ずいひつ「教師」


<河田一臼記念館TOPへ>

--------------------------------------------------------------------
      巻  頭  言

 少年時代に学校の先生になろうと決心した私も己に二十数年間の教師の歩みを続けて来た。拙い行跡とは云え生涯のなつかしい思い出である。その中で平常頭に浮ぶものを拾って綴り上げてみた。それがこの「教師」なのだ。
 前には随筆「書家先生の記」を処女出版し、次に「人生と書道」の刊行をしたのであるが、今年の正月を迎えるに当って第三の出版であるこの随筆「教師」を出版する決心をした。この出版に当っては井上映七氏の御理解深い絶大の御援助と親友黒崎正一君の誠意に感謝の外はない。失礼乍ら誌上にて厚く御礼申し上げます。

    疲れ来て尚疲れ来てその上に 斃れる身ならば死ぬるともよし

    昭和三十二年一月七日           著 者 識
-------------------------------------------------------------------


      目  次

〇教師という職業…………………… 1    ○第二の故郷…………………………66
〇神は男女を創り給うた…………… 4    ○遺髪をついで………………………66
〇M君は逝った……………………… 5    ○アルバイトボーイ…………………68
○子供と角力………………………… 8    ○親 馬 鹿…………………………69
○M嬢への失敗………………………10    ○ナップン……………………………69
○酒とへどと煙草……………………10    ○ 龍  宮…………………………72
○女難の相……………………………11    ○番茶とオキシフル…………………72
〇映画と警察官と私…………………12    ○雪国と美人…………………………73
○水兵さん……………………………13    ○女学生の遺言………………………74
○独立運動とM君……………………14    ○ 順  序…………………………75
○リンゴと生徒………………………16    ○気狂い教師も亦楽し………………76
○トマトとL君………………………17    ○母恋しい水兵………………………78
○グライダー訓練と砂糖湯…………18    ○予言者石川啄木……………………79
○Y君と薬……………………………20    ○ 浮  身…………………………80
○うどん屋に動く影…………………22    ○作品と小便…………………………82
○男生徒とラブレター………………24    ○噂をすれぱ影とやら………………83
○入 学 後…………………………26    ○感想発表……………………………83
○カンニング…………………………29    ○美男子の写真………………………84
○やさしい生徒………………………31    ○石 の 花…………………………86
○ 無  罪…………………………32    ○出版道楽……………………………87
○ 喧  嘩…………………………33    ○土に帰る……………………………88
○  死  …………………………36    ○そ ら 豆…………………………89
○愛 の 鞭…………………………37    ○悪童の思い出………………………90
○白 い 服…………………………37    ○何 く そ…………………………92
○ 敗  戦…………………………38    ○夢は何語でみる……………………93
○ 投  網…………………………40    ○甘さきびしさ………………………94
○東京旅行……………………………41    ○名校長と共に………………………96
○書芸術への不理解…………………42    ○私の書道………………………… 100
○菜葉服の失敗………………………43    ○西日本美術展…………………… 101
○当てっ砲先生………………………45    ○  頭…………………………… 101
○さようなら…………………………46    ○ 誓  い……………………… 102
○生活と空襲…………………………47    ○愛 弟 子……………………… 102
○ 上  京…………………………52    ○偉い先生には…………………… 106
○姉は去りませり……………………54    ○ 思  い……………………… 107
○裸 先 生…………………………55    ○風邪はいや……………………… 109
○天下の名校…………………………57    ○犠牲に応えて…………………… 110
○釣り上げ……………………………58    ○人気と不人気…………………… 111
○假死と死……………………………60    ○お 清 書……………………… 112
○一休さんと一丘……………………62    ○セミナール……………………… 113
○教え児は可愛いい…………………64    ○お正月と教師…………………… 116

--------------------------------------------------------------------


      ○教師という職業

 母を数え年八才にして失ったことと金がなかった家庭の状態下にあって父親や親類の止めるのも聞かず師範学校を卒業して教師になってしまった。学校の先生と言えば日本ではまあ中産階級の生活程度の家庭から多く出ている。家に不動産もあり動産もあって生活に不安のない人々が師範学校や高等師範に学んだのであった。こんな点からしても父親が大工か左官になれと言ったのも無理はなかった。だが田舎に育ち苦難の道に宿命ずけられた私の一生の少年時代に芽生えたのは「先生になろう、そうして困った子があれば何とかして救おう。」と少年の純伜はひたむきに教師へのコースをたどった。
 月給は安くても青年教師にとってはそんなことにかかわりなく平気とは言うものの昭和七年に私が教師になってから終戦即ち昭和二十年頃迄、私に印象ずけられた期間の十数年というものはこの月給の多寡によって教師としての能力を判るが如きであり、当時の職員録には月給の相場ずけによってはっきり序列が定まっていた。
 太平洋戦争終結までの教師というものは神聖氏視されていた。よって教師は聖職にあるものとして尊敬された。故に敬礼でも仕方が悪いなら先生ともあろうものがという調子であったし、愛嬌よく頭を下げる教師は社会一般の人気は良かった。中には媚態と誠意が判然せぬのも多々あった様にも感じた。

 敗戦を契期として聖職は転落して一労働者に位置ずけられた。こんな立場に置かれたものに地主の転落があった。私はむしろこの方が楽だと思って来た。少年の頃の私は先生というものは便所へも行かぬ、月給も貰わないで奉仕している人と信じていた。それ位洵に立派な人がなるものとのみ思う外なかった。少年時代はこんなにも純心無垢である。当時は修身教育があってよい事ばかり教えて貰ったから、それを教えられる先生を神聖視したのも無理はないし、天皇も生きる神様として仰いでいた。
 初任給与四十六円。五十円という約束が日本経済不景気の頃とて四円引き算された。この時青年教師の私の頭には世の中とはいい加減なものだ。余り当てになるものじゃあない。こんなことを宿してしまった。でも当時岡山県下の小学校の大校長は月額百数十円を貰っていた。自分もせめて百円の月給取りになってみたいものだとの野心も起こることがあった。そして戦後経済界が動揺し物価は上昇した。
 月給は百円どころか万の位の紙幣をいただく様になってしまった。私は気がついた。何だ百円は知らぬ間に飛び超えているではないか、それが何万円と来ていらあ、占め占めと。然しそれが初任時代の四十六円の生活以下であることを知ると、何だ人を馬鹿にして居る。世の中て全く当てにならないものだと再認識するのだった。

 教師の位置も幸に一労働者というか公務員となった気軽さはあるが、どうかすると少年時代の教師になった動機、それを今日迄待ち続けては居るが、被教育者達が人間性の追求ということにそんなに深く求める向は一般に薄いようである。只目前の事で終ることを欲しているらしいし、現今の日本社会もそうである。
 故に昔の教師観ではピント外れの気がする。新しい教師観とは何だろう。無理矢理に熱を入れなくても無事に教材さえ取扱えばそれでいい訳だ。だがこう考えると何だか私はさびしい。神聖視された過去の教師への郷愁であろうか。新教師観に立てば割切って至極楽な気持になる。然しこり性の私にはそれは何だか不徹底さと物足りなさを感じて情なくなるのである。全く一時代を劃したのである。私は夢をみてはいけない,善悪を超えて歴史は流れているのである。老人が如何に過去をなつかしがろうと、日本の明治の盛大を追憶しようとも時代は遷っているのだ。
 太陽族に色々の批判はあろう。だが歴史は還るといっても昔の儘の姿で帰りはしない。流れるのだ。自分も年とった。そう思う。これでは教師の資格を失う一方である。若い人を学ぼう。あやかろう。教師の悩みであり楽しさである。だがそんなことも忘れて物体の慣性式に日々を送ったら誰かに叱られゐ様な気がする。余程の馬鹿教師になってしまったわいと時々感じる。今一歩前進してそんなことさえ感じない域にも達してみたい。
 次々と拙い教育の歩みを綴ってみよう。だがそれが成功したにしろ失敗したにしろどうなるというのだろう。どうせこの世の言い草に過ぎない。こういうと、この世の尺度で又誰かに叱られそうだ。君は無責任だと。その通りだと、私は全くの無責任居士なのだ。だが幸にせよ不幸にせよ、この無責任居士までに到った教育面の思い出を綴ってせめて自分を慰めたいと思う。矢張り年をとったのであろう。



      ○神は男女を創り給うた

 「今度の浮世は男でおいで女兎角に苫労勝ち」と終戦まで封建社会の日本は女性の立場に立ってこんなに歌っていたが、男女平等観に於ての戦後の日本に男女の同権が認められたことは洵に結構なことである。然し私は歌いたい。「今度の浮世は女でおいで男兎角に苦労勝ち」と。男女何れにしても苫労勝ちらしい。それが浮き世であり、憂き世という所以なのであろう。私は人問とは几そこんなものであるから今度又生れ変って来たいとも思いはしない。
 二十代以前に於て男から女をみるととても美しくて胸がこげつく思いもあろう。そして恋愛だとか、やれラブレターとか、やれ坂田山だとか、雪の世界への逃避だとか、仲々若き世代も賑やかではあるが、こんな複雑な性別まででっち上げた神様の御意図に対してその深遠と複雑と奇妙奇てれつさに驚ろきもし面倒くさいものにしたものだと大変迷惑に思うのである。
 英国に於ては男女の能力に於て何等異なるところはないが只一つ異なる点は女性は子を産むことだそうだ。科学の進歩と共にキリストを待つまでもなく女だけで子が生れる。又男だけでも子を産ます。これが進んで来ると人造人間として。そんな夢のようなところえ科学が持って行くかどうか。特に若い女性は男性に奮起と努力を与える。
 その反面やり損うと堕落へ導く。「男女七才にして席を同じゅうせず」と、東洋に於ける場合そうであったが、戦後は男女席を同じゅうしたのである。これが学校教育では男女共学制として大変革が行われた。 だから古い人々からはどうも不安がられる。それに引くらべて若い世代はそう感じない。「先生離れていると女性は美しいと思いますが共学してみると女ってそんなに美しいのはいませんね」とこんなに語るのだった。新しい世代の教師に教育してくれる。そして男の教育だけでやって欲しいと。さて女生徒はどういうであろうか。
 神の御名に於て男女間の功罪を処理し給え。教師の名に於ては手が届きかねますので。



      ○M君は逝った

 ここは瀬戸の潮風の寄せる町。私はこの学校に新任の先生となった。そして小学四年の担任となった頃M君は私の組の級長であった。今頃では級長といわず委員と呼ばれている。頭脳は明晰であったが身体は細く少々虚弱であって、某旧制中学入学後も休学する程であった。画を非常に好んだ。私は子供が好きなので宿直の夜はこれ等の男の子達とよく語りふざけたものだった。
 M君が終戦後尋ねてくれて、往年のことを語った中に私に教えて貰ったことは忘れてしまったが、只一つ印象に残っているのは宿直室で私と二人で寝ることに決ったがその時私から「M君蒲団の上に地図を描くなよ」と言われたことだそうだ。そんなことはとっくの昔に忘れていた私なのであったが、少年の思い出はこんなことに愛着を感じて忘れられないのである。「地図を描く」とは「トックリから小便を出す」ということである。
 私の思い出はこの子を一度叱ったことがある。他のやんちゃ連中が何かのことで私から叱られた。その時指導の地位にある級長M君に直接罪はないがこの際叱って置かないと組の為にもこの子の為にもならないと考えたからであった。成長しても叱られた教師への印象は深いものらしい。むしろほめられたことよりも。鉄は熱い中に鍛えなければならない。真に児童や生徒を愛する教師であるならば如何なる時代に於ても。私は今でもそう考えて口はばったい言乍らやって居ると信じている。私はここでペンを置いて煙草「新生」に点火する。

 戦後の或日M君が二粁の道を自転車で飛んで来て自宅の二階へ息もきれぎれに上った。そしてすぐ「先生、弟が母親にピストルをつきつけて度々うとうとします。私はどんなにしたらよいでしょうか」私は末っ子をおんぶして二階を歩きながら之には沈黙してそれを答えにかえた。暫くしてM君は「先生、落つきました。ありがたいです」と。私もほっとして、それからM君と二人で今後の家庭的問題に及んだのであった。それから後M君は美しい女性と結婚することになり、私もその式に臨み新郎新婦の前途を祈った。それから可愛いい嬢ちゃんが生れた。
 だがM君は或日のことこの町の西を流れる川の大きな橋の下に死体となって横たわっていたことを何日もの後に私は人から風の便りに聞かされて涙ぐんだ。それから急いでM君の家を訪問した。M君の母親と可愛いい三、四才になる嬢ちゃんの二人だけ家に居て、この子の母親は働きに外出中のことであった。M君の霊前に頭を垂れた私の眼ににこゝゝ顔の生前の君の姿が浮んで悲しくなった。線香の煙はゆらゝゝとゆれる。「何故M君私に相談に来なかったのか、馬鹿々々々々」と私は責めた。そして静かに瞑福を祈った。
 嬢ちゃんの可愛いい頭をなでては泣けてしようがなかった。この子のばあちゃんは側で泣いていた。M君は商売上の借金に悩んだ挙句神経衰弱となり、青酸カリを腹毒してこの世を去ったのだ。頭脳のよさと身体脆弱ということが結果的にM君をこう宿命ずけたといえよう。ああ煙草の火も消えた。今年も己に師走の中旬、うすら寒い風がひんやりと隙間からやって来る。
 「ぼーっ」と列車の汽笛の音が。又「ぼーっ」と、続いて更に「ぼーっ」と。

   かすむ夜空よ 師走の風に  あの子の声が 汽笛となって
   私の耳に さぴしく響く   私の眼に 涙がにじむ

   よせよ汽笛よ 鳴るじゃない  鳴ればあの子を思って泣ける
   のぅM君 笑うんだぜ   どうせこの世の六十年
   残る二十年 この俺も   逝ったら頼むぜ友達よ

   こんな言い草 現世のことだ  あの世に何もあるものか




      ○子供と角力

 この学校では二年生の子供達と角力をとるのが楽しみだつた。安物の洋服もその為に土まみれになってしまった。この子達の中の一人は後に岡山二中に学び更に陸軍幼年学校に変り、次に陸軍士官学校の秀才であったが終戦後は姫路高校に転編入、それから東大、現在は某銀行に勤務。二年程前に立派なお嫁さんを貰って新夫婦が自宅を訪問されたが私は留守であった。私は其の後上京して電話したが声だけでとうとう会えなかった。
 小学校、中学校、女学校、師範学校、新制高校の教師をやって来た私にとって、何といっても一番愉快なのは小学校の教育であり、幼稚園教育だろう。
 だがもう私に返り咲きは許さないかも知れない。少年の頃から何とかして立身出世をと願った負けじ魂。往年の日本の教育に罪もきせたい。又芸術家となって有名になる。こんなことも夢だった。妻も平凡な家庭生活をとよく望んで来たが天衣無縫的な私は無頓着なもので三界の孤児に過ぎない。筆と心中してやろうと念願して来たからでもある。だがもう稍々疲れて来たようだ。日本に於ける芸術家も余りはかゞゝしくない。
 末っ子の小学二年の坊主と家で角力をとる。投げられる。子供に力が出来たことを感じる。「負けてくれるのは卑怯じゃ」「それでも坊やが強いんだもの」「うそをつけ百貫豚」と。十七貫五百匁の私は末っ子から有難いお名前をいたゞいたのである。



      ○M嬢への失敗

 小学校五年女子を受持った項、M嬢が側の友人と話をして授業の妨害となるので教壇の私はM嬢を立たせて注意した。色白で丸顔の彼女の顔が更にふくれた。「その面は何だ」と私は教え子達の前で叫んでしまった。M嬢の顔は丁度ふぐの腹が今将に張りさけんばかりというに似てふくれてしまった。それから後は決してM嬢はこの教師に対しては絶体に不信任であった。
 このことがあってというものは教員生活二十数年間の今日まで女生徒に対して顔の事に関して私は格別にけなさない。顔のことには只「美しい」という語の外は使用しないこととしている。うらまれない教師、親しまれる教師は自分にとっても生徒にとっても幸福だからである。M嬢は私に女生徒への教育の要諦を示してくれた恩人であった。





      ○酒とへどと煙草

 村で青年団に入った当時、生れて初めて酒というものを口にした。苦くて味もなかったが、結果がどんなになるのか知らずに英雄気取りでぐいゞゝやったところさあ大変地球がぐらゞゝ舞い出した。それから酒には興味がなくなってしまった。煙草も師範学校四年の時に友人が吸うのをみてふと好奇心から便所でバットを半本程扱ってふらゝゝとして困ったので止めることにした。勿論学校では酒も煙草も禁じられて居たし、禁を破ると停学か謹慎になるのであった。
 昭和七年夏、呉海兵団で私は満期前に暇な余りに煙草盆の辺りに行くと戦友がしきりに煙を吐いていた。ここでホープという煙草を吸い初めた。ニコチンが一番少いと思って。ところが後でわかったことだが、ホープはニコチンは強度なことであった。それからは煙草ぐせがついてしまって現在でも止められない。海軍生活では甲板掃除でよくしりをなぐられたものだ。
 教員になってから同僚と下津井へ懇親旅行をやったことがあった。酒を飲んでどんちゃん騒ぎ、果ては甲板掃除のていたらくを演じた私は引き続いてその附近の山をかけり廻った。さあ大変、酔が強度に現われて、下津井の町をげっぷゞゝゝとへどを吐いてジグザグ航行をやってしまった。




      ○女難の相

 H君とは私は師範の同期生だった。木工の時間にK教師がH君に「君には女難の相がない」と言っているのを私は耳にした。このK教師は舎監であって、この教師の宿直の夜に限って泥ちゃんがお見舞する。一度便所へ逃げこんだ泥ちゃんを生徒たちがたたきのめして警察へ突き出したこともあったし、師範学校の大火事もこの教師の宿直の夜の出来事だった。やがて警察に呼び出されたK教師は警察官にパチンゞゝゝと頬ぺたをなぐられていた。私もその夜の週番というので警察へ引致された。それ位戦前は人権を無視されていた。
 H君は卒業するとその郷里近くの教員になった。頭脳明晰の君に果して女難は無かったか。有ったのだ。K教師の易者は当らなかった。私は今でも何だかおかしな気がする。




      ○映画と警察官と私

 私が師範の四年時代、映画は活動写真と呼ばれていた。当時映画見学は禁じられていた。寄宿舎の土曜日はライスカレーの昼食を一年生に室へ運ばせて早々と食べこっそりと映画見物に行った。当時「金馬館」では十銭でニュースのみをやっていた。
 或時倉敷の阿知館という映画館で私は運悪く警察官に捕まってしまった。「氏名を語れ、決して学校へは言わないから」と、この甘言に私は正心正銘の氏名を語ってしまった。それが警察官の手帖に載った。
 両三日の後に私は担任のO教師に呼び出された。私はしまったと思った。いよゝゝばれたことを知って担任教師の尋問となった。「君は活動写真館へ入ったか」「はい」「いけない、校則を侵すことは」「はい。だが警察官は卑怯です。学校へは連絡せぬからと言うので氏名を名乗ったのに男らしくもない卑怯です」「君悪いことをして何を言っている」と謹慎にもならずに済んだが、それ以来警察官は全くきらいになってしまった。終戦後の生活困難な時の私達教師と比較したら安月給の警察官などは割合いによい生活をしたのではあるまいか。全くいやになってしまう。だが民主主義のこの頃の警察官は皆やさしい。
 あれ程校則に物を言わせた映画禁止も戦後に於ては生徒も自由に映画館へ出入出来る様になった。私は当時罪の生徒に過ぎなかったが今となっては先駆者であったわけである。荊棘の道行きの犠牲者だったのだとか何とか言って、全く笑止千万。世の中というものは、あれから二十数年も経過しているんだもの。



      ○水兵さん

 私が連合艦隊勤務として日本海や太平洋を航行した、昭和七年は米国と一戦交えるか否かの風雲急を告げる頃だった。
 日本海はどす黒く、太平洋の颱風は艦上機をさらい、戦友二人をさらい、ふかの餌食にしてしまった。新潟や秋田に上陸すると女学生が水兵さんと語り合う。軍艦へは女学生達からラブレターが舞い込む。それを見乍ら戦友達が寄り合って楽しそうに語っていた。然し私には来なかった。可愛らしい水兵さんだったのに。上陸してカフェーに遊んだ戦友達を訪問して女給達はその名詞をたずさえて停泊中の戦艦日向見学に。そして戦友は彼の女達を案内した。カフェーを訪れたことのない私は兵器の手入に油しながらその風景を横目で見る外なかった。
 呉海兵団に帰って満期前に一度呉市のカフェーに寄ってコーヒーを飲んだことがある。女給が側に寄り添う。そして彼の女の指を見てぞっとした。不整の爪、不均整な指、いやになって此処を出てしまった。

 女優田中絹代さんが若い頃で海軍のブイの中に水兵姿もリリしいブロマイドと私の水兵姿とを並べて写真帖にはっているのを新婚当時女房にみられてひやかされたのも今は昔物語。
 連合艦隊が津軽海峡を東へ進んで太平洋に進んだのは七月の中旬。金波銀波と輝く朝の津軽の海は美しかった。「波の華散る津軽を越えてくにに帰るは何時じゃやら」と当時の流行歌を口ずさんで一入郷愁を感じたあの頃は楽しかった。だが猛訓練を受けた軍隊生活に別れを告げて初めて教師になった私にとっての印象は先生なんて甘っちょろいものだなあと感じるのだった。




      ○独立運動とM君