白隠禅画墨蹟展−8 蟻と蝸牛岡鹿之助展−3 発電所

2008年06月28日

青春のロシア・アヴァンギャルド −2 ニコ・ピロスマニ

(ザ・ミュージアム 〜8/17)
ロシア・アヴァンギャルドの第2章は”見出された画家ピロスマニ”、グルジアの看板屋だったニコ・ピロスマニが描いた人物や動物たちは、アンリ・ルソーら素朴派の作品の持ち味に近い不思議な静けさと温かさがあるが、おそらくは誰のどんな影響も受けずに生きて死んでいった孤高の画家なのだろう、”再発見”されるまで長らく忘れ去られることになる。20年ほど前の展覧会で初めて知って以来なかなか見る機会がなかったが、その彼の作品が一つの部屋に10点集められていてた。

まずは名刺代わりのような「宴にようこそ!」、居酒屋の看板として描かれたもので、大きな盆の上に乗せたワインと白いエプロンをした店主の大きさのバランスは自然ではないが、思わずドアを開けて入ってみたくなる魔力を持っている。
この作品の人物は斜め向きだが、回りの人たちを描いたと思われるその他の肖像的作品は正面性が強調されていて、表情はやや硬く動作もぎこちない。
このあたりはまさにルソーの記念写真的な作品と共通するが、しかし100年後に見る我々にも確かにこんな人がいたのだろうと思わせる強い存在感がある。
ここにもロシア・イコンの影響を見て取ることが出来るかもしれないし、実際「イースターエッグを持つ女性」に描かれた質素な白衣の女性は、目鼻立ちのはっきりした顔が神々しいほどに輝いていた。

祝宴」という大判の作品は、テーブルの向こうに4人の男が座り、両端に2人が立っていて今まさに祝宴の乾杯をしようとしているところ。テーブルにはこのあたりの農村としてはかなり豪華と思われるご馳走が並び、タールやタンバリンなどの楽器も見えていて、これから賑やかで楽しい宴が始まることを思わせる。
しかしそこに集う6人の男の表情や仕草は厳粛そのもので、最後の晩餐であるかのように重く厳かな気配が漂っている。これが画家自身が意図的に追求したものなのかは定かではないけれど、古来変わらぬ共同体の暮らしというものを強く感じさせる、宗教的な気配の漂う絵だった。

固さの抜けない人物だけを見ていると、もしかしたらこれはニコ・ピロスマニの技量の限界なのかと思ってしまいかねないが、一方で彼の描く動物は豊かな表情と自然な仕草を与えられていて、より生き生きと躍動している。
ロバにまたがる町の人」はその好例で、背に乗った男性のあらたまった感じに対してロバの顔は本当に柔和で優しい目をしていていた。
雌鹿」は大きく首を下げて水を飲む鹿の姿のみを描いた作品だが、その姿はたおやかで優美、柔らかそうな毛の感じもよく出ている。しかも、この世に生を受けた存在として慎ましくひたすら生きる、そんな小動物への限りない愛情が感じられて涙ぐましい気分になってくる作品。
ひよこを連れた雌鶏と雄鶏」は農家の庭先で餌に群がっている鶏の親子の姿、ここでは特に小さなひよこたちの動きが切実で、我先にと餌に駆け寄っていく一生懸命な姿は、簡潔な筆ながら実に可愛らしく、ニコ・ピロスマニが彼らに注ぐ眼差しの温かさがよく分かる。

”もし絵を描けないなら私はいったいなんで生きていくのだろう”、そんな言葉を残し、身近な人々や動物たちを黙々と描いた村の看板屋の作品には、どんな腕達者な芸術家にも劣らない真実味があった。
この素朴で力強い絵を残した画家ニコ・ピロスマニのことを歌ったという加藤登紀子の「百万本のバラ」を、何とか探し出してもう一度聞いてみよう。

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