2012年02月22日

重森三玲(Mirei Shigemori)、北斗七星の庭_展

(ワタリウム美術館 〜3/25)
もうずいぶん前に京都 東福寺を訪れた際、正方形の石と苔による市松模様の庭に戸惑ったことを思い出した。
京都五山の第四位に数えられ、その名をもつ駅もある大寺の方丈の庭が随分と斬新なものであることに驚きつつ、しかし市松模様自体は昔からある意匠でもあるので、その時はそれが昭和13年という時期に 重森三玲(しげもりみれい)という作庭家によって作られたものだとは思わなかった。

重森三玲は(1896-1975)は、生まれは明治28年であるが日本画家を目指した後に生け花に関わっていたため、庭園に関心を移し造園を始めるのは40歳を過ぎてからになるので “昭和の作庭家”であり、その活動期間は大戦を挟んで昭和50年に亡くなる年に及ぶ。
展示室では、上述した 「小市松の庭」と 「北斗七星の庭」という東福寺本坊の庭園の原寸模型を中心に、その他の “作品”も詳しいパネルや大画面の映像で紹介し、さらに茶室の天袋や引手などのインテリアデザイン、絵皿や書、書簡や古い写真なども加えてその全体像を示そうとしていた。

その中で最も印象に残ったのは、1936年から3年間ほどの間に日本各地で400庭以上の古庭園の実測を行い、その成果を 『日本庭園史図鑑』全26冊にまとめたという “仕事”だった。
大きな図面には池や石組だけでなく樹木の様子まで精緻に記録されており、このために一体どれだけの労力がかかったのかと思うけれど、それが昭和11年というから2.26事件があり日独防共協定が締結された年に始まり、盧溝橋事件や国家総動員法といった軍国化の時期に進められたプロジェクトだったことに驚かされる。
庭の寸法などを測っている場合ではないといったご時勢にもかかわらず、どのような情熱と勝算と資金がそれを可能にしたのかはよく分からないが、結果として残された26巻の大著は空前絶後のものとなり、今回の大震災で破壊された庭の修復にも役立ったとのことだった。

hokuto77 at 21:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年02月20日

新宿歴史博物館、宿場から盛り場へ

(新宿歴史博物館常設展)
“平塚運一と落合の版画家”展を見に行った博物館の入口で、「常設展は300円です、企画展だけなら無料です」と言われたので話が逆ではないかと思ったけれど、内容を見て納得した。
ここも地域の歴史博物館によくあるパターンとして地層や弥生時代の出土物あたりから始まるが、この 新宿歴史博物館の見どころはなんといっても江戸時代の宿場町から副都心へという“盛り場”新宿の盛衰史であり、その中心となる 「内藤新宿」の1/120サイズという模型は、四谷大木戸から追分までの宿場の賑わいを高札場や玉川上水などを含めてリアルに再現していた。
土蔵造りの商家の店先を再現したコーナーにはこうした商人の年中行事を説明するペーパーもあって、今は曖昧になりつつある季節ごとのイベントの詳細やその意味合いを再認識させてくれる効用もあった。

その先では文学者たちを紹介、早稲田の文学部を創設した 坪内逍遥、松江や熊本に住んだ後亭大講師となって牛込に居を定めた 小泉八雲、そして新宿に生まれ育った 夏目漱石らに特に力がそそがれていたが、このあたりからは 都電の実車が気になって仕方がない。
展示室にあったのは輸送力増強のため大型化した車両ということだが、それにしてもチンチン電車がこんなに大きいものだったのかと思うし、新宿では省電の停車場前の他に東口の繁華な場所に 角筈停車場があったというのも現在の街並みからは想像し難いものだった。
そういえば 角筈(つのはず)だけでなく合併前の区名だった 淀橋や 牛込といった地名も遠くなりにけりという感じだが、牛込は都営地下鉄大江戸線開通とともにある程度復権した一方で、淀橋の方はその名を冠した量販店がお膝元の新宿で押され気味な分やや苦戦しているような感じがする。
奥の庭が見えるスペースには、玉川上水から江戸市中に水を引いた石樋、木樋の現物も残っていた。

昭和10年頃の落合のサラリーマン宅という設定の 「文化住宅」が復元展示されていた。
4人分の食事が並べられた卓袱台のある居間や台所などの和風部分に洋風の応接間が繋がり、風景画と置時計とこけしが飾られ、蓄音機からはベートーヴェンのロマンスが流れるという瀟洒な一戸建て住宅は、戦争に突入していく前の時代の憧れの生活がどのようなものであったかがよく分かる。
そこには思っていた以上に豊かな洋風の生活があり、もちろん個人差や地域差はあろうが、大正デモクラシーの時代は昭和30年代=三丁目の夕日の時代よりも落ち着いて成熟した社会だったようにも思われた。

最後の方には映画館やカフェが犇めきあっていた頃の新宿東口を思い出させる展示があり、それは華やかなりし頃の盛り場の雰囲気を伝え、新宿という街が発散していた独特なエネルギーを思い起こさせるものではあったが、今の新宿にはその頃の熱気や吸引力が果たして残っているのかが少し気になった。

hokuto77 at 20:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年02月18日

北京故宮博物院200選-7 乾隆帝と故宮、チベット

(東京国立博物館 〜2/19)
“第2部 清朝宮廷文化の精粋 -多文化のなかの共生-”の “第2章 清朝の文化事業 -伝統の継承と再編-”にあった 「乾隆帝是一是二図軸」には清朝最盛期の皇帝が中国の文物を愛でている様子が描かれ、その後ろには実際に玉や青銅、磁器などの宝物が並べられていたが、これは乾隆帝が本当に中国文化に敬意を払い愛していたことを示すのか、それとも漢民族支配のための政治的なメッセージなのかは今一つ釈然としない。
それでも、「秘殿珠林」、「石渠宝笈」といった精緻な “所蔵品リスト”を見ると、長い中国文化の中で生み出された文物を分類し記録することへの執念が感じられ、またそれを上等、次等とランク付けしていることからは単なる蔵品の整理という以上の姿勢が窺える。

会場には 乾隆帝が王羲之等の書を掲げて一人で時間を過ごしたという 「三希堂」の内部が復元展示されていた。
紫禁城という極大空間の中にある四畳半ほどの極小空間に書を飾り工芸品を置いて思索の部屋とした皇帝の内面はどのようなものだったのか、特に父と子が仲睦まじく立つ庭をだまし絵によって再現した心中は、凡人の想像の及ぶところではなさそうだ。

“第3章 清朝の宗教 -チベット仏教がつなぐ世界-”では、清朝が特にチベット仏教を支援していたことを紹介しており、それはチベット族やモンゴル族を懐柔する意図によるものであったとされるけれど、同時に非“漢”の宗教を重視することで漢と満蒙回蔵のバランスを取ろうとしたものでもあろう。
インド・パーラ朝の素朴な仏像に続く13世紀チベットの 「観音菩薩立像」は肉感的な女神として表され、妖艶な魅力を発していた。
夫婦和合像である 「上楽金剛(チャクラサンバラ)立像」( チベット・18世紀)や 「大威徳金剛(ヤマ-ンタカ)立像」(清時代・18世紀)は迫力ある大きめの像だったが、特に後者ではチベット仏教の “気”は薄れ “清朝工芸品”としての性格が強くなっているようだった。

“第4章 清朝の国際交流 -周辺国との交流-”では天体観測により時刻計算をしたという 「銅製鍍金三辰公晷儀」、日時計兼装飾品だった 「銅製鍍金嵌琺瑯日晷儀」、そして機械仕掛けのからくり時計である 「銅製鍍金琺瑯亭升降塔飾置時計」という三代の時計が見られた。
また、各国の大使が挨拶に訪れる場面である 「万国来朝図軸」には、”中華思想”というものが明白に表れていた。
続きを読む

hokuto77 at 21:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋古代美術 

2012年02月16日

フェルメールからのラブレター展-3 手紙を書く女と召使

(ザ・ミュージアム 〜3/14)
ダブリンの 「手紙を書く女と召使」は2008年に続く来日なので、こちらもやや有難味に欠ける。
などというのはまことに贅沢で不遜な話ではあるけれど、三十数点しか残っていない フェルメールの未見作品を “既見”にできる機会が貴重なので、できることならば初来日作品が多い方が有難いというのが偽らざる気持ちでもある。

もとより、前回書いたようにこの作品も素晴らしい。
手紙を書くことに集中する女と待ち時間を過ごす召使という対比、その二人を照らす光もそれを受け止めるカーテンや床などの表現も申し分ない。
また、手紙を書くという動作に関する限りはワシントンの少女よりもはるかに真に迫っている。
その上で、しかし 「青衣の女」のように手紙の中味を良い方に想像してみていいかどうかはやや心もとなく、むしろよからぬ知らせに接して緊迫した場面と考えるべきかとも思うが、それがどの程度のものか確信が持てないもどかしさも残る。

この時代のオランダは、当時の先進国として市民にも郵便が普及してきつつあり、しかしもちろん電話もメールもないご時世なので、良い知らせも悪い知らせも “手紙”という紙媒体でやってきた。
それは送り手からすれば若干時間のかかるものではあるけれど、受け手にとっては常に “突如”として現れる。
何の前触れもなしに突然到着する手紙に、喜ばしいことも困ったことも、時には受け手を絶望の淵に追い込むようなことも書いてある、手紙とはそういうものだったのだ・・・ 

今回の “フェルメールからのラブレター”展は、ただ単にフェルメールを3点持ってきたというだけではなく、”手紙“というテーマに沿って各美術館から集めたものだったために、他の画家作品も併せてこの時代の市民生活やコミュニケーションというものを考えるきっかけを与える場となった。
おかげで ”手紙=通信手段“ということが鮮明になり、その送り手と受け手の心の動きなどを想像するうちに、震災以来注目を集めるようになった人と人との ”絆“ということに思いを及ぼさせるという付随的効果も生んだ。
リアルタイムにやり取りできるメールも、肉声が聞ける電話ももちろん大切なコミュニケーション手段だけれど、本当に大切なことはどう伝えたらいいのか、不意にそんなことをも考えさせる展覧会だった。

hokuto77 at 21:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(古典) 

2012年02月15日

ルドンとその周辺-2 色彩への ”転落”

(三菱一号館美術館 〜3/4)
石版画集 『ゴヤ頌』の 「沼の花、悲しげな人間の顔」、『』の 「堕天使はその時黒い翼を開いた」などには底知れぬ深い闇がある。
それはユイスマンスやマラルメも覗き込んだ果てしのない深淵なのだが、1890年あたりからはルドンの画面の中に徐々に明るさが感じられるようになる。
眼をとじて」(1890)はオルセーに有名な彩色バージョンもある作品で、そちらの方はもう少し穏やかに夢見るような感じの作品だったように思うけれど、ここでのモノクロ作品はより理知的で深い思索に耽っているようであり、もしかしたら何かに耐えているように見えなくもない。
それでもこのあたりから先に並ぶ作品はこれまでの神秘的な気配が希薄になっていき、同じように白と黒からなる画面にも拘らず、その内実は “黒を突き詰めた作品”から、ただ ”色がついていない作品“へと変容してしまっているようだ。

ルドンが ”黒から色彩へ”と大きく方向を転換した理由として、象徴主義への接近、子供の誕生、そして長い間創作の拠点としていたペイルルバードの喪失といった環境の変化が挙げられるが、普通に考えればその前後で同じ芸術家の仕事とはとても思えないほどの大きな断絶が生じていることからすると、どれも決め手に欠けるような気がしていた。
特に象徴主義との関わり自体は “色彩”に向かう理由にはならないだろう、しかしそうした “派”の連中との交流が社会への接近や大衆的作品に向かう契機となったと考えれば、他の要因も含め要するに 孤高の芸術家=変人が社会復帰を果たし一市民になったというようなものだったのではないかとも思う。

“第2章 色彩のルドン”の作品は、内面の神秘の世界を逍遥してきた者にとってはやや白々しい感じが否めないけれど、眩いばかりの花や神話的世界は確かに美しい。
収蔵後初公開とのことで今回の目玉となっている 「グランブーケ」も、男爵の城館の大食堂を飾った壁画としては、よくできている・・・

hokuto77 at 21:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(近代) 

2012年02月13日

棟方志功、幻の肉筆画展 〜友情の証

(日本橋三越 〜2/19)
棟方志功が60歳を過ぎてから京都の友人宅に描き遺したという肉筆の絵と書が公開された。
旧所蔵者である 山口繁太郎氏との縁は、棟方の展覧会で作品を購入しようとした際に所持金が足らず予約したいと申し出たところ、棟方が “それでは進呈しよう”と応えたことに始まるらしい。
そこには互いに津軽を身一つで出てきて頑張っていたことへの共感があったようで、以来公私ともに長い付き合いが続いたらしく、今回展示されていた作品は山口氏が病に倒れ入院していた時期に彼を励ますために制作されたとのことだった。
それは “男の友情”を感じさせるいい話だし、孤高の芸術家で気難しく近寄り難いイメージのある人物の、温かい人間的な側面を見せてくれるものでもあった。

最もインパクトがあったのは襖絵墨書 「乾坤無妙」、右から字が並ぶので “ 妙 無 坤 乾 ”ということになるが、襖一枚に一字ずつ大書されたぶっきら棒な文字は実に力強く覇気に満ちている。
同じ2階和室で床の間のある部屋を飾る 「樹林」も、絵そのものは上手いものではないし襖絵としてのバランスもいいとは言えないと思うけれど、しかし緑の葉が茂る樹の姿には独特の ”気”が充溢しており、命ある樹木の霊気を体感できる空間を創り上げたという意味では “樹林”の本質を捉えた図といえる。
その他、天女、花、鷹、いろはの文字など様々な題材が襖と板戸を彩っており、丸紋と書による作品では 「天大地大 清厳妙浄」という文字が健康的で美しい女性の顔とよく響き合っていた。
意外な面白さがあったのは、文字のような抽象画のような文様が描かれた 「板戸絵」、物入れのための板戸に筆を走らせた “おまけ“のような作品だが、素朴な線にはなんともいえない味があり、棟方志功の幅の広さを感じた。

その他、肉筆画では 「大日本北方魂」と書かれた量感ある山、「万妙如意図」の四体の仏の優しい姿が特に印象的なもの、そして「清趣妙韻図」には日本の風景の原型ともいえる懐かしい風景が広がっていた。
最後の方には有名な板画も登場しており、般若心経の文字を仏だけでなく裸の女やフクロウ、花や木とともに構成した 「追開心経頌」、改刻前の二菩薩も併せて展示された 「二菩薩釈迦十大弟子図」などを見ることができた。

こうした版画作品の緻密な画面の充実ぶりや枠の外に飛び出そうとするような迫力と、前半の肉筆画や書のもつ味わいは、根は同じもののようでいて表現としては随分と違う感じもする。
それはもちろん、刃(やいば)と板がぶつかり合ってできる線と、水気を含んだ筆が紙の上を動いていってできる線との本質的な違いとして説明はできるだろう。
その上で、国際的な名声(53歳でヴェネツィア・ビエンナーレ)や国内での称号(59歳で法眼)を得た後に病気の旧友を励ますために描いたという襖絵には、何を追求すべきかを模索する中での闘いであった作品とは違う大らかさと明るさがあり、人間 ”棟方志功“としての魅力がより強く感じられるもののように思えた。

hokuto77 at 21:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年02月12日

辻井伸行 ピアノ・リサイタル-2 アンコール曲と余談

辻井伸行氏についてはこの2年ほどの間に様々なメディアで取り上げられてきたが、生演奏を聞いてあらためて凄い音楽家だと感じた。
先日の舘野泉氏=“左手のピアニスト”に続くように “盲目のピアニスト”のコンサートに出かけたのは偶然に過ぎないし、あまり “○○の”の部分を強調すべきではないとも思う。
ただ、この二つの間の決定的な違いは、“左手”の方は弾くことのできる曲が極めて限定的となり、左手用に作曲されたものでは一般にピアノが “旋律楽器”に近い感じになるのに対し、“盲目”の方は演奏時や特に準備段階で大きな負担がかかるものの、ピアノ音楽として選曲や表現が変わることはないことだ。
もっとも、素人考えではあまり打鍵位置の跳躍の大きい曲や暗譜し難い現代曲などは向かないと思われるけれど、チャイコフスキーの第1協奏曲やコンクールの課題曲などもレパートリーにしているので、このレベルの音楽家になればそれは問題ではないのかもしれないし、むしろ思い切りの良い強音は指が鍵盤に吸い寄せられているのではないかとさえ感じさせられた。

プログラムの4曲がオーソドックスなものだったのに対し、アンコールの ショパンではロマン派の陰影や憧憬が豊かに表され、リストではここまで弾けるんだという熱い演説を聞くようであり、それぞれにこの稀有な音楽家の個性の幅を印象付けるものだった。

<アンコール>
ショパン: ノクターン第8番
リスト: リゴレット・パラフレーズ
辻井伸行: ジェニーへのオマージュ
辻井伸行: それでも生きてゆく

自作の2曲を弾く前には、大きな拍手を制して本人が選曲理由などを直接語りかけていた。
ジェニーへのオマージュ」はカーネギーホールでのデビューコンサートに合わせて作ったもので、その過程はNHKの番組でも特集されていたが、記念すべき大舞台でニューヨークの聴衆に ”受けた“ことに対する本人の満足感や手ごたえはよく伝わってきた。
最後は 3.11の大震災に対し音楽家として出来ることは何かと考えたという 「それでも生きてゆく」。
演歌のようなフォークのような短調のメロディーがやがて長調に変わる中で悲しみと希望が交錯する曲で、親しみやすい旋律は詞をつければそのまま歌になりそうだし、TVドラマ用のアレンジもあるらしいのだが、この日聞いた印象では自身の弾く弱音のピアノの美しい響きこそがこの曲の品格をなんとか保っている・・・  

辻井伸行という音楽家は、ピアニストとしては超一流であると認識することができたけれど、作曲家として、”コンクール優勝者“や “盲目の”というような肩書を取り去った上でなお一流なのかはよく分からない。
せっかくの才能なのだからあらゆる可能性に挑戦していくのを見てみたいと思う一方で、それでなくてもヴァン・クライバーン優勝者はご褒美のコンサートで消耗してしまい大成しないと言われることが多いのに、今はあまりにも忙し過ぎるのではないかと心配にもなる。
幾つかのチャンスは先送りしながらでも、年齢とともに熟成しいずれ巨匠と呼ばれる大ピアニストになっていってほしいと、勝手ながら思ったりもした。

hokuto77 at 20:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2012年02月11日

日比谷が熱く燃えた日-4 フォークとともに

(日比谷図書文化館 12/28終了)
社会派⇒四畳半⇒ニューミュージックと移り変わっていったフォークという音楽ジャンルのどのあたりがリアルタイムだったかによって、またその時の生活環境や関心の向き方によって、フォークは仲間との連帯の歌であったり、理不尽なものへの憤りの捌け口であったり、ほろ苦い愛と別れのエピソードがまつわりついていたり、夢を追いかけた相棒であったりするだろう。
私にとっては、これらもその一部ではあるけれど、最も大きかったのは中学・高校時代に抱いていた “学生生活への憧れ”だった。
といっても “大学で勉強する生活”ということではなくて、“田舎の親元”で暮らすという生活から脱皮して、東京または京都やその他の都市で “一人暮らし”を始めることへの願望であり、それがフォークを聞くこととほぼ同時に始まり、さまざまな曲に触れる中で急速に強まっていった。

その頃に頭の中のかなりの部分を占めていたのは、「学生街の喫茶店」や 「アビーロードの街」で女の子と語らう風景であったり、「神田川」や 「池上線」の近くのアパートで暮らすことであったり、ともに 「あゝ青春」を実感できる 「我が良き友」に出会ったり、「悲しくてやりきれない」思いを抱えて 「風」のように 「遠くへ行きたい」と思ったり、気が向けば 「落陽」や 「なごり雪」を見るために 「東へ西へ」と 「各駅停車」に乗り込んだり・・・ しかしそんなことが自由にできるためには、とにもかくにもまずは無事大学に合格して “学生生活”を始めなければならないと思っていた。
実際の4年間は今から思えばあっという間に終わってしまったし、当時は慣れない町での生活に関わる雑事やサークルなどでの付き合い、それにもちろん単位取得の算段やレポートも試験もあってそれほど自由だとは感じていなかったけれど、それでもこれまでの生涯の中で最も縛られることが少なく裁量の余地が大きかった時期には違いないし、戻ってみたい時代を選ぶとしたら首位の座は動かない・・・

日比谷図書館で思わぬ 「心の旅」をしてしまったので、隣の 日比谷公会堂のカフェに入ってコーヒーを飲んだ。
レンガ造りの建物の中は昭和を強く感じさせるレトロな空気が漂っていて、中央に置かれた蓄音機からはSP盤特有のもの悲しいヴィオロンの旋律が、火照った心を癒すように静かに流れていた。

hokuto77 at 21:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年02月10日

北京故宮博物院200選-6 工芸と康熙帝南巡図

(東京国立博物館 〜2/19)
宋元の書画を堪能し、「清明上河図」のための部屋をすり抜けて後半へ向かうと、中国の工芸品が玉器、青銅器、陶磁器、漆器 琺瑯(ほうろう)器、染色品に分かれて並んでいた。
それは大きな流れとしては神秘的で威圧感のある商周の神器から繊細優美な宋の青磁を経て元明清の豪華で贅を尽くした品々へという感じだが、今回の展覧会が宋代に重点を置いていることもあって、青磁の控えめでいながら味わい深い色彩が特に好ましく見えた。
見渡してみれば、商(殷)の青銅器にかなり力が入っており、第2章では清の乾隆帝の時代をクローズアップしている一方で、秦漢から隋唐にかけての時代からの出品はほとんど見当たらない。
特に唐の文物が皆無で仏教関係やいわゆるシルクロードものを欠く中国展というのも珍しいのではないかと思うが、この辺りは見飽きているとは言わないにしても他に見ることのできる機会は多いので、今回はあまり総花的にせずに宋代を中心にしてくれたのは有難かった。

“第2部 清朝宮廷文化の精粋 -多文化のなかの共生-”へ行くと、“第1章 清朝の礼制文化 -悠久の伝統-”では、長大な 「康熙帝南巡図巻」が目を引いた。
芸術的作品とは言い難いが緻密な描写は記録としては徹底しており、清帝国繁栄の基礎を作った第4代康熙帝の南巡の様子を描いた第11巻では 「清明上河図」の現代版のように当時の町の繁栄ぶりや船の構造を知ることができる。
視察を終えて紫禁城へ帰還した場面の第12巻では人海戦術とも言える盛大な儀式から権力の大きさがよく分かるが、その中心にいる皇帝がそれほど着飾らずにとぼけた顔をした退屈そうな男として描かれていたのは意外であった。
また、「満文稿本」に記されていたのは漢字とともに清朝の公用語であった満州語の文字であり、300年続いたこの王朝が満州族の支配する国であったことをあらためて実感した。

hokuto77 at 21:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋古代美術 

2012年02月08日

ルドンとその周辺-1 ルドンの黒と進化論

(三菱一号館美術館 〜3/4)
岐阜県美術館所蔵品による ”ルドンとその周辺、夢見る世紀末”の中で特に見応えがあったのは、2007年に渋谷のザ・ミュージアムに来たものとほぼ同じ構成による ”第1部 ルドンの黒”だったので、心に残った作品もその印象も当時とそれほど変わることはない。
それでも、39歳のときの出世作である石版画集 『夢のなかで』(1879年)では、「孵化」や 「発芽」の中にこうして人間はこの世に生を受けるのだと納得してしまいそうな生命と宇宙の神秘が凝縮されており、「悲しき上昇」や 「皿の上」ではその命が永遠の中に帰っていくのを見るようで、僅か10枚ほどの連作版画の中でこの世の生は仮そめの姿に過ぎないことをあらためて強く感じさせられた。

ルドンの “黒い世界”を深化させた一つの要因は 『エドガー・ポーに』(1882年)というシリーズの表題で明らかであり、「眼は奇妙な気球のように無限に向かう」や 「仮面は弔いの鐘を鳴らす」といった作品はその言葉なしには考えられない。
もう一つ重要なものとして会場で強調されていたのは ダーウィンの進化論で、この地質学者・生物学者の死の翌年である1883年に出版された石版画集 『起源』には特にその影響が強く感じられた。
種の起源”が発表されたのは20年以上前の1859年だが、以来知識人たちの頭脳に広く深く蔓延していった ”進化論”のイメージは多分強烈なもので、特にキリスト教圏における衝撃の大きさや現在進行形すなわち何がどこまで明らかにされてしまうのかわからないという漠とした不安感は、今の時点から想像してみることも難しい。
おそらく花の中に最初の視覚が試みられた」という作品はそうした思想的背景を強く感じさせるし、初期作品の 「永遠を前にした男」(1870)で大きな雲に向かい ”この無限の空間の沈黙が私を脅かす”と嘆じている四つ足の原人や、「永遠の探求‐哲学者」(1880)で黒い太陽の前に立ち尽くす謎の人物も、そのような文脈の中で理解すべきものかと思われた。

hokuto77 at 21:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(近代) 

2012年02月07日

辻井伸行 ピアノ・リサイタル-1 圧倒的なベートーヴェン

2009年に ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した 辻井伸行氏のコンサートを聞いた。
(2月6日、サントリーホール)

モーツァルト: きらきら星変奏曲K.265
モーツァルト: ピアノ・ソナタ第10番 ハ長調 K.330
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第17番 二短調 op.31-2 「テンペスト」
ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 op.53 「ワルトシユタイン」

3カ月ほどかけて各地を回る “日本ツアー 2011/12”のプログラム前半におかれた モーツァルトは、率直に言えばさしたる驚きもなく過ぎていった。
いや、舞台に出てくるのに介添えが必要で、弾き始める前には鍵盤の右端から手を置いて場所を探り当てなければならないピアニストの演奏としては充分驚嘆に値するのだが、そこに注目して評価するのは多分辻井氏にとっても本意ではないだろう。

しかし、後半の ベートーヴェンではそのような事情に一切かかわりなく演奏そのものに圧倒された。
テンペスト」では上下の音の動きがくっきりと浮かび上がり、劇的に荒れ狂う嵐が徐々に大きく立ち現われてくるようで、初期のソナタにしてはスケール感が強く印象付けられた演奏だった。

一方、中期の 「ワルトシュタイン」は冒頭から早いテンポで疾走を始める。
こんなに早くて大丈夫か、という心配もあっという間に遥か後方に置き去りにして、このピアニストが操縦する乗り物は硬質な鉱物が弾け飛び蒼い火花が散るような中を息もつかせずに突き進んでいく。
思わず何人かの拍手も出た熱い第一楽章に続いては、短いながらも説得力のあるレチタティーヴォが場面を転換し、第三楽章は清冽な水が流れるように美しい響きで始まる。
CDなどで聴くときはやや集中が途切れがちになるこの辺りでも、辻井氏は局面ごとにはっきりと性格づけをして曲を進めていき、やがて美しい流れが力強い奔流となり巨大な怒涛となって全身を包むような瞬間に立ち会わされることになった。
「ワルトシユタイン」がベートーヴェン的世界の、そしてあらゆるピアノ曲の中でも屈指の名曲であることは知っていた、しかしこんなに引き込まれ手に汗握る思いで聞いたのは初めてだった。

hokuto77 at 20:27|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2012年02月05日

日比谷が熱く燃えた日-3 1969年の音楽

(日比谷図書文化館 12/28終了)
1969年という年を考えている。
この展覧会がターゲットとしたのは1964〜73年の10年間、そのちょうど中頃にあたる「1969」をタイトルに持つ 由紀さおりのCDが世界中で売れているらしく、それがこの年発売された 「夜明けのスキャット」の中古盤を聞いたアメリカのミュージシャンとの縁から思わぬ展開を見せたものだったというのも、現代のおとぎ話みたいに聞こえるなかなかいい話だった。
それより少し前まで、「1969」といえば、2009年に「この40年、あなたはどこで何をしていましたか」というコピーとともに売りだされた サイモン&ガーファンクルのライブ盤のタイトルでもあった
彼らの最後の作品となった 「明日に架ける橋」が録音されたこの年、ビートルズも 「レット・イット・ビー」のセッションと 「アビーロード」の録音が終わり、音楽作品としては両グループともここで終焉を迎える。

アポロ11号が月面着陸した夏に、アメリカでは ウッドストック・フェスティバルが40万人を集め、日本では学生運動の節目となる東大安田講堂攻防戦があり、ウッドストックより少し前に 中津川フォークジャンボリーの第1回が開催されていた。
前年まで圧倒的な人気を博していたグループサウンズはピークを越えて脱退や解散が続き、若者の音楽はこの年あたりを境にしてフォークへと大きく転換する
それは、洋楽的なセンスで洗練されながらも甘さがあり借り物めいた感じが抜けなかったGSから、粗削りで稚拙なところがあってもリアリティの感じられるフォークへという流れであり、自分たちでもすぐにマネして何とかなりそうな音楽、集会などで仲間意識を確認しつつ盛り上がれる音楽への渇望でもあったように思う。
拓郎や陽水が出てくるのはもう少し先のこと、岡林信康や高石ともや、五つの赤い風船などが表舞台に出てきたこの1969年に、しかし巷でヒットしていたのは 「夜明けのスキャット」や「ブルーライト・ヨコハマ」であり、 佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」がレコ大受賞曲というのも、今から振り返れば時代の転換点であり “狭間”だったことを強く感じさせる。

レコ大といえば、この後70年代に入ると、70年: 菅原洋一 「今日でお別れ」、71年: 尾崎紀世彦 「また逢う日まで」、72年: ちあきなおみ 「喝采」、73年: 五木ひろし 「夜空」、74年: 森進一 「襟裳岬」、75年: 布施明 「シクラメンのかほり」という受賞曲が続く。
このあたりは田舎の中学生でも今年は誰が大賞をとるのか強い関心を持って見ていた時期であり、歌謡曲としても最も盛り上がっていた時代、そして紅白歌合戦がその年のヒット曲によって成り立ち得ていた最後の時代なのではないか。
特に73年以降の3人(五木、森、布施)に沢田研二を加えた4人の実力派男性歌手による年末の勝負はガチンコの横綱相撲のような感じがあり、その後徐々に人気=セールスと歌の実力が分化していってしまう前の歌謡曲黄金期であったようにも思う。
今にして思えばこれも大人の事情による “持ち回り”と考えられなくもないが(沢田研二は77年に 「勝手にしやがれ」で受賞)、それも実力伯仲時代だったからこそであろう。
それはともかく、74年の「襟裳岬」は 吉田拓郎、75年の「シクラメンのかほり」は 小椋佳が楽曲提供したものだったので、若者のアングラだったフォークが広く市民権を得たことを示す喜ばしい出来事ではあったけれど、しかしこの辺りが音楽ジャンルとしてのフォークのピークであったことも思い出しておきたい。

hokuto77 at 21:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年02月04日

フェルメールからのラブレター展-2 手紙を書く女

(ザ・ミュージアム 〜3/14)
このワシントンの少女は、私の知る限りでも3回目の来日だ。
そのフットワークの軽さは絵のありがたみを減じてしまいそうだし、書いている手紙の中味に想像力を働かせることも難しい。
できたら手紙を書くことに集中していて欲しかったと思うのだが、それでもやはりこれはかなりの名品だ。

もとより、“左から光のさす室内で、女が一人で何かに没頭している“という絵ではない。
光は何処から発しているのか定かでなく、女も手紙を書く手を止めてこちらに視線を向けている。
手紙というのは、送り先となる相手を思い、書くべきことをまとめ、文章として構成し、文字を紙に書いていくというかなりの集中を要する行為であるので、それをこのような形で中断しなければならないとしたら、本来ならば心穏やかではいられないだろう。
だからこれは、ヴァージナルの前に立ったり座ったりさせて制作した ”肖像画“の一種として、たまたま手紙を書くポーズをとっているだけという可能性が強いが、それにもかかわらずそこには知的で落ち着いた女性の個性が光っているようであり、その聡明そうな顔はフェルメール作品の中でも屈指のものだと思う。

そして、真珠のイアリングや椅子の鋲、机の上のネックレスや小物入れの金具のひとつひとつが光を受けてきらきらと輝き、彼女を光の粒で荘厳しているように見える。
それと、彼女が着ている白い縁取りのある黄色い毛皮の上着は、NYやロンドン、アムスやベルリンなどの作品にもたびたび登場しており、フェルメールのお気に入りの服と言っていいと思うのだが、その中でもおそらくこのワシントン作品が最も丁寧かつ魅力的に描き込まれているのではないか。
その意味でも、この作品はフェルメールにとってある種 ”特別“な作品のようであり、一見ありふれたテーマとポーズにもかかわらずしっくりとはまった感じがあるのも、多分そのために違いない。

hokuto77 at 21:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(古典) 

2012年02月03日

北京故宮博物院200選-5 元代の絵画と書蹟

(東京国立博物館 〜2/19)
モンゴル民族の征服王朝である の時代に入ると、それまでの “没骨”を否定し、輪郭線のはっきりした絵で “写実”よりも “写意”を追求すべしという 文人画運動が主流となる。
その流れによるのであろう、李衎筆 「双鈎竹図軸」は竹の葉の一枚一枚までくっきりと描き出されていて、宋の絵画とは目指すところが違うことがわかる。
もちろん好みの問題かもしれないが、柯九思筆 「清閟閣墨竹図軸」は濃淡が強調され過ぎだと思うし、王淵筆 「桃竹錦鶏図軸」は一点の曇りもない明快な絵だけれど、そこに詩情は漂わない。
枯れ過ぎの 曹知白筆 「疏松幽岫図軸」は別としても、朱徳潤筆 「秀野軒図巻」が優れた筆致であることは分かる、しかし奥行きも空気感もない画面には魅力を感じにくいというのが率直なところだ。

そんな中で、姚廷美筆 「雪江漁艇図巻」は近景に樹木を配し、中景に水、遠くに山を見せる構図が斬新で、平板さを免れつつ雪景色の爽やかさを再現していた。
人物画の至宝と言われる 王繹・倪瓚筆 「楊竹西小像巻」は、老人の顔の表情は穏やかで高潔な人格を窺わせ、衣の線も流麗で美しいものだったが、別の絵師との合作という岩や松との調和がもう少しとれていればと思った。

趙孟頫(ちょうもうふ)筆 「水村図巻」は、緩やかな山の稜線と農村ののどかな光景が描かれた作品だが、どこにもピントが合っていないように茫漠とした印象で、一見するとこの作品の一体どこが中国山水画の最高傑作なのかと戸惑う。
しかし、宋の皇族の末裔である 趙孟頫が元朝に仕えながら描いたという絵にはじんわりと心に沁みてくるような温かみがあり、写実ではなく“写意”と言いつつもその湿潤な空気には南宋絵画のDNAが感じられ、大都北京に都を移しても変わることのない理想の風景は、日本的ともいえる穏やかで平和な情感あふれる田園風景だったようだ。

同じ 趙孟頫筆の書 「行書洛神賦巻」は、自らのルーツを確認するように 王義之の書体に倣って書いたものとのことで、その復古的な作風は中国書の規範という感じがする。
一方、トルコ系遊牧民で色目人だったという 康里巎巎による「草書述張旭筆法巻」は、投げやりにも見える文字のリズムがなんとも心地よいものだった。

hokuto77 at 21:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋絵画 

2012年02月01日

平塚運一と落合の版画家、追憶の風景と仲間たち

(新宿歴史博物館 〜2/5)
“渋谷ユートピア”にも登場していた 平塚運一(1895〜1997)の作品を集めた展覧会があると知り四谷に出かけた。
全体で50点ほどの規模だが、三者分業の版画を一人で行う “自画、自刻、自摺”の創作木版画のパイオニアと呼ばれる版画家についていろいろと知ることができた。
平塚運一が生まれた1895(明治28)年は下関条約(日新戦争終結)の年にあたるので、戦史を拾っていけば10歳で日本海海戦、36歳で満州事変、50歳で第2次世界大戦終結を経験したことになる。
さらに1962年には67歳でキューバ危機やベトナム戦争で揺れるアメリカに渡り、95年まで33年も滞在したのち100歳で帰国し、今から僅か15年前の1997年に102歳で没するという長大な人生だったようだ。

作品では、この時期に選ばれたのは偶然なのか分からないけれど、「東京震災後風景」というシリーズに思わず見入った。
この時代には版画も現実の記録としても重宝されていたのであろう、ドームを欠いた 「ニコライ堂」をはじめ 「東橋」や 「築地」には震災の爪痕が生々しく残っているのだが、それでも街の姿や建物の基本部分は失われていない。
これに対し、「洲崎遊郭」や 「深川木場」では被害状況はそれほど明らかではない一方で、今は失われてしまった水辺の風景が郷愁をそそるように美しく広がっている。
もちろん地震や火災の被害も大変なことではあっただろう。しかしもっと恐ろしいのは街を根こそぎにする津波であり、それ以上に致命的なのは開発という名の破壊であるのかもしれない。
また、1945年には戦災前の風景を残そうという 「東京回顧図会」が複数の作家により制作されたようで、平塚による 「赤坂離宮」や 「数寄屋橋」にはそれまでに築き上げてきた都市景観が儚げな姿を留めていた。

その他の作品では、「小泉八雲旧居」に松江城周辺の落ち着いた佇まいが、「甲州猿橋」には橋の裏側の構造や深い谷の迫力が、そして 「日光二荒山逆光」には黒い部分の多い画面に霊山の気が感じられた。
後輩の谷中安規や弟子の棟方志功ほどの才気やパワーは望めないとしても、親しみやすく分かりやすい作風は信州千曲川や木崎湖・青木湖、そしてワシントンなどの風景によく表れていたし、その人柄をよく伝えるのは1932年にアトリエを建てた時に會津八一が命名し贈ったという「瓦乱洞」の額、そして本人が遺した版画賛歌とも言うべきという率直な歌であろう。

  “彫り上げて いざ摺らんかな 初摺りの この嬉しさを 誰にか語らむ”

最奥部は版画集 「白と黒」を出した 料治熊太のコーナー、料治邸の正月の集いの写真には平塚や谷中が集い、創刊号の 「雨景」(複製)には雨に煙るガス灯が見える街角が魅力的に浮かび上がっていた。

hokuto77 at 21:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月31日

舘野泉 ピアノ・リサイタル-3 左手により開かれた世界

舘野泉が長くフィンランドに住んだのはフィンランドや北欧の音楽を学びたかったわけではないという。しかし、名前は以前から聞いて知っていたとはいえ、私がこのピアニストをはっきり意識したのは80年代前半にヘルシンキ・フィルが来日した際のソリストとして、そしてフィンランドを舞台にしたNHKのドキュメンタリー風ドラマのような映像詩的作品に出演しているのを見た時なので、以来 “舘野泉=フィンランドの音楽家”と刷り込まれていた。
そのせいだけということではないが、今も彼がシベリウスの小品をアイノラにある遺品のピアノで弾いた 「アイノラのシベリウス」は一生大切にしたいと思うCDだし、メリカントやカスキらも加えた2枚組の 「フィンランド名曲コレクション」も長い間の愛聴盤だ。

その舘野泉氏が2002年に脳溢血で右手の自由を失ったという報に接した時、これからは残されたCDを大切に聞いていくしかないのかと思ったものだったが、僅か2年足らずの間に ”左手のピアニスト“として復活し、以前にもまして強く深く聴く者の心を揺さぶるような演奏を続けている。
しかも、彼のために左手のためのピアノ作品が書かれ、それが新たな感動の輪を広げさらに作品が生み出されていくという好ましい循環が続いているようで、ご本人には失礼な言い方になるかもしれないけれど、何か大きな力が働いて以前よりももっと有意義な音楽活動の中心におられるような感じがする。
突然にそれまでのレパートリーが弾けなくなってしまう辛さは想像するに余りあるけれど、その結果新たに切り開かれた世界はさらに先へと広っていくようであり、おそらく今は過去の名曲たちを弾き続けている以上の充実感をご本人も感じながら聴衆に与え続けているのではないか。

それにしても、長い鍵盤を行き来する左手は本当に忙しそうだ。
ステージの上では大きなグランドピアノと、それ以上に大きな音楽の表現者としての 舘野泉が向かい合っている。
その、音にして表現したいことが山ほど詰まっている芸術家と、受け止め応えようとする楽器の間をつなぐのが1本の左手=5本の指でしかないという不条理な現実が、「音楽をするのに手が1本も2本も関係ない」というご本人の言葉をそのまま受け取りたいと思う気持ちを突き抜けて、不意に涙腺を刺激し視界を曇らせる・・・ 
アンコールで弾かれた 吉松隆編曲 「カッチーニのアヴェ・マリア」が、いろいろなことを考えさせられたコンサートを静かに締めくくった。

hokuto77 at 21:41|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2012年01月30日

日比谷が熱く燃えた日-2 若者文化の記憶

(日比谷図書文化館 12/28終了)
“日比谷が熱く燃えた日”の学生運動にからむ展示では、「朝日ジャーナル」や「二十歳の原点」の現物が懐かしかった。
60年代を京都の大学で過ごし自殺という選択に至る女子学生の手記 「二十歳の原点」は、私が中学生の頃かなり話題を集めていて興味もあったのだけれど、親に内緒で買って読むのも憚られるなあと思っていたとき、「これ読む?」と言って貸してくれた女の子がいた。
大人びた物言いをする文学少女だった彼女がなぜ突然その本を貸してくれたのかは、40年近く経った今も謎のままだ・・・ 

1964〜73年の10年間は、東京オリンピックと大阪万博、新幹線と東名高速の開通に象徴されるように日本が高度成長を遂げていく中、公害問題や安保闘争などで不穏な空気も一方にあった。
そんな中で影響力を持っていた媒体は映画・演劇や雑誌であり、横尾忠則や寺山修二などを中心とした“アングラ”が強く支持された時代でもあった。
横尾忠則の 「浅丘ルリ子裸体姿之圖」は、今見てもよくこんなものが公の場に登場したものだと感心させられたが、そこにこそ当時のサブ・カルチャーのパワーを思い知るべきなのであろう。

身近だったジャンルの音楽に関しても、この10年の間に海外ではビートルズが革命を起こし、日本では歌謡曲からグループサウンズが突如ブレークし、やがてフォークというジャンルが単なる音楽を超えた若者文化として定着していく。
そのフォークも、歌声喫茶から新宿西口へという流れの中で反体制・反戦運動をストレートに反映した ”社会派”だったはずが、身の回りのことや悩める心を歌う私小説的な “四畳半フォーク”へと重心を移し、やがてサウンド重視の ”ニューミュージック”へと変貌して生活感を失っていく。
それは、その渦中に居ながらどこが節目だったのかもよくわからないほど見事な変容ぶりだったけれど、結局は豊かな時代を享受しやがてバブルに向かっていくという世の中の流れに沿ったものであったと、今にして思う・・・

hokuto77 at 22:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年01月28日

Index Oct.-Dec., 2011

日比谷が熱く燃えた日 (日比谷図書文化館) 
ぬぐ絵画 (東京国立近代美術館) 
メタボリズムの未来都市展 (六本木ヒルズ) 
長谷川等伯と狩野派 (出光美術館) 
ゴヤ、光と影 (西洋美術館) 
南蛮美術の光と影 (サントリー美術館) 
モダン・アート, アメリカン (国立新美術館) 
法然と親鸞 (東京国立博物館) 
彫刻の時間 (藝大美術館) 
大雅・蕪村・玉堂と仙僉 塀亳美術館) 
春日の風景 (根津美術館) 
モーリス・ドニ (損保ジャパン) 
ヴェネツィア展 (江戸東京博物館) 

エリック・クラプトン 
デュトワ、N響のマーラー 《千人の交響曲》 
元禄〜その時、世界は? トルコ行進曲の秘密 

2011年のベストスリー  

hokuto77 at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!Index 【記事一覧】 

2012年01月27日

渋谷ユートピア-3 海老原喜之助、ハチ公、谷中安規

(松濤美術館 〜1/29)
讃. フォービズムの風—独立美術協会の周辺」の章には、“渋谷ユートピア”の中でも絵画として見応えのあるものが集中しており、児島善三郎の「おさげの少女」や「桜の頃」もよかったけれど、木下孝則の 「裸婦ナックレ」は自然な寝姿のヌードとして特に印象に残った。
京大法科と東大哲学科を中退して独学で絵を学んだという人物の裸婦図にはやや曖昧なところがあるものの、様々に屈折した“はだかの絵”を見てきた後だけに、目を閉じて横たわる裸婦の匂い立つような色香が好ましいものに感じられた。

海老原喜之助の 「雪山と樵」は、縦長の画面に文人画のような山肌を持つ高い山が雄大に聳え立ち、遥か下の雪の中には子供と犬を連れて歩む樵(きこり)が見える。
人間の小ささとは桁違いの大自然が放つ凛とした寒気を、ポアソニエールを思い出させる輝かしいほどの青がくっきりと描き出し、澄み切った空気の清々しさに心洗われるような画面となっていた

湿. 郊外を刻む—版画家たちの代々木グループ」には渋谷百軒店や表参道の懐かしい風景があり、石井鶴三代々幡」にはこの時分の東京の郊外の感じがよく表れていた。
また、以前意外なところで名前を見かけた 平塚運一の作品には写実ではない単純化された面白さがあった。

従. 同潤会アパートメントに住む―蔵田周忠と型而工房」のコーナーには今は取り壊されたアパートの階段手摺や食堂扉があり、この辺りでは代官山と表参道にあったレトロなアパートを懐かしく思い出した。

松. 安藤照とハチ公と塊人社—昭和前期の彫刻家たち」では渋谷のシンボル “ハチ公”の物語が紹介されていた。
今のハチ公像は戦時金属供出で溶解されてしまった初代の像に続くものとのこと、展示室にはその初代の姿の模造品である 「陶製ハチ公像」と、原型の作者である 安藤照による 「ハチ公伏臥像」があった。
いずれも小さな像だが、「陶製」の方は今の銅像と同じく駅前で主人を待つ凛とした姿であるのに対し、「伏臥像」は緊張をといて横たわる様子を短時間で作り上げたような作品で、任務に従事している表のポーズと私的な時間でくつろいでいる裏の様子の対比が面白い。
特に忠犬としての律儀な性格を知るだけに、「伏臥像」の自然体で安らぐ姿がいじらしく感じられ、作者の愛情もよく伝わってくるような気がした。

終章. 都市の遊歩者—谷中安規と《街の本》」にはデパートや高架が描かれた駅前風景の作品が1点だけ出ていた。
そういえば初めて 渋谷という街に来た少年の頃、道路や商店街の上に国電が走り、その上に地下鉄が通るという立体交差の街が何とも不思議な未来都市のように見えていたことを思い出した。
谷中安規はそんな非日常的な光景にさらに赤い色を配することで、ネオン煌めく都会の夜の猥雑な雰囲気を見事に伝えていた。

hokuto77 at 21:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月25日

フェルメールからのラブレター展-1 青衣の女

(ザ・ミュージアム 〜3/14)
今回初来日の 「手紙を読む青衣の女」は修復後初の公開でもあり、アムステルダムで2度見たときとはかなり印象の違う明るい鮮やかな画面となっていた。
従来からくすんだ色合いが落ち着いた雰囲気を醸し出す魅力的な作品だったけれど、曇り空の一日で陽もだいぶ西に傾いた頃合いのような感じだったのが、今回見る絵には眩しいほどの明るい光が満ちている。
青い衣もさっぱりと洗われた後のようで汚れも目に付かず、気のせいか絵の中の女性はより若く、暮らし向きもいいように感じられ、室内画ないし人物画としては別物と言ってもよさそうな変容ぶりだ。

しかし、届いたばかりの手紙を見て喜びに包まれる女の絵としては、むしろ心の中の動きがより晴れやかなものとなって画面に投影しているようであり、その魅力は以前の延長上にありながら、より強いものになって甦ったと言える。
この絵の “解釈”としては、後ろの壁面に掛かる地図が暗示するように彼女の夫は船で航海に出ていて、異説はあるものの青い衣のふくらみが示すように彼女のお腹の中では大切な子が育っていると考えていいのだろう。
その夫から久しぶりに手紙が届いた、それはおそらく帰国の時期を知らせる手紙で、彼女は驚きと喜びのあまり口が僅かに開き、その手紙を胸の前でしっかりと握る両手にも自然と力がこもっている。
子供が生まれる頃には3人で顔を合わせることができるのか、一人の部屋でたった今嬉しい知らせに接したばかりのこの女性に、見る者も祝福の言葉をかけてあげたいような気分になってくる。

もちろんこうした ”ストーリー”を離れても、この作品には絵画としての魅力が十分に備わっている。
左から射してくる光に満たされた室内、限られた色彩同士の微妙な響き合い、無駄のない堅固な構図・・・
しかしそこに登場人物の “幸福感”という要素が加わることによって、この 「手紙を読む青衣の女」は温かい気持ちを伝えながら深く心に残るものとなり、フェルメールの中でも特に忘れ難い作品になっているのだと思う。

hokuto77 at 21:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(古典) 

2012年01月24日

舘野泉 ピアノ・リサイタル-2 左手で紡ぎ出される音

舘野泉氏による左手での演奏を実際に聞いてみて気付くのは、一粒の音の重さがこれまで感じていたピアノとはまるで違うということだ。
単音が切れ切れに聞こえたりする場面が多いということもあるけれど、安易に他の音と混ぜられてしまわない “音”の純度は高く、その一つ一つに籠められた思いも説得力を持って伝わってくる。
考え抜かれたタッチ、間の取り方、そして音と間が渾然一体となって造り出される大きな流れによって、今までに経験したことのない新たな世界が徐々に立ち現われてくるようだ。
その美点は、特に間や沈黙に重点を置いた現代曲で発揮されやすく、しかも饒舌や喧騒の対極にある清冽な北欧の空気に縁の深い舘野氏にとって、吉松隆タピオラ幻景」はその最良の作品のひとつであるように思われた。

プログラム前半のソロ=左手のみの演奏ではそのようなことを考えていたが、後半のアンサンブルになると状況はやや変わってくる。
アルゼンチンの作曲家 エスカンデの 「音の描写」は愛弟子 平原あゆみとの3手連弾曲、「爬虫類」=エッシャー、「夢」=ルソー、「砂に埋もれた犬」=ゴヤ、「空の青」=カンディンスキーという4枚の絵の印象に関係するというこの曲はそれなりに面白いが、しかし舘野氏でなければ聞くことはできないという性格の作品でもなさそうだった。

最後は 末吉保雄の 「アイヌ断章」。
左手ピアノ、フルート、コントラバス、打楽器という変わった構成の四重奏曲で、作曲者自身が指揮者として5人目に登壇されたのには驚いたけれど、藝大の同級生というよしみだけでなく、確かにこれは指揮者がいなければ4人で合わせることも難しい曲に違いない。
アイヌの口承詩や伝説を踏まえているという土着的な雰囲気をもつこの作品も、舘野氏でなければという曲とは言い難いかもしれないけれど、しかし氏の存在なくしては生み出されることのなかった作品でもあるので、その意味ではピアニスト舘野泉の演奏家魂がもたらした果実ということになるだろう。

hokuto77 at 21:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2012年01月23日

渋谷ユートピア-2 草土社の渋谷、富永太郎

(松濤美術館 〜1/29)
珪. 切通しの道と草土社—岸田劉生の風景」には、“草土社”命名の元となった 「赤土と草」と「冬枯れの道路」という、上る坂道そのものを画面の中心に据えた作品が2点あった。
岸田劉生の代表作で重要文化財の「道路と土手と塀(切通之写生)」(写真のみの展示)が描かれたのも代々木であり、ここ “渋谷ユートピア”なる界隈で、その先には空と雲しか見えない坂道の絵に集中的に取り組んでいたようだ。

草土社同人横堀角次郎切り開かれつつある地」は開発という名の下に緑が失われる風景に着目、一方 「細き道」では何の変哲もない細い道がこの画家にとって愛すべき大切な風景であったことが感じられた。
その横には以前この美術館で採り上げた 河野通勢の 「代々木風景」などペン画が2枚、木々の旺盛な生命力が黒い線だけで表され原始林かと思うような光景となっていた。

絃. 束の間のユートピア—村山槐多の終焉」も以前特集された画家のコーナーだが本人のものは2枚だけ、ただ、村山がここに居を定めていたことの影響は大きいものがあったようだ。

江. 竹久夢二のモダンとおんな」にも肉筆画は1枚だったけれど、「宵待草」などの セノオ楽譜や雑誌の表紙、愛した女たちとの写真、そして女性の書く文字のように繊細な 自筆手紙などから夢二の世界が徐々に広がっていく。
彼が37歳で3人目の女性 “お葉”と暮らし始めたのが今の宇田川町交番のすぐ近くだったということも、今は繁華な街区となっている地図とともに紹介されていた。

詐. 詩人画家富永太郎の筆とペン」でスポットライトを当てられた 富永太郎は二高時代に不倫事件で中退し僅か24歳で早世したという詩人・画家、山高帽にステッキを持つ男が坂の上にいる版画 「Promenade」には谷中安規の世界を垣間見るような独特の気配が漂っていた。
油彩では、パステル画のようにも見える 「自画像」はブリュッケか青騎士のように表現主義的で挑戦的な作品、一方 「火葬場」はたくましい緑に囲まれたレンガ造りの煙突が陰鬱な空を背景に孤独に立っており、生と死に思いを誘う静けさを湛えていた。

hokuto77 at 21:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月22日

北京故宮博物院200選-4 南宋絵画の広がり

(東京国立博物館 〜2/19)
趙芾筆 「長江万里図巻」は長い巻物いっぱいに長江の大きな波が寄せてきており、その規則的な波の繰り返しは大海のそれを思わせる。
私が見た 長江は三峡とその両側辺りに過ぎないが、そこでは急峻な山の地形が水の下にも続いているらしくあちこちで大小の渦が巻き、また狭い航路にひしめくように船の往来も激しかったこともあり、波は激しく変化に富んでいた印象が強いけれど、もう少し平坦な地形を流れる長江ではこのような波が寄せてくるのであろう。
近景に見える山は北宋風の縦に屹立する岩山で、その合間には道ができ橋がかけられて人々が行き来している。それは悠久の流れと比べればまことに小さな営みであり、それでも雄大な自然の中で一生懸命に生きる姿には人間の健気さと宿命のようなものが感じられた。

今回の展覧会では南宋絵画の中でもさまざまなテーマがバランスよく選ばれたということなのだろうか、「蕉石戯嬰図冊」は中国の子供の遊びのカタログのような作品だったが、子供たちよりは岩や木の方に強い存在感があった。
また、「蛛網擒猿図冊」は木の枝からぶら下がった猿が蜘蛛の巣に手を伸ばしたところ、このままサルが巣を壊せば獲物の虫は助かるがクモは飢えてしまうという教訓的な話ということらしいが、それほど深い画趣を感じるというわけにはいきにくい。

こうした作品を見ていると、日本人が宋代の絵画として珍重してきたものは、実はその全体ではなく日本人の眼で選択し伝えてきたものだったという当たり前のことにもあらためて気付く。
李迪筆 「楓鷹雉鶏図軸」には大きな画面の左上で鋭く睨む鷹と、その気配に気づいて右下の方に逃げ込もうとする雉がいる。ざわついた場面でそれなりの緊張感がないわけではないが、サイズが引き伸ばされているせいか大味な感じは否めず、「紅白芙蓉図」などの名品と同じ画家の作品とは信じ難い思いだった。

hokuto77 at 21:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋絵画 

2012年01月21日

北京故宮博物院200選-3 南宋からの薫風

(東京国立博物館 〜2/19)
北宋が金に追われ 南宋の時代になると、杭州(臨安府)を中心とした江南の穏やかな気候と、もしかしたら北方民族の支配に対する無力感のようなものもあってか、絵には毀れやすい大切なものを慈しむような独特の気配が漂い始める。
夜合花図冊」はそんな中でも特に控えめながらしみじみとした情感を伝えるものだった。
小さな画面の中に一本の枝の花と葉を描く”折枝図”だが、葉の形も色も繊細そのものといった風情で様々な姿を見せ、トキワレンゲの白い花はその葉に隠れるように横を向いてそっと咲いている。
鑑賞者には花の咲く様の全貌を敢えて見せないという、花の絵としてはおよそ考えられないようなことをしておきながら、しかしそこに極上の詩情が生まれ、微かな甘い香りまでが匂い立つ・・・

 
それにしても、殷代の青銅器から唐三彩や明清の陶磁器、そして現代の天安門広場や上海浦東などの景観に至るまで、どちらかといえば声高に存在感をアピールしいかに見る者を圧倒するかに力を注いできたような中国四千年の中で、これほどに寡黙で奥ゆかしい花を咲かせた宋代の不思議さを思わずにはいられない。
出水芙蓉図冊」も同様の花卉図といっていいのかどうか、こちらは大きなハスの花が画面いっぱいに広がり、泥水から生じたばかりの花の色も鮮やかだ。
しかし、南宋絵画としてはやや花が大き過ぎ自己主張が強そうな分だけ、より中国的ということになるのかもしれない。

夏珪筆 「遥岑煙靄図冊」は、同じ柵という小さな画面の中に近景から遠景まで霧に煙る山を描き、際限のない大きな空間を描き出す。
元代に入ると文人画運動の中で否定されたという “没骨”技法を用い、僅かな墨の濃淡で深い奥行きと湿潤な空気を過不足なく表現したこの作品は、最小にして最大の効果を生んだ水墨画の規範的作品という感じがする。
牧谿画にも共通するこの美点を元以降の中国絵画は評価・継承することなく別の様式へ向かい、むしろ日本でこうしたものが唐絵として珍重されたというのは、双方の国民性を考える意味でも興味深い。

hokuto77 at 21:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋絵画 

2012年01月20日

日比谷が熱く燃えた日、”学生運動”の時代

(日比谷図書文化館 12/28終了)
日比谷公園内の独特の三角形の建物 都立日比谷図書館千代田区立日比谷図書文化館として生まれ変わった。
その“文化館”としての開館記念特別展のタイトルは “日比谷が熱く燃えた日”、これは何か特定の事件があった日のことを指すのかと思ったが、そうではなくて団塊世代が青春時代を過ごした 1964〜73年 の10年間を中心に、日比谷公園がさまざまな活動の舞台となった日々を振り返ろうという企画だった。
確かにこの公園は永田町や霞が関に近いため数々の集会やイベントが開かれ、多くの人々の思いが交錯する交差点となり或る時は聖地のような様相も呈した。
それは明治時代の日露戦争の祝賀会や焼打ち事件あたりから、記憶に新しいところでは2008年の年越し派遣村までの長い歴史を持ち、今なおデモの拠点や東京地裁の傍聴券抽選などで現役の地位を失っていない。
それでも、学生運動華やかだった60年代後半はとりわけ ”熱く燃えていた日々”として存在感も大きく、言葉の響きやメディア登場頻度は今と比べ物にならなかったように思われる。

展示は、その学生運動の時代のハイライトとなった東大紛争、三里塚、あさま山荘等のパネルやフィルムから始まっていた。
私自身はこの辺りはリアルタイムではなく、田舎の小中学生として“騒動”をテレビで見ていただけなので当時はその思想的背景もよく分からず、ただ親が“こんな学生にはなるな”、と繰り返し言っていたことだけが記憶にある。
別に特段”体制的”な親だったというわけではなく、ただ怪我をするな、警察の厄介になるな、という素朴な親心からだったと思うけれど、結果としてはまず“学生運動は悪いものだ”と刷り込まれた。

大学に入ってみると学生運動はキャンパスのタテカンなどに僅かな痕跡が残るのみで、メディアには ”しらけ世代・やさしさ世代”などと位置づけられ、団塊世代に近い先輩たちからは勉強が足りない、安易に生きているなどと批判された。
それでも当時は冷戦構造の真っただ中だったので、とりあえず賛否は別としても共産主義というものに一応の立場をはっきりさせなければならないような空気も残っていたから、「資本論」は無理でも「空想から科学へ」や「宣言」くらいは読んで何らかのコメントができるあたりがボトムラインという感じで、それなりの勉強を強いられた最後の世代だったかもしれない。
それは前の世代から見れば物足りない状況だったと思うけれど、少年の頃にリンチ事件や浅間山荘の攻防を見てしまい、戦う前に限界や結果を知らされてしまった世代としては、それ以前のように夢を抱き熱気を持てというのも無理な話だと感じていた、そんなことを不意に思い出した。

hokuto77 at 21:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年01月19日

メタボリズムの未来都市展-5 増殖する都市と朽ちる建物

(六本木ヒルズ 〜1/27)おみて
黒川紀章の 「中銀カプセルタワーが埼玉に移設・保存されることになったというニュースを見て、あらためて “メタボリズムのことを考えているのだが、かなり丁寧に見たつもりなのに、あるいはそれゆえになのか、今ひとつ分かった気がしない。
展覧会としては 丹下健三ほかの建築家たちの業績を振り返るという面もあるために、「広島ピースセンター」や「東京カテドラル」といったメタボリズムとは直接関係ないものも多かったせいもあろう。
中銀カプセルタワーやエキスポタワーなどの建築は確かに分かりやすい、しかし単体建築を超えた未来都市のコンセプトとはどう関わるのかが見えてこないし、そもそも、”計画都市と増殖”というのは本来相容れないのではないかという疑問もわいてくる。

古い都市の例としてはローマと長安が対比されることが多く、ローマの方は当初からの中心部を核として人口の増加とともに周囲に自由に拡大・増殖してきたが、通常はこれを計画的な未来都市というコンセプトでは説明しないだろう。
一方の 長安は全体像を明確に打ち出した計画都市に違いないが、もともとは城壁に囲まれているために増殖しにくく、それが取り払われた後もその理念に基づいて発展してきたとは言い難い。
パリもロンドンも、ベルリンやモスクワでさえ2分すればローマ型ということになり、東京をはじめとした大部分の日本の都市もこのカテゴリーに入るだろう。
一方、当初は明らかに長安型であった奈良や京都は、もちろんその区割りは痕跡としてはっきり残っているけれど、今の都市において当初の計画通りにそれが機能しているとは言えそうもない。
長安型の唯一の成功例と思われるのがニューヨークのマンハッタンだが、これは島という特殊事情によるものといえ、その周辺を含んだニューヨーク市としては既に当初のプランは崩壊していると見た方がいいかもしれない。

いずれにしても、都市は自己増殖する。
しかし建築の方は、比喩的な表現を別とすれば増殖するということはなく、単体で見れば竣工の瞬間から老朽化が始まる。
高度成長期にはあんなに輝かしかった新興団地が半世紀ともたずに廃墟に近いものとなり、本展でも紹介されていた未来の海上都市=沖縄アクアポリスもメンテが間に合わずに粗大ゴミとなって解体されていくのが現実だ。
木造なら法隆寺のような生き延び方もありえようが、それでも機能性や居住性を追求するならば伊勢神宮のような” 新陳代謝“が必要になってくるのだろう。
このあたりの現実も踏まえなければ、たぶん本当の開発や復興にはならない・・・

hokuto77 at 21:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年01月18日

渋谷ユートピア-1 アーティスト・コロニーの発見

(松濤美術館 〜1/29)
明治末から昭和の戦前までの 渋谷界隈にも、池袋モンパルナスや落合文士村、馬込文士村などのように芸術家たちが集まるアーティスト・コロニー(芸術家村)と呼べるものがあったのではないか、それを “渋谷ユートピア”という名の下に探索しようとする 渋谷区立松濤美術館の “開館30周年記念特別展 渋谷ユートピア1900-1945”は、思っていた以上にいろいろと気付かされることの多い展覧会だった。
もとより代々木、恵比寿、原宿などに拠点を置いた画家たちの全てが有機的につながっているというわけではなく、皆が渋谷に愛着を持って集まり作品の題材にしたとも言い切れない、それでも大正時代を中心とした半世紀ほどの間にこの半径何キロかの一帯にこうした芸術家たちがいて深く浅く関わり合っていた、そのようにして生み出された作品たちが同窓会のように集まっている展示室は、普通の展覧会ならうっかり通り過ぎてしまいそうな作品たちの寡黙なつぶやきにもそっと耳を傾けてみたくなるコロニーになっていた。

序章. 逍遙する人—《落葉》と代々木の菱田春草」から始まる物語、この日は、春草が病弱な体をいたわるように代々木練兵場辺りを取材して何点か制作されたという中から、意外にも琳派風の大胆ではっきりとした構図を持つ 「落葉」が展示されていた。

犠. 岡田三郎助と伊達跡画家村」では恵比寿の北東部に集まった画家たちをが紹介する。
中で特に眼をひいたのは 杉浦非水のポスターや図案集、「三越呉服店、春の新柄陳列会」は大正初期の消費文化の高まりを、「東洋唯一の地下鉄道 上野浅草開通」は昭和初期の東京の気分を今も鮮やかに伝えてくれるものだった。

蕎. 永光舎山羊園と辻永」には、当時渋谷区内に牧場を持ちヤギを飼っていたという画家による 「無花果畑」、「牧場にて」が並んでいた。その淡い緑色の中にいる白い山羊たちの姿は伝説の中の存在のように儚げで、楽園に棲む一角獣たちのような気配を感じさせた。
続きを読む

hokuto77 at 21:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月17日

舘野泉 ピアノ・リサイタル-1 ”タピオラ幻景”

舘野泉が “左手のピアニスト”としてカムバックしてからのリサイタルを初めて聞いた。
(1月14日、海老名市文化会館)

バッハーブラームス: シャコンヌ
スクリャービン: 前奏曲と夜想曲
吉松隆: 「タピオラ幻景」
 (光のヴィネット、森のジーグ、水のパヴァーヌ、鳥たちのコンマ、風のトッカータ) 
エスカンデ: 3手連弾曲「音の描写」(爬虫類、夢、砂に埋もれた犬、空の青) #
末吉保雄: 四重奏曲「アイヌ断章」
 (銀の滴降る降るまわりに〜金の滴降る降るまわりに、トーロロ ハンロク ハンロク!、侵入者たち、エピソード〜大きな蕗の葉の下に、2羽の鴎が舞う) ##
 舘野 泉 (ピアノ)
 #平原 あゆみ(ピアノ)
 ##溝入 敬三(コントラバス)、野口 龍(フルート)、菅原 淳(打楽器)、 末吉 保雄(指揮)

ブラームス編曲による バッハの 「シャコンヌ」は、どこが編曲なのかと思うほどほとんどオリジナルのままで公開演奏用というよりは左手のための練習用かと思われたが、曲そのものの堅固さと舘野氏の禁欲的なアプローチにいつのまにか引き込まれていった。
スクリャービンの 「前奏曲と夜想曲」は作曲者自身が右手を使えなかった時期に書いたものとのこと、若い頃の作品でスクリャービンとしての個性はまだ希薄であるとはいえ、演奏効果に優れ左手でどこまで表現できるかの基準を作った曲と言ってよさそうに思った。

吉松隆タピオラ幻景」は、プログラムに載っていた COBA 「記憶樹」が急遽差し替えられたものだったが、結果としてこの日最大のハイライトとなった。
ご本人がマイクをとって説明したところによればNHKの平家物語に絡めての変更ということらしいけれど、舘野氏が左手のピアニストとして再出発された比較的初期に委嘱されたこの作品は、”出来うれば、北欧の森や風、光や水を感じさせるような音楽を・・・”という氏の希望によく応え、フィンランドに長く暮らしシベリウスを特に得意としてきたてくれたピアニストの情感を盛りやすい恰好の器となっているように思える。
第1曲目の 「光のヴィネット」から音の一粒一粒がきらきらと光り、「森のジーグ」に妖精たちの踊りの気配を感じ、「水のパヴァーヌ」は微かに揺らめきながらやがて圧倒的な力を持つ姿を表す。梢の高いところで呼び交わす 「鳥たちのコンマ」に続き、終曲の 「風のトッカータ」では爽やかな冷気を含んだ風が森の中を駆け抜け湖の上を吹きわたっていった。
その全てが、フィンランドの神話カレワラの森の神タピオからの賜り物のようであった。

hokuto77 at 20:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2012年01月16日

博物館に初もうで、変幻自在の辰=龍

(東京国立博物館 〜1/29)
初詣気分でその年の干支の作品を見ることは私の中で年中行事の一つとなりつつあるが、今年は故宮博物院からとんでもないお宝たちが大挙押し寄せてきていたので、その合間を縫う慌ただしい“初もうで”になった。

辰=龍は見たことがなくても龍の絵は珍しいものではない。
干支の中では多分虎に次いで多いのではないかと思うので、さまざまな龍がのたうちまわる迫力の展示室を想像していたのだけれど、どちらかというと小物にもひっそりと隠れているような龍たちの方に焦点が当たっていたようだ。

特別室内では 岩佐又兵衛によるアップの顔とやぶにらみの眼が面白かったが、より正統的な龍図としては第8室にあった 俵屋宗雪の 「龍虎図屏風」におどろおどろしい迫力を感じた。
酒井抱一の 「富士越龍図」という小品は白い富士の手前に俄かに現れた雷雲の中に龍が見え隠れしている図で、庶民感覚としてはこうした超自然的な黒雲の中に嵐を呼ぶ竜の実在を感じていたことを思い起こさせるものであった。

龍そのものはインドのナーガ伝説に始まり中国で龍王として具体的な形を与えられて日本に伝来したと考えられており、そのルーツとして中国青銅器の饕餮文なども紹介されていた。
それで思い出したのだが、龍は伝説や空想が生み出したものではない、それは“線”から生じたのだ、というようなことを随分前に読んだ記憶がある。
龍は最初から角や手足を持つ想像上の動物として創り上げられたわけではなく、青銅器や土器、焼き物や染織品に“線”の模様をつけているうちに、その“線”が曲がったり絡み合ったりして様々に変化し生命を持つように見えるに至った、しかし“線”のままでは面白くないしヘビでは視覚的に物足りないので、やがて角や手足をつけて見たことのない神秘的な動物に仕立て上げられたというような話だったように思う。

龍は“線”から生まれた、だからということでもないと思うが、この日見た中で最も“龍”を感じたのは、後陽成天皇の書 「龍虎二大字」だった。

hokuto77 at 21:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画 

2012年01月15日

隠元禅師と黄檗文化の魅力-2 黄檗文化と若冲

(日本橋高島屋 〜1/16)
“萬福寺開創350周年記念 隠元禅師と黄檗文化の魅力“展の後半は、萬福寺を中心にその後発展した 黄檗文化を紹介する。
狩野探幽釈迦三尊像」は脇侍の文殊・普賢菩薩が長い髪を垂らした優美な女性のように表されており、特に真横を向いた文殊やおとなしくかしこまる獅子と象には独特の雰囲気があった。

伊藤若冲黄檗宗石峰寺と関係が深かったとのこと、晩年を京都伏見で過ごし自身の墓もあるという縁で、同寺に関わる頂相ほか7点ほどの作品が展示されていた。
といっても若冲の作品自体にそれほど強く黄檗禅を感じるということではないが、中国人風の子どもを描いた 「唐子図」は得意気に遊ぶ子の様子を活写しており、また小さな 「梅図」は簡潔な線が現代抽象画のような緊張感を伝えながらその筆のかすれが枝の生命感をよく表していた。

今回の展覧会の趣旨からいっても最も興味をひかれた 若冲作品は 「隠元豆・玉蜀黍図」。
隠元禅師が伝えたという 隠元豆(インゲンマメ)は薄い莢(さや)が透き通るように中空に張り出し、蔓(つる)の作り出す曲線は変化に富んで見飽きることがなく、下の方にうずくまっている蛙は居心地がよさそうだ。
一方左側の 玉蜀黍(トウモロコシ)は、大きく伸び広がる茎と葉のごわついた逞しさがよく分かるものだが、江戸時代の若冲にとってはおそらくまだ異国の不思議な植物であり、日本絵画においてとりあげられた前例は多くなかっただろう。
それでもこの異能の絵師は新規な造形に目をとめ、妖しげな形の中に美を見出し、絵画作品として表現すべきものとして果敢に取り組んだ。
隠元豆も玉蜀黍も中南米原産の植物で1492年のコロンブスの新大陸発見後にヨーロッパやアジアに伝えられたものだが、隠元禅師が中国から日本へ持ち込んだとされるインゲンマメに対して、トウモロコシは1579年にポルトガル人が南蛮船で長崎へ伝えたのが最初とされている。
若冲が見たのはこれとは別に1654年に隠元がインゲンマメと同時に持ち込んだものかもしれないが、いずれにせよコロンブスによる”発見“から100年前後で日本まで伝わり、約200年後に水墨画の題材になっているということは、植物の伝播としてはかなり早いといえるのではないか。

最後の方には 煎茶と普茶料理の紹介があり、特に油で揚げた 普茶料理は寺で出される料理としては異例なほど色彩豊かで賑々しいもののようだ。
その他、活字の明朝体や原稿用紙の様式も隠元により伝えられたものとのこと、黄檗山萬福寺が我々のよく知る禅宗的な世界とは異質の空間であり、むしろ中国文化が最も華やかだった頃の窓口であったことが強く感じられた。

hokuto77 at 21:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画 

2012年01月14日

荻須高徳 憧れのパリ、煌めきのベネチア 

(日本橋三越 〜1/16)
荻須高徳の描く パリは暗い。
“憧れの巴里”、“花の都”などと呼ばれる華やいだ雰囲気はそこにはなく、時間がこびりついたように重苦しく、人気のない寒々とした風景ばかりが繰り返し現れる。
もとよりこれは批判ではない。新聞屋、八百屋、古道具屋などの見える街角には確かに庶民の生活感があり、汚れた壁や歪みのできた道には歴史を経てきた町としての風格もあるのだが、それでも歩いていて心躍るような感じはなく、人通りの少ない道はほとんど忘れ去られた町のようだ。

考えてみれば、累計でも両手に満たないほどの私のパリ滞在日数の中で、このような光景を見た記憶はほとんどない。それは、荻須の描く風景の大部分がいわゆる観光地ではないだけでなく、昼間は美術館か聖堂か公園にいることが多く、夜になって明かりが瞬きだしてからようやく街の風景に目を向けるといった旅人にとっては、安宿を探して裏道に迷い込んだとき以外にこんな風景の中を歩き回るということがほとんどなかった。
それにもかかわらず、25歳でパリへ渡り戦時中の一時帰国以外は生涯の大部分を彼の地で過ごして没した画家が描き遺したパリは、ある意味で日本人のパリの “標準”としての地位を獲得しているようだ。自分の知るパリのイメージとの違いに戸惑いながらも、これも“我々のパリ”に他ならない。

一方、ベネチア(ヴェネツィア)は明るい。
壁面の色も明るくなり、この街ならではの海や運河の水があり、その上には空がある。
荻須のパリはほとんどが建物の壁面や店先の様子ばかりで、たまに空が見えてもどんよりとした厚い雲に覆われているのに対し、ベネチアの空は上方に向かって開かれている。
といっても旅行パンフレットのような青い空・青い海ではないし、カナレットが描く広々とした水の都とも違うけれども、パリよりは格段に明るい色が水に反映して、画面全体が華やいで見える。
旅先での気分がそうさせたのか、この二都に対する画家の思いは対照的なようで、それが同時に我々へのメッセージになっている。

蛇足ながら、今回は展示会場もパリの裏通りかベネチアの小道のように迷宮的に構成されていて、何度か迷いそうになりながらも非現実的な時間を過ごすことができた。

hokuto77 at 22:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月13日

ぬぐ絵画-4 ”はだか”定着への曲折

(東京国立近代美術館 〜1/15)
はだかをこわした第2章に続いては “第3章 もう一度、はだかを作る”、ここでは 梅原龍三郎安井曽太郎の二人の留学時代の作品と帰国後の作品を対比させていたところが面白かった。
両人とも、留学時代に描いた白人女性のヌードには濃厚な官能性が感じられ、解説パネルにあったように恋人かと思ってみる余地があるのに、帰国後の日本人モデルではそうした色香がほとんど消滅してしまっている。

それは、もちろん留学時代は若かったし、創作欲とともに性欲も旺盛であったはず、さらに言えば欧米人への劣等感が大きかったと思われるその時代に白人の女が目の前で裸になっているということへの高揚感なども、“入魂”の作品が出来上がる原動力になったのであろう。
しかし日本に戻り社会的地位を築いていく過程にあっては、見てはいけないものを見たという興奮も既になく、日常的な“仕事”として淡々と取り組む中でエロスの部分は自然に希薄化していったのではないかと思うが、もしかしたら、買い手のことも考えて刺激の強いものは敢えて避けたといった配慮も一因になっていただろうか。

小出楢重の 「立てる裸婦」の解説に、画家自身の言葉として、日本家屋にヌードは似合わないし無理やり小道具を置いても滑稽なものになるといった趣旨の発言が紹介されていた。
それでも彼はマティスの構図に頼って微調整を加えながら裸婦を描き続けるのだが、それは“仕事”としてやむを得ないことだったのか、その“ぼやき”には幾分同情しつつも、これでは “はだかを描く”という問題に正対していないような感じが残る。
西欧でも居間や寝室に裸でいることが一般的なわけではなく、そういう絵画が多いわけでもない、だからこそゴヤの「マハ」が注目を浴びたりマネの「オリンピア」が議論を巻き起こしたりしたのだろう。

しかしそれも、貝の上のヴィーナスやゼウスを迎えるダナエ、浴室のスザンナなどを見てきた長い蓄積があるから成立するものであり、結局議論は振り出しに戻ってしまうようだ。
もし、明治期の先駆者が日本に裸体画を持ち込む際に、例えばイザナミやアメノウズメ、あるいは源氏物語の藤壺や夕顔はヌードで描くべきものと定め、そうした画像の普及に努めたとすれば、日本の裸体画史はかなり様相の異なるものになったのではないかと思う。

hokuto77 at 21:43|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月12日

北京故宮博物院200選-2 清明上河図の来日

(東京国立博物館 〜2/19)
北宋画の中でも別格扱いだった 張択端筆 「清明上河図巻」(展示は1月24日まで)は、確かに驚くべき力作には違いないが、 終日ほぼ2〜3時間待ちという事態は朝日新聞の煽り過ぎによるものではないか。
12月13日朝刊の一面トップ記事で、「神品 日本へ」というニュースとして本作品が出展されることが大々的に伝えられ、その後も繰り返し図版入りで詳細に報じられてきたことにより、本作品の来日が「門外不出の神品、初の国外展示へ」という事件となって関心を高めきったところで会期に突入した。

会場構成や運営方法を見ればわずか3週間前の “電撃決定”とは思えない長い準備期間があったと推察されるが、ニュースの中などで自社の音楽番組を番宣する公共放送局があったり、握手券付きのCD(CD付き握手券か)がばらまくように売り出されたりするご時世なので、まあこれもアリということなのだろう。
ただ、主催者として営業的には成功を収め何らかの記録も樹立されるとしても、せっかくの機会にもかかわらず絵と向き合うことを必要以上に困難にし、またその他の至宝たちを一気に脇役の地位に追いやったという負の面もないことはない。

生命浄化図、ではなく 「清明上河図」(せいめいじょうかず)に戻れば、確かにこれは凄い作品だ。
細密描写による夥しい人々(773人いるらしい)を見ていく楽しみはブリューゲルの絵に近いが、こちらは水墨画という一発勝負を横5メートルの長さにわたって展開しており、どこをとっても建物や船と人々の関係がぴったりと収まっているので、その構想力や集中力は超人的と言える。
行き交う人々も働く人々も類型的なところがなく一人ひとりが生き生きとしており、しかも全体として楽しそうな明るい雰囲気が漲っているところがこの絵の最大の魅力といえそうだ。

本図はまた、北宋末期における都 開封の繁栄ぶりの実態を具体的に伝えるもので、中国六大古都の中ではおそらく最も知名度が低く日本人観光客も少ないであろう開封という街を一気に身近なものにした功績は大きいし、当時の水運や商業がどのようなものであったかを教えてくれる第一級の資料でもあるだろう。

その上で、この 「清明上河図」がはたして芸術作品としての感興という点でも “神品”ということになるのかどうか、それはもう少し静かな場所でじっくりと、できれば行きつ戻りつしながら見てみないと何とも言いようがない・・・

hokuto77 at 21:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋絵画 

2012年01月11日

北京故宮博物院200選-1 北宋絵画と徽宗皇帝

(東京国立博物館 〜2/19)
“日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「北京故宮博物院200選」”は、宋代の絵画が多く来日したことでこれまでの中国関連展の中でも屈指の内容となった。
まずは北宋時代の 燕粛筆 「春山図巻」、この時期の山水画としてまず思い浮かべる峻厳たる山が、縦寸法の短い画面ながらも確固たる存在感で聳え立ち、麓の方に目をやれば人々の生活も細やかに描かれている。范寛、郭煕の有名な山水図には及ばないのだろうけれど、展覧会冒頭でその世界を少しだけ垣間見た気になれた。

趙佶(徽宗)筆 「祥龍石図巻」は、徽宗皇帝自身が祥龍の文字が浮かぶめでたい太湖石を描いたものとのことだが、一見すると不気味な岩がごろりと目の前にあるだけのように感じられ、「桃鳩図」の雅さとは全く異なる禁欲的な気配に釈然としない思いにもとらわれかける。
しかし、石灰岩が浸食されて怪物のようになった石の質感を墨の細やかな濃淡で表現するにはかなりのセンスを必要とするはずで、こんなグロテスクな塊をともかくも鑑賞に堪える絵にする力量には感心せざるを得ないように思われた。

この絵の左には 徽宗本人の筆による文章が続いており、また 「楷書閏中秋月詩帖」でもその筆跡を見ることができるが、この部屋に展示されていた他のどの書と比べても線の細さが際立っている。
痩金体と呼ばれるその文字は優美で滑らか、そしてよく見れば個々の文字はしっかりと書かれている美しい書ではあるけれど、国の運命を託すべき政治的指導者の字としては弱々しい感じが否めない。
1110年筆とされているので「桃鳩図」の少し後、跡継ぎだったはずの兄が早世したため想定外の地位に就いて10年ほど経った28歳頃の作品ということになるが、宿敵の女真族が金を建国し勢力を拡大するのはまだ5年ほど先のことなので、政治的にも安定し宮廷文化が花開いていた頃のものと考えられる。

書にも見る目があれば宝の山なのだろうと思いつつ、とりあえず門外漢としては 黄庭堅(こうていけん)筆 「草書諸上座帖巻」のアナーキーな奔放さが面白かった。
北宋山水画に戻ると、米友仁筆 「雲山墨戯図巻」は低い山が連なり靄がかかる光景をソフトフォーカスでとらえたもの、山の形の穏やかさも湿気をたっぷりと含んだ空気も「春山図巻」とは対照的で、その中に入って行って歩みを進めたくなるような愛すべき風景だった。

hokuto77 at 20:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!東洋絵画 

2012年01月09日

ゴヤ、光と影-3 素描・版画の中の暗黒

(国立西洋美術館 〜1/29)
この時期に、プラド美術館がこれだけのゴヤ作品を日本に貸し出してくれたことには感謝しなければならないのだろう
同時に、我が国立西洋美術館の版画コレクションの充実ぶりにも感心すべきなのだが、今回に限ってはなんだか“上げ底“に使われているような感じが付いて回る。
それでも、下に掲げた章建てからも分かるように、本展の主要部分は素描・版画に負っており、また ”光と影"とは言いながら実際には “表層と深層”というほどにその重みには落差がある中で、その深みを体現しているのはこれらモノクロ作品に他ならない。

人が人を殺すことの悲惨さをひたすら暴く 「戦争の惨禍」や、祝祭の中に本源的な矛盾を見る 「闘牛技」も重苦しい闇を抱えた作品群だが、そうした即物的な部分によらずに人間の内面の底知れなさに迫るという意味では比較的初期の 「ロス・カプリーチョス」、そして晩年の 「」(ディスパラティス、ディスペラート)というシリーズに見応えを感じた。
特に、画家の苦悩や幻想が深い影を落としていると言えそうな 「妄」の中の 「飛翔法」では大きな羽をつけた男たちが闇夜を飛び回っており、それだけならば愉快な情景になってもよさそうなのに、人間の宿命に逆らおうと虚しい抵抗を試みているようで、なんとも言えない沈鬱な気分に襲われる。
得体のしれない踊りの中に見る者を誘い込みそうな 「陽気の妄の虚無的世界もここにあった。

明るい出口の方に乗り出す二人の人物」という素描作品は四角い大きな出口に明るい光が充溢していて、その先には確かに希望が見えるような気がするのだが、しかしこの作品は版画として制作されることはなかった。
ゴヤは、あくまでも暗黒の闇の中に沈潜する・・・

宮廷画家として出発しながら近代絵画への道を開いたと言われる ゴヤ(1746-1828)は、音楽家でいえばベートーヴェン(1770−1827)に相当する感じがするが、生年でいえば24年ほど早く、むしろハイドン(1732)とモーツァルト(1756)の中間くらいの年代だ。
作品では「カルロス4世とその家族」を描いた1801年頃にベートーヴェンが作曲したのは第2交響曲、「黒い絵」のシリーズに取り組んでいた時期が第7・8交響曲にあたることを思うと、ゴヤの先見性がより際立ったものに感じられる。
しかし、それは一個人の問題というよりは、同じナポレオン軍の進撃がスペインにおいては苛烈な犠牲と独立戦争を引き起こしたのに対し、ウィーンでは旧体制が崩壊し市民が台頭していく契機として見られていたという違いが大きいとみるべきであろう。

1: かくある私―ゴヤの自画像
2: 創意と実践―タピスリー用原画における社会批判
3: 嘘と無節操―女性のイメージ:〈サンルーカル素描帖〉から私室の絵画へ
4: 戯画、夢、気まぐれ―〈ロス・カプリーチョス〉の構想段階における自由と自己検閲
5: ロバの衆:愚鈍な者たち―〈ロス・カプリーチョス〉における人間の愚行の諷刺
6: 魔物の群れ―〈ロス・カプリーチョス〉における魔術と非合理
7: 「国王夫妻以下、僕を知らない人はいない」―心理研究としての肖像画
8: 悲惨な成り行き―悲劇への眼差し
9: 不運なる祭典―〈闘牛技〉の批判的ヴィジョン
10: 悪夢―〈素描帖C〉における狂気と無分別
11: 信心と断罪―宗教画と教会批判
12: 闇の中の正気―ナンセンスな世界の幻影
13: 奇怪な寓話―〈ボルドー素描帖G〉における人間の迷妄と動物の夢
14: 逸楽と暴力―〈ボルドー素描帖H〉における人間たるものの諸相

hokuto77 at 21:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(古典) 

2012年01月08日

ぬぐ絵画-3 ”はだか解禁”に続いたこと

(東京国立近代美術館 〜1/15)
“第1章 はだかを作る”では、ヌード画を鑑賞するという下地がなかった日本にそれを持ち込もうとした画家の思いと、それを目の当たりにした人々との間に起こった “文化の衝突”がテーマだったが、“第2章 はだかを壊す”に進むと、一旦火花が散った後はヌード画も急速に “幾つかの画題の中の一つ”に成り下がってしまったらしいことが感じられる。

この前半は 萬鉄五郎コーナーだが、その代表作 「裸体美人」(1912=明治45年)は、27歳の時に妻をモデルに描いたというところに意外性があるものの、女性裸体像として通常備えられるべき魅力が全面的に欠けており、“インパクトのある絵”のための単なる素材としか思えない。それとも、現代とは違う意識の下ではこの作品も“裸体画”としてセンセーショナルなものだったのだろうか。
一方、古賀春江の 「鳥籠」(1929)は無理やり裸婦を画面に取り込んではみたものの明らかに描きあぐねている感じだし、「涯しなき逃避」の大胆なポーズは借り物ということであれば黒田の理念を共有しているとは言えず、熊谷守一の作品はそもそもこれで「裸婦」を描いたと言えるのかすら疑問符がつく。
それはつまり、“裸婦“というものがほんの短い間に “特別”なものではなくなったということなのだと思われるが、それこそが黒田たちの挑戦が成功をおさめたということを示しているのだろうか。

本章中の “恋するはだか”という小部屋にあった 中村彜の 「少女裸像」は、新宿中村屋を創業した相馬愛蔵・黒光夫妻の長女で画家と恋仲にあったという俊子、すなわち名前も素性も明らかな少女の裸体を不特定多数に向けて公開したという意味で、職業モデルによるヌード画とは一線を画すインパクトを備えた作品だ。
まだ幼さの残る愛くるしい表情と、成熟していく女体の火照るような感じが相俟って独特の魅力を備えた作品になっているのは間違いないが、しかしその絵を発表してしまう画家の気持ちは理解し難い。

ここには 村山槐多の 「尿する裸僧もあり、画家の精神的自画像ではないかと暗示する解説があったけれど、本展のテーマとどのように関係するのかが今一つ見えにくかった。
明治期に女性裸像を普及させようとしたところまでは歴史的事象として追いやすいのだろう、しかし一旦禁が破られ扉が開いてしまえば、その後はそれぞれの個性的な画家がてんでばらばらな取り組みを始めるので、追いかけるのも容易ではない事態に立ち至ったと理解しておくべきかと思われる。

hokuto77 at 21:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2012年01月06日

メタボリズムの未来都市展-4 大阪万博とメタボリズム

(六本木ヒルズ 〜1/27)
“3:空間から環境へ”では1970年の 大阪万博がとりあげられていた。
先ごろ亡くなった 菊竹清訓エキスポタワーや 丹下健三の テーマ館大屋根に付属した設備などが メタボリズムという観点からは重要だったようで、その大屋根のジャッキアップの様子や、その下の広場にロボットのデメとデクがいたことなどを改めて知った。
また、ストリートファニチャーと呼ばれる会場の時計やスピーカー、サインボード、ベンチとテントがセットになったシェルター、電話ボックスなどのデザインは今見ても斬新かつ美しく、それらを通して未来都市を見ていたあの頃の気分が甦ってきた。
パヴィリオンでは東芝、タカラ、住友がとりあげられており、これらは確かに新陳代謝しながら無限に増殖していくという理念によく沿ったもののようだけれど、当時はこうした考え方がどの程度浸透していたのだろう。

テーマとは別に興味深かったのは会場全体の模型で、そこには最終的なイメージと思われる新版とともに、その前段階らしいマスターデザインを表した旧版があった。
ざっと見比べただけでもアメリカやイギリス、東芝や住友のパヴィリオンはよく知っている形とは全く異なるものだったが、これはなかなか固まらずに設計変更が繰り返されたということなのか、それともぎりぎりまで完成型を隠していたという一種の情報戦によるものだったのかどうか・・・ 
また、全体の構成はそれほど変わっていない中で、当初は会場を周回するモノレールがなく、東西に貫通する1本のゴンドラに移動手段を頼る予定だったらしいことなども分かり、しばし架空の会場散歩を楽しんだ。
(万博関連記事:  


ところで、上述の タカラ・ビューティリオンとともに メタボリズムおよび 黒川紀章の代表作である 「中銀カプセルタワー」のユニットが六本木ヒルズ内に展示されていた。
住宅というよりは書斎兼簡易ホテルといった感じではあるが、機能的で洗練されたデザインは秀逸なもので、これが40年前の設計とは信じ難いほどだ。
もっとも、デスク周りにコンパクトに配置された機器類はダイヤル式のテレビや電話、タイプライターやオープンリールのテープレコーダーなど、今では懐かしささえ感じさせるふた時代ほど前のものであり、だからこそ丸窓のカプセルにこめられた先見性が光るとも言えるように思った。

hokuto77 at 21:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2012年01月05日

隠元禅師と黄檗文化の魅力-1 日本の中の中国

(日本橋高島屋 〜1/16)
隠元禅師が徳川期の日本に伝えた 黄檗宗は、日本三禅宗の一つに数えられるとはいえ、臨済宗や曹洞宗とはかなり趣を異にする。
枯山水や水墨画、雲水の修行などを通して日本の仏教そのものと化しているような二宗に較べ、黄檗宗の大本山 萬福寺には中国の香りが濃厚に漂っており、それが“鎖国”という特殊な時代に伝来した姿をほぼそのまま残していることによるものであるところが興味深い。

萬福寺開創350周年記念 隠元禅師と黄檗文化の魅力”展は、1654年に63歳で来日し明朝の禅を日本に伝えながら73年に82歳で没した 隠元隆の遺品や頂相から始まる。
如意棒や払子、拄杖などの現物が残っているのは、隠元の渡来が奈良や鎌倉仏教と比べれば随分と最近の出来事であり、またこれまでの間に堂塔を失うような災難にも遭わなかったこという当たり前のようでいて他の宗派や寺院には有難い幸運による。

隠元の書には中国の老僧らしい独特の気品があり、創建当時の「進山法語」、「開堂法語」や 「八十歳自祝偈」などにはその息遣いがよく残っている。
また、隠元の師である 費隠通容による自身像の賛や達磨に始まる禅宗の法脈を記した 「源流」は、より奔放かつ流麗で力が籠るようであり、これらを携えて海を渡った隠元の心の拠り所になったことが窺われた。

仏像では大雄宝殿の両側に安置されている 「十八羅漢」から六体が登場していたが、いずれも日本の他の寺ではまず見られそうもないキャラの濃い人たちで、龍や虎を従えたり大仰なポーズをとる表情も動作も、会場の明るい照明の下で一際変化に富んだものに見えた。
中央には金ぴかの 「韋駄天」と伽藍神の 「華光菩薩」の立像が、この日ばかりは主役に昇格して誇らしげに立ち妖しげな魅力を振りまいていた。

この展示コーナーには中国風の鳴り物も並んでいて、会場ではそれらを使用したお勤めの音も流されていたので明時代の華麗で賑やかな作法がよくわかり、日本化されずに純粋培養されて伝わっているような響きを聞いていると、これは日中両国にとって貴重な文化遺産なのではないかという気がした。

hokuto77 at 21:14|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本彫刻 

2011年12月28日

2011年のベストスリー

例によって今年も楽しませてもらった展覧会を振り返っておきたい。
まずは 巌谷國士監修の 「森と芸術」(庭園美術館)、森と人間との関わりを聖書の時代からの長い文明史として紹介し、あまり目立たなかった作品たちにも光をあて、さまざまな方面への思索を促す空間をつくりあげたという点で、今年最も心に残る展覧会だった。

白洲正子 神と仏、自然への祈り」(世田谷美術館)も、一人の女性の審美眼により選びとられた作品たちが一堂に会することによって自ずと何かを語り出すような感じがあり、徐々に忘れ去られようとしている日本古来の宗教心や自然への畏敬などに改めて思いを誘うものだった。

その他の ”企画もの”では、ノスタルジックな作品たちで会場が何ともあたたかな空気に包まれていた 「大正イマジュリィの世界」(松濤美術館)、美術展とは言い難いものの ”復興”ということを考える契機となった 「東京の交通100年博」(江戸東京博物館)と 「メタボリズムの未来都市展」(六本木ヒルズ)、多彩な展示で一つの都市を浮かび上がらせた 「世界遺産 ヴェネツィア展」(江戸東京博物館)なども面白かった。

また、版画展として見ればかなりの充実ぶりだった 「光と闇と、レンブラント」(国立西洋美術館)、奇想の絵画百枚の全貌を公開した 「狩野一信の五百羅漢図」(江戸東京博物館)、薄明の画家とのよい出会いの場となった 「アンリ・ル・シダネル」(メルシャン軽井沢美術館)、そしてスペインでひたすら写実の道を究めた画家の業績を回顧した 「磯江毅=グスタボ・イソエ」(練馬区立美術館)などが一人のアーティストを扱った展覧会としては見応えがあり、一つのコレクションの紹介としては 「ギッター・コレクション展」(千葉市美術館)、「墨宝、常盤山文庫名品展」(根津美術館)などが楽しめたが、ベストスリーの3席目となると決め手が見つかりにくい。

とあれこれ迷った末に、展覧会に出かけるまでは全く知らなかっただけに驚きの大きかった 「磯江毅=グスタボ・イソエに敬意を表することとし、併せて上の文中に3度も登場した 江戸東京博物館、そしてやりにくそうなテーマに果敢に挑戦した 「ぬぐ絵画」(東京国立近代美術館)に敢闘賞を差し上げたい。
続きを読む

hokuto77 at 22:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2011年12月26日

エリック・クラプトン@武道館-4 究極のギタリスト

演奏された全20曲の中からの印象を思いつくままに・・・
「4. Presence of the Lord」 (Blind Faith) は、ブラインド・フェイス結成時にクラプトンが提供した唯一の曲にもかかわらず、当時はウィンウッドにヴォーカルを委ねていたためにいろいろなことがあった曰くつきの曲だが、ここでは1、2コーラスを順番に歌った後3コーラスではツイン・ヴォーカルで絡んでいて、このジョイント企画を象徴する演出という感じがした。
「12. Georgia On My Mind」(Hoagy Carmichael) ではウィンウッドのヴォーカルが見事、アコースティック・セットに変わっての「13. Driftin' Blues」(Johnny Moore's Three Blazers)ではクラプトンの生ギターが凄味を感じさせ、「15. Wonderful Tonight」 ではクラプトンのヴォーカルが伸びやかに響き渡り会場全体を幸せな気分で包み込んだ。

圧巻だったのは「18. Voodoo Child」 (Jimi Hendrix) 、長大なセッションの途中で何度かウィンウッドと女性ヴォーカル2人を中心に厚みのあるサウンドが荘厳な伽藍を現出させ、目もくらむような高みに登り詰めると、その絶頂で荒ぶる神が降臨したかのようにクラプトンのギターが炸裂する。
虚空を切り裂いて突き進むような、身体じゅうを金縛りにして締めあげるようなフレーズの破壊力は凄まじく、エレキ・ギターの演奏で思わず涙腺が緩んだ経験は初めてのことだった。


クラプトンがやりたかった音楽は、結局どういうものなのだろう。
クリーム時代のスリリングなギタープレイも、「461」以降のレゲエ色の濃いレイドバック路線も、クラプトン音楽の“核”のようでいてどこか違う感じが付いて回る。「フロム・ザ・クレイドル」などで聴くブルースも、それだけでクラプトンが語れるわけではない。
思い起こせば、一つのグループで長く活動することのなかったクラプトンは、ギター1本を抱えて渡り歩く職人のような感じがあり、ドラッグなどの問題で浮き沈みも激しかったことから、“ギターの神様“という称号とは裏腹にどこか落ち着きどころのないイメージがあった。
もちろん自作にも数々の名曲があり、最近は落ち着いた ”大人の曲“を聞かせているけれど、やはりクラプトンの原点は ”ギターによる表現“であり、その威力を最大限に発揮できる場を探し求めながら、今はそれをスティーヴ・ウィンウッドとのステージに見出しているといったところではないか。

これまでも、そのキャリアの節目節目で彼を引き立てようとする仲間がいろんなお膳立てをしてくれたし、逆にジョージ・ハリスンを日本ツアーに引っ張り出したように、クラプトンが主導して仲間を盛りたてた例もあり、そうした人的つながりが、”孤高のミュージシャン”の活動をここまで持続させてきた原動力だったと言えるだろう。
我が身を振り返ってみても、例えば学生時代に何でも話せた親友が今も最大の相談相手というわけではなく、多くの人と出会いさまざまな形で関係を重ねる中で、当初は馴染めなかった人と仕事をするうちに思わぬことで助けられたこともあったりする。
先の見えない不確実な世の中を渡っていくには、過去のネットワークと新しい出会いの両方を大切にしながら、必要以上にこだわりを持つことはやめて、その時その時で良いと思った道を柔軟に選びとっていくほかはない・・・

クラプトンに戻れば、大きな流れとしては年とともに丸く、かつ深くなっていく感じはあるが、結局のところはその場面場面でやりたい音楽を、その時周りにいた仲間とやってきたということに尽きるだろう。
スティーヴ・ウィンウッドとの共演はその集大成なのかどうか。少なくとも現時点では最強・最良のパートナーであった。

hokuto77 at 22:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2011年12月25日

ゴヤ、光と影-2 油彩〜魔女と愛する女

(国立西洋美術館 〜1/29)
この展覧会は実に14もの章に細分されていたが、そのほとんどは素描・版画のシリーズのテーマに沿ったもので、「着衣のマハ」も “3:嘘と無節操―女性のイメージ:〈サンルーカル素描帖〉から私室の絵画へ”という章の中に置かれているように、何点かの油彩はその中のエピソードのように登場する。

“1:かくある私―ゴヤの自画像”にあった1815年の 「自画像」は、理想化しないあるがままの画家の姿のようだけれど、これが70歳直前に描かれたものだということになると、途端に壮大なフィクションめいてくる。
“6:魔物の群れ―〈ロス・カプリーチョス〉における魔術と非合理”の 「魔女たちの飛翔」(1798年)は先のプラド展にも出ていたもの、あらためてその特異な世界に驚かされたが、どうにも会場の動線が悪く落ち着いて向き合っていられなかった。
“7:「国王夫妻以下、僕を知らない人はいない」―心理研究としての肖像画“に並んでいたカルロス4世とその家族のポートレートは、有名なプラドの群像作品ほどの意地悪さが露骨に出てはおらず、大勝負を前にここではゴヤもまだ爪を隠しているようだ。

その少し先にあった 「レオカディア・ソリーリャ」(1812-14年)という女性の半身像は、老境に入った画家を家政婦として支えた女性をモデルにしたといわれるもので、そこに描き留められている作為のない自然体の表情と早い筆による質感は、この画家には珍しい温かみを感じさせていた。
理想化するよりは親密に寄り添うことによって、目の前にいる人物の内面の良さや奥深さを引き出しているといえる肖像画だ。
その横の 「アブランテス公爵夫人」(1816年)は、若い貴婦人をモデルにしてより美しく華麗に仕上げた肖像画と言えるけれど、絵の中の女性との間の距離感や思いの深さはソリーリャに遠く及ばない。

”11:信心と断罪―宗教画と教会批判“にあった 「無原罪のお宿り」(1783)、「荒野の若き洗礼者ヨハネ」(1808-12)はゴヤという画家の意外な側面を見せるものではあるが、結局のところ彼はこの分野の画家ではなかったことを示していた。

hokuto77 at 21:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!西洋絵画(古典) 

2011年12月22日

メタボリズムの未来都市展-3 実現への壁

(六本木ヒルズ 〜1/27)
前回は、復興が思うように進まないまま再び寒い季節を迎えた被災地を思いながらつい想像を膨らませてしまったが、“象徴の空間とメタボリズムの建築”のコーナーでさまざまな“実現例”を見ていくと、理想と現実のギャップを思わずにはいられない。

映像展示もあって興味深かった実現例は、やはり 丹下健三の 「東京カテドラル聖マリア大聖堂」と 「東京オリンピック国立屋内総合競技場(現・国立代々木屋内総合競技場)になるけれど、カテドラルで急こう配の屋根にとりついて作業する人々、代々木で太いワイヤーを張っていく工事風景などを見ていくと、斬新なアイディアを実際の建築物とするには現場の大変な困難があったことにあらためて気づかされる。
大谷幸夫 「国立京都国際会館」、磯崎新 「福岡相互銀行 本店」(現・西日本シティ銀行)なども、この規模だから実現できたということであるかもしれず、槇文彦の 「ヒルサイドテラス」(代官山)辺りが “メタボリズム”的都市として現実的な線ということになるのだろう。

それでも、現在の技術水準を前提とし、かつ経済性や法規制等も足枷とならないという状況の下では、模型として面白かった 菊竹清訓のスパイラル住宅、樹状住居、段状住居なども実際に建設される可能性は出てこないのだろうか。
もしそうであれば、不幸な災難の結果ではあれ広大な更地と相当の額の資金が利用可能になり得る被災地において、是非その夢を現実のものにしてもらいたいと思う。
最終章“4:グローバル・メタボリズム”では、丹下健三チームの 「スコピエ都市部再建計画」、黒川記章磯崎新の 「鄭州市鄭東新区如意型区域都市計画」といった海外での大規模な実現例が紹介されていたが、今こそこうした大プロジェクトを国内で実現するタイミングなのではないだろうか。

hokuto77 at 21:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2011年12月20日

ぬぐ絵画-2 「智・感・情」が目指したもの

(東京国立近代美術館 〜1/15)
西洋絵画におけるヌードは理想化・永遠化された “特別のはだか“であり、観る方もエロスを捨てて美とじかに向き合うという了解があるのに対し、こうした歴史を持たず裸体画に馴染みがない日本人にはどうしたらその ”特別さ“を理解させられるのか・・・
これが 黒田清輝の抱えていた問題意識であり、今は重要文化財に指定されている 「智・感・情」(1899=明治32年)という三幅対の作品はそうした観点からの挑戦であったということだ。

そのために、まず ”智・感・情“というタイトルにより抽象化・理念化された存在であることを示し、直立するポーズによってエロスの世界から遠ざけ、さらに当時の日本人には有り得ないほどプロポーションを変えることで生々しさを避ける、ということが意図的に行われた。
しかもそれを金地の空間の中央に一人ずつ立たせ、三尊のごとき構成の中で三者三様の姿にして見せたところに強い信念と構想力を見ることができるように思う。

どの女がどのように ”智・感・情“を具現しているのか、私には今一つよくわからないけれど、左端では陰部を手で隠すような仕草に恥じらいが見えているのに対し、右はもう少し大胆になり、ややぎこちなく強ばったポーズが謎めいた雰囲気を醸し出しているといった ”描き分け”は確かに見てとれる。
それでもこの2枚だけならさして驚くものではないが、この両脇侍を圧倒的に凌駕しているのが中尊の女で、直立して我々に正対し手を顔の両側辺りに上げたポーズは、現実の世界ではまず見ることのない非日常的な姿であり、宇宙と交信し霊的世界と繋がっているかのような超越性すら感じさせる。

こんな裸体画はおそらく西洋の美術館をくまなく探しても二つとないだろう、その意味でこれは黒田の ”発明“した歴史的女性裸体像と言える。
その一方で、彼女たちは、確かに体つきは理想化されて現世の柵とは次元の違うところにいるようだけれど、さりとて神話的世界の ”女神“になったわけではなく、特異な振り付けを施されながらも辛うじて ”生身の女“の領域にとどまっている。
そこに生じる理念と現実の鬩ぎ合いのような不協和音が、この絵に相対した時に感じる名状しがたい思いの源泉であるように思われる。

その向かい側には 原撫松の 「裸婦」(1906)、右手で自らの影をなぞるというポーズは思わせぶりなものだが、ここでは女の柔らかな肌そのものの魅力が尽き詰められており、後ろ姿にはエロスをもう少し浄化した哀愁が漂っていた。

hokuto77 at 21:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2011年12月19日

エリック・クラプトン@武道館-3 同行二人の年月

エリック・クラプトンという名前を初めて意識したのは、クリーム時代の 「ホワイトルーム」を聞いた時だったと思うが、音としてそれ以前から馴染んでいたのはビートルズの 「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」になる。
どちらの曲もリアルタイムの世代ではないが、ここでのギター・ソロがクラプトンだと知る前もその後も、ビートルズの洗練されたフレーズとは違う泥臭い泣き節に ”大人の音楽”を感じていたものだったので、実際はビートルズ最年少のジョージよりさらに2歳若い23歳の時の仕事だったと知った時にはちょっとした衝撃があった。

以来、そこから遡るように クリームディレク・アンド・ドミノスを聞いていったのだが、一方リアルタイムでリリースされてきた作品は1974年の 「461 オーシャン・ブールヴァード」や翌年の 「安息の地を求めて」など、今はとても好きなアルバムに違いないのに、当時はそのゆるさに肩透かしを食ったような思いがあり、聞きかじりの情報からもう以前のようにシャープでスリリングなギターは弾けないのか、麻薬とはかくも恐ろしいものなのか、などと思い込みしばらくの間距離を置いていた。
その後クラプトンに再接近したのは 「ワンダフル・トゥナイト」(78年)、そして 「ティアーズ・イン・ヘヴン」(92年)になるが、それぞれのリリースから33年、19年が経っているという事実にあらためて驚く。

2年前には サイモン&ガーファンクルが来日し40年前の音楽を ”解凍”して聴かせてくれたけれど、その解散後にソロで活動した ポール・サイモンを唯一の例外として、特に ジョン・レノンが亡くなった80年以降、ロック・ミュージシャンの新譜にはほとんど関心を抱くこともなく過ごしてきた。
それはこちらの興味がクラシックや古楽に移ったこととも大きいのだが、しかし考えてみればエリック・クラプトンは、その間もアルコール依存症や家族の問題を抱えながらずっと現役ミュージシャンであり続けていたのだ。

92年の 「アンプラクド」と94年の 「フロム・ザ・クレイドル」ではブルースの世界にどっぷりとつかり、しかしただ古い曲を懐古的に聞かせるだけでなく、98年の 「ピルグリム」以降は “ギターの神様”という過去の称号など一顧だにしないようにこだわりを捨て、同時代の聴衆に向かって成熟した音楽を作り出し続けている。
多くのロック・アーティストたちが早世したり事実上活動休止していくなかで、曲折ある音楽遍歴を経ながらも、これからも一緒に年をとっていけそうなクラプトンの存在はあらためて心強いものに思う。
その彼が、今ステージでやりたい音楽はこれだ、ということを全身で示してくれた2時間は、年なんてとっちゃいられねえ、という強烈なメッセージでもあった。

hokuto77 at 21:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2011年12月15日

メタボリズムの未来都市展-2 復興に生かす道

(六本木ヒルズ 〜1/27)
「メタボリズムの未来都市展」で紹介されていた “海上都市・空中都市”構想のイメージが頭から離れない。
それは、前回少しふれたように、こうした一見奇抜と思えるアイディアが今もし実現可能ならば、特に東日本大震災で甚大な津波被害を受けた東北の港町の復興に役立たないものかという思いが残るからだ。

春頃に耳目を集めていた五百旗頭議長の復興構想会議は菅首相退陣とともに役割を終えてしまったのか、財源や土地の所有関係といった問題もさることながら、提言の中心であった “高台移転”というアイディアが漁港や港町としての機能をかなり犠牲にするものであり、長大な防潮堤の建設も有効性や住環境の面で実現に踏み切り難いことが、復興の促進を妨げているように見える。

そうだとすれば、従前の港や市街地の付近に、“空中都市”というほどのものではなくても、津波をやり過ごせる程度に高層化された “上げ底都市”ないし “高床都市”を建設し、津波警報時は上階に向かって避難するという前提で職住接近を実現する、そういったコンセプトでそれぞれの街に合った現実的なプランを作れないものだろうか。
政府や復興構想会議が一律に決めるのではなく、本展に登場している建築家やその流れをくむ後継者たちがそれぞれのプランをもとに町に提案してもいいし、町が主体となってコンペを実施してもいいだろう。
そして、町ごとにユニークな復興計画を作り、“XXXX氏によるYYY町復興プロジェクト”(例えば“丹下研究室による気仙沼復興プロジェクト”など)というものが各地で動き始めれば、日本全国から、あるいは海外からも熱い視線を集め、人や資金も集まってくるのではないか。

問題は財源だ。
全部が国費=税金というのが難しければ、“XXXX氏によるYYY町復興プロジェクト”の構想に期待し賛同するサポーターを広く募ることで資金を集める仕組みを作ることはできないものだろうか。
その場合は 「株式=復興株」の方式が面白いように思う。
もちろん市場で売買は出来ないし配当も当面は期待できない、でも「株主優待」なら可能だろう。
年に1〜2回その町の名産品を送ったり、復興建築物の中に作る客室の無料宿泊券を株数に応じて配布してもいい。定礎に名を刻んだり準町民として祭りに参加させたり、要するにあまり金をかけずにサポーターの “思い”に応えるメリットを提供するアイディアなら、町の人々が智恵を絞ればいくらでも出てくるのではないか。

また、被災者本人には無料で入居してもらうとしても、その子や孫、外部からの転入者や高品質戸室の希望者などからは相応の家賃を受け取るか分譲するようにすればよいし、産業が復興し軌道に乗ってくれば将来的には「配当」を出すことも考えられるだろう。
サポーター側も、自分は無理でも子や孫の代で多少のリターンがあれば御の字という程度の期待を、自分が見込んだプロジェクトの支援に繋げ夢を託すことはできないものか。

この場合に国のやることはただ一つ、もちろん増税して景気を冷え込ませている場合ではない、そうではなくてこの 「復興株」の相続や配当を非課税にし、拠出時も最大限の税制優遇措置を受けられるようにすれば、それによってこの 「プロジェクトサポーターによる復興株」も絵空事ではなくなると思う。

それでも、はじめから十分な額が集まるというのは楽観的に過ぎるだろう。
それならば集まった額でまずスタートさせ、その後は状況を見て増築しアメーバのように増殖させていくことを考えればいい、それこそ “メタボリズムの未来都市”の理念が最大限に生かされる道ではないか・・・

hokuto77 at 21:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2011年12月14日

ぬぐ絵画-1 神話のない世界への挑戦

(東京国立近代美術館 〜1/15)
ぬぐ絵画−日本のヌード 1880-1945」展は、“国立“美術館としては野心的な試みということになるのだろう、もし私が中学生の時分にこの展覧会に出会ったとしたら、企画者の意図とはかなり異なった思いを抱えて通うことになったかもしれない。

”裸体“画について、西洋絵画と違いギリシャ神話や聖書というエクスキューズを持たなかった国においては、ヌードに何らのフィルターがかけられることもないために、現実の女性が服を脱いだ姿としてどうしても生々しいものにならざるをえない。
冒頭の小品でもわかるように、実生活では女性の肌脱ぎ姿や温泉での混浴といった風俗が古くからあり、裸そのものに対するハードルは西洋よりも低かったと思えるのだが、それが絵に描かれ展示されるとなると話は別だったようだ。

そうした状況に果敢に挑んだ先駆者として 黒田清輝(1866-1924)がまず取り上げられる。
そのコーナーのはじめの方にあった 「花野」では、裸の少女たちを野原に寝そべらせてメルヘンチックな世界をつくりあげているのだが、これは1907-15年といういわば後期に属する作品で、それはひとつの無難なソリューションではあるけれど、黒田の挑戦と言えるのは次の部屋にあるそれよりも以前の作品だ。

1901年(明治34年)の 「裸体婦人像」は下半身に布がかけられて展示され ”腰巻事件“として有名になったもので、確かにここに描かれた女性は胸から下肢にかけてが豊満で艶めかしく、この絵が当時センセーショナルに受け止められたのはよくわかる。
しかし、下半身部分にそれほど猥褻性があるわけではなく、ふた昔ほど前のグラビア写真に施されていた”黒塗り“がそうだったように、腰巻などがあったためにあらぬ妄想を掻き立てて騒動を大きくしたのではないか。
仮に、割増料金を払った客には特別に”腰巻”を外して見せる、といったことがもし行われたとしたら、金返せ、というクレームが殺到したことであろう。

hokuto77 at 21:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画(近現代) 

2011年12月12日

エリック・クラプトン@武道館-2 クラプトン節を浴びる

今回のコンサートでまず印象的だったのは、スティーヴ・ウィンウッドの多才ぶりだ。
熱い思いが沸々とたぎるようなハモンドオルガン、クラプトンを向こうに回しての達者なギター・ソロ、そして張りのある高音を生かしたヴォーカル・・・ 
クラプトンの渋いヴォーカルももちろん味わい深いが、ウィンウッドには声そのものの魅力で聴き手をねじ伏せる独特の力がある。

その上で、あくまでも現時点の知名度や集客力からすれば、今回のツアーはクラプトンがウィンウッドを引き立てたものであるという側面は否定できないだろう。
もっとも、二人のこれまでの歩みを振り返ってみれば、ウィンウッドはブラインド・フェイス結成当時にずいぶんと過剰な負担をかけられていたようだし、73年には麻薬で苦しむクラプトンを表舞台に引っぱり出すコンサートを共同企画したということもあったので、クラプトンは今ようやくそんな借りを返しているところと言えるかもしれない。
しかし、このユニットは単発のジョイント企画や再結成イベントではなく、2007年から既に4年も活動をしているのだから、これは “男の友情”といった美談だけではなく、音楽的に得るところが双方にあるという確信に基づいているのだと思う。

クラプトン・ファンから見れば、前述したように エリック・クラプトンが本当に楽しそうにギターを弾いている、それも “ギターの神様”というよりは “ギター小僧”のように弾きまくっているところが何とも嬉しいものだった。
実際、ウィンウッドは冒頭の2曲と(アコースティック・セッションを別とすれば)アンコールの2曲以外はずっとキーボードだったので、その間はステージ上で唯一のギタリストがクラプトンという状態になっていた。
したがって、誰がメインをとる曲かに関係なく、リードでもサイドであっても、我々の耳には紛れもない “クラプトンのギター”が聞こえ続けていたわけで、ほぼ全ての曲でさまざまな “クラプトン節”を浴びるほどに堪能できたということが本当に大きかった。

そのことをクラプトンも第一に考えていたのかどうかは分からない、もしかしたら経費節減といったこともあったのかもしれないけれど、結果として ERIC CLAPTON & STEVE WINWOOD として来日が発表された時にはちょっと想像していなかった、ある意味では期待以上に贅沢なステージになったのではないか。
そんなクラプトンの全力でギターを弾く姿が、そこに詰めかけていた主に中高年の聴衆に向かって “熱いロック魂”を甦らせるオーラを発していたように思った。

hokuto77 at 21:03|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋 

2011年12月11日

長谷川等伯と狩野派-2 等伯の後継者たち

(出光美術館 〜12/18)
本展の中心は、作品としては 長谷川等伯の3点の屏風絵と牧谿、能阿弥が見られる第2章に違いないが、テーマ性という意味では後半部分の “III.長谷川派と狩野派−親近する表現”の方になるのかもしれない。
そこでは江戸時代の後継者たちによる作品を対比した上で、ライバルとして対立していた印象のある両派の作品には意外な親近性が見られ互いに影響を及ぼしあったのではないかというような問題提起がなされていた。
確かに、個性的な創業者は既に世を去った泰平の時代に、基本的には同一の顧客層をターゲットにしたビジネスを展開するとなれば、それぞれの “商品“が互いに相手の良さを取り入れながら似たものになっていくのは道理であるが、等伯ファンの目から見るからなのか、そこでの影響の方向は長谷川派から狩野派への一方通行に近いような図式が感じられてくる。

同じ 「波濤図屏風」という題を持つ2つの作品を見ると、長谷川派のものは等伯親方の禅林寺作品を手本にしっかり勉強したのであろう、彩色が強調されて幾分装飾的になっているとはいえ、そこでは波が確かに動いており、海の持つ底知れぬパワーが伝わってくる。
一方、狩野常信の 「波濤図屏風」では 波を表す曲線が単なる模様となってしまっており、一見雅びではあるけれど海や波そのものの表現にはなっていない。

また、長谷川派の 「藤棚図屏風」は棚の縦横の線とそこに絡む藤の曲線のリズムが心地よく、その横の 狩野重信 「麦・芥子図屏風」の凡庸な画面とは比べ物にならない意匠性を感じさせていた。
この図柄に等伯のオリジナルがあるのかどうかよく分からないし、狩野派にもっと優れた作品があるのかも定かではないけれど、この路線の先にこそ琳派の美意識が繋がっていると考えてもいいのではないかと思った。

“IV.やまと絵への傾倒”では、等伯亡き後の長谷川派が大量生産した 「柳橋水車図屏風」が、その原型となったらしい 「宇治橋柴舟図屏風」(筆者不詳)とともに展示されていた。
橋や柳、水車などのパーツは両者でほぼ共通している、しかし同じ素材を組み合わせながら大胆で力強い画面に再構成した結果、「柳橋水車図屏風」は一度見たら忘れないインパクトを持つ作品となった。
しかも、手本を忠実に写していけばそれほどの腕がなくても描けそうな構成とすることで、工房の弟子たちが喰っていける目玉商品とすることができた親方の深謀遠慮には改めて感心させられる。  

今回の展覧会で、どのあたりまでが主催者側の意図だったかは別として、私としては、長谷川派が等伯から引き継いだ意匠を狩野派が模倣したことで画面の装飾化が進み、琳派的なるものもその延長上に生じたという心証を勝手に固めてしまったわけだが、狩野派について言えば、彼らはプロの集団としてあらゆるものが描けなければならず、これは出来ませんとは言えない立場で仕事をしていたという事情は考慮すべきかと思われる。
だから、クライアントが長谷川派の作品に興味を示せば、そのニーズに応える形でライバルの作風を取り入れて制作しレパートリーに加えていくということが当然のように行われた、しかしそれは模倣とか追随ということではなく、常に顧客の望む商品を自前で生産できる体制を整えるという営業方針に沿っただけのことなのであろう。
そこに著作権などという概念はなかった、もしあったとしたら、等伯も牧谿にどれだけ払わなければならないか分かったものではない・・・

hokuto77 at 21:06|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!日本絵画 

2011年12月09日

メタボリズムの未来都市展-1 海上・空中都市構想

(六本木ヒルズ 〜1/27)
メタボといっても腹周りの贅肉のことではない。“新陳代謝”、つまり時間の経過に従って増改築を繰り返し、新旧が連続的に入れ替わりながら無限に変化するアメーバのような存在として都市や建築を考えようとする 「メタボリズムの未来都市展 戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」は、革新的な発想なのか壮大な冗談なのか何とも分かりかねる中で、しかし思いがけずいろいろなことを考えながら長い時間を過ごすことになる展覧会だった。

“1:メタボリズムの誕生”では、満州に建設しようとした都市計画や 「大東亜建設記念営造計画」という戦中の企画と、戦後の記念碑的作品 「広島ピースセンター」(広島平和記念資料館)がまず取り上げられる。
この辺りは ”メタボリズム”というよりは大御所 丹下健三の初期作品紹介といった感じだが、確かに「広島」は軽やかなデザインの建物だけでなく原爆ドームを望む中心軸を重視した点で評価が高いものの、強固な軸線で礼拝を促す空間という意味では「大東亜」との類似性は明らかだ。
そこからは、思想的背景は全く異なる二つの対照的なプロジェクトに共通するコンセプトをもって取り組もうとした建築家の信念が感じられるが、これらはいずれも “閉じられた空間”に関するものであり、人が住み行き来する都市のプランとしては花弁をイメージした新宿東口再開発案のように、まだこなれたものにはなっていない。

“2:メタボリズムの時代”に行くと、丹下健三研究室による 「東京計画1960-その構造改革の提案」の迫力に圧倒される。
これは丸の内から東京湾上を横断し千葉県木更津へ至るという破天荒な海上都市計画で、その壮大さはお台場や海ほたるの比ではないが、中心軸の官公庁・オフィス部分はともかくとして、枝分かれした先の合掌造りのような居住スペースの荒唐無稽さは思わず笑い出したくなるほどだ。
しかしこれが契機になったということなのだろう、その後も国土計画への提言として現代のバベルの塔のような海上都市、空中都市構想が量産されていく。

「丸の内計画」では、赤レンガビルの建替えを批判した “三菱地所にもの申す”という週刊誌記事が面白く、新たな構想は地上のレンガ造り建物はそのままに壮大な空中都市へと向かっていく。
その他にも「新宿計画」、「渋谷計画」などでさまざまな形が検討されたようだが、これらの空中都市・海上都市は、現在では仮に技術的には可能になったとしても、経済的合理性や人間の住環境としての妥当性、環境への負荷等の点では再検討が必要だろう。
しかし、もしこうした観点からも現実味のあるプランができるなら、東北の被災地の復興に是非役立ててもらいたいものだと思った。

hokuto77 at 22:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!掘り出し物など 

2011年12月08日

エリック・クラプトン@武道館-1 ロック・バンドの原点

エリック・クラプトンスティーヴ・ウィンウッドERIC CLAPTON & STEVE WINWOOD) の来日公演を聞いた。(12月7日、日本武道館)
今回のクラプトンのツアーは、1969年に結成されわずか半年ほどで解散した ブラインド・フェイス時代の同志であるスティーヴ・ウィンウッドとのジョイントによるもので、それはそれで意義深いとは思いながら、ウィンウッドをよく知らない立場からの正直な気持ちとしては、果たしてクラプトンの曲や歌はどのくらい聴けるのか、クラプトンのコンサートとしては魅力が薄まってしまうのではないかという危惧を抱いていた。

しかし、気心の知れた仲間と並んで演奏し、しかもサポートがドラム、ベース、キーボードの3人(+女声コーラス2人)と絞り込まれたことによって、ロックの原点に返るようなバンドの楽しさが感じられるものとなり、それは遠い昔に仲間たちと楽器を持ち寄って初めて音を合わせた時の興奮や感動を思い起こさせるものでもあった。
自分の弾く楽器の音がいくつもの楽器の音と合わさり、絡み合うようにして音楽が進んでいく快感、そんなバンド演奏の醍醐味を、この66歳の男は今もって大切にしているのだ。

考えようによっては、ご老公に過度な負担をかけずに、もっと簡単に完成度の高いサウンドを作りだし、”スーパースター・クラプトン”をフィーチャーする無難な方法は他にいくらもあるだろう。
しかし、それをやってしまってはどこかに消えていきそうな音楽の本源的な楽しみを、休みなしに2時間たっぷり、彼らは目の前で熱く演じてくれた。
実際のところ、メインで歌っている時よりはサイドに回ってギターを弾きまくっている時のクラプトンの方が生き生きして見えたということもあり、ジョージ・ハリスン亡きあとにクラプトンが嬉々としてサイドを務められる相棒として、スティーヴ・ウィンウッドは現時点でのベストなのであろう。
35年も前の仲間とこうして生の音楽をやれるなんて羨ましいほどにいい話だし、その楽しさは客席まで十分に伝わってくるものだった。

<Set List>
1. Had to Cry Today (Blind Faith)
2. Low Down (J.J. Cale)
3. After Midnight (J.J. Cale)
4. Presence of the Lord (Blind Faith)
5. Glad (Traffic)
6. Well All Right (Blind Faith)
7. Hoochie Coochie Man (Muddy Waters)
8. While You See A Chance (Steve Winwood)
9. Key To The Highway (Charles Segar)
10.Pearly Queen (Traffic)
11.Crossroads (Robert Johnson)
12.Georgia On My Mind (Hoagy Carmichael)
13.Driftin' Blues (Johnny Moore's Three Blazers)
14.That's No Way to Get Along (Robert Wilkins)
15.Wonderful Tonight(Eric Clapton)
16.Can't Find My Way Home (Blind Faith)
17.Gimme Some Lovin' (The Spencer Davis Group)
18.Voodoo Child (Jimi Hendrix)
Encore:
19.Dear Mr. Fantasy (Traffic)
20.Cocaine Play Video (J.J. Cale)


hokuto77 at 20:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!音楽の部屋