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2017年09月08日

ボストン美術館の至宝-3 エジプトと日本

(東京都美術館 〜10/9)
今回の ”ボストン美術館の至宝展−東西の名品、珠玉のコレクション” 展は、宋時代の中国絵画に先ず注目することになったが、全般的な特色としてはボストン美術館に寄贈した数々のコレクターの物語に光を当てながら蒐集作品を展示しているところだろう。
その結果、特定のテーマや時代に絞るのではなく、エジプトから現代アートまで広いジャンルをカバーするというユニークな構成になった。

”I 異国を旅したボストニアンたち” の冒頭の ”1 古代エジプト美術” では、「メンカウラー王頭部」(古王国時代第4王朝、前2490 –前2472年)が、アラバスターの透き通るような美しさをよく生かしており、「ハトシェプスト女王小像断片」(新王国時代、第18王朝、前1550 –前1458年)も小さいながら威厳ある肖像彫刻となっていた。

一方、「ツタンカーメン王頭部」(新王国時代、第18王朝、前1336 –前1327年)という像は、脆い砂岩で摩耗しかかった中にアマルナ芸術の名残りが感じられるというもので、確かに、よく知られた黄金のマスクの端正な面立ちとは違って ネフェルティティ像の生々しい雰囲気を湛えているように見えたが、この像がカルナック神殿から見つかったというのはどういうことなのだろう。
長いエジプト文明の中における突然変異のようなアマルナ美術は、もちろんアクエンアテン王の強烈な個性も大きかったにせよ、遷都先のアマルナに特殊な才能をもつ工人がいたからこそ成立したのだと思うのだが、この像にその影響や痕跡が見えるとしたら、アマルナの工人がテーベに移ってきたのか、それともテーベの工人たちがアマルナ的表現の価値を認めて学んだということなのか。
この像と黄金のマスクが同一人物の頭部の像であるならば、異なる作風に異を唱えなかった王家の側の柔軟さをも示しているのかもしれないが、アマルナ遷都とテーベへの帰還は単なる気分転換ではなく、多神教対一神教の厳しい対立が引き起こしたのっぴきならない事件ではなかったのか・・・

縛られたオリックス形の壺」(ヌビア、ナパタ時代、前7世紀初期)というアラバスタ―製の器は、まっすぐな角を持つオリックスが足が縛られている像で、丸い体躯が微笑を誘うものではあるが、狭い口からどのように中を彫ったのか、そして化粧に関する壺らしいがいったいどのように使ったのか、どうにもイメージが湧いてきにくいものだった。


”2 中国美術” に続く ”3 日本美術” に入ると、与謝蕪村の 「柳堤渡水・丘辺行楽図屏風」(江戸時代、18世紀)の明るく楽天的な画面で気分が一新された。
老人たちが連れ立って出かけてきている様子がのびやかな筆で描かれ、不自由さを抱えながらも互いにいたわり合い助け合いながら同じ時間を過ごしている屈託のない素朴な姿は、当時としては当たり前のことだったのかもしれないが、決してそうではなく、実はどこにもない理想郷を描いたものだったのではないかというような気もした。

このコーナー、単体の作品としては黒い渦の突風が波や樹の葉や仙人の衣を引き千切らんばかりの 曾我蕭白 「風仙図屏風」(宝暦14年/明和元年(1764)頃)が頭抜けていると思うけれど、英一蝶 の日本版月歴図である 「月次風俗図屏風」(江戸時代、18世紀前期)や、約170年ぶりの修理を経て初の里帰りを果たしたという 「涅槃図」(正徳3年(1713))もなかなか充実した作品で、外国人が見た日本という角度から特に珍重されたことが推測される。
特に、釈迦の死を目の当たりにして嘆く人々と動物たちを描いた大画面は、芸術的評価とは別に彼らに新鮮な驚きを与えたのではないかと思われた。

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