○ よ ろ こ び

  今宵はねむれぬ 今宵はねむれぬ
  思いは思いは尽きせぬ あのよろこび このうれしみ 夢かとぞ思う

  誰がみしや 此の夢よ 我がよろこびよ
  春の雨しとゝゝ降りて 尽きせぬ

  此の夢 春の夢 あの山、この川

  静かに暮れゆく 待てど来ぬ人よ 静かに暮れゆく この道、あの空

 (昭和ニ十四年六月八日午后十時半 操山中学校宿直室の蚊帳の中にて)




      ○ 随筆第一号「書家先生の記」

☆刊行の言葉
 生涯を筆に生命をかけて来ました私が道草とも言ってよいであろうこの随筆を処女出版することにしました。平凡な人間が淡々と毛筆で書表現をする。その私は書家である前に人間であり、教育家である以前に只の人間であります。
 少年の頃の書に対する疑問は私の運命を書道一路に宿命ずけてしまった原因の一つでもあり、以後今尚書道行脚を続けて居ります。自己撞着の強い私であり、主観に堕し勝ちなこの拙い文章に対し何卒諸賢の御批判を仰いで止みません。
☆内  容 
 「師範学校時代」 「戦艦日向に乗って」 「田舎教師」 「渡鮮」 「蛙は飛ぶよ」 「高等官もいや」 「神経衰弱」 「にこにこ会」「大自然と書」 「抱擁」 「以心伝心」 「青春は常に新しく」 「人間教育と入学準備」 「波と大山名人」 「酒」 「罪なこと」等八十標題
☆形  式
 B六版 約百八十頁   (出版は昭和三十一年七月十八日―二十日完了)

     「人生と書道」出版
 第二出版は言論と実際で書道の定義から起し筆者の創案による「基本八十一本』の方法と図解、更に発展して球の原理、最後にそれを否定して「無」とし「道」と結んでいる。これで筆者である私の書道の締めくくりをつけた。そして以後は抽象性へ。
  (昭和三十一年四月二十一日発刊)

     「教  師」 出版
 第三出版は昭和三十二年三月二十五日の百二十頁の随筆「教師」




      ○ 感  覚

 芸術に重要なものは「感受性の鋭敏」ということである。これは先天的の祖先からの血と後天的な教育によるものであろうが、先天的なものに恵まれた者が更に教育され努力するものが最上である。よし先天的に恵まれぬとしてもそのつぐないを後天的な面に向ける、そして人より何倍かの努力をする。そしたらこの問題は或程度解決つく筈だ。然し最早四十才を超えるとどうも感覚が一般的に鈍であるらしい。が特殊な人のあることは勿論である。
 書道の上からもこの「感受性の鋭敏」を育てる為に私はニ十才以前に重点を置くことにしている。特に小学生などの純心と来ては素晴しい陶冶性があって創作力も無鉄砲なくらいの旺盛さで、全くびっくりしてしまう。このびっくりということが人生にとって非常に重要なことである。驚きは生活を転換させ、同位置に留まることを許さず次から次への飛躍をさせるのである。感受の鋭敏は常に清新な書を作り、生々発展の姿は必ず歴史の上に輝く筈である。短歌に於ても亦この事は同じで、行きづまりを感じる者、その中に二通りあろう。
 一つは鋭敏な為に、一つは感受性の鈍感な為。又次に行きつまりを感じない場合について言えばこれにも二通り考えられる。一つは常に鋭敏であり新鮮さを目標として飛躍する人。一つは同じ調子に馴れて安易感にしばられている者。飛躍の為には新目標の樹立が必要であり、そこからは当然新しい方法が生れる。新目標をキャッチするのは「感受性の鋭敏」からであって、仮に鈍である場合、自分に於て或は他から刺激を与えなければならない。

 短歌も書も歴史の上の私であることを知らぬ限り永続はすまい。生涯やり抜く人の短歌、書はその生命であるから中絶を許されない。一貫性にして自然変化する芸術の根底にはどうしてもこの「感受性の鋭敏」を培わなければならない。勿論知性、感情、意志、健康、社会性に関聯を持ち、一体化されたそれでなければならぬ。
   (昭和三十一年短歌雑誌「龍」八月号掲載)



      〇 毎日書道展審査に上京して

 七月二十六日午後四時二十五分岡山発の急行「瀬戸」に乗った。車中で高梁高校生と話し合う。男女生は同校の卓球部で横須賀で行われる全日本卓球大会に参加するのだった。女性徒は初めの中は私に「おじさん」と言っていたが拙著「書家先生の記」を見せてあげたらその本の私の写真と実物の私とを見比べてくすゝゝと笑うので私は恥ずかしくってはげ頭から湯気か出る。何度もふいていたら白のハンカチが黒くなってしまった。それは汽車の煤煙の為だった。
 のどか乾くのでついウイスキーをあふったら知らぬ間にこっくりゝゝやりはじめた。それは三石のトンネルを過ぎてからだった。彼女達がくすゝゝと笑ったので眼が醒めた。十分位眠った。この頃から「先生」と呼ぱれ出した。熱海は雨だった。東海道線で往復の時はいつも太平洋の波の打ち寄せるこの海岸に眼をくばり彼の尾崎紅葉作の「金色夜叉」を思い出すのである。大船で高校生と別れて又ウイスキーを少し呑んだらすやゝゝと眠った。「もしゝゝ終点ですよ。と車掌に起されてやっと眠が醒めてみると東京駅であった。時に二十七日午前六時五十五分。

 それから世田谷の上田桑鳩先生宅へお伺いした。先生は前日江の島へ幼い坊やと共に行かれて、たらいの中には各種のやどかりが入っていた。坊やはいともゆっくり朝食中だった。
 それから一人で上野の美術館へ急いだ。九時過ぎかち審査打合せ会。それが終って第一部の監査に臨んだ。第一部は漢字、第二部は仮名、第三都は抽象、第四部は近代詩文、第五部は篆刻。年と共に出品点数が増大している。書も日展に参加してからというものは芸術として余程展開したと思うし、毎日展の大規模にも敬意を払った。だが個性ある作品は極めて少くて、亜流化、類型化が眼に映って仕様なかった。人間というものはどうしても先行する実力者に引っ張られ勝ちになるのであろう。特に日本では。
 この日は午後五時前に監査が終り西郷さんの銅像前で教え児の伏見雅男君と会い、二人はウイスキーを傾け、後に氷を一杯ずつ食べて板橋区富士見町の君の勤務先の家へ到着。又ウイスキーを呑まされてへとゝゝにくたびれて横臥した。此の店はテレビと電気類専門で、横臥してテレビを観る。鮮明である。俳優東千代之介が現われる。この頃の岡山辺りのは雨降りの様な調子で不鮮明にしか出ないのであるが流石東京だと思う。何時の間にか白河夜船の高いぴき。

 二十八白も美術館へ急ぐ。審査が午後三時に終って、宇野雪村氏、小川瓦木氏、川辺清華氏と私の四人は上野の喫茶店風月堂で休んだ。それから小川荒木氏の案内で奎星会出版部へ。ここではビール攻めに合い、加えて何か書けと来られて致し方なく雅仙全紙に下手な墨絵を描いてやっと無罪放免。
 そこから杉並区天沼一の二二五の大山康晴名人宅へお電話をしたら幸に名人が電話に出られて「来ませんか」といわれれるので小川氏に同道していたゞいて萩窪駅北口に出る。名人は坊ちゃんお二人と共にゆかたがけで出迎えて下さった。名人に小川氏を紹介し、そこで氏と別れた。
 名人宅附近は静かである。「このお家が井伏鱒二さんのお宅です」と、私はその家の門燈の光で門札をのぞきこんだ。その近くに名人の宅はあった。到着すると直ぐ木の香も床しいお風呂に入った。お風呂は朝からわかしてあったそうだ。何故なれば二十七日から二十八日にかけて中野区で名人は対局があったからである。     
 お電話をした時丁度名人は入浴後夕食されてやっとくつろがれたところであったそうだ。私がお風呂から上ると又ビールが出る。私は参ってしまった。酒豪でないのが残念というところ。已に二十九日の午前二時二十分である。今も興奮して寝られぬのでペンを走らせている。これより前、その夜は色紙へ書や抽象作品を数枚書いた。流石名人だと思ったのは私の抽象作品を指されて「之がよい」とぴしり。矢張り勘は鋭い。
 いい気になって私は創作の「基本八十一本」を説明し、自由な筆使いを半紙に実演し、「今後名人の書が変りますよ」と申し上げると「こんな基本のお話は初めてなので」と大変よろこんで下さった。名入御夫妻は午前二時前に床に入られた。

 おっともう寝なければ最終日の九時半からの審査に間に合うかしら。だが、田舎者の私が年に二回程上京してテンポの速い東京の空気に触れると全く眼が廻る。十九才の時強度の脚気をわずらって以来二十七年目に又少々出かけたらしい。足が重くてならない。
 三十日早朝には新宿を発って、中央本線で名古屋へ、そして岡山へ帰ろう。最近の「井の中の蛙先生」は上京して矢張りきょとんです。
   (昭和三十一年九月号書道雑誌奎星に掲載)




      ○ 思いのまゝに

 歌は自然生れるものと信じているが、書も亦何のこだわりもなく思った儘を書けばそれでよい。特に自作の短歌を書くことは楽しいものである。だが色紙にしても短冊にしても将又、条幅にしても古来からの伝統形式があるo
 例えば短冊に短歌を揮毫する場合に。短冊の約三分の一にあたる上部には題を、残りの約三分の二に短歌を書く。一行目は五七五で、二行目は七七とし、この下に署名、雅印を押す。墨つぎは一行目の五七を終って、次の五の最初の文字で行い、二行目の最後の七の最初の文字に於てする。署名は墨つぎをしてもしなくてもよい。本文と調和すればよいのである。

 他人の作を書く場合には二行目の最初の文字の書き出しは、一行目の最初の書き出しの文字より半字下げる。自作に於ては上が揃ってよい訳である。以上は伝統形式である。然し墨つぎは渇したら直ちに潤筆すればよい。
 太い筆にせよ、細い筆にせよ、潤筆して漢字や仮名を太く、細く、直線で、曲線で、時にはすらすらと、時にどよんで。兎に角思い通りに書けばよい。それが黒色でも朱色でも金粉ででも。又写実であっても抽象であってもよい。それが美と感受出来ればよい。勿論書は読めなければならない。
 文字から受ける美感、絵から受ける美感、スポーツから受ける美感、美しいものは矢張り美しい。形式は美であり、超形式も亦美である。書も思ったままを書き、醜とか、迷いを感じるならばそれを除去する為に又書けばよい。除去すれば雑念は去って純粋無雑となる。矢張り傑出した短歌が生れるのと同じである。自由というもの、思いの儘という位気分のよいものはない。
   (昭和三十一年「龍」誌九、十月合併号記載による)




      ○ 抽  象

 抽象を定義して「多くの事物や経験の中に含まれている共通した性質を抽き出してそれを把えようとする心的作用」と言う。
 抽象は雑物を排除するのであるから一度肯定したものを否定することだと言えよう。そしてこの肯定と否定の時間を短縮するのが飛躍のスピードである。概念に安住する人間にはこの抽象の厳しさは感じ難い。解することも困難である。スピードが大である場合、神経衰弱にもなる恐れがある。書はもとゝゝ抽象である。大自然を人間が整理したものや約束ずけから来たものであって白と黒という実に簡素にして深遠な東洋の遺産なのである。
 西欧の画家の中には油絵によって色彩と構図の立体表現から墨一色の平面表現に及び書と一致点に結んでいるものもある。現代日本前衛書作家の書作品は今やニューヨーク、アムステルダム、ワシントン、シヤトル、オレゴン、ポートランド他数ヶ所に於て展覧された。そして次々と巡回計画がたてられている。この作品の多くは非文字性のもので中には文字性のものも少数はある。この文字性と非文字性作品をまとめたものを言葉で言うならば墨象として良いであろう。何れにしても芸術性が主であってその作品から美感を得れば足りる。

 美に対しての感覚には角度の相異こそあっても国境はないわけである。抽象とは意味のない意味が有るということが出来よう。 この抽象から出発した表現から何かを感じる。これが現在世界に拡げられた抽象芸術なのである。更に超形象とも言う芸術の段階に入っているとか。
 アメリカのスウフオールは抽象絵画を分類して次の八種類を挙げている。
①フオーヴ的抽象派。 ②幾何学的抽象派。 ③印象派的抽象派。 ④半抽象派。 ⑤超現実的抽象派。 ⑥超現実主義から派生した抽象派。 ⑦立体派的抽象派。 ⑧印象主義的具象の傾向。
 又二大別すればカンデスキーは主情的な要素からなる作であり、モンドリアンのは主知的な要素からなっているとも言える。
 書家も書の域から逸脱してもっと広い芸術の世界や科学や宗教やスポーツ等に伸びることが緊急事なことと思われる。人間性に還る。この人間性へ還元の時代が当に二十世紀芸術の頂点である。
    (龍誌十一月号)




      ○ 書 道 展

 今年の夏毎日新聞社主催第八回全国書道展審査の為に上京した。書進展は現在全国的には多数あるが日展の中に書道は第五科に属して居り其の他に洋画、日本画、工芸、彫刻となっている。そして毎年十月末から十一月末まで上野の都美術館に陳列されるが日展は現今ではアカデミックになってしまった。いやそれはもとからの宿命なのだ。そして書は全館の五分の一も占めていない。又場所も最下級といってよい。
 それが毎日書道展になると殆んど全館が書であるだけ各種各様でしかも大規模なのである。第一部が漢字、第二部が仮名、第三部が墨象、第四部が近代詩文、第五部が篆刻となっている。

 墨象の部は非文宇佐を墨に依って表現したもの、近代詩文は日本に於ける最近の詩文とか短歌を毛筆に依って表現するのである。毎日書道展は広範囲であるから一巡するとへとゝゝに疲労してしまう。初めの中は何かと刺激を受けて勉強にもなる様であるが次第に頭がほやけて来て何が何だかわからなくなってしまう。将棋の大山名人御夫妻に毎日展の招待券を進呈したところ後日御令室(昌子さん)からお便りがあって、只疲労はしたが何が何かさっぱりわからなかったと。私はその返事として判然としなくてもその雰囲気に触れることの大切であることを述べて置いた。
 審査員出品としての私の作は二曲屏風半双(銀箔)に「澄観(篆書)」の二字を太く大きく書いた。この語句がとても気に入ったからである。構成は雌雄の鳳凰が相向い合う状態とし、中心を大きな球形に浮き出している。これは未だ文字性作品であって、これ位が文字性の限界線であり、これから一歩出れば所謂前衛表現となる訳である。全国各種の書道展の通弊として個性的にして価値ある作品が少ないと観るのは私の眼のくるいであろうか。
   (龍誌十二月号)



    ○ ゼミナール

 岡山県創造美育第三回ゼミナールは一月十二日(土)十三日(日)の両日、金光町大谷の金光教の御霊地で開催された。集まるもの岡山県はもとより近県からの美術教育家や母親連中二百名。講師を囲んで美術教育や児童、生徒の躾とか自由性等を語り、悩みを発表して解決する会であった。

 私は「新しい書道の在り力」について約三十分間講師としてしゃべった。新しいということは真ということである。書も亦時代をバックにしている。現代の新しい感覚と表現でなければならない。何時までも手本の模倣だけに於るのは時代錯誤も甚だしく全く滑稽の外はない。自己の短歌とか詩とかを上手、下手にこだわらず作りそれをどんゝゝ書けば気持のよい作品が出来る。勿論手本類は総べて参考であってその良いところは吸収したらよい。

 ゼミナールでは私の塾生の児童、生徒の雅仙紙半折に自分々々の好きな語句を選ばせて一、二枚で殆んどが書き上げて連中はきょろっとしていた。総数四十点。それを陳列したら多くの美術教育家達がぽかんと驚いていたようだ。
 きびしさから言うと書道はやりかえを許さぬ一本勝負だけあってむしろ絵は甘っちょろいと私は感じた。ゼミナール関係に夢はあるが、現実のきびしさに耐える力の不足を私は批判して置いた。このゼミナールの状況は一月十三日夜十一時十五分頃から五分間ラジオ山陽が録音放送をしていた。ゼミナールは全国的な組織をもっているものの書道を芸術として取り上げたのはこれが日本での最初である。
 美術にしろ何にしても人間生活ということになれば底面積を出来るだけ拡大せねば大人物の養成にはならない。特に幼少からこの点に対する教師や親の留意が必要である。良寛さんが「子供の字はよい」とその清書を手本とせられたと聞くが全く「童心即神」でとても大人の理智だけの世界観は小さくてそれに及びもしない。
 一月一日作
   今年こそ よいことあるが 如くにて 鶏の声して 清らに明けぬ
  (龍誌三十二年新年号)




      ○ 「わび」「さび」それから

 書の中には古人と現代人を問わず「わび」や「さび」の有るものと感受し難いものとがある。感受し難いものや全然ないものは問題外であるが現代人の字書きの中にはそれでいて可成り有名な方々もある。こんな人の場合は丁度音楽に例をとればまあ流行歌に匹敵するかも知れない。だが流行歌も歴史である。故に歴史に残らないことはない。
 流行歌と言っても一概には断言出来ない。何故ならば中には永遠性のものがあるかも知れないからである。こんな場合は真の歴史にその作詞と作曲は残るのだから。だが一般的には目先きの現実に終っている。私がはじめて歌ったのは「おれは川原のかれすすき……」次に金色夜叉の「熱海の海岸散歩する貫一お宮の二人ずれ……」からそして少し前までは「死んだ筈だよお富さん……」とステップでもやる。田舎に生れ田舎に育った私の少年の頃はラジオもなく純粋音楽などを聴くことも出来なかったのは無理からぬことであった。さて問題を書道に帰えして述べる。

 習字の先生のものは「わび」「さび」はなく謂わば流行歌的存在として許せはしても書道の先生のものともなれば「わび」「さび」の謂わば純粋音楽的のものでなくてはならない。習字の先生もこの書道の本質観をしっかり持たねばならぬし、書道の先生が本質を把握していない場合、これは内容的には習字の先生に過ぎない。それは流行歌的価値であって決して永遠性ではないのである。
 書の場合、日展常連作家位になると最早この「わび」「さび」の問題は一応解決していられるようだ。こんな人達の作ならば日本家屋のお床に掛けて鑑賞し乍ら茶も飲める訳である。だが技術が目立ち過ぎる場合は茶もうまく咽喉を通過しないとするならばその作品は外してもよい。よしそれが審査員のものでも遠慮はいらない。道は人間を超えて厳粛なのであるし、永遠性とはぎりぎりを一応通過した後のものであり、それは余裕あるもの故にである。

「わび」「さび」は東洋文化の遺産である。或時私は某書作家が近代建築部屋に揮毫された横額の文字を見て感じたことは 流石日展作家だと。「わび」「さび」がある。だが「それから」が問題なのである。新しい世代の作品がこれのみでよいであろうか。現代日本の社会は書の世界すら捨てて一潟千里に文化の新鮮味を求めて急なものがある筈だ。この西洋建築という日本以外に起源をもつそれが現代日本社会に多くある。そのものに東洋伝来の「わび」「さび」だけで調和する筈はない。
 作品表現は環境とよく調和しなければならない筈だ。この作家は建築にマッチした表現方法をとることを知らぬらしい。感覚も古くて。表現方法の千変万化まで及ばないでその過渡的でしかないのだろう。だが現実社会の人々の大部分はこんな作家と親密である。だが心ある人々はこれにぼつゝゝおさらばを告げている。社会は一見甘い様でそうでもない。実に社会の審判は厳しいともいえよう。二十世紀末は思想的に最早二十一世紀の曙光である。書家よりもむしろ人間として世代に生きることが有意義なことではあるまいか。
  (書道誌「奎星」一般誌 三十二年新年号〕




      ○ 浮 身 と 書 道

 浮身とは水泳の場合に水面に顔と手先と臍と両足先を浮かせてじっと動かないでぽかんと体全体が浮く。そして天を仰ぎ空行く雲をみる。海水では浮力が大であるから浮身も易いが淡水では仲々そうは問屋が下ろさない。去年の夏、池でやってみてうまくぽっかり浮いた。それから何日かの後にプールでやってみてもうまくいった。うれしさの余りとうゝゝ写真屋を呼んで来てそれを撮ってもらった。
 浮身は先ず第一に身体全部を充分伸ばすことである。第二は手先と足先を水面上に出すことを意識する。第三は空気を一杯吸って呼吸を止めること。第四は静かな動作で浮上することである。一度浮き上ることに成功したならば大きな呼吸してもよいし歌っても気をつけて居れば沈まない。何分でも何十分でも。波さえなければ鼻に水が入る心配がない。空を眺めてぽっかり呑気に浮いて居られる、全くの極楽である。水は畳よりも蒲団よりも軟らかいし、蚤やしらみも喰いつかないので。
 少年時代から泳ぎ抜いたし水泳選手もやって自由型で速力も出し続けた私も、四十才を過ぎて脂肪肥りとなりぽかんと浮く様になった。一見死んだ様な形だが手先と足先が浮いていることで生きていることは自分にも他人にもわかる。昭和二十九年夏まではどうもうまい具合に足先が浮かなかった。

 こうなると洵にのんびりしたもので書作品の場合にも影響して来る。上手にとか、うまくとか考えてやると堅くなり伸びが不足しておまけに紙数が多くなるばかりで結局ろくなものは出来ない。浮身の場合の様に何等こだわることなく筆を運ぶと自然傑作が生れて来る。浮身の場合「浮こう」と意識すれば沈み、「沈もう」とすれば沈み、「どうでもなれ」と捨てて置けば矢張り沈む。それでは浮きっこなしの答が出るが、そこが不思議でたった一つの浮く世界がある。
 書も人生も亦こんなもので特にこの頃の様なせち辛い世の中になればなる程、人間は余裕が必要である。これが所謂芸術によって培われる情操であり、人物教育である。水に寄する心、美に寄する心も亦楽しいものである。



      ○ 雪 の 東 京

 二月始めに奎星展審査の為に上京した。第一日目に鑑査を終り懇親会の後、荻窪駅北口に出て徒歩約十分。大山名人宅へ着いたのが夜の十時頃。それから明け方の一時まで四方山の話やら書談。さては揮毫。名人の鋭い感覚、御令室の叡智、田舎者の私は全く参ってしまう。昨年の夏も一泊をわずらわし。今度で二度目。ぐっすり寝込んで眼がさめたのが十時。「寝る子は丈夫」とか。いやはや。名人を出迎えのタクシーが家の前に。私も外へ。雪であった。東京はそれまでに何十日間というもの雨すらなかった。何れ又と名人とお別れして急いで朝食。浅い雪の道路を御令室と坊やと三人で附近のバス停留場へ。粉雪は傘とオーバーにそゝぐ。東京の人よさようなら。車中の人となる。雪は止まない。

 上野の美術館へ着いたのが十二時前。審査を終って座談会は夜になった。審査員出品としての拙作「浮身」は線と点による感覚の表現でこれは第三室に陳列された。そしてこの作品は「杉並区天沼一の二二五大山名人宅」に納まった二月三日には雪は後かたなく消えた。東京は矢張りいいと思う。テンポが速い。起スピード。今日の芸術も亦。そしてその夜の東京も美しかった。急行「あき」は東京駅をすべりだした。ネオン輝く美しい東京よさようなら。東京の人よさようなら。だが車中の私の頭に点滅するものはこんな浪漫的なものばかりではなかった。実にこの世紀を支配する芸術の知性的、意志的な洗礼を今更の様にたゝきつけられた。それがたとえ淡雪にせよ電車やタクシーや人の雑音にせよ。寛永寺の鐘の音が不忍池の水面に響き辺りの空気を震わせていた。古いもの、新しいもの、それは鐘の音と共に流れ無限に拡がつて行く………。




      ○ 大  字

 私は最近岡山市の深谷家の為に六曲屏風一双を揮毫することになっている。その屏風は銀箔で材料はわざゝゝ京都から取り寄せる。先ず之だけでも三万円を超える筈。何や彼で数万円かかるのである。
 半双には「夢」と横に。今一つの半双に「雲」と之亦横に。書体は草書にしたい。夢(理想)は現実に足場をもたなければならないし、雲も亦。大自然と融和した人間位呑気で楽しいものは又とあるまい。この揮毫に当って使用する巨筆は岡山市山崎町の西文明堂の店頭に見本として釣り下げてある。それの元締が鋼鉄。毛は山馬で淡茶褐色。毛の長さ約一尺。軸は両手でぐっと鷲ずかみ。軸木は太い黒さや。墨量は二升か三升。これは前以て朝日高校書道部の生徒諸君二、三十名で磨墨すること実に四日間を要するであろう。一筆押えると約二尺となる。

 芸術院会員である豊道春海翁の日展審査員出品作縦額「虎」一字の大字を何年か前に私は観たことがあったがその字の縦線の巾が五寸以内と記憶する。それと比較すると今度の私の場合はそれの二、三倍。こんな馬鹿げたべら棒な大字は未だ日本書道史では拝見しないが只中国の書には大自然の岩上に書かれた大字が刻されて現存している。日本でも一休禅師が筆をぞろゝゝ引張って山上から里まで線を書いたとか子供の頃絵本で読んだことがある。
 「夢」にせよ、「雲」にせよ上手、下手は問題でなく思い切って堂々とやればよい。




      ○ い か れ た 頭

 常識を逸脱した人の頭脳の働き それを今頃の言葉でいかれた頭と言う
 いかれた頭は素晴らしく楽しい 常に夢の世界に遊んでいるから
 だがきまりきった人にはそれはわからない 気狂いに一歩手前だもう気狂いなのだ
 だがそれを自分は知っている まだゝゝ気狂いになりたいと言うことも
 気狂いの度が増す毎に傑作が生れる 書にしろ絵にしろ音楽にしろ
 けれどもこんなものの価値は 死を限界として歴史が批判するであろう
 死というものはそんなに厳粛なものなのか
 いかれた頭、いかれる頭  汝幸福なりや、苦悩なりや、委す。
  (昭和三十三年五月二十四日朝)




      ○ め  い  人

 凡人の上に達人あり、達人の上に名人あり。名人は神技を現わす。更に迷人あり、人と生れ来たが故に浮世にある間は迷う。「悩ある者は幸なり」とか。だが時に迷うのは暇な人間とも言うべきか。其の次に迷尽というのがある。迷が尽きるのであっては人間ではないから迷をことごとく経験するのである。人の為に迷いを尽くしに尽くすのである。そして報いを求めない。利害損得を超えること。それが人の人たる所以と信じて止まない。個々の能力の差、特色はあるにせよ六、七十年のお互人間の生命は高次なものからすれば一凡夫に過ぎない。凡夫こそ永遠の平和であろう。
 迷尽ということを余公寸知氏が教えて下さった。自分のおやじと思っている。
  (昭和三十三年五月二十四日(土) 午前四時十分)




      ○ う ど ん

 朝日高校には食堂がある。これは旧六高の食堂が昭和二十年の空襲でやっと難を逃れて残ったもの。この食堂には平素「うどん」「パン」「クラッカ-」「ホットドッグ」「牛乳」等を売って居り昼食時には生徒が満員でにこゝゝし乍ら頬をしきりに動かせている。「うどん」は只今のところ一金拾五円。
 ところが岡山市で県立高校の普通科と言えば朝日高校と操山高校の二つだけ。昭和三十二年三月に朝日高校を志望した某中学生が言ったとさ。「僕が朝日高校を志望する理由は朝日にはうどんを売っているから」と。操山高校には「パソ」や「牛乳」を売っているが「うどん」は今のところない。この生徒の希望はかなえられず操山高校に入学した。そうして「うどん」が食べられぬので悲観している。
 現時代の青年は物事を判然と割切って考える力を持っている。この点筆者等の明治晩年に生れたものは割り切るのに仲々憶病なところがある。両学校差を「うどん」で審判したところに意味深長なものを暗示しているかも知れない。筆者は想像するにこの生徒は学問、体育共に傑れた人間だと。某君は現在高校二年生であるが残念乍ら未だ会ったことがない。会いたいものだ。
  (昭和三十三年五月二十四日 午前四時半)





      ○ 天衣無縫の書

 天の衣は無限大にしてそれを縫うことは不可能である。此の如く人間の中にもべら棒式なのがいるらしい。そんな人間の書は又整理がつかぬ程間抜けていて常人が一見してかいもくわからない。天衣無縫の句に会えば全くいかれた気持になり今日で言うノイローゼとなる外はない。
 「大賢は大愚に似たり」と言うが、馬鹿にはつける薬もない。天衣無縫を剣では「八方破れの構え」と言うが之は隙だらけで名人もこれにはぎょっとするだろう。名人の眼はよく見えるからその隙だらけの構えに参ってしまうかも知れない。「八方破れ」は結極平凡ということだろう。この平凡人はおそれを知らぬので「蛙の面に水」式で何とも手の出し様がない。天衣無縫の書の例は支那の画家八大山人。

 昭和二十四年秋のこと東京の博物館で彼の書をみた。それは晋の王義之の蘭亭叙を唐の三大家である欧陽詢、虞世南及び褚遂良が太宗皇帝の命により臨書したもの。それを八大山人が臨書したものを観た。複臨というわけである。
 義之の書は日本人には古来から親しまれて来た。支那では勿論随一の書き手である。形は縦長であり高格であって響は極めて高い。それを臨書した三大家のものもこの点に於ては同様に感受される。だが八大山人のは「永和九年‥‥‥‥」の文章を行書で真似ただけでその書風たるや全く型を出て居て心身脱落の境なのだった。私はそれを観て「天晴れなるかな八大山人」と驚いた。
 日本では静岡の白隠禅師とか佐賀県の副島種臣(号を蒼海)のは天衣無縫の書である。この頃の日本は余程狭くなって人口過剰の為にか人間がこせゝゝしていてスケールの大きいのが少いのではあるまいか。それに比べると明治維新当時は大抜けの大人物が多々あった。然しひょっとすると現代にも天衣無縫居士が居るかも知れない。それは相変わらずふてぶてしい書を書いていることだろう。



      ○ 寝 む れ ぬ 夜

 ここ十日間というものは毎朝二時か三時に眼が覚める。そうして頭は澄みきって眠れぬ。今日は昭和三十三年十一月二十三日の朝まだき。朝日高校書道部員及びその保護者其の他はバス借切りで学校から赤穂岬へ行くのである。ここ朝日高校内の広々とした一隅にある教員往宅の一室の電燈の光の下にあって私はペンを取っている。もう秋に別れを告げて冬は静かに訪れつつあり、外は白みかけて操山山麓のこの校庭の草むらからは虫の音すらも聞こえて来ない。目さまし時計の音とペンが紙にすれる音、時に山陽本線の列車のひゞきがある。
 この部屋には昨日午後よろこび勇んで金光からやって来た小学六年の三女と小学四年の次男。及び附属中学三年の長男が皆フトンをかぶってすやゝゝと眠っている。年をとるにつけて子供達はほんとうに可愛いいものだとつくづく思う。気狂いのように毛筆にしがみついていた頃はしきりに何かを求めていた関係かあせりや厳しさの為か子供達に無関心であったりむごく当ることも多かった。勿論女房にもである。だがこの頃では自分として少々和らいで来た様な気もする。次第に土に化する日が近ずくことを体が知るからであろう。まだ老年期ではない。四十七才だ。そして精神年令は相変らず子供である。身体的には大人であるがとても一生涯精神の大人にはなれそうに思われぬ。よしたとえそれが瞬時可能なことがあるにせよ自分はそれを直ちに打ち消してしまう。現実から逃避する。そして夢をあこがれている。それは子供達と同じ世界である。
 身体的に大人になったこの頃になってやっと自分というものがわかりかけて来た様な気がする。それは今が今まで常に夢ばかり追って来た自分であったことを。然し現実を全く知らない訳ではなかつたが、やつと現実を味わうこの頃になってみればそれから逃避しての夢の世界、子供の世界へのあこがれが愈々尊いものに思われて自分はこの世界に生きるのが天命なのだ。これが幸福というものだ。それにひたりきること。その外の事はどうでもよいことだ。そう信じて生活するようになった。それでもちょいゝゝ現実のいかゞわしい事に頭が向くこともあるが忽ち之等を整理し棄却して夢の世界に行脚する。まあ楽しい一生なのであろう。だから子供の頃が再び甦って来て洵に楽しい。そうなると死んだ母親や父親や姉の事を偲ぶのである。そして生みの故里をいよゝゝなつかしく思う。又今までにお世話になった人々を思い浮べるのである。
 赤穂行が決ってからというものは子供の様にうれしくてゝゝ眠れない。恩師大原桂南先生御夫妻にお願いしたところ同行してやろうと大変よろこんで下さった。先生は巳に七十九才の御老齢。邑久郡邑久町下笠加に隠居していられる現在、余程の事がなければ岡山へも出られないのに加えて奥様と御一緒に赤穂行を孫弟子である朝日高校書道部の生徒達と共にして下さる。何という幸であろうか。
 先生からすれば自分などはまあ書の不良息子といっていい存在であって愚鈍の最たるもの。親にとってはこの足らぬ子に対してこそ情愛が濃くそゝがれるのであろう。自分としては相済まぬことであり同時にうれしくてならない。だから十日間というものは朝未明から眼が醒める。

 フトンの中で静かに来し方行く末を思う。一日一日は早くたつのに二十三日が仲々来ない。人間の心なんて他愛のない誤差を持っているものだと此の際程痛感したことはない。二十三日は今日なのだ。だが仲々朝がはっきり来ないではないか。書道部主将三年の曾我英二君(号を英丘)もこの日が仲々来ない。楽しくて楽しくてならないと先日私に語っていた。皆今日を待ちあこがれているのだ。
 赤穂行はこれで二度目である。昭和三十一年秋、当時の主将山崎信義君と山根準治君(号渓雪)が朝日高校三年生の頃に行った。これ等の人々によって選ばれた赤穂行。永遠に生きた赤穂時代の大石蔵之助良雄以下の四十七士。之は夢ではない現実なのであった。夢をみ続ける現実の私はうれしく思う。




      〇  美

 長距離電話がかゝって来た。倉敷市連島町の水松さんからだと電話受信者から私に伝えられる。この頃頭がぼやっとしていることが多いので人の面影も仲々思い出せないことも多いがこの人のことは不思議に直ぐ思い浮べた。戦後一度会ってその後数年は文通も途断えていた。私や妻が小学校の教員時代の教え子である水松靖慈君(号を素心)は立派に成長されている現在である。御自身の勤務する会社の門標揮毫をと私に白羽の矢をたてられたので私はそれを受諾し、他に色紙八枚に「和」を書いた。これは会社の各部屋に掲げられるそうである。当夜は宿直に当っていたが、助手は曾我英丘君が万事引き受けて好都合であった。





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