2013年03月02日
エル・グレコ展-1 祭壇の「無原罪のお宿り」
(東京都美術館 〜4/7)
日本で開かれる ”エル・グレコ展”とは果たしてどのようなものになり得るのかと思いながら出かけたが、「無原罪のお宿り」の1点で満足すべきものになった。
サン・ヴィセンテ聖堂オバーリェ礼拝堂の 祭壇衝立として描かれた縦3メートル半に及ぶこの大作は、1541年に生まれ1614年に没した エル・グレコが1607-13年に取組んだものなので、70歳前後の晩年と呼ぶべき時期の作品ということになる。
しかし、画面全体に漲る力と輝かしい色彩は、教会や国王との間で様々な曲折を経て来たにもかかわらず依然気力体力ともに充実した絶頂期にあったことを思わせた。
エル・グレコの作品といえば、縮小された複製では異様に引き延ばされたマリアや天使のプロポーションが気になるのが常なのだが、画面に近付いて下から見上げると、視線と画面の角度の関係でそれらはかなり引き締まったものに見えてくる。
それも、単にバランスが改善されただけではなく、マリアの衣などは目の前にせり出してくるような3D効果があって、このような状況の下で見られるために描かれた一種のだまし絵であることが実感できた。
目の前にあるものが平らな画面とは思えない立体感と躍動感、それはこうした渾身の大画面を実見するのでなければ、十分に理解することは残念ながら困難だ。
画面左下には トレドの街の特色ある建物、右下には緻密に描かれた薔薇と百合が見え、全体の一割にも満たないこれらの部分は現実の地上の世界に根差している。
しかしそのすぐ上には羽根をばたつかせた天使がいて、中空に浮かんだマリアを介してまばゆいばかりの光が満ちる天上の世界まで、切れ目のない連続した空間がそこには広がっている。
光と雲と天使たちの奏でる音楽に導かれさえすれば、天上の精霊の世界まで一気に駆け上がることができる、そのような神の国を誰にも確信できるように見せることが、宗教改革に対抗したカトリックの牙城に生きる画家に求められたものであり、これはその要請によく応えたイリュージョンでもあった。
日本で開かれる ”エル・グレコ展”とは果たしてどのようなものになり得るのかと思いながら出かけたが、「無原罪のお宿り」の1点で満足すべきものになった。
サン・ヴィセンテ聖堂オバーリェ礼拝堂の 祭壇衝立として描かれた縦3メートル半に及ぶこの大作は、1541年に生まれ1614年に没した エル・グレコが1607-13年に取組んだものなので、70歳前後の晩年と呼ぶべき時期の作品ということになる。
しかし、画面全体に漲る力と輝かしい色彩は、教会や国王との間で様々な曲折を経て来たにもかかわらず依然気力体力ともに充実した絶頂期にあったことを思わせた。
エル・グレコの作品といえば、縮小された複製では異様に引き延ばされたマリアや天使のプロポーションが気になるのが常なのだが、画面に近付いて下から見上げると、視線と画面の角度の関係でそれらはかなり引き締まったものに見えてくる。
それも、単にバランスが改善されただけではなく、マリアの衣などは目の前にせり出してくるような3D効果があって、このような状況の下で見られるために描かれた一種のだまし絵であることが実感できた。
目の前にあるものが平らな画面とは思えない立体感と躍動感、それはこうした渾身の大画面を実見するのでなければ、十分に理解することは残念ながら困難だ。
画面左下には トレドの街の特色ある建物、右下には緻密に描かれた薔薇と百合が見え、全体の一割にも満たないこれらの部分は現実の地上の世界に根差している。
しかしそのすぐ上には羽根をばたつかせた天使がいて、中空に浮かんだマリアを介してまばゆいばかりの光が満ちる天上の世界まで、切れ目のない連続した空間がそこには広がっている。
光と雲と天使たちの奏でる音楽に導かれさえすれば、天上の精霊の世界まで一気に駆け上がることができる、そのような神の国を誰にも確信できるように見せることが、宗教改革に対抗したカトリックの牙城に生きる画家に求められたものであり、これはその要請によく応えたイリュージョンでもあった。