2013年05月08日
”復幸支縁”としての善光寺出開帳@回向院
(両国回向院 〜5/17)
江戸時代から戦前までに6回開催されたという 信州善光寺の 出開帳、当時の庶民を熱狂させたという江戸の町の一大イベントがどのようなものだったのかを垣間見てみたいと思い両国に出かけた。
もともと 出開帳は伽藍の再建や修復等の資金調達として行われたものなので、そうした趣旨を隠しもしない能天気なお祭りだったかと思われるが、今回は東日本大震災の被災地の復興支援を目的に ”復「幸」支「縁」”という旗を掲げているので、もちろんそれとして有意義な企画であり様々な思いをあらためて誘い出すものではあったけれど、江戸時代の出開帳を追体験するものとしてはやや性格が異なったかもしれない。
門をくぐり境内に入るとまず 「回向柱」が見えてくるが、これは陸前高田の杉の木を製材したものとのこと。
その右奥の建物内にはこの柱と綱で結ばれたご本尊がおられたが、こちらは 「出開帳仏」と呼ばれ、絶対秘仏のご本尊の代わりに七年に一度善光寺で行われる御開帳の時に登場する 前立本尊でもない ”第三の仏”なのだという。
出開帳自体が最近は珍しいので実に180年ぶりのご登場とのことだが、もちろん一光三尊で刀剣印という善光寺仏*としての形は同じご分身で、制作年代は下るのだろうけれど端正なお姿だった。**
その奥には ”お戒壇巡り”の疑似体験コーナーもあったようで、こうした仕掛けが江戸の町民にはもてはやされたのだろう。
その先は ”被災地からの菩薩様”で、陸前高田の松を使い 「おやこ地蔵」として造られた木造地蔵菩薩四体のうちの長野の父と陸前高田の子の二体、津波で流されがれきの中から救い出されたという 「如意輪観音坐像」等があった。
”善光寺出品文化財”のコーナーには 高村光雲作の仁王像の試作品と言われる等身大程度の像、先代の 鳩字扁額、聖徳太子像、本田善光と妻と息子の御三卿坐像、そして 釈迦涅槃像などといった持ち出し用寺宝がひと揃いあり、本拠地を手薄にすることなく出開帳を実施できるようにした江戸時代のビジネスモデルというものがそこに感じられた。*
見応えがあったのは最近 ”発見”され 快慶工房作と考えられている 「阿弥陀如来立像」で、確かにその静かな落ち着きは快慶作品との何らかの関連を思わせるものだった。*
また、「絹本着色善光寺縁起絵」は美しく保存もいい三幅対で、この手の縁起絵としては芸術的に完成度が高いように思われたが、その分だけ ”絵解き”としての明快さは若干犠牲にされているような感じもあり、このあたりの兼ね合いは難しい。*
順路の最後は善光寺本堂から初めて遷座されたという 「びんずる尊者坐像」。
”撫仏”として有名な像で、ご本尊のお姿が見えない善光寺にあっては一番のスターといえるが、大勢の参拝客が撫でまわすために顔の辺りを中心にかなり摩耗してつるつるになってしまっている。
今回は白い装束を着て藁の鉢巻を巻いた姿でのご登場で、”復幸しゃもじ”千円也を購入して撫でて下さいと促されるようになっており、出開帳本来の姿と ”復「幸」支「縁」”の趣旨が実に分かりやすく融合された企画かと思われた。
江戸時代から戦前までに6回開催されたという 信州善光寺の 出開帳、当時の庶民を熱狂させたという江戸の町の一大イベントがどのようなものだったのかを垣間見てみたいと思い両国に出かけた。
もともと 出開帳は伽藍の再建や修復等の資金調達として行われたものなので、そうした趣旨を隠しもしない能天気なお祭りだったかと思われるが、今回は東日本大震災の被災地の復興支援を目的に ”復「幸」支「縁」”という旗を掲げているので、もちろんそれとして有意義な企画であり様々な思いをあらためて誘い出すものではあったけれど、江戸時代の出開帳を追体験するものとしてはやや性格が異なったかもしれない。
門をくぐり境内に入るとまず 「回向柱」が見えてくるが、これは陸前高田の杉の木を製材したものとのこと。
その右奥の建物内にはこの柱と綱で結ばれたご本尊がおられたが、こちらは 「出開帳仏」と呼ばれ、絶対秘仏のご本尊の代わりに七年に一度善光寺で行われる御開帳の時に登場する 前立本尊でもない ”第三の仏”なのだという。
出開帳自体が最近は珍しいので実に180年ぶりのご登場とのことだが、もちろん一光三尊で刀剣印という善光寺仏*としての形は同じご分身で、制作年代は下るのだろうけれど端正なお姿だった。**
その奥には ”お戒壇巡り”の疑似体験コーナーもあったようで、こうした仕掛けが江戸の町民にはもてはやされたのだろう。
その先は ”被災地からの菩薩様”で、陸前高田の松を使い 「おやこ地蔵」として造られた木造地蔵菩薩四体のうちの長野の父と陸前高田の子の二体、津波で流されがれきの中から救い出されたという 「如意輪観音坐像」等があった。
”善光寺出品文化財”のコーナーには 高村光雲作の仁王像の試作品と言われる等身大程度の像、先代の 鳩字扁額、聖徳太子像、本田善光と妻と息子の御三卿坐像、そして 釈迦涅槃像などといった持ち出し用寺宝がひと揃いあり、本拠地を手薄にすることなく出開帳を実施できるようにした江戸時代のビジネスモデルというものがそこに感じられた。*
見応えがあったのは最近 ”発見”され 快慶工房作と考えられている 「阿弥陀如来立像」で、確かにその静かな落ち着きは快慶作品との何らかの関連を思わせるものだった。*
また、「絹本着色善光寺縁起絵」は美しく保存もいい三幅対で、この手の縁起絵としては芸術的に完成度が高いように思われたが、その分だけ ”絵解き”としての明快さは若干犠牲にされているような感じもあり、このあたりの兼ね合いは難しい。*
順路の最後は善光寺本堂から初めて遷座されたという 「びんずる尊者坐像」。
”撫仏”として有名な像で、ご本尊のお姿が見えない善光寺にあっては一番のスターといえるが、大勢の参拝客が撫でまわすために顔の辺りを中心にかなり摩耗してつるつるになってしまっている。
今回は白い装束を着て藁の鉢巻を巻いた姿でのご登場で、”復幸しゃもじ”千円也を購入して撫でて下さいと促されるようになっており、出開帳本来の姿と ”復「幸」支「縁」”の趣旨が実に分かりやすく融合された企画かと思われた。