YNH<ヨシダ>苑庭

我が家のバラ栽培

趣味のバラ栽培

<河田一臼先生/初公開作品集>

  読み、大意は<墨場必携>をご覧下さい。
参照コーナー・・・・・<ふざん保管/一臼作品>




m=n190「萬物静観」    n191「鶴亀之寿」    n192「鶴亀之寿」
  n190「萬物静観」        n191「鶴亀之寿」        n192「鶴寿」

m=n193-195「延壽萬歳」
                     n193-195「延壽萬歳」

m=n196「延壽萬歳」    n197「無量寿」    n197「道法自然」
  n196「延壽萬歳」       n197「無量寿」        n198「道法自然」

m=n199「鶴亀之寿」   n200「鶴亀之寿」    n201「鶴亀之寿」
  n199「鶴亀之寿」        n200「鶴亀之寿」        n201「鶴亀之寿」

m=n201「四季平安」    n202「獨坐観心」    n203「心地寛舒」
  n202「四季平安」        n203「獨坐観心」       n204「心地寛舒」



LB183=87-89
n183「獨坐観心」       n187「乾坤輝」    n188「行不由径」    n189「閑中至楽」

LB182=84-86
 n182「麗日発光華」    n184「大道無門」     n185「延壽萬歳」   n186「以閑為楽」

LB178-81
n178「延壽萬歳」   n179「延壽萬歳」    n180「龍飛鳳舞」    n181「以閑為楽」

LB173-77
n173「無量寿」     n174「無量寿」     n175 n176「知足常楽能忍自安」       n177「無心」

LB169-72
 n169「廻心」 n170「百年書法裏萬事酒盃中」  n171「満船明月載得帰」  n172「心到天真」

LB164=166-168
n164「澄心清慮」    n166「長楽無極」   n167「野水無心自去留」    n168「無」

LB159=65=161-63
  n159 n165「上善若水」          n161 n162 n163「大道無門」

LB155-58=60
n155「観白雲幽石」   n156「鶴亀之寿」   n157「萬物静観」    n158「愛閑静」   n160「鶴亀之寿」

LB151-154
n151「春山無伴獨相求 伐木丁丁山更幽」   n152「無心」   n153「巖」   n154「福寿」

LB147-150
n147「観白雲幽石」   n148「一花開天下春」   n149「九天雲静鶴飛高」   n150「坐久収烟雲」

LB143-46
n143「閑不徹」    n144「行不由径」    n145「華厳」    n146「四季平安」

LB136-141
n136「観心」 n137「獨坐山中天地静」    n138「無」 n139「無心」   n140「知足常楽能忍自安」 n141「閑中至楽」

LB131-33=42
n131「花鳥風月」    n132「道法自然」    n133「白雲去来」   n142「樂」

LB127-30=3435
n127「天地無私春又帰」   n128「鶴宿千年松」 n129「日哉月哉」   n130「春在寒梅雪裏枝」  n134「日暮飛鳥還」 n135「真光不輝」



LBmm113-15百年〜
  n113「百年書法中」    n114「行不由径」    n115「獨坐山中天地静」


LBmm110-18=
n110「天地無私春又帰」 n111「萬里無雲孤月圓」 n112「延壽萬歳」   n116「世事雲千変浮生夢一場」 n117「心到天真」 n118「萬物静観」


LBmm107-109無
   n107「無心」         n108「無」         n109「無心」

LB=102-106
n102「柔弱勝剛強」 n103「巣龍栄華極」 n104「安居即楽土」 n105「坐久収烟雲」 ( 106「巣龍栄華極」)


LB=96-101
n96「逍遥思慮閑」 n97「酔裏楽天真」 n98「慎勿望門高」 n99「仁者得其寿」 n100「守道有天知」 n101「虚己而能容」


Nmn82-83-93-95万里・福如雲=
n82「萬里無雲孤月圓」 n83「福如雲」 n93「春風秋風恒好」 n94「性静者多寿考」 n95「幽情楽高簡」 


Nmn=70-75=w150
N-70「更上一層楼」  N-71「人間萬事塞翁之馬」 N-73「静者寿」 N-72「和敬清寂」  n74「更潜礎石下」  n75「水流山静見閑身」



           ◇  ◇   ◇  ◇   ◇  ◇

w70蛙=蛙色紙
    色紙二題〜    「蛙の天下」           「蛙のふる里」


mm=「鶴舞-亀游」並べ
      f002「鶴舞千年樹 亀游萬歳池」 (福原稟二氏表装。左右ともに同じ作品)

M=s062-64
  s064「獨座山中天地静」        s062「無一物中無尽蔵」

M=s056-5863
   s056-063「春在寒梅雪裏枝」         s058「夜静寒巌虎嘯」

M=s055-5761
s055「閑雲野鶴心同靜 瓶水爐香意自如」
     s057「偶来松樹下 高枕石頭眠 山中無暦日 寒尽不知年」
               s061「獨坐幽篁裏 弾琴復長嘯 深林人不知 明月來相照」

M=s052-5459
       s052-054-059  「層舡春近幡龍起 九澤雲閑獨鶴飛」

M=s051-6053
s051-060 「本来無東西 何処有南北 迷故三界城 悟故十方空」
                       s053「心清無別事 静極是眞源」

M=045-4648
s045-s046「幽禽聲自楽 流水意長閑」    s048「渾兮其若濁」

M=043-4950
   s043「獨坐幽篁裏 弾琴復長嘯 深林人不知 明月來相照」 
       s049-s050「本来無東西 何処有南北 迷故三界城 悟故十方空」

M=042-4447
s044「風吹不動天邊月 雪壓難摧礀底松」
        s042「楓葉欲残看愈好 梅花未動意先香」
                     s047「萬事○如花下酔 百年似夢中夜」

M=s030-3334
   作品No.s033 s034=「心到天真」
 s030「萬岳雲晴歸一眸 千年紺碧大摩周 總忘苦樂人間事 湖上閑吟極勝游 永平寺泰禅」

M=s024-2526
   作品No.s024-025「龍翔鳳舞」   s026「風吹不動天邊月 雪壓難摧礀底松」

M=s020-2122
      作品No.s020-21-22「野水無心自去留」


M=s018-1923
  作品No.s018「無心帰大道」   --s019-023「天地無私春又帰」


M=s013-1417
  作品No.s013「山高月上遅」  -017「福壽」-  014「無一物中無尽蔵」


M=s010-12
      作品No.s010-011-012「栄枯事過都成夢」


M=s008-0935
作品No.s008-009「心頭無事一床寛」
       s035「日本晁卿辞帝都 征帆一片繞蓬壷 明月不帰沈碧海 白雲愁色満蒼梧」


作品M=s031-32
作品No.s031「愛閑静」、 s032「至慎」(半切1/2)

作品M=s007-1516
作品No.s015「夢」 、s007「観」、 s016「無」


作品M=s004-6.
作品No.s004--s006 (イメージ字句不明)


作品M=s001-3.
作品No.s001--s003 (イメージ字句不明)




M並べ作品s001-7
  


ys032-34至慎・天真
 s032「至慎」  s033,s034「心倒天真」・いずれも26×68

「基本八十一本」

 河田一臼先生が「基本八十一本」を創りだされた経緯を、ご自身記述されているので次に抜粋します。
◎元来、日本の習字教育は臨書に偏していた。それ以後の書道教育もまたそうである。だから、私も生徒達へ手本を書いて与え、又古典も臨書させた。それしか出来なかった私であった。手本に依らないで、上達の方法はないものかと、常に暗中模索の長い年月が続いた。
 昭和二十四年秋、上京して東京芸術大学に聴講することになった私は、上田桑鳩先生宅でお世話になり、昼は上野の芸大に学ぶこと数ヶ月、夜は毎日十二時過ぎまで先生の墨すりをやるのが日課であった。
反面、書論を東京に求めたが、無駄であった。具体的系統的書論は当時の日本にはなかった。自分はさびしく東京を去った。それから書論を創るべく暗中模索の数年が流れた。
 そしてやっと、昭和二十九年に「基本八十一本」を確立した。
昭和三十年正月には『手本なき自由表現』の可能に確信が得られた。後に「起筆、送筆、終筆、速度の結合方式」を創始、それ以後これを書表現に適用させることに成功した。
 反面、無意識による書の自由表現をも可能にすることが出来た。ここ何年間というものは、書道部員はもとより、書道選択生が楽々と自由にして個性ある表現をしている。思えば遠い道であったが一重に感謝している。意義のあったことを。

 今日の書道教育は一流一派の押し付けではだめである。書風の狭場ではいけない。書風の広場をまず作ることだ。それはあらゆるものへの調和へと進展する。その間に個性が浮き彫りにされてくる。生命の表現となる。即ち書芸術である。そこで目出度く完結というわけ。
 理論は科学であって道ではない。方便としての理論を否定しきれない故に、私は系統的理論を私なりに創っただけだ。そしてこれを利用した上で否定してもよい。そう思う。

                  ★  ★  ★

 河田一臼先生の作り出された「基本八十一本」は、口述して説明すればある程度わかりやすいものの、記述して説明するには極めて難解であります。
 一臼先生の書論書「人生と書道」のなかで、かなり詳しく説明されていますが、ここでは「朝日高書道部20年」記念誌の中で久松俊昭氏が解説している文を写真にて紹介します。
 「基本八十一本」を創出された河田先生の論拠を簡単に言うなれば、筆法・用筆などの固定概念を打破したかったものと思われます。それも東洋芸術の真髄をもつ書道(墨象)のよき面を大切にしながら〜 

人生と書道、81本久松ー81本=1







































人生と書道、81本久松ー81本=2







































人生と書道、81本久松ー81本=3







































人生と書道、81本久松ー81本=4







































人生と書道、81本久松ー81本=5







































人生と書道、81本久松ー81本=6








































人生と書道、81本久松実演81本        人生と書道、81本昔の81本説明図 







基本八十一本を実演する久松俊昭氏(昭和40年)



●基本八十一本=関連作品

V42-53=基本81本  人生と書道、81本あたま白黒・81本  人生と書道、81本構成と追求








 

 
       人生と書道、81本「理」   V21-41=人体〜頒



 



 



 




八十一本 

 

「人生と書道」

V72-2=Bar人生本 



<河田一臼記念館TOPへ>



 この書論の中で記述されている内容が、河田一臼先生の書道に対する姿勢が如実に表れているので要点をかいつまんで次に示します。

<<<書道とは>>>
 「書を通じて道を極むるものなり」私はこう定義し、信じ切っている。専門家としての私はそうであるが被教育者の立場に於いては「書を通じて道を追求するものなり」としてよいであろう。
  人生は死に至るまで求めて止まないものだし、究極はないのであって、仮に有りとすればそれは錯覚に過ぎない。その点からすれば道の極致は存在するが如くにして、実は存在しないものとも言えよう。

  故に有るようで無い無いようで有るものが道であるとすれば、それを極むることのねらいそのものが果たしてどうかとも思われるが然し人間としてこの生命をかけた態度でなくてはそこに必然的に甘い、そして隙の多い生活になりはしないかと思う。
 追求する態度ということになれば、全く謙虚な態度であって目標を常に高次なものに置いて求めて止まない姿そのものである。
 こうしてこの二者を比較するとき、前者は究極であり、後者はそれを希求して止まない過程であると言ってよい。前者は専門的の謂であり、後者は一般的な謂と言ってよいであろう。
 何れも一致すべき点は人生を力強く生き抜くことに変わりはない。


<<<道とは>>>
 学者も宗教家も種々な定義をし、述べている。「神の摂理」と言ってもよいし「仏」といってもよく、キリスト教に於ける「天の父」とも言い、哲学的には「大宇宙の根源」とも言い得よう。
  何れにしても一にして二に非ずと言ってよい。その一から無限大に拡大されている。そしてこの一と無限大は合致しているのだ。仏教ではこのことを「真空妙有」と言っている。「真空」とは純粋無雑であり「妙有」は不可思議に存在し、現れることで全く微妙なのである。

  書道に於いてはこの両者を「白黒」としてよいだろう。絵画に於ける色彩ではない。やり換えを許さない、厳粛なもので一本勝負なのである。敢えて言えば白と黒の対決であって中間的な灰色は許されない。
 東洋の芸術は簡素深遠として永く伝えられて来た。その点書道としては黒い墨一色で白い紙に表現するのであるから全く簡素であり、その人間の意志表現を点と線で構成されている文字で為すのであるが、その文字は東洋特に中国数千年と日本二千数百年の歴史の伝統の上に有り全く深遠そのものである。

 実用に根源をもつ書道は毛筆を使用するようになってからは特に芸術として価値ずけられて来たのであるが、書道は書に止まるのみでなく、それを生活に広く及ぼす。従って大宇宙観と人生が融合すべきだと信ずる。
 この時最早書道は「道」となっている。生活ということになれば芸術と実用は全く一致する訳であるが、この二面を具有してこそ真の書道であって、これは書道の宿命と言ってよかろう。

<<<永遠性>>>
 「人間は短く、芸術は永し」と言われているが、全くその通りで人間の一生は限られている。この芸術の永遠性は特に芸術する者の信念でなければならないものだろう。
 古人も現代人もはたまた未来人もそうである筈である。この永遠性とは人間の生死を超えたそのものなるが故に最高である。書道の白と言い、仏教の「真空」と言い、神の「摂理」と言うもこの永遠性であり、不滅なものを信じての謂と思われる。

 故に「白即黒」であり、太陽は万物を照らし、「真空即妙有」であり、「一即千変万化」なのである。かかる真理を悟得した人間は永遠であり、その人間が表現した書そのものも永遠でなければならない。
 その逆も真なりで、この境地に非ざる人間の書表現は永遠性を欠くのであって、それで一生を終わるとすれば技術の域でしかない。

 芸術において技術は極めて必要ではあるが、技術はあくまで過渡的なものであり、決して到達点ではない。技術を超えたものでなければ道とはならないのである。
 道は全く時間と空間を超えたものであって、その生きた人間が執筆しての書表現はこの時空を超えたものなるが故に永遠性なのである。
 従って永遠性は特に芸術家の生命である。

<<<古典>>>
 文字にしろ、音楽にしろ、書道にしろ、古人の遺産は多い。現在有るもの、失われたもの、それは無数と言えよう。その中で現存して眼に映ずるもののうち歴史の批判を経て価値評価されているものは総て古典として尊重すべきものであることは勿論である。
 書道に於いては石碑、金属、木、亀甲、獣骨、紙等に記録されて残っている。更にそれ等を拓本とし、法帖とし、又写真とし、これ等を対象として手本ともされている。
 何れにしても古典とは過去のもので手本としての文化価値あるものと解してよい。


<<<書の古典のどこを観るか>>> 書は筆致の妙をその内容とし、間架結構及び配置をその形式としており、この両者の調和したのを優れた書としている。
 筆致の妙は運筆の状態から生ずるものであり、間架結構は空間をとって、点や線(書)を構成することで、簡単に言えば文字の形なのであり、配置は形相互の関係である。
 運筆の状態は各様であるが、細説すれば、速度、長短、太細、方向、などの変化であり、又一面毛筆の性能は、弾力、ねじれ、開閉等であって、多数の毛で作製されている筆がこれらの条件を各様にとり混ぜてうまく調和し筆致の妙となる訳である。そして運筆の状態の如何によって線質が各様に変化するのである。

 これが書の内容美であって、例えば人間の精神美なのである。運筆を大まかな言い方とすれば、用筆法とはその細部の状態の謂であると言ってよい。間架結構はは形式美で、人間に例えれば肉体なのである。
 人間は精神と肉体がうまく一体となってこそ人間であることは当然である。それでは何故に人間に例えをとるかといえば、書はこの万物の霊長たる人間のみが表現するのであって、人間それ自体に切実感があり最も身近なものであるからである。
 なおこの間架結構においては点と線(書)の形、この種々な形を持った点と線を組み合わせた一文字の外形、その文字の複合された外形、それは配置へと発展するわけである。
 而して線は一般的に理解されやすいが強いて言えば点はなかなか理解に困難であるともいえよう。点は微妙でしかも帰結点と考えられるからでもあろう。

 そして点にも「観える」ものと「観えない」ものの二つがあると考えられる。これは具象と抽象であって、この二者は別個の姿をとっているようであるが実は同じなのである。
 文字の追求に於いてこの「点」から出発するとするならば最も簡単なのは三角形であって、次に長方形、ひし形、楕円形、半楕円形、などに更にこれ等を個々に複合すれば数多くの形に発展するのである。そしてこれ等の点の延長が線なのであるから、点から線へ、線から点への求め方はいずれであってもよい訳である。

 中国においては古代より「永字八法」なるものが伝えられ「永」字を書道の基礎的なものとしている。これを練習すれば書が上達すると信じられ行なわれもしてきた。
 ところが現代日本書壇中にはこれのみにては要素不足の故をもって基礎的価値を否定するものもあるが、それは創始者の真を解さぬのではあるまいか。おそらくこの創始者は書表現の単純化をこれに帰結したのであって全く書の基礎的なものである。
 只これにいささかの否定されるべき点がありとすれば、逆説的に複雑化への理論不足な立場からの考え方からかもしれない。この「永」字八法なるものはあらゆる角度から考察され、然る後にぎりぎりに簡素化されたものと思考する。
 従ってこれを変化応用させるならば必然的に芸術の多様表現となるわけであって、透徹して考察すればこの創始者の真意がわかるであろう。只この「永字八法」から複雑性に及ぶことに困難がありとすれば、更に複雑なる理論を必要とするであろう。

  ここにおいて私はこの「永字八法」の簡素にして深遠なるものに触れたいために、又芸術の複雑な表現に役立てるために「基本八十一本」を方便的に創作した訳であって、もしこれが客観的に是認できれば幸いである。
 この「基本八十一本」は点と線から成っており、方向、長短、太細、速度、位置、直曲等から平面、次に立体に及んで球を原理とし最後にこれを否定して「無」とし永遠性に帰結したのである。
  この究極は目的であって、大自然と人間の合致点なのである。方便は目的のために必要であり、目的のためには方便はなくてはならない。
 書道史上に於いて見る場合、その時代々々に真に生きた一流はこの根本問題を解決した上の書表現であるようである。時代こそ異なってもその時代に生き、真であり、底を突いた人間の書は永遠でなければならない。かかる観点から古典をも鑑賞、理解、表現されなければならない。


<<<唯物と唯心>>>
 人間の肉体、強いて言えば物質と、精神が合して人間であることは勿論である。人間の表現する書も又これと同じであって唯物のみでもならず、唯心のみでも有り得ない。この両者がうまく調和したものでなければならない。
 書の探求においても運筆という此岸から発して間架結構という彼岸に到達しようし、この逆もまた真である。只この中間的存在は灰色であって明徹を欠くが故に彼岸への到達は不可能なことである。
 かかるが故にそれが如何に現実的であっても永遠性の上にない限り人間を離脱したものであろう。何故なれば人間が万物の霊長である限りにおいて現実と理想の二面を具有して生きているからである。

 書の場合の「白即黒」と「白黒」は同一内容であって、東洋の所謂「以心伝心」なるものがそれであり、これは東洋的文化の遺産なのである。これは文と武の帰結点でもあり、直感とも云い、道なのである。西洋は論理的であり、分析的であるが東洋は綜合的であり、統一的であるとも言われている。
 多様の変化を統一したものを調和と言うがそれを直感するのである。故に論理を含まない直感は有り得ないし直感には必ず論理を含有している。

 20世紀の唯物史観に立った西洋人の中には東洋の芸術を求めるものが多い。書においてもそうであって、ニューヨーク展とかアムステルダム展とか西洋各地に書が紹介されている現代である。
 尚東洋人は西洋を学びつつあるのであって、美術、彫刻、建築、音楽、スポーツ等数多い。かくして世界人類の文化は近接融合しつつあるのである。
 地球上の部分を占める中国及び日本に存続する書道なるものが、よし局部的にせよ、気候、風土の上に特殊ずけられ発展した歴史であり文化であって人間社会の文化遺産としてその本質と価値は絶対に存続すべきものである。
 故に我々日本人の立場からも祖先の遺宝をあくまで持ち続け、それを子孫に伝えてこそ価値ある歴史なのである。言うまでもなく東洋に生き、日本に生活することからしても自然東洋の芸術を愛することは即ち西洋文明を素直に入れる態度でもある。

 この事はこの時代に生き0世紀の感覚で生活することであり、真にして新たなる人間に当然のことでもある。


<<<墨象芸術>>>
 太平洋戦争後、日本書壇に墨象芸術なるものが勃興した。これは西洋画論にヒントを得たものといえよう。
 書道は文字性を素材として来たことは歴史が証明するところであって、時代々々において書体の変遷はあっても文字性という限界線はあるが、この文字性に対して非文字性を挙げる所以のものは、前述の文字性の限界線を逸脱して文字の意味内容を持たない墨による表現が強調されたからである。

 この文字性と非文字性を統一する語は当然「墨象芸術」としてよいであろう。それは墨の具象による芸術の謂からである。 文字性の判然と浮き出ないもの及び非文字性のものを社会は前衛書道と称している。
 非文字性のもの、或いはこれに近いものは強いて言えば絵画的であって、文字性の限界を逸脱して広範囲なそして純粋美を求める態度であるともいえよう。
 絵画にしても写実から抽象へたどる態度と、直ちに抽象表現に向かう態度があるが、主観、客観の批判を超えて美の追求に変りはない。

 書道はもともと抽象である。されば墨象芸術なるものは還元であり、人間性への復帰の姿とも言えよう。永年文字性を取り扱ってきた人間の書表現が固定化し、形式化し、ひいては人間性を失うまでに小範囲の技術のロボットとなった今日、人間本来の個性尊重の立場から書家が本質そのものを求めて止まない、それが墨象芸術の非文字性まで発展していったのであろう。
 非文字性強いて言えば芸術的なこれは感覚の問題であって、それは人類共通面からしても国境がないとも言える。これが文字性ということになれば文字内容を解するという点において範囲は限定される。

 かくして文字性という書道と非文字性表現のそれの将来の結論を出すか否かの問題は別として、賛否、灰色を混ぜて現実はやはり歴史として流れている。
 東洋的のものは線そのものに内容を持ち、余白を残して余情を尊ぶので書道においても線は心線であり、その表現停止は余情である。西洋的のものは面と面からなる立体に意味がある訳であるが、この西洋画家の中には色彩の多様性、立体性を追求した未反対の立場である単一なる「白即黒」の点と線の平面の世界に関心を持ちつつあること、それが又芸術家だけでないところに20世紀から21世紀への移り変わりが特に目立って観えるようである。


<<<平凡>>>
 未分化な幼児から分化を経て不知不識の死に到る人間の生涯、言い換えればそれは平凡から非凡を経て平凡に帰着するとも考えられる。人生の究極を平凡とするならば、若くしてこの目的をはっきりつかんだ人間くらい有意義なものはあるまい。
 非凡な道行は難行であるかも知れないがこれを克服した挙句到達する境地は最早易業と言ってよいであろう。だがこの平凡に帰した易業なるものからは冴えた表現が自然と生まれるに相違ない。この平凡は荊の道を経て達した境地で未分化の平凡とは全然異なったものなのである。

 かくして道は平凡であり、技術は非凡に帰するであろう。勿論道から自然生まれる技術は超非凡とも言うべきもので、全く微妙にして外に現われぬだけ捕らえがたいが、余情とか余韻として他から感受し得られてもそれが何から発せられるかはうかがい知りがたいものである。
 道から生まれる技術は極めて高度なものであり、平凡はかくまで人生を決定付けるが故に極めて厳粛である。

<<<視聴覚>>>
 最近視聴覚教育をやかましく取り上げている。視覚は目により、聴覚は耳によるものである。書や絵や庭園や建築等は視覚、言語や音楽等は聴覚によるものでこの二者は人間の五官の主なる働きと言ってよい。その他に臭覚、味覚、触覚がある。
 人間の五官を超えたもの、それは六官の働きで直感とはこれを言う。このことは既にお釈迦様以前からのことで、視聴覚教育の重大さは今更のことではないが、急テンポの近代文明に一応取り上げられ人間教育に重大視されるのはもっともなことである。それは彼の般若波羅密多心教をひもとけば釈然とするわけである。

 強いて説明付けると物体の移動する速度よりも音の速度が大であり、音の速度より光の速度が大である。さらに「閃電猶遅し」に至っては光の発する以前の速さであろう。
 これは「機先を制す」のことでもあろう。現象が展開される瞬間は既に遅いのである。心眼とは透徹とか明徹であって光明である。光明は光の発する以前のものである。
 視覚といい、聴覚といい何れを主体にするにせよ、副にするにせよ起因するところは素質と鍛錬による人間の能力となる。しかるが故に芸術においては格別に感受性の鋭敏を第一義とすべきである。


<<<鑑賞と理解と表現>>>
 鑑賞とはすぐれたものを味わい愛でることであり、理解とは道理上より解することであり、表現とは具象することであって、この三者は相互に関連性があるのである。
 古人の筆跡にせよ、現代人のにせよ鑑賞するに当たっては心眼によって観照するのである。千変万化の表現技術とそれを生んだ根元を捕らえることは心眼の開けた人間によってのみ可能である。
 書に対して、これが如何なる運筆によって出来たか、その人間性は如何であったかを尋ねるのは道理によってのみ可能といえよう。

 かくして真理は人間を超えて不易であり、之を愛する所以でもある。昔から「真」「善」「美」「聖」といっているが、これらは面の相違からの謂であって究極は一に帰するものである。また身体的には健康でなければならぬし、精神的には「知」「情」「意」に分け、更に社会を加えて人間を考察しなければならない。即ち心身社会からの人間でなければならない。

 こうして社会的生活をする人間はその時代の社会環境に自然影響を受けるものであって、その人間が表現する書もまた、その時代の産物でしかない。
 時代と書、書と時代とは全く不即不離の関係にある。人間は常に安定を求めようと欲している。それはメトロノームが中心を経過して左右するが如くに。いかし中央に停止することなく。生きいき発展の人間の歴史もこの通りであって、それは又流れ行く水の姿でもある。

 故に書においても自然の運筆でなければならないし、書が時間的芸術であって音楽的分野に位置する所以でもあり、形態は絵画や彫刻や建築に類する所以でもある。而して運筆の無理は永遠ではない。この永遠性を水や空気にたとえるのはむべなるかなである。
 だが自然界そのままの大芸術は造物主たるものの司るところであり、到底人間のよく為すところではないが、人間の芸術においては自然物を取捨選択して整理し、合法化したものでなけれべならない。
 往古以来、大自然に対した人間がそれを集約したものの一つに書がある。

 20世紀の文明は実にこの整理の極限を求める時代であって反面また、文化に培われた人間が人間自体のそれによってややもすれば失われんとする傾向に対し、人間性をとりもどさんとし、人間となる、いわば原始還元の時代でもある。
 ここに新しき芸術は展開しつつあり、現代書の新鮮味と本質がある。それこそ各時代に優れた書を出した人間は、その時代での人間追求の姿であった筈である。
 所詮は書もまたその人間以外なものではない。書は人間性追求の歴史の遺産といってよかろう。


<<<方と円と方円>>>
 方は四角であり、円は円形である。方に属するものに三角形、四角形、菱形などがあり、円形に属するものに紡錘形や円形等がある。方円とは方と円の合致したものである。
 精神上の方円は自由自在を意味し、また千変万化を言う。方円の器にはしたがいながら、岩石をも通すのは水の力なのである。
 これが清濁併せ呑むという偉大なる人間の例えでもあって、彼の大陸中国に於いて広漠たる土地と五億の民と数千年の歴史からの遺産である漢字で書かれた書の規模の大きさでもある。

 従って漢字書が一般に男性に好かれる所以でもあり、我が平安朝に勃興した草仮名(平仮名)の優美が一般に女性に歓迎されてきたのと対照的といえよう。
 所謂南船北馬。中国に於ける揚子江を境としての南、北の書風に於いて見るに、一般的に北方書は圭角多く、巍々と聳える絶壁の山は、寒冷いや増す土地に於いて生活する人間が不倒不屈なる意志力こそ旺盛であって、それが書風の特色となっている。一方南は気候温和にして、地味肥沃、従ってこの地方の人心は豊潤であり、書もまた一般に円満にして温厚なるものが特色ともいえる。
 この気候風土と人間と書に関して当然日本にても言い得ることであって、北方の大胆峻烈なるものに対して南方の温順緻密さは容易にうかがわれるのである。


<<<運筆>>>
 運筆を大別すると虚線(画)と実践(画)の二つからなる。虚線は空中に、実践は平面上に描かれる。そしてこの両者は貫通されなければならない。これを筆脈の貫通と言う。
 筆脈の貫通は即ち気脈の貫通であり、気脈の貫通はとりもなおさず精神の一貫性なのである。精神の一貫性は書道においては「白」ともいうべく仏教においては「無」であり、芸術における「美」である。
 書道に於ける「黒」とは千変万化の働きを指すのであって、「白」に徹することは「黒」に徹することである。そして「白」と「黒」の関係はいささかのずれもなく全く一なるものであって、「白即黒」なのである。
 従ってこの「白」の時間的継続の間においての運筆であれば当然気脈(筆脈)の貫通がなされる訳である。この貫通こそ精神的陶治の価値であって、貫通をいささかでも阻害する概念があり又それで表現された書の価値は減少するわけであって、極上価値なるものは無雑なる精神状態から運筆された書でなければならない。

 この純粋無雑を損なうものは意識作用である。
 新しい目標を樹立する場合、或いはその方法などにおいて当然意識作用によるであろう。だがこれは究極点に至る段階であって帰結点ではない。究極を完成作品とするとき、それは未完成作品と言える。
 然し人間の成長即書作品とするならば完成作品そのものが未完成作品であって、完成作品とは一応完成したものとして打ち切ったに過ぎないともいえよう。

 かくして真の貫通なるものはいささかの意識をも棄却しなければならない。あくまで超潜在意識の持続を理想とするのである。超潜在意識とは無意識を更に棄却したもの、即ち絶対無でこれを「無」といい「白」とも言う。
 このものから必然的に生ずる運筆状態が虚線、実践を通じて千変万化の働きを為すのであり、この筆の働きは還元すれば執筆するその人間の能力であって、ひいては日常生活へと発展するのも当然なことである。
 かくして書道とは「書を通じて道を極むるものなり」と定義した如く、筆の修練の結果は道へ拡大発展され、人間と生活が一致すべきものなのである。
 書道もまた人間育成に価値を有する簡素にして深遠なる芸術である。

 運筆法は用筆法と相俟って、筆の弾力、ねじれ、太い細い、方向、長短などにより多様の変化を生じてくる。勿論筆軸の角度の多彩も如上の変化に関係あることである。
 なお虚線と実線とは必然的な関係においてあるのであり、実線の可否は虚線の可否であり、虚線の可否は実線の可否と言いうる。
 即ち虚実は一体のものとなるであろう。


<<<書道と人間形成>>>
 教育上の問題も多岐であって一概には断言できぬが、端的には「人間が人間によって人間になる」のであって、この為に施設、文化財、目標、方法などが考えられ、実施されているのである。
 勿論、人間はあくまで人間であって神や仏には到底なりえない。人間は先天的である祖先の血を受け、後天的な社会、家庭、学校などの教育によって成長するのである。
 書道は書を通じて道に至るものであり、道とは人間の当然たどるべきものなのである。書を知行することにより自然に道に合致するものなのである。
 人間の時間的推移が成長であり、その歴史であって、あえて言えば未完成の道程なのである。故に書においてもその人間の現在の境地での価値表現しか出来ない。
 だが「真空」と言い「虚」と言い「白」というそれは、絶対性であって、これを否定して人間は生きて行けない。ましてかかる場合芸術の永遠性とは無縁でしかない。
 芸術の美は人間社会に絶対に必要不可欠なものである。そして人間社会は調和の世界でなければならない。

 私はこう言う「平和は念願であり、されど現実は斗争である」と。人類の希求して止まないものはあくまで平和なのであるが、しかし武力行使如何にかかわらず、精神面においても常に斗争が自己の内外に行われている。それは善い意味においても、はたまた悪い意味においても。かくして地球上における人類の斗争は宿命的なものではあるまいか。
 されば我々人間生活の問題を解決し平和への手引きとも生り得る書道たらしめたいものである。書道における「白」は「悩」も「塵」もなき姿であってこれは「楽」な平和境なのである。この境地の作品を一応完成品として終わる。

 次に作品傾向を変えたいと念願する時、期せずして「悩」というか「意識」というか最早純粋の「白」ではなくなる。これは向上のための「苦」でもあろう。そして考察の極点に到って意識作用を払拭し終わって「白」となり作品が一応完成すると、この作品は前の完成作品と比較して姿が変わっている筈である。

 こうしてこの「苦」「楽」の心境が次々と繰り返されてゆき重なる時、最早「苦」「楽」の線を超えるであろう。そして「白即黒」としてきりつめた短時間の中に表現も多様に変化し、一枚一枚の作品も異なるものが続出する。又連度により疲労も軽減されるのではあるまいか。
 次々と飛躍する作品、謂わば「白」の状態が時間的に長ければ長いだけ日常生活における習慣となって、常人の世界とは別箇な世界にあるであろう。だがこの飛躍をきりつめた世界は平凡に帰するのではあるまいか。

 東洋に於ける簡素にして深遠なるものそれはかかるものをも指すであろう。故に「苦」と「楽」が合致してこそ真の人生といえよう。されば矛盾を解決せんとするのが人生とも言える。
 この人間が表現する書なるものは、その人間の能力だけは可能であって、これこそ真実であり、それ以上も以下もない。実に平凡なことである。私はこの平凡を仰いで止まない。
 この平凡から生まれたであろうところの「風信帖」は平安朝の三筆の一人である弘法大師が伝教大師へおくった書翰文で現在は国宝である。これは書道に於ける芸術性即実用性たることを如実に語る一例として有名なのである。
 だがこの平凡の底には偉大なる非凡が蔵されていることは勿論である。平凡こそ永遠であろう。

<<<基本81本>>
 内容については、別途コーナーを参照してください。


<実施の材料>
線の上を伝って描くのであるから、半紙二・三枚を重ねるか、強質の紙か、ガラス板などが良い。また硬筆(チョーク)、鉛筆などで行なっても良い。即ち基本実施方法は
  ー蠅覆匹砲洞中に実施する。
  ∧調磴砲胴圓覆Α
  3眼にて行なう。
  ぐ幣紊鯤9腓靴胴圓覆Α
この際材料は不用であるし、何時にても、又如何なる場所にても実施できるから便利である。

<発展と価値>
この基本81本は各方面への発展を意味し、平面からやがて立体に及ぶことを示唆している。
されば書の面にのみ止まることなく、森羅万象に向かっている。尚この構成は論理的に出来ており、実施に当たっては意志力と継続が必要であり、応用においては直観力の鋭敏と実行の迅速が養成される。
いわば古人から重要視きたった「知行合一」が理想的になされる訳であって、人間性は高度に向かうのである。勿論スポーツ、音楽、美術、彫刻、建築、庭園、華道、茶道、柔道、剣道などに於いても発展性と価値を含有している。
この基本を完全に行なうには頭が「無」でなければ不可能であって、「白即黒」が基本の帰結である。この基本を行なうことは一見迂遠の如くであるが実は生活の最短距離であって、書道に於いても各流派を含有し、しかも超流派としての道であり、中国五千年、日本二千数百年の書道の基礎でもある。
これによって鍛錬された自己の心眼で、あらゆる作品の鑑賞と批判と理解と表現は始めて可能なわけである。

<平面と立体>
紙やその他の材料に毛筆で表現される場合は平面運動であるが、毛筆の弾力がある場合筆は立体的に動く。なお虚線(点)と実線(点)の連続の運筆経路からすれば立体運動なのである。
書表現は平面上に描かれるが、それが深遠であると感受することはこの立体感に立脚し、更にそれを超えた人間の表現によるもので、この反対をも容易に伺うことが出来るのである。

<具象と抽象>
具象の線(点)は観える線(点)、抽象の線(点)は観えない線(点)で、これは丁度算盤における珠算と暗算の如きものであって、具象即抽象、抽象即具象でなければならない。
特に抽象の点、謂わば「基本81本」に於ける中心Oに打つ点Cは心眼ある人間によってのみ可能なのであって、所謂「最後に一手あり」という背水の陣の構えともいうべきものは透徹した人間の極点である。
この東洋芸術の簡素にして深遠なる所以のものである。私の書の原理は球である。人もしそれに外接する立方体(或いは多角体)であると言わば、私は更にそれに外接する球であると無言の声を発するであろう。かくして私は常に永遠を求める。

<筆の角度>
書写する場合の筆の角度は自由でなければならない。
図“庄図〜小円 





   図
 図,砲いて、筆 A O を平面に置く。穂先のO点を固定して、筆軸をAECGBに移動すれば、筆軸の頂点は半円周を描き、筆先は半円を描く。更にこれは立体的には半球となり、ひいては球となる。
平面書写の場合、筆の動きの極限は半球であるから、その中に於ける任意の角度において運筆すればよいわけである。
                     
 次に角度の三つの場合を示す。
  図.
     図
 尚筆心と平面の角度を示さないで次の三方法によるものもある。
筆を引く。    Hと呼称
筆を垂直にする。 Sと呼称
筆を突く。    Tと呼称

図. 図
これらH、S,Tの動作を個々に、あるいは連合して運筆する。例えば「Hにて直a」、「Sにて表曲c」、「Tにて裏曲a」とし、連合としては「HSTの順にて直a」、「STの順にて直c」の如く呼称して運筆させる。尚穂先の経路の条件も与える。


<支点の固定と移動>
 固定の場合、執筆点をPとする。支点のPを固定して穂先を描かれるべき直線AOBの中心を通して運筆すれば紡錘形A'MB’Qが出来る。

 この形において運筆PO即ち平面に直角をなす場合において出来る巾MQが最広である。
 筆のことを筆鋒ともいう。鋒を刀剣とする場合は深く斬り込むわけであるが柔らかい毛は曲がって面に拡大される。故にこの場合、「深く入る」ということは「巾が広い」ことであり、「巾が広い」ことは「深く入る」ことである。
 所謂「筆が入る」という感じを図は理論的に説明したもので、只「筆が入る」と感ずるのは主観的であり、経験の深い者にのみ可能でしかない。

 従ってこの図示は客観性への方便の一例に過ぎない。この主観と客観の合一点が、書を通じての道の体得なのである。この方便により目的に達し得るし、目的には方便なくしては達し難いのである。ことに現今の教育は教科目数において、又限られた時間、年月におかれている故に可能な限り「時間と距離を短縮せねばならない。更に、現20世紀の急速度の文明に生活し、限られた人生に意義を求めるならば、当然最短距離でなければならないし、科学的であり系統的でなければならない。

最短距離の反面「迂直」ということがある。「迂」は遠回りを意味し、時間的には遅い意もあろう。これは所謂「ゆっくり急ぐ」ことであって、前述の「時間と距離」の短縮と、「ゆっくり急ぐ」ことの二者は矛盾のようで実は矛盾ではない。この矛盾を逃避せず、前進して解決する。かかる人間こそ現代人類社会に生きる人間と信じている。かくして人間は生き抜くべきである。
図ぁ檻図ぁ檻図ぁ治 

図ぁ檻

 支点Pを固定して筆先にて円周を描いた場合は図ぁ檻韻稜,になる。即ちこのとき筆全体の動きは円錐をなす。想は立体に移行したわけである。移動の場合、筆を垂直にしたまま平面に円周を描くと図ぁ檻欧稜,円筒となる。

 かくして筆全体の動きは立体であっても、書写されたものは平面である。故にこの平面描写から立体の深さ、高さを観るべきであり、この高い、深い立体から淡々たる平面表現がなされなければならぬ。之平凡にして非凡、非凡にして平凡であって、人間の理想であり帰結点でもある。

<動きの極限>
図.
 図イ狼紊乏粟椶垢詢方体であり、更にそれに外接した球を示す。かくして書の原理を私は球にしている。
 人もしそれに外接する立方体(或は多角体)であると思考するならば、私は更にそれに外接する球であると無言の声を発するであろう。
 かくして方円は自由であり、千変万化であり、永遠である。


< 投 筆 >
 投筆とは支点から指が離れた状態である。
弘法大師が応天門の額に投筆によって、点を打ったと伝えられるが、真偽は別として古人の透徹が汲み取れるわけであって、大師の自由な書が如何に絶していたか。
 こうして日本はもとより中国の書道史に挙げられる者と、優れた能書家の書は存在すると否とにかかわらず不滅であり、永遠である。現代を超えて歴史の審判は実に厳正である。

< 形 >
 書の形に論及すればまず点と線の形があり、更に一文字の外端を直線或いは曲線に結んだ形があり、更に二文字以上を連ねた形があり、これを団とすれば、次に団と団の連合による形があり、この最後的なものを全形と呼称する。
 なお点の延長が線であり、その点と線で出来ている文字においては、点や線から拡大して全形に及んでもよいし、全形から縮小して点に至ってもよいわけで、この二方法の何れをとっても帰結するところは一である。
 ここでは点と線から拡大して考究したい。

 〇鯵儼
鋭角三角形
 イ.鋭角三角形



鈍角〜長保〜閉口 ロ鈍角三角形


 ハ直角三角形



  菱形


  D絞形


  な森垰擁娵
 

梯子〜円
ツ形(台形)



 λ多邨繊僻勝



 П澤繊僻勝
  以上は点(線)の形の先ず代表的と思われるものをあげ、その各々が八方に働くことを示している。
 この外に多数の形、或いはそれらの複合形が考察され、之が発展して全形となるわけである。これらの代表的な形を筆で描くことはなかなか困難であるが、目標を正確さに置くことは極めて重要であって、必然的に運筆法(用筆法)が的確に行われることになる。
 これ等の形を表現するには、一動作の運筆が良い。しかし中にはどうしても二動作、三動作を必要とするものもある。
 各々の点線の形を基本の方向に当てはめる時、<・中心から外へ、・外から中心へ、・中心を経過する>の三つの場合が考えられる。


<一文字>
 一文字の外形は種々あるが、之を書写する場合重要なことは筆脈(気脈)の貫通である。如何に形が整備されても筆脈(気脈)の貫通を欠けば所謂「死んだ書」であり、貫通した場合は「生きた書」なのである。
 書における形は外形美であり、運筆は内容美の二つに分けて考えられるが、この二者の調和が傑出した書なのである。

次に一文字の外形を述べる。
人生と書道図 図
(1)三角形 

(2)菱形 


(3)長方形 


(4)平行四辺形 



台形
(5)梯形(台形)


(6)紡錘形


紡錐〜半円
(7)半紡錘形


(8)円形


(9)半円形



< 団 >
 二文字以上を連ねた形、即ち団において一文字にもそうであるが如く、端正な形と歪みの場合の二つがある。
人生と書道図人生と書道図
 図 ─    図  


 三文字以上の団の外形も之に準ずる。而して、各々の団からなる全形も同じである。
 形のとり方には二方法がある。
一つは出来上がった文字、団の端々を直線あるいは曲線で結びそれによりできた外形と、今一つは外形を先ず意識しその中に文字、団を当てはめるのとである。




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