西洋絵画(現代)

2017年09月20日

ベルギー奇想の系譜-5 生き残るには脳が・・・

(ザ・ミュージアム 〜9/24)
ヒエロニムス・ボス工房の 「トゥヌグダルスの幻視」を中心とする本展の ”I 15―17世紀のフランドル美術”は、先の 「バベルの塔」展やその他の ボス、ブリューゲル関連企画に近かった一方で、”II 19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義” は、世紀末の幻想を扱うものとして既視感が強く、それは ”III 20世紀のシュルレアリスムから現代まで” の前半でも同様だったのだが、あらためて ”ベルギー” の ”奇想” という縦軸を通すことで興味深いものになった。

デルヴォーは、油彩としては 「海は近い」(姫路市美術館)なども楽しめたが、今回新鮮だったのは 3点の 「スケッチブック」(ベルギー王立図書館)、そこには肉筆の親密さがあり、また単体の構造やポーズといったパーツの検討ではなく、ページの隅々までを使い画面全体の構成を丁寧に追及していたところが興味深かった。
青空の形をした巨大な鳥が現れる マグリットの 「大家族」(1963年、宇都宮美術館)は、あらためて近づいて見れば質感の表現に優れ、背景の灰色の空と鳥の青い空の対比や、雲の量感が鳥の頭部に生命を感じさせつつ、その空=鳥が海面に映っている様子まで描くところには、アイディアだけの画家というだけではない緻密で周到な画力も感じられた。

デルヴォー、マグリットという二大スターの後、ベルギー・シュルレアリスムの旅はさらに現代の迷宮へと入って行く。
そこにはアメンボのような水上走行艇、妙に写実的な筆致なのに現実感がなく意味不明な女、心象風景としても曖昧過ぎる森、ハレーションを起こした磔刑図、逆さ釣りにされてティンパニを叩く骸骨、といった ”奇想” のものが並んでいた。

そんな中で特に衝撃的だったのは トマス・ルルイの 「生き残るには脳が足らない」(2009年、ロドルフ・ヤンセン画廊)という彫刻だった。
それは頭だけが異様に大きくなり過ぎて持て余している、というよりは人間の姿としては破綻してしまっている状況にある男の像で、いかにも唐突でありえない姿ではあるのだが、しかしそれこそが我々の真の姿ではないのかと鋭く問いかけるような迫力も感じられた。
”生き残るには脳が足らない” というタイトルは逆説なのか、そこに見えるのむしろ脳のみが異様に肥大してしまった人間の姿であり、それは体を動かさずにPCやスマホに没頭する我々、AIとかビックデータなどでこれまでの生活の根源的な部分を脅かされながらも、否応なく未知の領域に入って行かざるを得ない状況にある我々にほかならない。
いびつでアンバランスなこの世の中で生き残るために、本当に足りないのは脳なのか、もうこのくらいで留めておくべきではないのか、そんなことも考えさせるなんともグロテスクな作品だった。


ベルギー奇想の系譜 (2017、ザ・ミュージアム) 
ベルギー幻想美術館 (2009、ザ・ミュージアム) 
ベルギー象徴派展 (2005、ザ・ミュージアム) 

ポール・デルヴォー (2012、府中市美術館) 

hokuto77 at 19:18|PermalinkComments(0)

2017年06月20日

ミュシャ展-10 パリからプラハへの歩み

(国立新美術館 6/5終了)
スラブ叙事詩」全20点がとにかく圧倒的だった今回の ”ミュシャ展”、その後の章構成に沿って関連作品を思い出しながら、アルフォンス・ミュシャムハ、1860-1939)の足跡をふりかえっておく。

”1: ミュシャとアール・ヌーヴォー” には、伝説のデビュー作となった 「ジスモンダ」(1895年、堺市)をはじめとするサラ・ベルナールのポスターがあり、「四芸術 (詩、ダンス、絵画、音楽)」(1898年、同)、「黄道十二宮」(1896年)といったパリ時代のヒット作品が並んでいた。
ハーモニー」(1808年、堺市)という油彩画は、英知が理性と愛を調和させるという寓意画で、写実性を重んじながら思想や世界観を描くという制作方針、そしてアメリカで取り組まれた仕事という点でも、「スラヴ叙事詩」へのつながりを強く感じさせる作品だった。

”2: 世紀末の祝祭” には、重要な転機となった1900年パリ万国博覧会 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館壁画の下絵(1899-1900年、137.3×312.2cm 堺市)が出ていた。
これは当時のオーストリア政府が、自国民でパリで活躍するアーティストに目を付けて依頼したものだが、その対象となったパビリオンがオーストリアでもハンガリーでもなく、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館だったことで、ミュシャの運命が変わったと言える。
この仕事のために現地に赴いてスラヴの血を意識し、民族の自覚を深めたことから 「スラヴ叙事詩」が生み出されたわけであり、まだこの時点では作品のスタイルはパリのポスターとそれほど変わらないものの、そこにいる女性の顔つき、特に目の力は明らかに違ったものになってきている。

その後の展開を追っておくと、もうひとつの契機と言われる スメタナの 「わが祖国」を聞いたのが1908年、米国人資産家 チャールズ・R・クレインから支援を得られることになったのが翌09年ということなので、この間に ”ミュシャの夢物語” は ”ムハの具体的なプロジェクト” になったと考えられる。
そして1910年にはプラハに戻って ズビロフ城をアトリエとして18年契約で借り、その2年後には最初の大作3点を完成させている。
このあたりは信じ難いほどの実行力だが、特に50歳の時点で68歳までの遠大な計画を立てたところに、なんとしてもこのライフワークを実現したいという強い意志を見ないわけにはいかない。
その熱い思いは、ちょうど同じ頃の作品で、ヤン・フスやジュシカ、イジー王やコメンスキーが登場する 「プラハ市民会館の装飾」(1910-11年、プラハ市立美術館)、パリ風のスタイルながらスラヴの女性の存在感が濃厚な 「ヒヤシンス姫」(1911年、堺市)からも強く感じられた。

”3: 独立のための闘い”には、「同胞のスラヴ」という劇に関する展示(1925-26年、プラハ市立美術館)があった。
これは、舟のパレードによるスラヴの歴史劇の企画にあたり制作されたもので、当日は悪天候で成功とはいかなかったようだが、「スラヴ叙事詩」がほぼ完成した時期に、同じように民族意識を高揚させる野外イベントを実施しようとしたムハの意気込みがわかる。

スラヴ叙事詩展ポスター」(1928年、堺市)は、チェコスロヴァキア独立10周年を記念してのお披露目展覧会に向けて制作されたもので、この時は前述したように19点による展示となったため、そこで除外された 「No.18 スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い」の前景左側にいる、娘をモデルにしたというハープを弾く少女がフィーチャーされている。
このことからも、この No.18 が 「スラヴ叙事詩」に含まれることはないものと、ムハ自身が思い定めていたように思われるだけに、いま、全20点が プラハの ヴェレトゥルジュニー宮殿に安住の地を得て、さらに日本から始まる国外展示の旅に出ていると知ったらさぞかし感無量であろう。
その他、ここにはムハが故国のために図案で協力した紙幣や切手、そして ”4: 習作と出版物” の資料があった。


スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2)  勢力伸長 (3, 4, 5, 6)  言葉の魔力 (7, 9, 10)  フス戦争 (8, 11, 12)
フスの残光 (13, 14, 16) スラヴ主義 (15, 17, 18) ロシアの民衆 (19) スラヴ賛歌 (20)

>ミュシャ(ムハ)の過去記事
ミュシャ展 (2013、六本木ヒルズ)
世紀末パリの夢の請負人祖国への回帰とモラヴィアの祈りパリとモラヴィア、二人の美女
ジスモンダ (ロートレック・コネクション)
P.L.M.鉄道 (旅と芸術)

hokuto77 at 21:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年06月01日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-9 全20点のレビュー

(国立新美術館 〜6/5)
前回まで、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の 「スラヴ叙事詩」全20点を、テーマの年代にほぼ沿う形で見てきたので、ここで20点を制作年代順に並べ直してみる。

1. 原故郷のスラヴ民族 (1912年、610×810cm)
2. ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭 (1912年、610×810cm)
3. スラヴ式典礼の導入 (1912年、610×810cm)
   14. ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛 (1914年、610×810cm)
   15. イヴァンチツェの兄弟団学校 (1914年、610×810cm)
   19. ロシアの農奴制廃止 (1914年、610×810cm)
       7. クロムニェジージュのヤン・ミリーチ (1916年、620×405cm)
       9. ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師 (1916年、610×810cm)
      10. クジーシュキでの集会 (1916年、620×405cm)
         12. ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー (1918年、405×610cm)
         16. ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々(1918年、405×620cm)
−−−第一次世界大戦終結、チェコスロバキア独立−−−
11. ヴィートコフ山の戦いの後 (1923年、405×480cm)
13. フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー (1923年、405×480cm)
4. ブルガリア皇帝シメオン1世 (1923年、405×480cm)
6. 東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン (1923年、405×480cm)
   5. ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世 (1924年、405×480cm)
   8. グルンヴァルトの戦いの後 (1924年、405×610cm)
      17. 聖アトス山 (1926年、405×480cm)
      20. スラヴ民族の賛歌 (1926年、480×405cm)
      18. スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い (1926年・未完、390×590cm)

ムハがこの壮大な歴史絵巻を、当初から正確なプランを立てて着実に進めていったのか、途中で柔軟に変更を加えたりしたのかどうかは分からない。
しかし、まず大きな傾向で言えば、「原故郷のスラヴ民族」に始まる冒頭の3点の大画面を1912年に完成させ、次の2年でも 「イヴァンチツェの兄弟団学校」を含む30畳サイズの大作に取り組んでいる。
その後は、「言葉の魔力」3部作からフス派関連の重苦しいシーンが続き、大戦後はその他のスラヴ諸国にも目配りをしつつ、最後の26年には光あふれるスラヴ賛歌的な作品で締めくくったということになる。

作風から見てみると、空想的な空間を入れ込んだイリュージョン的傾向の作品は、最初と最後の両端のグループに集中しているという特色がみられる。
一方、この両端グループを除けばテーマとしてはランダムに進めている感じながら、サイズは大から小へと向かっているのは、当初からの計画通りというよりは、なにか別の要因があったとみるべきかもしれない。
その他、戦いの後の情景を題材とし比較的傾向の似ている8、11、12の制作時期が離れていること、例外的にロシアを扱った19は早い段階で仕上げているといったことも興味深い。

最大の疑問は、この ”巨大紙芝居” のフィナーレを、ムハがどう想定していたのかということだ。
民族の「原風景」からフス戦争などを経てスラヴの長い旅に付き合ってきた我々は、最終盤になって、正直なところ立ち位置がよくわからなくなる。
最後の 「20. スラヴ民族の賛歌」は、前回書いたことに加え、ひとつ前や冒頭の3作品のサイズの五分の二ほどしかなく、もちろん芸術的価値は大きさと関係がないとはいえ、長大な物語の最終章に相応しい ”法量” とは言い難いのではないか。
また、トリ前の 「19. ロシアの農奴制廃止」はテーマとして他の19作品とは異質であり、そのまた前の 「18. オムラジナ会の誓い」は未完成で、生前の展覧会では除外されていたものだ。

さらに遡る 「17. 聖アトス山」も、ボヘミア民族やフス派をとりあげてきたメインストリームからは遠い感じが否めないといった具合で、ここまでチェコを中心にスラヴ民族の歴史を追ってきた流れは、海への出口で急に枝分かれをしているようにも思われる。
それもつまるところは、スラヴ民族のゴールや理想形がどのようなものかが定まっていなかったから、ということで理解するほかはないだろうか。

>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2)  勢力伸長 (3, 4, 5, 6)  言葉の魔力 (7, 9, 10)  フス戦争 (8, 11, 12)
フスの残光 (13, 14, 16) スラヴ主義 (15, 17, 18) ロシアの民衆 (19) スラヴ賛歌 (20)

hokuto77 at 19:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月28日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-8 スラヴ賛歌

(国立新美術館 〜6/5)
「原故郷のスラヴ民族」から始まった アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の連作 「スラヴ叙事詩」、その苦難が多かった曲折の道のりの最後に、まばゆい光に満たされた力強い作品があった。

20. スラヴ民族の賛歌 (1926年、480×405cm) は、スラヴ民族の勝利のヴィジョンを誰の目にもわかるようにした作品で、神話の時代を青、抑圧する異民族を黒、フスの時代を赤で象徴させつつ、スラヴ民族の自由と平和、独立と団結を金色で表現している。
中央に巨大な若者の姿を登場させる、いかにもという感じの集大成的な図柄は、やはり超大型連作の最後はこうあらねばならない、ということからのものだったに違いない。
しかし、感動的なはずのフィナーレの画面に若干の空回り感を覚えてしまうのは、前々回ふれた現実との乖離が明らかになってきているからに違いなく、ライフワークの掉尾を飾る作品にもかかわらず小さめのサイズの作品として仕上げたところに、もしかしたらムハ自身の迷いが表れているようにも思うがどうだろうか。

スラブ民族の国づくりは、第一次大戦後のハプスブルク帝国の崩壊でかなり進むことになるものの、第二次大戦後には ”鉄のカーテン” でソ連を盟主とする東側=共産主義陣営に囲い込まれてしまい、1989年11月のベルリンの壁崩壊に始まる一連の東欧革命を通じて、ようやく民主化がはかられることとなった。
しかしそれは同時に、チェコスロヴァキアとして独立し70年ほどを経過してきた国が、平和裡に進んだビロード革命を経て チェコと スロヴァキアに分裂するといった事態を招くこととなり、民族問題の難しさをあらためて内外に示すことにもなった。
また第二次大戦以降は南スラヴ諸民族の統一国家を実現し、自主管理社会主義や非同盟運動で存在感を示していたユーゴスラヴィアも、それはもしかしたらムハの理想としていたところとかなり共通点があったかもしれないのだが、あえなく崩壊していまなお一部で紛争が継続していることなどを考えると、スラヴ民族にとっての本当のゴールは何処にあるのか、という思いも禁じ得ない。

この「スラヴ民族の賛歌」という絵もまた、スラヴ民族の国家樹立がまだ ”夢” の段階だったら熱狂的に受け入れられたかもしれず、せっかくのライフワークを取り巻く状況が目の前で流動的なものになっていく ムハの複雑な胸の内は察するに余りある。
それは厳しい歴史の現実であり運命の皮肉でもあるけれど、それによってこの壮大な連作の美術的・文化史的価値が減ずることはないものと信じたい。


>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2)  勢力伸長 (3, 4, 5, 6)  言葉の魔力 (7, 9, 10)  フス戦争 (8, 11, 12)
フスの残光 (13, 14, 16) スラヴ主義 (15, 17, 18) ロシアの民衆 (19)

hokuto77 at 19:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年05月16日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-7 ロシアの民衆

(国立新美術館 〜6/5)
長い苦難の歴史を経てスラヴ主義を高らかに賛美するかと思われた アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の連作 「スラヴ叙事詩」 の最終盤に、思いがけない絵が一枚挿入されていた。

19. ロシアの農奴制廃止 (1914年、610×810cm)
クレムリン宮殿前の赤の広場を舞台にしたこの場面は、イリュージョンはないので実景のように見えるものの、聖ワシリー大聖堂の前に農民たちが溢れかえることなどまずありえない。
これは、1861年にアレクサンドル2世による 農奴制廃止の勅令が読み上げられたその瞬間を象徴的に構成したものと思われるのだが、彼らは解放されたことの意味も分からないまま放心状態にあるように見える。それは、それほどまでに過酷な生活を強いられていたということだけでなく、ロシアの後進性に対するムハの冷徹な目が反映されているからなのではないか。

本作は米国人で 「スラヴ叙事詩」制作を支えたのスポンサーの意向で加えられたとのこと、もしそんな外部的要因でもなければ、ムハの当初の構想にロシアは入っていなかったのだろう。
米国人や我々が ”外部” から見れば、ロシアを除外した ”スラヴ” というのは考えられない気もするが、チェコ人のムハにとっては違い、少なくとも共に苦労してきた仲間・同士ではなかった、そんなロシアとの心理的な距離感がこういう図柄になり、またフィナーレのひとつ前という微妙な位置にやや脈絡を乱す形で挿入されたのではないか。

余談ながら、ドヴォルザークの 「スラヴ舞曲」と チャイコフスキーの 「スラヴ行進曲」は、後者が愛国心の鼓舞を直接の目的としているので、曲想に共通点はあってもかなり印象が違うし、「新世界」と 「悲愴」の世界観の違いを民族の相違で理解しようとも思わない。
しかし、それぞれの交響曲第1番である 「ズロニツェの鐘」と 「冬の日の幻想」を聞けば、2人の作曲家のバックグラウンドである歴史や風土の姿が少し鮮明になってくる気がする。

それにしても、歴史の只中にいるとその本当の意味は見えにくい、ということはありがちなことで、その意味ではここに群れているロシアの民衆は、実は我々の姿でもあるのかもしれない。
この ”解放令” の場合は後から良さが分かってくるのだからまだいいのだが、その逆に、日常のある日が忌まわしい歴史の転換点になっているのに、現場にいてそのことが実感できていないということがあったりはしないだろうか。
時の政府が定める機密事項について知る権利が制限され、専守防衛を逸脱する武力行使が容認され、他国の戦争に巻き込まれかねない法制が強行採決された日も、勤め人たちは黙々とそれぞれの職場に向かい、スーパーではいつもと同じような食材が購われて過ぎていった。
それはおそらく、テロ防止の名をかりて市民を監視する法律が出来上がろうとする日も、そして、もしかしたら、日本国憲法が歴史の歯車を逆に回していくような姿に変わってしまう日も・・・


>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2)  勢力伸長 (3, 4, 5, 6)  言葉の魔力 (7, 9, 10)  フス戦争 (8, 11, 12)
フスの残光 (13, 14, 16) スラヴ主義 (15, 17, 18)

hokuto77 at 20:05|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年04月23日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-6 スラヴ主義

(国立新美術館 〜6/5)
前2回は戦争に次ぐ戦争で勝っても喜べない暗澹たる場面が続いたが、最後の部屋で雰囲気は一変し、明るく希望に満ちた作品に出会う。
ここの5点のみが撮影可というのも、重苦しい悲惨な光景はさておいて、晴れやかな印象を持ち帰って広く共有してほしいということなのだろう。

15. イヴァンチツェの兄弟団学校 (1914年、610×810cm) は、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の故郷でもあるモラヴィアに設立された兄弟団の学校の庭で、チェコ語の聖書が初めて印刷されたところだ。
刷り上がった真新しい聖書(クラリツェ聖書)をみんなが手に取って、自分たちの言語で書かれていることの喜びをかみしめている。
盲目の老人に読み聞かせている少年は自身をモデルにしたとのことからも、ムハの強い思い入れが分かるこの作品の、明るく平和な情感あふれる画面は、連作中の実質的な頂点と言ってもいいのではないかと思う。

17. 聖アトス山 (1926年、405×480cm) には、ギリシャ正教の聖地らしい超自然的な空間が再現されている。丸天井のモザイク画である聖母子像は天上の姿そのもののようにも見え、その前では天使たちが聖堂の模型を持つという、冒頭の3点以来のイリュージョン的構成だ。
ただ、ここでアトス山が出てくることに戸惑いを覚えるのは、おそらくスラヴ民族はまず東方正教会からキリスト教を受け入れたと思われるが、東・南スラヴの国々の多くはそのまま正教の世界に留まったのに対し、ムハの祖国を中心とした北西部ではカトリックの影響を受けつつプロテスタントが勢いを得ていた時代が長かったからだ。
それでも、最終段階で正教の聖地にあらためて敬意を表したのは、ビザンティン文化によって民族は文明社会への仲間入りを果たしたという歴史の記憶があり、また今なお正教を奉じている国や民族が多いことから、スラヴ民族の心のふるさとのような思いがあったからなのだろう。

18. スラヴ菩提樹の下でおこなわれるオムラジナ会の誓い (1926年(未完成)、390×590cm) は、1894年にスラヴ文化の再興を求めて結成されたオムラジナという団体を直接的な題材としているが、いかにも愛国主義者の集いという感じが強い画面は、汎スラヴ主義を理想化したものと思われる。
しかし、ムハは十分な時間があったにもかかわらず本作を ”未完成” の状態に留め、1928年にチェコスロヴァキア独立10周年を祝してプラハのヴェレトゥルジュニー宮殿で開かれたお披露目会でも、この1点のみ除外し19点を公開した。
それは、少なくともその時点では本作をシリーズの中に入れたくなかった、さらに言えば敢えて隠したかったという意識が働いてのことに違いない。

一方、それでも破棄してしまわず、他の19点ほどの完成度には至らないものの、一応は鑑賞の可能な程度にまで完成形に近づけているのはどういうことだろうか。
ナチスのような敬礼のポーズが問題視されたという説もあるようだけれど、1926年ないし28年の時点では関係があるとは思われず、むしろ、第一次大戦の終結によりハプスブルク帝国の崩壊、ロシア革命、そしてチェコスロヴァキアの独立と事態が急速に動いたことから、スラヴ統一という壮大な夢、とりわけロシアを盟主とする ”解放” というプランが現実に合わなくなってしまったことの方が大きかったのであろう。
実の娘と息子を前景に大きく描き込むほど特別な作品だったにもかかわらず、あまりに現実離れしてしまった楽観的なイメージは連作の中で浮き上がりかねず、さらに筆を加えて完成させようとする気がすっかり失せてしまったのか・・・

それにしても、ムハ自身はいつの日かこの 「オムラジナ会の誓い」を完成させることもあり得る、と考えていかどうかがどうしても気にかかる。
これは無理な想像ではあるけれど、もし第一次大戦が同盟国側の勝利で終結していたとすれば、その時点ではチェコスロヴァキアをはじめとする東欧諸国の独立はなく、本作はスラヴ民族を鼓舞し悲願達成に向かわせる理念の絵となって、全く違う形で注目を集めていたかもしれない。


>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2)  勢力伸長 (3, 4, 5, 6)  言葉の魔力 (7, 9, 10)  フス戦争 (8, 11, 12)
フスの残光 (13, 14, 16)

hokuto77 at 18:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年04月07日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-5 フスの残光

(国立新美術館 〜6/5)
13. フス派の王、ポジェブラディとクンシュタートのイジー (1923年、405×480cm) は、1436年の バーゼル協約でローマ・カトリック側がフス派の要求を部分的に受け入れ、ボヘミアへの十字軍派遣を取りやめることとしたにもかかわらず、後にその合意を一方的に覆してきたために、使者の前で椅子を蹴飛ばして怒る イジー王の姿を伝える。
緊迫の場面はプラハ王宮のステンドグラスを通しての美しい光で彩られており、民族の誇りを貫くことによってスラヴ結束につながったことの意義が、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)によって強調されているようだ。
摂政として国難に対応した手腕が民衆の支持を集めたことから初めてフス派の王となったイジーは、恒久的な平和の枠組みを作るために キリスト教諸侯同盟を提唱、この理念は後にEUや国連として結実することになる国際機関構想の先駆的なものとされている。

14. ニコラ・シュビッチ・ズリンスキーによるシゲットの対トルコ防衛 (1914年、610×810cm) では、スラヴ民族共通の脅威である オスマン・トルコとの戦いの場面が描かれる。
1566年、ハンガリーの要塞で スレイマン大帝率いるトルコ軍の侵攻を迎え撃った際、指揮官の妻が火薬塔に火を放ったことにより修羅場のような戦闘風景となるが、その後の運命を画面を縦に貫く黒い煙の柱で暗示させたところは、ポスター・デザイナーならではの処理と言えるだろうか。

16. ヤン・アーモス・コメンスキーのナールデンでの最後の日々 (1918年、405×620cm) は、”フス戦争” が20年ほどで一応の終結をみた後も続いた ”フス派運動” が、ドイツの宗教改革や三十年戦争の影響を受けながら、なお紆余曲折を経て200年後に最終局面を迎えたことを示す作品。
1620年の ビーラー・ホラの戦いにおける改革派の敗北によりプロテスタント教徒たちは国を追われることとなり、ボヘミア兄弟団の指導者コメンスキーはオランダに逃げ延びた。
画面には凍てつくような海に向かい息絶えようとする彼の姿があり、寒々しい風景の中に仄かに灯るランプの光が印象的だ。

フス戦争とそれに続く フス派運動の成果は何だったのか。
教会の堕落を諌めるという本筋の部分は、後のルターに始まるドイツの宗教改革に引き継がれる形である程度実現したという見方もできると思うが、ボヘミアのフス派が ”聖杯派” として最後まで主張を続けたという ”二重聖餐” の議論はどうも分かりにくい。
これは 聖体拝領の時に庶民にもパンだけでなく聖職者と同じようにパンとワインが与えられるべきだとする考え方で、” 10. クジーシュキでの集会” でとり上げられている ウトラキスト派の名もここに由来する。
それがどれほど切実なものなのかを実感として理解することは難しいのだが、おそらくは単に聖書に忠実かどうかということに留まらず、ボヘミア社会における市民の台頭という背景を踏まえて、ローマ教会の硬直した特権意識に分かりやすい形で一矢報いたかったということではないかと思われる。
そして、この運動を通じて涵養された民族意識が19世紀のナショナリズムの時代に復権し、その後の独立への動きの原動力となっていった。


>スラヴ叙事詩
原風景 (1, 2) 勢力伸長 (3, 4, 5, 6) 言葉の魔力 (7, 9, 10) フス戦争 (8, 11, 12)

hokuto77 at 23:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年04月01日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-4 フス戦争

(国立新美術館 〜6/5)
8. グルンヴァルトの戦いの後 (1924年、405×610cm) は、15世紀初頭に侵攻してきたカトリック・ドイツ騎士団を、ポーランド王がボヘミアやリトアニアの援助を得て撃破した戦いを扱う。
それは歴史的に見てもスラヴ民族にとって記念すべき勝利であるはずなのだが、画面手前には敵軍の骸が転がり、それをとりまくスラヴ側にも沈痛な気配が漂っていて、戦勝の喜びが爆発しているという図ではない。
スラヴ人にとっては物足りないとも思われかねない抑制的な表現の中に、戦争の勝者とは何か、人間はなぜ殺し合わなければならないのか、といったことが深く問いかけられているようだ。

1911年に着手され1928年に完成を見たという 「スラヴ叙事詩」は、第一次世界大戦(1914-1918年)をまたいで制作されたわけだが、本作は24年完成なので戦後のものということになる。
愛国心や民族主義が動機となって制作に入った アルフォンス・ムハ(ミュシャ)だが、この頃には戦争の悲惨さや愚かさを痛感していたのか、反戦平和思想やヒューマニズムも感じられる ”戦争画” といえる。

11. ヴィートコフ山の戦いの後 (1923年、405×480cm) は、フス戦争のさなかに占領されたプラハに ターボル派が駆け付け、ヴィートコフ山を要塞化して皇帝率いる十字軍を撤退させた戦いが主題。
対カトリックの戦いのハイライトともいうべき1420年の戦勝後の、これは勝利に感謝する儀式が行われている場面ということなのだが、指導者 ヤン・ジシュカには光が当たっているものの、ここにも凱歌を上げ美酒に酔うような雰囲気はない。
空しさや虚脱感も重く漂う画面には、勝っても勝ってもまた次の攻撃に怯えなければならないという、おそらく15世紀当時も第一次大戦後も変わることはない厭戦気分が反映しているだろうか。
荒廃した土地で生きていかなければならない民衆の思いが、画面左手前でこちらに顔を向ける女性に凝集している。
スメタナの 「わが祖国」の第5曲目は、この戦いにおける英雄的な活躍を想起させる 「ターボル」だが、もちろん音楽だから高揚感のあるものになっているけれど、全曲を覆う重々しい響きには同じような意識が通底しているようにも思われる。

12. ヴォドニャヌイ近郊のペトル・ヘルチツキー (1918年、405×610cm) は、上記2点とよく似た戦いの後の光景ながら、これはフス派と反フス派の内戦の場面、火をかけられた町には煙が上がり、焼け出された人々は力尽きて倒れていく。
同胞たちが殺し合う救いようのない悲惨な状況下で、司祭 ヘルチツキーは悲しみにくれる人々に復讐心を捨てよと諭したというけれど、その言葉は果たして届いたのか。

前回ふれたように、宗教改革者 ヤン・フスは異端として断罪されたわけだが、この処刑を不公正であると批判し、聖書に立ち返るべきというフスの主張に共鳴したボヘミアの貴族や民衆たちの支持は根強く、これをさらに異端として撲滅しようとしたドイツ王との間で戦闘が起こる。
こうして始まった ”フス戦争” は、ヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派が中心となって十字軍を撃退し、一旦は国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を実現する。
しかし、彼の死後は統率を失って野戦軍化し、周辺国の批判や農村の疲弊が問題化する中、フス派内穏健派が台頭して皇帝と和解し、カトリック教会に復帰する形で1436年頃に一応の収束をみる。


>スラヴ叙事詩  原風景 (1, 2) 勢力伸長 (3, 4, 5, 6) 言葉の魔力 (7, 9, 10)

hokuto77 at 19:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月26日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-3 言葉の魔力

(国立新美術館 〜6/5)
第2室正面の3点は 「言葉の魔力」の三部作と呼ばれ、舞台も アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の出身に近いチェコにフォーカスされていく。

7. クロムニェジージュのヤン・ミリーチ (1916年、620×405cm) は、フス改革の先駆者であった聖職者が、モラヴィアの娼館を修道院に変え、売春婦を悔い改めさせたという事跡を描いている。
それに応じた女たちは白い服に着替えているが、前景の中央にはそうではなさそうな女が一人座っていて、マスクをしているのか猿ぐつわを嵌められているのか、顔の下半分は見えないながらも強い視線をこちらに送っている。
ムハ(ミュシャ)のこの連作には、一人こちらを向いて見る者に訴えかけるような人物が登場することが多く、緊張感を漂わせながら絵の中の世界と我々の世界を繋ぐ役割を果たしているのだが、特にこの女の存在感は突出しており、そして意味が分からない。

9. ベツレヘム礼拝堂で説教をするヤン・フス師 (1916年、610×810cm) で ヤン・フスが登場、15世紀初頭に信仰のあるべき姿を考え抜き教会を烈しく非難することとなったこの宗教指導者は、プラハの教会で演壇から身を大きく乗り出して熱心に説教をしている。
そこには王妃ゾフィーもいるのだが、彼女も含めそこに集まってきている聴衆はみな沈痛な面持ちで、必ずしもフスの説教に熱狂しているように見えないのは、ムハの慎み深い性格の故なのだろうか。
果たしてプロテスタント運動の先駆者の言葉は彼らに届いているのか、しかしここでも一人険しい眼をした女が右端にいて、絶対的な権威であったはずのカトリックを批判する場の緊張感が伝わってくる。

10. クジーシュキでの集会 (1916年、620×405cm) は、異端とみなされたフスがコンスタンツ公会議の決定で火刑に処せられた後に、チェコ改革派の指導者となった司祭が説教をしている場面だが、彼は信仰を守るためには武器も必要と説いたことから、赤と白の旗のもとに武器を携えた民衆が集結する図となった。
それは 「言葉の魔力」というより 「言葉の無力」ということではないのかとも思うが、おそらくそれは今だから言えることであって、武力が全てを決する弱肉強食の時代にあっては現実的な選択だったということなのだろう。
中景が光の効果により美しく輝くような作品ではあるが、フスの改革はこのあたりから ”フス戦争” となっていき、夥しい命が失われることになる。

”言葉の魔力” の主役である ヤン・フス(1369 -1415年)が、ジョン・ウィクリフの影響を受けてキリスト教のあるべき姿を人々に説き始めたのは1402年頃とされるが、当初は純粋な信仰の問題としての議論であり、国王の支持の下でカレル大学の学長に任命されるなど比較的平穏裡に推移していた。
しかし、1412年に贖有状を批判するに及び、ローマ教会や帝国にとって看過できない存在となったことから、教会に破門されコンスタンツ公会議を経て1415年に火刑に処された。
これは、ルターが九十五カ条の論題を発表した1517年より100年も前のことなので、そこにボヘミアの先進性やローマとの距離感を見ることもできよう。
火刑にあたっては数々の過酷な仕打ちにも耐えてその信念を曲げず毅然とした態度を取ったことが伝えられ、フスは民族の英雄として今もプラハの市庁舎前広場に銅像が立っている。
しかし、その後に続いた フス戦争は、カトリックによる十字軍侵攻で国土を荒廃させただけでなく、国内的にもフス派、反フス派の対立を激化させることとなった。


>スラヴ叙事詩  1.原風景 2.勢力伸長

hokuto77 at 19:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月21日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-2 勢力伸長

(国立新美術館 〜6/5)
3. スラヴ式典礼の導入 (1912年、610×810cm) は、城の中庭でローマ教皇の使者がモラヴィア王に対し、スラヴ式典礼を公式に認める勅書を読み上げている。
”汝の母国語で主を讃えよ” という副題のつくこの場面は、ローマおよびゲルマン世界にスラヴ民族の存在感を示したものである一方、スラヴの神々を離れキリスト教社会の中で生きていく、という苦難の始まりでもある。
しかし、この時点では西欧文明世界の中に確固たる地位を示したという誇らしいものであったことが、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の描いた晴れやかな情景から伝わってくる。

ここまで、実風景とイリュージョンの合成による30畳に及ぶ巨大画面が3点続いたが、この先は単一の写実的な場面による少し小さめのサイズ(といっても12畳ほどありそうだが)の作品へと移っていく。

4. ブルガリア皇帝シメオン1世 (1923年、405×480cm) は、スラヴ文学の創始者とされる皇帝が、王座の近くに学者を集め、ビザンティンの文献をスラヴ語に翻訳させている様子が描かれる。
文化面でビザンティンに肩を並べるまでになったというブルガリアを賛美する図であろう。

5. ボヘミア王プシェミスル・オタカル2世 (1924年、405×480cm) は、姪とハンガリー王子ベーラの婚礼の場面を描いたもの、婚姻政策で中欧における足場を固めつつ、スラヴ内外に積極的な外交を展開していたことが分かる。
この王は、ドイツへも勢力を拡大して七選帝侯の地位を得るが、これがボヘミアへの警戒感を呼んでハプスブルク家台頭のきっかけを作ることになる。

6. 東ローマ皇帝として戴冠するセルビア皇帝ステファン・ドゥシャン (1923年、405×480cm) は、1346年にスラヴ人として初めて東ローマ皇帝となり、スラヴ法典を制定した ステファン・ドゥシャンの戴冠式の場面で、大勢の参列者が集う明るい画面には祝祭的な雰囲気が横溢している。
スラヴ側から見た、ビザンティン帝国の衰退期における一つのエピソードだとはいえ、スラヴ民族が旧来の権威ある地位に上り詰めた、ひとつの絶頂期の記憶ということになるだろう。

ここに挙げた4点は、宗教、文学、外交、政治といった各分野で スラヴ民族がヨーロッパ世界の中に確実に地歩を築いてきたことが紹介されている。
また、ムハの祖国であるチェコ以外のスラヴの国々にも目配りして広くとり上げているが、やや馴染みの薄いこれらのスラヴ系国家は、
 東スラヴ= 旧ソ連西部(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)
 北スラヴ(西スラヴとも)= 旧東欧の北部(チェコ、スロバキア、ポーランド)
 南スラヴ= 旧東欧の南部(ブルガリア、旧ユーゴ諸国)
と大きく分けてとらえることができる。

しかし、この3つのパートが現実にひとつの ”スラヴ” を構成しているとは言い難く、ムハのチェコを含む 北(西)スラヴから見てみれば、ロシア帝国・ソビエト連邦と強大化して周囲を圧した 東スラヴとの間には心理的な距離感が大きく、またバルカン半島を中心とする 南スラヴとはオーストリア、ハンガリー、ルーマニアによって南北に分断されていた。
さらにもう少し時代をさかのぼれば、東欧諸国と呼ばれたこれらの国々は、ブルガリアなどの一部を除き地図上に存在しないも同然で、この地域はハプスブルク(オーストリア=ハンガリー)帝国を中心に、ドイツ、ロシア、トルコといった大帝国がせめぎ合い消長を繰り返していた。
このように、自分たちの確たる領域を持てず、”スラヴ” としての一体感も持ちにくかったという民族の現状をムハが憂いたことが、「スラヴ叙事詩制作の大きな動機となった。

hokuto77 at 19:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月15日

ミュシャ、スラヴ叙事詩-1 原風景

(国立新美術館 〜6/5)
長い間 ”幻” の作品だった アルフォンス・ミュシャムハ、1860-1939)の 「スラヴ叙事詩」(1911-1928年)のことは、特に2013年のミュシャ展でその周辺作品を見て以来ずっと気になっていた。
といってもまさか日本に全20点が揃って来てくれるとは思いもしなかっただけに、国立新美術館開館10周年 チェコ文化年事業という ”ミュシャ展” の会場に入ってすぐに巨大な画面が見えて来たときには、唖然として息をのむほかはなかった。

それにしても、予想以上に重量感のある展覧会だった。
それはもちろん、大きなものはタタミ30畳にも及ぶサイズの画面が20枚も並ぶという規模だけをいうのではなく、パリの売れっ子デザイナーがキャリア半ばで故郷に帰り祖国と民族のための作品に後半生を捧げたというひとりの人間の生き様、そして、強い創作力を呼び起こし完成まで導いたスラヴという民族のこれまで積み重ねてきた厳しい歴史の重みが、会場全体を濃密に支配していたからだ。

1. 原故郷のスラヴ民族 (1912年、610×810cm) は、スラヴ民族の祖先が他民族の侵略から身を隠す様子を描く。
鎌を取り落としてうずくまる二人の怯えた目は、遊牧民やゲルマン人たちに圧迫されてきた農耕民族スラヴの民の、これから始まる苦難の歴史を物語っている。
画面右上に見える巨大な神は、本当に無力な民を守ってくれるのか、その右に立つ平和の女神の憂いは深い。
それでも、背後に輝く満天の星が、せめてもの希望ということだろうか。

2. ルヤーナ島でのスヴァントヴィート祭 (1912年、610×810cm) は、今はドイツの北東部に浮かぶ島での収穫祭の様子が画面下に描かれ、見事な群像表現によって素朴な民衆の生きる喜びというものが伝わってくる。
しかしその上部には、狼をけしかける異民族の影が左から現れてきており、1168年のデンマーク侵攻によりこの地を失うことになる運命が暗示されている。
すでに混乱は始まっているらしく、ミューズの慰めもその不吉な流れを押しとどめることはできない・・・

長大な 「スラヴ叙事詩」の冒頭を飾るこの2作品は、キリスト教化されヨーロッパ社会との関係性を深めていく前の、スラヴ民族の前史を描いている。
スラヴの神々の下での大地に根ざした生活、その素朴で活力ある人々の姿をもっと見たかったという気がしないでもないけれど、今は文字を持たなかった時代のそうした原風景が、ともかくも2点の大画面に残されたことに感謝したい。


>ミュシャ展 (2013、六本木ヒルズ)
世紀末パリの夢の請負人 祖国への回帰とモラヴィアの祈り パリとモラヴィア、二人の美女

hokuto77 at 21:45|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年03月06日

マティスとルオー展-4 晩年の聖なる世界

(汐留ミュージアム 〜3/26)
”第4章 『ジャズ』と《聖顔》1945年〜1956年” には、それぞれの到達点と言える作品群が対置されていた。
マティスの 「ジャズ」(1947、宇都宮美術館・うらわ美術館)は、具象がほとんど溶解し抽象へと向かう形の上に、フラットな色彩の饗宴が展開し、連作は音楽的な広がりをもって理屈抜きの快感を呼び興す。
一方、「聖顔」など宗教的な画題や聖なる風景を極めていった ルオーの方は文学的というべきか、重々しい画面が苦悩の向うにある光の確かさを実感させてくれるようだ。

と、馴染みの作品が続いた最終章の最後に、マティスが手がけた南仏 ヴァンスロザリオ礼拝堂の映像展示があった。
青、緑、黄色から成るステンドグラスを透した光が室内にもたらす清澄な色彩、そして簡潔な線描による聖人像・聖母子像に行き着くまでの試行錯誤の過程などを見ていると、これは色も形も「ジャズ」の延長上にあるマティス究極の世界だという思いを強くする。
また同時に、そこは単なる芸術作品に留まらない敬虔な祈りの場、魂を浄化してくれる空間になっていると思うのだが、それにしても一体どのような僥倖で最晩年のマティスがここで腕をふるうことができたのだろう。

そんなことを思うのも、ルオーの手紙の中に、”君の礼拝堂も非の打ちどころがない、それが僕には何より嬉しい” という賛辞があったからだ。
これこそ ”非の打ちどころのない友情の手紙” という感じがするのだが、ルオーにしてみれば、裸婦や南仏風景を描き抽象世界にも足を踏み入れそうなマティスよりも、自分こそがこの仕事に相応しかったとは思わなかっただろうか。
聖書世界に近いところにいて聖なる風景を描き続けてきたのに、最後の最後に礼拝堂という形で出し抜かれてしまったことへのやるせなさや嫉妬心はなかったか・・・

もちろん ルオーはそうした思いを封印できるだけの大人だったであろうし、むしろそんな心の狭いことなど思わずに純粋に友の成功を喜んだに違いない。
しかし、”非の打ちどころがない” と称賛しながらも、ルオー自身は礼拝堂そのものを見てはいない、そのあたりに、この二人の ”友情” が長続きした理由のひとつがあるようにも思われる。
そして、もし ルオーが実際にその空間に立ったとしたら、自分にはこれほど軽やかで透明感のあるものは作れないと思ったかもしれないが、自分だったらどんな礼拝堂にするか思いを巡らせたことだろう。
それが、清春芸術村にある 「ルオー礼拝堂」のようなものだったかどうかは分からないけれど、そのような機会があったならばと思わずにはいられない・・・


ルオーとマティス (2008、汐留ミュージアム)
  ギュスターヴ・モローのアトリエ アトリエのモデル、田園風景 人物像と風景
  サーカス キリスト教的風景 テリアードと”ヴェルヴ”誌、悪の華
マティスとルオー (2017、汐留ミュージアム)
  静物、強く生きる女 風景、アンニュイな女 抵抗と祖国愛の女神 晩年の聖なる世界

hokuto77 at 19:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年02月14日

マティスとルオー展-3 抵抗と祖国愛の女神

(汐留ミュージアム 〜3/26)
”第3章 出版人テリアードと占領期” では、ナチスによるパリ占領の時期に芸術誌 『ヴェルヴ』を発行し、困難な時代にも関わらず芸術家たちに発表の場を与えた気骨の出版人 テリアードに光があてられる。
ここには ルオーの 「気晴らし」のための原画全15点が展示されていたが、こちらは、同じ連作ながら先の 「悪の華」と比べると、肩に力が入らない自由さが感じられた。
「気晴らし」らしい自発性が強いように見えるのは、ボードレールという名前や文学との関連というプレッシャーがなかったということもあると思うが、アイロニーも程よく含まれた自然体の連作が生まれたのには、テリアードのプロデューサーとしての力も大きかったのだろう。

ここにはルオーとマティスの二人が表紙を描いた 『ヴェルヴ』誌の現物が7冊展示されていて、戦時下のパリにおける芸術の力というようなものを感じさせられた。

マティスの 「ラ・フランス」(1939、ひろしま美術館)、この赤い服を着て肘掛椅子に座る女性を真正面から捉えた絵は馴染みのあるものだが、これがナチスの侵攻に対する抵抗の絵として 『ヴェルヴ』誌に掲載されたものだというのは初めて知った。
率直なところ、この作品がフランスを象徴しているということは万人にすぐ分かるほど明白ではないように思うけれど、この女性が、というよりはこの豊かな色彩が、自由や美、明るさといった価値を体現し、シンメトリーの画面の安定感が、動じない心、不屈の精神といったものを感じさせたのだろうと推測することはできる。
そしてまた率直に、マティスは政治的・社会的なことに関心を向けるタイプの人物ではないような印象があったのだが、しかしナチスの脅威を目の当たりにすればフランスの滅亡すらも覚悟せねばならない、そんな危機的状況の下では芸術一筋ではいられず、祖国への愛を形にしてフランスの理念や歴史に対する誇りを取り戻そうとしたということだったに違いない。

ルオーも、同じ『ヴェルヴ』第8号にジャンヌ・ダルクを題材にした作品を掲載して戦線に加わった。
展示されていた 「聖ジャンヌ・ダルク(古い町外れ)」(1951年 個人蔵(ジョルジュ・ルオー財団協力)はその掲載作品とは違うもののようだが、歴史上の救国の聖女を扱った分だけ、より直截的・具体的に愛国心と抵抗姿勢を示したものと言えるのではないか。
しかし、それならば是非その 『ヴェルヴ』誌に掲載された作品を見てみたいと思うし、第8号の現物がそこにあるのだから、せめて該当ページの写真くらい展示してもよかったのではないか。


ところで、”マティスとルオー展 ―手紙が明かす二人の秘密―” の 手紙の部分だが、展示されているものを見る限り、互いに尊重し合った良い関係が続いていたことは伺えるものの、親密で率直な心の通い合いというよりは、当たり障りのないやりとりを続けていたという印象が強い。
もちろん、そうした節度ある大人の関係だったからこそ、芸術家同士で半世紀も続いたということもあろうが、期待していたほどのドラマティックな展開とか、赤裸々な心情の吐露といったものは見当たらなかった。
そんな中で、ルオーがマティスに ”君の 「黒は色である」 の言葉を出発点にしようと思う” と書き送り、マティスが ”あれほど 「黒」 に巧みな君こそこの展覧会に参加すべきだ” と返すあたりには、この二人ならではの肉声が聞こえるようだった。

hokuto77 at 20:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月25日

マティスとルオー展-2 風景、アンニュイな女

(汐留ミュージアム 〜3/26)
”第2章 パリ・ニース・ニューヨーク 1914年〜1944年” に入っても、旧・福島コレクションの 「曲馬団の娘たち」(1924−25)や 「大馬車(旧題:サルタンバンク)」(1931)などに ルオーの人間観察の目が見られる。
この時期、旅を重ねニースへ移っていった マティスとは対照的に、パリや北フランスに留まる ルオーの描く風景にも重い空気が漂っていた。
フランスの田舎(散歩)」(1913)だけでなく、人の姿の見えない 「ブルターニュの風景」(1915)でも、広がる海よりはそれを前にしてそこで生きている人々の厳しい生活というものを感じさせている。

一方の マティスは明るく軽やかだ。
前回も登場していた 「オリーブの並木道」(1919、パリ市立近代美術館)は、”快” を記号化した絵と言ってもいいのかどうか、なんとも名状しがたい、ホワンと広がるような優しさが感じられる作品だ。
その先の壁面には、海の見えるニースの豪奢なオテルの室内に立つ 「窓辺の女」(1920みぞえ画廊)、マティスにしてはしっかりと丁寧に描かれた 「横たわる裸婦」(1921、ポーラ美術館)、ゆったりと歌とギターを楽しむ 「室内:二人の音楽家」(1923、同)、額に手を当てて姿勢を崩す 「読書する女性」(1922、上原美術館)など、日本にマティスがこんなにあったのかと思うほどの ”幸福” な人物画が並んでいた。

デッサンや彫刻もあるこのコーナーの中で一点を挙げるなら 「肘掛椅子の裸婦」(1920、DIC川村記念美術館)になる。
”休憩中のモデル” というタイトルでもいいのではないかと思うほど自然体で脱力した裸の女が、花模様の絨毯が敷かれた部屋で無為の時間を過ごしている。
たぶんそこには地中海からの風が吹き、花の香りが漂っていて、そこで彼女は何ものにも侵されないアンニュイの時間を、楽しむという意識もないままにただ真正面から享受している。

一方の ルオー、「聖書の風景または風景(運河)」(1940-48、出光美術館)はずっしりとした重量感のある作品で、神の存在を感じさせる底光りする風景がルオーらしさをよく示していた。
同じコーナーには ユビュ王のシリーズや 「ミセレーレ」のごく一部が顔見世のように展示されていたが、この世界に深入りできないのは今回の趣旨からやむを得ないところだろう。

その代わりに ルオーが制作した ボードレール悪の華」のカラー版挿絵全12点(1936-38)が登場、ルオー芸術を彩る主人公たちが競演するような力の入ったものだった。
同じ 「悪の華」に マティスが制作した挿絵は書籍の形で展示、こちらは頁をめくっていくとシンプルな線による脱力系のデッサンが次々に現れて、戦中の1944年の作品とは思えない明るく楽天的な印象を与えるものになっていた。

hokuto77 at 20:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月18日

マティスとルオー展-1 静物、強く生きる女

(汐留ミュージアム 〜3/26)
あくまでも一般論だが、同じ展覧会でも、行く前の期待値が低いと ”案外よかった” というポジティヴな印象を持ち帰ってきて周りに薦めたりもするが、逆に事前の期待が過大だと ”それほどでもなかった” ということになりかねない。
これは企画サイドからすれば、来館者の期待の程度など知ったことではないので迷惑千万な話ということになりそうだが、しかしチラシの文句とかテレビのCMや特番などで煽ったりすることもあるわけだから全く無関係とは言えない。
では、過去に類似の企画が充実していたことによって自ずとハードルが上がるという場合はどうだろう。
この 汐留ミュージアムで2008年に開かれた ”ルオーとマティス”展は実に興味深く見せてもらったのだが、そんな古い話を持ち出してこられても、やはり迷惑というものだろうか。

さて、今回の ”マティスとルオー展 ―手紙が明かす二人の秘密―” は、約半世紀に渡って続いたという二人の間の手紙のやりとりをいわば縦軸としているが、それについてはまたふれるとして、まずは作品を(ただしコメントは何度も見ている汐留ミュージアム所蔵以外を中心にして)順に見て行こう。

”第1章 国立美術学校(エコール・デ・ボザール)からサロン・ドートンヌへ 1892年〜1913年” でまず目に留まったのは マティスの 「スヒーダムの瓶のある静物」(1896年 マティス美術館)、一見したところごく普通の静物画だが、モノクローム系の食器類を背景にした果物は中に光源があるかのように鈍く光を放っている。
その魅力的な色を見ると、確かにマティス芸術の萌芽があるように思われるのだが、ここでは、色と ”もの” の関係は常識的な範囲に収まっていて、言い換えれば、まだ色は ”もの” にひもづけられている。
しかし、その隣にある1年後の 「ベル=イルの花束」(1897、諸橋近代美術館)になると、もはや色は ”もの” の束縛を離れて自己主張を始めている。
色彩の独立と自由の獲得、それがこの2枚の絵の間で起こっている。

ルオーの目は人間に向かっている。
それも、苦しい毎日ながらも神の下でひたすら生きる人間というものを見つめ、どう描けばそれを表現できるかを突き詰めて考えている。
堕落したエヴァ」(1905、パリ市立近代美術館)は、乱雑に見える暗い画面の中に娼婦が坐っているだけで、美しいとは言い難い作品だ。
しかし、その投げやりなポーズに日々の生活の厳しさを滲ませながら、それでもそこに一生懸命に生きていこうとする力とか、そうしなければならない人間の宿命のようなものをも伝えようとしている。
聖家族を思わせる 「一家の母」(1912、泉屋博古館)という作品は、そうした生き難い世の中で拠り所となる、家族の絆とかそれがもたらすやすらぎを描きたかったもののように思われた。


>ルオーとマティス (2008、汐留ミュージアム)
 ギュスターヴ・モローのアトリエ アトリエのモデル、田園風景 人物像と風景
 サーカス キリスト教的風景 テリアードと”ヴェルヴ”誌、悪の華

hokuto77 at 21:30|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2017年01月10日

デトロイト美術館展-3 ピカソの女、マティスの窓

(上野の森美術館 〜1/21)
ドイツ表現主義の重たい空気に支配された第3章を抜けると、華やかな ”第4章 20世紀のフランス絵画” が待っていた。

ピカソは6枚の作品で各時代の変遷を辿れるようになっていて、それでも超特急という感じはあるものの、1画家1作品などという展示とは比べ物にならない、絵を見る愉しみというものを実感することができた。
作品として充実していたのはやはり後半の3点の女性像、その最初の 「肘掛け椅子の女性」(1923年)は古典主義の時代の典型といえる端正で美しい大作だった。
ただしこれは知人の妻がモデルになっているからなのだろう、彫像のようにしっかりと描かれている一方で、ややよそよそしい感じが漂い女性との距離も感じさせられた。

読書する女性」(1938年)は ドラ・マールがモデル、彼女は写真家であり他の妻や愛人たちとは違って芸術上の同士でもあった知的な女性のはずなのだが、ここではちょっと間抜けに歪んだ顔で頬杖をついて読書をしている。
「泣く女」とはずいぶん異なるイメージで、もう少し美人に描いてあげればという気がしないでもないが、しかし彼女を見つめるピカソの眼はいつになく親密だ。

座る女性」(1960年)に描かれたのは最後の女性 ジャクリーヌ・ロック、しかしここではモデルというよりは素材であって、生身の彼女を愛しているかどうかは別問題、ベートーヴェンが短い運命の動機から第5交響曲を構築したように、ピカソは彼女の風貌をきっかけとして壮大なキュビズム作品を築き上げた。
最晩年ながら力強く、キュビズムも完全に自分のものになっており、一つのモチーフから確信をもって一気に描き上げたという印象だ。

マティスの 「」(1916年)は、よく見ればどうということのない室内を黒い線と淡い寒色系の色で描いたものだが、そこには不思議なあたたかみがある。
細部を見ていけば、整理され切れていないような雑多な線、行き当たりばったりのような色、アイテム間の曖昧な関係性といったところに戸惑いを禁じ得ないのだが、それらが類まれなるシェフの指揮の下にこれしかないというハーモニーを奏でている、まさにマティスのマジックを見るような作品だ。
ケシの花」(1919年頃)も、花の活けられた花瓶が屏風の前に置かれている、ただそれだけの単純な絵なのに、屏風の青は空か海のように見え、花と屏風の境界は溶けかかっている。
どこまでが作為でどこからが偶然なのか分かりようもない、虚実がない交ぜとなった不思議な世界・・・

hokuto77 at 20:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年12月13日

デトロイト美術館展-2 ドイツ表現主義の刃

(上野の森美術館 〜1/21)
ルノワールからピカソ、マチスといった有名どころを揃えた今回の ”デトロイト美術館展〜大西洋を渡ったヨーロッパの名画たち”の中で特に見応えがあったのは、ドイツ表現主義の作品を並べた ”第3章 20世紀のドイツ絵画” だった。

マックス・ペヒシュタイン(1881-1955)の 「木陰にて」(1911年)は、一見するとセザンヌらしき水浴場面がゴーギャン風の色彩で描かれ、空はゴッホのように渦巻き、人物はマティスに近づいているといった感じがする。
しかし、保養地の光景であってもただ美しい風景や裸婦を描けばいいというわけではなく、強い色と線をもって重苦しさや激しさを感じさせ独特の心象風景になっているところに、ペヒシュタインないしこの時期のドイツ絵画の持ち味が表れていると見るべきだろう。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)の 「月下の冬景色」(1919年)も、普通では考えられない色彩による風景画だが、針葉樹と雪を従えた山の崇高さがそこには確かに感じられる。
それにしても、空に浮かぶ月が橙色の派手な光を発しているのは、この時のキルヒナーにはこのように見えたということなのか、この時代のドイツ人の心象を絵にするにあたりこの色が必要だったということなのか、あるいは夜明け間近のアルプスではもしかしたら本当にこう見えるのかはよくわからない。

カール・シュミット=ロットルフ(1884-1976)の 「雨雲、ガルダ湖」(1927年)は、高いところから湖を俯瞰している図で、そこには山も雲も木々も見えるのものの、憧れの南国イタリアの風景画といった趣きではなく、角ばった形や斬新な色彩で構成された不穏な風景であって、しかもそこを支配している最強のものは、山に執拗にまとわりついている雲だ。
それは意志を持っているかのように徐々に忍び寄り、やがてあたりをすっかり覆い尽くしてしまうのであろう。

エーリッヒ・ヘッケル(1883-1970)の 「女性」(1920年)は、なんとも奇妙な絵、画面中央にはぽつねんと坐る病的な女がいて、その背後には壊れかけた男も見えるのだが、彼はヘッケルの自画像なのか。
しかしこれが、従軍志願して戦地経験をしたことによるPTSDが反映された絵だと知れば、深い同情をもって納得せざるを得ない。

もともと内省的・思弁的といわれるドイツ人が、第一次世界大戦で背負うことになった重い課題や心の傷はいかばかりのものであったのか、つまるところこのコーナーの大部分は、そうした内面を吐き出した結果の絵ということになるだろう。
マックス・ベックマン(1884-1950)の 「倒れた蝋燭のある静物」にはそうした鬱屈とともに崩壊の予兆があり、そして 「オリーヴ色と茶色の自画像」(1945年)は、その先の第二次大戦までを見てしまった知識人の苦悩ここに極まる、という感じが強いものだった。

hokuto77 at 19:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年11月17日

ピエール・アレシンスキー展、自己変革の足跡

(ザ・ミュージアム 〜11/30)
唖然とするような大作が会場を席巻する・・・
率直なところその全てに共感し評価したいわけではないけれど、しかし一人のアーティストの作品をこのように見ていくことで、ひとつの処にとどまらない作風の変化を辿っていく面白さというのは確かにある。
それをもし ”試行錯誤” と呼べば、あるべき正解への道のりということになってしまうが、そうではなくてどれもがその時にやりたかった唯一のことに違いなく、でもそれは一つの方向に限定されることなくどんどん変わっていく、そうした自己変革の足跡の総体が、ピエール・アレシンスキーの芸術ということのようだ。

前衛美術集団コブラ時代の 「職人」シリーズ(1948)は、洒脱で皮肉も効いていてクレーを思わせる感じもあるが、日本の書や仙僂料飢に興味を持ったこともあって作風は大胆なものになり、”走る筆” の勢いでポロックやアンソールの雰囲気に近づいていく。
しかもそこにはボスやブリューゲルといったベルギーのDNAも感じられるのだが、それは単なる模倣ということではなく、これらさまざまな要素がアレシンスキーという坩堝の中に投げ込まれ、消化され再生された結果がこうした形をとることになったということなのだろう。

その中心を敢えて探せば、やはり中央の部屋に並んでいた大作群になるのだろうか。
魔法にかけられた火山」(1974)や 「護り神」(1980)に見る噴火の光景には、彼の終末観や原初的なものへの懼れといったものが感じられた。それはあまり楽観的な図とは言えないが、しかし悲観がこの芸術家を特徴づけているというわけでもない。
また、彼の個性的なアプローチといえるプレデッラのような画面下の小さな枡は、これによって重層的なイメージを届けようとするものかとは思うものの、説明的ないし小細工的な感じでメインの画面の迫力を殺いでいないかと気になった。

その意味でもむしろ、初期作品だが画面全体が色の渦で覆い尽くされた 「誕生する緑」(1960)の方が、全てが動いているというエネルギーの迫力があり、いま生まれ出てきたようなフレッシュさがあって好感が持てた。
また比較的最近の作品では、北欧神話ユールブックの姿がユーモラスに登場する 「雄山羊」(1999)、ボスの描いた天国への通路を思わせる 「のぞき穴」のシリーズ(2015)などが面白かった。

といった感じで見てくると、これが アレシンスキーのスタイルだ、と言える明確なものはなさそうだし、この一点で語り尽くせるといった決定版的作品も見当たらない。
そもそもどの作品がどう評価されて世に出てきた人なのか、フランス国民議会の一室の装飾を任されるほどの名声はどのように獲得されたのか、そんなこともよくわからないままに、しかしただ迫力の画面を見ていくだけで爽快な気分になれる、ちょっと不思議な展覧会だった。

”僕はもう人生の終わりに近づいている、すべて表現し尽くしたかもしれない。しかし、何もしなければそこで終わりだけれど、 明日また別の作品に取り掛かれば、何か新しいことを発見できるかもしれない。”
そんなふうに語る1927年生まれで90歳近い老人の心持ちは、なんだか妙に羨ましい・・・

hokuto77 at 19:20|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年09月19日

ポンピドゥー・センター展-4 戦争の時代と芸術

(東京都美術館 〜9/22)
前回触れた1935年の ピカソと 1948年の マティスの間には、第二次世界大戦がある。
最初にも書いた通り、”1年1作家1作品” で年表のように並べた本展では、そこはけっして避けて通れない ”山場” であったはずであり、ここにもし、当時の時代状況やアーティストの悩み苦しみといったものが浮かび上がってきていれば、それは美術展としてはともかく歴史展・文化史展としては有意義なものになり得ただろう。

前述した ピカソ(1932)に続く ガルガーリョ(1933)、ゴンサレス(1942)のあたりでは、時代の閉塞感や悲劇性といったものがが感じられなくはなかったのだが、その後には音楽的な繰り返しが心地よい カンディンスキー(1937)が続き、翳りのない カルダーのモビール(1939)や ローランサンの女たち(1940)が続いたところで開戦を迎える。
その後、1944年には戦時下のパリのモノクロ写真、1946年にはピンク色の画面を持って来て、戦中と戦後の明暗を無理やり対比させていたようだが、”敵前逃亡” のような1945年も含めて、残念ながら ”作品が時代を語った”、あるいは ”作品をして時代を語らしめた” ということになっていたとは言えないだろう。

さて、マティスの後には ニコラ・ド・スタールベルナール・ビュフェらが続いていたが、今回の出展作ではそれぞれの画家の真価は推し測りようがない。
この2人に限らず、今回はポンピドゥーが所有するベストかそれに準じる作品が選ばれて来ているわけではなく、他の年にはいいものもあるのにダブってしまうからこっちにした、というような選定が行われたのでは本末転倒も甚だしい。
結果的にナンセンスなものとして終わった ”1年1作家1作品” という企画のために、もっと目の楽しみになったはずの作品の来日がどれほどボツになったのか、出番を与えられなかった作品、不本意な1点で終わってしまった画家の嘆きの声が聞こえてきそうだ。

アンドレ・マッソンの 「恐慌」(1963年)は、2011年のシュルレアリスム展にも出ていたものだろう。
そういえばこの時に輝きを放っていた ヴィクトル・ブローネル(ヴィクトール・ブラウネル)も、「無題」(1938年)は確かに不吉な絵ではあったけれど、今回は不発に終わったという印象が強い。

今回特徴的だった会場レイアウトにも触れておこう。
第1層は斜線、第2層はジグザグ、そして第3層は円形という大胆な構成には意外性があり、特に個々の作品の独立性を高めた第2層は斬新で面白かっけれど、それが生きるのは、あるいは許されるのは、あくまでも作品の質が伴った場合に限られるだろう。
何もない壁面を大きく残しながら、わざわざ狭いエリアに観客を追いこんで往復の人で混在する動線が悪い会場構成にする必然性があったのか、あったとすればそれは、展示作品が少なくクオリティも若干の例外を除き総じて低かった、その空虚さから目を逸らさせるためだったとしか考えられない。

hokuto77 at 22:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年09月11日

ポンピドゥー・センター展-3 ピカソとマティス

(東京都美術館 〜9/22)
ピカソの 「ミューズ」(1935年)は、無意味な文脈や奇抜なレイアウトにもかかわらず、けっして揺らぐことのない絵としての根源的な力を備えていた。
それは、ピカソという芸術家の霊感の源泉となった ”ミューズ”、すなわち彼が愛した女性たちを描いたものに違いなく、中央で居眠りする女性は若き愛人マリー=テレーズの、満ち足りた無防備な姿なのであろう。
しかし、右から見つめる横顔の女が妻オルガなのだとしたら怖ろしい。怨念が籠るような冷徹とも見える表情は、緑の美しい画面にゲルニカ的な混沌と不吉な影をもたらしている。
妊娠した愛人と疎遠になっている妻、そんな修羅場だから強い絵になっているということなのか、本当はこの時代のピカソの絵をもう少し、あるいは他の女たちを描いた絵も一緒に見たいところだ。
ところで、ピカソのキュビスム革命の発端となった 「アヴィニョンの娘たち」は、たまたまではあるが本展のタイムラインが始まる1907年の作品だ。そんな ”補助線” でもあれば、もう少し有機的なまとまりのある展示になったかもしれない。

その次にあった パブロ・ガルガーリョの 「預言者」(1933-1936年)は、大きな立ち姿のあちこちに空白があって、右手を上げて何かを喚いている預言者の怒りも憤りも空しい感じが伝わってくる。
ピカソと同年のスペイン生まれで、パリでは ”洗濯船”に住んだという彫刻家には、特に ”空洞” の意味づけということがあったのか、今回初めて見た名前の中では最も興味をひかれたアーティストだった。

フリオ・ゴンサレスの 「叫ぶモンセラの頭部」(1942年)も、「ゲルニカ」と並んで展示された作品の作者という点でピカソとの縁がある。
ただしこちらは正攻法による素朴な農民の叫ぶ表情であって、上向きの顔の角度が全てのような感じではあるが、やむにやまれぬ思いから出たという意味で、本展の中では最も切実感のある作品だったかもしれない。

マティスの 「大きな赤い室内」(1948年)は、ピカソ同様に問答無用のお見事さだ。
でも、いったいどこがいいのかと思って目を凝らしていくと、奥行きの感じられない平面にテーブルやイスが三次元のものとして浸食し、下の方には動物の形がそっと忍び込んでいたり、まず黒い線を引いてからそこを避けるように赤を塗っていたり・・・
分析的に見ていけば傑作としての要素はどこにも見当たらないような中で、色の響き合いと筆触の柔らかさが、言いようのない温かみを感じさせている。
これを無理やり本展の物差しに当てはめてみると、「生きる喜び」を真似たブラックから41年、上述のピカソから13年後、そして ポンピドゥー・センターができるまでにはあと29年というタイミングなので、この絵が描かれたのは結構 ”最近” のことだったのだ・・・

hokuto77 at 19:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年08月09日

ポンピドゥー・センター展-2 斜めの赤壁

(東京都美術館 〜9/22)
作品の選定も見せ方も、絵の世界に入っていくことを敢えて妨げようとするような ”ポンピドゥー・センター傑作展―ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―”だったけれど、そんな無残な枠組みの中でも、作品の語る言葉が全く聞こえてこなかったわけではない。

1906年から始まるタイムラインの冒頭を飾る デュフィの 「旗で飾られた通り」(1906年)、ブラックの 「レック湾」(1907年)は、けっして悪くなかった。
フランスの革命記念日を祝う デュフィの作品は、先ごろの不幸な事件のために特に思い入れの強いものになってしまったが、この祝祭日が忌まわしい記憶から解放されて真の輝きを取り戻すのはいつのことになるだろう。
ともあれ、この2点はいずれも画家の代表作でないのはもちろん、それぞれの画家の個性的な作風を代表するものですらないままに、本展で2度目の出番が与えられることはない。
キュビズム時代のピカソの亜流という印象の強いブラックに、マティスの 「生きる喜び」(1905-6年)のようなフォーヴの時代があったことは分かったが、これ1点ではブラック本人もさぞ不本意であろう。

歩きにくい割に絵のかかっていない赤い壁がこれ見よがしに大きく広がる展示室の中で、こちらのテンションも急速に下がっていったのだが、シャガールの 「ワイングラスを掲げる二人の肖像」(1917-1918年)は、一応この企画に沿って制作年を意識しながら見る価値のある作品ではあった。
ユダヤ人のこの画家は、第一次世界大戦を機にパリから故郷のヴィテブスクに戻り、妻ベラとの結婚に至った喜びを、花嫁に肩車されて杯を掲げるポーズとして描いた。
それは確かに、時代が大きく変わる帝政ロシアの村を舞台にした有頂天の姿として伝記的にも貴重なものには違いないが、少し引いてみればたまたまこのシャガールという画家に起こった特別なことであって、この絵が1917年の時代状況を代表しているかと言えば、むしろ事態はその逆であろう。

ル・コルビュジエの 「静物」(1922年)は、国立西洋美術館を含めた作品群が世界遺産登録された建築家の余技であるが、まわりが駄作だらけのせいか比較的いい絵に見えた。
ビンやパイプ、楽器のようなオブジェが集まった静物画は街並みのようでもあり、建築的・音楽的な絵画だと言えないこともない。
カミーユ・ボンボワの 「旅芸人のアスリート」(1930年頃)も、女のような体つきの男が風船のようなウェイトを持ち上げているというばかばかしい絵だったが、これも本展の中では画面に漲る力という点で上位にランクされるべきものだろう。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの 「サン=ラザール駅裏」(1932年)はあちこちで何度も見ているモノクロ写真だが、散文的な背景と澄み切った静かな水面の対比、そしてそこに動きを持ち込む鈍重そうな男のポーズが絶妙だ。
今切り取られているこの場面の、その次の瞬間に起こることが頭では分かっているのにビジュアルでは想像もつかない、奇跡的なショットと言える。
誰か、この直後のシーンを作品にしてみる人はいないだろうか・・・

hokuto77 at 19:55|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年07月21日

ポンピドゥー・センター展、”1年1作家1作品” の呪縛

(東京都美術館 〜9/22)
これは美術展と呼べるものなのか。
もちろん、ただ作品を並べただけで美術展になるとは誰も思っていないだろう。
テーマがあってストーリーがあって、集められた作品が相互に響き合い、アーティストや時代背景への理解が深まり、作品の魅力を新たに発見する、そういう美術展を私は見たいと思う。

しかし、”ポンピドゥー・センター傑作展 ― ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで―” は、そこに ”1年ごとに1作家の1作品” という、芸術性とは何の関係もない約束事を持ち込んだために、作品の世界観や脈絡は無残なまでに分断され、流れもクオリティも度外視された年表のような展示室となった。
これでは音楽ならオムニバス、コンピレーション・アルバムを聞いたようなもので、美術展を見たという充実感や満足感には程遠く、単なるお遊びにつき合わされたような徒労感が残った。

では、せめて、美術展ではなくても、20世紀という時代の文化史展になっているかと言えば、その観点でもまったく期待外れと言わざるを得ない。
もちろん、英文タイトル Masterpieces from the Centre Pompidou: Timeline 1906-1977 にある72年の間に、フォーヴに始まりキュビズムや抽象を経てコンテンポラリーへという流れがあったことは当たり前のこととして分かる。
だが、あえてこのような編年体をとることによって、例えばその間にヨーロッパには2度の世界大戦があったわけだが、そこへ向かっていく時代状況とか、戦後新たに開かれた世界が見えてくるような企画だったかと言えば、答えは ”否” だ。

象徴的なのは、肝心の 1945年が全くの肩すかしだったことで、まあここでのネタバレは避けた方がいいのかもしれないが、そこに展示すべき作品が無かったのなら、その時点でこの企画は破綻したものと悟り根本から見直すべきだったのではないか。
もちろん候補となる作品も幾つかあったと思うけれど、それで1945年という年を代表させることができなかったから、こんな子供だましの安易な手段で切り抜けようとしたのだろう。
しかしそれは1945年以外の年でも本質的には同じことであって、何故そこで無謀さに気づき軌道修正しなかったのか理解に苦しむ。

1年1作家1作品” というコンセプトは、作品にもアーティストにも、そして時代に対しても謙虚さを欠くものだと思うが、やはりその最大の被害者は、”ポンピドゥー・センター傑作展” というタイトルに期待して出かけていきチケットを買った人たちだろう。
写真やフィルム、イスやデザインなどを含めて全部で71点という規模自体がまず物足りないが、そこに ”1作家1作品” という縛りを設けたために出てこれなくなった作品は計り知れず、その代わりに出番が回ってきた凡人、凡作の数々で埋められた会場は、凝った内装でも誤魔化しようがないほどの空虚さだった。

”ピカソ、マティス、デュシャンからクリストまで” というサブの謳い文句自体に虚偽はないけれど、当然ながらピカソ、マティスともそれぞれ1点ずつしかない。
そしてむしろ、”ポンピドゥー・センター傑作展” と言いながら ルオーも クレーも、デ・キリコも マグリットも、モディリアーニも ユトリロも、ダリも ミロも モンドリアンも出ていない、そういう展覧会であるということは、もっと事前に周知された方がいいのではないか。

hokuto77 at 19:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年03月30日

はじまり、美の饗宴展-3 神話的な別れの気配

(国立新美術館 〜4/4)
ゴーギャン、ロートレックの先にあったのは アンリ・マティスの 「マティス嬢の肖像」(1918年)。
遠慮のないところ、肖像画としては線が弱そうに見え顔が歪んでいるし、目や鼻のつくりも曖昧だ。
しかしどういうわけか、暗い背景から浮かび上がる顔は光を発しているように輝き、幼いはずながらも確固たる人格が現われ出ているようだ。
マティスらしい作品とは言い難いけれど、他に比較するものが見つからないような存在感を湛えている。
大原美術館の作品には既視感のあるものが多い中で、正確なデータがあるのかどうかは分からないけれど、本作は館外への遠征回数が最多なのではないかと思うがどうだろう。

アメデオ・モディリアーニの 「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」(1919年)は、典型的な ”モディリアーニの女” の絵ではあるが、二人の死の前年のものだと思うと、その静かな憂い顔も胸に迫る。
彼女はただモデルを務めているわけではないし、画家もただ売るためだけの絵を描いていたわけではない・・・

ジョルジョ・デ・キリコの 「ヘクトールとアンドロマケーの別れ」(1918年)も、この画家の代表作のひとつだろう。
不思議な光に満たされた光景を描く ”広場” 系は別として、このシュルレアリストが発見した ”マネキン・ロボット” 系としては最高傑作といってもいいのではないか。
細部に至るまで精緻に描き込んだ画面は、一部のスキもなくメカニックな要素を突き詰めているようでいて、そこに感情を持った人間としての哀愁も濃厚に感じられる。
卵型の頭の微妙な距離や角度と影で ”別れ” の場面の気配が見事に表され、二人の親密さや離れ難い思いがひしひしと伝わってくる。
自分の願いを聞き入れず最後の戦いに出る夫を送り出さなければならない妻、その何気ないような左足にも、万感の思いが籠っている。
この作品がいつ頃どんな形で所蔵品に加えられたのかは分からないが、かなりの先見の明によるものと思わざるを得ないし、その後のコレクションの展開にとっても重要な布石になったことだろう。

hokuto77 at 21:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2016年02月25日

旅と芸術-5 到達点のその先への旅

(埼玉県立近代美術館 1/31終了)
”5-1.もうひとつの世界へ”の先の ”5-2.シュルレアリスムへの旅” の部屋に辿り着くと、そこは美術展としても充実した空間になっていて、巖谷國士氏が笑みを浮かべて待っていたような気がした。

デ・キリコの 「イタリア広場・アリアドネ―の目覚め」(1970、宮崎県立美術館)は、例によって空間は微妙にねじれ時代も時刻も特定のしようがない、つまりはどこにあるのかわからずどうしてもたどりつけそうもない場所が、不思議な光に満たされて確かにそこにある。
クレーの 「モロッコの家々」(1915、清水三年坂美術館)は、題名通りのものが描かれているとは思えないけれど マグレブへの旅が色彩と形との出会いであり、旅が刺激になって絵の世界が広がったという意味で、これは幸せな旅の記録と言えそうだ。

一方、シャガールの 「世界の外のどこへでも」(1519−19、群馬県立近代美術館)は、画家本人のものと思われる頭が上下に切れてしまっている半身像の横に、故郷ヴィテブスクが縦に描かれており、一見して平穏とは言い難い作品だ。
ロシア生まれのシャガールは、第一次世界大戦、ロシア革命、ナチス侵攻、第二次大戦を避けるようにパリや南仏を経てアメリカに渡りそこで病没した。
旅とは行程を計画して楽しく出発するものだけではなく、戦火に追われ行き先も知れず大切なものを捨てて逃げ延びていく旅もある。
しかし、その横の 「二つの花束」(1925、埼玉)の明るい落ち着いたトーンは、そんなやむにやまれぬ旅の中にも安息の日々があったことを思わせてくれていた。

デルヴォーの 「」(1948、埼玉県立近代美術館)は、太古の植物が密集して繁茂する森の中、赤い布のかかる豪奢なあずまやに裸婦が一人でくつろいでいる。
そのすぐ左には線路が引かれていて汽車が今通り過ぎて行ったところらしい。とはいうものの、実際は走って通り過ぎたのではなくそこにずっと止まったままの客車なのかもしれず、いずれにしてもその存在は裸婦には見えていない。
それでも、この汽車があることによって絵は思いがけないニュアンスを生み出し、森の中の裸婦は色艶を増す。
それは誰の夢の中への旅なのか、もしかしたら旅人は我々で、汽車の窓から一瞬だけ裸婦の姿が見えただけなのかもしれないが、すべては幻想の世界のことなので謎は謎として置いたまま、裸婦の気をそらさないように息をひそめながら立ち尽くすのみだ。

リトグラフ作品の 「女帝」(1971、姫路市立美術館)は、憧れの古代世界からやってきた使者なのだろうか。全ては美しい秩序の下にあった幸福な時代に、この女性はそれを信じる者だけを連れて行こうとして待っている。
」(1974、同)は、もっと端的に未知への旅の始まりを示している。とはいうもののデルヴォーの画面なのでそれはいつ始まるのかは分からないけれど、そこが幻想の旅への入口であることは間違いない。
(ポール・デルヴォー展 

hokuto77 at 20:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年07月23日

シャルフベック展-4 強く生き抜いた生涯

(藝大 〜7/26)
ヘレン・シャルフベックの生涯には3つの大きな不幸があったとされる。
3歳のとき階段から落ちて骨折
イギリス人画家からの一方的な婚約破棄(20代)
19歳年下の男性が別の女性と婚約(57歳)
このうち、,あったから彼女は画家になったと言えるのだが、作品に大きな影を落としているのは の ”失恋” だ。

ロマの女」(1919)はその時の心境を描いたものと言われ、それは確かにどこかで見たことのあるポーズなのだが今はよく思い出せない。
ともあれ、顔を覆って慟哭する女の姿は既に形が崩れて全身が涙と化しており、捨てられた絶望と苦しさがストレートに出ていると思うけれど、しかし普通それを当の男性本人に送るだろうか?
あてこすりと思われたり関係が決定的になったりする可能性もある中で、それでも彼女にその選択をする強さはあった、そして、結果としてはそれがよかったようだ。
というのも、肖像画 「エイナル・ロイター III」(1919-1920)におぼろな姿として残されたその男は、後年にシャルフベックの生涯と作品を伝記として纏め、彼女の画家としての評価が定まって名が残ることに貢献することになった。

不幸が人生を定義する、と言ったのは誰だったか。
人は、自分が生まれた時代や出会った人によって、その人生が決まっていく。
どんなに理不尽なことがあっても、人はそうした運命の中でしか生きられない。
でも、全てが悪い方に行くわけではない。
シャルフベックの作品は、辛いことも受け入れて生き抜いたことがもたらす果実もあるのだということを雄弁に語っている。


その他の雑感としては、第2章にはベラスケス等の模写作品が何点かあった。
留学時代の勉強の成果かと思ったら、これらは帰国後の教師時代に仕事としてウィーン等に赴いて模写したものとのことで、ヨーロッパ辺境のフィンランドで人々がオールドマスターに触れるために必要な文化事業だったようだ。
中で、フランス・ハルスとホルバインは本物と言われれば信じ込みそうなほどの出来映えだった。

”第4章 自作の再解釈とエル・グレコの発見”には、近くにモデルがいないこともあって創作意欲が衰えていた時代に、画商の提案によって若い頃の作品を焼き直したものが新旧取りそろえて展示されていたが、40−50年前のものを翻案して描く時の画家の心境はどのようなものだったのか。
一方、エル・グレコの図版を見て描いたという 「天使断片」(1928)や 「慈悲の聖母」(1941)は、再解釈による派生作品ではあるがオリジナルとは別の魅力を引き出していた。
ただ、この2点の間にも13年の間があり、この60-70歳代あたりが長い彼女の画業の中での停滞期ということになりそうだ。


シャルフベックと同じ1862生まれの画家としては シダネルクリムトピロスマニらがいる。
また北欧勢では、翌63年のムンク、64年のハンマースホイが同年代と言える。
そこに一定の共通性がないことはないとも思うが、特段の影響関係はなくそれぞれが独自の道を歩んだというべきだろう。

故国フィンランドでは シベリウス(1865-1957)がシャルフベックより3歳年下で、ともに帝政ロシアへの抵抗と独立の時代を生きた。
しかし、「フィンランディア」が熱狂的に受け入れられていたはずの19世紀末期から1919年の独立あたりまで、そうした昂ぶりを彼女の作品に見出すことは難しい。
それは、独立宣言前後の時期に首都ヘルシンキを離れヒュヴィンカーという田舎町で静かに暮らしていたから仕方がないということだと思うが、それでも若い頃の作品には第1、第2交響曲の民族主義的な趣きが感じられる。
そして、シベリウスが50歳の記念として第5交響曲を書いた1915年に 「黒い背景の自画像が描かれたのは単なる偶然とは思われず、その後の後期のシベリウスとシャルフベックの作風はかなり親和性が高いように思われる。
会場で晩年の自画像や静物画を見ているときに頭の中に小さく流れていたのは、シベリウスの第4、6交響曲や交響詩「タピオラ」(1926)の、幽かで寡黙な音楽だった。

hokuto77 at 20:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年07月15日

シャルフベック展-3 パリからの風と香り

(藝大 〜7/26)
前2回ヘレン・シャルフベック(Helene Schjerfbeck 1862〜1957) というフィンランド人女性画家の生涯を追いながら、絵としては地味で重ための作品を主に取り上げてきたけれど、彼女には心が浮き立つような鮮やかな絵、パリで学んださまざまな手法や潮流を試した斬新な絵というものも多い。

留学3年目の 「洗濯干し」(1883)は、野原に散らばる衣類という普通なら絵にもならないような題材の作品だが、しかし洗濯物の色の連なりは鮮やかで心地よいリズムが感じられる。セザンヌのリンゴが、彼女には洗濯物だったのだ。
」(1884)は教会の扉と壁だけをほとんどモノトーンで描いている。まだゴーギャンやエミール・ベルナールがやってくる前の ポン=タヴェンで、北欧からきた女性は固く閉じた扉を見つめながら、抽象画のようにシンプルな画面を構築した。

その他、「フィエーゾレの風景」や「フィエーゾレの糸杉」(1894)は フリードリヒを思い出させる深遠な風景だし、「菩提樹の下で」(1911)の平板な感じは モーリス・ドニのよう、そして 「赤いりんご」(1915)の鮮やかさは セザンヌというよりは ルドンの赤だ。
お針子(働く女性)」(1905)は ホイッスラーの 「灰色と黒のアレンジメント〜母の肖像」をお手本あるいはイメージソースにしたと言われる作品。上手い言い方があると思うし確かに似てはいるけれど、ホイッスラーの超越的な気配はない代わりに、タイトルの示す哀愁が漂っていた。

1902年に ヒュヴィンカーという田舎町に移ってからも、シャルフベックはさまざまな雑誌で美術界の趨勢やパリでの流行を追いかけていたらしい。
そんな女性らしい華やかな絵も多くあったが、「ドーラ (ドーラ・エストランデル)」(1922)はそうした ”グラフィックシリーズ” の白眉だろう。顔の部分は暗いが鼻筋の通った美形の女性がいて、くすんだ赤い服もいい味を出している。
アイトクーネから来た少女 II」(1927)はタンミサーリ時代の作品になるが、大きな目と小さな口の顔のつくりは美しく、格子模様のようなドレスの水色は実に鮮やか、背景の蔦のような葉の連なりまでを含めてファッショナブルな作品だ。
そしてグッズに採用されていた 「諸島から来た女性」(1929)は、しっかり巻いたターバンと独特の眼付がエキゾチックな魅力を振りまいていた。

最後の ”第5章 死に向かって: 自画像と静物画” の自画像は重苦しいものだったけれど、静物画の方には彼女のセンスが最後まで光っていた。
青りんごとシャンパン・グラス」(1934)は地味な中間色の色彩が響きあう上品で落ち着いた作品だし、「かぼちゃ」(1937)には落日のようだけれどまだ明るさがある。
そして最晩年の 「黒いりんごのある静物」(1944)、ここでも赤や緑のリンゴ、そしてモスグリーンの背景は十分に美しい。
しかしそれだけでは終わらずに、シャルフベックは最前列の目立つところに腐って黒ずんでいくリンゴを描いた。
それはやはり精神的自画像というものだったのか、諸行無常、という言葉が脳裏に浮かんだ。

hokuto77 at 21:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年07月07日

シャルフベック展-2 老いを見つめた自画像

(藝大 〜7/26)
この ”ヘレン・シャルフベック 魂のまなざし” 展が普通の絵画展と大きく異なるのは、”第3章 肖像画と自画像”以降で繰り返し登場する自画像が、一人の女性の数奇な生涯や不可逆的な老いというものを強く感じさせるところだ。

22-3歳頃の 「自画像」(1884-1885)は、パリ留学でだいぶ腕が上がってきたところなのだろうか、少し気張ったまじめな画学生の若さと自信が窺える。
10年後の 「自画像」(1895)はパリから戻りヘルシンキの美術アカデミーで教鞭をとっていた30歳代、社会的には安定し評価も得られていた時期で、最も理想化されて描かれた表情の中には祖国に貢献する女性のプライドといったものも感じられる。

それから20年後、53歳の 「黒い背景の自画像」(1915)は、フィンランド芸術協会の依頼に基づいて描かれたものとのこと、それは押しも押されもせぬ大家の証明に違いなく、1902年に40歳で公職を退きヒュヴィンカーに移り住んで独自路線を歩んでいた彼女にとっても名誉なことであったに違いない。
しかし少し上向きのポーズには、それを素直に喜ぶというだけではないやや斜に構えた感じがあって、一抹の哀愁の中に、これがわたしよ、文句ある? といった強い自負心も見え隠れする。
黒の背景に描かれた飾り文字は墓碑銘を意識したものなのか、そこにもやや屈折した思いが見えるようだった。

「働きに行く工女たち」の裏面に残された 「未完成の自画像」(1921)は、19歳年下の男性が別の若い娘と結婚したショックで自ら破棄した自画像と伝えられる。
確かに傷跡は生々しいけれど、それが自傷行為とまで言えるのか、自画像として気に入った仕上がりになりそうもなく6年前の記念碑的作品を超えられないと思ったから完成させなかったというだけでいいようにも思えた。


本展で最も衝撃を受けたのは ”第5章 死に向かって: 自画像と静物画” の自画像群だ。
そこに並ぶ晩年の5点の自画像は、年を追うごとに徐々に顔が歪み、精気が失われ、命の火が消えていくようであり、死の前年に当たる83歳の作品 「自画像、光と影」(1945)では髑髏のような形のみがぼんやりと浮かび上がっている。
黒とピンクの自画像」(1945)に至ってはデスマスクのようで、もしかしたら認知症が入って自己崩壊が始まっているのか、もはや苦悩や諦念といったものを越えた本物の老いと衰えが赤裸々に表現されている。

第一次大戦後の1925年に住み慣れたヒュヴィンカーからタンミサーリに移った シャルフベックは、第二次大戦末期の44年にスウェーデン、ストックホルム近郊のサルトショーバーデン(サルショバーデン)の療養ホテルに入って最後の2年間を過ごす。
風光明媚な環境で恵まれた老後の終の住処のようであるけれど、故郷や友人知人等と切り離された施設では、たった独りで残された日々を過ごしながら死に向き合わなければならない。
幸いにも絵は描ける、しかし多島海の風景には興味がなかったか外へ出る体力もなかったか、モデルもいないし自分の絵を待つ人もいない毎日の中で、最後はほとんど自画像と静物画だけを描いていくことになる。

自画像とは、鏡に映る自分を凝視するところから始まる。
しかしそこに見えるのは衰えていく自分自身であり、昔の容色は見る影もなく取り繕いようもない。
美しい20代も自信に満ちた50代も遥か彼方に消えて取り戻すことはできず、描く力そのものの衰えも痛感していたのではないか。
モデルも画家も老いてゆく、なんとも残酷な状況に違いないが、でも彼女は敢えてそれを続けた。
レンブラントも老境の自画像を多く残したが、ここまで自らの人格崩壊の過程を曝しはしなかった。
そんな辛い作業にもかかわらず、それでもこんな姿をキャンバスに遺そうとした心境とは一体どういうものだったのだろうか。

たぶんそれは、自分がその年になってみなければ決して分からないことだ。
今でさえ、昔は何の苦労もなくできていたことができなくなり、そのかわりにさして興味もなかったことを考え始めたりするのだから、老境に至って初めて分かってくる心情というのはあるに違いない。
シャルフベックの老いゆく自画像を見ていると、自分もいずれそのように年をとっていくことが怖くもあり、でも一つの指針を見つけたような気にもなる。
それでも、じっと正視していることは難しく、申し訳ないと思いながら絵の前を立ち去ろうとすると、彼女が小さく囁きかけてくる。

  ”こうして 私は 死んでいくのです”

hokuto77 at 21:34|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年07月01日

シャルフベック展-1 フィンランドの女性画家

(藝大 〜7/26)
ヘレン・シャルフベック 魂のまなざし” は、全く予備知識のなかった ヘレン・シャルフベック(“Helene Schjerfbeck 1862〜1957)というフィンランド女性の生涯を追いながら、一緒になって大きな旅をしたような気にさせてくれる展覧会だった。

”第1章 初期: ヘルシンキ―パリ” でまず目を引いたのは 「雪の中の負傷兵」(1880)、18歳のときの出世作だ。
雪の大地で木にもたれて足を投げ出す若き兵士、彼は負傷して一人取り残され、隊列は雪原の彼方へと消えていく。
このまま凍死してしまうのか、しかしそこまでの悲惨さはない愛国的テーマであり、もし彼女がこの路線でフィンランド独立運動の英雄や民族の誇りであるカレワラの世界を描き続けていれば、それが結果的によかったかどうかは分からないが、全く別の人生があっただろう。
しかし、この絵が芸術協会の買い上げとなり奨学金も出てパリに留学することになって、運命の歯車は別の方へと回り始める。

妹に食事を与える少年」(1881)はその初期の成果、二人の子供の生き生きした表情が印象的な作品で、妹のつばを飲み込む音までが聴こえそうなリアリズムだ。
ただ、1881年のこの作品が1874年には第一回印象派展があったパリでどう受け容れられたのか、”ロシア帝国領”の辺境の地からやってきた来た女性画家が頭角を現すのに良好な環境だったかどうかは心許ない。
少女の頭部」(1886)は本当に小さな作品だったが、おませで賢そうな少女の一瞬の表情が魅力的に捉えられていた。

快復期」(1888)という大作には、やや熱っぽくまだ充分な体調ではない少女がいる。
弱々しいけれど、でも昨日よりはよほど生気が戻ってきた、そんな微妙な状況がよくわかる、ちょっと他に類例が思い浮かばない作品だ。
元気になろうとする意志、ようやく床離れできた喜びが柔らかな光の中に溢れ、手に持つ小枝から出て来たばかりの新芽の緑が救いを感じさせる。
これは ”第一の失恋” から立ち直る精神的自画像という見方があるらしいが、もう少し普遍的に、人間の命はちっぽけで儚い、でも底知れぬ無限の力を秘めている、そんなことを考えさせてくれる作品でもあった。

”第2章フランス美術の影響と消化” では、1880年から10年ほど滞在したパリから戻ってすぐの時期の 「堅信式の前」(1891)がよかった。
爽やかな緑の中で、髪を調え紅を差した少女が白い服を着て聖書に目を落としている。
読んでいるというよりは大切な語句を追いながら心を落ち着けているところなのだろう、清純で真面目な少女が厳かな時間を前にしている緊張感が伝わってくるようだ。

教会へ行く人々(復活祭の朝)」(1895-1900)も信仰に関係がある作品、こちらは3人の年配の女性たちがまだ寒い中を祈りの場に向かっている。
それは貧しく辛い日々の中でも心の気高さを失わない、一生懸命に生きる巷の人々の姿であり、こういう絵を見ると不意に、信仰に支えられた生活というものが羨ましくなることがある。
パリからヘルシンキに戻り教鞭をとっていた頃の シャルフベックが描く ”北国の精神” ともいうべきものは、怠惰で不道徳な日々を過ごす者の心に刃となって突き刺さってくる・・・

hokuto77 at 21:16|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年06月05日

ユトリロとヴァラドン-3 母と子、それぞれの才能

(損保ジャパン 〜6/28)
サン=ベルナールの教会(アン県)」(1931、ポール・ディニ氏蔵)は、精神を病んだ息子ユトリロのためにパリ東部に購入した古い城館のある辺りの風景、シュザンヌ・ヴァラドンも時折そこを訪れて、母として憩いの時間を過ごしたのだろうか。
画面手前には畑がひろがり、その先に質素な集落の家並みが見え、湖のむこうには山が見える。
そんな牧歌的な風景の手前に一本の木を置くことによって、緊張感と奥行きとを備えた構築的な作品が生まれた。
そこには確かな造形への意思というものが見え、ただの風景画に終わらせないところにはセザンヌやゴーギャンの作風を感じたのだが、実際にそのような影響関係はあったのか。

ヴァラドンの交友関係として一般に挙げられるのはシャヴァンヌ、ルノアール、ロートレックあるいはサティといったパリの街を舞台に活動していた人たちであり、新印象派やナビ派など新たな絵画を模索していたメンバーたちではない。
それでも、この絵を見るとセザンヌが押し広げた世界の少なくとも一部を、しっかりと自分のものにしているという感じがする。
また、「」(1936)は比較的小さめの作品で、そこには花瓶に入れられた花が幾つか見えるだけなのだが、この色彩感覚はゴーギャンにかなり近い。
もっともその傾向は初期作品からあるので彼女の天性のものかもしれず、ともあれこれは実に愛すべき作品で、もし一点を自宅に持ち帰って飾れるとしたら是非この作品をお願いしたいと思った。


ここまで、本展のもう一人の主役である ユトリロの作品には全く触れなかったけれど、それは食傷気味だというだけではなく、絵としての力が母ヴァラドンとは全く違い、その陰に霞んでしまったように見えたからだ。
売り絵や部屋の飾り、あるいはパリの思い出としてユトリロの絵が愛されるのは分かるものの、切実なる表現としての絵画、人間性の発露としての芸術といった観点からは、およそ比較にならないほどの落差を感じざるを得ない。
それでも、ヴァラドンの絵が息子ほどには売れなかったのは、ただ美しいばかりの絵ではないだけでなく、やや押しつけがましいところがあったということなのか。

それにしても、実の母と子が、同じ時期に全く違うタイプの絵を描いていたことにはあらためて驚かされる。
それは、苦労人からのし上がった母と純粋培養で育った息子、派手な男性遍歴を重ね生活力旺盛な母と精神を病んでひきこもっていた息子、という対照的な人物像の反映と考えればある程度は理解できるものの、これほど志向がかけ離れ影響関係も見られない親子というのも珍しいだろう。
ひいき目かもしれないが、ヴァラドンのデッサン力は、しっかりと訓練された正確さがあるわけではないながらも本質をつかみ取る力や人の目をしっかりと引きつける力において優れていると思うし、色彩感覚にも非凡なものがある。
しかし画家としてそれほど成功したわけではないこともまた事実であって、そうなると、そんな母の画風に一切影響されることなく自分の世界を作り上げ守り抜いた ユトリロの芯の強さの方に、むしろ感心すべきだということなのかもしれない。

hokuto77 at 21:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年05月12日

ユトリロとヴァラドン-2 母の人生と息子の肖像

(損保ジャパン 〜6/28)
スュザンヌ・ヴァラドンの 「コルト通り12番地、モンマルトル」(1919)は、彼女がアトリエを構えた場所を描いた作品。
他の画家たちも近くにいるステ―タスのある土地柄らしく、通りから瀟洒な建物までの高低差を埋め尽くすみずみずしい緑は本当に美しい。
門から登っていく道の途中に坐っているのはヴァラドン自身なのか、この場所への愛着や満ち足りた幸福感も感じられてくる穏やかないい作品だ。
しかしその裏付けとなっているのはユトリロの絵の人気の方だったかもしれないのだが、それも含めて、数々の苦難を乗り越えてここまで上り詰めて来られたという彼女の充実感が描かせた作品といっていいのだろう。

モーリス・ユトリロの肖像」(1921、サノワ、ユトリロ‐ヴァラドン美術館蔵)は、立派なひげを蓄えスーツにネクタイ姿で絵筆をとっている画家の肖像画だ。
それは38歳の男としては決しておかしくないまともな紳士の姿であり、画家としての成功を強く暗示するものでもあるが、しかしアルコール依存症で精神病院に入退院を繰り返していた時期のものとしてはかなり美化しているのではないか。
母のひいき目が描かせた絵には違いない、しかしそれは息子への純粋な愛情によるものなのか、あるいは売れっ子画家をプッシュしたいという営業的な配慮から出たものなのだろうか。
とにかくこの肖像画には力が入っている、そして、ヴァラドンの絵には珍しく、第三者にどう見られるかを意識して描かれている。

一方、彼女自身の 「自画像」(1927、同)は飾らない。
美化することもなくありのままに描いた結果、気の強そうなやり手の女がふてくされている図になった。
少し疲れているのだろうか、もしかしたら若干の自己嫌悪もあろうか、いずれにしても、世間を逞しく泳いできた女の肖像として、それは潔いほどに見事なものと言わざるを得ない。

これら母子の2枚に挟まれた 「窓辺のジェルメーヌ・ユッテル」(1926)は、一転して脱力系の肖像だが印象派的な色彩が美しいものだった。
頭と髪は窓の外の木々とほぼ同じ色だし、白い衣は部屋の壁の白とほとんどかぶっていて、危うく人物が背景に埋没してしまいそうな配色なのに、そこに果敢に攻めていくところもまたヴァラドンなのだろう。
花瓶の中のリラの花束」(1930)も優れた色彩感覚が楽しめる作品、印象派風だが見たままではないところにセンスを感じさせられた。

hokuto77 at 21:42|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月29日

ユトリロとヴァラドン-1 女流画家のヌード

(損保ジャパン 〜6/28)
ユトリロとヴァラドン‐母と子の物語”は、スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年だからようやく成立した企画かもしれないが、私にとっては本当に待っていた展覧会だった。
” 日本で絶大な人気を誇るユトリロの作品を、そのルーツである母ヴァラドンとの関係を交えながらご紹介いたします”というのが企画者の言葉なのだが、”若冲と蕪村”展が私にとっては ”蕪村展”だった以上に、これはまさしく ”ヴァラドン展”以外の何物でもなかった。

スュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon、1865-1938)は、一般的に知られるところでは モーリス・ユトリロの母であり、シャヴァンヌやルノアール、ロートレックらのモデルだった女性であるが、そもそもはサーカスの踊り子で、怪我をしたことからモデルをするようになり画家とのつながりができたということだ。
だから、しっかりとした絵の勉強をしたわけではないのだろうが、表現者として天性のものがあったということか、その作品は粗雑なところを残しながらも訴えかけてくる力は強い。

最初に登場する 「パイプをふかすミゲル・ウトリーリョ(ユトリロ)の肖像」(1891)は、父親が誰だか分からない息子モーリスを認知してくれた人物の肖像で、個性的な横顔には既にただものではない感じが漂っている。
裸のユトリロの身体を拭く祖母」(1894)には全裸の少年のナイーヴな感じがよく表れており、「12歳のモーリス・ユトリロ」(1896)にも無防備な姿がみずみずしい筆致でとらえられている。
しかしそれらはあまりに美しくも儚い感じがあり、彼女は ”母”以上のまなざしでこの無垢な姿を見つめているようでもある。
自慢の愛犬」(1908)も、単純ながらも過不足ない筆で本質をとらえているデッサンだった。

このあたりで既にその非凡さに気付かされたが、彼女の強い表現力がいかんなく発揮されるのはやはり大判の油彩だ。
入浴の後で」(1909、ポンピドゥー・センター蔵)は、平凡ではない捻じれたポーズが針金のような強い線で描かれ、はっきりと区切られた面が独創的な色彩で塗りつぶされていて、美しいとは言い難いけれど強い訴求力をもった作品だった。

黒いヴィーナス」(1919、ポンピドゥー・センター蔵)は、密林と思しき鮮やかな緑をバックにしてアフリカ系と思しき肌の色の黒い女が全裸で立っている。
彼女の傍らには白い布があり、頭には赤いヘアバンドをしているので、神話のヴィーナスでも野生の女でもなさそうなのだが、見る者を射抜くような鋭い目と鋼のように強靭そうな体のインパクトは唖然とするほど強い。
ただ、そんな女が右腕で陰部を隠していわゆる恥じらいのポーズをとっているところにミスマッチ感があり、なぜ女流画家がこのような絵を描いたのか釈然としないものが若干残る。

一方、「裸婦の立像と猫」(1919)は室内にいる白い肌の女で、全裸で後ろ向きになり体を前傾させていることによって強調される大きな臀部が艶めかしい。
この裸体も女からの視線なのか、ともあれ 赤いカーテンと白い衣、その上でかしこまっているネコが醸し出す雰囲気は「黒いヴィーナス」よりは無難で美しく、それでもここには借り物なんかではない力に裏打ちされた確固たる表現があるように思った。

hokuto77 at 21:56|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年12月10日

チューリヒ美術館展-3 抽象、超現実、シャガール

(国立新美術館 〜12/15)
モネ、ルソー、ヴァロットン、ムンクと見てきた展覧会の後半は駆け足で・・・ 

”7.表現主義”には エルンスト・バルラハ難民」(1920)があった。
疾走感のあるシャープな姿は追憶の中の風の又三郎であり、難民とはいえ決して絶望したりしない、生きる強い意志を感じさせる訴求力の強い造形だった。
”8.ココシュカ”は点数が多い割に魅力が感じられず、”9.フォーヴィスムとキュビスム”の マティス2点もやや期待外れ、しかし ピカソの 「大きな裸婦」(1964)はジャクリーヌの時代のおおらかな作品で、生命力の横溢する様は相変わらずだ。

”10.クレー”の比較的大きな 「スーパーチェス」(1937)は分かりやすいが クレーとしての詩情を感じにくく、むしろ謎めいた 「操り人形」(1930)の方が面白かった。
ジャポニズムの気配を漂わせる浮遊感のある形は、いったいどうやって出て来たのか見当もつかないけれど・・・
”11.抽象絵画”の カンディンスキー黒い色班」(1921)はさすがに充実した作品。大画面には立体感というか不思議な奥行き感があり、なおかつ古典絵画のような格調高さが備わっていた。

”12.シャガール”は6点、いかにも シャガールらしい 「パリの上で」、「婚礼の光」はいずれも秀作だ。しかし、素朴な村の家並みをそのままに描き出し、大きな袋を持ってやってくる人物を登場させている初期の 「ヴィテプスクの上で」(1922)の方が、ファンタジーとしては控え目であるけれど、画家の肉声がそのまま聞こえてくるような感じがした。
男は画家の幼い心に刻まれたユダヤの長老なのか、村の外部からやって来た異邦人か、それとももしかしたら自分自身の投影なのか、いずれにしても故郷の村への愛着が切々と伝わってくるような作品だった。
戦争」(1964-66)はどの戦争をもとに描かれたものなのか、ともかくも愚かな戦争で辛い目に合うのは一生懸命に生きている罪のない人々だ。

”13.シュルレアリスム”では キリコの 「」(1913)、夕焼けめいた空の色すら片隅に微かにしか見えない縦長の禁欲的な画面の中で、塔のみが孤独に厳しく立っている。
このコーナーにはエルンスト、マグリット、ダリ、タンギー、ミロなどの面々もかなりの水準で揃っており、”全てが代表作”というのもここは確かに納得できた。
最後は ”14.ジャコメッティ”で、セガンティーニ、ホドラー、クレーを特集したチューリヒ美術館展らしいフィナーレだが、だったらやはり ヴァロットンも同じ扱いがよかった・・・

hokuto77 at 22:50|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年11月29日

夢見るフランス絵画、印象派からエコール・ド・パリへ

(ザ・ミュージアム 〜12/14)
久しぶりに、とてもシンプルな展覧会を見た。
印象派からエコール・ド・パリのフランス絵画を順番に見ていくところに特段のテーマ性はない、しかし逆に何も考えずに絵そのものを楽しんでいくという時間は心地よく、妙に懐かしい感じを覚える展覧会だった。
その何枚かはこれまでに見たことがあるような気がするのだが、どういうわけか所蔵に関する情報が全くなく、”ある個人収集家のコレクション” と紹介されているだけだ。
文字通りなら全て一人で買い集めたものということになるが本当にそうなのか、図らずもそのあたりの事情や個々の作品の出展歴などが、徐々に知りたくなってくる・・・

作品では、冒頭の セザンヌ大きな松と赤い大地(ベルヴァ)」(1885年頃)がいかにもこの画家らしい堅固な構成で、ああセザンヌだなあという言葉が思わず口を突いて出そうになった。
モネの 「エトルタ、夕日のアヴァル断崖」(1883)も、様々なヴァリエーションで取り組んだノルマンディーの風景だが、この作品は断崖の形をくっきりと浮かび上がらせて沈みゆく夕日の朱と、それが昏くなりつつある海面の波の上で煌めいている感じが特に良かった。

ルオー聖書風景−夕」(1953-56)は何処とも知れないありふれた風景が恩寵の光に包まれて、タイトルが示す通りのこの世ならぬものになっている。
最も点数が多かったのは ヴラマンク、中でも 「嵐のあとの村」や 「雪の道」にはこの画家ならではの凄味があり、「風景」(いずれも1920以降)の重く垂れ込める雲の下で画面奥に伸びていく暗い道には、人を厳しく拒絶するような、しかしそこに人の営みを感じざるを得ないような実在感があった。
また、初期の作品には意外なアプローチの風景画があり、一方で黒い背景から浮かび上がる花の絵などもあって、この蒐集家のヴラマンクに対する特別の思いが感じられた。

その他に点数の多かったのは ルノワールとユトリロ、ルノワールでは 「アネモネ」という未完成らしき小品がよかった。
ユトリロは、”白の時代”の作品はごくわずかで大部分が ”色彩の時代”のもの、そしてキスリング、ローランサンが多く並ぶあたりに、良くも悪くもこのコレクターの好みや方向性を垣間見ることができそうだ。
藤田嗣治については多彩なテーマの作品がひととおりバランスよく集められているという感じだったが、「人魚」(1940)はこんな作品もあったのかと驚かされるものだった。

hokuto77 at 22:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年11月23日

チューリヒ美術館展-2 ヴァロットン、ムンク

(国立新美術館 〜12/15)
”4.ホドラー”に続く ”5.ナビ派” は、2枚のボナールを入れ替えて ”5.ヴァロットン” とした方がよかったのではないか。

ヴァロットンの 「訪問」(1899年)は、先日の回顧展で印象的だった連作版画集 「アンティミテ」(1897)にも登場していたような男女のドラマがブルジョア風の室内で展開している。
そこに漂う不穏な空気と退廃の香り、そして忍び寄る翳、これは多分この時点でのヴァロットンの重要な鉱脈のひとつだったのだろう。
トランプで一人遊びをする裸婦」(1912年)は硬直した冷たい裸婦、その姿にはどこかに無理があるはずなのに、神秘のヴェールに包まれたようにたった一人の世界で妖しげなオーラを放っていた。

今回のヴァロットンで特に印象的だったのは後半の2枚の風景画だ。
日没、ヴィレルヴィル」(1917)は平面的に塗られた空の朱が神々しい光を放ち、装飾的な画面にもかかわらず超越的な世界を目の前に現出させている。
現実感はないのに心の中から訴えかけてくるものが強く感じられるのは、この作品が第一次大戦の年のものであって、ヴァロットンも従軍画家として様々なものを見た末の境地が反映されているからなのだろうか。
アルプス高地、氷河、冠雪の峰々」(1919)は手前に氷河が神秘的な色で横たわり、それを取り囲み包み込む険しい雪山は地球が生成された時からそのままのような地形を見せる圧倒的な光景だ。
遠くから射してくる光は神の領域を示すようであり、最晩年のヴァロットンがこんな澄み切った、精神性の高い境地に到達したとは知らなかった。
かなりの点数を見たはずのヴァロットン展とは違う人間像に接したようで、この画家のことが分かったようなさらに分からなくなったような複雑な思いに捉われた。


”6.ムンク” には4点あったが、最も ムンクらしさを感じたのは 「冬の夜」(1900)。
それはどうしようもなく寒々しい風景で、もし風景画の体感温度分布を作ったら最も低いカテゴリーに入ることだろう。
遠景のフィヨルドの水はおそらく手を切るような冷たさで静まりかえり、しかし近景の木々と地面の雪は 「叫び」のような渦を巻いて溶け合っている。
それは画家自身の不安の表れなのか、1890年代の ”生命のフリーズ”に近い作品で、ムンクでなければ描けない風景画に違いなく、そこに人物がいない分だけ絵は象徴性を高めているともいえそうだ。
同じ部屋にあるその後の明るい色調の作品と比べると、若きムンクが突き詰めたものの大きさと重さがあらためて見えてくるようだった。

hokuto77 at 20:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年10月31日

ノルマンディー展-2 ヴァロットン、そしてデュフィ

(損保ジャパン 〜11/9)
印象派前後の画家たちがひとつのテーマで競演しているような前半部分から ”第6章 自立する色彩:ポスト印象主義からフォーヴィスムへ”に進むと、展覧会は意外な展開を見せる。
ロベール・パンション(Robert Pinchon、1886-1943)は大胆な色彩をさまざまに駆使する画家で何点か斬新さを感じさせる作品があり、特に 「ルーアン、ル・プレ・オ・ルーの河岸の夕日」(1905)は、川の対岸の斜面が光を浴びてネオンのように輝く印象的な光景だった。

ヴァロットンの 「オンフルールの眺め、夏の朝」(191、ボーヴェ、オワーズ美術館)は、高台から海を見下ろしている絵なのだが、海もオンフルールの印象もかなり希薄になっていて、ここでの主役はどう見ても緑の樹木の方だ。
葉をみっしりと付けた木々は熱帯樹林のように生命力旺盛らしく、やがて周囲を呑み尽くしてしまうのではないかと思えるほどの迫力だ。
そういえば、子供のころはこうした植物の力に畏れを抱いたことがあったような気がするし、こんな緑に囲まれて一人取り残され、必死に声を上げても誰にも届かないのではないかという感じを持ったこともあったはずだ。
忍び寄る影、木の霊力、ノルマンディーに来ても ヴァロットンは ヴァロットンだ。  

オンフルールとセーヌ河口」(1901、ル・アーヴル、アンドレ・マルロー美術館)も、やはり高台から河口を俯瞰した構図だが、こちらには港町の家並みや海の感じがもう少しはっきり描かれている。
しかし、あたりは薄暗くもの悲しいような寂しい風景で、手前には理由あり気の男女が背を向けて立っている。
単なる散歩の途中なのか、二人は目の前の風景を見ているような見ていないような曖昧な風情を漂わせており、これから厄介なドラマが始まるところなのかもしれない。
ひと組の男女の心象風景というにはあまりに重く暗い港の光景、本当はそこには、本作品のすぐ横の アンリ・ド・サン=デリ(Henri de Saint-Delis 、1878-1949)が描く 「オンフルール」や 「オンフルールの市場」のような明るく楽しく騒がしい港町特有の活気に満ちた生活があるはずなのだが、ヴァロットンの描くこの男と女がそこへ足を踏み入れることは永遠にないであろう。
その意味で二人がいるのは隔絶された世界であり、港町や海や空に視線を送ることはできたとしても、そこは彼らにとっては ”密室”にほかならない。

最後の章は デュフィ、この展覧会がこんなところまで連れて来てくれるとは思わなかったし、デュフィの海もまたノルマンディーの海であり、クールベやブーダンやモネが見たのと同じ海であったとは・・・
サン=タドレスの丘からの眺め、夕日」と 「サン=タドレスの丘からの眺め、日の光」は、時刻と光の加減によって海が色を変えることを実に分かりやすく教えてくれる。
また、「ヴィレルヴィルのヴェランダ」(1930)は、ノルマンディーらしさは希薄であるものの明るく美しい色がそのまま幸福感に結びついているような好感のもてる作品だった。
そしてデュフィが繰り返し描いた黒い貨物船、それはもちろん ル・アーブルの港を象徴するものであるが、真上に来た太陽の光に目が眩んだ状態をも示すものらしい。
その光で健康を害したのは大変残念であるけれど、黒い貨物船は南仏の 「赤い彫刻のあるアトリエ」(1949)のキャンバスの上にも輪郭として登場し、結局は運命のように画家の生涯について回ることになった・・・

hokuto77 at 22:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年09月25日

進化するだまし絵-3 マグリット、ダリ、エッシャー

(ザ・ミュージアム 〜10/5)
かなりぶっ飛んだ感じの1〜3章を経て、”4:アナモルフォーズ・メタモルフォーズ”の主役はやはりこの3人だ。
マグリットは3点だけだったけれど、様々な実験的作品を見てきた後では 「白紙委任状」の美しい詩情ともいうべきものが印象に残った。

サルバドール・ダリの大作 「海辺に出現した顔と果物鉢の幻影」は凄かった。
画面中央に浮かび上がる巨大な顔はロルカの肖像というが、スーパー台風のようにも見える白い杯状の両側の目は転がる壺と倒れた人物の頭だ。
背景の山は犬の頭になり、その手前には得体のしれない人々がうようよといて、手前の荒涼とした幻想空間には魚のような水たまりも見える。
いったい何という想像力か、あまり好きではなかった ダリを少し見直さなければと思った。

エッシャーは定番の登場、「昼と夜は美しい、「物見の塔は、よく出来ている、そして 「爬虫類」は、とにかく上手い。
もうひとつ、フィリップ・ハルスマンの 「官能的な死」と題された写真は7人の女性ヌードによって髑髏を現出させたもので、このとおりの状況をアナログ的に撮影したのであろうから力作だ。
もしあるならば、是非そのメーキングビデオが見たい・・・

全体の印象としては前回の ”奇想の王国 だまし絵展”と重なるところも多いが、日本の江戸を外して現代にシフトし、”だまし絵”という概念を超えて視覚の常識に挑戦する内容になっていた。
ハンス・オプ・デ・ベークステージング・サイレンス(2)」は20分の映像作品、あまりの混雑と長さで一旦は途中離脱したけれど、あらためて全編を見てその才能に驚かされた。
ダブルベッドほどの台の上に次々と置かれていく小道具と考え抜かれた照明によって、モノクロ画面が思いがけない光景に変わっていく。
雪原、摩天楼の夜景、日本式庭園、月夜の海、そして最後に ”黒い雨”とともに都市が崩壊して廃墟になっていく様は衝撃的で、深く重い余韻を残すものだった。

hokuto77 at 22:02|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年07月22日

デュフィ展-2 喜寿を迎えた ”電気の精”の憂鬱

(ザ・ミュージアム 〜7/27)
本展は、”第3章:1920−1930年代 様式の確立から装飾壁画の制作へ”の 「ル・アーヴルの水上の祭り」(1925)、「ドーヴィルの競馬場」(1931)あたりで、ようやくデュフィ的世界が始まる。
パリ」(1937)にはエッフェルや凱旋門、ノートルダムやオペラ座といったモニュメンタルな建物が浮かび上がり、フランス版「洛中洛外図」屏風のようだ。
西洋絵画の歴史の中でこうした大雑把な俯瞰図はあまり類例が思いつかず、何らかの影響関係があるようにも思われるのだが、デュフィは現物を見たことはあるだろうか。
さらに言えば、ここには「日月山水図屏風」の影響も感じる。

電気の精」も、横長の画面の右から左に時間が流れるところは日本の絵巻物を思わせる。
出展されていたのは1952-53年頃の縮小版リトグラフ(ポンピドゥー・センター蔵)で、2009年に三鷹で見たものと同じだと思うのだが、どういうわけか前ほどには華やぎが感じられない。
それは照明が暗いせいもあるのかもしれないけれど、この数年間のなかで ”電気”というものへの意識が変わったということも大きいのではないか。

この作品は1937年パリ万博電気館のために制作された大壁画で、蝋燭やガス灯から電気へと変わることで夜は劇的に明るくなり通信や交通も飛躍的に発達した、そんな時代の産物だ。
画面中央では巨大なタービンをオリュンポスの神々が祝福し、歴史上の科学者たちが集って電気によって輝く未来を寿いでいる。
こうしたおめでたい光景が77年前にはもちろん、わずか5年前にも何の違和感もなかったのに、今や電気を得続けることのコストとリスクを考えると手放しでは喜べないどころか罪悪感すら覚えかねない、何とも厄介な状況に陥ってしまった。

原発に依存し続ける場合には一体どこまでのリスクを覚悟しなければならないのか、一方 ”脱原発”に進むにしても当面は有限な資源を二酸化炭素に変えて地球環境に負荷をかけ続けなければならない。
再生エネルギーを主電力として活用していくめどが立つまでは、たぶん我々は後ろめたい思いを抱かずに電気を使うことはできないのだろう。
もっとも、今は一時たりとも電気なしでは暮らせないし、常に気にかけている余裕がないのが実情なので、副作用なく後の世代にも迷惑をかけない方法で電気を供給し続ける仕組みを作り上げるのは今現在の最優先の課題に違いない。
それが一体いつになるのか、その時には ”電気の精”も再び微笑んで登場し、今一度こんな楽天的な祝賀会を開くことができるのだろうか・・・

最終の ”第4章:1940−1950年代 評価の確立と画業の集大成”にはバッハやドビュッシーへのオマージュやオーケストラの演奏風景、そして明るい色彩の花の絵が並んでいたが、解説によれば晩年には健康上の理由から屋内であまり時間をかけずに描けるものとしてこうしたテーマが選ばれたらしい。
そんな背景を知らされると、見慣れていたはずの音楽や花の絵が少し違った光を放つように見えてきた・・・

hokuto77 at 22:23|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年07月11日

デュフィ展-1 ”色彩のメロディー”への道

(ザ・ミュージアム 〜7/27)
デュフィ展 絵筆が奏でる色彩のメロディー”は、そのタイトルに引かれて淡い色彩のシャワーを浴びに行こうとすると面喰らう。
もちろんそういった作品も後半には出てくるが、今回の企画はそこに至るまでの過程を、若き試行錯誤の日々の作品や版画、テキスタイルなどで丁寧に辿っていた。

”第1章:1900−1910年代 造形的革新のただなかで” の冒頭の 「夕暮れ時のル・アーヴルの港」(1900)は、暗く重い雰囲気の水辺の風景であり、画家の目は水の上で揺れ動く光の移ろいに集中している。
こうした印象派の影響が大きいものからセザンヌやブラック、マティスなどを思わせる作風までの変化はめまぐるしく、それはデュフィ自身が自らのスタイルを追求する様々な試みであると同時に、当時のパリ画壇の潮流の烈しさをも示すものであろう。
ピカソがそうであったように、たぶん誰もが ”新しい表現”を求めて実験を繰り返しながら右往左往していた。
このあたりでよかったのは 「花のある自画像」(1907)、花を前面に出し自分はその蔭に隠れるように曖昧な姿で描かれた不思議な自画像だが、誰のまねでもない個性を感じさせる画面になっていた。

”第2章:木版画とテキスタイル・デザイン” は、デュフィがこうした分野にも手を染めていたことを示す展示ではあるが、おそらくは生活のための ”仕事”として取り組んだものなのであろう、作品の質自体は特に傑出したものという感じはしない。
しかし、こうした作品の制作過程で生じた ”印刷のずれ”による ”線と色面の分離”が、その後の画風確立のきっかけになったという見立ては興味深かった。
デュフィ芸術を特徴づけるこの手法の ”発見”が偶然によるものだったというのは面白いが、ただその典型例ともいえる作品が近くには見当たらなかったのは残念だった。
そういえば、第1章では マティスの 「豪奢、静寂、逸楽」をとりあげて ”見えるのものの再現から解放した重要な転機”になったと解説していたが、ここも誰もが知っている絵とは言い難いので写真図版くらいつけた方が良かったのではないか。

”第3章:1920−1930年代 様式の確立から装飾壁画の制作へ” のコーナーのメインの場所にあった 「馬に乗ったケスラー一家」(1932)は、前述した ”線と色のずれ”があればもっとデュフィらしく生き生きとした作品になっただろう。
しかしここではスポンサーに気に入られるために無難な選択をしたのであろう、持ち味を生かしきらずに丁寧に描いた分、面白さも躍動感も減じることになってしまった・・・

hokuto77 at 20:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年06月25日

オランダ・ハーグ派-3 ゴッホとモンドリアン

(損保ジャパン 〜6/29)
17世紀オランダ絵画とバルビゾン派という二つのルーツをもつハーグ派の先に ゴッホがいた。
フェルメールやロイスダールの影を感じながら、コローやミレーの影響を受けて活動したハーグ派があったから、だから ゴッホは画家になった・・・
それが展覧会の狙いであれば、とりあえず全面的に賛同する。
だがそこにあった作品は、「馬鈴薯を食べる人々」に出てきそうな 「白い帽子をかぶった農婦の顔」(1884-85)の他は生硬な感じの残る作品ばかりで、比較的大きな 「雪原で薪を集める人々」(1884)は力作だと思うが、雪道を歩く人物は地に足がついていない。
もちろんゴッホの大爆発はこの後パリや南仏に行ってのことであり、その奇跡が起こる前夜の記録として、何がゴッホを画家の道に歩ませたかを感じることはできるけれど・・・

しかし、もう一人の主役 ピート・モンドリアンには驚いた。
もちろんゴッホと同じように、ここにはオランダ時代の初期作品があるだけで、それは全くモンドリアンらしくない風景画なのだが、そこには後年の大転換につながる ”火種”があちこちに埋め込まれている。
アムステルダムの東、オーストザイゼの風車」(1907)は、水辺に風車と木立ちが見える牧歌的な作品で、ヴィレム・マリスに学んだ叔父の影響で絵を始めたということが納得される穏やかな情感が漂っている。しかし、木の幹の縦の線と川面に浮かぶ水草の作り出す横の線には、ただ風景を描写するいう範囲を超えた緊張の糸が見え隠れしているようだ。

ダイフェンドレヒトの農場」(1916)も水辺の風景だが、静まり返った水は鏡のように木や農家を写し、上下対称の幾何学的秩序がそこに表れている。枯れ木の枝も規則性を持つ紋様のように展開し、画面全体を現実離れした色彩の光が包むことによって、それは農場の風景である以上に画家が意図的に構成した作品という性格が強い。
そこに感じるのは画家の冷徹な目と抽象に進もうとする強い意志であり、まだ到達点を想像してみることはできないけれど、いずれ風景画は卒業して新たな世界に入っていく運命であることは確かに見てとれる。

夕暮れの風車」(1917)は、太陽の強い光を受けて周辺部をぎらつかせた黒い雲が鱗のように空を埋め尽くし、そこに巨大な風車が黒いシルエットで屹立している。
それは人間の技を象徴する記念碑とも見える凄味を感じさせる作品で、もしかしたらこの路線で進んで行ってもよかったと思うほどの ”力”を感じさせられたのだが、しかし モンドリアンはこの後1919年に パリ、40年にはニューヨークへと移り、オランダの風景には一顧だにせずに抽象の道を突き進んでいく。

ハーグ派が活躍した1870年から1900年=19世紀末のオランダは、世界中の富が集まった17世紀のような黄金時代ではなく、美術界もパリを中心に回っていた ”脇役の時代”といえる。
しかし彼らの地道な活動が ゴッホや モンドリアンを生んだとすれば、それは300年にわたり絡み合う因縁を解きほぐすような興味深い物語に違いない。
山梨から新潟、広島、下関、郡山と巡回し福井で終わる本展は、その意味で久しぶりに ”作品以上のもの”を見せてくれる展覧会だった。

hokuto77 at 22:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年06月12日

バルテュス展-3 猫たちの王、地中海の猫

(東京都美術館 〜6/22)
”称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠”= バルテュス について、前2回では裸婦像を中心に ”誤解”に基づく妄言を並べたので、それ以外の作品について少し ”称賛”しておこうかと思う。

猫たちの王」(バルテュス財団、1935)は、小さな複製写真で見ると硬直してぎこちない妙な男という感じがするが、現物の画面には不思議な存在感があって、手を腰に当てて立つ男には ”王”と言ってもいい威厳が備わっていた。
人物の硬質な感じは ピエロ・デッラ・フランチェスカの模写を繰り返した成果なのか、このイタリア画家への傾倒とリュクサンブール公園を中心とした一帯への愛着が、バルテュスという画家の通奏低音になっているという感じだ。

牛のいる風景」(個人蔵、1942)は ブリューゲルの四季図に似た趣を持つ作品で、急峻な山に挟まれた谷間につつましい集落が見え、手前の斜面では男が黙々と牛を引いている。木々の緑が美しい風景ではあるが、その中に枯れ木や露出した岩肌が見え、こうした環境で生きていくことの哀歓を過不足なく伝えているようにも思った。
同じ風景画でも 「樹のある大きな風景(シャシーの農家の中庭)」(1960)の方は幾何学的な線が目立ち、それは時代の流れに乗ってキュビズムや抽象に接近としてみたもののようにも思われたが、しかしそれは結局のところ彼が目指すところのものにはならなった。

金魚」(1948)という小品では、幼い男の子とその姉がじっと金魚鉢を見つめている。しかし手前にはこちらを見るネコがいて、重層的な緊張感を孕んでいる異色の作品だった。
バルテュスの絵には猫がさまざまな役割で登場するが、その全てが彼の自画像とは言わないまでも、少なくとも分身として画中に送りこんでいると言っていいのではないか。

地中海の猫」(1949)は、パリにある 「ラ・メディテラネ(地中海)」というシーフード・レストランの装飾用に描かれた作品で、海に虹がかかり、その曲線がそのまま魚になって猫の前にある皿の上にのっかり、それをネコが王のように味わい尽くそうとしている。
このレストランは一度行ったことがあり、軽い前菜のつもりで Fruit La Mer を注文したら生の貝が食べ切れないほど出てきたような気がするのだが、この絵の記憶はない代わりに コクトーのイラストの印象が強いので、別の店と勘違いしているのかもしれない。
ただ、「窓、クール・ド・ロアン」(1951)に描かれた狭い空間は、その時に泊まったリュクサンブール公園に近いホテルの窓辺にあったものと、そこから見えたから眺めた光景そのもののようであり、その小さな部屋を拠点にして クリュニーや ルーブルを見て回った当時のことを思い出したりした。

hokuto77 at 22:17|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年05月23日

バルテュス展-2 ミューズとしてのSetsuko夫人

(東京都美術館 〜6/22)
バルテュスへの ”誤解”に基づく感想を続ける。
全裸の女が大胆に足を広げた 「目ざめ(機」(スコットランド、1955)も、少女が胸を露わにした 「白い部屋着の女」(1955)も、ちっとも美しくないし官能性には程遠く、かといってキュビズムのように技巧や造形上の実験があるとも思えず、率直なところ制作意図が分からない。
しかも、「白い部屋着の女」のモデルは義理の姪、前回ふれた 「猫と裸婦」も ジョルジュ・バタイユの娘だったと聞くと、そんな女性たちを次々に裸にして、かくも挑発的で醜い作品に仕立てあげてしまったことに問題は起きなかったのだろうか。
余計な心配には違いないが、少なくともその父親の理解を得られる裸婦像とは思われない。

《ギターのレッスン》のための習作」(1934)という怪しげなペン画は、展覧会の奥の秘密の部屋で特定の客のみに見せたという作品の下絵で、女教師が少女の性器を弄んで折檻する場面を描いている。
それはすでに ”絵画芸術”ではなく興味本位の ”猥褻物”と考えて間違いないであろうが、他の作品も程度の差こそあれそのような効果を狙って制作されたものではないのかという疑念が拭えない。

しかし、こうした ”誤解”は3階の展示室に行って少し解消する。
そこには 節子夫人(ただしこの時点では日本にやって来たバルテュスの案内役を務めた一女子学生だが)を描いた 「日本の少女の肖像」(1963)などが並んでいて、それはこれまでとは全く違う美しく情感に溢れた作品だった。
胸をはだけながら隠すような 「ハレー帽をかぶった少女の半身像」には、今までに見たことがなかったようなしっとりとした色香が漂っている。
ただ、”Pour Setsuko(節子のために)”と題された 「東京画帖」の映像展示には、そうした美しい作品だけでなく以前の作品と同じように ”はしたない”と思うような挑発的なポーズも多い。
そうなると、もしかしたらこの画家は、芸術のためという口実の下に気に入った女の子を裸にしてあられもないポーズをとらせることを趣味にしていたのではないかとの疑念が再び湧き上がってきてしまうのだが、もちろんその後二人は結婚し長い日々をともに過ごしたのだから、その愛情は本物だったはずであり、”誤解”も甚だしいというところだろう。
それでも、画家とモデルという男女が密室で過ごす濃密な時間の魔力とか、女性を思わずその気にさせる特異な才能といったものが、本展を見ながらどうしても目の前にちらついてしまった。

朱色の机と日本の女」(1967-76)という大作は、バルテュスと節子夫人の共同作業として、また浮世絵的世界への取り組みとして重要な作品ということになるのだろう。
しかしそこにいる人物は不自然な姿で硬直しているように見え、生身の女性としての魅力が希薄なところはこれまでの裸婦作品とあまり変わらない。
その元となった習作や下絵素描にはもっと艶めかしい生命感があるのだが、そこにははっきりと描かれている性器がテンペラの完成作では曖昧になっているのは、バルテュスの働かせたせめてもの抑制として理解すべきなのか。
つまるところどちらが本当の バルテュスなのかは俄かに判定し難く、結局のところ本展覧会で最も魅力的に感じた女性像は 「《横向きの裸婦》のための習作」(1972)だった・・・

hokuto77 at 21:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年05月11日

こども展-1 ピカソの人形、マティスの息子

(森アーツセンターギャラリー 〜6/29)
チラシを見ただけでは アンリ・ルソー以外にそれほどの魅力を感じなかったし、子どもの絵が特に好きだというわけでもなかったので ”付き合い”で行ったという程度だったのだが、期待していた以上に楽しめる企画だった。
本展は第一義的には ”子どもをモデルとした絵” の展覧会であり、そこにはもちろんいろいろな子どもが登場するけれど、それが ”画家の子” であった場合には単なる ”子どもの絵” 以上のものになるのはいわば当然だ。
それは愛する人との結晶であり、画家自身の分身であり、自分が生きたことを次の世代に繋げる役割を担うことにもなるのであって、そのあたりがパリの人々の機微にも触れ20万人の動員にもなったのだろう。

その観点から、とあえて断る必要はないかもしれないが、本展で最も印象深かったのは ピカソの 「切抜き人形」だった。
愛人の フランソワーズ・ジローとの間にできた二人の子、クロードとパロマをモデルにし、また二人が遊べるようにと作った切り抜きの人形は、これ以上考えられないというシンプルな形の面白さと、そこに描かれた顔のくっきりした明快さがいいようもなく素晴らしい。
同じ部屋には ピカソの3点の他に フランソワーズ・ジローの作品も4点あり、ピカソの手法で二人の子のいる場面を描いた油彩は力作といっていいものと思うが、黒板に 「Liberta」と書きつける男の子とマッチに火をともす女の子、そしてその場におけるピカソの不在がどうも気にかかる。

マティスの息子 「ピエール・マティスの肖像」は、ちょっと生意気でひとくせありそうな男の子の顔をアップで捉えたもので、この年代の男の子に特有の自我が感じられる作品だ。
マティスには珍しく描かれた人物の内面が窺える気がするのは、そんな年頃の愛息子が絵の題材になったからにほかならず、その意味でこの作品は二人の合作としてマティスの幅を広げたものだとも言えそうだ。

最後の部屋、”20世紀のレアリスト”にあった ダヴード・ エンダディアン(1944-2005)の正方形の作品 「ヤシャール=アザールの肖像」(1986)は、イラン風の服を着た子どもが部屋の中央のペルシャ絨毯の上に立っている。
肖像とは言っても真横を向いた全身像なので人物はやや遠く、しかし左右が奥に続き右から日が差し込む部屋は、正確な透視遠近法と空気遠近法によって深い奥行きが生まれ、左上に見えるカーテンも見事な質感で手前に浮き出して見える。
最初、右の絵から横にずれて近い距離で見たときにはそれほど感心したわけではなかったのだが、出口付近から振り向いて眺めた時に、その超絶技巧に目を見張った。
室内の空気感を描き出したという点では フェルメールに近いものを感じるし、本歌取りのような要素が散見されないこともないのだが、直立し身動きしない横向きの少年に物語は感じられない。
むしろこの画家の腕を披露する素材としては、何らかのストーリーが入り込む余地のない即物的なものがあえて選ばれたということなのだろうか・・・

hokuto77 at 20:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2014年05月01日

バルテュス展-1 あまりにもあからさまな・・・

(東京都美術館 〜6/22)
”称賛と誤解だらけの、20世紀最後の巨匠”が バルテュスなのだそうだ。
であれば、これから書くことが ”誤解”だらけであっても想定の範囲内として許されよう。
その前に少し ”称賛”しておくと、私は バルテュスの絵には説明のしようがない不思議なパワーが宿っていると思うし、似たような絵を描いた凡百の画家とは一線を画す魅力を感じている。

しかし、例えば初期の 「キャシーの化粧」(ポンピドゥー、1933)を見ると、彼が描いていく絵の多くの要素が既に表れている 「嵐が丘」の挿絵と同じ構図をとりながら、そこには目つきも態度も下品な女が着衣をはだけて立っている。彼女に何か恨みでもあるというのか、少なくとも憧れの令嬢をモデルに描いたとは思えない貶め方をしているように感じられてならない。
鏡の中のアリス」(ポンピドゥー、1933)も、題名の持つイメージとは裏腹に白目をむいた女が、片足を椅子に載せ性器や乳房を見せるようにしてそこにいる。その表現があからさま過ぎる一方で、太いふくらはぎの先には不釣り合いに小さな足がついていて、いったいどこが ”完璧な美”なのかと思う。
エロスの追求、一応これらの絵をそう括ってもいいと思うが、それは純粋に芸術的なものではなく、25歳の野心家が ”いかに注目を集めるか”を狙って描いた話題作りのための作品と見るべきではないのか。

夢見るテレーゼ」(メトロポリタン、1938)になると、やはり少女が無防備にスカートの中を見せる奇妙な絵ではあるが、5年前よりはよほど抑制的になっており完成度も上がっている。閉じた目と開いた足、そこに少女期に固有の特別な世界が表現されていると見ることもできそうだ。
美しい日々」(ハーシュホーン、1944-46)にもスカートの中身が気になるポーズをした女がいるが、手鏡や暖炉の赤い炎がエロスを超えた神秘性を感じさせ、少女の内外に漂う計り知れないものを暗示しているようであり、このあたりには一定の深まりが感じられる・・・ 

しかし バルテュスは懲りない。
「部屋」(1978)や 「ジョルジェットの化粧」(1949)には、相変わらず官能性のかけらもない即物的な裸婦がいて、のっぺりした姿を見せている。
彼は女性の裸体に ”美”を感じてはいないのか、ただ全裸または際どい姿を描きさえすればそれで目的が達せられると考えていたのか、そのあたりがどうにもよく分からない。
ただし、「猫と裸婦」(ヴィクトリア国立美術館、1948-50)は単なるヌード画以上のものといえるかもしれない。女の有り得ないポーズは頭の上の方にいる猫に触発されているようであり、そこにある種の欲望や深層心理が形となって現れ出ている ”可能性”がある・・・

hokuto77 at 21:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年10月20日

ル・コルビュジエと20世紀美術+常設展

(国立西洋美術館 〜11/4)
西洋美術館の1階、いつもは ロダンの彫刻が並ぶホールには立体ピカソのようなオブジェがあり、この美術館の設計者である ル・コルビュジエ(1887−1965)のための空間になっていた。

彼の ”作品”である本館全体を使った今回の展示は、ル・コルビュジエ自身の作品と同時代の芸術家たちの関連作品が代わる代わる出てくるようになっており、建築だけでなく絵画や彫刻、版画、タピスリー、映像等におよぶ幅広い分野に取り組んだ人物だったことが分かる。
当時のトレンドが反映された多彩な作品群は、ル・コルビュジエがかなり器用なアーティストで、また様々な作風に注目して取り入れる柔軟さも持っていたことを示しているが、しかし彼は、ついに自分自身のスタイルを確立することはなかったようにも思われる。

ピカソやレジェの亜流作品はもちろん一定の水準には達している、しかし、見ていく中でいいなと思う作品は他人のものであることが多く、ピカソは別格としても、レジェやフアン・グリスらの画面の強さがあらためて際立つようでもあり、初めて名前を聞いた盟友 アメデ・オザンファンの「静物」もなかなかよかった。
本人作品では、緻密に組み上げた 「女性のアコーディオン弾きとオリンピック走者」、女性のあたたかみが感じられる 「手を組んで」、そして 「二人の浴女と平底漁船」の何もかもが溶解していく感じが目を引いた。


ル・コルビュジエに本館を明け渡し常設展は新館のみで行われていたので、「聖ミカエル」も バウツの 「二連祭壇画」、クレーフェの 「三連祭壇画」も レオンブルーノの聖母子像も、いつもとは違う(しかし地下展示室が出来る前は特別展のない時期にたまに目にすることができた)明晰な光の中で見ることができた。

版画素描展示室の ”イタリア版画展”では、ステーファノ・デッラ・ベッラ「『死』の連作」の中でトランペットを吹き鳴らし、子供を運び、老人を墓に連れ込む死神たちの姿が、常套手段ではあるが強い訴求力を持っていた。

hokuto77 at 21:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年09月05日

プーシキン美術館展-4 ピカソ、マティス、シャガール

(横浜美術館 〜9/16)
”第4章 20世紀―フォーヴィスム、キュビスム、エコール・ド・パリ”には、ルソーを讃える夜会を催して幅広い評価の獲得に貢献した ピカソの作品は3点あった。
いずれもピカソのものとしてはやや弱い感じは否めないが、「マジョルカ島の女」(1905)は青の時代からバラ色の時代に移っていく過渡期の作品で、淡いメランコリックな感じはその両者の美点がよく融合されているともいえる。
一方、ルソーが 「詩人に霊感を与えるミューズ」を描いたのと同じ1909年の 「扇子を持つ女」は、キュビズムの実験的な作品ではあるがいかにもまだ発展途上だ。

マティスカラー、アイリス、ミモザ」は、画面上部から垂れ下がってきているピンクのカーテンのために、花やテーブルや壁などの全てが集められてそこにあるような作品。
何が描かれているとかいうことではなく、ただそこに幸せな色の響き合いがある、それだけで十分だろうと言う声が聞こえてくるようだ。
モスクワにある プーシキン美術館は、エカチェリーナ鏡い離灰譽ションに始まるとはいうものの、特に近現代フランス絵画の収集に当たっては モロゾフと シチューキンの二人の貢献が大きかったといわれている。
特にマティスに関しては シチューキンの ”先見の明”によるところが大きく、まだ評価の定まらなかった作品を積極的に購入したばかりでなく、今はエルミタージュにある 「ダンス」と 「音楽」も、彼が自宅に飾るものとして注文したものなので、シチューキンがそんな発注を行わなければ、マティス芸術を代表するこれら大作はこの世に存在しなかったことになる。

もともと芸術は、特に大規模なものはパトロンがあって成立するというのも厳然たる事実で、少し前は王侯貴族や教会がそうした役割を担っていたのだろうが、現代にあっては ”とんでもない富豪”がその代わりを務めているということにも思い至らざるをえない。
それにしても、純粋な意味では自発的な作品とは言い難いはずの 「ダンス」がそんな影を微塵も感じさせず、シチューキンもおそらくマティスには何も言わずに信頼して任せきったのであろう、そんな幸福な両者の関係があったからこそ、ロシアにこれだけのマティスがある・・・

シャガールノクターン」は、シャガールにしては強くて暗い赤が重苦しい感じを与えていた。
それは、最初は単にマティスの隣に並んでいたからかと思ったが、解説を読むとこの作品は、ナチスによる故郷ヴィテブスクの破壊や愛妻ベラの死の直後に描かれたということらしい。
そうだとすればこの重たい赤は、シャガールの内面から沸き出した怒りの赤であり、鬱屈した思いが描かせた切実な作品だったことになる。
震災でいったん流れたところから復活したこの展覧会、最後の最後まで気を抜けない・・・

hokuto77 at 21:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月13日

没後40年記念 ピカソ、愛と芸術の版画展

(パルコミュージアム 〜8/19)
日本の個人コレクションによる版画展なので、特に圧倒的な作品が期待できるわけではない。
しかし、”1.画家とモデル、2.闘牛と古代神話、3.男女あるいは抱擁、4.女の肖像、5.静物、サーカス、男の顔など” という5つのセクションに分け、その中はほぼアトランダムに並べられているようなので、狭いスペースの中でそれぞれの時期を反映した ピカソの多様な ”線”に出会っていく。

そのなかで中心的な位置を占めるのは ”4.女の肖像”であり、エヴァ、オルガ、マリー=テレーズ、ドラ・マール、フランソワーズ・ジロー、ジャクリーヌ・ロックといった様々な女性たちの面影が、そこには反映されているのだろう。
とはいっても、タイトルで実際に名前が出ているのは ジャクリーヌの2枚だけで、その横顔は美しく整っているものの、 マリー=テレーズの官能やドラ・マールの鋭さ、フランソワーズ・ジローの華やかさといったものは感じられない。
それでも、その穏やかさや静かさには癒される感じがあり、激烈な人生を生き多くの女性遍歴を重ねたピカソが、最後には平凡で幸福な晩年を望んでいたかもしれないようにも思われた。

  芸術とは、われわれに真理を悟らせてくれる嘘である (ピカソ)

hokuto77 at 21:46|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年08月11日

<遊ぶ>シュルレアリスム-2 妻の肖像、異空間へ

(損保ジャパン 〜8/25)
オブジェやコラージュの多かったこの展覧会も、後半に向かうと徐々に絵画の比重が重くなり、シュルレアリスム絵画展らしくなる。

”5.人体とメタモルフォ―ズ” には妻たちを描いた作品が並び、ピカソの 「ドラ・マールの肖像」(徳島県立近代美術館)は、キュビズムによるあり得ない風貌ながら知的で才気ばしった女の魅力をよく伝えていた。
その先の ダリの 「反プロトン的聖母被昇天」(諸橋近代美術館)は、聖母と天使に擬せられた妻ガラの風貌がリアル過ぎて見ている方が気恥ずかしいくらいだったが、マグリットの 「ジョルジェット」(姫路市立美術館)では妻の顔もオブジェにされてしまったようで、無表情な肖像画が感じさせる距離感や体感温度は、前二者とは随分と違うものだった。

キリコ広場での二人の哲学者の遭遇」(ふくやま美術館)は、遠くには蒸気機関車が走る広場の中央で、強い陽射しを受けながら確かに ”二人”が遭遇し向き合っている。
しかしそれはどんな哲学者なのか、確実なことは、この二人の間には絶対にコミュニケーションは成立しそうにないということだ。 

”6.不思議な風景” にも キリコ 「イタリア広場」や、ダリ 「三角形の時間」その他 マグリットや タンギーなどが並んでいたが、それらは全て日本国内各地の美術館の所蔵品だった。集めてみれば、国内にもこんなにシュルレアリスム作品があったのだ・・・

”7.驚異・自然・コレクション” では デルヴォーの 「海は近い」(姫路市立美術館)に再会、さらにその先には ヴィクトル・ブローネル誕生の球体」(岡崎市美術博物館)があった。
半透明の卵形の空間の中で命が生まれている、しかし、やがてそれはとんでもないものになりそうな不吉な予感がするのは、ブローネルという名前に引っ張られてしまっている証拠だろうか。

そして最後のコーナーにはどこかで見た アンドレ・ブルトンの書斎と 瀧口修造の書斎の写真があり、そして 瀧口修造の作った 「リバティ・パスポート」の宛先の中に、本展の監修者である 巌谷國士が KUNIO & SAYURI IWAYA として登場していた。

hokuto77 at 21:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年07月25日

<遊ぶ>シュルレアリスム-1 不思議な出会い

(損保ジャパン 〜8/25)
一般論として、展覧会にどの程度予備知識を入れてから行った方がいいのかはなかなか悩ましい。
予習をした方がより多くのものを得られるし見落としが少なくなるのは確かだと思う一方で、現場での新鮮な驚きや感動が薄れてしまう面もあり、答えは簡単ではなさそうだ。
今回のこの展覧会は、たまたま新宿に行って予定外の形で立ち寄ったこともあって、自分としては思わぬ展開に身を委ねた結果、最後に思わぬオチが待っていた。(だから、同じ驚きを共有したい人はこの先を読まない方がいい・・・) 

<遊ぶ>シュルレアリスム ―不思議な出会いが人生を変える―” というタイトルが示すとおり、この展覧会は普通のシュルレアリスム絵画展ではなく、1920年代の文学者たちが繰り広げたお遊びに発する ”運動”としてのシュルレアリスムを、オブジェやコラージュ、写真なども交えて紹介するもので、彼らの高踏的な<遊び>による偶然性の高い産物は、芸術作品に昇華する前の試行錯誤に過ぎないようでありながら、今となっては ”古典”とも言いうる普遍性をもったものになっていることにも気づく。

”1.友人たちの集い” では、マン・レイの写真で登場人物たちが紹介され、以後も マン・レイがいわば展覧会全体の狂言回しとなって進んでいくかに見える。

”2.オブジェと言葉の遊び” は前半の山場で、マルセル・デュシャンがモナリザの写真に髭を描きこんだ 「L.H.O.O.Q.」、レコード盤の上で回転させる図形が思わぬ奥行き感を生む 「ロトレリーフ」、そして マン・レイが便座と大きな卵を組み合わせた 「トロンプ・ルフ」などが、初期シュルレアリスム運動のなんたるかを示していた。

”3.コラージュと偶然の出会い” には マン・レイやエルンストの作品もあったが、ここでは 岡上淑子のコラージュ作品が面白かった。
瀧口修造が発見したというこの女流アーティストは、服飾関係の仕事の合間にごく短期間制作しただけのようなのだが、「はるかな旅」や「恋の残骸」といった作品は意外性がありながら画面としての完成度も高い。
それに、同じ日本人同士だからということなのかどうか、過度に前衛的ではない抒情性がこちらの波長にも合っているような気がした。

”4.写真の超現実” には マン・レイの 「コート・スタンド」や 「アングルのヴァイオリン」などがあってヌードを意外な形で見せていたが、ここでも日本人の 植田正治に注目した。
「小さい漂流者」などはタンギーの世界に近いけれど、もっと静かで密やかな感じはやはり日本人の感性によるものかとも思った。
そう、このあたりで気づけばよかったのだ、本展の本当の狂言回しは 瀧口修三、ではなく 巌谷國士だったということに・・・

hokuto77 at 21:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年06月19日

エドヴァルド・ムンク、私のベストテン

先日の日曜美術館は、 “夢のムンク、傑作10選”。
ムンクから10点なら誰が選んでも大差ないのではないかと思ったらそうでもなかった。
番組の選択は以下の通り。
1.叫び
2.病める子
3.思春期
4.声
5.マドンナ
6.ブローチの女 (石版画)
7.キス (木版画)
8.宇宙での出会い (木版画)
9.地獄の自画像 (40歳頃)
10.時計とベッドの間の自画像 (亡くなる数年前)

このうち、1〜3は自伝的エピソード、4〜6は縁のあった女性に絡めて紹介され、また 6〜8は版画、9〜10は自画像といったジャンルから選ばれており、この10点でムンクという芸術家の全体像を俯瞰しようとする意図はよく分かる。
おかげで、美人ヴァイオリニストの風貌をそのままに描き出した 6.「ブローチの女」、男と女の宿命のようなものを感じさせる 8.「宇宙での出会い」といった作品にも注目できたけれど、一方でムンクらしい代表作を網羅していない恨みもあり、「カール・ヨハン通りの夕暮れ」や 「生命のダンス」が出て来ないと分かった時には唖然としてしまったくらいだ。

そんなわけで私家版を選んでみると、
1.「叫び
2.「病める子
3.「思春期
4.「
5.「マドンナ
について異論の余地はない。ここに前述の
6.「カール・ヨハン通りの夕暮れ
7.「生命のダンス
を加え、さらに ”生命のフリーズ”から
8.「吸血鬼
を追加しよう。「不安」も捨て難いのだが、「叫び」と 「カール・ヨハン通りの夕暮れ」があるのでそちらに譲り、「絶望」、「灰」、「メランコリー」なども10点という枠の中では遠慮せざるを得ないだろう。

残る2枠には、まず
9.「オスロ大学講堂の壁画
ムンクとしては異質の作品になるが、屈折した遍歴の集大成でありムンクの芸術観や晩年の立ち位置がよく分かる重要な作品には違いない。
一方、ムンクにとっての自画像は、伝記的には重要であっても率直にいえば芸術的な完成度が高いとは思えず、むしろこの画家の別の持ち味を感じさせる珠玉の佳品を最後に選びたい。
実は以前 「白夜」という小品に大変惹かれた記憶があるのだが、どこで見たのか今はその画像も確認できないので、ここでは
10.「橋の上の少女
をあげておくことにしよう。

(ベストテン・シリーズ: ブリューゲルレンブラントフェルメール白隠

hokuto77 at 20:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2013年01月17日

シャガールのタピスリー 再生される色彩

(松涛美術館 〜1/27)
淡い色が微妙に混じり合う シャガールの作品は、大判のタピスリーに変換する対象としては最も難しい部類に属するのではないか。
そこに果敢に挑戦した イヴェット・コキール=プランスという女性の作品と、その元となったシャガール作品が並ぶ展示室は、互いに惚れ込み信頼し合った二人の芸術家の心の交流が感じられるような、そして2人ともが望んでいたことが実現されたと確信できるような空間になっていた。

何倍もの大きさの タピスリーに移すにあたっては、おそらく原画の各部分をそのままに拡大したとしても、効率が悪い上に最大限の効果が得られるわけではないのだろう。
原画を見てからその横のタピスリーを同じ近い位置から見ると、色彩も輪郭もかなり大胆に単純化していることがわかり、その段階ではタピスリーというものの限界を感じさせられてしまう。
しかし、そこから少し遠ざかって作品の全体を視野に入れて見ると、まるで魔法にかかったかのようにシャガールの世界が生き生きと鮮やかに立ち現れる。
それは、おそらく印象派や点描派の色彩分割と似たような効果で、様々な色や形が見る者の目の中で混じり合うことによって、物理的な現実の画面とは異なった像が結ばれることによるものなのだろう。

展示されていた 「原寸大下絵」を見ると、左右反転したミラーイメージが細かく分割されて、その上に各部分の色が記号によって指定されている。
これがオーケストラで言えば楽譜のようなもので、織職人たちは縦糸の隙間からこの下絵を確認しつつ横糸を編み込んで、糸一本分ずつの歩みを長い時間をかけて重ねていく。
そうした大変な作業の成果が天井の高さを生かした壁面に10点ほどあり、教会のために制作されたという 「平和」はその中でも最大の作品で、縦4.1メートルx横6.2メートルにも及ぶものだった。
また、サーカスの場面は華やかで明るく、聖書を題材にした 「創造」は画面上部の光の輪が神々しいほどに輝いていた。

本展はシャガールの リトグラフ展としても楽しめるもので、満月の輝くニースの海岸の上空に花束を抱えた人魚がいる 「天使の湾」は、その中でも特に魅力的なものだった。

hokuto77 at 20:26|PermalinkComments(0)TrackBack(0)