2008年03月20日
ルオーとマティス −2 アトリエのモデル、田園風景
(汐留ミュージアム 〜5/11)
第2章は”アトリエのモデル、田園風景”、まず若き画家の卵たちがアトリエ*で取り組んだ人物デッサンが並ぶが、人間への容赦ない視線が濃い青で画面に焼き付けられたような作品ないし習作群を見ていくと、ここでのルオーとマティスの画風は驚くほど似ていることに気付く。
見分けがつかないというほどではないが、絵に向かう姿勢には確かに共通点があって、しかしそれは師モローに近いというわけではなく、強いて言えばピカソの”青の時代”の哀愁漂う作品に通じるものなのかもしれない。
アトリエで人物デッサンをしながら、彼らの関心は既に人体の形や構造などという次元をはるかに突き抜けて、一気に人間存在の悲哀とか生きる苦しみ、しかしそれでもそこに確固として存在する人間の尊厳のようなものに向かう。
中でも最も迫力を感じたのはルオーの「赤いガーターの娼婦」、深海の底の様な青の世界の中で顔を歪め体を捻る裸体の女、その重苦しい画面からは、一個の人間の内なる叫びが聞こえてくるようだ。
このコーナーの最後に見えてきたのはマティスの「田園風景」、これはここまでの人物像とは全く趣の異なる幸福感に満ちた画面で、同じ1906年の大作「生きる喜び」へと続いていくマティス的アルカディアの風景だ。
余談だが、この「生きる喜び」はバーンズ・コレクションに所蔵され長い間門外不出かつ複製図版掲載不可という状態にあったため、その渇望感はいやが上にも増幅され、だから十数年前に禁が解かれ来日したときの”見る喜び”は本当に大きかった。
今回の「田園風景」は、その畢生の大作よりは小ぢんまりして色も穏やかになっているが、画面の奥のほうから聞こえてくる牧神の吹く笛の音に誘われて、硬く閉ざされた心もいつしかほぐれていくような、マティス的世界への入口としては充分に魅力的なものだった。
第2章は”アトリエのモデル、田園風景”、まず若き画家の卵たちがアトリエ*で取り組んだ人物デッサンが並ぶが、人間への容赦ない視線が濃い青で画面に焼き付けられたような作品ないし習作群を見ていくと、ここでのルオーとマティスの画風は驚くほど似ていることに気付く。
見分けがつかないというほどではないが、絵に向かう姿勢には確かに共通点があって、しかしそれは師モローに近いというわけではなく、強いて言えばピカソの”青の時代”の哀愁漂う作品に通じるものなのかもしれない。
アトリエで人物デッサンをしながら、彼らの関心は既に人体の形や構造などという次元をはるかに突き抜けて、一気に人間存在の悲哀とか生きる苦しみ、しかしそれでもそこに確固として存在する人間の尊厳のようなものに向かう。
中でも最も迫力を感じたのはルオーの「赤いガーターの娼婦」、深海の底の様な青の世界の中で顔を歪め体を捻る裸体の女、その重苦しい画面からは、一個の人間の内なる叫びが聞こえてくるようだ。
このコーナーの最後に見えてきたのはマティスの「田園風景」、これはここまでの人物像とは全く趣の異なる幸福感に満ちた画面で、同じ1906年の大作「生きる喜び」へと続いていくマティス的アルカディアの風景だ。
余談だが、この「生きる喜び」はバーンズ・コレクションに所蔵され長い間門外不出かつ複製図版掲載不可という状態にあったため、その渇望感はいやが上にも増幅され、だから十数年前に禁が解かれ来日したときの”見る喜び”は本当に大きかった。
今回の「田園風景」は、その畢生の大作よりは小ぢんまりして色も穏やかになっているが、画面の奥のほうから聞こえてくる牧神の吹く笛の音に誘われて、硬く閉ざされた心もいつしかほぐれていくような、マティス的世界への入口としては充分に魅力的なものだった。