2026年07月19日

納涼能-1 親子共演の仕舞、狂言「岩橋」

能楽協会主催 第48回納涼能(2026年7月17日(金)14:00〜17:10、観世能楽堂)に出かけた。演目は以下のとおり。

能 「鱗形」(喜多流 香川靖嗣)
狂言 「岩橋」(和泉流 野村万蔵)
仕舞 「橋弁慶」(宝生流 宝生和英、寳生知永)
仕舞 「小袖曽我」(金春流 金春安明、金春憲和)
仕舞 「土蜘蛛」(金剛流 金剛龍謹、金剛謹一朗)
能 「合浦 一拍子之伝」(観世流 観世銕之丞)

“稀曲” を集めたという能二番については後日改めてということにして、“親子共演“ の 仕舞から振り返っておきたい。

橋弁慶」(宝生流 宝生和英、寳生知永)は五条大橋で義経と弁慶が対決する場面、「安宅」や「船弁慶」とは異なる弁慶像が描かれる曲だが、薙刀を振り回す弁慶と子方が演じる義経のチャンバラは思っていた以上に激しいものだった。
“殺陣”としてかなりの稽古が必要だったかと思われたが、弁慶が薙刀を打ち落とされ観念した後に空気が一変するあたりもよかった。

小袖曽我」(金春流 金春安明、金春憲和)は、当初予定されていた宗家のご子息(金春重芳)に代わり金春安明師の出演となっていた。
先代宗家が孫の代役で登場というのは普通では考えられないことだが、本企画が “親子共演“ を掲げていたからこそなのだろう、おかげで宗家二代の豪華共演による曽我兄弟出陣の舞という得難い場面に遭遇することができた。
渋みのある重量級の男舞は、ようやく母を説得して勘当を解き、晴れて父の敵を討ちに出立する兄弟の高揚感と悲壮感が、全てを覚悟した上での澄み切った境地として表されていたように思った。

土蜘蛛」(金剛流 金剛龍謹、金剛謹一朗)は、病床にあった頼光を襲う僧形の蜘蛛の決闘の場面、力強い声による緊迫のやりとりに続いて、本作ならではの蜘蛛の糸も数回に亘って投げられ、仕舞とは思えない迫力ある舞台になった。

その前に演じられた 狂言岩橋」(和泉流 野村万蔵、野村万之丞、野村拳之介)も “親子共演“ だったが、こちらは “稀曲” として番組に入れられたのであろう。
結婚したばかりの妻が被衣をとらずものも言わないことに困った男が、仲人の男から解決策として葛城と岩橋で始まる和歌を教えられる、といったあたりまでは興味を持って見ていたが、最後のオチに品位が感じられず、そのあたりが上演の少ない ”稀曲“ である原因かと思われた。
葛城と岩橋が出てきたあたりからなんとなく察しはついていたのだが、万蔵家の演技はそのあたりの難しさをよくカバーし運びも良かっただけに、こうした作品は時代の要請に合わせる形で終結部を別の形にできないものかと思ったりした。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2026年07月16日

ゴッホ-2 ハーグ、ニューネンの村から

(上野の森美術館 〜8/12)
クレラー=ミュラー美術館所蔵作品で フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)のオランダ時代からパリ時代を経てアルルに至る画業前半を紹介する展覧会につき、「夜のカフェテラス」以外の作品も簡単に振り返っておく。

CHAPTER 1 バルビゾン派、ハーグ派” は、画廊勤めや牧師になることを諦めて画家への道を歩き出したゴッホに影響を与えたとされる、バルビゾン派のミレーやドービニー、ハーグ派のヨーゼフ・イスラエルスの作品が5点ほど出てきていた。
そして “CHAPTER 2 オランダ時代” で、1881年に27歳で絵画を学び始めた ゴッホの最初期の作品を紹介する。

暗く荒削りの作品が多い中で、「麦わら帽子のある静物」(1881年11月後半-12月半ば)は画面の中のバランスの良さと手堅い筆致で見やすい絵になっていた。
しかし、どうやらこれは技法の手ほどきをした人物が描くべきものを並べてその前にゴッホを座らせたといったお膳立てがあっての作品のようで、その際に細かい筆遣いの指導もしたのかもしれず、むしろその教室を出て村の風景や村人たちを描くべく七転八倒したところから、彼の本当の絵画修行が始まったというべきだろう。
初期の鉛筆画の中では 「田舎道の女」(1882年3月-4月)が、ゴッホにしては空間の奥行きや人物の佇まいが自然に感じられ、ここからささやかな物語が始まるような雰囲気があった。

ニューネンの古い塔」(1884年2月-3月)は、オランダらしい平坦な土地に天を突くように建つ塔を描いている。
と言ってもそれほど高い建物ではなく、教会なのであろうが暗く厚い雲の下で要塞のようにも廃墟のようにも見える重苦しさがあり、その周囲に見える簡素な木の十字架の群れが、そこが墓地だということを示している。
この周囲に住む人々は皆この建物の中で祈り、洗礼を受けたり結婚式を挙げたりもしただろうが、最後はここで家族や村人に悼まれて土に還っていったに違いない。
ゴッホが描きたかったのは、この地で生まれ死んでいった何代にもわたる名もなき人々の命の営みが、この塔を中心にして静かに堆積しているといったことへの思いだったと考えたいが、一方でその建物の近寄り難い感じは、謹厳な牧師で乗り越えられない壁のような存在だった父を象徴しているようにも思われた。

夕暮れのポプラ並木」(1884年10月)は一直線に伸びる並木道の向こうに夕日が沈んでいく光景、ゴッホとしてはかなり意識的に作り上げ洗練された構図という感じがしないでもないが、オランダの農村にはこうした場所が実際にいくつもあっただろう。
ただ並木道の中ほどに農婦と思しき人物を置いて丸い日輪の形を崩したことで、オランダの土の香りが感じられる作品になった・・・

2026年07月13日

ワイエス-4 オルソン・ハウスの終焉

(東京都美術館 7/5終了、愛知・大阪へ巡回)
アンドリュー・ワイエスの “第3章 ニューイングランドの家:オルソン” の中心をなす「クリスティーナ・オルソン」から20年後の水彩の習作 「アンナ・クリスティーナ」(1967年、丸沼芸術の森)は、72歳になった同じ女性が椅子に座り、あてのない来訪者を待ちながら開けた扉の向こうを見ているところを描いている。
光の方を向く横顔に翳りはないとしても、彼女とそれを描く画家の心情を思いやると胸が締め付けられるような気がした。

穀物袋」(1961年、丸沼芸術の森)は質感表現が見事で、水彩による再現力としては驚くべきレベルのものだが、穀物袋の向こうにいる弟のアルヴァロはピンボケ写真のように頼りない姿で描かれている。
彼はおそらく寡黙で控えめな人物で、モデルになることはもちろんこうして絵の中に偶々登場することにも躊躇いがあったのだろう。

もしかしたら、この画家はなぜ自分たちの生活をここまで克明に描くのか、と訝しんでいたかもしれないし、体の不自由な姉との生活を守る立場として、一定の警戒心を持っていたとしてもむしろ自然というものだ。
さらされた場所」(1965年、丸沼芸術の森)という習作では、割れた窓ガラスに布を突っ込んである様子までを繰り返し描いているのだが、アルヴァロにしてみれば、何が面白いのか、放っておいてくれ、と言いたいところだったかもしれない。

実際この2人、あるいはクリスティーナも含めた3人の間にどのような会話があって信頼関係が保たれていたのか気になるところだが、答えは絵の中にしかないということであろう。
しかしそうした関係も、1967年に働き手の弟アルヴァロが亡くなり、翌年にはクリスティーナの命の火も消えて終焉の時を迎える。

主を失ったオルソン・ハウスはその後どうなったのか、関係者としてのワイエスが現実世界で何かできることがあったのかどうかはわからないが、画家ワイエスは 「オルソン家の終焉」(1969年、クリーブランド美術館)を描いてレクイエムとした。
それは煙突と屋根だけが見えるシンプルな画面で、一連の作品の中では例外的に色彩が多く使われ、建物以外の風景も描き入れられているのだが、なぜ姉弟の息遣いがあまり感じられないこの場面を選んだのであろうか。
むしろ水彩でやや離れた地点から建物の全景を捉えた 「オルソンの家」(1969年、丸沼芸術の森)の方が、そこにいたはずの人の不在が強く感じられ、より追悼に相応しい作品のような気がした。

さて、30年近く関わったオルソン・ハウスを去ってからのワイエスはどうなったのか。
そこを正確に評価するためには “オルソン後” の作品の全てを見てみるべきで、たまたま展覧会に出てきた作品だけで語ってはいけないのかもしれないが、そうするほかない立場としては、前回と同じように今回も、やはり霊感が薄まってしまったという印象を拭うことは難しい。

第4章 まなざしのひろがり” では隣人や新しいモデルなどを描いて、より幅広いモティーフに取り組んでいるものの、以前のように深い感銘を受けることはない。
第5章 境界あるいは窓” は本展のキーワードとした “境界” に着目した締めくくり部分だが、作品として目を引いたのはオルソン時代の 「ゼラニウム」(1960年、ドライブラッシュ・水彩、ファーンズワース美術館、ロックランド)で、オルソン・シリーズとしては珍しい明るい赤が華やぎを感じさせていた。

最後にふれておきたいのは 「薄氷」(1969年、株式会社三井住友銀行)、氷に閉じ込められた枯葉という特異なモチーフは、クリスティーナ死去の翌年の作品なので、その喪失感や無常感から出たものなのだろう。
その思いを氷で封じ込めようとしたのか、しかしそこにわずかな気泡を描き加えることによって水の存在を感じさせ、その水の流れから季節の巡りや命の再生といったものに希望を託しているようにも思われた。

2026年07月10日

LFJ-3 ロワールからの大河、雑感

開催からずいぶんと日が経ってしまった ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 だが、思い出すことを徒然に記してまとめとしておきたい。

今年のテーマは 「LES FLEUVES(レ・フルーヴ) ―― 大河」、諸大陸を潤して流域の文化や音楽の発展に重要な役割を演じ、音楽家たちにも数々のインスピレーションを与えてきた大河に着目し、世界各地を周遊する “音の世界旅行” へ誘うという企画だった。
この趣旨に従い各ホールは、”A:ロワール、C:ヴルタヴァ、D7:ポー、G409:ガンジス、
B5:ミシシッピ、E:ヴォルガ、地上広場:アマゾン
” と名付けられていた。
この命名をどのくらいの人が意識したかはよくわからないが、クラシックの祭典ならドナウやライン、知名度ならばセーヌやテムズなどが選ばれるのがむしろ自然な流れだろう。
ただこれらは色が付き過ぎて演奏曲目とぶつかり合う可能性も高そうだし、一方で文明を育んだ大河ということならナイルや長江も出てきてほしいところだが、これもコンサート・プラグラムとの相性がいいとは言い難い。

それでも、なぜ最大規模の ホールAロワールなのか、フランス側の ”我田引水” だとしてもセーヌやローヌもあるではないかと思ったのだが、ロワールはフランス国内では最長の川だとのこと、それにオルレアンやトゥールを経てラ・フォル・ジュルネの本拠地 ナントで大西洋に至る川だということであれば納得するほかはない。

ところで、1995年にそのナントで始まり大きな流れとなった音楽祭の創設者 ルネ・マルタン氏については昨年秋、自身が率いる会社における不正会計やハラスメントの疑いの報道が出て、芸術監督の地位を去ることが伝えられた。
一方ナント市および関連組織は音楽祭の継続性を確保することとして本年1月から2月にかけて第32回音楽祭を実施、東京でもウェブサイトやガイドブックで名前の露出は減っているものの、コンセプトやプログラムの傾向などはほぼ踏襲されて実施の運びとなった。
この問題についての真相は不明だが、LFJに参加してきた音楽家たちが出した、”不適切または不相応な行為を一切容認するものではないが、ルネ・マルタンが創設した「ラ・フォル・ジュルネ」のコンセプトは大きく発展し、アーティストにとっても聴衆にとっても欠かすことのできない重要な存在となっている” という声明文には全く異存がない。

来年以降についてはやや不透明な部分があるのかもしれないが、ナントでは Vanessa Wagner 氏を芸術監督に迎え、”ベートーヴェンの銀河”(?)というテーマで実施するようだ。
東京でも 23年に続いてベートーヴェンになるのかはともかく、GWのイベントとしての音楽祭は是非継続してもらいたいと思う。(ただし会場の東京フォーラムは2029年1月から2030年3月までの休館が伝えられているので、あと2回は大丈夫そうだがその先の不安もある。)


有料コンサート以外で印象に残った演奏を挙げておくと、まずは地下の ホールE で聞いた レ・ミュジシャン・ド・サン=ジュリアン、9人のアンサンブルの内の5人は弦楽四重奏+コントラバスなので基本はクラシックの団体のように見えるが、残るメンバーはサントゥール(ダルシマー?)、テオルボ(+コムズ?)、パーカッション、そして縦笛・横笛・ミュゼット(?)などを自在に操る指揮者といった編成なので、聞こえてくる音楽はかなりエスニックに寄ったものだった。
正規のプログラムを見ればヴィヴァルディなどのバロックもやる団体らしいのだが、サプライズ登場の無料コンサートはカジュアル路線に徹したということか、曲目の紹介が無かったのでよくわからないながら、大部分は東欧系の民族音楽という感じの楽しい音楽だった。

周辺エリアのコンサートで面白かったのは、三菱一号館広場で聞いた Beauty Noise Tokyo、ヴァイオリン、サックス、ピアノの3人によるユニットで、サティやミヨー、モリコーネ、ピアソラなどを自由なアレンジで演奏していた。
特に驚いたのは、プッチーニの「誰も寝てはならぬ」をカウンターテナーも勉強しているというヴァイオリニストが間奏も弾きながら歌い上げたこと、最後の「チャールダーシュ」もスリリングで爽快な演奏だった。


ラ・フォル・ジュルネ の過去記事
2005  ベートーヴェンと仲間たち 
2006  モーツァルトと仲間たち 
2007  民族のハーモニー −
2008  シューベルトとウィーン 
2009  バッハとヨーロッパ 
2010  ショパンの宇宙 
2011  タイタンたち(ブラームスから後期ロマン派) 
2012  サクル・リュス(ロシアの祭典) 
2013  パリ、至福の時 
2014  10回記念 祝祭の日 
2015  PASSIONS パシオン - 恋と祈りといのちの音楽 
2016  la nature ナチュール - 自然と音楽 
2017  La Danse ラ・ダンス - 舞曲の祭典 
2018  Un Monde Nouveau モンド・ヌーヴォー - 新しい世界へ 
2019  Carnets de Voyage ボヤージュ - 旅から生まれた音楽 
2023  Beethoven ベートーヴェン 
2024  ORIGINES オリジン - すべてはここからはじまった 
2025  Memoires メモワール - 音楽の時空旅行 
2026  LES FLEUVES レ・フルーヴ - 大河 

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2026年07月07日

ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ-1

(国立新美術館 〜9/21)
ピカソ meets ポール・スミス 遊び心の冒険へ” と題された展覧会は、美術展としてはパリの国立ピカソ美術館が所蔵する パブロ・ピカソ(1881-1973)作品80点ほどを、初期から晩年まで緩やかな時系列に従って展観するものだが、英国人デザイナー ポール・スミスによる展示空間で構成されたために、作風の変遷や時代の移り変わりをヴィジュアルで体感できるエンターテインメントにもなっていた。

冒頭の “00 トロンプ・レスプリ(精神を欺くもの)” は、自転車のサドルとハンドルを見立てた 「牡牛の頭部」(パリ、1942年春)が類似作品に囲まれた空間となって、いきなりポール・スミスのプロデュースによる遊び心の世界に誘われた。
続く“01 「ヴォーグ(流行)」中の芸術家” には、雑誌や漫画に絵を描き込むことが好きだったというピカソが手を入れた雑誌『ヴォーグ・パリ』の表紙が並び、角大師のような妖怪(?)がファッション雑誌上の女性のまわりを跋扈していた。

そして3番目の部屋、“02 青の憂鬱” に入ってようやく絵画展らしくなる。
親友の死を契機に始まり社会の最貧困層の孤独や憂鬱を深い青で表現したという “青の時代”(1901〜04年)の作品は1点のみだが、暗い部屋の中央に浮かび上がる 「男の肖像」(パリ-バルセロナ、1902年冬-1903年)は、青の時代の登場人物にしては健康的と言おうか、悲惨なほどの貧しさや危うさはあまり感じさせない人物だ。
それでも厚く塗られた濃い青が醸し出す憂鬱は、精神的なものでありそうなだけに一層深いのかもしれず、ともかくもここでようやく見ごたえのある油彩に出会った。

03 バラ色の女性たちーー《アヴィニョンの娘たち》への前奏曲” は、前の暗い部屋から突如 “バラ色の時代”(1906-08年)らしい鮮やかなピンクの部屋に変わり、落差の大きさに一瞬目が眩むようだった。
ここは MoMAの「アヴィニョンの娘たち」(1907年)の習作が中心だが、「女あるいは水夫の胸像(《アヴィニョンの娘たち》のための習作)」(パリ、1907年春)は特に強いインパクトを備えた作品で、“あるいは水夫(Sailor)” という題名が裏書きしているのか、性別不詳で生身の人体か彫刻かも不詳の顔が、爽快さを感じさせるほどのきっぱりとした造形を見せていた。


>ピカソとその時代 (2022、国立西洋美術館) 
>ピカソ、ひらめきの原点 (2022、汐留美術館) 

2026年07月04日

堤剛&小山実稚恵-2 プーランクのソナタ

堤剛(Vc)・小山実稚恵(Pf)両氏によるフランスのチェロ・ソナタの演奏会(6月19日(金)13:00〜 サントリーホール ブルーローズ、サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)“プレシャス 1 pm Vol. 4“)の最後は プーランクの 「チェロ・ソナタ」だった。
これは1940年から作曲が始められ完成は48年ということなので、ドビュッシーやブーランジェの作品から30年以上経ってのものということになるし、初演し献呈を受けたのがピエール・フルニエと聞くと時代の近さを感じさせられる。

第騎攵は緊張感のある開始から曲想がめまぐるしく転換、しっとりと歌い込む部分やユーモラスな掛け合いの楽しい箇所などが次々に現れ、洗練された味わいも皮肉っぽい語り口もあって、賑やかなパリの喧騒の中を歩いているような気分に誘われた。
しかし 第恭攵の Cavatine で雰囲気が大きく変わり、コラールのように響くピアノに乗せてチェロが切々とした歌を聞かせる。
プーランクならではの意表を突くような場面もなく、最後まで厳粛な雰囲気が持続したままこの楽章が完結、これは特に誰かを悼む音楽だったというようなことがあったのであろうか。

第軍攵は一転して軽快な舞曲で夜のテーマパークにでも足を踏み入れたよう、プーランクの都会的センスが楽しめる作品であり演奏であった。
力強い音で始まる 第験攵は再び混沌とした難解な世界となり、深刻さ、皮肉、雄弁、遊び、憂愁などが目まぐるしく行き交う振幅の大きな音楽が展開された。

プーランク(1899-1963)の室内楽では六重奏曲やフルートソナタなどがよく知られ、管楽器を得意としているような印象があったので、チェロソナタの位置を確認しながら主だった作品を完成年順に並べてみたら以下のようになった。

1922 ホルン、トランペットとトロンボーンのためのソナタ
1932 六重奏曲
(1935 フランス組曲
1943 ヴァイオリンソナタ「F.G. ロルカの思い出に」
(1945 ぞうのババール
1948 チェロソナタ
1957 フルートソナタ
1957 ホルンとピアノのためのエレジー「D. ブレインの思い出に」
1962 クラリネットソナタ
1962 オーボエソナタ

なお演奏会のアンコールは ドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」、耳によく馴染んでいた旋律が、この日一番の伸び伸びとした演奏で美しく奏でられた。

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2026年07月01日

ワイエス-3 クリスティーナ・オルソン

(東京都美術館 〜7/5)
アンドリュー・ワイエスは、“第3章 ニューイングランドの家:オルソン” でようやく オルソン・シリーズへと入っていく。
足の不自由な女性クリスティーナと彼女を支える弟のアルヴァロが住むメーン州のオルソン・ハウスを舞台に、30年近くにわたって制作された一連の作品は、質量ともにワイエス芸術の核心と言うべきものだが、本展のこの章は3点の来日作品(うち2点がテンペラ画)のほかは、丸沼芸術の森所蔵の鉛筆画ないし水彩画(1点のみテンペラ画)で構成されていた。

その冒頭の 「オルソンの家」(1939年)は、後に妻となるベッツィの導きで最初に訪れた時の作品で、さらりと描いた水彩画の明るさは、まだ建物の細部への執着も姉弟への思い入れも、それほどは強くなかった時期のものであることを感じさせる。
それでも画家はこの家との縁の深さを直感していたのであろうか、難破船のようなオルソン・ハウスの孤高の感じは既に現れている。

三階の寝室」 (1947年)は、屋根に突出した狭い窓から吹き込む風が、カーテンを大きく揺らしている様子を水彩で素早くとらえている。
その一陣の風とともに海の香りを含んだ外気が、そして強い光が家の中に入ってきて、暗くて黴臭く埃っぽかった室内が一瞬にして別世界になった、そんな一瞬の驚きと喜びが、時間も空間も大きく異なる我々にも直に届いてくるようだ。
ここに至る習作として、窓とカーテンにフォーカスした鉛筆画や水彩画がいくつかあったが、最終的にそれらを薄暗い室内の最奥部に置き、至聖所のように描いたことによって強く印象に残る作品になった。

クリスティーナ・オルソン」(1947年、マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス)は、画家ワイエスにとって大きな霊感源となった女性クリスティーナが、大きく開けた戸口に腰かけて外を見ているところを真横から描いている。
彼女は明るい光を浴び、髪を風に靡かせて、遠くを、おそらく海の方を見るともなく見ているのだろう。
足の不自由な彼女にとってはつかの間の、外に広がる世界と繋がって交歓できるひとときであり、何ものにも代えがたい至福の時を過ごしているように見える。
それでも画家はその内部に無遠慮に踏みこんだりせず、節度を持って一定の距離を保ち、彼女の時間を最大限に尊重しながら “描かせていただいている” といった関係性が伝わってくる。

驚くのは木製の扉の質感、伐り出されて建物の一部となり、風雪に耐えて積み重ねてきた時間が、結晶のようにそこに凝縮している。
クリスティーナの母方の祖父の代から続く入植・開拓時代の記憶を残す建物は、堅牢な構造と不愛想な外観で厳しい自然に立ち向かい住む人々を守ってきた。
しかし時と共に老朽化が進み人も入れ替わり、生活スタイルも考え方も当時のままのものではなくなっていく中で、いつか土に還っていってしまう運命は避けられない。
それでもそうした建物に纏わる暮らしぶりをワイエスが克明に描いたことで、郷愁とも無常感とも一言では表現し難い感慨を多くの人の胸に呼び起こしてきた。
もともとは全く無名な上に全米に類例が多いはずの人と建物であるにもかかわらず、ワイエスという画家が関わることによって唯一無二のものになり、時代や世の中の流れから取り残されかけた姉弟の存在、その生き方や精神の有り様がいまの我々に何かを呼び起こす、まさに芸術の不思議な力と言うほかはない。

2026年06月28日

小林研一郎 名誉区民記念コンサート-2

指揮者 小林研一郎氏の新宿区名誉区民顕彰記念コンサート(5月31日(日) 15:00〜 新宿文化センター)の前半は ラフマニノフピアノ協奏曲第2番 ハ短調 op.18 が演奏された。
金子三勇士氏の力強いキビキビとした打鍵はヴィルトゥオージティを強く感じさせるもので、東京フィルもよくこれに応えて総奏部分もソロ部分も起伏に富んだ熱い音楽となった。

演奏後に金子氏から、小林研一郎氏との出会いは小学生の頃のハンガリーでのことで、初めは通訳としてだったが、やがて(どちらから言い出したのかは説明が微妙に異なっていて定かでないが)小林氏の前でピアノを弾く機会があったという話が紹介された。
そこからすぐにレッスンになり、下を見ずに空を見上げるような姿勢で弾くといいというアドヴァイスをもらったことが、その後の活躍に繋がっているということのようだった。
その出会いの場で披露した リスト愛の夢第3番 がアンコール曲となり、恩師も聴き入る中でしっとりと演奏された。

金子三勇士氏は後半のチャイコフスキーの演奏の後にも呼び出される形で登場し、アンコールであるハンガリー舞曲への前振りなどをされていた。
それもあってかこの日の小林研一郎氏はいつにも増して絶口調、新宿区名誉区民顕彰への感謝を述べたり、長年のパートナーである東京フィルにも感謝を伝えたりと、この日が特別な演奏会だということがよく伝わってきた。

ところでその 新宿区名誉区民だが、区長も会場に来ていたようなのに特に説明がなく、受賞の経緯などはよくわからなかった。
もちろん功績自体は説明を要しないほど自明だということだと思うけれど、新宿区との特別なご縁やこのタイミングになったいきさつなどが(新宿区民には周知のことかもしれないが)、もう少し詳しくわかればと思ったりした。

余談ながら、会場となった 新宿文化センターを訪れたのは実に久しぶりだった。
私がクラシックを聴き始めた頃の演奏会場と言えば、東京文化会館が一強という感じで君臨する中、新宿文化センターが昭和女子大学、簡易保険ホールといったところ(とNHKホール)とともに東京のコンサートを支えていた。
いま思い出せるだけでも、ウィーン室内合奏団、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団、スロヴァキア・フィルといった団体の来日公演はここで聴いたと思う。

ところがこうした状況は 1986年のサントリーホール開館(今年が40周年とか)で一変、以降 オーチャードホール、トリフォニーホール、東京オペラシティ、東京芸術劇場などが相次いで開館して主導権が移っていく中で、失礼ながら当館の役目は終わったのかと思っていた。
しかし久しぶりに訪れてみれば、この間に改修があったのかかなりきれいな印象で、右側壁面にはパイプオルガンまで設置されていた。
そしてなにより、このサイズ(1600人)のホールでフルオーケストラを聴くこと自体が最近はなかなかなかったので、そこには “炎のコバケン”の熱演ももちろんあったわけだが、大音響に包まれたときの音の迫力というものをあらためて感じさせてもらった。

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2026年06月25日

大ゴッホ展 「夜のカフェテラス」-1

(上野の森美術館 〜8/12)
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853–90)の画業を2回に分けクレラー=ミュラー美術館の所蔵作品で辿る企画の前編となる “大ゴッホ展 夜のカフェテラス” は、オランダ時代からパリ時代を経てアルルに至る時期を対象としており、見どころはほぼ 「夜のカフェテラス」の1点と言っていい。
そのこととチケットの買い難さなどは事前に分かっていたものの、実際に行ってみればさらにフラストレーションを溜めざるを得ない展覧会だった。

しかしそれでも、「夜のカフェテラス(フォルム広場)」(1888年9月16日頃)は素晴らしかった。
“青” と一言で片づけてしまってはいけない、ゴッホ自身が “今、絶対に描きたいのは星空だ。よく思うのだが、夜は昼間よりもずっと色彩豊かで、この上なく鮮やかな紫、青、緑の色調を見せてくれる。星の中にはレモン色のものもあり、バラ色、緑色、忘れな草の青色の輝きもある” と語ったとおりの明るく透明感のある夜空と、それに呼応するような眩しいほどの黄色い光に満たされたカフェの響き合いは絶妙だ。
道の反対側の建物の窓の灯りや、緩やかに起伏する石畳の肌触り感も、そして夜空に瞬く星と地上のテーブルで時を過ごす人々の醸し出すリズムも心地よい。

さらに特筆すべきは、ゴッホ作品の中でも異例なほど幸福感を覚えさせてくれる作品だということ、こんなひとときっていいな、こんな時間を持つことのできる人生っていいな、と思わせてくれる作品という点ではかなり貴重な部類だろう。
もちろんゴッホの持ち味はそれだけではないが、アルルに拠点を築きゴーギャンを待つ間の ”遅れてきた画家” にとって、最も前向きな気持ちが高まった時期の果実だったに違いない。

20年前の来日時に見て以来の再会は、ベストテンのトップに掲げた思いを再確認できた機会でもあったけれど、今回この絵を見るために会場内に別の列が設けられていて、密集したジグザグを繰り返さないと絵の前に行けないほどとは思わなかった。
この1点が傑出した展覧会だから致し方ない面はあろうが、これでは2列目か3列目あたりで人と人の間から見ればいいと思っている人も、ほとんど撮影会と化した待機列の最後尾につくほかはなく、必要以上に作品を遠いものにしていたのではないかという印象は否めなかった。


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2026年06月22日

ワイエス-2 光と影、洗濯物と粉挽き場

(東京都美術館 〜7/5)
“20世紀アメリカ、孤高のリアリズム”、そして “境界に立つとき、心が動き出す” というコピーのついた “アンドリュー・ワイエス展は、中核となるオルソン・シリーズの前に置かれた “第2章 光と影” にも見どころが多かった。
鐘つきロープ」(1951年、デラウェア美術館、ウィルミントン)と 「冷却小屋」(1953年、フィラデルフィア美術館)は、いずれも縦に細長い画面の奥に光を発しているところがあり、手前からその光源までの距離や角度によって様々な段階の光に出会っていく。

即物的でいて何か象徴的な意味を纏わされているような光と影、そうした中で 「雪の朝」(1947年、ユニマットグループ)は異色作というべきか、灯台の光が薄暗い空間に浮かび上がり、その手前の灯台守の住居と思われる建物の窓からは明るい光が漏れて雪の上にその形を映している。
手前の窓辺にはクリスマスのリースが見えていて、厳しい自然と人間の営みが調和する世界を感じさせつつ、童話的な世界に誘われるような趣すら感じられた。
本当にこのような風景に出会ったのかどうかはわからないし、ワイエス作品として評価すべきカテゴリーに入るのかどうかも心許ないが、ちょっと立ち去り難い感じがした作品だった。

洗濯物」(1961年、カマー美術館、ジャクソンビル) という水彩画はワイエス芸術の真骨頂と言っていいだろう。
庭に干してある洗濯物が強い光を受けて輝き、吹いてくる強い風で大きく膨らみ靡いている、ただそれだけで絵画の主題たりえている。
そこに、特に華やぎがあるわけではない庭の様子や、暗く沈んだ家の中の様子との対比から、さらなる思索が誘われないでもないけれど、何の変哲もない洗濯物がこれほど神々しく見えることがある、というだけでも奇跡的なことのように思われた。

粉挽き場」(1962年、フィラデルフィア美術館)に描かれている建物は、ワイエスとその妻ベッツィが手に入れたばかりの新居を描いたものだという。
二人の出会いは1939年でワイエスが22歳の時なので、その翌年に結婚してから22年後にようやく実現した自分たちの城ということになれば、さぞかし喜ばしい出来事であっただろうと想像される。
しかし画面は陰鬱で、枯れ草が絡みついた有刺鉄線の向こうにある建物は見る者に近寄り難い雰囲気を与え、そこに人が住んでいるのかどうかもわからない、むしろ永遠にたどり着けそうもないような精神的な遠さを感じさせている。
中ほどに飛んでいる二羽の鳩が二人を象徴しているということらしいのだが、そう言われて目を凝らしてみないと分からないほどの慎ましさだ。
それでも77.5x130.8というサイズと手間のかけ方を見れば、本人にとって重要な記念碑的作品だったに違いなく、確かにその重みが十分に伝わってくる力を持っていた。

2026年06月20日

堤剛&小山実稚恵-1 ドビュッシー、ブーランジェ

サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)の “プレシャス 1 pm Vol. 4“ で、堤剛(Vc)と 小山実稚恵(Pf)両氏によるフランスのチェロ・ソナタを聞いた。
(2026年6月19日(金) 13:00〜 サントリーホール ブルーローズ)

ドビュッシー:チェロ・ソナタ
ブーランジェ:チェロとピアノのための3つの小品
プーランク:チェロ・ソナタ
(アンコール)
ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女

ドビュッシーの「チェロとピアノのためのソナタ ニ短調」は、第一次世界大戦中に取り組んだ “6つのソナタ” シリーズの第1作として1915年に作曲されたもので、フランス音楽であることを強く意識した作品とされる。
. プロローグ は瞑想的な冒頭から曲想が目まぐるしく交代していき、チェロが開放弦やハーモニックスを多用していることもあって、2つの楽器による簡潔で線的な音楽の中に、音色の変化による面白さもあちこちに見られた。
謎めいたピツィカートで始まる . セレナード は、気まぐれな道化師が辺りをうかがうようにユーモラスに展開、抜き足差し足が不意に駆け足になったり、突然ペタンと座り込んでみたりといった感じの洒落た無言劇が続いた。
そこからスピードを上げての . フィナーレ は、おどけた踊りが周囲を巻き込んで大きな踊りの輪になっていくのを見るよう、その中にも即興性を失わない自由さと諧謔性が感じられた。

ナディア・ブーランジェの「チェロとピアノのための3つの小品」は1914年27歳の頃の作品、穏やかなピアノに乗ってチェロが歌い始める . Modere(中庸の速さで)は、歌謡的な旋律が微妙に転調していく中で徐々に緊張感を高めていくが、フランス音楽らしい優しさと控えめな繊細さを失わない。
. Sans vitesse et a l'aise(速くなく、のびのびと)で少しテンポが上がるものの、内省的で静かな気配が持続していて、もしフォーレが若い頃にチェロ・ソナタを書いていたら、このような雰囲気の作品になっていたのではないかと思わせるところがあった。
以上2曲がオルガン曲からの編曲だったのに対し、最初からチェロとピアノのために書かれた . Vite et nerveusement rythme(速く、力強くリズムを刻んで)は、一転して活気に満ちた音楽となり、切れのいいリズムのピアノに細かく動き回るチェロが絡んで、2つの楽器の丁々発止のやり取りが楽しめた。

この後にお二人の短いトークがあり、ナディア・ブーランジェは作曲家より教育者として著名で、作曲を学びに来たピアソラに、あなたはタンゴをやるべきだと言ったことがあったとか、自分以上に才能があると思っていた4歳下の妹リリ・ブーランジェが24歳で夭折したことから作曲を止めてしまった、といったエピソードが紹介された。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2026年06月17日

河鍋暁斎の世界-3 おに、かみ・ほとけ

(サントリー美術館 〜6/21)
ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界” 展の終盤の “第4章 おに” は、河鍋暁斎(1831–89)が特に得意とした分野だったのか、おそらくは地獄の鬼や鍾馗の相方をオニとして描いているうちに親しみがわき、自らの分身として酒の肴を作ったり巻子を崇め奉ったりする様子を描くようになっていったのだろう。

ここにあった二葉の 「百鬼夜行」(明治4〜12年(1871〜79))の図は、第1章にあった屏風絵より登場する鬼たちの姿も表情も変化に富み、ユーモラスに我が物顔の風情で闊歩していた。
たぶん屏風という固い仕事よりも自由に想像の幅を広げ、意のままに描いてみることができた分だけ、オニたちも居心地がよかったに違いない。

第5章 かみ・ほとけ” には鍾馗や七福神の絵が多かった中で、「五聖奏楽図」(明治4〜20年(1871〜87))が目を引いた。
中央に立つ十字架上のキリストは扇子と雅楽鈴を持ち、その下で釈迦が三味線を弾いている。
左の老子は笛を吹き、手前の孔子は鼓を打ち、そして5人目については解説がなかったがおそらくは日本の神ないし神武天皇が、背後で呆れたように両手を広げて見上げている。

本図については、明治になってキリスト教と仏教が勢いを得てきたことに対する儒教側の危機感が表されているということのようなのだが、暁斎の意図もそこにあったと理解していいのかどうか・・・
確かにキリストも釈迦も目立っているけれど、主役と思われるのは中央でロックギタリストのように三味線をかき鳴らしている釈迦であり、他の4人もそこに参画しているというところに暁斎の思いもあるように思われるのだがどうであろうか。

最後の “第6章 版画の名品” は、もちろん版画なのだから緻密に周到に作られているのだが、ここまで即興的で奔放な作品を見てきた目にはなんとも窮屈で堅苦しく、出口の間近まで来てやや戸惑いを感じたというのが率直なところだ。
その中では妖怪たちが跋扈する 「百喜夜興姿影絵」(慶応3年(1867)5月)や、天狗が囃子に合わせて踊る 「新板かげづくし」(同)といった灯篭用のシルエット作品が面白かった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2026年06月14日

アンドリュー・ワイエス-1 孤高の画家

(東京都美術館 〜7/5)
東京都美術館開館100周年記念 アンドリュー・ワイエス展” は、内と外、光と影、生と死といった “境界” に着目して アンドリュー・ワイエス(1917-2009)の作品を見ていく、日本では没後初となる回顧展だ。

冒頭は 「自画像」(1945年、テンペラ・パネル(特記しない限り以下同じ)、ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、ニューヨーク)、そこに見える陰気な顔をした青年は、まだ何者でもないような感じもするけれど、この時すでに28歳だ。
8年前に20歳で個展を成功させ、その2年後にオルソン・ハウスを訪れてクリスティーナとアルヴァロ姉弟との関係が始まり、翌年には彼らを紹介したベッツィと結婚もしているので、仕事も私生活も順調な時期と言える。
それにしては表情も背景も暗く陰鬱に見えるが、さらに戸惑うのは、斜め横を向いて暗い目をした男の視線は、どこか遠くを彷徨っていることだ。
自画像は、通常は鏡を見て描くために視線は正面を向くはずで、我々も自分の顔をそのようなものとしてしか見ていないし、画家が群像作品中に自身を描き入れる時に周囲から浮いた形で観客向きになってしまう理由も同じだろう。
ではなぜこのように異例の自画像が生まれたのか、それは写真を見ながら描いたという単純な話かもしれないけれど、おそらくは自分という人間を少し距離を置いて俯瞰的に想像してみた成果なのだと思ってみたい。

この「自画像」を含む “第1章 ワイエスという画家” から、この画家ならではの精神世界が投影された緻密な作品が、思っていた以上の密度で続いていた。
マザー・アーチーの教会」(1945年、フィリップス・アカデミー附属アディソン・ギャラリー、アンドーヴァー)は、アフリカ系の人々が集う場で自身もよく訪れたという教会を、天井のひび割れや剥落している状態もそのままにリアルに描いている。
そこを飛ぶ白い鳩はフィクションなのかどうか定かではないが、こうしたものでも描き添えないと救いがなさすぎるということだったであろうか。

荒野に横たわる死者が手前に大きく見える 「クリスマスの朝」(1944年、マイロン・クニン・コレクション、ミネアポリス)は、想像上の光景というか画家の心象風景と考えるほかはなさそうだが、なぜこれが “クリスマスの朝“ なのだろう。
制作された1944年は、マクロ的には第二次世界大戦の終盤で重苦しいイメージがあるが、米国東海岸においてはその影もそう強くなかったと思われる一方、ミクロ的にはオルソン姉弟との関係が始まって5年ほどの時期にあたる。
これは、あとから考えれば実りの多かった期間ということになるとしても、当時はまだ世間的にどう評価されるかわからない取り組みだったであろうから、そうした暗中模索の日々の憂鬱が反映しているようにも思われる。

火打ち石」(1975年 、個人蔵)は以前も見た作品だが、この石のサイズ感にはやはり戸惑いを禁じ得ない。
これが火打石として使われるものでないことは確かだが、一体どれほど巨大な岩なのか、ともかくもオルソン姉弟が亡くなった後の時期の作品としては、例外的な深みや重みに達しているように思われる。
それにしてもこの石、ウルトラ・シリーズの世代としては宇宙人が地球に送り込んだ物体で、やがて大爆発して中から怪獣が出てきそうな気がしてならないのだが・・・


>アンドリュー・ワイエス展 (2008、ザ・ミュージアム) 

2026年06月12日

Index Jan.-Mar., 2026

高木由利子 (Bunkamura ザ・ミュージアム) 
明末清初の書画 (台東区立書道博物館) 
北欧のテキスタイルと暮らし (日本橋高島屋) 
在原業平と伊勢物語 (三井記念美術館) 
平山郁夫 (日本橋三越) 
冬、そして春へ/伊奈英次 (荏原 畠山美術館) 
モネ (アーティゾン美術館) 
スウェーデン絵画 (東京都美術館) 
たたかう仏像 (静嘉堂文庫美術館) 
モダンアートの街・新宿 (SOMPO美術館) 
闇市と都市 (高島屋史料館TOKYO) 

ヴァンスカ、都響のシベリウス 
能 「祇王」 

2026年06月09日

チュルリョーニス-4 形而上の世界へ

(国立西洋美術館 〜6/14)
チュルリョーニス展 内なる星図の終盤、 “第3章 | リトアニアに捧げるファンタジーの後半には、タンポポをキー・アイテムにした 「おとぎ話」(1907年)の三連画があった。
神秘的で崇高な世界を表現しようとしたと思われるものの読み解きは容易ではなく、とりわけ山の頂で大きなタンポポと子供が向かい合い、そこを大きな鳥が掠めて飛ぶ「おとぎ話供廚蓮鳥が意味するところが多義的であるようだが、暖色系の光に包まれて安らぎを感じさせているように見えた。

おとぎ話(城のおとぎ話)」(1909年)は、円錐形のシャープな山の頂上に城が築かれ、そこに向かって螺旋状に上っていく道があるために、ブリューゲルの描いたバベルの塔を思わせるところがある。
そのようなものをイメージしていたのかどうかはわからないが、すぐ右横に輝く太陽が眩しいほどの強い光を発して、青空に浮かぶ夥しい白い雲の群れを輝かせている。
いったいどこで何が起こっているのか、そんな謎は謎として残るとしても、不安や孤独や憂鬱を感じさせることが多いチュルリョーニスの中で、最もポジティブな気分にさせてくれる作品だった。

祭壇」(1909年)は、もう半年くらい前にチラシの写真で見て以来、その不可思議な光景が消えることなくずっと気になっていた作品だ。
おそらく砂漠と海が出会うところに、階段ピラミッドのように四角錐がサイズを落としながら上へ上へと積み重なる “祭壇(The Altar)” があり、頂上部から上がる白い煙は空を覆い尽くす勢いだ。
その側面には天体や射手などさまざまな図形が描かれていて、人間の精神の諸段階を表す神話であるとか、神智学の理論を踏まえているなどという解釈があるらしい。
そうした記号ないし暗号の読み解きができなければ、作者のメッセージを正確に把握することは難しいのかもしれないが、人智を超えた究極の世界ないし至高なるものを目指す精神の動きを視覚化して見せようとしているのではないかと想像することはできる。
しかしそこに人の姿は見えない、左のはるか下に見える船から推測するとこの祭壇はとてつもなく巨大で、人が取り付いたり登ったりすることは出来そうもなく、むしろ人を一切拒否する観念の世界なのかと思ったりした。

エピローグ” には 「レックス(王)」(1909年)という最大サイズの作品が1点のみあった。
水面の上の祭壇で炎が燃え、その上に王座があって白い半透明の王が座り、それを大きく包み込むようにやはり半透明の黒い王がいる。
空に日と月が見えるここは二元論的な世界なのだろう、しかし善と悪といった単純なものではなさそうで、我々が住んでいるであろう世界も入り組んだ多層構造を成しているらしく、今もこの先も大いなる迷いの中にいるようだ。

チュルリョーニス(1875-1911)の主だった作品は 1908-09 の2年間に集中しており、本作を制作した2年後に35歳の若さで亡くなってしまう。
それはペテルブルクでの活動による過労が祟ってのことらしく、風邪から肺炎をこじらせたというあっけない最期だった上に、その作品はすべてリトアニア国内にあったため、ソ連崩壊後の独立までは国外に知られ評価される機会がなかったようだ。
そのような画家を国立西洋美術館が企画展として(北斎展と抱き合わせという形で)取り上げたのは異例のことと思われるが、この後はどのように評価が定着していくのであろうか。
会場ではチュルリョーニスが作曲した音楽作品も流されていて、第1章のピアノ曲は絵画作品との関連も感じられてよかったが、第2章の交響曲は短い部分のリピートだったのがやや残念だった。

2026年06月06日

美を味わう―懐石のうつわと茶の湯-2

(静嘉堂文庫美術館 〜6/14、展示替えあり)
美を味わう―懐石のうつわと茶の湯” 展の “Gallery 2 懐石道具の華、「向付」のさまざま Diverse Forms of Mukōzuke, a “Star” Among Kaiseki Utensilsに、「阿蘭陀染付花鳥文向付」というデルフト窯の器があった。
湯吞みか蕎麦猪口にちょうどよさそうな形状で、お造りを供したり焼物の取り皿として使うにはやや深すぎるのではないかと思ったが、これはもちろんそのために作られたわけではなく、使う方がその用途に合わせて選択したのだろう。
そもそも懐石の “向付” は日本独特のものであろうから、デルフト窯も景徳鎮窯も、そして国内で焼かれた多くの器も、その美を見込まれて ”転用“ されたものが多かったということなのではないか。

Gallery 3 茶事を彩る、懐石のうつわ Kaiseki Vessels to Add Color to Tea Ceremonies” は “向付” 以外の器たちということか、ここには大きめの鉢や皿に面白いものがあり、白・黄・緑の色面が大胆に配置された「色絵丸紋台鉢」(有田 古九谷様式)、繊細な縁のついたモノトーンの「白釉輪花透し鉢」(野々村仁成)、各月の季節感あふれる絵が付いた尾形乾山の「色絵定家詠十二カ月花鳥図色紙皿」などが目を引いた。
しかしこれらは器としての自己主張が強めなので、客人の注目を集め話題になりやすいというメリットがある一方で、料理を引き立てるには抑制的な器を選択した方がよいのかもしれず、このあたりは亭主の審美眼やセンスが問われるところでもあるだろう。

最後の “Gallery 4 懐石から茶へ―千利休と豊臣秀吉ゆかりの茶道具 From Kaiseki Cuisine to Tea: Tea Utensils Connected to Sen no Rikyū and Toyotomi Hideyoshi” でようやく茶道具が登場、「曜変天目」もここにあったが、これは 初座=懐石 で一通りの食事と酒が終わり、中立でいったん外に出て20分ほど待たされたあとの 後座の話で、ここから濃茶・薄茶と続いていくということらしい。
いままで本格的な ”茶事“ に招待されたことがなかったからよかったものの、もしいきなり参加することになったとしたら、おそらくは八寸の珍味をつまみに飲みたいなあと思いながら出てくる料理を順次いただいて飯と汁で締め、お茶は出ないのかと訝りながら帰ってしまったかもしれない・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2026年06月03日

小林研一郎 名誉区民記念コンサート-1

指揮者 小林研一郎氏の新宿区名誉区民顕彰記念コンサートを聞いた。
(2026年5月31日(日) 15:00〜 新宿文化センター)

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 op.18
(アンコール)リスト:愛の夢第3番
チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
(アンコール)ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
小林研一郎(指揮)、金子三勇士(ピアノ)、東京フィルハーモニー交響楽団

今回のパンフレットにもあった “炎のコバケン” の真価が遺憾なく発揮されたのは、メインの チャイコフスキー交響曲第5番 ホ短調 op.64だった。

低弦とクラリネットによる冒頭の深々とした憂愁の世界が、アレグロに入ると確かな足取りとなって力を得ていき、やがて大きく高揚して一回目の爆発を迎える。
第2主題では一転して美しい弦の響きをたっぷりと歌わせるなど、メリハリの効いた歩みの中にも炎が見え隠れし、熱気の籠った演奏が持続した。
第恭攵呂魯曠襯鵑量憾るような旋律に始まり、管そして弦の細やかなやり取りを経て、内に秘められていた情熱が徐々に高まっていくように長いクレッシェンドが続く。
そして終には、この楽章にこれほどの激しい風が吹きまくる高い山があったかと思うような、圧倒的な頂点へと連れて行かれた。

第軍攵呂離錺襯弔任呂らりと趣が変わり、くるみ割り人形や妖精たちが優美に踊るバレエの世界に招き入れられたよう、次々に円舞が繰り広げられる甘美で陶酔的な時間へと誘われていった。
しかしどこからともなく冒頭の運命の動機が聞こえてくると、一瞬の間をおいて始まった弦の厚みのある響きに心臓を鷲掴みにされて第験攵呂悄熱量の詰まった低音や進軍ラッパのような金管に力を得て音楽は驀進力を増していく。
エネルギッシュなフルオーケストラの響き、とりわけ堂を揺るがすほどの金管の咆哮はまさに “炎のコバケン” 全開の迫力で、おそらくチャイコフスキーの音楽としてはこれより上はないと思われるフィナーレが築き上げられた。
最後の音が鳴ったとほぼ同時に始まった盛大な拍手と歓声は、近頃のコンサートではなかなか遭遇することのないものでもあった。

演奏後はマイクでのトークがあり、東京フィルとは長い付き合いだが今日の演奏ほど白熱したことはない、といった感想を述べられたが、オケも新宿区名誉区民顕彰記念コンサートという晴れの舞台に精一杯応えたということだろう。
その後、アンコールの ブラームスハンガリー舞曲第5番の話となり、本場のハンガリー舞曲は普通にやったのではわからない、と言ってわざわざ冒頭部分をオケと共に ”普通バージョン” と ”コバケン・バージョン” で短く紹介してから、アンコールとしての演奏が始まった。
大きくタメを作ってゆっくりと始まった音楽は、すぐにアッチェレランドして急速な旋回へと変わり、その後も際立った緩急を付けながら、ロマの踊りの興奮へと聴衆を誘っていった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2026年05月31日

チュルリョーニス-3 リトアニアに捧げる絵

(国立西洋美術館 〜6/14)
チュルリョーニス展 内なる星図” の “第3章 | リトアニアに捧げるファンタジー” は、帝政時代のロシアの支配下で抑圧されていたリトアニアの精神が、日露戦争の敗北(1905年)と同年の第一次ロシア革命で事態が流動化する中で、民族解放の機運とともに高まっていったことがわかるセクションだった。
このファクターがなければ チュルリョーニス(1875-1911)の絵画は、“自然”や “音楽”の世界から出ることがなかったのかどうかはわからないけれど、主に観念の世界に生きていたと思われる画家(兼 音楽家)に対し、より切実なテーマを与えたということは言えるだろう。

ライガルダス」(1905年)という3連の横長の作品は、一見したところごく普通の風景画を描いたかと思ってしまいそうな、チュルリョーニスには珍しい何の変哲もない田園風景だ。
しかしこれはリトアニアの民間伝承を踏まえた作品で、繁栄し傲慢になったことから神の怒りを受けて地中に埋められた町の記憶が描かれているとのこと、そうなると、のどかな田園風景を見つつも地の底からの悲痛な叫び声を聞き取らねばならない。

リトアニアの墓地」(1909年)は、聖像を祀る祠がついて独特のシルエットを見せる十字架が林立する薄明りの墓地を描いている。
この形の十字架はリトアニアに古くから伝わるもので、原初的な樹木信仰や太陽信仰に由来するものかと思われるが、おそらくここではそこに葬られた死者を悼むだけではなく、民族全体のアイデンティティとして不遇だった歴史を想起しつつ、圧迫を続けてきた帝政ロシアおよび革命ソヴィエト政権への抗議の意も籠めているのであろう。

構造物のように堅固そうな7本の稲妻が、不穏な雲に覆われた空から水面めがけて落ち込み、超自然的な美しい鏡像を見せている 「稲妻」(1909年)は、技術的観点から最も高く評価したい作品だ。
そこにどのような含意があるのかはよくわからないけれど、ナラティブなしでその世界に入り込み得る、幻想的で充実した画面だった。

蜃気楼のような首都ヴィリニュスの街を背景に、幻影の騎士が疾走して行く 「プレリュード(騎士のプレリュード)」(1909年)は、大公国時代の記憶を呼び起こす愛国的な作品といっていいのだろう。
少し先にあった 「おとぎ話(王たちのおとぎ話)」(1909年)も同様か、向かい合う二人の王の掌の上で光っているのがリトアニア文化の輝きということであれば、このあたりは子供にも分かるような作品を、というような狙いがあったのであろうか。

2026年05月28日

北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより

(国立西洋美術館 〜6/14)
“チュルリョーニス展 内なる星図”と同じ入り口で同時開催されていた “北斎 冨嶽三十六景 井内コレクションより” は、初めは何かの間違いではないのかと思ったくらいだが、2024 年に 葛飾北斎(1760-1849)の『冨嶽三十六景』(1830-33年頃)が井内コレクションから当館に寄託されたため、その初披露でシリーズ全46図を一挙に公開するということだった。
展示は「神奈川沖浪裏」の別刷りと、“赤富士” として知られる「凱風快晴」の希少な色変わり版である通称 “青富士” の2点を加えた全48点を、版下絵が描かれた順序に従い6つのグループに分けて、地下の企画展示室の一段低いフロアの壁面を一周するように並べていた。(ただし紙の両面が見えるようにした3点は展示室中央のパネルで展示) 

本シリーズの全点展示は昨年8月に太田記念美術館で見たところだが、この時の展示順は、まず “三役“ として「凱風快晴」(赤富士)、「神奈川沖浪裏」、「山下白雨」(黒富士)を冒頭に置き、以下は “機ス眥禳后↓供タ緤奸↓掘ヅ垰圓罰稿“ という観点で分けていた。
この分類も面白かったけれど、制作順を推定しての配列も有意義なもので、これを前回選んでみたベスト10(三役は別枠としたので実際は13点)を思い出しながら見ていくというのも興味深い体験だった。

本シリーズの顔と言っていい「神奈川沖浪裏」、「凱風快晴」(赤富士、青富士)、「山下白雨」(黒富士)の “三役“ は本展でも冒頭に登場、シリーズを代表する3点が最初期のグループだったということは、絵師として描きたかったもの、と言うよりは版元として売れそうだと判断したものを、まず頭に持ってきたということであろうか。
グループA(重複を除き10点)にあったベスト13作品は、“三役” に桶職人の「尾州不二見原」を加えて計4点、続くベロ藍ブームに乗ったというB(10点)にも、高瀬舟の「常州牛堀」、投網の「甲州石班沢」、木挽きの「遠江山中」、強風の「駿州江尻」の4点があり、お気に入り作品は前半に集中していたことが分かった。

残りはC(5点)に雪見の「礫川雪ノ且」、D(5点)に松並木の「程ヶ谷」、E(6点)に橋と船の「御厩川岸より両国橋夕陽見」と凧の「江都駿河町三井見世略図」の2点、そして追加の10点であるグループFには材木屋の「本所立川」と、前回特に意識したわけではないのに、何やら各時期にバランスよく入っていたのが意外だった。

なお、前回は “逆さ富士” として知られる「甲州三坂水面」について妙なことを書いたが、本展の解説では化粧を落とした役者のように虚実を見せたといったような形で肯定的に評価していた。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2026年05月25日

美を味わう―懐石のうつわと茶の湯-1

(静嘉堂文庫美術館 〜6/14、展示替えあり)
静嘉堂文庫が所蔵する懐石の器を千利休や豊臣秀吉ゆかりの茶道具とともに展示する、という “美を味わう―懐石のうつわと茶の湯” 展は、いまさらながら “懐石” というものの段取りや作法について知らされるところの多い展覧会だった。

Gallery 1 懐石の流れ The Format of Kaiseki Meals“ では最初に、“懐石とは、正式な茶会である茶事の中で、抹茶を喫する前に出されるもてなしの料理” だと教えられる。
まず一汁一菜のための 飯椀・汁椀とお造りの入った 向付(むこうづけ)が出され、 飯と汁を食したところで一献、次いで 煮物、焼物が順に大皿や鉢で出てくると、空いた向付を取り皿として客が順次取り分けていくのだという。
その後、山海の珍味を盛った 八寸が出て酒を飲み、締めは 湯斗で供せられる焦げ湯と漬物で食事を終え、最後に甘い菓子が出されるようだ。

ここまでが “初座” という部分で、客はこの後一旦茶室の外へ出てしばらく待ち(中立)、合図に従って再び茶室に入ると、ようやく抹茶の出る “後座” になるらしい。
こうした流れは話としては聞いたことがあるような気がするものの、実際に 向付と飯椀・汁椀の3点のみが載った盆や酒を注ぐ 燗鍋、大鉢や湯斗などの現物を見ることによって、”懐石” がこれまで懐石料理ないし会席料理としてイメージしていた和食の流れとはかなり異なるものだということが実感された。

Gallery 2 懐石道具の華、「向付」のさまざま Diverse Forms of Mukōzuke, a “Star” Among Kaiseki Utensils” は、その中の 向付にスポットを当てる。
これは飯・汁椀にはあまり変化がない中で、向付は比較的自由に制作・選択することができ、お造りに始まり煮物・焼物と順次食していく中で使われていくために、”華“ ないし”Star“ の位置を占めるということのようで、ヴァリエーションに富んだ5点セットが多く出てきていた。
基本は景徳鎮窯などの丸型皿なのだろうが、袖型や舟形などの変わり種があり、一枚ずつ形を変えて五種の縁起物を表したものもあるなど自由度が高く、次の会は誰それが来るからどの器を使おうなどと考えるのも楽しかったかと思われた。

だがそうであれば、実際の席でこの中の一種類しか使われないというのは残念な話で、むしろ三菜をそれぞれ(今の会席料理のように)別の器に盛って順次供するようにすれば、三種類の器を楽しむことができそうだ。
そうすれば取り分けの面倒もなく、煮物の汁の残った器に焼物を入れるといったこともなくていいと思うのだが、そうした運用は狭い茶室の中では難しいことなのかもしれない。

このあたりの作品としては「織部角繋ぎ向付」(美濃、17世紀前半)というものが味わい深く思えたが、見ているうちにこの美術館のご近所で長年存在感を発揮しながら最近取り壊されてしまった、前川國男設計の東京海上本社ビルの形に似ていることに気が付いた。
むろん関係があるはずもないが、観賞用の器としてはともかく、取り皿として焼き魚を入れるには狭く深すぎないかと気になったりした・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2026年05月22日

能 「祇王」-4 萌え出づるも枯るるも同じ

能 「祇王」(金剛流 今井清隆・金剛龍謹ほか、3月14日(土)13:00〜、国立能楽堂)を見ての感想はこれまでの3回の記事のとおりだが、本曲の元になった平家物語の中での祇王をめぐる物語は、平家の没落という本筋とはあまり関係がないだけに、どこまでが実話なのか、なぜこのエピソードが挿入されることになったのかといった疑問が残る。
それでも、おそらく読んだ誰もが清盛の移り気や冷淡さをまず思い、そうした中で生きていかなければならない女たちの運命に思いを馳せていくことになる。

萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋にあはで果つべき“ と歌って去っていった祇王のみならず、一旦は勝者となりながらそのことで苦しんだ仏御前も、寵愛を受ける絶頂の立場から出家して尼となるという物語は、多くの人々の共感を誘う力を持っている。
と同時に、平家物語全体に通底する無常感や盛者必衰の運命を、まだ清盛が栄華を極めているという早い段階で意識させることになり、この後にやってくる衰退と滅亡を予感させているようにも思われてきた。

本編前に行われた 田中貴子氏の解説によれば、本曲は上演頻度が少ない演目で、国立能楽堂の主催公演としては今回が5回目なのだそうだ。
40年以上の歴史の中での上演総数は2000回くらいになるであろうから、その中での5回というのは確かに少ない部類だろう。

その理由としては、現在能であり一般的には名作に数えられていないこと、そして相舞があるため事実上シテが二人といった形になることなどが考えられそうだ。
しかし相舞という形式については、瞽女(ごぜ)や琵琶法師も二人一組で動くことが多かったという解説があり、さらに彼ら芸能民は、もともとは他人でありながら親子や兄弟姉妹といった擬制親族として活動したという話も興味深かった。

兵藤裕己氏によれば祇王と祇女も実際の姉妹ではなく、祇王の母とされる刀自もまた実の親ではないそうで、そうなると、我々が京都嵯峨野の祇王寺を訪ねた時の感興もやや違ったものになりそうだが、そこにこそ白拍子も含む芸能民ならではの生き方があったということなのだろう。
むしろ彼女たちも擬制家族として共同体を営んでいたと考えることによって、のちに仏御前が出家して祇王を訪ね、一旦は拒絶されながらも受け入れられた末に、四人で念仏の日々を送って往生を遂げたと語られる最期に、一層の得心が行くような気がする。


余談だが、私が奈良や京都の寺巡りによく訪れていた頃、若い女性たちの京都とりわけ嵯峨野への旅がちょっとしたブームで、中でも祇王寺は、直指庵とともに人気の目的地になっていたと記憶する。
それは、失恋したり結婚が決まりかけたりといった節目に、日常から離れてみるための場所となっていたからだという話を聞いたような気がするが、祇王寺に関して言えば一時は荒廃していた寺を新橋の芸妓だった女性が再興し、悩める女性を受け止める場所にしたという由緒に沿ったものでもあったのだろう。

そうしたこともあって祇王の物語は平家物語の中でも広く知られる話となったと思われるが、それも ”寿退社“ なんていう言葉があり、「瀬戸の花嫁」とか「22才の別れ」といった曲が流行っていた頃のことだ。
その後の雇用機会均等法や女性活躍推進法などで大きく様子が変わってきている現在、祇王寺は変わらず多くの女性が訪れる人気の場所であり続けているのであろうか。

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2026年05月19日

河鍋暁斎の世界-2 けもの、ひと

(サントリー美術館 〜6/21)
ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界” 展は、役者が揃った “第1章 ゴールドマン・コレクションのスターたち”に続く第2章以下で各論に入り、テーマごとに 河鍋暁斎(1831–89)の作品を見ていく。

第2章 けもの” はカラスから始まるが、本章以降は巷の好評に応えて百枚描きのように量産されたものも多く含まれているようで、即興的な面白さがある一方で完成度は必ずしも高くない。
そんな中で 「旭日に鴉」(明治16年(1883)頃〜22年(1889))は、上ってくる朝日を背景に梅の木の上で大きく口を開けて啼くカラスに見応えがあった。

猫又図」(明治4〜22年(1871〜89))は妖怪猫又が手拭いを被り両手を挙げて踊っている図で、背景の処理の巧みさもあってアニメのように動いて見える。
その後で隣の 「石灯籠の上で寝る猫」(同)を見れば、最初はよくわからなかったのだがその妖怪猫又が踊り疲れたのか、妖気が解けてしまって眠りこけているところらしい。

鯰の曳物を曳く猫たち」(同)という横長の図は、役人に見立てた鯰を遊女に見立てられた猫たちがいたぶる図に “瓢箪鯰”を絡めた機知溢れるものだった。

階段を下りて “第3章 ひと” に進むと、「天狗たちの書画展観会」(明治4〜22年(1871〜89))で天狗に見立てられているのは、知ったかぶりをする似非文化人たちのようだ。
鼻の長さはピノキオを思い出させるが、お前ら何も分かっちゃいないだろう、と正体を暴いているようなこちらの風刺はなかなかきつい。
群盲評古図」(同)で絵を見ずに論じている評者たちも同様と思われるが、これらの作品が物議を醸すことはなかったのであろうか。

とうもろこし図、すすき図」(同)は、濃い墨と思い切りのいい筆遣いでリアルに描き出されたトウモロコシと、薄墨でぼかされたススキが好対照を成している。
これがなぜ “ひと” かをひとまず横に措けば、正統的な水墨画として本展中最も感心させられた作品だった。

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2026年05月17日

LFJ-2 ケフェレック ”川辺での沈思”

今年の ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026、 アンヌ・ケフェレックさんのソロ・コンサートは、「LES FLEUVES(レ・フルーヴ) ―― 大河のテーマに沿って <川辺での沈思> というプログラムが組まれていた。

#322 2026年5月5日 (火・祝) 12:00〜 東京国際フォーラム ホールC:ヴルタヴァ
<川辺での沈思>
J.S.バッハ(ブゾーニ編):コラール前奏曲「来たれ異教徒の救い主よ」 BWV659a
J.S.バッハ(マルチェッロ原曲):協奏曲 ニ短調 BWV974から アダージョ
スカルラッティ:ソナタ ニ短調 K.32
J.S.バッハ(ヴィヴァルディ原曲):オルガン協奏曲 ニ短調 BWV596から ラルゴ
ショパン:夜想曲 ト短調 op.15-3
ヘンデル(ケンプ編):組曲第1番 変ロ長調 HWV434から メヌエット ト短調
ショパン:夜想曲 ト短調 op.37-1
J.S.バッハ(ヘス編):コラール「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147
ドビュッシー:前奏曲集 第1巻から 沈める寺
サティ:ジムノペディ第1番
ドビュッシー:前奏曲集 第1巻から 雪の上の足跡
ドビュッシー:「ベルガマスク組曲」から 月の光
ショパン:子守歌 変ニ長調 op.57
ドビュッシー:「映像」第1集から 水の反映
 アンヌ・ケフェレック(ピアノ)

演奏の前にご本人から、全体の流れを大切にしたいので曲の間では拍手をせず、プログラムも見ないで川の畔を散歩しているような気分で聞いてほしい、という話があり、さらに続けて、今回は ショパンの作品を中心にして、ショパンが愛したバロックの作品と、ショパンを愛したフランス人作曲家の作品で構成した、といったことが語られた。
実は今回の選曲を見た時に、2015年の ”PASSIONS パシオン - 恋と祈りといのちの音楽” あたりからのバロックの小品集 ”瞑想”と、2019年の ”Carnets de Voyage ボヤージュ - 旅から生まれた音楽” での ”水”に因んだ二つのプログラムを合わせたものだと思いつつ、時代や作風が微妙に入り組んでいるように感じていたのだが、この説明(と、もちろんその後の演奏と)で納得がいった。

静けさの中から徐々に姿を現すようなバッハのコラール前奏曲に始まり、前の曲の余韻の中から次の曲が立ち上がるようにして、バッハの編曲ものやスカルラッティヘンデルが弾き継がれていく。
このバロックを中心にした前半部分は、河辺に佇んだままの ”沈思” らしい雰囲気で、瞑想的で透明度の高い時間が過ぎていった。

そうした空気が少し変わったのは ショパンの「夜想曲 ト短調 op.37-1」から、ここに入る前に少し長めの間合いを取って弾き出された音楽は、それまでの静謐だった水面にわずかな感情の波を起こさせたようだ。
もちろんその前の 「夜想曲 ト短調 op.15-3」から微かな兆しはあったのだが、このあたりまでの(おそらく)ニ短調ないしト短調が持続する流れを バッハの カンタータ147番のコラールで変えると、ドビュッシーの 「沈める寺」で一気にドラマティックな世界へと入っていった。

同じくドビュッシーの 「雪の上の足跡」は、ケフェレックさんの演奏で聴くのは初めてかと思うが、謎めいた音型が思いがけない硬度を持ち、形而上的な問いを投げかけているような気配が感じられた。
続く 「月の光」はその直後だっただけにいつも以上に明るい光が差してきたよう、そして繊細優美な装飾を纏った ショパンの 「子守歌」がゆったりと慈しむように奏でられると、最後は ドビュッシーの 「水の反映」で煌びやかに締めくくられた。


>アンヌ・ケフェレック @ラ・フォル・ジュルネ
2005 ベートーヴェンと仲間たち 
2006 モーツァルトと仲間たち 
2008 シューベルトとウィーン 
2009 バッハとヨーロッパ 
2010 ショパンの宇宙 
2012 サクル・リュス 
2013 パリ、至福の時 
2014 10回記念祝祭の日 
2015 PASSIONS パシオン - 恋と祈りといのちの音楽 
2016 la nature ナチュール - 自然と音楽 
2017 La Danse ラ・ダンス - 舞曲の祭典 
2018 Un Monde Nouveau モンド・ヌーヴォー - 新しい世界へ 
2019 Carnets de Voyage ボヤージュ - 旅から生まれた音楽 
2023 Beethoven ベートーヴェン 
2024 ORIGINES オリジン - すべてはここからはじまった 
2026 LES FLEUVES レ・フルーヴ - 大河 

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2026年05月14日

クロード・モネ-4 風景、連作、睡蓮

(アーティゾン美術館 〜5/24)
“クロード・モネ ―風景への問いかけ” 展は、アルジャントゥイユとヴェトゥイユの時代を過ぎて “セクション6 1880年代の風景探索―「表現された感覚の驚くべき多様性と大胆な新しさ」(オクターヴ・ミルボー)” へに進むと作風が一変する。
1881年12月にヴェトゥイユを離れてポワシーに移った モネ(1840‒1926)は、その後積極的に旅に出たこともあり 「オランダのチューリップ畑」(1886年)といった名所絵風の作品や、「ベリールの岩、コート・ソヴァージュ」(1886年)などに見る荒々しい海景などに取り組むようになる。

生活や精神状態の立て直しと作風の変化の先後関係にはよくわからないところもあるけれど、「戸外の人物習作―日傘を持つ右向きの女」(1886年)はモネが新たな地点に立ったことをはっきりと示す作品だろう。
白い服を着てパラソルを指す女性をそこに置くことによって、眩しい光と爽やかな風が誰の目にも見えるものになった。

セクション7 ジャポニスム” の後の “セクション8 連作—反復—屋内風景” は、ポプラ並木、ルーアン大聖堂といった特定の対象や、ロンドンやヴェネツィアなど旅先の風景をさまざまなヴァリエーションで描いたことが紹介されていた。
光の強さや時間帯によって様相を変える風景への着眼は面白いが、一方でアイディアの枯渇といったこともあったかもしれず、いずれにしてもここにモネの試みを十分に納得できるだけの作品数はなかった。

セクション9 写真室2:効果と反射―写真による風景、夢見た風景”、さらに “セクション10 写真室3:ジヴェルニーの庭のクロード・モネ―エティエンヌ・クレマンテルのオートクローム” と写真が続いた最後に、 “セクション11 池の中の世界―睡蓮” に到達する。
1890年に50歳でジヴェルニー移り住んでから晩年まで、モネが “睡蓮” に取り組んだ期間は30年ほどに及ぶが、これは大きく3期に分けられるだろう。
すなわち、風景としての睡蓮の池を写生した第1期(「睡蓮の池、緑のハーモニー」(1899年)など)、水面に映る空と水の中を描いてイリュージョン効果を見せる第2期、そして荒々しいタッチでほとんど抽象画と化した第3期(「しだれ柳」(1920-22年)など)だ。

その中で私が最もモネらしいと思う第2期の作品は2点、「睡蓮」(1903年、石橋財団アーティゾン美術館)は水面が鏡のようになって夕日の空を美しく映していた。
その横に出ていたほとんど同じ構図の 「睡蓮」(1907年、和泉市久保惣記念美術館、〜4/5)は、筆触にやや粗さが見られるためか水面が鏡の効果を弱めて揺らぎを起こし、それによってオンディーヌが棲む水の中をより感じさせる作品になっているように思われた。


>モネ関連記事
モネ (2016、東京都美術館) 
モネとジヴェルニーの画家たち (2010、ザ・ミュージアム) 

2026年05月11日

チュルリョーニス-2 フーガとソナタ

(国立西洋美術館 〜6/14)
チュルリョーニス展 内なる星図の “第2章 | 交響する絵画” は、音楽の構造そのものを絵画化した作品を提示していた。
それは音楽が想起させる景観や色彩や感情などを描いて見せるというのではなく、音楽が時間とともに構築する秩序自体を視覚化しようとする試みのようだった。

父親がオルガン奏者だったという チュルリョーニス(1875-1911)は、18歳でワルシャワ音楽院、26歳でライプツィヒ音楽院に進み、音楽家として本格的なキャリアを築いた後に、28歳でワルシャワ美術学校に入学して絵を学び始める。
その動機の正確なところはよくわからないが、まず考えたのが音楽と美術の融合ということであったということは容易に想像できる。

作品はまず「プレリュード」と「フーガ」のセット(1908年)が2組あり、これは自由な形式のプレリュードと対位法的なフーガによって、バッハの平均律的な世界に近づこうという着想かと思われた。
それ自体は実験的試みとして面白いと思うけれど、絵画芸術として十分に消化ないし昇華していないのではないかという思いは禁じ得なかった。

少なくともフーガは、樅の木と水の反映にずれが生じているところなどによって、反行や倒立を含んだ遁走の展開を表現しようということかと思うが、もう少し秩序感が伝わるように堅固で構築的なものを求めたいと思うし、プレリュードもそこへの導入として納得感のあるものであってほしい。
このテーマはおそらく、来日した2セット以外にもっと完成度の高い作品があるのだろう。

ソナタ」は3セット、「第3ソナタ(蛇のソナタ)」(1908年)は蛇をテーマに重層的世界を駆け上がるアレグロから、アンダンテ、スケルツォ、フィナーレと続いていたが、中間楽章のあたりがやや類型的だろうか。
第5ソナタ(海のソナタ)」(1908年)もそれほどの意外性はないものの、波が泡立つようなアレグロ、静かな海底世界のアンダンテ、大きな波が北斎のように立ち上がるフィナーレ、という三部構成は、熱情ソナタのイメージに繋がるもので納得感があった。

本シリーズが何セットあるのかはよくわからないが、来日した作品の中では最終となるらしい 「第6ソナタ(星のソナタ)」(1908年)は、この試みとしては最も完成度の高いものだった。
アレグロは混沌とした中から高次元へと力強く上昇するエネルギーを感じさせ、アンダンテは天上の世界か死後の世界を思わせる静謐さに包まれていて、こちらはベートーヴェンの最後のソナタを一瞬思い浮かべたりした。
しかしそこにはなお胸騒ぎを覚えさせる何かがあって、最終的な到達点が示されたというわけではないように思われた。

2026年05月09日

LFJ-1 ケフェレック&シャルリエのソナタ

今年の ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2026 は 「LES FLEUVES(レ・フルーヴ) ―― 大河」がテーマ、諸大陸を潤して流域の文化や音楽の発展に重要な役割を演じ、音楽家たちにも数々のインスピレーションを与えてきた大河に着目し、世界各地を周遊する “音の世界旅行” へ誘うという企画だった。

#224 2025年5月4日 (月・祝) 16:30〜 東京国際フォーラム ホールC:ヴルタヴァ
<名手2人が織り成す、黄金色に輝いた妙なる室内楽>
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ第40番 変ロ長調 K.454
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 op.24「春」
 オリヴィエ・シャルリエ(ヴァイオリン)
 アンヌ・ケフェレック(ピアノ)

最初に聴いたこのコンサートはストレートに ”大河” を感じさせる曲目というわけではなかったが、ガイドブックには ”ドナウが鼓舞したウィーン古典派の至芸、ヴァイオリン音楽史に燦然と輝く2つの傑作を” とあり、配布されたプログラムでも、幼少期から演奏旅行を繰り返したモーツァルトはドナウを何度も行き来し、ベートーヴェンもラインとドナウの船旅でウィーンにやってきた、といったことに言及されていた。

モーツァルトヴァイオリン・ソナタ アンヌ・ケフェレックさんの演奏で聞くのは、CDも含めてたぶん初めてのことだ。
この分野のモーツァルトの代表作と言えば、ハスキルの名盤のオープニングを飾る変ロ長調のK378や、演奏頻度の高そうなト長調のK.301やホ短調のK.304がまず思い浮かぶ一方、規模の大きさや書法の充実ということでは、本曲またはイ長調のK.526が到達点ということになるのだろう。

この 第40番 変ロ長調 K.454 は序奏付きの3楽章形式で、イタリア人女性ヴァイオリニストがウィーンで演奏会を開くにあたりモーツァルトに共演を依頼したが、多忙だったためピアノのパート譜が間に合わずほとんど即興で伴奏したと伝えられている。
それでもその後しっかり譜面にして出版したところを見ると、本人も埋もれさせるには惜しいと思うほど気に入っていたということなのであろう。

演奏は序奏部分のピアノのたっぷりとした歌い方で曲の方向性が定まると、アレグロに入って音楽が軽やかに流れ出しモーツァルトの愉悦が全開になった。
第恭攵呂脇辰法オリヴィエ・シャルリエ氏とのヴェテラン二人の静かな語り合いが胸に沁み入ってくるようだった。

ベートーヴェンヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ長調 op.24「春」は比較的若い時分の作品だが、最初期の内輪で楽しむ室内楽(ヴァイオリン・ソナタ第1〜3番op12も含まれる)が中心の段階から、ピアノ協奏曲第1番op.15、6曲の弦楽四重奏曲op.18、交響曲第1番op.21などで一段の飛躍を遂げた後に書かれた作品だ。
対となる第4番op.23の方が曲想的には攻めている印象がある一方で、第5番は ”スプリング・ソナタ” として親しまれ、優しいベートーヴェンを代表するようなイメージで語られることが多いけれど、4楽章形式という構成や第騎攵呂療験部の大きさなどは、当時としては革新的なものとして受け止められたであろう。

こうした音楽祭の大きなメリットは、ヴァイオリン・ソナタと呼ばれるジャンルの作品でも、ピアニストが同等かそれ以上の表現力で、伴奏に留まらない演奏を聞かせてくれることだ。
この日もケフェレックさんのピアノにより、この曲がいつもよりずっと立体的で生き生きしたものに聞こえた。
春風のような第騎攵呂ら沈思の第恭攵呂魴个得欧譴笋なフィナーレまで、多幸感に満ちた春の音楽だった。

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2026年05月06日

長沢蘆雪-3 狗子図、春の江戸絵画まつり

(府中市美術館 〜5/10、展示替えあり)
東京では64年ぶりという 長沢蘆雪(芦雪、1754〜1799)の展覧会は、技法に注目した “1.蘆雪の造形、二つの世界“に続いて、”2.蘆雪の表現したもの“ ではテーマごとに蘆雪の作品を見ていく。

最初のコーナーは ”微妙な趣、ファンタスティック“、ここを 「竹林蝙蝠図」で代表していいのかはわからないが、縦長の軸の中央少し上に大きなおぼろ月、手前には淡い影となった竹林が見える画面の上の方を、コウモリが真っ直ぐにすーっと飛んでいく。
他にも異様な影をもつニワトリ、もの言いたげなカメ、一本の糸の上を這うクモなど、蘆雪ならではの一風変わった作品が続いていたが、これらも応挙の作風から距離を置き始めてから視野に入ってきたものなのであろう。
宮島八景図」(重文、文化庁)は、一見したところ正統的な名所絵だが、どこか頼りなげで夢見心地の感じが漂っていた。

次は “動物の命”、「鶴亀図」(致道博物館)は主役を張る親鶴ではなくまだ弱々しいヒナ鳥と、これもなんとなく心もとない感じのカメが、よく見る吉祥画とは趣を異にする親密な雰囲気を醸し出していた。

その先は “狗子図”、このジャンルは前期の目玉で、宗達や応挙の作品も含めてかなりの点数があったようだが、うち4点が後期も継続展示となり計6点のコーナーになっていた。
南天狗子図」は、応挙の作風に近い端正な子犬が二匹いる空間を、南天の堅固な枝ぶりが引き締めている。スキのない名品という印象ではあるが、蘆雪としてはここに留まっているわけにはいかないといったところだったであろうか。
童子に狗子図」は子供に無心でじゃれつく白い子犬と、その様子を後ろから静かに見ている茶白の取り合わせがいい味を出していた。
子犬図屏風」は金粉も塗した豪奢な屏風に胴の長い犬たちがいて、ゆるやかな空間と時間が画面全体にひろがっていく。
寒山拾得図」は、お決まりの二人の図の隅にいる3匹の子犬が、どうやら後から無理やり描き入れたものらしく、おそらくは依頼者の強いリクエストに応えてのことだったのだろう。

菊花子犬図」は9匹の子犬たちがひとかたまりになってじゃれ合っている図、このあたりは必ずしも制作年代順に並んでいるわけではないのかもしれないが、応挙の下での学びから徐々に離れて自分の世界を作っていく過程が見えるようだ。
画面の中の子犬たちもそれに伴って、賢そうな ”応挙犬” からやんちゃだったりのんきだったりする ”蘆雪犬” へと変わっていっている。
枯木狗子図」は細い枯れ木を背景に二匹の犬が後ろ向きで寄り添っている図で、その表情を見ることはできないのだが、背中からでも二匹の関係性や心情が伝わってくるようだった。

花鳥遊魚図巻」(重美、文化庁)も訪問時に広げられていたのは子犬たちの部分、この後 “ちびっこ集まる” でかなりの数の子どもが登場する賑やかな絵を見た後に、無量寺作品を中核とする「竜虎図」の “特別編”が待っていた。


あらためて全体を振り返ると、“迫力の虎も、キュートな子犬も、ぜんぶ愛おしい” という本展は、展示作品のラインナップだけでなく章解説や作品解説にも独特の味わいがあって、企画者と架空の対話を交すような気分で蘆雪画を堪能させてもらった。
それは “春の江戸絵画祭り” と称して20年以上の実績を積み重ねられてきた実績のおかげに違いないが、そのシリーズも今回で最後となってしまうようだ。
私自身が実際に出かけられた展覧会は多くないが、そのユニークな着眼は毎年あちこちで話題になっていたので、何らかの形で引き継がれていくことを願いたいと思う。


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2026年05月03日

河鍋暁斎の世界-1 コレクションのスターたち

(サントリー美術館 〜6/21)
7歳から歌川国芳に、次いで狩野派に師事し、安政4年(1857)に26歳で絵師として独立したという 河鍋暁斎(1831〜89)は、確かに絵は上手いし、発想はユニークだし、表現の幅も広い。
そのトップクラスの質と量を誇るという “ゴールドマン コレクション 河鍋暁斎の世界” 展は、 “第1章 ゴールドマン・コレクションのスターたち” に、今回注目すべき作品のほとんどが集まっていた。

書画会図」(明治9〜11年(1876〜78)頃)は54人による合作というが人物は全て暁斎なのであろう、この絵師が得意とした席画の場面の賑わいが稠密に描かれていた。
蛙や猫などゆるめの作品が並ぶ先で目を引いたのは 「烏瓜に双鴉図」と 「枝上寒鴉図」(明治4〜22年(1871〜89))、濃い墨と大胆な筆捌きによってカラスの獰猛さや不吉さが強調され、遭遇した時の忌まわしい気分までを描き出しているようだった。

半身達磨図」(明治18年(1885))はイスラエル・ゴールドマン氏の暁斎コレクションの出発点になったという作品、若々しく精悍な面構えが求道者、改革者としての気力の充実を示している。正統的な水墨画としての多彩な筆遣いも興味深いが、強烈な人格がそこに出現しているかのような迫力がコレクターの心を捉えたのであろう。
竜頭観音図」(明治19年(1886))や 「雨中山水図」(明治17年(1884))なども、禅僧の筆によるものだといわれたら信じてしまいそうな、奇矯さのない正攻法の作品だ。

一方、「鷹に追われる風神」(明治19年(1886))は急降下する鷹のスピード感と情けない風神の対比が面白く、「閻魔大王浄玻璃鏡図」(明治4〜22年(1871〜89)/明治20年(1887)か)は玻璃鏡に映る清廉潔白な女性に驚き戸惑う閻魔と獄卒たちの慌てぶりに笑いを禁じ得ない、これぞ暁斎といった戯画的な作品だ。
地獄太夫と一休」(明治4〜22年(1871〜89))の二幅は両方の特徴がよく盛り込まれた作品で、特にその画力には感服するほかないけれど、二兎をほどよく追い過ぎている感じがしないでもない。

六曲一双の大きな画面に鬼たちがくっきりと描かれている 「百鬼夜行図屛風」(同)は、下絵などを使って綿密に構成したのか即興的に描いたのかよくわからないが、実物を見てきたかのような確信的な筆の運びは驚嘆に値しよう。ただ鬼たちの姿は互いにそれほどかけ離れているわけではなく、百鬼といいつつ特定の鬼の一族郎党が行進しているように見えた。
幽霊図」(慶応4/明治元年(1868)頃〜3年(1870))は西洋画かと思う陰翳の濃い作品で、ピカソの青の時代をふと思い出したりした。

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2026年05月01日

能 「祇王」-3 祇王御前心にかけ給ふな

能 「祇王」(金剛流 今井清隆・金剛龍謹ほか、3月14日(土)13:00〜、国立能楽堂)の後場で、祇王(ツレ)と仏御前(シテ)による 相舞が終わった後に、仏御前ひとりが舞う 破ノ舞を鬘桶に座って見ていた 祇王は、最終盤になって突如立ち上がり一歩前に出てきた。

最後はまた相舞になるのかと一瞬思ったりもしたが、彼女は独舞をする仏御前と向かい合い、そっと言葉を交すような仕草を見せた。
あるいは実際に言葉を発したわけではなかったのかもしれないが、それは「人は何とも花田の帯の、引きかへ心は変はるとも、祇王御前心にかけ給ふな、我が名は仏、神かけて、深き契りの中ぞとは、よしなや聞かじと諸共に、空言なくこそ契りけれ」 という詞章の最後の部分に見える、二人の心の通い合いを体現したものに違いなかった。

それは、祇王御前よ、どうぞお心にお懸けなさいませんよう、私の名は仏、神仏にかけて深い契りの仲なのです、と、祇王にとっては過酷としか言いようのない顛末の最後に、あたたかな救いの光を感じさせる場面であった。
その後祇王は、曲がまだ続いている中、静かに独り橋懸りを去っていき、舞台には仏御前のみが残されて終曲となった。

本曲のタイトルは「祇王」だが、祇王はツレで、仏御前がシテとなっている。
それは相舞のあとの破ノ舞を仏御前がひとりで舞う一方、祇王は鬘桶に座ってこれを見たのち終曲を待たずに去っていってしまうのだから当然といえば当然なのだが、観る方としては短い間に大きく運命が変わってしまった祇王の方に同情したくなる。
そして、祇王は清盛の当初の意思に反してあえて仏御前にチャンスを与える必要はなかったのではないか、あるいは経験を生かして相舞の場面で仏御前を圧倒することもできたのではないか、などと埒もないことを考え始めてしまう。
そして、それにしても清盛は酷いではないか、と、そこに居て場を支配しているのに顔も見せない清盛に当たりたくなったり、やはり悪いのは仏御前ではないかと思ってみたりもする。

そういえばアイ狂言の下人も、祇王を世に並びなき白拍子で寵愛はなはだしく、などと持ち上げる一方、仏御前については強引に乗り込んできたなどと非難がましく語り、独り言ではあるが祇王をいたわしく思っている、などと心情を吐露していた。
これはこれで出過ぎた言のようにも思われるが、上司の瀬尾太郎があまりに配慮のない指示を発し続けていることとのバランスをとるという意味もあったのかもしれない。

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2026年04月28日

長沢蘆雪-2 応挙風から禅・南画風へ

(府中市美術館 〜5/10、展示替えあり)
今回の 長沢蘆雪は、“迫力の虎も、キュートな子犬も、ぜんぶ愛おしい。最後の春の江戸絵画まつり 「奇想」か「かわいい」か── 21世紀の蘆雪を楽しむ、東京で64年ぶりの蘆雪展” といったコピーが話題となり、無量寺の「竜虎図襖」が来ていることもあって大変な盛況のようだ。
応挙門下からの “はみ出し” として必ずしも高い評価を得ていたわけではなかったのに、1970年に “奇想の画家” として脚光を浴び、最近は ”かわいい“ 系としても注目されているという蘆雪(芦雪、1754〜1799)だが、本展冒頭で知らされるのは、制作年代がわかる作品が少なく大部分は30〜46歳の16年間に集中しているので、時系列で生涯を追うという構成はとらずに ”どう描いたか、何を描いたか” といった観点で構成されているということだった。

まずは ”どう描いたか“、“1.蘆雪の造形、二つの世界“ の最初のコーナー ”応挙風とその変化“ では、師・応挙の作品との対比で蘆雪の学びとその後を見ていく。
お題は鯉、蘆雪の鯉もなかなかに迫力があって面白いのだが、まさに本物の鯉がそこに泳いでいるような応挙の「鯉図」のリアルさには及ばない。
それでも応挙のスタイルで描いていれば絵は売れて生活にも困らなかったであろうが、蘆雪は、それではつまらん、後世に名を残したいんだ、とまで思ったかどうかはわからないけれど、いつまでも応挙の亜流と言われて師の作品と比較され続けるのは耐え難い、どこかで離れていかなければ、と考えたとしても不思議はない。

人物を描いた 応挙の 「西王母・寿老図」(敦賀市立博物館)も、静謐さの中に揺るぎない品格の感じられる逸品だ。
一方 蘆雪の 「西施浣紗図」は、そうした観点からは同列というわけにはいかないが、敵国に嫁がされる悲運の女性が川辺で織物を濯ぐ様子は、(泳ぎ寄ってきた亀との対話を模した解説の効果もあって?)絶望的な状況にある哀しみや、過酷な運命に抗えない儚さといったものを切々と伝えているように思った。

続く “「ラフ」の魅力” では、蘆雪が応挙の作風から離れていくきっかけが禅画や南画だったことが示され、例として 白隠の「布袋図」や 仙 の「欠伸布袋図」なども出てきていた。
絵変わり図屛風」はそうした影響のもとでの作品に違いなく、「船子和尚」の迫力ある動きや「牧童」の飄々とした風情などは、確かな技量に裏付けられた禅画的世界と言えるだろう。

寒山拾得図」(高山寺(田辺市)、和歌山県指定文化財)も、かなり複雑な表情を大胆な筆の動きで表現していて、応挙風の外に表現の可能性を見つけた高揚感が伝わってくるようだ。
なめくじ図扇面」や「柳と烏図」(高山寺)などには禅画に加え文人画の影響もあるのか、それにしても “なめくじ図” はどのように発想されたものなのであろうか。

朝顔に蛙図襖」(高山寺、田辺市指定文化財)は6面の襖を使った作品だが、右から3面目の細い竹の根元に2匹のカエルがいて左の方を窺い、その左端からは上に伸びた朝顔の蔓が、2つの面をまたいでカエルの頭上の竹に絡まるというだけの簡素な作品だ。
しかし、濃い墨で描かれた朝顔の花や竹の葉、そしてカエルは簡素な筆ながら的確に描かれて画面のよいアクセントとなっており、白い大きな空間を引き締めつつそこをゆるゆると進んで行く蔓のか細い線を心地よいものにしている。
本作は無量寺での仕事の帰路に立ち寄った際のものなのだろうか、時系列はよくわからないものの、応挙の下で学んだ技と禅画・文人画の精神性が蘆雪の中で触れ合ったからこその作品という感じがした。


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2026年04月26日

波多野睦美〜ダウランド没後400年に寄せて-2

東京・春・音楽祭のミュージアム・コンサート “ダウランド没後400年に寄せて”(2026年4月9日 [木] 14:00〜 国立科学博物館 日本館2階講堂)の後半は、波多野睦美(メゾ・ソプラノ)と瀧井レオナルド(リュート)のデュオで、ダウランドの歌曲集の第3巻と第4巻を中心にその後半生が辿られた。

第2巻の3年後となる1603年に出版された《歌曲集 第3巻》からの「時が立ち止まり」「愚かな蜜蜂が」「さようなら残酷な人」が比較的平明に響いたのは、第2巻が好評だったために次の巻の出版が急がれたのか、あるいは音楽活動以外も含めていろいろと忙しくなったといった事情があったであろうか。
確かにダウランドは、エリザベス1世の宮廷リュート奏者に採用されなかったことからその後にヨーロッパ各地を遍歴したり、1598年にはデンマークの宮廷リュート奏者となったりしたので、イングランドに戻る1606年まではあまり落ち着いた環境だったとは言い難い。

この後コンサートは、波多野睦美さんによる シェイクスピアソネット 第8番の朗読があり、続けて 瀧井レオナルドさんのリュート・ソロで ダウランドの「ウィンター夫人のジャンプ」「ジョン・ダウランドのガリアード」が演奏された。
デュオに戻ると、実質的な第4巻となる《歌曲集 巡礼の慰め》から2曲、この歌曲集は1612年頃というので第3巻から9年後、イングランドに帰国してジェームズ1世付きのリュート奏者となった頃で、年齢も50歳に近く円熟期ないし晩年という時期の作品だ。

言葉で訴えようか」は、以前見られたような若干の生硬さや常套的手法に代わって、流麗さやドラマティックな展開が際立ってきていて、芸術表現としても音楽技法としても一段の進歩があったように思えた。
ただし波多野さんの解説によれば、イタリアのマニエリスムが入ってきて自身の作品が古風なものとされたことに不満を抱いていたようでもあるので、内的な成熟というよりは外的な必要性に迫られての自己変革であったのかもしれない。

時よ しばらく立ち止まれ」は、“飛んでいくな、ここにいて死にそうなぼくを哀れんでくれ“ と呼びかけ、”さあこの目を閉じてくれ、幸福に死ぬ方が苦しみながら生きるよりずっとましだ” と繰り返す、かなりメランコリックな趣の作品だ。
ダウランドの歌曲の歌詞は誰によるものかよくわからないということだが、宮廷リュート奏者のポストを得られなかったことから始まった憂鬱症に悩まされていたという事情も考えると、このように厭世的な詩は自分自身ないしはかなり近いところにいる人物によるものではないかという気がするのだがどうであろうか。

最後は息子のロバートが1610年にまとめたアンソロジーである《歌曲集 音楽の饗宴》から 「暗闇に私はすみたい」、半音階的な進行や不協和音もあり、リュートのイントロにアウトロまであって意欲作には違いないが、“悲しみの床、絶望の屋根、光を遮る大理石の壁に囲まれた暗闇に私は住みたい” と始まり、“生きながら死なせておくれ、真の死が訪れるまで” で終わるという、救いのかけらもない重苦しい作品だ。
それこそがダウランドなのだとは言え、アンコールで少しは明るい気分に戻してくれるのかと期待したのだが、一度も拍手に応えることなくコンサートはそのまま幕となった。

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2026年04月23日

チュルリョーニス展 内なる星図-1 閃光

(国立西洋美術館 〜6/14)
リトアニアを代表する芸術家、という ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス(1875-1911)の絵画は、精神世界の多様さや音楽との関わりなどで、見る者に謎をかけ挑戦してくるような雰囲気を持っていた。
まず作曲家として実績を積んだのちに28歳で絵を学び始めたというチュルリョーニスは、音楽では表現しえないもの、まだ誰も描いていそうもないものを描きたかったのだろうか。

プロローグ” には、ワルシャワの美術学校に入ってすぐの初期作品 「森の囁き」(1904、国立M. K. チュルリョーニス美術館(カウナス)蔵、以下同じ)が1点、暗い森の木立がオルガンないしハープに見立てられているようだったが、絵としてはまだまだという印象だ。

第1章 | 自然のリズム” で最初に興味を引かれたのは 「閃光」(1906年)という3点の連作で、蛍の光のようにも見える閃光(Sparks)が、機ヌ犬涼罎ら生まれ、供コ垢涼罎防困そ个掘↓掘ドにのって流れていく という展開が見える。
初めのうちは覚束ない感じで寂しげに見えていたものが、やがて華やぎや力強さを感じさせるようになっていくところには、おそらく精神の光、あるいは画家の魂そのものが託されているのではないかと思われた。
これは紙とテンペラによる作品だが、フッ素エッチングの小さな作品も何点かあり、「鐘楼」や 「門(夢想)」(1905/1906)に現れている人の形をした雲もそのようなものであろうか。
鐘楼と門は本作以外にも登場して、特に象徴的意味を託されているようだった。

少し先は季節を題材にしたシリーズ、「」(1907年)の4点ははっきりとした連作というわけではないようだが、北国に訪れたのは百花繚乱の春ではなく、そこに描かれているのは内なる春の兆し、空気が緩んできた気配といったものだ。
この画家は風景そのものには興味がなさそうで、本章全体でも自然を写実的に描くということはなく、強いて言えば自然の生命感や象徴的意味を探究しているといった印象だ。

」(1907年)の8点は機銑 の番号が振られているのだから連作なのだろうけれど、そこにはっきりとした脈絡は見えにくく、もちろんわかりやすい冬景色でもない。
ただ樹木が象徴する生命を軸に冬の諸相を描き、冷気とともに純化し凝固していくイメージを喚起し、そこから実感できる内なる秩序のようなものを伝たかったのではないかと思ってみたりした。

2026年04月21日

ヴァンスカ、都響のシベリウス第4番

オスモ・ヴァンスカ指揮、東京都交響楽団による第2弾という シベリウスのプログラム(3月26日(木) 14:00〜 東京芸術劇場)、前半の 交響曲第1番 ホ短調 作品39に続いて、後半は 交響曲第4番 イ短調 op.63 が演奏された。

第騎攵呂六廚辰討い唇幣紊紡腓く重たい低弦が冒頭で響き、次いでチェロのソロが曲全体の雰囲気を暗示するような独り言を呟き出す。
やがて弦楽合奏が、木管が、そして金管がそれぞれの言葉を囁くように対話を始めるのだが、なにやら死後の世界に足を踏み入れていくような雰囲気の中、ひとつのことについてみんなで語り合うというわけではなく、各人の心の中にあるものを誰に向けるともなく発しているだけのようで、その間も捉えどころのない重苦しい時間が持続する。
第恭攵呂肋し明るさが増し空気も緩む感じがしたけれど、それでも望ましい終着点に向かう気配はなく、何かを納得させてくれるわけでもない。

そして核心となる第軍攵蓮▲侫襦璽箸亮簽襪箸靴振舛はそこが異界、あるいは冥界へと続く道のりであることを知らせるのか、ホルンが厳かに指し示す方向を、チェロを自らの肉声として頼りつつ、孤独に寂び寂びと歩んでいかなければならない。
荒涼とした地を進むに従いその内なる声は徐々に力を増し、何回か繰り返した後に大きく盛り上がって頂点を極めようとするのだが、気が付けばそれはどこかに跡形もなく消え去ってしまっている。

その後にくるフィナーレの 第験攵呂呂匹ν解すればいいのだろう、確かに音楽は動き出す、それもなかなかの推進力だし、グロッケンシュピールの響きも華やかなのに、一体どこに向かっているのか、連れて行かれる先は皆目見当がつかない。
そして幽かな光が見えたのもつかの間、少しずつ翳りが戻ってきてフルートの寂しげな音が聞こえてくると、見通しのきかない荒野で道を失ったような感じに捉われ、気が付くと賽の河原にポツンと取り残されるようにして曲が終わった。

勝利や解決に向かうことはなく、突き放すように終わる音楽、それは確かに晦渋という言葉が当てはまってしまう、快感をもたらしてくれるとは言い難い作品だが、ヴァンスカ氏はまさにそのようなものとして提示してくれたということなのだろう。
ひとつひとつの音の意味を腹の底から理解し、こうあらねばならぬというものを持ち、聞かせどころも心得ている、そんなシベリウスを知り尽くした指揮者が完璧にコントロールした演奏は、一度は通っておくべき道と言っていい得難い体験だった。

最後の音が消えた後の長い沈黙、そして大きな拍手が起こると、指揮者はチェロのトップ奏者を労って引っ込み、再び出てきた時にはオケのメンバーの拍手にも迎えられていた。
するとヴァンスカ氏は譜面台の楽譜を手に取り、シベリウスへの感謝とリスペクトを示すように、表紙を指で差してから深々と礼をして去っていった。


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2026年04月18日

長沢蘆雪-1 無量寺の竜虎図襖とその周辺

(府中市美術館 〜5/10、展示替えあり)
府中名物となった感のある “春の江戸絵画まつり” の最後の企画で、東京では64年ぶりになるという 長沢蘆雪(芦雪、1754〜1799)の展覧会に足を運んだ。
後期展示の目玉は、1786年に33歳の蘆雪が師・応挙の代わりに串本の無量寺に赴いて制作した「竜虎図襖」(重文、無量寺・串本応挙芦雪館)、展示室の最終コーナーに本尊脇の部分を含め全12面が並んで展示されていた。

虎図は以前も見たことがあったが、大きく跳ねる躍動感と画面から飛び出さんばかりの迫力、柔らかそうな胴体や尻尾と硬質のヒゲやツメの対比など実に申し分がない。
その上になんとも可愛らしく、ネコのような親しみやすさを感じさせているところは、蘆雪の真骨頂と言っていいだろう。

一方の 「竜図」は、空想の生き物に明解な形を与えていて、雲や雷光の表現もなかなか凝っているのだが、虎に比べると伝統的な表現の枠内にいるという感じがしないでもない。
さすがの蘆雪も、竜が相手では大胆な冒険ができずに約束事に頼るほかないということだったのか、しかしその周辺の作品からは竜に対してもさまざまな挑戦をした跡が窺われた。

雲中潜竜図」は厚い雲の渦巻く彼方にようやく竜が顔を出したところで、乱気流を起こして出現のお膳立てができたといった状況だが、絵としては小さな顔しか見ることができない。
真向竜之図」はその顔が一気に近づいてきて画面の三分の一ほどまでクローズアップされ、正面から見た顔と前足の鋭利な爪だけで竜の神秘的な力を表している。
一方で縦長の一画面に両者を描いた 「竜虎図」は、不敵な面構えの竜がレーザー光線か何かで虎を無力化しているようであり、特撮映画のポスターにそのまま使えそうな面白さだ。
これらの作品と無量寺の竜の制作の前後関係はわからないが、蘆雪としてはヴァリエーションに富んだ竜の姿を模索しつつ、依頼された仕事の中心となる襖絵にはオーソドックスなものを選んだということであろうか。

虎図」に戻ると、こちらは虎の捉え方において蘆雪の独創性が全開になっていると思うが、その伏線として禅画の画題である「四睡図」が紹介されていた。
これは豊干禅師とその弟子の寒山・拾得が虎とともに眠りこける図で、獰猛なはずの虎がよくなついている、というよりは人と虎の境界線もなく四者が一体の境地にあることを示すものとして多くの作品があり、中でも蘆雪の作品は融合の度合いが高いようだ。
草堂寺に伝わる作品などは互いに完全に信頼しきった至福の時間の中にいるようであり、そのような虎との距離の近さが、無量寺の虎の親しみやすさに繋がっているとの示唆に説得力を感じた。

酔虎図」(無量寺・串本応挙芦雪館)と呼ばれる虎の図は、「竜虎図」と同じ滞在時期に描かれたということだが、横を向く顔は比較的しっかり描かれているのに後ろ向きの体躯はどうにも座りが悪く、解説者も思わず “失敗” かと言及するほどに悩ましい作品だ。
おそらくこれも先述したいくつかの竜図のように、さまざまな虎の生態を試してみる中で産み出されたものだったのだろう、そうであれば襖の虎が最終的にあのようなものになったことにあらためて感謝せねばならない。

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2026年04月16日

能 「祇王」-2 一去不来の名残送離累別の袂

能 「祇王」(金剛流 今井清隆・金剛龍謹ほか、3月14日(土)13:00〜、国立能楽堂)の後場は、美しい金の冠を付けた祇王(ツレ)と仏御前(シテ)が、前場と同じようにやや間を空けて順に橋懸りを入ってくる。
装束も仕立てや色は全く同じで柄が少し違っているだけなので見分けが付き難いが、先述したように立場の違いが立ち居振る舞いに現れているようであり、また面は祇王が孫次郎、仏御前が小面となっていて、客席からはどこがどう違うというほどはっきりと判別できないのだが、落ち着きと初々しさの対比は遠目にも感じられた。

相舞が始まると、「それ金谷の春の花は、一衰の色を見せ、姑蘇台の秋の月は、涅槃の雲に隠れぬ、一去不来の名残、送離累別の袂、いづれの日を得てか乾す事を得ん」といった美文調の中で、華やかなものも必ず衰えるという平家物語に通底する無常感が示される。
しかしここは、清盛の権勢に翻弄されざるを得ない祇王と仏御前とが、ともに我が身の儚さを嘆いているようにも響いてきていた。

二人の相舞はゆっくりとした動きで優雅に進められていくのだが、それでも微妙にずれることがあるのは、置かれた立場のずれ、心のありようのずれが微妙に反映しているということなのであろう。
面を付けて左右に並んだシテとツレ同士は互いに見えていないはずなのだが、もしここで二人の動きが完全にシンクロするように合っていたら、むしろ不自然に見えて興が殺がれるのかもしれない。

だが瀬尾太郎(ワキ)は容赦なく、「いかに祇王に申し候、またただ今仰せ出だされ候ふは、仏御前一人に舞はせ申され、祇王御前はご見物あれとの御事にて候はん」と言い放つ。
それはそこに居るはずなのに見えていない清盛の意向にほかならないわけだが、仏御前一人で舞え、祇王は見ていろ、との言は、清盛の寵愛が決定的に移った証しであり、絶頂からの陥落を悟った祇王はその場から逃げ出したいのだがそれも許されない。
仏御前も戸惑い、祇王と一緒でなければ舞えないと訴えるが、清盛の意向を慮った瀬尾の非情な言葉で押し切られてしまう。

そうして始まった仏御前による破ノ舞は、いままさに念願かなって清盛の寵愛を受けることとなり、しかも最大のライバルである祇王を蹴落としたわけだから、我が世の春と得意になっていいところのはずだが、晴れ晴れとした喜びの舞には程遠い。
彼女は、自分を取り立ててくれた祇王が不本意な立場に落とされてしまったことを目の当たりにしただけではない、自分に対する清盛の寵愛もけっして永遠ではない、祇王の運命は明日の我が身に降りかかることにほかならない、ということも分かってしまったのだ。

それでも、そんな儚い身の上ではあるけれど、いまは命じられたところに逆らうわけにはいかないと、心が乱れるたままで破ノ舞を舞い終えるのかと思っていたら、相舞を終えた後は鬘桶に座っていた祇王が立ち上がり、終曲に向けて意外な展開を見せた。

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2026年04月13日

クロード・モネ-3 ヴェトゥイユでの3年

(アーティゾン美術館 〜5/24)
クロード・モネ ―風景への問いかけ” 展の “セクション5 四季の循環と動きのある風景―「ここが私のアトリエだ」(クロード・モネ)” は、モネ(1840‒1926)がアルジャントゥイユからヴェトゥイユへに移った1878年から81年にフォーカスする。
パリから50劼曚瀕イ譴燭海涼呂飽椽擦靴人由は経済的なものだったようだが、印象派の仲間たちからも都会の喧騒からも離れ、妻の病気も進行していたこの時期のさまざまな困難さが、私小説的な作品を描くことが少なかったモネの絵にも色濃く滲んでいる。

ヴェトゥイユの雪景色」(1878–79年)は、川を挟んで雪化粧した村の教会などが見える家並を描いた、よく言えば落ち着きのある風景画となっているが、凍てついた雪に「かささぎ」のような光はなく、画面全体が陰鬱に沈んでいる。
そこに影を落としていたのは病の妻に違いなく、「死の床のカミーユ」(1879年)はモネ独特の早い筆で妻の姿を捉えつつ、消え行く命を必死にとどめようとしているかのようだ。
それでもいままさに靄の中に吸い込まれていってしまいそうで、妻とカンバスを前にしたモネの哀しみがひしひしと伝わってくる作品だ。

その翌年の 「ヴェトゥイユの解氷とラヴァクールの風景」(1880年、リール美術館)は、川に浮かぶ氷の塊からその冬の寒さが伝わってくるが、前年9月に妻を亡くしたモネは深い悲しみのなかでその厳しい冬を過ごしたのであろう。
本作を見れば心の傷がまだ癒えていないことを痛感させられるけれど、それでもようやく氷が溶ける季節に希望を見出そうということだったのかもしれない。

氷塊」(1880年)も同時期の作品だろう、こちらも川面には夥しい氷塊が浮かんでいるが、空に残照がある分だけ微かな安らぎを感じさせている。
心の中はまだ暗く閉ざされているとしても、でもそこに彼岸の光が見えているようだと言ったら、モネはそんなつもりで描いたんじゃないと言うだろうか。

ヴェトゥイユの前のアルジャントゥイユ時代は、印象派的手法で新たな可能性を切り開いていた上り坂の時代と言え、またヴェトゥイユを去ってからは旅先の名勝を描いたり特定のテーマの連作に取り組んだりして “睡蓮” に行きつくわけだが、その狭間となるヴェトゥイユの3年間は、さまざまな困難の中でモネの絵が最も内面性を帯びた時期と言えるだろう。
それは本人にとって決して幸福な時期とは言い難かったであろうが、その中で残された作品にはかけがえのない価値があると言わざるを得ず、ともかくもこのセクションでは、人間モネに寄り添って共感しながら見ていくほかはない。

2026年04月11日

波多野睦美〜ダウランド没後400年に寄せて-1

東京・春・音楽祭 2026 のミュージアム・コンサートで、波多野睦美(メゾ・ソプラノ)、つのだたかし(リュート)、瀧井レオナルド(同)による “ダウランド没後400年に寄せて” と題された公演を聞いた。(2026年4月9日 [木] 14:00〜 国立科学博物館 日本館2階講堂)

ダウランド:
 《歌曲集 第1巻》より
  甘い愛が誘っている*
  彼の金髪を*
 《歌曲集 巡礼の慰め》より
  語れ 真の愛よ*
 プレリュード
 《歌曲集 第1巻》より
  彼女はいいわけできるのか
 《歌曲集 第2巻》より
  悲しみよ とどまれ
  羊飼いが木陰で
  流れよ わが涙
 ―休憩―
 《歌曲集 第3巻》より
  時が立ち止まり
  愚かな蜜蜂が
  さようなら残酷な人
シェイクスピア:ソネット 第8番【朗読:波多野睦美】
ダウランド:
 ウィンター夫人のジャンプ
 ジョン・ダウランドのガリアード
 《歌曲集 巡礼の慰め》より
  言葉で訴えようか
  時よ しばらく立ち止まれ
 《歌曲集 音楽の饗宴》より
  暗闇に私はすみたい

メゾ・ソプラノ:波多野睦美
リュート:つのだたかし*、瀧井レオナルド

今年が没後400年となる ジョン・ダウランド(John Dowland、1563-1626)は、スペインから覇権を奪って黄金期にあったエリザベス1世の時代(1558-1603)を中心に活躍したリュート奏者兼作曲家で、リュート歌曲は約80曲が4巻に分けて遺されている。
今回は各巻からバランスよく13曲が選ばれ、これに同じくダウランド作曲のリュート独奏曲を3曲と、同時代に活躍したシェイクスピアのソネット朗読を加えた構成となっていた。

まず つのだたかし氏とのデュオで3曲、1597年に発表されてダウランドの名声を確立したとされる 《歌曲集 第1巻》からの「甘い愛が誘っている」「彼の金髪を」は、端正な旋律が明るく平明に響き、当時のイングランド宮廷の雅な雰囲気が伝わってくるようだ。
ただしこの時期、ダウランド自身は宮廷リュート奏者に採用されず不本意な状況にあったはずなので、このあたりの曲想はむしろ時代の空気が反映しているということになるであろうか。

一方、第4巻にあたる晩年の《歌曲集 巡礼の慰め》の 「語れ 真の愛よ」は、ドラマティックな旋律が冒頭から大きく動き、リュートの書法も精妙になっている。
“真実の愛よ、お前の姿をどこに探せというのだ・・・ 心に愛の種をまけば、雑草ではなく果実を持つことになるのだから・・・ 幸福な愛よ、お前を見つける者は幸せだ” と語りかける歌には、音楽として格段の深化が感じられた。

この後はリュートが 瀧井レオナルド氏に代わり、ソロの「プレリュード」に続けて《歌曲集 第1巻》から 「彼女はいいわけできるのか」が演奏された。
これはもうずいぶん昔、リコーダーのアンサンブルをやろうということになった時にトライしてみた作品で、譜面は簡単そうなのにリズムをとるのが妙に難しかったことを思い出した。
瀧井さんからのリュートについての説明では、つのだ氏は10コースだが自分は8コースの楽器を使っているといった話もあった。
そう言えば以前 VOX POETICAの演奏を聞いた時は、大きめのアーチリュートを弾かれていたような気がするが、この時のメールラの「そう信じる愚か者」は特に印象に残っている。

《歌曲集 第2巻》は、第1巻の3年後の1600年に出版された、ダウランドの代表曲を多く含む37歳の頃の曲集だ。
悲しみよ とどまれ」は、ゆっくりと下降する音型にのって “悲しみよ、とどまって真実の懺悔の涙を与えてくれ・・・ 憐れみよ、いま救ってくれ” と訴えかけた後、“僕は永遠の囚われ人” という嘆きが繰り返される。
そして最終盤には “down, down, down, down” とどこまでも落ちてゆき、再び立ち上がることはないのだとメランコリックに締め括られた。

明るい感じの「羊飼いが木陰で」を挟んで前半最後の「 流れよ わが涙」は、“涙のダウランド” をヨーロッパ全土に知らしめたラクリメの旋律が情感豊かに歌われる。
まずリュート独奏曲として、次いで今回披露されたリュート歌曲、さらに5台のヴィオラ・ダ・ガンバとリュートのアンサンブル曲として世に出たこの旋律は、ダウランドの代表作として、おそらくその名を聞いたことのない人にまで広く知られているものだろう。
しかし本曲はこの有名な下降旋律だけではなく、後半になって ”涙、ため息、うめき” ないし ”怖れ、苦しみ、痛み” といった言葉が、這い上がるような旋律にのって上昇する部分がある。
ここを波多野さんの歌で聞くことによって、リュートやギターの独奏ではいまひとつ実感し難かった、強い説得力を持っていることにあらためて気づかされた。

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2026年04月08日

スウェーデン絵画-5 自然の先にあるもの

(東京都美術館 〜4/12)
スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき” 展の最終章となる “ 自然とともにー新たなスウェーデン絵画の創造の後半、ニルス・クルーゲルの 「ハッランドの春」(1894年)は、ゴッホの心をとらえた農村の暮らしを全く異なる技法やサイズ感で再現、三連祭壇画のような体裁の中には確かにゴッホやゴーギャンの絵の神髄のようなものが移植されていた。

デンマークと向かい合う半島西岸の地域は、緯度も低いために大陸に近い風土なのだろうか、同じ画家の 「夜の訪れ」(1904年)は、遅い日没の後に薄明りが支配する空を背景に、寡黙に草を食む馬をやや下からの視線で描いている。
何事も起こっていないような絵の中に見る者を引き込んでいるのは、細かく重ねられた筆致によって動きを与えられた、北欧の光と空気と時間の流れにほかならない。

やや前後するが、本章の前半にあった カール・ノードシュトゥルムの 「スカンセンから見たストックホルムの眺め」(1889年)は、絵自体は印象派の習作のように見えるものの、海越しに見たストックホルムの街は、高さが揃った建物が連なってあちこちで煙が上がるなど今となっては貴重な光景、制作されたのもスカンセン側に屋外博物館ができる少し前のようなので、市街との距離感も今とはだいぶ違っていたことであろう。

しかしこの作品から21年後の 「チルケスンド」(1911年)になると、パステル調の明るい色彩が大画面を覆うようになり、85年頃にパリ近郊で描いた力作「グレ=シュル=ロワン」とも全く異なる作風となっていた。
実体から離れた色彩そのものは、高い位置から眩しい光の充溢した海景を見た時の感覚として納得感のあるものでもあるが、ここでの画家の目は風景そのものを形作っている根源的な力とでも呼ぶべきものへと向かっているようだ。
ちょうどいま、夢の中のように現実感が希薄な海面を一隻の舟が静かに出ていくところ、おそらく画家もまた沈黙の旅の途中なのだ。

展覧会の最後は エウシェーン王子の 「静かな湖面」(1901年)、これは冒頭にあったニルス・ブロメールの「草原の妖精たち」(1850年)を意識してのことか、同じような日没の時間に神秘的なものを感じながらも、余技ではなく真剣に絵に取り組んだという王子は、妖精を画面に登場させることなく荒々しい自然をそのままに描いた。
題名が指しているらしい湖はしかし思いのほか小さく、従って主役は闇に沈みかけたその湖面ではなく、湖を取り囲む黒々とした森でも、その向こうに沈んでいく太陽の朱の光でもなく、画面上部で空を埋め尽くす厚い雲の群れだ。
ただ、その雲の塊が続いていった先で残照と交わるあたりに、この神秘的な時間を演出している神を感じているかもしれない。


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2026年04月06日

ヴァンスカ、都響のシベリウス第1番

オスモ・ヴァンスカ指揮、東京都交響楽団の演奏で、シベリウスの 交響曲 第1番と第4番を聞いた。(2026年3月26日(木) 14:00〜 東京芸術劇場)

 シベリウス:交響曲第1番 ホ短調 op.39
 シベリウス:交響曲第4番 イ短調 op.63

2023年10月の初共演でのシベリウスの交響曲第5、6、7番が好評だったことを受けての第2弾ということだが、前半の “幻想曲風でありながら不思議な統一感を持つ” という第1番に続けて、“深遠、哲学的、晦渋−さまざまに評されるも最高傑作の呼び声高い” という第4番でコンサートを終えるというプログラムは異例だろう。

まずは シベリウスの 交響曲第1番 ホ短調 作品39、生演奏で聞くと異様に長くこちらまで緊張してしまいそうなクラリネットのソロで始まった第騎攵呂蓮弦によるテーマに入ると指揮者の身体が大きく動き、高いテンションを保ったまま激情が迸るようにして音が積み重ねられていく。
それは北欧らしいロマン的な音楽かと思っていると置いていかれそうな、凍るように張り詰めた空気が終始支配する音楽だった。
第恭攵呂貌っても緊張感は持続し、演奏によっては春の気配を感じることもあるように思われるところも、厳しい冬の冷気が緩むことがない。

第軍攵呂枠瑤喞靴佑襪茲Δ併愆に煽られて切れ味鋭く展開すると、第験攵呂任呂気蕕暴垳靴弊こΔ貌っていった。
前半は、ヴァイオリンのG線が慟哭するような部分も含めて、早めに設定されたテンポに従って細かな動機が積み重ねられていくと、クライマックスでは一転してゆったりとしたテンポとなり、高揚した旋律が大らかに朗々と歌われた。
その息の長い旋律と分厚い響きは、長いこと忘れていたものを呼び戻してくれるようで、いったん後期交響曲の世界に入り込んでしまってからはやや疎遠になりがちだったこの作品の魅力を、あらためて教えてくれるに十分な強い説得力のある演奏だった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)音楽の部屋 

2026年04月03日

在原業平と伊勢物語-6 能面、物語雑感

(三井記念美術館 〜4/5、展示替えあり)
歌仙 在原業平と伊勢物語” 展の終盤、“展示室6 伊勢物語の名所” は小部屋で八橋や富士、隅田川などを写真で紹介しており、最後の “展示室7 伊勢物語の意匠化と芸能化” に行くと、“1.留守模様とデザイン化” には硯箱や茶碗などの工芸品、打掛や小袖列のほか雛形本が多く並んでいた。

2.伊勢物語の芸能化” には旧金剛宗家伝来の 「能面」(重文、室町時代14〜16世紀、三井)が3面登場、「中将(鼻まがり)」で眉間を寄せて憂いを感じさせる表情は、歌仙や伊勢物語の主人公というよりは、能楽として提示しようとする業平像を反映したものということになるのだろう。
小面(花)」は生身の若い女性の動きや華やぎが感じられたのに対し、「孫次郎(ヲモカゲ)」は半ば霊的な領域に行ってしまっているような情念が垣間見られるようだった。


今回の展示で印象に残った伊勢物語の場面を振り返ってみると、まずは「杜若」と「竜田川」ということになる。
特に、八橋の杜若に始まり宇津、富士と続いて、最後は隅田川の都鳥に至る第9段は、それほど長い段ではないのに名場面を一気に並べており、話の流れの勢いもあって多くの人の心をつかむことになったかと思われる。

また、ここまではあまり作品に関連してふれてこなかったが、展覧会を通して第6段「芥川」と第12段「武蔵野」に取材したものが多く見られた。
この二つの場面を “逃避行” という括りでひとつの作品にまとめたものもあったけれど、特に「芥川」は背負い背負われる男女という図のインパクトが強い。
しかしこの状態でどれだけの距離を逃げていくことができるのか、“りくりゅう“ ほどの体格差と信頼関係があればある程度は可能かもしれないが、先を見通せない文弱そうな男と緊急時にも拘らず草の露に目が行っている女では、鬼に一口で喰われるほかはなさそうだ。
それでも本段は、”白玉かなにぞと人の問いし時 露とこたへて消えなましものを“ を主題にした謡曲があってもよさそうに思われるほど、男が業平で女が高子であることを強く感じさせながらも虚実入り混じった話となっていて、一編のミステリーのような面白さがある。

一方の「武蔵野」は、追ってきた武人たちの視線の先に草むらで向かい合う絶体絶命の男女がいる、という絵柄こそ目を引くものだが、そしてその草に火をつけられ焼かれてしまうという緊迫感から格好の題材になったものと思われるが、話としては唐突に始まり釈然としないまま終わってしまう。
武蔵野は今日はな焼きそ若草の つまもこもれりわれもこもれり“ の歌は記憶に残りやすいものになっているとは言え、ここでの男が業平かどうかも定かではなく、仮にそうだとしても女が高子のわけはないから旅先で浮気をしたということなのか、いずれにしても物語の中でさほど注目すべき部分とは思われない。

どんな話が注目されるかは人により時代によりいろいろだったと思うけれど、根津美術館では「芥川」や「武蔵野」が目立たなかった一方、第24段「梓弓図」、第50段「行く水に数かく」、第87段「布引の滝」などが再三登場していた。
それにしても不思議に思うのは、高子との関係のクライマックスとも言えそうな第65段が禊の場面くらいしかなく、”伊勢“ 物語としては重要かと思われる伊勢の斎宮との話、特に第69段の危ういやり取りなどを取り上げた作品が見当たらないのは、絵画化するには難し過ぎるということであろうか・・・


>在原業平と伊勢物語 (2026、三井記念美術館)        
>伊勢物語〜美術が映す王朝の恋とうた (2025、根津美術館) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 | 日本彫刻

2026年04月01日

クロード・モネ-2 アルジャントゥイユ

(アーティゾン美術館 〜5/24)
クロード・モネ ―風景への問いかけ” 展は、「かささぎ」のセクション3から “セクション4 風景画と近代生活―「飾られた自然と、都市の情景」” に入って、クロード・モネ(1840-1926)の世界に本格的に足を踏み入れたことが実感される。
1871年31歳で始まる アルジャントゥイユの時代を扱った本セクションは、「印象、日の出」の制作が1872年、第1回印象派展が1874年だったことからも、モネの最も充実していた時期と言っていいのではないか。

アルジャントゥイユの係船池」(1872年頃)の青い空に浮かぶ白い雲や川辺の緑には、新たな技法を手に入れ創作力旺盛なモネの光が漲っている。
アルジャントゥイユのセーヌ川」(1873年、グルノーブル美術館)なども、「かささぎ」のように修復されて鮮やかな色彩を取り戻していたらもっと光が感じられたはずで、その意味でこの部屋の作品はやや損をしているかもしれない。

ここには シスレー 「サン=ドニ島」、ピサロ 「ヴォワザンの村の入口」、モネ 「舟」(1872-73年)というほぼ同サイズの3作品が三連画のように並べて展示されていた。
まだ “印象派” としてデビューする前の時期、ほぼ同じようなテイストの絵にもそれぞれの持ち味があるところが興味深いが、その中でもモネは一段高い才能に恵まれていたことが窺える。

トルーヴィル、ロシュ・ノワールのホテル」(1870年)は、画面左上に大きな旗が風に靡いている。
動きが早くてどのような模様の旗なのかはわからないけれど、そのことが吹いている風の強さを雄弁に物語っており、旗の図柄を犠牲にしても強い風を描き止めた作品と言える。
パリ、モントルグイユ街、1878年6月30日の祝日」(1878年)も旗の絵だが、こちらは道を挟んだ両側の建物から夥しい数の旗が突き出されていて、風に靡きあるいは打ち振られているものもあるのか、不鮮明になっていながらもそれはフランスの三色旗であることは瞭然だ。
本作での大胆な筆触は風を描いただけではなく、その場の歓声や熱気までをも描き出すことに成功した。

サン゠ラザール駅」(1877年)は、蒸気機関車から上がる煙が直線的な建物の中で光と溶け合う情景を描いて、今までに見たことがなかった新時代の到来を知らせている。
ここにも群衆の喧騒や機械の発する音があり、従来型の手法では伝わることがなさそうな空気感がある。
石炭の積み下ろし」(1875年頃)は、大きなアーチ型の橋の下に係留された船に板を渡して石炭の積み下ろしをしている場面で、逆光の中で黒い影になった人物が石炭袋を担いでそこを行き来している。
この時代らしい労働現場の絵ではあるが、モネの目は彼らの境遇に向けるというよりは、逆光で乱反射する光の中を動く黒い点として捉えているようで、あくまでも近代的な風景の一場面として描き出されていた。

2026年03月30日

能 「祇王」-1 かかる恨みは身ひとりかや

能 「祇王」(金剛流 今井清隆金剛龍謹ほか、2026年3月14日(土)13:00〜、国立能楽堂)を見た。
栄華を極める平清盛の前に出ることを願いやって来た白拍子の 仏御前と、一旦は断られた彼女に機会を与えようとした 祇王、この二人による相舞が見どころの現在能として知られる本曲は、平家物語のエピソードにほぼ従った内容ながら、場面は清盛に仕える 瀬尾太郎(ワキ)によって二人が呼び出されるところから始まる。

橋懸りからまず祇王(ツレ)が現れ、少し遅れて仏御前(シテ)が入ってくるが、二人ともほとんど同じ姿かたちをしていた。
それでも、先に立つ 祇王は、勝手知ったる場所ならではの落ち着きと、しかしこの場に一緒に呼ばれるのは不本意という思いが交錯して、やや陰鬱な様子が見える。
一方の 仏御前は、望んだこととは言えこの展開に戸惑い、どう振舞ったらよいものかと心配が先に立っているようだ。
この二人に比して瀬尾が無神経なほどに威勢がいいのは、清盛の権威をかさに着ているということもあるが、彼もまた清盛の機嫌を損ねないように事を運ばなくてはならない辛い立場でもあるからだろう。

瀬尾は祇王としっくりこないやりとりを交した後、仏御前に「ただ今のご出仕めでたう候」と声を掛けると、彼女は「申すに付けて憚り多く、御心の中も恥かしやさりながら、申さで過ぎばいとどしく、願ひの糸の色見えぬ、闇の錦のたとへても、身の果ていかになりぬらん、同じかざしの花鬘、かかる恨みは、身ひとりかや」と当惑の気持ちを隠さない。
清盛の前に出たいと願ってしたことが思わぬ形で祇王を巻き込んでしまったことから、この先どのように振舞ったらよいか、どうするのが正解なのかわからないという不安で、心も揺れに揺れているようだ。

そうした思いを「越の山風吹くたびに、高嶺に残る雨雲の、かくるる空も憂き旅の、何に心の急がれん」と故郷の風景に託してみるのだが、そのような訴えが通じているのかいないのか、次は舞を舞えと命ぜられてしまう。
しかしそのまま一人で舞うわけにもいかないと思った仏御前は、祇王を立てつつ場を穏便に収めようと考えたのであろう、「いで祇王御前同じくは、相曲舞(あいぐせまい)に立ち給へ」と祇王に声をかけ、やや曲折があったのち二人は舞の準備のため一旦退席して前場が終わる。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)邦楽事始 

2026年03月28日

在原業平と伊勢物語-5 その心余りて・・・

(三井記念美術館 〜4/5、展示替えあり)
歌仙 在原業平と伊勢物語” 展展示室5は、展覧会タイトルと同じ ”歌仙 在原業平と伊勢物語” となっていて、歌仙としての在原業平や伊勢物語の成立とその後の受容のあらましを史料で紹介していた。

1.歌仙 在原業平” にあった 「押絵六歌仙帖」(吉田元陳下絵、江戸時代18世紀、三井)の中に登場する 在原業平(825〜880)は、冒頭の 岩佐又兵衛作品と同じく弓や矢、太刀を身につけた武官の姿だ。
六歌仙の一人としてはやや特異な出で立ちのように見えるが、右近衛権中将という官位を持つ人物の、これが古来公式なものとされてきた肖像なのだろう。

2.伊勢物語の成立” には 「古今和歌集」(伝頓阿法師、南北朝時代14世紀、三井)があり、仮名序に “その心余りて言葉足らず、しぼめる花の色なく匂い残れるがごとし” と記載されている箇所が示されていた。
この辛らつとも言える率直な業平評が、非公式に流された風評や内輪の私信といったものではなく、このような場所に堂々と記されていたとは思わなかったが、本人が直接これを見ることはなかったのであろうか。
しかし考えてみれば、“言葉は過剰だが心が足りない“ などと言われるよりはよほどいいはずで、一周まわってかなりの誉め言葉のようにも思えてきた。

3.伊勢物語の展開“ には、後世の普及に貢献が大きかったという 「嵯峨本伊勢物語(古活字版第一種)」(江戸時代慶長13年(1608)刊、大東急記念文庫)が出ていた。
A4版に近い大きさの冊子で、木活字刷りの文字は本阿弥光悦風の流麗な書体、隣のページをいっぱいに埋める挿絵も上質のもので、こうした本が人気を呼び広く読まれたであろうことが想像された。

本章では各文書ごとに採られている和歌も紹介していて、丁寧に追っていけばそこから様々なことが見えてくるのかもしれず、中には重文の古筆手鑑などの展示もあり、美術展的には地味だが力が入っていた部分かと思えた。
本展は生誕1200年を期して和泉市久保惣記念美術館長河田昌之氏から根津・三井両館に話があったとのこと、昨年開かれた根津美術館の ”伊勢物語〜美術が映す王朝の恋とうた” 展が古筆と絵画中心だったとすれば、こちらは工芸の重みが増し、さらに歴史的な在原業平像に近づく本章が一番の特徴といえるかと思われた。


>伊勢物語〜美術が映す王朝の恋とうた (2025、根津美術館) 

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2026年03月26日

高木由利子 写真展と Bunkamura の終焉

(Bunkamura ザ・ミュージアム 〜3/29)
長らく休館中だった渋谷の Bunkamura ザ・ミュージアムで、“高木由利子 写真展 Threads of Beauty 1995‐2025 ― 時をまとい、風をまとう” が開催されていた。
久しぶりにとても美術館とは思えない事務的な入り口を抜けると、薄暗い展示室には天井から下がる布に一枚ずつ張り付けられた写真が不規則に並び、歩を進めるたびにモノクロの多くの人物像に取り囲まれることになった。

それはかつて取り組んだというファッションやヌードの写真とは違い、服を着た普通の人たちのポートレートで、民族衣装らしき人もいくらかはいたけれど、ほとんどはくたびれた普段着を纏ったありのままの姿だった。
毎日着ているであろう服に身を包んだ、着の身着のままと言ってもいい被写体は、破れたり穴が開いたりしたら繕って着続けるという生活を思わせていて、服は体の一部と化し肉体と密接不可分のものになっているということを強く感じさせた。

そうした人と服との関係は、毎朝起きると今日は何を着ようかと考える生活の対極にあるように思えたのだが、考えてみればアパート住まいをしていた大学生の頃は、着替える服もあまり持たず洗濯も面倒だったので、“時をまとい、風をまとう” 生活に近かったような気がする。
それが22歳の春になった途端、きちんとアイロンのかかったワイシャツを着ろ、前の日と同じネクタイは絶対ダメだ、と言われるような世界に入ってしまったことで、服との関係は一変し体と服が遊離することになった。

それ以来この写真の人たちのような生き方をできなくなっているけれど、おそらく今の日本でも農村や山・漁村に行けば写真のようなライフスタイルの人に出会えるのだろう。
それが衣服を着ることなしには生きられないおそらく唯一の生き物である我々の原点であり、人間と服との本来の関係なのではないかと、展示のテーマからはいささかずれながら埒もないことを考えたりした。


本展は、2023年の東急本店閉店以来休館していた Bunkamura ザ・ミュージアムの展示室における最後の展覧会だという。
この施設には随分とお世話になったはずで忘れ難い展覧会も多いし、仕切り壁を使って迷宮のように構成することが多かった展示室を、今回は夥しい布を使ってひとつの空間を別の迷宮にしていたけれど、この展示室自体にはさして愛着もなく、従って喪失感を覚えることもない。

しかし、ここまでのアプローチや周辺施設、とりわけ既に閉店していたカフェ・ドゥ・マゴとアートに特化した書店(名前が思い出せない)、そしてその前の吹き抜け空間が空虚な佇まいとなってしまっていたところには寂しさを感じた。
ここに並んでいたテーブルでドゥ・マゴのコーヒーを飲む時間は、特にクリスマスシーズンのデコレーションの華やかさとともに忘れ難く、2029年度竣工予定という新施設にも是非、書店ともども引き継がれてほしいと思った。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)掘り出し物など 

2026年03月24日

スウェーデン絵画-4 自然の再発見

(東京都美術館 〜4/12)
スウェーデン絵画 北欧の光、日常のかがやき” 展の最終盤、“ 自然とともにー新たなスウェーデン絵画の創造” の章には、印象派を学んでいた時代から一段と深化した視点で、多島海などの変化に富んだ地形や夜に持続する青い薄明りといったスウェーデン独自の自然を再発見した風景画が並んでいた。
オーロフ・アルボレーリウスの 「ヴェストマンランド地方、エンゲルスバリの湖畔の眺め」(1893年)は、アカデミー寄りの平凡な風景画で誰にでも描けそうに見えながら、一斉に木々の葉が萌え出す季節が訪れた幸福感や、その時期の空気の清澄感のようなものが類稀なレベルで表されているからこそ、最もスウェーデンらしい絵画として愛されているのであろう。

グスタヴ・フィエースタードの 「川辺の冬の夕暮れ」(1907年)は、雪の積もった岸辺や何本かの木の幹は見えるだけで、大部分は川面の水の波紋だけで大画面を埋めた異色作だ。
小さな動きがいくつも積み重なって大きなうねりになっていくあたりを実感させているところは、おそらく写真に撮ってそのまま描いただけではこうはならないはずで、驚くべき観察眼と表現力と言わざるを得ない。

リッカッド・バリの 「ウップランド地方、ウースビホルムの夏の夜、月の出」(1891年)は、馬のいる水辺という牧歌的な風景を俯瞰した絵で、空の色も水の色もおそらく見たままの光景から大きくはずれてはいないのだろう。
それでも白夜の時期の長く続く薄明かりが、見慣れた風景を神秘的で幻想的なものへと変貌させていた。

ゴットフリード・カルステーニウスの 「群島の日没」(1907年)に見えるのは、鏡のように静まり返った水面に映る岩と、そこを照らす強い西からの陽、アーキペラゴでは実際にこうした光景が見られるだろうか、それをそのまま写して神々しい画面となった。
棺をのせた小舟が吸い込まれるように進むベックリンの「死の島」を思い出したりもしたが、おそらくこちらの方が純度が高く、硬度も大きく上回っているように思われた。

2026年03月22日

在原業平と伊勢物語-4 業平の実像と虚像

(三井記念美術館 〜4/5、展示替えあり)
歌仙 在原業平と伊勢物語” 展の “展示室4 絵画化された伊勢物語の最後の方に出ていた 冷泉為恭による 「在原業平像模本」(江戸時代19世紀、個人蔵)は、その時点の劣化なども含めて忠実に模写したものだという。
オリジナルは現在のところ不明とはいえ、そこまでして写したほどに権威があったということであれば、根津美術館の冒頭で見た肖像に近い感じもあるので、客観的事実としてこの風貌が業平その人に近い可能性は高そうだ。

平城天皇の孫にもかかわらず政変のあおりを受け臣籍に降下して在原姓を賜り、官位は右近衛権中将だったという人物像がこのようなものであったとしても、それでも伊勢物語の作者あるいは六歌仙の一人としてどのような人物像を思い描くかは、依然として各人に委ねられているとも言える。
少し前にあった 中村芳中の 「業平図」(江戸時代18〜19世紀、国文学研究資料館(鉄心斎文庫コレクション))はそこを見事に割り切ったというべきか、ゆるきゃらかと思うほのぼの感が漂う人物として描かれていたが、杜若の花やそれを巡る水流の筆の達者さを見れば、この人物像もそれほど気まぐれなものだったというわけではなさそうに思えた。

菱川師房の 「美人遊歩図」(江戸時代17〜18世紀、太田記念美術館)は、この美人画のどこが伊勢物語に関連するのかと訝しく思っていたら、彼女の着物の柄が物語の名場面になっているのだという。
菱川師宣の長男という作者の時代やマーケットを考えると、伊勢物語のブランド力は江戸市中の町人にまで広く及んでいたことになりそうだ。

このコーナーの最後にあった 英一蝶の 「見立業平涅槃図」(江戸時代18世紀、東京国立博物館)は、釈迦涅槃図をパロディー化したギャグのような作品だが、中央に横たわる業平の周囲に集まって泣いているのはすべて女性で、手前に集まってきている動物たちもすべて雌なのだそうだ。
”色好みの業平“ との風評を敷衍したに違いないこの涅槃図、果たしてどのくらいの人々がこのような扱われ方を歓迎したのであろうか・・・

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2026年03月20日

明末清初の書画-2 動乱の世の書家たち

(台東区立書道博物館 〜3/22)
台東区立書道博物館の “明末清初の書画―八大山人生誕400年記念―” 展について、八大山人以外の作品についても主だったところを振り返っておく。

まずは 董其昌(とうきしょう、1555〜1636)、康熙帝が敬慕したため清朝において正統の書とされたという人物の 「盤谷序書画合璧巻」(明時代16〜17世紀、大阪市立美術館)は、なだらかな山々を囲むように水辺が広がる穏やかな風景となっており、水の流れの静かそうなところに舟を出して釣りをする姿は、隠遁生活の典型であり理想の生き方にほかならない。
中国山水画の王道といった作風は、同じ 「米法山水図軸」からも察せられるように、北宋時代の米芾(べいふつ)以来の伝統を踏まえてのものなのであろう。

王鐸(おうたく、1592〜1652)の 「書画合璧巻」(清時代順治6年(1649) 、大阪市立美術館)も米芾の影響下ということなのであろうが、やや過剰に見える山の表現はその先へと向かっているようであり、山そのものの持つ生命力が新たに生まれているという感じがした。
王鐸の書は左右に傾いたり極端な濃淡があったりといった “いびつさ” が持ち味とのこと、その良さは率直なところよくわからないけれど、本作の文字にはそのような特異さは感じられず、「草書詩巻」(順治4年(1647)、台東区立書道博物館)なども同様に、むしろ一貫した筆の動きが大きな流れとなって文字に力を与えているように見えた。

ここまでは “明末清初の書画〜爛熟と揺らぎの時代” の章で、清王朝が勃興して明王朝が滅ぶという動乱期にあって、明に殉じた 烈士、清に抵抗し明への忠節を尽くした 遺民、清に降伏して明と清の両王朝に仕えた 弐臣といった形に運命が分かれ、さらに日本など海外に渡った人も出たといったことが解説されていた。
明と清は、古来より王朝の交代と盛衰を繰り返した中国にあって、長い安定期として一続きに論じられることもあるくらいだが、300年続いた漢民族の大国が満州族の新興勢力に取って代わられるというのは、その時点では驚天動地の事態に違いなく、特に上層部や知識階級にいた多くの人々とっては生き方や立ち位置が問われることにもなった。

清は1636年に満洲に建国され、1644年に首都を北京に遷して中国支配を開始したので、1636年に亡くなった董其昌は、清の脅威は感じていたかもしれないが明のエリート官僚として生涯を全うできたという意味では幸運だった。
一方、王鐸は弐臣として清に従ったことから長く過小評価されたというが、それは第三者が後から言えることで、当人にしてみればその時点の仕事の内容や家族の状況などからやむを得ぬことだった可能性もあるだろうし、そもそも作品は別物として評価されねばならないと思うのだが、そうした議論も許されない苛烈な状況というものが当時は確かにあったのであろう。

八大山人のコーナーの後は “秩序の再編と個性の新展開” 、傅山(ふざん、1607〜1684)は明の滅亡後も清への仕官を拒否し隠遁した遺民ということだが、「断崖飛帆図」(17世紀、大阪市立美術館)で小さな四阿の横にそそり立つ断崖は、かすれた筆でぶっきらぼうに叩きつけたような筆触となっていた。
それを自ら粗劣と言ってのけるところは抵抗の精神の表れか、その激しさは八大山人の老松に通じるもののようにも思われた。

最後の “八大山人へのオマージュ” とされる作品群は、総じて奇を衒う感じがあって共感しにくい印象だったが、揚州八怪の一人という 李鱓(りぜん、1686〜1760?)の 「風荷図軸」(18世紀、大阪市立美術館)は、大胆な筆遣いによる線の複雑な交錯で、枯れかかった蓮の美しさを残された生命の輝きとして表しているように思えた。


なお、本展の連携企画という東京国立博物館の “明末清初の書画―乱世にみる夢” にも八大山人の書 「行書送李愿帰盤谷序軸」(17〜18世紀)があり、禿筆によるシンプルな文字の連なりが静かな諦念とでも言うべきものを感じさせていた。
傅山の 「草書五言律詩軸」(17世紀)は渦巻くように自由奔放な曲線に唖然とさせられる書、「真行草墨宝冊」を見ればどんな文字も達者に書ける人の作品だけに、何か吹っ切れたような爽快さがあるように思えた。
息子の 傅眉筆 「草書五言律詩軸」(同)は対照的に重量感を感じさせる書、しかしこのくらいしか記憶に残っていないのは、東博のこの部屋であまり時間が取れなかったということもあるが、解説が読み難く興味を引かれなかったということも大きいだろう。
その点、台東区立書道博物館の解説は親しみやすくかつ周到で、この分野にほとんど前提知識のなかった者にとっては特に有り難かった。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)東洋絵画 

2026年03月18日

たたかう仏像-4 熊野曼荼羅、高麗の帝釈天

(静嘉堂文庫美術館 〜3/22)
たたかう仏像” 展の後期に立ち寄ってみた感想を簡単に。

まず目を引いたのは “第1章 救済の最前線ーたたかう仏像のさまざまな姿ー” の第2室に出ていた 「熊野曼荼羅」(南北朝時代14世紀)、上段の左には吉野金峯山寺の蔵王権現と眷属の童子たち、右には那智の滝が描かれ、その下の画面中央となる社殿には熊野三所権現をはじめとする神々が三層に亘って並んでいる。
そして最下段にも熊野の山々と思しき中に多くの童子たちが現れ、個別の尊名は不明ながらも稠密な聖なる空間を現出させていた。
熊野と吉野は同一修行圏としてあるいは連続する巡礼先として関係が深く、世界遺産としても ”紀伊山地の霊場と参詣道“ として一緒に登録されたが、こうした宗教的作品に同一画面で描かれているケースは少ないのではないか。
もとより本作は ”熊野垂迹曼荼羅“ であることを踏まえねばならないが、古来より紀伊山地一帯がひとつの精神文化圏として捉えられていたことを端的に視覚化するものであろう。

少し先にあった 「帝釈天像」(高麗時代14世紀)は、美麗な衣をまとって穏やかな表情で座る像となっており、インドのインドラ神とも日本の護法神とも異なった印象を与えていた。
細やかに装飾された団扇を持つ姿は、須弥山の頂上にあって帝釈天をはじめ33の天部や神々が住むとされる忉利天(とうりてん)を表しているとのこと、宝冠や椅子の豪奢さは高貴な王のようであり、高麗時代には同時期の日本とはかなり異なった仏教世界観がイメージされていたように思われた。

唐時代の神将・官人俑が睨みを利かせていた “第2章 静嘉堂の仏像×俑には、運慶の孫の康円による 「広目天眷属立像」(鎌倉時代1267年)が新たに登場、直截的な表現が邪悪なものと戦う姿をよく表していた。
ただ、広目天の眷属というものを見たことがなかったので、本像が単体で付随していたのか、そもそも四天王それぞれが眷属を従えて本尊を囲んでいたのか、そのあたりの全体像についても知りたいと思った。

第3章 十二神将像と十二支の世界” の浄瑠璃寺旧蔵の重文 「十二神将立像」(鎌倉時代1228年頃)は 子・丑・寅・卯・午 の5躯、前回の 酉・亥 が 子・丑 に代わっており、3/3からはまたメンバーが変わるとのことだったが、全期間を通じて所蔵する7躯が揃うという機会はなぜなかったのだろうか。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 | 東洋絵画

2026年03月16日

在原業平と伊勢物語-3 宗達、光琳、芦舟

(三井記念美術館 〜4/5、展示替えあり)
歌仙 在原業平と伊勢物語” 展の “展示室4 絵画化された伊勢物語” にあった 深江芦舟の 「蔦の細道図屏風」(重文、江戸時代18世紀、東京国立博物館)は何度か見た作品だが、本展においては構図と色彩の大胆さであらためて絵画芸術の強さとでも言うべきものを感じさせていた。
深江芦舟(蘆舟)は尾形光琳の門人の中でも特に俵屋宗達をよく研究した人物なのであろうか、これは誉め言葉になっているのかどうかわからないけれど、本作のオリジナルとなる宗達作品が存在することを強く確信させるような作品だと思う。

宇津の次は富士、「業平東下り図襖(富士見業平)」(江戸〜明治時代19〜20世紀、三井)は4面の襖に秀麗な富士山とそれを松林の街道から見上げる業平一行が描かれている。
全貌を表した富士山を仰いだ時の爽快感がよく出ているし、旅人のちょっと気弱そうな感じも我らが業平のイメージに沿うものだ。
一方、尾形光琳の 「業平東下り図」(江戸時代18世紀、五島美術館)は縦長の軸なので画面の広さではハンディがあるものの、富士の雄大さではけっして負けていないし、遥々とここまでやってきて富士山を目の当たりにした時の驚きや唖然として見上げている様子がよりリアルに感じられる。
いずれも、原文にある ”比叡の山を二十ばかり重ね上げた“ という高さはよく出ていると思うものの、”時知らぬ山は富士の嶺いつとてか 鹿の子まだらに雪の降るらん“ という感じにはなっていないように見えるのは、おそらく江戸時代にはすでに富士はこのように描くものという規範ができていたということかと思われた。

伝 俵屋宗達筆 「伊勢物語図色紙」(江戸時代17世紀、個人蔵)で訪問時に見られたのは3点、 ”世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし“ の第82段1「渚の院の桜」の完成度がやはり高いと思う一方、第58段「田刈らむ」は女たちに追いかけられる男が画面から飛び出してしまいそうな、楽しさとわかりやすさのある漫画的な作品だ。
第2段「西の京の女」は女の住まいから帰る場面の牛車なのか、こちらは細部に至るまで比較的しっかりと描かれているが、この牛車ならば工房の優秀な弟子が苦も無く真似ることもできそうで、むしろ「田刈らむ」のドタバタ劇の方が ”宗達度” が高いのかもしれない。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画 

2026年03月14日

畠山美術館〜冬、そして春へ/伊奈英次写真展

(荏原 畠山美術館 〜3/22、展示替えあり)
畠山記念館から改称された 荏原 畠山美術館に、リニューアル開館後初めて訪れた。
門から展示館へのアプローチは整然と整備され、人工的な水面が見えるなど雰囲気がかなり変わっていたが、やや殺風景に見えたのは冬枯れの時期ゆえやむを得ないだろう。

以前からある建物の2階で開催されていたのは “冬、そして春へ―「華やぎ」と「侘び」の調” と題されたコレクション展、この空間はほぼ以前の雰囲気を保っていたが、当館の特徴であった畳に上がって観賞する部分が無くなっていたほか、作品間のスペースがやや大きくとられていたように思われた。

作品として目を引いたのは 狩野常信筆 「白梅図屏風」(江戸時代17〜18世紀)、狩野探幽の甥で尚信の子という江戸狩野御用絵師の作品に、思いがけず琳派を思わせるような華やぎが感じられた。
金屏風に金の雲が配された空間に曲水が自在に流れ、適度に単純化された梅の枝に白い花が咲いているという装飾的な画面は、写実を狙わず紅梅も避けて白梅だけでまとめたことにより、春の兆しを待つ心に響く作品になったと思う。

通路を通った先の新館2階もコレクション展の続き、久隅守景筆 「雪中竹林図」(江戸時代17世紀)は、竹の葉に積もった雪を地の白を生かして表現した作品で、応挙の「雪松図屏風」よりは随分と素朴な印象ながら、急に嵩を増した雪の重みを感じさせていた。


新館の地下は同時開催という “圏外の眼―伊奈英次の写真世界” 展、“畠山記念館” でこのような写真展が見られるとは思っていなかったが、軍関係のアンテナ施設を扱った 《 ZONE 》 というシリーズにまず引き込まれた。
特に在日米軍が電波の受発信のために設置した、象の檻と呼ばれる巨大円形ケージなどに顕著なように、規則性のある直線や曲線がかなりの範囲にわたって連続する幾何学的な構築物と、周囲の何の変哲もない地の風景とが、溶け合うことを拒絶するように緊張関係を見せていた。

Emperor of Japan 》 は124代にわたる全ての天皇陵を踏破して撮影したというシリーズ、神武天皇陵から昭和天皇陵までが一続きのものとして提示されると、普段は意識しない領域にも歴史を造り出そうとする意志が強く働いているような気がしてきた。
写真に見えているのは鳥居を中心にした拝礼施設とその周辺のみにも拘らず、そこから誘い出される思いは自分でも意外なほど多岐に及んでいくことになった。

WASTE 》 は廃油の膜やハードディスクの破片といった産業廃棄物にフォーカスしたもの、アングルによってはこれらも芸術的表現の対象になり得るのだという好例であろう。


5年に及ぶリニューアル工事により展示スペースがほぼ3倍になったこともあって、本・新館ともにかなり贅沢な空間の使い方をしているように思われたが、今後テーマ性のある企画展ではどのように活用されていくのであろうか。
気になったのは動線の悪さ、特に新館の順路はもう少し整理した方がいいと思うし、次の部屋へ進むための自動ドアも初めての訪問者には分かり難い感じがした。

hokuto77 at 19:30|PermalinkComments(0)日本絵画