西洋絵画(現代)

2014年09月25日

進化するだまし絵-3 マグリット、ダリ、エッシャー

(ザ・ミュージアム 〜10/5)
かなりぶっ飛んだ感じの1〜3章を経て、”4:アナモルフォーズ・メタモルフォーズ”の主役はやはりこの3人だ。
マグリットは3点だけだったけれど、様々な実験的作品を見てきた後では 「白紙委任状」の美しい詩情ともいうべきものが印象に残った。

サルバドール・ダリの大作 「海辺に出現した顔と果物鉢の幻影」は凄かった。
画面中央に浮かび上がる巨大な顔はロルカの肖像というが、スーパー台風のようにも見える白い杯状の両側の目は転がる壺と倒れた人物の頭だ。
背景の山は犬の頭になり、その手前には得体のしれない人々がうようよといて、手前の荒涼とした幻想空間には魚のような水たまりも見える。
いったい何という想像力か、あまり好きではなかった ダリを少し見直さなければと思った。

エッシャーは定番の登場、「昼と夜は美しい、「物見の塔は、よく出来ている、そして 「爬虫類」は、とにかく上手い。
もうひとつ、フィリップ・ハルスマンの 「官能的な死」と題された写真は7人の女性ヌードによって髑髏を現出させたもので、このとおりの状況をアナログ的に撮影したのであろうから力作だ。
もしあるならば、是非そのメーキングビデオが見たい・・・

全体の印象としては前回の ”奇想の王国 だまし絵展”と重なるところも多いが、日本の江戸を外して現代にシフトし、”だまし絵”という概念を超えて視覚の常識に挑戦する内容になっていた。
ハンス・オプ・デ・ベークステージング・サイレンス(2)」は20分の映像作品、あまりの混雑と長さで一旦は途中離脱したけれど、あらためて全編を見てその才能に驚かされた。
ダブルベッドほどの台の上に次々と置かれていく小道具と考え抜かれた照明によって、モノクロ画面が思いがけない光景に変わっていく。
雪原、摩天楼の夜景、日本式庭園、月夜の海、そして最後に ”黒い雨”とともに都市が崩壊して廃墟になっていく様は衝撃的で、深く重い余韻を残すものだった。

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2014年07月22日

デュフィ展-2 喜寿を迎えた ”電気の精”の憂鬱

(ザ・ミュージアム 〜7/27)
本展は、”第3章:1920−1930年代 様式の確立から装飾壁画の制作へ”の 「ル・アーヴルの水上の祭り」(1925)、「ドーヴィルの競馬場」(1931)あたりで、ようやくデュフィ的世界が始まる。
パリ」(1937)にはエッフェルや凱旋門、ノートルダムやオペラ座といったモニュメンタルな建物が浮かび上がり、フランス版「洛中洛外図」屏風のようだ。
西洋絵画の歴史の中でこうした大雑把な俯瞰図はあまり類例が思いつかず、何らかの影響関係があるようにも思われるのだが、デュフィは現物を見たことはあるだろうか。
さらに言えば、ここには「日月山水図屏風」の影響も感じる。

電気の精」も、横長の画面の右から左に時間が流れるところは日本の絵巻物を思わせる。
出展されていたのは1952-53年頃の縮小版リトグラフ(ポンピドゥー・センター蔵)で、2009年に三鷹で見たものと同じだと思うのだが、どういうわけか前ほどには華やぎが感じられない。
それは照明が暗いせいもあるのかもしれないけれど、この数年間のなかで ”電気”というものへの意識が変わったということも大きいのではないか。

この作品は1937年パリ万博電気館のために制作された大壁画で、蝋燭やガス灯から電気へと変わることで夜は劇的に明るくなり通信や交通も飛躍的に発達した、そんな時代の産物だ。
画面中央では巨大なタービンをオリュンポスの神々が祝福し、歴史上の科学者たちが集って電気によって輝く未来を寿いでいる。
こうしたおめでたい光景が77年前にはもちろん、わずか5年前にも何の違和感もなかったのに、今や電気を得続けることのコストとリスクを考えると手放しでは喜べないどころか罪悪感すら覚えかねない、何とも厄介な状況に陥ってしまった。

原発に依存し続ける場合には一体どこまでのリスクを覚悟しなければならないのか、一方 ”脱原発”に進むにしても当面は有限な資源を二酸化炭素に変えて地球環境に負荷をかけ続けなければならない。
再生エネルギーを主電力として活用していくめどが立つまでは、たぶん我々は後ろめたい思いを抱かずに電気を使うことはできないのだろう。
もっとも、今は一時たりとも電気なしでは暮らせないし、常に気にかけている余裕がないのが実情なので、副作用なく後の世代にも迷惑をかけない方法で電気を供給し続ける仕組みを作り上げるのは今現在の最優先の課題に違いない。
それが一体いつになるのか、その時には ”電気の精”も再び微笑んで登場し、今一度こんな楽天的な祝賀会を開くことができるのだろうか・・・

最終の ”第4章:1940−1950年代 評価の確立と画業の集大成”にはバッハやドビュッシーへのオマージュやオーケストラの演奏風景、そして明るい色彩の花の絵が並んでいたが、解説によれば晩年には健康上の理由から屋内であまり時間をかけずに描けるものとしてこうしたテーマが選ばれたらしい。
そんな背景を知らされると、見慣れていたはずの音楽や花の絵が少し違った光を放つように見えてきた・・・

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2014年07月11日

デュフィ展-1 ”色彩のメロディー”への道

(ザ・ミュージアム 〜7/27)
デュフィ展 絵筆が奏でる色彩のメロディー”は、そのタイトルに引かれて淡い色彩のシャワーを浴びに行こうとすると面喰らう。
もちろんそういった作品も後半には出てくるが、今回の企画はそこに至るまでの過程を、若き試行錯誤の日々の作品や版画、テキスタイルなどで丁寧に辿っていた。

”第1章:1900−1910年代 造形的革新のただなかで” の冒頭の 「夕暮れ時のル・アーヴルの港」(1900)は、暗く重い雰囲気の水辺の風景であり、画家の目は水の上で揺れ動く光の移ろいに集中している。
こうした印象派の影響が大きいものからセザンヌやブラック、マティスなどを思わせる作風までの変化はめまぐるしく、それはデュフィ自身が自らのスタイルを追求する様々な試みであると同時に、当時のパリ画壇の潮流の烈しさをも示すものであろう。
ピカソがそうであったように、たぶん誰もが ”新しい表現”を求めて実験を繰り返しながら右往左往していた。
このあたりでよかったのは 「花のある自画像」(1907)、花を前面に出し自分はその蔭に隠れるように曖昧な姿で描かれた不思議な自画像だが、誰のまねでもない個性を感じさせる画面になっていた。

”第2章:木版画とテキスタイル・デザイン” は、デュフィがこうした分野にも手を染めていたことを示す展示ではあるが、おそらくは生活のための ”仕事”として取り組んだものなのであろう、作品の質自体は特に傑出したものという感じはしない。
しかし、こうした作品の制作過程で生じた ”印刷のずれ”による ”線と色面の分離”が、その後の画風確立のきっかけになったという見立ては興味深かった。
デュフィ芸術を特徴づけるこの手法の ”発見”が偶然によるものだったというのは面白いが、ただその典型例ともいえる作品が近くには見当たらなかったのは残念だった。
そういえば、第1章では マティスの 「豪奢、静寂、逸楽」をとりあげて ”見えるのものの再現から解放した重要な転機”になったと解説していたが、ここも誰もが知っている絵とは言い難いので写真図版くらいつけた方が良かったのではないか。

”第3章:1920−1930年代 様式の確立から装飾壁画の制作へ” のコーナーのメインの場所にあった 「馬に乗ったケスラー一家」(1932)は、前述した ”線と色のずれ”があればもっとデュフィらしく生き生きとした作品になっただろう。
しかしここではスポンサーに気に入られるために無難な選択をしたのであろう、持ち味を生かしきらずに丁寧に描いた分、面白さも躍動感も減じることになってしまった・・・

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2014年06月25日

オランダ・ハーグ派-3 ゴッホとモンドリアン

(損保ジャパン 〜6/29)
17世紀オランダ絵画とバルビゾン派という二つのルーツをもつハーグ派の先に ゴッホがいた。
フェルメールやロイスダールの影を感じながら、コローやミレーの影響を受けて活動したハーグ派があったから、だから ゴッホは画家になった・・・
それが展覧会の狙いであれば、とりあえず全面的に賛同する。
だがそこにあった作品は、「馬鈴薯を食べる人々」に出てきそうな 「白い帽子をかぶった農婦の顔」(1884-85)の他は生硬な感じの残る作品ばかりで、比較的大きな 「雪原で薪を集める人々」(1884)は力作だと思うが、雪道を歩く人物は地に足がついていない。
もちろんゴッホの大爆発はこの後パリや南仏に行ってのことであり、その奇跡が起こる前夜の記録として、何がゴッホを画家の道に歩ませたかを感じることはできるけれど・・・

しかし、もう一人の主役 ピート・モンドリアンには驚いた。
もちろんゴッホと同じように、ここにはオランダ時代の初期作品があるだけで、それは全くモンドリアンらしくない風景画なのだが、そこには後年の大転換につながる ”火種”があちこちに埋め込まれている。
アムステルダムの東、オーストザイゼの風車」(1907)は、水辺に風車と木立ちが見える牧歌的な作品で、ヴィレム・マリスに学んだ叔父の影響で絵を始めたということが納得される穏やかな情感が漂っている。しかし、木の幹の縦の線と川面に浮かぶ水草の作り出す横の線には、ただ風景を描写するいう範囲を超えた緊張の糸が見え隠れしているようだ。

ダイフェンドレヒトの農場」(1916)も水辺の風景だが、静まり返った水は鏡のように木や農家を写し、上下対称の幾何学的秩序がそこに表れている。枯れ木の枝も規則性を持つ紋様のように展開し、画面全体を現実離れした色彩の光が包むことによって、それは農場の風景である以上に画家が意図的に構成した作品という性格が強い。
そこに感じるのは画家の冷徹な目と抽象に進もうとする強い意志であり、まだ到達点を想像してみることはできないけれど、いずれ風景画は卒業して新たな世界に入っていく運命であることは確かに見てとれる。

夕暮れの風車」(1917)は、太陽の強い光を受けて周辺部をぎらつかせた黒い雲が鱗のように空を埋め尽くし、そこに巨大な風車が黒いシルエットで屹立している。
それは人間の技を象徴する記念碑とも見える凄味を感じさせる作品で、もしかしたらこの路線で進んで行ってもよかったと思うほどの ”力”を感じさせられたのだが、しかし モンドリアンはこの後1919年に パリ、40年にはニューヨークへと移り、オランダの風景には一顧だにせずに抽象の道を突き進んでいく。

ハーグ派が活躍した1870年から1900年=19世紀末のオランダは、世界中の富が集まった17世紀のような黄金時代ではなく、美術界もパリを中心に回っていた ”脇役の時代”といえる。
しかし彼らの地道な活動が ゴッホや モンドリアンを生んだとすれば、それは300年にわたり絡み合う因縁を解きほぐすような興味深い物語に違いない。
山梨から新潟、広島、下関、郡山と巡回し福井で終わる本展は、その意味で久しぶりに ”作品以上のもの”を見せてくれる展覧会だった。

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2014年06月12日

バルテュス展-3 猫たちの王、地中海の猫

(東京都美術館 〜6/22)
”称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠”= バルテュス について、前2回では裸婦像を中心に ”誤解”に基づく妄言を並べたので、それ以外の作品について少し ”称賛”しておこうかと思う。

猫たちの王」(バルテュス財団、1935)は、小さな複製写真で見ると硬直してぎこちない妙な男という感じがするが、現物の画面には不思議な存在感があって、手を腰に当てて立つ男には ”王”と言ってもいい威厳が備わっていた。
人物の硬質な感じは ピエロ・デッラ・フランチェスカの模写を繰り返した成果なのか、このイタリア画家への傾倒とリュクサンブール公園を中心とした一帯への愛着が、バルテュスという画家の通奏低音になっているという感じだ。

牛のいる風景」(個人蔵、1942)は ブリューゲルの四季図に似た趣を持つ作品で、急峻な山に挟まれた谷間につつましい集落が見え、手前の斜面では男が黙々と牛を引いている。木々の緑が美しい風景ではあるが、その中に枯れ木や露出した岩肌が見え、こうした環境で生きていくことの哀歓を過不足なく伝えているようにも思った。
同じ風景画でも 「樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)」(1960)の方は幾何学的な線が目立ち、それは時代の流れに乗ってキュビズムや抽象に接近としてみたもののようにも思われたが、しかしそれは結局のところ彼が目指すところのものにはならなった。

金魚」(1948)という小品では、幼い男の子とその姉がじっと金魚鉢を見つめている。しかし手前にはこちらを見るネコがいて、重層的な緊張感を孕んでいる異色の作品だった。
バルテュスの絵には猫がさまざまな役割で登場するが、その全てが彼の自画像とは言わないまでも、少なくとも分身として画中に送りこんでいると言っていいのではないか。

地中海の猫」(1949)は、パリにある 「ラ・メディテラネ(地中海)」というシーフード・レストランの装飾用に描かれた作品で、海に虹がかかり、その曲線がそのまま魚になって猫の前にある皿の上にのっかり、それをネコが王のように味わい尽くそうとしている。
このレストランは一度行ったことがあり、軽い前菜のつもりで Fruit La Mer を注文したら生の貝が食べ切れないほど出てきたような気がするのだが、この絵の記憶はない代わりに コクトーのイラストの印象が強いので、別の店と勘違いしているのかもしれない。
ただ、「窓、クール・ド・ロアン」(1951)に描かれた狭い空間は、その時に泊まったリュクサンブール公園に近いホテルの窓辺にあったものと、そこから見えたから眺めた光景そのもののようであり、その小さな部屋を拠点にして クリュニーや ルーブルを見て回った当時のことを思い出したりした。

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2014年05月23日

バルテュス展-2 ミューズとしてのSetsuko夫人

(東京都美術館 〜6/22)
バルテュスへの ”誤解”に基づく感想を続ける。
全裸の女が大胆に足を広げた 「目ざめ(機」(スコットランド、1955)も、少女が胸を露わにした 「白い部屋着の女」(1955)も、ちっとも美しくないし官能性には程遠く、かといってキュビズムのように技巧や造形上の実験があるとも思えず、率直なところ制作意図が分からない。
しかも、「白い部屋着の女」のモデルは義理の姪、前回ふれた 「猫と裸婦」も ジョルジュ・バタイユの娘だったと聞くと、そんな女性たちを次々に裸にして、かくも挑発的で醜い作品に仕立てあげてしまったことに問題は起きなかったのだろうか。
余計な心配には違いないが、少なくともその父親の理解を得られる裸婦像とは思われない。

《ギターのレッスン》のための習作」(1934)という怪しげなペン画は、展覧会の奥の秘密の部屋で特定の客のみに見せたという作品の下絵で、女教師が少女の性器を弄んで折檻する場面を描いている。
それはすでに ”絵画芸術”ではなく興味本位の ”猥褻物”と考えて間違いないであろうが、他の作品も程度の差こそあれそのような効果を狙って制作されたものではないのかという疑念が拭えない。

しかし、こうした ”誤解”は3階の展示室に行って少し解消する。
そこには 節子夫人(ただしこの時点では日本にやって来たバルテュスの案内役を務めた一女子学生だが)を描いた 「日本の少女の肖像」(1963)などが並んでいて、それはこれまでとは全く違う美しく情感に溢れた作品だった。
胸をはだけながら隠すような 「ハレー帽をかぶった少女の半身像」には、今までに見たことがなかったようなしっとりとした色香が漂っている。
ただ、”Pour Setsuko(節子のために)”と題された 「東京画帖」の映像展示には、そうした美しい作品だけでなく以前の作品と同じように ”はしたない”と思うような挑発的なポーズも多い。
そうなると、もしかしたらこの画家は、芸術のためという口実の下に気に入った女の子を裸にしてあられもないポーズをとらせることを趣味にしていたのではないかとの疑念が再び湧き上がってきてしまうのだが、もちろんその後二人は結婚し長い日々をともに過ごしたのだから、その愛情は本物だったはずであり、”誤解”も甚だしいというところだろう。
それでも、画家とモデルという男女が密室で過ごす濃密な時間の魔力とか、女性を思わずその気にさせる特異な才能といったものが、本展を見ながらどうしても目の前にちらついてしまった。

朱色の机と日本の女」(1967-76)という大作は、バルテュスと節子夫人の共同作業として、また浮世絵的世界への取り組みとして重要な作品ということになるのだろう。
しかしそこにいる人物は不自然な姿で硬直しているように見え、生身の女性としての魅力が希薄なところはこれまでの裸婦作品とあまり変わらない。
その元となった習作や下絵素描にはもっと艶めかしい生命感があるのだが、そこにははっきりと描かれている性器がテンペラの完成作では曖昧になっているのは、バルテュスの働かせたせめてもの抑制として理解すべきなのか。
つまるところどちらが本当の バルテュスなのかは俄かに判定し難く、結局のところ本展覧会で最も魅力的に感じた女性像は 「《横向きの裸婦》のための習作」(1972)だった・・・

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2014年05月11日

こども展-1 ピカソの人形、マティスの息子

(森アーツセンターギャラリー 〜6/29)
チラシを見ただけでは アンリ・ルソー以外にそれほどの魅力を感じなかったし、子どもの絵が特に好きだというわけでもなかったので ”付き合い”で行ったという程度だったのだが、期待していた以上に楽しめる企画だった。
本展は第一義的には ”子どもをモデルとした絵” の展覧会であり、そこにはもちろんいろいろな子どもが登場するけれど、それが ”画家の子” であった場合には単なる ”子どもの絵” 以上のものになるのはいわば当然だ。
それは愛する人との結晶であり、画家自身の分身であり、自分が生きたことを次の世代に繋げる役割を担うことにもなるのであって、そのあたりがパリの人々の機微にも触れ20万人の動員にもなったのだろう。

その観点から、とあえて断る必要はないかもしれないが、本展で最も印象深かったのは ピカソの 「切抜き人形」だった。
愛人の フランソワーズ・ジローとの間にできた二人の子、クロードとパロマをモデルにし、また二人が遊べるようにと作った切り抜きの人形は、これ以上考えられないというシンプルな形の面白さと、そこに描かれた顔のくっきりした明快さがいいようもなく素晴らしい。
同じ部屋には ピカソの3点の他に フランソワーズ・ジローの作品も4点あり、ピカソの手法で二人の子のいる場面を描いた油彩は力作といっていいものと思うが、黒板に 「Liberta」と書きつける男の子とマッチに火をともす女の子、そしてその場におけるピカソの不在がどうも気にかかる。

マティスの息子 「ピエール・マティスの肖像」は、ちょっと生意気でひとくせありそうな男の子の顔をアップで捉えたもので、この年代の男の子に特有の自我が感じられる作品だ。
マティスには珍しく描かれた人物の内面が窺える気がするのは、そんな年頃の愛息子が絵の題材になったからにほかならず、その意味でこの作品は二人の合作としてマティスの幅を広げたものだとも言えそうだ。

最後の部屋、”20世紀のレアリスト”にあった ダヴード・ エンダディアン(1944-2005)の正方形の作品 「ヤシャール=アザールの肖像」(1986)は、イラン風の服を着た子どもが部屋の中央のペルシャ絨毯の上に立っている。
肖像とは言っても真横を向いた全身像なので人物はやや遠く、しかし左右が奥に続き右から日が差し込む部屋は、正確な透視遠近法と空気遠近法によって深い奥行きが生まれ、左上に見えるカーテンも見事な質感で手前に浮き出して見える。
最初、右の絵から横にずれて近い距離で見たときにはそれほど感心したわけではなかったのだが、出口付近から振り向いて眺めた時に、その超絶技巧に目を見張った。
室内の空気感を描き出したという点では フェルメールに近いものを感じるし、本歌取りのような要素が散見されないこともないのだが、直立し身動きしない横向きの少年に物語は感じられない。
むしろこの画家の腕を披露する素材としては、何らかのストーリーが入り込む余地のない即物的なものがあえて選ばれたということなのだろうか・・・

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2014年05月01日

バルテュス展-1 あまりにもあからさまな・・・

(東京都美術館 〜6/22)
”称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠”が バルテュスなのだそうだ。
であれば、これから書くことが ”誤解”だらけであっても想定の範囲内として許されよう。
その前に少し ”称賛”しておくと、私は バルテュスの絵には説明のしようがない不思議なパワーが宿っていると思うし、似たような絵を描いた凡百の画家とは一線を画す魅力を感じている。

しかし、例えば初期の 「キャシーの化粧」(ポンピドゥー、1933)を見ると、彼が描いていく絵の多くの要素が既に表れている 「嵐が丘」の挿絵と同じ構図をとりながら、そこには目つきも態度も下品な女が着衣をはだけて立っている。彼女に何か恨みでもあるというのか、少なくとも憧れの令嬢をモデルに描いたとは思えない貶め方をしているように感じられてならない。
鏡の中のアリス」(ポンピドゥー、1933)も、題名の持つイメージとは裏腹に白目をむいた女が、片足を椅子に載せ性器や乳房を見せるようにしてそこにいる。その表現があからさま過ぎる一方で、太いふくらはぎの先には不釣り合いに小さな足がついていて、いったいどこが ”完璧な美”なのかと思う。
エロスの追求、一応これらの絵をそう括ってもいいと思うが、それは純粋に芸術的なものではなく、25歳の野心家が ”いかに注目を集めるか”を狙って描いた話題作りのための作品と見るべきではないのか。

夢見るテレーゼ」(メトロポリタン、1938)になると、やはり少女が無防備にスカートの中を見せる奇妙な絵ではあるが、5年前よりはよほど抑制的になっており完成度も上がっている。閉じた目と開いた足、そこに少女期に固有の特別な世界が表現されていると見ることもできそうだ。
美しい日々」(ハーシュホーン、1944-46)にもスカートの中身が気になるポーズをした女がいるが、手鏡や暖炉の赤い炎がエロスを超えた神秘性を感じさせ、少女の内外に漂う計り知れないものを暗示しているようであり、このあたりには一定の深まりが感じられる・・・ 

しかし バルテュスは懲りない。
「部屋」(1978)や 「ジョルジェットの化粧」(1949)には、相変わらず官能性のかけらもない即物的な裸婦がいて、のっぺりした姿を見せている。
彼は女性の裸体に ”美”を感じてはいないのか、ただ全裸または際どい姿を描きさえすればそれで目的が達せられると考えていたのか、そのあたりがどうにもよく分からない。
ただし、「猫と裸婦」(ヴィクトリア国立美術館、1948-50)は単なるヌード画以上のものといえるかもしれない。女の有り得ないポーズは頭の上の方にいる猫に触発されているようであり、そこにある種の欲望や深層心理が形となって現れ出ている ”可能性”がある・・・

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2013年10月20日

ル・コルビュジエと20世紀美術+常設展

(国立西洋美術館 〜11/4)
西洋美術館の1階、いつもは ロダンの彫刻が並ぶホールには立体ピカソのようなオブジェがあり、この美術館の設計者である ル・コルビュジエ(1887−1965)のための空間になっていた。

彼の ”作品”である本館全体を使った今回の展示は、ル・コルビュジエ自身の作品と同時代の芸術家たちの関連作品が代わる代わる出てくるようになっており、建築だけでなく絵画や彫刻、版画、タピスリー、映像等におよぶ幅広い分野に取り組んだ人物だったことが分かる。
当時のトレンドが反映された多彩な作品群は、ル・コルビュジエがかなり器用なアーティストで、また様々な作風に注目して取り入れる柔軟さも持っていたことを示しているが、しかし彼は、ついに自分自身のスタイルを確立することはなかったようにも思われる。

ピカソやレジェの亜流作品はもちろん一定の水準には達している、しかし、見ていく中でいいなと思う作品は他人のものであることが多く、ピカソは別格としても、レジェやフアン・グリスらの画面の強さがあらためて際立つようでもあり、初めて名前を聞いた盟友 アメデ・オザンファンの「静物」もなかなかよかった。
本人作品では、緻密に組み上げた 「女性のアコーディオン弾きとオリンピック走者」、女性のあたたかみが感じられる 「手を組んで」、そして 「二人の浴女と平底漁船」の何もかもが溶解していく感じが目を引いた。


ル・コルビュジエに本館を明け渡し常設展は新館のみで行われていたので、「聖ミカエル」も バウツの 「二連祭壇画」、クレーフェの 「三連祭壇画」も レオンブルーノの聖母子像も、いつもとは違う(しかし地下展示室が出来る前は特別展のない時期にたまに目にすることができた)明晰な光の中で見ることができた。

版画素描展示室の ”イタリア版画展”では、ステーファノ・デッラ・ベッラ「『死』の連作」の中でトランペットを吹き鳴らし、子供を運び、老人を墓に連れ込む死神たちの姿が、常套手段ではあるが強い訴求力を持っていた。

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2013年09月05日

プーシキン美術館展-4 ピカソ、マティス、シャガール

(横浜美術館 〜9/16)
”第4章 20世紀―フォーヴィスム、キュビスム、エコール・ド・パリ”には、ルソーを讃える夜会を催して幅広い評価の獲得に貢献した ピカソの作品は3点あった。
いずれもピカソのものとしてはやや弱い感じは否めないが、「マジョルカ島の女」(1905)は青の時代からバラ色の時代に移っていく過渡期の作品で、淡いメランコリックな感じはその両者の美点がよく融合されているともいえる。
一方、ルソーが 「詩人に霊感を与えるミューズ」を描いたのと同じ1909年の 「扇子を持つ女」は、キュビズムの実験的な作品ではあるがいかにもまだ発展途上だ。

マティスカラー、アイリス、ミモザ」は、画面上部から垂れ下がってきているピンクのカーテンのために、花やテーブルや壁などの全てが集められてそこにあるような作品。
何が描かれているとかいうことではなく、ただそこに幸せな色の響き合いがある、それだけで十分だろうと言う声が聞こえてくるようだ。
モスクワにある プーシキン美術館は、エカチェリーナ鏡い離灰譽ションに始まるとはいうものの、特に近現代フランス絵画の収集に当たっては モロゾフと シチューキンの二人の貢献が大きかったといわれている。
特にマティスに関しては シチューキンの ”先見の明”によるところが大きく、まだ評価の定まらなかった作品を積極的に購入したばかりでなく、今はエルミタージュにある 「ダンス」と 「音楽」も、彼が自宅に飾るものとして注文したものなので、シチューキンがそんな発注を行わなければ、マティス芸術を代表するこれら大作はこの世に存在しなかったことになる。

もともと芸術は、特に大規模なものはパトロンがあって成立するというのも厳然たる事実で、少し前は王侯貴族や教会がそうした役割を担っていたのだろうが、現代にあっては ”とんでもない富豪”がその代わりを務めているということにも思い至らざるをえない。
それにしても、純粋な意味では自発的な作品とは言い難いはずの 「ダンス」がそんな影を微塵も感じさせず、シチューキンもおそらくマティスには何も言わずに信頼して任せきったのであろう、そんな幸福な両者の関係があったからこそ、ロシアにこれだけのマティスがある・・・

シャガールノクターン」は、シャガールにしては強くて暗い赤が重苦しい感じを与えていた。
それは、最初は単にマティスの隣に並んでいたからかと思ったが、解説を読むとこの作品は、ナチスによる故郷ヴィテブスクの破壊や愛妻ベラの死の直後に描かれたということらしい。
そうだとすればこの重たい赤は、シャガールの内面から沸き出した怒りの赤であり、鬱屈した思いが描かせた切実な作品だったことになる。
震災でいったん流れたところから復活したこの展覧会、最後の最後まで気を抜けない・・・

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2013年08月13日

没後40年記念 ピカソ、愛と芸術の版画展

(パルコミュージアム 〜8/19)
日本の個人コレクションによる版画展なので、特に圧倒的な作品が期待できるわけではない。
しかし、”1.画家とモデル、2.闘牛と古代神話、3.男女あるいは抱擁、4.女の肖像、5.静物、サーカス、男の顔など” という5つのセクションに分け、その中はほぼアトランダムに並べられているようなので、狭いスペースの中でそれぞれの時期を反映した ピカソの多様な ”線”に出会っていく。

そのなかで中心的な位置を占めるのは ”4.女の肖像”であり、エヴァ、オルガ、マリー=テレーズ、ドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌ・ロックといった様々な女性たちの面影が、そこには反映されているのだろう。
とはいっても、タイトルで実際に名前が出ているのは ジャクリーヌの2枚だけで、その横顔は美しく整っているものの、 マリー=テレーズの官能やドラ・マールの鋭さ、フランソワーズ・ジローの華やかさといったものは感じられない。
それでも、その穏やかさや静かさには癒される感じがあり、激烈な人生を生き多くの女性遍歴を重ねたピカソが、最後には平凡で幸福な晩年を望んでいたかもしれないようにも思われた。

  芸術とは、われわれに真理を悟らせてくれる嘘である (ピカソ)

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2013年08月11日

<遊ぶ>シュルレアリスム-2 妻の肖像、異空間へ

(損保ジャパン 〜8/25)
オブジェやコラージュの多かったこの展覧会も、後半に向かうと徐々に絵画の比重が重くなり、シュルレアリスム絵画展らしくなる。

”5.人体とメタモルフォ―ズ” には妻たちを描いた作品が並び、ピカソの 「ドラ・マールの肖像」(徳島県立近代美術館)は、キュビズムによるあり得ない風貌ながら知的で才気ばしった女の魅力をよく伝えていた。
その先の ダリの 「反プロトン的聖母被昇天」(諸橋近代美術館)は、聖母と天使に擬せられた妻ガラの風貌がリアル過ぎて見ている方が気恥ずかしいくらいだったが、マグリットの 「ジョルジェット」(姫路市立美術館)では妻の顔もオブジェにされてしまったようで、無表情な肖像画が感じさせる距離感や体感温度は、前二者とは随分と違うものだった。

キリコ広場での二人の哲学者の遭遇」(ふくやま美術館)は、遠くには蒸気機関車が走る広場の中央で、強い陽射しを受けながら確かに ”二人”が遭遇し向き合っている。
しかしそれはどんな哲学者なのか、確実なことは、この二人の間には絶対にコミュニケーションは成立しそうにないということだ。 

”6.不思議な風景” にも キリコ 「イタリア広場」や、ダリ 「三角形の時間」その他 マグリットや タンギーなどが並んでいたが、それらは全て日本国内各地の美術館の所蔵品だった。集めてみれば、国内にもこんなにシュルレアリスム作品があったのだ・・・

”7.驚異・自然・コレクション” では デルヴォーの 「海は近い」(姫路市立美術館)に再会、さらにその先には ヴィクトル・ブローネル誕生の球体」(岡崎市美術博物館)があった。
半透明の卵形の空間の中で命が生まれている、しかし、やがてそれはとんでもないものになりそうな不吉な予感がするのは、ブローネルという名前に引っ張られてしまっている証拠だろうか。

そして最後のコーナーにはどこかで見た アンドレ・ブルトンの書斎と 瀧口修造の書斎の写真があり、そして 瀧口修造の作った 「リバティ・パスポート」の宛先の中に、本展の監修者である 巌谷國士が KUNIO & SAYURI IWAYA として登場していた。

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2013年07月25日

<遊ぶ>シュルレアリスム-1 不思議な出会い

(損保ジャパン 〜8/25)
一般論として、展覧会にどの程度予備知識を入れてから行った方がいいのかはなかなか悩ましい。
予習をした方がより多くのものを得られるし見落としが少なくなるのは確かだと思う一方で、現場での新鮮な驚きや感動が薄れてしまう面もあり、答えは簡単ではなさそうだ。
今回のこの展覧会は、たまたま新宿に行って予定外の形で立ち寄ったこともあって、自分としては思わぬ展開に身を委ねた結果、最後に思わぬオチが待っていた。(だから、同じ驚きを共有したい人はこの先を読まない方がいい・・・) 

<遊ぶ>シュルレアリスム ―不思議な出会いが人生を変える―” というタイトルが示すとおり、この展覧会は普通のシュルレアリスム絵画展ではなく、1920年代の文学者たちが繰り広げたお遊びに発する ”運動”としてのシュルレアリスムを、オブジェやコラージュ、写真なども交えて紹介するもので、彼らの高踏的な<遊び>による偶然性の高い産物は、芸術作品に昇華する前の試行錯誤に過ぎないようでありながら、今となっては ”古典”とも言いうる普遍性をもったものになっていることにも気づく。

”1.友人たちの集い” では、マン・レイの写真で登場人物たちが紹介され、以後も マン・レイがいわば展覧会全体の狂言回しとなって進んでいくかに見える。

”2.オブジェと言葉の遊び” は前半の山場で、マルセル・デュシャンがモナリザの写真に髭を描きこんだ 「L.H.O.O.Q.」、レコード盤の上で回転させる図形が思わぬ奥行き感を生む 「ロトレリーフ」、そして マン・レイが便座と大きな卵を組み合わせた 「トロンプ・ルフ」などが、初期シュルレアリスム運動のなんたるかを示していた。

”3.コラージュと偶然の出会い” には マン・レイやエルンストの作品もあったが、ここでは 岡上淑子のコラージュ作品が面白かった。
瀧口修造が発見したというこの女流アーティストは、服飾関係の仕事の合間にごく短期間制作しただけのようなのだが、「はるかな旅」や「恋の残骸」といった作品は意外性がありながら画面としての完成度も高い。
それに、同じ日本人同士だからということなのかどうか、過度に前衛的ではない抒情性がこちらの波長にも合っているような気がした。

”4.写真の超現実” には マン・レイの 「コート・スタンド」や 「アングルのヴァイオリン」などがあってヌードを意外な形で見せていたが、ここでも日本人の 植田正治に注目した。
「小さい漂流者」などはタンギーの世界に近いけれど、もっと静かで密やかな感じはやはり日本人の感性によるものかとも思った。
そう、このあたりで気づけばよかったのだ、本展の本当の狂言回しは 瀧口修三、ではなく 巌谷國士だったということに・・・

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2013年06月19日

エドヴァルド・ムンク、私のベストテン

先日の日曜美術館は、 “夢のムンク、傑作10選”。
ムンクから10点なら誰が選んでも大差ないのではないかと思ったらそうでもなかった。
番組の選択は以下の通り。
1.叫び
2.病める子
3.思春期
4.声
5.マドンナ
6.ブローチの女 (石版画)
7.キス (木版画)
8.宇宙での出会い (木版画)
9.地獄の自画像 (40歳頃)
10.時計とベッドの間の自画像 (亡くなる数年前)

このうち、1〜3は自伝的エピソード、4〜6は縁のあった女性に絡めて紹介され、また 6〜8は版画、9〜10は自画像といったジャンルから選ばれており、この10点でムンクという芸術家の全体像を俯瞰しようとする意図はよく分かる。
おかげで、美人ヴァイオリニストの風貌をそのままに描き出した 6.「ブローチの女」、男と女の宿命のようなものを感じさせる 8.「宇宙での出会い」といった作品にも注目できたけれど、一方でムンクらしい代表作を網羅していない恨みもあり、「カール・ヨハン通りの夕暮れ」や 「生命のダンス」が出て来ないと分かった時には唖然としてしまったくらいだ。

そんなわけで私家版を選んでみると、
1.「叫び
2.「病める子
3.「思春期
4.「
5.「マドンナ
について異論の余地はない。ここに前述の
6.「カール・ヨハン通りの夕暮れ
7.「生命のダンス
を加え、さらに ”生命のフリーズ”から
8.「吸血鬼
を追加しよう。「不安」も捨て難いのだが、「叫び」と 「カール・ヨハン通りの夕暮れ」があるのでそちらに譲り、「絶望」、「灰」、「メランコリー」なども10点という枠の中では遠慮せざるを得ないだろう。

残る2枠には、まず
9.「オスロ大学講堂の壁画
ムンクとしては異質の作品になるが、屈折した遍歴の集大成でありムンクの芸術観や晩年の立ち位置がよく分かる重要な作品には違いない。
一方、ムンクにとっての自画像は、伝記的には重要であっても率直にいえば芸術的な完成度が高いとは思えず、むしろこの画家の別の持ち味を感じさせる珠玉の佳品を最後に選びたい。
実は以前 「白夜」という小品に大変惹かれた記憶があるのだが、どこで見たのか今はその画像も確認できないので、ここでは
10.「橋の上の少女
をあげておくことにしよう。

(ベストテン・シリーズ: ブリューゲルレンブラントフェルメール白隠

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2013年01月17日

シャガールのタピスリー 再生される色彩

(松涛美術館 〜1/27)
淡い色が微妙に混じり合う シャガールの作品は、大判のタピスリーに変換する対象としては最も難しい部類に属するのではないか。
そこに果敢に挑戦した イヴェット・コキール=プランスという女性の作品と、その元となったシャガール作品が並ぶ展示室は、互いに惚れ込み信頼し合った二人の芸術家の心の交流が感じられるような、そして2人ともが望んでいたことが実現されたと確信できるような空間になっていた。

何倍もの大きさの タピスリーに移すにあたっては、おそらく原画の各部分をそのままに拡大したとしても、効率が悪い上に最大限の効果が得られるわけではないのだろう。
原画を見てからその横のタピスリーを同じ近い位置から見ると、色彩も輪郭もかなり大胆に単純化していることがわかり、その段階ではタピスリーというものの限界を感じさせられてしまう。
しかし、そこから少し遠ざかって作品の全体を視野に入れて見ると、まるで魔法にかかったかのようにシャガールの世界が生き生きと鮮やかに立ち現れる。
それは、おそらく印象派や点描派の色彩分割と似たような効果で、様々な色や形が見る者の目の中で混じり合うことによって、物理的な現実の画面とは異なった像が結ばれることによるものなのだろう。

展示されていた 「原寸大下絵」を見ると、左右反転したミラーイメージが細かく分割されて、その上に各部分の色が記号によって指定されている。
これがオーケストラで言えば楽譜のようなもので、織職人たちは縦糸の隙間からこの下絵を確認しつつ横糸を編み込んで、糸一本分ずつの歩みを長い時間をかけて重ねていく。
そうした大変な作業の成果が天井の高さを生かした壁面に10点ほどあり、教会のために制作されたという 「平和」はその中でも最大の作品で、縦4.1メートルx横6.2メートルにも及ぶものだった。
また、サーカスの場面は華やかで明るく、聖書を題材にした 「創造」は画面上部の光の輪が神々しいほどに輝いていた。

本展はシャガールの リトグラフ展としても楽しめるもので、満月の輝くニースの海岸の上空に花束を抱えた人魚がいる 「天使の湾」は、その中でも特に魅力的なものだった。

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2012年12月16日

ジョルジュ・ルオー、「アイ・ラブ・サーカス」展

(汐留ミュージアム 〜12/16)
ジョルジュ・ルオーの中で大きなウェイトを占めるサーカス関連作品を中心に、当時のパリでの興行の様子などにもスポットを当てた展覧会。
会場はサーカス小屋を模しながら迷宮のように作り込まれ、筋の通った作品と豊富な関連資料や映像で19世紀末から20世紀初頭のパリのサーカスの雰囲気を楽しむことが出来た。

”第1幕 悲哀‐旅回りのサーカス 1902〜1910年代”は、サーカスの舞台裏を中心に影の部分がとりあげられる。
そこで目立っていたのは 「自画像」(1920-21年 ルオー財団)で、”道化師は私だ、我々だ・・・”という画家の言葉そのままに、ここでは道化師と人間一般、そしてルオー自身が重なり合う。

”第2幕 喝采‐舞台をひと巡り 1920〜30年代”では舞台の上=表の世界へと場面が転換し、ピエロ、クラウン、オーギュスト、踊り子、女曲馬師、曲芸師、調教師といったサーカスの主役脇役が登場するが、ルオーが描くこうした面々には華やかさよりも哀愁が色濃く漂う。
三日月形の横顔を見せるパリ市立近代美術館蔵の 「ピエロ」(1937年)には、特に内省的な気配が強く感じられた。

途中のあずまやには ”ルオーとボードレール”というコーナーがあり、ボードレールが見た ”慰み者、みじめな男”としてのピエロ像が紹介されていた。
そうした面に呼応するのが 「ミセレーレ」からの類作である 「自分の顔をつくらぬ者があろうか」(清春白樺美術館)の悲哀に満ちた顔であるが、一方で 「サーカス」の一枚である 「老いたる道化師」(1930年 汐留ミュージアム)の爛々と光る眼には、どんな境遇においても失われることのない一人の人間の尊厳が宿っていた。
第2幕の終盤にあった 「傷ついた道化師」では互いに労り合う彼らの姿が共感を誘い、大作 「小さな家族(1932年 出光美術館)では厳しい環境の中でも育まれる命とそうした生活を支える場としてのサーカスの舞台裏を通して、逆境でも強く生きる人間というものを強く感じさせたていた。

”第3幕 記憶‐光の道化師 1940〜50年代”にあてられた最後の小さな部屋は、荘厳な光で満たされた聖なる空間のようだった。
そこには内部から発光する大小の絵が並んでおり、その中でも最大の 「貴族的なピエロ」(1941-42年アサヒビール)に描かれているのは気高くて知的な人物像であって、もはや慰み者などではない。
ここにいるピエロたちは、キリストが最も惨めな状況から昇天して復活したように、道化として生きながら神々しさを獲得したことで見る者に勇気を与えようとしているようにも感じられた。

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2012年11月06日

ポール・デルヴォー、夢をめぐる旅-3 夜の使者と終焉

(府中市美術館 〜11/11)
奥の部屋にあった 「夜の使者」(1980)は、1982年のデルヴォー展で初めて見た時から強く印象付けられていた作品だ。
伊勢丹美術館で開かれたその展覧会はかなり衝撃的なもので、当時はこちらもまだ若かったし市販のグラビアではヘアは厳禁というご時世でもあったから、ポール・デルヴォーの描く全裸の女性たちの特にその下腹部の黒い茂みに視線が向きがちであったことを思い出すが、そうした中にあってもこの 「夜の使者」の世界は魅力的なものだった。

明るい南欧の港町に古代風の建物が並び、海に向かって緩やかに下っていく坂道の中ほどをトラムがゆっくりと横切っていく。
その石畳の道の上で5人の人物が取り巻く中心に明かりの灯ったランプが一つ置かれ、そして何故かその周りだけ夜の闇が訪れている・・・ 
残念ながら画面の仕上がりは近くにある 「エペソスの集い供廖1973)などの油彩作品よりも粗く、デルヴォー世界の住人であるはずの裸婦がひとりもいない。
しかしシュルレアリストの創造した世界としては最高傑作の一つであり、83歳の画家が極めた到達点と言っていいのではないかと、今回再会してみてあらためて確信した。

この最奥部の部屋には画家の生家の内外を描いた作品もあり、「私の生れた家(アンティ)」などからはその立派さとそこでのブルジョワ的な裕福な生活というものが窺える。
そこには、画家になることにも結婚にも強硬に反対した両親とともに過ごした時間が詰まっているはずなのだが、それでも彼にとっては思い出の場所であり帰っていくところなのだろう、それが少し羨ましい気がした。

最晩年の作品3点を並べた ”第5章:旅の終わり”は、若い頃の試行錯誤の経過を紹介する第1〜3章と並び今回の展覧会の特色といえるが、80歳代後半になって視力が衰えてしまった画家の作品を見ていくのはやや辛い。
それでも救いだったのは、最後の油彩となった 「カリュプソー」(1989)という作品にどこか穏やかであたたかいものが流れていたことだった。
それは何の仕掛けもない女性の半身像であり、幻想的で天国的な光景に見えるのも画家が意図したものだったのかどうか、おそらくはただ最愛の妻タムの面影を瞼の裏に思い浮かべながら制作したものなのではないかと思った。

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2012年10月29日

ポール・デルヴォー展-2 裸婦と骸骨と鉄道

(府中市美術館 〜11/11)
今回の ポール・デルヴォーは、”第4章: ポール・デルヴォーの世界”でようやく本来のデルヴォー的世界に入っていく。
その中は 女性、骸骨、鉄道、建築、追憶といった5つのサブコーナーに分けられていたが、まず目に飛び込んできたのは 「行列」(1963)の大画面。
そこは駅に近い夜の公園なのか、光源の分からない不思議な光に照らされてさまざまな鉄道施設や建物がリアルに浮かび上がり、中央少し右寄りの小道を9人の裸婦がしずしずとこちらに歩いてくる。
胸の前にランプを持ち、ほとんどの女が白い大きな布を腰や肩にまとっている中で、どういうわけか中央の女だけがただ一人全裸の姿で近づいて来るので、視線は自ずと彼女に吸い寄せられる。
あざとい仕掛けのようではあるけれど、こんな風に見る者の想像力に訴えかけてこられると、これは一体何の行列で彼女は何者なのか、という答えの出ない問いから抜け出せなくなってしまう。

ダニエルの習作」というデッサンには、20年近くもデルヴォーのモデルを務めたという女性が自然なポーズで横たわっている。
それはしっとりとした情感があり息づかいも聞こえてきそうな生身の女であって、油彩に再三登場する硬質の無表情な女とはかなり様相が違っている。
デルヴォーはこんなに生々しい女性像を描くことも出来た、しかし油彩の幻想世界にあっては意図的に、敢えて無表情でややぎこちないポーズをとる女性を登場させていた・・・ 

裸婦と骸骨が並んで座る 「会話」(1944)という作品は、あらぬ方を向いた裸婦との間に会話が成立しているかどうかは定かではないが、”二人”はずいぶんと親密に寄り添っている。
骸骨は、画家によれば ”生命の象徴”なのだそうで、確かにこの骸骨には死神のような怖ろしさがなく、むしろ隣の裸婦以上に生き生きとアクティヴな存在に見える。
一方、「トンネル」という大作は、駅、列車、トンネルといった鉄道施設を背景に、行き交う盛装した女と裸婦が画面手前にいて、鏡の中の少女や後方の階段を上り下りする大勢の裸婦も登場するアイテムの多い作品だ。
しかしここでは、手前の女たちが互いに言葉を交わし合っている気配があり、それは全裸の女と着飾った女という有り得ない状況ではあるのだが、デルヴォー作品には珍しく ”コミュニケーションが成立している”という感じを抱かせるものだった。

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2012年10月18日

ポール・デルヴォー、夢をめぐる旅-1 夢に至る旅

(府中市美術館 〜11/11)
”夢に、デルヴォー”とは一体どういうつもりのタイトルなのか。
”夢をめぐる旅”ならわかるけれど、そして、得意の幻想的な風景や裸婦にも楽しませてもらったけれど、今回特に興味深かったのは、ポール・デルヴォー(1897−1994)がそうした作風に到達するまでの試行錯誤の跡を、比較的丁寧に追えたことだった。

”第1章:写実主義と印象主義の影響”では、印象派的な明るい 「森の小径」もよかったが、荒れて寒々とした暗い海が広がっている 「北海の景色」(1924)や、工業化により様相を変えていく身近な風景を題材にした作品に説得力を感じた。
アンジのムーズ川」(1923)では川辺の高い煙突からもくもくと黒煙が上がり、貨車が入り乱れる 「リュクサンブール駅」(1922未完)では埃っぽく油の匂いもしそうな中に労働者が何人かいる。もし デルヴォーがこのままの路線を歩んだとしたら、近代化に伴う影の部分に着目する社会派の画家になっていただろうか。

”第2章:表現主義の影響”では、枯れ木の森の中に夥しい数の裸の若い男女がいる 「森の中の裸体群」が異様な光景を見せていた。森の中に集うのは魔女やジプシーたちといった伝統的立場の期待を裏切り、中性的で無表情な若者たちをもってきたところに取り合わせの意外性があり、それは後の幻想絵画に繋がるもののようでもあった。
一方 「バラ色の婦人」は直球勝負の表現主義的作品で、画面の発するパワーという点で見応えのあるものだった。

”第3章:シュルレアリスムの影響”に至ると デ・キリコやマグリットの作品と出会うことにより彼自身が ”自由”を獲得できたと述懐しているように、後に繰り返し描くことになるデルヴォー的世界に一気に近づいていく。
訪問」(1944)はその最初期のものになるが、一見平凡に見えるこの作品が何故独特の世界をもっているのかは、その少し後の 「舞台背景の習作」を見て納得できた気がした。
デルヴォーは、レースの行列、ピグマリオン、眠れる街といった舞台の背景を考案する中で、意図的に仕組まれる人工的な奥行き感と、その前に立つ人物との微妙な距離感や予期せぬ関係が醸し出す緊張感といったものに興味をそそられたのではないか。

夜明け」(1944)は、今回の展示作品の中では最も完成度が高い初期作品といえ、画面右手前で何かに気づき驚く女と遠景の中に小さく描かれた裸婦、画面全体を包むひんやりとした空気感が独特の魅力を湛えている。
しかし、画家になることを両親に反対され様々な試行錯誤を経たデルヴォーは、このとき既に47歳になっていた・・・ 

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2012年10月17日

ドビュッシー、音楽と美術-10 印象派を超えて

(ブリヂストン美術館 10/14終了)
ドビュッシーは印象派なのか象徴派なのか、という問いとともに経巡ってきた展覧会は、その最後の ”第10章:新しい世界”で、カンディンスキーによる ”回答”を用意していた。

  『ドビュッシーのように最も現代的な音楽家たちは、おおむね自然から印象を借り出してきて、それを純粋に音楽的な形式をとった精神的イメージに変容させる。そのためドビュッシーは往々にして印象派の画家たちと比較された。印象派の画家と同じ方法で、彼は自然を自由に翻案して、極めて個性的な曲を作る、と主張されているのだから。しかし、この定義だけでドビュッシーの重要性を説明できると言い張るのは無理があろう。印象派とのこのように共通点があるものの、彼は心の内側にあるものと切に向き合ったのであって、そのため、作品の中には、現代人の魂のひび割れた音、そのあらゆる苦悩と神経の慄きの音をすぐさま聴きとることができる。(カンディンスキー『芸術における精神的なもの』1912年より)』

この第10章自体はブリヂストン美術館の所蔵品から現代の絵画5点が並んでいるだけなので、最後にカンディンスキーの言葉で展覧会を閉じるための仕掛けなのだろう。
しかし、ドビュッシーの音楽が ”印象派”と呼ばれた事情をもう少し突っ込んでみれば、それは従来の音楽を支配していた形式や約束事から大胆に離れ、変わりやすい自然現象や微妙な感情の揺れのようなものを音で表現しようとした、その中で、水や光、雲といった移ろいゆく自然現象を追求した点が、色彩分割という手法で同じように自然を表現しようとした ”印象派”の画家たちと共通していると目されたに違いない。
彼らが旧来の透視遠近法や解剖学的デッサンを否定して戸外にイーゼルを立てたように、ソナタ形式といった構成や和声の約束事に囚われずに自由な響きを追求したという限りにおいては、ドビュッシーを ”音楽における印象派”とする捉え方は見当外れのものではない。

しかし、当時(今も?)のパリでは ”印象派”という言葉が歴史や伝統、基本技術をわきまえない場当たり的なものという揶揄的なニュアンスで使われていたらしいことこと、また、1874年に開かれた第1回の印象派展ではそれなりに注目されたこの潮流もメンバーの変動や路線の対立もあって1886年の第8回が最後となり25歳のドビュッシーがローマから戻った87年には既に過去のものとなりつつあったこと、そして、移ろう光や雲などはドビュッシーの音楽の要素の一部に過ぎないものであるから、ドビュッシー自身が ”印象派”と呼ばれることを嫌ったのも無理はない。
むしろ、ここまで見てきたとおり、ドビュッシーが自然現象と同じかそれ以上に共感しインスピレーションを受けたのはマラルメやヴェルレーヌらの象徴主義文学、ラファエル前派やナビ派、モローやルドンといった象徴主義絵画だった。

ドビュッシーは晩年になって、チェロやヴァイオリン、ハープを素材にして抽象絵画のような世界へと入って行く。
こうした室内楽やピアノの「12の練習曲」といった作品に対して、”印象派”という修辞はもはや全く相応しくない。
本展覧会の副題は ”印象派と象徴派のあいだで”だが、最後に難癖をつけるわけではないけれど、ドビュッシーは両派の ”あいだ”にいたわけではないだろう。
その両者を包摂し、より広く深い世界を音楽にするにあたって、さしたる葛藤や試行錯誤の痕跡を残さないまま革新的な手法に到達してしまったように見える、そこにあらためて、ドビュッシーの凄味を感じた。

ドビュッシー、音楽と美術 −印象派と象徴派のあいだで−
第1章:ドビュッシー、音楽と美術
第2章:《選ばれし乙女》の時代
第3章:美術愛好家との交流−ルロール、ショーソン、フォンテーヌ
第4章:アール・ヌーヴォーとジャポニスム
第5章:古代への回帰
第6章:《ペレアスとメリザンド》
第7章:《聖セバスチャンの殉教》《遊戯》
第8章:美術と文学と音楽の親和性
第9章:霊感源としての自然−ノクターン、海景、風景
第10章:新しい世界

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2012年07月05日

エルミタージュ展-5 マティスとその周辺、10選

(国立新美術館 〜7/16)
“第5章 20世紀 マティスとその周辺: アヴァンギャルドの世紀”の最初にあった アンリ・ルソーの 「ポルト・ド・ヴァンヴから見た市壁」は、水彩画のように淡い色で木々の姿が繊細に描かれている。
その淡白さは同じ美術館にもある濃密なジャングルの趣とは随分と違うものだが、それでもこれは紛れもないルソーの世界であり、こんな風に自らの個性を呈示出来てしまう才能の特異さにはあらためて驚く。

正面には マティス赤い部屋(赤のハーモニー)」、この作品はこんなにも大きかったのかと思うけれど、エルミタージュでは同じ部屋に 「ダンス」があったからその巨大さに気付かなかったのだろう。
あらためてよく見れば結構雑なところがあり、塗りが重なって濁っていたり形が歪んでいるところも目についてくる。しかし少し引いて作品全体を視界に捉え直してみれば、そこには完璧なハーモニーがあり、色も形も全てが “こうでなければならない”というように響きあっている。
その横の小品 「少女とチューリップ」も素晴らしい。
青と茶を背景に薄緑色の服を着た少女がいる、チューリップの花は葉に隠れてよく見えない、こんな絵を普通の画家は描こうとしないだろうけれど、マティスのみがこの色の組み合わせを「作品」にできたのだとしか言いようがない。


全体としてかなり満腹感のある展覧会だったけれど、展示作品中で私が エルミタージュで見た記憶があるのはレンブラント「老婦人の肖像」とマティス「赤い部屋」、それにヴァン・ダイクの自画像くらいだった。
それほどの広大で豊饒な海がどのようなものであったか、当時のノートを探してみたら「ベストテン」があったので記録しておく。
(順不同、なお、エルミタージュにはファン・アイク、ボス、ブリューゲル、フェルメールは無い。)

フラ・アンジェリコ 「聖母子と天使たち」
レオナルド 「ブノワの聖母」(「リッタの聖母」は修復中)
クラナッハ 「ヴィーナスとクピド」
ジョルジョーネ 「ユーディット」
レンブラント 「老婦人の肖像」
レンブラント 「天使のいる聖家族」(「ダナエ」は修復中)
ムリーリョ 「無原罪の聖母」(または「聖母被昇天」)
ルソー 「虎と狩人のいるジャングル」
ゴーギャン 「エア・ハエレ・イア・オエ(どこへ行くの)」 
マティス 「ダンス」

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2011年12月02日

モダン・アート, アメリカン-3 大移動の歴史、抽象へ

(国立新美術館 〜12/12)
“第7章:記憶とアイデンティティ”は、自然や造形といった視点より文明や社会に重点を置いたものとして三部構成の中間部に位置するとは思うが、前の2つの章でみる近代化・都市化といった “表” の面よりはむしろアメリカの歴史の “裏” の部分に目を向けていく。
その中心となるのが南北問題、特に20世紀前半に起こったアフリカ系アメリカ人の “大移動”を扱った作品だ。

ジェイコブ・ローレンスの 「大移動シリーズ」は、奴隷として過酷な労働を強いられていたアフリカ系アメリカ人が南部から脱出して北部を目指して “移動”していくシーンを紙芝居のように追った作品集だが、人種差別問題を声高に叫ぶのではなく、血の通う人々たちひとりひとりの動きをドキュメンタリーのように淡々と、しかしテンペラ画の技法を取り入れたという鮮やかな色遣いでくっきりと描き出す。
MoMAと分蔵されているというコレクションのそのまた一部の展示だったけれど、“大移動”の中のドラマやアメリカ社会の形成に与えたインパクトはよく分かり、できればその全体を通して見てみたいと思った。

アラン・ローハン・クライトハモンド通りのパレード」は南部の町を行くブラスバンドの華やいだ空気を感じさせる作品で、こうしたものを渇望する心がジャズやゴスペルを生み出し、今なお強い支持を集めている根源であることが改めて感じられた。
同じコーナーにあった グランマ・モーゼスの 「フージック・フォールズの冬」も、こうしたアメリカの開拓史・成立史の文脈から見れば、メルヘンチックで平和そのものの村のありようが、同質の民族からなる北部の相対的な豊かさの上に築かれたものだということに思いを及ぼさざるを得ない・・・


“第8章:キュビズムの遺産”以降、“第9章:抽象表現主義への道”、 “第10章:抽象表現主義”の第三部は、“アメリカ”を離れて純粋な造形の世界に戻っていくが、当然のことながらピカソやカンディンスキーなどヨーロッパの先駆者たちに較べるとパワーが弱い印象は否めない。
もっとも、カール・クノス 「海について」やジョン・グレアム 「青い静物」はなかなかよかったし、ロスコやアルバース、サム・フランシスなどはある程度のボリュームで取り囲まれてみないと分からないので、こうしたオムニバス的展覧会では真価が見えにくいということはあろう。

その上で、しかしもっと大きな流れでいえば、ヨーロッパの画家たちには具象を追求し尽くした飽和状態の中からなんとか外に出ようとする切実さがあったのに対して、アメリカの画家たちにはそれだけの蓄積がないままバスに乗り遅れないようにしたような感じが残る。
それよりも、アメリカに生きる画家として描くべきものはまだまだたくさんあったのではないか、それが本展を見終わっての率直な感想だった。

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2011年11月16日

モダン・アート, アメリカン-2 近代生活と都市への眼

(国立新美術館 〜12/12)
“第5章:近代生活”では自然から一転して都市生活の中の身近な題材が扱われる。
彼らは “アッシュカン・スクール(ごみ箱派)”と揶揄されながらも、独自の視点でヨーロッパの画家には描き得ない新興国の都市化に潜む思いを掬い上げていった。

ジョン・スローン化粧をする道化師」は、出番前に鏡に向かい化粧に集中する道化師を横からとらえたもので、ルオーの絵に近い哀愁が漂っている。
道化師が化粧をする、その当たり前のような行為は社会的には何事も生み出さない無益な努力である一方で、彼が今夜の責任を全うして生きる糧を得るためには欠くべからざる作業に違いない。
思い返せば、学生時代は何か社会の発展に寄与できる仕事を見つけなければなどと考えていたこともあったけれど、結局は道化師が化粧をするような仕事に毎日を捧げながらここまで来てしまったのかもしれない・・・

エドワード・ホッパーの 「日曜日」は、もっと普遍的に、空虚な時間や都市の孤独をはっきりと定義するような作品に違いないが、それを明るい光の下で、さりげない日常のひとコマの中に描き出した手腕に驚く。
思わず深淵を覗き込まされる絵、それは “第6章:都市”にもある。
同じホッパーの 「都会に近づく」は、乗ってきた列車の線路が大都会の中央駅に近付くにつれて地下のトンネルに入っていく、そんな何の変哲もない風景を淡々と描いた小品に過ぎない。
べつに都市が闇だとことさらに主張するわけではない、しかし、その線路の行く手には底知れない暗黒の世界が口を開けて待ち構えているように見え、当たり前の風景が見過ごすことのできない恐ろしいものに変容する・・・

このあたりに登場する画家たちにとって、ニューヨークという街をどう表現するかは共通の課題だったであろう。
従来手法の「ニューヨークの屋根」やスローンの「冬の6時」も悪くはないが、これではこの唯一無二の街を充分に描き切れていない。
むしろ、ステファン・ハーシュの 「ニューヨーク、ロワー・マンハッタン」のように大胆な単純化でビルの集積をリズミカルにとらえた方が成功しているようであり、エドワード・ブルースの 「パワー」は逆光の光の効果で摩天楼を宗教的ともいえる荘厳なものにしていた。
ハーシュの 「工場の町」は同じ様な手法による美しく寓話的な画面だったが、当時の“工場”とは本当にこのようなイメージのものだったのかが気になった。

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2011年11月07日

モダン・アート, アメリカン-1 自然への眼差しの変化

(国立新美術館 〜12/12)
全10章からなる“モダン・アート, アメリカン−珠玉のフィリップス・コレクション−”展は、大きく括れば三部形式の展示であり、その第一部は写生から表現主義へと向かう最初の4章になる。
“第1章:ロマン主義とリアリズム“はまだヨーロッパ画壇の亜流、学習段階といった感じのものではあるけれど、アルバート・ピンカム・ライダー月明かりの入り江」は単純な形の中に自然への畏怖が感じられ、ホイッスラーリリアン・ウォーケス」にはこの画家ならではの色彩感覚が見られた。

”第2章:印象派“には確かにそれらしい作品群があったが、ここでは光そのものや光によって変化する色が追求されているというよりは、あくまでも写生の中の一技法として印象派的な色彩分割が取り入れられたといった趣だ。
それでも平和な情感の流れる佳品が多く並んでいた中で、モーリス・ブレンダーガストという画家の作品は、休日の公園らしい 「ファンタジー」、夥しい人々が行き来する 「バッリア橋」ともにゴブラン織りのような肌合いで独特の魅力を備えていた。

”第3章:自然の力“になると、大自然を前にようやく自ら描くべきものを見つけたようで、ヨーロッパにはないパワーをバネに表現主義的傾向へと進んでいく。
ポール・ドガティー嵐の声」、ハロルド・ウェストン突風、アッパー・オーサブル湖」には水が本来持っている根源的な力が表され、ロックウェル・ケントロード・ローラー」には厳しい自然に立ち向かった開拓時代の人々の労苦が滲むようであった。

”第4章:自然と抽象“では、さらに自然のもつ神秘性に近づきながら形は現実を離れていくようであるが、それでもこれらを抽象と呼ぶべきではないだろう。
オキーフ私の小屋、ジョージ湖」は、無愛想な小屋とそこに陰鬱に垂れ込める雲を描いた一見どうということのない風景画のようだが、しかしそれはかけがえのない特別な存在であるに違いなく、単なる小屋周りの風景を超えた象徴性を帯びている。
アーサー・G.ダウの 「赤い太陽」と 「朝日」は、同じ太陽を題材にしながらも雲の向こうで重たそうに宙に浮かぶ赤い球体と、眩しい光を発する黄色い光源をそれぞれに描き分けている。 
前出の ロックウェル・ケントによる 「アゾパルド川」には、アメリカという大地ならではの凄味のある風景が広がっていた。

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2011年07月27日

パウル・クレー-3 ”特別クラス”の作品たち

(近代美術館 〜7/31)
転写や切断などの技法を追いかけまわした迷宮の最後に、本当の見どころとなる “6:過去/進行形 - 特別クラスの作品たち”があった。
“特別クラスの作品”というのは、クレーが1925年頃、すなわち教鞭をとっていたバウハウスがヴァイマールからデッサウに移転した頃で40歳代半ばということになるが、自分の作品を8つのカテゴリーに分類することにした際に、それとは別に “特別クラス”といういわば別格扱いの範疇を設け、非売品として手元に残すことにした作品群を指す。
それはクレーの画業全体の中でも試金石的、模範的作品として重要であったり、次の作品を生み出す起爆材になったり、あるいは自分自身や家族の思い出の反映として手放し難かったというものも含むようだが、それらのうちの多くは、これ以上切り刻まれては困る完成度に達していた。

襲われた場所」(1922)は目にも鮮やかな矢印が強く一か所を指し示し、グラデーションの楽しげな光景の中で何事か一大事が起ころうとしていることを確かに伝えている。
山のカーニヴァル」(1924)は緻密に描き出された登場人物たちが妖しげな盛り上がりを見せており、サバトの夜の情景のような不気味さを醸し出していた。
結晶化」(1930)はそのタイトルどおりのことが画面上で今まさに進行中らしく、硬質な緊張感が心地よい。
嘆き悲しんで」(1934)は以前も触れたことがある(「喪に服して」)が、飄逸でメカニックな手法が表現する深々とした悲しみの情感は、クレーにしか描けない作品の最右翼にいるようで見るたびに驚嘆させられる。

このあたりはひと括りに出来ない多彩な作風が次々に登場するが、そのどれもが第2章から第5章までで紹介された技法*とは関係なさそうだと分かったことが、実はこの展覧会における最大の収穫だったといえるかもしれない。

ぼろきれお化け」(1933)という作品は、一見するとそれほどのものではない感じがするのだが、向き合っているうちに思いもかけない本性を露わにしてくるようで侮れない作品だ。
茶色いぼろ切れに目鼻口をつけただけの漫画のような作品ながら、その姿は炎か電磁波か、或いは放射能のようにすら見えてくる底知れない原初的なパワーを秘めており、しかもその表情には我々人間に対する根強い不信感や猜疑心が宿っている。
もしかしたら激しい復讐心に燃えて今まさに我々の目の前に飛び出してきたかもしれないような感じもあって、遂には“こいつには敵いそうもない”と、こちらから視線を逸らさざるを得ないような気がしてくる、なんとも不気味な”お化け”だった。

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2011年07月19日

パウル・クレー-2 ”技法”がもたらしたもの 

(近代美術館 〜7/31)
前回、“1:現在/進行形 - アトリエの中の作品たち”ではややテーマに反する感想を述べたけれど、せっかくだから”おわらないアトリエ”という本企画の趣旨に従って クレーの技法を見ていくことにする。

“2:プロセス1 写して/塗って/写して - 油彩転写の作品”では、元の素描をカーボンコピーのように転写したものに彩色する “油彩転写”という制作手法が紹介されていた。それは、こうしたクレー作品に見える線があまり生々しくなく、むしろ一定の距離感を覚えさせるような人工的でメカニックな感じがすることをよく説明するものであった。
しかし、クレーはなぜこのようなプロセスを踏んだのか、おそらくは同じ線描に様々な色彩を載せてみたかったということなのではないかと推察できるけれど、そのような“変奏”作品は残っていないのだろうか。特に 「上昇」という作品では、周囲のグラデーションによって素描だけでは見えてこない空間の広がりが感じられたが、ここに行きつくまでにも多くの試行錯誤があったように思われた。

“3:プロセス2 切って/回して/貼って - 切断・再構成の作品”と、これに続く “4:プロセス3 切って/分けて/貼って - 切断・分離の作品”は、いずれも一つの画面として制作された作品が後に切断され、その各々を別個の作品としたのが“4”、違った形に再構成して1つの作品に戻したのが“3”、ということかと思われるが、これは一体何を意味するのだろう。
樅の木のある赤い風景」などは初めからこのように構想されたと思いたいほどの完成度を示していると思うけれど、普通に考えれば、描き上げた段階で満足のいく作品ならそれを切り離すということはないはずだ。実際にも“切断されない“多くの魅力的な作品が存在しているのだから、これはクレー芸術の本質的部分となる技法というわけではなく、ただ単に、失敗作とは言わないまでもそれに準じた位置付けの作品を ”再利用“してみた実例というだけのことではないのか。
普通の具象画ではもちろんのこと、抽象画でもカンディンスキーなどだったらまずやりそうもないこうした ”切断による再利用“は、天才肌のクレーも意外に人間的なところがあったということを示すとともに、むしろ、切断された後の断片にもそれにふさわしい詩的なタイトルが付いているという事実は、一般的にクレーにおいてはタイトル=テーマよりも作品が先行したらしいことを推測させるものとして興味深いものがあった。

”5:プロセス4 おもて/うら/おもて - 両面の作品“は、歌川国芳などの影絵(写し絵)のように表裏になっていることに特別の意味がある作品なのかと思って見てみたのだが、どうやら単に1枚の紙の両面をそれぞれに利用したというだけのことらしい。
そうであれば、これは”四次元性をも含みこむ創造的な作品“などと持ち上げるほどのものなのか、表裏一体で一つの作品として構想されたということが証明されるのでなければ、やや無理があると言わざるを得ないのではないかと思った。

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2011年07月04日

パウル・クレー、おわらないアトリエ-1

(東京国立近代美術館 〜7/31)
2006年に大丸と川村美術館で相次いで開かれた パウル・クレーの展覧会、それ以前にも何度か見た記憶があるが、国立近代美術館で取り上げるのは初めての試みになるのだそうだ。
だからということなのか、今回は “クレーの作品は物理的にどのように作られたのか”という点にさまざまな角度から迫るものとして企画されており、それは確かに興味をそそるアプローチであった。
しかし、結局のところ、そこで紹介されたさまざまな手法は “クレー芸術”のごく一部を説明するものに過ぎず、むしろ、クレーの魅力の源泉はアトリエの中や紙の上で物理的に行われていることではなく、“彼の頭の中で起っていること”にほかならず、それはどこまで行っても分かりそうもない、という当たり前のことを確認できた展覧会といえる。

“プロローグ:自画像“に続いて、 ”1:現在/進行形 - アトリエの中の作品たち“では、ミュンヘン、ヴァイマール、デッサウ、ベルンと移り住んだクレーが各アトリエで残した写真の中に見える作品が並べられたもので、同時進行とは言い切れないにしても同じ時期にどのような作品に取り組んだかがよくわかるコーナーだった。
そこでは、例えば 「北の森の神」(1922)という作品では抽象的な画面に奥深い神秘の森が表され、タピオラを思わせる霊妙な気配が漂ってくる一方で、「破壊された村」(1920)は褐色の地肌が痛々しいほどの荒涼とした光景が広がり、傲慢な人間たちの行きつく先を示しているかに見える。
また、「抽象的・幻想的な庭園」(1920)はおもちゃ箱をひっくり返したような楽しい画面で、底抜けの明るさが感じられるのに対し、「隠者になった子供」(1920)では子供の目の前に沈鬱な光景が広がり、幼い心の中に潜む恐怖や不安の底知れなさを感じさせていた。
これらはいずれもミュンヘンのアトリエにあったものだが、この4枚を見ただけでも、クレーの描きだすイメージの振幅の広さ、世界観の多様さは ”凄味“を覚えさせられるほどのものであり、そのような世界を紙の上に定着させたクレーという画家の頭の中をこそ知りたいと思った。

<クレーの過去記事>
クレー展(2006年、大丸) 
パウル・クレー創造の物語(2006年、川村記念美術館)  
青騎士の画家たちリールフィラデルフィアピカソとクレーの生きた時代    

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2011年06月20日

森と芸術-4 シュルレアリスムの森

(庭園美術館 〜7/3)
アール・ヌーヴォーのメインダイニングから大広間に戻り、ボーシャンを横目に見ながら階段を上がっていくとやや雰囲気が変わる。
2階ホールの正面には マグリットが3枚あって、技巧派シュルレアリストの醒めた目が捉えた芝居の書き割りのような森に肩透かしを喰うような感じもあるが、しかしそれは長い歴史の中で共有されてきた深い神秘の森の記憶があるからこそ、見る者を意外な方向へ導くものだともいえる。

それにしても、“第7章:シュルレアリスムの森”に登場するアーティストの目から見た森は千変万化だ。
マックス・エルンストの森は揺るぎないマッス=塊であり、自然を超越した根源的なパワーは秘められているのかもしれないが、その中で育まれる多様な命といったものは感じとりにくい。
ジャン・アルプの軽やかな画面は、森という豊穣な世界のある部分に特化したものだろうし、ヴィフレド・ラムなどになると何が森であるかが分からなくなってくる感じはあるが、そこにこそ様々なインスピレーションの根源としての森を感じるべきなのであろう。

そんな中で、ポール・デルヴォーは歴史的文化的な“森”のイメージをそのままに引き継いでいるようであり、気が付いてみるとデルヴォーの女たちは古代都市や荒涼とした山の近くだけではなく森にも出没している、というよりも、森こそが彼女たちの本来の領域だったのかと思えてくる。
出現」という作品は、きちんとした身なりで建物から出てきた男が、森を背にして立つ裸の少女と不意に出会う場面。そこは文明と森の境界、現実と幻想の狭間に違いなく、白く透き通るような少女は今にも森の中に消え行ってしまいそうな風情だ。
機関車」でも、文明の塊のような闖入物に興味を示しているのは少年たちだけらしく、女たちは木々に囲まれて 1/f の揺らぎに身を任せている。

この章には 瀧口修造アンドレ・ブルトンの居宅を訪ねたときの写真もあった。
アフリカや南太平洋などの原住民の木彫彫刻や面などが並ぶブルトンの書斎を瀧口が “人類博物館”と呼んだという“世界史的場面”の記録だが、こうしたプリミティヴィズムのコレクションに宿る“野性”が、洗練された西洋近代美術のその先を目指す理論家の眼を捉えたというのも面白い。
ここまでくると、黒子であった監修者 巌谷國士がやおら舞台に上がってきたような感じもあるが、森を巡る旅はまだまだ終わらない。

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2011年04月11日

シュルレアリスム展-4 エルンスト、デルヴォー

(国立新美術館 〜5/9)
この展覧会は、アンドレ・マッソンと ヴィクトル・ブローネルが通奏低音を奏でる中で、キリコ、マグリット、ミロ、ダリ、タンギー、エルンストといったソリストたちが代わる代わる登場して観客の拍手を誘っていく。
それは、“単なる現実ではない”という “否定命題”を拠り所に具象も抽象も問わずに集結した感もあり、例えば夢見心地のゆるさが広がるような ミロの 「シェスタ」と、徹底的に描き込まれて息詰まるような ダリの 「不可視のライオン、馬、眠る女」が、ひとつの “シュルレアリスム”という傘の下にあるのは、いわば偶然のようなものだろう。
アンドレ・ブルトンは確かに窓を開けた、しかし、その大きく開け放たれた窓からどこへ向かって飛んでいくか、それは個々の芸術家の直感や思索に委ねられるほかはない。

マグリットの 「秘密の分身」は前回触れなかったが、顔の一部が割れて見える内部の虚しさと、パリンと音がしそうな薄さや硬さを表現する手立てを、この画家は確かに心得ている。
会場には映像や写真の展示もあり、ピカソの比較的後期の愛人である ドラ・マールの謎めいた作品も見られた。

エルンストの 「三本の糸杉」と 「最後の森」は、忘れ去られた太古の世界のような、あるいは地球とは別の惑星のような不思議な光景であり、自分は一体何を見ているのか、という根本的な疑問が湧き上がってくるものだった。
キリコやマグリットほどの分かりやすさはないけれど、日常的な感覚を強く揺さぶるような力があり、不意に実在と虚構の狭間に投げ込まれたような感じがした。

デルヴォーの 「アクロポリス」は、月の光に照らされた古代都市に裸の女たちがキャンドルを持って集まってきている光景で、これから何かの儀式が始まるところらしい。
しかしその画面の位相は大きく捩れていて、左の方は月に向かう神殿に昇っていく後ろ姿が見えるのに対し、右半分の平坦な広場では女たちがしずしずと左の方へ歩みを進めていく。
そして、そんな大勢の女たちの動きに全く気付いていないかのように、手前に置かれたベッドには女がひとり全裸で横たわっている、彼女は一体どういう役回りなのか・・・

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2011年03月23日

シュルレアリスム展-3 アンドレ・マッソン

(国立新美術館 〜5/9)
この展覧会は、エントランス部分に合わせ鏡を置いたり章の合間に資料展示や映像のための小部屋を設けるなど、会場全体を迷宮感漂う空間に仕立て上げるような工夫がみられ、また第一室では照明の効果によって宙吊りにされた デュシャンの 「瓶掛け」の影がことのほか美しく見えた。
同じコンセプトによるものなのか、会場内での作品解説を一切省いて アンドレ・ブルトンによる1924年の シュルレアリスム宣言manifeste du surrealisme)などの文章のみを散りばめるというやり方も特徴的だったが、こちらは多分賛否が拮抗するだろう。

ヴィクトル・ブローネルと並ぶもう一人の主役、というかこの展覧会のホストのような役回りの アンドレ・マッソン(1896-1987)も、会場全体を通じて多くの作品に出合うことができた。
初期の 「四大元素」(1923)などでは柔らかい色づかいにより夢幻的な世界が広がり、バッカス的陶酔の世界を描いた 「バッカナーレ」(1933)でも淡い色合いが美しく、狂乱の場面の生々しさや露骨さを和らげている。
しかし、ミノトール=ミノタウルスに触発されたと思われる 「迷宮」(1938)になると、激しい色彩がダリ風の偏執狂的な執拗さで鬩ぎあい、画面にはかつてない迫力が漲るようになる。
これは “迷宮”というテーマがマッソンの意識に嵌ったということなのか、迷宮の奥に潜むはずのミノタウルスは凶暴に立ち現れ、しかしその存在自体も迷宮と化してしまっていて、怪物の内も外も、この世の中も人間存在もすべてがラビリンスだと宣言しているようだった。

2枚の 「アンドレ・ブルトンの肖像」は、シュルレアリスムの創始者であり”法王”として君臨した男の、やや尊大で自己主張の強そうな個性を伝えるものだが、1941年という時点でマッソンがこのようなものを描いたところに、なにがしかの散文的意味合いを感じ取るべきなのかどうかはよくわからない。
ブルトン自身は評論活動を通じて“運動”全体に影響力を持ち続け、エルンストやダリを“除名”するなどということもあったようだが、そもそもこうした芸術家を一つの理念のもとに束ねておこうとすること自体がナンセンスであろう。
最後の方にあった 「恐慌」(1963)は、鮮やかな赤い画面全体をうねるようにめぐるエネルギーが感じられ、吹っ切れたような感じが心地よい作品だった。

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2011年02月28日

シュルレアリスム展-2 ヴィクトル・ブローネル

(国立新美術館 〜5/9)
シュルレアリスム全般をターゲットにして キリコや マグリット、エルンストや ダリなどのスターを集めてきた今回の展覧会の中で、全体を通じて強い存在感を示していたのは アンドレ・マッソンヴィクトル・ブローネルだった。
この2人の作品は通奏低音のように会場に響いていて、特に章をまたがって再三登場する ヴィクトル・ブローネル(Victor Brauner)は、初めて出会うようなどこかで聞いたことがあるような不確かな思いを抱きながら見ていたが、最後の方の部屋で 「狼テーブルに再会して “ブラウネル”だったことに気がついた。
しかしそれほどメジャーなアーティストではないのだろう、1903年ルーマニア生まれというくらいしか情報がないのだけれど、作品は実に興味深いものが多くあった。

空気の威信」(1934)は、パイプの内臓やマッチ箱の足など様々なパーツで出来た人形ロボットが、キリコを思わせる極端な遠近法による画面の中に立ち強い光を浴びている。
一方 「光る地虫」(1933)は暗い地底での出来事なのか、眩しい光線を放つ不気味な虫と、その攻撃を受けてのけ反り固まっていく女が、無意識の奥底にあるものに触れてくるようだ。
インクと水彩による連作 「欲望の解剖学」(1936)は、欲望を意識化して紙に定着させていくことを通じてエロスの解析を進めていく。

アレクサンドリアのヘロン」(1939)という作品は、果たして古代アレクサンドリアの数学者を扱ったものなのかどうか、アーチ状に伸びていく髪の先にいる煙のような謎の生物と戯れる人物は、ひんやりとした醒めた横顔を見せている。
半透明にも見える白い異形の2人が向かい合い、その向こうに蛇がいる 「パラディスト、あるいはパラディストの主題によるコンポジション」(1943)は、これがブローネルのイメージする楽園の風景ということなのか、とにかく一筋縄ではいかないアーティストだ。

狼テーブル」(1939/1949)は、改めてよく見てみると、単にキツネの剥製を木のテーブルに取り付けたものではなく、テーブルの脚の一本が動物らしい動きを与えられていて、奇妙な迫真性を醸し出していた。
そしてこの作品の先の壁には、子供の切り絵のようにリズミカルな形が遊ぶ「法悦」(1947)をはじめとして、 「育む女」(1962)、「礎と頂」(1964)、見たこともない生物がちょっと困ったような顔をして躍動する「傷ついた主体性のトーテム」(1948)という4点の作品が並んでいた。
いずれも、不可解なタイトルを持ちながらもそれまでの毒気や謎を抑えて目の楽しみを優先させたかに見える作品だったけれど、これがブローネルというアーティストの到達点だったのかどうかは、今はなんとも判断のしようがない・・・

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2011年02月23日

シュルレアリスム展-1 キリコ、共感の限界

(国立新美術館 〜5/9)
“カンディンスキーと青騎士展”でも感じたことだが、ムーヴメントとしての芸術活動の衝撃やそこに至る試行錯誤は、すでに一定の果実やその後の展開を知ってしまっている我々にとっては、どこかへ向かっていく “動き”として実感することが難しい。
また、よく西洋絵画を見るうえでの必須科目と言われる ”ギリシャ神話とキリスト教”などは知識としてある程度学ぶことも出来ようが、時代の空気や皮膚感覚となっている意識となると、一体どこまで分かっているのか心許なくなってくる。
これらを離れて純粋に作品と向き合って何を感じるかも重要だけれど、できれば多少の想像力を働かせてリアルタイムな見方をしてみたい、そんな思いに応えようとしたものなのかどうか、今回の展覧会は時代ごとに小部屋を設け資料展示を行うなどして、そのあたりに一定の配慮をしていたように思えた。

まず目に飛び込んできたのは キリコの 「ギョーム・アポリネールの予兆的肖像」。
我々にはすでに馴染みの絵柄になってしまったけれど、1913年にこんな硬質で謎めいた画面が提示され、それがアポリネールの自殺行為に関係付けられて受け止められたという不気味さに、髑髏の目の空洞のようなサングラスを覗き込むことでどのくらい近づけているだろうか。
ある午後のメランコリー」は煙を吐いていく汽車が遠くに見える ”キリコ的風景“の典型といえるが、我々にとってはノスタルジーを呼び起こすこの蒸気機関車も、描かれた当時は最新鋭の機械であり文明の発展の象徴だったはずだ。
そうなると、わずか100年ほど前の作品にも関わらず、その本質的な部分で共通の基盤の上に立てていない、むしろ全く別物の作品として見てしまっているのではないかという気がしてくる。

エルンストユビュ皇帝」の奇怪な形からは強烈なアイロニーが感じられるが、それを本当に理解する感性を私が共有出来ているとは思えないし、足と靴が溶け合っているらしき マグリットの 「赤いモデル」のように一見分かりやすい作品でさえも、靴を履いている時間がよほど長そうな西洋人のとらえ方は、おそらく我々の想像の及ぶところではないのかもしれない・・・

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2011年01月15日

カンディンスキーと青騎士-5 抽象への道

(三菱一号館 ~2/6)
カンディンスキーが ”抽象”への扉を開いた。
そこに扉があることも、その先に新しい世界があることを示したのも、結局はカンディンスキーには違いない。
しかし、もし青騎士の活動というものがなかったとしたら、それでも彼はその扉の向こうへと歩みを進めたかのだろうか。

青騎士の時代、上手い下手は別として、絵としての根源的なパワーが感じられるのは、理論派のカンディンスキーやマルクではなく、武闘派(?)のヤウレンスキーやヴェレフキン、そしてミュンターたちの方だ。
彼らの作品にある思い切りの良さが、迷えるカンディンスキーの背中を強く押し、彼は遂に前人未到の一線を越えることができたように思う。
そのことをどのくらい自覚していたかは分からないが、新たな世界に立った後はクレーが重要な同志となり、自由奔放でパワフルだった画面は幾何学模様が遊ぶ緻密なものとなっていくけれど、それはこの展覧会がカバーしていない随分先の話だ。

ミュンターの 「聖ゲオルギウスと静物」は、人形や置物を構成して郷愁を誘うような幻想的世界を描いたもので、幼い頃にキリスト教やそれに代表される西欧に対して感じていた神秘さや憧憬をふと思い起こさせる作品だ。
それは、カンディンスキーの理屈っぽい賛辞は要らないほど自明の魅力的な作品なのだが、彼の 「万聖節」を見て、その賛辞の根底にある迷いが分かったような気がした。
カンディンスキーはこの時期、”宗教的主題を抽象画で描く”という難題にぶち当たっていた。
それはいかにも無理な話のように思えるが、まだ世の中に ”純粋な抽象画”というものが存在せず、絵画とは ”何か意味あるもの”を描かねばならないという時代にあっては、それも避けて通れない道だったのだろう。

この時点で、カンンディンスキーのゴールはまだ見えていない。
しかし、その道の険しさを追体験することがこの展覧会の見どころと心得るならば、たとえここでその先の到達点を見届けることはできなくても、それは、アルル時代の作品を欠くゴッホ展のようなものかもしれないにせよ、今回の企画の守備範囲はここまでとしたところに潔さを感じるべきなのだろう。
もちろんそれは、第一次大戦勃発後一人残った ミュンターが、ナチスドイツが台頭する困難な時代を経てカンディンスキーの帰りを待ちながら守り続けた作品を、80歳になった1957年にミュンヘン市とレンバッハハウス美術館に寄贈した、そのことによるコレクションだからなのではあるけれど・・・

(2006年の「青騎士の画家たち」展: 
続きを読む

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2011年01月08日

カンディンスキーと青騎士-4 青騎士の歩み

(三菱一号館 ~2/6)
カンディンスキーとミュンター、ヤウレンスキーとヴェレフキンという二組のカップルにフランツ・マルク、アウグスト・マッケという二人の気鋭の若者を加えた 青騎士”軍団”は、1911年にミュンヘン新芸術家協会がカンディンスキーの作品を拒絶したことを契機に、同年末、タンハウザー画廊で 「青騎士」展を開催する。
この新しい時代を切り開く企ては、しかし1914年の第一次世界大戦勃発によってマルクとマッケは戦場へ、カンディンスキーとヤウレンスキー、ヴェレフキンは国外追放という形で脆くも吹き飛ばされてしまうのだが、”第3章 抽象絵画の誕生、青騎士展開催へ”に並ぶ作品を見ていても、なにやら前途多難を感じさせられてしまった。

カンディンスキーの 「印象Ⅲ(コンサート)」(1911年 )はさすがに格調高い。
シェーベルクの無調音楽を聴いた印象を視覚化したという取組みは面白いし、新たな世界を開いたという意味で意義深いけれど、ピアノや聴衆が痕跡として残る画面は、この手の絵を見続けたいと思うほど面白いとも思わない。
ヤウレンスキーの 「成熟」や 「スペインの女」は、大きなどぎつい顔が迫ってくるような強いインパクトを持つ作品で、プリミティブな中に呪術的なパワーも感じられるのだが、この路線でたたみかけられてもいつか飽きがきてしまうのではないか。
ミュンターの 「テーブルの男(カンディンスキー)」は、あたたかい雰囲気で好感が持てる、なんとなくいいなと思える作品なのだけれど、これだけでは新しい芸術にも主張にもなっているとはいえない。
フランツ・マルク(1880-1916年)の 「」は、直線を上手く使って虎の本質を掴んでいるし、アウグスト・マッケ(1887-1914年)の 「遊歩道」や 「帽子店」には都会的なセンスが感じられるものの、二人ともまだこの先を見たいと思う段階なのに、大成しないうちに戦争に行って命を落としてしまう。

そういえば冒頭に シュトゥックのブロンズ像 「アマゾン」があったけれど、槍を持って馬にまたがる騎士のポーズは威勢がいいのに、馬がなんだかもたもたした感じで前へと疾走していく感じが伝わらず、それがなんとなく「青騎士」の前途を象徴するような感じがしたことを思い出した。
といって、青騎士の成果を過小評価したいわけではない、このグループによる活動がなければ、カンディンスキーが抽象への扉を勢いよく開けられたかどうかは定かではない、その意味で、やはり青騎士は ”過渡期の記念碑”ということになるのだろうか。

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2010年12月17日

カンディンスキーと青騎士-3 ミュンターと友人たち

(三菱一号館 ~2/6)
カンディンスキーの部屋の先で、ムルナウのミュンターの家で制作をともにした同志たちの作品に出会うと、”内的必然”の赴くところに従い、結果としてカンディンスキーに方向を指し示したのは彼らの方だったのではないかという思いを強くする。

ガブリエーレ・ミュンターの 「マリアンネ・フォン・ヴェレフキンの肖像」は、強烈な色と形が見事にジャストミートして、一度見たら忘れられないほどの強い印象を残す作品だ。彼女自身が、”ものごとの核心”に向かって素直に突き進んでいたという時期のこの作品は、テクニックや約束事の一切から自由になって出来上がっているようであり、これこそが内的必然性に貫かれた作品という気がした。
コッヘルの十字架墓標」は雪の中の墓標を近いところからとらえた作品で、何も無理なことをしていないように見える中、画面に広がる美しいリズムが心地よい。
耳を傾けるヤウレンスキーの肖像」という作品は、同志の一人を漫画のような好々爺風に描いた微笑ましい作品なのだが、このヤウレンスキーという男は、カンディンスキーやフランツ・マルクらの”理論派”が小難しい議論を続ける中で、知性や弁舌に劣りそこにうまく加われなかったということがあったらしい。しかし、そうした素朴な職人肌の画家に対しても、ミュンターはけっしてバカにしたりせずに仲間として尊重しているように見えるし、多分それが彼に大きな力を与えたのではないか。

その アレクセイ・ヤウレンスキー(1864-1941年)の 「夏の夕べ、ムルナウ」は、暗くなりかけた中で山の向こうの明るい夕映えが印象的な光景、そして、山の斜面を登っていく場面と思しき 「ムルナウの風景」という作品は、色と形が理想的に合致していて一際強いインパクトを与えていた。遠くの山や近くの木が目に飛び込んでくる単純な画面には壮快なリズムがあり、色の弾け方も適度に刺激的で心地よく、同時に、この道を行くことで未知の世界に向かっていくような、しかも未来に明るさが見えてくる感じを起こさせるものだ。
こんな思いを誘い出す作品は、そしてここまで見事に”抜け切った”表現も、この時期のカンディンスキー作品には見当たらず、この瞬間はヤウレンスキーがグループの先頭を走っていたのではないかという気さえしてくるほどのものだった。

彼のパートナーである マリアンネ・フォン・ヴェレフキン(1860-1938年)の 「自画像」は、ミュンターが描いたものとは打って変わって凄味のある形相、そこには、芸術家仲間で競い合い表現主義的フォーヴィスムへと突き進む前衛的な空気、あえて言えば集団催眠的な人間関係を垣間見たようにも思った。

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2010年12月12日

カンディンスキーと青騎士-2 新たな挑戦

(三菱一号館 ~2/6)
ガブリエーレ・ミュンターの肖像」(1905年)、カンディンスキーが親密な仲となった教え子で後に婚約し、青騎士運動の同志でもあった女性の有名なポートレートだが、この絵の中の彼女は何故か寂しそうだ。
後の顛末はさておき、ともに夢を追いかけていたはずの時代の只中の、これが28歳の愛人の姿なのだろうか。
気の毒なほど老けている、少しも理想化されていない、それはこの手の絵を他にほとんど残さなかった画家カンディンスキーの腕の限界だったのか、それとも結局は結婚せずに何年か後には捨てることになる男の心の中の何かが、既にここに投影しているということなのか。
いずれにしても、人生に疲れた薄幸な女のように描かれたミュンターは、どんな気持ちでこの絵を一生涯手元に置いていたのだろう。

この時期の二人の作品を見ると、例えばカンディンスキーの 「サンタ・マルゲリータ」は、水面に映る美しい建物の姿を左の方から暴力的な波が飲み込もうとしているのに対し、ミュンターの 「窓からの眺め、セーヴル」は、小さく平凡な町の冬景色なのに何故かあたたかく、彼女の心の充足感が伝わってくる。
男は、何か新しいものを取り込もうと必死に試そうとしている、しかし、女に迷いはないし、無理をしようとも思っていない。

1908年、ミュンヘンに戻り制作活動を再開した二人は、近郊の古い町 ムルナウを拠点に仲間たちと新しい表現への挑戦を始める。
”第2章 ムルナウの発見、芸術的総合に向かって”では、この時期の カンディンスキー作品が、本美術館では最大のスペースとなる角の部屋に並べられていた。
それは、”抽象へと一歩踏み出した具象画”というべきか、”具象の痕跡を残す抽象画”というべきか、とにかくここでは”色”が強烈に自己主張を始め、追いすがる”形”を振り切りそうになっている。
その”色”も、決してありえない色ということではないものの、あのルートヴィヒ2世も愛したバイエルン・アルプスに近い村の風景としてはおよそ考えられない”色”が、画面の中で増殖し他の要素を圧倒している。

このネオンの明るさをもつ作品群は、確かに新しい道を求めて描かれたものに違いない。
だがそれは、そのような目的の下に頭で考えた末にようやく姿を現したものだという印象もついてまわる。
カンディンスキーが重視したという ”内的必然”との関係で言えば、それを ”追求しよう”として描かれたものであっても、それに ”突き動かされた”結果として生まれたものとは言い難いのではないか。
もちろん、この段階ではまだ十分にこなれていない挑戦が新たな絵画の世界を開くことになったことは確かで、「コッヘル、まっすぐな道」に見る三角形に収斂された単純な風景画はその成果のいいサンプルだと思うけれど、そこに見え隠れする周囲の貢献を感じさせてくれるところが、この展覧会の最大の見所のように思えた。

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2010年12月07日

カンディンスキーと青騎士-1 芸術家たちの胎動

(三菱一号館 ~2/6)
ロシアからミュンヘンにやってきた カンディンスキーが、ミュンターや仲間たちと出会い、「青騎士」グループの活動を通じて抽象への扉を開けるあたりまでを、レンバッハハウス美術館のコレクションで辿る展覧会。
したがって、”カンディンスキー展”としてはバウハウス以降の主要作品を欠くけれど、現状に飽き足りない芸術家たちが新たな絵画表現を模索していく様子は、リアルタイムに近い感覚で追体験していくことのできるものだった。

序章では、舞台となるミュンヘンのアートシーンの紹介として、レンバッハハウス美術館の元を造ったレンバッハとシュトゥックの作品が見られた。
フランツ・フォン・シュトゥック(1863-1928年) はあまり見応えのある作品が来てなかったものの、フランツ・フォン・レンバッハ(1836-1904年)の肖像画、「オットー・フォン・ビスマルク侯爵」は大物政治家の胆力や思索の深さを示すような作品、こうした器の大きな政治家を最近見かけないだけに思わず引き込まれた。
また、自らの姿を等身大に近い大きさで真正面から捉えた 「自画像」は、自分の邸宅を美術館にしたということから想像される世俗的にも成功した画家というイメージとはずいぶん違う質素な身なりで、一昔前の左翼系知識人を思い起こさせるような鋭い尖った視線を発していた。

ヴァシリー・カンディンスキー(1866-1944年)は最初ミュンヘン美術アカデミーに入学しシュトゥックに師事するが、1901年にファーランクス美術学校を仲間たちと立ち上げ、翌年ここに生徒として入学した ガブリエーレ・ミュンター(1877-1962年)と親密な仲になって本妻の目を避けるようにオランダ、チュニジア、パリなどを旅して過ごす。
この1901年から 1907年頃までの作品を紹介するのが ”第1章 ファーランクスの時代、旅の時代”。
ここでは小さめのサイズの風景画が中心になるが、モスクワ大学で法律を学んでから30歳で画家になる決心をしたという男の絵は、最初から普通の風景画の枠を破ろうとする何かがその中で蠢いている感じがする。
モネの「積藁」を見たことが契機となったせいか、デッサンの基礎を学ぶ期間が限られていたためか、既にこのあたりの絵から明らかに色彩が形に優越しており、さらに例えば 「コッヘル~シュレードルフ」では白い波が生き物のように存在を主張する。

具象時代の代表作とも言える 「花嫁」は、暗褐色のボードに色斑を置くようにして描かれた作品で、そこでは楕円の形をした色が発光するように浮かび上がって見える。
この技法では形が線で定義されることはなく、思いのままに置かれたような色の塊が集まって輪郭の曖昧な形をとることになるが、それによって存在感の淡い夢の中のような画面が出来上がり、ロシアへの郷愁や花嫁となる女性への思いが、儚くも美しいものとして立ち表れていた。

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2010年09月30日

アントワープ王立美術館展−3 デルヴォーの女

(東京オペラシティ アートギャラリー 〜10/3)
ポール・デルヴォーバラ色の蝶結び
ごつごつとした岩山があたりを取り囲んでいる。
風はひんやりとしていて、空気はだいぶ薄いようだ。
一木一草も生えていない、地球が出来たときの地層がそのまま現れているような岩肌に抱かれるように、古い宮殿のような建物があり、夜だというのに光源の分からない眩しい光が、中庭を明るく照らし出している。

その中央の通路を、バラ色のリボンを蝶結びにして胸につけただけの裸の女が、静かにこちらの方に歩いてくる。
髪をきれいに整えたその女は、大きな目を見開いたまま瞬きひとつせず、バラ色のリボンをふわりふわりと揺らし、張りのある下腹部で強い光をはね返しながら、真っ直ぐに歩いてくる。
何かの儀式なのか、硬い表情を崩さないまま一人が行き過ぎると、全く同じリボンを胸につけた女が、次々と、等間隔で表れては何処かへ消えていく。
よく見ると、建物のバルコニーにも、岩山の中腹あたりにも、似たような女たちがいるらしい。
ここは”女の王国”なのか、彼女たちは何をしているのか・・・ 

すると突然、こちらに近づいてきた一人の女が目の前で止まり、中央の通路を離れると、胸に着けていたバラ色の蝶結びをはらりと解いた。
明るい光の中で露わになる胸、そして全裸になった女の顔からはそれまでのよそよそしさが消え、次々と歩き去る女たちを一様に支配していた ”義務”からも開放されたように、体は緊張感を失って弛緩し、匂うような色艶と芳香を発し始めた。
しかし、その目の前にいる女にも声をかけようとしても、けっして届きそうもない・・・  

同じデルヴォーの 「ウェステンデの海」は、ほとんど水墨画のように見える水彩画。
スピリアールトの海よりはやや穏やかで茫漠とした海と、遠くの砂浜に小さく見える人々、その全てをゆるやかに包み込む、果てしなく広い空・・・

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2010年09月11日

アントワープ王立美術館展−2 スピリアールト

(東京オペラシティ アートギャラリー 〜10/3)
今回の展覧会で最も吸引力を感じたのは レオン・スピリアールト
砂丘の少女たち」は、海を臨む砂丘の上にふたりの ”少女たち”がいる。
といってもそれは鏡に映ったような背中合わせの姿で、二つの人格ではなく一つの孤独な魂だけがあるという感じだ。
海からは強い風が吹いてくるらしく、少女の髪も海岸の草もその風に翻弄されている。
”彼女”は犬を連れている、しかしそれは砂の上に映る影のように頼りなく、抜け殻のように儚い犬とともに、この少女(たち)はやがて海に引きずり込まれてしまいそうだ・・・ 

海に向かって立つ女の後ろ姿が、画面中央に影法師のように見える「海辺の女」。
背後から女の表情を覗うことはできないが、視線の先にはただ暗い海が広がり、無限に模様を変える波だけをじっと見ているようだ。
ここは海岸の遊歩道なのか、女の腰の辺りに細い手すりがあるけれど、この女も、ふと目を離した隙に、その手すりを越えて海に引きずり込まれていくのだろう。
いや、彼女は、海に”帰っていく”のかもしれない。
暗く冷たい海に魅入られてしまった女たちの絵・・・ 

スピリアールトという画家を知ったのは伊勢丹美術館での展覧会、そこで特に印象に残ったのが、暗い海に一筋の航跡を残して水平線の彼方に向かっていく船の絵だった。
あの煙を吐いて進む孤独な船も、海の中に消えていく運命だったのだろうか・・・ 

自画像」も2点あった。
いずれも神経質そうな表情を投げかける、独特の雰囲気をもった”自画像”だが、1枚は合わせ鏡の中で一つのポーズが無限に続いていく図として描かれている。
その実体の希薄さ、虚実の入り混じる危うさが、陰鬱で病的な気配をさらに深いものにしていた。

レオン・スピリアールトは1881年オステンデ生まれの画家、ピカソより1歳年下、クレーやモディリアーニ、ユトリロらが前後5年以内の同世代ということになる。
2003年に、ブリジストン美術館で回顧展があった。
(スピリアールトに言及した過去記事:

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2010年06月26日

音の出る展覧会 マティス、デュフィとViolin

(ポーラ ミュージアム アネックス 〜6/27)
銀座のポーラ・ミュージアムで開かれている ”音の出る展覧会”は、文字通りヴァイオリンの銘器の ”音を出す”ことを含む企画らしいが、実演の時間に合いそうもなかったので ”音が聞こえてきそうな絵と楽器の展覧会”として見た。

絵画は5点、マティスの 「リュート」は、装飾的な室内にリュートを抱えた女性が一人いるもので、プライベートな室内空間で楽器が弾かれている親密な雰囲気は、フェルメールの楽器をモチーフにした作品、例えば 「リュートを調弦する女」の持つ気配に近いものが感じられた。

一方、デュフィも同じように音楽をテーマに多くの作品を残しているが、「五重奏」、「赤いコンサート」にみるようにそれらはステージ上の演奏者が描かれた公開の音楽会の情景で、コンサート会場の華やぎや緊張感、非日常的な気持ちの高ぶりといったものが伝わってくるし、実際に音を出す道具としての”楽器”の本質がよく捉えられているように思う。

他には カンディンスキーの 「複数のなかのひとつの像」、これはもちろん抽象画なので楽器そのものが登場するわけではなく、画面構築そのものが”音楽的”ということなのであろう。
小さなスペースでの無料の展覧会なので多くを期待するのは難しいが、出来ればこの路線で ”音楽を感じさせる”作品を集めてみるのも面白いのではないか。

会場にはヴァイオリンの三大銘器 「アマティ」、「ストラディヴァリ」、「グァルネリ」とハープがあった。
3台のヴァイオリンはガラスケースに入っているので、楽器としての真価は実感できないもどかしさがあるが、掌に載る機械にこれだけの機能が盛り込まれ、探査機が小惑星に行って帰ってくる時代に、ヴァイオリンといえば未だに300年前のイタリアの職人の作品を超えられないというのは、実に不思議なことだとあらためて思った。

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2010年06月16日

ユトリロ展−2 モーリスを取り巻く人々

(損保ジャパン 〜7/4)
結局のところ今回のユトリロ展は、様々なエピソードでその生涯に正面から切り込んだことの意義が大きかったと思うので、そのあたりを覚えている限りで書き留めておく。

彼の母 シュザンヌ・ヴァラドン(1865〜1938年)の母 マグドレーヌは貧しい洗濯女で、危うい仕事をしていた夫と別れ行きずりの労働者との間にシュザンヌをもうける。
母娘はやがてパリに移り住むが、ヴァラドンが16歳のときに貴族の画家のもとへ母の洗濯物を届けに行き、ここでモデルにスカウトされることによってドガやルノワールのモデルとなり、サティなど当時のパリの芸術家たちとも親交を持つ中で自身も絵を描くようになる。
彼女の絵は息子のものほどは売れなかったようだが、時折目に留まる作品には非凡なパワーを内に秘めたものも多く、私としてはまとまった回顧展を期待したい画家の一人でもある

ヴァラドンは18歳でモーリスを産むが父親は誰か分からず、スペイン人の Utrillo氏が認知したために ”モーリス・ユトリロ”という名を持つフランス人が誕生した。
この”法律上”の父子は生涯会うことは無かったとされるが、その姓を聞いただけで多くの人が条件反射のようにサクレ・クーレ寺院の景観をイメージするようになるとは、Utrillo氏も想像だにしなかったに違いない。
その子どもの生い立ちはどんなものだったのか、彼は前述したようにアルコール中毒のセラピーとして絵を始め、”白の時代”に意外な高みに駆け上がるが、その後は悲惨な境遇の中で類型的な作品を描き続けることになった。

1914年、母ヴァラドンは息子より3歳若い ユッテルと結婚、彼が第一次世界大戦後に復員してきてみたらユトリロは売れっ子画家になっていたため、その”マネージャー”として小洒落た風景画を量産させるようになる。
こうしてユトリロは鉄格子の嵌まる部屋でひたすら制作に励み、それで得た金で母と継父は贅沢三昧の生活をするという関係が15年ほど続く。
そして1935年、ユトリロはベルギーの銀行家未亡人と結婚する。
ユトリロ51歳、妻 リュシーは63歳というこの結婚は、自分の亡き後にも息子を”管理”する女性が必要と考えた母ヴァラドンの”親心”ということだったのか、果たして母のような妻リュシーはユッテルに代わる”マネージャー”として夫モーリスを軟禁したまま観光絵葉書のような売り絵の制作を続けさせ、その作風は二度と変わることがなかった。

パリを愛した孤独な画家”というけれど、ユトリロは自身が有名にしたともいえるパリ、モンマルトル界隈を愛情をもって眺め散策したことはあったのだろうか。
他方、近親者の干渉を受けながら心は孤独であったのかもしれないが、それでもどこかで気持ちの折り合いをつけていたから ”色彩の時代”のような作品を描き続けられたと言えなくもない、そこになんとも名状しがたい哀しみを感じさせられる・・・

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2010年06月08日

モーリス・ユトリロ、パリを愛した孤独な画家

(損保ジャパン 〜7/4)
ユトリロの絵を嫌いだという人は少ないと思うが、”ユトリロ展”となると複雑な思いにとらわれて出かけるのを躊躇う人も多いのではないか。
今回は ”全作品日本初公開”という謳い文句なのに、今まで見てきた作品とどこがどう違うのかさっぱり分からないということもあるが、しかし問題はそこではない。

少年時代にアルコール中毒症にかかり、入院した精神病院で心理療法の一環として絵を描くことを勧められたのが1904年、モーリス・ユトリロ(1883〜1955年)が21歳の時のことだ。
その後の画業は大きく3つの時期、すなわち最初期の ”モンマニー時代”、1909年26歳でパリのモンマルトルへ移ってから10年間ほどの ”白の時代”、そして1919年の個展成功あたりから以降の ”色彩の時代”に分けられるが、ユトリロらしい個性、天才の作品としての深さが感じられるのは ”白の時代”のものに限られる。
この時期の作品には、何がきっかけかはよく分からないが漆喰への強いこだわりがあり、白い壁のマティエールをひたすら追求していく中で、パリの街角がしんとした静寂の世界として立ち表れてくる。
それは確かに他の風景画家には見ることのできない個性的なもので、内面との対話を繰り返しながら時間をかけて突き詰めが出来たのであろう、一見平凡な風景の中にユトリロとして表現すべきものがあったのだと感じられる何かがある。

しかし、”色彩の時代”になると様相は一変する。画面は明るくカラフルなものになるが、違いは色だけではない、定規による線、淡白な構図、そして饒舌なアイテムが散在する作品群は、それがパリの風景だからまあ見られるという程度のもので、ユトリロが売り絵画家に変貌し量産態勢に入ったことをはっきりと示している。
しかもそれは母ヴァラドンとその新しい夫に強いられ、結婚してからは妻に求められるままに、彼らの贅沢な生活を支える”金の成る木”として囚われの身で描き続けられたものだ。

オムニバス的な展覧会ならば、数点の”白い”ユトリロの世界に感心していればいいのだけれど、”ユトリロ展”となれば、圧倒的な数の霊感に乏しい”色つき”の作品を見ながら、モーリス・ユトリロという奇妙な人生に思いを及ぼさざるを得ない。
それでも今回の展覧会は、逆説的ではあるけれど、パリの街並みを想い起こしながら、そうしたユトリロの”深化”とそれに続く”陳腐化”を鮮やかに感じさせてくれるという点で、まことに意義深かった・・・

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2010年05月18日

ユビュ、知られざるルオーの素顔−2 素材と変奏

(汐留ミュージアム 〜6/13)
今回の展覧会の意義は、第犠呂砲△覺粟版 「ユビュおやじの再生に至る過程とその後の展開を辿る作品がまとまって来日したことだ。
それは、ルオーのライフワークと言っていい「ミセレーレ」制作の裏側で黒人や熱帯に出会い、驚き戸惑いながらもそれを自分のものにしていく道程に寄り添うことであり、同時に”決定版”の版画作品へと突き詰めていく”厳しさ”を思い知らされるものでもあった。

供ゥ廛蹈献А  試作、構想図 
1917年にルオーは ヴォラールと契約を交わし、そこから熱帯と黒人への取組みが始まるが、最初の頃はどうやら描きあぐねているような気配だ。目にしたものが掻き立てる思いに筆が追いついていないらしく、荒削りな画面からは何をどう描いていいやらといった苛立ちも感じられる。
それでも 「両腕を挙げた裸体像」や 「アフリカの風景」のあたりからは徐々に形を成してきたようで、「マリココ」というコンゴの王を正面向きにとらえた作品では、禅画を思わせる太くて黒い線がよく生きていた。

掘ゥ┘船紂璽鼻  下絵、原画、試し刷り
ここでは、ようやくアイディアが固まった下絵や、銅版画と木口木版画それぞれの途中経過を見ることができる。
ただ、これは以前も感じたことだけれど、”肉筆画”である下絵も、そのニュアンスにおいて完成作品である版画に及ぶものではなく、試行錯誤を経て突き詰めていった最終版の凄みをあらためて感じさせられることにもなる。
ユビュおっかあ」という作品は完成版の本編には含まれていないものだが、黒人たちに対し不当に権勢を振るった女だったようで、ぶよぶよとした体をあからさまに表現しているルオーの目は容赦なく辛らつだ。

検ゥ凜.螢▲鵐函  類作、再制作
最後のコーナーには、版画の中間ステートに彩色した作品や油彩であらためて描いたものなどの”派生作品”が並んでいた。
これらの作品が制作されたのは、完成版の版画集を普及させる、コアのファン層に”一点もの”を提供する、といった現実的な理由もあっただろうけれど、静かに内面から光るような ”決定版”と比較しての陳腐化は否めないし、版画として完成させたものを油彩で描き直すというのは創造的行為としてどうなのだろうという思いも残る。
しかし、3パターンほどの 「二人の裸婦」を見ると、背中合わせの黒人女二人が作り出す線は微妙にシンメトリーを崩しながら装飾的な美しさをもってそれぞれに躍動していて、これらの図案が行き当たりばったりではなくかなり練り上げられたものだと感じさせられた。
ルオー財団協力により来日した個人蔵の油彩で最後の方にあった 「窓の前の花束」は、テーマとしては ”ユビュ”とは関係がなさそうに思われるが、太く黒い線が力強く踊る画面はこのプロジェクトの果実に違いなく、僅かに添えられた色もよく生きている充実した作品だった。


この展示の中に ”デジタルブック”というものがあった。
これはPCの画面上で ヴォラールの 『ユビュおやじの再生』全ページと挿し込みの銅版画を見ることができるもので、さらに楽譜には演奏した音源まで付いていて、このプロジェクトの全貌をオリジナルに極めて近い形でイメージすることができた。

また、「画商ヴォラールと刷師クロへのオマージュ」という2枚の大きな画面は、文字と挿絵、枠の装飾までを描いて作り上げた美しくかつ楽しい雰囲気をもつ作品で、そこに投入されたルオーの時間やエネルギーを思うと、このプロジェクトの推進力となった2人への心のこもった贈り物なのだと思われた。

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2010年05月09日

ユビュ、知られざるルオーの素顔−1 到達点

(汐留ミュージアム 〜6/13)
ジョルジュ・ルオー(1871-1958)が画商 アンブロワーズ・ヴォラールの依頼で取り組んだ版画集 「ユビュおやじの再生」を軸に、その制作過程や派生作品を紹介する ”ルオー財団秘蔵 ユビュ 知られざるルオーの素顔”を見た。
ユビュ”はフランスの作家 アルフレッド・ジャリが創作したナンセンス劇 『ユビュ王』の主人公で、これをアフリカ大陸の東に浮かぶレユニオン島生まれのヴォラールが再構成し、自ら執筆した 『ユビュおやじの再生』の挿絵をルオーに依頼する。
そこに登場する”黒人”や舞台としての”熱帯”はルオーにとって未知の世界への挑戦であったが、当時構想をあたためていた 「ミセレーレ」の出版を交換条件として引き受けたことによって、全くタイプの違う連作版画に以後30年ほど取り組むことになった。

最初の章、”機ァ屮罐咼紊やじの再生」”では、この連作版画集の完成版22点が、いわば到達点としてまず示される。
これ自体は以前見たこともあるものだが、アフリカに生きる黒人とそれを支配する白人の植民者との対比が鮮やかで、「困り者植民者」、「選挙人さん」、「聖歌隊員ユビュおやじ」といった白人たちは、計算高い人間、”やな奴”として醜く表わされている。
これに対し、「解放された黒人」には大地で働く男の力強い姿が見られ、若い黒人の男が両手を挙げて踊る 「バンブーラ踊り」はユーモラスでありながら実に爽快なもの、そして 「結婚」という作品には、いろいろな約束事に縛られていく前の、人間という生き物や愛の原初の姿のようなものが感じられた。
熱帯風景」は、モノクロの画面ながら後に多く描かれた”キリストのいる風景”のような恩寵の光があり、奇怪な形の大きな魚がいる 「飛ぶ魚」は、フランスとは全く様相を異にする厳しい自然への畏れの反映かと思われた。

生涯にそれほど劇的な事件も大きなスタイルの変更もなかったように見えるルオーにも、意外な鉱脈が隠れていたといった感じだが、全体の印象としては、白人の倣岸さ、欲の深さ、捻じ曲がった人間性が戯化されている一方で、黒人ののびやかな姿、楽天性、生命力などへの賛美が強く感じられる。
しかしこれを植民地批判といった政治的な意図と結び付けるべきなのかどうか、むしろ未知の人々や自然に触れたことによる新鮮な驚きが率直に奔出したものと考えた方がいいのか、そのあたりにも示唆を与えてくれるこの展覧会は、完成版22点の後以下のように続く。

供ゥ廛蹈献А 岨邵遏構想図
掘ゥ┘船紂璽鼻 漸竺─原画、試し刷り 
検ゥ凜.螢▲鵐函 僧犧遏∈得作

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2010年04月29日

レンピッカ展−3 新大陸の夢、復活の夢

(ザ・ミュージアム 〜5/9)
”危機の時代”と第二次世界大戦の混乱から逃れるように、タマラ・ド・レンピッカは45歳でアメリカに渡る。
最終章 ”新大陸”はそれ以降の画業を紹介するものたが、バブルのような虚飾の世界からもその後の逆境や偽善からも自由になり、新天地で全てがリセットされることによって、もしかしたらそこから本当の描きたいものを求めて芸術が進化してもよかった。
田舎のアトリエ」は、素朴な木造の建物の窓の向こうに明るい中庭が見え、穏やかな木漏れ日が部屋に入り込んで木の床に遊んでいる風景で、ここではなにか温かく満ち足りたものを感じさせていた。

しかし、今回の展示作品で見る限りはその先にさらに表現したかったものがあったらしいというわけではなく、キュビズムや抽象画などさまざまな技法を試したり、古典的な手法に戻ってそこそこの水準の作品を残したということはあっても、レンピッカの芸術として語られるべき中身はなかったように思われる。
結局はパリの社交界でちやほやされていればこそのレンピッカであり、酒と煙草と欲望の渦巻く中だから存在感を発揮できた女であったようだ。
会場の中ほどには30歳代の彼女が自ら映画スターのようなポーズをとって撮らせたという肌のあらわな写真があったが、こうしたものを名刺代わりにセレブの中を泳ぎまわるときに、彼女は一番輝いていたのだろう。

1962年、60歳代半ばのレンピッカは、起死回生を狙って回顧展を企画するが失敗に終わり、同じ年には再婚相手も亡くしてしまうけれど、それでも”セルフ・プロデュース”する女の真骨頂というべきか、その翌年には 豪華客船フランス号の初航海というイベントへと乗り込んでいく。
そのときに用意した新しいドレスの図案が何枚も並んでいて、そこからは華やかな社交界への復活を目指す老嬢の執念ともいうべきものが感じられたが、彼女の目論見はどの程度成功したのだろうか。


ここのところやや安易な企画が続いた Bunkamura ザ・ミュージアムだが、今回の展覧会は、それほどのアーティストか? という点さえ除けば、それなりに力が入り筋も通ったものだった。
そんな女性の波乱万丈の人生を追いながら思い出したのは、同じ場所で5年前に見た レオノール・フィニだ。
どちらも異邦人としてパリに流れてきて一世を風靡した女流画家という共通点があるが、ポーランド生まれのロシア育ちだったレンピッカに対して、9歳年下のレオノール・フィニはアルゼンチン生まれのイタリア育ちという南北の差がある上に、晩年の生き方で好対照を見せることになる。
レンピッカはアメリカに渡りながら社交界への夢を見続け、絵画芸術としては平板になっていったように見える一方で、レオノール・フィニは小説などの新分野にも活動領域を広げ、そのせいもあってか絵の方もシュールレアリストとして意外な深みへと進んでいくこととなった。

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2010年03月29日

A Life in Art フランソワーズ・ジロー回顧展

(シャネル銀座 〜3/30)
ピカソが描いた作品の中では、太陽かひまわりの花のように天真爛漫な明るさを見せていた フランソワーズ・ジロー が、画家として自ら描いた作品の展覧会。
1921年生まれ、ソルボンヌの法科を卒業して絵画の道へ進んだフランソワーズ・ジローは、オリヴィエ、エヴァ、オルガ、マリー・テレーズ、ドラ・マールと続きジャクリーヌ・ロックに終わるピカソの女性遍歴の後半に、22歳の画学生として62歳のピカソの前に登場し、恋人兼モデルそして実質的な妻として10年ほどの期間をともに過ごす。
しかし53年に32歳で別れ、2児を連れてパリで画家として自立、その後アメリカに渡って再婚、現在はニューヨークでご健在ということのようだ。

作品を見ていくと、ピカソに出会う前の 「漁港」や 「漁師の娘」は、ゴーギャンやナビ派のように構成的な画面と色使いが斬新、特に後者では海辺の町の光の強さや方向に敏感で、それを躊躇いなく画面に表現するセンスも備えていたことがわかる。
44年に描いた 「ピカソの肖像」は、どういう意図からなのか石膏像のように描かれているが、写真などで見る特異な風貌の特徴はよく表れている。
その後の同棲期間は、ピカソの影響を受けてキュビズム的な静物や人物が見られるが、どうやら本人の自発的なものでなかったらしく、展示作品で見る限りは色彩も形もそれほど目を引くものではない。

むしろ、ピカソの下を離れた後に訪れる ”色彩の爆発”とも言える作品の方が魅力的で、59年の 「友人の訪問」では、緑の大きな観葉植物のある赤い部屋に、若い女が赤い服を着て足を組み座っている、それはもう一人の巨匠 マティスに急接近したような絵だった。
女のデッサンはやや甘い感じがあるが、きりりとした涼しげな顔には不思議なオーラが感じられ、画面いっぱいに広がる色彩のインパクトにも負けていない。
また、70年代の大作 「サーカスの曲芸師」や 「アクロバット」、「ダイバー」、「スポットライト」といった作品は色と形が極めてはっきりとしていて、マティスが晩年に切り絵で表現した世界を思わせた。

その後は抽象的な作品に向かい、「8月の静寂」、「暗黒の太陽」、そして「シャーマンの霊力」などといったタイトルを持つ色鮮やかな作品が生み出されるが、中でも2002年の大作 「生命の樹」は、樹というよりも赤という色そのものの生命力が強く感じられるものだった。
赤い色が画面中央に向かって鬩ぎ合う、しかしそれは意外なほどに心地よいもので、赤を基調としながらも柔らかく包み込む”癒しの絵”のような感じがした。

展示作品中で最もピカソを感じたのは布の両面に描かれた84年の 「勝利」という作品に見える”鳩”、それは自由へ向かって力強く羽ばたいていくようで、見ていて爽快になってくる、くっきりした鳥の姿だった。


  目に見えるものを写し取るのではなく
  心がとらえたものが色や形を生成していく
  絵画とは詩的プロセスを伴う錬金術なのです (フランソワーズ・ジロー)

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2010年03月23日

レンピッカ展−2 狂乱の時代から危機へ

(ザ・ミュージアム 〜5/9)
この展覧会は、タマラ・ド・レンピッカ (1898−1980) という一人の女の成功と挫折の物語として見ていかないと、作品の質だけで興味を持続するのはやや難しい。
”プロローグ ルーツと修行”のなかで目を引いたのは 「女占い師」、口を固く結び、なにか忌々しいものを見るように横に強い視線を送る中年女の表情には、自分からの発信力だけを頼りに人を騙して生きていく人物の”業”のようなものが感じられ、24歳頃の作品だが思いがけない重さがあった。

タマラの最初の夫のほぼ全身像である 「タデウシュ・ド・レンピッキの肖像」は、既に離婚の危機にあった30歳頃の時期に描かれたものだという。
貴族出身の弁護士だが働かなかった(だから彼女が画家として頑張った)と紹介されているが、仕立てのよいコートに身を包んだ肩幅の広い男は、やや陰があるものの颯爽としたやり手のビジネスマンといった感じに見える。
しかし、その入念に仕上げられた肖像画の画面右下で、彼の左手だけが、明らかに意図的に、未完のまま無残な姿で残されていて、血の通わない死人の手のように見える。
そこに嵌めているはずの結婚指輪をどうしていいか迷ったからということのようだが、指の表現はレンピッカお得意のものだったはず、それを逆手にとりこのように目立たせることによって、自分の死後にまで残る形で、女は復讐をし続けているということなのか・・・

本展の中心となるのは1920年代から30年代にかけてのパリを舞台に画家レンピッカが絶頂期を謳歌する ” 狂乱の時代”、そこでは娘キゼットだけでなく亡命貴族やキャバレー歌手たちの肖像画が時代の喧騒を感じさせるが、その後に続いてやってくるのは ” 危機の時代”。
世界恐慌に突入して社交界の華やかさは過去のものとなり、レンピッカは活躍した市場も築き上げた顧客も失って、自身も鬱病に悩まされることになる。
こうした中で創作は社会派的な暗く重々しいテーマへと向かったようだが、これは彼女が本当に描きたいと思ったのものなのか、それともとりあえず世間の時流にのってみたということなのか、確かに作風は一見沈鬱なものになるけれど、核心に届かずにやや上滑りしている感は否めない。
ただし戦火に追われた親子を描いた 「逃亡」の、子を抱いた母の放心したような表情には切実なものがあったし、涙を流す年老いた尼僧をアップでとらえた 「修道院長」は、レンピッカが描いた絵の中で最も深い表情に迫っているようで、ここには鬱病に悩む画家が自身の救済を求めて描いたといわれても充分に納得できる真摯さが感じられた。

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2010年03月10日

美しき挑発 レンピッカ展−1 娘の肖像

(ザ・ミュージアム 〜5/9)
ポーランドのワルシャワで生まれ、ロシアとスイスで育ち、19歳のときにロシア革命でパリへ亡命、やがて肖像画家としてパリ社交界で活躍した タマラ・ド・レンピッカ (1898−1980)。
その ”本能に生きた伝説の画家”の生涯を晩年まで辿っていく展覧会だが、中心はもちろんアール・デコのパリ時代になる。

なかでも一際目立っていたのが 「緑の服の女」、美しい顔立ちの女性と装飾的な髪や衣装、そして目にも鮮やかな緑は、レンピッカの代表作であると同時に アール・デコのシンボルと言っていいものだ。
彼女の娘キゼットをモデルにしたというこの作品は、体全体の妖艶さと顔つきの幼さのアンバランスが魅力で、少し前までは熊のぬいぐるみを持ったり、ピンクの服を着て生意気そうな視線をとばしていた小娘も、ここでは見違えるほどにいい女を一生懸命に演じている。

特に、指先まで神経が行き届いている手の表現が秀逸で、大きな帽子の縁を抑える右手もいいが、膝の上で誘いかけるような左手の指には、まだ十代半ばのはずなのに、妖しい大人の女の色香が漂っている。
しかし、この小悪魔的な仕草に母タマラの血を見るべきなのか、あるいは母親の振り付けや教育の賜物ということなのか、それとも画家レンピッカによるキャンバス上の創作なのかはよく分からない。
というのは、この頃の他の作品でも指の効果は著しく、例えば「摩天楼を背にした裸婦」は、墓石のような摩天楼を背景にして上半身裸の女が沈んだ表情を見せている暗い印象の絵だが、おそらく何も付けていないであろう下半身を覆う白い布をそって摘んでいる指だけが画面に華やぎを与えている。
また、自分の右の乳房に指を添えて子どもに乳を含ませている 「母性」も、そのタイトルとは裏腹に官能的な指の動きが表現の中心のように感じられるほど、レンピッカの描き出す”指”は雄弁だ。

「緑の服の女」に戻ると、指と同じくらい重要なのは体にまとわりついているドレスの質感だ。
光沢のあるしなやかな緑色の布は、若々しく形のいい乳房とその先に突き出した乳首をはっきりと意識させ、張りのある豊かな下腹部の曲線にもぴったりと寄り添って見る者の視線を吸い寄せる。

それにしても、母親が、あるいは父親を含めてみても、実の娘をここまでセクシーに描いた絵を他に思いつかない。
この作品はアンデパンダン展に出品されて初めてフランス政府に買い上げられ、現在はポンピドゥーの所蔵となるなど、結果としては伝記的に重要な代表作となったけれども、注文作品でもないのになぜ彼女はここまで入れ込んで描いたのだろう。
それはおそらく親子の情といったプライベートな動機によるものではなく、我が娘を社交界に華々しくデビューさせるための宣伝用ポスターだったか、それとも、”私はこんな小娘でもここまで魅力的な肖像画にできる”、という画家レンピッカの営業用プレゼン資料だったように思われる。

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2010年02月20日

ジャン・ジャンセン、幻の女性像の記憶

(丸善丸の内 2/11終了)
人間の内面や現代の苦悩を強い描線で描く、魂の画家 ジャン・ジャンセン展”というタイトルのイベントだったが、訪れてみれば書店の特設コーナーでの展示即売会で、水彩やパステル画、リトグラフが30点ほど並ぶというものだった。

ジャン・ジャンセン (Jean Jansem) いう画家を知ったのは、もうずいぶん前に同様の会場を訪れたときのこと、もちろん見るだけのつもりで入ったのだが、ビュッフェやカシニョールなどの中に、独り哀しみを堪えるように座る若い女の像があって一瞬にして引き込まれた。
長い髪を無造作に垂らした女は、震えるような描線による裸体が痛々しいほどだったにもかかわらず、閉じた瞼やため息が漏れそうな口元からは、絶望的な運命の重みを感じながらも押しつぶされることなく受けとめていこうとする強い意思が覗われた。
それは確かに”人間の内面や現代の苦悩を強い描線で描く”もので、敢えて探すならば ピカソの青の時代の雰囲気に近く、線の感じは エゴン・シーレのデッサンに似ていたような気がする。

以来気になっていたジャンセンだが、その女性にはもちろん、そのような気配を感じさせる作品にもなかなか再会できていない。
それでも、南欧の光や地中海の香りのする風景、しんとした感じの静物、華やかな色調の中に哀愁の漂う道化師やマスカレードなどの作品は、何度か思い切って手元に置こうかなどと思ったりしたこともある。

旧ソ連の アルメニア出身という ジャンセンは、1920年にアルメニア人の父とトルコ人の母の間に生まれ、ギリシャのサロニカで少年時代を過ごし、1931年に一家でパリに移住する。
だから修行時代も含めて彼の創作活動の場はフランスで、おそらくアルメニアの記憶はほとんどないと思われるが、20世紀初頭のオスマン帝国による”アルメニア人大虐殺”をとり上げたという”社会派”的な作品もあるらしい。
こうした即売会に出てくる作品にそのような深い影はあまり見えないけれど、バレリーナやアルルカンなどさまざまなテーマの作品に共通する”儚さ”からは、大国に翻弄されたカフカス山中の民族の思いが感じられてくるようでもあった。
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2009年11月02日

ウィーン世紀末展−4 世紀末のあとさき

(日本橋高島屋 10/12終了、大阪・福岡へ巡回)
クリムト、シーレ ウィーン世紀末展”と題された、ウィーン・ミュージアム(旧ウィーン市立歴史博物館)のコレクションによる今回の展覧会の章立ては以下のとおり。

第1章: 装飾美術と風景画
第2章: グスタフ・クリムト 
第3章: エゴン・シーレ 
第4章: 分離派とウィーン工房
第5章: 自然主義と表現主義

クリムトとシーレ以外で、第1章ではフーゴー・ダルナウトの 「シュトゥーベントーア橋」、夕暮れの橋に灯りが点る風景画で、それほどの作品ではないけれどどうもこうした薄明かりの作品にはつい引き寄せられる。
シャルル・ヴィルダの 「ランナーとシュトラウス」は絵画作品というよりは歴史的資料として何度か目にしていたもの、タイトルにある2人の人気作曲家がヴァイオリンを奏でていて、彼らのウィンナ・ワルツとそれに合わせて優雅に踊る人々のざわめきが聴こえてくるような絵だ。
スザンネ・レテーナ・グラニッチェの「自画像」は、自分でこんなにコケティッシュに描くものかと呆れるくらいの美人図、ビーダーマイヤー時代の売れっ子画家だから許された、そういう時代だったのかということを感じさせる作品。

後半へ行くとヴィルヘルム・ベルナツィックの 「池」、被視界深度の非常に浅い絵で、手前の花以外をぼかすことによって独特の効果をあげている。
ココシュカは連作版画を含めて肩透かしを喰った感じだが、エドゥアルト・カスパリデスの 「秋の風景」は雲の層の下から海に降り注ぐ光が見事だった。
最後の方で現代音楽の作曲家 アーノルド・シェーンベルグを3点見ることが出来た。前衛的な音楽とは対照的に絵画の方は古典的な枠組みに則ったもの、しかし「自画像」の目には思いがけないほどの鋭さが宿っていた。

hokuto77 at 21:39|PermalinkComments(0)TrackBack(0)