2017年11月
2017年11月30日
Index Jul.-Sep., 2017
信濃美術館クロージング (長野県信濃美術館) 1、2、3
正受老人と白隠禅師 (飯山市美術館) 1、2、3、4、5
祈りのかたち (出光美術館) 1
地獄絵ワンダーランド (三井記念美術館) 1、2
写狂老人A、静かなひとびと (オペラシティ) 1
タイ、仏の国の輝き (東京国立博物館) 1、2
不染鉄 (東京ステーションギャラリー) 1
ボストン美術館の至宝 (東京都美術館) 1、2、3、4
吉田博 (損保ジャパン) 1、2
ベルギー奇想の系譜 (ザ・ミュージアム) 1、2、3、4、5
レオナルドxミケランジェロ (三菱一号館美術館) 1、2、3、4
沖ノ島・宗像大社の世界遺産登録 1
アルチンボルド (西洋美術館) 1、2、3、4、5、6
能 「山姥」 1、2、3、4
鈴木雅明&BCJの世俗カンタータ 1、2
能 「善知鳥」 1、2、3
正受老人と白隠禅師 (飯山市美術館) 1、2、3、4、5
祈りのかたち (出光美術館) 1
地獄絵ワンダーランド (三井記念美術館) 1、2
写狂老人A、静かなひとびと (オペラシティ) 1
タイ、仏の国の輝き (東京国立博物館) 1、2
不染鉄 (東京ステーションギャラリー) 1
ボストン美術館の至宝 (東京都美術館) 1、2、3、4
吉田博 (損保ジャパン) 1、2
ベルギー奇想の系譜 (ザ・ミュージアム) 1、2、3、4、5
レオナルドxミケランジェロ (三菱一号館美術館) 1、2、3、4
沖ノ島・宗像大社の世界遺産登録 1
アルチンボルド (西洋美術館) 1、2、3、4、5、6
能 「山姥」 1、2、3、4
鈴木雅明&BCJの世俗カンタータ 1、2
能 「善知鳥」 1、2、3
2017年11月28日
シャガール、三次元の世界という試み
(東京ステーションギャラリー 〜12/3)
シャガールに彫刻や陶芸などの立体作品があるということがまず意外だったが、ピカソやマティスの例*を思い出せばそれ自体は驚くべきことではないだろう。
問題はそこに新しい表現があるのか、あるいは余技ないし周辺作品に留まってしまうのか、その辺りに終始微妙な感じがつきまとう展覧会だった。
まずは絵画の代表作である 「誕生日」(1923年、1915年作品のレプリカ、AOKIホールディングス)や 「町の上で、ヴィテブスク」(1915、ポーラ美術館)とともに、これらの雰囲気を持つ大理石作品が二点登場、「誕生日」(1968頃)はほとんど平面と言える浅い浮彫たっだのに対し、「ふたつの頭部と手」(1964)は恋人同士の顔が柔らかな感じで重なり、優しい気持ちにさせてくれる彫刻だ。
シャガールがこうした彫刻を始めたのは1951年、すでに63歳の老境になっており、上述の絵画と彫刻の間にも45年から50年近い時が流れている。
だから、同じテーマを扱いながら滋味豊かなものになっていると一応は言えると思うけれど、一方で シャガールにとっての彫刻とは、”三次元” を獲得したことの裏返しとして、彼の何よりの強みであった虹のような ”色彩” と、その世界を支えていた村や町などの ”背景” の大部分を失うことにほかならない。
そうした犠牲を払った上に、一体どのような価値が新たに産み出されたのだろうか。
少し先のコーナーには、立体作品の初期段階とも言うべき 陶芸作品があった。
ここでは、皿絵のようなものはもちろん、「青いロバ」(1954)という彩色陶器なども、それは壺でありロバの彫像でもあるけれど、本質は絵画でありキャンバスが立体になっただけとも言える。
一方、テラコッタ製の 「井戸端の女」(1953)などは素焼きの素朴さを生かした純然たる立体作品だが、彩色がないにもかかわらずどこか絵画的な趣きも漂っていた。
下の階では、キュビズムと立体作品の関係が開設されていた。
「たそがれ」(1938-43)など二つの顔がくっついて一体化しているように見える作品は、確かにピカソのキュビズム作品を思わせるところがあるが、ピカソはひとつの顔を別の角度から見たものを再構成したのに対し、シャガールの場合は別の人格の顔を融合させている。
本作では貧しい画家の顔と、彼に霊感を与えようとするミューズの顔を一体化することによって新たな物語が生まれているようであり、別の作品で昔の女と今の女を合体させているのはさすがにどうかと思うけれど、シャガールが二次元の画面に持ち込んだのは、単なる立体としての三次元ではなく、追憶や幻想といった四次元的なものだ。
その反面で、ではシャガールの彫刻作品は三次元性を突き詰め立体を生かし切った作品なのかと思って中央に並ぶ彫刻作品を見て行くと、それはほぼ平面の浮彫だったり円柱や四角柱の各面を使った浮彫という性格が強い。
「女と動物」(1953)は四角柱の角を面白く使っていると思うし、「アダムとイヴ」(1953)は円柱の周囲に鶏や牛といったシャガール的な脇役を登場させているが、いずれも多面浮彫というべきもので、純粋な彫刻とはかなり違うものなのではないか。
これら大理石の作品と別に、”ロニュの石” を使った 「花束を持つ恋人たち」(1951-52)などは、脆く壊れそうな素材だからあまり手数をかけなかったのが幸いしたのか、シンプルながらあたたかみのある作品で手元に置きたいという気にもさせられたのだが、果たしてこれらはプロの彫刻家の仕事といえるものなのだろうか。
しかし考えてみれば、シャガールの絵画や版画だってプロの仕事っぽいわけではないけれど、それでもいいものはいいとしか言いようがないとすれば、彫刻もそう思える人にとっては同じことだと納得するほかはない。
本企画の趣旨からは外れるが、最も印象に残ったのは 「逃避/村の上の雄鶏と雄山羊」(1962)というグワッシュ作品だった。
画面右下にいるのはおそらく故郷を離れて逃げ延びようとする家族、彼らを見送るように夜の寝静まった街並みの中で聖堂が光輝き、そして上空には大きな雄鶏と雄山羊がいるのだが、その巨大な目は異様に強い視線を放っている。
それは彼らの運命を見届ける天の眼ということなのか、ともかくもこの二つの目から遁れることはとてもできそうにない・・・
シャガールに彫刻や陶芸などの立体作品があるということがまず意外だったが、ピカソやマティスの例*を思い出せばそれ自体は驚くべきことではないだろう。
問題はそこに新しい表現があるのか、あるいは余技ないし周辺作品に留まってしまうのか、その辺りに終始微妙な感じがつきまとう展覧会だった。
まずは絵画の代表作である 「誕生日」(1923年、1915年作品のレプリカ、AOKIホールディングス)や 「町の上で、ヴィテブスク」(1915、ポーラ美術館)とともに、これらの雰囲気を持つ大理石作品が二点登場、「誕生日」(1968頃)はほとんど平面と言える浅い浮彫たっだのに対し、「ふたつの頭部と手」(1964)は恋人同士の顔が柔らかな感じで重なり、優しい気持ちにさせてくれる彫刻だ。
シャガールがこうした彫刻を始めたのは1951年、すでに63歳の老境になっており、上述の絵画と彫刻の間にも45年から50年近い時が流れている。
だから、同じテーマを扱いながら滋味豊かなものになっていると一応は言えると思うけれど、一方で シャガールにとっての彫刻とは、”三次元” を獲得したことの裏返しとして、彼の何よりの強みであった虹のような ”色彩” と、その世界を支えていた村や町などの ”背景” の大部分を失うことにほかならない。
そうした犠牲を払った上に、一体どのような価値が新たに産み出されたのだろうか。
少し先のコーナーには、立体作品の初期段階とも言うべき 陶芸作品があった。
ここでは、皿絵のようなものはもちろん、「青いロバ」(1954)という彩色陶器なども、それは壺でありロバの彫像でもあるけれど、本質は絵画でありキャンバスが立体になっただけとも言える。
一方、テラコッタ製の 「井戸端の女」(1953)などは素焼きの素朴さを生かした純然たる立体作品だが、彩色がないにもかかわらずどこか絵画的な趣きも漂っていた。
下の階では、キュビズムと立体作品の関係が開設されていた。
「たそがれ」(1938-43)など二つの顔がくっついて一体化しているように見える作品は、確かにピカソのキュビズム作品を思わせるところがあるが、ピカソはひとつの顔を別の角度から見たものを再構成したのに対し、シャガールの場合は別の人格の顔を融合させている。
本作では貧しい画家の顔と、彼に霊感を与えようとするミューズの顔を一体化することによって新たな物語が生まれているようであり、別の作品で昔の女と今の女を合体させているのはさすがにどうかと思うけれど、シャガールが二次元の画面に持ち込んだのは、単なる立体としての三次元ではなく、追憶や幻想といった四次元的なものだ。
その反面で、ではシャガールの彫刻作品は三次元性を突き詰め立体を生かし切った作品なのかと思って中央に並ぶ彫刻作品を見て行くと、それはほぼ平面の浮彫だったり円柱や四角柱の各面を使った浮彫という性格が強い。
「女と動物」(1953)は四角柱の角を面白く使っていると思うし、「アダムとイヴ」(1953)は円柱の周囲に鶏や牛といったシャガール的な脇役を登場させているが、いずれも多面浮彫というべきもので、純粋な彫刻とはかなり違うものなのではないか。
これら大理石の作品と別に、”ロニュの石” を使った 「花束を持つ恋人たち」(1951-52)などは、脆く壊れそうな素材だからあまり手数をかけなかったのが幸いしたのか、シンプルながらあたたかみのある作品で手元に置きたいという気にもさせられたのだが、果たしてこれらはプロの彫刻家の仕事といえるものなのだろうか。
しかし考えてみれば、シャガールの絵画や版画だってプロの仕事っぽいわけではないけれど、それでもいいものはいいとしか言いようがないとすれば、彫刻もそう思える人にとっては同じことだと納得するほかはない。
本企画の趣旨からは外れるが、最も印象に残ったのは 「逃避/村の上の雄鶏と雄山羊」(1962)というグワッシュ作品だった。
画面右下にいるのはおそらく故郷を離れて逃げ延びようとする家族、彼らを見送るように夜の寝静まった街並みの中で聖堂が光輝き、そして上空には大きな雄鶏と雄山羊がいるのだが、その巨大な目は異様に強い視線を放っている。
それは彼らの運命を見届ける天の眼ということなのか、ともかくもこの二つの目から遁れることはとてもできそうにない・・・
2017年11月26日
ビバ! エスパーニャ〜フラメンコ@藝大奏楽堂
藝大プロジェクト2017 「ビバ!エスパーニャ〜グラナドスのスペイン」〜”エンリケ・グラナドス(1867〜1916)生誕150年に贈る「光と翳の大地」スペインの音楽” の最終回となる、”第4回 ギターへの誘い〜クラシックからフラメンコまで” を聞いた。
(2017年11月25日(土)14:00〜 東京藝術大学奏楽堂)
第1部 レクチャー 「スペインのギター音楽」 濱田吾愛
第2部 コンサート 「クラシック、そして灼熱のフラメンコ」
タレガ 《アルハンブラの思い出》
ソル 《モーツァルトの〈魔笛〉の主題による変奏曲》
グラナドス (リョベート編曲) 《スペイン舞曲集》より第5番
ロドリーゴ 《3 つのスペイン風小品集》
ファリャ 《はかなき人生》より 〈スペイン舞曲〉※デュオ
鈴木大介、益田正洋(ギター)
フラメンコ (グラナイーナ〜ブレリアス〜シギリージャス〜ソレア)
エンリケ坂井(フラメンコギター)
マヌエル・デ・ラ・マレーナ(歌)、三枝雄輔(踊り)
3週間ほど前の 「フレスコバルディへのオマージュ」*では大聖堂のようだった奏楽堂が、この日はおそらく史上初という ”オレ!” も飛び交う フラメンコの舞台となった。
まずは ギターのソロ、右脚を台に乗せる構え方も、チューニングの音も、もちろん奏法も出てくる音楽も、直前までクラシックギターの正統的な演奏を聞いていただけに、全く別物であることがよく分かる。
即興的な楽想が次々に現れる演奏は、瞑想的な沈思から情熱的な高揚まで、幅広い音楽空間を自由に往還していた。
3曲目から入った 歌は、この音楽のルーツと考えられるインド風の旋律の中にアラブ的な香りも感じられ、またギターと二人で間を取り合うところは浄瑠璃のようでもあった。
絞り出すような声が伝えようとするのは望郷や思慕の感情なのか、あるいは嘆きや怒りまでがそこに籠められているだろうか。
最後の 踊りに登場したのは男性、フラメンコと言えば長いドレスの裾を翻す女性のイメージだが、初めて見た ”男踊り” は緊張感が高く、3人での真剣勝負を見るようだった。
手拍手やフィンガー・スナップに足のステップが入ると徐々に動きが激しくなり、盛り上がる音楽に合わせて憑き物が取りついたようにエクスタシーの頂点に上り詰めていく。
それは、娯楽や芸能や鑑賞対象などではない、集団陶酔を促すパフォーマンスのように思われた。
本企画の全体は、第1部のレクチャーでビウエラ時代のナルバエスやムダーラ、バロックのサンスなどを紹介、第2部のコンサート前半ではクラシックギターの名曲が次々に弾かれ、高校時代にかなり練習したのに結局モノにならなかったことをほろ苦く思い出したりした。
>アナ・ヴィドヴィチ ギターリサイタル
>藝大プロジェクト2016 今日は一日、サティの日
>藝大プロジェクト2011 オスマン帝国の栄光
(2017年11月25日(土)14:00〜 東京藝術大学奏楽堂)
第1部 レクチャー 「スペインのギター音楽」 濱田吾愛
第2部 コンサート 「クラシック、そして灼熱のフラメンコ」
タレガ 《アルハンブラの思い出》
ソル 《モーツァルトの〈魔笛〉の主題による変奏曲》
グラナドス (リョベート編曲) 《スペイン舞曲集》より第5番
ロドリーゴ 《3 つのスペイン風小品集》
ファリャ 《はかなき人生》より 〈スペイン舞曲〉※デュオ
鈴木大介、益田正洋(ギター)
フラメンコ (グラナイーナ〜ブレリアス〜シギリージャス〜ソレア)
エンリケ坂井(フラメンコギター)
マヌエル・デ・ラ・マレーナ(歌)、三枝雄輔(踊り)
3週間ほど前の 「フレスコバルディへのオマージュ」*では大聖堂のようだった奏楽堂が、この日はおそらく史上初という ”オレ!” も飛び交う フラメンコの舞台となった。
まずは ギターのソロ、右脚を台に乗せる構え方も、チューニングの音も、もちろん奏法も出てくる音楽も、直前までクラシックギターの正統的な演奏を聞いていただけに、全く別物であることがよく分かる。
即興的な楽想が次々に現れる演奏は、瞑想的な沈思から情熱的な高揚まで、幅広い音楽空間を自由に往還していた。
3曲目から入った 歌は、この音楽のルーツと考えられるインド風の旋律の中にアラブ的な香りも感じられ、またギターと二人で間を取り合うところは浄瑠璃のようでもあった。
絞り出すような声が伝えようとするのは望郷や思慕の感情なのか、あるいは嘆きや怒りまでがそこに籠められているだろうか。
最後の 踊りに登場したのは男性、フラメンコと言えば長いドレスの裾を翻す女性のイメージだが、初めて見た ”男踊り” は緊張感が高く、3人での真剣勝負を見るようだった。
手拍手やフィンガー・スナップに足のステップが入ると徐々に動きが激しくなり、盛り上がる音楽に合わせて憑き物が取りついたようにエクスタシーの頂点に上り詰めていく。
それは、娯楽や芸能や鑑賞対象などではない、集団陶酔を促すパフォーマンスのように思われた。
本企画の全体は、第1部のレクチャーでビウエラ時代のナルバエスやムダーラ、バロックのサンスなどを紹介、第2部のコンサート前半ではクラシックギターの名曲が次々に弾かれ、高校時代にかなり練習したのに結局モノにならなかったことをほろ苦く思い出したりした。
>アナ・ヴィドヴィチ ギターリサイタル
>藝大プロジェクト2016 今日は一日、サティの日
>藝大プロジェクト2011 オスマン帝国の栄光
2017年11月25日
怖い絵-4 神話より怖い現実の世界
(上野の森美術館 〜12/17)
神話と聖書に始まって非現実の世界を辿ってきた 「怖い絵」展***は、1階に下りた ”第4章 現実” で生々しさが格段に強くなり、老いや病気、犯罪や戦争の苦しみとその結果としての死が、今までとは全く異なる距離感で訴えかけてきた。
ウィリアム・ホガースの 「娼婦一代記」(1732、伊丹市立美術館)は、田舎から都会に出てきた若い娘が娼婦に身を落とし、病気などの不幸に見舞われながら寂しく死んでいくという、リアルな恐怖を連作で描く。
同じホガーズの 「ビール街とジン横丁」(1750-51、郡山市立美術館)は、税率の高いビールを優雅に楽しむ Beer Street に対し、安価でアルコール度も高いジンで酔おうとする Gin Lane の退廃と貧困と無秩序を容赦なく暴き出す。
これもまたロンドンという大都市の影の部分の実態を反映しているのであろう。
オクターヴ・タサエールの 「不幸な家族(自殺)」(1852、ファーブル美術館)は、屋根裏部屋で一酸化炭素中毒による心中を図る母と娘の、憔悴しきった姿が痛々しい。
そして ジョージ・フレデリック・ワッツ*の 「発見された溺死者(1848頃、リバプール国立美術館)は、おそらくテムズ河畔に引き上げられた若い女の溺死体で、その姿そのものは フューズリの 「夢魔」*に近いように見えるけれど、こちらの方は覚めることのない厳しい現実だ。
その背景として、19世紀後半のロンドンでは男たちは新大陸へ夢を求める一方、残された女たちは過酷な労働の末に困窮し娼婦になるケースも多く、妊娠すればさらに悲惨な運命を強いられたようだ。
しかし宗教は堕胎も自殺も許さない、そんな八方ふさがりの世の息苦しさは、いざとなればそういったことも選択肢に入れて考えることができる立場からは想像がつきにくいものだろう。
本章には問題作が二つ、まずは ポール・セザンヌの 「殺人」(1867頃、リバプール国立美術館)だ。
ポスト印象派巨匠の異色作かと目を疑うところだが、若い頃はこうした作品も多く描いていたらしい。
ただ、画風こそ異なるものの、二人の男女が浜辺で別の女性を殺す場面は、簡素なタッチで力の入り方や体重のかけ方までがよく分かるものであるのと同時に、後年の水浴図を思わせる堅固な構図とか、果物図に繋がる色彩のリズムは、すでにそこにあるようにも見えるし、カード遊びをする人たちはこの延長にあるようにも思われる。
絵から意味を取り去ってしまうことへの確信はまだない中で、こうした題材を通してセザンヌは自らの表現を追求していた・・・
ジョン・バイアム・リストン・ショーの 「人生とはこうしたもの」(1907リーズ美術館)は、画面右には口づけをする若い2人、その背後には警官、左にはそれを見てただただ笑う道化師がいるという不可思議な作品だ。
Such is Life というタイトルもよくわからないが、つまりは Love is Blind ということなのではないか。
自分(たち)のことに没入して周りが見えなくなっていても、実はそれを監視する人や嘲笑する人が常に傍らにいる、世の中とはそうしたもの・・・
神話と聖書に始まって非現実の世界を辿ってきた 「怖い絵」展***は、1階に下りた ”第4章 現実” で生々しさが格段に強くなり、老いや病気、犯罪や戦争の苦しみとその結果としての死が、今までとは全く異なる距離感で訴えかけてきた。
ウィリアム・ホガースの 「娼婦一代記」(1732、伊丹市立美術館)は、田舎から都会に出てきた若い娘が娼婦に身を落とし、病気などの不幸に見舞われながら寂しく死んでいくという、リアルな恐怖を連作で描く。
同じホガーズの 「ビール街とジン横丁」(1750-51、郡山市立美術館)は、税率の高いビールを優雅に楽しむ Beer Street に対し、安価でアルコール度も高いジンで酔おうとする Gin Lane の退廃と貧困と無秩序を容赦なく暴き出す。
これもまたロンドンという大都市の影の部分の実態を反映しているのであろう。
オクターヴ・タサエールの 「不幸な家族(自殺)」(1852、ファーブル美術館)は、屋根裏部屋で一酸化炭素中毒による心中を図る母と娘の、憔悴しきった姿が痛々しい。
そして ジョージ・フレデリック・ワッツ*の 「発見された溺死者(1848頃、リバプール国立美術館)は、おそらくテムズ河畔に引き上げられた若い女の溺死体で、その姿そのものは フューズリの 「夢魔」*に近いように見えるけれど、こちらの方は覚めることのない厳しい現実だ。
その背景として、19世紀後半のロンドンでは男たちは新大陸へ夢を求める一方、残された女たちは過酷な労働の末に困窮し娼婦になるケースも多く、妊娠すればさらに悲惨な運命を強いられたようだ。
しかし宗教は堕胎も自殺も許さない、そんな八方ふさがりの世の息苦しさは、いざとなればそういったことも選択肢に入れて考えることができる立場からは想像がつきにくいものだろう。
本章には問題作が二つ、まずは ポール・セザンヌの 「殺人」(1867頃、リバプール国立美術館)だ。
ポスト印象派巨匠の異色作かと目を疑うところだが、若い頃はこうした作品も多く描いていたらしい。
ただ、画風こそ異なるものの、二人の男女が浜辺で別の女性を殺す場面は、簡素なタッチで力の入り方や体重のかけ方までがよく分かるものであるのと同時に、後年の水浴図を思わせる堅固な構図とか、果物図に繋がる色彩のリズムは、すでにそこにあるようにも見えるし、カード遊びをする人たちはこの延長にあるようにも思われる。
絵から意味を取り去ってしまうことへの確信はまだない中で、こうした題材を通してセザンヌは自らの表現を追求していた・・・
ジョン・バイアム・リストン・ショーの 「人生とはこうしたもの」(1907リーズ美術館)は、画面右には口づけをする若い2人、その背後には警官、左にはそれを見てただただ笑う道化師がいるという不可思議な作品だ。
Such is Life というタイトルもよくわからないが、つまりは Love is Blind ということなのではないか。
自分(たち)のことに没入して周りが見えなくなっていても、実はそれを監視する人や嘲笑する人が常に傍らにいる、世の中とはそうしたもの・・・
2017年11月24日
禅書画のたのしみ、白隠の法系と孤高の風外
(早稲田大学會津八一記念博物館 〜11/25)
富岡重憲コレクション展示室の今回の特集展示は ” 禅書画のたのしみ” と題して、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つの禅宗の書画を取り混ぜて紹介していた。
臨済宗は、白隠の師で先ごろ飯山まで見に行った正受老人*を中心に置くと、その師と弟子が五代にわたって並ぶ格好となっており、祖師 愚堂東寔の 「坐禅偈」と、師の至道無難 「仮名法語『即心記』」は、几帳面な字と自然体の字が好対照をなしていた。
弟子の 白隠慧鶴*の 「のゝ袋図」は、袋と杖と団扇で布袋を暗示するシンプルな図柄だが、袋を太い線で画面いっぱいに描いてその途方もない大きさを示していた。
白隠の弟子 遂翁元盧の 「豊干図」は、虎を連れながらも寒山拾得がいないためか寂しそうな様子、どこに視線を向けているのかわからない孤独感は、この時の遂翁の心象風景だろうか。
一方、東嶺圓慈の 「趙州胡蘆図」は瓢箪をど真ん中に堂々と描く軸、趙州の問答を踏まえて初祖達磨にひけをとらない存在感を漂わせていて、”微細東嶺” と ”大器遂翁” の称号がここでは逆転しているようにも思われた。**
この2人より三代下の 蘇山玄喬の 「大燈国師図」で、瓜を持つ手が大きい一方で足が小さく弱々しく見えるのは、足無しでという呼びかけに対して手無しでと大燈が応じたとの故事を踏まえているのか、白隠とは全く違うアプローチによりながらもこの風変わりな人物をよく表していた。
曹洞宗では 風外慧薫の 「風外自画像」が傑出していた。
洞穴に住んで ”穴風外” と呼ばれたという人物らしく、へっぴり腰で杖を手に立つみすぼらしい姿として描かれているが、しかしその目は透徹し表情もしっかりしていて、人間は中身こそが勝負なのだという自負心が窺えるようでもあった。
風外本高の 「山水図」に見る後ろ向きの人物は本人なのか、その目の前には松のような木が立ち、彼方には高い山が望まれる。そこにはもう雪が積もっているのか、ただ冷たい風が吹き過ぎていくような光景にはどんな思いを込めたのだろう。
黄檗宗は、隠元隆の大字 「獅子吼」などはさすがの迫力だが、臨済・曹洞の日本人僧による禅書画と比べると、とにかく真面目で力が入っている。
それは萬福寺の整然とした伽藍配置などにも通じるのかもしれないが、この宗派の文化には斜に構えたり意表を突いたりといったことはなかったのだろうか・・・
富岡重憲コレクション展示室の今回の特集展示は ” 禅書画のたのしみ” と題して、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つの禅宗の書画を取り混ぜて紹介していた。
臨済宗は、白隠の師で先ごろ飯山まで見に行った正受老人*を中心に置くと、その師と弟子が五代にわたって並ぶ格好となっており、祖師 愚堂東寔の 「坐禅偈」と、師の至道無難 「仮名法語『即心記』」は、几帳面な字と自然体の字が好対照をなしていた。
弟子の 白隠慧鶴*の 「のゝ袋図」は、袋と杖と団扇で布袋を暗示するシンプルな図柄だが、袋を太い線で画面いっぱいに描いてその途方もない大きさを示していた。
白隠の弟子 遂翁元盧の 「豊干図」は、虎を連れながらも寒山拾得がいないためか寂しそうな様子、どこに視線を向けているのかわからない孤独感は、この時の遂翁の心象風景だろうか。
一方、東嶺圓慈の 「趙州胡蘆図」は瓢箪をど真ん中に堂々と描く軸、趙州の問答を踏まえて初祖達磨にひけをとらない存在感を漂わせていて、”微細東嶺” と ”大器遂翁” の称号がここでは逆転しているようにも思われた。**
この2人より三代下の 蘇山玄喬の 「大燈国師図」で、瓜を持つ手が大きい一方で足が小さく弱々しく見えるのは、足無しでという呼びかけに対して手無しでと大燈が応じたとの故事を踏まえているのか、白隠とは全く違うアプローチによりながらもこの風変わりな人物をよく表していた。
曹洞宗では 風外慧薫の 「風外自画像」が傑出していた。
洞穴に住んで ”穴風外” と呼ばれたという人物らしく、へっぴり腰で杖を手に立つみすぼらしい姿として描かれているが、しかしその目は透徹し表情もしっかりしていて、人間は中身こそが勝負なのだという自負心が窺えるようでもあった。
風外本高の 「山水図」に見る後ろ向きの人物は本人なのか、その目の前には松のような木が立ち、彼方には高い山が望まれる。そこにはもう雪が積もっているのか、ただ冷たい風が吹き過ぎていくような光景にはどんな思いを込めたのだろう。
黄檗宗は、隠元隆の大字 「獅子吼」などはさすがの迫力だが、臨済・曹洞の日本人僧による禅書画と比べると、とにかく真面目で力が入っている。
それは萬福寺の整然とした伽藍配置などにも通じるのかもしれないが、この宗派の文化には斜に構えたり意表を突いたりといったことはなかったのだろうか・・・
2017年11月23日
小倉貴久子〜3台のフォルテピアノで聴く贅沢な夜
北とぴあ国際音楽祭2017から、”ベートーヴェン、シューマン、ショパンが愛したピアノたち〜3台のフォルテピアノで聴く贅沢な夜〜” を聞いた。
(2017年11月22日(水)19:00〜 北とぴあ さくらホール)
ステージ上にはウィーン古典派時代の ヴァルター(Anton Walter)、ロマン派の銘器 J.B.シュトライヒャー(Johann Baptist Streicher)、パリで人気を博した プレイエル(Ignace Pleyel) が並び、各時代のピアノの名曲と歌曲が演奏された。
【A.ヴァルター(1795年製の楽器のレプリカ)】
W.A.モーツァルト: 「あぁお母様聞いてちょうだい」による12の変奏曲 ハ長調K.265
L.v.ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 嬰ハ短調 作品27-2「月光」
【J.B.シュトライヒャー(1845年製)】
F.シューベルト: ます D550、セレナード D957-4、音楽に寄せて D547
F.メンデルスゾーン: 歌の翼に 作品34-2、春の想い 9-8
R.シューマン: 献呈 作品25-1、僕は夢の中で泣いた 48-13、ぼくの美しい星 101-4
〜休憩〜
R.シューマン: パピヨン ニ長調 作品2
【I.プレイエル(1848年製)】
F.ショパン: ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35「葬送」
(アンコール)
ポリーヌ・ヴィアルド: 愛の嘆き(ショパンのマズルカより)
バッハ=グノー: アヴェ・マリア
フォルテピアノ: 小倉 貴久子
テノール: ルーファス・ミュラー
ヴァルターによる モーツァルトの 「きらきら星変奏曲」は、まさにこの楽器に合わせて書かれたことが実感されるしっくりした響きだった。
小倉貴久子さんの演奏もひとつひとつの変奏をそれぞれの性格に合わせて丁寧に弾き分け、作品と楽器の魅力を最大限に引き出していた。
ベートーヴェンの 「月光ソナタ」は、第騎攵呂任呂劼兇覗犧遒垢襯撻瀬襪鮖箸い段しの状態で演奏するとのこと、解放された弦の自然な減衰と新たな音が丁度よくブレンドされていくのも、楽器の特性を熟知した作曲家と演奏家の共同作業を見るようで、現代ピアノでは聞いたことのない靄のかかったような空気感と幻想性が感じられた。
一方、楽器を120%生かしたという第軍攵呂呂気垢に鳴りが足りない感じが否めず、この時点で曲が楽器の限界を超えていることは明らなように思われるが、それでも楽聖は後世の楽器が追い付いてくることを信じて書いたということなのだろう。
1845年製の シュトライヒャーにはテノールが加わってロマン派の歌曲が披露されたが、ルーファス・ミュラーの歌が思っていた以上に本格的で、昔懐かしい曲の数々が楽しめた。フォルテピアノは伴奏にまわったものの、特に シューベルトの 「音楽に寄せて」ではこの楽器の持ち味がよく出ていた。
また、シューマンの3曲は特に熱演だったけれど、贅沢な望みながらこの響きでシューベルトのソナタをじっくり聞いてみたい気もした。
休憩後の1曲目は同じ シュトライヒャーで シューマンの 「パピヨン」だったが、敢えて言えばこの部分にこの日一番のフラストレーションを覚えた。それは楽器のコンディションによるものなのか、あるいは ”名曲度” が低いからであって 「クライスレリアーナ」などでは違った結果になった可能性もあるが、そこには曲の構造だけでなく響きの陰翳の豊かさで聴かせるというシューマンの音楽ならではの要因があったようにも思う。
ここまでのウィーンの楽器に対し、パリの プレイエル(1848年製)の芳醇な艶やかさは ショパン向きの響き、前の二つの楽器では 「葬送ソナタ」の魅力は引き出されにくいだろう。
この楽器がなくてもショパンは同じような曲を書いただろうが、パリのサロンで熱狂的に迎えられたのかどうか、もしかしたら売れっ子ピアニストになることはなく、その作品も現代まで残ることはなかったかもしれない。
楽器の性格に寄り添いながらショパンの思いを再現するような演奏も素晴らしく、特に 葬送行進曲の中間部はプレイエルを愛したショパンの魂とじかに交信しているようだった。
アンコールは再びテノールが登場、ショパンの弟子の ポリーヌ・ヴィアルドがショパンのマズルカに歌詞をつけたという 「愛の嘆き」、そして最後は バッハ=グノーの 「アヴェ・マリア」がのびやかに演奏された。
北とぴあ国際音楽祭に出かけたのは久しぶりのことだった、相変わらず意欲的なプログラムが並んでおり、その中でこうした上質の音楽を低廉な料金で聞かせてもらえたのは有難いことだった。
実は3台の古楽器の音色を聴き比べるという企画モノと思って出かけたコンサートだったのだが、当然ながら主役は楽器ではなく音楽家であり、予想していた以上に充実した演奏にふれて ”楽興の時” を満喫できた夜だった。
(関連記事)
仲道郁代、3台ピアノの響きとともに 1、2
北とぴあ国際音楽祭2013 中世貴婦人たちの恋模様
北とぴあ国際音楽祭2005 モーツァルトのレクィエム
(2017年11月22日(水)19:00〜 北とぴあ さくらホール)
ステージ上にはウィーン古典派時代の ヴァルター(Anton Walter)、ロマン派の銘器 J.B.シュトライヒャー(Johann Baptist Streicher)、パリで人気を博した プレイエル(Ignace Pleyel) が並び、各時代のピアノの名曲と歌曲が演奏された。
【A.ヴァルター(1795年製の楽器のレプリカ)】
W.A.モーツァルト: 「あぁお母様聞いてちょうだい」による12の変奏曲 ハ長調K.265
L.v.ベートーヴェン: ピアノ・ソナタ 嬰ハ短調 作品27-2「月光」
【J.B.シュトライヒャー(1845年製)】
F.シューベルト: ます D550、セレナード D957-4、音楽に寄せて D547
F.メンデルスゾーン: 歌の翼に 作品34-2、春の想い 9-8
R.シューマン: 献呈 作品25-1、僕は夢の中で泣いた 48-13、ぼくの美しい星 101-4
〜休憩〜
R.シューマン: パピヨン ニ長調 作品2
【I.プレイエル(1848年製)】
F.ショパン: ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35「葬送」
(アンコール)
ポリーヌ・ヴィアルド: 愛の嘆き(ショパンのマズルカより)
バッハ=グノー: アヴェ・マリア
フォルテピアノ: 小倉 貴久子
テノール: ルーファス・ミュラー
ヴァルターによる モーツァルトの 「きらきら星変奏曲」は、まさにこの楽器に合わせて書かれたことが実感されるしっくりした響きだった。
小倉貴久子さんの演奏もひとつひとつの変奏をそれぞれの性格に合わせて丁寧に弾き分け、作品と楽器の魅力を最大限に引き出していた。
ベートーヴェンの 「月光ソナタ」は、第騎攵呂任呂劼兇覗犧遒垢襯撻瀬襪鮖箸い段しの状態で演奏するとのこと、解放された弦の自然な減衰と新たな音が丁度よくブレンドされていくのも、楽器の特性を熟知した作曲家と演奏家の共同作業を見るようで、現代ピアノでは聞いたことのない靄のかかったような空気感と幻想性が感じられた。
一方、楽器を120%生かしたという第軍攵呂呂気垢に鳴りが足りない感じが否めず、この時点で曲が楽器の限界を超えていることは明らなように思われるが、それでも楽聖は後世の楽器が追い付いてくることを信じて書いたということなのだろう。
1845年製の シュトライヒャーにはテノールが加わってロマン派の歌曲が披露されたが、ルーファス・ミュラーの歌が思っていた以上に本格的で、昔懐かしい曲の数々が楽しめた。フォルテピアノは伴奏にまわったものの、特に シューベルトの 「音楽に寄せて」ではこの楽器の持ち味がよく出ていた。
また、シューマンの3曲は特に熱演だったけれど、贅沢な望みながらこの響きでシューベルトのソナタをじっくり聞いてみたい気もした。
休憩後の1曲目は同じ シュトライヒャーで シューマンの 「パピヨン」だったが、敢えて言えばこの部分にこの日一番のフラストレーションを覚えた。それは楽器のコンディションによるものなのか、あるいは ”名曲度” が低いからであって 「クライスレリアーナ」などでは違った結果になった可能性もあるが、そこには曲の構造だけでなく響きの陰翳の豊かさで聴かせるというシューマンの音楽ならではの要因があったようにも思う。
ここまでのウィーンの楽器に対し、パリの プレイエル(1848年製)の芳醇な艶やかさは ショパン向きの響き、前の二つの楽器では 「葬送ソナタ」の魅力は引き出されにくいだろう。
この楽器がなくてもショパンは同じような曲を書いただろうが、パリのサロンで熱狂的に迎えられたのかどうか、もしかしたら売れっ子ピアニストになることはなく、その作品も現代まで残ることはなかったかもしれない。
楽器の性格に寄り添いながらショパンの思いを再現するような演奏も素晴らしく、特に 葬送行進曲の中間部はプレイエルを愛したショパンの魂とじかに交信しているようだった。
アンコールは再びテノールが登場、ショパンの弟子の ポリーヌ・ヴィアルドがショパンのマズルカに歌詞をつけたという 「愛の嘆き」、そして最後は バッハ=グノーの 「アヴェ・マリア」がのびやかに演奏された。
北とぴあ国際音楽祭に出かけたのは久しぶりのことだった、相変わらず意欲的なプログラムが並んでおり、その中でこうした上質の音楽を低廉な料金で聞かせてもらえたのは有難いことだった。
実は3台の古楽器の音色を聴き比べるという企画モノと思って出かけたコンサートだったのだが、当然ながら主役は楽器ではなく音楽家であり、予想していた以上に充実した演奏にふれて ”楽興の時” を満喫できた夜だった。
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2017年11月21日
オットー・ネーベル-1 避難民、カラーアトラス
(ザ・ミュージアム 〜12/17)
オットー・ネーベル(1892-1973)は、チラシにあるように ”知られざるスイスの画家” に違いなく、だから バウハウスで出会ったという カンディンスキーや クレー、さらに シャガールらの応援も得て、ようやく ”色と形の冒険家たちの共演” という展覧会が成立したようにもみえるけれど、実際は思っていた以上に ネーベルの作品が充実していて独特の世界が広がっていた。
章立ても分かりやすく出来ていたので、それに沿って振り返っておく。
プロローグ:オットー・ネーベル―「シュトゥルム」と「バウハウス」時代の芸術家
Strum とBauhaus に集った芸術家たちの作品が幅広く集められている中で、ネーベルのリノカットも違和感なく溶け込んでいた。
1. 初期作品
初期段階からネーベルのクレー風ないしキュビズム的な作品の完成度は高く、中でも 「避難民」(1935)は本展屈指の作品だ。父と母が小さい子を連れて右の方へと逃げ延びていく、それはドイツを追われてベルンに向かったクレーやネーベルの姿でもあり、暗い色調の画面には哀愁が漂っているけれど、無邪気な子供の表情に救われる。しかしそれ以上に本作が眼を引くのは、くっきりとした線の組み合わせと緻密な点描による色彩の美しさだ。
2. 建築的景観
若い頃は建築を志したというネーベルの描く街の風景は、1929年から1931年という短い期間の中で、具象から抽象の一歩手前まで進んでいる。
3. 大聖堂とカテドラル
大聖堂の内陣壁面を画面いっぱいに描くことも、抽象絵画への後押しになったように思われた。
4. イタリアの色彩
イタリア旅行が大きな転換点となった画家は多いが、ネーベルも1931年に3か月間イタリア滞在したことが大きかったようだ。ネーベルに特徴的なのは、それぞれの街の印象を四角い色面の集合で表現し 「イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)」(1931)に纏めたことだ。そこにはナポリやポンペイ、ローマなどがそれらしい色合いで ”定義” されているのと同時に、具象は完全に排除されている。
後に描かれた 「シエナ」(1932)や 「地中海から(南国)」(1935)には風景らしき形が戻ってきているが、豊かな色彩の中には幸福感が溢れている。
また 「夜明けの港」(1961)の朱に染まる水面には、黒の線描による船が軽やかに浮かんでいた。
5. 千の眺めの町 ムサルターヤ
ここでは、珍しく人の顔を大きく捉えた 「東洋人の頭部」の陰気な表情が強烈な印象を残した。
6. 「音楽的」作品
ネーベルが抽象に向かうにあたって、音楽的な発想というものも大きな役割を果たしたようだが、そこでは ”ハーモニー” が特に重要だったのではないか。
「ドッピオ・モヴィメント(二倍の速さで)」(1936)はまだカンディンスキーに近いくっきりとした作風だが、「コン・テネレッツァ(優しく)」(1939)や 「アニマート」(1938)では重なり合う図形の色彩が混じり合い、平塗りではない繊細なマティエールによる微妙な色彩の諧調が楽しめた。
オットー・ネーベル(1892-1973)は、チラシにあるように ”知られざるスイスの画家” に違いなく、だから バウハウスで出会ったという カンディンスキーや クレー、さらに シャガールらの応援も得て、ようやく ”色と形の冒険家たちの共演” という展覧会が成立したようにもみえるけれど、実際は思っていた以上に ネーベルの作品が充実していて独特の世界が広がっていた。
章立ても分かりやすく出来ていたので、それに沿って振り返っておく。
プロローグ:オットー・ネーベル―「シュトゥルム」と「バウハウス」時代の芸術家
Strum とBauhaus に集った芸術家たちの作品が幅広く集められている中で、ネーベルのリノカットも違和感なく溶け込んでいた。
1. 初期作品
初期段階からネーベルのクレー風ないしキュビズム的な作品の完成度は高く、中でも 「避難民」(1935)は本展屈指の作品だ。父と母が小さい子を連れて右の方へと逃げ延びていく、それはドイツを追われてベルンに向かったクレーやネーベルの姿でもあり、暗い色調の画面には哀愁が漂っているけれど、無邪気な子供の表情に救われる。しかしそれ以上に本作が眼を引くのは、くっきりとした線の組み合わせと緻密な点描による色彩の美しさだ。
2. 建築的景観
若い頃は建築を志したというネーベルの描く街の風景は、1929年から1931年という短い期間の中で、具象から抽象の一歩手前まで進んでいる。
3. 大聖堂とカテドラル
大聖堂の内陣壁面を画面いっぱいに描くことも、抽象絵画への後押しになったように思われた。
4. イタリアの色彩
イタリア旅行が大きな転換点となった画家は多いが、ネーベルも1931年に3か月間イタリア滞在したことが大きかったようだ。ネーベルに特徴的なのは、それぞれの街の印象を四角い色面の集合で表現し 「イタリアのカラーアトラス(色彩地図帳)」(1931)に纏めたことだ。そこにはナポリやポンペイ、ローマなどがそれらしい色合いで ”定義” されているのと同時に、具象は完全に排除されている。
後に描かれた 「シエナ」(1932)や 「地中海から(南国)」(1935)には風景らしき形が戻ってきているが、豊かな色彩の中には幸福感が溢れている。
また 「夜明けの港」(1961)の朱に染まる水面には、黒の線描による船が軽やかに浮かんでいた。
5. 千の眺めの町 ムサルターヤ
ここでは、珍しく人の顔を大きく捉えた 「東洋人の頭部」の陰気な表情が強烈な印象を残した。
6. 「音楽的」作品
ネーベルが抽象に向かうにあたって、音楽的な発想というものも大きな役割を果たしたようだが、そこでは ”ハーモニー” が特に重要だったのではないか。
「ドッピオ・モヴィメント(二倍の速さで)」(1936)はまだカンディンスキーに近いくっきりとした作風だが、「コン・テネレッツァ(優しく)」(1939)や 「アニマート」(1938)では重なり合う図形の色彩が混じり合い、平塗りではない繊細なマティエールによる微妙な色彩の諧調が楽しめた。
2017年11月19日
運慶-6 運慶ベストテンと ”運慶度” 評価
(東京国立博物館 〜11/26、展示替えあり)
運慶は、彫刻家というよりは仏師であり慶派一門の棟梁であるので、彼自身が鑿を振るったかどうかだけではなく、親方として指揮を執ることによって生み出されたと思われる作品も重要だ。
制作の大部分は弟子が行ったとしても、コンセプトを定め、基本設計を行い、あるべき姿に近づけるべく助言を与えたものは ”運慶作” と考えるべきだろう。
一方で、同じ工房、同じプロジェクトの中で制作されたものであっても、親方 運慶の関わり方に濃淡があれば出来栄えにばらつきが出ることもある。
以前纏めてみた ”運慶作品、とりあえずの総括”* では、そのような運慶の ”関与” の度合いを3段階に分けてみたが、今回の展覧会で運慶作と考えられる31点全てを見ることができたので、あらためて好きな作品のベストテンを、一具の作品でまとめることなく一体単位であげていってみたい。
1.東大寺南大門 金剛力士吽形像 (国宝、1203年)*
2.興福寺北円堂 無著菩薩立像 (国宝、1212年)***
3.金剛峯寺 制多伽童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
この3体は、全身に力が漲る超人、知性と慈愛が滲む老人、若々しく溌剌とした少年、というそれぞれの世界観を代表するもので、彫刻芸術の到達点として順位付けは不要かもしれない。しかし、もし日本沈没とかいった事態で運慶作品を一体だけしか後世に残せないとしたら、何をおいても金剛力士像という選択になる。
4.興福寺北円堂 弥勒仏坐像 (国宝、1212年)*
5.円成寺 大日如来坐像 (国宝、1176年)**
運慶の人間観察の鋭さや造像技術の巧みさは、必ずしも仏像、特に如来向きではなかったように思うけれど、こちらに切り込んでくるような厳しさのある晩年の弥勒と、孤独に宇宙と向き合うような若さが感じられる大日は、やはり素晴らしい。
6.東大寺俊乗堂 重源上人坐像 (国宝、1216年頃)**
唯一の肖像彫刻は、重源という僧がどういう存在だったか、そして運慶が自発的に取り組みたかったものが何だったかを示している。
7.願成就院 不動明王像 (国宝、1186年)**
仏像というよりは彫刻芸術というべき逞しい男の像。若き運慶が東国の新興武士政権と出会うことによって生まれることができた作品だろう。
8.金剛峯寺 矜羯羅童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
八大童子では 恵光童子も拮抗する出来栄えだと思うけれど、眼光鋭い戦闘的な部分は 3.の制多伽童子に任せ、ここでは静かに合掌する内気そうな少年に2人目として登場してもらおう。
9.興福寺北円堂 世親菩薩立像 (国宝、1212年)***
10.浄楽寺 不動明王立像 (重文、1189年)**
本像を初めて見たときは感心したけれど、願成就院の不動と比べれば相対的に緩い感じは否めず、最後の椅子をめぐっては 願成就院の 毘沙門天や 金剛峯寺 八大童子の 恵光童子とも際どく競った。単体の出来栄えとしては別の選択になるかもしれないが、彫刻作品を超えた礼拝対象としての神秘性なども加味し、ここは同僚が既にランクインしている像にはご遠慮願って 浄楽寺代表としてお入りいただこう。
以下に、”運慶度” が極めて高いと思われる作品を続ける。
11.願成就院 毘沙門天像 (国宝、1186年)**
12.金剛峯寺 恵光童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
13.東大寺南大門 金剛力士阿形像 (国宝、1203年)*
これは快慶の貢献が大きかった考えられることもあり前回は「B]に分類したが、やはり総合プロデューサーとしての運慶の力量なしには考えられない。
14.金剛峯寺 恵喜童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
以上の14体に、7.の眷属である 制吒迦童子と 矜羯羅童子を加えた 16体を、以前分類*してみた 「A: ”運慶の仕事” であることを強く感じるもの」 の最新版としたい。
なお、今回は未見だった 浄楽寺阿弥陀三尊および 滝山寺聖観音(計4体)を含めてじっくり見ることができたので、整理の意味でこれに続く 「B」、「C」もアップデートしておく。
「B: ”運慶の仕事” であることを相当程度感じるもの」 のグループは以下の 8体
17〜19.浄楽寺 阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩像 (重文、1189年)*
20〜21.金剛峯寺 清浄比丘童子、烏倶婆誐童子像 (八大童子立像、同上)**
22.六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像 (重文、1196年頃)***
23.浄楽寺 毘沙門天立像 (重文、1189年)**
24.真如苑 大日如来坐像 (重文、1193年)***
「C: ”運慶の仕事” として一定の可能性を感じるもの」 は若干疑問を残しつつ以下の 7体
25.興福寺 木造仏頭 (重文、1186年)***
26.願成就院 阿弥陀如来坐像 (国宝、1186年)*
27.光得寺 大日如来坐像 (重文、1199年)*
28.滝山寺 聖観音像 (重文、1201年)*
29〜30.滝山寺 梵天、帝釈天 (重文、1201年)***
31.称名寺光明院 大威徳明王像 (重文、1216年)**
以上の 31体のほか、資料的な問題とは別に出来栄えだけを見れば上記 「C」に匹敵するものとして、
32.現在は興福寺南円堂にあり本来は北円堂のものと考えられる四天王像*の中の 多聞天*
33〜34.浄瑠璃寺旧蔵の十二神将*のうち、戌神(東博)*と 卯神(静嘉堂)*
35.京都・東福寺の 多聞天*
の4体を加えた合計 35体を、現段階での私の ”運慶リスト” としておきたい。
(注: 以上は像内納入品等には関係なく、専ら像を見た際の印象による。)
<ベストテン・シリーズ>
ボス、ブリューゲル、クラーナハ、レンブラント、フェルメール、ゴーギャン、
ゴッホ、ムンク
牧谿、宗達、白隠、蕪村、若冲、応挙、仙
運慶は、彫刻家というよりは仏師であり慶派一門の棟梁であるので、彼自身が鑿を振るったかどうかだけではなく、親方として指揮を執ることによって生み出されたと思われる作品も重要だ。
制作の大部分は弟子が行ったとしても、コンセプトを定め、基本設計を行い、あるべき姿に近づけるべく助言を与えたものは ”運慶作” と考えるべきだろう。
一方で、同じ工房、同じプロジェクトの中で制作されたものであっても、親方 運慶の関わり方に濃淡があれば出来栄えにばらつきが出ることもある。
以前纏めてみた ”運慶作品、とりあえずの総括”* では、そのような運慶の ”関与” の度合いを3段階に分けてみたが、今回の展覧会で運慶作と考えられる31点全てを見ることができたので、あらためて好きな作品のベストテンを、一具の作品でまとめることなく一体単位であげていってみたい。
1.東大寺南大門 金剛力士吽形像 (国宝、1203年)*
2.興福寺北円堂 無著菩薩立像 (国宝、1212年)***
3.金剛峯寺 制多伽童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
この3体は、全身に力が漲る超人、知性と慈愛が滲む老人、若々しく溌剌とした少年、というそれぞれの世界観を代表するもので、彫刻芸術の到達点として順位付けは不要かもしれない。しかし、もし日本沈没とかいった事態で運慶作品を一体だけしか後世に残せないとしたら、何をおいても金剛力士像という選択になる。
4.興福寺北円堂 弥勒仏坐像 (国宝、1212年)*
5.円成寺 大日如来坐像 (国宝、1176年)**
運慶の人間観察の鋭さや造像技術の巧みさは、必ずしも仏像、特に如来向きではなかったように思うけれど、こちらに切り込んでくるような厳しさのある晩年の弥勒と、孤独に宇宙と向き合うような若さが感じられる大日は、やはり素晴らしい。
6.東大寺俊乗堂 重源上人坐像 (国宝、1216年頃)**
唯一の肖像彫刻は、重源という僧がどういう存在だったか、そして運慶が自発的に取り組みたかったものが何だったかを示している。
7.願成就院 不動明王像 (国宝、1186年)**
仏像というよりは彫刻芸術というべき逞しい男の像。若き運慶が東国の新興武士政権と出会うことによって生まれることができた作品だろう。
8.金剛峯寺 矜羯羅童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
八大童子では 恵光童子も拮抗する出来栄えだと思うけれど、眼光鋭い戦闘的な部分は 3.の制多伽童子に任せ、ここでは静かに合掌する内気そうな少年に2人目として登場してもらおう。
9.興福寺北円堂 世親菩薩立像 (国宝、1212年)***
10.浄楽寺 不動明王立像 (重文、1189年)**
本像を初めて見たときは感心したけれど、願成就院の不動と比べれば相対的に緩い感じは否めず、最後の椅子をめぐっては 願成就院の 毘沙門天や 金剛峯寺 八大童子の 恵光童子とも際どく競った。単体の出来栄えとしては別の選択になるかもしれないが、彫刻作品を超えた礼拝対象としての神秘性なども加味し、ここは同僚が既にランクインしている像にはご遠慮願って 浄楽寺代表としてお入りいただこう。
以下に、”運慶度” が極めて高いと思われる作品を続ける。
11.願成就院 毘沙門天像 (国宝、1186年)**
12.金剛峯寺 恵光童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
13.東大寺南大門 金剛力士阿形像 (国宝、1203年)*
これは快慶の貢献が大きかった考えられることもあり前回は「B]に分類したが、やはり総合プロデューサーとしての運慶の力量なしには考えられない。
14.金剛峯寺 恵喜童子像 (八大童子立像、国宝、1197年)**
以上の14体に、7.の眷属である 制吒迦童子と 矜羯羅童子を加えた 16体を、以前分類*してみた 「A: ”運慶の仕事” であることを強く感じるもの」 の最新版としたい。
なお、今回は未見だった 浄楽寺阿弥陀三尊および 滝山寺聖観音(計4体)を含めてじっくり見ることができたので、整理の意味でこれに続く 「B」、「C」もアップデートしておく。
「B: ”運慶の仕事” であることを相当程度感じるもの」 のグループは以下の 8体
17〜19.浄楽寺 阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩像 (重文、1189年)*
20〜21.金剛峯寺 清浄比丘童子、烏倶婆誐童子像 (八大童子立像、同上)**
22.六波羅蜜寺 地蔵菩薩坐像 (重文、1196年頃)***
23.浄楽寺 毘沙門天立像 (重文、1189年)**
24.真如苑 大日如来坐像 (重文、1193年)***
「C: ”運慶の仕事” として一定の可能性を感じるもの」 は若干疑問を残しつつ以下の 7体
25.興福寺 木造仏頭 (重文、1186年)***
26.願成就院 阿弥陀如来坐像 (国宝、1186年)*
27.光得寺 大日如来坐像 (重文、1199年)*
28.滝山寺 聖観音像 (重文、1201年)*
29〜30.滝山寺 梵天、帝釈天 (重文、1201年)***
31.称名寺光明院 大威徳明王像 (重文、1216年)**
以上の 31体のほか、資料的な問題とは別に出来栄えだけを見れば上記 「C」に匹敵するものとして、
32.現在は興福寺南円堂にあり本来は北円堂のものと考えられる四天王像*の中の 多聞天*
33〜34.浄瑠璃寺旧蔵の十二神将*のうち、戌神(東博)*と 卯神(静嘉堂)*
35.京都・東福寺の 多聞天*
の4体を加えた合計 35体を、現段階での私の ”運慶リスト” としておきたい。
(注: 以上は像内納入品等には関係なく、専ら像を見た際の印象による。)
<ベストテン・シリーズ>
ボス、ブリューゲル、クラーナハ、レンブラント、フェルメール、ゴーギャン、
ゴッホ、ムンク
牧谿、宗達、白隠、蕪村、若冲、応挙、仙
2017年11月17日
運慶-5 工房と息子たち、再び源流へ
(東京国立博物館 〜11/26、展示替えあり)
重源上人坐像*から始まる ”第3章 運慶風の展開ー運慶の息子と周辺の仏師” では、運慶の教えを受けた息子たちや工房の弟子たちの作品を紹介する。
見上げるばかりの神奈川・満願寺の 「観音菩薩立像 地蔵菩薩立像」(重文、鎌倉時代・12〜13世紀)、手乗りのような京都・海住山寺の 「四天王立像」(重文、鎌倉時代・13世紀)、やや生硬さが感じられる京都・清水寺の 「観音菩薩立像 勢至菩薩立像」(重文、平安〜鎌倉時代・12〜13世紀)などは、単に何らかのつながりがありそうだということなのか、あるいは ”運慶作” への格上げ予備軍ということなのか。
そうだとすれば、見た印象では京都・東福寺の 「多聞天立像」(鎌倉時代・12〜13世紀)が、現時点では重文にも未指定のようだがその最右翼なのではないかと思う。若いというか幼いほどの表情なので多聞天としては違和感があるけれど、八大童子*に連なる個性と大胆さが感じられた。
長男の 湛慶については、おそらく三十三間堂(妙法院)の仕事がもっとも正統的なものと思われ、父 運慶の肖像彫刻も重要だと思うけれど、今回出てきていた 「千手観音菩薩坐像光背三十三身像のうち 迦楼羅・夜叉・執金剛神」(国宝、1254)や 「毘沙門天立像 吉祥天立像 善膩師童子立像」(重文、鎌倉時代・13世紀 高知・雪蹊寺)、「善妙神立像」(重文、鎌倉時代・13世紀 京都・高山寺)は、いずれも妖しげな感じを与える異色作という趣だ。
むしろ、超越性と親しみやすさがほどよく融合した 「神鹿」、愛くるしい目をしてちょこんと坐る姿がとにかく愛らしい 「子犬」*(いずれも重文、鎌倉時代・13世紀 京都・高山寺)が、湛慶のものかどうかは別としても面白かった。
三男の 康弁作 「龍燈鬼立像」(国宝、1215、奈良・興福寺)は国宝館で馴染みの像だが、あらためて見ればなかなかの彫刻作品であり、ユーモラスな表情としっかりした筋肉の対比も面白い。
今回は至近距離から360度じっくりと見ることができ、ほとんど剥き出しになったお尻のあたりのリアルさがよくわかった。
「天燈鬼立像」はそこまでの出来栄えではないが、龍燈鬼の相方として絶妙のポーズには違いない。
最後の部屋には 浄瑠璃寺伝来とされ今は東京国立博物館に5軀、静嘉堂文庫美術館に7軀と分蔵されてる 「十二神将立像」(重文、鎌倉時代・13世紀)全12体が揃っていた。
この作者について、静嘉堂は昨年5月に運慶作品である可能性をかなり匂わせる展示を行っていた*と記憶するのだが、今回の 東博の解説によれば、亥神は運慶没後5年の作と判明しており、12体が一具であることは間違いないから全体が工房作、ということで決着がついているようだった。
あらためて12体を見てみれば、仏像らしからぬ軽さの 子・丑・午・申・神・亥神、これとは逆に表現が過剰気味な 寅・辰・巳・未・酉神、といった具合に、十二神将だから変化を持たせてみたという以上のばらつきが感じられる。
そんな中で、以前から注目していた 卯神と 戌神は、運慶との近さを感じさせるしっかりした造形の像だった。
なお、11月に入って再訪したところ、康慶の 「地蔵菩薩坐像」(重文、1177、静岡・瑞林寺)が新たに出ていた。
若い頃の作品とのことだが実に人間らしい地蔵で、瞑想するように静かな運慶の地蔵に比べると、はっきりと目を開き今にも立ち上がって説法を始めそうな迫力だった。
一方、長岳寺の 阿弥陀三尊像*の中で唯一居残りとなった 「勢至菩薩坐像」が康慶の地蔵に場所を譲るように右側に移動していたのは、制作年代順を考慮してのことと思われるが、謎めいた微笑を浮かべた艶めかしい姿はもっと年代が下るように見えなくもない。
踏み降ろした右脚先の両端の指が上がっているところには洒落っ気も感じられ、最古の玉眼をもつというこの三尊像を作った仏師のことがますます気になってきた。
>運慶展 (2017、東京国立博物館)
長岳寺、父 康慶から運慶へ 願成就院と 浄楽寺の新しい風 八大童子、北円堂の二菩薩と四天王
運慶の実像と彩色、像内納入品 工房と息子たち、再び源流へ
重源上人坐像*から始まる ”第3章 運慶風の展開ー運慶の息子と周辺の仏師” では、運慶の教えを受けた息子たちや工房の弟子たちの作品を紹介する。
見上げるばかりの神奈川・満願寺の 「観音菩薩立像 地蔵菩薩立像」(重文、鎌倉時代・12〜13世紀)、手乗りのような京都・海住山寺の 「四天王立像」(重文、鎌倉時代・13世紀)、やや生硬さが感じられる京都・清水寺の 「観音菩薩立像 勢至菩薩立像」(重文、平安〜鎌倉時代・12〜13世紀)などは、単に何らかのつながりがありそうだということなのか、あるいは ”運慶作” への格上げ予備軍ということなのか。
そうだとすれば、見た印象では京都・東福寺の 「多聞天立像」(鎌倉時代・12〜13世紀)が、現時点では重文にも未指定のようだがその最右翼なのではないかと思う。若いというか幼いほどの表情なので多聞天としては違和感があるけれど、八大童子*に連なる個性と大胆さが感じられた。
長男の 湛慶については、おそらく三十三間堂(妙法院)の仕事がもっとも正統的なものと思われ、父 運慶の肖像彫刻も重要だと思うけれど、今回出てきていた 「千手観音菩薩坐像光背三十三身像のうち 迦楼羅・夜叉・執金剛神」(国宝、1254)や 「毘沙門天立像 吉祥天立像 善膩師童子立像」(重文、鎌倉時代・13世紀 高知・雪蹊寺)、「善妙神立像」(重文、鎌倉時代・13世紀 京都・高山寺)は、いずれも妖しげな感じを与える異色作という趣だ。
むしろ、超越性と親しみやすさがほどよく融合した 「神鹿」、愛くるしい目をしてちょこんと坐る姿がとにかく愛らしい 「子犬」*(いずれも重文、鎌倉時代・13世紀 京都・高山寺)が、湛慶のものかどうかは別としても面白かった。
三男の 康弁作 「龍燈鬼立像」(国宝、1215、奈良・興福寺)は国宝館で馴染みの像だが、あらためて見ればなかなかの彫刻作品であり、ユーモラスな表情としっかりした筋肉の対比も面白い。
今回は至近距離から360度じっくりと見ることができ、ほとんど剥き出しになったお尻のあたりのリアルさがよくわかった。
「天燈鬼立像」はそこまでの出来栄えではないが、龍燈鬼の相方として絶妙のポーズには違いない。
最後の部屋には 浄瑠璃寺伝来とされ今は東京国立博物館に5軀、静嘉堂文庫美術館に7軀と分蔵されてる 「十二神将立像」(重文、鎌倉時代・13世紀)全12体が揃っていた。
この作者について、静嘉堂は昨年5月に運慶作品である可能性をかなり匂わせる展示を行っていた*と記憶するのだが、今回の 東博の解説によれば、亥神は運慶没後5年の作と判明しており、12体が一具であることは間違いないから全体が工房作、ということで決着がついているようだった。
あらためて12体を見てみれば、仏像らしからぬ軽さの 子・丑・午・申・神・亥神、これとは逆に表現が過剰気味な 寅・辰・巳・未・酉神、といった具合に、十二神将だから変化を持たせてみたという以上のばらつきが感じられる。
そんな中で、以前から注目していた 卯神と 戌神は、運慶との近さを感じさせるしっかりした造形の像だった。
なお、11月に入って再訪したところ、康慶の 「地蔵菩薩坐像」(重文、1177、静岡・瑞林寺)が新たに出ていた。
若い頃の作品とのことだが実に人間らしい地蔵で、瞑想するように静かな運慶の地蔵に比べると、はっきりと目を開き今にも立ち上がって説法を始めそうな迫力だった。
一方、長岳寺の 阿弥陀三尊像*の中で唯一居残りとなった 「勢至菩薩坐像」が康慶の地蔵に場所を譲るように右側に移動していたのは、制作年代順を考慮してのことと思われるが、謎めいた微笑を浮かべた艶めかしい姿はもっと年代が下るように見えなくもない。
踏み降ろした右脚先の両端の指が上がっているところには洒落っ気も感じられ、最古の玉眼をもつというこの三尊像を作った仏師のことがますます気になってきた。
>運慶展 (2017、東京国立博物館)
長岳寺、父 康慶から運慶へ 願成就院と 浄楽寺の新しい風 八大童子、北円堂の二菩薩と四天王
運慶の実像と彩色、像内納入品 工房と息子たち、再び源流へ
2017年11月15日
怖い絵-3 日常の裏側と死の誘惑
(上野の森美術館 〜12/17)
”第2章 悪魔、地獄、怪物”*に続く ”第3章 異界と幻視” では チャールズ・シムズ(1873-1928)というイギリス人画家の 「ワインをたらふく飲む君と僕にこれらが何だというのか」(1895、リーズ美術館)が面白かった。
長い不可思議なタイトルには特定の含意があるのかもしれないが、これは酒の酩酊感、ワインを飲むことで日常が別世界へと変わっていく感じをよく表している。
光輪をつけ傍らに立つ二人の女は確かに天使なのか女給なのか不明だが、現世から異界へ誘う存在として別の時間の始まりを司っているようであり、その聖画風の画面が闇の底知れなさを示しているようにも思われた。
同じ チャールズ・シムズの 「そして妖精たちは服を持って逃げた」(1918-19頃、リーズ美術館)は一転して印象派風の明るい画面、母と子が草の上でくつろいでいるところに小さな妖精たちが現れて服を持っていくというメルヘンティックな世界だ。
しかし解説によればこれは単なる妖精画ではなく、戦争で長男を殺されたことの暗喩であり、画家自身も精神を病んで自殺に至ったということらしい。
絵からそこまではとても読み取れないが、背景やナラティヴで絵を読み解いていくことが 「怖い絵」*の基本コンセプトなので、こうしたことで視点ががらりと変わる面白さを楽しむことにしよう。
ジョセフ・ライトの 「老人と死」(1775頃、リバプール国立美術館)は、仕事が辛くて死にたいと口走ると本当に死神がやってくる、というイソップ物語に取材した笑い話ではあるが、そのメッセージはなにやら切実だ。
死にたいと思うことはあっても、そして口では死にたいと言ったとしても、実際に死が迫ってくる場面では、人はどうしても生きたいと願いそういう行動をとってしまう、そんな滑稽な存在だということをあらためて思い知らされる。
このあたり、今までは名前も知らなかった画家の作品にじっくり見入ることができたのも 「怖い絵」展の大きなメリットだが、一方でさすがに有名な画家は国内美術館蔵の版画であっても独特の世界観が伝わってくる。
前章の ビアズリー 「ワイルド『サロメ』より」(1894、個人蔵)*では、「章末飾り」の悪魔たちにこの画家ならではの冴えが感じられたし、ルドンの 「エドガー・ポーに」の連作の 「仮面は弔いの鐘を鳴らす」(1882、岐阜県美術館蔵)*などはキャプションが効いていた。
ゴヤの 「恐怖の妾」、ムンクの「マドンナ」、マックス・クリンガーの 「手袋」*の連作などはそれぞれに吸引力が強く、それでなくても混雑する会場の中で停滞を招いていたところが痛し痒しという感じだった。
”第2章 悪魔、地獄、怪物”*に続く ”第3章 異界と幻視” では チャールズ・シムズ(1873-1928)というイギリス人画家の 「ワインをたらふく飲む君と僕にこれらが何だというのか」(1895、リーズ美術館)が面白かった。
長い不可思議なタイトルには特定の含意があるのかもしれないが、これは酒の酩酊感、ワインを飲むことで日常が別世界へと変わっていく感じをよく表している。
光輪をつけ傍らに立つ二人の女は確かに天使なのか女給なのか不明だが、現世から異界へ誘う存在として別の時間の始まりを司っているようであり、その聖画風の画面が闇の底知れなさを示しているようにも思われた。
同じ チャールズ・シムズの 「そして妖精たちは服を持って逃げた」(1918-19頃、リーズ美術館)は一転して印象派風の明るい画面、母と子が草の上でくつろいでいるところに小さな妖精たちが現れて服を持っていくというメルヘンティックな世界だ。
しかし解説によればこれは単なる妖精画ではなく、戦争で長男を殺されたことの暗喩であり、画家自身も精神を病んで自殺に至ったということらしい。
絵からそこまではとても読み取れないが、背景やナラティヴで絵を読み解いていくことが 「怖い絵」*の基本コンセプトなので、こうしたことで視点ががらりと変わる面白さを楽しむことにしよう。
ジョセフ・ライトの 「老人と死」(1775頃、リバプール国立美術館)は、仕事が辛くて死にたいと口走ると本当に死神がやってくる、というイソップ物語に取材した笑い話ではあるが、そのメッセージはなにやら切実だ。
死にたいと思うことはあっても、そして口では死にたいと言ったとしても、実際に死が迫ってくる場面では、人はどうしても生きたいと願いそういう行動をとってしまう、そんな滑稽な存在だということをあらためて思い知らされる。
このあたり、今までは名前も知らなかった画家の作品にじっくり見入ることができたのも 「怖い絵」展の大きなメリットだが、一方でさすがに有名な画家は国内美術館蔵の版画であっても独特の世界観が伝わってくる。
前章の ビアズリー 「ワイルド『サロメ』より」(1894、個人蔵)*では、「章末飾り」の悪魔たちにこの画家ならではの冴えが感じられたし、ルドンの 「エドガー・ポーに」の連作の 「仮面は弔いの鐘を鳴らす」(1882、岐阜県美術館蔵)*などはキャプションが効いていた。
ゴヤの 「恐怖の妾」、ムンクの「マドンナ」、マックス・クリンガーの 「手袋」*の連作などはそれぞれに吸引力が強く、それでなくても混雑する会場の中で停滞を招いていたところが痛し痒しという感じだった。
2017年11月14日
ブロムシュテット、ゲヴァントハウスのドイツ・レクイエム
ブロムシュテットの指揮による ブラームスの 「ドイツ・レクイエム op.45」を聞いた。
(2017年11月13日(月) 19:00〜)
ヘルベルト・ブロムシュテット
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ウィーン楽友協会合唱団
ハンナ・モリソン(ソプラノ)、ミヒャエル・ナジ(バリトン)
第1曲 悲しんでいる人々は幸いである (マタイ伝5:4、詩篇126:5-6) ヘ長調 4/4
ゲヴァントハウス管弦楽団の低弦は、冒頭のシンプルな刻みからすでに深いニュアンスを湛え、徐々に音楽が形をあらわして来るにしたがって、ドイツの思索の森へと誘われていく。そして聞こえてきた ウィーン楽友協会合唱団の合唱は実に純度が高く、真摯な祈りの精神がそのまま塊となって天に昇っていくようだ。
ブラームスの精神を完全に理解し血肉としているような人たちの奏でる音に包まれ、早くも本場の底力というものを感じさせられた。
第2曲 人は皆草のごとく (ペテロ1:24、ヤコブ書5:7、イザヤ書35:10) 変ロ短調 3/4
重たい足取りによる行進曲を、ブロムシュテットは一歩一歩踏み固めるように進めていく。
中間部になると一転して眩しいほどの明るい光がさしてくる、このあたりの歌わせ方も見事としか言いようがないが、再び元のテーマに戻ると圧倒的な厚みを得て運命の重さを感じさせ、希望を追い求めるようにして終わった。
第3曲 主よ、我が終わりと、我が日の数の (詩篇39:4-7、知恵の書3:1) ニ短調 2/2
悲劇的なバリトンのモノローグは ブラームスの肉声だろうか。20歳から35歳までの15年を要したというこの曲にはさまざまな思いが籠められているはずだが、ここには恩師シューマンの死に対する悲しみや当惑が最もストレートに出ているように思う。
安定感ある ミヒャエル・ナジの歌はドイツの知性や苦悩をよく体現し、それを引き継いだオーケストラと合唱によるスケールの大きなフーガが圧倒的な頂点を築いた。
第4曲 万軍の主よ、あなたの住まいは (詩篇84:1-2、4) 変ホ長調 3/4拍子
重厚な響きから一転して平和な情感あふれるチャーミングな曲、CDで聞いているとこのあたりで集中が途切れることが多いのだが、こういうところで充実した時間に浸らせてくれるところが、一流の証しというものなのであろう。
今回この曲を、ブロムシュテット& ゲヴァントハウスというだけでなく、ウィーン楽友協会合唱団で聞くことができたのはとにかくありがたいことだったけれど、彼らはこのワンステージのために来日してくれたのだろうか。
第5曲 このように、あなた方にも今は (ヨハネ伝16:22、シラ書51:27、イザヤ書66:13) ト長調 4/4
ソプラノがソロをとる慰めの歌、ハンナ・モリソンの清澄な歌声と腕達者な管楽器のソロが親密な語らいを続け、弦や合唱が見守るように柔らかく包む。
この楽章では合唱団を座らせての演奏、そういえば第2曲の後でも少し時間を取って一旦座らせていたけれど、ブロムシュテットはその間も立ちっぱなし、90歳のマエストロの体調こそ気がかりなのに、大変な体力と精神力だ。
第6曲 この地上に永遠の都はない (ヘブル書13:14、コリント前15:51-55、黙示録4:11) ハ短調 4/4
弦のピチカートがこれほど豊かなニュアンスをもち、腹の底まで直に届いてくるように感じさせるのも、創立275年というゲヴァントハウスの伝統の力であろう。
レクイエムはラテン語の祈祷文に従って作曲されるのが通常だが、プロテスタントである ブラームスは、ルターが訳したドイツ語版の聖書から選んだテキストを歌詞としてこのドイツ・レクィエムを作曲した。その中で、再びバリトンが力強く迫力ある歌を聞かせるこの楽章は、一曲の頂点となる ”怒りの日” を思わせる充実ぶりで、大きな歩みのフーガが極めていく道は、果てしなく遠い。
第7曲 今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである (黙示録14:13) ヘ長調 4/4
最後は永遠の憩いを確信させる心穏やかな歌、苦悩や悲劇は過ぎ去ったかに思えるが、しかしそれは遥かな高みや彼岸的世界というよりは、あくまでも人間の領域での救いの歌のようだ。
レクィエムと言いながらカトリックの典礼音楽ではない、死者のための音楽ではなくプロテスタントのものでもない、それは今に生きる我々のための慰めの音楽だ、と開演前のプレトークで 西村朗氏が語られていたことがあらためて思い出された。
これ以上ない演奏家を得て、純度が高く、密度の濃い、そして音楽的な美しさと作品の意味が理想的に融合した、素晴らしい ドイツ・レクイエム だった。
*ヘルベルト・ブロムシュテット、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、アニバーサリー・ツアー
〜楽団創立275年記念・初演作品によるプログラム〜
【A】 ブラームス: ドイツ・レクイエム op.45
【B】 ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調、シューベルト: 交響曲第8番 ハ長調 「ザ・グレイト」
【C】 メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲 ホ短調、ブルックナー: 交響曲第7番 ホ長調
11月7日(火) 19:00 札幌/札幌コンサートホールKitara 大ホール【C】
11月9日(木) 19:00 横浜/横浜みなとみらいホール 大ホール【B】
11月11日(土) 15:00 東京/サントリーホール【B】
11月12日(日) 15:00 東京/サントリーホール【C】
11月13日(月) 19:00 東京/NHKホール【A】
*ブロムシュテットの過去記事
モーツァルト: プラハ、第40番、ジュピター
ベートーヴェン: 皇帝、英雄、英雄(15) 、Vn協奏曲
ブラームス: Vn協奏曲、交響曲第1番、第2、3番、第4番、Vn協奏曲
ブルックナー: 交響曲第4番
マーラー: 交響曲第9番
チャイコフスキー: 交響曲第5番、悲愴
ラフマニノフ: Pf協奏曲第3番
シベリウス: タピオラ、交響曲第2番
チェコフィルとの田園、ブラ1
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(2017年11月13日(月) 19:00〜)
ヘルベルト・ブロムシュテット
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、ウィーン楽友協会合唱団
ハンナ・モリソン(ソプラノ)、ミヒャエル・ナジ(バリトン)
第1曲 悲しんでいる人々は幸いである (マタイ伝5:4、詩篇126:5-6) ヘ長調 4/4
ゲヴァントハウス管弦楽団の低弦は、冒頭のシンプルな刻みからすでに深いニュアンスを湛え、徐々に音楽が形をあらわして来るにしたがって、ドイツの思索の森へと誘われていく。そして聞こえてきた ウィーン楽友協会合唱団の合唱は実に純度が高く、真摯な祈りの精神がそのまま塊となって天に昇っていくようだ。
ブラームスの精神を完全に理解し血肉としているような人たちの奏でる音に包まれ、早くも本場の底力というものを感じさせられた。
第2曲 人は皆草のごとく (ペテロ1:24、ヤコブ書5:7、イザヤ書35:10) 変ロ短調 3/4
重たい足取りによる行進曲を、ブロムシュテットは一歩一歩踏み固めるように進めていく。
中間部になると一転して眩しいほどの明るい光がさしてくる、このあたりの歌わせ方も見事としか言いようがないが、再び元のテーマに戻ると圧倒的な厚みを得て運命の重さを感じさせ、希望を追い求めるようにして終わった。
第3曲 主よ、我が終わりと、我が日の数の (詩篇39:4-7、知恵の書3:1) ニ短調 2/2
悲劇的なバリトンのモノローグは ブラームスの肉声だろうか。20歳から35歳までの15年を要したというこの曲にはさまざまな思いが籠められているはずだが、ここには恩師シューマンの死に対する悲しみや当惑が最もストレートに出ているように思う。
安定感ある ミヒャエル・ナジの歌はドイツの知性や苦悩をよく体現し、それを引き継いだオーケストラと合唱によるスケールの大きなフーガが圧倒的な頂点を築いた。
第4曲 万軍の主よ、あなたの住まいは (詩篇84:1-2、4) 変ホ長調 3/4拍子
重厚な響きから一転して平和な情感あふれるチャーミングな曲、CDで聞いているとこのあたりで集中が途切れることが多いのだが、こういうところで充実した時間に浸らせてくれるところが、一流の証しというものなのであろう。
今回この曲を、ブロムシュテット& ゲヴァントハウスというだけでなく、ウィーン楽友協会合唱団で聞くことができたのはとにかくありがたいことだったけれど、彼らはこのワンステージのために来日してくれたのだろうか。
第5曲 このように、あなた方にも今は (ヨハネ伝16:22、シラ書51:27、イザヤ書66:13) ト長調 4/4
ソプラノがソロをとる慰めの歌、ハンナ・モリソンの清澄な歌声と腕達者な管楽器のソロが親密な語らいを続け、弦や合唱が見守るように柔らかく包む。
この楽章では合唱団を座らせての演奏、そういえば第2曲の後でも少し時間を取って一旦座らせていたけれど、ブロムシュテットはその間も立ちっぱなし、90歳のマエストロの体調こそ気がかりなのに、大変な体力と精神力だ。
第6曲 この地上に永遠の都はない (ヘブル書13:14、コリント前15:51-55、黙示録4:11) ハ短調 4/4
弦のピチカートがこれほど豊かなニュアンスをもち、腹の底まで直に届いてくるように感じさせるのも、創立275年というゲヴァントハウスの伝統の力であろう。
レクイエムはラテン語の祈祷文に従って作曲されるのが通常だが、プロテスタントである ブラームスは、ルターが訳したドイツ語版の聖書から選んだテキストを歌詞としてこのドイツ・レクィエムを作曲した。その中で、再びバリトンが力強く迫力ある歌を聞かせるこの楽章は、一曲の頂点となる ”怒りの日” を思わせる充実ぶりで、大きな歩みのフーガが極めていく道は、果てしなく遠い。
第7曲 今から後、主にあって死ぬ死人は幸いである (黙示録14:13) ヘ長調 4/4
最後は永遠の憩いを確信させる心穏やかな歌、苦悩や悲劇は過ぎ去ったかに思えるが、しかしそれは遥かな高みや彼岸的世界というよりは、あくまでも人間の領域での救いの歌のようだ。
レクィエムと言いながらカトリックの典礼音楽ではない、死者のための音楽ではなくプロテスタントのものでもない、それは今に生きる我々のための慰めの音楽だ、と開演前のプレトークで 西村朗氏が語られていたことがあらためて思い出された。
これ以上ない演奏家を得て、純度が高く、密度の濃い、そして音楽的な美しさと作品の意味が理想的に融合した、素晴らしい ドイツ・レクイエム だった。
*ヘルベルト・ブロムシュテット、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、アニバーサリー・ツアー
〜楽団創立275年記念・初演作品によるプログラム〜
【A】 ブラームス: ドイツ・レクイエム op.45
【B】 ブラームス: ヴァイオリン協奏曲 ニ長調、シューベルト: 交響曲第8番 ハ長調 「ザ・グレイト」
【C】 メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲 ホ短調、ブルックナー: 交響曲第7番 ホ長調
11月7日(火) 19:00 札幌/札幌コンサートホールKitara 大ホール【C】
11月9日(木) 19:00 横浜/横浜みなとみらいホール 大ホール【B】
11月11日(土) 15:00 東京/サントリーホール【B】
11月12日(日) 15:00 東京/サントリーホール【C】
11月13日(月) 19:00 東京/NHKホール【A】
*ブロムシュテットの過去記事
モーツァルト: プラハ、第40番、ジュピター
ベートーヴェン: 皇帝、英雄、英雄(15) 、Vn協奏曲
ブラームス: Vn協奏曲、交響曲第1番、第2、3番、第4番、Vn協奏曲
ブルックナー: 交響曲第4番
マーラー: 交響曲第9番
チャイコフスキー: 交響曲第5番、悲愴
ラフマニノフ: Pf協奏曲第3番
シベリウス: タピオラ、交響曲第2番
チェコフィルとの田園、ブラ1
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2017年11月12日
運慶-4 運慶の実像と彩色、像内納入品
(東京国立博物館 〜11/26、展示替えあり)
密度の濃さが尋常ではなかった第1会場*を抜けて第2会場へ、ここでまず迎えてくれたのは個人蔵からオークションを経て今は 真如苑真澄寺蔵となっている 「大日如来坐像」(重文、鎌倉時代・12〜13世紀)だった。これは、ここ東京国立博物館を舞台に数年前から議論**のあった像だが、今や押しも押されもしない ”運慶作品” になったようだ。
六波羅蜜寺の 「地蔵菩薩坐像」(重文、鎌倉時代・12世紀)*は、運慶のものとしては落ち着いた像だと思うけれど、地蔵としてはかなり人間臭い印象だ。ほとんど閉じたような細い目も玉眼としているところに、本像造立のもととなった人物の存在を強く感じさせる。
そして上記の大日如来が運慶作と認定されるにあたって重要な役割を果たした 光得寺の厨子入り 「大日如来坐像」(重文、鎌倉時代・12〜13世紀)、このあたりは前の部屋で見てきた童子や学者たち*とは違う宗教的・観念的な存在であるが、そうしたホトケが人間になった姿というべきか、あるいは ヒトの姿を借りて仏を表現したというべきか、ともかくも 運慶とは人間観察の人だったという思いを強くする。
運慶・湛慶作とされる 瀧山寺の 「聖観音菩薩立像」(重文、1201頃) は今回初見だったが、これは特に匂い立つような生々しい像で、生きた人がそこに立っているのではないかと思うようだった。
それは、頼朝の供養のために作られその遺髪を内部に納めているからなのか、特定のモデルを使ってその再現に力を注いだからなのか、ホトケと人の間で理想的なバランスを追求してきた運慶が、ここではかなり人間の方に傾斜しているように思われる。
一方で、そのあでやかな姿は敦煌の塑像やシルクロードの壁画の中の観音を想起させもするのだが、それはもちろん明治期に施された彩色の影響が大きいからにほかならない。
別の機会に本像の脇侍である 梵天・帝釈天*を見た時にも感じたことだが、この彩色がどの程度当初の姿を反映しているのか、そして何らかの方法で褪色した状態を見てみることはできないのか、などとどうしても思ってしまうし、そうでなければ ”運慶作品” としてどう考えればいいのか見当もつかない。
もっとも、いま残っている彩色のない八大童子は考えられないけれど、無著・世親菩薩や円成寺の大日如来が塗り直されたりしたらどういうことになってしまうのか、考えればなかなかに悩ましいことではある・・・
比較的最近運慶作という説が出た 光明院の 「大威徳明王坐像」(重文、1216)も、既に真作リストの中に定着したのだろうか。
像内納入品や文書があればその確度は格段に上がるのだとしても、興福寺北円堂の四天王のところでも書いたように*、”運慶作品” になるためにはそれだけで十分とは言えないのではないか。
東大寺の 「重源上人坐像」(国宝、鎌倉時代・13世紀)はこれとは逆に、運慶作を示す証拠らしきものが何もなくても、その作品を見ればこの作者は運慶しかいないと考えられてきた像だ。
それでも本作だけ次の ” 第3章 運慶風の展開ー運慶の息子と周辺の仏師” の中に入れられ、”運慶作” というキャプションもつけていないのは、学術的にはまだ運慶作と認定できないということなのだろう。
そう思って出品目録を見直してみると、他にも 真如苑と 光得寺の大日如来の2体が、同じように作者欄が空白という扱いになっている。しかしこれが東博の公式見解なら、本展に終結した運慶作品は22体ではなく19体と言わねばならないのではないか。
もっとも、可能性の高いものを含めた総数を31体としてそのうちの22体とのことであれば偽りとは言えず、もちろん 重源像も展示してくれたのは有難いことに違いないけれど、像内納入品などが出てこない限りこれが運慶作とされることはありえないのだろうか。
ともあれ、首をちょこんと前に突き出して数珠を繰る老いた姿は、美化していないようでいながら一定の理想化がなされているようでもあり、いずれにしてもこの老僧に対する絶対の信頼、深い帰依の心のみが可能にした造形だと思う。
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密度の濃さが尋常ではなかった第1会場*を抜けて第2会場へ、ここでまず迎えてくれたのは個人蔵からオークションを経て今は 真如苑真澄寺蔵となっている 「大日如来坐像」(重文、鎌倉時代・12〜13世紀)だった。これは、ここ東京国立博物館を舞台に数年前から議論**のあった像だが、今や押しも押されもしない ”運慶作品” になったようだ。
六波羅蜜寺の 「地蔵菩薩坐像」(重文、鎌倉時代・12世紀)*は、運慶のものとしては落ち着いた像だと思うけれど、地蔵としてはかなり人間臭い印象だ。ほとんど閉じたような細い目も玉眼としているところに、本像造立のもととなった人物の存在を強く感じさせる。
そして上記の大日如来が運慶作と認定されるにあたって重要な役割を果たした 光得寺の厨子入り 「大日如来坐像」(重文、鎌倉時代・12〜13世紀)、このあたりは前の部屋で見てきた童子や学者たち*とは違う宗教的・観念的な存在であるが、そうしたホトケが人間になった姿というべきか、あるいは ヒトの姿を借りて仏を表現したというべきか、ともかくも 運慶とは人間観察の人だったという思いを強くする。
運慶・湛慶作とされる 瀧山寺の 「聖観音菩薩立像」(重文、1201頃) は今回初見だったが、これは特に匂い立つような生々しい像で、生きた人がそこに立っているのではないかと思うようだった。
それは、頼朝の供養のために作られその遺髪を内部に納めているからなのか、特定のモデルを使ってその再現に力を注いだからなのか、ホトケと人の間で理想的なバランスを追求してきた運慶が、ここではかなり人間の方に傾斜しているように思われる。
一方で、そのあでやかな姿は敦煌の塑像やシルクロードの壁画の中の観音を想起させもするのだが、それはもちろん明治期に施された彩色の影響が大きいからにほかならない。
別の機会に本像の脇侍である 梵天・帝釈天*を見た時にも感じたことだが、この彩色がどの程度当初の姿を反映しているのか、そして何らかの方法で褪色した状態を見てみることはできないのか、などとどうしても思ってしまうし、そうでなければ ”運慶作品” としてどう考えればいいのか見当もつかない。
もっとも、いま残っている彩色のない八大童子は考えられないけれど、無著・世親菩薩や円成寺の大日如来が塗り直されたりしたらどういうことになってしまうのか、考えればなかなかに悩ましいことではある・・・
比較的最近運慶作という説が出た 光明院の 「大威徳明王坐像」(重文、1216)も、既に真作リストの中に定着したのだろうか。
像内納入品や文書があればその確度は格段に上がるのだとしても、興福寺北円堂の四天王のところでも書いたように*、”運慶作品” になるためにはそれだけで十分とは言えないのではないか。
東大寺の 「重源上人坐像」(国宝、鎌倉時代・13世紀)はこれとは逆に、運慶作を示す証拠らしきものが何もなくても、その作品を見ればこの作者は運慶しかいないと考えられてきた像だ。
それでも本作だけ次の ” 第3章 運慶風の展開ー運慶の息子と周辺の仏師” の中に入れられ、”運慶作” というキャプションもつけていないのは、学術的にはまだ運慶作と認定できないということなのだろう。
そう思って出品目録を見直してみると、他にも 真如苑と 光得寺の大日如来の2体が、同じように作者欄が空白という扱いになっている。しかしこれが東博の公式見解なら、本展に終結した運慶作品は22体ではなく19体と言わねばならないのではないか。
もっとも、可能性の高いものを含めた総数を31体としてそのうちの22体とのことであれば偽りとは言えず、もちろん 重源像も展示してくれたのは有難いことに違いないけれど、像内納入品などが出てこない限りこれが運慶作とされることはありえないのだろうか。
ともあれ、首をちょこんと前に突き出して数珠を繰る老いた姿は、美化していないようでいながら一定の理想化がなされているようでもあり、いずれにしてもこの老僧に対する絶対の信頼、深い帰依の心のみが可能にした造形だと思う。
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2017年11月10日
信濃美術館クロージング-3 私の、この一点
(長野県信濃美術館 9/30終了)
長野県信濃美術館の現建物による最後の展覧会である ”信濃美術館クロージング ネオヴィジョン新たな広がり” *の第二部 ”私の、この一点” に関する配布資料をあらためて眺めてみていたら、このクロージングにあたっての投票結果のランキングとコメントが記載されていた。
その前に、前回ふれた信濃路の風景画*以外の作品を振り返っておくと、倉島重友の 「謳」(1992)は大きな画面の中に3人の若い女性が立つ図で、それぞれ何をしているのかは定かではないが、清楚な乙女たちの夢見るような眼差しが印象的な作品だった。
三美神的な寓意画かとも思うけれど、もっと身近にいそうな感じの娘たちながら、今はどこを探してもめぐり合うことがかなわないようなノスタルジーを誘う絵でもある。
日本画に行くと、菱田春草(1、2、3)の 「羅浮仙」(1901頃)はさすがの品格だ。夢の中に現れる梅花の精が静かに歩む姿の妖しさが、繊細な筆で美しく描き出されている。
ほのかな明かりのなか、微かに笑みを浮かべる彼女が歩みを進めるのは、普段は気付かない我々の意識の奥底の世界なのか、思わず手を伸ばせばたちまちにして消えてしまいそうな儚さが感じられた。
木村武山の 「慈母観世音」(1922)は、そこまでの深さや霊妙さはないけれど、”母” という唯一無二の存在、慈愛に満ちた永遠の母性というものを思い起こさせてくれる作品だった。
前述の投票結果に戻ると、1位は 池上秀畝の 「四季花鳥」、ここまでにふれた作品では 2位が 梅原龍三郎の 「浅間山」、以下4位が 中村琢二 「伊那谷の春」、6位に 小山敬三 「暮れゆく浅間」が入り、同点の8位に 川瀬巴水 「信州木崎湖」、菱田春草 「羅浮仙」、木村武山 「慈母観世音」、14位に 丸山晩霞 「初夏の志賀高原」と 倉島重友 「謳」という結果になっていた。
その他のアーティストでは、草間彌生の4位は最近の注目度から順当と思われるが、荻原碌山(坑夫)*や横井弘三(天工礼讃)*が展示圏に及ばない31位、長野出身の池田満寿夫やオノサトトシノブ、河野通勢*も圏外というのはやや意外なことだった。
もっとも、この投票は信濃美術館の所蔵品に限ってのことであり、またネットによる投票では小さな画像での見栄えの影響も大きかったかと思われる。
第二展示棟を使った第三部では 【7人の若手作家】と題して ”信州の美術のこれからを担う若手作家” を紹介していた。
写真や彫刻、陶芸やインスタレーションなどが広い会場に並ぶ中で、倉石太次郎の 「ニコライ堂」と題された一連の作品は、フンデルトヴァッサー*を思い起こさせるような華やかな色合いの中に、正教会のイコンに向き合った時の新鮮な感動がよく表れているように思った。
長野県信濃美術館の現建物による最後の展覧会である ”信濃美術館クロージング ネオヴィジョン新たな広がり” *の第二部 ”私の、この一点” に関する配布資料をあらためて眺めてみていたら、このクロージングにあたっての投票結果のランキングとコメントが記載されていた。
その前に、前回ふれた信濃路の風景画*以外の作品を振り返っておくと、倉島重友の 「謳」(1992)は大きな画面の中に3人の若い女性が立つ図で、それぞれ何をしているのかは定かではないが、清楚な乙女たちの夢見るような眼差しが印象的な作品だった。
三美神的な寓意画かとも思うけれど、もっと身近にいそうな感じの娘たちながら、今はどこを探してもめぐり合うことがかなわないようなノスタルジーを誘う絵でもある。
日本画に行くと、菱田春草(1、2、3)の 「羅浮仙」(1901頃)はさすがの品格だ。夢の中に現れる梅花の精が静かに歩む姿の妖しさが、繊細な筆で美しく描き出されている。
ほのかな明かりのなか、微かに笑みを浮かべる彼女が歩みを進めるのは、普段は気付かない我々の意識の奥底の世界なのか、思わず手を伸ばせばたちまちにして消えてしまいそうな儚さが感じられた。
木村武山の 「慈母観世音」(1922)は、そこまでの深さや霊妙さはないけれど、”母” という唯一無二の存在、慈愛に満ちた永遠の母性というものを思い起こさせてくれる作品だった。
前述の投票結果に戻ると、1位は 池上秀畝の 「四季花鳥」、ここまでにふれた作品では 2位が 梅原龍三郎の 「浅間山」、以下4位が 中村琢二 「伊那谷の春」、6位に 小山敬三 「暮れゆく浅間」が入り、同点の8位に 川瀬巴水 「信州木崎湖」、菱田春草 「羅浮仙」、木村武山 「慈母観世音」、14位に 丸山晩霞 「初夏の志賀高原」と 倉島重友 「謳」という結果になっていた。
その他のアーティストでは、草間彌生の4位は最近の注目度から順当と思われるが、荻原碌山(坑夫)*や横井弘三(天工礼讃)*が展示圏に及ばない31位、長野出身の池田満寿夫やオノサトトシノブ、河野通勢*も圏外というのはやや意外なことだった。
もっとも、この投票は信濃美術館の所蔵品に限ってのことであり、またネットによる投票では小さな画像での見栄えの影響も大きかったかと思われる。
第二展示棟を使った第三部では 【7人の若手作家】と題して ”信州の美術のこれからを担う若手作家” を紹介していた。
写真や彫刻、陶芸やインスタレーションなどが広い会場に並ぶ中で、倉石太次郎の 「ニコライ堂」と題された一連の作品は、フンデルトヴァッサー*を思い起こさせるような華やかな色合いの中に、正教会のイコンに向き合った時の新鮮な感動がよく表れているように思った。
2017年11月08日
東郷青児、サルタンバンクの見果てぬ夢
(損保ジャパン日本興亜美術館 〜11/12)
”生誕120年 東郷青児展 抒情と美のひみつ” は、東郷青児(1897-1978)の若い頃の意欲的な作品を見られたのが有意義だった。
”✤第1章 内的生の燃焼” の 「コントラバスを弾く」(1915、当館)や 「パラソルさせる女」(1916、陽山美術館)にはキュビズム的な実験精神が横溢し、「ピエロ」(1926、当館)*や 「サルタンバンク」(1926、東京国立近代美術館)になると、そこにパリの哀愁が漂い独特の叙情が感じられてくる。
特に後者は東郷自身が ”天下を取ったように嬉しかった” というほどの自信作だったようで、アトリエにピカソや藤田嗣治を呼んできて見てもらったとか、このあたりが東郷青児の画家としてのピークであったのかもしれない。
”✤第2章 恋とモダニズム” で注目したのは、心中未遂事件を起こした1929年の2点の作品だ。
「ギターを持つ女」(1929、鹿児島市立美術館)のなめらかで夢見るような姿は、「サルタンバンク」の雰囲気を持ちながらも後の ”東郷様式” といわれる女性たちに繋がっていくようで、この画家の大きな分岐点に立つ作品のように思われた。
一方、「超現実派の散歩」(1929、当館)*はシュルレアリスムへと踏み出すかに見える斬新な作風で、当時も ”新傾向” と評されたようだが、残念ながら東郷はこの路線を突き詰めていかずに商業主義的な傾向を強めていく。
そのおかげで売れっ子にも大家にもなれたし、我々も美しい女たちのポスターや壁画、雑誌の表紙などを ”消費” することができたとも言えるのだが、初期作品を見ればそれが本当によかったのかどうか・・・
そもそも 東郷青児は自らの選択でこの大衆路線に入り込んで行ったのか、それとも百貨店や雑誌などから強く誘われた結果なのかはよくわからないが、展示を見るとこの美術館を運営する損保会社の前身である 東京火災保険という会社も大きく関わっていたようだ。
”✤第3章 泰西名画と美人画” にあった 「黒い手袋」(1933、当館)が、翌年に 「火災保険案内」という小さな印刷物の表紙に採用され、さらに東郷はこの会社のデザイン顧問に迎えられ、買い上げられた作品は配布用カレンダーなどにも使われていく。
そんな縁で眺めの良い美術館ができ ゴッホの 「ひまわり」まで所蔵されるに至ったのはよかったことに違いないが、ひとりの画家が進むべき方向に関しても一定の影響を与えたとすれば、その功罪についての責任も免れないのではないか。
余談ながら、この冊子の最終ページは保険会社の店舗案内になっていたのだが、支店網の最後には京城支店という記載があり、台湾や樺太、満州などにも代理店があるとのこと、それが昭和9年当時の人々に見えていた現実の世界であったのだ・・・
”✤第4章 復興の華” に並ぶ見慣れた東郷の女たち*は、芸術作品としてはどう見たらいいのかとも思うけれど、「若い日の思い」(1968)のスカートに透ける太腿の表現などは思わず目を疑いたくなるほどの出来栄えだし、「望郷」(1959)や 「レダ」(1968)が一度見たら忘れ難い印象を残す作品であることも認めなければならない。
”生誕120年 東郷青児展 抒情と美のひみつ” は、東郷青児(1897-1978)の若い頃の意欲的な作品を見られたのが有意義だった。
”✤第1章 内的生の燃焼” の 「コントラバスを弾く」(1915、当館)や 「パラソルさせる女」(1916、陽山美術館)にはキュビズム的な実験精神が横溢し、「ピエロ」(1926、当館)*や 「サルタンバンク」(1926、東京国立近代美術館)になると、そこにパリの哀愁が漂い独特の叙情が感じられてくる。
特に後者は東郷自身が ”天下を取ったように嬉しかった” というほどの自信作だったようで、アトリエにピカソや藤田嗣治を呼んできて見てもらったとか、このあたりが東郷青児の画家としてのピークであったのかもしれない。
”✤第2章 恋とモダニズム” で注目したのは、心中未遂事件を起こした1929年の2点の作品だ。
「ギターを持つ女」(1929、鹿児島市立美術館)のなめらかで夢見るような姿は、「サルタンバンク」の雰囲気を持ちながらも後の ”東郷様式” といわれる女性たちに繋がっていくようで、この画家の大きな分岐点に立つ作品のように思われた。
一方、「超現実派の散歩」(1929、当館)*はシュルレアリスムへと踏み出すかに見える斬新な作風で、当時も ”新傾向” と評されたようだが、残念ながら東郷はこの路線を突き詰めていかずに商業主義的な傾向を強めていく。
そのおかげで売れっ子にも大家にもなれたし、我々も美しい女たちのポスターや壁画、雑誌の表紙などを ”消費” することができたとも言えるのだが、初期作品を見ればそれが本当によかったのかどうか・・・
そもそも 東郷青児は自らの選択でこの大衆路線に入り込んで行ったのか、それとも百貨店や雑誌などから強く誘われた結果なのかはよくわからないが、展示を見るとこの美術館を運営する損保会社の前身である 東京火災保険という会社も大きく関わっていたようだ。
”✤第3章 泰西名画と美人画” にあった 「黒い手袋」(1933、当館)が、翌年に 「火災保険案内」という小さな印刷物の表紙に採用され、さらに東郷はこの会社のデザイン顧問に迎えられ、買い上げられた作品は配布用カレンダーなどにも使われていく。
そんな縁で眺めの良い美術館ができ ゴッホの 「ひまわり」まで所蔵されるに至ったのはよかったことに違いないが、ひとりの画家が進むべき方向に関しても一定の影響を与えたとすれば、その功罪についての責任も免れないのではないか。
余談ながら、この冊子の最終ページは保険会社の店舗案内になっていたのだが、支店網の最後には京城支店という記載があり、台湾や樺太、満州などにも代理店があるとのこと、それが昭和9年当時の人々に見えていた現実の世界であったのだ・・・
”✤第4章 復興の華” に並ぶ見慣れた東郷の女たち*は、芸術作品としてはどう見たらいいのかとも思うけれど、「若い日の思い」(1968)のスカートに透ける太腿の表現などは思わず目を疑いたくなるほどの出来栄えだし、「望郷」(1959)や 「レダ」(1968)が一度見たら忘れ難い印象を残す作品であることも認めなければならない。
2017年11月06日
運慶-3 八大童子、北円堂の二菩薩と四天王
(東京国立博物館 〜11/26、展示替えあり)
願成就院と 浄楽寺*に続いては 運慶*壮年期の傑作、金剛峯寺の 「八大童子立像」(国宝、1197)6軀が並ぶ。
本作品については、以前の印象*と大きく変わるところはないが、「制多伽童子像」と 「恵光童子像」の発する鋭い視線の迫力と、「矜羯羅童子像」のおとなしい内向的な感じの対比が何と言っても面白い。
「恵喜童子像」も一生懸命さでは負けず、口を固く噛みしめる 「清浄比丘童子像」や猛々しい忿怒の形相の 「烏倶婆誐童子像」もそれぞれの持ち味を出している。
ただ、この直前まではガラスを使わずに手を伸ばせば届きそうなところから拝観できる展示だったのに対し、この6体はガラスケース入りだったために気を殺がれる感が否めず、しかも離れて配置され向きもばらばらだったためにやや散漫に見えたのが残念だった。
だが、そんな不満は次の 興福寺北円堂に関連する展示で一掃され、ただただ息をのみ見つめることとなった。
中央に立つのは 「無著菩薩立像」と 「世親菩薩立像」(国宝、1212頃)**、特に右側の 無著菩薩は滋味あふれる表情で、知性と教養、高潔な人格が全身から滲み出るようだ。
やや悲しげに見える高僧は、現代の我々の愚行の数々を憐れむようにじっと見つめている。
ただ無言で見つめ続けていることで、我々に誤りを認識させ正しい道への気付きを促そうとしている。
左隣の 世親菩薩はもう少し踏み込んで怒りを感じているだろうか、こちらも揺るぎない堂々たる立ち姿だった。
この2体の展示方法は理想的な鑑賞環境を作り出していると言ってよく、実際のところ日程を合わせて北円堂まで出かけて行っても、金ピカの脇侍やひょうきん者の四天王たちの奥に立つ像の御顔は遠くて暗く、2人の微妙な表情や ”気” にふれることは容易ではない。
こんなに間近でじっくりと、息遣いが聞こえるほどの距離で向かい合えるのは展覧会ならではのことだ。
本展ではもうひとつ、今は 南円堂にあって作者不詳とされてきた 「四天王立像」(国宝、13世紀鎌倉時代)4軀について、本来は 北円堂のために 運慶が作ったのではないかという ”ひとつの仮説に基づく展示” を行っていたのが眼を引いた。
すなわち、北円堂本尊 弥勒如来の写真パネルを背景に、無著・世親菩薩を取り囲むように展示していたわけだが、これら全てを一具とする仮説の当否は別としても、こうした試みそのものは大歓迎だ。
南円堂を訪れた時にこの四天王像に注目できなかったのは残念な限りだが、その時はまずご本尊の不空羂索観音に目が集中したことのほかに、南円堂のために康慶*が作った本来の四天王は別にあって*、目の前の四天王は客仏という事情に目が曇らされていた。
確かに南円堂には第1章に出ていた四天王の方が相応しいし、北円堂にある四天王はどう見ても弥勒・無著・世親との一体感がないので、現在南円堂にあるこの四天王が北円堂の正規メンバーだという推論にはかなりの説得力がある。
材質や工法にも共通点があるということであれば一具である確度も高いようにも思われるので、運慶の 北円堂プロジェクトの中で作られたということは言えるかもしれないが、しかしそれを ”運慶作品” と呼ぶことができるか、それだけの質を備えているかという問題は別に残るのではないか。
「持国天」「増長天」「広目天」とされる像には ”入り繰り” があるようだが(だったら訂正した形で並べてもよかった・・・)、これら3体は表現が過剰である一方で、芯が通っていないような弱さが感じられるし、無著・世親との差も大き過ぎるように思われる。
だがそれは、北円堂プロジェクトを運慶一門の中でどう分担したか考えていけば、説明がつくものなのかもしれない。
北円堂の諸像について運慶は、長男の 湛慶=持国天から 康運=増長天、康弁=広目天と年齢順に四天王を割り振り、若い 運賀、運助に 無著・世親を担当させたことになっている。
しかし、無著・世親の完成度を見ればそこに親方 運慶の手が加わっていると考えるのが自然で、本尊弥勒如来と無著・世親を一体のものとすべく親方が主導権を握り、口を出すだけでなく自ら積極的に手を入れて完成させたことは間違いないだろう。
むしろ、そのように進めたかったからこそ、無著・世親の担当を未熟な年少の二人にしたとも考えられる。
しかし四天王の方は、既にいっぱしの仏師になっていた湛慶以下の年長組に任せた。
それは彼らの腕を信じプライドを尊重したという面もあろうが、四天王はそれらしく出来てさえいれば十分なので、親方が手を入れたりする気ははじめからなかったのではないか。
だからこそ、同じ材質や工法によりながらも、運慶作品としてのクオリティに達したとは言い難い3体が出来上がることとなった。
では 「多聞天」はどうか。
この一体は他の3体とは充実ぶりが全く違い、足元から手の先まで緊張感が保たれている。
一方で、小塔を持つ左手を高く掲げて視線も上を向くポーズは、おそらく前例がない特徴的なものなので、毘沙門天では塔をほぼ目の高さにしてきた 運慶との関わりが気にかかる。
通常は4体の中で最も落ち着いた姿で作られることが多い多聞天を、これまでに見たことのないほど大胆に躍動する姿で表現する、そんな革新的な取り組みは運慶自身の意図するところだったのだろうか。
担当させた四男の 康勝が妙なことを始めて収拾がつかなくなったから手伝ったのか、それとも自分が無著・世親像と同じように主導権を握りたかったから四男にあてがったのか、このあたりは何とも分からないが、いずれにしてもこの多聞天は他の3体とは別格の充実度を持つ像として、そこに 運慶の手を感じたいと思う。
それでも、弥勒・無著・世親の精神性の高さと比べると表面的な感じは残るので、やがり運慶作とするには慎重であるべきか、いや四天王だからこれでいいのだと理解すべきか、ともかくも ”工房作” が ”運慶作” になるには運慶自身による関与が必要であり、それはこの4体の中では 「多聞天」しかないのではないか・・・
願成就院と 浄楽寺*に続いては 運慶*壮年期の傑作、金剛峯寺の 「八大童子立像」(国宝、1197)6軀が並ぶ。
本作品については、以前の印象*と大きく変わるところはないが、「制多伽童子像」と 「恵光童子像」の発する鋭い視線の迫力と、「矜羯羅童子像」のおとなしい内向的な感じの対比が何と言っても面白い。
「恵喜童子像」も一生懸命さでは負けず、口を固く噛みしめる 「清浄比丘童子像」や猛々しい忿怒の形相の 「烏倶婆誐童子像」もそれぞれの持ち味を出している。
ただ、この直前まではガラスを使わずに手を伸ばせば届きそうなところから拝観できる展示だったのに対し、この6体はガラスケース入りだったために気を殺がれる感が否めず、しかも離れて配置され向きもばらばらだったためにやや散漫に見えたのが残念だった。
だが、そんな不満は次の 興福寺北円堂に関連する展示で一掃され、ただただ息をのみ見つめることとなった。
中央に立つのは 「無著菩薩立像」と 「世親菩薩立像」(国宝、1212頃)**、特に右側の 無著菩薩は滋味あふれる表情で、知性と教養、高潔な人格が全身から滲み出るようだ。
やや悲しげに見える高僧は、現代の我々の愚行の数々を憐れむようにじっと見つめている。
ただ無言で見つめ続けていることで、我々に誤りを認識させ正しい道への気付きを促そうとしている。
左隣の 世親菩薩はもう少し踏み込んで怒りを感じているだろうか、こちらも揺るぎない堂々たる立ち姿だった。
この2体の展示方法は理想的な鑑賞環境を作り出していると言ってよく、実際のところ日程を合わせて北円堂まで出かけて行っても、金ピカの脇侍やひょうきん者の四天王たちの奥に立つ像の御顔は遠くて暗く、2人の微妙な表情や ”気” にふれることは容易ではない。
こんなに間近でじっくりと、息遣いが聞こえるほどの距離で向かい合えるのは展覧会ならではのことだ。
本展ではもうひとつ、今は 南円堂にあって作者不詳とされてきた 「四天王立像」(国宝、13世紀鎌倉時代)4軀について、本来は 北円堂のために 運慶が作ったのではないかという ”ひとつの仮説に基づく展示” を行っていたのが眼を引いた。
すなわち、北円堂本尊 弥勒如来の写真パネルを背景に、無著・世親菩薩を取り囲むように展示していたわけだが、これら全てを一具とする仮説の当否は別としても、こうした試みそのものは大歓迎だ。
南円堂を訪れた時にこの四天王像に注目できなかったのは残念な限りだが、その時はまずご本尊の不空羂索観音に目が集中したことのほかに、南円堂のために康慶*が作った本来の四天王は別にあって*、目の前の四天王は客仏という事情に目が曇らされていた。
確かに南円堂には第1章に出ていた四天王の方が相応しいし、北円堂にある四天王はどう見ても弥勒・無著・世親との一体感がないので、現在南円堂にあるこの四天王が北円堂の正規メンバーだという推論にはかなりの説得力がある。
材質や工法にも共通点があるということであれば一具である確度も高いようにも思われるので、運慶の 北円堂プロジェクトの中で作られたということは言えるかもしれないが、しかしそれを ”運慶作品” と呼ぶことができるか、それだけの質を備えているかという問題は別に残るのではないか。
「持国天」「増長天」「広目天」とされる像には ”入り繰り” があるようだが(だったら訂正した形で並べてもよかった・・・)、これら3体は表現が過剰である一方で、芯が通っていないような弱さが感じられるし、無著・世親との差も大き過ぎるように思われる。
だがそれは、北円堂プロジェクトを運慶一門の中でどう分担したか考えていけば、説明がつくものなのかもしれない。
北円堂の諸像について運慶は、長男の 湛慶=持国天から 康運=増長天、康弁=広目天と年齢順に四天王を割り振り、若い 運賀、運助に 無著・世親を担当させたことになっている。
しかし、無著・世親の完成度を見ればそこに親方 運慶の手が加わっていると考えるのが自然で、本尊弥勒如来と無著・世親を一体のものとすべく親方が主導権を握り、口を出すだけでなく自ら積極的に手を入れて完成させたことは間違いないだろう。
むしろ、そのように進めたかったからこそ、無著・世親の担当を未熟な年少の二人にしたとも考えられる。
しかし四天王の方は、既にいっぱしの仏師になっていた湛慶以下の年長組に任せた。
それは彼らの腕を信じプライドを尊重したという面もあろうが、四天王はそれらしく出来てさえいれば十分なので、親方が手を入れたりする気ははじめからなかったのではないか。
だからこそ、同じ材質や工法によりながらも、運慶作品としてのクオリティに達したとは言い難い3体が出来上がることとなった。
では 「多聞天」はどうか。
この一体は他の3体とは充実ぶりが全く違い、足元から手の先まで緊張感が保たれている。
一方で、小塔を持つ左手を高く掲げて視線も上を向くポーズは、おそらく前例がない特徴的なものなので、毘沙門天では塔をほぼ目の高さにしてきた 運慶との関わりが気にかかる。
通常は4体の中で最も落ち着いた姿で作られることが多い多聞天を、これまでに見たことのないほど大胆に躍動する姿で表現する、そんな革新的な取り組みは運慶自身の意図するところだったのだろうか。
担当させた四男の 康勝が妙なことを始めて収拾がつかなくなったから手伝ったのか、それとも自分が無著・世親像と同じように主導権を握りたかったから四男にあてがったのか、このあたりは何とも分からないが、いずれにしてもこの多聞天は他の3体とは別格の充実度を持つ像として、そこに 運慶の手を感じたいと思う。
それでも、弥勒・無著・世親の精神性の高さと比べると表面的な感じは残るので、やがり運慶作とするには慎重であるべきか、いや四天王だからこれでいいのだと理解すべきか、ともかくも ”工房作” が ”運慶作” になるには運慶自身による関与が必要であり、それはこの4体の中では 「多聞天」しかないのではないか・・・
2017年11月05日
鈴木雅明&BCJのルター500プロジェクト-2
鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパンの ”ルター500プロジェクト [最終回] ”(2017年10月31日)*で演奏された J. S. バッハの カンタータは以下の4曲だった。
《われらが神は堅き砦》 BWV 80b/
《主なる神は太陽にして楯なり》 BWV 79
《いざ、もろびとよ神に感謝せよ》 BWV 192
《われらが神は堅き砦》 BWV 80
80bの第騎攵呂蓮▲襯拭爾 《われらが神は堅き砦》 に基づくコラール・シリーズの最後に、オルガン独奏による バッハのコラール BWV 720 に続いて演奏された。
その名建築を見るような響きは、ここまで聞いてきたルター*のテーマが、ついに究極の形に結実したと実感させてくれるものだった。
前半の締めくくりに演奏された 《主なる神は太陽にして楯なり》 BWV79 の冒頭は、ホルン2本とティンパニが加わった晴れやかな響きで、宗教改革記念日に合わせて ”神に感謝しその守護を祈る” という趣旨にふさわしい、のびのびとした幸福感の伝わってくる音楽だった。
フルートのオブリガードにのせたアルトの美しいソロに続いて、第3曲での武骨ともいえるティンパニの連打は、宗教改革以来の戦争の歴史を彷彿とさせる。
第5曲のソプラノとバスのアリアに絡むヴァイオリンの印象深い音型は、”神よ我らを見捨て給うな” と祈る不安の気持ちの表れなのか、突然に訪れた陰影が心に刻まれた後に、再びホルンとティンパニが加わって晴れやかな終曲となった。
全体としては確かに宗教改革を寿ぐ曲という印象だった。
後半はオルガン独奏による バッハのコラール BWV 657 に続き、同じテーマを扱った 《いざ、もろびとよ神に感謝せよ》 BWV192 が演奏された。
こうした有機的なつながりを重視した構成は前半にもあり、テーマを設定したコンサートならではの有り難い試みといえる。
このカンタータは、以前のレクチャー・コンサートでも取り上げられ*、表紙が遺っていないためにいつ何のために書かれた曲なのかわからないということだったと思うが、今回は同名のオルガン・コラールが宗教改革記念日に演奏されたと考えられることから取り上げられたようだ。
最後の 《われらが神は堅き砦》 BWV 80 は、前奏もなく同じ音を3回繰り返す力強い音型のコラールに始まり、各声部に対応する高さの弦が重なった重厚なフーガが展開、そこに木管がコラール旋律を重ね、まさに音楽による ”堅き砦” が目の前に構築されていくようだった。
本曲では中間部の弦楽器の活躍が興味深く、第2曲では騒乱のモティーフというせわしない音型が、そして第5曲では戦闘をイメージさせる激しい動きが、宗教改革が起爆剤となった困難な歴史へと思いを誘っていく。
その狭間にあってソプラノ・ソロが通奏低音のみをバックに ”キリストよ、来たれわが心の中に” と歌う第4曲はとりわけ感銘深く、切々とした歌声も絶品だったけれど、それに影のように寄り添いながら広い音域を行き来して時に感情が高まるようなチェロも見事だった。
そして第7曲、ソプラノとバスのアリアが ”神を信じるものに勝利が約束されている” と歌うこの部分は、全ての困難を乗り越えて浄化されていくようで、ソロ・ヴァイオリンとオーボエの伴奏も平和で満ち足りた情感を高めていた。
余談だが、もし ”ヴァイオリンを弾く姿の美しさ” ランキングの投票があれば、私は迷うことなく若松夏美さんを第1位に推挙したいと思う。
終曲のコラールは、これだけ充実した音楽が続いてきたのだからもう少し大掛かりに終わってほしいと思ったりもするところだが、コラールの約束事であればこういうものとして拝聴するほかはなく、そうしたことも含めて、500年前に起きた宗教改革の意義と、それを支えたドイツの人々の心情を思う一夜となった。
<鈴木雅明&BCJの過去記事>
ルター500プロジェクト (2017) 1、2
J. S. バッハの世俗カンタータ (2017) 1、2
J. S. バッハの教会カンタータ (2013) 1、2
青山学院レクチャーコンサート 2011、2016、2017
鈴木雅明 & 若松夏美 in 深大寺本堂 2016
17世紀初期イタリアのオルガンとアンサンブル 2008
ジュネーブ詩篇歌を巡って 2006
支倉常長と音楽の旅 (2007) 1、2、3
天正少年使節と音楽の旅 (2006) 1、2、3、4
《われらが神は堅き砦》 BWV 80b/
《主なる神は太陽にして楯なり》 BWV 79
《いざ、もろびとよ神に感謝せよ》 BWV 192
《われらが神は堅き砦》 BWV 80
80bの第騎攵呂蓮▲襯拭爾 《われらが神は堅き砦》 に基づくコラール・シリーズの最後に、オルガン独奏による バッハのコラール BWV 720 に続いて演奏された。
その名建築を見るような響きは、ここまで聞いてきたルター*のテーマが、ついに究極の形に結実したと実感させてくれるものだった。
前半の締めくくりに演奏された 《主なる神は太陽にして楯なり》 BWV79 の冒頭は、ホルン2本とティンパニが加わった晴れやかな響きで、宗教改革記念日に合わせて ”神に感謝しその守護を祈る” という趣旨にふさわしい、のびのびとした幸福感の伝わってくる音楽だった。
フルートのオブリガードにのせたアルトの美しいソロに続いて、第3曲での武骨ともいえるティンパニの連打は、宗教改革以来の戦争の歴史を彷彿とさせる。
第5曲のソプラノとバスのアリアに絡むヴァイオリンの印象深い音型は、”神よ我らを見捨て給うな” と祈る不安の気持ちの表れなのか、突然に訪れた陰影が心に刻まれた後に、再びホルンとティンパニが加わって晴れやかな終曲となった。
全体としては確かに宗教改革を寿ぐ曲という印象だった。
後半はオルガン独奏による バッハのコラール BWV 657 に続き、同じテーマを扱った 《いざ、もろびとよ神に感謝せよ》 BWV192 が演奏された。
こうした有機的なつながりを重視した構成は前半にもあり、テーマを設定したコンサートならではの有り難い試みといえる。
このカンタータは、以前のレクチャー・コンサートでも取り上げられ*、表紙が遺っていないためにいつ何のために書かれた曲なのかわからないということだったと思うが、今回は同名のオルガン・コラールが宗教改革記念日に演奏されたと考えられることから取り上げられたようだ。
最後の 《われらが神は堅き砦》 BWV 80 は、前奏もなく同じ音を3回繰り返す力強い音型のコラールに始まり、各声部に対応する高さの弦が重なった重厚なフーガが展開、そこに木管がコラール旋律を重ね、まさに音楽による ”堅き砦” が目の前に構築されていくようだった。
本曲では中間部の弦楽器の活躍が興味深く、第2曲では騒乱のモティーフというせわしない音型が、そして第5曲では戦闘をイメージさせる激しい動きが、宗教改革が起爆剤となった困難な歴史へと思いを誘っていく。
その狭間にあってソプラノ・ソロが通奏低音のみをバックに ”キリストよ、来たれわが心の中に” と歌う第4曲はとりわけ感銘深く、切々とした歌声も絶品だったけれど、それに影のように寄り添いながら広い音域を行き来して時に感情が高まるようなチェロも見事だった。
そして第7曲、ソプラノとバスのアリアが ”神を信じるものに勝利が約束されている” と歌うこの部分は、全ての困難を乗り越えて浄化されていくようで、ソロ・ヴァイオリンとオーボエの伴奏も平和で満ち足りた情感を高めていた。
余談だが、もし ”ヴァイオリンを弾く姿の美しさ” ランキングの投票があれば、私は迷うことなく若松夏美さんを第1位に推挙したいと思う。
終曲のコラールは、これだけ充実した音楽が続いてきたのだからもう少し大掛かりに終わってほしいと思ったりもするところだが、コラールの約束事であればこういうものとして拝聴するほかはなく、そうしたことも含めて、500年前に起きた宗教改革の意義と、それを支えたドイツの人々の心情を思う一夜となった。
<鈴木雅明&BCJの過去記事>
ルター500プロジェクト (2017) 1、2
J. S. バッハの世俗カンタータ (2017) 1、2
J. S. バッハの教会カンタータ (2013) 1、2
青山学院レクチャーコンサート 2011、2016、2017
鈴木雅明 & 若松夏美 in 深大寺本堂 2016
17世紀初期イタリアのオルガンとアンサンブル 2008
ジュネーブ詩篇歌を巡って 2006
支倉常長と音楽の旅 (2007) 1、2、3
天正少年使節と音楽の旅 (2006) 1、2、3、4
2017年11月03日
フレスコバルディ、才能の花束へのオマージュ
”上野の森 オルガンシリーズ 2017 フレスコバルディへのオマージュ” を聞いた。
(2017年11月3日(金・祝)15:00〜 東京藝術大学奏楽堂)
ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)のさまざまな面を聞かせる前半冒頭の リコーダー四重奏は、これまでオルガンかチェンバロでしか聞いたことのなかった4声部の横の線が聞きとりやすいところが新鮮だった。
牧歌的な1曲目に続く2曲目は雅びな感じのするフーガ、そして3曲目は ”聖体拝領” にしては陽気な音楽だと思ったが、よくみれば ”のあとの” カンツォーナであって、なるほど息を詰めて祈る時間の後の安堵感や解放感が伝わってくるような曲だった。
次は チェンバロ独奏による 「パッサカリアによる100のパルティータ」、実際は124の変奏から成る曲らしいが、短い変奏が即興的に重ねられていくさまは万華鏡をのぞいているようだ。
全体の構成はよくわからなかったが、見開きの譜面がひとつの世界になっているのか、譜面をめくるたびに新しい世界に入って行き、一回りして帰ってくるような音楽だった。
高音が美しい一方で低音はあまり響いてこない楽器のように思われたが、これは時代考証の結果ということだろうか。
ソプラノ独唱のコーナーでは 野々下由香里教授がフローラのように登場、鍵盤音楽が”専攻” といえるフレスコバルディのアリアは、作品としてはやや平板な感じがしたけれど、リュートの伴奏にのった歌声には華やぎや品位が感じられ、百花繚乱のルネサンスを彷彿とさせるようだった。
ただ、かなり技巧的にできている2曲目が、”悲しみと苦しみをさらにもたらす残酷な人に、それでも仕えねばならないのか” というの歌詞だったのは意外なことだった。
前半の最後はチェンバロとリュートの伴奏による リコーダー独奏、これも歌曲と同様にこの作曲家の真価が見えにくいジャンルという感じがしたが、聞いているといつのまにか、”花の都、フィレンツェ” のイメージが重なってきた。
フレスコバルディはローマのサン・ピエトロ大聖堂が主たる仕事場だったので、フィレンツェを体現する人というわけではなさそうだが、モンテヴェルディが ヴェネツィアや サン・マルコ寺院と関係が深く、ヴェネツィア絵画とも共通性があるように感じられるのと比べれば、フレスコバルディに 花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)や フィレンツェ絵画との親近性を感じてもいいのではないかと思われた。
〜フレスコバルディへのオマージュ〜
●ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)
リコーダー四重奏: 《ルッジェーロによるカンツォーナ第1番》
《カンツォーナ第1番》 《聖体拝領のあとのカンツォーナ》
チェンバロ独奏: 《パッサカリアによる100のパルティータ》
ソプラノ独唱: 《そよ風が吹けば》
《それでも仕えねばならないのか》 《こんなにも私を蔑むか》
リコーダー独奏: 《カンツォーナ第2 番》
《カンツォーナ第1番「ラ・ベルナルディーナ」》
オルガンと交唱: 《音楽の花束》〜「聖母のミサ」(抜粋)
●ジャン・ラングレ(1907-1991)
オルガン独奏: 《フレスコバルディへのオマージュ》より
第7曲〈主題と変奏〉、第8曲〈エピローグ〉
(演奏) オルガン 廣江理枝
ソプラノ 野々下由香里、リコーダー 山岡重治
チェンバロ 大塚直哉、リュート 佐藤亜紀子
後半は フレスコバルディの代表作 「音楽の花束 (Fiori Musicali)」から 「聖母のミサ」、オルガンの音が前後に微妙な絡まりを見せながら宗教的な気分を高めていくところはさすがの手腕だ。
ここでは、始めの キリエや クリステを左のバルコニーに立つ聖歌隊との交唱で演奏しただけでなく、「第五声部に歌唱を伴うリチェルカーレ」でも3人の聖歌隊に ”Sancta Maria” と歌わせていた。
この部分は、楽譜には書かれていないが対位法が分かれば歌えるはずということらしく、作曲者から演奏者への挑戦状に対する回答といったところだろうか。
続く 「聖体奉挙のトッカータ」は薄明に包まれて秘儀に参加しているような神秘的な音楽、行き先の見えにくい響きが徐々に恍惚感へと誘っていく。
そして 「ベルガマスカ」では一転して技巧を凝らした華やかな世界となり、”花束” をもらったような気分で明るく締めくくられた。
最後は20世紀のオルガニスト、ジャン・ラングレ(1907-1991)の 「フレスコバルディへのオマージュ」。
コンサートの表題=テーマでもあるこの部分が、音楽の流れとしてあった方がよかったのかは微妙なところだが、冗談音楽のような第7曲〈主題と変奏〉はともかくとして、ほとんど足鍵盤だけで弾き通した第8曲〈エピローグ〉の低音の重厚な響きは圧巻だった。
>藝大奏楽堂でのコンサートから
今日は一日、サティの日
神秘の J.S.バッハ
元禄〜その時、世界は? トルコ行進曲の秘密 1、2
(2017年11月3日(金・祝)15:00〜 東京藝術大学奏楽堂)
ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)のさまざまな面を聞かせる前半冒頭の リコーダー四重奏は、これまでオルガンかチェンバロでしか聞いたことのなかった4声部の横の線が聞きとりやすいところが新鮮だった。
牧歌的な1曲目に続く2曲目は雅びな感じのするフーガ、そして3曲目は ”聖体拝領” にしては陽気な音楽だと思ったが、よくみれば ”のあとの” カンツォーナであって、なるほど息を詰めて祈る時間の後の安堵感や解放感が伝わってくるような曲だった。
次は チェンバロ独奏による 「パッサカリアによる100のパルティータ」、実際は124の変奏から成る曲らしいが、短い変奏が即興的に重ねられていくさまは万華鏡をのぞいているようだ。
全体の構成はよくわからなかったが、見開きの譜面がひとつの世界になっているのか、譜面をめくるたびに新しい世界に入って行き、一回りして帰ってくるような音楽だった。
高音が美しい一方で低音はあまり響いてこない楽器のように思われたが、これは時代考証の結果ということだろうか。
ソプラノ独唱のコーナーでは 野々下由香里教授がフローラのように登場、鍵盤音楽が”専攻” といえるフレスコバルディのアリアは、作品としてはやや平板な感じがしたけれど、リュートの伴奏にのった歌声には華やぎや品位が感じられ、百花繚乱のルネサンスを彷彿とさせるようだった。
ただ、かなり技巧的にできている2曲目が、”悲しみと苦しみをさらにもたらす残酷な人に、それでも仕えねばならないのか” というの歌詞だったのは意外なことだった。
前半の最後はチェンバロとリュートの伴奏による リコーダー独奏、これも歌曲と同様にこの作曲家の真価が見えにくいジャンルという感じがしたが、聞いているといつのまにか、”花の都、フィレンツェ” のイメージが重なってきた。
フレスコバルディはローマのサン・ピエトロ大聖堂が主たる仕事場だったので、フィレンツェを体現する人というわけではなさそうだが、モンテヴェルディが ヴェネツィアや サン・マルコ寺院と関係が深く、ヴェネツィア絵画とも共通性があるように感じられるのと比べれば、フレスコバルディに 花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ)や フィレンツェ絵画との親近性を感じてもいいのではないかと思われた。
〜フレスコバルディへのオマージュ〜
●ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)
リコーダー四重奏: 《ルッジェーロによるカンツォーナ第1番》
《カンツォーナ第1番》 《聖体拝領のあとのカンツォーナ》
チェンバロ独奏: 《パッサカリアによる100のパルティータ》
ソプラノ独唱: 《そよ風が吹けば》
《それでも仕えねばならないのか》 《こんなにも私を蔑むか》
リコーダー独奏: 《カンツォーナ第2 番》
《カンツォーナ第1番「ラ・ベルナルディーナ」》
オルガンと交唱: 《音楽の花束》〜「聖母のミサ」(抜粋)
●ジャン・ラングレ(1907-1991)
オルガン独奏: 《フレスコバルディへのオマージュ》より
第7曲〈主題と変奏〉、第8曲〈エピローグ〉
(演奏) オルガン 廣江理枝
ソプラノ 野々下由香里、リコーダー 山岡重治
チェンバロ 大塚直哉、リュート 佐藤亜紀子
後半は フレスコバルディの代表作 「音楽の花束 (Fiori Musicali)」から 「聖母のミサ」、オルガンの音が前後に微妙な絡まりを見せながら宗教的な気分を高めていくところはさすがの手腕だ。
ここでは、始めの キリエや クリステを左のバルコニーに立つ聖歌隊との交唱で演奏しただけでなく、「第五声部に歌唱を伴うリチェルカーレ」でも3人の聖歌隊に ”Sancta Maria” と歌わせていた。
この部分は、楽譜には書かれていないが対位法が分かれば歌えるはずということらしく、作曲者から演奏者への挑戦状に対する回答といったところだろうか。
続く 「聖体奉挙のトッカータ」は薄明に包まれて秘儀に参加しているような神秘的な音楽、行き先の見えにくい響きが徐々に恍惚感へと誘っていく。
そして 「ベルガマスカ」では一転して技巧を凝らした華やかな世界となり、”花束” をもらったような気分で明るく締めくくられた。
最後は20世紀のオルガニスト、ジャン・ラングレ(1907-1991)の 「フレスコバルディへのオマージュ」。
コンサートの表題=テーマでもあるこの部分が、音楽の流れとしてあった方がよかったのかは微妙なところだが、冗談音楽のような第7曲〈主題と変奏〉はともかくとして、ほとんど足鍵盤だけで弾き通した第8曲〈エピローグ〉の低音の重厚な響きは圧巻だった。
>藝大奏楽堂でのコンサートから
今日は一日、サティの日
神秘の J.S.バッハ
元禄〜その時、世界は? トルコ行進曲の秘密 1、2
2017年11月02日
運慶-2 願成就院と 浄楽寺の新しい風
(東京国立博物館 〜11/26、展示替えあり)
運慶という仏師の誕生までの流れを追った第1章*も予想以上に充実していたけれど、中心となる ”第2章 運慶の彫刻ーその独創性” は奇跡の空間といっていいものだった。
願成就院の 「毘沙門天立像」(国宝、1186)*は、昨年現地を訪れた際も感銘を受けた像だが、本展のここまでの流れを踏まえてみると、運慶の革新性や独創性というものがあらためてよくわかる。
すぐ横に立つ見てきたばかりの 康慶の 「多聞天」と比べれば、卓越した実在の武士を思わせる悠揚迫らぬ姿は、次世代の像というべき進歩を遂げており、揺るぎない風格を感じさせるこの ”男” の周りには、それまでとは全く異質の風が吹いている。
その先には 浄楽寺の全5軀が登場、このうち中央の3軀は未見だったので、私にとっては今回最も有り難いセクションだったが、まずは左端に立つ 「毘沙門天立像」(重文、1189)*から。
以前 金沢文庫での 運慶展にも出てきていたこの像自体は、もちろん並みの水準を超える名品だと思うけれど、願成就院の毘沙門天と比べてしまうと、見えを切るようなポーズなどが古風な印象を与え、実在する人間の力感が薄まり、結果として像としての力が弱いように思われる。
ところが制作年を見ると願成就院より3年後の作品なので、作風としては大きな一歩を踏み出した後で半歩下がったことになるが、そこにはどのような事情があったのか。
右側に立つ 「不動明王立像」(重文、1189)は、毘沙門天よりは自然な立ち姿で、内なる力が強く伝わってくる像だと思うが、それでも今回は登場しない 願成就院の不動明王*の革新性と比較すれば、やはり古風で類型的な印象は否めない。
この 浄楽寺プロジェクトは、先の 願成就院の時とほぼ同様に、阿弥陀三尊像を中心に不動・毘沙門を配する全5軀という大事業で、若き 運慶が10人ほどの仏師を率いて取り組んだと伝えられる。
おそらく当時30歳前後だった運慶が、父 康慶が営む奈良の工房から一部の仏師を預かる形で東国にやって来ての仕事だったわけで、そこには自分より年上で経験豊富な仏師も多くいたはずだ。
二代目の若頭がそうした先代の部下をどう使うかという状況の中で、願成就院では自分はこうしたいという方針を強く打ち出したのに対し、浄楽寺ではあまり主張をせず彼らに多くを任せ、棟梁の名代として無難に完成させることを優先させたといったことがあったのではないか。
願成就院では自分の新機軸について年上の部下たちをどう説得したのか、俺が全責任をとるからここは言うとおりに動いてくれと押し切ったのか、もしかしたら大部分の作業を自ら行ったのか、そんなことの反動が浄楽寺での伝統回帰ともいえる作風に影響しているのかもしれない。
つまりは、天才 運慶の腕を存分に振るったのが 願成就院、康慶工房の若頭としての仕事をしっかりこなしたのが 浄楽寺、そうしたアプローチの違いが2つのプロジェクトの作風を決定づけているように思われる。
付随する可能性としては、願成就院の出来栄えについて時代を先取りし過ぎているとの疑問や批判が出されたとか、浄楽寺の発注者が伝統的な作風を望んでいるという意向を尊重したといったことも考えられるが、もうひとつ、主役である本尊阿弥陀如来との一体感や調和という観点からは、願成就院より浄楽寺の方が成功していると言えなくもない。
その 「阿弥陀如来坐像および両脇侍立像」(重文、1189)は今回初見だったが、予想していた以上に力強く、そして輝くばかりに美しいお姿だった。
運慶彫刻の典型というわけではないと思うけれど、平安の阿弥陀像がもつ抽象的ともいえる超越性や彼岸性と違い、すぐそこにいる人間的なホトケという感じを与えながら、しかも俗に陥らない超然とした高貴さを備えている。
印を結ぶ指を見れば生身の人間そのもの、そんな距離感の近さこそが本像ならではの革新性のようであり、けっして時代の最先端を行くのではないとしても、真ん中よりは少し先を前に進んでいく、慶派の本尊如来像及び脇侍の観音像としての規範といえる像だと思った。
>願成就院
阿弥陀如来 不動明王二童子 毘沙門天
>運慶展 (2011、金沢文庫)
円成寺大日如来 浄楽寺の不動・毘沙門 大威徳明王 運慶作品の総括
運慶という仏師の誕生までの流れを追った第1章*も予想以上に充実していたけれど、中心となる ”第2章 運慶の彫刻ーその独創性” は奇跡の空間といっていいものだった。
願成就院の 「毘沙門天立像」(国宝、1186)*は、昨年現地を訪れた際も感銘を受けた像だが、本展のここまでの流れを踏まえてみると、運慶の革新性や独創性というものがあらためてよくわかる。
すぐ横に立つ見てきたばかりの 康慶の 「多聞天」と比べれば、卓越した実在の武士を思わせる悠揚迫らぬ姿は、次世代の像というべき進歩を遂げており、揺るぎない風格を感じさせるこの ”男” の周りには、それまでとは全く異質の風が吹いている。
その先には 浄楽寺の全5軀が登場、このうち中央の3軀は未見だったので、私にとっては今回最も有り難いセクションだったが、まずは左端に立つ 「毘沙門天立像」(重文、1189)*から。
以前 金沢文庫での 運慶展にも出てきていたこの像自体は、もちろん並みの水準を超える名品だと思うけれど、願成就院の毘沙門天と比べてしまうと、見えを切るようなポーズなどが古風な印象を与え、実在する人間の力感が薄まり、結果として像としての力が弱いように思われる。
ところが制作年を見ると願成就院より3年後の作品なので、作風としては大きな一歩を踏み出した後で半歩下がったことになるが、そこにはどのような事情があったのか。
右側に立つ 「不動明王立像」(重文、1189)は、毘沙門天よりは自然な立ち姿で、内なる力が強く伝わってくる像だと思うが、それでも今回は登場しない 願成就院の不動明王*の革新性と比較すれば、やはり古風で類型的な印象は否めない。
この 浄楽寺プロジェクトは、先の 願成就院の時とほぼ同様に、阿弥陀三尊像を中心に不動・毘沙門を配する全5軀という大事業で、若き 運慶が10人ほどの仏師を率いて取り組んだと伝えられる。
おそらく当時30歳前後だった運慶が、父 康慶が営む奈良の工房から一部の仏師を預かる形で東国にやって来ての仕事だったわけで、そこには自分より年上で経験豊富な仏師も多くいたはずだ。
二代目の若頭がそうした先代の部下をどう使うかという状況の中で、願成就院では自分はこうしたいという方針を強く打ち出したのに対し、浄楽寺ではあまり主張をせず彼らに多くを任せ、棟梁の名代として無難に完成させることを優先させたといったことがあったのではないか。
願成就院では自分の新機軸について年上の部下たちをどう説得したのか、俺が全責任をとるからここは言うとおりに動いてくれと押し切ったのか、もしかしたら大部分の作業を自ら行ったのか、そんなことの反動が浄楽寺での伝統回帰ともいえる作風に影響しているのかもしれない。
つまりは、天才 運慶の腕を存分に振るったのが 願成就院、康慶工房の若頭としての仕事をしっかりこなしたのが 浄楽寺、そうしたアプローチの違いが2つのプロジェクトの作風を決定づけているように思われる。
付随する可能性としては、願成就院の出来栄えについて時代を先取りし過ぎているとの疑問や批判が出されたとか、浄楽寺の発注者が伝統的な作風を望んでいるという意向を尊重したといったことも考えられるが、もうひとつ、主役である本尊阿弥陀如来との一体感や調和という観点からは、願成就院より浄楽寺の方が成功していると言えなくもない。
その 「阿弥陀如来坐像および両脇侍立像」(重文、1189)は今回初見だったが、予想していた以上に力強く、そして輝くばかりに美しいお姿だった。
運慶彫刻の典型というわけではないと思うけれど、平安の阿弥陀像がもつ抽象的ともいえる超越性や彼岸性と違い、すぐそこにいる人間的なホトケという感じを与えながら、しかも俗に陥らない超然とした高貴さを備えている。
印を結ぶ指を見れば生身の人間そのもの、そんな距離感の近さこそが本像ならではの革新性のようであり、けっして時代の最先端を行くのではないとしても、真ん中よりは少し先を前に進んでいく、慶派の本尊如来像及び脇侍の観音像としての規範といえる像だと思った。
>願成就院
阿弥陀如来 不動明王二童子 毘沙門天
>運慶展 (2011、金沢文庫)
円成寺大日如来 浄楽寺の不動・毘沙門 大威徳明王 運慶作品の総括
2017年11月01日
鈴木雅明&BCJのルター500プロジェクト-1
鈴木雅明&バッハ・コレギウム・ジャパン*の第125回定期演奏会、” J. S. バッハ: 教会カンタータ・シリーズ vol.73 ルター500プロジェクト [最終回] ” を聞いた。
(2017年 10.31(火・宗教改革500周年記念日)19:00〜 東京オペラシティ コンサートホール)
1517年に ルターが95ヶ条の論題を発表してから今年で500年となる ”宗教改革500年記念” のプロジェクトについては、青山学院大学での2回のレクチャーコンサート(2016、2017)でもふれてきたが、この日はそうした一連の企画の最終回となるコンサートだった。
開演時間になるとまず 鈴木雅明氏がマイクを持って登場、ハロウィンは万聖節(11月1日)の前夜祭であり、500年前のルターがこの日に95ヶ条の論題を書簡にしてマインツ大司教に送ったのは、万聖節には聖遺物の御開帳があるなど特別な日だったから、といった話があった。
それは、自分の人生を賭けた ”95ヶ条の論題” ができるだけ効果的な形で目に留まるようにしたい、と目論んだ ルターの本気度を示すエピソードのように思われるが、世界史的な大転換点となるその先の展開のどこまでを予想していただろう。
少なくとも、500年後に仮装した人で賑わう東京で記念のコンサートが開かれるとは、そしてそこで自分のコラールが弾かれ、それに基づく曲が次々に披露されるなんてことは想定外だったに違いない。
コンサートは、まずその ルターから バッハまで、 《われらが神は堅き砦》 を素材にした9人の作品が順次演奏された。
初期の古拙で朴訥な響きから装飾性を持って華麗になっていく過程は、ドイツの音楽という範疇に限らないこの間の大きな流れではあると思うが、その中でもあらためて バッハの音楽は、桁外れに巨大で揺るぎないものだという自明のことをあらためて思い知らされる。
その音楽の特徴を語るのに、”堅固な砦” というのは最もふさわしい言葉の一つであろう。
そのバッハとブクステフーデを別格とすると、ルターとほぼ同年代の ヨハン・ヴァルターの合唱曲は素朴な中にまとまりのある美しい音楽で、この時代の最先端の音楽という感じがした。
その100年後、ヨハン・ヘルマン・シャインの二重唱には洗練された味わいがあり、ミハエル・プレトリウスの三重唱になるとバロックらしい荘重さが加わってくる。
こうして200年の音楽の流れを短時間の中であらためて辿ってみると、カトリックとプロテスタントという宗教上の対立を超えて、音楽の分野ではイタリアの影響が大きく流れ込んできていることもまた実感された。
<プログラム>
マルティン・ルター: コラール 《われらが神は堅き砦》 斉唱
(以下、コラール 《われらが神は堅き砦》にもとづく)
マルティン・アグリコラ (合唱)
ヨハン・ヴァルター (合唱)
ディートリヒ・ブクステフーデ (オルガン独奏)
ヨハン・ヘルマン・シャイン (二重唱)
セトゥス・カルヴィジウス (三重唱)
ミハエル・プレトリウス (三重唱)
ハンス・レオ・ハスラー (合唱)
J. S. バッハ: 《われらが神は堅き砦》 BWV 720 (オルガン独奏)
J. S. バッハ: 《われらが神は堅き砦》 BWV 80b/
J. S. バッハ: カンタータ 《主なる神は太陽にして楯なり》 BWV 79
(休憩)
J. S. バッハ: 《いざや、もろびと神に感謝せよ》 BWV 657 (オルガン独奏)
J. S. バッハ: カンタータ 《いざ、もろびとよ神に感謝せよ》 BWV 192
J. S. バッハ: カンタータ 《われらが神は堅き砦》 BWV 80
指揮:鈴木雅明/合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、アルト:クリント・ファン・デア・リンデ
テノール:櫻田 亮、バス:ドミニク・ヴェルナー
オルガン独奏: 鈴木優人
(2017年 10.31(火・宗教改革500周年記念日)19:00〜 東京オペラシティ コンサートホール)
1517年に ルターが95ヶ条の論題を発表してから今年で500年となる ”宗教改革500年記念” のプロジェクトについては、青山学院大学での2回のレクチャーコンサート(2016、2017)でもふれてきたが、この日はそうした一連の企画の最終回となるコンサートだった。
開演時間になるとまず 鈴木雅明氏がマイクを持って登場、ハロウィンは万聖節(11月1日)の前夜祭であり、500年前のルターがこの日に95ヶ条の論題を書簡にしてマインツ大司教に送ったのは、万聖節には聖遺物の御開帳があるなど特別な日だったから、といった話があった。
それは、自分の人生を賭けた ”95ヶ条の論題” ができるだけ効果的な形で目に留まるようにしたい、と目論んだ ルターの本気度を示すエピソードのように思われるが、世界史的な大転換点となるその先の展開のどこまでを予想していただろう。
少なくとも、500年後に仮装した人で賑わう東京で記念のコンサートが開かれるとは、そしてそこで自分のコラールが弾かれ、それに基づく曲が次々に披露されるなんてことは想定外だったに違いない。
コンサートは、まずその ルターから バッハまで、 《われらが神は堅き砦》 を素材にした9人の作品が順次演奏された。
初期の古拙で朴訥な響きから装飾性を持って華麗になっていく過程は、ドイツの音楽という範疇に限らないこの間の大きな流れではあると思うが、その中でもあらためて バッハの音楽は、桁外れに巨大で揺るぎないものだという自明のことをあらためて思い知らされる。
その音楽の特徴を語るのに、”堅固な砦” というのは最もふさわしい言葉の一つであろう。
そのバッハとブクステフーデを別格とすると、ルターとほぼ同年代の ヨハン・ヴァルターの合唱曲は素朴な中にまとまりのある美しい音楽で、この時代の最先端の音楽という感じがした。
その100年後、ヨハン・ヘルマン・シャインの二重唱には洗練された味わいがあり、ミハエル・プレトリウスの三重唱になるとバロックらしい荘重さが加わってくる。
こうして200年の音楽の流れを短時間の中であらためて辿ってみると、カトリックとプロテスタントという宗教上の対立を超えて、音楽の分野ではイタリアの影響が大きく流れ込んできていることもまた実感された。
<プログラム>
マルティン・ルター: コラール 《われらが神は堅き砦》 斉唱
(以下、コラール 《われらが神は堅き砦》にもとづく)
マルティン・アグリコラ (合唱)
ヨハン・ヴァルター (合唱)
ディートリヒ・ブクステフーデ (オルガン独奏)
ヨハン・ヘルマン・シャイン (二重唱)
セトゥス・カルヴィジウス (三重唱)
ミハエル・プレトリウス (三重唱)
ハンス・レオ・ハスラー (合唱)
J. S. バッハ: 《われらが神は堅き砦》 BWV 720 (オルガン独奏)
J. S. バッハ: 《われらが神は堅き砦》 BWV 80b/
J. S. バッハ: カンタータ 《主なる神は太陽にして楯なり》 BWV 79
(休憩)
J. S. バッハ: 《いざや、もろびと神に感謝せよ》 BWV 657 (オルガン独奏)
J. S. バッハ: カンタータ 《いざ、もろびとよ神に感謝せよ》 BWV 192
J. S. バッハ: カンタータ 《われらが神は堅き砦》 BWV 80
指揮:鈴木雅明/合唱・管弦楽:バッハ・コレギウム・ジャパン
ソプラノ:ハナ・ブラシコヴァ、アルト:クリント・ファン・デア・リンデ
テノール:櫻田 亮、バス:ドミニク・ヴェルナー
オルガン独奏: 鈴木優人