紹介され、絵の前のソファに座りサルタンバンクと一緒に写ったピアニストの写真があった。
これはいつ撮影されたものなのか、気になったのは本作が1980年に石橋コレクションに入ったということ、写真の風貌からはホロヴィッツの後に別の所蔵家がいた可能性は低いと思うが、いずれにしても1980年かそれ以前には彼の手を離れたという事実をそれは示している。
1903年生まれのホロヴィッツはこの時点で77歳、それは1989に亡くなる9年前で、吉田秀和氏に “ひび割れた骨董” と評された1983年の初来日よりも前に両者の関係は終わっていたということになる。
それは一生手元に置きたいと思うほどは執着していなかったか、売却代金が必要だったのか、より直接的にはタイミングよく間を取り持つ人が現れたということかもしれないが、それでも両方か少なくともその一方がなければこの作品がこの壁面に掛かることはなかっただろう。

円山応挙筆 「竹に狗子波に鴨図襖」(18世紀)の 「竹に狗子図襖」のために、本展では畳を敷き襖を取り付けられるようにした ”和室” の空間が造られていた。
畳に座り作品との間にガラスがない状態で向き合うと、竹の葉のそよぐ音が微かに聞こえるようで、目の高さにいる9匹の子犬たちも一段と親密に感じられてくる。
右端でじゃれたりして遊ぶ5匹、中央左で静かに語り合うような2匹の可愛らしさはもちろんだが、中央右で笹の葉越しにこちらを見る1匹、そして左端で群れから離れ遠くを見やるような1匹には、幼いながらもいろんなことを精一杯考えているらしい哀愁が漂っていた。

建物の一部になっている襖絵と言えば、東山魁夷の唐招提寺障壁画がまず思い出されるし、応挙にも大乗寺障壁画という畢生の大作があるが、それらと比べると本作は建物との一体性は弱めで、いわば場所を選ばずにどこにでも置くことのできる襖絵と言っていいと思う。
筆致も軽快で渾身の力作というようなものではないが、それでもこのような形で相対することによって高まる魅力というのは確かにある。
と言っても作品本来の在り方に近づけただけなので、むしろ普段の美術館的展示方法の方が(やむを得ないこととはいえ)問題だということでもあるのだが・・・

その先はセザンヌ、佐伯祐三、三岸節子などと椅子やサイドボードなどのインテリアを組み合わせて、”My Favorite Place” の空間を再現していた。


>アーティゾン美術館開館記念展 (2020) 
>クレー、石橋財団コレクション (2020、アーティゾン美術館) 

2024年08月27日

ロートレック-4 虚飾の世界と晩年

(SOMPO美術館 〜9/23)
モノクロの素描で始まった “フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線は、“第4章: ポスター” で色彩が全開となり、賑やかな世紀末パリの喧騒へと誘われていく。

エルドラド、アリスティド・ブリュアン、彼のキャバレにて」(1892)は第2章にも登場していたシャンソン歌手を前から見たところで、人気者の堂々たる立ち居振る舞いが髣髴としてくる。
造形的には前出の後ろからのショット「キャバレのアリスティド・ブリュアン」(文字のせ前、1893)の方が優れていると思うけれど、キャバレのポスターとしての華やかさではけっして負けていない。

ジャヌ・アヴリル」(文字のせ前、1893)はロートレック芸術のヒロインといっていい踊り子が、ベースのネックを強調した枠の中で躍動している。
ディヴァン・ジャポネ」(1893)で黒い服を着て優美な曲線を描き、個性的な横顔を見せているのもジャヌ・アヴリル、そして 「エグランティーヌ嬢一座」(1896)の舞台でフレンチカンカン(シャユ踊り)を演じる4人の踊り子の左端もジャヌ・アヴリルとなると、彼女に対するロートレックの入れ込みようがわかるというものだ。

一方、「54号室の女性船客」(白黒版、1896)でデッキチェアで寛ぐ姿を見せているのは、友人たちと参加した船旅で一目惚れした女性なのだという。
それがこの場合の仕事とはいえ穏やかな雰囲気に包まれている彼女は、ロートレックが量産してきた夜の花の姿とは一線を画す気配を漂わせており、つかの間のものだったとしてもそれは本当の恋だったのかもしれない。

展覧会の最後は、“第5章: 私的生活と晩年” というこの画家にはやや珍しいと思えるアプローチのセクションだった。
貴族出身だが健康上の問題を抱えてアルコールに依存するようになったこともあって、頽廃的な夜の世界にどっぷりとつかっていたというイメージのロートレックだが、ここで紹介されていた手紙や招待状など、現実社会の人との関わり合いを示す資料を見ると、社交も丁寧に行いカネの心配もする、意外に常識的な人物だったことが窺える。
手紙の文字も(母親に金の無心をするのだから当然かもしれないが)きれいに整ったもので、ここまできて突然別の人格が立ち現れてきたような気がした。

2024年08月24日

神護寺展-2 高雄曼荼羅と空海

(東京国立博物館 〜9/8、展示替えあり)
神護寺―空海と真言密教のはじまり” 展のハイライトのひとつが、“第1節 草創期の神護寺―空海―” の最後にあった 「両界曼荼羅(高雄曼荼羅)」(国宝、平安時代 9世紀)の公開だ。
天長年間(824〜834)に、淳和天皇の発願により神護寺の灌頂堂にかけるために制作されたもので、4メートル四方の大きさをもち、空海在世時に制作された現存最古の両界曼荼羅と伝えられている。
展示は 胎蔵界・金剛界が前・後期で掛け替えとなっていたので、訪れた時に見ることができたのは 「金剛界曼荼羅」だった。

黒光りする巨大な画面は、修復直後ということもあって、古い時代の曼陀羅によく見られる剥落や褪色、折り皴などの劣化がほとんど感じられない。
近づいて見れば欠損部分も多いようなのだが、地色と同じ濃紺で埋められているせいかあまり目立たず、残っている金色の線が鮮やかに浮かび上がっている。
修復にあたり金の補筆は一切ないということなのに、元のイメージがかなりよく甦ってきていて、金色の仏の姿は1200年の時間を超えて輝いていた。
少し引いてみればその線は強くリズミカルで、大きな画面の中に緊密に構成されており、堅固で揺るぎない感じが伝わってくるものだった。

本曼荼羅の細部を伝える資料としては、 “第2節 院政期の神護寺―文覚、後白河法皇、源頼朝―” に属する 「高雄曼荼羅図像」(平安時代 12世紀、奈良・長谷寺)や「三十七尊羯磨形図像」(鎌倉時代 13世紀、京都・醍醐寺)がすぐ手前に展示されていて、各部分ごとの詳細な姿を間近に見せてくれていた。
それは巨大な曼荼羅から一区画ずつ筆写していったものなのであろう、写経とはまた別の才能を必要とする大変な作業だったはずで、個々の仏像や装飾の姿を忠実に記録しようとした執念が感じられ、中には東寺講堂の立体曼荼羅左壇の中心にいる不動明王の基になったと思われる不動像もあった。

曼荼羅の全体像を知らせる資料としては、同じ展示室のすぐ手前に実物大の復元図である江戸時代(寛政6-7年(1794-5)の 「両界曼荼羅」2幅があり、こうして “両界” を並べて見てみると、あらためて動的・立体的な 金剛界と、静的・平面的な 胎蔵界という対照的な性格がよくわかる。 
だいぶ進んだところにあった 高橋逸斎筆 「両界曼荼羅」(2幅、江戸時代 文政11年(1828)、京都・知恩院)は、四分の一ほどの縮小コピーといった感じだが筆致は驚くほど緻密、今は失われている尊像も忠実に再現しているものなのであろう。
当時はオリジナルの劣化がそれほど進んでいなかったのか、あるいは先述した「高雄曼荼羅図像」などの資料に依りながら再構成したものなのか、完成度から考えると原本を見ながら図像を首っ引きで作業を進めたものと思われるがどうであろうか。

ところでこの 高雄曼荼羅は、824年に 高雄山寺と 神願寺が合併してできた 神護寺灌頂堂にかけるために、824〜834年の間に 淳和天皇の発願により制作されたとされ、当時神護寺にいた 空海(774-835)が制作に密接に関わったといった解説があった。
しかしその 空海の年譜を追ってみると、809年(35歳)に 高雄山寺に入り、812年に最澄ほかへの灌頂を行っているが、816年に 高野山を下賜されると翌年から現地に入り伽藍建設を進めていく。
さらに823年には 東寺を賜り、講堂の立体曼荼羅の構想や綜芸種智院の開設(828年)に携わることになるので、824年から10年間は神護寺にどの程度関わることができたのか、より具体的には滞在日数やエネルギーを割くことができたのかがよくわからない。

もとより人並外れた気力・体力・能力の持ち主なので、その仕事量を一般人の尺度で推し測ることはできないとしても、816年以降は一から自分の世界を作り上げることができる高野山、そして東寺へとその関心の大部分が向かっていたことは確かであろう。
それでも 高雄曼荼羅本体の充実ぶりに加え、詳細な図像類や再現作品の質や量を見ると、空海その人に連なるものとして大きな敬意が払われていた、と考えるほかはないということかと思われた。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2024年08月21日

空想旅行案内人 フォロン-3 冷戦と宇宙

(東京ステーションギャラリー 〜9/23)
空想の旅に遊んでいたつもりだった ジャン=ミッシェル・フォロン(Jean-Michel Folon、1934-2005)の展覧会は、“第2章 なにが聴こえる?” に入ると政治的なメッセージ性が濃厚になってきていた。

深い深い問題」(1987)は、虹の見える緑豊かな地球に夥しい数のミサイルが飛んでいる、ないしは大海を魚のように泳いでいる図で、米ソ冷戦の時代に両超大国が核先制攻撃によって相手を無力化する戦略核兵器の開発競争をしていた状況を表している。
地下サイロや原子力潜水艦に夥しい数の核弾頭を搭載したミサイルが配備されていて、それらが直ちに発射できる状態に置かれているらしい、そんな事実の断片を知らされて誰もが戦慄した頃の話だ。

これはまだオブラートに包まれた感じだが、「もっと、もっと」(1983)は左右にはっきりと米ソの国旗が描かれた手が見え、水槽の中で金魚のように泳ぐミサイルに両側から餌をやっている。
ニクソンの勝利」(ca.1968)は大きく開けた口の中に見える歯がミサイル、「死の舞踏」(雑誌『アトランティック』[1984年1月]表紙 原画、1983)は手足がミサイルになっている髑髏ダンサーが踊る、といったように辛辣な作品もあった。
その後に核軍縮の流れがやってきて、ソ連崩壊とともに全面核戦争の恐怖は去ったかに思えた時期もあったのだが、今また無謀な侵略や開発国の拡大などで核兵器が使用される(あるいは暴発する)可能性は高まってきているようであり、“深い深い問題” はどこまでも深く、そして新しい。

本章には他にエコロジーをテーマにした作品があり、そして後半には宇宙に目を向けた作品もあった。
4点連作の 「無題」は、地球の外の天体から地球を眺めているという状況らしく、幸いそこにはまだ人が生きているようなのだが、何やら核戦争後の地球を見ているような気がしないでもなかった。

遠い国からあなたへ手紙をしたためています」(1972)という美しい作品も、似たような問題意識からの作品だろうか。
リトル・ハット・マンの眼前に広がっているのは夜空というよりは宇宙空間で、それをたった一人で仰ぎ見る姿がひどく孤独に見える。
彼はアルファベットの記号が頭についた杭のようなものが立ち並ぶところにいて、なぜこれが “手紙をしたためています” ということになるのかと訝しく思ったのだが、少し先の映像展示でフォロンがオリベッティ社の広告を担当していたことを知り疑問が解けた。
このアニメも、巨大なタイプライターのキーを飛び石を渡っていくように叩き、出来上がったペーパーを巨大な紙飛行機にして飛ばすという話だったのだが、そのメッセージ性は必ずしも限定的ではないオープンなもののように思われた。

2024年08月19日

Index Apr.-Jun., 2024

YUMEJI₋竹久夢二 (東京都庭園美術館) 
浮世絵の別嬪さん (大倉集古館) 
デ・キリコ (東京都美術館) 
ガレ (松濤美術館) 
河鍋暁斎×松浦武四郎 (静嘉堂文庫美術館) 
法然と極楽浄土 (東京国立博物館) 
木島櫻谷 (泉屋博古館) 
上村松園・松篁・淳之 (日本橋眦膕亜法
熊谷守一 (熊谷守一美術館) 
テルマエ (パナソニック汐留美術館) 
北欧の神秘 (SOMPO美術館) 

前橋汀子 
小林研一郎、ヴィルサラーゼ 
堤剛、小山実稚恵 
能 「野守」 
ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024 
フジコ・ヘミングさんの訃報 

2024年08月16日

神護寺―空海と真言密教のはじまり-1

(東京国立博物館 〜9/8、展示替えあり)
創建1200年記念 特別展 「神護寺―空海と真言密教のはじまり」は、主役の 空海(774-835)に脇役の 最澄(766-822)が絡み、良くも悪くもその影響力を思い知らされる企画だった。

第1章 神護寺と高雄曼荼羅” の “第1節 草創期の神護寺―空海―” は、浮彫の「弘法大師像」や「真言八祖像」(後期は善無畏から空海まで)、空海が招来した「金銅密教法具(金剛盤・五鈷鈴・五鈷杵)」(国宝、中国 唐時代 8〜9世紀、京都・教王護国寺(東寺)蔵)などで “空海の顕彰会” のように始まるが、特にフォーカスされていたのは 最澄との関係だ。

出てきていた 「御請来目録」(国宝、平安時代 9世紀、東寺蔵)は 最澄による直筆写本で、空海が唐から持ち帰った文物のリストを最澄が詳細に書き写していたこと、それが可能になるほどの期間にわたり原本が最澄の手の及ぶところにあったことに驚かされた。
几帳面な文字で律儀に作業を進めた 最澄は、空海が唐で何を得て何を持ち帰ってきたか、その全貌を正確につかみたいとの思いで取り組んだかと思われるが、胸中には複雑なものがあったであろう。

空海筆 「灌頂暦名」(かんじょうれきみょう、国宝、平安時代 弘仁3年(812)、神護寺蔵、以下略)は、神護寺の前身である 高雄山寺で 空海が灌頂を授けた人物の名簿で、その筆頭に 最澄が記載されているところにも、当時の双方のポジションが如実に表れている。
中に塗り潰して修正したりした箇所があったが、これは単なる書き損じといったことなのか、あるいは後から抹消するなど修正すべきことが起きたことを反映しているのであろうか。

翌年の 最澄筆 「尺牘(久隔帖)」(国宝、平安時代 弘仁4年(813)、奈良国立博物館)は、空海の下にいる弟子に宛てて最澄が認めた質問状ながら、空海が直接読むことを想定していたのであろう、丁寧な字で書かれた紙面には若干の緊張感も窺える。

対する 空海からの 「風信帖」(国宝、東寺)は雄渾で伸びやかな文字、書き手の自信が漲った文句のつけようもない見事なものだが、しかし私信にしては文字のサイズが大き過ぎるのではないか。
そこにはキャッチボールをしている相手にいきなり剛速球を投げ込んだような感じがあり、自分が優位に立っているという気持ちの表れのような気がしないでもなかった。
そう言えば灌頂の時の様子を描いたという 「高野大師行状図画」(南北朝時代 14世紀)においても、もとより灌頂を授ける儀式としては当然なのであろうが、導師としての空海の権威を示すための配慮が最大限に払われているように見えた。

しかしその 空海も相手変わればということか、嵯峨天皇に宛てた 「狸毛筆奉献表」(国宝、平安時代 9世紀、京都・醍醐寺)は、丁寧に書かれた文字がほどよい大きさで並んで畏まっていた。

ところで今回は “神護寺” 展なのだが、ハイライトとなる812年の灌頂会を中心としたこのあたりの事跡は、その前身寺院である 高雄山寺時代のものだ。
和気清麻呂が781年に建立したこの寺に、最澄は802年すなわち空海が入る7年も前に招かれて法華会を催したとのことなので、その後の形勢逆転についてはいろいろと思うこともあったことと推察される。
そして寺は824年に 神願寺と合併して、神護国祚真言寺神護寺となり現在に至っている。


>関連過去記事
東寺展 (2019、東京国立博物館)
  七祖、十二天、御修法道場 西院曼荼羅 唐の木彫仏と講堂立体曼荼羅 真言声明
高野山の名宝 (2014、サントリー美術館)
  空海の足跡・金剛吼菩薩 快慶の執金剛神と四天王 運慶の八大童子
空海と密教美術 (2011、東京国立博物館)
  聾瞽指帰・諸尊仏龕 金剛吼菩薩・曼荼羅 西塔大日如来 東寺講堂仏像
高野山紀行 (2008)
  壇上伽藍 金剛峰寺・奥の院 西塔大日如来 霊宝館

最澄と天台宗のすべて (2021、東京国立博物館)
  天台高僧像 1200年の法灯 ”天台薬師” 元三大師像
最澄と天台の国宝 (2006、東京国立博物館) 
  天台声明 最澄の遺産 六道絵(前) 六道絵(後) 観音饗宴 寡黙な仏たち
  黄不動 十所権現像

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2024年08月13日

因陀羅の禅機図断簡「丹霞焼仏図」

(アーティゾン美術館 〜10/14)
因陀羅禅機図断簡5点の中で唯一未見だった 「丹霞焼仏図」(旧石橋美術館蔵)が出ていると聞き、アーティゾン美術館まで足を運んだ。
本作は、元末14世紀の僧 因陀羅が図を描き 楚石梵が賛を付けた巻物を1コマずつ切断して表装したものの中の1点で、もとは全部で何点あったのかわからないが、国内に現存する5点は全て国宝に指定されている。

その中の3点、すなわち「布袋蔣摩訶問答図」(根津美術館)、「智常禅師図」(静嘉堂文庫美術館)、「李渤参智常図」(畠山記念館)は広い意味での師弟関係を描いたもので、年長の師を訪れた若輩者が師との会話の中から何かを学びあるいは気づく、そうした貴重な出会いの場面における両者の関係性や、心の動きの機微が描かれていると言っていいだろう。
一方 「寒山拾得図」(東京国立博物館)は弟子同志の図、それぞれの持物は経巻と箒とされているので、経巻を持つ寒山が格上のような気もするけれど、禅の修行に上下はないであろうし、二人はそれぞれ文殊・普賢菩薩に准えられているので、対等な二人が愉快な話をしているのか、あるいは師の教えや仏の真理に触れた対話の場面と考えてもよさそうだ。

これら気心の知れた者同士のやり取りが穏やかで好ましい場面として描かれている4点に対して、この 「丹霞焼仏図」は年輩の僧二人が対立・対決するやや緊迫した場面のようだ。
左側で焚き火に手をかざしているのが中国唐代の禅僧 丹霞、彼が寺の本尊を燃やして暖をとっているところを、右側の僧侶がやや険しい表情で咎め立てたのに対し、丹霞は、木像を焼いて中の舎利を取り出そうとしているのだ、と反論する。
さらに、木像を焼いて舎利が出てくるわけがないだろうと指摘されると、だったらやはりただの木片か、と言ったと伝えられ、解説によればこれをもって偶像崇拝の無意味さを突いてやり返したのだというのだが、絵を見る限りはどうもそのようには見えない。

振り返る丹霞はまずいところを見られたというように狼狽し、慌てて何やら言い返しているように見える一方、相手の僧は毅然とした態度に揺るぎがなく、この後に形勢が逆転するような気がしない。
もとより丹霞の側にも、偶像を拝むより教えそのものを学ぶべきだ、という正論があるのかもしれないが、舎利が無いならただの薪だと言うところは物質へのこだわりを捨て切れていないようでもあるし、そもそも木彫りの像ではあっても納入物や開眼供養などによって尊像たらしめてきた歴史を否定しては、教えの発展も寺の運営も覚束ないということになろう。
もっとも、禅問答の中で常識的には無茶と思える議論が展開されることも多そうだし、これを真面目な対立と考える必要もないのかもしれず、結局のところどちらが納得したのか、あるいは喧嘩別れのようになって解決していないのかと考えること自体が無意味なのかもしれない。

それでも絵そのものに戻ってみると、大雑把に見える筆が的確に運ばれている中で、真っ直ぐな立ち姿、威厳のある表情、焼仏の現場を指差す力の強さ、さらに皴のない衣や長い杖といった属性からも、丹霞を咎める右側の僧の方の優位は動かし難いように思われる。
とりわけ現実にはありそうもない杖の威力は画面の中で際立っており、濃い墨で引かれたその線こそが、ヘタウマ系の絵をしっかりと引き締めている。
果たして丹霞の言い訳は共感を得られたのか、あるいはそうした理屈が必ずしも通るものではないといったあたりが “禅機” なのか、やや悩ましい “全点制覇” になった。


>因陀羅の禅機図断簡
寒山拾得図」(東京国立博物館)
李渤参智常図」(畠山記念館)
智常禅師図」(静嘉堂文庫美術館)
布袋蔣摩訶問答図」(根津美術館)
丹霞焼仏図」(アーティゾン美術館)

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2024年08月10日

デ・キリコ-5 往還する画家、雑感

(東京都美術館 〜8/29)
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)が1910年代にひとつの山を登り詰めた後、過渡期を経て到達した最後の “SECTION5 新形而上絵画” は、1910年代の “形而上絵画”(イタリア広場形而上的室内マヌカン)に似たところを狙いながらも、妙に人間臭いマヌカンやギザギザの人間など、過去にはなかったものを多く含んでいた。

何度か見たことのある 「オデュッセウスの帰還」(1968、デ・キリコ財団)は確かに秀逸なアイディアで、あれこれ深読みさせる何かがあるとは思うけれど、作品としてはやはり軽く浅いとしか言いようがない。
燃えつきた太陽のある形而上的室内」(1971、デ・キリコ財団)もこの画家ならではの画面ではあるがアイディアは過去のもの、しかしそんなことを嘆いても仕方がない、ごくひと握りの天才を別にすれば、多くの芸術家というのはそういうものかもしれないのだ。

最初に置かれていた “SECTION1 自画像・肖像” にも戻っておこう。
展覧会の冒頭からコスプレ好きの自意識過剰な人物の登場に驚かされたのだったが、最も早い時期で背後にケンタウルスのいる 「弟の肖像」(1910、ベルリン国立美術館)は、その後にやってくる形而上的な匂いが微かに感じられる作品だった。


なお余談ながら、本展の展示空間の作り込みはなかなか凝ったものだった。
エントランスではイタリア広場のようなアーチ形を取り入れて視線が交錯するように構成したり、その他の部分でも斜めの線を上手く使って、全体がデ・キリコ風の “迷宮” 空間になるよう工夫されていた。

さらにまったくの余談ながら、この画家のことは、展覧会名もそうなっているが、あくまでも “デ・キリコ” と呼ばねばならないのだろうか。
”デ“ を飛ばして “キリコ的風景” とか “キリコやマグリット” と言ったりすることはどのくらい不自然なのか、絶対に許されないことなのか見当がつきかねる。

他に思いつくままに挙げてみると、フランシスコ・デ・ゴヤ は ゴヤ ではなく デ・ゴヤ か、フィンセント・ファン・ゴッホ は ゴッホ も ファン・ゴッホ も使われていると思うけれど、 デ・キリコ も同じようにゆるくしておくことはできないのか。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール や ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ は、フランツ・フォン・シュトゥック は・・・
いっそ ダヴィンチ や フォンデアライエン のように一語が当たり前になってしまえば話は簡単なのだが、そうでない限り異文化圏の人間にはなかなか悩ましい。
あまり考えたくないが、いつか フォン・ゲーテ や ヴァン・ベートーヴェン でなければダメということになるのだろうか・・・

2024年08月07日

空想旅行案内人 フォロン-2 矢印の諸相

(東京ステーションギャラリー 〜9/23)
ジャン=ミッシェル・フォロン(1934-2005)が案内する空想旅行への導入としてはなかなか内容の濃かった “プロローグ 旅のはじまり”に続いて “第1章 あっち・こっち・どっち?” に進むと、ここの主役である矢印たちの実に雄弁な姿に出会っていく。

無題」(ca.1968)はかなり高さのありそうな矢印型の構造物が逆S字型に連なっていて、その上を リトル・ハット・マンが大股で歩いて行く。
その先がどうなっているのか、道はずっと続いているのかわからないのだが、踏み外して下に堕ちたら二度と戻れそうもない状況なので、とりあえずはそこを行くほかはなさそうだ。
それも不安で理不尽なことではあるが、ともかくも行き先が示されているのはまだ幸運なのかもしれない。
我々も自分の過去を振り返れば、一直線なのか曲がりくねっていたのかは別としても、いくつかの矢印が連なって現在に続く一本の道が見えてくるのだが、これから先の将来のこととなると、どんな矢印がどこに伸びているのか見当もつかない。

そちらの方に関心を移したのが 「あらゆる方へ」(1970)だろうか、夥しい数の腕を持った人物の指先がてんでばらばらな方向を指していて、とても収拾がつきそうにない状態だ。
ニューヨーカー」(ca.1970)も、仰け反ったような格好の人物の頭から無数の矢印が出ていて、それらがひとつのベクトルを示すということはない。
本当は選択肢が豊富なことは歓迎すべきことなのかもしれないが、それぞれの将来予測やメリデメを検討していたら混乱するばかりに違いなく、このニューヨーカーもわけがわからずぶっ倒れる寸前といった風情だ。

これが “解” のない世界を生きる現代人の苦悩なのか、それでも選択に悩む個々人はさておき、大きな集団だったら全体としては一定のよい方向に向かえるのかどうか、「無題」(1967)はそうした集合体の図だが、やはり混沌としていて先が見えない。
余談ながら、そんな絵を見た直後に、展覧会の順路を示す大きな矢印が目に入った。
このように限定的な場面では確かに役に立つ記号に違いないが、フォロンがこれらの作品に取り組む契機となったのは夥しい道路標識の矢印だったはず、もしこの会場に来たら苦笑いするかもしれない。

閑話休題、「群衆」(1973)には人間のような顔をした街の建物群が描かれている。
これは、特に仕事に疲れた帰路などで、時として人々の姿が無機質な建物の連続に見えたり、逆に立ち並ぶ建物が意思を持つ群衆のように見えたりするといった、大都会で不意に襲われる違和感を見事に視覚化したもののようだ。
と同時に、上空に浮かぶ白夜の太陽のような光の塊をめぐる色彩は、特に滲み効果がよく生かされた繊細なものだった。

段差のある青い部屋が連続する 「白い扉」に矢印はないが、やはり閉ざされた迷宮的な空間を辿っていくと、ひとつだけ小さな白い扉がある。
そこを開けて先へ進めば広々とした安住の場に出られるのか、あるいは似たような閉塞空間で堂々巡りが続くのか、答えはないけれどあまり楽観的になることはできない・・・

2024年08月04日

ロートレック-3 版画家が造ったもの

(SOMPO美術館 〜9/23)
“第2章: ロートレックの世界−カフェ・コンセール、ダンスホール、キャバレ……”に続く ”第3章: 出版−書籍のための挿絵、雑誌、歌曲集” では、やや異なった視点からパリの世紀末を見ていく。
『レスタンプ・オリジナル』誌表紙」(1893頃)は老刷り師の仕事場に ジャヌ・アヴリルが来ていて刷り上がったばかりのポスターを確認している図、部屋の様子と服装はちぐはぐな感じがするが、作品に見入る目は真剣そのものだ。
こんな場面が実際にあったのかどうかはわからないが、ロートレック(1864-1901)の作品がどのように生まれて力を得ていったかということを象徴的に示している。

『フェードル』のサラ・ベルナール」(『レスカルムーシュ』誌、1893)に登場しているのは アルフォンス・ミュシャのポスターで名を残した女優、その契機となった「ジスモンダ」が完成したときもこれに近いようなことがあったのかもしれず、ポスター作家と女優の縁の深さにあらためて思いを及ばせる。
しかしここでの サラ・ベルナールは、ミュシャの描いた女優とはだいぶイメージが違っているようだ。
実際のところはロートレック作品に近いのかもしれないが、我々が見たいのはミュシャの方だとすると、必ずしも美化するわけではなく時に辛辣なこともあるロートレックは、顧客満足度という点でこの市場において不利だったようにも思われた。

「リンガー・ロンガー・ルー』を歌うイヴェット・ギルベール」(『ル・リール』誌、1894)は、彼女のトレードマークである黒い手袋と優美な金髪が生きており、この女性をモデルにした作品としては美化している方ということになりそうだ。
一方 「ポレール」(『ル・リール』誌、1895)はどのような女性を描いたものなのかわからないが、こちらは肩をちょっと上げて両腕を前に垂らしながらステップを踏む姿がコミカルに捉えられている。
アニメのように今にも動き出しそうな、実に秀逸なデッサンだと思うけれど、描かれた本人はハッピーではなかったかもしれない。

ムーラン・ルージュにて、シャ・ユ・カオの入場」(『ル・リール』誌、1896)の真ん中に描かれているのは、女性として道化役に取り組んだ最初期の人物ということらしいが、堂々と入場してくる姿は美しく神々しいほどだ。
もしかしたら逆に理想化が過ぎているのかもしれないけれど、ここでは特に簡潔な線描が生きていて、主人公の人柄や周囲の雰囲気も高解像度で再現されている。
この図柄ないしこの女性をメインに据えたポスターなどの大作は残されていないのだろうか。

2024年08月01日

鎌倉の仏-26 海蔵寺薬師三尊十二神将

海蔵寺の本尊は境内正面の本堂の向かって左側にある小さな仏殿内に安置されており、正面に薬師如三尊像、その左右に十二神将が6躯ずつ2段に分かれて配置されていた。
薬師如来は小ぶりの像で ”法衣垂下” はないが、堂々とした体躯には張りがあり、残った金箔が光を受けて輝く様は 南無瑠璃光如来と呼ばれるにふさわしい。
また本像は、啼薬師(なきやくし)、児護薬師(こもりやくし)として信仰を集めているとのこと、脇侍の日光・月光菩薩とともに比較的新しい像のように思われた。

この三尊に対し、左右を固める 十二神将はもう少し時代が遡るのであろう。
この中の 戌神将は、大河ドラマで注目されていた22年に 鎌倉国宝館の特別展 「北条氏展 vol.3-2 北条義時とその時代 ー義時と実朝・頼経ー」に出てきていた。
その時に覚園寺の像との近似性を感じたので、十二神将全体を見たいと思って訪れたのだが、安置されている向こう正面は拝観できる入口からやや距離があり、そもそもサイズが小さい上に手前の達磨像などに隠れてしまっていた像もあり、細かな部分はよくわからなかった。

それでもいくつかの像は、覚園寺ないし辻薬師堂(鎌倉国宝館蔵)の像の姿に似ているように見えたが、この地で十二神将を造ろうと思えば、そのいずれかを手本にするというのは極めて自然なことだろう。
印象としてはどちらかと言えば覚園寺像のイメージに近いように思ったが、さすがにかなり前で記憶が曖昧な上に、遠目では同定が困難なこともあって確かなことは言えない。
ただ、全員がそれぞれの持ち場で躍動している感じから、覚園寺の薬師堂に足を踏み入れた時のことを思い出した。

堂内はその他に正面両側に祖師像と思われる像があり、右側の壁面には4躯の 伽藍神像が睨みを利かせていて、鎌倉禅宗様式の仏殿の姿をよく示していた。

扇谷山 海蔵寺は、源氏山・葛原岡神社に続く化粧坂の上り口に近い奥まった場所にある。
坂を上り詰めて急な階段を上り四脚で組み上げられた山門をくぐると、左前方に広がる境内は美しく整備され、本堂横のやぐらのある場所からは谷奥の地形を生かした石庭が見られた。

薬師堂の脇の細い道を少し進んだ先の岩窟内には ”十六の井” というものがあり、床面に縦横各4列、計16の丸穴が穿たれて水が沸いていた。
正面には観音像があって神韻たる雰囲気だったが、整然と並ぶ 4x4 の円形の穴は人工のものに違いない。
これが宗教的な意味づけに基づくものなのか、あるいは染色作業の工程に従って作られたとか、野菜を分類して冷やしたといった実用的な目的であればともかく、納骨穴かもしれないと聞くと背筋が凍る。

また、山門前の向かって右側には ”底脱の井”(そこぬけのい)という鎌倉十井のひとつがあり、水を汲む桶の底が抜けたことが悟りを開く機縁になったという話が伝わるとのことだった。


>覚園寺 10 (1314) 20
>国宝館〜辻薬師堂 11121314

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本彫刻 | 旅の記録

2024年07月29日

空想旅行案内人 フォロン-1 旅への誘い

(東京ステーションギャラリー 〜9/23)
ベルギー出身のアーティスト、 ジャン=ミッシェル・フォロン(Jean-Michel Folon、1934-2005)の展覧会は、 “空想旅行案内人” という肩書にも充分納得の、イマジネーション豊かな世界に遊ぶことができる空間だった。
と同時にそこには辛辣な文明批評が含まれており、それらが半世紀ほどを経ても全く色褪せていないことに、あらためて問題の根深さを考えさせられることにもなった。

プロローグ 旅のはじまり” は、まずその “FOLON:AGENCE DE VOYAGE IMAGINAIRE”( = 空想旅行案内人)という名刺、眼鏡の形をした 「二重の視覚(千里眼)」(n.d. =制作年不詳、以下省略)、「仮面」(2001)と題された帽子、そして鳥のように空を飛ぶアニメで、空想への旅行へと誘われていく。
仮面」は、点が横に2つ並んでいれば目に見立て顔になるという好例で、頭を柔らかくできれば入口はごく身近なところにあることを示すようだった。

われ思う。さりとて何を?」は、顔の部分が “?” になった人物が考え込んでいるようだが、問の重さにも拘らず軽やかな気配がある。
それでもフォロンにとっては根本的な問いだったのだろう、このあたりには ”?” が様々な形で登場していたし、後には 「n番目の考え」(1996-99)という夥しい彫刻作品群へと発展していた。
これは頭の部分が少なくとも “63番目” までさまざまに入れ替わり、“考え” のヴァリーエーションを突き詰めていっているようで、pensee という精神の営みの定義しきれないほどの際限のなさを感じさせていた。

次に取り上げたいのは 「無題」、“無題” で “n.d.” では作品を特定できずもどかしいのだが、目が唇になった大勢の人物が迫ってくるような作品には、名もなき群衆の圧とでも言うべきものがあった。
もう一点の 「無題」(1970)には頭の部分が何段かの引き出しになった人物がひとり、これも “考え” 過ぎてしまった結果なのか、孤独な現代人の宿命を感じさせる作品だった。

いつもとちがう」(雑誌『ザ・ニューヨーカー』表紙 原画、1976)は、巨大な楕円形の鏡の下の方に帽子の色が違う別人格が映っていて、体つきにも若干の違いがあるようだ。
そういえば鏡に映っているのは本当の自分なのか、鏡の向こう側には別の世界があるのではないか、といった思いに捉われるのはよくあること、そんな現実への違和感や虚無感を思い起こさせる秀作だ。
この鏡の前に立っているのは “リトル・ハット・マン”、具体的な特徴を持たず何者とも言い得ない匿名的な人物かと思われるが、しかしそれはフォロンその人でもあるようだし、いかなるイメージも投影できそうなシンプルな造形を見ていると、なんだか私自身の分身のような気もしてくる。

」は大きなねじ巻が林立する森の中を、背中にねじ巻を付けた リトル・ハット・マンたちがせわしなく行き交っている。
これが今の我々の社会なのか、メッセージ性が高そうではあるけれど、限定し過ぎることなく何を思うかは見る側に委ねられている。

この “プロローグ 旅のはじまり” にあったブロンズの彫刻 「」(1992)も、ややスリムではあるけれどやはり リトル・ハット・マンなのだろう。
無表情で寡黙に立つ彼の背中にもねじ巻がついているところを見ると、リトル・ハット・マンはみなゼンマイ仕掛けなのだろうか。
必ずしもそういうわけではないのかもしれないが、考えてみれば我々もみなゼンマイ仕掛けのようなもの、もう少し複雑にできているので不具合も故障も起きやすいけれど、それぞれに与えられた1本のゼンマイで一生を生き切るのみなのだ・・・

2024年07月26日

ロートレック-2 夜の劇場のスターたち

(SOMPO美術館 〜9/23)
フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線” 展の “第2章: ロートレックの世界−カフェ・コンセール、ダンスホール、キャバレ……に並んでいたのはパリの夜を彩った劇場のスターたち、その中でも一段と光っていたのは 「ジャヌ・アヴリル」(1893)だ。
ムーラン・ルージュの踊り子からカフェ・コンセールの人気者になった女性の舞台上の様子を捉えた1枚は、大きく翻るスカートの曲線を構図の要にしていて完成度が高く、ロートレック(1864-1901)にとっても彼女が特別な存在だったことを窺わせる。
その先に何点か並んでいた イヴェット・ギルベールを題材にした作品も、彼女の個性をよくとらえた作品だと思うものの、共感の質がだいぶ違っているという感じは否めない。

キャバレのアリスティド・ブリュアン」(文字のせ前、1893)はちょっと太めのシャンソン歌手を、一度見たら忘れられない魅力的な人物にしている。
大きな背中を覆う黒づくめの服と帽子が赤いマフラーを際立たせ、顔の造作はそれらに囲まれたごく狭い部分に囲い込んだところが成功のカギか、本人が気に入って縮小版に署名して販売したというのも頷ける出来栄えだ。
マルセル・ランデール嬢の胸像」(1895)もかなり状態のいい作品、画家の視線を意識しない自然な流れの中の一瞬の表情が見事に捉えられ、声にならない声や息遣いまでが聞こえてきそうだった。

その先は劇場の演目のポスターやプログラムのための作品、『無遠慮夫人』『はったり屋』『ハンセン病の女』『抵当』と並ぶタイトルを見ただけでも、世紀末の夜の娯楽では実に様々なテーマが取り上げられていたものだと思う。
このあたりの多くは、細かい線を重ねて陰翳を出そうとしている感じが強く、簡潔で決定的な線による作品よりは分かり難い感じがするけれど、それぞれのあらすじや見どころがわかっていれば作品の見方も変わってくるだろうか。

お金』(自由劇場のプログラム、1895)という作品は強い線と平面的な構成でひんやりとした感じを出しており、ヴァロットンの白と黒の世界を思い出した。
版画集 『彼女たち』は娼家をテーマにした連作、だがこうした場面に期待される官能性や頽廃性は思ったほどではなく、行水をしたり髪をとかしたりする女たちの動きを、ロートレックはドガ風に即物的に捉えていた。
そんな中で 「仰向けの女、疲労」(1896)という一点には、よほど疲れ果てているのであろうか、ベッドにひっくり返ったまま当分は起き上がることのなさそうな女のあるがままの姿があった。

2024年07月23日

YUMEJI展-4 自画像、外遊、立田姫

(東京都庭園美術館 〜8/25)
生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界 の 4章の最後にあったのは 「自画像」(昭和初期)、制作時期の正確なところがわからないのが残念だが、そこに添えられている “風がひとり 街の巷を 走るなり かぜに追われて いそぐ心か” は、望むものはほぼ手に入れ女性遍歴も重ねた男の肉声かと思われた。

終盤の ”5章:夢二の新世界ーアメリカとヨーロッパでの活動ー1931-1934年“ では、竹久夢二(1884-1934)の最晩年を扱う。
夢二は1931年(昭和6年)47歳で初の海外旅行に出発、旅程はアメリカからヨーロッパに回り約2年3ヶ月に及ぶものとなり、帰国してから僅か1年ほどで51歳の死を迎える。
その意味では結果的に ”遺作の旅“ になってしまったわけであり、今回その欧米滞在中の痕跡となる ”正木不如丘旧蔵外遊スケッチ“ が出てきていたのは有り難かった。

ベルリンのアレキサンダー広場にて」(1932-33・昭和7-8)と題された女性の肖像は完成度が高く、「街並み(窓にマリア像)」(1932-33・昭和7-8)には入り組んだ街の景観が丁寧に再現されているなど、これらのスケッチからどれほどの作品が生み出されたかと思うと残念でならない。
この中に、西洋人女性のヌードとともに、彼女たちが和服を着た状態のスケッチが多かったのがやや意外に思えたのだが、渡航直後に描かれたと思われる油彩の 「西海岸の裸婦」(1931-32・昭和6-7)と併せて見ると、次なるテーマに向かっての仕込みということだったのであろうか。

最後に展示されていたのは 「立田姫」(1931・昭和6)、死の3年前で渡航直前の作品ではあるが、やや不自然なプロポーションで不可解なポーズをとりながらも、穏やかな表情には悟りきったような気配があり、特定の誰かではない夢二の女の到達点という感じがした。


>竹久夢二
生誕125年記念 竹久夢二展 (2009、新宿高島屋) 
竹久夢二、欧米への旅 (2010、日本橋三越) 
夢二繚乱 (2018、東京ステーションギャラリー) 
龍星閣がつないだ夢二の心 (2023、日比谷図書文化館) 
生誕140年 YUMEJI展 (2024、東京都庭園美術館) 
>関連過去記事
大正イマジュリィの世界 (2011、松濤美術館) 
モボ・モガが見たトーキョー (2018、たばこと塩の博物館) 
大正モダーンズ (2018、日比谷図書文化館) 

2024年07月20日

ヨーロッパ 気まま旅-9 ザルツブルク

ケルンを出た夜行列車で早朝の ザルツブルクに着くと、この旅始まって以来の見事な快晴に恵まれ、ネッカー川とは対照的なザルツァッハ川の清冽な水の流れと対岸の街の尖塔群、その向こうに聳えるホーエン・ザルツブルク城が、透明度の高い青空によく映えていた。
ミラベル宮殿の庭園が、この城を最も美しく見せるように軸線をとって設計されているらしいことも驚きだった。

思いがけずザルツブルクで2日間を過ごせることになったので、バスツアーで湖水地方に行ってみることにした。
映画サウンド・オブ・ミュージックの舞台やモーツァルトの母親の生まれた町を訪ねるというコースで、白い雪がキラキラと輝く峰々や氷結した湖を見ることができ、アルプスの端っこの方ではあるがヨーロッパの自然を満喫した。
映画にも出てきたという教会に入るとちょうどパイプオルガンの演奏が始まり、光の粒が零れ出るように流れを作りいつしか大河となっていくような音響に包まれた。
これはしばらく耳について離れないくらい圧倒的な音楽体験で、帰国後にバッハのオルガン曲を聞きまくったところ、幻想曲ト長調という曲だったということが分かった。

夜はこの旅で初めてユースホステルへ、遅れて着いたので夕食が始まる時間となっており、慌てて長い列に並んだのだが、ようやくありつけたのは巨大なアップルパイだけだった。
この地方のユースとはそういうところなのか、この日はたまたまだったのか、あるいはちゃんとした手順がわからずに並び間違えたということだったのか、本当のところは今もってわからない。

翌日はゆっくりとモーツァルトの街を散策、金細工の看板が賑やかなゲトライデ通り、博物館になっているモーツァルトの生家、ドゥオモやペーター教会などを歩き回った。
レコードジャケットで見慣れていた場所が思いがけず狭いエリアに集中していて、天才音楽家が育った町はここしかあり得ないと思われるほど、全てがしっくりと嵌まっていた。

ホーエン・ザルツブルク城は、遠くから見ていた限りでは優美でメルヘンチックなお城のように思っていたが、中に入ってみれば堅固に造られた砦であり、あらためて実用第一の軍事施設であったことを思い知らされた。
やはりこの建物は、対岸のミラベル庭園かカプティーナの丘から遠望する姿が美しい。

ザルツブルクではできればモーツァルトを生で聞きたいと思っていたのだが、残念ながら滞在中にモーツァルテウムのコンサートはなく、マリオネット劇場は「魔笛」の上演らしかったが満席のため断念、夜行でウィーンへと向かった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)旅の記録 

2024年07月17日

ロートレック展 時をつかむ線-1 素描

(SOMPO美術館 〜9/23)
フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線” は、ギリシャ人夫妻が蒐集してきた個人コレクションから素描や版画に加え雑誌や書籍のための挿絵、ロートレックが家族や知人にあてた手紙やロートレックの私的な写真などを展示するという企画だ。
したがって必ずしも代表作が網羅されているというわけではないが、素描や個人的な資料などこれまであまり見かけなかったものが多く、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)という特異なアーティストのさまざまな面を知り身近に感じることのできる展覧会だった。

まずは “第1章:素描”、地味なところから始まるという印象は否めないながらも、フレッシュな状態でロートレックの手技に至近距離から向き合える構成と言える。
それはまさに “時をつかむ線” で あって、騎手や馬などの躍動する一瞬の動きを的確に捉えたものが多かった一方、「座る女性」が深く腰を落として脱力している様子は、重心のかかり方やその気分までがよくわかるようだった。
また簡潔な線描の中に男性の尊大さ、女性の底意地の悪さなどが如実に表れているものもあり、ちょっとした線の曲がり具合で思いがけず本質が露わになるという面白さがあった。

次の “第2章: ロートレックの世界−カフェ・コンセール、ダンスホール、キャバレ……” ではいよいよロートレックのホームというべき世界に入っていく。
だがその冒頭にあった 「ムーラン・ルージュのお祭り」(1893)は、ちょっと意外な雰囲気を持つ作品だった。
これはモンマルトルで毎週土曜に行われたお祭りを描いたものとのことで、大勢の人が非日常の空気感を纏って集まり一見華やかに見えるのだが、中央でロバに乗った主役格の二人の女性もその前後にいる人々も表情は冴えないようで、むしろ微かに歪んだ顔つきには百鬼夜行の図を思い出させるところがある。

解説では本作が仏露同盟(露仏同盟、〜1891)を祝ったものだという説があるとのことだったが、そうであればこれは当時の巷の気分を反映しているということになるだろうか。
今からは考えられないことだがフランスとロシアが同盟関係を結んだことがあったのは、それほどドイツの脅威が大きかったということにほかならない。
しかし一般民衆は、あるいは少なくともロートレックは、こうした外交政策に半信半疑というか引っ掛かりのようなものを感じていたのではないか。
さらにその先の展開にも漠然とした不安を感じていたのかどうか、それは今の我々の置かれた状況に似ているのかもしれないが、少なくともこの時のモンマルトルに、手放しで喜ぶほどのナイーヴさは希薄だったように見えた。

2024年07月11日

旧出光本社企画展、出光佐三と村野藤吾

(旧出光本社 〜7/31、開催日等注意)
出光美術館のある帝劇ビルの8階で、建築家 村野藤吾の設計・デザインによる応接室等を見る機会があった。
これは、出光興産が1966(昭和41)年から2020(令和2)年まで本社を置いていた 帝劇ビル(+国際ビル)が再建のため解体される前に、創業者・出光佐三の執務室があった役員フロアを公開するという ”旧出光本社企画展” によるもので、同じフロアには出光創業時からの歴史を紹介する「出光ヒューマンギャラリー」の展示もあった。

それによると、1911年に創業した出光は東京進出後長らく東銀座の出光館を拠点とし、1953年の日章丸事件の舞台もここであったが、1966年に帝劇ビルが建て替えられたことに伴い移転し、その4階から8階まで(9階が出光美術館)を半世紀以上本社として使用してきたということだ。
このうち4〜5階は帝劇の上部が食い込む形となっていて利用可能なスペースは狭く、総務や人事、経理などの部門、そして医務室や図書室などが入っていた。
一方広いオフィス空間が確保できる6〜7階は、営業部や外国部、潤滑油部や石化部門など、本業の中枢と言える部門があったとのこと、静謐な出光美術館の下では熾烈な石油ビジネスの戦いが日々繰り広げられていたわけだ。

そしてその上の8階が役員フロアで、社長室をはじめ役員の執務室や応接室が並んでいたが、現在その大部分は上述した社史の展示コーナーとなっていて当初の面影はない。
村野藤吾の設計・デザインが最も感じられたのは 役員応接室で、皇居の緑が見える部屋は間接照明によってふんわりと浮かぶような空間となっており、シンプルな直線の組み合わせによるソファが整然と並べられていた。
また、曲線を生かした受付テーブルや瀟洒な小型テーブル、あえて存在感を消したような時計など、簡素で控えめとも思える調度品の中にセンスの良さを感じさせていた。

その左隣り、皇居と日比谷公園を望める南西の角部屋が 社長室(店主室)だがここは非公開、映像によれば最小限の書棚を備えた執務机、6人用の打ち合わせテーブルや応接セットが置かれた空間は思いのほかすっきりとしたもので、村野藤吾の美意識がよく生かされていたように見えた。
実はこのあたり、“海賊” とも呼ばれたワンマン創業社長の御殿のような場所なので、もう少し派手で威圧的なものになっていたのではと想像していたのだが、公邸である松寿荘やいくつかの営業拠点などの設計も村野に依頼していたので、同郷のよしみもあり深い信頼関係があったのであろう。
それでも、先述した応接室には和田三造の 「渓谷清流図」があり、の作品も掛けて店主こだわりの空間としていたほか、手前の部屋は「宗像大社参拝室」となっていて、神棚というイメージを大きく超える巨大な拝礼祭壇が、宗像大社への信仰の深さを感じさせていた。

2020年に移転した Otemachi One タワーの新・出光本社にも、こうした創業者の “魂” というべき部分は何らかの形で引き継がれていることだろう(社長室が非公開だったのは中の家具類が新ビルに移されていたからかもしれない)。
ただ、お堀端に独特の景観美を見せていた谷口吉郎設計の帝劇・国際ビルが、再開発という波の中でその形を失ってしまうだけでなく、壊される “器” の中にもそれぞれの “人” の歴史があり物語があるのだということをあらためて思ったりした。


>宗像大社国宝展 (2014、出光美術館):
  神の島・沖ノ島と大社の神宝 沖ノ島祭祀遺跡の変遷
  沖ノ島と伊勢神宮、寄物 宗像大社と仙僉⊇亳佐三

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2024年07月08日

YUMEJI展-3 セノオ楽譜、女性の諸相

(東京都庭園美術館 〜8/25)
生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界” は、前半が旧朝香宮邸の構造や内装を生かして作品を配置していたのに対し、”3章:日本のベルエポックー「夢二の時代」の芸術文化“ からは新館ギャラリーに場所を移し構成に沿った展示となっていた。

竹久夢二(1884-1934)と セノオ楽譜との出会いはどのようなものだったのか、いいご縁だったことは間違いなく、夢二の作品の幅を広げ広く知られることになるとともに、楽譜そのものの普及にとっても大きな貢献があっただろう。
ただ、ここにある曲の多くはもうほとんど聞かれることはなさそうなだけに、当時この楽譜が使われた空間やそこに集っていた人たちの様子を思い浮かべてみると、作品と時代とのご縁もまたあったのだという感じがする。
楽譜そのものはその後どんな運命をたどったのか、いま復刻してもさほど売れるとは思えないけれど、展示品ではない手触りを感じてみたいと思った。

4章:アール・デコの魅惑と新しい日本画ー1924-1931年“ では、夢二が世田谷区松原に建てた 少年山荘が紹介されていた。
今は岡山の夢二郷土美術館に復元されているとのこと、その映像や自身のスケッチなども展示されていたが、当時の周辺環境や間取りの詳細など、もう少しわからないものかともどかしい思いがした。

『グラフィック』第1巻第1号の口絵原画という 「晩春」(1926・大正15)は、和服を着た女とネコが室内にいる図だが、女とネコが同じように画面右下の方に視線を送っている。
そのことによって、その先に何があるのか、誰かいるのか、といったことが気になってこざるをえず、見る者を一緒に引き込んでいく思わぬ効果を上げていた。
大徳寺」(1929・昭和4)は墨の濃淡だけで描かれた大きな画面、その中にいる横向きの女は身なりも整えられて格調高く、最も正統的な美人画かと思われた。

帰らぬ娘たち」(昭和初期)はそれらとは対照的に、夜の酒場で飲んでいる二人の若い女の若干やさぐれた感じが新鮮だ。
それを少し離れたテーブルから横目で見ている男は夢二の分身なのか、ともあれ関東大震災からしばらくたったころの世相を表した絵と言っていいのだろう。
曠野の娘」(1924-25・大正13-14)は、草茫々の野にギターを抱えた少女がいるというやや不自然な状況ではあるが、夢二の描いた女性の中では最も健康的な姿のように見えた。

2024年07月05日

能 「野守」-3 二種の鬼、狂言「鱸包丁」

能 「野守」(観世流 大槻文藏ほか、5月17日(金)17:30〜、国立能楽堂)は、前場の様々なエピソードに戸惑いながらも、後場に出現した鬼の姿に圧倒される舞台だったが、最大の疑問はその 鬼神の正体だ。
従来より民俗学的な議論として、鬼に自然の力を見るか、人間の怨みを見るか、という大きな二つの立場があるが、その起源も 能=世阿弥なのだろうか。

世阿弥は “鬼” について、見た目も心も鬼の 「力動風(りきどうふう)」と、見た目は鬼でも心は人間という 「砕動風(さいどうふう)」の二つがあるとしたという。
そして、ただ怖ろしく荒々しい前者の鬼が 大癋見で演じられていたのに対し、怨みもあるが人間的な迷いや弱さもある後者の鬼を表現するために 小癋見を使い始めたとされる。

おそらくこのタイプの “悩める鬼” が、世阿弥が新たに目指したものだったと思われるのだが、「野守」の鬼は冥途の鬼なので “力動風” の鬼に属するはず、それでも本来は鋭角的な相貌の 小癋見で演じらるべきところ、小書 「白頭」では 大癋見に変わるといったように、ここでもずいぶんと話は錯綜しているようだ。
もっとも “小書“ は、当初の制作意図を追求していくというよりは、興行的により受け容れられやすくするためのものであることが多いであろうから、そう言った意味ではこの日の “髭癋見” も、大きな構えでスピード感のある鬼の舞に相応しく、力強さと不気味さを効果的に加えていたと言っていいのであろう。

実際に見ている間はほとんど忘れそうになるくらいだったのだが、シテは人間国宝の 大槻文藏師、滋味のある格調高い謡に加え、後場の大きな足踏みと素早い動きは、御年82歳とは思えない迫力だった。


「野守」の前に演じられた狂言は、やはり人間国宝でこちらは御年93歳になる 野村万作師がシテを勤めた 「鱸庖丁」、鱸(すずき)を使った料理の講釈と実演がほとんど独り語りで進められていく演目で、実物が眼前にあるかのように感じさせる表現力はまさに至芸といえる。
しかし驚いたのは最終盤で、それまでの好々爺然とした語り口が突然に豹変し、とっておいた鯉がカワウソに喰われたという甥の嘘など初めからわかっていた、と厳しく叱る場面だ。
ここがオチなのだから笑いながら見終わればよかったのかもしれないが、名人芸の後に突然見せられた厳格な物言いに、一瞬背筋が凍るような思いをした。

さすがに私は、ここでの甥のようにあからさまな嘘をつくことはなかったと思うけれど、都合の悪い場面でありのままを語らずにごまかそうとしたり、真実と異なることも多少織り交ぜてその場を切り抜けようとしたことがなかったとは言わない。
しかしその時、自分ではうまく取り繕ったつもりになっていても、この伯父のように年長者や上司やその道のプロたちには、とっくにお見通しのことであったのかもしれない。
そんな人生の教訓話に突然変貌することもあるのだとしたら、狂言恐るべし・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2024年07月02日

デ・キリコ-4 “形而下” の彷徨い

(東京都美術館 〜8/29)
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の創作活動の中核と言える1910年代の作品が辛うじて含まれていた “SECTION2 形而上絵画”(イタリア広場形而上的室内マヌカン)以外のセクションも、一応駆け足で振り返っておく。

SECTION3 1920年代の展開” は1919年にローマに移住して以降の作品、ボルゲーゼ美術館でティツィアーノの作品を見て古典に開眼したというのだが、それはせっかくの個性や霊感、デ・キリコとしてのコア・コンピタンスを消すほどの衝撃だったのだろうか。
2人(?)のマヌカンが寄り添う 「ギリシャの哲学者たち」(1925、ナーマド・コレクション)などは面白くないわけではないけれど、以前の不可解で幻想的な世界からみればギャグのよう、顔だけをマヌカンにしてみても、あるいは家具などを妙なところに置いてみても、それでミューズが降りてくるということはない。
それでもこうした路線から完全には離れず時々戻って来たのは、この頃になってパリのシュルレアリストたちに注目されて(シュルレアリスム宣言は1924年)、その流れの中で持ち上げられたり、本人も元祖としての発信が必要と考えたといったことがあったからなのであろう。

SECTION4 伝統的な絵画への回帰:「秩序への回帰」から「ネオ・バロック」へ” の辺りは、”形而上絵画” からはずいぶん遠くまで来てしまったと思わされた部分だ。
風景の中で水浴する女たちと赤い布」(1945、デ・キリコ財団)は、ひとつの大きな画面の中にティツィアーノ、ドラクロワ、ルノワールらがぶちこまれたごった煮状態で、この時期のデ・キリコの意識のありようがよく窺える。

この後は “TOPIC3 舞台芸術” となり、バレエ 「プルチネッラ」(1931、デ・キリコ財団)の衣装が出ていた。
バレエ・リュスによる1920年の初演ではピカソが担当したはずなので、再演に当たって再制作されたということなのか、それでもストラヴィンスキーの音楽が霊感源になったと考えていいのであろうか。

2024年06月29日

LFJ-4 古楽器の名手たち、雑感

5月のGWに開催された ”ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024” からだいぶ日がたってしまったが、ここまでの記事()でふれられなかった無料コンサートなどを振り返りながら整理しておきたい。
今年は、コロナ禍の影響で昨年は使われなかった地下のホールE キオスクステージが復活し,
音楽祭らしい華やぎが戻ってきていた。

特に印象に残っているのは3日17:20からの アンサンブル・オブシディエンヌのステージ、このグループの演奏は ディキシーランド・ジャズとぶつかってしまったために正規のプログラムを諦めていたので、20分のミニ・コンサートとは言え5人の演奏を無料で聴くことができたのは有り難かった。
曲目紹介はなかったが、おそらく中世の吟遊詩人のものと思われる歌と音楽で、バグパイプやハーディ・ガーディなども使った古楽器のアンサンブル、手拍子のみのア・カペラなどが披露された。

その他、サキソフォーンによる 「だったん人の踊り」、丸の内交響楽団による 「カルメン」のハイライト、石井楓子さんというピアニストのソロでベートーヴェンの協奏曲第1番第軍攵蓮▲ター合奏によるヴィヴァルディ、丸の内合唱団による フォーレの 「ラシーヌの雅歌」など、広いテーマならではのヴァリエーションに富んだ演奏に出会うことができた。

エリアコンサートが行われた 有楽町マリオンでは、ロバの音楽座という古楽器グループの演奏に遭遇した。
リコーダーやリュート、ヴィオール類を中心に、サックバットやバグパイプ、ハーディ・ガーディや蛇腹式のオルガンなど、中世・ルネサンス時代の古楽器を幅広く駆使する一方、ユーモラスな踊りや100年後の空想楽器なるものまで登場する、6人の腕達者・芸達者な人たちによる楽しいステージだった。
レパートリーには既存の曲に日本語の歌詞をつけたものや全くのオリジナル曲もあるようで、この日は5月5日だったこともあってか子ども向けのパフォーマンスも多かったけれど、楽器の活かし方や合わせ方はかなりの腕前を感じさせたし、ガラス瓶だけを使って 「フォリア」を演奏するというアイディアには驚かされた。

ロバの音楽座は以前からチラシやネットで見かけて気になっていたので、こうした形で聴くことができたのは有り難かったが、途中からこの人たちの演奏をどこかで聞いたことがあるような気がしていたところ、最後のあいさつで カテリーナ古楽合奏団 としての活動も行っていると聞いて謎が解けた。
過去記事を振り返ってみたら、2010年に渋谷のザ・ミュージアムで ”ブリューゲル版画の世界” という展覧会が開催された際に、絵の中の楽器たちによって当時の音世界を再現する、というコンサートに登場していたのがこのグループだった。


LFJの会場に戻って雑感をもう少し、ホールEのステージは従来のように観客席が取り囲む形から壁面を背にした配置に変わり、見た目のインパクトは若干減じたのかもしれないが、音楽そのものを楽しむには好ましい形となっていた。
関連企業・ショップのブースは充実していたが、ガラス棟中央のデコレーションや地上広場の大型映像などはなくなっており、祝祭感が希薄になっていた感じは否めない。
このあたりは今年のテーマとも関係があったのか、会場全体がベートーヴェンやモーツァルト一色に染まっていた、最初期の頃のような熱気は徐々に感じ難くなっている。

特に抽象的なテーマに変わった2015年以降はその傾向が顕著で、この音楽祭の特色のひとつでもあった、細部を攻めるこだわりのプログラムといったものは減っているという印象だ。
一方で、より広い層に訴えることには成功しているのかもしれないし、上述のような意外性のある演奏に遭遇できるという利点も確かにある。
来年はどのようなテーマが選ばれることになるだろうか・・・


ラ・フォル・ジュルネ の過去記事
2005  ベートーヴェンと仲間たち 
2006  モーツァルトと仲間たち 
2007  民族のハーモニー −
2008  シューベルトとウィーン 
2009  バッハとヨーロッパ 
2010  ショパンの宇宙 
2011  タイタンたち(ブラームスから後期ロマン派) 
2012  サクル・リュス(ロシアの祭典) 
2013  パリ、至福の時 
2014  10回記念 祝祭の日 
2015  Passions パシオン - 恋と祈りといのちの音楽 
2016  la nature ナチュール - 自然と音楽 
2017  La Danse ラ・ダンス - 舞曲の祭典 
2018  Un Monde Nouveau モンド・ヌーヴォー - 新しい世界へ 
2019  Carnets de Voyage ボヤージュ - 旅から生まれた音楽 
2023  Beethoven ―― ベートーヴェン 
2024  ORIGINES オリジン - すべてはここからはじまった 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2024年06月26日

YUMEJI展-2 初恋、青いきもの、加茂川

(東京都庭園美術館 〜8/25)
生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界” の前回記事でふれた旧朝香宮邸1階部分は、章立てに関係なく建物との相性から見映えのする作品を並べていたのに対し、2階から新館にかけては、竹久夢二(1884-1934)の生涯に沿う形で章ごと(ただし多少の入り繰りあり)の展示となっていた。

1章:清新な写生と「夢二のアール・ヌーヴォー」” で目を引いたのは、 “夢二式” になる前の2枚の淡彩画、「大川端」(明治末期-大正初期)は川沿いに白壁の土蔵が立ち並ぶ風景が旅情を掻き立てる一方、揺れるような縦横斜めの線が抽象画的なリズムを感じさせていた。
農婦」(大正前期)は右肩に鍬を担ぎ左手に茶瓶を持った農婦の生活感が滲み、蝶と菜の花ともども夢二の原風景を垣間見せているようだった。

2章:大正浪漫の源泉ー異郷、異国への夢” で若宮の部屋から殿下の領域へ、書庫の奥にあった 「初恋」(1912・大正1)は、手前の女も奥の男も絶望的な様子で蹲っている。
この場合は女にとっての初恋ということなのか、2人のいきさつはよくわからないながらも、ほとんどの場合に成就しないのが初恋というものなのだというように、薄暗い空と青い林檎が二人を見下ろしていた。

正面をしっかりと向いた 「」(1918・大正7)は、悲しみに暮れたりすれ違ったりしていることの多い夢二の女の中で、比較的安心して見ていられる作品だ。
おそらくそれは、しっかり者だったらしい妻 たまきを描いたものだったからなのであろう。

寝室の 「青いきもの」(1920・大正9)は、砂丘のような茫漠としたところに、いかにも命の薄い感じの女が独りで肩を落として座っている。
ため息や嘆きが聞こえてきそうな彼女には、少し前に亡くなった愛人の彦乃の俤があるようであり、その追悼の気持ちで描いたのかもしれないが、それにしても寂しすぎる・・・

その先の妃殿下のコーナーでは気分を変えて京都へ、「加茂川」(1914・大正3)はいつものことながら、一目見ただけでまた京都に行ってみたいという思いに捉われる作品だ。
かぐや姫の歌も聞こえてきそうだ、というのは特定の年代にしか共感を得られないかもしれないけれど・・・

2024年06月23日

前橋汀子 アフタヌーン・コンサート Vol.20

今年で20回目、傘寿記念となる “前橋汀子 アフタヌーン・コンサート Vol.20” を聞いた。
(2024年6月22日(土) 14:00〜 サントリーホール)

エルガー:愛のあいさつ
クライスラー:愛の喜び
クライスラー:ウィーン奇想曲
マスネ:タイスの瞑想曲
ファリャ(クライスラー編):スペイン舞曲 第1番
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番ト長調 op.78「雨の歌」
ー休憩ー
ヴィターリ:シャコンヌ#
J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ#
サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ
My Favorite Songs〜枯葉、愛の讃歌、川の流れのように(丸山貴幸:編曲)
(アンコール)
ドヴォルザーク(クライスラー編):我が母の教え給いし歌
ドヴォルザーク(クライスラー編):スラブ舞曲 Op. 72-2
ブラームス:ハンガリー舞曲より第1番、第5番
シューベルト:アヴェマリア

 ヴァイオリン:前橋汀子
 ピアノ:ヴァハン・マルディロシアン
 パイプオルガン:大木麻理#

枠組みとしてはすっかり恒例となった “前橋汀子 アフタヌーン・コンサートの今年の大きな違いは、前半がソナタ2曲から1曲+小品集になったこと、後半にパイプオルガンが加わったこと、そしてポピュラー名曲のメドレーが加わったことだろう。
お馴染みの小品でスタートし場が温まってからの ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ 第1番ト長調 op.78「雨の歌」 はさすがの風格を感じさせ、特に第恭攵呂砲録爾ぞ雋兇籠められていたように思われた。

後半はまずパイプオルガンとの二重奏で ヴィターリ:シャコンヌ、変奏を重ねるにつれて繰り出されてくる超絶技巧は、生演奏で集中を切らさずに見聞きするからこそ実感されるものだと思った。
続く J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ ではピアノが加わり3人のアンサンブル、オルガンのオブリガードの上にヴァイオリンがコラール旋律を奏でているところへ、ピアノがフリーな遊軍のように絡んでくるというやや意外な編曲となっていた。

マルディロシアン氏との2重奏に戻りサン=サーンスの後にプログラムの最後を飾ったのは、枯葉〜愛の讃歌〜川の流れのように の3曲のメドレー、前橋汀子さんのヴァイオリンは聞き慣れた歌の節を、強いテンションの旋律としてじっくりと聞かせていた。

アンコールに入ると、新機軸に挑戦した後半に漂っていた若干のアウェー感を吹き飛ばすように演奏は勢いを増し、特にドヴォルザークの2曲目からブラームスにかけては、自家薬籠中の旋律が勢いよく溢れ出るようにスリリングな演奏になった。
そして最後はシューベルトの祈りの音楽で静かに幕が閉じられた。


>前橋汀子さんの過去記事
アフタヌーン・コンサート(2022) 
メンデルスゾーンの協奏曲(2022)  
アフタヌーン・コンサート(2021) 
前橋汀子カルテット(2020) 
アフタヌーン・コンサート(2019) 
前橋汀子カルテット(2019) 

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hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2024年06月20日

デ・キリコ-3 マヌカンたちの憂鬱

(東京都美術館 〜8/29)
”2-2 形而上的室内“から上の階に進むと ”2-3 マヌカン“ のコーナーとなり、1910年代後半から ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の ”形而上絵画“ に突如登場してくることになった マヌカン(マネキン)に注目していく。
あえて人物そのものを描かないというところに、戦争の影、人間不信、あるいはもう一段階先の ”形而上学的“ な理由があったのかはよくわからないが、しかしリアルな目鼻立ちを持たない卵型のマヌカンの ”表情“ は、我々の予想を超えてなかなかに雄弁だ。

予言者」(1914-15、ニューヨーク近代美術館)は特にその匿名性が神秘的な雰囲気を呼び込んでいるようで、”広場“や ”室内“の要素も取り込んだ渋い中間色が響き合う空間の中にいるその ”人物“ は、孤高とも言える近寄り難い存在感を示していた。
この ”雄弁な無表情“ を見ていて不意に思い出したのは能面のこと、もちろん顔の造作などには大きな違いがあるのだが、シンプルな造形と受け手の想像力の関係性によっては多くのことを伝え得るというところに、共通する理念のようなものがあるように思った。

顔の部分が空ろな 「形而上的なミューズたち」(1918、カステッロ・ディ・リヴォリ現代美術館)は、フェッラーラ期の最後で ”古典“ へと舵を切る直前の作品と言うことになるが、もう既に ”形而上絵画“ の魔法は解けつつあるようだ。
そしてその後の制作となる 「不安を与えるミューズたち」(1950頃、マチェラータ県銀行財団 パラッツォ・リッチ美術館)や「ヘクトルとアンドロマケ」(1970、デ・キリコ財団)の変貌ぶりには驚くばかり、果たしてデ・キリコ自身は過去の高みに届いていないことを自覚していたのかどうか、せめてその本心を知ることが出来ればと思う。

むしろ作品としては、その先の ”TOPIC2 彫刻“ にあったメタリックな立体の 「吟遊詩人」や 「ペネロペとテレマコス」(いずれも1970、デ・キリコ財団)などの方に、1910年代の画面上に誕生したマヌカンのシャープさや硬質さが残っているように感じられた。

2024年06月17日

小林研一郎、ヴィルサラーゼの 皇帝、田園

小林研一郎指揮、ピアノ独奏 エリソ・ヴィルサラーゼによる 日本フィルハーモニー交響楽団第405回名曲コンサートで、ベートーヴェンの「皇帝」と「田園」のコンサートを聞いた。
(2024年6月16日(日) 14:00〜 サントリーホール)

ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 変ホ長調 op.73
ベートーヴェン:交響曲第6番「田園」 ヘ長調 op.68

”響き合うレジェンド” による ベートーヴェンピアノ協奏曲第5番 「皇帝」 変ホ長調 op.73は正統的で格調高く、冒頭から揺るぎない巨大な世界が立ち上がり、変ホ長調の和音が鳴り響くたびに堅牢さを増していくようだった。
特に印象に残ったのは第恭攵蓮▲皀好ワ音楽院で長く教鞭をとったピアニストは、美しい弦の響きに満足そうな笑みを浮かべると、祈りの心がそのまま形になったような音の粒を、大きな弧を描くようにしてそっと置いていく。
そして魂の深さを示す音楽から一転煌びやかな第軍攵呂貌ると、火花の散るようなやり取りを挟みながらも、堂々とした模範的な演奏がオケの響きと一体となって驀進していった。


後半の 交響曲第6番 「田園」 ヘ長調 op.68 は、立派な「皇帝」のあとで大丈夫なのかと余計なことを思ったりしたのだが、この曲がこれほど充実した作品だったかと思い直すほどの見事な演奏だった。
第騎攵呂ら耳慣れた旋律が新鮮なものとして聞こえてくる広大な世界に導き入れられ、同じテーマが還ってくるたびに憧憬と懐かしさが一体のものとなっていく。
小林研一郎氏はほとんど指揮棒を振らず、あそこまで響かせてごらんというように遠くを指さしたり、にっこりと微笑んだりOKのサインを出したりしながら、オケに霊感を与えるようにして愉悦の時間を紡いでいった。

第恭攵呂任發修亮衙,亙僂蕕此△靴し言ってみればごく平凡なテーマが繰り返される楽章を、これほど豊かな響きの音楽として聴いたことはなかったように思う。
第軍攵呂らは普通に指揮棒が振られて村人たちの楽しい踊り、そして第験攵呂陵鬚両襍覆悗半賁未鮮やかに転換していく。
このあたりは特にホルンやフルート、ファゴットをはじめとする管楽器のソロが健闘していて、厚みのある弦や金管とともに美しく起伏に富んだ音絵巻を繰り広げていった。

そして第抗攵蓮■stヴァイオリンが清澄な祈りの旋律を奏で始め、2ndから低弦へと受け渡されていく部分がこれほど感動的なものだったとは、もう何度聞いたか分からないほど馴染んでいた曲なのに、その素晴らしさをこの日初めて教えていただいたように思った。
それは、終演後の拍手に応えて小林研一郎氏が、田園は150回くらいやっていると思うがその中で一番の出来、と仰っていた(聞き間違いがあるかもしれない)くらい誰にとっても特別なことだったのか、ともかくも私にはこの世界はまだ生きるに値すると思えるような、今までのベストと言っていい「田園」だった。

アンコールは アイルランド民謡 「ダニー・ボーイ」(ロンドンデリーの歌)」、ヴィオラからヴァイオリンへと繋がっていく哀愁のメロディーが、厚みを増すにしたがって郷愁の塊となっていくようだった。


>小林研一郎氏の過去記事
コバケン・ワールド Vol.32 with 宮田大 (2022) 
東響のドヴォルザーク “新世界より” (2022)
コバケン・ワールド Vol.27 with 田部京子 (2021)  
コバケン・ワールド Vol.25 with 仲道郁代 (2020)  
読響のブラームス第4番 (2016)
東日本大震災復興支援チャリティコンサート  (2015)
日本フィルのマーラー第9番 (2007)

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2024年06月15日

熊谷守一、旅を描く-2 ”仙人” の生涯

(熊谷守一美術館 〜6/30)
特別企画展 熊谷守一美術館39周年展 “守一、旅を描く” 、1階第1展示室には熊谷守一つけち記念館が所蔵する旅先での風景画が多く並んでいた一方、2階第2展示室では当館蔵作品を中心に、”画壇の仙人”と呼ばれた 熊谷守一(1880‐1977)の生涯をあらためて追う構成になっていた。

熊谷守一は親の反対をかわすために慶應普通部に1学期のみ通った後、東京美術学校に入学して首席で卒業というスタートを切るが、前述した東北大旅行の間に父親が死去し、製糸工場を営んでいた実家も破産して暗転する。
日露戦争末期には樺太漁業調査隊に記録係として参加(アイヌのスケッチに多く取り組んだが残っていないらしい)、「蝋燭」が評価されるも30歳の時に母の死を機に郷里の岐阜に戻り、画業としては5年ほどの空白期を過ごす。

その後しばらく不遇の時期が続いたが、1932年52歳で今の美術館がある土地(豊島区千早)に家を建てて引っ越したことがいい転機になったらしい。
自画像」(1935、熊谷守一美術館、以下同じ)はその頃の風貌を正面から大きく捉えており、55歳の自分に自信が持てたといったところか、3年後には生涯を通じての支援者となった 木村定三氏と出会い、ようやく生活基盤も安定したようだ。

作品として面白かったのはやはり 「白猫」(1959)、写実的とはとても言えない簡素な線と色なのに、いかにもネコらしい感じで脱力し気持ちよさそうに寝転んでいる。
90歳の時に描いて亡くなるまでずっとアトリエに飾っていたという 「夕暮れ」(1970)は、モノクロに近い二重の円相図で禅的な世界を感じさせていた。

しかし死の前年96歳の作品で油彩としての絶筆となった 「アゲ羽蝶」(1976)は、フシグロセンノウの花弁の鮮やかなオレンジ色と、黒いシルエットのようなアゲハ蝶が激しく響き合っていて、色彩も造形にも力強い ”突き抜け感“ がある。
こうした画風やセンスはいったいいつ発見したのか、生来持っていたものがずっと眠っていて最晩年に開花したということなのか、つくづく不思議なアーティストだと思った。

3階第3展示室には墨絵や鉛筆画、そして “旅を描く” 際に使用した画材や旅道具などが展示されていた。
彩色を施された墨絵の 「」(1960頃)は、リズミカルな動きから “生きてます!” という声が聞こえてくるよう、鉛筆画の 「喜雨」(制作年不詳)も、久しぶりの雨を歓迎するカエルたちの華やぐ気持ちが伝わってくるようだった。


>熊谷守一、生きるよろこび (2018、東京国立近代美術館) 



2024年06月12日

YUMEJI展-1 アマリリス、白夜、憩い

(東京都庭園美術館 〜8/25)
生誕140年 YUMEJI展 大正浪漫と新しい世界” は、竹久夢二(1884-1934)の作品を1933年竣工の旧朝香宮邸で見るという得難い体験のできる展覧会だった。

邸内でまず迎えてくれたのは 「アマリリス」(1919・大正8、夢二郷土美術館、以下同じ)、長らく所在不明で発見後初公開となった油彩画だ。
暗めの画面の中で、手前に置かれた鉢植えのアマリリスの花の向こうから顔を覗かせている女性の目は潤んでいて焦点が定まらず、泣き腫らした後のようにも見える。
3人目の愛人だったお葉がモデルということだが、彼女は出会ったばかりの画家の前でこのような表情を見せたのだろうか。
和装で洋間にいるところが今の我々には斬新に見えなくもないが、これこそ大正期後半の空気感を表しているのだろう。

旧朝香宮邸の1階部分は、章立てに関係なく建物の構造や内装に合わせて作品が選ばれているようだった。
玄関近くの小客室には初期のイラスト集があり、春に始まって夏秋冬とシリーズ化されたとのことだが、その中の 「夢二画集 旅の巻」(1910・明治43)には、“異人さん” たちの様々な衣装や振る舞いが生き生きと描かれて、早い段階から高い完成度を見せていた。

肉筆画が5点並ぶ大客室に 「白夜」(1922・大正11頃)が出ていた。
街灯のある薄明りの路地の木の下にぽつねんと立つ簡素な和服の女、どこからか逃げてきたというわけでもないのだろうが、表情は憂いに満ち涙をこらえているようにも見える。
この作品、だいぶ前に古道具屋か蚤の市のようなところで複製パネルを買ってきて、しばらく自室に飾っていたこともあったのだけれど、その後に展覧会で見かける機会がなく、“白夜” というタイトルだったということも今回初めて知った。
」(昭和初期)も以前から好きな作品、胸も露なまま両手を上げて髪を整える女の仕草はたおやかで艶めかしく、見てはいけないところを見てしまったような気にさせる悩ましさがある。

大食堂の奥に鎮座していたのは 「憩い(女)」(昭和初期)、一曲屏風(本来は男性を描いた一曲と対になっている)の広い空間に、物憂げなモダンガールがテーブルに肘をついている図だが、中央を大きく開けた空間の取り方や、枠となる部分の葡萄の描き込みぶりなど、現物を前にしたあらためてそのセンスの閃きに感心させられた。
その横には 「宝船」(1920・大正9)、以前見た時は不吉な感じがしていたので、シャレを利かせた縁起物という解説は意外なものだった。

2024年06月10日

能 「野守」-2 水の鏡と浄玻璃の鏡

能 「野守」(観世流 大槻文藏ほか、5月17日(金)17:30〜、国立能楽堂)は、後シテ=鬼神の激しい動きと賑やかな囃子が強く印象に残る舞台だった。
だから、思いもかけない不思議な体験をさせていただいたということで満足しておけばいいと思うのだが、どうも見ていて流れがよくわからない感じがあったので、あらためて詞章を読み返してみたのだが、それでもすっきりしない。

その最大のポイントは前回ふれたとおり、鬼神の鏡を見たいと読経を始めたワキ=山伏による場面転換だが、そこに至るまでの寂び寂びとした前場も、これが世阿弥の作だと聞いてもなお釈然としない。
本曲の主題である “野守の鏡” について前シテ=野守の翁は、「我等如きの野守、朝夕影を映し申すにより、野守の鏡と申し候。また真の野守の鏡とは、昔鬼神の持ちたる鏡とこそ承り及びて候へ」と語り、水鏡となる池の水が野守の鏡だと言ったすぐ後で、真の野守の鏡は鬼神の持つ鏡だと、二種類の鏡について言及する。

これだけでも話が捻じれている感じがするところに、「げにも野守の水鏡、影を映していとどなほ、老いの波は真清水の、あはれげに見しままの、昔の我ぞ恋しき。げにや慕ひても、かひあらばこそ古への、野守の鏡得し事も、年古き世の例かや」と、野守の水鏡に映る今の老いた姿があわれで、昔の姿が恋しいといったことが語られる。
ここは多くの人の共感を呼ぶであろうところで、何ならこのテーマで一本作ってもよさそうな気もするが、この話はここで終わり箸鷹の話に変わっていく。

では、狩の途中でいなくなった鷹が水鏡に映っていた、という故事を語った後で紹介される、「箸鷹の 野守の鏡 得てしがな 思ひ思はず よそながら見ん」、つまり、恋い慕う人が思っているのか思っていないのかを映す鏡が欲しい、という歌がこの曲の中核かと思えば、そのような恋話として展開していくわけでもない。
目に見えている以上のものが見える鏡、人の心を見通す鏡というものには確かに興味をそそられるが、このテーマもこれ以上深められることはない。

せっかく 野守の翁が “水の鏡” について、若き日の姿を見せることがあると言ったり、目に見えていないものを映したことがあったという話をしているのに、山伏はそこには興味を示さずに “鬼神の鏡” を見たいという。
そしてこの後に登場した アイ狂言=所の者も、野守と鬼神の2種の鏡の話をしたのに続いて、鬼神の鏡を見られるかもしれないからと読経を勧める。
その気持ちはわかるし、そのおかげで見ごたえのある後場がやってくるわけだが、積み上げた前振りが置き去りにされてしまった感じは否めない。

後場についても、まあここは理屈抜きに楽しめばいいところだとは思うけれど、恐いなら帰るといったやり取りの後、数珠を押し揉んで呼び出すのが 八大童子、そして 降三世明王というのはどのような世界観なのだろうか。
そして最後に登場するのが 浄玻璃の鏡、閻魔大王が亡者を裁く際に生前の行状を調べるための鏡を、なぜ野を守る鬼が持っているのかと思ったのだが、この鬼神は閻魔に仕える冥官だと解説にあった。
それならば確かに筋は通るけれど、目の前で激しい大立ち回りを演じていたのは、道教の役人だったのだろうか・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2024年06月07日

デ・キリコ-2 形而上的室内の出口

(東京都美術館 〜8/29)
ジョルジョ・デ・キリコ展の中核となる “SECTION 2 形而上絵画“ は、2-1 イタリア広場に次いで、2-2 形而上的室内、2-3 マヌカン と3つに分けてついてその世界を紹介する構成となっていた。

2-2 形而上的室内“ は、1914年の第一次世界大戦勃発に伴ってデ・キリコ(1888-1978)が軍から召集を受け、15年にフェッラーラの病院に配属されたことから始まったとされる。
それは生活環境を激変させたというだけでなく、抑圧された精神状態の中で視線も内に向かいがちになったということもあったであろう。

ところがその時期の成果を直接感じ取りたいのに、「『ダヴィデ』の手がある形而上的室内」(1968、デ・キリコ財団)や「球体とビスケットのある形而上的室内」(1971、同)など、遠目には美しく見える作品はいずれも後年のもので、近づいてみるとあまりの軽さに愕然とさせられてしまう。
そうなると 「福音書的な静物」(1916、大阪中之島美術館)に遡らざるを得ず、それは目を引く要素の乏しい実験的作品のようでありながらも、ずしりと重たく響いてくる実体がそこからは確かに感じられた。

こうして1920年代の真正 ”形而上絵画“ とその後のイミテーションの間を行き来してみると、かつては舞い降りてきていたミューズたちがもう飛び去ってしまったとしか思えないのだが、デ・キリコ自身はこれでよしと思っていたのか、むしろ現代的にヴァージョンアップさせたとでも思っていたのか、そのあたりがわからず途方に暮れる。
あるいは ”営業上“ の理由等々があったのか、ヒントとなるような本人の言葉など残っていないのだろうか。

この後は ”TOPIC 1 挿絵“ のミニコーナーとなり、コクトーの「神話」のための版画連作 「神秘的な水浴」(1934、デ・キリコ財団)が並んでいた。
そこでは水浴のために裸体になっている人物と、監視人など着衣の人物との隔絶感が強調されており、デ・キリコ自身によほどの違和感があったことが窺われた。
私もスポーツクラブのプールで泳いだ後に、キッズスクールの子供を連れた着衣の母親たちとすれ違うとちょっと戸惑ったりするのだが、そういう話じゃない、とデ・キリコは言うであろうか・・・

2024年06月05日

堤剛、小山実稚恵によるベートーヴェン

サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)の “プレシャス 1 pm Vol. 1” で、堤剛(Vc)と 小山実稚恵(Pf)による ベートーヴェンのチェロ作品を聞いた。
(2024年6月4日(火) 13:00〜 サントリーホール ブルーローズ)

ベートーヴェン:
チェロ・ソナタ第4番 ハ長調 作品102-1
モーツァルトの『魔笛』より「恋人か女房か」による12の変奏曲 ヘ長調 作品66
チェロ・ソナタ第5番 ニ長調 作品102-2

演奏前にまず堤氏から、ベートーヴェンの第1・2番は出版時に “オブリガードチェロ付きのピアノソナタ” と言われたくらいピアノ主導だったがその後拮抗した、後期のベートーヴェンは人生が詰まった音楽、その思想や哲学にふれるつもりで、といった話があった。
6月1日のCMGオープニングでは第1番から3番まで演奏されたので、そこから続けて聞く場合と今回のみになる場合では、聞こえ方に多少の違いがあったかもしれない・・・

チェロ・ソナタ第4番 ハ長調 作品102-1 は、冒頭からチェロの説得力のある音が聞こえてきて、晩年に近いベートーヴェンの肉声に接するような感じがした。
主部になるとピアノのスケールの大きな響きともに力強い世界に入っていくが、そこは後期なので分かりやすく一本の道を上っていくというわけにはいかない。
作品番号では第5番とともに、ピアノソナタなら第28番と29番「ハンマークラヴィーア」の間、弦楽四重奏曲では第11番「セリオーソ」のすぐ後ということになるので、第3番の雄弁さや明快さとはだいぶ違った世界を逍遥することとなったけれど、起伏と陰翳に富んだその道のガイドとしてはこれ以上ないと思われるお二人の演奏だった。

間に挟まれた モーツァルトの『魔笛』より「恋人か女房か」による12の変奏曲 ヘ長調 作品66 は一転して明朗快活な音楽、小山実稚恵さんがベートーヴェンや堤先生の人間的な部分にふれられると仰っていたのはここかと思える楽しいひとときになった。
1796年の作とすれば作品5のソナタ第1・2番と同じ時期になるのか、前半はモーツァルトに最大限の敬意を表したように進んで行ったのに対し、後半に進むにしたがってベートーヴェンらしさが我慢できずに溢れ出てくるようだった。

チェロ・ソナタ第5番 ニ長調 作品102-2 は、冒頭から後期のベートーヴェンには珍しいほど決然としたテーマが提示されて力強く進む。
そしてこれもしばらくの間の封印を解いたかのように瞑想的で情緒たっぷりの緩徐楽章が続くと、最後は妙に明るいテーマによるフーガに入っていく。
それでもなかなかすっきりと視界が晴れない絡みが続いた後に、最後は思いがけない厚みのある音の響きに巻き込まれるようにして終曲となった。

アンコールは 三善晃母と子のための音楽」から第3、4、5曲がしっとりと演奏された。


>堤剛、小山実稚恵によるブラームス(2021) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2024年06月02日

浮世絵の別嬪さん〜肉筆美人画と春画

(大倉集古館 〜6/9)
岩佐又兵衛や菱川師宣から喜多川歌麿や葛飾北斎あたりまでの肉筆浮世絵を、美人画に焦点を当てて集めた “浮世絵の別嬪(べっぴん)さん〜歌麿、北斎が描いた春画とともに” で、まず目に留まったのは 勝川春章の 「雪月花図」(天明7〜8年(1787〜88)、MOA美術館)だった。
これは花を愛でる小野小町、源氏物語を執筆中の紫式部、雪の日に御簾を巻き上げる清少納言を描いたと言われる三幅対だ。
右隻の小町はやや影が薄いけれど、中央で頬杖をついて月を見上げ、物語の想を練っているところなのか、あるいは行き詰っているかもしれないような気怠さを見せている式部はなかなか秀逸、左隻の少納言の才気走った身のこなしもいい。
ただし本当にこの3人を描いたかどうかについては争いがあるようで、もしかしたら全3枚で清少納言の三態を表しているのではないかという気もした。

本展には実に多くの絵師の作品が出ていたが、やはり 喜多川歌麿は頭ひとつ抜きんでた感があり、「納涼二美人図」(文化元〜3年(1804〜06))には凛とした美しさがあった。
しかしその上を行っていたのは 葛飾北斎、「二美人図」(享和(1801〜04)頃、MOA美術館)には遊女と芸者の二人がいるだけなのだが、生身の人間を超えた存在を描いているようで、名状しがたい哀愁や厭世的な気分も漂う。

歌川国芳の 「三美人化粧之図」(嘉永(1848〜54)、摘水軒記念文化振興財団)は3人の芸妓が上半身裸で涼みながら髪を整えたりしているよう、お互いに手を貸してやっている親密な雰囲気は、ルノワールの「アルジェリア風のパリの女たち(ハーレム)」を思わせるところがある。
実際にこのような場面があったのか、絵師がそれを実見したのかどうかはわからないが、国芳作品としても浮世絵としても比較的レアな題材の作品だろう。

以上、1〜2階に展示されていた “表” の部分に対する “裏” として、地下の展示室は “第5章 めくるめく春画の名品” のコーナーとなっていた。
ここでも圧巻は 葛飾北斎、「波千鳥」(文政(1818〜30)末〜天保(1830〜44)頃か)は狭い画面いっぱいに描くべきものを詰め込んだ形で、体のつながりはどうなっているのかといった懸念には一切構うことなく、その場の熱量といったことも含めて、見せるべきものの見せ方を完璧に心得ているといった印象だ。
もう一点、鳥文斎栄之の 「源氏物語春画巻」(寛政(1789〜1801)末〜文化(1804〜18)頃)は企画賞といったところか、源氏物語の場面を春画にするとはけしからんと思わないでもないが、源氏物語自体がこうした営みを抜きにしては成立しないこともまた確かなことであろう。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2024年05月30日

北欧の神秘-4 都市の美と独立への道

(SOMPO美術館 〜6/9)
北欧3か国の19世紀後半から20世紀初頭までの絵画を紹介する “北欧の神秘―― ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画” 展、 “1章 自然の力、 “2章 魔力の宿る森と続いてきた最後の章は、北欧の国々の都市の美しさとそこでの生活のフォーカスした “3章 都市 ―― 現実世界を描く” 。

アルフレッド・バリストゥルムの 「ストックホルムの水辺の冬景色」(S、1899)は、雪に照り返す強い光を描きながら冬の朝の凛とした空気を感じさせる絵だ。
地面に積もった雪は新雪ではなく、既に根雪となっている上にまた雪が降り積もって街の一部になってしまっているようだが、そんな北国ならではの雪の光景とそこに生きる人々の日常が、ここでは明るくポジティヴなものとして描かれていた。

ルイ・スパッレの 「ヘルシンキの冬のモチーフ」(F、1907)はもう少し親密に、しかし翳りの部分に注目して町の一角を見つめた絵、本展唯一の南国イタリア生まれの画家だが違和感はない。(ついでながら、本展で配布されていた作品リストには全ての画家の “生没年・地” が記載してあり、ほとんどが初対面の者にとって有り難かった。)

アウグスト・ストリンドバリの 「」(S、1903)は実景から離れた象徴的世界か、パレットナイフで大胆に塗りつけた黒や灰色の色面が、画面の大部分を占めて暗い雲や海を表す一方、その狭間に見える一筋の明るい線がストックホルムの街ということらしい。
それはいったいどんな心象風景なのか・・・
このコーナーでは単に都市の美しさを描くだけでなく、孤児院を取り壊す場面や、パンを求めて群がる人々、重病患者のいる病室などをストレートに描いた作品もあって、19世紀末あたりの影の部分は当然のことながら北欧の都市でも例外でないことを思い知らされた。

しかし最終盤では、エドヴァルド・ムンクの 「ベランダにて」(N、1902)に対照的に明るい色彩が充溢していたが、そこに後ろ向きで並んで立つ2人の少女がいることで、思いがけない詩情が漂うことになった。
ムンクの反対側にいたのは苦悶の表情を浮かべた老女、これは アルベルト・エーデルフェルトの 「ラリン・パラスケの哀歌」(F、1893)という作品で、カンテレを引きながらカレワラを歌う吟唱詩人の一瞬の表情を活写している。
先住民族イジョラ人の長老と思しき人物の表情の彫は深く、自らの使命として大叙事詩を伝えなければならないと思い定めていることの切実さを感じさせる肖像画だった。

最後は アクセリ・ガッレン=カッレラの 「画家の母」(S、1896)、ただし題名を見て普通に想像される母の肖像ではなく、神秘主義や神智学に傾倒した人物の思慮深い眼差しを、かなり客観的な立場で捉えたもののようだ。
ラリン・パラスケと90度で隣り合い視線が交錯するような2人が生きたのはカレワラの時代、フィンランドがロシアの圧政下で独立を目指しながら民族のアイデンティティを模索していた時代だ。
シベリウスの作品で言えば、1891年の『クレルヴォ交響曲』から96年の『レンミンカイネン組曲』を経て、99年の『フィンランディア』(交響曲第1番は98年)のあたりまで、愛国的な作品を次々に生み出していた時期の熱気が、そこには微かに遺っていたような気がした。


>北欧絵画関連過去記事
ハマスホイとデンマーク絵画 (2020、東京都美術館) 
モダン・ウーマン〜フィンランドの女性芸術家 (2019、西洋美術館) 
ムンク (2018、東京都美術館) 
カール・ラーション (2018、損保ジャパン美術館) 
スケーエン、デンマークの芸術家村 (2017、西洋美術館) 
シャルフベック (2015、藝大) 
ハンマースホイ (2008、西洋美術館) 
北欧デザイン関連過去記事

2024年05月27日

Index Jan.-Mar., 2024

椅子とめぐる20世紀のデザイン (日本橋高島屋) 
マティス (国立新美術館) 
池大雅 (出光美術館) 
美術家たちの沿線物語 (世田谷美術館) 
もうひとつの19 世紀 (国立西洋美術館) 
中尊寺金色堂展 (東京国立博物館) 
ウスター美術館 印象派展 (東京都美術館) 
本阿弥光悦の大宇宙 (東京国立博物館) 
ハッピー龍イヤー! (静嘉堂文庫美術館) 
鎌倉の仏 25
ヨーロッパ 気まま旅 

ケフェレック、ベートーヴェン協奏曲第1番 
シューマン 室内楽マラソンコンサート 
小澤征爾氏の訃報 
カテリーナ(バンドゥーラ) 

2024年05月24日

デ・キリコ-1 ”形而上絵画” の幻影

(東京都美術館 〜8/29)
ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)について最初に確認しておくと、 “簡潔明瞭な構成で広場や室内を描きながらも、歪んだ遠近法、脈絡のないモティーフの配置、幻想的な雰囲気によって、日常の奥に潜む非日常を表した絵画” と説明される、1910年から19年までの間に描かれた作品群がこの画家の到達点であり、“形而上絵画” とよばれるこれら20歳代の作品がどのくらい出てきているかが展覧会の質を決めるということになる。
本展は第2章を “形而上絵画” という表題にしているので、ここにはそうした作品が集まっているものと思って出かけたのだが、実際には後年のセルフコピーや派生的な作品も多く、そこから当時の “形而上絵画” がいかなるものだったかを推測するという性格の強い展覧会であった。

ギリシャで生まれ、1909年にミュンヘンの美術学校を終えてミラノ、フィレンツェと拠点を変えた デ・キリコは、課題や束縛のない自由な身となって、ベックリンやクリンガーらの芸術やニーチェの思想などに触れて新たな道を歩き始める。
“形而上絵画” への過渡期の作品とされる 「山上への行列」(1910、ブレシア市立美術館)には、日陰になった山の斜面の道を2〜3人ずつ塊になって上っていく寡黙な人たちが見える。
その先の尾根に立つ聖堂には眩しい陽が当たり、青空には白い雲が浮かんでいるので、彼らの道行は希望ないし明るい未来に向かっているということかと思われるが、それは超現実的世界への第一歩でもあるだろう。
手法的にはアンリ・ルソーに近い素朴さとなっており、ここでは美術学校で習ってきたばかりの技法も一旦は捨て去った上で、自分の描きたいものをゼロベースで模索しているようだ。

この翌年にフィレンツェの広場で突然、見慣れたはずの街の広場が初めて見る景色であるかのような違和感に襲われたことが、“形而上絵画” への啓示となり、“2-1 イタリア広場“ に並ぶべき作品が生み出されることとなったわけだが、実際に展示されていた当時の作品は2点のみだった。
沈黙の像(アリアドネ)」(1913、ノルトライン=ヴェストファーレン州立美術館)は、粗削りで完成度の高い作品とは言い難いが、手前の巨大な像の思わせぶりな姿と、右奥にあってサイズ感の見当がつかない塔の響き合いは、確かにデ・キリコが発見したものに違いない。
大きな塔」(1915?、個人蔵)も、「占い師の報酬」「通りの神秘と憂愁」といった代表作ほど歪んだ空間という感じはしないが、時間の感覚が失われそうな空の暗さと、そこに屹立する塔の孤独な姿は、白昼夢的世界へと誘うものと言っていい。

しかし、その先にあった「バラ色の塔のあるイタリア広場」(1934頃、トレント・エ・ロヴェレート近現代美術館)や「イタリア広場(詩人の記念碑)」(1969、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団)は、本来なら ”形而上絵画“ の到達点的世界ということになるのであろうが、残念ながら後年に再制作されたもののようで、借り物めいた薄っぺらな感じは否めない。
そのあたりの ”落差“ は、上記の「大きな塔」と「塔」(1974、デ・キリコ財団)年を比べてみれば一目瞭然で、1910年代の作品が纏っていたミステリアスな雰囲気は、後年にはすっかり失われて書き割りのようになってしまっていた。

2024年05月22日

エミール・ガレ、奇想のガラス作家

(松濤美術館 〜6/9)
没後120年 エミール・ガレ展 奇想のガラス作家” は、作品を見る機会は少なくない一方で人物像はほとんど知らなかった エミール・ガレ(1846〜1904)について、かなり近づいたという印象を持てる回顧展だった。

フランス北東部ナンシー生まれのガレは、若い頃から植物学や哲学に興味を持ち、バカロレアをとってワイマールで鉱物学や科学を学んだ後、ガラス・陶器の製造販売店を営んでいた父・シャルルの工場を継いで制作を本格化させる。
しかし初期作品が並ぶ地下の第1展示室は、比較的よく見る形のガラス製品に模様や彩色を施した程度、それでも透明感があり繊細で十分美しいのだが、まだガレならではの味が出てきているわけではない。

そうした中で目を引いたのはウランを使ったという 「花器(ワスレナグサ)」(1878-1880頃)、淡い緑色が儚げな感じを醸し出していた。
くすんだ濃い黄色と褐色が鈍く発光するようだった 「花器(ジャンヌ・ダルク)」(1889頃)は、ガレ自身が1870年に24歳で志願した普仏戦争で、アルザス=ロレーヌ地方の割譲を余儀なくされたことが契機になったということだった。

しかし、ガレという名とともに想起される作品が見られるのは、2階第2展示室の “第3章 花開くアール・ヌーヴォー様式” から、透明なガラスの実用的な器がほぼ姿を消す代わりに、独特の形と濃厚な色彩による世界に入っていく。
このあたりは一人のアイディアから生み出されたとは信じ難いヴァリエーションの豊富さで、それを現実の物として実現した技術にも感心させられる。
そうした中で1点を挙げるなら、濃い紫色が悪魔的に見える 「花器(グラジオラス)」(1895-1904)がよかった。

ガレと言えばパリ万博と切っても切り離せないが、この頃は11年に一度という頻度で開催されており、54歳までの生涯の中で3回の万博に出展している。
1878年は父の工場を継いだ翌年だが早くも注目を集めて国際的デビューとなり、エッフェル塔が出来た1889年にはガラス部門でグランプリ、そしてアール・ヌーヴォー様式になった1900年には、ガラスと陶器の両部門でグランプリを受賞した。

こうした歩みを通じてガラスを工芸から芸術へと高めていくことになり、陶器や家具にも才能を発揮したガレの、総合的な到達点というべきものが ランプだろう。
ランプ(ナス)」(1900)は当初は上に傘がついていたというが、ナスの胴体部分をランプにすることなどガレにしか思いつきそうにない。
ランプ(ツバメ)」(1902-04頃)も妖しいオレンジ色が血の匂いを感じさせて強く印象に残る作品だが、もし1つだけ自室に飾っていいと言われたら、控えめで不安を掻き立てることのない 「ランプ(リンドウ)」(同)にしたい・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)西洋彫刻 

2024年05月20日

法然と極楽浄土-3 羅漢図と涅槃群像

(東京国立博物館 〜6/9、展示替えあり)
特別展 「法然と極楽浄土に関する前々回記事の「早来迎」は “第2章 阿弥陀仏の世界” だったのに対し、その前にあった「當麻曼荼羅」は ”第3章 法然の弟子たちと法脈“ に属するものだった。
それは本曼荼羅を ”見出した“ のが 証空を祖とする 西山派だったからということのようなのだが、その第3章では浄土宗に、総本山知恩院のほかに増上寺や鎌倉の光明寺、善光寺大本願などを含む七大本山というものがあるという情報以外に、特に門外漢の目を楽しませてくれる展示物は見当たらなかった。
なお善光寺と言えば、本来無宗派で法要などは浄土宗の大本願と天台宗の大勧進が交替で勤めていたと聞いたことがあり、この組み合わせに大原問答の因縁などはないのか気になってしまった。

第4章 江戸時代の浄土宗“ は、徳川家康が 増上寺を江戸の菩提所とし寛永寺と共に鬼門封じにしたことで興隆した様子を見ていく。
その 増上寺には、板版で刷られた重文の 「大蔵経」(だいぞうきょう)に 宋版(12世紀)、元版(13世紀)、高麗版(朝鮮時代1458年)があり、3セットが揃っていること自体が格の高さを示すものらしい。
一方、祐天上人に始まる 祐天寺蔵の品の中には、厨子入りのミニチュア当麻曼荼羅図のほか、祐天筆の 「名号」(宝塔名号、十念名号、六字名号、江戸時代17-8世紀)など、より広範囲に受け容れられたであろうことを示すものもあった。

その先は 狩野一信筆の 「五百羅漢図」(江戸時代19世紀、増上寺)のコーナー、全100幅のうち24幅を展示予定となっていて、前期は「受戒」「地獄」「阿蘭若」「神通」「禽獣」「震」が出てきていた。
地獄」では特に想像力と筆力が一段と上がっており、また七難の中の 「」では地震による被災状況がリアルに捉えられ、羅漢たちが被災者の救済に当たっている様子も見られた。

最後は香川・法然寺の 「仏涅槃群像」(江戸時代17世紀)、これは本来は82体の像で涅槃の場面を立体的に表現した群像彫刻で、釈迦を中心に弟子や八部衆たち、そして多くの動物たちが周囲に集い、背後では三世仏が見守り上空には摩耶夫人も登場するという壮大なもののようだ。
展示はそのうちの26体で構成されており、中央に横たわる2mを超える釈迦は若々しく健康的に見えたが、これは群像の中に埋もれず存在感を示すための表現と理解しよう。
ほかに弟子5人、天部衆4体が出てきていたので動物は16体か、干支の動物たちや象や獅子といった常連組のほかに、ネコやコウモリ、カタツムリまでが登場して賑やかに場を盛り上げていた。

この涅槃像を擁する香川の 法然寺は、70歳代半ばの法然が讃岐に配流になった際に立ち寄った寺を起源としているという。
映像によれば、涅槃像のある三仏堂のほかに閻魔などのいる十王堂があり、そこから火の河・水の河に見立てた2つの池に挟まれた白道にあたる参道を通って、阿弥陀二十五菩薩の待つ来迎堂に至るというテーマパークのような寺になっているらしく、機会があれば訪れてみたいと思った。


>法然と親鸞 (2011、東京国立博物館) 
>狩野一信の五百羅漢図 (2011、江戸東京博物館) 

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2024年05月18日

能 「野守」-1 鬼神の出現と鏡の威力

能 「野守」(観世流 大槻文藏ほか、2024年5月17日(金)17:30〜、国立能楽堂)を見た。
本曲は特に前・後場で雰囲気が一変する作品で、寂び寂びとして文学的・抒情的だった前場に対し、派手な音響と衣装もあって大スペクタクルとなった後場にしばし唖然として見入ることになった。

その転換点となったのは ワキ=山伏の無茶振りだ。
野守の鏡” のいわれを問われた 前シテ=野守の翁が、和歌などを交えながら野の池や鬼神の鏡について語ったのに対して、「げにや昔の物語、聞くにつけても真の野守の鏡見せ給へ」と、唐突に “鬼神の鏡” そのものを見たいと言い出す。
それは無理だから水鏡でも見ておけ、と言って塚の中に消えた翁の内心はどうであったのか、それまで使っていた杖を捨て去ったところには、この無礼者、といった思いも滲んでいそうだが、それならばお望み通り鬼神として登場してやろう、という高揚感もあったかもしれない。

そんなことを知ってか知らずか、山伏は アイ狂言=所の者の促しもあって、奇特を見るための読経を始める。
能でワキ僧が祈祷を行う場合、そのほとんどは供養のため、浮かばれぬ霊を慰めるためであって、それに呼応する形で後シテが現れることになるのだが、ここでは鬼の鏡を見てみたいという好奇心の方が先に立っているようだ。
かかる奇特に逢ふ事も、是れ行徳の故なりと、思ふ心を便りにて、鬼神の住みける塚の前にて、肝胆を砕き祈りけり」と、中腰になり数珠を揉み鳴らし始めた山伏たちは、「我年行の功を積める、その法力の実あらば、鬼神の明鏡現はして、我に奇特を見せ給へや、南無帰依仏」とギアを上げていく。
しかし余計なことながら、年行の功を積んで得た法力をこんなことに使っていいのか、それは無駄遣いないし目的外使用というものではないのかと心配になる。
まあ、法力でも武器でも権力でも、自分のものになれば使ってみたくなるのが人間だということかもしれないし、本曲ではこれで鬼神が出てきてくれなければ困るので、とやかく言うのはやめにしよう。

囃子が盛り上がったところで作り物の幕が外されると、後シテ=鬼神が 「有難や、天地を動かし鬼神を感ぜしめ」と姿を現すが、まだ中に座ったままでいる。
そして、山伏の「恐ろしや」に対して「恐れ給はば帰らん」と返せば、「待ち給へ」と言われて思い直すといったコントのようなやり取りを経て、ようやく立ち上がって外に出て来ると、左手に持った丸い鏡を前にぐいと突き出した。

鬼神は大きな足踏みや早い動きのターンを繰り返しながら、鏡を水平に構えて「天を映せば、非想非々想天まで隈なく」、ぐるりと回して「地獄の有り様を現はす一面八丈の、浄玻璃の鏡となつて、罪の軽重罪人の呵責、打つや鉄杖の数々、悉く見えたり」と鏡の威力を示し、さらに山伏の面前に押し出すような場面もあった。
このあたり、太鼓の連打に数珠を揉みしだく音、大きな足踏みといった音も混ざり、恍惚境に誘うような演出で雰囲気を盛り上げていく。
そして最後は、「すはや地獄に帰るぞとて、大地をかつぱと、踏み鳴らし、大地をかつぱと、踏み破つて、奈落の底にぞ、入りにける」と地に伏せるように静止してから、再び立ち上がって力強い壮大な終曲を迎えた。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2024年05月16日

LFJ-3 モーツァルト、2つの協奏曲

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024の最終日は、バッハを中心としたバロックの小品とベートーヴェンを組み合わせた アンヌ・ケフェレックさんのリサイタルに続いて、モーツァルトの協奏曲を聞いた。

#313  2024年5月5日 (日・祝) 15:15〜 東京国際フォーラム ホールA
モーツァルト:ピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K.271 「ジュナミ」
モーツァルト:ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364
 アンヌ・ケフェレック(ピアノ)
 オリヴィエ・シャルリエ(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)
 東京21世紀管弦楽団、中田延亮(指揮)

このコンサートは、“ハジけて究めて、モーツァルトの天才ここにあり。大胆な書法により新たな道を切り拓き、ベートーヴェンらに大きな影響を与えた2つの傑作を” というところに今年のテーマ “ORIGINES(オリジン) ―すべてはここからはじまった” との関連があるようで、確かに モーツァルトピアノ協奏曲第9番 変ホ長調 K.271 「ジュナミ」は、この時期の作品としては革新的で突出した充実度を見せている。

オーケストラとピアノの掛け合いになる出だしに始まり、短調でじっくりと聞かせる第恭攵呂癲打って変わって陽気に展開していく第軍攵呂癲当時の人々にとって大きな驚きであっただろう。
ケフェレックさんのピアノは滑らかで表情豊か、そして 中田延亮指揮 東京21世紀管弦楽団もごく自然に絡んでいて、率直な感想としては第20番と第27番を入れた最新CDのオケよりも、モーツァルトの協奏曲にもケフェレックさんのピアノにも相応しい演奏のように思われた。

本作はこれまでの愛称「ジュノーム」から、献呈先の人物が特定されたことで「ジュナミ」と呼ばれるようになったというが、21歳のモーツァルトとしては渾身の力作と言えるこの協奏曲が献呈された Jenamy嬢とは、いったいどのような人物だったのだろうか。

後半の ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調 K.364 は、編成自体がユニークであることに加え、「ジュナミ」のわずか2年後の作品にもかかわらず書法は大きく進歩している。
初演ではモーツァルトがヴィオラで登場したという情景が目に浮かぶくらい、ヴィオラという楽器の魅力をよく引き出しており、半音高くチューニングしてD調のように演奏したという話もあるが、ヴァイオリンが弾いたソロパートを追いかけるヴィオラが、音楽的にも技巧的にも凌駕するように聞こえるところが見せ場と言える。
そういう意味ではもともと “競争” 的ないし対決型の曲だったのかもしれないが、オリヴィエ・シャルリエ川本嘉子ご両名のソロはそうしたイメージよりは協調性に富んだもので、管弦楽の好サポートもあり、より円熟していった天才の音世界に遊ばせてもらった。


>アンヌ・ケフェレックさんの過去記事
ラ・フォル・ジュルネ関連
2009  モーツァルト: ピアノ協奏曲第27番
2010  フランク、フォーレドビュッシー、ラヴェル (ル・ジュルナル・ド・パリ)
2010  バッハ、モーツァルトショパン
2012  スカルラッティ、モーツァルト、ラヴェル、ドビュッシー
2017  日本モーツァルト協会例会
2018  バッハ、モーツァルトベートーヴェン
2018  モーツァルト: ピアノ協奏曲第24番
2022  ショパン、リストサティと仲間たち
2022  シューベルト第21番ベートーヴェン第32番The Last 2 Sonatas 
2024  ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番

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2024年05月14日

テルマエ展-3 日本の入浴文化史瞥見

(パナソニック汐留美術館 〜6/9)
テルマエ展〜絵画・彫刻・考古遺物でたどる 古代ローマと日本の“お風呂文化”は、ローマに関する展示の後に “第4章 日本の入浴文化” で東洋の日本へと飛び、日本のお風呂の歴史を概観していく。
天皇や仏僧、戦国武将たちが始めた温泉文化が、江戸で庶民の公衆浴場になるというあたりの話は興味深かったのだが、展示は欠番や複製が多く美術展としてはやや物足りない。
しかし文化史展として見れば、寺社仏閣のような外観と広い内部空間をもつ銭湯建築の模型などは古い記憶を呼び覚ますもので、かつてこうした建物の保存運動もあったことを思い出す。
それでも、今も東京だけで約700軒もの公衆浴場があるというのだが、ビルの1階部分になっていたりして姿が変わっているところも多そうだ。

会場には懐かしい品々もあり、“タオルをゆぶねで使わないで下さい” などという入浴時の注意を書いたホーローの看板などとともに、ケロリンの桶がいくつか並んでいた。
これを銭湯の記憶と切っても切れないものとした仕掛け人の手腕にはあらためて感服するが、当初は白色だったものが黄色に変わったらしいし、女性の洗髪用に大きめのものがあったり、関東と関西で仕様が違っていたことなどは知らなかった。
東西差については、関東では下に置いて蛇口から湯を受けるから大きく、関西は湯船から手で掬うから小さくしたということのようだが、一歩進んでその背景には、関東人の方が清潔好きな人が多いとか、逆に関西人は手っ取り早い方を好む、といったようなこともあるのであろうか。

終盤には 横尾忠則氏の 「東京都公衆浴場業生活衛生同業組合銭湯PRポスター」(2002〜04)というものがあった。
前衛芸術家がこうした商業デザインに関わっていたことが意外だったし、依頼した組合としても大冒険だったのではないかと思うのだが、今は文化功労者で園遊会にも招待される大家なので、こちらがいつまでも昔のイメージを引きずっていてはいけないのかもしれない。
円熟したとはいえ相変わらずインパクトの強い画面は、そういえば銭湯というものがあったな、たまには行ってみるか、と思わせるものになっているように見えた。

最後に 「内風呂の変遷」という映像資料があり、日本住宅公団の集合住宅に標準装備されたことが、一般家庭に内風呂が普及した大きな要因になったと紹介されていた。
そういえば、まだ風呂場のない公営団地などの戸室では、縦型のカプセル状の浴室をベランダに置いていたところがあり、それがFRP製の「スタンウェルバス」という商品だったということも初めて知った。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2024年05月12日

画鬼 河鍋暁斎 × 鬼才 松浦武四郎 = 涅槃図

(静嘉堂文庫美術館 〜6/9)
北海道の名付け親である探検家 松浦武四郎(1818-88)と 河鍋暁斎(1831-89)のコラボ展である “静嘉堂文庫竣工100年 特別展 画鬼 河鍋暁斎 × 鬼才 松浦武四郎 「地獄極楽めぐり図」からリアル武四郎涅槃図まで” は、好古家としての松浦にフォーカスしながら両者の不思議な関係に気づかせるものだった。

その中心となるのは 河鍋暁斎筆の 「武四郎涅槃図」(1886・明治19、松浦武四郎記念館蔵、以下同じ)、これは “北海道人樹下午睡図” という箱書きが示す通り、松浦本人が蒐集品に囲まれて気持ちよさそうに昼寝をしている図で、釈迦涅槃図をパロディにしたふざけた話ではあるが、ここまで徹底していれば依頼した武四郎にも描いた暁斎にも感心せざるを得ない。
好きな物たちを並べ立てた蒐集家冥利に尽きる図に加え、本展ではそこに描き込まれた絵画や愛玩の品々の現物を併せて展示していた。

秋月等観蛤観音図」は、白隠の禅画以外ではあまり見たことがなかった観音像だが、こちらは丁寧に描かれていてお行儀のよさそうな白衣のお姿だ。
周耕の 「猿猴図」も右の猿は肘を横に大きく突っ張り、左では撓んだ枝に両手でぶら下がるといったあまり見ない姿だったが、軽やかな筆で軽みを感じさせていた。
実はこれも白隠周辺の作品かと思ったのだが、いずれも室町時代16世紀とあったので、等伯の猿よりも前に遡るということになるだろうか。

これらの書画に対し立体作品はガラクタのようなものかと思ったが実はそうでもなさそうで、三浦乾也作 河鍋暁斎彩色という 「妙楽菩薩塑像」(1887・明治10)は、酒に酔っていい気分で眠っている様子が荘子の胡蝶の夢の感じをよく表していた。
後楽園焼の 「老子像」(江戸時代17-19C)は、座る姿は枯れたように見えるのに対し、目ははっきり見開いていて思いがけず厳しい表情に出会う。

ご機嫌な表情で天を見上げる 為家の 「人丸大明神像」(年代不詳、静嘉堂)は柿本人麻呂か、そして 「西行像」は2点、笠を持ち杖をついて歩く旅人の姿の立像に対し、頓阿作の坐像はそれらを地面に置いてべったりと坐り富士を見上げているところのようだ。
なおここまでに挙げた展示物が全て重要文化財なのは、松浦武四郎関連資料として一括指定を受けたということであろうか。

以上の第3室に対し、第1室には 河鍋暁斎の 「地獄極楽めぐり図」(1869-72)が10場面ずつ4回に分けて分割展示、第2室では2人の 天神信仰に因む品が紹介されていた。
松浦が25の天神社を選んで参拝し、その際に奉納した鏡の拓本を集めた 「天満宮二十五霊場神鏡背面拓本」の軸装と巻物からは、明治政府の方針に失望して開拓使の職を辞することとなった境遇を、菅原道真の太宰府左遷と重ねたことによる共感の強さが伝わってきた。
暁斎の方は毎日描き続けたという 「日課天神像」(1887・明治20)の中の1点があり、また 伝 祥啓筆という 「渡唐天神像」(室町時代16C)も出ていた。

本展では 松浦武四郎記念館と 静嘉堂文庫の所蔵品が “涅槃図” を縁に再会していたわけだが、これは岩崎彌之助が河鍋暁斎作品を蒐集していた一方、松浦武四郎関連資料に関しては伊勢の豪商 川喜田石水が多く所有し、孫の実業家で陶芸家でもあった 川喜田半泥子と 岩小彌太が親しかったという縁があったということだった。

2024年05月10日

北欧の神秘-3 神話の世界、トロルの森

(SOMPO美術館 〜6/9)
北欧の神秘―― ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画” 展の “1章 自然の力に続く “2章 魔力の宿る森 ―― 北欧美術における英雄と妖精” の主役は北欧神話、森が魔物の住処でありファンタジーの源泉であることがよくわかるコーナーだった。

ガーラル・ムンテの 「山の門の前に立つオースムン」「帰還するオースムンと姫」(N、1902)などを含む壁画は、トロルに囚われた姫を助け出しに行った主人公が、山の城に乗り込んでトロルを退治し姫と財宝と共に馬に乗って帰還する、というストーリーを10枚の連作にしたもの(展示は4点)だ。
しかしおどろおどろしさを抑えた明るく装飾的な画面で、単純化された線や色彩の使い方には クリムトらウィーン分離派にも通じる洗練が感じられた。

ヨセフ・アラネンの 「レンミンカイネンと牛飼い」(F、1919-1920)も装飾的な画面の中にカレワラの主人公がいて、背後の水面には静かに滑っていく白鳥も見えていた。

テオドール・キッテルセンの作品は民話の絵本原画ということか、筋はオースムンとほとんど同様に、期待されていなかった末っ子が数々の試練を経て見事に生還するという英雄譚で、「アスケラッドとオオカミ」(N、1900)では闇夜に遭遇したオオカミの青い目が不気味な光を放っていた。
トロルのシラミ取りをする姫」(同)は、巨大なトロルの前で献身的に世話をする姫の健気な姿が印象的な “美女と野獣” の図だが、ここでのトロルは思いのほかおとなしい。
もちろん目を覚ましたら凶暴化するかもしれないのだが、自然界の神秘的な事象を仮託されているらしいところは、木や水などの自然現象に霊力や神を感じてきた我々日本人と近いところがあるように思われた。

この章の最後に キッテルセンの原画をもとにしたアニメーションが上演されていた。
登場するのは森のトロル、水の精、海の怪物といったトロルたち、そして自然の風景やペストの恐怖など、旺盛な想像力の生み出した異形の霊的な存在だ。
もともとは手描きの現物を展示したかったようだが、状態に不安があることから前後の動きを想像で補ってモノクロームの動画にしたとのこと、そのおかげで神秘的な世界が大画面で迫ってきた。

2024年05月08日

LFJ-2 ケフェレック、瞑想と浄化

ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024には今年も アンヌ・ケフェレックさんが登場、標題が “Vive 1685! バロック名曲+ベートーヴェン晩年のソナタによる祈りの時。大バッハとヘンデルの生年へのトリビュート! バッハの影響が色濃い楽聖の晩年の大作と共に” というリサイタルを聞いた。

#322 2024年5月5日 (日・祝) 12:00〜 東京国際フォーラム ホールC
J.S.バッハ/ブゾーニ:コラール前奏曲「来たれ異教徒の救い主よ」 BWV659a
マルチェッロ/J.S.バッハ:オーボエ協奏曲 ニ長調 BWV596より アダージョ
ヴィヴァルディ/J.S.バッハ:オルガン協奏曲 ニ短調 BWV596より ラルゴ
スカルラッティ:ソナタ ニ短調 K.32 「アリア」
ヘンデル/ケンプ:メヌエット ト短調 HWV434
J.S.バッハ/ヘス:コラール「主よ、人の望みの喜びよ」 BWV147
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 op.110
 アンヌ・ケフェレック(ピアノ)

バッハの 「来たれ異教徒の救い主よ」から マルチェッロの アダージョ、ヴィヴァルディの ラルゴへと繋がれていく重たい足取りの中で、いつものことながら宗教的な気分の濃い “瞑想” の時間がゆったりと広がっていく。
今回は1685年生まれの作曲家に敬意を表して スカルラッティの 「アリア」(ソナタ ニ短調 K.32)が入り、アンコールでもよく取り上げられる ヘンデルの 「メヌエット」でさらに沈潜していった後、バッハの 「主よ、人の望みの喜びよ」で穏やかな光の世界に呼び戻された。

ケフェレックさんはここで一旦ピアノを離れ、拍手を受けてから改めて通訳を伴って現われると、これから弾く ベートーヴェンの 「ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 op.110には、喜び、情熱、乗り越える力といったベートーヴェンの全てがある、と話し始めた。
さらに、この曲には32のソナタでは唯一つ献呈者の名前がない、クリスマスの晩に完成されたので自分と全ての人々へのプレゼントなのではないか、大病を患っていた時期なので楽譜には “もう力が尽きそうだ、しかし命が戻ってきた” といったことが書き込まれている、この作品は “みんな幸せになって!” というメッセージとして聴いてほしい、といったことが語られた。

確かに冒頭から明るく幸福感に満ちたベートーヴェン作品はそう多くないし、バッハに始まってとりあえず締め括られた “浄化” の旅の先に繋がる曲というのも、このソナタ以外には考えられないのかもしれない。
そうした文脈であらためて聞いてみると、世俗を突き抜けた先の世界は愉悦に溢れ、フーガの階段を上り詰めていった先は圧倒的に眩しい光に包まれていた。


アンヌ・ケフェレック @ラ・フォル・ジュルネ
2005 ベートーヴェンと仲間たち 
2006 モーツァルトと仲間たち 
2008 シューベルトとウィーン 
2009 バッハとヨーロッパ 
2010 ショパンの宇宙 
2012 サクル・リュス 
2013 パリ、至福の時 
2014 10回記念祝祭の日 
2015 Passions パシオン - 恋と祈りといのちの音楽 
2016 la nature ナチュール - 自然と音楽 
2017 La Danse ラ・ダンス - 舞曲の祭典 
2018 Un Monde Nouveau モンド・ヌーヴォー - 新しい世界へ 
2019 Carnets de Voyage ボヤージュ - 旅から生まれた音楽 
2023 Beethoven ―― ベートーヴェン 
2024 ORIGINES オリジン - すべてはここからはじまった 、3

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2024年05月06日

法然と極楽浄土-2 専修念仏への道

(東京国立博物館 〜6/9、展示替えあり)
内乱や疫病で人々が疲弊していた末法の時代に、阿弥陀仏の名号を称えることによって誰もが救われ極楽浄土に往生することを説いた 法然(法然房源空、ほうねんぼうげんくう、1133〜1212)が、浄土宗を開いて850年を迎えることを機に開催された特別展 「法然と極楽浄土、 “第1章 法然とその時代” には、比叡山で天台僧として修行していた法然が専修念仏の道を選ぶこととなった 善導(ぜんどう、613〜681)の俤を偲ぶ 「善導大師像」(鎌倉時代13世紀、百萬遍知恩寺)が出ていた。
その全く悩みのなさそうな明るい表情は、原本を写していく過程で平明になっていったという面もあるかもしれないが、救いの端緒を求める心には強く響いたのであろう。

法然上人の肖像である 「足曳御影」(二尊院)や 「隆信御影」(知恩院)なども、穏やかで安定感のある表情となっており、確かに “専修念仏” を説くのに気難しそうな或いは厳しそうな表情は似つかわしくないようだ。
當麻寺奥院の本尊という 「法然上人坐像」(鎌倉時代14世紀)は幾分若く見えるが、温厚そうな中に揺るぎない確信を持って法を説く様子が髣髴としてくるものだった。

その先には 「法然上人絵伝が並んでおり、文字も立派な知恩院蔵の国宝作品(鎌倉時代14世紀)は立教開宗と大原問答の場面が出ていた。
水戸光圀の寄進という 「拾遺古徳伝絵」(鎌倉時代1323、茨城・常福寺)は夢の中で善導と対面する場面、蓮の花が咲く細い一本の川を隔てた浄土側では、菩薩たちや極楽鳥に囲まれて師が金色に輝いていた。
その他にも9歳で母と別れる場面、配流先に赦免の使者がやってきた場面などがあり、順不同ながら生涯の主だったイベントを想起できるようになっていた。

第2章 阿弥陀仏の世界” では、称名念仏が第一ではあるけれども唱える対象を見たい、浄土がどのようなものかを知りたいという門弟や帰依者らの思いに応えるために制作されたという仏教美術を見ていく。
ここに出ていた 善光寺式の 「阿弥陀如来および両脇侍立像」(鎌倉時代13世紀、福島・いわき市)は一光三尊のシャープな姿で、他の見慣れた平安期の阿弥陀像とはかなり印象が違っている。
絶対秘仏とされる 善光寺本尊は飛鳥時代の伝来と伝わるので、そこからの派生作品が法隆寺釈迦三尊像に近いように見えるのも自然なことではあり、そうした阿弥陀如来像の性格や姿を大きく変えたのも、浄土思想の力であったことをあらためて感じた。


>法然と親鸞 (2011、東京国立博物館) 
>”いのり” のかたち 善光寺信仰展 (2009、長野県信濃美術館) 

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2024年05月04日

LFJ-1 ディキシーランド・ジャズ

今年の ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2024 は、昨年がコロナ禍を挟んで4年ぶりの開催となったもののやや縮小版だったのに対し、ほぼそれ以前の規模で戻ってきていた。
テーマが “ORIGINES(オリジン) ―すべてはここからはじまった” と幅広くプログラムも多岐にわたっていた中で、まず聞いたのは “日本が世界に誇るレジェンド奏者2名をゲストに迎えてのLFJスペシャルステージ!“ という ディキシーランド・ジャズだった。

#123 2024年5月3日(金・祝) 14:15〜 東京国際フォーラム ホールC
中川英二郎 TRAD JAZZ COMPANY
〜中川英二郎(tb) 中川喜弘(tp, vo) 青木研(Banjo) 家中勉(tub) 楠堂浩紀(dr)
北村英治(cl)
外山喜雄(tp, vo)

まずは 中川英二郎 TRAD JAZZ COMPANY のクインテットによる演奏で、バンド・リーダー 中川英二郎氏のオリジナル、御父上 中川喜弘氏のトランペットとヴォーカルをフィーチャーしたオリジナルと、今年のテーマ “ORIGINES” らしい2曲で始まった。
当然初めて聞いた曲のはずなのに、どちらもいかにもディキシーランド・ジャズらしくノリのいい曲で、ごく自然に古き良き時代のミシシッピ・デルタに誘われていった。

次いで 青木研氏のソロで 「ラプソディー・イン・ブルー」、クラシックの作品をバンジョー1本で弾きますというのでどういうことになるのかと思ったがこれには完全に脱帽、もちろん演奏者の卓越した音楽性と技術の賜物に違いないけれど、バンジョーという楽器でこれほどのことができるというのは驚きだった。

後半はゲスト奏者を迎えてのスタンダード集、まずはルイ・アームストロングに憧れて23歳でニューオリンズに渡って修行し、立ち上げ時から東京ディズニーランドでも活躍されたという 外山喜雄氏が加わって 「ハロー・ドーリー Hello Dolly」、晴れやかなトランペットと迫力のあるだみ声のヴォーカルは、サッチモその人が乗り移ったかのようだった。

そしてレジェンド中のレジェンド、御年95歳ながら病気をせず健康そのもの、その秘訣は嫌な奴と付き合わないことだと仰る 北村英治氏と 「シング・シング・シング Sing, Sing, Sing」、ここでは特に 楠堂浩紀氏の長いドラム・ソロと、くっきりと浮かび上がって聞こえた北村氏のクラリネット・ソロが素晴らしかった。

会場を巻き込んでの ”記念撮影” や告知(この音楽祭でラヴェルの「ボレロ」を吹くとのこと)があった後、最後は7人全員が揃って 「オン・ザ・サニー・サイド・オブ・ザ・ストリート On the Sunny Side of the Street」が演奏された。
耳慣れたメロディーが幾重にも賑やかに絡み合い、外山氏と喜弘氏の渋いツイン・ヴォーカルも楽しく、こんな時間がいつまでも続いてほしいと思う、気持ちをポジティブにしてもらえたステージだった。

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2024年05月02日

フジコ・ヘミングさん、奇蹟の弔鐘

フジコ・ヘミングさんが4月21日、92歳で亡くなった。
彼女がどのようなピアニストだったのか、おそらくこれから、いろいろな議論が出て来ることになるのだろう。
しかし確かなことは、とても心に残る演奏を聞かせてくれたこと、私自身がコンサートで聴く機会は結局2度に留まってしまったけれど、血が通った音と言えばいいのか、特に最初の音が響き始めた瞬間の感覚はいまだに忘れ難い。

>2010. 5.19 サントリーホール 
>2021.10.22 東京文化会館 

それにしても、不運と苦難の日々から一転、67歳で眩しいほどの日の当たるところを歩くことになった人生とは、ご本人にとってどのようなものだったのだろう。
インタビュー記事を拾ってみると、「お金がなくて3日も4日も食べられないこともあったけれど、何とかなった。そのときを思えば、どんなときもそんなに悲劇的じゃない」、「幸せというのは、多くを持つことによって得られるのではない。いま持っているもので、得られるものなの」(日本経済新聞より)といった言葉が出てくるが、これはまだブレークする前の肉声を拾った1999年の「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」のイメージそのままだ。

それからほぼ25年の間にどれほどのコンサートを重ねられたのか見当もつかないが、あまりプログラムを変えなかったことに対して、「新しい曲を練習する暇がないんですよ。だけども、私の場合は、たとえば大好きなジュリエット・グレコのコンサートに行くときは、いつも同じ曲を歌ってほしかった。名曲っていうのは、そんなにたくさんあるわけじゃない。でも、私はその名曲をいつも歌ってほしいんです。新しい曲に挑戦したら、尊敬されるのかもしれないけど、私のところに来るファンも、何度も同じ曲を聴いて、それで満足してくださっているみたいだし。とにかく、私は一生懸命、間違えないで弾くことだけに集中しています。結局、演奏には、普段の心構えとか全部出ちゃいますからね。生きることは何事も経験だから、いろんな経験をしたことが、私の演奏に出ているんだと思う。でも、何でこんなに人気があるのか自分でも不思議になっちゃうけど(笑)」(週刊朝日より)と答えたというのは貴重な本音の部分なのだと思う。

今あらためて思うのは、彼女を一躍有名にしたNHKの 「フジコ〜あるピアニストの軌跡〜」は、いったいどのように企画されてどう実現したのかということだ。
5月4日に再放送されるようだが、今度はそこに携わった方々の肉声を聞いてみたい・・・


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