M72-2=帯・かえりみれば表紙


かえりみれば表紙




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  随筆「かえりみれば」  書家 河田一臼著
  (昭和53年7月1日発行 三隆印刷株式会社)

目次                 頁 
1. かえりみれば ………………1   
2. ふ る 里   ………………3
3. 腕 白 時 代    ……………8  
4. 師範学校時代 ………………17
5. 海 軍 生 活………………25  
6. 小学校教師時代 ……………32
7. 師範学校教師時代……………38  
8. 女子商業学校教師時代………72
9. 書道 芸術 探求………………80    10. 新制中学校教師時代………93
11. 高等学校教師時代 …………98    12. 現役教師退職後…………140
13. あ と が き  ………………180    14.  略   歴   ………………181


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1. かえりみれば

 私は四十数年間にわたっての教師生活をした。
 何故に教師を選んだか。家庭が貧困なために官費支給のあった師範学校に学んだ。今一つは親友がこのコースを選んでいたので、その影響を受けた。尚幼少の頃から家庭環境に恵まれなかった苦難の中にあったが故に将来人間の精神面、即ち教育の場において社会に奉仕しようという少年時代の純粋な念願からでもあった。
 師範学校卒業以前にどうしても一つの専門科目を持たねばならぬと痛感し、考え抜いた末、遂に書道に生命をかけることにした。以後五十年近く書に対しての右往左往の暗中模索がひっきりなしに続くことになったのである。
 昭和十年に文検(習字)に合格し、こおどりして喜んだものの、ここではたと書風究明という点で行詰ってしまった。この問題で苦悩すること実に十数年を費した。
 この間、六ヶ年にわたっての朝鮮慶尚北道大邱師範学校勤務の思い出の数々は戦前、戦中のこととて生涯決して忘れることは出来ない。敗戦直後に上田桑鳩師に正式入門し、書の創作活動及び研究に専念したものの、其の間、師の膝下での鍛錬は非常に厳しいものであった。時あたかも日本書道界は東京を中心として暗中模索時代であり、又黎明期でもあった。師の組織下にあって私も及ばず乍ら積極的に活動し続けたのである。
 幸に奎星会展、書道芸術院展に上位入賞を度重ね、日展特選となり、やがて奎星会展、毎日書道展、日本教育書道連盟展、県展等の審査員となり、諸外国への出品もした。
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 最も印象に残るのは河井書房刊行の書道全集第十二巻「鎌倉以後の書家」に掲載されたことである。それにも増して祖先の墓碑を揮毫し、建立したこと。これは筆を執った生涯に一入の意義を感じたのである。

 戦後直ちに岡山県内書道家で「書の美研究会」を結成し、次に「墨象会」を設立して代表となり、後に、「玉龍会」を創設して会長となった。
「玉龍会」は人間尊重の基盤に立って、芸術の広域(書、墨象、絵画、写真、陶芸等)を希求し、延いては福祉活動に及ぶ。この会は客員と会員からなり、現在百三十名。実に誠意の集いなのである。
 現在の日本は流動激変し、洵に多事多難であり、常に不安を感じる時、「玉龍会」は私にとっての生き甲斐であり、オアシスでもあり、この世のよろこびである。
 昭和七年以来、四十数年に及ぶ私との因縁によって生まれたこの会の客員、会員の諸賢に対して深謝して止まない。
 現役教師を退いて七年、私には書の生活だけが残されている。今日までよくも筆を持ち続けて生かされて来たものと思い、感謝にたえない。
 反面、長年にわたり家族を犠牲にしたことを考えると心が痛んで仕方がない。特に妻に対しては詫びる言葉もない。
 運命の星の下に生れて来た私が、世間の皆様の愛情に抱かれて尚書の旅を続けようとしているのであるが静かに来し方を振り返って見たい。


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2. ふ る 里

  雨よ 風よ 山川よ  ああ ふる里は なつかしく在り

 生みの大地は永劫に存在する。人は生れ、そして逝く。人の心はあてどもなくうつろう。然しふる里の自然は厳然とある。
 昔の高梁川の流れは清かった。この川の西岸の家(屋号を中屋)に私は生まれた。この川をへだてて東に酒津の山があり、この山の東と西に高梁川が流れていた。私のふる里は岡山県浅口郡船穂町柳井原。自然の環境は人をつくる。私は少年時代からこの川にひたることが多かった。夏などは一日中遊びまわって陽やけした体は夕闇の迫る頃になると、その前後が人目に見分けがつかず、ただ眼がきょろきょろすることによってのみ僅かに判別できた。
 川は私に水泳を学ばせた。後年師範学校に入学すると同時に水泳部に入り、千五百米の選手になったのもこの環境がもとであった。
 当時、岡山県下でプールがあったのは、旧制第六高等学校と東山プールの二つだけであった。現在では山村僻地の小、中学校にさえプールがある。全く今昔の感一入のものがある。

 小学校一年生の夏のこと、浅瀬で砂を蹴っていたらずうっ、ずうっと流されて、水に溺れたことがある。水中で呼吸は困難となるし、水はぎらぎら光るし、これで死ぬのかと思った。幸に川の下手にいた上級生Oさんに助けられてほっとした。命拾いしたこの頃からやっと泳げるようになったのである。
 或年の夏、同級生のA君が水に溺れたのを助けたことがある。けれども彼は其の後病死してしまった。子供心にも私は人の世の運命を知らされたような気がした。
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 毎年梅雨時になると、高梁川はよく氾濫した。濁水はごうごうと音をたてて流れ、藁ぶきの家や材木等が次々と流れるさまは実に恐怖でもあった。
 私の家も二度ほど浸水したことがある。其の時には懇意な人から水見舞としておいしいえんどう飯等をいただいた。少年の私に人の情けがとてもうれしかったのである。

 姉が後年私に語ってくれたことであるが、私が三才の頃「学校へ行く」と言って風呂敷包を脇にかかえ一人で堤を走って行ったと。幼少の時から勉強が好きだったのであろう。
 昔は今と違って、そんなに勉強、勉強とせき立てる時代ではなかった。特に田舎のこの小学校では宿題も余りないので下校後は遊びさえすれば良かったのである。
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 不幸にして母は私の数え年八才にして他界した。死期にのぞみ母は私を抱きしめて離さなかった。この私を遺して別れたくなかったに違いない。母に対しての追憶の今一つに、その背中におんぶされて高梁川を渡し舟で渡ったこと、更に共に風呂に入ったことがある。私が生れた頃は家も富有であり、誕生祝いは村中では先ず最高であったそうである。ところが祖父母の子が三人いて、男一人、女二人であった。男一人は過保護として育てられた。それが私の父であった。私が物心ついた頃には祖父はすでに亡くなって祖母は存命であった。
 祖母の過保護が原因してだろう、父は生涯我儘勝手にふるまい、家庭生活はそっち退け、人生には失敗した。長所とするところは浄瑠璃や歌舞伎には秀でていたし、潜水に長じていた。謂わば心臓が強かったのである。父は私に対しては全くの放任主義で、教育には無頓着なのであった。従って私はこれ幸と下校後は直ぐ家をとび出して山野を駈け廻ったり、川遊びにひたるのであった。この当時をかえりみれば実に良かったと思う。だがこの反面、野性的であり、自然児であった私に家庭の躾がなく、無教養、非常識のために人様に数々のご迷惑をおかけし、妻に心配をかけて来た。ここに親の教育の大事であることをつくづく感じるのである。

 小学校時代は腕白な私であったが、毎年優等賞はいただいた。だが家ではこれを賞めてくれる者はなかったのである。然し隣村へ嫁いでいた伯母が一人だけがこれを祝ってくれた。この伯母は死去する一年前には頭が狂っていた。或日私が訪ねて行くと、病床に寝たままの伯母が「一夫や、敷布団の下にお金が三十円あるからやる、取れ」と言ったので私は大喜びで捜したがなかった。この時、はっと気がついた。ああ伯母の頭は正常ではないのだと。けれども私に対しての愛情は伯母の心底に常にあったのだ。私は拝む気持ちで一杯だった。当時の三十円は現在の何万円かに相当する。いや金の高ではない。人間の愛情が大事なのである。精神は金や物だけでは解決出来ない。
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 孤独に生れ来た私は今も次の歌を思い浮べる。

 名僧行基菩薩の歌
   ほろほろと 鳴く山鳥の 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ

 昔の高梁川の流れは清澄であったが、私が小学六年頃、上手と下手に堤防を造り、流れをせき止め、ふる里は人造湖となった。この水は下手何十ヶ町村の潅漑用のため必要なのだ。ところが水かさは減じ、余り役には立たなかったのである。戦後暫くすると水島工業地帯へこの湖の砂利を多量に採取運搬し続け、水は濁った。
 後年新幹線工事のためにふる里の最も景観の良い所の岩や山が破壊されてトンネルが造られ、湖には架橋された。現在では新幹線が通っている。
 雑魚取りに夢中になったあの川が、手長えびを網でおさえたあの昔が、共に泳いだあの獅子岩附近よ。その親友中根 望君も六十四才で逝ってしまった。

 中根君の父親はニコライ大主教によって打ち立てられた日本のギリシャ正教であるハリスト正教の宣教師であった。聖歌の中には皇帝、皇后、皇太子及び皇族を祝福する箇所がある。それは帝政ロシアの国教であった教会として当然なことであったが、日本にそのまま直訳され、皇帝とは天皇のことと理解された。従って日本ハリスト正教会は、日本軍国主義の体制の中に自然にはまりこんでいった。そのためにキリシタン禁制や、西海の島々のかくれキリシタンの様な、厳しい政治体制からの試練を受けることなく今日に至っている。
 この寒村で宣教師をしていた中根君の父親は君が幼少の頃に亡くなられた。私は子供の時から彼の家へよく遊びに行った。村人は此所を「教会」と呼称していた。
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 私にとっては親類先であり、彼とは親友でもあった。キリスト教は人類の平和を目指し、自由、平等、博愛である。勿論この家の皆もそうであった。
 少年の私にとっては宗教が何であるかはわかる筈はなかったが、この家の雰囲気と自分によせられる愛情には人間のふる里を感じていたのであった。彼の母はこの村の小学校の代用教員として勤められ主として、唱歌(今の音楽)と裁縫を教えられた。渡辺美千代先生であった。先生は三男二女五人の母親として子供達を養育され、それぞれに上級学校に進学させられたのである。実に立派な人格者の教師であり、母親であられた。

 私の小学校時代は軍国主義の真只中で「天皇陛下万才」の時代であった。キリスト教信者である中根君が学校教育の場で他の児童と共に「天皇陛下万才」を叫んでいるのを見た私は疑問を持ったのだ。あれから満四十年後の今日、前述の理由で何等矛盾のないことを知ることが出来た。

 彼の母親は村人からは尊敬され、慈母の様に慕われた。私の恩師であり、恩人でもあった。この人もすでに天国へ逝かれた。お墓は私の祖先の墓場の直ぐ南隣りにある。私は年に何度かの墓参をするが、その時はこの恩師の墓掃除をし、花を捧げるのだ。
 今もやさしい恩師の面影が浮かんで来る。戦後書芸術のことで悩み続けた私に「一夫さん、宗教で救われては?」とすすめられたがそのままにした。私は「芸術は苦悩」、「宗教は安心」であるとも思う。
 私の家は真言宗であるが、敗戦直後から何年間の参禅をし、後に浄土真宗(親鸞上人)の教を受けた私であったが、落ちつくところは只の人間を希求し、書家として生かされる現在の私でしかない。
 かえりみると云うことは年老いた人間のさびしさから来るものであり、よくもここまで生かされたものよの感慨からでもある。

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3. 腕 白 時 代

 私がもの心ついた頃祖母は未だ生きていた。数え年八十八才まで生き、その長寿を祝って大正天皇から木杯をいただいていた。家は豆腐屋をしていた。やがて祖母は世を去り私が小学一年になる頃母も亡くなり、父子二人。父は豆腐屋を止めて、高梁川の渡し守をしていた。或冬の日のことである。舟の頭に乗っていた私は綿入れの分厚い布子を着ていたが向う岸近くなってどうしたはずみかどぶんと川へ落ちてしまった。深いところであったが、やっと泳ぎ上がったことをおぼえている。
 川遊びは雑魚取りであった。その中でも印象的なものが二、三ある。その一つに手長えびをスガ網でおさえるのが面白かった。みみずを丸めてくくり、それに重りをつけて糸をとりつけ川底に投げ込む。暫くすると何所からともなく何匹かの手長えびがこの餌をあさるためにぞろぞろはい乍らやって来る。そのえびを後方からそっと丸いスガ網でおさえて捕るのだ。えびはぴょんと後方へはね跳ぶ習性があるのでこういう操作をする。
 もう一つは、何十米かの長い親網に何十本かの糸に針をつけ、その針にはみみずをつけ、これ等を等間隔とし、親網にはうきをつける。これをながし針と言う。そして夕方から翌朝まで水中に沈め置く。夜が白みかける頃、おどる胸をおさえ乍らこれを次々に上げる。鮒、なまず、ぎぎゅう等がかかっていた。一番始末が悪いのはうなぎで、食いついてから長時間を経過しており、糸を体にぐるぐる巻いて死んでいた。一度亀がかかっていて驚いたこともある。
 今一つはダイナマイトを水中に投げ込んで魚を酔わせ捕獲することであった。これは大人によってなされた。勿論これは違法であったが子供達には知る由も亡い。ダイナマイトを水中に投げ込むと、リンリンと川底が響く、すると浮ぶくろのある魚が多数水面にぽかんと浮く。
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 死んでいるのではない。酔っているのだ。鯉、鮒を大人達は舟の上から手だまですくい上げる。
 子供達は素っ裸で泳いでいたが、大きな鯉を泳ぎ乍らその小さい手で捕まえようとするが逃げられてしまう。大きな鮒もつかめず逃がしてしまう。子供達には手だまの持ち合わせなどない。大人が舟の上で子供に向ってどなる。「巡査に言うぞ」子供達はおそれて魚を捕まえようとすることを一時止める。然し又泳ぎながら捕まえようとして失敗の連続。手だまさえあればなあ、とれるのにと残念でならなかった。当時こわい者と言えば巡査と学校の先生であった。私共をおそれさせたこの大人達が違法をやっているとは子供心には気付く由もなく「巡査に言うぞ」とどなられたのにはおそれたものだ。浮きぶくろのない魚のなまずやぎぎゅうなどは岩間に入りこんで後では死んでいたし、あゆは川底に真白に沈んでいたので潜水して、口、両手で捕え浮上し、このことを何度も繰り返した。これらのことは高梁川として流れていた頃のことである。
 現在の私はこう思う。ふるさとが田舎であったことがうれしいと。

 小学校は複式で一、二年と三、四年と五、六年の三学級編成で全校児童数が最多の時が百二十名。自分らのクラスが最も多く三十一名。
 或授業の時のことである。先生が五年生の我々に授業され、課題を与えられて、次は六年生の授業。私は課題を早くすませて六年生の授業に聞き入っていた。これが複式授業の好都合なところ。先生が六年生に質問された。誰も挙手しない。今度は先生がふと五年生に向って「わかる人は挙手しなさい」と。すかさず私が挙手して答えた。先生は「よろしい」と言われた。だが次に「よそ見をしないで言われた課題をやれ」と叱られた。私はやれやれと思った。
 この学校は、高梁川が南流して山につき当り、自然そこは渕となっており、この山上にあった。ここから見下ろす村の情景はまことに快かった。四年生のころ、矛盾に弱ったことがある。
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M52-40=かえりみれば10P
 毎朝のこと権力ある某上級生宅附近に児童達は集合し、そこから一列縦隊で登校することになっていた。ところがその上級生が何時も家から出て来るのが遅い。皆はやきもきする。遅刻するからである。やっと現われて登校すると先生に皆が叱られる。下級生が遅刻の理由でも言うならば先生にはわかるが、下校してから上級生にこっぴどくやられる。だから誰もが言わない。子供心にもこの矛盾には全く往生した。どうしたらよいのだろうか。わからなかった。今から考えると判然とするのだが。先生や保護者達が状況を察知してこの上級生を指導すれば良かった。よし昔の田舎のことだから親達が無関心だったら少なくとも先生がこの上級生に限って教育すれば良かった。病根に対して医者が手術するように、教師もまた、言葉で急所にメスを入れれば良かった。そうしなければ何時までも矛盾は続き、決して問題解決にはならないのだ。教師の問題はもとより社会の問題も同じことである。
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 或授業時間に旧制某中学出身の男教師が代理として教えに来られたことがあった。それは書方の時間であった。今の小・中学校教育ではこれを書写の中の習字と言う。私は生意気な子であったらしい。筆で書いた書というものに言い知れない深味を感じていた。そこでこの先生にそのことを質問しようかと思ったが、止めることにした。ちょこちょこした小身のこの代用教員からは満足の答えははね返っては来ないだろうと思ったからである。果せるかな、後年書に生命を打ちこむこと五十年間、端的な平面表現である書には言い知れない深奥なものがあったのだ。簡素にして深遠は東洋芸術の特徴であるが、書はその第一線的なものである。

 後年郷土出身のNさんが私に言われたのは「君の授業の際の質問は外の子供とは違っていた」と。それを聞くと私はそうだったのかなあと思った。Nさんは士族で名門岡山中学卒の秀才であった。悪童の質問にはあっとびっくりするのが時に飛び出した。A「先生子供はどこから生まれるんですか」先生は暫く考えられて「家に帰ってお母さんに聞け」一同どっと笑ったこともある。

 唱歌(今の音楽)は略譜の数字で示されていた。ド、レ、ミ、ファと呼称するのを悪童達はイチィ、ニィ、サンと呼称して女教師からこっぴどく叱られたこともあった。

 春になると堤の柳が緑になり、桜花が美しく咲く。この頃全校児童は高梁川を高瀬舟に乗って下り、河口の岡崎海岸から裸足で沖合いの干潟に出て皆楽しくさわぎながら潮干狩をしたものだ。砂を掘るとたくさんの蛤が出た。それを土産に帰途は舟に帆を上げ、風は帆をふくらませて上流へ遡って行くのであった。
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 寒い冬になると<いのこ>というのがあった。藁たばに木の心棒を入れ、外を藁縄でぐるぐる巻く。夕方になるとそれを大地にたたきつけながら「今夜のいのこ、祝わん者は、鬼生め、蛇生め」と。それまでは良いが、それからが大変であった。児童は部落同志で喧嘩をぼっ始める。はじめの頃は<いのこ>でなぐり合いしているからけがはない。夜となった頃私は一年上の六年生Y君と堤の上でとっ組み合いとなり、ころころとつ堤下へ転落した。Y君は身長も大で私は勝てそうにない。すかさず彼の右手の指にかじりついた。Y君は「痛い、痛い」と泣いて喧嘩は中止となった。外の悪童達もちりぢりになり去って行った。翌日の授業の時、ふと隣の座席のY君を見ると、右手に包帯をしていた。二人はお互いに知らぬ振りして勉強している気に見えた。

 やはり五年生の或日のこと学校の休憩時間に小使室附近で大事件が起った。主犯者は私。鉄砲の雷管を爆発させたのだ。これは何故起ったか。前述したように大人が高梁川にダイナマイトをぶち込んで酔った魚をとったことからで、子供としても実地にそれをやれば大人に叱られないで魚がたくさんとれると思ったのが動機であった。はじめは節のある竹筒に黒色火薬をつめ、それにミチビを挿し込み、更に密閉して重りをつけ、ミチビにマッチで点火して川へ投げ込んだがぶくぶく泡が立っただけで爆発現象は起らなかった。この黒色火薬とミチビは同郷の石屋のOさんから私が少量貰ったものである。当時酒津の山の爆破工事中で、Oさんはそれに従事していられ、これ等を家に保存していたのだ。今度は雷管を捜し出し、これに黒色火薬をつめ、ミチビを挿し入れ、口を密閉して陸上で点火した。するとしゅっと音をたてて中味が飛散した。更にもっと飛ばすために雷管の口をぐっとしめた。学校の小使室附近には私と他に児童数名がいた。A君が私の命令で雷管を持った。私が点火した。ものすごく飛ぶと思った予測は外れて、忽ち大爆発。学校中がリンリンと響いた。
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 A君の左手からは鮮血が流れ、一年上級のH君の頬には破片が飛びこれも少しの出血、私の耳はガンガン鳴った。その外の連中には何等被害はなかった。
 私は「しまったことになった。これは大騒動だ。こうなればあのこわいO校長に又叱られる。然し致し方ない」と覚悟をきめていたら教員室へ数名は呼ばれた。幸にO校長はおられなくて実はほっとしたが、受持ちのA先生に尋問された。
 私が答えた。「雷管へ紙カンをつめて火をつけました」「その紙カンは誰から貰ったか」「はい、T君からです」側にいたT君は怒りに燃えた顔で私をにらみつけた。それでも彼はその場は黙っていてくれた。先生の説教が終って皆は運動場へ出た。T君は私に怒りをぶちつけて来た。「おい、河田、紙カンを僕が君に何時やったか。なぜ先生の前で嘘を言うて僕を罪に陥れたか」と。私は深く詫びた。そして「火薬、ミチビは石屋のOさんから貰った、それを使用した。だがOさんに罪が及ぶことになってはいけないので咄嗟に嘘を言って相済まなかった。どうか許してくれ」と陳謝したらT君は何も言わなかった。

 この事件があってから二十年後のこと、それは私が朝鮮慶尚北道大邱師範学校の舎監をしていた宿直の或夜のこと、ふと先生に嘘を言ったあの爆発事件を思い出して良心の呵責に堪えきれず、使用したのは紙カンではなくて、黒色火薬とミチビであったことを手紙にしたため恩師A先生に郵送して実はほっとした。

 小学校時代にはよく喧嘩をしたが、下級生とは決してやらなかった。上級生とか多勢に対してであった。
 当時は軍国主義はなやかな頃で、日曜や祭日には両軍に分れて旗の奪いあいをしたものだ。これ等の腕白小僧もやがて成長し、第二次大戦で戦死した者や、病死者があり、現存者は六十五、六才となっている。人生の流転、実に感無量である。

 やはり五年生頃の悪童ぶりをふり返ることにする。
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 数名の悪童は授業そっちのけで裏山へ徒党を組んで出かけた。各の手には竹棒が持たれていた。その棒の先にはナイフがくくりつけてある。これで犬や猫退治というわけだ。
 帰った時は授業中だった。連中はすごすごと教室へ入る。A先生には勿論叱られて教室の後に立たされた。皆は神妙な顔をしていた。私も前かがみになって静かに長い間床板の年輪に見入っていた。これ等の連中にとっては勉強するよりも、叱られて立っている方が楽なのであった。先生の方におかれては効目を感じられたのであろうか。
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 秋になると山には松茸が生える。そこで持ち主はわら縄を張りめぐらして入山禁止とくる。学校の西山はYさんの所有する山であった。或秋の日、このYさんが学校へ怒ってやって来た。悪童が自分の縄張りの山へ入って松茸をとったというのである。早速A先生に呼ばれて教員室へ行き、この由を聞かされた。だがこれだけはやっていなかった。Yさんの家は山の下にあり彼はけちんぼうでもあった。無実の罪をきせられた私共は腹立たしくなった。この腹いせにと、大きな石を持ち運び、山の下のYさんの家に向ってごろごろところがした。A先生もYさんもこの事はお知りでなかった。

 一番うれしかったことは学業優秀で時の浅口郡長から表彰されたことであった。
この狭い郷土の小さな学校を卒業すると友達の一人O君は旧制倉敷商業学校へ入学した。私は貧乏なので併置校の船穂尋常高等小学校の高等科一年に入学した。
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 男子五十六名の組であった。この中には不運にして旧制岡山一中や金光中学校を受験して落ちたのも数名いた。
 併置校の連中は小さな学校から行った我々を馬鹿にした。私は或機会に一級上のI君と同級のT君を角力で投げ飛ばした。勉強成績は百点満点での平均九十七点をとった。今もこの通知票は手元に保存している。こんなことでもう皆は馬鹿にしなくなったし、むしろ尊敬してくれるようになった。
 だが私は満一ヶ年でこの学校を止め、母校の小使となり、自学自習して一ヶ年後に高等科二年の卒業証書をいただいた。この資格があれば岡山県師範学校本科一部の受験が出来るのである。
 
 大正十五年の冬から家の付近にあった露天井戸の水を数杯かぶり、その後はマラソンをすることにした。その理由は二つあった。一つは折しも大正天皇が御病気中なのでそのご平癒をご祈願するため、今一つは激戦の師範学校受験は並大抵ではパスしないから決意を固めた上でのことであった。
 冬の朝暗い中に露天井戸の水をかぶる。ぶるぶるっ。一、二杯は冷たい。三杯目から少しぬくもって来る。そして五、六杯で終る。この私の苦しい所業をかげから見ていた近所のMおじさんは心ひそかに男泣きしたと、四十数年後にその奥さんから私は聞いた。その頃私の頭の中にあったのは「天の将にこの人に大任を降さんとするや、先ず其の筋骨を労せしむ」の語と、彼の尼子十勇士の一人である山中鹿之助が三日月を仰いで「我に七難八苦を与え給え」と祈ったそれであった。
 早く母に逝かれ、放任主義の父と二人だけ、世間の風も冷たかった。自力で生きるより外なかった私。さびしい運命の星の下に生れた私には常に蔭があった。そしてこの自然児にとっては何とかして生き抜くことを余儀なくされたのである。
 或人が「満州へ丁稚小僧に行かぬか」と。行きたい。然し年老いた父がいる。それを振りきって行くことは出来ない。止めた。
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 少年航空兵になろうか、そして故里の空を飛んでやろうか。いや年とった父がいる。それも止めた。鉄道教習所の試験を受けようかと思いその面の勉強をしたが中々難しかった。然し勉強は努力すればどうにかなるであろうが、次のことで閉口した。鉄道関係の学校へはコネがなければ入れないという当時の状勢であったのだ。これも止めねばならなかった。先生になろう。そして自分のように困った生徒がいたら救ってあげよう。先生になるには師範学校だ。官費支給の学校だし。父親は「将来大工か左官になれ」と言い、親類は「百姓にでもなれ」と言ったが、自分はこれ等を押し切って先生になることにした。

 思えば少年時代の純粋というものは全く汚れのないものであった。小学校時代に同級生A君と私と約束したことがある。それは成長した暁にはお互いが母校のために何かつくそうと云うことであった。この事は実に四十五年の後母校の講堂建設として具体化されたのである。先ず婦人会が立ち上がり、私の揮毫を求められた。資金をつくるためである。内弟子片山大拙君と同道し、母校において婦人会連中の前で希望により作品を書き続けた。その間、片山君にはハーモニカで始終「かえり船」を吹奏して貰った。之が発火点となり資金が集まり、寄付金と併せてこの小さな学校としては不似合いな大きな講堂が完成したのであった。時のPTA副会長であった同級生A君に建設のために立ち上がって貰うために提言したのが私であった。これは小学生時代の約束を彼に話し、決行を迫ったのであった。
 講堂完成後当時のN校長が私宅を訪問され、郷土の人々の総意として私の表彰碑を建立したい旨を伝えられたが私はこれを固辞した。理由は、母校出身者として当然なことをしただけであるからと。
 この講堂で一度は児童に書道講習会を、更にはPTA関係への教育講演をさせていただいた。いささかでも郷土に対してご恩返しが出来たことはとても光栄であり、満悦の外はなかった。

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4.師 範 学 校 時 代

 さて話は前にかえるが、大正15年十二月二十五日、大正天皇崩御。
 次記はご大葬歌、芳賀矢一作詞。
一、 地にひれ伏して天地(アメツチ)に 祈りし誠(マコト)入れられず
   日出(ヒイ)ずる国の国民(クニタミ)は あやめもわかぬ闇路(ヤミジ)行く
二、 大葬(オオミハフリ)の今日の日に 流るる涙果てもなし
   如月(キサラギ)の空春浅み 寒風いとど身にはしむ

 三月受験、師範学校にやっとパスした。村の人々はよもや合格するとは思っていなかったらしい。百二十人の合格の中位であったことを後で知った。A先生にお願いして郷土出身のNさんに保証人になっていただき、岡山一中南の保証人宅に居住し、そこから徒歩で通学の運びとなった。いわば当時の苦学生であって、掃除やら風呂たき、用使い、それにその家の小学生である姉妹二人と坊ちゃんの勉強を見ることになった。勿論N家庭教師は週二度指導のためにこの家に訪れていた。与えられた私の学習時間は夜十時以降であった。時間を得るためには風呂たきをし乍らも読書をしなければならなかったし、極端ではあるが一度だけ風呂の中で読書したことさえあった。ただ考査時期になると二,三日前とその期間中は特別の計らいで勉強時間が与えられた。こんな毎日の生活の中で徒歩にて東山の師範学校へ通うのだった。

 郷里の小学校では長年勤務された女教師渡辺美千代先生がこの頃退職なさった。クリスチャンであり、私の親戚でもあり、郷党からは慈母のように慕われていた先生が定年でもないのにどうしたことかと思い、少年の私に非常なショックを与えてしまった。
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 代用教員という名において校長がそうしたのだろう。誠心誠意のこの先生に対して何らかの措置はとれた筈だ。こう考えた私は校長をうらんだ。自分も師範学校を卒業して教師になる。そして何年かすると校長になる日が来るかも知れない。校長はいやだ。決してならぬぞ。延いては教師になるそのことすらいやになった。然し貧乏の家に育った自分には行く学校がなかったのだと思った。

 県立岡山一中といえば秀才校であったことは世間周知である。毎朝七つボタンの制服で角帽をかぶった大勢の一中生がさっそうと登校している姿を見るにつけて、私は羨ましくてならなかった。保証人となっていただいたNさんは前述したようにこの岡山一中の前身である岡中出身であったのだ。私が勉強の助太刀したNさんの息子H君は後にこの一中を卒業し東京の某大学を卒業せられた。
 私と高等科一年で同クラスであったK君はこの一中に学び六高、東大を卒業した。
 かえりみれば、こんな名門校に学べる人の背後には必ずしっかりした賢明な親がいる。その子の一生を左右するコース。子供だけが頑張ってみたところで万全の道は開けない。背後に立派な親がなければならない。田舎の小学生には一中があることすら知る由もない。入学するにも田舎の学校では到底実力はつかぬ。Nさんが岡中出身であり、子供の教育のためにわざわざ岡山に出て一中の南に家を買い求め、市内の小学校に子供を学ばせ、加えて家庭教師までつけたからH君は一中へ、その姉妹二人が岡山一女へ入ることが出来たのだ。
 田舎に育ち、親が放任主義であった私にとって一中などは無縁のものであったが、これから十八年後のこと、即ち日本が第二次大戦に敗れて、学校改革が行われ、一中と二女が併合され、岡山県立岡山朝日高等学校となり、奇しくも私は岡山城址のこの岡山一中跡の校舎で書道教師として教鞭を執ることになったのである。
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 さて師範学校に入学した私共百二十人は甲、乙、丙の三組に編成され、私は甲組となった。当時の師範教育は窮屈至極なものであった。日本は軍国主義時代であり、その中での子弟を育てる教師をつくる師範教育は画一的でもあり、自由がなかった。同じ教育であり乍らも国家有為の人材を養成する六高には自由があった。一中から六高、東大と大いなる羽ばたきの自由があった。自由がなければ人材は輩出しない。師範教育は型を要求した。
 この型から出なければ決して真の芸術家にはなれない。教師になっても融通の利かない人間になり勝ちである。四人に一人の合格率の激戦を通過してパスして来た生徒達もこの学校では余り勉強はしなかった。五年間を経過すれば何とか先生になれるという安易感からであった。

 入学すると直ぐ水泳部に入った。専門は千五百米の選手。四百米までが苦しかったが、この線を越えると先ず楽々と泳げた。放課後必ず三千米の練習をした。期間は四月初めから十月末までであった。勿論当時は温水プール等はなかった。ところが一学期の終りに近づいた頃疲労がたたった上に、呑み水が変ったせいか両足がぶくぶくふくれだした。腫れ脚気であったがそれでも我慢していたら遂に心臓に来て倒れた。病が進み外界が真暗闇になった。
「これが死というものか」その瞬間、「何生きるぞ」と決意した。それから徐々に外界が明るくなって行った。眼には側に居る父や姉が心配し乍ら見入っている姿が映じた。皆がやれやれとほっとした。O医師はリンゲルを続けていたのだ。後日O医師は「今夏、岡山市内での脚気の最高のレコードだった」と語られた。
 快癒を俟って郷里へ帰った。呑み慣れた水、裸足で露を踏む、小豆を食べる、この三つが脚気治癒には効果があるというので実行した。
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 病気全治後の二学期からは郷里から通学することになった。朝六時に起床、自転車で倉敷駅へ。上り六時四十五分発の列車で岡山へ。そこから電車か徒歩で東山の学校まで通学した。冬は暗い中から起床せねばならぬので可成つらかった。
 脚気になると眠気を催すものだ。その当時は学校教練というのがあって配属将校がこれを指導した。或日の教練時間はK大佐の講話。一年生全員がグラウンドに土下座して。ところが脚気の自分はうとうと居眠りをしていた。「こらっ」と大佐のサーベルでコーンと頭をたたかれてひどく叱られた。この時だけは腹がたった。何故調査もしないでたたくかと。敗戦直後K大佐は保険の勧誘員として私宅を訪問され勧められたが昔のこの事を思い出して決してその保険には入らなかった。
 四年生になると勉強に追われて寄宿舎に入った。この時の担任はO先生。夜の自習時間の真夜中に私は人から借りたレシーバーで京山小円の浪曲のラジオ放送を聞いていた。丁度その頃初めて学校の南西にある網の浜台地にラジオ放送局が出来たばかりの時だった。舎監のO先生はその夜の当直。ずかずかと入って来られて「君何をしているか」と。同級の友人Aは「今、教育的に良いのをやっていますから」と弁護してくれたが先生は「自習時間にいけない」と言い、レシーバーを取り上げようとせられたので私は「すみません、これからは気をつけますから。これは友達のを借りていますので取り上げるのは許して下さい」然しO先生はそれを持って行ってしまった。私は友達に迷惑をかけたことに苦しみ謝した。このレシーバーは卒業前にO先生から私に返還された。この事から後年私は大邱師範学校に教鞭を執り、更には何年もの教師生活において、生徒の立場に立っての叱り方に余程注意を払うことにした。


つづき「かえりみれば」~2



M72-2=帯・かえりみれば表紙


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