2023年09月27日

テート美術館展 光-4 リヒター、エリアソン

(国立新美術館 〜10/2)
今回の “テート美術館展 光〜ターナー、印象派から現代へ” 展は、主催者はそう言っていないと思うので勝手な決めつけではあるが、大きく3つの部分に分かれていてここまで    が パート機Room1〜3)、一般に想定される “絵画展” と言える部分だ。
続く パート は光への分析的なアプローチ(Room4)と現代の作品(Room5)、前者では ターナーの意外に分析的な仕事や、バウハウスでの取り組みなどが紹介されていた。

現代作品では、明度とサイズの異なる3つの正方形を重ねた ヨーゼフ・アルバースはともかくとして、カンディンスキーや マーク・ロスコの作品は、今回の “光” というテーマとの関係が見えにくかった。
ゲルハルト・ リヒターの 「アブストラクト・ペインティング(726)」(1990)という大画面には確かに光が感じられたが、それを夜の飲み屋街の雨に濡れた道に映る明かりだと言っては多分いけないのだろう。

最後の パート掘Room6〜7)はキネティック・アートやインスタレーション、ここでの “光” のほとんどは自然や精神によるものではなく、電気によって人工的に発せられる物理的な光なので、ラファエル前派やホイッスラーの光を見てきた眼には、率直に言って眩し過ぎるし刺激的に過ぎる。
そんな中で、オラファー・エリアソンの 「黄色vs紫」(2003)は、ゆっくりと回転する円形のガラス板を透過して部屋の正面に浮かび形を変える黄色と、反射して部屋全体を周回する紫色が宇宙の天体のように感じられ、両者が出会う瞬間は透明になるところも面白かった。
最後にあった同じ作家の 「星くずの素粒子」(2014)も、時間とともに動く光が宇宙を感じさせる作品で、ホテルの吹き抜けロビーなどの大きな空間に座った状態で、しばらくぼんやり眺めていたいと思った。

2023年09月24日

古典四重奏団のショスタコーヴィチ第2番

古典四重奏団による 『ショスタコーヴィチの時代』の第1回目で、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲の第2番、第3番を聞いた。
(2023年9月21日(木) 14:00〜 としま区民センター小ホール)

古典四重奏団の “ムズカシイはおもしろい!!” シリーズは、昨年完結したベートーヴェンに続いて今年から ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲全15曲を3年がかりで取り上げる。
各回ともレクチャー付きで、初回のこの日は、ショスタコーヴィチは捉え難い、手記や証言があってもそれが真実かどうかはわからない、しかし楽譜(=作品)のみには真実性がある、といったあたりから話が始まった。
もっとも、交響曲第5番が典型であるように、大規模な作品に作曲家が真に訴えたかったものが表現されているかどうかは疑問なのだが、政権からの注目度が低かった室内楽などは比較的自由度が高く、特に弦楽四重奏曲は困難な時期にあって肉声に最も近かった分野と考えていいのだろう。
さらにレクチャーでは、変奏、複調性、葬送行進曲をテーマに、第2番検第3番供同-垢実演とともに解説され、締めくくりに 24の前奏曲とフーガ 作品87 より 第6曲 ロ短調が弦楽四重奏で演奏された。

弦楽四重奏曲第2番 イ長調 作品68 は、シリーズの冒頭にも関わらずシリアスで悲劇的な響きに驚かされたが、この分野では第2番でも交響曲第8番より後の作品なので、充実した書法も内容の濃さも当然のことであろう。
「序曲」と題された第騎攵は、いきなり核心に迫るように高い緊張感が持続するが、生演奏では特に音の “圧” が凄まじく、悩める魂が発する怒りのようにも悲痛な叫びのようにも聞こえた。
第恭攵 「叙唱とロマンス」で執拗に聞こえてくるレチタティーヴォはユダヤの旋律とのこと、哀愁に満ちた歌が悲劇の底の深さを訴えかけていた。
第軍攵は「ワルツ」とは思えない速さと暗さ、弱音器を付けたアンサンブルが悪魔的な気分を高め、不気味なものが接近してくる恐怖心を煽るよう。
そして第験攵の「主題と変奏」は、レクチャーでも紹介されたように歌謡的に始まりながら行き先の定まらないようなテーマが、雄弁なヴィオラや2ndヴァイオリンから受け渡され14もの変奏を紡いでいく。途中チェロがテンポを上げて荒々しい世界に入っていくと、音楽は一気に熱気を帯び高揚していったが、最後はかなり屈折したコラールで重苦しく終わった。


>古典四重奏団のベートーヴェン 7、8 (2021) 
>古典四重奏団のベートーヴェン 11、10、9 (2021) 
>古典四重奏団のベートーヴェン 12、16、14 (2022) 
>古典四重奏団のベートーヴェン 15、13+大フーガ (2022) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2023年09月21日

あの世の探検-3 極楽浄土、江口君図

(静嘉堂文庫 〜9/24)
中国・元〜明時代の 十王像 に注目した “あの世の探検―地獄の十王勢ぞろい―” 展の全体を振り返っておく。

第一章 極楽浄土への招待
第一節 中国・朝鮮の仏画
苦行釈迦図」(高麗時代 14世紀)は、悟りを開く前に苦行へと身を投じた釈迦をアップでとらえ、その表情に注目した異色の作品。通常は痩せた体躯を強調することが多い中で、ここでは苦行を行うことの無意味さに気付き、真に求めるべきものは別のところにあるという思いを噛み締めているようだった。
妙法蓮華経変相図」(南宋時代 12〜13世紀)は南宋時代の仏画だがほとんど漫画のように賑やかな画面だ。しかしその生き生きとした筆の動きによって、仏たちの世界がわかりやすく立ち現れていた。
水月観音像」(高麗時代 14世紀)は白い透けたヴェールを纏い姿勢を崩した観音、水難からの無事を祈ると言う現実的な目的のために、あえて俗っぽさを残して描き身近な存在であることを感じさせたものかと思われた。

第二節 日本の仏画
規範的な作品が並ぶ中で 「千手観音二十八部衆像」(南北朝時代 14世紀)は仏画には珍しい陰翳の濃い絵画だった。補陀落山内の岩場なのであろう、風神雷神がいる画面上方から滝が激しく流れ落ち、その中央に千手観音が眩いばかりの神々しさで顕現、その下方には28の善神鬼神たちが犇めき合って超現実性を高めていた。

第二章 あの世の探検─十王図の世界
本章については前述したとおり、なお 「十二霊獣図巻」(室町時代 16世紀)は2/3にあたる8体を見られる状態だったが、ここは是非12体の全てを一度に見ることができるガラスケースを作ってほしい。

第三章 昇天した遊女─円山応挙筆「江口君図」の謎に迫る
最後の部屋は 円山応挙筆 「江口君図」(江戸時代 寛政6年(1794))を重文の 「普賢菩薩像」と「西行物語」、さらに源応挙落款の「幽霊図」およびこの元となったと思われる応挙の「幽霊図」の写真と共に展示し、その謎に迫るというミニコーナーになっていた。
「江口君図」は確かに応挙ならではの実在性の高い人物描写で、愛妾をモデルにしたという説もごもっともという感じがするが、下半身は儚げで象にも動物としての生気が希薄なところから、無常を悟った遊女が普賢菩薩へ変容していくところだという見立てにも説得力が感じられる。
彼女はいま “あの世” とのあわいにいる、というよりは既にほとんど向こう側の存在になってしまっているということであれば、彼女に会うこともまた “あの世の探検” か・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 | 日本絵画

2023年09月18日

テート美術館展 光-3 ホイッスラー、モネ

(国立新美術館 〜10/2)
眩しい光が降り注ぐジョン・ブレットの「ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡」のすぐ横に、ホイッスラーの 「ペールオレンジと緑の黄昏—バルパライソ」(1866)が出ていた。
これは2015年のホイッスラー展で来日した「肌色と緑色の黄昏:バルパライソ」と同じ作品だと思うが、直前のブレットとは対照的に淡い中間的な色彩を多用した光で、曖昧にくぐもった内省的な風景となっている。
その夢幻的な港の様子は、実景というよりは心象風景のように見えるのだが、実際このように光と影が混じり合う景色が、ホイッスラーの眼前に広がっていたことは確かだろう。
ただ、そうした移ろいゆく光を凝視し、作品として永遠のものにしたのがこの画家のその時の心情だったはずであり、前回から8年たってもその心の襞に入っていくのは難しく、謎はなかなか解けそうにない。

モネの 「エプト川のポプラ並木」(1891)は、本作ではなくともほぼ同じ構図の作品を何度も見ているはずなのだが、今回あらためて思ったのは、それまでの画家は何とかキャンバス上に光を写し取ろうとしたのに対し、モネは見る者の目の中に光が再現されるように描いたということだ。
その違いを敢えて別の言葉で言うならば、モネの絵の前で我々は、絵に描かれた光を見るのではなく、そこに立つたびに新たに光の存在を感じるということではないか。
ギヨマンの「モレ=シュル=ロワン」(1902)も、光の掴み取り方という観点からは成功作と言えるだろう。

その先に続く小さな Room3 は ハマスホイ(ハンマースホイ)のコーナー、ここにあった 「室内、床に映る陽光」(1906)は、誰もいない、家具等もない空虚な部屋で、窓枠によって形を与えられて床に映る光が主人公になっている。
ただしこれは当初から狙った構図ではないらしいところが悩ましいのだが、それでも北欧人の画家が遺した天才的な作品と思いたいがどうだろうか・・・


>ホイッスラー展 (2015、横浜美術館) 

2023年09月15日

常盤山文庫の名宝が伝える中国の美

(東京国立博物館 〜10/22、展示替えあり)
創立80周年記念 常盤山文庫の名宝” という特集展示が、東洋館第8室の全体を使って開催されていた。

やはりまず目を引き寄せられたのは 伝 趙昌筆 「茉莉花図」(重文、南宋時代・12〜13世紀)の鮮やかな色彩だ。
この作品、少し引いてみれば枝ぶりはぶっきらぼうなほど真っ直ぐだし、葉も込み入っていて重たい感じがしないでもない。
もう少し刈り込んで枝ぶりにも変化をつけていいような気さえするが、そうしない自然体の姿が植物の生命力を感じさせ、ありのままの美しさを永遠のものにしているに違いない。
李衎筆 「竹石図」(元時代・14世紀)も、簡素な水墨画に慣れた目からは要素が多い感じも否めないながら、そこに緊張感があり品格を感じさせているところはやはり名品というべきだろう。

伝 陸仲澗筆 「芦葉達磨図」(南北朝時代・14世紀)は、恰幅のいい達磨が堂々とした姿勢で長江を渡っていく場面、色も明るいため失意の道行きという趣は希薄だが、さすがにその表情はやや曇っている。
本作は箱書きにも関わらず同時代の日本人画家によるものと考えられているらしいが、おそらくは “芦葉達磨” をこのように解釈した中国人の作品を手本に写したからこそ、長く到来品として伝わってきたのであろう。

周文筆、鄂隠慧奯等十三僧賛 「帰郷省親図」(重文、室町時代・15世紀)は常盤山文庫を代表する逸品、故郷に帰る途中に立ちはだかる山の大きさが、老いた母の住む里の遠さと、そこへ向かっていく決断の重さを伝えている。
右下に描かれた人物の姿は、自然とか運命とかといったものに対峙する人間の小ささや儚さを感じさせるようでありながら、それでもその中にこそ生きる意味がある、後悔なく最善と思う道を進むほかはない、ということを静かに伝えている。
舞い降りる燕の姿をアニメのコマ送りのように描いた 狩野探幽筆 「波濤群燕図」(江戸時代・1670年)は、素早い筆が的確で余白を生かした構図も秀逸、これも探幽なのか・・・

会場の右半分には 墨蹟が多く並んでいた。
力強く雄渾な 無準師範、厳しく緻密な 清拙正澄、大らかで流れるような 一山一寧、自由奔放な 石梁以忠などを順に見ていくと、それぞれに自分の伝えたいことを自らの表現で形にしていることがよくわかり、ここに人格そのものの自由な発露があるのだと思った。
さらに 青磁盤米色青磁瓶など宋代の優品も並んでいて、居丈高に規模や華麗さを誇るのではなく、寡黙に美を見つめた時代があったことを偲ばせる。
こうした文化を育んだ国にはいまだに憧憬を覚えるし、心からの敬意を表したいと思うのだけれど、そんな思いは今、誰がどう受け止めてくれるのだろうか・・・


>墨宝、常盤山文庫名品展 (2011、根津美術館) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 | 日本絵画

2023年09月13日

聖像・仏像・彫像-2 海外勢、棟方志功

(日本民藝館 9/3終了)
木喰仏など日本の木彫が優勢だった 日本民藝館の “聖像・仏像・彫像〜柳宗悦が見た「彫刻」” 展だが、海外勢にもいくつか興味深い作品があった。

サントス(アメリカ、ニューメキシコ 18世紀後半〜19世紀前半)” と紹介されていたのは、残念ながらそれ以上の来歴に関する情報がないのだが、素朴な中にあたたかい人間性を感じさせる聖像たちだった。
キリスト像」は痩せた体躯ながら孤高の人という感じが強く、憂いを抱えながらもその先を見据えているような精神性の高さがあった。また 「聖人像」は、シンプルな形のつつましい姿で、静かに瞑想しているように見えた。

対照的にアメリカ原住民作という 「カチナ人形」は、ロボットのような固さが微笑を誘う像で、デジタル的な装飾が別の天体から来た存在であるかのような印象を与えていた。
アフリカ・マダガスカルの 「鳥像」は、長い嘴のみを強調したシンプルな形の中に、鳥特有の近寄り難い緊張感があった。


今回の “聖像・仏像・彫像” の特集展示は、入口正面階段周りの仮面に始まり2階の大展示室に及ぶエリアとなっていたのに対し、2階左奥の第3室は “生誕120年 「棟方志功」小展” という併設展のための空間になっていた。
柳との縁が深かったという 「華厳譜」の特に 「風神」は、最高傑作とは言い難いかも知れないが棟方が創造した姿として傑出したもの、また “狩場明神” の狐も神秘的な雰囲気を漂わせて登場していた。

もう一つ興味深かったのは2階第4室の “編組工芸”、ここにある蓑や篭、箒などはまさに “用” のために作られたものが “美” を獲得したものであり、よりよい品質や機能を追求したことから生じた無駄のない規則性が、結果として最上の美につながったということなのであろう。
一方 「背当」に見られる大胆な模様は、もともとは自分のものを識別する目印として始まったものが、いつしか模様の見映えの方が目的となって進化したものかと思われた。


棟方志功関連
幻の肉筆画 (2012、日本橋三越)
福光時代 (2019、日本橋三越)
柳宗悦関連
美の法門〜柳宗悦の美思想 (2016、日本民藝館) 
東北へのまなざし (2022、東京ステーションギャラリー) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2023年09月10日

テート美術館展 光-2 P・R・B、ブレット

(国立新美術館 〜10/2)
テート美術館展 光〜ターナー、印象派から現代へ” は、ブレイクやターナーのあった Room1 から コンスタブルの回廊を抜けて Room2 に入ると、ラファエル前派(P・R・B)に関わった画家たちの作品が集まっていた。

ジョン・エヴァレット・ミレイの 「露に濡れたハリエニシダ」(1889-90)は、何の変哲もない森の中の茂みを、正面から射してくる光が特別なものにした一瞬を捉えた作品だ。
その一期一会とも言うべき輝きを緻密な筆によって描き出したのは、ミレイがアカデミー会員になりラファエル前派から離れてかなり経ってのことではあるが、この表現への執着はかつてラスキンが説いた ”自然に忠実に” というスローガンにつながるものであろうか。

同じくP・R・Bの初期メンバーだった ウィリアム・ホルマン・ハントの 「無垢なる幼児たちの勝利」(1883-84)は、ミレイの自然の光とは対照的に超自然的な神秘の光に満たされていて、強い筆で見えないはずの光を何とか伝えようとするところはブレイクに繋がるようだ。
本作もP・R・Bと距離をおいた時期の作品だから当然ではあるが、主力だった2人の作風がこうも離れてしまっては、ラファエル前派がその後に性格を変えながら失速していくのも無理はない。

もう1人のオリジナル・メンバーであるロセッティの流れを継いで、P・R・B第2世代の中心となった バーン=ジョーンズの 「愛と巡礼者」(1896-97)は、書割風の筆致で光の輝きそのものはやや見え難いが、救いの光というものを絵画で表現しようとした熱意はよくわかる作品だった。

ジョン・ブレット(1831–1902年)の 「ドーセットシャーの崖から見るイギリス海峡」(1871)は、106x213という大画面いっぱいに海とそこに降り注ぐ光を描いた作品で、今回のようなテーマ設定でなければ出会わなかったかもしれないという意味で貴重な収穫だった。
ピサロやマネとほぼ同世代のブレットは、2歳下のバーン=ジョーンズや3歳上のホルマン・ハントと交流があり、ラファエル前派の支持者だったラスキンの影響も受けたとのことだが、彼がここで取り組んだのは、青空に浮かぶ雲を通して海を輝かせる光、そしてそれによってさまざまに色を変える海面を忠実に表現することだった。
実際の海がここまで変化に富んだ色になるのかとも思うけれど、そこは自身が天文学者であり父は獣医師だったという画家の理系の目を信じるほかはない。
カズオ・イシグロの小説の中の執事が旅の途中で見たのも、このような風景だっただろうか。


>ラファエル前派の軌跡 (2018、三菱一号館美術館) 
  ラスキンの素描 ミレイ、滝と女 ハント、女と教訓 ロセッティの女
  ラスキンと初期兄弟団 アーサー・ヒューズ バーン=ジョーンズとモリス
>英国の夢 ラファエル前派 (2016、ザ・ミュージアム)
  ミレイの女たち 聖アグネス祭前夜 甘美なる無為 ハントとラスキン
  継承者たち ウォーターハウス
>ラファエル前派展 (2014、森アーツセンターギャラリー)
  アーサー・ヒューズの詩的世界 シダルの描く悲しい女たち ミレイ芸術の三相
  ロセッティの贖罪 ハント、モリス、バーン=ジョーンズ

2023年09月07日

鎌倉の仏-24 高徳院・鎌倉大仏

”鎌倉の仏” というシリーズを始めた時にこの 大仏について書くことはないと思っていたけれど、思いがけず修学旅行の時以来の訪問をすることになり、やはり ”鎌倉唯一の国宝仏” という肩書に恥じないお姿だと思った。

本像は北条泰時の時代の1238年に木造仏として工事開始、その後1252年時頼の時代に銅像仏として鋳造が開始されたと伝わるが、それが果たして同一の像を指しているのか、記録も釈迦如来と阿弥陀如来で錯綜しているし、誰の発願によるものかもよくわかっていないらしい。
また、当初は大仏殿があったもののおよそ100年後に大風ないし津波で消失、以来700年以上露座の状態となっていると考えられている。
かように基本情報が不足していて、扱いもけっして手厚いものだったと言い難いにもかかわらず、今現在第一級の観光スポットであるだけでなく、当時としても破格の構造物であったはずなので、京都や奈良に対抗しようという幕府の重要プロジェクトあったことは間違いないだろう。

今回は特にアプローチから注意してみたのだが、高徳院の入り口ではそのお姿がほとんど見えず(帰りがけに確認したら隙間から頭部が見える場所はあったが)、有料エリアに入った参道のまっすぐ先に見えた時のお姿はやや控えめな印象だ。
しかしゆっくりと歩みを進めていくに従って徐々に大きさを増し、数段の階段を上がるあたりで阿弥陀如来らしい穏やかなお顔に正対する感じになる。
そしてさらに近づいて供花や賽銭箱のあたりまで進むと、巨大な体躯と頭部がのしかかるように迫ってきて、それまで伏し目がちで柔和に見えたお顔が、厳しく威圧感を覚えさせる堂々たるものへと変容した。

それでも本像の魅力を最も強く感じられるのは、少し離れて斜めから見上げたアングルではないだろうか。
与謝野晶子の 「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」が、どのような視点で歌ったものかはわからないが、私がこの印象に相応しいと感じるのは斜め前の大きな石に座って振り仰いだ時だ。

といってもこれ以上の賛辞は思いつかないので、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の文章を引いておくことにしたい。
”日本民族の道徳的な理想主義が体現されているのが、鎌倉のあの素晴らしい大仏様である。「深く、静かにたたえられた水のように穏やか」といわれる大仏様の慈顔に籠められているものは、「心の安らぎこそ最高の幸福である」という永遠の真理であろう。”



>鎌倉の仏
円応寺 
東慶寺  
建長寺と円覚寺 
覚園寺 10 (1314) 20
国宝館〜辻薬師堂 11121314 
 〜円応寺 15
 〜北条氏展 171819  2122
極楽寺 16 
辻薬師堂、由比若宮 23 
高徳院 24

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)旅の記録 | 日本彫刻

2023年09月04日

私たちは何者? ボーダレス・ドールズ-2

(松濤美術館 8/27終了)
私たちは何者? ボーダレス・ドールズ” 展の会場をめぐりながら感じたことをもう少し・・・

本展は平安時代の呪具「人形代」から始まっていたが、“人の形” を作りたい・見たい、という欲求は、おそらく古今東西を問わず人類共通のものであっただろう。
と一気に話を広げ過ぎず日本に限るとしても、その源流は土偶や埴輪まで遡ることができそうで、特に土偶は、時代や場所によって祭祀や呪術に使われ霊的な存在になることがあったとしても、人の形を作ってみようというのが始まりであり、かつ一貫して根底を流れ続けたものだったと思う。
 >土偶展 (2010、東京国立博物館) 

この “人の形” への欲求は、その後のかなり長い間、仏像への関心という形で発展し解決されていたのではないか。
仏像そのものを人形だと言うつもりはないけれど、先人たちはその周辺の四天王や仁王、八部衆や十二神将、弟子や羅漢などの姿を借りて多彩な造形を量産してきたわけで、“彫刻家” 運慶の創作意欲もそちらの方に強く掻き立てられることが多かったように思われる。
さらに日本独自の “神像” が生み出されたり、江戸時代には円空や木喰の木彫仏が広く庶民に受け入れられたり、日本彫刻の誕生にあたり「奈良人形」が寄与したというのも、この流れの上に起こったことと言ってよさそうな気がする。

本展の 第3章 「彫刻」の誕生、「彫刻家」の登場 の部分は、ボーダレスだった人形に “芸術” か否かという価値基準が持ち込まれることによって、新たな線が引かれることになったことを思わせて興味深かった。
しかしこれは “彫刻” の側からの葛藤と表裏一体のもので、”人形“ のみならず ”仏像“ や記念碑的な ”銅像“、さらには ”工芸“ や ”実用品“ などとの異同が問われ続けた歴史だったようにも思われる。
 >日本彫刻の近代 (2007、東京国立近代美術館) 
 >仏像インスピレーション  (2008、小平市平櫛田中彫刻美術館) 

ちなみに本ブログで扱った “人形” は、子どもたちの声が聞こえてきそうだった 与勇輝、乙女たちの楽園を垣間見たような 友永詔三くらいだろうか。
その他 文楽ムットーニ・パラダイスの “人形” も強く印象に残っているが、これらは人形の造形そのものよりというよりも、そこに命を吹き込む “動き” やその背景にある “文学“ の貢献の方が大きそうだ。

一方、鑑賞されるものが ”芸術“ かどうかはひとまず横に置いて、”美術館“ が取り上げ得る対象としては、”民藝” や “工芸” はもちろん、ウルトラ怪獣やアニメのフィギュアなども、すでにボーダー内に入ったと言っていいのだろう。
本展では節句人形や生人形、さらには “秘宝館” や “ラブドール” にも光が当てられたが、ここで投じられた一石は今後どのような波紋を広げていくことになるだろうか・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2023年09月01日

テート美術館展 光-1 自然の光、神秘の光

(国立新美術館 〜10/2)
テート美術館展 光〜ターナー、印象派から現代へ” は、確かに ”時代や地域、ジャンルを超えた「光の作品」の競演” ではあったが、むしろ意外な形で展開していく作品群を契機として、 ”” そのものについてあれこれと考えさせられる企画だった。

“光” といえばまず太陽や月が思い浮かんでくるが、これらをそのまま “作品” にするのは容易ではなく、多くの絵画は光に照らされたものを通じて、あるいは光の及ばない闇との対比で表現してきた。
一方、そもそも光が無ければただの真っ黒な画面になってしまうはずなので、いかなる絵画も何らかの形で光を描かずには成立しないのだとも言える。

そうした中で ターナーは、史上初と言うには躊躇があるとしても、光そのもので画面を満たしたパイオニアであっただろう。
もっとも、光源や闇の力を借りずに光を表現するには大気や水が不可欠だが、それも光があってはじめて可視化されるものなので、「湖に沈む夕日」(1940c)といったタイトルがついている場合でさえ、それは光を描き光に満たされた絵画にほかならない。

しかし “光” はこうした自然の光だけではない。
蝋燭やランプなどによる人工の光は本展では(少なくとも絵画では)扱われていなかったが、その他にも超自然的な神秘の光というものがあり、こちらは宗教的な奇跡や啓示などの場面を通して主に現われる。
ウィリアム・ブレイクの 「アダムを裁く神」(1795)に見られるのもこうした光で、かなり古拙な表現方法ではあるけれど、それを何とか人々の見える形にしたいという作者の強い意志が作品に力を与えていた。

ジョン・マーティンの 「ポンペイとヘルクラネウムの崩壊」(1822)に見えるのは、光というよりは闇夜における火山活動の威力というべきだが、芸術作品としての評価は別としても、吹き上がる火柱や焼けたマグマの流れなどは見てきたようにリアルに再現されており、それを可能にした想像力と描写力は感嘆すべきものだ。
ジョゼフ・ライト・オブ・ダービーの 「トスカーナの海岸の灯台と月光」(1789年出品?)は一転して静謐な月夜の風景、煌々と照る月は雲に映え水に映えることによって “月光” の絵になっていた。

2023年08月29日

あの世の探検―地獄の十王勢ぞろい-2

(静嘉堂文庫 〜9/24)
あの世の探検―地獄の十王勢ぞろい―” 展の中核をなす 十王については前回ふれたとおりだが、多くの王は威厳に満ちた表情で姿勢を正し、亡者を一顧だにすることなく視線を遠くの方に向けていた。
そんな彼らに、同じ画面の中にいながら大勢の官吏や侍女、使者や鬼卒らによって隔絶され、最下部の空間にいる亡者や供養者たちの訴えが直接届くとは思えない。
無論、生前の記録が詳しく調べられて公正な裁きが行われるものと信じるほかはないけれど、情状酌量の余地はどのくらいあるのかどうか・・・
だからこそ本作品は、生きている間に悪行を控え善行を積み重ねておかなければ、死んでからではどうしようもないのだ、ということのメッセージであろうか。

さて、この10幅は二使者図2幅とともに 「十王図・二使者図」(中国・元〜明時代)を構成し、 今回は 「地蔵菩薩十王図」(高麗時代)と併せ13幅での展示となっていた。
二使者図は、衣の色が緑の 「監斎使者」が文官の姿で冷静沈着そうなのに対し、赤い衣の 「直府使者」はぎらつく刃も見える猛々しい武官の姿で、静と動、法と力を対照的に体現していた。

以上12名の視線が集まる先にはどんな中尊がいたのか、今回の展示では 「地蔵菩薩十王図」(高麗時代)がその役を担わされていたが、これが当初からの形ではないことは明らかだ。
それでも単体で見れば、頭巾を被り煌びやかな装飾を付けた地蔵菩薩が、足元に四天王、梵天帝釈天、十王など、総勢21の面々を従えて君臨しており、普段は単身で地味に描かれることの多い地蔵が、地獄の救済者として出現した晴れ姿のようだった。


さて、あらためて今回の13幅の配置を振り返ってみると、中央の「地蔵菩薩十王図」の両脇を「監斎使者」「直府使者」の二使者図が固め、その右に 第一 秦広王、左に第二 初江王 という形で交互に外側に向かうように十王が並んでいた。(便宜的に改行しているが実際は1列)

  10.五道転輪王 8.平等王 6.変成王 4.五官王 2.初江王 直府使者 
      《地蔵菩薩》 監斎使者 1.秦広王 3.宋帝王 5.閻羅王 7.泰山王 9.都市王

これは曼荼羅的な構成として至極真っ当なものといえるが、展覧会で作品を右端から見ていく場合には、第九 都市王から奇数番を遡り、中央の地蔵を経て偶数番を 第十 五道転輪王まで下っていくということになる。
したがって、初七日(1.秦広王)から三回忌(10.五道転輪王)に至る十王の裁判のステップを時系列で追おうとすると、文字通り会場内を右往左往しなければならない。

一方、第五 閻羅王を含む奇数番の王と監斎使者は画面の左向きに描かれているのに対し、偶数番と直府使者は右向きとはっきり分かれているので、円応寺のように 1〜10 の順番で並んでいたとは考えにくい。
とすれば本来は、回廊の両側に以下のように交互に並べて 第一 秦広王から始まる左右の王に遭遇していき、最奥部で本尊または遺骨・位牌といったようなものに至る、というような構想であっただろうか・・・

       9.都市王 7.泰山王 5.閻羅王 3.宋帝王 1.秦広王 監斎使者 
 (本尊?)   <<<=====          <<<=====             
    10.五道転輪王 8.平等王 6.変成王 4.五官王 2.初江王  直府使者


hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2023年08月26日

聖像・仏像・彫像-1 柳宗悦の木喰仏

(日本民藝館 〜9/3)
白壁に百日紅の花の色が映える 日本民藝館で、庶民信仰を対象とした素朴な造形を集めたというコレクション展、”聖像・仏像・彫像〜柳宗悦が見た「彫刻」” が開かれていた。

各国の聖像や祖霊像、仮面や民具などが並ぶ中での主役はやはり 木喰、この木喰仏を “発見” したことは 柳宗悦最大の功績と言っていいと思うが、彼が出会った山梨・丸畑の “四国堂” の仏たちは、83歳の木喰が故郷の村人たちのために四国八十八ヶ所の本尊を彫ったというだけあって、どれもレベルの高い充実した作品だ。
地蔵菩薩像」「自身像」(1801年)はいずれも一切の迷いや翳りを感じさせない満面の笑みで、あらゆる邪気を払うポジティヴな強さを持っている。
一方 「千手観音像」は穏やかな笑みを浮かべ、「不動明王像」は炎と一体になって迫力ある姿を現していた。
少し離れたところの 「秋葉権現像」も厳しさの感じられる造形、対照的に 「柿本人麿像」は好々爺然とした親しみやすい姿だった。
企画展示室外側(常設コーナー?)には 「虚空蔵菩薩像」も出ていた。

円空は 「正観自在菩薩」「岩堂大権現」(1686年)、柳が蒐集した円空仏が比較的穏当と思われるこの2点だったというのは、単に他に縁がなかったというだけのことなのか、あるいは何か柳らしい理由があってのことだったのだろうか。

2人の木彫仏以外で点数が多かったのは 「恵比寿・大国像」、この中で特に “民間仏(江戸時代)” と紹介されていた像は、素朴ながらやや硬い感じの表情と極端に細い手足が際立つもので、恵比寿が鯛を抱えるのに対し大国の方は十字架を握っているようだった。

展示室前のスペースを中心に、「自在掛」というものがいくつか出てきていた。
これは “自在鉤” とも言われ、囲炉裏の上に吊り下げて鍋などを掛ける道具なので、これ単独で “聖像・仏像・彫像” とは言い難いと思うが、恵比須や大黒と一体で使われることが多いらしく、また独特の意匠を凝らした形になにか命が宿っているようでもある。
これはおそらく先祖から続く家の趣味やこだわりを反映していて、住人のみならず親族や訪れた客人たちに対しても、その家の象徴として機能したものなのだろう。


木喰関連過去記事
円空・木喰展 (2015年、そごう横浜) 
木喰展(2008年、そごう横浜) 
日本の素朴絵 地獄絵ワンダーランド
対決、巨匠たちの日本美術 日本美術が笑う 仏像、一木にこめられた祈り

2023年08月23日

私たちは何者? ボーダレス・ドールズ

(松濤美術館 〜8/27)
”人形の多様で複雑な様相をあえて「芸術」という枠に押し込めずに紹介することで日本の立体造形の根底に脈々と流れてきた精神を問う”、という “私たちは何者?ボーダレス・ドールズ” 展は、確かに一括りに “人形” と呼ばれる物たちの、際限がないほどの幅広さを実感させてくれる企画だった。
同時に、それらはもともと何の脈絡も制約も優劣もなく遍在しているのに、“芸術” という領域を想定した途端に ”ボーダー“ が生じてきてしまうらしいところも面白かったので、駆け足で振り返っておく。

第1章 それはヒトか、ヒトガタか
展示は平安時代の呪具であった 「人形代」に始まるが、江戸時代に民間信仰の場で使用された「オシラサマ」は特に “偶像度” の高い超越的な姿をしていた。

第2章 社会に組み込まれる人形、社会をつくる人形
この章は雛人形や五月人形などかなり身近に感じられるものが多い。これらは一般人にとっての “人形” の典型でもあるし、そうした人形が当時の社会の規範を体現しているようでもあった。

第3章 「彫刻」の誕生、「彫刻家」の登場
明治時代に西洋から “美術” という概念が持ち込まれ、その一部門としての “彫刻” が登場することで、“人形” の分化が始まる。
興味深かったのは 「奈良人形」の作り手たちから近代彫刻が生まれたらしいこと、森川杜園の能人形 「牛若・弁慶」や 竹内久一「太平楽置物」などでは独特の動きや個性が追求され、平櫛田中 「気楽坊」、中村直人 「童女立像」などのように作り手の創造性が感じられるものも出てきていた。

第4章 美術作品としての人形 ―人形芸術運動
昭和時代初期に “人形芸術運動” が盛んになるにつれて、人形の芸術的価値が再評価されるようになるが、それはまず “工芸” として認知され、“工芸” も芸術の一部だという過程を経てのものだったらしいところが悩ましい。
昔どこかのデパートの展覧会で見たことのある 鹿児島寿蔵の作品が妙に懐かしかった。

第5章 戦争と人形
ここでは戦時中に女学生たちに作らせた 「慰問人形」が特攻兵たちに届けられたということが紹介されていた。それがどのくらいの慰めになったのか、或いは絶望的な状況の中でその人形を縫い上げた少女の手、彼女の周りの人々の生活などを想起させられることがどのような効果をもたらしたのか、想像の域を出ないけれどなんともやりきれない思いがした。

第6章 夢と、憧れと、大人の本気と
ここにあった 竹久夢二の 「少年」は、人形としては拙いかもしれないながら、夢二らしさが確かに感じられるものだった。

以上が2階の第1展示室、ここからいつもとは逆の順路で地下の第2展示室に入ると、そこはさらにカオスの世界となっていた。
第7章 まるでそこに「いる」人形 ―生人形(いきにんぎょう) の、本物の人間のようなリアルさで父が娘を斬り殺す 「松江の処刑」の向こうでは、第8章 商業×人形×彫刻=マネキン の妙に艶めかしいマネキン人形や 第10章 ヒトガタはヒトガタ四谷シモン作「ルネ・マグリットの男」が妖しい空気を醸し出し、最後は 村上隆とフィギュア原型師のBOMEによる 「Ko2ちゃん(Project Ko2)」が、予想を超えるインパクトで会場を支配していた。

なお、1階から入るこの空間のバルコニー部分は、年齢制限のある 第9章 ピュグマリオンの愛と欲望を映し出せ! の展示スペースとなっていて、“秘宝館” にあった裸像 「有明夫人」(妙木コレクション)や、オリエント工業社の ラブドールが展示されていた。
ここでは区立美術館の企画ということもあってのことであろう、前者は文化史・風俗史的観点から、後者はケアや心の安らぎといった社会的意義を強調する立場から、かなり長めの解説文が付されていた。

2023年08月20日

山下清-6 東海道五十三次、雑感

(SOMPO美術館 〜9/10)
放浪を止めた 山下清(1922-1971)にとって、“第4章 ヨーロッパにて―清がみた風景のような旅は、それがかつてのように自由度の高いものではなくなっていたとしても、創作意欲を掻き立てるのに必要不可欠であったのだろう。
第5章 円熟期の創作活動” は、39歳から49歳で亡くなるまでの早過ぎる最終コーナーということになるが、そこで主に取り組まれたのは、展覧会などで地方を訪れた際に立ち寄った窯元での “才能が開花した陶磁器” や、“清が愛した富士山” だったようだ。

そんな中での “遺作・東海道五十三次” は、画業ではないところでも注目され多忙になった山下清が、もう一度原点に戻る形で取り組んだ、結果として最後のプロジェクトとなった。
当初は全宿場を貼絵で制作するというプランだったようだが、時間を割きにくかったのは健康状態ばかりが理由ではなかったのだろう、5年がかりで描き貯めたペン画55葉を版画で出版して完成ということになった。

興味深いのは、それがどこまで意図的だったかどうかはよくわからないが、必ずしもかつての宿場の風情を探すというわけではなく、トラックやガソリンカーも走る現代的な建築の街並みの図もあったりして、高度成長期という1960年代の空気を感じさせるものになっているということだった。
それでも作品として見入ったのは、連なる山並みの中を行く峠道が旅程の厳しさを感じさせる 「東海道五十三次・峠の景色(岡部)」(制作年不詳)、静かな川面に小舟が浮かび川沿いに建てられた商家の倉庫などを映す 「東海道五十三次・舟でくる町(桑名)」などだった。


なお余談ながら、最後の収蔵品コーナーには ゴッホの 「ひまわりが出ていたが、本作品はいま、ナチス犠牲者の遺族が返還ないし賠償を求めて提訴したことでその来歴があらためて注目されている。
さらにここ最近は、社名の一部であり業界名でもある ”SOMPO"(損保)という名を冠した美術館から、ビッグモーターに纏わる不祥事や東急に始まるカルテル疑惑を想起してしまう人も少なくないだろう。
無論「ひまわり」にも山下清にも全く罪はないのだが、”SOMPO" のイメージと完全に無縁でいられるわけではなく、こんなかたちで逆風に晒されるリスクも有り得るのだということは、今後のこととして心しておくべきなのかもしれない。

「ひまわり」の他の所蔵作品としては、東郷青児とグランマ・モーゼスの作品が1点ずつ出ていた。
その意図は不明だが、グランマ・モーゼスは山下清の作風と親和性が高いようにも思えたので、どうせならテーマの近い作品なども取り混ぜてもう何点か見せてもらえればと思ったりした。


>生誕100年 山下清展ー百年目の大回想 

2023年08月17日

あの世の探検―地獄の十王勢ぞろい-1

(静嘉堂文庫美術館 〜9/24)
広い時代やジャンルに亘る館蔵の仏教美術品を並べた展覧会だったが、まずは “あの世の探検” の核となる 「十王図・二使者図」(中国・元〜明時代)と 「地蔵菩薩十王図」(高麗時代)から。
メインの展示室では、人が亡くなった後の初七日から7日ごとに四十九日までを担当する7人の王(秦広王、初江王、宋帝王、五官王、閻羅王、変成王、泰山王)と、その後の追善供養を司る3人の王(平等王、都市王、五道転輪王)を一幅ずつ描いた10幅と、監斎・直府使者の2幅を左右に並べ、中央に「地蔵菩薩十王図」を置いて一具のように展示していた。
以前の所蔵家の段階からそのように伝わってきたということだが、絵としての面白さはなんといっても ”地獄の十王勢ぞろい” となっている 「十王図」全10幅だ。

精緻に描かれた画面は多彩な登場人物にもかかわらず緊密さが高い水準で保たれ、保存状態がいいこともあって鮮やかな色彩がよく残っている。
そして、主役の王を中心にして大勢の法官、童子、侍女、将軍、司官、使者らが階層を成すように空間を埋め、最下部では鬼卒が亡者を引き回したり懲らしめたりしていた。

初七日を司る 秦広王の図では馬頭が王の後ろに控えるのに対し、牛頭が枷械をはめられた亡者を引き出してきていて、生前の行状を記した文書も運び込まれ、これから裁きが始まるという感じが強い。
もっとも、これ以降の図で必ずしも一貫したストーリーが展開しているようには見えなかったのだが、四・七日の 五官王になると、生前の善行と悪行を量るための 業秤と呼ばれる天秤が下部中央に据えられていた。

十王の中で最も知られている 閻羅王は五・七日の担当として右から3枚目に登場、特に特別扱いされているわけではなかったが、それでも一段と威厳のある姿で風格と冷徹さを感じさせていたように思えたのは気のせいだったのかどうか。
ここでは証拠調べの一環なのであろう、亡者の前に 浄頗梨鏡(じょうはりのかがみ)と呼ばれる大きな鏡が持ち出され、生前の悪行の数々を映し出していた。

七・七日すなわち四十九日を司る 泰山王の段階では、ほぼ審理は尽くされ判決が出ていそうなものだが、亡者への責め苦は激しさを増しているようであり、そのためか供養者は仏頭や仏像などを賑々しく持参しているのに、その効果のほどはよくわからない。
百箇日を司る 平等王はさすがに穏やかな表情に見えたが、ここでも 業秤が持ち出されていたのは、再審を求める者たちを救済するためと思いたいがどうなのだろう。

一周忌の 都市王は、これまでの王たちと違って眼を大きく見開いた人間的な表情、そして十人目となる三回忌の 五道転輪王は武装した怒れる姿となっており、このあたりは初めの七人の王たちとは役割や性格が異なっているように思われた。
なおこの最後の図では、相変わらず最下部の地獄で亡者が牛頭に責め苛まれているのに対し、画面の上方には 天・人・修羅・畜生・餓鬼 の世界が描かれており、そこに “五道転輪王” への最後の望みが託されているようだった。


>地獄・十王関連過去記事
円応寺 (同・鎌倉国宝館蔵)
地獄絵ワンダーランド  (2017、三井記念美術館)
祈りのかたち (2017、出光美術館)

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2023年08月14日

ヨーロッパ 気まま旅-6 パリ(1)

ベルギーから夜行列車で パリ北駅に着いたのはまだ夜明け前の6時頃、とりあえず近くのカフェに入って戸惑ったのが、これは出発前から聞いていたのだが、全く英語が通じないということだった。
意図的に英語には反応しないということだったのかもしれないが、とにかくコーヒーだパンだと繰り返していたら、店の親爺はニヤリと笑って一旦奥に引っ込むと、大きなクロワッサンとカフェオレを持ってきて、そっけなくテーブルの上に置いた。
その、見た目はどうということもないのに妙においしいクロワッサンを頬張り、たっぷりと量のある甘いカフェオレで流し込みながら、なるほど、これがパリか、と実感した。

食べ終わってもまだ日の出前だったので、まずは日が昇るパリの街の写真を撮ろう、それにはどこがいいか、とあれこれ考えて、まず 凱旋門に向かった。
初めてのメトロにまごついて朝焼けには間に合わなかったけれど、まだ車が少ないエトワールの真ん中で強い朝の光を横から受ける巨大な門は、確かにかつてのフランスの栄光そのものという感じがした。
シャンゼリゼ通りやコンコルド広場はそのスケール感に脱帽、これほどの直線性や空間の広さ、軸線への執着は、ロンドンでも見られなかったものだ。

真っ直ぐルーブルに向かう前に、その手前のオランジェリー美術館と対になったような場所にあった、オルセーの前身の 印象派美術館に立ち寄った。
規模や空間の面白さはルーブルやオルセーの比ではないが、よく知っている画家の作品が3段くらいに重なるように壁面にぎっしりと並ぶ贅沢さ、そして扱いの雑とも言えるさりげなさに驚かされた。
美術館としての守備範囲が狭くサイズがコンパクトだったこともあって、ほっと一息つけるような心地よい空間だったことを思い出す。

対して ルーブルはとにかく広く、そして複雑に込み入っていることに唖然とさせられた。
当時は古典絵画に関する知識がほとんどなかったので、「モナ・リザ」は本当に微笑んでいるのか、ルーベンスの部屋を埋め尽くす大画面の連作は凄いな、といったくらいの感想、むしろアングルの「グラン・オダリスク」やドラクロワの「民衆を導く自由の女神」の方が、フランスに来たという実感が出てきたせいか印象に残っている。
そのほかでは、予習なし3時間ほどの滞在の中で、ミレーの「晩鐘」や「落穂拾い」(当時はルーブルにあった)、そして「ミロのヴィーナス」を見落とさずに済んだことの安堵感の方が大きかった、という程度のお上りさんぶりだった。

この日はさらに ノートルダム大聖堂へ、本当はゆっくりと中の雰囲気に浸りたいところだったのだが、勢いで鐘楼まで登ってから閉館間際の ロダン美術館へ向かった。
翌日が月曜日で美術館などが軒並み休館になってしまうことから無理をしたのだが、まあこの時の旅はじっくり楽しむよりは “行った” という経験値を増やすことの方が大事だったのでやむを得ないだろう。
それよりも今となっては、そのような ”基本方針“ にもかかわらずパスしたところの方が興味深いようでもある・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)旅の記録 

2023年08月11日

山下清-5 ヨーロッパで見た風景

(SOMPO美術館 〜9/10)
1954年、32歳で放浪を止めて油絵やペン画にも取り組んだ 山下清(1922-1971)は、39歳の時に “第4章 ヨーロッパにて―清がみた風景” を生み出した旅に出る。
1961年6月から40日間という旅の行程は、アンカレッジ経由でハンブルクに入り、北欧も含む主だった都市を巡り、ローマからエジプト経由で帰国するというものだった。

ヨーロッパ風景・貼絵” では以前も注目したことのある 「ハイデルベルクの古城」(1964)にやはり目が吸い寄せられた。
川や橋、街並みももちろんいいのだが、驚くべきはその背後の森の表現で、1本1本の木の輪郭を “こより” で画して葉の部分は様々な緑を使い分け、全体としてドイツの深い森の風情を醸し出していた。
ロンドンのタワーブリッジ」(1965)はおそらく本シリーズ中最も知られた作品、唯一無二の形がくっきりと聳え立ち記念碑的な強さを見せていた。

ヨーロッパ風景・水彩画とペン画” はもう少し手軽に制作した作品群か、ここではあまり予備知識を持たずにヨーロッパに向き合った素朴な感想が興味深かった。
例えば「パリの凱旋門」(1961)を見て兵隊の位で言えば大将だと言ってみたり日光の陽明門と比べてみたり、「ストックホルムの市役所の庭」(1961)では石の像が裸でパンツもはいていないことに驚いたりしている。
近景に街灯を大きく取り入れた 「ベニスのゴンドラ風景」(1961)は、ここまでエッフェル塔やノートルダム寺院などを画面いっぱいに描いた名所絵葉書風の作品が多かった中で、独自の視点で詩情ある風景を切り取っているように見えた。

と、ここで気になったのは、そもそもこのヨーロッパ旅行は誰が企画しコースを決めたのか、ということだった。
もちろんかつて国内を旅した時のような行き当たりばったりの放浪ではあり得ない、全てを準備した上で現地でも誰かがぴったりくっついて案内したはずで、これが有名なXXですよ、描くならこのアングルがいいですよ、といったこともその過程の中ではあっただろうか。
あるいは現地で撮った写真を帰国後に渡して、これでよろしくと言ったスポンサーがいたとか・・・

閑話休題、「ストックホルムの夜景」(1961)はライトアップされた建物が水面に映る異色の作品、水彩画ではあるが闇へと移行していくにつれて減衰する光のグラデーションは、ペンによるドットの緻密な描き込みの効果だった。
ヨーロッパ風景・陶磁器” にあった 「ベニスのゴンドラ風景 」(清水焼)(1961)も、思わず自室に飾りたくなる愛すべき作品だった。

2023年08月08日

ドヴォルザーク 「スターバト・マーテル」

ドヴォルザークの大作 「スターバト・マーテル」の演奏会があることを知り、広島の原爆の日に池袋まで足を運んだ。(2023年8月6日(日)15:00〜 東京芸術劇場 コンサートホール)

バッハ(マーラー編曲):「序曲」「アリア」
ドヴォルザーク:「スターバト・マーテル」op.58

 指揮/大野和士、合唱/新国立劇場合唱団、管弦楽/東京都交響楽団
 ソプラノ/小林厚子、メゾソプラノ/山下裕賀、テノール/村上公太、バス/妻屋秀和
 ダンス/金森 穣、井関佐和子(「アリア」のみ)

スターバト・マーテル」 は 、ラテン語の詩 “Stabat mater dolorosa = 悲しみの聖母は佇んでいた” で始まることから、“悲しみの聖母” としても知られる宗教曲で、磔刑となったイエス・キリストの十字架の下に立つ聖母マリアの悲しみや苦しみを表現する作品と言える。
しかし ドヴォルザークの場合は、長女を亡くした悲しみをきっかけに書き始めたにもかかわらず、完成までの2年弱の間に次女と長男も続けて失ってしまったことから、本来の趣旨以上に悲劇性を纏った形で世に出ることになった。

特に重量級の第1曲にはスラヴ特有のほの暗さも感じられ、全体的に分厚く重苦しい作品というイメージを持っていたが、聴き進むうちに歌謡性に富む旋律など意外に親しみやすい部分があることが分かり、癒しの音楽という面の方が強く感じられてきた。
とりわけ印象的だったのは第4曲私の心を神なるキリストへの愛に燃えさせ」、バスの独唱がドラマティックに語りかけるのに対し、合唱特に女声コーラスには天上から優しく包み込むような感じがあり、いかなる苦しみもこのようにしていつか救われるのかと思ったりした。

このあたりを境にして、前半は後期ロマン派・国民楽派らしい翳りや重さが優勢だったのに対し、後半はコラールやフーガといったバロックないしそれ以前の宗教曲の形式により、ソロと合唱が呼応しながら徐々に清澄な世界へと導かれていった。
そして最後の第10曲たとえ肉体は死んで朽ちるとしても」は、冒頭の音型が繰り返されるところから晴れやかに展開し、圧倒的な頂点の後に穏やかな終曲を迎えた。


なお前半は、バッハ(マーラー編曲)の 「管弦楽組曲」より第2番の 「序曲」と第3番の 「アリア」、 この「アリア」にはダンス(金森 穣、井関佐和子)が入っていた。
今回の演奏会は、子供向け企画や無料のミニコンサートも含む “サラダ音楽祭2023” のメインコンサートとして企画されたもので、サラダ音楽祭は Sing and Listen and Dance!! の “SaLaD” がコンセプトだということから、ごく一部ではあるがダンスも入っていたのだろう。
一方で、何故この日このような場に ドヴォルザークの 「スターバト・マーテル」が選ばれたのか、入口やロビーなどでウクライナの国旗が散見されたのは何か特別な関連があったのか、音楽祭そのものにもう少し関心を持っていればわかることもあったのだろうか・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2023年08月05日

Index Apr.-Jun., 2023

マティス (東京都美術館) 
あこがれの祥啓 (神奈川県立歴史博物館) 
ベルギーと日本 (目黒区美術館) 
饒舌館長ベスト展 (静嘉堂文庫・世田谷) 
仏画入門 (鎌倉国宝館) 
明治美術狂想曲 (静嘉堂文庫美術館) 
茶の湯の床飾り (出光美術館) 
細見美術館の名品 (日本橋高島屋) 
東福寺展 (東京国立博物館) 
憧憬の地 ブルターニュ (国立西洋美術館) 
修験と密教の美術 (半蔵門ミュージアム) 
ブルターニュの光と風 (SOMPO美術館) 
ヨーロッパ 気まま旅 

ナチュラルホルンによるベートーヴェン 
能楽囃子講座〜流儀による囃子の違い 
石見神楽 
ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2023 
能 「夢浮橋」 
「憧憬の地 ブルターニュ」展 記念コンサート 
ボブ・ディラン 

2023年08月02日

マティス-6 ヴァンス礼拝堂 1948─51

(東京都美術館 〜8/20)
“マティス展 Henri Matisse: The Path to Color”の最終章 “8. ヴァンス・ロザリオ礼拝堂 1948─51” は晩年の結晶とも言うべき礼拝堂の紹介、制作の中心となるステンドグラスと陶板壁画のみならず、祭壇や扉、聖職者の衣装なども含む空間の総合芸術だ。
展示されていたマティスの作品は 「ヴァンス礼拝堂、ファサード円形装飾《聖母子》」(デッサン、1951年)などに限られていたが、制作にかかわる写真が多く展示されていて、長い棒でデッサンするマティスの姿を見るといつも、こうした機会を得ることになった幸運とそこにかける思いの強さに胸が熱くなる。

以前は一度現地に行って実見したいと計画を立てこともあったのだが、パリから公共交通機関だけを使った旅では日数がかかってしまう上に、到達できても教会の行事などの関係で中に入れない可能性があるらしいこと、さらに運よく入場できたとしても雨や曇りだったらステンドグラスを通した光がどの程度見られるかわからない、などと思っているうちに実現する機会を逃してしまった。
本展の最後の部屋で4K大画像によりその場にいるような体験ができたので、もちろん現物と画像には雲泥の差があるとはいえ、とりあえずはこれで良しとしようと思う。

さて、マティスの作品として最も力が入っているのは正面の双子窓 「生命の樹」、黄と青と緑という色の選択は教会のステンドグラスとしてはかなり異例かと思えるけれど、神の恩寵を感じさせる空間としてこれ以上のものは考えられない。
“切り紙絵” によると思われる形が緊密に構成されている正面に対し、身廊と袖廊の方は同じ色を使いながらシンプルでおおらかな葉の形にして、色彩を建物内部に導き入れている。

陶板壁画は祭壇奥の 「聖ドミニコ」が凛とした姿で直立する一方、側面の 「聖母子」は柔らかな文様に包まれてあたたかい雰囲気を醸し出している。
いずれも構想段階ではいくつかの “顔” が試されたはずで、目や鼻のある下絵も以前の展覧会で見たことがあるが、最終的にはそうしたものを捨象して輪郭だけにしたことで、より純度の高い象徴的な空間になったと思う。

これらに対し背後の壁面の 「十字架の道行」は、聖書の13の場面を1つの壁面にまとめるのは簡単ではなかったとお察しするが、マティス自身がこの面はこのようにしたいと思ったのか、むしろここは教会側の事情でどうしてもこうでなければならなかったということではないかと思うがどうだろうか。
磔刑像を中心に6本の燭台が山形に並ぶ 「主祭壇」も簡素ながら洗練されたもの、鉄棒で戯れている人物のような 「磔刑像」には、最晩年のマティスのあたたかさや優しさが滲むようだった。


<マティス関連企画展>
ルオーとマティス (2008、汐留ミュージアム) 
マティスとボナール (2008、川村記念美術館) 
マティスの時代 (2009、ブリヂストン美術館) 
マティスとルオー (2017、汐留ミュージアム) 
マティス The Path to Color (2023、東京都美術館) 

2023年07月30日

ソール・ライターの原点 ニューヨークの色

(ヒカリエホール 〜8/23)
本年1月の東急本店閉館に伴い4月にザ・ミュージアムが休館となったため渋谷ヒカリエ9階に場所を移した Bunkamura で、近年再発見された未公開作品を中心としたソール・ライター展の第3弾、”ソール・ライターの原点 ニューヨークの色” が開催されていた。
83歳でようやく知られるようになった ソール・ライター(1923-2013)は、膨大な未整理作品を残したまま90歳で亡くなってしまったので、今年が生誕100周年というのにまだ未公開作品が発掘されている “発展途上” のアーティストということになるようだ。

ニューヨーク 1950-60年代” にはモノクロによるニューヨークの街の風景が並び、雨に濡れた夜の通り、公園のチューバ吹き、紳士と交錯する労働者などを撮った何気ないカットが、これまでに見た作品と比べても遜色のない詩情を湛えていた。
その多くが「無題」なのは、おそらく本人がタイトルをつけきれないまま他界してしまったからと思われるが、いくつか表題のある作品は本人によるものか、あるいは彼を世に出して財団の中心となったマーギット・アーブ女史ないしその周辺がつけたものなのだろうか。

少し先にはジョン・ケージやアンディ・ウォーホルといった “アーティスト” たち、その中でも特に興味深く見入ったのは 「無題(セロニアス・モンク)」だった。
残念ながら撮影年不詳のようだが、そこにいるのはカメラを意識してポーズをとったモンクではなく、ライブハウスで本気の演奏をしているジャズマンの姿で、ぎこちないながらも味わい深いピアノの音が聞こえてくるようだった。

往年の雑誌の現物が多く並ぶ “ソール・ライターとファッション写真” を挟み、展覧会の後半は “カラーの源泉 — 画家ソール・ライター” という章。
ここは絵画とカラー写真が混在する展示となっていて、中心となるべきカラー写真の展示が少ないような感じがしたが、それはこの後にポジ・スライドの現物や、10の大画面に順次投影される “カラースライド・プロジェクション” も用意されていたからということだろう。

以前の会場では難しかったであろう大きな壁面に次々に映されていく作品を見ていると、当然のことながらそのすべてが成功作というわけにはいかず、比較的知られた作品であろう1970年2月某日の 「」の前後にも、夥しい数に上る同種の写真が撮られていたことがわかる。
その中から “決定版” を得ることになる発想や執念にはあらためて感心せざるを得ないが、当時これだけのリバーサル・フィルムを自由に使えたのも、敢えて言えば幸運だったと言えるだろう。
いまでこそ1枚の写真を撮り保存するためのコストは限りなくゼロに近くなっているけれど、フィルム代や現像代がかかっていた少し前の時代には、こんなふうにシャッターを押しまくることなど一般人には考えられなかった・・・

会場中ほどの ”終の棲家” に再現されてたソール・ライターの部屋では、オートチェンジャー付きのプロジェクターが壁面に作品を映し出していたが、そうした楽しみ方ができた本人もその友人たちも、特にミューズの恩恵を受けた人たちだったと思わずにはいられない。


>ソール・ライター (2017、ザ・ミュージアム) 
>ソール・ライター (2020、ザ・ミュージアム) アンコール開催

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2023年07月27日

山下清-4 ペン画という新たな世界

(SOMPO美術館 〜9/10)
1954年(昭和29年)に鹿児島で “発見”されたところから、“第3章 画家・山下清のはじまり―多彩な芸術への試み” という放浪の天才画家 山下清(1922-1971)の後半生に入っていく。
すでにその作品は高く評価され話題の人物ともなっていたので、“画家” としては幸運な船出となったはずであるが、ひとところにとどまって油絵やペン画に取り組むことは、本人にとってどのようなものだったのか。
油彩への挑戦” は、貼絵やペン画ほどの個性や冴えは見られないように思われたが、青い空をバックにピンクの花を咲かせる 「ぼけ」(1951)には、ゴッホのアーモンドの花を思い出させる澄み切った美しさがあった。

ペン画ー点と線の芸術” には、新たにマジックインキのペンを使って描いた作品が並んでいた。
それは貼絵よりは手間がかからないように見える一方、点で埋め尽くしてグラデーションをつけていく技法は、やり直しがきかないところに困難さがありそうだが、イメージが瞬時に脳内に焼き付けられ持続させることができたらしい天才画家にとっては問題ではなかったのだろう。

両国の花火」(制作年不詳)は点と線だけで広がりと奥行きのある空間を作り出しており、「小石川の後楽園」(1960)はジェットコースターの軌道が交差する複雑な空間と人々の賑わいを、高速シャッター写真のように定着させていた。
奈良二月堂」(1957)や 「お蝶夫人屋敷」(1956)などは、建物の本質的な部分をしっかり把握するとともに、背景の植生なども実によく観察したものだった。

ストリップ嬢」(1956)は、徳川夢声にヌードも描いてみろと言われ、モデルを使うというわけにもいかないのでストリップに行ったものの、ステージを見ただけでは(動きが早過ぎて? 暗すぎて?)描けなかったから楽屋で描かせてもらったという作品だという。
この路線に深入りしなくてよかったのか残念なことだったのかはわからないが、無責任に言う方もどうかと思うし、この時期の ”巨匠“ の扱われ方がわかるようなエピソードでもあった。

東京オリンピック」(1964)は、かつての国立競技場の聖火台に点火した時の人々の熱気を、望遠レンズでとらえたようなシンプルな構図で再現した忘れ難い作品。
入場行進の場面を描いた 「日本、しっかり」(1964)も、古関裕而の音楽とともにテレビで何度も見たシーンではあるが、いままさに大選手団が入場してきたという昭和を代表する瞬間の高揚感を伝えていた。

進化する貼絵” には 「ソニコンロケット」(1959)というユニークな画題の作品があった。
それは第一義的には山下清自身の思い入れの強さによるものだったのだろう、しかし今思えばタイアップ企画のようなものでもあったのだろうか・・・

2023年07月24日

マティス-5 ダンスからジャズ 1931─54

(東京都美術館 〜8/20)
マティス展 Henri Matisse: The Path to Colorの最上階展示室に進むと “7. 切り紙絵と最晩年の作品 1931─54” 、マティスは十二指腸潰瘍を患って一時は寝たきり状態となるが、1941年に “奇跡的生還” を果たした後、油彩画を続けるには十分ではない体力でも “切り紙絵” という手法を発見することで創作を続けることができた。
”切り紙“ 自体は1910年の大作「ダンス」を制作する際に、構図の検討をするために試したことがあったというが、確かにエルミタージュの「ダンス」は巨大な切り紙絵のように色面が明快だった。

この「ダンス」に関しては、本展の “3. 並行する探求―彫刻と絵画 1913─30” に、これと並行して制作されたという彫刻 「背中」(1909年)が出ていた。
そこに 13年、16-17年、30年の作品が加わり、2m近い4体の巨像が並ぶ “重たさ” に戸惑ったのだが、30年以上を経て軽やかな新境地を開くことになったのは、我々にとっても本当に幸運だった。

オセアニア、空・海」(1946年)は 177傳370 が2面という大きな空間に、何の迷いもなく空と海を自由に楽しんでいる生き物たちが躍動していた。
展示されていたのは限定30部の第6番ということだったが、これはどのように制作され販売/配布されたのだろう。

ジャズ」(1947年)も全20作全てを良い状態で見られたのが有り難かった。
その中ではやはり 「馬、曲馬師、道化」と 「イカロス」が、単独作品としても充分成立しうるインパクトを持っていると思うが、もう一点目を引いた馬車が登場する作品のタイトルが 「ピエロの埋葬」だったとは・・・

ところで “ジャズ” というタイトルは、自由で即興的な表現の連作集だからということであって、JAZZ音楽を視覚化したという訳ではないとは言うものの、マティスがジャズとしてどのような音楽をイメージしていたのかが気にかかる。
1947年の作なのでマイルスやコルトレーンということはあり得ず、バードやモンクの初期作品なら計算が合わないことはないが、ドビュッシーやラヴェルの “ジャズ風味” とされる作品なども踏まえるならば、それ以前のビッグ・バンドやラグタイムあたりを想定する方が自然だろう。
ただ、制作はヴァンスの “夢” 荘で43年から46年にかけて行われたということなので、それ以前にパリで聞いたということになるのか、あるいは友人か出版サイドの誰かのアイディアだったのか・・・

2023年07月21日

メジューエワ〜ショパンの肖像-2

イリーナ・メジューエワさんのピアノリサイタル “ショパンの肖像 第1回”(2023年7月9日(日)14:00〜 東京文化会館 小ホール)の後半1曲目は バラード第1番 ト短調 Op.23、強靭な打鍵からドラマティックな物語が始まり、メジューエワさんが著書に書いていた “厳格で男性的、英雄的なショパン“ が立ち上がった。
その荒々しい嵐の中から浮き上がる第2主題はことのほか美しく、この主題に絡む左手の音型の霊妙さも含めて、何日か経った今でも耳の奥から離れない。

この日のコンサートを締めくくったのは エチュード(練習曲)、1833年(23歳)の作品10と、37年(27歳)の作品25の24曲から10曲(変イ長調 Op.25-1/嬰ハ短調 Op.25-7/ホ短調 Op.25-5/ハ短調 Op.10-12「革命」/ヘ短調 Op.25-2/ヘ長調 Op.25-3/ヘ短調 Op.10-9/変ト長調 Op.10-5「黒鍵」/イ短調 Op.25-11「木枯らし」/ハ短調 Op.25-12)が選ばれていた。
「エオリアンハープ」に始まり「大洋」で終わっていたので軸となったのは作品25か、2曲目に弾かれた 嬰ハ短調 Op.25-7 は今まであまり意識して聴いたことがなかったが、瞑想的に始まりドラマティックに展開していくスケールの大きな音楽だった。
5曲目の ハ短調 Op.10-12「革命」 はテンションが高く溢れんばかりの熱量が伝わってくる演奏、7曲目の ヘ短調 Op.10-9 もこの曲の新しい面を見せてもらったような気がした。
そして、悲劇性の強い イ短調 Op.25-11「木枯らし」から間髪を入れずに ハ短調 Op.25-12 になだれ込むと、驚異の驀進力と膨張力で会場全体を揺さぶり、大きなうねりとなってフィナーレを迎えた。

それにしても、4回シリーズの第1回のメインとなった大曲が「練習曲」というのはやや意外なことだった。(第2回は「前奏曲集」、第3回は「葬送ソナタ」)
今回は独自の構成と入魂の演奏のおかげで、聞く機会が少なかった曲の魅力にも気づくことができたけれど、協奏曲を別とすれば最初のと言っていい ”大曲” であること、そしてこの曲集がなぜ ”練習曲” なのかがあらためて気になってきた。
作品10と25の24曲を練習として使える人というのは本当に限られると思うし、20歳台半ばのショパンに教育的な作曲動機があったとも思えない。
むしろ、数曲まとめてもソナタになるわけではない、表題を付けたり物語性を持たせたりして連作集にするのも難しい、中には相当メカニックな部分もある、そんな小品群を 「練習曲」という形にまとめて出版することによって、”練習曲“ にしては芸術性が高いと言われたり、古今の練習曲集の中で最高峰に置かれたりすることになったのだから、それが誰のアイディアだったにせよ大成功と言えそうだ。

アンコールは2曲、ノクターン 嬰ヘ長調 Op.15-2 はゆっくりとしたテンポで始まり、さらに大きなタメを作りながら自由に歌っていたように聞こえたが、これは本編ではないアンコールとして弾かれたから、というよりも、そうしたいからアンコールに持ってきたということなのだろう。
そして最後は エチュード ホ長調 Op.10-3「別れの曲」、こちらは引き締まった硬質の演奏という印象だったけれど、やはり単独で演奏されることによって、さらに魅力的に響いたように思われた。
終演後にはコロナ禍で中断していたCDのサイン会が復活し、長蛇の列が出来ていた。


>イリーナ・メジューエワ、日本コンサートデビュー25周年記念リサイタル (2022.12.12)
 

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2023年07月18日

山下清-3 貼絵の深化と放浪の終焉

(SOMPO美術館 〜9/10)
生誕100年 山下清展ー百年目の大回想の “第2章 学園生活と放浪への旅立ち、その5番目のセクションである ”放浪期の貼絵“ には、山下清(1922-1971)の名声を確固たるものにした作品が並んでいた。
金町の魚つり」(1950)は一見すると平凡な田園風景だが、ゆるやかに流れる川の水面が対岸の土手やそこを歩く人々、そして空や雲を映している様子がよくわかる。

自分の顔」(1950)には、“青いばっくに赤のてんてん、オレの貼絵に似ている” という文章が添えられていたので、ゴッホの「自画像」を意識したコメントであることは確かだと思うが、本作の制作もゴッホを見るより前だったということなのだろうか。
おそらく世界中探しても、ゴッホを知らずに描いた後にゴッホが自分の作品に似ていると言える画家を、他に見つけることはできないだろう。
もっとも、この自画像自体はそれほどゴッホ的というわけではないが、むしろ黒い服のよれてくたびれた感じを貼絵で表現しているところは、誰にもまねのできない域に達しているという感じがした。

代表作の一つである 「長岡の花火」(1950)は、花火の放射状に広がる線に “こより” を使ったことでインパクトのある画面になった。
しかしそれだけでなく、川に映る花火や手前の大群衆を驚異的な手数で表現し、その場の空気や高揚感までを伝えているところは天才的としか言いようがない。

伊豆大島の風景」(1954)は、未完成というか仕掛品のまま残されたことによって、山下清の貼絵の制作過程を垣間見ることができる。
それによればまず鉛筆でおおまかな構図を描き、画面の下の方から(手前から)せり上がるように貼っていって、おそらく最上部に到達したところで完成ということになるのだと思うが、これは当初から完成イメージを脳内にしっかりと持っていなければできないことであろう。

本章最後のセクションは “「放浪を辞める誓い」”、ここでは 1954.1.10 朝日新聞の記事が指名手配のような感じになって放浪中の鹿児島で発見された後、学園長宛てに一筆入れることになった文章が紹介されていた。
それはどの程度自発的なものだったのか、“るんぺんをするのを思ひきってやめ用と思ひます” と言いながら、“もしるんぺんをした場合は病気と思はれてもかまひません” と開き直っているようなところが面白い。
戦後9年というこの時点では徴兵逃れという問題は既になく、放浪すること自体は咎め立てされるようなことではなかったと思うのだが、しかしもうこの天才画家を周囲が黙っているわけにはいかなくなっていた。

2023年07月15日

西山まりえの歴女楽〜王妃マルゴ-2

西山まりえの歴女楽 Vol.9 〜王妃マルゴ〜” (銀座ぶらっとコンサート #184、7月5日(水) 13:30〜 王子ホール)について、前回記事ではプーランクの「フランス組曲」を軸に マルゴマルグリット・ド・ヴァロワ(1553-1615)の物語を駆け足で辿ったが、このコンサートのもう一人の主役となったのは ピエール・ゲドロン(c.1570-c.1620)だった。
ゲドロンはマルゴの夫 アンリ4世とその子 ルイ13世に仕えたエール・ド・クールの音楽家だが、ソプラノの 松井亜希さんが最後の方で語っていたように、今回はマルゴの生涯に沿うように選曲されていたために、典雅な宮廷歌曲というよりは陰翳の濃い説得力ある歌として聞こえた。

語らいと沈黙」は、そのどちらも愛する人との間なら至福の時となるという詩が、ギーズ公アンリと相思相愛だった時期を思わせる一方、「おお、なんと堪えがたい運命よ」はそれが叶えられずに ナヴァル王アンリとの政略結婚を強いられ、サン・バルテルミの虐殺へと暗転していく辛さを訴えているようだった。

それは軍神マルスなのか?」では、“三アンリの闘い” に際し元カレの ギーズ公アンリのために立ち上がるも、兄アンリ3世に捕らえられ幽閉の身になってしまう。
だがそうした絶望的な状況にあっても、美貌だけでなく知性と教養によって周囲の共感や支持を集めることができたようで、「もしも私の傷ついた魂が」からはそんなマルゴが孤独の中でも保ち続けた矜持が聞こえてくるようだった。

さて、サン・バルテルミの虐殺後の混乱もあってまともな夫婦とは言い難かった夫の ナヴァル王アンリは、“三アンリの闘い” 後に アンリ4世となり、ナントの勅令でユグノー戦争を収束に導いて、輝かしいブルボン朝の繁栄への道を開く。
ジョセフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエの 「敏感なる感受性」と「めまい」は、少し時代が下がってルイ15世の頃のものだが、アンリ4世に始まり太陽王ルイ14世で絶頂期を迎えたフランス王家に鳴り響いた音楽のイメージに近いだろうか。
リュリやクープランを飛び越えたロワイエの、特に「めまい」という曲は、常套手段を力づくで積み重ねたようであまり上品と言える作品とは思えなかったけれど、西山まりえさんの熱演で聞き応えのあるひとときとなった。

一方、”彼女は危険なほど美しい” とか “男を救うのではなく破滅させる美” といわれ、兄たちとの近親相姦や愛人の多さを疑われる マルゴではあるが、離婚した夫 アンリ4世の新たな妻となった マリー・ド・メディシスと親しく付き合い、後に ルイ13世となる彼女の息子にも慕われたということなので、その時点での立場を考えれば人間的魅力においても優れた女性だったのだろう。
彼女の言葉として “今日という日の花を摘め” が紹介されていた(聞き間違いかもしれない)が、いまこの時を大切にする、という前向きで楽天的な姿勢が、後半生を輝かせる力の源泉になったということかと思われた。

締め括りに3人(西山まりえ:バロック・ハープ、中木健二:チェロ、松井亜希:ソプラノ)で演奏した ジェアン・シャルダヴォワーヌの 「ある若き娘」には、そんなマルゴの波乱万丈の人生を慈しむような味わいがあった。


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2023年07月13日

マティス-4 リディアと室内画 1930─48

(東京都美術館 〜8/20)
アンリエット・ダリカレールと共に歩んだ ”オダリスクの時代”が終わった後、“5. 広がりと実験 1930─37” の時代以降のミューズとなったのは、リディア・デレクトルスカヤという女性だった。
マティスが60歳前後でバーンズのための「ダンス」を制作する際の助手として雇ったのが始まりで、その後にマティスの妻が自らの看護・付添人として雇ったことから、マティスの制作の助手や秘書としてアトリエを切り盛りするようになり、モデルとしても作品に深く関わることになったという。

ロシアの没落貴族の娘でシベリアやパリで苦労を重ねた後、南仏でマティスと出会いその晩年を実務面で支えるとともに、制作のインスピレーション源にもなったというのだが、当時20歳を過ぎたばかりくらいなのに、ピカソの場合ほど艶っぽく語られてこなかったのはなぜなのか。
妻との関係では穏やかでないこともあったらしいけれど、マティスをして ”モデルのポーズを決めるのはモデル本人、画家ではない“ と言わしめたというのだから、その功績は大というべきだろう。
青い寝具の上で裸でまどろむような 「」(1935年5月)をそのような作品として見たことはなかったが、気になってしまうのは彼女が初めてモデルになった時のこと・・・

続く “6. ニースからヴァンスへ 1938─48” には、マティスの油彩画としての到達点と言える 「赤の大きな室内」(1948年春)が登場、”ヴァンス室内画“ の締めくくりに相応しい、強い赤が支配する大画面だ。

一方その右の壁面にあった 「黄色と青の室内」(1946年)は ”ヴァンス室内画“ の第一作、流麗な線で描かれた壺やアンティーク椅子、果物などのある黄色の空間と、対角線上に置かれた青い面が穏やかに響き合う。
「赤の大きな室内」が交響曲のような世界を立ち上げているのに対し、こちらには室内楽的な親密さが感じられた。

2023年07月11日

メジューエワ〜ショパンの肖像-1

イリーナ・メジューエワさんのピアノリサイタル、“ショパンの肖像 第1回” を聞いた。
(2023年7月9日(日)14:00〜 東京文化会館 小ホール)
この日は全4回シリーズの第1回で、ショパン(1810-1849)が祖国ポーランドを離れてパリで活躍するようになる初期〜中期が対象、当時交際していたのは マリア・ヴォジンスカ嬢で、ジョルジュ・サンドと深い仲になる以前の作品ということになる。

ノクターン 嬰ハ短調(遺作)
幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66(遺作)
ワルツ(2曲)(変ホ長調 Op.18「華麗なる大円舞曲」/ロ短調 Op.69-2)
マズルカ(3曲)(ホ短調 Op.17-2/イ短調 Op.17-4/ハ長調 Op.24-2)
アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ Op.22
―休憩―
バラード第1番 ト短調 Op.23 
エチュード(10曲)変イ長調 Op.25-1/嬰ハ短調 Op.25-7/ホ短調 Op.25-5/
 ハ短調 Op.10-12「革命」/ヘ短調 Op.25-2/ヘ長調 Op.25-3/ヘ短調 Op.10-9/
 変ト長調 Op.10-5「黒鍵」/イ短調 Op.25-11「木枯らし」/ハ短調 Op.25-12
(アンコール)
ノクターン 嬰ヘ長調 Op.15-2
エチュード ホ長調 Op.10-3「別れの曲」

演奏はしっとりとした ノクターン 嬰ハ短調(遺作)、華やかな 幻想即興曲 嬰ハ短調 Op.66(遺作) の2曲から始まったが、このよく知られた曲がいずれも “遺作” ということが気になった。
“遺作” と言えば、晩年に書き発表の機会がなく埋もれていた作品を指すことが多いと思うが、今回は若い頃の曲を集めた企画だし、それぞれのジャンルでも特に演奏効果の高いものなので、“晩年” でも “未発表” でもなく、“未出版” だった作品ということなのだろう。
その理由はよくわからないが、弾くたびにアイディアが次々に沸いて決定版に至らなかったのか、あるいは手の内を見せたくなかった、この曲を演奏できるのは自分だけということにしておきたかったのだろうか。
続く ワルツ 変ホ長調 Op.18「華麗なる大円舞曲」も、サロンで喝采を浴びるショパンを彷彿とさせるものだった。

しかしここまでの雰囲気は、マズルカ(3曲)に入ってがらりと変わった。
もともとショパンの曲は夜の音楽だと思うが、その闇は一段と深まり、場所は華やかなサロンからショパンの部屋に移ったのか、貴婦人たちのざわめきは消え、故郷に思いを寄せる孤独な青年の肉声が聞こえてくるようだった。
以前から マズルカというジャンルには、ショパン本人の内面が特に強く表れているような気がしていたが、こうして “ヒット曲” の後に続けて聞いたことで、その思いの深さがひと際強く感じられた。
小規模な ホ短調 Op.17-2 にも孤独の影が滲み、有名な イ短調 Op.17-4(13番)では切々たる思いを隠そうともしない。そして3曲目の ハ長調 Op.24-2 は今までほとんど意識したことがなかったけれど、明るい調性の小品にも微かな翳りがあった。

前半を締め括る アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ Op.22 で再び煌びやかなサロンへ、この時期のポロネーズにはマズルカに盛り込まれたような内面性は感じられないが、それでも弾く自分だけでなく、聴いている人々の心を故郷ポーランドの方に向ける効果はあったかと思われた。

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2023年07月09日

山下清-2 戦争の時代と放浪の旅

(SOMPO美術館 〜9/10)
生誕100年 山下清展ー百年目の大回想“ の “第2章 学園生活と放浪への旅立ち、3番目のセクション ”放浪へと駆り立てた戦争“ では、12歳で入園した養護施設「八幡学園」を出奔して放浪に出るきっかけが、徴兵を避けるためだったことが説明されていた。
それはこうした施設で暮らす少年にとっても、戦争というものが重くのしかかっていたことを示すもので、今の我々が安易に徴兵逃れはよくないなどと批判できないのはもちろんのこと、なし崩し的に軍備の増強や個人の情報管理が進む今こそ、切実さを持って想像力を働かせてみるべきことかもしれない。
開戦前の1938年(昭和13年)にもかかわらず 「軍艦」や 「高射砲」といった貼絵を制作しているのは、戦争がそれだけ身近なものになっているということに違いないが、これすらも他人事では済まされない。

観兵式」(1937)のところには、メンコで兵の位(くらい)を覚えたという話が紹介されていたが、そう言えば私も幼い頃に親戚の家でだったか、「軍人将棋」というもので遊んだことがあった。
これで少尉から大将へと階級を上がりその上に元帥がいるという軍の序列を覚えたし、戦闘になると飛行機やスパイも登場、最強の駒は原爆だがジョーカー的な役回りのMP(憲兵)には負けるといったゲームだったと思うが、こうしたものは果たして現存しているのだろうか。
当時も若干の違和感を覚えた気がするが、そこには少年を夢中にさせる何かがあったことも確かで、こういった形での刷り込みは考えてみれば怖ろしい。

さて、“放浪へ” では 絵日記帳の展示が主体、表紙に記載された文字によればそれは1940.11.8から43.10.8までの3年弱だったようだが、これはあくまでも第1回目のこと、この後も1954年に32歳で鹿児島で発見されるまで7回ほど繰り返し、その間に表現されるべきものが蓄積されていった。
日記帳の字は几帳面に揃っているし、鉛筆画は全て1954年の作ということなので、これらは旅の途中ではなく帰ってから記憶を呼び戻して書いたものなのであろう。

山下清は放浪の最中に制作もしていたようなイメージを抱きがちだが、解説でも繰り返し述べていたように放浪の目的はあくまでも放浪であって、制作は帰ってきて落ち着いてから行われたようだ。
確かに放浪の最中に ”貼絵” の制作をするなどおよそ不可能なことに違いないが、そうであれば後からイメージを再現した記憶力の方に驚嘆しなくてはならない。

草津温泉の電車道を歩いているところ」(1954)はかつてあった草軽電気鉄道に乗った時の記録と思われるが、高原を行く速度はかなりのろく、やたらに曲がるといった記述には実感が籠っている。
参道の両側に旅館が軒を連ねているという 「江の島の景色」は、かつて江の島詣でが盛んだったころの情景が髣髴としてくるものだった。

2023年07月07日

西山まりえの歴女楽〜王妃マルゴ-1

西山まりえの歴女楽 Vol.9 〜王妃マルゴ〜” (銀座ぶらっとコンサート #184)を聞いた。
(2023年7月5日(水) 13:30〜 王子ホール)
漫画の “王妃マルゴ” を読んだことがないのであまり馴染みのある名前ではなかったが、サン・バルテルミ虐殺に絡みブルボン朝の始まりとなったアンリ4世の最初の妻 マルグリット・ド・ヴァロワ(1553-1615)のことだと聞けば、世界史の記憶の断片が彼方からおぼろげに蘇る。

コンサートは彼女の生涯を追う形で進められ、その縦軸の役割を担ったのは、≪フランス・ルネサンス音楽と近代プーランクの夢物語的な舞曲と歌曲の融合≫ という副題にもあるように、フランシス・プーランクの 「フランス組曲」だった。
本作品もピアノ曲集のCDで聞いていた限りでは、擬古的で雅な感じがする曲というイメージしかなかったのだが、これはマルゴとほぼ同時代に活躍した クロード・ジェルヴェーズの舞曲を元に、ブールデの戯曲 “王妃マルゴ” の付随音楽として書かれたのだそうだ。

ジェアン・シャルダヴォワーヌ: ある若き娘
アドリアン・ル・ロワ: ブルゴーニュのブランル
ピエール・ゲドロン: 語らいと沈黙
*プーランク: 1.ブルゴーニュのブランル、2.パヴァーヌ
ピエール・ゲドロン: おお、なんと堪えがたい運命よ
*プーランク: 3.小さな軍隊行進曲、4.嘆き
ジャイルズ・ファーナビー: 新しきサ・フー
ピエール・ゲドロン: それは軍神マルスなのか?
*プーランク: 5.シャンパーニュのブランル、6.シシリエンヌ、7. カリヨン
ピエール・ゲドロン: もしも私の傷ついた魂が
ジョセフ=ニコラ=パンクラス・ロワイエ: 敏感なる感受性、めまい
ジェアン・シャルダヴォワーヌ: ある若き娘
(*プーランク = クロード・ジェルヴェーズ原曲の「フランス組曲」より)
  西山まりえ(チェンバロ/バロック・ハープ)
  中木健二(チェロ)
  松井亜希(ソプラノ)

今回使われた プーランクフランス組曲」のチェロ独奏版(バロック・ハープ/チェンバロとの二重奏)は、1. ブルゴーニュのブランル からチェロ(中木健二)の音がピツィカートやハイポジションで跳ねまわり、16世紀フランスの宮廷の世界へと軽やかに誘っていく。

だが心を寄せた ギーズ公アンリとの結婚が許されず、宗教融和のためユグノーの ナヴァル王アンリと政略結婚しなければならなくなったという話を聞くと、優美なはずの 2. パヴァーヌ にも不穏な空気が漂い始め、その後の悲劇を予感させるように響いた。
その不吉さは、結婚祝賀に集まったユグノーたちを惨殺した “サン・バルテルミの虐殺” で現実のものとなり、その渦中にあって運命が暗転したマルゴの心情が、4. 嘆き の悲痛な旋律で切々と訴えられた。

その後、意地悪な兄 アンリ3世、結婚できなかった元カレの ナヴァル王アンリ、そして虐殺を逃れた夫の ナヴァル王アンリによる “三アンリの闘い” となると、マルゴは元カレを支援して立ち上がるものの兄に捕らえられて幽閉され、元カレも兄に殺されるが、その兄もまた暗殺されてしまう。
6. シシリエンヌ は、こうして当初の目論見が外れ近しい人たちがいなくなっていく悲哀を歌うようで、滅びゆくヴァロワ朝の挽歌のように聞こえて来た。

しかし最後は、夫の ナヴァル王が改宗し アンリ4世として戴冠する様子が 7. カリヨン で晴れやかに描かれ、プーランクによるマルゴの物語がひとまず終わった。
プーランクの 「フランス組曲」をこのように内容の濃い音楽として聞いたことはなかったし、本人の編曲によるチェロ独奏版があることも知らなかったので、思いがけず得難い経験をさせていただいた。

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2023年07月05日

ヨーロッパ 気まま旅-5 ベルギー(2)

ブルージュ(ブリュージュ、ブルッヘ)の2日目はまず街を取り囲んでいる運河へ、堤防に立つ風車はオランダよりかなり小さいながら素朴でかわいらしく、そしてそこからの街の眺めは思っていた以上のものだった。
石造りの屋根が大きな楕円形でほぼ平らに広がる中、昨夜はライトアップされていた3つの塔が聳え立ち、鐘楼聖母教会救世主大聖堂それぞれに形の違う塔がアンサンブルとなって、街を護りながらその美しさを競っているようだった。

街の中心に戻ってその中のひとつ、鐘楼に上ってみた。
急な階段を上っていった最上部からの眺めは素晴らしく、15分おきくらいに街中に響き渡っていたカリヨンの音を出す大小の鐘が間近に見えた。
階段の途中には巨大なオルゴールのように突起のついたシリンダーがあったので、通常はこれによる自動演奏の音が響いていると思われるが、カリヨニストが演奏するコンソールもあって特別な音楽が奏でられることもあるのだろう。

次いで グロイニング(フルーニンヘ)美術館へ、ここでヤン・ファン・エイクに始まる北方ルネサンス絵画、ボスの「最後の審判」、クノップフやデルヴィルといったベルギー象徴派に巡り合えたことは本当に大きかった。
メモによると鐘楼とセットで40ベルギーフラン(320円)のチケットだったようで、そうでなければ美術館には立ち寄らなかったかもしれないと思うと、あらためてこの時の出会いに感謝しないではいられない。

ベギン修道院と愛の湖に名残を惜しんで駅に戻り、列車で夕方のブリュッセルへ。
ゲーテだったかが “世界で一番美しい広場” と言ったというグランプラスは、もう少し広く緑や水のある空間を想像していたので、古風な建築に取り囲まれた石畳のみの空間が意外に思えたのだが、コーヒーを飲んでいるうちにすっかり気に入った。
しかし小便小僧は小さく、王宮や聖ミシェル大聖堂のあたりはアントワープやブルージュより近代化されている分だけ情趣に欠けるような気がしたけれど、そのおかげでベルギーに別れを告げてパリに向かう決心がついたとも言える。
ここからオランダとの国境に近いローゼンダールという駅までパリ行きの列車を迎えに行き、この旅で初めてコンパートメントに乗り込んで眠りながらパリへ向かった。

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2023年07月03日

マティス-3 オダリスクと地中海 1918─29

(東京都美術館 〜8/20)
マティス展 Henri Matisse: The Path to Colorの第2層、“4. 人物と室内 1918─29” の前半には、ニースに拠点を移してからの素描や小品が並んでいた。
半裸で立つ女性」(1923–24年)という木炭によるデッサンは、下半身に薄物の衣を着けた女性のフォルムも豊かな陰影もしっかりと捉えられていて、肌の柔らかさや筋肉の動きが生き生きと伝わり、油彩では感じ難い基本的技量の確かさと、匂い立つエロスを同時に感じさせていた。

赤いキュロットのオダリスク」(1921年秋)は所謂 “オダリスク・シリーズ” の第1作、上半身裸でベッドに横たわる女性が頭の後ろで手を組み、中近東風のゆったりとしたキュロットを穿いた足を大きく広げている。
裸体の表現は上記のデッサンのように見事な一方、顔の表情はあいまいだし背景は奥行き感のない装飾で飾られている。
マティスのオダリスクは、1920年からモデルになったアンリエット・ダリカレールがミューズとなって取り組まれたもので、その後一体何枚描いたのか見当もつかない。
もしかしたらその最初の作品で決定版を手に入れてしまったのかもしれないけれど、もう少しゆるくて無防備に脱力した感じで寛いでいる姿もあったような・・・

ニースの室内、シエスタ」(1922年1月ごろ)も同時期の作品だが、ここでの主役は人物ではなく室内だ。
天井の高い部屋の “底” の方にまどろんでいる女性がいる一方、窓の外には青い空と南国の木が見え、眩しい光と潮の香りを含んだ風が入ってきている。
ここに描かれているのは内と外が混じり合う “あわい” の空間と、ゆっくりと流れていく時間、そして幸福感を抱きしめたくなるほど退屈で気怠いひととき・・・

2023年07月01日

山下清-1 ”放浪の天才画家” の萌芽

(SOMPO美術館 〜9/10)
生誕100年 山下清展ー百年目の大回想“ は、放浪の天才画家 山下清(1922-1971)の生涯の歩みを、予想していた以上の充実度で概観する企画だった。

第1章 山下清の誕生―昆虫そして絵との出合い” の冒頭、“画家・山下清の誕生” というセクションには8歳から10歳くらいまでの鉛筆画があり、「花火」(1930-1932)には後年の代表作「長岡の花火」(1950)の雰囲気が感じられたし、「こいのぼり」からも見上げる町の人々を包む空気感が伝わるようだった。
この時点から天才だったとまで言えるかどうかはわからないし、今ならこの年齢の子供の絵としてどう評価されるのかも不明だが、しかしその後の作風に通じる味わい深さは既に現れているように思われた。
山下清と昆虫” では観察して画面に写すこと、そして貼絵の技法を身に着けたことが、次への大きなステップになったことがわかる。

第2章 学園生活と放浪への旅立ち” は、その後のキャリアへの転機となった事柄が紹介されていた。
学園での日々” は、発達障害などでイジメに遭い小学校に馴染めなかった清が、12歳頃に入園した養護施設「八幡学園」時代のこと、ここで1934年から放浪に出る40年までを過ごしたわけだが、この間に自由に才能を伸ばすことができたことは、この時期や境遇に合わせた教育の在り方などをも考えさせるようで興味深い。
上野の地下鉄」(1937)はどのような機会に乗ったのかわからないが、オレンジ色の車体も入り組んだ線路も、そして天井の低い空間の感じもよく捉えられていて、ホームにいる人々の雰囲気にもこの時代の地下鉄というものの感じがよく出ているように思われた。
ともだち」(1938)には少年の素朴な感情が表現されており、作者の個人的な肉声が聞こえるという意味で貴重な作品かと思うが、16歳の頃ということになるので幼い頃の思い出を振り返っているのだろうか。
創作の礎となった静物画” では背景が斜めの線で区切られて斬新な画面となっていた 「ゆり」(1938)が特に印象深かった。

2023年06月29日

能楽囃子講座〜流儀による囃子の違い

国立能楽堂特別講座の “第6回 能楽囃子講座〜流儀による囃子の違い” を聴いた。
(2021年6月12日(月) 午後2時〜 講師:高桑 いづみ 東京文化財研究所名誉研究員)

囃子は流儀によって違うのか、という程度の前提知識しかない者にとってはついて行き難く、冒頭に高桑先生から “今回はマニアックな内容です、聞いている分には違いはほとんど関係ありません” という話があったくらい、初心者としてはむしろ、“流儀による違い” 以前の段階で興味深いことがいくつかあった。

まず 「唱歌」(しょうが)、これは笛の旋律やリズムを歌にしたものらしく、実際に吹いて出てくる音は楽器により変わるのでその原型ということになると思うが、打楽器奏者もシテ方もこれを頭の中に響かせながら合わせているということだった。
客席で見ている限りは耳にすることのない “ヲヒャラーイホウホウヒー” という ”音楽“ が舞台を支配しているというのは驚きだったが、本来は他人に聞かせるものではないということなので、口伝えで継承されてきた舞台裏を見せてもらったような気がした。

構成としては8拍の句が 呂・中・干・干ノ中 の4行で 「」の一単位になり、これが組み合わされて 「」を構成して展開していき、例えば「中ノ舞」では初段で扇を開き、二段で左手に持ち替え、三段では右の逆手で持つといった形で舞台が進んでいく。
これは「序ノ舞」や「男舞」「神舞」でもほぼ同様だが、間に入って区切りとなる「オロシ」の部分が異なり、ここが特に流儀によって大きく違いが出るところのようだ。

さらにややこしいのは、流儀により基本の音型が異なるというだけでなく、地の長さ(行数)が違ったり、地の演奏順序が違ってくるということがあるそうで、シテも打楽器奏者もそこを頭に入れて演じなければならないということだった。
普段は舞台後方で控えめに座っているように見える笛方の流儀によって、演奏が伸縮することがあるという ”笛本位“ の仕組み自体が思いもよらないことだったが、もし1人でもこのあたりを取り違えたら、指揮者のいない舞台上は大混乱になるのではないか。

こうした違いが生じた理由としては、「猩々乱」などの演目では型を重ねることで目出度さが増すためにその中で変化がつけられていったり、あるいは名人が独自の型を始めたりといったことが考えられるということだったが、素人の部外者としては、なぜこのように一見不合理に見える仕組みが変わらずに続いているのかが気になってしまう。
笛方の流儀によって演奏パターンが変わらざるをえないとしても、演奏に際し笛方とその流儀を選ぶのはシテ方ないし小屋主といったところではないかと思うので、あまり妙なことをやっている笛方はやがて呼ばれなくなるという形で淘汰されたりはしないのだろうか。
そういえばそもそも、ある演目をやる際のメンバーを誰がどのように決めるのかがよくわからないのだが、逆に考えれば、笛方に(以前は五流あったが現在も)一噌流・森田流・藤田流が並び立っていることが、皆が流儀による違いを受け入れ続けていることの証左だということなのであろう。


能楽囃子講座〜どうやって合わせているのか

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2023年06月27日

マティス-2 戦禍の時代 1914─18

(東京都美術館 〜8/20)
1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909に続く “2. ラディカルな探求の時代 1914─18” は第一次世界大戦の時代に重なる。
窓の向こうを黒く塗りつぶして抽象画のような趣を見せる 「コリウールのフランス窓」(1914年9–10月)は、”暗黒に向かう窓“ とか ”闇に開かれた窓“ なんていうタイトルにしていれば、戦争の時代の作品としてもっとわかりやすくなっただろう。
無論マティスがそのように限定的なものを意図したとは限らないし、40歳代の半ばだった画家自身が従軍したわけではないけれど、心の中に大きな鬱屈がなければ描くことがなかった作品だとは言えるだろう。

開戦前の 「金魚鉢のある室内」(1914年春)はもう少し穏当だ。
3〜4階あたりの窓からセーヌを見下ろしている構図で、窓辺に置かれた金魚鉢がこちら側の室内とあちら側のパリの街の結節点になっている。
遠くに見える建物は夕暮れ近い西日に照らされる一方、室内は深海のように濃い青に沈み、光が微妙に交錯する入り組んだ空間に、孤独の影が忍び寄る。
その中で赤い金魚が華やぎを見せているようでありながら、儚さや危うさも感じざるを得ないような作品だった。

グレタ・プロゾールの肖像」(1916年末)はずっと会いたかった絵、初めてポンピドゥーを訪れた際に買った数少ない絵ハガキの中の1枚が ”彼女“ だった。(あとは確か「ルーマニアのブラウス」と「王の悲しみ」
濃い青が印象的な服を着て簡素な椅子に座っている姿はその時と変わらず、あらためて向き合ってみても、渋みのある色彩と憂いを湛えた無表情といった矛盾した言葉しか出てこないのだが、彼女が何を考えているのかと問うことはおよそナンセンスだろう。
手の先の方や足はどうなっているのか、茶色の背景は未完成なのか、といったことさえどうでもいい、絵は出来栄えや完成度、意味やテーマを超えたところに厳然と有るのだということに気付かされた作品だ。

2023年06月25日

ヨーロッパ 気まま旅-4 ベルギー(1)

アムステルダムの次の目的地はベルギーのブルージュ、東京駅によく似たレンガ造りの駅から列車に乗って南下し、途中 アントワープ(アントウェルペン)にまず立ち寄った。
「フランダースの犬」の終焉の地でルーベンスの大壁画のある ノートルダム大聖堂や、中世の面影を残す町並みとそこを走るトラムにも感心したけれど、これらはその後に訪れた街によってすぐに上書きされていく中で、博物館のような佇まいの 中央駅の壮麗さは今も鮮明に残っている。

ブルージュ(ブリュージュ、ブルッヘ)は、当時はまだローデンバックを読んでいなかったけれど ”中世の面影が残る街” として知っていて、そのイメージに基づいた歌もあったと記憶しているが、そこは想像していた以上に豊かで彫りが深く、美しいまま時間の中に取り残されたような街だった。
駅から歩いていき旧市街に入るとすぐに ”愛の湖” に遭遇、そしてクノップフが繰り返し描いた小さな橋を渡って ベギン会修道院の中庭に迷い込んだ時点で、完全に中世を旅する吟遊詩人の気分になっていた。
三角屋根の小さな建物に囲まれてやや斜めになった木々が立ち並ぶ様子は奇跡としか思えず、少しだけ開いていた扉を押して中に入るとちょうどミサの最中だったのか、控えめなオルガンの音と尼僧たちの美しい声が交錯していて、このまま永遠にこの響きの中にいたいと思ったりした。

外へ出ると既に夕暮れが近くなっていたのに、空を突く教会の尖塔や鐘楼、石畳の道や邸宅に施された彫刻も、灯り始めた街燈や店の灯りも、とにかく目に入るものすべてが美しく、この街を隅々まで歩き回っていたいと思った。
しかし泊まる宿は探さなければならない、でもライトアップされた塔の見える風景はますます魅力的になっていく、一体どうすればいいのかと思いながら夜の街を歩き続け、疲れて立ち寄ったチョコレート屋であたたかいココアを飲んでいると、店の主が近くにあるというSleep Innを教えてくれ、行ってみたら130ベルギーフラン(約1140円)というので即決してそこに泊まることにした。
もう明かりが消え寝静まった部屋の一番奥のベッドを指さされたので、そのまま転がり込んで眠ったのだが、翌朝起きて回りを見まわしてみたら、同じ部屋に泊まっていたのは高校生くらいの金髪の女の子たちだった。
これがどのくらい驚くべきことなのか、あるいはごく自然なことだったのかは今も見当がつかないが、彼女たちが特に騒ぎ出すわけでもなかったのが救いだった・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)旅の記録 

2023年06月23日

あこがれの祥啓-2 啓書記の幻影

(神奈川県立歴史博物館 6/18終了)
あこがれの祥啓―啓書記の幻影と実像―” 展は 祥啓の作品を集めた第2章が中心となるが、その前後にも広く目配りをしていた。

第1章:前史ー祥啓登場前夜” の主役は祥啓の師と考えられている 仲安真康、伝 仲安真康という「白衣観音・陶淵明愛菊・李白観瀑図」(旧ピータードラッカー山荘コレクション )は、波を背景に座る観音の後光が神秘的な存在であることを強調し、左右の詩人たちが此岸で寛いでいるのと対照的に、彼岸的な近寄り難さを感じさせていた。
”伝“ のつかない 仲安真康筆 「布袋図」( 神奈川県立歴史博物館)は誰か特定の人物をモデルにしたように癖のある笑顔が印象的、一方 「墨梅図」(栃木県立博物館)は雪に包まれて闇の中で発光するような梅の枝だった。

第2章:清玩ー祥啓画をあじわうに続く “第3章:追慕ー祥啓をしたう“ では祥啓後の画僧たちを紹介、興悦の 「白衣観音・寒山・拾得図」(平林寺)は、同じ図像の祥啓作品を見たことがあるわけではないものの、牧谿様の早い筆で描かれた三幅対には共通する統一感と精神性が感じらるような気がした。
一方、興牧の 「布袋図」(神奈川県立歴史博物館)は強い線の描き込みで怪異な人物像を現出させており、この2点には一見すると共通性はないようだが、祥啓も(もちろん雪舟やその他の画僧たちも)楷書風・草書風いずれにも取り組んでいるので、実際にどのような師弟関係があったかはよくわからないながらも、影響関係を否定することはできないだろう。
啓牧・啓孫の 「文殊菩薩・寒山・拾得図」(本法寺)は後から三幅対に仕立てたものらしいが、上述した興悦の流れを確かに汲んでいるようだった。
梅隠の 「鴛鴦図」(細見美術館)は少し趣向が異なるものの、鳥の生態や水辺の空気感がよく伝わってくる作品だった。

第4章:輪郭ー狩野派がみた啓書記” は狩野派が祥啓をブランド化した流れを紹介していたが注目したのは2点、祥啓印・伝祥啓の 「張良・秋山水図」(弘前市立博物館)にいる涼しげな眼をした人物と、祥啓印麻姑仙人図」(個人蔵99、展示は第3章)の怪しげな風体の仙女が、一度見たら忘れられないような存在感を示していた。
第5章:愛好ー近代数寄者が愛した啓書記” にも “伝” 作品や資料があり、“祥啓” と言う名前の大きさに思いを巡らせることになった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2023年06月21日

マティス-1 楽園の発見 1895─1909

(東京都美術館 〜8/20)
”20年ぶり、待望の大回顧展“ という “マティス展 Henri Matisse: The Path to Color” は、久しぶりに アンリ・マティス(1869-1954)の世界に浸れる機会ではあったが、コロナ後の日本で開催が可能な “大回顧展” がどのようなものかを知らされるものでもあった。

構成は順当に年代を追っていくもの、“1. フォーヴィスムに向かって 1895─1909” では入口の 「自画像」(1900年)の強烈な画面が挑戦的に観覧者を迎えていた。
ギュスターヴ・モローの下で遅いスタートを切った31歳の画家はこの時点ではまだ何者でもないが、荒々しい色彩の塊はある意味で最も ”フォーヴ“ の渾名に相応しいように思えた。

モローのアトリエで学んでいた時期の 「読書する女性」(1895年冬、カトー=カンブレジ・マティス美術館寄託)は国家買い上げ第1号となった古典的な作品、額絵や調度品の多い裕福そうな室内に女性が後ろ向きで座っているが、彼女の目と心は本の中の世界の方に完全に入り込んでいる。読んでいるのはボードレールがローデンバックか・・・

その横の 「ベル=イル」(1896年)はブルターニュでの作品とのこと、もっぱら南仏の印象が強いマティスに “北の辺境” への関心があったというのは意外だったが、ベルギー国境に近いノール県で生まれ、18歳でパリの法律学校に入るまではフランス北部で育ったのだから、むしろ自然なことだったかもしれない。

だからこそ サン・トロぺでの衝撃は大きかったということなのだろう、シニャックの色彩分割手法に刺激を受けて制作した 「豪奢、静寂、逸楽」(1904年秋−冬、オルセー美術館寄託)には南仏の眩しい光が横溢していた。
ただしスーラらが研究していた緻密な点描というわけではなく、それらしく描いてみたといった賑々しい画面は、マティスの作品としてもひとつの通過点に過ぎない。
しかしこの時代には避けて通ることができなかったであろうし、このアプローチに出会うことでマティス的な楽園の光を見つけたのだとしたら、無駄な回り道ではなかったことになる。

そして 「豪奢 I」(1907年夏)で、その後の大きな軌道修正が実感される。
率直に言ってしまえば何をしているところなのか、どこがいいのか見当がつきかねる作品で、もしここで終わっていれば何やら奇妙な絵と言うだけのことだったかもしれないが、色彩分割のサークルから脱したことでマティスの世界が開けたという意味で重要だ。
もっとも、バーンズ財団が所有する「生きる喜び」はこの前年に完成し発表されていたので、マティス自身はもっと早くに自分の道を見定めていた・・・


<マティス関連企画展>
ルオーとマティス (2008、汐留ミュージアム) 
マティスとボナール (2008、川村記念美術館) 
マティスの時代 (2009、ブリヂストン美術館) 
マティスとルオー (2017、汐留ミュージアム) 

2023年06月19日

ナチュラルホルンによるベートーヴェン

ベートーヴェンとホルン” と題された日本ベートーヴェンクライス特別例会(第2回よこはま例会)第2部のコンサートを聞いた。
(2023年6月13日(火)19時〜 横浜みなとみらい 小ホール)

ベートーヴェン:六重奏曲 変ホ長調 Op.81b(ピアノ伴奏版)〜第騎攵
ベートーヴェン:ホルン・ソナタ へ長調 Op.17〜第騎攵
N.クルフト:ホルン・ソナタ ホ長調〜第騎攵
A.レイシャ(ライヒャ):24のホルン三重奏曲Op.82〜第13,23,24番
―休憩―
ベートーヴェン:ホルン・ソナタ へ長調 Op.17〜第,軍攵
F.リース:ホルン・ソナタ へ長調 Op.34〜第,軍攵
ベートーヴェン:六重奏曲 変ホ長調 Op.81b(ピアノ伴奏版)〜第,軍攵

 ナチュラルホルンアンサンブル東京
 (伴野涼介/大野雄太/藤田麻理絵/下田太郎/大森啓史/塚田 聡)
 小倉貴久子(ブロードウッド製フォルテピアノ)
 企画・構成:塚田 聡

もともとは 小倉貴久子さんのフォルテピアノ演奏会の一環として購入したチケットだったのだが、図らずも 日本ベートーヴェンクライスという会があることを知り、ベートーヴェンや同時代作曲家の秘曲を ナチュラルホルンのソロ(ないしデュオ、トリオ)で聞くことのできる貴重な機会となった。
最初に代表理事の 平野昭氏が登壇し、午後の第1部【レクチャー】に続いてのコンサートで、12年の活動の中で初の試みだといったことを話された。

今回初めて聞いた ベートーヴェン2本のホルンと弦楽四重奏のための六重奏曲 変ホ長調 は、後の出版時に Op.81b という作品番号を付けられているが、1795年頃の作と考えられているので20代半ばでボンからウィーンに出てきたばかり、Op.1 のピアノ三重奏曲や Op.2 のピアノ・ソナタを出版していた時期のものだ。
当時作品番号を付けなかったのは、2人のホルン吹きを目立たせるための娯楽音楽で、本格派を目指してデビューしたばかりの野心家の正式なリストに加えるべきものではないと考えたからかと思われるが、生で聞けば合奏の楽しさが伝わってくる、それでいてベートーヴェンらしさも確かに感じられる作品だった。

ホルン・ソナタ へ長調 Op.17 は正規の番号を与えられた1800年の作品、前後には Op.14 悲愴ソナタ、Op.15 ピアノ協奏曲第1番、Op.18 弦楽四重奏曲第1~6番、Op.21 交響曲第1番と意欲的な作品が並ぶ上げ潮の時期で、ボヘミアからやってきたホルンの名手と合わせるために書いただけのことはあり、ホルンとピアノが四つに組んで白熱する音楽だった。
第騎攵呂禄藉にしては規模が大きく、短い第恭攵呂ら第軍攵呂砲けては曲の良さに加えて企画した塚田聡氏のキャリアということもあったのか、充実した響きで説得力のある演奏が聞かれた。

ベートーヴェンの2曲を前・後半に分けて間に挟まれる形となっていたのは、3人とも初めて聞く名前の作曲家だった。
N.クルフトは貴族のアマチュア音楽家でベートーヴェンの同時代人、そのホルン・ソナタ ホ長調〜第騎攵 からはモーツァルトを思わせる明朗さが聞こえてきた。
A.レイシャ(ライヒャ)はベートーヴェンと同年でボン時代に友人だったというチェコ人、24のホルン三重奏曲 Op.82 はホルン3本のみの演奏なので、主導権が3人の間で行き来する面白さがあった。
F.リースはベートーヴェンの弟子で秘書や写譜をしていた人物、ホルン・ソナタ へ長調 Op.34 はピアノ部分が特に力を入れて書かれていることのあおりを喰ったのか、その上に乗るホルンもかなり無理を要求されているようだった。

それにしても、バルブがなく1本の管を丸く巻いただけの ナチュラルホルンでなぜこれほどの音が出てくるのだろうか。
口と右手の微調整だけで可能にしているということなのだが、当時は交響曲などもその機能的限界を考えて作られていたと聞いていただけに、細かい音符の音が目まぐるしく出て来る超絶技巧の演奏に唖然とさせられた。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2023年06月17日

ベルギーと日本-3 留学生の収穫

(目黒区美術館 〜6/18、岡山・新潟に巡回)
ベルギーと日本 光をえがき、命をかたどる” という展覧会について、前2回でベルギー人の絵画と日本人の彫刻作品についてふれてきたが、本企画の中心は日本からベルギーに留学した日本人芸術家を通して見たベルギーと日本の美術ということだろう。

その視点での主役は3人、1人目は前回ふれた彫刻家の 武石弘三郎で、ムーニエを日本に紹介したという功績はあるが、1901年という比較的早い時期に兄の友人である外交官との繋がりでベルギーを目指したということなので、留学生としてはやや異質な存在であろう。

2人目は留学中の作品を収集方針に掲げる目黒区美術館が多く所蔵する 太田喜二郎、彼は留学先選定にあたり恩師の黒田清輝から、おとなしい性格だからフランスよりベルギーがいいだろう、と言われて1908年から13年までゲント(ヘント、ガン)の王立美術学校でクラウスの指導を受けたという。
その作品は “第1章 光をえがく:ベルギーの印象派絵画と日本” で多く紹介され、「雪の朝」(1910-1911、目黒区美術館)は大聖堂のドームや街並み、街路樹や道に積もった雪が朝日を受けて光る爽やかな作品だった。
太田は印象派風の作品も多く残しているが、その中では木漏れ日の中で少年たちが集っている 「樹陰」(1911、京都市美術館)の自然さがよかった。

3人目の 児島虎次郎は、1908年に当時の主流だったパリに留学するが、華やかな “花の都” や師事したコナンに馴染めず郊外の村に移った後、ベルギーにいた太田を頼り1年後の1909年にゲント王立美術学校でクラウスに師事することとなった。
太田同様に印象派の技法を学び多くの作品を残したが、本来はアカデミックな作風を学ぼうと思っていたのか、印象派に対する共感は大きなものではなかったのかもしれない。
今回の展示作品を見る限りは装飾的な傾向が強く見られる一方で、本当の “光” をつかみ取ることに成功しているとは言い難く、むしろそうした課題を背負わない最初期の 「川辺の風景」(1909、高梁市成羽美術館)の方に、描く喜びのようなものを感じた。
ブリュージュ舟宿」(1920、高梁市成羽美術館)は帰国後の作品だが、窓を通した限られた空間にブリュージュらしい町並みを魅力的に見せていた。


以下概観しておくと、“第2章 命をかたどる:ベルギーの彫刻と日本” は前回ふれたとおり、 “第3章 伝える・もたらす:ベルギー美術の紹介” では、1 児島虎次郎によるベルギー美術の紹介2 ベルギーと日本の友好の証:戦災と震災のチャリティー展 といった章立てで、第一次世界大戦の戦禍のベルギーを救う「恤兵美術展覧会」「欧州大家絵画展覧会」といったイベントや、ベルギー大使ド・バッソンピエールによる関東大震災後の活動などが紹介されていた。

さらに、3 フェリシアン・ロップス:官能と諧謔4 瀧口修造とルネ・マグリット と面白そうなコーナーが続いていたのだが、目黒区美術館に関する限りは展示作品数が少なく(特にロップス)、それぞれの世界に浸るというにはやや物足りなかった。
それでも近代ベルギー美術と日本との関係を多角的に紹介しようとする意欲的な企画だったと思うけれど、この文脈ではアンソールやクノップフが出てこないのもやむを得ないことだったか・・・

2023年06月15日

あこがれの祥啓-1 啓書記の実像

(神奈川県立歴史博物館 〜6/18)
雪舟と同時代に建長寺を拠点に活躍し、“啓書記” という通称でも知られた画僧 祥啓を軸にした “あこがれの祥啓―啓書記の幻影と実像―” 展の閉幕間近に横浜まで足を運んだ。
取り急ぎその中心となる “第2章:清玩ー祥啓画をあじわう” から。

京に3年間滞在し 芸阿弥を通じて中国絵画を学んだ成果が表れているという 「花鳥図」(神奈川県立歴史博物館)は、硬くごつごつした枝と柔らかく瑞々しい葉が絶妙に描き分けられていて、彼の地での研鑽ぶりがよくわかる作品だ。

達磨図」(南禅寺)は迫力の大画面、多種多様な筆遣いが傑出した人格をくっきりと立ち上がらせ、硬く結んだ口と鋭い眼光が不退転の意志の強さを表していた。
一方 「渡唐天神像」(正木美術館)は、少し前かがみで梅の枝を捧げ持つ姿が穏やかで心安らぐ作品だ。
各作品の制作年はわからなかったが、これらが関西に所蔵されていることから鎌倉に戻る以前のものということになるのだろうか。

文殊菩薩像」(栃木県立博物館)は、はっきりした目や黒く長い髪と流麗な衣の線が劇画のようなキャラを際立たせ、「鍾馗抜鬼眼睛図」(兵庫県立美術館・頴川コレクション)は鬼と格闘する鍾馗の線がこれしかないと思えるほど的確で強い。
この辺りまででも既に多彩な作風が見られるが、「喜江禅師像」(建長寺)は自然木の椅子の奇抜さから一歩その中に入ってみると、衣のあたりの完成度は高く穏和な表情には滋味が溢れていた。
前期に登場していた残り半分も見られればさぞ壮観だったと思うが、そこはまあ仕方がない。

ところで、祥啓作品が並んでいた展示室の最奥部に、長い間 ”祥啓筆” と伝えられていたという建長寺蔵の 「三十二観音図」(重文)が4幅出ていた。
これは先日 鎌倉国宝館で見た1幅の同僚たちなのであろう、率直なところその時ほどの冴えが感じられなかったのは、照明が暗くガラスから作品まで距離があり、映り込みもあってよく見えなかったのと、4幅ともが岩窟か岩座に姿勢を崩して座る姿だったということもあるかもしれないし、そもそもの出来栄えに差があったのかもしれない。

この32幅は箱書きに “啓書記” とあったことから ”祥啓筆” とされていたというのだが、書き振りを見れば既に否定されているようだし、鎌倉での展示においても “祥啓筆” を窺わせる記述はなかったと思う。
その意味では帰属について決着がついているのかもしれないし、“啓書記”というのは固有名詞というよりは職名に近い使われ方をしていたようにも思われる。
しかし想像を巡らせてみれば、祥啓その人が「三十二観音図」全体を統括して弟子たちに制作を分担させ、そのうちの何幅かは自らも筆を執った、といったことも考えられないことはないように思うのだが、それは全てを良い状態で見てみなければわからない・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2023年06月13日

ボブ・ディラン-6 ノーベル文学賞の後

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞、というニュースが飛び込んできた2016年から、もう7年半ほど経つことになる。
2020年リリースの最新アルバム Rough and Rowdy Ways(ラフ&ロウディ・ウェイズ)にはその後の心境が見えるような気がした一方、収録曲をメインに据えた来日コンサートで何か言及されるということはなかったので、この先ノーベル文学賞が再び大きな話題として取り上げられることもおそらくないだろう。

そこであらためて受賞後の経過を振り返ってみると、ボブ・ディランの公式な発言は2つあり、ひとつは2016年12月の授賞式を欠席したために代読されたスピーチ、そしてもうひとつはその半年後に動画投稿された受賞者記念講演だ。
前回記事を書きながらやや頭の中が錯綜していたようなので、受賞後の流れを追いながらここで整理しておきたい。

2016.10.13 ノーベル文学賞受賞発表、しかし本人には連絡取れず
2016.10.28 ディランがスウェーデン・アカデミーに受賞の意向を伝える
「言葉を失っていた、自分が受賞するなど夢にも思わなかった、とてもありがたく思う」とコメント、しかしこの時点で授賞式出席は未定
2016.11.16 授賞式へは出席しないことが明らかになる
スウェーデン・アカデミーへの手紙には「既に別件が入っているため、12月のストックホルムでの授賞式へ出席することはできない。受賞はとても光栄なことで、直接受け取りたかった」と記載されていたとのこと

2016.12.10 授賞式欠席(先約がある)、「歌が文学か疑ったことはない」のメッセージ
ノーベル文学賞受賞スピーチ(2016.12.10授賞式当日に代読)
『本日は出席できず残念だが、この栄誉ある賞を受賞できることを光栄に思う。
受賞の知らせを受けて暫くの間、私は状況がよく理解できなかった。
シェイクスピアの言葉は舞台上で語られるもので、「自分は文学作品を書いている」という意識はなかっただろう。
私も「自分の楽曲は文学なのか?」と自問したことはなかったので、この問いに時間をかけて取り組み最終的に素晴らしい結論を導き出してくれたスウェーデン・アカデミーに心から感謝する。』
2017.4.1 ストックホルム訪問時に受賞

2017.6.5 業績にまつわる講演(受賞者が半年以内に行う義務がある)に代わるメッセージの動画を投稿「私の詩は歌われるべきもの」
ノーベル文学賞受賞記念講演(2017.6.5動画投稿)
『ノーベル文学賞の受賞に際し、私の歌が文学とどう関係するのかを考えてみた。
バディ・ホリーとの出会いに始まり、初期のフォークの表現を学んでいく中で、本を通して養った価値観を歌詞を書く際の糧にした。
特に私の心に残る3冊の本は、メルヴィルの『白鯨』、ルマルクの『西部戦線異常なし』、ホメロスの『オデュッセイア』だ。
我々の歌は生きている、文学とは違う。
シェイクスピア劇の言葉の数々は舞台で演じられるためのものであるのと同様に、歌の詞は歌われるためのものであり、読むものではない。
皆さんもこれらの詞を、コンサートやレコードなどで聴く機会があることを願っている。
最後に再びホメロスの言葉で締め括りたいと思う。
「詩神よ、私の中で歌い、私を通して物語を伝えてくれ」』

2018.8.29 フジロックに登場(受賞後初来日)
2020.3.27  Murder Most Foul(最も卑劣な殺人)ネット公開
2020.4.17  I Contain Multitudes(アイ・コンテイン・マルチチュード)ネット公開
2020.6.19  アルバム Rough and Rowdy Ways(ラフ&ロウディ・ウェイズ)リリース

2021.11.2  ROUGH AND ROWDY WAYS" WORLD WIDE TOUR 2021-2024 がスタート 
 Leg.1 北米:2021.11.2 ミルウォーキーから 12.2 ワシントンまで31日間で21公演
 Leg.2 北米:2022.3.3 フェニックスから 4.14 オクラホマシティまで43日間で28公演
 Leg.3 北米:2022.5.28 スポケーンから 7.6 デンバーまで40日間で25公演
 Leg.4 欧州:2022.9.25 オスロから 11.7 ダブリンまで44日間で29公演
 Leg.5 日本:2023.4.6 大阪から 4.20 名古屋まで15日間で11公演
 Leg.6 欧州:2023.6.2 ポルトから(進行中、今日はグラナダ)

発表されている日程を見ると、Leg.5 の日本までで正味173日のツアー期間中に114公演が行われている。
もちろんこの前後に移動の期間があるわけだが、3日続けて異なる都市でのステージを勤めるという強行軍もある。
一都市としては東京の5日間が最長、4日間もロンドンのみ、3日間になると大阪、名古屋の他にNY、ロス、オークランド、ベルリン、パリがあるが、あとは1日か2日で回っていくのだから大変なタフネスぶりだ。

これほどの強行軍によるツアーは、現在のポジションや年齢を考えれば誰かに言われてということは考えられず、ボブ・ディランという人がとにかくステージで観客を前に歌うことが好きなのだと理解するほかはない。
と同時にこれは、受賞記念講演で述べた ”歌の詞は歌われるためのものであり、読むものではない・・・ 皆さんもこれらの詞を、コンサートやレコードなどで聴く機会があることを願っている” という言葉を実践し続けているということなのだろう。


>ボブ・ディラン 東京公演(2023.4.11) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2023年06月11日

仏画入門 ーはじめまして! 仏教絵画鑑賞

(鎌倉国宝館 〜7/2)
特別展 「仏画入門 ーはじめまして! 仏教絵画鑑賞」は、重要文化財の仏画が比較的多く集められているように思えたので出かけてみたが、“仏画入門” という切り口も意外に新鮮であらためて気づかされる点も多かった。

辛うじて残る青い色が神秘的な雰囲気を醸し出している冒頭の 「釈迦三尊像」(重文、中国・南宋時代、建長寺)は、蘭渓道隆が来日時に携えてきたとされる仏画で、ここに見える釈迦の姿や衣紋、荘厳する飾りなどが日本における仏像や仏画の手本になったと考えられている。
一般に、“仏像” は本堂の中心に常駐して礼拝の対象になることが多いのに対し、“仏画” はこうした「本尊画(礼拝画)」の他に、儀式を行う際に堂を特別な空間にするための「荘厳画」や、仏伝や祖師伝、仏教的世界観などを分かりやすく視覚化する「教化図」といったものがあるが、加えてここでは情報を伝達する媒体としての機能が大きかったと言えるだろう。
現在はインドでも中国でも同様のものを見ることが難しい中で、南宋=鎌倉時代にこのようなイメージが明確な形で日本に伝えられて大きく花開いたことの意義は、もっと強調されてもいいように思った。

続いて「苦行釈迦図」「出山釈迦図」などが並んでいたが、これらも仏像彫刻ではなかなか表現しにくいものだ。
とりわけ 「仏涅槃図」(鎌倉時代、宝戒寺)や 「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(鎌倉時代、光明寺)といった登場人物(+動物)の多い場面は、仏画でしか表現しようがない独擅場と言える。

展示は 顕教、密教、禅宗、浄土教、垂迹 と分かれていて、それぞれの特質がよくわかる構成になっていた。
禅宗の 「観音菩薩像」(重文、室町時代、建長寺)は水墨画による緻密な表現で、白衣観音が龍に乗り海を渡ってやってくる姿が見事に表現されている。本作は32幅から成るということだが、全体はどのような構成になっているのだろうか。
浄土教関係では 「浄土五祖絵伝」(重文、鎌倉時代、光明寺)、阿弥陀如来から発する散華を何とか手に入れようとする人々の姿が生き生きと描かれていた。

五百羅漢図」(重文、中国・元時代、円覚寺)は10人の羅漢たちが仏画を掛けて拝もうとする場面だろうか、これも50幅構成だったと思われるが、それぞれの場面が修行僧たちの手本となり、また特別な行事の際に掛けられて周囲を埋め尽くしたということなので、「教化図」であり「荘厳画」でもあったということになるようだ。


平常展示では、久しぶりに本来の立ち位置に戻っていた辻薬師堂の 戌神将に再会できた。
こうして見るとやはり、一具ではないとまで言うつもりはないが、同僚たちと比べて傑出しているだけでなく、何か別次元の役割を担わされているように感じられた。

>辻の薬師堂十二神将関連記事 11121314

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 | 日本絵画

2023年06月09日

ベルギーと日本-2 ムーニエの衝撃

(目黒区美術館 〜6/18)
ベルギーと日本 光をえがき、命をかたどる” 展の “第2章 命をかたどる:ベルギーの彫刻と日本” では、“2 コンスタンタン・ムーニエの衝撃” という章タイトルで明らかなように、労働者の実態に触れた後に絵画から彫刻へ再転向した コンスタンタン・ムーニエ(1831-1905)を紹介するとともに、その影響を受けた日本人彫刻家たちの作品が集められていた。
ムーニエ自身による作品は少なかったが、2点出ていた 「坑夫」という浮彫作品は平櫛田中、太田喜二郎がそれぞれ所有していたもの、また武者小路実篤の紹介記事があるなど、明治の末から大正の時代にちょっとしたブームになっていたようだ。

荻原守衛の 「坑夫」も作品リストにはあるのに展示はなかったが、確かに上述の「坑夫」に近いところがあるようであり、ロダンを師と仰いでいた碌山とムーニエとの間にはどのような影響関係があったのかが気になった。
当時ムーニエはロダンと比肩する彫刻家と評価されていたようで、それは労働者の実態を厳しいリアリズムで表現する作風が時代と共鳴したからでもあるのだろうが、そのことが逆に作品に必要以上の色を付けることになったという面はあったかもしれない。
ともあれこうしたムーニエの制作姿勢は、社会運動への意識が高まっていた時代背景もあって日本にもしっかりと根付いたようだ。

藤井浩祐の 「トロを待つ坑婦」(1914、東京国立近代美術館)は坑内の辛い仕事から解放されたところなのだろう、トロッコを待ちながら腰に手を当てて体を伸ばし、上の方を見上げているところだ。
彼女の上半身は裸のままだが実際にそのような現場だったのか、生気に溢れた顔はそんなことに全く構っていないといった感じで、一人の人間としての逞しさや気高さが伝わってくるようだった。

吉田三郎の 「老坑夫」(1919、東京国立近代美術館)は筋肉の落ちかけた年配の男の像で、道具を持ったまま体の緊張を緩めている態勢ながらも、実に思慮深い表情をしている。
それはこの後の仕事の段取りを考えているのか、あるいは労働の意味とか生きる意味といったことを考えているのか、ちょっと近寄り難いほどの威厳を感じさせる作品だった。

なおこの章の始まりは “1 武石弘三郎のベルギー留学”、それは 武石弘三郎がムーニエを日本に紹介したからということなのだが、展示されている作品を見る限り武石本人はそれほど強い影響を受けたという訳ではなさそうだ。
むしろ最も目を引いた 「」(1928、神奈川県立近代美術館寄託)という大理石の半浮彫り作品は、日本人女性をモデルにしたごく自然体の全身ヌード像だった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)西洋彫刻 

2023年06月07日

憧憬の地 ブルターニュ-4 日本人画家たち

(国立西洋美術館 〜6/11)
憧憬の地 ブルターニュ” 展は、日本国内にこれほどブルターニュ関連作品があったということだけでなく、“検テ本発、パリ経由、ブルターニュ行 日本出身画家たちのまなざし” という最後の章では、ブルターニュの地に足を運んで制作した日本人がこんなにいたことにも驚かされた。
19世紀末から20世紀のはじめ=日本における明治後期から大正期に留学した画学生たちは、限られた留学期間なので普通に考えればまずはパリで出来るだけ勉強し、合い間に出かけるならブルゴーニュ地方かリヨン、さらに足を延ばせる場合は南仏といったところかと思うのだが、 “花の都” に疲れた精神には “異邦のなかの異郷” が相応しいということもあったのだろうか。

久米桂一郎の 「晩秋」(1892、久米美術館)は、コアフではなく赤い頭巾を被っているのでどこで取材したものかわからないが、フランスの辺境の生活感を若干の憧憬を交えて伝えていた。
斎藤豊作の 「夕映の流」(1913、東京国立近代美術館)は竹橋で何度も目にしていたのに、ブルターニュでの作品とは知らず日本の田舎を西洋風に描いたのかと思っていた。同じ横長の画面の 「初冬の朝」(1914、埼玉県立近代美術館)も日本に通じる空気感だった。

藤田嗣治の 「十字架の見える風景」(1920、岐阜県美術館)は、道の先に十字架が立っていてその向こうは空とたぶん海が広がっているのだろう、海辺ならあり得ない光景ではないのかもしれないが、キリスト教へと気持ちが向かっていることが象徴的に表現されているように思われた。
岡鹿之助の「観測所(信号台)」(1926、茨城県近代美術館)もブルターニュのものとは思っていなかったが、彼の地を訪れてその荒々しい自然や独特の習俗ではなく、目新しい人工物に着目したところはこの画家らしいと言うべきか・・・

ブルターニュで何を得たか、というのはもちろんそれぞれの画家によって違うはずで、日本からの留学生であればなおさらのことだろう。
貴重な体験として持ち帰った人ももちろんいるだろうが、ブルターニュの側から見て彼らは良き伝道者であったのかどうか、その意味でこの最後の部屋は、ブルターニュの自然や文化に思いを馳せようとする者にとってはやや悩ましいところもあった。
今回の “憧憬の地 ブルターニュ” 展は、あくまでもコロナ禍が続いていた中での緊急避難的な企画だったと思いたいところだが、本当のところがどうだったのかはよく分からない・・・


>憧憬の地 ブルターニュ (国立西洋美術館) 
>ブルターニュの光と風 (SOMPO美術館) 

2023年06月05日

石見神楽 ー躍動する神話の世界

津和野町石見神楽神星会による伝統芸能 石見神楽(いわみかぐら)の公演を見た。
(2023年6月4日(日)14時〜  文京シビックホール)
日本遺産に認定され、原型の大元神楽が重要無形民俗文化財にも指定されている石見神楽は、華やかな衣装や大蛇が太鼓のリズムとともに躍動する、勇壮で陶酔的な民俗芸能だった。

前半の 「塵輪」(じんりん)は仲哀天皇の塵輪征伐を題材としたもので、はじめに天皇ともう一人が儀式的に舞っていると鬼が登場し、2対2の立ち回りがしばらく続く。
鬼棒というのか上下に房の付いた棒を振り回す鬼に対し、はじめは刀で応戦していた天皇方が遂に弓矢で仕留めると、面を脱いで “喜びの舞” となった。
ここで一段とギアが上がったように躍動すると、最後は平伏して終わったが、このあたりには奉納を目的とした神事としての性格が生きているように思われた。

後半の 「大蛇」(おろち)は、須佐之男命(スサノオ、スサノヲ)による八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治を題材とし、提灯様の大蛇が登場することで有名な演目だ。
この大蛇は17mの長さがあり1人で操演するとのこと、それが8体登場し本来は火を吐いたりといった演出(この日はホール内のため照明で代用)もあるそうだ。
まず姫と2頭の大蛇が出てきて姫が喰われてしまうところを見せると、スサノオがやってきて老夫婦と娘の話を聞き、大蛇退治を決意して酒の壺を用意させる。
そこへ8頭の大蛇が登場、長い胴を巻いたり伸ばしたり、仲間と絡んだりしながら組体操のようなフォーメーションを次々に見せていく。
大蛇パフォーマンスが終わったところにスサノオが現れて戦いとなるが、はじめの4頭は比較的あっさりと退治され頭を切り落とされてしまう。
しかし残る4頭は共働してスサノオを絡めとろうとするなど激しく反撃、特に最後に残った2頭は時間をかけて勝負を挑んでおり、力尽きて倒れるところまで見事な動きだった。

囃子は4人、小太鼓手拍子(小型のシンバルのような楽器を使う)が基本のリズムを刻み、上でが旋律を奏でているのだが、その全体をリードするのが大太鼓だった。
この打ち手は音楽の入りや強弱の起伏、局面の転換などに絶対的な権限を持っているようで、小気味よいリズムを絶えず繰り出しながら全体をコントロールし、視覚的にも舞台上で圧倒的な存在感を示していた。

文京区の施設でなぜこのような演目が企画されたのかはよくわからないが、会長による各演目前の解説が大変分かりやすく、初心者も特徴や見どころを把握した上で楽しむことができた。
またホールでは大蛇や装束の展示や物販が行われており、休憩中には演者が出てきて記念撮影に応じるなど、“石見の国” を思いのほか身近に感じられたひとときだった。


柏崎 綾子舞
>アイヌ古式舞踊 
>スサノヲの到来 (2015、松涛美術館) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2023年06月03日

ベルギーと日本-1 ベルギーの薄明

(目黒区美術館 〜6/18)
ベルギーと日本 光をえがき、命をかたどる” という展覧会は、ベルギーに留学した太田喜二郎らが日本美術にもたらした影響を探ることが主眼の企画かと思われたが、まず目が行ったのはベルギーの画家たちだった。

ロドルフ・ウィッツマンの 「水汲み婦、ブラバンの夕暮れ」(19世紀、東京国立博物館)は、アンリ・ル・シダネルの絵を思い出させる薄明りの中、天秤棒に二つの水桶を下げた女性が広い道を歩いていく。
靄のかかった空に浮かぶのは力を失った夕陽なのか早く出てきた月なのか、夢幻的な光の中で寡黙に仕事に耐える姿がさまざまな思いを呼び起こす作品だ。
ロドルフ・ウィッツマン(1860-1927)は、黒田清輝や久米桂一郎が中心となって結成された “白馬会” がアンソールやクノップフらとともに紹介した画家、田園地帯の並木の向こうに農家が見える 「風景」(東京藝術大学)や、水の面に映った瀟洒な家が風に揺れて形を変えている 「水に映ずる家」(石橋財団)などは、どこにもありそうな風景でさして天才的な作品というわけでもないが、その前でゆっくりと時間を過ごしたいと思う絵だった。

エミール・クラウスの 「レイエ川の水飲み場」(1897、姫路市立美術館)は、牛たちが憩う水場を囲んでいる土手で絵の上辺が切り取られていて空は見えない。
しかしその代わりに、堤防に並んで植えられている木々と傾いた陽が緑がかった水面に映り込んでいて、その大胆な構図と幻想的な色彩が日常的な場を特別のものにしていた。

レオン・フレデリックの 「」(1920、大原美術館)は、若葉の季節らしい濃淡のまちまちな緑の木々が窓の向こうに見える一方、室内には鉢に植えられた紫陽花が細い茎の先で揺れている。
我々の季節感で言えば5月の新緑と6月の紫陽花が部屋の内外で対照されているようにも見えるのだが、今年は紫陽花もずいぶん早く咲き始めたし、緯度の高いベルギーではまた別の受け止め方があるのかもしれない。
ともあれ、単なる写生・静物画を超えた静けさの感じられる作品だった。

ジュール・ヴァン・ド・レーヌの 「鏡の前」(1952、石橋財団)は、薄暗い室内に裸の女性が背中を見せて立っており、右のランプに照らされた裸身の前面が鏡の中に見えている。
ムーニエやモンタルドに師事したジュール・ヴァン・ド・レーヌ(1887-1962)は、伝統的なフランドル絵画とりわけフェルメールに傾倒していたというが、本作の重層的な空間には確かにそのような傾向が窺えた。


>エミール・クラウスとベルギーの印象派 (2013、東京ステーションギャラリー) 
>ベルギー近代絵画のあゆみ (2009、損保ジャパン) 
>ゲント美術館展 (2005、世田谷美術館) 

2023年06月01日

能 「夢浮橋」-3 寂聴新作能の新機軸

瀬戸内寂聴さんによる新作能 「夢浮橋」(片山九郎右衛門、味方玄、観世喜正ほか、4月27日13:00〜 国立能楽堂)には、従来の能と異なるところがいくつかあったので、ここまでにふれてきたことも含めて、あらためてまとめておきたい。

まずは寂聴さんが、源氏物語を題材として選びながらも、普通の読み手には思いもつかないような物語を作ったことだ。
そこでは本筋の中では端役に過ぎない 横川の僧都の弟子=阿闍梨を主人公にして、禁欲の僧が陥ったエロスの世界をメインテーマとしつつ、浮舟の煩悶と悲劇についてもバックライトを当てるように鮮やかに浮かび上がらせた。
しかし破戒僧となっていく経緯の扱いは、本曲の元となった小説 「」よりはかなり抑制的になっており、阿闍梨が瀕死の浮舟を抱き上げる際に頬や髪に触れたり、一糸まとわぬ裸体を目の当たりにした時の衝撃や、護摩行の炎の中に不動明王ではなく彼女の裸身が見えたといった妄想は直截的に描かず、切った髪を自らの懐に入れたという一点にフォーカスすることで、能としての格調が保たれたといえると思う。

形式面では、シテとワキ、前場と後場という基本構造によらず、ワキのように現れた阿闍梨が実質的なシテとして後半を支配する一方、途中に浮舟と匂宮が阿闍梨の幻想として登場することで夢幻能的な趣を漂わせていた。
この部分は、詞章を読んだだけでは唐突感がないわけでもないのだが、実際に舞台で目にしたのは王朝絵巻の雅さと、その中で懊悩する浮舟の切実な姿であり、もう一度見てみたいと思う印象的な場面でもあった。
このあたりはもしかしたら寂聴さんだけではなく、演出の梅若六郎(桜雪)・山本東次郎両師の貢献も大きかったのではないか思うが、原作から舞台化までの実際の流れはどのように進められたのだろうか。

さらに驚いたのは声明と念仏が聞こえてきたこと、特に自死を覚悟し出家したいと願う浮舟の髪を切る場面で流れる声明は、寂聴さんご自身が剃髪された時に実際に起こったことを踏まえているという。
しかもそこから、紫式部も同じように出家しその後に宇治十帖を書いたのではないかと推測するあたりは、実体験を持った人ならではのものであろう。
そして最後に救いを得た上で繰り返される「南無阿弥陀仏」の念仏は、笛一本のみが残る終わり方とともに、往生した先の世界を実感させてくれるような余韻を残した。


>源氏物語と能
能 「夢浮橋」 片山九郎右衛門・味方玄  
能 「野宮」 喜多流 香川靖嗣  
能 「夕顔」 観世流 梅若万三郎  
能 「浮舟」 喜多流 長島茂  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2023年05月29日

静嘉堂文庫美術館 饒舌館長ベスト展

(静嘉堂文庫美術館(世田谷) 5/28終了)
丸の内に移転する前の 静嘉堂文庫美術館(世田谷区岡本)で5月20日から28日まで8日間限定で開催された「河野館長傘寿の祝―饒舌館長ベスト展」の最終日に出かけた。
河野元昭館長が7月20日に80歳(傘寿)を迎えられることをお祝いした企画で、”館長が大好きな名品や気になる作品” が2年前に閉館した山上の展示室で見られるとあって、麓から美術館までの山道は今までに見たことのない混雑ぶりだった。
それはこの日の14時に “饒舌館長大いに語るギャラリートーク” が予定されていたからでもあったのだろうが、着いてみたら生憎ご本人の体調不良のため中止ということだった。
これは何よりも館長ご自身が一番残念だったと思うけれど、こちらとしても選定の理由などを伺ってみたいと思っていたので、”大いに語る” お積りだった内容などがWebにアップされることを期待したいがどうなのだろうか。

さて、今回は近世絵画に絞られていたので、国宝は 俵屋宗達源氏物語関屋澪標図屏風のみだったが、いつものことながら情報量の多さとそれを一画面にまとめる手際の良さに敬服せざるを得ない。
円山応拳江口君図も相変わらずの品格で、申し訳ないが隣の楊貴妃を完全に凌駕していた。

与謝蕪村の 「柳下渡渓図」(1780)はこれまでに見たことがあっただろうか。
芽吹いたばかりの柳の木の下の渓流を馬に乗った男が渡っていく、だから「柳下渡渓図」には違いないが、少し上流には桃の花が見事に咲き、その花びらが流れてきてちょうど川を行く馬の脚のあたりにも纏わりついているので、”桃源郷図”のような趣も感じられた。
桃の木の辺りにはうっすらと霞が流れ、遠方には岩の塊のような山が望まれるなど空間の懐も深く、山岳風景と田園風景が絶妙に溶け合いながら長閑さと清冽さを一画面に併せ持つ、春の気に満ち満ちた作品だった。

その隣にあった 池大雅の王維の「終南別業」等をもとにした二幅は、多彩な緑に包まれた人物の飄々とした自然体が好ましい。
また 酒井抱一波図屏風」は、今回特に光の当たり方がよかったのか、迫りくる波の迫力が初めて見るように新鮮なものに感じられた。
なお余談ながら、展示室は2年間のブランクを感じさせないほどきれいに維持されていたが、この先はどのようになっていくのだろうか・・・


>静嘉堂文庫美術館移転関連記事
旧・閉館: 旅立ちの美術〜出会いと別れの物語(2021.4)
新・開館: 新美術館開館記念展 響きあう名宝〜曜変・琳派のかがやき(2022.10)

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2023年05月26日

明治美術狂想曲〜腰巻事件の裸体画

(静嘉堂文庫美術館 〜6/4)
明治美術狂想曲” は、“美術” という言葉が誕生し、博覧会が開催され、美術館が初めて設置されるなど、現代の “美術” につながる諸制度・文化が生まれた ”明治” という時代にフォーカスした展覧会だ。
だが、初めて重要文化財に指定された近代美術の一つという橋本雅邦「龍虎図屛風」の展示は終わっており、河鍋暁斎「地獄極楽めぐり図」もページ替えで真ん中辺のごく一部ということもあって、どちらかというと “工芸展” という印象の方が強かった。

そんな中で、「裸体画論争」ないし「腰巻事件」を巻き起こした 黒田清輝の 「裸体婦人像」(明治 34 年(1901))は、この時代を代表する “美術品” に違いないし、今回の ”狂想曲” というタイトルに最も近いもののひとつであろう。
今の目で見ればそれほど大騒ぎするものではないと思いつつも、神話や物語を口実にしようのない生身の女性の直截的な官能性が、当時の社会に投じた一石の衝撃度はわかる気がする。

ただ、画面の下腹部が布で隠された状態で展示されたことに対し黒田本人は、“最も困難で最も巧拙の分かるるところの腰部の関節の所に力を用いた積り” だったと言って残念がったというのだが、このコメントはやや意外なものに思えた。
本作はむしろ首から胸を経て下腹部に至る起伏の表現、すなわち滑らかな肌とその下で控えめに自己主張する鎖骨や肋骨などの醸し出す艶やかさと、そこに光が当たることによって生じる微妙な陰影といったあたりが見どころだと思っていたのだが、描いた御本人が言うのであればそういうものかと納得しておくほかはないのかもしれない。

しかし上記のコメントどおりなら、もう一つの代表作「智・感・情」は、特にその中心の図において、最も困難で巧拙の分かれる “難関” を敢えて回避したということになりかねない。
いやそれは “智” の女性の神秘性を高めるためのポーズだからということかと思われるけれど、同様に「裸体婦人像」も解剖学的な正確性を追求したところに意義があるわけではなく、技量の巧拙を見てもらいたいというのもどのくらい強いものだったのか・・・
察するに、芸術とは無縁なところで大騒ぎをしている社会、とりわけ強権的に取り締まろうとする警察に対し、反論の出にくい形で一言申し述べてみたといったところではないかと思うのだがどうだろうか。

この作品が岩家の高輪邸撞球室(ビリヤード室)に飾られたというのも、こうした “事件” によって箔が付いたからということだったのか、確かに社交の場の “床飾り” としては大いに注目を集め場を盛り上げたことであろう。