2018年09月20日

能 「井筒」-2 幼い恋の成就、物着での変身

龍田山にかかる話が終わってクセに入ると、伊勢物語のもうひとつのエピソードであり本曲の核心である ”井筒” の歌が紹介される。
「友達語らひて互ひに影を水鏡、面をならべ袖をかけ、心の水も底ひなく、うつる月日も重なりて、おとなしく恥ぢがはしく、互ひに今はなりにけり」と、幼馴染み同士のほほえましい関係が語られてから、「その後かのまめ男、言葉の露の玉章(たまずさ)の、心の花も色添ひて」と続けて 在原業平の歌が謡われた。

筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生ひにけらしな 妹見ざる間に
これに対し女の方は、
比べ来し 振り分け髪も 肩過ぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき
と返し、二人の恋が成就することになる。
それは打てば響くように気持ちが通い合った幸福な場面のように思えるけれど、男の方は、時が流れた、お互い成長した、という単なる感慨を述べたようでもあるのに対し、女の方は、結婚相手はあなたしかいない、とかなり踏み込んで返している。
つまり、大きな流れとしては男が思いを打ち明け女がそれを受け入れた、ということかもしれないが、男は逃げ場を残したままで探りを入れたとも見えるのに対し、真に受けて一途に飛び込み局面を決定的にしたのは女の方だ。
だからこそ本曲の女に寄り添いたい気持ちにもなるわけで、龍田山のエピソードと並んで実に周到に出来ているという感じがする。

さて、そんなこちら側の思いを知ってか知らずか、女は 「真は我は恋衣、紀の有常が娘とも、いさ白波の龍田山夜半に紛れて来たりたり」と自らについて語りだし、「紀の有常が娘とも、または井筒の女とも、恥かしながら我なり」と身分を明かすと井筒の陰に隠れ、衣を直す 「物着」となる。
前述したように中入りなしで舞台上で衣裳を変える 「物着」は、ここでは業平の直衣を被り冠をつけることによって女の姿から男の姿に変わるのだが、もちろん面は女のままなので、女に男の亡霊が憑依したということになる。
そこで、それまではしとやかで神秘的であった女が ”恋慕の狂気” に変貌するのかどうかが気になっていたが、長い 「序ノ舞」を通しての印象は、狂気というよりは純粋で一途な思いをどこまでもつきつめていくというものだった。

先に見た 「柏崎」でも物着の演出があり、そこでは夫と子を一度に失って ”物狂い” となった女が、亡き夫の形見の烏帽子直垂を身に着けることによって、確信を持って善光寺阿弥陀如来に向き合うという存在に変わったように見えた。
今回はそこまでの劇的な性格変化というわけではなさそうだけれど、男の思い出やぬくもりに包まれた恍惚境の中で、男とも女ともつかない舞を舞っていると見るだけで十分であろう。
月の光、古寺、薄と井戸というもの寂びた気配の中を漂うように進む、切りつめられた純度の高い曲、劇的な展開も高尚な議論もなく、派手な動きや太鼓もないけれど、淡々とした中に静かな詩情が漂う舞台だった。

hokuto77 at 19:54|PermalinkComments(0)│ │邦楽事始 

2018年09月18日

中国書画精華〜梁楷の三幅、清凉寺の羅漢

(東京国立博物館 〜10/21、展示替えあり)
”縄文-1万年の美の鼓動”の熱気とは対照的に静まり返った ”中国書画精華−名品の魅力−” で、最初に目に入ってきたのは 梁楷の 「出山釈迦図軸」を中心とする三幅だった。
と、まずは言っておきながら、それぞれに何度か見たことのあるこの3点を、これまで三幅対として意識したことがあったのかどうか、本当に三幅対として描かれたものなのかが気になってきた。
キャプションでは、中央の 「出山釈迦図軸と左の 「雪景山水図軸」は ”梁楷筆 南宋時代・13世紀” なのに対して、右の 「雪景山水図軸」は ”伝 梁楷筆 南宋時代〜元時代・13〜14世紀” と違いがあるのだが、いずれも国宝指定(一括指定か?)で、左右の 「雪景山水図」には全く同じ解説文が付されている。
ひとつの推論としては、梁楷の失われた右幅が後世に補われたということがあり得るのかもしれないが、率直な印象としては左福も含めた3点に緊密な関係性を感じにくく、単独作ないし別のシリーズのものを後に組み合わせた可能性の方が高いように思われる。
それでも、華麗な表装がこの3点をしっかりと結び付けていることからもわかるように、我が国における受容の過程で三幅対として珍重されてきたという実績も尊重されなければならないのだろう。

コーナーの最初にあった 伝 胡直夫筆の国宝 「夏景山水図軸」(南宋時代・12〜13世紀 山梨・久遠寺蔵)は、徽宗筆と伝えられる四季山水図の中の1点と意識されることが多い作品だ。
しかし、あらためてこうして単体作品として向き合ってみると、”夏” という特定の季節感は背後に退き、霊気を含んだ山の風そのものが主役に踊り出てきたように感じられた。

この重厚な2組4点に挟まれると、伝 馬遠筆 「洞山渡水図軸」(南宋時代・13世紀)はやや軽い感じがしてしまうのだが、そこには何のこだわりもない清らかな水が流れ、心地よい風が吹いていた。

その先は 伝 趙昌筆 「竹虫図軸」をはじめとした草虫図、そして 十六羅漢図となっていたが、その中で注目したのは 京都・清凉寺蔵の国宝 「十六羅漢図軸」の 第四尊者(北宋時代・10〜12世紀)だった。
目を大きく見開いて前の方をしっかりと見据えている姿は悟りの瞬間かとも思うが、手前の従者の鋭い視線を見れば何か邪悪なものを見つけたのかところなのか、ともかくも激しい感情を内に秘めた堂々たる人物像で、従者ともども強い存在感を発していた。
両脇の第二尊者、第七尊者もそれぞれに味わい深く、できれば小出しにしないで一度全貌を見せていただきたいと思う。

ここまでの壁面展示を眺めて、今年はやや少ないなと思いながら中央の展示ケースを覗きこんだら、そこには 李迪筆の国宝 「紅白芙蓉図軸」2幅をはじめ、伝 趙昌筆 「茉莉花図軸」(常盤山文庫蔵)、伝 毛松筆 「猿図軸」、伝 馬遠筆 「寒江独釣図軸」などの名品が並んでいた。
これらは軸を完全に広げて壁に掛けるのではなく、図画の面だけが見えるように広げて展示ケースに平置きされた状態(若干の角度はついているが)の展示だったので、所蔵家に招かれて目の前で広げられような、いつもとは違う距離感と角度を楽しむことができた。

hokuto77 at 19:37|PermalinkComments(0)│ │東洋絵画 

2018年09月17日

能 「井筒」-1 在原寺の風、龍田山の波

国立能楽堂開場35周年記念公演(9月5日(水)13:00〜)は、80分ほどの 「翁」と 「松竹風流」に続き、能 「井筒」(観世流 観世清和ほか)が約90分かけて演じられた。
重厚な 「翁」や動きの激しい 「三番叟」から打って変って静かでゆるやかに進む舞台、枯淡の味わいの笛(杉市和)に始まり、小鼓(大倉源次郎)と 大鼓(亀井忠雄)の響きも繊細で表情豊か、全体としてはピアニシモのアダージョを聞くようだった。

ワキ(福王茂十郎)が滋味あふれる語りを終えてワキ座に着くと、橋懸りからシテ(観世清和)がかなりの時間をかけて登場、「暁ごとの閼伽の水、暁ごとの閼伽の水、月も心や澄ますらん」でさらにしんとした世界へと誘う。
そして、ワキに素性を問われると、「この寺の本願在原の業平は、世に名を留めし人なり、さればその跡のしるしもこれなる塚の陰やらん」とその場への注意を引きつつ、「わらはも委しくは知らず候へども、花水を手向け御跡を弔ひ参らせ候」と、この段階では少し距離をとった言い方に留める。
やがて、地謡により 「在原寺の跡古りて、松も老いたる塚の草、これこそそれよ亡き跡の、一叢ずすきの穂に出づるはいつの名残なるらん、草茫々として露深々と古塚の、真なるかな古の、跡懐かしき気色かな、跡懐かしき気色かな」と、廃寺のもの寂びた情景が目に浮かぶように語られる。
そして、「昔在原の中将、年経てここに石の上、古りにし里も花の春、月の秋とて、住み給ひしに」と、自然を愛でながらの簡素な生き方が示されることで、在原業平という人物の気配が感じられるようになっていく。

シテによる 「風吹けば 沖つ白波 龍田山 夜半にや君が ひとり行くらん とおぼつかなみの夜の道」で、伊勢物語からのひとつ目の重要なエピソードに入っていくのだが、ここでは足元のおぼつかない夜の暗い道を行く業平のことを思いやった歌で心が通じ、業平と愛人の関係がそれ以来絶えたということが知らされただけで、浮気相手のところへ行く男の身を案じる健気な妻という立場が紹介されたに過ぎない。
男の方が、快く送り出す女に別の男がいるのではないかと疑って物陰から様子を見るという部分は、本来はアイ狂言で詳しく語られるらしいのだが、この日のように 「物着」の小書で中入りがなくアイ狂言も登場しない場合には、この男によるあまりほめられない行動にはふれられないことになる。
それは、当時(も今も)の能の受容者は当然に伊勢物語の話を知っているということが前提なのかとも思うが、女の立場から考えてみれば、男の猜疑心やそれに基づく隠密行動については知る由もなく、ただ 「行方を思ふ心とげて外の契りはかれがれなり」ということになる。
つまりは、送り出した後に身の上を案じていただけで浮気は沙汰やみになった、というのが女にとっての全体像であり真実だったわけなので、ここはそういうものとして理解すればいいのかもしれない。

それでも、浮気で外出する男を恨みもせず道中の無事を祈る妻の健気さ、待つ女、耐える女としての純粋さを考えれば、むしろ男の霊が現れて女に詫びを入れ許しを請うべきところかもしれないのだが、女の霊はただ静かに舞いながら昔を懐かしむのみというところが泣かせる。
信じるだけ、与えるだけの一途な愛もあるのか、こんな女に慕われたら男冥利に尽きる、と思わせるところにもこの曲の人気の一因があるのだろう。
ともかくも観客にとってはシテの短い言葉に導かれて朗々と歌われる地謡からの情報がすべてという中で、梅若実率いる地謡はいつにもましてきめ細かく聴こえ、張りのある朗唱は素人にも言葉が入りやすく、かつ音楽としても草書の筆のように美しく流れていくようだった。

hokuto77 at 19:35|PermalinkComments(0)│ │邦楽事始 

2018年09月15日

翁、松竹風流-4 三番叟が締める祝言の舞台

「翁」に続いた 「松竹風流」のやりとりと舞いは、確かに特別なめでたさを演出するものではあるけれど、出し物としての充実度が特に高いものだとは率直なところ思われなかった。
しかし、それに続いた 「三番叟三番三)」は、さすがに舞台パフォーマンスとしてよく練れている。
三丁の小鼓に大鼓の甲高い音が加わって演奏にドライブがかかると、思わず体内の血が騒ぎ出すようだし、「おおさいおおさい、喜びありや」では、眠っていた根源的な部分が目を醒まされるような感じがした。
茂山千五郎の舞は若さを生かした切れの良いもので、舞台を縦横に駆けたり跳躍したりといった動きにも重みと勢いがあった。

まず演じられる 「揉ノ段」は大地を踏みしめる所作とのことだが、そのダイナミックな動きは五穀豊穣に向けての悪霊退治とか ”気” の注入といった意味合いも込められているのであろう。
そこにさらに子孫繁栄の祈りまでが籠められているのかどうか、ともかくも逞しい生命力を目に見える形で表していることは間違いなさそうだ。

直面で演じられた 「揉ノ段」が終わって一旦後方に退き、黒式尉(こくしきじょう)の面をつけて舞台に戻ってくると、面箱持(千歳)と奇妙な問答を始める。
それはつきつめれば 面箱持が席に戻るのと 黒い尉の舞を始めるのとどちらを先にするかというような押し問答で、その内容からはこっけいな戯れ合いのようなものかと思っていたのだが、実際に聞いてみると両者ともかなりの本気で声を張り上げ、このままでは喧嘩になるのではないかと思うほどの激しいやりとりになっていった。
ところが 面箱持から鈴を渡されると雰囲気が一転して大人しくなり、黒い尉殿もすっかり機嫌が直ったように 「鈴ノ段」へと入っていく、この落差が何を意味しているのかはよくわからないながらも、なかなか面白い展開だった。

鈴ノ段」の入りは 「揉ノ段」の後だけに地味な感じが否めず、それは大地を固めるよりも種を蒔く方が地道な作業だということを反映しているだろうか。
それでも後半に進むに従って徐々に盛り上がりを見せ、最後は鈴と面を外し、大きく ”御祓い のような所作をして退場していった。

」の舞が天下泰平を祈るのに対し、「三番叟」の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれるが、それは天からもたらされる水の霊力と、人が大地に働きかける農耕の営みを、それぞれに象徴しているように思われた。

hokuto77 at 21:56|PermalinkComments(0)│ │邦楽事始 

2018年09月13日

「世界を変えた書物」展〜現出した ”知の館”

(上野の森美術館 〜9/24)
実に驚かされることの多い、刺激的な展覧会だった。
世界を変えた書物」 という展覧会があること、それが 金沢工業大学の ”工学の曙文庫” が所蔵する稀覯本で成り立っていること、見上げるばかりの書庫が再現されていたこと、グッズ類がとても洗練されていたこと、そして無料だったこと・・・

まず招き入れられる 「知の壁」 は、中世の大学か修道院の図書館を思わせる壮観で、書物というものが知の源泉であり知的営みを進めるうえでの根本的な資産であったことを思い出させられた。
今はさまざまな媒体や流通経路が普及してきた結果として、蔵書というものがほとんど意味をなさなくなり、図書館や書店にも軽薄で短命の本ばかりが並ぶようになっている中で、これこそが書物本来の姿であり、その蓄積が ”知の館” だったのだと改めて思った。

同時に、こうした書棚を見ると ”知の迷宮” というような言葉がつい出てきたりもするのだが、ここでは理科系の書物が中心となっているだけに、そこに分かりやすい道筋をつけようという努力の跡が見え、そこからこの展覧会を貫いている ”熱” のようなものが感じらてきれた。
それが本展の核となるいる 「知の森」 で、展示レイアウトやカラー・イメージなどによって出来る限りの体系化が試みられ、アリストテレスから ニュートンを経て アインシュタインに至る大まかな道筋が実感できるようになっている。

おかげで、展示されている書物の一冊一冊が世界を一変させたというだけでなく、それぞれが積み重なり刺激し合ってより高みに達していくという人類の英知の歴史の見取り図が、おぼろげながら見えてきたような気がした。
理系オンチの筆者がまず食いついたのは デューラーや ピラネージだったが、それでも コペルニクス、ケプラー、ガリレイと続けば遠い記憶が甦ってくるし、聞き覚えのある名前が流れの中に位置づけられることによって、旧知の人物に出会ったような気にもなってくる。

そんな中で特に驚いたのは、デカルトと ゲーテが思いがけない流れの中で紹介されていたことだった。
デカルトは 「03. 解析幾何」 のコーナーで ライプニッツの近くに登場、そこにあった本は 「方法序説」だが、「我思う、故に我あり」に始まる哲学の部分は最初の章のみで、その後ろには 「光学」「幾何学」「気象学」が続き、その中で解析幾何学の基礎となる空間座標の概念が示されているということを初めて知った。
さらに 「10. 電磁場」のコーナーでも 、「哲学の原理」 に宇宙は細かい粒子で満ちているとの記述があるということだ。

ゲーテは 「05. 光」 のコーナーで ケプラーや ニュートンの先に登場、そこで ゲーテは ニュートンの光学理論に反駁し、光とりわけ色彩は純粋な物理現象ではなく人間の視覚の(心理的とまでは言わないにせよ)生理学的な機制に依存するものだという主張を展開したらしい。
いかにも文豪らしい切り口だし、そこにはクレーの抽象画を思わせる色見本や風景画も添えられているのだが、こんな異議申し立てにニュートンはどう思ったのだろうか。

ともかくも、このあたりは自然科学と哲学や文学が ”知” の領域として未分化で重なっているようでもあり、それは ”知の巨人” だからこそ可能であった越境行動なのかもしれないが、徐々に専門化・細分化されていくにつれて一人の守備範囲も限られるようになり、やがて全貌が見えにくくなっていくというのも避けられぬ流れであろう。
2階に上がるとその傾向が強まり、電気関係の オームや ヘルツなどの名前に懐かしみを覚えつつ、「11. 原子・核」 に行くと レントゲン、ベックレル、キュリー夫妻と続いた先に 湯川秀樹の業績があり、そして 合衆国戦略爆撃調査団の広島・長崎原爆投下という不幸な現代史に至る。

知の連鎖」 ではこうした流れがチャートで示され、最後の 「知の繋がり」 にはこれらのカテゴリーのビッグネームや影響・発展の過程が分かるような三次元の模型が展示されていた。
その他、触ってみられるレプリカ展示や監修者である 竺覚暁教授による解説の映像(これはさすがに長い・・・)、そしてさまざまなグッズ類に至るまで、実によく考えられた見せ方だったと思うし、こうした ”人類の宝” をより多くの人に知ってもらいたいという熱意が強く感じられた展覧会だった。

よくよく考えてみれば、いかに稀覯本が多く並んでいるといっても、実際に見ることができるのは見開き2ページに過ぎないし、当然のことながらギリシャ語やラテン語の本文が読めたわけでもない。
しかし、展示ケースの底面に少し離れて置かれた鏡で表紙の文字や装丁も見ることができたことで、「世界を変えた書物」が身近なものに感じられ、中身が分かったわけでもないのに、人類の壮大な知の体系に少しでも近づけたような気分になれたところが最大の収穫だ、錯覚かもしれないけれど・・・

hokuto77 at 20:25|PermalinkComments(0)│ │掘り出し物など 

2018年09月12日

翁、松竹風流-3 松・竹の精による風流の舞

「翁」 のあとには 「三番叟(三番三)」という通常の流れに対し、今回の 国立能楽堂開場35周年記念公演では 「松竹風流」(まつたけのふりゅう)が上演された。
「風流」とは狂言方が大勢登場して寿を述べるもので、祝言性が濃いため近年では稀にしか演じられず、その中の 「松竹風流」は、国立能楽堂では35年前の開場初日に演じられて以来の上演となる、という程度の前提知識しかなかったのだが、実際には 「翁」の後段としてお目出度い雰囲気を高めて 「三番叟」へ繋ぐという役目の出し物だったようだ。

翁の退場からひと呼吸おいて再び囃子が始まると、黒い衣に黄色の袴の 「竹の精」、金色の衣に緑の袴の 「松の精」の順に橋懸りから登場、翁と面箱の間に控えていた 「風流千歳」が立ち上って2人を舞台へと招き入れる。
そして、風流千歳(善竹富太郎)が両者に 「めでたき子細」を語るよう促すと、松の精(大蔵彌太郎)は千年万年の齢を持つからめでたいと言い、竹の精(山本奏太郎)は親より太く延び寿命めでたいのだと語る。
その後に舞となるが、それぞれに面と豪華な衣をつけた 松と竹の精が、その場を仕切る 風流千歳とともに舞台を巡る様には華やぎがあり、さらに橋懸りにずらりと並んだ 山本東次郎則俊以下10人の風流地謡による謡にも迫力があって、それでなくても通常より賑やかな舞台が一層祝祭的なものになった。

解説によれば 「風流」(ふりゅう)とは 「華美な装飾」を意味する古語で、中世には精霊などが登場する寺院芸能の呼称ともなったとのことだが、今の ”風流” の語感とはずいぶんと違っているように思われるし、精霊が登場する寺院芸能というのも初めて聞いた気がする。
今回の ”松と竹の精” というのは納得感がある一方で、定型的すぎて意外性に乏しい感じも否めないので、それ以外にはどんな ”精霊” たちが登場してどのようなプレゼンをするのか、できればそのヴァリエーションを見てみたい。

それにしても、この舞台は 「翁」がメインであることは疑いえない一方で、見終わってみれば狂言方の存在感が大きかったことに気づく。
特に 金剛流では面箱が千歳の役を兼ねるため、能方で舞台で演じる役者は翁1人のみであり、あとは 千歳兼面箱、風流千歳に 松の精・竹の精そして 三番叟と、5人の狂言方が入れ代わり立ち代わり舞台で躍動する。
地謡も能方の8人に対し狂言方は10人、囃子方は両方の演奏をするので一応中立のようではあるが、大鼓と太鼓は狂言方の出番での活躍なので、全体的な印象としては狂言方の顔見世興行という色彩が濃いようにも思った。

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2018年09月11日

ミケランジェロと理想の身体-3 古代ギリシャ

(国立西洋美術館 〜9/24)
本展は、 「ダヴィデ=アポロ」と 「若き洗礼者ヨハネ」という ミケランジェロの2作品に到達する以前の ” I 人間の時代−美の規範、古代からルネサンスへ” の章にも、古代ギリシャ作品でいくつか興味深い作品があった。

I-1 子どもと青年の美
プットーとガチョウ」(1世紀半ば、ヴァチカン美術館)は大理石という素材で柔らかな幼児の肌や動きを、「弓を引くクピド」(2世紀末、フィレンツェ国立考古学博物館)は左腕を大きく上に挙げてのけぞるような姿勢を的確に表現していた。

アキレウスとケイロン」(65-79年、ナポリ国立考古学博物館)は、ポンペイの近くで同じヴェスヴィオス火山の噴火により長い間埋もれていた エルコラーノの壁画で、思慮深く威厳も感じさせる半人半獣の ケイロンと、彼の話に真摯に耳を傾ける賢そうな アキレウスが優れた筆致で描かれている。年長者と若者の話がしっかりとかみ合い心も通い合っている、そんな今どきあまり見かけることのない光景が何やら感動的だった。

ガニュメデスの誘拐」(1世紀末、フィレンツェ国立考古学博物館)は、大きな鷲にさらわれる少年の緊迫感がよく伝わってくるものだったが、ガニュメードというのはもっと幼い子どもを想像していた・・・

I-2 顔の完成
ここでは、ギリシャ古典期は肖像に関心がなく顔も理想形を追求し抽象的・普遍的な顔が好まれた、といった趣旨の解説が興味深かったが、「男性頭部」(2世紀、フィレンツェ国立考古学博物館)もまさにそのようなものであろう。

I-3 アスリートと戦士
香炉を支えるディスコボロス」(紀元前4世紀後半、ローマ、ヴィラ・ジュリア国立博物館、キルヒャー・コレクション)は、三脚の上に立つ人物の頭上に鳥がとまった大きな香炉が乗るという奇妙な造形ではあるが、円盤投げ選手の人体の表現は優れたものだった。

I-4 神々と英雄
荘厳のユピテル」(紀元前1世紀―紀元後1世紀、フィレンツェ国立考古学博物館)は小像ながらゼウスらしい威厳を備えたもの、「ヘラクレス」(紀元前4世紀後半、フィレンツェ国立考古学博物館)も胸部・腹部から背面まで理想的な筋肉質の肉体の像だったが、顔や腕には後の手が入っていただろうか。


<古代ギリシャ展>
2011、国立西洋美術館: 神々、英雄、別世界の者たち クーロスからアフロディテへ
                 キュクラデスの女神 人々の暮らしの光と影
2016、東京国立博物館: キュクラデス、クレタ島の曙光 アテネに充溢する光
                 墓碑、陶片追放、オリンピック マケドニア、ヘレニズムの残照

hokuto77 at 19:36|PermalinkComments(0)│ │西洋古代中世美術 

2018年09月09日

翁、松竹風流-2 翁から発せられる言葉

国立能楽堂開場35周年記念公演 (9月5日(水)13:00〜)でまず演じられた 「」の大まかな流れは前回記事のとおりだが、もう少しこの 「翁」という特別な演目の中身を振り返っておきたい。

まだ翁の面をつける前、三丁の小鼓が賑々しいリズムを刻む中、坐ったままの姿勢で最初に発せられる言葉は、 「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりどう」。
これに地謡が 「ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりどう」と呼応するのだが、これだけでは呪文のようでわけが分からない。
続きは 「所千代までおはしませ、我らも千秋さむらはう、鶴と亀との齢にて、幸ひ心にまかせたり」と徐々に意味を持つ言葉になってくるが、このあたりは天地創造前の混沌の中から徐々に塊が生じ形が表れてくるようでもある。
さらに、その後に登場する 千歳の 「鳴るは瀧の水、日は照るとも、絶えずとうたりありうどうどうどう」への流れを見れば、「とうとうたらり・・・」は ”水” の象徴的表現として、生命の源泉であり農耕の命綱である水が、豊かに滴り流れ下る様を表しているように思われた。

千歳の舞の後、面をつけた から始まる 「総角(あげまき)やとんどや(ひろ)ばかりやとんどや」もよくわからないやりとりだが、ここが催馬楽の詞を踏まえたものだとすれば、この後には 「離(さか)りて寝たれども、転(まろ)びあひけり、とうとう、か寄りあひけり」というストレートな表現が続く。
子孫繁栄のための男女の営みが、豊饒の象徴として豊作を祈る農村の祭りで扱われることは少なくなく、男神と女神が田などで暗示的な所作をする祭りなどもあるので、「三番叟」にはそうした趣きが反映しているような気がしていたのだが、格調高く崇高なものだと思っていた 「翁」にもそうした要素があるらしいというのは意外なことだった。

ともあれ、漸く立ち上がり囃子の音の止んだ静寂の中で厳かに朗誦される、「ちはやふる、神のひこさの昔より、我がこの所久しかれとぞ祝ひ」から 「千年の鶴は、万歳楽と唄うたり、また万代の池の亀は、甲に三極を備へたり、天下泰平 国土安穏の、今日のご祈祷なり」のくだりが、本曲中で最も意味が明快な部分ということになろう。
あえて少し引いて考えてみればやや尊大な感じがしないでもないけれど、誰もがそれを願わしいものとして受け容れ、そのような言葉が 翁から発せられることを求めているからこそ成立し、別格の一曲として大切に伝承されてきたということかと思われた。

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2018年09月07日

翁、松竹風流-1 翁への変身、翁の祈り

国立能楽堂開場35周年記念公演に出かけた。(2018年9月5日(水)13:00〜)
全体で4時間半ほどに及んだ当日の演目は以下の通り。

(おきな) 金剛 永謹 (金剛流)
 松竹風流 (まつたけのふりゅう) 大藏 彌太郎 (大蔵流)
能 井筒 (いづつ) 物著 (ものぎ) 観世 清和 (観世流)
能  (みだれ) 置壺 (おきつぼ) 片山 九郎右衛門 (観世流)

まずは 「」、”能にして能にあらず” という能書きや別火、精進潔斎に始まり面を着けずに登場するといった特殊性などはある程度事前に知っていたが、実見してみれば通常の演目との違いはさらに大きく、総じて芸能というよりは共同体の祈りのイベントという思いを強くした。
面箱を先頭に烏帽子をつけた大人数が登場して祝祭的な気分が高まる中、翁役の演者が客席の方に向かって深く礼をするという、通常の能の上演ではまず見られない所作は、「翁」が何のために演じられるかということをよく示しているのだろう。

天地開闢を示すという 笛の音に続いて、ヤーッという甲高い掛け声とともに三丁の 小鼓が賑やかに早いリズムを刻みだす。
そして聞こえてきた 「とうとうたらり」という不思議な呪文は、この景気のよい小鼓隊のリズムと合っているのかどうかが初めは分かり難かったが、それぞれにわが道を行くといった若干の違和感は、地謡との掛け合いの中で徐々に解消され、千歳の 「鳴るは瀧の水」で新たな局面に入っていった。
「翁」の最大の特徴は素面で登場し舞台上で面を着けることだと聞いていたので、その場面がひとつのハイライトになるのかと思っていたのだが、実際には千歳の舞が佳境に入ったあたりであまり目立たない形で行われた。

そしていよいよ の登場、金剛永謹氏の翁は風格充分で場を支配し、「天下泰平 国土安穏の、今日の御祈祷なり」の朗々たる謡にも、ずしりと腹に響くような重みが感じられた。
広い音域で上下するヴィブラートの大きさも、翁が超人的な存在であることを示すようで、「翁」の上演そのものが同じ思いを持つ人々の支持のもとに伝えられてきたことが実感された。
全くの偶然ではあるけれど、近畿地方を襲った台風21号と北海道で発生した震度7地震に挟まれた日の上演だっただけに、まさに ”天下泰平 国土安穏” をあらためて願わずにはいられない。

翁の舞は、これは予想していたことではあるけれど、ゆったりとした所作が続いてなかなか舞らしい動きとならず、先行する囃子の賑々しい音楽に促されるようにして、ようやく厳かに舞い始めるという感じだった。
舞が終わると 「万歳楽」を寿ぎ、面を外してもう一度深々と礼をして橋懸りを退場していった。


<能・狂言の過去記事>
能 「柏崎」 宝生流 佐野由於 
能 「熊野」 金剛流 金剛永謹 
古典芸能鑑賞会 (舞囃子 「融」ほか) 
能 「山姥」 観世流 野村四郎  
能 「善知鳥」 観世流 観世清和  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
狂言 「二人袴」、「咲嘩」、「首引」  
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか) 
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

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2018年09月02日

鈴木雅明&BCJ、バッハのドイツ・オルガン ミサ-4

鈴木雅明氏による J・S・バッハ生誕333周年記念特別演奏会 ≪クラフィーア練習曲集 第3巻≫ (8月2日(木)19:00〜 東京オペラシティコンサートホール)に関し、なお思いつくことを幾つか・・・

まず、本作品集はひとつのコンサートとしては想定されていないとしても、通しで聞いてみた流れの中て ”5つの頂点” というものが感じられた。
それは両端のプレリュードとフーガ(BWV 552/1 と2)、キリエの3曲目(BWV 671)、教理問答コラール2つ目の 「われらみな唯一なる神を信ず」(BWV 680)と5つ目の 「深き淵より われ汝に呼ばわる」(BWV 686)だ。
いずれも pedaliter (ペダルを使った比較的大規模な曲、大コラール)となったのは、”頂点” という中に音の厚さや構築性、音量によるカタルシスも含まれるのでまあ仕方がない。

しかしその一方で、今回あらためてじっくり聞いて思ったのは 光に対する影ともいうべき manualiter (手鍵盤のみによる比較的小規模な曲、小コラール)が思っていた以上に凝った音楽で情報量も多く、繊細な情緒にも優れているということだった。
その中でのベスト3を選べば、G音の連打で始まる 「これぞ聖なる十戒」(BWV 679)、直前の pedaliter とは全く違う世界を見せた 「深き淵より われ汝に呼ばわる」(BWV 687)、緻密な構成で教理問答コラールを締め括った 「われらの救い主なるイエス・キリストは」(BWV 689)になる。

もう一点、この公演に出かける前の段階で、前述した使用楽器や演奏曲順と同じように気になっていたのは、鈴木雅明氏による解説があるのかということだった。
あれば是非聞いてみたいと思う一方で、いろいろな意味で語り出したらきりがない作品でもあるので、その場合の終演は10時過ぎになるだろうかなどと思っていた。
実際には1週間ほど前から Twitter で曲目解説をされていたようで、当日のプログラムに全27回(!)をまとめた印刷版が挿入されていたのだが、これは有り難かった。
ややくだけた肉声があったり楽譜もついていたりと、通常のプログラムでは考えられない内容で楽しく読ませてもらいながら、聞きどころや難所なども事前によく分かり、とてもいい試みだと思った。

その Twitterによれば ”バッハはこれを全部一気に弾いたことなど決してないと思う” とのこと、バッハ以外のオルガニストでも果たしてどのくらいの前例があるのか知らないが、貴重な音楽体験をさせてくださった 鈴木雅明氏にあらためて感謝したい(国民栄誉賞に推薦したいくらいだ・・・)。
さらに、コラールをアカペラで歌い継いだ バッハ・コレギウム・ジャパンのメンバー、その進行を立ったまま仕切ってサポートした 鈴木優人氏、そしてプレッシャーのかかる中で譜めくり及びストップ操作に貢献した女性にも大きな拍手を贈りたい。



<鈴木雅明 & BCJ の過去記事>
クラフィーア練習曲集 第3巻 (2018)  
ルター500プロジェクト (2017) 
J. S. バッハの世俗カンタータ (2017)  
J. S. バッハの教会カンタータ (2013)  
青山学院レクチャーコンサート 201120162017
鈴木雅明 & 若松夏美 in 深大寺本堂 2016
17世紀初期イタリアのオルガンとアンサンブル 2008
ジュネーブ詩篇歌を巡って 2006
支倉常長と音楽の旅 (2007) 
天正少年使節と音楽の旅 (2006) 

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2018年08月29日

縄文-1万年の美の鼓動-4 多彩な造形、岡本太郎

(東京国立博物館  〜9/2)
5点の国宝土偶(と火焔型土器)の ”第4章 縄文美の最たるもの”から ”第5章 祈りの美、祈りの形” に進むと、その中央でひときわ強い存在感を示していたのが 「115 重文 遮器光土偶 青森県つがる市 木造亀ヶ岡 1個 縄文時代(晩期)・前1000〜前400年 東京国立博物館」だった。
土偶といえば多くの人が真っ先に思い浮かべるこの像が、国宝レースで後れを取っているのは意外なことだが、それは単に順番や時間の問題なのか、あるいは正統性などの困難な問題があるのだろうか。
もっとも、目の部分について ”遮光器” という見立てにはやや違和感があり、私には微笑む幼児の顔に見えるので、無事成長してくれることの祈願か、あるいは早世した子の供養かとも思うが、まさかそのあたりが国宝指定の障害になるわけではなかろう。

「105 重文 ハート形土偶 群馬県東吾妻町 郷原 1個 縄文時代(後期)・前2000〜前1000年 個人蔵」も将来の国宝候補だろうか、これは像全体を支配している曲線が大胆かつ洗練されていて、美的観点からは 「縄文のビーナス」 「縄文の女神」に続く完成度だと思う。

上記以外では、最初期のものといわれる 「85 土偶 滋賀県東近江市 相谷熊原遺跡 1個 縄文時代(草創期)・前11000〜前7000年 滋賀県教育委員会」は女性の胸部分だけが残っているが、どの土偶よりもふくよかさが自然に表現された上出来のトルソーだ。
「103 筒形土偶 神奈川県横浜市 稲荷山貝塚 1個 縄文時代(後期)・前2000〜前1000年 個人蔵」は 岡本太郎の「太陽の塔」の原型と言われているものか、確かに胴の形や紋様、皿形の顔には相通じるものがあった。
その他、「ポーズ土偶」や 「みみずく土偶」などが幅広く集められており、あらためてその多彩さに驚くとともに、”土偶” という一つの概念でこれらすべての制作目的や使用方法を理解することの困難さをも感じさせられた。 

土偶の後は、男性を表す 「石棒」、石を和った 「岩偶」、円形で小さめの 「土面」などがあり、1万年にわたり日本列島各地で営まれた生活の中で創り出されたものの幅の広さが感じられた。
その多くが東北地方や中部地方の出土品であるのは、その後の歴史が西日本中心に展開したことを思えば意外な感じがするが、狩猟・採集で生活の糧を得ていた縄文人には豊かで住みやすい環境だったということなのだろう。
一方で動物そのものの表現がいまひとつのように思われるのは、彼らの躍動する姿には比較的関心が低かったということだろうか。

「172 顔面把手付深鉢形土器 山梨県北杜市 津金御所前遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 山梨・北杜市教育委員会」という大きめの壺には二つの顔があり、縁から突出しているのは母、側面真ん中辺りから出ているの子供で、出産の場面を表していると考えられているそうだ。
「縄文のビーナス」のように吊り上った目と驚いたように丸く開かれた口には緊張感があるし、壺を使っての象徴的な表現には品位も感じられる。
こうした造形が世界各地にどのくらいあるのかよく分からないが、出産を表す美術作品としてはベストといっていいのではないか。

最後の ”第6章 新たにつむがれる美” では、いち早く縄文文化に関心を寄せた人物をとりあげており、柳宗悦、川端康成のコレクションなども紹介されていた。
しかし、なんといってもこの分野での最大の功労者は、1952年に 「四次元との対話―縄文土器論」を発表した 岡本太郎であろう。
本展のタイトル ”縄文-1万年の美の鼓動” にも表れているように、縄文の造形を考古学の世界から美の世界に引っ張り出して光を当てることができたのは、この希代のアーティストに並はずれた直観力と発信力があったからだ。
その契機となった 「深鉢形土器」3点(いずれも 縄文時代中期・前3000〜前2000年 東京国立博物館)が、見どころの多かった長い旅を締め括っていた。


>縄文-1万年の美の鼓動 (2018、東京国立博物館) 

>文化庁海外展 大英博物館帰国記念 「国宝 土偶展」(2010、東京国立博物館) 

>岡本太郎展 (2011、東京国立近代美術館) 

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2018年08月27日

能 「柏崎」-4 綾子舞に生きる中世の芸能

今回の 能 「柏崎の上演は、国立能楽堂7月の 《月間特集・能のふるさと・越路》 の企画公演である、”中世のおもかげ―「柏崎」” の一環として行われたもので、この日はそれに先立って、柏崎市綾子舞保存振興会による 「綾子舞」(あやこまい)が披露された。
   小原木踊 (下野、小歌踊) 
   海老すくい (下野、狂言) 
   猩々舞 (高原田、囃子舞) 
   小切子踊 (高原田、小歌踊)

綾子舞とは、新潟県柏崎市女谷に伝わる民俗芸能で、500年の歴史を持ち 重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けたとのこと、現在は 下野 (しもの)と 高原田 (たかんだ)の人々により伝承・保存され、少女の舞う華やかな 小歌踊、男性が一人で舞う 囃子舞、狂言の三種から成っている。

小歌踊(こうたおどり)は、赤い頭巾をつけた3人の少女がしずしずと進み扇を使って踊る 「小原木踊」 (下野)、冠を被った2人の少女が小切子を鳴らしながら踊る 「小切子踊」 (高原田)が、公演の最初と最後を華やかに飾った。
これは中世の 風流踊や初期の 歌舞伎の様相を伝えていると考えられているとのこと、能や 歌舞伎がさまざまな才能や権力者や観衆に出会い、スタイルの変遷や分化を経て発展していく一方で、そうした影響を受けずに当地に伝えられたままの姿で、あたかも冷凍保存されていたように古式が残ったということのようだ。
もちろんこうした芸能に単なる保存はありえず、大勢の人々の長い不断の努力で代々伝えられなければ残らないわけだが、その中で恣意的な変更が加えられずに当初の姿が守り通されてきたらしいことが幸いであった。

狂言は 「海老すくい」 (下野)、扇子を動かしながらの殿様のセリフや、ほーっという冠者の掛け声は独特のもので何とも長閑な感じだった。
その2人の微妙な ”間” が醸し出す滑稽さや、歌と囃子の音程がどうにも合ってない感じは、いったいどこまでが意図的なのか分からなかったが、予断を許さない緊張感がたまらない・・・

囃子舞は 「猩々舞」 (高原田)、これはひとりの男性の踊り手が、酒好き、笑い好き、心強い、心弱い、そして舞が好きという5人(5匹?)の猩々(しょうじょう)を演じ分けていくもので、早いリズムの囃子にのったパフォーマンスには見応えがあった。
それにしても、壱岐と対馬と隠岐から集まってきた猩々たちが賑々しく舞い踊り、それを見ているのは信濃の住人と駿河の杜氏と阿蘇の宮の神主、とはいったいどういう世界観なのか・・・

囃子は7人、左から 銅拍子・鐘・笛・笛・笛・鼓/歌い頭・太鼓 とやや窮屈そうに並んでいた。
右端の太鼓奏者は能で使う太鼓と横面を叩く大太鼓をひとりで担当、その左は下野が歌い頭、高原田が鼓という違いがあったが、いずれも素朴ながら華やぎの感じられる音楽だった。

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2018年08月24日

ルーヴル美術館展-4 レンブラント、ゴヤ

(国立新美術館 〜9/3)
「パンジーの婦人」の少し先にあった レンブラントの 「ヴィーナスとキューピッド」(1657年頃)は、タイトルどおりの神話の絵としては俗っぽい感じが否めないが、プライベートな家族の情愛を描いた絵としては実に味わい深いものだった。
ヴィーナスに擬されているのは内縁の妻で後半生のレンブラントを支えた ヘンドリッキェ、キューピッドにすべく無理に羽根をつけられた娘の コルネリアともども戸惑いを隠せないばかりか、母と子で何かに怯えているように感じられないでもない。
しかし、不安の消えない日々の生活に疲れた女性が、彼女を100%信頼しきって甘える子どもを抱き寄せている姿には、生身の人間としての真実味があり、それは、その親密な母と子をこちらから見ている老画家の思いそのものでもあろう。
レンブラントを代表する傑作群と比べれば陰翳が細やかではなく、光の当たり方も空間の奥行きも平板な感じなので、工房作とみられていたのも無理はないように思えるが、さまざまな思いを胸に秘めたこの女性の表情は、巨匠本人でなければ描けないレベルのものであろう。
生きることに一生懸命な母と娘、それを心から愛おしく思っている男、これを肖像画とは言い難く彼の姿もそこにはないけれど、家族というものを深く考えさせる作品だった。

ゴヤの 「第2代メングラーナ男爵、ルイス・マリア・デ・シストゥエ・イ・マルティネスの肖像」(1791年)は、貴族の子を正面から描いた典型的な依頼作品のように見えるが、理想化することなくありのままの子どもの表情を捉えているところが面白い。
赤いほっぺたや手の動き、足への重心ののせ方などの微妙なところが、生身の子どもの性格までをも生き生きと伝えるようだ。
背景の色彩によって後光がさすような超然とした雰囲気を出しているのは、ゴヤとしてはそれで貴族の子どもの肖像らしくしたということかと思われるが、作品の完成度としてはどうだろう。
そんな難癖をつけられたら、仕事師ゴヤもさぞ不本意だろうとは思うけれど・・・

最後のコーナー、”エピローグ: アルチンボルド―肖像の遊びと変容” には、アルチンボルドの 「四季」から 「春」と 「秋」が出ていた。
ほぼ1年前の アルチンボルド展が衝撃的だったので、ルーヴル蔵のこの2点が皇帝マクシミリアン2世に献呈されたオリジナル/第1バージョンからどのくらいの乖離があるのか気になってしまったが、「」は昨年来日したマドリッドのものより落ちる一方、「」はデンバーのものよりだいぶいいようで、結果として拮抗した2点は準一級バージョンといったところかと思われた。


>ルーヴル美術館展 (2018、国立新美術館) 

>アルチンボルド展 (2017、西洋美術館) 

hokuto77 at 19:45|PermalinkComments(0)│ │西洋絵画(古典) 

2018年08月21日

縄文-1万年の美の鼓動-3 国宝のスター土偶たち

(東京国立博物館  〜9/2)
土器と並び 縄文の2大ジャンルといえる 土偶については、2010年に ”大英博物館帰国記念” という展覧会があったが、その時には3点だった国宝が5点になって ”第4章 縄文美の最たるもの”に広いスペースを与えられていた。

今回初めて見た 「81 国宝 土偶 縄文の女神 山形県舟形町 西ノ前遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 山形県(山形県立博物館保管)」からいくと、思いのほか平板でシンプルな正面に対して、横に周ると見えてくる臀部の張り、四角柱の太い足から見事に繋がった美しい曲線がとにかく秀逸だ。
驚くほど薄い上半身から魅力的な腰のラインへの意外な展開は、初めはガラスケースの屈折でおかしく見えているのではないかと思ったほど、その斬新さはちょっと比肩するものが思い当らない。
正面の単純化された顔や胸も、女神と呼ぶにふさわしい超自然的な精神性を感じさせながら、全体は現代アートのように洗練された姿となっており、縄文の生活感や呪術性を突き抜けてしまっているようにも感じられた。
あらためて正面から上半身だけを見れば護符のようでもあるが、古の制作者は背中から尻へのラインにこそ力を入れたはず、であればいったいどんな場面でどのように見られ使われるという想定だったのか・・・

その奥、初代国宝土偶となった 「80 国宝 土偶 縄文のビーナス 長野県茅野市 棚畑遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 長野・茅野市(茅野市尖石縄文考古館保管)」の方は、分かりやすい大地母神だ。
その豊満で生命力あふれる姿は女性讃美の像に違いなく、妊娠・出産という人知でははかり知れない力への畏敬の念が形となったものとして古今東西の最高傑作と言ってもいいと思うが、その目指すところは先の 「縄文の女神」も同じだろうか。
そんなことを思うのも、一見すると対照的にも見えるこの2点は特に背中から尻にかけての曲線がよく似ているからで、それは縄文中期に山形と長野で交流があったというよりも、同じ制作意図から期せずして似たようなものが生まれたと考えた方が自然であろう。
そうだとすれば、それは安産を願い豊穣を祈る思いを女性の姿に託したということ以外には考えられない。

左奥にいた 「82 国宝 土偶 仮面の女神 長野県茅野市 中ッ原遺跡 1個 縄文時代(後期)・前2000〜前1000年 長野・茅野市(茅野市尖石縄文考古館保管)」は、前回の土偶展以降に国宝に昇格したもので、ニックネームも 「仮面土偶」から 「仮面の女神」となっていた。
以前はその特異な顔から何か超越した存在のような印象を持ったのだが、よくみれば確かに仮面を紐で着けているし、神かどうかは別としても女性であることは疑いえない。
それは当時の女性が結婚した時、あるいは出産するときに仮面を着けるという風習を示唆するものなのか、ともかくもインパクトのある像だ。

中央の 「83 国宝 土偶 合掌土偶 青森県八戸市 風張1遺跡 1個 縄文時代(後期)・前2000〜前1000年 青森・八戸市(八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館保管)」、そして左手前の 「84 国宝 土偶 中空土偶 北海道函館市 著保内野遺跡 1個 縄文時代(後期)・前2000〜前1000年 北海道・函館市(函館市縄文文化交流センター保管)」の2点は、前回も書いたことだけれど造形としての魅力はいまひとつのように思うのだが、希少性や技術的観点からの国宝指定ということなのであろう。
いずれもプリミティブとは言えない複雑な形に、縄文人たちのものづくりへの強い意志が感じられた。


>文化庁海外展 大英博物館帰国記念 「国宝 土偶展」(2010、東京国立博物館) 

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2018年08月19日

中国・宗教絵画の広がり〜天帝、寿星・・・

(東京国立博物館 〜8/26)
東洋館8室の中国絵画のコーナーで、”宗教絵画の広がり” という特別展をやっていた。
初出展という マニ教絵画(「マニ説話画」)はあまり状態のいいものではなかったが、その先に並んでいた 道教絵画群の独特の世界観に引き込まれた。

天帝図軸」(重文、元時代・14世紀 東京・霊雲寺蔵)の中央で威儀を正して静かに座る貴人は、その背後に北斗七星の旗が見えるので北方を司る神らしい、確かにその足元には 玄武が妖しげな姿を見せている。
その脇の官人官女たちも、荒々しい姿で威圧する四大元帥も、普通なら五月蠅いと感じられるほどの細密描写なのに対し、空はアンリ・ルソーの描いたような雲が浮かんでいて、そのせいか画面全体は不思議に静まり返り、しんとした気配が漂っていた。

寿星図軸」(重美、元時代・14世紀)は、以前もどこかで見た記憶のある 寿老人の姿だが、七福神のメンバーとして日本で見られる目出度さとは全く異質の神だ。
長寿をもたらす南極老人星の化身ということではあるけれど、杖を持ちそっと忍び寄る老人の眼には怜悧な光が宿り、目の前の人物が本当に長寿に値するのかを厳しく見極めようとしているかのようだ。

蔡山筆の 「十六羅漢図軸」(重文、元時代・14世紀)は、相変わらずひと癖もふた癖もありそうな人相が強烈な個性を感じさせている。
全16点が今どのように所蔵されているのか分からないが、一度その全体像を見せてもらえないものだろうか。

岩礁波濤図軸」(元時代・14世紀)は、激しく岩を洗う波が渦巻く中、孤高の岩が神秘的な霊力を示すように屹立している。
その他の仏教系作品も含めて、巷の猛暑をしばし忘れさせる、ひんやりした空気の漂うコーナーだった。


>道教の美術 TAOISM ART (2009、三井記念美術館) 

hokuto77 at 19:59|PermalinkComments(0)│ │東洋絵画 

2018年08月18日

鈴木雅明&BCJ、バッハのドイツ・オルガン ミサ-3

鈴木雅明氏による J・S・バッハ生誕333周年記念特別演奏会 ≪クラフィーア練習曲集 第3巻≫ (8月2日(木)19:00〜 東京オペラシティコンサートホール)は、教理問答コラール 6 x 2曲 (BWV 678-689)が終わると ”最大の謎” という 「4つのデュエット」(BWV 802-805)に入っていった。
この部分は manualiter (手鍵盤のみ)による自由な形式のインヴェンションで、曲自体は親しみやすく何もおかしなところはないのだが、なぜこの第3巻のこの場所に入っているのか、この4曲の意味するところは何か、と考え始めると確かによく分からない。
この日は特に BCJによる合唱コラールが付いたこともあって、ここまで宗教的気分に包まれて敬虔な気分で聞き続けてきたのに、突然そんな香りの微塵もない世俗的な世界に放り出されたようで、いつにもまして違和感が大きかったかもしれない。

CDではチェンバロで演奏されることが多いので、あえて統一的な世界観で理解しようなどと思わないから、ここがお遊びの時間であっても構わないような気がするが、こうして一つのコンサートの時間軸の中で聞くと、そこに何らかの必然性や意味を考え始めてしまい、途方に暮れることになる。
この4曲については、全体を 3 x 3 x 3=27曲にするために最終段階で加えたとする説が有力のようだが、大バッハが全く脈絡なしに単なる数合わせで追加したとも思えないので、四大元素とか、四つの福音書とか、「死」や「天国」を描写しているという説も気になってくるものの、聞いた印象としてはどの見立てもあまりしっくりとしない。

そもそもこの曲集は 「クラフィーア練習曲集」というテキストであって、一夜のコンサートのプログラムという意識はもともとなかったであろう。
そして、「練習曲」と訳されている 「ユーブング」には、一般的に思い浮かべる初歩的な指の練習というだけではなく、訓練、おのれを磨く、道を究める、といった意味もあるらしい。
その趣旨に沿えば、「クラフィーア・ユーブング」は ”鍵盤修行曲集、鍵盤音楽奥義” といったものになるので、既存の23曲に4曲を追加するにあたっては、連続して演奏する場合の流れよりも、奏法や表現の多様性ということを考えた可能性が高いように思われる。

ただしその場合でも、カテキズム(教理問答)の世界から最後のフーガへの繋ぎの役割は考えていたはずで、この日の演奏でもデュエットの4曲目から間髪をいれず最後のフーガに入っていったのだが、調性は確かに自然に流れているように思われたけれど、フィナーレに向かってしっかりと坂を上ってきたという実感にはやや遠い。
それでも、もちろん最後の 「フーガ 変ホ長調 BWV 552/2」はつなぎも前座もいらない充実度を持った作品で、ここは 鈴木雅明氏も目を閉じていても問題ないくらい弾き込んでおられるのであろう、圧倒的な頂点を築いて一夜の大仕事が終わった。

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2018年08月16日

縄文-1万年の美の鼓動-2 火焔の生成と発展

(東京国立博物館  〜9/2)
前回記事で、縄文土器の ”火焔” 部分は、その穴に縄か棒などを通して動かすために作られたものではないかと書いた。
これは、 「28 火焰型土器・王冠型土器 新潟県十日町市 野首遺跡 12個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 新潟・十日町市博物館」だけでなく、「31 重文 深鉢形土器 群馬県渋川市 道訓前遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 群馬・渋川市教育委員会」からも強く感じられたことだった。
特にこの大きな土器はそれ以外に動かす方法が考えにくく、さらには向かい合う2つの穴が対面するように正確に穿たれていたので、そのまま棒を通した可能性の方が高いように思われた。

ところが、すこし先の ”第3章 美の競演” にあった 「40 重文 焼町土器 群馬県渋川市 道訓前遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 群馬・渋川市教育委員会」は、同じ遺跡の出土品ながら穴が縁と90度ねじれているのでこうした利用方法は不可能、やはりまず縄を通したと考えるべきであろう。
考えてみれば、縄を4か所の穴に通した方が火焔の縁部分にかかる力も分散されて合理的と思われるのだが、そこまでには多少の試行錯誤があったのだろうか。

さて、ここまでで ”縄文” と ”火焔” の存在理由については一応解決したように思ったのだが、”第4章 縄文美の最たるもの” の 「79 国宝 火焰型土器 新潟県十日町市 笹山遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 新潟・十日町市(十日町市博物館保管)」を見て戸惑いが生じた。
この最も有名な縄文土器の火焔は、もちろん縄を通すことは可能であろうが、持ち上げるという実用面からするとやや強度に不安があり、その観点からみれば不要な部分に力が入り過ぎている。

では果たしてこれが縄文土器の基準作なのか。
確かに唯一の国宝であり図版などで見る機会も多いから、この形状が自ずと基準になっていたように思うのだが、今回の展示で第1・2・3章を見てから辿り着いてみれば、この土器は確かに美しい傑出した造形だとは思うけれど、本体の器部分がかなり小さく、それに比して火焔に見立てられる縁の装飾部分が異様に大きいことに気づく。
それは、この土器に実用以外の要素が入り込んでいることを強く示唆するものであり、そうなると、おそらくは 祭祀、宗教儀式用に飾り立てたものだということになるであろう。

古代文明の出土品の中で、実用的な観点からはどうみても余分な手数をかけ過ぎていると思われる最右翼は、古代中国とりわけ 殷(商)の青銅器だが、豊饒祈願や悪霊除去のための祭祀用具だとすればそこに無駄ということは有り得ないので、この国宝 火焔型土器もそのようなものと理解すべきだろう。
こうした青銅器や我が 銅鐸などは実用から完全に乖離しているからある意味分かりやすいけれど、縄文土器は実用と祭具の境界が不分明であり、もしかしたら両者を兼ねることがあったかもしれないので中間的な作品もあることと思う。

しかしそれだけではない、”第5章 祈りの美、祈りの形” の 「162 重文 深鉢形土器 長野県富士見町 藤内遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 長野・井戸尻考古館」は、神像らしき姿が土器を抱くように合体した形として作られている。
ここまでくれば移動用の造作も必要ない完全なる祭器と思われるが、そうした例は縄文土器全体を通じてみれば少ないのではないか。

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2018年08月14日

河井郤] ”過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今”

(汐留ミュージアム 〜9/16)
没後50年 河井郤]催 ―過去が咲いてゐる今、未来の蕾で一杯な今―” という回顧展を見た。
誘われて出掛けるまで、河井郤](1890-1966年)といえば ”民藝運動の陶芸家”というイメージしかもっていなかったのだが、焼物だけでもかなりのヴァリエーションがある上に、木彫や商業デザイン、詩や書でも幅広く自己表現をした人物だったことを知った。

最初のセクション ”” は、河井郤]困遼楸箸箸盡世Δ戮陶芸類、しかし彼は陶器の道へ進むことを決めた後も窯元に弟子入りするのではなく、東京高等工業学校(現・東京工業大学)の窯業科へ進学するという道を辿る。
その後の作風は ”中国や朝鮮の古陶磁に倣った初期、民藝運動と連動した 「用の美」の中期、そして戦後の自由な造形世界の後期” という3段階で変遷したとのことなので、日本民藝館などで見たことのある作品は ”中期” に限られるようだ。

そこを当方の出発点として見てみると、初期といっても古めかしいだけではなく実に色彩豊かで、今回初公開という 山口大学所蔵の作品などは形も変化に富んでおり、ひとりの人物の作品とは思えない多彩さだ。
その後、”次第に自らの作陶の在り方に疑問を抱” いたことから、大正13(1924)年 柳宗悦と出会い、民藝運動の流れの中で実用に即した素朴な作風に落ち着いていく。
戦後になると一転して、およそ実用的ではない形や意表を突く色彩をもつ ”オブジェ” が登場してくるが、このあたりは民藝運動とどう折り合いをつけていたのだろう。

作品としては6つの小物入れからなる 「小箱各種」がいいと思ったのだが、制作時期を見ると昭和5年から37年とバラバラ、誰がどう組み合わせたのかは知らないが、愛すべき小品を作るスタンスは生涯を通じてそれほど変わらなかったということかと思われた。

彫・デザイン” にあった 「木彫像」 「木彫面」は、寛次郎が60歳から70歳にかけての10年間(昭和25-35年)に取り組んだもので、ダブルイメージの造形には縄文土器を思わせる力強さがあり、陶芸では封印していた情念がここに噴出したといった印象だ。
一方、金工デザインの 「キセル」や新聞用のカット図案である 「小間絵集」には、都会的な洗練されたセンスが感じられた。
このあたりは内的な表現意欲が新たな素材を選んだのか、あるいは新たな課題が外から持ち込まれたということなのか、ともあれ陶芸を真ん中に置けば木彫とパイプは逆方向に向かって世界を広げている。

そのような中で今回最も心惹かれた ”作品” は、冒頭にあった 絵手紙だった。
友人宛てのハガキだが水彩画や木版画があってそれぞれに手が込んでおり、もらった方も嬉しいものだったからこそ額装にして遺したのであろう。

言葉”の章にあった詩句より
  助からないと思っても 助かって居る
  無数のつっかい棒で支えられている生命 時間の上を歩いている生命・・・


>日本民藝館、美の法門〜柳宗悦の美思想(2016) 

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2018年08月13日

能 「柏崎」-3 阿弥陀如来が聞き届けたこと

善光寺内陣で浄土信仰や無常観を格調高く詠じたシテの女は、さらに 「ただ願はくは影頼む、声を力の助け舟、黄金の岸に至るべし」と願い、最終段階では 「今の我らが願はしき、夫の行方を白雲のたなびく山や西の空のかの国に迎へつつ、ひとつ浄土の縁となし望みをかなへ給ふべしと、称名も鐘の音も、暁かけて灯の、善き光ぞと仰ぐなりや、南無帰命弥陀尊願ひをかなへ給へや」と締め括っている。
つまりその着地点は、鎌倉で亡くなった夫と自分の極楽往生の願いのようなので、夫の死と子の出家という二重の苦しみのうち、この時点での彼女の心の天秤は夫の方に大きく振れているかに見えた。
ところがその直後に善光寺住職(ワキツレ)が出てきて 「今は何をかつつむべき、これこそ御子花若」と、善光寺で修行していた小僧が彼女が探していた息子の花若だと明かして、親子はめでたく再会が叶うことになる。
これこそ阿弥陀如来への一途な思いが通じてということなのではあろう、母と子が固く抱き合う瞬間はハッピーエンドで感動的な結末に違いないのだが、その前後はどうも腑に落ちない。

まず ”後” については、二人が抱き合ったのも束の間、花若はすっと母のもとを離れて橋懸りを去って行くのだが、まあこれはしっかりと抱き合ったまま幕となるわけにはいかない能楽堂の構造上やむを得ないものと理解しよう。
しかしその ”前” では、子方は中入りの直後からワキツレと一緒にずっとワキ座に座っている。
これも能のお約束だから仕方がなさそうではあるが、善光寺住職が小僧=花若を連れて内陣に来て、そこにいたシテの女を咎め立てしたという設定なのに、なぜその時点で母も子もお互いのことが分からないのだろうか。
子供が幼い頃に人買いに連れ去られるなどして何年も生き別れになっていたというようなケースなら、双方で気が付かないということもあろうが、本曲では鎌倉に行く父に同行するくらいの男子に成長し、自分で出家を決断し母宛ての文にその経緯を書けるほどの歳に至っているので、住職が紹介するまで親子と分からないというのは解せない感じがする。

さらに、本曲の主題との関連では、シテが (子との再会ではなく) 夫と我が身の極楽往生を祈ったところに子が現れる、という結末にもちぐはぐ感がないでもないのだが、そこを救っているのが、前場での 「なからん父が名残には、子程の形見有るべきか」の一言であろう。
子が何よりの形見、というこの伏線は 榎並原本からあったのか、世阿弥が改作時に追加したものなのか、いずれにしてもこれがなくては複線のドラマの着地点が危いものになったかもしれない・・・

仏教の用語を多用し宗教的法悦の境地を表現するというタイプの曲の中でも、この 「柏崎」は通常の狂女ものが想定する以上に阿弥陀信仰にかかる部分が長くまた重厚になっているように思われるが、そこには善光寺信仰の広がりと、それを能の中で訴えようとする世阿弥の強い意欲があったに違いない。
ただ、世阿弥自身は善光寺に行ったことがあったのか、当時の善光寺がどんな状況だったかはわからないけれど、如来堂とか宝の池といった言葉からは、もしかしたら宇治平等院のようなイメージをもとに創作したのではないかという気もした。


<能・狂言の過去記事>
能 「柏崎」 宝生流 佐野由於 
能 「熊野」 金剛流 金剛永謹 
古典芸能鑑賞会 (舞囃子 「融」ほか) 
能 「山姥」 観世流 野村四郎  
能 「善知鳥」 観世流 観世清和  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
狂言 「二人袴」、「咲嘩」、「首引」  
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか) 
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

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2018年08月11日

縄文-1万年の美の鼓動-1 縄文と火焔の理由

(東京国立博物館  〜9/2)
特別展 「縄文―1万年の美の鼓動」 は、充実のラインナップで縄文の時代の多様性と底力を見せてくれる企画だった。
冒頭にあったのは 「30 重文 深鉢形土器 山梨県甲州市 殿林遺跡 1個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 山梨県立考古博物館」、その堂々たる大きさと、量感のある側面に張りのある曲線が規則正しく並ぶパワーにいきなり圧倒された。

というわけでまずは 土器から見て行くと、もちろん 土偶と同様に1万年にわたり日本各地で作られた土器に共通理念や影響関係があるとは思わない方がいいと思うが、その中でもかなりの広がりを見せている ”縄文” と ”火焔” が何故あるのかが気になってきた。
”第3章 美の競演” には同時期の 中国、インダス、メソポタミア、エジプトなどの土器が並んでおり、器の必要性は人類共通のものだったとあらためて知らされるが、それらの比較的すっきりとした形と比べて縄文土器はまるで異質の世界であって、それを特徴づけているものは ”縄文” に代表される表面の紋様と、”火焔” に代表される縁部分の造作だ。

”第2章 美のうねり” の中で ”埋めつくす美” と紹介されていた「26 重文 関山式土器 千葉県松戸市 幸田貝塚 一括 縄文時代(前期)・前4000〜前3000年 千葉・松戸市立博物館」の12個は、控えめな凹凸ながら繊細な紋様が緻密に繰り返されている。
こうした上質のデザインを見ると、人間には幾何学模様や規則的なパターンの繰り返しに対して本能的な欲求や快感があるに違いなく、その一方で、何の装飾もない素の表面はできれば避けたいという意識もまた強かったようにも思われる。

加えて、自分の土器に分かりやすい目印をつけたいということもあったかもしれないのだが、紋様以外の方法で表面を装飾するのは簡単なことではなさそうで、他の文明のような彩色の技術がなく、直線や具象画を描いたり彫ったりということも難しいとなれば、曲線主体の紋様に行き着くのはむしろ自然な流れだっただろう。
縄文” と言っても大きく分ければ縄を押し当てて跡をつけていく方法(凹型)と、糸状にした細い部材を付着させていく方法(凸型)があるが、いずれにしても比較的簡単な作業で効果が出せることが分かり定着・普及していったのであろう。

次に ”火焔”、これも目印としての意味合いがあったであろうが、実用面では器の本体部分が火で熱くなっても突出した縁部分は比較的低温が保たれることから、持ち手として機能したのではないかと思っていた。
しかし、”貼りつける美” という 「28 火焰型土器・王冠型土器 新潟県十日町市 野首遺跡 12個 縄文時代(中期)・前3000〜前2000年 新潟・十日町市博物館」の12個を見ていたら、火焔部分が等間隔で4か所作られ、そこには一律に丸い穴が空いていたので、これは縄か棒を通して動かすためのものだと確信した。
つかみどころのない壺であっても、4か所に規則正しく開けられた穴に縄を通していく、または向かい合う穴に直に棒を通す、あるいは鍵手のようなもので穴の部分をひっかけるなどにより、大きく重い土器も比較的容易に持ち上げたり倒したりすることもできたはずだ。

こうした土器が使用されている場面を思い浮かべてみると、特に大型化した土器は容易に移動できないので、基本的には火床の中心に固定されていたと思われる。
縄文土器は底が平らではないので置くのに困ったのではないかといったような議論があったと思うが、それは鍋類を浮かした状態で固定できる器具があり真下から強い火力を直に当てられる現代のようなキッチンからの発想であり、それ以前は火床の中央に先端を少し埋める形で固定し、その周囲に薪を並べて火をつけ側面から熱を与えられるような形態をとることはむしろ当然のことであろう。

それでも、煮炊きに使えば毎回ではないかもしれないが時々は中をきれいに洗う必要がある。
そこで、例えば近くの川まで運んで水洗いをしようとする場合、何らかの工夫がなければ本体部分を胸の前に抱きかかえるしかないが、一人では重いし火が直接当たる部分なので不都合もあろう。
しかし、火焔型の縁があり穴が空いていれば、そこに太い縄を通すことで容易に持ち上げられるようになるし、棒を通して2人で駕籠のように担げば移動させるのも簡単だ。
と、すっかり問題解決したつもりになっていたら、その先に悩ましい名品が待っていた・・・
(TBC)


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2018年08月09日

巨匠たちのクレパス画展〜新商品が拡げた世界

(損保ジャパン 〜9/9)
岡本太郎、梅原龍三郎、小磯良平、熊谷守一、猪熊弦一郎・・・ 計100余名のクレパスによる作品を集めた ”巨匠たちのクレパス画展 日本近代から現代まで” を見た。
まずは当たり前のことではあるけれど、クレパスでも個性は自ずと出るもので、熊谷守一の 「裸婦」は赤い輪郭線がはっきりしており、実はこちらの方にルーツがあったのかと思うようだった。
猪熊弦一郎の 「顔」は明快でくっきりした顔立ち、そして 岡本太郎の 「鳥と太陽」にはこの稀有のアーティストのエネルギーが漲っていた。

それはいいのだが、こうした ”巨匠” たちはどのような経緯でクレパス画を描いて残すことになったのか、それは自発的な表現としてのものだったのだろうか。
今回の作品が サクラアートミュージアムの所蔵品であり、それは サクラクレパスを製造販売している会社の施設だと聞くと、むしろこの会社が画家たちのもとに商品を持ち込んで依頼したことによる作品も多いのではないかという気がしてきた。
批判しているわけではない、そもそも クレパスは子供たちに自由に絵を描かせたいという目的のもと、クレヨンパステルの良いところを取り入れて出来たということなので、その利点が教育現場でもよく理解されて積極的に採用され、手軽に絵を描きたいと思う人たちにも普及していくために手を尽すのは当然のことであり、その結果としてこれだけ多くのアーティストのクレパス画が生み出され散逸せずに残されているのだとしたら、企業の文化的事業として評価されていいだろう。

だからというわけでもないが、本展では ”巨匠たちの” というタイトルにも拘わらず、むしろ今まで知らなかった画家たちの作品に、クレパスという画材の可能性を感じさせられることも多かった。
例えば、寺内萬治郎 「緑衣の婦人像」にはクレパスとは思えない人物の量感があったし、奥西賀男 「ヴェニス朝」は海と空や時間の境界線が曖昧な風景に詩情が漂い、田伏勉 「イギリスの庭園」にはしっとりとした風景の空気感があった。
一方、吉原治良 「作品機廚老擇笋な抽象、久野和洋 「林檎と南天」には幻想的な世界が緻密に描かれ、福井江太郎 「寧」(ねい)のダチョウはシュールな姿で観る者に挑みかかる・・・

こうして見てくると、アーティストの裾野の広さというのがクレパスのもうひとつのメリットというべきか、紹介文によれば画家を目指しつつも事情により他の仕事もしていた兼業画家とか、家族の反対などで画業に専念できなかった女性などの作品も多い。
確かに、油彩の画材を揃えてアトリエで制作に没頭しようと思っても、才能のほかにそれを可能にする経済力や周囲の理解などにも恵まれなければなかなか難しいという現実もある。
だから専業画家の道は諦めた人であっても、空いた時間に居間やキッチンのテーブルでも手軽に描くことができるクレパスは、絵の大衆化に貢献してきたと言っていいのだろう。


会場では、喜多條忠が作詞し かぐや姫が歌った 「神田川」の2番の歌詞に 「二十四色のクレパス買って、貴方が描いた私の似顔絵・・・」というくだりがあることが紹介されていた。
ここは1番の 「赤い手ぬぐい」とともに、質素なモノクロームの暮らしの中に微かな華やぎが感じられるところなのだが、NHKはこの 「クレパス」が商品名だからが歌ってはならない、この部分を 「クレヨン」に替えるなら紅白に、と言ってきたところを断ったということがあったのだそうだ。
「クレヨン」では微妙に世界観が変わってしまうというのは分かる、それでも原曲通りには歌わせないと頑張る方も、断固として応じずに断る方も、断った理由は本当にそれだけなのかということも含めて、この時代らしいエピソードだ。

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hokuto77 at 19:37|PermalinkComments(0)│ │日本絵画(近現代) 

2018年08月08日

鈴木雅明&BCJ、バッハのドイツ・オルガン ミサ-2

鈴木雅明氏ほかによる J・S・バッハ生誕333周年記念特別演奏会 ≪クラフィーア練習曲集 第3巻≫ (8月2日(木)19:00〜 東京オペラシティコンサートホール)について、もう少し細かく振り返っておきたい。

冒頭の 「プレリュード 変ホ長調 BWV 552/1」の重厚長大な響きは本曲集の中では数少ない聴き慣れたものだが、この日は気のせいか、巨大な扉を開けて奥深い未知の領域へ入っていく音楽という感じが強かった。

次のグループは 「ドイツ・ミサ曲」(BWV 669-677)、まず 父・子・聖霊を象徴する 「キリエ、キリストよ、キリエ」の3つのテーマに対し、pedaliter (ペダルを使う比較的大規模な曲、大コラール)と manualiter (手鍵盤のみによる比較的小規模な曲、小コラール)がそれぞれ作曲されている。
演奏ではまず バッハ・コレギウム・ジャパン(指揮 鈴木優人)によるアカペラ合唱があり、pedaliter がそれに続くというパターンが3回(669-671)繰り返され、その後に manualiter 3曲(672-674)、そして 「栄光あれ」のコラールに続きこのテーマによる manualiter、pedaliter、manualiter 3曲(675-677)が続いた。
この中では3曲目 「キリエ」の pedaliter (BWV 671)が一段と充実しており、特に終盤に向けては和音が変わるたびに新たな世界が次々に眼前に現れてくるようだった。

教理問答コラール」(BWV 678-689)は本作品集の核心となる部分、ルターによる6組の教理問答(カテキズム)である 「十戒、信経、主の祈り、洗礼、悔悛、聖餐」のコラールに対し、pedaliter、manualiter が各1曲ずつあるので、BCJによるコラール合唱、pedaliter、manualiter、という3曲1セットが6回繰り返されることになる。
コラールが先導することでテーマがわかりやすく、宗教的世界に誘われているという気分が高まるし、pedaliter と manualiter が同じ楽器で続けて弾かれることで、両者の違いもかなり鮮明に聞こえてきた。
もちろん規模や音量の大小は表と裏といった感じにもつながり、東洋的な発想としては 乾坤、陽と陰、雄と雌、といった二元的というか二項対立的な世界観として理解できるような気もするのだが、西洋音楽の分野でこんな構造の曲が他にあっただろうか。
pedaliter の直後に弾かれる manualiter では、ペダルが抜けるわけだから当然音量は落ちるし、低音を欠き声部が減るので、響きとしては薄く淡泊なものにならざるを得ない。
しかし両手の音の動きはより細かく繊細になり、そこから霊妙な味わいも出てくるようで、太陽に対する月の光をイメージしているようにも思われた。

コンサートとしては、2つ目の教理問答歌 「われらみな一なる神を信ず」の pedaliter (BWV 680)で前半が終わり、manualiter (681)のフゲッタから後半が始まるという構成になっていた。
合唱、pedaliter、manualiterという3点セットで進むかに見えた途中で休憩に入るというのは意外だったが、これは BWV 681 が付点リズムの連続するフランス風序曲であるために、”当然ここからが後半” ということなのだそうだ。
むしろ BWV 680 は、跳躍の大きなテーマが次々に畳み掛けるように重なり合いドラマティックに展開する迫力の演奏だったので、万一都合により前半で帰らなければならない人もこれで満足かと思えた一方で、後半オープニングの BWV 681 は何とも軽やかで儚さを感じさせる音楽だった。

教理問答コラール中の白眉は5つ目の 「深き淵より われ汝に呼ばわる」、このコラール旋律は初めて聞いた時から耳に馴染んでいたもので、pedaliter の BWV 686 はその格調高いテーマが6声で絡み合い圧倒的な音の大伽藍が立ち上る。
一方 manualiter の BWV 687 は一転して静寂さが支配する幻想的な音楽で、エコーのように模倣しながらも全く対照的な薄明の世界に誘われ、思わず息を止めて聞き入った。


===クラフィーア練習曲集 第3巻===
プレリュード 変ホ長調 BWV 552-1
ドイツ・ミサ
キリエ 永遠の父なる神よ BWV 669
キリストよ 世の人すべての慰め BWV 670
キリエ 聖霊なる神よ BWV 671
キリエ 永遠の父なる神よ bwv 672
キリストよ 世の人すべての慰め bwv 673
キリエ 聖霊なる神よ bwv 674
いと高きには神にのみ栄光あれ bwv 675、BWV 676、bwv 677
教理問答コラール
これぞ聖なる十戒 BWV 678、bwv 679
われらみな一なる神を信ず BWV 680、bwv 681
天にましますわれらの父よ BWV 682、bwv 683
われらの主キリスト ヨルダンの川に来たり BWV 684、bwv 685
深き淵より われ汝に呼ばわる BWV 686、bwv 687
われらの救い主なるイエス・キリストよ BWV 688、bwv 689
4つのデュエット
ホ短調 bwv 802、ヘ長調 bwv 803、ト長調 bwv 804、イ短調 bwv 805
フーガ 変ホ長調 BWV 552-2
(BWV=pedaliter、bwv=manualiter)

hokuto77 at 19:15|PermalinkComments(0)│ │音楽の部屋 

2018年08月06日

ルーヴル美術館展-3 パンジーの婦人

(国立新美術館 〜9/3)
”第3章 コードとモード”の ”3b 女性の肖像―伝統と刷新” に、「パンジーの婦人」という思いがけない佳品があった。
キャプション上の制作者は ”フランスの画家(?)”、その他には ”15世紀、テンペラ/板(ナラ)” としか記されない、まことに情報量の少ない小品ではあるが、おそらくは亡き妻を聖女に見立てて、祈念図のように手元に置けるようにしたものなのであろう。

彼女の服装は質素だが身分の高そうな飾りを頭と胸元につけており、左手の指先で持つリボン状の上にはスペイン語で ”見えなくとも 私は憶えている” と書いてあるとのことだ。
それは、彼女が既に死んで向こう側に行ってしまったという事実を踏まえながら、しかし気持ちは今も強く繋がっているという作る側の思いを示している。

金地の背景にはパンジーの花が規則正しく並んでいてタペストリー(綴織、つづれおり) のような雅びさがあり、クリュニーの連作タペストリー 「貴婦人と一角獣」の記憶が不意に甦ってきた。
そう思ってみると、ここに描かれている女性も一角獣を連れた貴婦人、とりわけ 「聴覚」の図とされる オルガンを弾く女性の雰囲気に近い。

本作の作者 ”フランスの画家” に 「?」マークが付いているのは、肖像にスペイン語の文が添えられていることによるものと思われるが、女性の慎ましやかな表情、装飾品の細密描写、そして上述した祈念像的な佇まいからは、むしろフランドル絵画の流れの方が強く感じられる。
フランドルがブルゴーニュ家のもとで繁栄しスペイン・ハプスブルク家の支配を受けたことを考えれば、スペイン語を含むこの作品がフランス(おそらく北東部)に伝わったとしても不思議はないし、この女性および彼女を慕う人物に思いをはせる上でも、イメージの像を結びやすいように思われる。
ともかくも、女性への変わらぬ愛と思慕の念が静かに凝縮したような、真摯で切実な思いの伝わってくる絵だった。


本作品の横にあった ヴェロネーゼの 「女性の肖像、通称 《美しきナーニ》」(1560年頃)は、一転して生きている女性の肉感的な姿で、本展の目玉作品らしいオーラを放っていた。
その制作目的は、モデルになった女性とその周辺の男(たち)を喜ばせること以外には考えられないのだが、豪華な衣装に包まれながらも何やら物憂げな表情は、そうした期待に十分応え得たのかどうか・・・


>貴婦人と一角獣 (2013、国立新美術館) 10

hokuto77 at 20:00|PermalinkComments(0)│ │西洋絵画(古典) 

2018年08月05日

能 「柏崎」-2 善光寺阿弥陀如来の前で

信州 善光寺の内陣で、「極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽」といきなり難解な言葉を発したシテは、「これは不思議の物狂ひかな、そもさやうの事をば誰が教へけるぞ」と問い質されたのに対し、「女人の参るまじきとのご制戒はそもされば、如来の仰せありけるか、よし人々は何ともいへ、声こそしるべ南無阿弥陀仏」と反撃する。
女人禁制の差別は阿弥陀如来の意図するところなのか、と古くて新しい問題を持ち出したわけだが、もちろんこれは高野山などが女人禁制としていた間も善光寺は万人に開かれた寺だったことを踏まえているのであろう、シテの女は僧たちの制止に怯むことなく阿弥陀如来に向かい合い、「釈迦はやり、弥陀は導く一条に」と西方極楽で阿弥陀仏が待つという浄土思想を語る。

そして、亡き夫の形見である烏帽子直垂を取り出して後生善所を祈ろうとするところで、ひとつ意外なことがあった。
それはシテがその場で形見の烏帽子と直垂を身に着けるというもので、舞台上でこうした衣裳直しをすることを ”物着”(ものぎ)というらしい。
坐ったままのシテに直垂を着せ烏帽子を被せる2人の後見も大変だが、その間は囃子が場繋ぎの音楽を奏でていく。
この淡々としたリズムに乗って自由に歌うような澄んだ笛の音は思いがけず心地よく、徒然草の中で童を連れて田の中の細道を行く男が吹く笛の音はこのようなものかと思われた。

この能 「柏崎」は、もともとが摂津の 榎並五郎左衛門の作といわれ観阿弥の時代から存在していたが、世阿弥が後から 〈サシ〉 〈クセ〉 を追加して今の形になったという。
その重厚な詞章に合わせるということなのか、”物着” を済ませて立ち上がったシテの面目は一新、先ほどの狂女から威風堂々の姿となった。
前場を併せると三つ目の衣裳、しかもここでは彼女は既に物狂いではない、一個の人間として善光寺の阿弥陀仏に向き合うという段階に至る。
そして、亡夫を思う気持ちの高ぶりからその霊が乗り移ったような様相となり、「鳴るは瀧の水」で一段とギアを上げて世阿弥が用意した世界へと入っていく。

〈クリ〉では、「それ一念称名の声の中には、摂取の光明を待ち、聖衆来迎の雲の上には、九品蓮台の、花散りて、異香満ち満ちて人に薫じ、白虹地に満ちてつらなれり」と、西方浄土を幻視をしているようなイメージを語り、〈サシ〉では 「つらつら世間の幻相を観ずるに、飛花落葉の風の前には、有為の転変を悟り、電光石火の影の中には、生死の去来を見る・・・」と世の無常を嘆く。
さらに〈クセ〉になると 「三界に流転してなほ人間の妄執の、晴れがたき雲の端の月・・・罪障の山高く、生死の海深し」と絶望的な地点から遥かな高みを仰ぎ見、ついには 「己心の弥陀如来 唯心の浄土」と、全ては心の中にのみ存在するとの確信に至る。

この神憑り的な ”大演説” の間、シテはどれほど乱れ舞っているのかと思えば、ほとんど直立したままの泰然とした舞だったのだが、そこにこそ物狂いではない一人の女が阿弥陀如来に向き合った恍惚の境地があるのであろう。
自分がいま悲しみの底にあるからこそ天上世界が眩しく見える、というのは宗教の大きな効用に違いなく、シテの女も何かに取り憑かれたように言葉を連ねていった先の忘我の状態で、既に唯心の浄土の清澄な光の中に抱かれているようだった。


<善光寺関連記事>
”いのり” のかたち 善光寺信仰展 (2009、長野県信濃美術館) 
善光寺大本願上人展 (2011、日本橋三越)
那智瀧図と善光寺縁起 (2013、根津美術館)
善光寺出開帳 (2013、両国回向院)

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2018年08月03日

鈴木雅明&BCJ、バッハのドイツ・オルガン ミサ-1

J. S. バッハ生誕333周年記念特別演奏会 ≪クラフィーア練習曲集 第3巻≫” を聞いた。
(2018年 8月2日(木)19:00〜 東京オペラシティコンサートホール)
鈴木雅明(オルガン)、バッハ・コレギウム・ジャパン(合唱)、鈴木優人(指揮)

バッハの 「クラフィーア練習曲集 第3巻」は、27曲からなるオルガンのための作品集だが、ドイツ・ミサ部分(計9曲)、ルターの6つの教理問答コラールに基づく部分(計12曲)のウェイトが大きく、全体的に宗教色が濃いこともあって 「ドイツ・オルガン ミサ」と呼ばれている。
しかしひとつのミサを構成しているわけではなく、これだけでも1時間半ほどを要するボリュームなので、全曲を通すコンサートなど見たこともなかったのだが、今回は第一人者である 鈴木雅明氏が、バッハ・コレギウム・ジャパン(指揮 鈴木優人)によるコラール合唱付きで取り組まれるということで、本曲については現時点でこれ以上は考えられないという演奏会になった。
鈴木雅明氏とBCJに関しては、カンタータの全曲演奏&録音などこれまでにも数々の偉業があるけれど、1回のコンサートとしては今回のものも快挙として後々語り継がれることになるのではないか。

この曲集の表紙に書かれているのは、「教理問答歌およびその他の賛美歌に基づくオルガンのための種々の前奏曲集。 愛好家および特にこの種の作品に精通する人たちの心の慰めのために。ポーランド国王兼ザクセン選帝侯宮廷作曲家およびライプツィヒ音楽隊監督、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲。」
これだけでもかなり力の入ったものであるが、「クラフィーア練習曲集」としては、パルティータ全6曲の第1巻、イタリア協奏曲とフランス風序曲の第2巻に続くもので、この2つと比べて楽器も雰囲気も随分と異なっているところに、鍵盤楽器の新たな領域を確立し世に問おうという自負や意気込みが窺える作品と言える。

今回の演奏会を前にしてまず気になっていたのは、この全27曲をどんな楽器を使ってどのような順番で演奏するのかということだった。
本作品集は、ペダルを使った比較的大規模な曲( pedaliter、大コラール)12曲と、手鍵盤のみによる比較的小規模な曲( manualiter、小コラール)15曲から構成されていて、ドイツ・ミサ部分と教理問答歌はひとつのテーマに対して両方のパターンで作曲されていることから、BWV番号順ではほぼ交互に近い形で現れることになる。
そして、手持ちのCDでは pedaliter はもちろんオルガンだが manualiter はチェンバロで演奏しているものがあったり、pedaliter と manualiter がそれぞれまとめて収録されていたりといったパターンがあるので、鈴木雅明氏がどのような楽器と順序で演奏されるのかに関心があったわけだが、結果は実にシンプルで、同じ大オルガンでBWV番号順に進めていくというものだった。

実は、特に教理問答コラールでは ”十戒、信経、主の祈り、洗礼、悔悛、聖餐” という6つのコラールに対して pedaliter と manualiter がそれぞれ1曲ずつあるので、manualiter の方は小型オルガンかチェンバロしか使えない場合を想定したセットというように、両者は演奏場面を異にする別系統の作品と考えられていたのではないかと思ったりもしていたのだが(確か、pedaliter のみ、あるいは manualiter のみをとりあげたコンサートは過去にもあったような気がする)、この日の演奏はそんな疑念を一掃するもので、連続して演奏されることにより pedaliter の厚みのある迫力に対し manualiter の繊細優美さが際立ってくるところが興味深かった。

前・後半の間に20分の休憩を挟んだだけ、あとは拍手も解説のようなインターバルもなしに正味2時間ほどの間、ただひたすら前だけを見て進んでいく中で崇高なものに向かい合うような気持ちが起こり、自ずと バッハや 鈴木雅明氏への尊敬の念が沸いてくるという得難い体験をした一夜だった。


<鈴木雅明&BCJの過去記事>
ルター500プロジェクト (2017) 
J. S. バッハの世俗カンタータ (2017)  
J. S. バッハの教会カンタータ (2013)  
青山学院レクチャーコンサート 201120162017
鈴木雅明 & 若松夏美 in 深大寺本堂 2016
17世紀初期イタリアのオルガンとアンサンブル 2008
ジュネーブ詩篇歌を巡って 2006
支倉常長と音楽の旅 (2007) 
天正少年使節と音楽の旅 (2006) 

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2018年08月01日

旧岩崎邸、”建築からまちへ 1945-1970” と 渋谷計画

(国立近現代建築資料館 〜9/9)
三菱一号館などととも ジョサイア・コンドルの代表作と言われる 旧岩崎邸を訪れた。
贅を尽した重厚な構えの空間は確かに見応えのあるものだったが、率直なところは美しさや快適さよりも、公私の訪問客を圧倒しようという狙いが優先されているように見えなくもない。
それが設計者 コンドルの持ち味なのか、発注者である第三代社長 岩崎久弥の意向が強く出たということなのかはわからないが、いずれにしてもこの邸宅に招かれた客人は、必ずしもいい印象ばかりを持ち帰ったわけではなかったように思われた。

その旧岩崎邸の向かって右側には新しい入り口があり、進んで行ってみたら 国立近現代建築資料館という建物だった。
これは、日本の近現代建築に関する資料の劣化・散逸を防ぎながら公開を行うアーカイブ施設(2012年11月設置)とのこと、2階の窓からは旧岩崎邸の洋館と和館の連結部がよく見えるので、両者にはどんな関連があるのかと思ってもみたのだが、かつての岩崎邸の敷地にあるという以外に特段の関係はなく、休日のアクセスルートとして 旧岩崎邸庭園側に入り口を設けたということらしい。

開催されていた、”建築からまちへ 1945−1970 戦後の都市へのまなざし” 展は、坂倉準三、吉阪隆正+U研究室、大眄疑佑覆匹侶築資料群により、”彼らが思い描いた 〈まち アーバニズム〉 や 〈都市 アーバンデザイン〉 の萌芽的な例を紹介する” というものだった。
図面類は素人にとっつきやすいものではなかったが、映像資料として古いパンフレットなどを見ることができるようになっており、坂倉準三の 「渋谷計画」が特に興味深かった。

坂倉準三の業績としては カマキン(神奈川県立近代美術館 鎌倉、1951年)と 新宿西口広場(1961〜1966年)が代表作かと思っていたが、両者の間の1952年に着手された 「渋谷計画」というものがあり、その中核をなしていたのが 「東急会館」だったことを知った。
この 「東急会館」は、その後 「東横デパート」という名称を経て今は 「東急東横店西館」となっている建物だが、1954年の竣工時は日本一の高さを誇り、9〜11階には 「東横ホール」があったり、屋上ではロープウェイ 「ひばり号」に乗れるなど、当時としてはかなり注目を集める画期的な施設だったようだ。

その後、同じ計画の一環としてプラネタリウムのドームを持つ 「東急文化会館」が竣工し、駅を挟んで反対側の 「東急プラザ 渋谷」も加えて ”東急の渋谷” が形作られた。
ここ数年の間に文化会館と プラザは姿を消してしまったけれど、かつて 「東急会館」として建設された 「東急東横店西館」は、スクランブル交差点を駅の方に向かう際に圧倒的な存在感を示している。
しかし、この威容も現在進行中の100年に一度という再開発事業の下では風前の灯なのであろう。

少し先には 池辺陽の 「渋谷区復興計画案」というものも展示されていた。
これは戦後すぐの1946年に作成された渋谷のグランドデザインで、ハチ公前広場やスクランブル交差点の辺りが巨大な円形のロータリーを持つ広場になっていたり、明治神宮方面に向けて高層住宅が建ち並んだりといった、整然とした未来都市的なプランだった。
このあたりは 丹下健三の 「大東亜建設記念営造計画」の影響が大きいように思われ、実現性は元々小さかったのかもしれないが、もしこの計画案に沿っていたら今の渋谷の街とは似ても似つかないものになったはずだ。
その意味では、いま進んでいる再開発にはっきりとしたコンセプトや軸線が見られないところも、逆説的なようではあるが、”シブヤ” らしさを生かすものとして評価すべきなのかどうか・・・


>メタボリズムの未来都市展 (2011、六本木ヒルズ) 
>一丁倫敦と丸の内スタイル (2009、三菱一号館美術館) 

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2018年07月30日

能 「柏崎」-1 越後の国から信州善光寺へ

能 「柏崎」を観た。 (宝生流 佐野由於ほか 2018年7月29日(土)13:00〜 国立能楽堂 )
越後の国(新潟)の 柏崎に始まり 信州 善光寺を主舞台とするこの曲は、女主人公が冒頭でいきなり二つの悲劇に襲われる。
訴訟で鎌倉に行っていた夫の 柏崎殿が病で死に、付き従っていた息子の 花若も遁世・出家してしまったということなのだが、その不幸な知らせを、帰郷した家臣の 小太郎から初めて聞かされるというのが前場の見どころだ。

まだ何も知らずに二人の帰りを待っていたシテの 「あら心許なや、物をば申さでさめざめと泣くは、さて花若が方に何事かある」という問いかけに対し、「花若殿はご遁世にてござ候」と答え、さらに 「さては父のしかりけるか、など追ひ手をばかけざるぞ」と尋ねられても、「様々の御形見を持ちて参りて候」とのみ告げる。
この僅かなやりとりで、シテに 「さては心得たり、花若が父の空しくなりたるよな」と夫の死を悟らせる、このあたりのワキ(工藤和哉)の語りが思いのほか渋いというか重いというか、やや大袈裟に言えば、そこには死神の宣告のような凄味があった。

ただし、舞台芸術の構成としてみれば、普通ならどちらか一つでも一曲になるところを二つ重ねて悲劇性を高めているようではあるが、話は複線となりこの後の処理を難しくしている感は否めない。
ともあれ、この段階では 「なからん父が名残には、子程の形見有るべきか」と子が生きていることに望みをつなぎ、「恨めしの我が子や、うき時は、恨みながらもさりとては、我が子のゆくえ安穏に、守らせ給え神仏と祈る心ぞ哀れなる」と、無断で出家した子を恨みつつも安穏を祈る母の心情を吐露しているところは、母は子に何があってもどこまでも母なのだという無限無償の愛というものを感じさせる。

しかし、気丈に見えたシテの女も後場では ”物狂い” となって信州 善光寺に向かうことになるのだが、その道中では眼に入る光景も普通であるはずがなく、「我にたぐへて哀れなるはこの里」という心情を村々の地名に掛けながら信濃路を辿っていく。
「子故に身をこがししは野辺の 木嶋の里とかや、ふれども積もらぬ淡雪の、浅野と言ふはこれかとよ、桐の花咲く井の上の、山を東に見なして、西に向かへば善光寺・・・」
このあたりは、謡曲ならではのイメージ喚起力が発揮されていて、かつての信越本線で南下していくと見えてくる北信濃の山々の姿までが彷彿としてくるようだった。

ところが 善光寺に着くと、居合わせた住職から 「いかにこれなる狂女、ここは内陣なり、しかも女人の身として叶ふまじ、とうとう出で候へ」と制止されてしまう。
この段階ではワキツレ(大日方寛)の迫力に気圧されていた感じがないでもなかったのだが、シテは 「極重悪人無他方便、唯称弥陀得生極楽とこそ見えたれ」 (極重悪人でなければ女人でも阿弥陀の名号を唱えることによって極楽に生まれ変われるということではないのか) と果敢に切り返し、さらに格調高い言葉を連ねて佳境に入っていった。


<能・狂言の過去記事>
能 「熊野」 金剛流 金剛永謹  
古典芸能鑑賞会 (舞囃子 「融」ほか) 
能 「山姥」 観世流 野村四郎  
能 「善知鳥」 観世流 観世清和  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
狂言 「二人袴」、「咲嘩」、「首引」  
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか) 
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

hokuto77 at 22:00|PermalinkComments(0)│ │邦楽事始 

2018年07月28日

ルーヴル美術館展-2 権力者の肖像と装束

(国立新美術館 〜9/3)
第2章 権力の顔” では死者に代わって権力者が、自らの存在を広く知らしめるために肖像表現の主役として登場する。
それは当人の業績を顕彰し権威を広く長く伝えるものとして機能するので、推進したのが本人か周辺の人物かはさまざまであっても、権力サイドのメディア戦略という性格が強い。

ここでもエジプトとメソポタミアの遺品が隣同士で並び、すぐ近くにはギリシャ・ローマ彫刻があるのでアプローチの違いがよく分かるし、ハンムラビ王やアレクサンドロス大王、代々のローマ皇帝やフランス国王ルイ14世などの見慣れた肖像もあって、一見賑やかな場面が続く。
しかし、前述したようにその多くはコピーなので、もちろんそれは現代ならば印刷物や画像で拡散するところを複製品を量産することで実現しなければならなかったわけではあるが、どうしてもオリジナルに比べて特に肝心の顔が迫力を欠くことになる。

そうなるとむしろ見るべきは職人仕事が生かされる衣紋表現の方で、「トガをまとったティベリウス帝の彫像」(50-60年(身体部分) イタリア、カプリ)は細かな襞が布の薄さやしなやかさをよく再現しているし、「リシュリュー公」(1748年)のいかにもフランス貴族らしいレースやリボンも大理石の限界に挑んでいるようだった。
クロード・ラメの 「戴冠式の正装のナポレオン1世」(1813年)の立つ部屋には、この稀有な英雄の若い頃の姿から絶頂期を経てデスマスクまでが見られたが、作品として目が行ったのは本像のガウンの厚みやふわふわとした房の質感、表面に施された虫の刺繍などだった。

ここまでは男性の権力者、このあと女性(クレオパトラ2世?やマリー・アントワネット)、詩人・哲学者(ホメロスやアリストテレス)などが続き、”第3章 コードとモード” では対象が貴族からもう少し下へと下がっていく。
ボッティチェリと工房の 「赤い縁なし帽をかぶった若い男性の肖像」(1480-1490年頃)は、やや生硬さが気になるものの男性肖像群の中では光っていたが、真に見るべき作品はこの先の ”女性の肖像―伝統と刷新” にあった。

hokuto77 at 19:17|PermalinkComments(0)│ │西洋古代中世美術 

2018年07月26日

氷川丸、日本郵船歴史博物館と戦争の影

少し前に 「帆船日本丸」について書いたので、それ以前からミナト横浜の顔となっていた 「氷川丸」にも敬意を表しておきたい。

1930年(昭和5年)に 日本郵船が竣工させた 「氷川丸」は、主にシアトル航路の貨客船として北太平洋を往復し、日本とアメリカ西海岸さらにはノーザン鉄道を経て東海岸までを繋いだ。
戦時中は徴用されて海軍病院船の任務に当たり、戦後は引揚げ船としても活躍、その後は太平洋航路に復帰して1960年(昭和35年)でま現役を続け、今は重要文化財として公開されている。
みなとみらい地区の再開発や地下鉄開業(に伴う東急の付け替え)によって、横浜の観光ポイントも多様化し人の流れも変わっているが、一昔前は 氷川丸と マリンタワーが港の2枚看板だった。

山下公園から眺める威容は言うに及ばず、あらためて船内を巡ってみれば、戦火にも老朽化にもめげずよくぞ残ってくれたと思う。
特に目を引くのはアールデコ風の内装の見事さ、一等の食堂や社交室のステンドグラスや真鍮などからも、昭和初期の太平洋航路の雰囲気が偲ばれる。
一方、最上部の操舵室とその真下に隣接した船長室、船内最下層の機関室などは荒波を行く船舶の現実の姿を伝えているし、それは客室の丸窓やコップなどの備品が揺れで落ちるのを防ぐ枠などからも感じられる。
三等客室は2段ベッドの相部屋で一等船室との格差はやはり歴然としているが、ここは居住性よりもとにかく安く移動したい人々のニーズに応えたものと理解しよう。


馬車道近くの 「日本郵船歴史博物館は、日本郵船横浜支店だった建物自体がまず見どころだ。
税関のように威圧的なところがないすっきりとした瀟洒な佇まいは、横浜という最前線の営業拠点における会社の顔としての品位が感じられる。
展示からは、日本郵船という会社の歴史がそのまま日本の海運史であるようであり、日露戦争時の 信濃丸の活躍や太平洋戦争時の苦難、そして時代とともに豪華客船やコンテナ船などが登場してくるところなども興味深い。
来訪時の企画展はそのコンテナ船にフォーカスした ”ならべて積んで半世紀〜コンテナ船の歩み〜 ” (7/16終了)、世界共通の規格によるコンテナの導入は確かに合理的なもので、その後の普及状況を見ても効率面では革命的だったと思うけれど、素人目で言えば船にまつわる仕事の面白さが半減したような気がしないでもない・・・

展示室の中央に鎮座していたのは 「殉職戦没社員冥福祈念像」、これは長崎の平和祈念像と同じ 北村西望の作で、顔つきも体つきもよく似ていて同一人物のようだ。
ただし、長崎の巨像が腕を上や横に伸ばしているのに対し、こちらの方は左手は坐禅の時のように腹の前に置き、右手は胸の前で祈る仕草をしており、静かで内省的な印象の像になっている。
太平洋戦争でいかに多くの船が失われたかについてはパネルの地図や写真で詳しく紹介されていたが、その船と運命を共にした多くの人々がいたこと、そうした面でも日本郵船という会社がやや特別な位置にあったことなどを、この像は静かに語っている・・・

hokuto77 at 21:17|PermalinkComments(0)│ │掘り出し物など 

2018年07月24日

金剛宗家の能面と能装束-2 尉、男、鬼神面

(三井記念美術館 〜9/2)
翁面の第2室から第3室に入り、父ノ尉や 黒式尉などを経て 悪尉に向かっていくと、天から地へ、貴から賤へと移ろいながらディオニソス的世界へとイメージが変わっていく。
悪尉(あくじょう)たちの大陸的、シルクロード的な表情を見れば、雅楽面や伎楽面との近さが感じられてくるが、実際の流れはおそらく逆で、まずは鬼神や悪霊を体現する面が生み出され、仏教儀式から大衆芸能へと広がっていったのだろう。
そして猿楽から能楽へと成熟していく中で 翁面尉面が登場、さらに古典文学を取り入れて夢幻能へと洗練されていくに従って、各種の 女面が細やかな心理を表現するようになった・・・

少し先には山の精気が凝り固まったという 『山姥』の専用面や、源氏物語から生まれたものの今は 『鉄輪』にしか使わないという 「橋姫」があった。
確かにこれらの舞台を見た時には通常の面とかなり違うという印象はあったのだが、近くで見られるわけではないのでそれがどのようなものだったのか定かではないし、今展示されている面との異同などの細部までは当然ながら思い出せない。
考えてみればこれはとても残念なことで、上演中の写真撮影ができないのは仕方がないとしても、当日の観客にはその日使用した面と装束の写真くらい配ってもいいのではないかとも思う。
それが無理ならせめて後日ネットで見られるようにしてくれればありがたいし、こうしたサービスがあれば能がより身近に感じられるものになるかもしれない。

「橋姫」が女性の執念が鬼に転じていく過程の姿なのに対し、完全に鬼と化した姿が 「般若」ということになる。
この面の理想形は、顔の下半分に怒りが籠められながらも上半分には嘆きと悲しみが表現されているものだそうで、赤鶴作の面は確かにそのような二面性を持ち哀愁が漂うものだった。
それは演劇としての能のストーリーの深みと呼応するものと思われるが、一方で 龍右衛門作やそれ以前の古式のものには一途な怨念の激しさにたじろぐほどの迫力があり、造形的にはこの直球勝負も面白いと思った。

男面の中では 「中将」=公家趣味の平家と 「赤平太」=関東武士の源氏という対比が興味深く、類型的ではあるが 能という芸能の立ち位置を示しているような気もした。
また 越智作の 「痩男」は本展中で最も生身の人間を感じさせられた面で、そのゆがんだ表情からは 『善知鳥』の猟師の嘆きが聞こえてくるようだった。

第5室に向かっての 鬼神面は個性派オンパレード、汎用性を度外視して注力した一点ものならではの面白さと言っていいのかどうか、天神や動物もどきのヴァリエーションにも驚くが、作品としては 『鵺』に使う 「猿飛出」(さるとびで)、『熊坂』用の 「長霊癋見」(ちょうれいべしみ)の奇怪さが特に印象に残った。


<能・狂言の過去記事>
能 「熊野」 金剛流 金剛永謹 
古典芸能鑑賞会 (舞囃子 「融」ほか) 
能 「山姥」 観世流 野村四郎  
能 「善知鳥」 観世流 観世清和  
能 「半蔀」 金剛流 今井清隆  
狂言 「二人袴」、「咲嘩」、「首引」  
能 「西行桜」 観世流 梅若玄祥  
能 「三井寺」 観世流 観世清和  
能 「葵上」 金剛流 今井清隆  
「三番叟」と 半能 「高砂」 野村萬斎  
能狂言の名人 幽玄の花 (半能 「絵馬」ほか) 
能 「竹生島」 金剛流 種田道一  
能 「鉄輪」 宝生流 宝生和英  
能 「鵺」 宝生流 佐野登  
能 「桜川」 観世流 観世銕之丞  

hokuto77 at 19:45|PermalinkComments(0)│ │日本彫刻 

2018年07月22日

ブラジル先住民の椅子〜野生動物と想像力

(庭園美術館 〜9/17)
庭園美術館を舞台にした ”ブラジル先住民の椅子” 展は、古くから伝わる民俗資料的なものが並んでいるのかと思っていたら、”いま生まれつつあるもの” というように現代の作品による展覧会だった。
動物の形をした椅子というのは、もともとは宗教的な儀式に由来するものだったと思われるのだが、今の作品は直接的には呪術性を目的にしているようには思われず、一方で強度や高さを考えれば実用的な椅子とも言えそうにない。
それでも、奔放な作風に宿る生命力には意外な強さと面白さがあり、新・旧の空間を上手く使い分けた展示もあって楽しめる企画だった。

椅子とは、単に腰掛けるだけの用具ではなく、特定の人物に権威を与えたり関係性を規定したりすることがある。
その淵源は宗教的儀式や権力者の謁見場面などにありそうだが、今でも社長の椅子とか大臣の椅子という表現があるように、もちろん象徴的な意味合いが強いものの、現実の椅子の形態が権威づけをしている面も無視できない。
診察室における医師の肘掛椅子と患者の丸い回転椅子では、両者の関係も瞬時に定まってしまう。

展示に戻ると、先住民の椅子も元来はそのようなものだったとしても、今の作者が表現しようとしているのは、木彫りによる動物の形の面白さであり、そこからは動物への眼差しのあたたかさ、距離の近さというものが感じられる。
題材ごとにあえて傾向をみれば、サルやジャガーなどの獣には強い生命感が漲る一方、大空を往還するコンドルやハチドリといった鳥類には霊性が宿るようだ。
また、アリクイやバクでは流れるような曲線が美しく、カメやカエル、エイは・・・ エイの形の椅子があるとは全く驚きだ。

会場ではこうした椅子を、A.伝統的な椅子 B.動物形態の伝統的な椅子 C.動物彫刻の椅子 という3つのカテゴリーに分けている。
ここでの椅子は ”Bench” なのだが、 はそんな簡素な形態そのものか、あるいは微かに動物の形が窺える程度、 は座面が単純化された動物の姿となっているが、平面的な造形が主流で動物の足と椅子の脚部は別物だ。
旧朝香邸部分には主にこの A、B が室内中央に置かれていたことから、壁面を使う通常の展覧会と異なりアールデコの内装が醸し出す空間美を楽しむという副次的効果はあったものの、作品そのものにはやや物足りなさを感じたのだが、新館展示室に並べられた の群れには圧倒された。
その白くて広い空間は、すでに椅子であることを止めて独自の肉体を持ち、それぞれの自己主張を始めた動物たちの楽園になっていた。

映像展示によるとこれらの作品は、何人かで森に入って大きな木を斧で切り倒し、それを1個分ずつに分けて各自が大まかな椅子の形に削り、持ち運べる重さにして肩に担いで帰り自宅で仕上げる、という工程で制作されているようだ。
それは体力勝負の重労働のようでありながら、取り組む姿はとても生き生きとしていて、彼らにとっての表現にほかならないという感じを受けた。
既に宗教的な意味合いは薄れ実用性も失われたこれらの椅子を、では芸術作品と呼んでいいのかといわれれば率直なところ確信が持てないが、それでも見ていて楽しく空間を変質させる力を持っているので、オブジェやインテリアとして需要は強そうだ。
先住民の技とセンスを生かして独特の商品となっているところは、アイヌの木彫りのクマやニポポ像に近いのかもしれない。
ともあれ、アンデス地域の諸文明と比べ今一つ馴染みのなかったブラジル低地の力強い造形が、対照的な2種類の空間で楽しめた展覧会だった。

hokuto77 at 19:21|PermalinkComments(0)│ │西洋彫刻 

2018年07月20日

中世の聖なる響き〜ヒルデガルドと12世紀の多声音楽

中世の聖なる響き〜ヒルデガルド・フォン・ビンゲンとノートルダム楽派の音楽」 を聞いた。
(7月18‎日‎ 19:30〜 近江楽堂)
ゴシック聖堂を満たす神秘のエクスタシー” を ”中世音楽を専門とするプロのフランス歌手” で堪能しようという当初の期待は、女性声楽家 エロディー・ムロの体調不良でやや外れることになったけれど、精力的な ラファエル・ピカゾス氏の曲目解説と MMCJ合奏・合唱団の演奏のおかげで、思っていた以上に有意義な時間となった。

(演奏曲目メモ)
1. 復活祭の月曜日に歌われるオッフェルトリウム
 まずは ラファエル・ピカゾスのソロ、彼もアンサンブル・オブシディエンヌのメンバーだったとのこと、この後も解説の中で歌ってみせる場面はあったけれど、結果的に彼の歌唱をしっかり聴けたのはここが一番だった。

2. 3声のコンドゥクトゥス
 男性三声の曲、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の曲ということなので カリクスティヌス写本からのものか。

3. ヒルデガルド・フォン・ビンゲン:器楽によるアンティフォナ
 前田りり子さんの横笛がハープに乗って素朴であたたかみのある音を奏でていた。

4. 2声のオルガヌム(作者不詳)
 オルガヌムの解説で示された楽譜を見ると、グレゴリオ聖歌の旋律の上で装飾する音型が異常値の心電図のように激しく波打っている。演奏も ピカゾス氏の掌が翻るたびに和声が変わり新たな局面に入っていくようで、聖堂内で強い陶酔感を呼び起こす音楽だということが実感できた。

5. 2声のトロープ付きキリエ
 これも カリクスティヌス写本の曲か、トロープとはグレゴリオ聖歌の旋律に合わせて細かく歌詞をつけたものとのこと、女声2重唱でかなりの技巧を擁する難曲かと思われたが、終始緊張感が持続する中で 木村和世さんの信じ難いほどの高音が細かく動き回り聞き応えのある演奏だった。

6. ヒルデガルド・フォン・ビンゲン:アンティフォナ
 3.ではフルートソロだった曲が今度は器楽伴奏つきの女声合唱、ヒルデガルド・フォン・ビンゲンといえば修道院で歌われる女声アカペラ作品が主力と思っていたのだが、後の編曲かもしれないながらいろいろな演奏があるようだ。

7. 3つのドゥクチア
 フルート2、リコーダー1、フィドル1、ハープ2が揃った明るい感じの器楽合奏

8. クラウズラと対になるモテット
 器楽で始まり声部が加わって模倣されていくモテット

9. ヒルデガルド・フォン・ビンゲン:アンティフォナ
 女声合唱によるマリア崇拝の曲

10. 2声のコンドゥクトゥス
 2曲目にもあった コンドゥクトゥスとは、ミサの中の曲ではなく教会内を歩いて移動していく時の音楽とのこと、やや気楽な感じが耳に心地よい。9時に近くなってようやく10分の休憩。

11. 器楽によるホケット
 後半は器楽合奏から

12. ヒルデガルド・フォン・ビンゲン:アンティフォナ
 笛に続く女声合唱は込み入った旋律をたたみかけながらエクスタシーを極めていくよう、ソロ出演を回避した エロディー・ムロ女史が指揮で活躍していたが、特にこの曲では右手が激しく動いて合唱に息を吹き込んでいた。

13. ペロタン:1声のコンドゥクトゥス
 フィドルの音に導かれたハミングによる神秘的な持続音が響く中、マリアの処女懐胎を寿ぐという歌が複雑な節回しで女声、男声、女声と歌い継がれていく。 ペロタンと言えば多声オルガヌムのしつこくうるさいイメージが強かったのだが、こんなにも静かで瞑想的な曲があるとは・・・ ハープを弾いていた女性によるソロ歌唱も圧巻だった。

14. 聖母マリアを讃える3声モテット
 さらに聖母マリア讃歌が素朴な女声合唱で

15. 2声のコンドゥクトゥス
 最後も コンドゥクトゥス、緊張が解けて順番に列を作り退場していくというイメージだっただろうか

当初のプログラムとは異なる形になったものの、エースを欠いてもこれだけの演奏会が成立するのは層の厚さの強みでもあるのだろう、前田りり子さん以外にも以前見た記憶のある方が何人かおられた(残念ながらどの機会だったか思い出すことはできないが)。
それと、プログラムに名前は載っていなかったけれど、メディエバル・ミュージック・センター(中世音楽センター)の ルドン絢子さんは5曲目「2声のトロープ付きキリエ」の低音部に突如登場、後半の通訳も流暢に務められていた。

皆川達夫&中世音楽合唱団、つのだたかし (2017)
没後400年、スペインの光の中のビクトリア (2011)
アンサンブル・エクレジアの ”サンティアゴ巡礼の歌” (2009)
ラウダ・スピリチュアーレ、中世イタリアの賛美歌 (2007)

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hokuto77 at 20:15|PermalinkComments(0)│ │音楽の部屋 

2018年07月19日

大正モダーンズ〜大正イマジュリィと東京モダンデザイン

(日比谷図書文化館 〜8/7)
このところ ”大正” に絡む展覧会が続いている中で、本展が 東京ステーションギャラリーの ”夢二繚乱” と特によく似た趣向のように見えたのは、千代田区が仕掛けた連動企画だったからのようだ。
しかしこちらの ”大正モダーンズ 〜大正イマジュリィと東京モダンデザイン〜” は、図書館を舞台にして大衆的な複製印刷物 ”イマジュリィ” を主役にしたものなので、書籍や雑誌、パンフレットや絵はがきばかりが並んでいてもしっくり感があり、こうしたものたちに囲まれた大正への束の間のタイムトリップが楽しめた。

まず注目すべきは 杉浦非水の先駆者としての功績だが、それは 三越をはじめとする百貨店が、今とは比べ物にならないくらいの輝きをもって人々を惹きつけていたことを示すものでもあろう。
作品としてはやはり 竹久夢二のしっとりとした抒情性、小林かいちのシャープな冴えが際立っていたし、古賀春江が手がけた雑誌の表紙のシュールな味わい、キュビズム風の香りが漂う 蕗谷虹児の女性像もよかった。

第1章 大正のデザイン ―杉浦非水と大正の商業図案
第2章 東京大正パブリケーション ―美術家たちの挑戦
第3章 子供ワールドと華と女性 ―カワイイの原点
第4章 新時代のジャポニスム ―小村雪岱と浮世絵イマジュリィの世界
第5章 ポップ・カルチャーの洗練 ―映画、演劇、舞踊、音楽のパンフレットデザイン
第6章 銀座・東京モダニズム ―大正のファッション&ライフスタイル

出版物が中心の前半に対し、第5章以降は キネマ(映画)、演劇、音楽、カフェ、モダンファッションといった大衆文化の紹介に軸足が移っていくが、その中ではさまざまな マッチのデザインが思いのほか懐かしく、この小さな媒体に店や商品の世界観が凝縮されて、タバコとともに粋な小道具となっていた時代のことを思った。
もうひとつよかったのは会場内に流れる音楽、「ホフマンの舟歌」や 「君よ知るや南の国 (ミニョン)」などの曲がなぜ大正ロマンを感じさせるのか考えてみれば不思議なことだが、甘やかな旋律とポルタメントの多い演奏が、SP時代を思わせる揺れやノイズとともに、日本での受容の時期の雰囲気を甦らせるのであろう。


>関連過去記事
大正イマジュリィの世界 (2011、松濤美術館) 
モボ・モガが見たトーキョー (2018、たばこと塩の博物館) 

生誕125年記念 竹久夢二展 (2009、新宿高島屋) 
竹久夢二、欧米への旅 (2010、日本橋三越) 
夢二繚乱 (2018、東京ステーションギャラリー) 

hokuto77 at 20:08|PermalinkComments(0)│ │日本絵画(近現代) 

2018年07月17日

ルーヴル美術館展 肖像芸術-人は人をどう表現してきたか-1

(国立新美術館 〜9/3)
今回の ルーヴル美術館展は ”肖像芸術——人は人をどう表現してきたか” というテーマで、エジプト美術からからゴヤあたりまでの ”顔” を見ていくものだった。
最近のルーヴル美術館展は、2009年と15年が フェルメールの作品 (レースを編む女天文学者)を中心にした名画展だったのに対し、2013年は ”地中海 四千年のものがたり” というテーマ性の高いものだったので、今回はその流れをくむものになろう。

肖像芸術の通史的展示というのは確かにユニークな視点で、西洋史の有名人に次々と出会っていく楽しみもあるし、普段は別々のセクションで展示されている作品同士が並んでいるという新鮮さもある。
その一方で、写真などで見たことがあると思った作品に近づいてみると模刻や工房作というケースも多く、本物の持つ魅力が希薄という印象は否めない。
だから気に入った作品にふれるだけにしようとも思ったが、そもそも肖像表現が死者に始まり、権力の頂点から徐々に下へ降りていくといった構成も面白かったので、以下の章に従って振り返っておく。

・プロローグ: マスク―肖像の起源
・第1章 記憶のための肖像
・第2章 権力の顔
・第3章 コードとモード
・エピローグ: アルチンボルド―肖像の遊びと変容

まず ”プロローグ: マスク―肖像の起源” では、エジプト、テーベ(?)出土という 「女性の肖像」(2世紀後半)の眼差しの強さに思わず足が止まった。
前述したようなコピー作品はどうしても表情や目力がボケてしまうことが多い中で、結局のところはこの女性が本展で最も生気ある視線を放っていたように思う。

第1章 記憶のための肖像” の主役は死者、肖像表現は亡き人を記憶に留めるためのものとして広く受け入れられていく。
アッティカの墓碑:母と娘」(前400年頃 ギリシャ、クレタ島)は、若い母親とまだ幼い娘の悲しみの姿が、薄い浮彫により雄弁に表現されている。
これはいったいどのように生きどのように死んでいった母と娘なのか、彼女たちの夫=父はどれほどの悲嘆の思いを抱えてこの墓碑を作らせ見詰めたことだろうか・・・

ギリシャの墓碑は深い悲しみをたたえながらも美しい、しかし 「ブルボン公爵夫人、次いでブーローニュおよびオーヴェルニュ伯爵夫人ジャンヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム(1465-1511)」(1510-1530年頃 オーヴェルニュ)は、女性の頬はこけ落ちて髑髏のように目も窪み、腹にはウジ虫がわく壮絶な立ち姿となっていた。
それは既に死体あるいは死神と化していて、壁龕の中に立つ貴婦人ではあってもこうした運命から逃れられないことを思い知らされる。
本来はこの横に正装した横臥像もあるらしいのだが、死の恐ろしさや残酷さを見せつける凄惨な姿の方が、”メメント・モリ” の警句やペスト禍に怯える中世のほの暗さを今もリアルに伝えている・・・


>ルーヴル美術館展
日常を描く―風俗画にみるヨーロッパ絵画の真髄 (2015、国立新美術館) 
地中海 四千年のものがたり (2013、東京都美術館) 
17世紀ヨーロッパ絵画 (2009、西洋美術館) 

hokuto77 at 20:00|PermalinkComments(0)│ │西洋古代中世美術 

2018年07月16日

Index Apr.-Jun., 2018

夢二繚乱 (東京ステーションギャラリー) 
モボ・モガが見たトーキョー (たばこと塩の博物館) 
ターナー (損保ジャパン) 
渡邊省亭 花鳥礼讃 (齋田記念館) 
誰でも画はかける (武者小路実篤記念館) 
チャペック兄弟と子どもの世界 (松濤美術館) 
プーシキン美術館展 (東京都美術館) 
名作誕生-つながる日本美術 (東京国立博物館) 
新指定 国宝・重要文化財 (東京国立博物館) 
ヌード NUDE (横浜美術館) 
猪熊弦一郎 (ザ・ミュージアム) 
与勇輝 (松屋銀座) 
ヒエロニムス・ボス、絵の中の音楽 

新内流し〜酔月情話 
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(熱狂の日) 
ケフェレックのモーツァルト第24番 
ピレシュ(ピリス)のベートーヴェン第4番 
ブロムシュテットのベートーヴェン第4番 
アンヌ・ケフェレック 
エリーザベト・レオンスカヤ 

2018年07月13日

ミケランジェロと理想の身体-2 若き洗礼者ヨハネ

(国立西洋美術館 〜9/24)
「ダヴィデ=アポロ」と呼ばれている像とともに本展で初来日してくれたもう一体の ミケランジェロ作品 「若き洗礼者ヨハネ」(1495-96年 ウベダ、エル・サルバドル聖堂財団法人蔵 高さ130cm、大理石)は、まだ幼さが残る表情に聡明さと知的な雰囲気をのぞかせた、可愛らしい少年の像だった。
本作はスペイン内戦で大破した後に残された断片を丹念に集め、写真などをもとに6割ほどを別材で補って2013年に復元されたとのことだが、目を含む頭部が残っていたのが幸運であったし、全体としても破綻なくまとまっていて、ミケランジェロらしさを感じさせる ”作品” になっていた。

だから賢い少年像として感心して見ていればいいのだろうが、これが ”洗礼者ヨハネ” だといわれると戸惑いを禁じ得ない。
イエスの先駆者としてヨルダン川で洗礼を施したという ヨハネは、荒野の修行者として髪や髭の延びた一匹狼的な若者の姿で表されるのが普通であり、それ以外では幼児時代のイエスと一緒に遊んでいるあどけない姿で聖母子像に登場するか、サロメとの絡みで斬られた首が描かれるというのが一般的なところであろう。
それに対し本作の少年は8歳くらいだろうか、こんな年齢の単体像は見たことがないし、美術史を通じても他に例がないのではないか。

もちろん ”神のごとき” ミケランジェロは何だって作ることはできるだろう、その気になれば少年時代の 父ヨセフだって、年老いた マグダラのマリアだって・・・
それでも彼は概ね妥当というか模範的な姿で作ってきたはずで、ヴァチカンのマリアはやや若過ぎるかもしれないが、それも多くの人々の心の中にある聖母マリアのイメージから外れるものではない。
しかし小学生のような ヨハネは誰も想像したことがないばかりか、そんな ”問題作” を20歳の若さで、つまりはまだ名声も確立していない段階で世に問おうとしたとは到底考えられない。

本作を 洗礼者ヨハネだとする根拠はラクダの毛皮を着ているということくらい、であればむしろ旧約の預言者の誰かということでいいのかもしれないのだが、もしこれが ヨハネだとしたらおそらくは順序が逆なのではないか。
つまり ミケランジェロは、”少年時代のヨハネの像を作ってみよう” という意気込みで取り組んだのではなく、注文主に自分の子か孫の像が欲しいと頼まれて作り始め、たまたまその子どもが夏至の頃の生まれか何かの縁があって、”じゃあヨハネということにしよう” ということになった・・・

hokuto77 at 23:05|PermalinkComments(0)│ │西洋彫刻 

2018年07月12日

金剛宗家の能面と能装束-1 女面と翁

(三井記念美術館 〜9/2)
重厚な洋風建築のほの暗い空間に浮かび上がる 女面、貴婦人のようにも亡霊のようにも見えるその群れは、こちらが近付いていくのを無言のままじっと待っている・・・
三井記念美術館の第1室は往時の建物の特徴を生かした歴史的空間となっており、そこに奥行きを持って並んでいる能面たちに次々と出会っていくというのは、なかなか得難い体験だった。

能面のような、という言葉があるけれど、こうして見て行くと当然ながらそれらは決して同じではないし、のっぺりしているだけではなくそれぞれに表情も動きもある。
細部の起伏も精妙に作られていて、こちらで見る角度を変えればテラス、クモラスといった表情の変化も感じられてくる。

今回は、豊臣秀吉が愛蔵し晩年になって3人に分けて下賜したことからその後の運命が変わったという 小面三面 「雪・月・花」のうちの 「雪の小面」(室町時代、金剛家蔵)と 「花の小面」(同、三井記念美術館蔵)の、”時空を超えた久方ぶりの再会” が目玉の一つということだった。(「月の小面」は江戸城内の火災で焼失)
いずれも 龍右衛門作の同形式のものながら、「花」には若干の動きがあって華やかな感じを与えるのに対し、「雪」の方は内省的で落ち着いた女性のように見えた。

少し先の 「孫次郎 (ヲモカゲ)」(三井記念美術館蔵)は特に目の線がやや傾き、口元にも歪みが見える非対称の顔となっているのだが、だからこそそこに独特の生気が宿っているようだ。
こうした造形上の差は本当に僅かであるにもかかわらず、「十寸神」(金剛家蔵、以下同じ)には悲哀が滲み、「深曲」には若さと老い、そして憂愁と微かな狂気が混在してように思われた。

第2室に進むと 日光作 「」が満面の笑みで待ち構えており、一転しての御目出度い雰囲気に思わずこちらの頬も緩んでしまう。
それでも単なる好々爺といった笑いではなく、親しみやすい姿ながらも神としての超然とした品格を備え、人知を超えた力と包容力を感じさせている。
それにしても、神がこれほど楽天的で好意的な笑みを浮かべている例は他にあるのかどうか、一神教の怒れる絶対神ではまず考えられない、農耕民族的多神教世界ならではの姿なのであろう。

hokuto77 at 21:55|PermalinkComments(0)│ │日本彫刻 

2018年07月10日

帆船日本丸、柳原良平のアンクルトリス

”太平洋の白鳥” や ”海の貴婦人” などと呼ばれ、航海練習船として約半世紀にわたり活躍した重要文化財の 「帆船 日本丸」を、横浜・みなとみらい21地区で見た。
同じ横浜の 「氷川丸」のほか、南極観測船 「宗谷」(お台場)、軍艦 「三笠」(横須賀)なども内部見学が可能な状態で展示されているが、”帆船” には独特のロマンが感じられる。
それは、マストの直線とロープ類の曲線が作り出す美しさだけでなく、帆で風を受けて大海原を行くという仕組みそのものが、大航海時代の冒険心を思い起こさせるからであろう。

内部を巡ってみると、帆船とはいえ主に港内での航行のための機関もあったり、船医室や調理室には備品も残っていて、狭い空間が機能的に使われていたことが分かる。
こうした船の内部構造でいつも気になるのは居室部分に歴然とした格差が見られること、もっとも本船の場合は練習船なので実習生の居室が2段ベッドで8人と狭く質素なのはまあ当然としても、船長用の公室と私室は思っていた以上に立派なものだった。
それは来客の接待や打ち合わせに使われるためであり、責任の重大さとも見合っているとのことであるようだが、士官サロンなどを見ると合理性を犠牲にした ”階級意識” を感じないでもない・・・

隣接する 「横浜みなと博物館」は、神奈川宿の時代に始まり黒船来航から開港に至る開発の歩みと、震災や戦争を挟んでの発展ぶりを紹介する、横浜らしい港湾・海運史の博物館だった。

その中に 「柳原良平アートミュージアム」というものが併設されており、はじめは船や海の絵が得意な画家なのかと思いながら今ひとつピンとこなかったのだが、昔懐かしい トリスのキャラクターを見て古い記憶がよみがえってきた。
アンクルトリス」という名前もついていたらしい ”おじさん” の大きく尖った鼻と、2・5等身ほどのずんぐりした体型、グラスのウヰスキーを飲むと顔が下から上へと赤くなっていく様子などは、子供の眼から見ても ”酒呑みオヤジ” の典型であり、”トリスを飲んでハワイへ行こう” というコピーとともに一時代を象徴する力を確かに持っている。
柳原良平氏によるこの秀逸なキャラクターやCMが、寿屋以来の 開高健や 山口瞳とのコラボや、2色の切り絵という手法によって生み出されたことなどが、丁寧に解説されていた。

hokuto77 at 19:10|PermalinkComments(0)│ │掘り出し物など 

2018年07月08日

渡邊省亭、写実と俳句による花鳥礼讃

(齋田記念館 〜7/28)
齋田記念館 開館20周年記念特別展 渡邊省亭没後100年 花鳥礼讃 ―渡邊省亭・水巴 父と子、絵画と俳句の共演―” という特別展を見た。

渡邊省亭(1851〜1918)のことは 齋田記念館に行くまで全く知らなかったが、1878年パリ万博の際に日本画家として初めて西欧に渡りドガらと交流、日本画に西洋の写実表現を取り入れたという花鳥画には独特の味わいがあった。
作品には 省亭の息子で 高濱虚子らに学んだという 渡邊水巴(1882〜1946)の俳句が添えられて、相乗効果のようにそれぞれの世界を広げあっていた。

橿鳥にからすうり」 〜 風の枝に 鳥の眼光る 落葉かな
カケスの羽毛の色や質感がリアルに描き出され、そこだけを見れば鳥類図鑑かと思うほど、しかし鳥が止まる枝は対照的に大胆な筆使いとなっており、奥行きのある空間には緊張感が漲っていた。

渡し舟」 〜 女一人僧一人雪の渡しかな
これは水巴の師 内藤鳴雪の句が霊感源なのか、静謐な雪景色がほとんど水墨画かと思う淡色で描かれている。右側の木々に積もる雪は白抜きで紙の地を生かしたもので、柔らかく穢れのない新雪の感じがよく出ていた。
その陰から広々とした水面に向けて漕ぎ出そうとする舟には、よく見れば僧や何人かの女たちが乗っているのだが、冷気の中で物音はまったく聞こえず、遠くの空を三羽の鳥が飛び去って行くばかりの静寂の世界が広がっていた。

秋の夕ぐれ」 〜 一筋の 秋風なりし 蚊遣香
蚊遣の香が画面下の方で焚かれ、その煙がゆっくりと立ち昇っている少し先に、二匹の蚊が揺らめくように飛んでいる。
彼らはやがて力尽きて落ちてくるのか、忌まわしい蚊を描いた絵も珍しいが、そこに ”もののあわれ” を感じさせる手腕は見事、夕顔の花の香りも漂ってくるようだ。

月の秋草」 〜 うしろから 秋風来たり 草の中
大きく弧を描く月を背景に、交錯する秋草の線が幾何学模様を創り出し、その中程で繊細に描かれたキリギリスがそっと息を潜めている。
早い筆に勢いがあり、ガラスなしの露出展示だったこともあってのことか、そこには確かに秋風の気配が漂っているようで、今回の展示の中で最も手元において毎日眺めたいと思った作品だった。

hokuto77 at 22:18|PermalinkComments(4)│ │日本絵画(近現代) 

2018年07月05日

ミケランジェロと理想の身体-1 ダヴィデ=アポロ

(国立西洋美術館 〜9/24)
ミケランジェロの 「ダヴィデ=アポロ」(1530 年頃 フィレンツェ、バルジェッロ国立美術館蔵 高さ147cm、大理石)は、思っていた以上に複雑な姿勢をとった身体の彫刻だった。
左手を前から右の肩と耳の間あたりまで大きく回し、体をひねりながら後ろに反らしているのに不自然さを全く感じさせないところは、やはり天才の腕というべきなのだろう。

残念ながら本作が未完成のままとなっているのは、フィレンツェ包囲軍の司令官の注文に応じて着手したものの、その後にローマ教皇からシスティーナ礼拝堂の正面壁画(最後の審判)の制作を命じられ、フィレンツェに残したままローマに向かい二度と戻ることがなかったからということだ。
果たしてそれだけなのか、顔の表情はやや曖昧さを残しているし、正面から向かって左は間違いなく若い男性なのに、右側から背後にかけては女性像のような艶めかしさが感じられるところも、あれこれと想像を掻き立てる。

そして気になるのは 「ダヴィデ=アポロ」という奇妙なタイトルだ。
これは、本像が ダヴィデか アポロのどちらかだが決め手がないというところからの、いわば暫定的な呼び名のようであるが、まず ダヴィデということは有り得ないように思われる。
巨人ゴリアテを倒した勇士らしさは感じられないし、戦う姿勢もイスラエル王の風格も伝わってこない。
本作は ミケランジェロが50代半ばという円熟期に手掛けられたものだということも考慮すれば、20代で制作してフィレンツェ市に捧げられ代表作のひとつとなっている 「ダヴィデ像」のイメージに逆行する同主題の像を残そうとしたとも考えにくい。

では アポロ(アポローン)なのか、その場合は得意の竪琴を弾く姿ということではなく、弓で射るための矢を背中の矢筒から取り出すところということになる。
確かに背中にはそれらしき痕跡もあることから、彼が左利きならばそのように見えなくもないが、それでも重心はかなり後ろにあるので、戦いに臨む姿勢のようには思われない。

あらためて ダヴィデか アポロかという詮索抜きに向かい合った印象は、物憂い表情をしたナイーヴな青年というものであって、左手の仕草や緊張感の希薄な姿勢と併せてみれば、彼は遠くの音を聞いているような感じがする。
それは遥かな海の音なのか、詩か音楽のミューズからの霊感なのか・・・
それとも、もしそれが追憶の彼方からの声だとしたら、彼は花の都 フィレンツェの寓意像に違いなく、戦いに破れ軍門に下ったことを嘆きつつも、かつての華やかなりし輝きに思いを寄せながら、いまなお憂愁と内省の中にいる・・・


<ミケランジェロ、過去記事>
システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展―天才の軌跡 (2013年、国立西洋美術館)
  レダの頭部  天地創造  最後の審判  階段の聖母  キリストの磔刑
  クレオパトラ  建築とソネット
ミケランジェロ展―ルネサンス建築の至宝 (2016年、汐留ミュージアム)
  ブリュージュの聖母  クマエの巫女と天地創造  絵画と彫刻と建築
  図書館、要塞、大聖堂
レオナルドxミケランジェロ (2017年、三菱一号館美術館)
  素描対決  彫刻と絵画  異種格闘技  未完のキリスト

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2018年07月02日

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の登録

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、めでたく世界文化遺産に正式登録された。
長崎の教会群に関し世界遺産登録への動きがあることを知ったのは 2006年9月のことなのでそこから数えても12年、もちろんそれ以前からの長い道のりだったはずなので、関係者の喜びはひとしおのことと思う。
海を臨む集落の中に凛と立つ教会は、それを支えてきた人々がいて今に存在しうるものであり、そうしたボトムアップ型ともいうべき群遺産は、トップダウン型の国家事業的・一点豪華的な遺産が多い中にあって、特に意義深いもののように思われる。
その上で、今回の登録までの経過には今までとはやや異なった面が見られたことも思い出しておきたい。

そもそもこの登録遺産は、当初は 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として動き出し、申請を進めていく途中で 「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」 へと変更された。
そこに新たに加わった ”潜伏キリシタン” という語には、禁教から弾圧への苦難の歴史と、その間も守り通された信仰の強さ、といった価値観が強く表れているものと言える。
これは諮問機関である ICOMOS(イコモス)の助言に従ったものと伝えられているが、今回特徴的だったのはイコモスが推薦国に協力するにあたって、その関与の度合いが異例なほど大きかったらしいということだ。
その結果、禁教明けの明治期に建てられた教会建築よりも、禁教時代の ”隠れキリシタン” が形成した集落やそこでの伝承などにウェイトがシフトする一方、禁教期との関連が希薄なものについては構成資産から除外された。
こうしてテーマを 「潜伏キリシタンの文化的伝統」に ”純化” して登録にこぎつけたのは、そのような価値観をイコモスが望んだということと表裏一体であるだろう。

思えば、「平泉では浄土思想の世界的意味を、「沖ノ島では宗像大社との一体性を説明するのにずいぶんと苦労させられたわけだが、今回はむしろユネスコやイコモスにとって分かりやすく、彼らの立場からも残して訴えたかった形に沿うことで道が開けたということになるのではないか。
考え過ぎかもしれないが、”潜伏キリシタン” にフォーカスしてその歴史に光を当てることが、キリスト教信仰の強さや布教の意義、さらには西欧文明が普及していくことの ”正統性” の証明になると考える人たちの後押しがあって、こうした形での登録になったという側面があるように思われる。

それでも、世界遺産登録は喜ばしいことに違いない。
ただ、”潜伏” 期の説明として避けて通れない禁教の厳しさや弾圧の過酷さが過度に強調されていくことになるとすれば、やや辛いものがある・・・


>世界遺産関連
宗像・沖ノ島
西洋美術館 
平泉
長崎の教会群
慶長遣欧使節関係資料
山本作兵衛
世界遺産写真展

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2018年06月30日

プーシキン美術館展-4 アンリ・ルソーのベストテン

(東京都美術館 〜7/8)
「馬を襲うジャガー」の来日記念として、アンリ・ルソー(1844-1910)のベストテンを選んでおきたい。

1.眠るジプシー女 (MoMA)
2.蛇使いの女 (オルセー)
3. (MoMA)
誰も見たことがない、でも夢の中では確かに見たような気がする、そんな光景をカンバス上に再現したところが、ルソーという画家の最大の功績だろう。
中でもこの3点は発想の豊かさと画面の充実の両面で群を抜いており、人類絵画史上でも特筆すべき傑作だと思う。
「夢」が相当数に上る密林シリーズの中の頂点とすれば、「眠るジプシー女」の方は突然天から舞い降りてきたかのようであり、ファンタジーの幅では 「蛇使いの女」も遜色ないものの、この世のものとは思われない美しい色彩に敬意を表してこれを首席にしたい。

一方、何げない風景の中に独特の詩情を漂わせた小品たちも忘れるわけにはいかない。
4.税関 (コートールド)
5.リュクサンブール公園、ショパン記念碑 (エルミタージュ)
6.カーニバルの晩 (フィラデルフィア)
  または 「サン・ニコラ河岸から見たサン=ルイ島」 (世田谷)
どれも比較的ありふれた実景から出発しながら、どこまでが意図的か分からない空間のずれや色彩の揺らぎによって現実から遊離していき、静謐で夢見るような光景に変貌している。
ただし、「カーニバルの夜」は本当に現物を見たことがあるのか確信が持てないので、「サン=ルイ島」を予備に…

7.風景の中の自画像 (プラハ)
セーヌの橋や満艦飾の船を背景にした自画像は、一見するとベタな題材を選んだ平凡な作品のようでありながらも、周囲の冷笑や批判をものともせずに我が道を極めていったこの画家の肖像として誠に相応しいものになっていると思う。
この絵の前に立った時にその迫力に圧倒されそうな感じがしたこと、そしてそれ以来時折ルソーに語りかけられるような気がしたことを思い出す。

8.第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神 (国立近代)
9.詩人に霊感を与えるミューズ (プーシキン、バーゼル) 
この2点も、ルソーという画家に思いを馳せる際に避けて通れない、第2の自画像とも言うべきものだ。
素朴な日曜画家ルソーを ”芸術家” の地位に押し上げる場となった アンデパンダン展、そしていち早く彼を評価した アポリネールと ローランサンに対するこれは答礼のようなもので、できればここにピカソが ”アンリ・ルソーの夜会” を主催するきっかけとなった女性像も加えたいところだ。

10.戦争 (オルセー)
本作は ルソーの絵としてはやや異質な部類に属すると思うけれど、”戦争” をテーマにその本質を描き切った作品として 「ゲルニカ」に匹敵するものだと思うので、最後の席にお迎えしておきたい。
人間にとって憎しみや対立は不可避の宿命であるとしても、”戦争” だけは二度と起こしてはならないということを多くの人に訴え続けてくれるよう祈りつつ・・・


<ベストテン・シリーズ>
ボスブリューゲルクラーナハレンブラントフェルメールゴーギャンゴッホムンク
牧谿運慶宗達白隠蕪村若冲応挙

hokuto77 at 19:25|PermalinkComments(0)│ │西洋絵画(近代) 

2018年06月28日

夢二繚乱-2 自伝小説 『出帆』 にみる遍歴

(東京ステーションギャラリー 〜7/1)
本展には 竹久夢二(1884-1934)の出版や印刷・版画にかかる作品が相当数並んでおり、絵葉書や装丁本、楽譜や雑誌の表紙絵などを通して、商業デザイナーとしての 夢二の多彩な才能や膨大な仕事量に圧倒される。
しかし一番の見どころは、夢二の晩年と言っていい1927年から都新聞で連載された自伝小説 『出帆(しゅっぱん)』の挿絵原画全134点を一括初公開した ”第4章 出帆” だ。
年表とともに展示された女性像や心象風景は、美女たちに彩られながらも波乱の激しかった 夢二の足跡をリアルに伝える第一級の資料でもある。

正式な結婚をした たまき、ファンから愛人になった 彦乃、モデルから愛人になった お葉、この3人の女性はそれぞれに夢二作品の貴重な霊感源になったが、中でも夢二がもっとも強く愛したのは短い関係に終わった 彦乃だっただろうか。
このあたりを年表で整理すると以下の通りだが、とりわけ 彦乃と出会った1915年(31歳)から彼女が死去する1920年(36歳)の間が激動の時期ということになる。
余談ながらちょうどこの頃、夢二より1年若い 武者小路実篤は ”新しき村”(1918年)の構想から実現へと忙しかったわけで、方向はずいぶんと異なるもののいずれも大正期ならではの時代の空気が感じられるようだ。

1907年 23歳  たまき(25歳)と結婚
1915年 31歳    彦乃(19歳)と出会う
1916年 32歳  たまき出奔
1917年 33歳    彦乃と京都で同棲
1918年 34歳    彦乃を父が連れ戻す
1919年 35歳      お葉(15歳)をモデルに
1920年 36歳    彦乃死去
1924年 40歳      お葉出奔
1931年 47歳  米・欧旅行へ
1934年 50歳  死去

出帆」の挿絵原画作品に戻れば、京都にいる夢二のもとへやってきた 彦乃の初々しさ、父親に連れ戻される時の悲しみの表情は真に迫っており、ベッドに横たわり亡くなった彼女の姿の悲痛さは特に胸を打つ。
夢二はおそらくその空白を埋めるように、ヌードモデルを務めた彫刻家に凌辱され傷心の お葉を傍に置き、その境遇に深く同情したことが窺われるのだが、やがて彼女も40歳の夢二のもとを去って行く。
その後は48歳で海外旅行を実現させるものの、結核を患い50歳を目前に信州富士見高原療養所で死去するのだが、そこに たまきがやってきて御礼奉公として働いたという話は何やら感動的だ。
でも、夢二はどこまで彼女の真心を知っていたのか、そして、最後に2人が交わした言葉はどのようなものだったのか・・・

hokuto77 at 19:43|PermalinkComments(0)│ │日本絵画(近現代) 

2018年06月26日

モボ・モガが見たトーキョー-2 戦中・戦後、常設展示

(たばこと塩の博物館 〜7/8)
モボ・モガが見たトーキョー 〜モノでたどる日本の生活・文化〜” の前半、”1.モボ・モガの時代 〜「モダン東京」と大衆消費社会〜” は明るく洗練された雰囲気が支配していたのだが、日中戦争から第二次世界大戦に向かう後半はそれが一変する。

2.昭和モダンの終焉と戦争の時代 〜生活、そして商品・広告表現の変化〜” では、統制経済や国民精神総動員運動の下で戦時色が強まり、時代の空気が重苦しくなっていく様子が分かる。
在満将士慰問煙草募集」(1936)や 「国に国防 社交にタバコ」(1937)といったポスターは、そうした状況下で国の専売事業だったたばこがどのように ”活用” されたかを雄弁に伝えていた。
郵便局も軍事費を賄う必要から国民に 「戦時郵便貯金切手」という形で貯金奨励したようだが、このために作成されたポスター 「よくあたる弾丸切手」(1942、郵政博物館)は笑うに笑えない。

3.終戦、そして焼け跡からの復興 〜懐かくて新しい商品の復活〜” の章には戦後の苦難が滲む。
闇売りの煙草を買えば国の恥」(1948)というポスターなどは、焼け跡に広がる闇市の活気を裏側から照らし出すようでもあるが、「Made in Occupied Japan」と表示されたライターには、占領下の日本という現実が重くのしかかっていた。
しかし、最後にあった 「レイモンド・ローウィによる『ピース』のデザイン案」(1952)まで来ると、もはや戦後ではない、という新しい時代の到来が実感される。
渋谷・公園通りにあった建物で見た展覧会でも、ローウィが当時の日本に与えたインパクトをよく伝えていたと記憶するが、そういえば他にもいろいろ銘柄があるのに一貫してこの煙草を吸っていた親戚の老人も、単なる習慣や嗜好を超えた強い思い入れがあって、”時代の記憶” として 『ピース』の鳩を愛好していたのではないかとふと思った。


移転後の 常設展示は広いスペースをゆったり使い、「たばこ」も 「」もすっきりと分かりやすくなった。
といっても、専売公社というものを知らない世代にとっては、なぜ 「たばこ」と 「塩」がひとつの博物館になっているのかが謎かもしれないが、旧 交通博物館逓信総合博物館が大きく姿を変えたのとは違い、こちらは墨田区に移転しても以前とほぼ同じ内容で仲良く同居していた。

そんな中、「」は、塩分控えめ、とか、”塩対応” といったネガティブなイメージを払拭すべく、とにかく人間にとっての重要性を強調する一方で、「たばこ」の方は ”文化” に軸足を置くなど、逆風への対処方法は異なっている。
ただ残念な点が2つ、ひとつは再現された煙草屋の店先が簡素になったことで、以前は自然に聞こえてきていたおばちゃんの声も聞こえず(何か操作が要るようだ)、細部が省略されたせいもあるのか、さっきまでそこにいたのに今ちょっと席を外したところ、という感じが希薄になってしまっていた。
もうひとつは歴代の銘柄の現物が見えにくくなったこと、照明が逆光になったり一部は引き出しの中に納められたりして、パッケージの並びで時代を感じるということができにくくなった。


>たばこと塩の博物館の過去記事
渋谷・公園通り たばこと塩の博物館物語
たばこと塩の博物館の常設展示
阿蘭陀とNIPPON
カフェとたばこにみるウィーンの文化史
昭和30年代物語街角のたばこ屋さんをさがして
インドの民族アート
時代を映す街角のアート

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2018年06月24日

プーシキン美術館展-3 モネ、マティス

(東京都美術館 〜7/8)
第4章 パリ近郊―身近な自然へのまなざし” に出ていた、本展のハイライトともいうべき モネの 「草上の昼食」(1866)は、思っていたより小さくて拍子抜けした。
もっとも 130×181cm のサイズなので単体の絵としては決して小さくないのだが、以前見たオルセーの作品が巨大過ぎて、しかもこれが2つに分かれ保存がよくなかったことから、本作はその完成版として制作され同じくらいの大画面なのだろうと勝手に思い込んでいたので、もともとは習作だったという現物との落差が大きかったようだ。
それと、ずいぶん前からこの絵をメインにしたチラシが出回っており、その中には広げれば新聞の1面よりも大きな面をフルに使ったのもあったし、会場入り口のパネルや直前のスライドでもこの作品の ”大きさ” が刷り込まれていたせいでもあるだろう。

それはともかく、画面全体が暗く感じられたのも意外なことだった。
本作品は 「印象、日の出」の1872年より6年前、モネ26歳時の初期作品なので、基本的には印象派以前の森の風景が画面周辺部に広がっている。
それでもさすがに陽射しの効果には敏感で、光を浴びた木々の葉裏の薄い緑色は眩いばかりだし、木漏れ日が差し込んでいる草上の舞台は明るく輝いている。
チラシに載っているのもこのあたりだから明るい絵というイメージだったので、その周囲の深々とした森が逆に新鮮に見えたということもあるし、登場人物の様子からはそれほど華やいだ雰囲気が伝わってこなかったということもあるが、ともかくもここでのモネの眼は、木々を通して射してくる光にある。

白い睡蓮」(1899)は、晩年の初期という言い方も変だが、睡蓮を集中的に描くようになる時期の中では始まりの方の作品で、水面は確かに睡蓮の花を浮かべ、その隙間には向うの木々が映っている様子がまだ丁寧に描かれている。

マティスの 「ブーローニュの森」(1902)は、これだけを見ればずいぶんと大雑把な風景画という感じで、色も特に美しいとは言えない。
この時マティスは33歳、まだ何者でもなく、今の眼から見れば風景からマティス的なるものを取り出そうとしている過程なのだと辛うじて言い得る作品に過ぎないように見える。
しかし、これが シチューキンが最初に購入したマティス作品のひとつだと知らされれば、この時点でこの絵に才能を感じ取ったコレクターの慧眼に感服せざるを得ない。

このあと上の階では ”第5章 南へ―新たな光と風景” で セザンヌの3点をはじめとする南仏の陽光を楽しみ、”第6章 海を渡って/想像の世界でフィナーレとなった。

hokuto77 at 19:20|PermalinkComments(0)│ │西洋絵画(近代) 

2018年06月21日

夢二繚乱-1 港屋絵草紙店、戦争、楽譜

(東京ステーションギャラリー 〜7/1)
夢二繚乱” と題された展覧会、”繚乱” とは展示作品の点数が多くジャンルも多岐にわたることを保証するものであるとしても、脈絡が不明だったり名品が少ないといった批判については予め免責されているということなのか、などと思いながら見て廻っていたのだが、それでも 竹久夢二(1884-1934)の手になる作品を大量に見ることはもちろん楽しくないわけがなく、そして最大の見どころは最終章の自伝小説 『出帆』挿絵原画の一括展示にあった。

その前に順を追って振り返っておくと、若い頃の作品を集めた ”第1章 夢二のはじまり” では 「墓場」(1912-20?)が夢二には珍しく不吉な感じを漂わせる一方、「光れる水」(1910)では広々と流れる川を眺める後ろ向きの女に、夢二的世界の萌芽がみられた。

第2章 可愛いもの、美しいもの” に並んでいた肉筆画では、横向きでぺたりと坐る女を描いた 「」の儚げな気配が抜きんでていた。
港屋絵草紙店」(1914)は、夢二がデザインした千代紙や便箋、封筒や絵葉書などを売るために日本橋呉服町に開店した 夢二と妻 たまきの店のポスターで、時代を先取りするようなハイカラさは夢二のブランド戦略にほかならず、商業デザイナーとしての営業的センスの秀逸さも感じられた。

一方、「月刊夢二エハガキ」の中には ”戦争エハガキ” なるものがあって、そこには戦地に行った父を思う子供の姿などが親密な感じで描かれていた。
これは1914年の作品というから第一次世界大戦時になるが、それは ”対岸の火事” というようなものではなく当時の人々の生活にも現実的な影を落としていたのだろうか、それを夢二作品が語っているというのが意外な気がした。

第3章 目で見る音楽” ではまず肉筆画、「コーヒーと女」(1915)が洋装の女性 ”モガ”を描いて大正モダンの雰囲気を濃厚に漂わせていたのに対し、「朝寒」(1916)では純朴そうな和装の女性の慎ましやかな風情がよかった。

セノオ楽譜の表紙絵はかなりの点数が出ていて、特に 「アベマリア」や 「ベニスの夜」、「死と少女」などの絵がよかった。
また、シューマンの 「恨まじ君をば」や シューベルトの 「海邊にて」といった曲が単独の楽譜として出版されていたこと、そして今はほとんど聞かれることのない 「ジョスランの子守歌」が繰り返し取り上げられていることなどからは、当時の音楽ファンの傾向ひいては西洋音楽の受容史が窺えるようだった。


>関連過去記事
生誕125年記念 竹久夢二展 (2009、新宿高島屋) 
竹久夢二、欧米への旅 (2010、日本橋三越) 
大正イマジュリィの世界 (2011、松濤美術館) 

hokuto77 at 19:48|PermalinkComments(0)│ │日本絵画(近現代) 

2018年06月18日

新内流しと 酔月情話 @深川江戸資料館

清澄白河の 深川江戸資料館で、”江戸庶民の語り物 「新内流し」” を聴いた。
(6月16日(土)14:00〜)
新内節は、三味線を使う邦楽の中では繊細で哀愁漂う音楽というくらいのイメージを持っていたに過ぎないが、江戸情緒を再現した街並みの遠くの方から爪弾くような音が微かに聞こえてくると、その独特の世界に引き込まれた。

演奏は2人、三味線を普通の撥で弾く 新内多賀太夫に対し、新内勝志壽の方は棹の途中にカポタストのようなものをつけた弦を小さな撥でピッキングするように弾き、高く儚い感じの音を聞かせる。
この2本の三味線は全く同じ構造なのか、文楽や歌舞伎で使う三味線とどう違うのかはよく分からないが、そこから聞こえてくる音楽はかなり異なった色合いのものだった。
それはおそらく、2本の弦楽器をユニゾンではなく高低の音を分担させて使っているからであり、さらにそこに多賀太夫の声楽が加わると、時には3つの旋律が絡み合って歌と伴奏というよりはトリオソナタのようにも聞こえた。

声楽部分も語りというよりは歌に近く、もちろんレチタティーヴォとアリアというほどは違わないものの、特に情景描写の部分は念の入った旋律が広い音域で謡われた。
さらにその声の美しいこと、これはもかしたら個人差がありこの日は偶々といったことかもしれないが、少なくとも無理にだみ声にしたり唸ったりということはなかったように思えた。
総じてとても ”音楽的” に聞こえた演奏だったのだが、演目の 「梅雨衣酔月情話」 (つゆごろも すいげつじようわ)は日本橋浜町の料亭 ”酔月楼” の女将 お梅が番頭の 峰吉を刺し殺したという生々しい事件を扱ったものだそうで、今回は殺害場面に至る前段だけだったけれど、実際にはかなり濃い内容で演劇的になっていくのかもしれない。

本編の素浄瑠璃はそのようなものだとしても、その前後に演奏された ”新内流し” は、夕暮れの河岸に面した船宿の横で火の見櫓を眺めながら聞くのに相応しい、物悲しさの中に人を誘惑する魔力を秘めた音楽だ。
そんな三味線の音が遠くに聞こえてから徐々に近付いてくるというのは ”新内流し” ならではの風情であり、手拭いを山形に折った吉原被りでの登場も、深川江戸資料館のテーマパーク的空間の中で生きていた。
この ” 吉原被り” は、髷(まげ)の形を見せないようにして演者の身分を隠すためのものだという解説も興味深いものだった。

hokuto77 at 21:24|PermalinkComments(0)│ │邦楽事始 

2018年06月14日

ヌード NUDE-5 デルヴォーの叫び

(横浜美術館 〜6/24)
率直なところ、”ヌード NUDE” 展で見たいと思う作品は ”1 物語とヌード | THE HISTORICAL NUDE”と ”2 親密な眼差し | THE PRIVATE NUDE”、それにロダンの 「接吻」でほぼ出尽くしている。
しかし主催者としては、ここから先こそが ”ヌードとは何か” を問う部分なのだと言うかもしれないし、実は真面目な企画なのだと主張するためのアリバイ作りの部分であったかもしれない。

”3 モダン・ヌード | THE MODERN NUDE” は、前章に続き マディスが登場するなど時代はそう大きく変わっていないのに、エロスはきれいさっぱりと消え去っている。
ロットルフもピカソも、描かれている人物は確かに服を着ていないが、それがどうしたというくらいにヌードの魅力とは程遠いところにいる。
ピカソの 「首飾りをした裸婦」は尋常ではないパワーのある絵だと思うけれど、その源泉はおそらく裸婦とは関係がない。

ロダンの 「接吻」(1901–4年)があった ”4 エロティック・ヌード | THE EROTIC NUDE” の章には、ターナー、ホックニー、ピカソらの ”春画” 風作品があった。

”5 レアリスムとシュルレアリスム | REAL AND SURREAL BODIES” では ポール・デルヴォーの 「眠るヴィーナス」(1944年)の重苦しい雰囲気に驚かされた。
本来ならば、デルヴォーは第1、2章に繋がる魅力的なヌードの描き手として期待に応えてくれるはずなのだが、本作のヴィーナスは確かに裸ではあるものの安らいだ心地で眠ってなどいない。
彼女が横たわる寝台の周囲は、この画家が得意とする静謐な世界ではなく、何人かの裸の女は両手を上げて叫びを発しており、その絶叫は古代風建築や険しい山肌にこだましている。
このざわついた空気、不穏な気配は本作が戦時下で描かれたからに違いなく、もっぱら空想の世界を描いていたように見えるデルヴォーも、さすがに差し迫った危機を肌で感じ、その恐怖や終末観が画面に反映したということなのであろう。

”6 肉体を捉える筆触 | PAINT AS FLESH”では、ルシアン・フロイドの 「布切れの側に佇む」(1988–89年)という女性の体に強い存在感があった。

”7 身体の政治性 | BODY POLITICS”では、黒人の男性を描いた バークレー・L・ヘンドリックスの 「ファミリー・ジュールス:NNN (No Naked Niggahs[裸の黒人は存在しない])」(1974年)が異彩を放っていた。
このあたりは、どこまでが ”ヌード” たりうるかという境界を探るような作品が多かったが、それは伝統的な ”ヌード” に期待されていた価値をどの程度まで暗黙のうちに共有しているかという問題であるように思う。
単に ”裸体画” ということであれば、老若男女問わず全人類が対象になり得るだろうが、”ヌード” として鑑賞の対象になるためには、服を着ていないというだけではない何かが必要だ・・・

最後の ”8 儚き身体 | THE VULNERABLE BODY” にあった リネケ・ダイクストラの連作写真(1994年)は、出産後の女性が赤ん坊を抱いて立つ姿を正面からとらえたもので、荒木経惟の ”「至上ノ愛」の母子像” という展覧会で見た作品の印象に近い。
彼女たちには何かを成し遂げた後の力強さがあり、女性にとって子供を産むことの意義深さというものをあらためて感じさせられる。
と同時に、全く無防備で脆弱な子供の方に目を移せば、誰もが例外なくひとりの母親の胎内からこうして生まれてきて、自分では何もできないところから育てられて今があるということに思い至らざるを得ない。
だからいくつになっても母親には頭が上がらないし、受けた愛や恩をしっかり返していかなくてはならない、そんな人間としての原点をみんなが折に触れて思い出すようになれば、世の中はもう少しよくなっていくのかもしれない・・・


>ポール・デルヴォー展 (2012、府中市美術館) 

>ぬぐ絵画 (2011、東京国立近代美術館) 

hokuto77 at 21:03|PermalinkComments(0)│ │西洋絵画(現代) 

2018年06月11日

モボ・モガが見たトーキョー、モノでたどる日本の生活・文化-1

(たばこと塩の博物館 〜7/8)
渋谷から移転した新しい ”たばしお” で、大正時代から昭和初期・戦中の日本の生活・文化の変化を紹介する ”モボ・モガが見たトーキョー 〜モノでたどる日本の生活・文化〜” を見た。

モダンボーイやモダンガールを略した “モボ・モガ” の時代とは、関東大震災後の帝都復興事業により市街地の不燃・高層化が進み東京の街の景観が一変したことに加え、大正デモクラシーや西洋的なライフスタイルの普及で、それまでにないモダンな都市文化が栄え商品や広告にも新しいデザイン感覚がみられた時期だ。

1.モボ・モガの時代 〜「モダン東京」と大衆消費社会〜” は、そうした幸福な時代をどう見せてくれるのかと期待したが、展示は 花王石鹸のパッケージやポスター、精工舎の腕時計 ローレル、東武鉄道浅草雷門駅の写真といった具合で、本企画は 花王ミュージアム、セイコーミュージアム、東武博物館、郵政博物館および当館で構成される ”すみだ企業博物館連携協議会” の横繋がりに大きく負ったもののようだった。
生活に密着した微小なものから時代全体の空気を、という趣旨はもちろんわからなくはないし、100円としては十分な内容ではあると思うけれど、タイトルと中身にややずれが感じられないでもない。
それでも、祖父がいつまでも懐中時計を使っていたこととか、父が銀座の和光をずっと服部時計店と呼び続けていたことを不意に思い出したりしたし、東武のパンフレットからは浅草まで延伸してデパート一体型の駅で繁華街に直結した喜びが伝わってくるようだ。

当館の所蔵品では 杉浦非水たちのたばこパッケージやポスターの洗練されたデザインが、お洒落な大人の小道具としての煙草のイメージづくりに寄与していたことをあらためて感じた。
紫煙への目は厳しくなる一方で今はまさに鼻つまみモノの煙草だが、マッチやライターや灰皿といった脇役たちを従えて生活を彩っていた時代というものが確かにあった。

このあたりでは、当時 ”職業婦人” が増えてきたこともパネルで解説されていた。
バスガールやエレベーターガール、タイピストや電話交換手といった職種は、呼び方も含めて状況が大きく変わってきており隔世の感があるが、AIの発達に伴ってどんな職業が影響を受けるかといった現代の心配事が、古くて新しい問題であることにも気づかされる。
しかしここで重要なのは、女性が自ら可処分所得を稼ぎ出すようになったことの方で、まだ一部ではあっても自分で自由に使えるお金を持って繁華街に繰り出した彼女たちが、“モボ・モガ” の時代を支えたことも確かだろう。

もうひとつ感じたのは歌の力、展示されていた 「銀座行進曲」とか 「東京ラプソディ」の楽譜デザインも美しいものだったが、モノは淘汰され新しいものに置き換えられていったとしても、歌は時代の空気を纏わせたまま人々の記憶に残り続ける。
さらに、さまざまな媒体を通じて歌は地方にも届けられてトーキョーへの憧れを掻き立てたに違いなく、東京一極集中の端緒はこのあたりにあったのかもしれないとも思った。

hokuto77 at 19:40|PermalinkComments(0)│ │掘り出し物など 

2018年06月09日

プーシキン美術館展-2 パリの磁力

(東京都美術館 〜7/8)
”プーシキン美術館展──旅するフランス風景画”の本来の流れは、”第1章 近代風景画の源流” のクロード・ロランから始まり、ヴァトー亜流の雅宴画がしばらく続く。
その中では、川や木々に囲まれた古い水車小屋を描いた フランソワ・ブーシェの 「農場」(1752)が、この画家らしくない生活の匂いを感じさせていた。
クロード=ジョゼフ・ヴェルネの 「日没」(1746)は夕陽の港の光景だが、手前で小舟を出そうとする人、そして中景の岬や帰港する船の絵にシルエットで見える小さな人影が、壮麗な光の中に人の営みというストーリーを与えていた。

第2章 自然への賛美” にあった コローの 「夕暮れ」(1860–1870)は、対照的に弱い地味な夕陽ではあるが、この大気感と幽かな朱はコローならではのもの、ここでも物思いにふけるような2人が佇んでいることで、詩情の世界が深まっていくようだ。

第3章 大都市パリの風景画” は、絵そのものというよりは絵を通して想起されるパリの街を楽しむコーナーだ。
エドゥアール= レオン・コルテスの 「夜のパリ」(1910年以前)は、陽が落ち夜が訪れて街が煌めき出す頃合いの気分をよく掬い上げている。
といってもまだガス灯の時代で、通りには馬車や花売りの手押し車も見えるのだが、それでも今のパリの夜のイメージとほとんど違いがないように見える。
それは、パリが古き良き時代の雰囲気や景観を大切に守っているということなのか、それとも美しいものを求めて自然に選び取られた結果がこうなっているのか、ともかくもそれは生きることを楽しむ街の姿であり、画面の奥からはグラスの音やシャンソンの歌声が聞こえてくるようだ。
店や街燈に明かりが灯るとその華やぎが道行く人の心を幸福にする、そんな絵はパリだからこそよく成立するものなのであろう。

ジャン=フランソワ・ラファエリの 「サン= ミシェル大通り」(1890年代)は雨に濡れた交差点、しっとりした色彩の石の道が、まだ明るさが残るのにつき始めた灯りを映し、雨上がりの街には着飾った人々が出てきて、夜の時間に向かっての賑わいが始まっている。

アルベール・マルケの 「パリのサン= ミシェル橋」(1908年頃)は対照的に真昼間の光景、ここには夜や薄明りの魅力はない分、画家の力で見せる絵といえる。
建物や橋などは大胆に単純化しており、そこにパリの名所を描き込んでいるわけでもないのに、その景観は確かにパリ以外のどこでもなく、そして、わずかな筆の動きだけで橋の上を行く人々は躍動し、橋の下の水はゆっくりと淀みながら流れていく・・・

hokuto77 at 20:06|PermalinkComments(0)│ │西洋絵画(近代)