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書道理論・人生と書道

「人生と書道」

V72-2=Bar人生本 



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 この書論の中で記述されている内容が、河田一臼先生の書道に対する姿勢が如実に表れているので要点をかいつまんで次に示します。

<<<書道とは>>>
 「書を通じて道を極むるものなり」私はこう定義し、信じ切っている。専門家としての私はそうであるが被教育者の立場に於いては「書を通じて道を追求するものなり」としてよいであろう。
  人生は死に至るまで求めて止まないものだし、究極はないのであって、仮に有りとすればそれは錯覚に過ぎない。その点からすれば道の極致は存在するが如くにして、実は存在しないものとも言えよう。

  故に有るようで無い無いようで有るものが道であるとすれば、それを極むることのねらいそのものが果たしてどうかとも思われるが然し人間としてこの生命をかけた態度でなくてはそこに必然的に甘い、そして隙の多い生活になりはしないかと思う。
 追求する態度ということになれば、全く謙虚な態度であって目標を常に高次なものに置いて求めて止まない姿そのものである。
 こうしてこの二者を比較するとき、前者は究極であり、後者はそれを希求して止まない過程であると言ってよい。前者は専門的の謂であり、後者は一般的な謂と言ってよいであろう。
 何れも一致すべき点は人生を力強く生き抜くことに変わりはない。


<<<道とは>>>
 学者も宗教家も種々な定義をし、述べている。「神の摂理」と言ってもよいし「仏」といってもよく、キリスト教に於ける「天の父」とも言い、哲学的には「大宇宙の根源」とも言い得よう。
  何れにしても一にして二に非ずと言ってよい。その一から無限大に拡大されている。そしてこの一と無限大は合致しているのだ。仏教ではこのことを「真空妙有」と言っている。「真空」とは純粋無雑であり「妙有」は不可思議に存在し、現れることで全く微妙なのである。

  書道に於いてはこの両者を「白黒」としてよいだろう。絵画に於ける色彩ではない。やり換えを許さない、厳粛なもので一本勝負なのである。敢えて言えば白と黒の対決であって中間的な灰色は許されない。
 東洋の芸術は簡素深遠として永く伝えられて来た。その点書道としては黒い墨一色で白い紙に表現するのであるから全く簡素であり、その人間の意志表現を点と線で構成されている文字で為すのであるが、その文字は東洋特に中国数千年と日本二千数百年の歴史の伝統の上に有り全く深遠そのものである。

 実用に根源をもつ書道は毛筆を使用するようになってからは特に芸術として価値ずけられて来たのであるが、書道は書に止まるのみでなく、それを生活に広く及ぼす。従って大宇宙観と人生が融合すべきだと信ずる。
 この時最早書道は「道」となっている。生活ということになれば芸術と実用は全く一致する訳であるが、この二面を具有してこそ真の書道であって、これは書道の宿命と言ってよかろう。

<<<永遠性>>>
 「人間は短く、芸術は永し」と言われているが、全くその通りで人間の一生は限られている。この芸術の永遠性は特に芸術する者の信念でなければならないものだろう。
 古人も現代人もはたまた未来人もそうである筈である。この永遠性とは人間の生死を超えたそのものなるが故に最高である。書道の白と言い、仏教の「真空」と言い、神の「摂理」と言うもこの永遠性であり、不滅なものを信じての謂と思われる。

 故に「白即黒」であり、太陽は万物を照らし、「真空即妙有」であり、「一即千変万化」なのである。かかる真理を悟得した人間は永遠であり、その人間が表現した書そのものも永遠でなければならない。
 その逆も真なりで、この境地に非ざる人間の書表現は永遠性を欠くのであって、それで一生を終わるとすれば技術の域でしかない。

 芸術において技術は極めて必要ではあるが、技術はあくまで過渡的なものであり、決して到達点ではない。技術を超えたものでなければ道とはならないのである。
 道は全く時間と空間を超えたものであって、その生きた人間が執筆しての書表現はこの時空を超えたものなるが故に永遠性なのである。
 従って永遠性は特に芸術家の生命である。

<<<古典>>>
 文字にしろ、音楽にしろ、書道にしろ、古人の遺産は多い。現在有るもの、失われたもの、それは無数と言えよう。その中で現存して眼に映ずるもののうち歴史の批判を経て価値評価されているものは総て古典として尊重すべきものであることは勿論である。
 書道に於いては石碑、金属、木、亀甲、獣骨、紙等に記録されて残っている。更にそれ等を拓本とし、法帖とし、又写真とし、これ等を対象として手本ともされている。
 何れにしても古典とは過去のもので手本としての文化価値あるものと解してよい。


<<<書の古典のどこを観るか>>> 書は筆致の妙をその内容とし、間架結構及び配置をその形式としており、この両者の調和したのを優れた書としている。
 筆致の妙は運筆の状態から生ずるものであり、間架結構は空間をとって、点や線(書)を構成することで、簡単に言えば文字の形なのであり、配置は形相互の関係である。
 運筆の状態は各様であるが、細説すれば、速度、長短、太細、方向、などの変化であり、又一面毛筆の性能は、弾力、ねじれ、開閉等であって、多数の毛で作製されている筆がこれらの条件を各様にとり混ぜてうまく調和し筆致の妙となる訳である。そして運筆の状態の如何によって線質が各様に変化するのである。

 これが書の内容美であって、例えば人間の精神美なのである。運筆を大まかな言い方とすれば、用筆法とはその細部の状態の謂であると言ってよい。間架結構はは形式美で、人間に例えれば肉体なのである。
 人間は精神と肉体がうまく一体となってこそ人間であることは当然である。それでは何故に人間に例えをとるかといえば、書はこの万物の霊長たる人間のみが表現するのであって、人間それ自体に切実感があり最も身近なものであるからである。
 なおこの間架結構においては点と線(書)の形、この種々な形を持った点と線を組み合わせた一文字の外形、その文字の複合された外形、それは配置へと発展するわけである。
 而して線は一般的に理解されやすいが強いて言えば点はなかなか理解に困難であるともいえよう。点は微妙でしかも帰結点と考えられるからでもあろう。

 そして点にも「観える」ものと「観えない」ものの二つがあると考えられる。これは具象と抽象であって、この二者は別個の姿をとっているようであるが実は同じなのである。
 文字の追求に於いてこの「点」から出発するとするならば最も簡単なのは三角形であって、次に長方形、ひし形、楕円形、半楕円形、などに更にこれ等を個々に複合すれば数多くの形に発展するのである。そしてこれ等の点の延長が線なのであるから、点から線へ、線から点への求め方はいずれであってもよい訳である。

 中国においては古代より「永字八法」なるものが伝えられ「永」字を書道の基礎的なものとしている。これを練習すれば書が上達すると信じられ行なわれもしてきた。
 ところが現代日本書壇中にはこれのみにては要素不足の故をもって基礎的価値を否定するものもあるが、それは創始者の真を解さぬのではあるまいか。おそらくこの創始者は書表現の単純化をこれに帰結したのであって全く書の基礎的なものである。
 只これにいささかの否定されるべき点がありとすれば、逆説的に複雑化への理論不足な立場からの考え方からかもしれない。この「永」字八法なるものはあらゆる角度から考察され、然る後にぎりぎりに簡素化されたものと思考する。
 従ってこれを変化応用させるならば必然的に芸術の多様表現となるわけであって、透徹して考察すればこの創始者の真意がわかるであろう。只この「永字八法」から複雑性に及ぶことに困難がありとすれば、更に複雑なる理論を必要とするであろう。

  ここにおいて私はこの「永字八法」の簡素にして深遠なるものに触れたいために、又芸術の複雑な表現に役立てるために「基本八十一本」を方便的に創作した訳であって、もしこれが客観的に是認できれば幸いである。
 この「基本八十一本」は点と線から成っており、方向、長短、太細、速度、位置、直曲等から平面、次に立体に及んで球を原理とし最後にこれを否定して「無」とし永遠性に帰結したのである。
  この究極は目的であって、大自然と人間の合致点なのである。方便は目的のために必要であり、目的のためには方便はなくてはならない。
 書道史上に於いて見る場合、その時代々々に真に生きた一流はこの根本問題を解決した上の書表現であるようである。時代こそ異なってもその時代に生き、真であり、底を突いた人間の書は永遠でなければならない。かかる観点から古典をも鑑賞、理解、表現されなければならない。


<<<唯物と唯心>>>
 人間の肉体、強いて言えば物質と、精神が合して人間であることは勿論である。人間の表現する書も又これと同じであって唯物のみでもならず、唯心のみでも有り得ない。この両者がうまく調和したものでなければならない。
 書の探求においても運筆という此岸から発して間架結構という彼岸に到達しようし、この逆もまた真である。只この中間的存在は灰色であって明徹を欠くが故に彼岸への到達は不可能なことである。
 かかるが故にそれが如何に現実的であっても永遠性の上にない限り人間を離脱したものであろう。何故なれば人間が万物の霊長である限りにおいて現実と理想の二面を具有して生きているからである。

 書の場合の「白即黒」と「白黒」は同一内容であって、東洋の所謂「以心伝心」なるものがそれであり、これは東洋的文化の遺産なのである。これは文と武の帰結点でもあり、直感とも云い、道なのである。西洋は論理的であり、分析的であるが東洋は綜合的であり、統一的であるとも言われている。
 多様の変化を統一したものを調和と言うがそれを直感するのである。故に論理を含まない直感は有り得ないし直感には必ず論理を含有している。

 20世紀の唯物史観に立った西洋人の中には東洋の芸術を求めるものが多い。書においてもそうであって、ニューヨーク展とかアムステルダム展とか西洋各地に書が紹介されている現代である。
 尚東洋人は西洋を学びつつあるのであって、美術、彫刻、建築、音楽、スポーツ等数多い。かくして世界人類の文化は近接融合しつつあるのである。
 地球上の部分を占める中国及び日本に存続する書道なるものが、よし局部的にせよ、気候、風土の上に特殊ずけられ発展した歴史であり文化であって人間社会の文化遺産としてその本質と価値は絶対に存続すべきものである。
 故に我々日本人の立場からも祖先の遺宝をあくまで持ち続け、それを子孫に伝えてこそ価値ある歴史なのである。言うまでもなく東洋に生き、日本に生活することからしても自然東洋の芸術を愛することは即ち西洋文明を素直に入れる態度でもある。

 この事はこの時代に生き0世紀の感覚で生活することであり、真にして新たなる人間に当然のことでもある。


<<<墨象芸術>>>
 太平洋戦争後、日本書壇に墨象芸術なるものが勃興した。これは西洋画論にヒントを得たものといえよう。
 書道は文字性を素材として来たことは歴史が証明するところであって、時代々々において書体の変遷はあっても文字性という限界線はあるが、この文字性に対して非文字性を挙げる所以のものは、前述の文字性の限界線を逸脱して文字の意味内容を持たない墨による表現が強調されたからである。

 この文字性と非文字性を統一する語は当然「墨象芸術」としてよいであろう。それは墨の具象による芸術の謂からである。 文字性の判然と浮き出ないもの及び非文字性のものを社会は前衛書道と称している。
 非文字性のもの、或いはこれに近いものは強いて言えば絵画的であって、文字性の限界を逸脱して広範囲なそして純粋美を求める態度であるともいえよう。
 絵画にしても写実から抽象へたどる態度と、直ちに抽象表現に向かう態度があるが、主観、客観の批判を超えて美の追求に変りはない。

 書道はもともと抽象である。されば墨象芸術なるものは還元であり、人間性への復帰の姿とも言えよう。永年文字性を取り扱ってきた人間の書表現が固定化し、形式化し、ひいては人間性を失うまでに小範囲の技術のロボットとなった今日、人間本来の個性尊重の立場から書家が本質そのものを求めて止まない、それが墨象芸術の非文字性まで発展していったのであろう。
 非文字性強いて言えば芸術的なこれは感覚の問題であって、それは人類共通面からしても国境がないとも言える。これが文字性ということになれば文字内容を解するという点において範囲は限定される。

 かくして文字性という書道と非文字性表現のそれの将来の結論を出すか否かの問題は別として、賛否、灰色を混ぜて現実はやはり歴史として流れている。
 東洋的のものは線そのものに内容を持ち、余白を残して余情を尊ぶので書道においても線は心線であり、その表現停止は余情である。西洋的のものは面と面からなる立体に意味がある訳であるが、この西洋画家の中には色彩の多様性、立体性を追求した未反対の立場である単一なる「白即黒」の点と線の平面の世界に関心を持ちつつあること、それが又芸術家だけでないところに20世紀から21世紀への移り変わりが特に目立って観えるようである。


<<<平凡>>>
 未分化な幼児から分化を経て不知不識の死に到る人間の生涯、言い換えればそれは平凡から非凡を経て平凡に帰着するとも考えられる。人生の究極を平凡とするならば、若くしてこの目的をはっきりつかんだ人間くらい有意義なものはあるまい。
 非凡な道行は難行であるかも知れないがこれを克服した挙句到達する境地は最早易業と言ってよいであろう。だがこの平凡に帰した易業なるものからは冴えた表現が自然と生まれるに相違ない。この平凡は荊の道を経て達した境地で未分化の平凡とは全然異なったものなのである。

 かくして道は平凡であり、技術は非凡に帰するであろう。勿論道から自然生まれる技術は超非凡とも言うべきもので、全く微妙にして外に現われぬだけ捕らえがたいが、余情とか余韻として他から感受し得られてもそれが何から発せられるかはうかがい知りがたいものである。
 道から生まれる技術は極めて高度なものであり、平凡はかくまで人生を決定付けるが故に極めて厳粛である。

<<<視聴覚>>>
 最近視聴覚教育をやかましく取り上げている。視覚は目により、聴覚は耳によるものである。書や絵や庭園や建築等は視覚、言語や音楽等は聴覚によるものでこの二者は人間の五官の主なる働きと言ってよい。その他に臭覚、味覚、触覚がある。
 人間の五官を超えたもの、それは六官の働きで直感とはこれを言う。このことは既にお釈迦様以前からのことで、視聴覚教育の重大さは今更のことではないが、急テンポの近代文明に一応取り上げられ人間教育に重大視されるのはもっともなことである。それは彼の般若波羅密多心教をひもとけば釈然とするわけである。

 強いて説明付けると物体の移動する速度よりも音の速度が大であり、音の速度より光の速度が大である。さらに「閃電猶遅し」に至っては光の発する以前の速さであろう。
 これは「機先を制す」のことでもあろう。現象が展開される瞬間は既に遅いのである。心眼とは透徹とか明徹であって光明である。光明は光の発する以前のものである。
 視覚といい、聴覚といい何れを主体にするにせよ、副にするにせよ起因するところは素質と鍛錬による人間の能力となる。しかるが故に芸術においては格別に感受性の鋭敏を第一義とすべきである。


<<<鑑賞と理解と表現>>>
 鑑賞とはすぐれたものを味わい愛でることであり、理解とは道理上より解することであり、表現とは具象することであって、この三者は相互に関連性があるのである。
 古人の筆跡にせよ、現代人のにせよ鑑賞するに当たっては心眼によって観照するのである。千変万化の表現技術とそれを生んだ根元を捕らえることは心眼の開けた人間によってのみ可能である。
 書に対して、これが如何なる運筆によって出来たか、その人間性は如何であったかを尋ねるのは道理によってのみ可能といえよう。

 かくして真理は人間を超えて不易であり、之を愛する所以でもある。昔から「真」「善」「美」「聖」といっているが、これらは面の相違からの謂であって究極は一に帰するものである。また身体的には健康でなければならぬし、精神的には「知」「情」「意」に分け、更に社会を加えて人間を考察しなければならない。即ち心身社会からの人間でなければならない。

 こうして社会的生活をする人間はその時代の社会環境に自然影響を受けるものであって、その人間が表現する書もまた、その時代の産物でしかない。
 時代と書、書と時代とは全く不即不離の関係にある。人間は常に安定を求めようと欲している。それはメトロノームが中心を経過して左右するが如くに。いかし中央に停止することなく。生きいき発展の人間の歴史もこの通りであって、それは又流れ行く水の姿でもある。

 故に書においても自然の運筆でなければならないし、書が時間的芸術であって音楽的分野に位置する所以でもあり、形態は絵画や彫刻や建築に類する所以でもある。而して運筆の無理は永遠ではない。この永遠性を水や空気にたとえるのはむべなるかなである。
 だが自然界そのままの大芸術は造物主たるものの司るところであり、到底人間のよく為すところではないが、人間の芸術においては自然物を取捨選択して整理し、合法化したものでなけれべならない。
 往古以来、大自然に対した人間がそれを集約したものの一つに書がある。

 20世紀の文明は実にこの整理の極限を求める時代であって反面また、文化に培われた人間が人間自体のそれによってややもすれば失われんとする傾向に対し、人間性をとりもどさんとし、人間となる、いわば原始還元の時代でもある。
 ここに新しき芸術は展開しつつあり、現代書の新鮮味と本質がある。それこそ各時代に優れた書を出した人間は、その時代での人間追求の姿であった筈である。
 所詮は書もまたその人間以外なものではない。書は人間性追求の歴史の遺産といってよかろう。


<<<方と円と方円>>>
 方は四角であり、円は円形である。方に属するものに三角形、四角形、菱形などがあり、円形に属するものに紡錘形や円形等がある。方円とは方と円の合致したものである。
 精神上の方円は自由自在を意味し、また千変万化を言う。方円の器にはしたがいながら、岩石をも通すのは水の力なのである。
 これが清濁併せ呑むという偉大なる人間の例えでもあって、彼の大陸中国に於いて広漠たる土地と五億の民と数千年の歴史からの遺産である漢字で書かれた書の規模の大きさでもある。

 従って漢字書が一般に男性に好かれる所以でもあり、我が平安朝に勃興した草仮名(平仮名)の優美が一般に女性に歓迎されてきたのと対照的といえよう。
 所謂南船北馬。中国に於ける揚子江を境としての南、北の書風に於いて見るに、一般的に北方書は圭角多く、巍々と聳える絶壁の山は、寒冷いや増す土地に於いて生活する人間が不倒不屈なる意志力こそ旺盛であって、それが書風の特色となっている。一方南は気候温和にして、地味肥沃、従ってこの地方の人心は豊潤であり、書もまた一般に円満にして温厚なるものが特色ともいえる。
 この気候風土と人間と書に関して当然日本にても言い得ることであって、北方の大胆峻烈なるものに対して南方の温順緻密さは容易にうかがわれるのである。


<<<運筆>>>
 運筆を大別すると虚線(画)と実践(画)の二つからなる。虚線は空中に、実践は平面上に描かれる。そしてこの両者は貫通されなければならない。これを筆脈の貫通と言う。
 筆脈の貫通は即ち気脈の貫通であり、気脈の貫通はとりもなおさず精神の一貫性なのである。精神の一貫性は書道においては「白」ともいうべく仏教においては「無」であり、芸術における「美」である。
 書道に於ける「黒」とは千変万化の働きを指すのであって、「白」に徹することは「黒」に徹することである。そして「白」と「黒」の関係はいささかのずれもなく全く一なるものであって、「白即黒」なのである。
 従ってこの「白」の時間的継続の間においての運筆であれば当然気脈(筆脈)の貫通がなされる訳である。この貫通こそ精神的陶治の価値であって、貫通をいささかでも阻害する概念があり又それで表現された書の価値は減少するわけであって、極上価値なるものは無雑なる精神状態から運筆された書でなければならない。

 この純粋無雑を損なうものは意識作用である。
 新しい目標を樹立する場合、或いはその方法などにおいて当然意識作用によるであろう。だがこれは究極点に至る段階であって帰結点ではない。究極を完成作品とするとき、それは未完成作品と言える。
 然し人間の成長即書作品とするならば完成作品そのものが未完成作品であって、完成作品とは一応完成したものとして打ち切ったに過ぎないともいえよう。

 かくして真の貫通なるものはいささかの意識をも棄却しなければならない。あくまで超潜在意識の持続を理想とするのである。超潜在意識とは無意識を更に棄却したもの、即ち絶対無でこれを「無」といい「白」とも言う。
 このものから必然的に生ずる運筆状態が虚線、実践を通じて千変万化の働きを為すのであり、この筆の働きは還元すれば執筆するその人間の能力であって、ひいては日常生活へと発展するのも当然なことである。
 かくして書道とは「書を通じて道を極むるものなり」と定義した如く、筆の修練の結果は道へ拡大発展され、人間と生活が一致すべきものなのである。
 書道もまた人間育成に価値を有する簡素にして深遠なる芸術である。

 運筆法は用筆法と相俟って、筆の弾力、ねじれ、太い細い、方向、長短などにより多様の変化を生じてくる。勿論筆軸の角度の多彩も如上の変化に関係あることである。
 なお虚線と実線とは必然的な関係においてあるのであり、実線の可否は虚線の可否であり、虚線の可否は実線の可否と言いうる。
 即ち虚実は一体のものとなるであろう。


<<<書道と人間形成>>>
 教育上の問題も多岐であって一概には断言できぬが、端的には「人間が人間によって人間になる」のであって、この為に施設、文化財、目標、方法などが考えられ、実施されているのである。
 勿論、人間はあくまで人間であって神や仏には到底なりえない。人間は先天的である祖先の血を受け、後天的な社会、家庭、学校などの教育によって成長するのである。
 書道は書を通じて道に至るものであり、道とは人間の当然たどるべきものなのである。書を知行することにより自然に道に合致するものなのである。
 人間の時間的推移が成長であり、その歴史であって、あえて言えば未完成の道程なのである。故に書においてもその人間の現在の境地での価値表現しか出来ない。
 だが「真空」と言い「虚」と言い「白」というそれは、絶対性であって、これを否定して人間は生きて行けない。ましてかかる場合芸術の永遠性とは無縁でしかない。
 芸術の美は人間社会に絶対に必要不可欠なものである。そして人間社会は調和の世界でなければならない。

 私はこう言う「平和は念願であり、されど現実は斗争である」と。人類の希求して止まないものはあくまで平和なのであるが、しかし武力行使如何にかかわらず、精神面においても常に斗争が自己の内外に行われている。それは善い意味においても、はたまた悪い意味においても。かくして地球上における人類の斗争は宿命的なものではあるまいか。
 されば我々人間生活の問題を解決し平和への手引きとも生り得る書道たらしめたいものである。書道における「白」は「悩」も「塵」もなき姿であってこれは「楽」な平和境なのである。この境地の作品を一応完成品として終わる。

 次に作品傾向を変えたいと念願する時、期せずして「悩」というか「意識」というか最早純粋の「白」ではなくなる。これは向上のための「苦」でもあろう。そして考察の極点に到って意識作用を払拭し終わって「白」となり作品が一応完成すると、この作品は前の完成作品と比較して姿が変わっている筈である。

 こうしてこの「苦」「楽」の心境が次々と繰り返されてゆき重なる時、最早「苦」「楽」の線を超えるであろう。そして「白即黒」としてきりつめた短時間の中に表現も多様に変化し、一枚一枚の作品も異なるものが続出する。又連度により疲労も軽減されるのではあるまいか。
 次々と飛躍する作品、謂わば「白」の状態が時間的に長ければ長いだけ日常生活における習慣となって、常人の世界とは別箇な世界にあるであろう。だがこの飛躍をきりつめた世界は平凡に帰するのではあるまいか。

 東洋に於ける簡素にして深遠なるものそれはかかるものをも指すであろう。故に「苦」と「楽」が合致してこそ真の人生といえよう。されば矛盾を解決せんとするのが人生とも言える。
 この人間が表現する書なるものは、その人間の能力だけは可能であって、これこそ真実であり、それ以上も以下もない。実に平凡なことである。私はこの平凡を仰いで止まない。
 この平凡から生まれたであろうところの「風信帖」は平安朝の三筆の一人である弘法大師が伝教大師へおくった書翰文で現在は国宝である。これは書道に於ける芸術性即実用性たることを如実に語る一例として有名なのである。
 だがこの平凡の底には偉大なる非凡が蔵されていることは勿論である。平凡こそ永遠であろう。

<<<基本81本>>
 内容については、別途コーナーを参照してください。


<実施の材料>
線の上を伝って描くのであるから、半紙二・三枚を重ねるか、強質の紙か、ガラス板などが良い。また硬筆(チョーク)、鉛筆などで行なっても良い。即ち基本実施方法は
  ー蠅覆匹砲洞中に実施する。
  ∧調磴砲胴圓覆Α
  3眼にて行なう。
  ぐ幣紊鯤9腓靴胴圓覆Α
この際材料は不用であるし、何時にても、又如何なる場所にても実施できるから便利である。

<発展と価値>
この基本81本は各方面への発展を意味し、平面からやがて立体に及ぶことを示唆している。
されば書の面にのみ止まることなく、森羅万象に向かっている。尚この構成は論理的に出来ており、実施に当たっては意志力と継続が必要であり、応用においては直観力の鋭敏と実行の迅速が養成される。
いわば古人から重要視きたった「知行合一」が理想的になされる訳であって、人間性は高度に向かうのである。勿論スポーツ、音楽、美術、彫刻、建築、庭園、華道、茶道、柔道、剣道などに於いても発展性と価値を含有している。
この基本を完全に行なうには頭が「無」でなければ不可能であって、「白即黒」が基本の帰結である。この基本を行なうことは一見迂遠の如くであるが実は生活の最短距離であって、書道に於いても各流派を含有し、しかも超流派としての道であり、中国五千年、日本二千数百年の書道の基礎でもある。
これによって鍛錬された自己の心眼で、あらゆる作品の鑑賞と批判と理解と表現は始めて可能なわけである。

<平面と立体>
紙やその他の材料に毛筆で表現される場合は平面運動であるが、毛筆の弾力がある場合筆は立体的に動く。なお虚線(点)と実線(点)の連続の運筆経路からすれば立体運動なのである。
書表現は平面上に描かれるが、それが深遠であると感受することはこの立体感に立脚し、更にそれを超えた人間の表現によるもので、この反対をも容易に伺うことが出来るのである。

<具象と抽象>
具象の線(点)は観える線(点)、抽象の線(点)は観えない線(点)で、これは丁度算盤における珠算と暗算の如きものであって、具象即抽象、抽象即具象でなければならない。
特に抽象の点、謂わば「基本81本」に於ける中心Oに打つ点Cは心眼ある人間によってのみ可能なのであって、所謂「最後に一手あり」という背水の陣の構えともいうべきものは透徹した人間の極点である。
この東洋芸術の簡素にして深遠なる所以のものである。私の書の原理は球である。人もしそれに外接する立方体(或いは多角体)であると言わば、私は更にそれに外接する球であると無言の声を発するであろう。かくして私は常に永遠を求める。

<筆の角度>
書写する場合の筆の角度は自由でなければならない。
図“庄図〜小円 





   図
 図,砲いて、筆 A O を平面に置く。穂先のO点を固定して、筆軸をAECGBに移動すれば、筆軸の頂点は半円周を描き、筆先は半円を描く。更にこれは立体的には半球となり、ひいては球となる。
平面書写の場合、筆の動きの極限は半球であるから、その中に於ける任意の角度において運筆すればよいわけである。
                     
 次に角度の三つの場合を示す。
  図.
     図
 尚筆心と平面の角度を示さないで次の三方法によるものもある。
筆を引く。    Hと呼称
筆を垂直にする。 Sと呼称
筆を突く。    Tと呼称

図. 図
これらH、S,Tの動作を個々に、あるいは連合して運筆する。例えば「Hにて直a」、「Sにて表曲c」、「Tにて裏曲a」とし、連合としては「HSTの順にて直a」、「STの順にて直c」の如く呼称して運筆させる。尚穂先の経路の条件も与える。


<支点の固定と移動>
 固定の場合、執筆点をPとする。支点のPを固定して穂先を描かれるべき直線AOBの中心を通して運筆すれば紡錘形A'MB’Qが出来る。

 この形において運筆PO即ち平面に直角をなす場合において出来る巾MQが最広である。
 筆のことを筆鋒ともいう。鋒を刀剣とする場合は深く斬り込むわけであるが柔らかい毛は曲がって面に拡大される。故にこの場合、「深く入る」ということは「巾が広い」ことであり、「巾が広い」ことは「深く入る」ことである。
 所謂「筆が入る」という感じを図は理論的に説明したもので、只「筆が入る」と感ずるのは主観的であり、経験の深い者にのみ可能でしかない。

 従ってこの図示は客観性への方便の一例に過ぎない。この主観と客観の合一点が、書を通じての道の体得なのである。この方便により目的に達し得るし、目的には方便なくしては達し難いのである。ことに現今の教育は教科目数において、又限られた時間、年月におかれている故に可能な限り「時間と距離を短縮せねばならない。更に、現20世紀の急速度の文明に生活し、限られた人生に意義を求めるならば、当然最短距離でなければならないし、科学的であり系統的でなければならない。

最短距離の反面「迂直」ということがある。「迂」は遠回りを意味し、時間的には遅い意もあろう。これは所謂「ゆっくり急ぐ」ことであって、前述の「時間と距離」の短縮と、「ゆっくり急ぐ」ことの二者は矛盾のようで実は矛盾ではない。この矛盾を逃避せず、前進して解決する。かかる人間こそ現代人類社会に生きる人間と信じている。かくして人間は生き抜くべきである。
図ぁ檻図ぁ檻図ぁ治 

図ぁ檻

 支点Pを固定して筆先にて円周を描いた場合は図ぁ檻韻稜,になる。即ちこのとき筆全体の動きは円錐をなす。想は立体に移行したわけである。移動の場合、筆を垂直にしたまま平面に円周を描くと図ぁ檻欧稜,円筒となる。

 かくして筆全体の動きは立体であっても、書写されたものは平面である。故にこの平面描写から立体の深さ、高さを観るべきであり、この高い、深い立体から淡々たる平面表現がなされなければならぬ。之平凡にして非凡、非凡にして平凡であって、人間の理想であり帰結点でもある。

<動きの極限>
図.
 図イ狼紊乏粟椶垢詢方体であり、更にそれに外接した球を示す。かくして書の原理を私は球にしている。
 人もしそれに外接する立方体(或は多角体)であると思考するならば、私は更にそれに外接する球であると無言の声を発するであろう。
 かくして方円は自由であり、千変万化であり、永遠である。


< 投 筆 >
 投筆とは支点から指が離れた状態である。
弘法大師が応天門の額に投筆によって、点を打ったと伝えられるが、真偽は別として古人の透徹が汲み取れるわけであって、大師の自由な書が如何に絶していたか。
 こうして日本はもとより中国の書道史に挙げられる者と、優れた能書家の書は存在すると否とにかかわらず不滅であり、永遠である。現代を超えて歴史の審判は実に厳正である。

< 形 >
 書の形に論及すればまず点と線の形があり、更に一文字の外端を直線或いは曲線に結んだ形があり、更に二文字以上を連ねた形があり、これを団とすれば、次に団と団の連合による形があり、この最後的なものを全形と呼称する。
 なお点の延長が線であり、その点と線で出来ている文字においては、点や線から拡大して全形に及んでもよいし、全形から縮小して点に至ってもよいわけで、この二方法の何れをとっても帰結するところは一である。
 ここでは点と線から拡大して考究したい。

 〇鯵儼
鋭角三角形
 イ.鋭角三角形



鈍角〜長保〜閉口 ロ鈍角三角形


 ハ直角三角形



  菱形


  D絞形


  な森垰擁娵
 

梯子〜円
ツ形(台形)



 λ多邨繊僻勝



 П澤繊僻勝
  以上は点(線)の形の先ず代表的と思われるものをあげ、その各々が八方に働くことを示している。
 この外に多数の形、或いはそれらの複合形が考察され、之が発展して全形となるわけである。これらの代表的な形を筆で描くことはなかなか困難であるが、目標を正確さに置くことは極めて重要であって、必然的に運筆法(用筆法)が的確に行われることになる。
 これ等の形を表現するには、一動作の運筆が良い。しかし中にはどうしても二動作、三動作を必要とするものもある。
 各々の点線の形を基本の方向に当てはめる時、<・中心から外へ、・外から中心へ、・中心を経過する>の三つの場合が考えられる。


<一文字>
 一文字の外形は種々あるが、之を書写する場合重要なことは筆脈(気脈)の貫通である。如何に形が整備されても筆脈(気脈)の貫通を欠けば所謂「死んだ書」であり、貫通した場合は「生きた書」なのである。
 書における形は外形美であり、運筆は内容美の二つに分けて考えられるが、この二者の調和が傑出した書なのである。

次に一文字の外形を述べる。
人生と書道図 図
(1)三角形 

(2)菱形 


(3)長方形 


(4)平行四辺形 



台形
(5)梯形(台形)


(6)紡錘形


紡錐〜半円
(7)半紡錘形


(8)円形


(9)半円形



< 団 >
 二文字以上を連ねた形、即ち団において一文字にもそうであるが如く、端正な形と歪みの場合の二つがある。
人生と書道図人生と書道図
 図 ─    図  


 三文字以上の団の外形も之に準ずる。而して、各々の団からなる全形も同じである。
 形のとり方には二方法がある。
一つは出来上がった文字、団の端々を直線あるいは曲線で結びそれによりできた外形と、今一つは外形を先ず意識しその中に文字、団を当てはめるのとである。




人生と書道・続1

< 構 成 >
 点線によって適宜な空間をとって結合させて文字にし、更に団に結ぶ。これが構成であるが、それは配置へ発展する。

1文字

‥間隔の場合
人生と書道図横   図 
 ・横の関係  




人生と書道図縦
 ・縦の関係 




・斜の関係 




不等間隔の場合 
 ・横の関係  
・縦の関係
 ・斜の関係


I分の大小
 ・横の関係  
部分の大小





部分の大小つづき








  この27種類の中、長四角内は比較が不可能なので除外する。

・縦の関係
  上下あるいは、上中下の関係も横に準ずる。

・斜の関係
  之も横に準ずる。
 大中小は比較の問題であるが、それは点線のの太細、長短と空間の粗密から起こるのである。この変化において考慮すべき重要点は文字なるものが歴史的に或る制約内にあるのであって、無制限なる変化発展が許されない。故にその限界内において変化させなければならない。

<白の分割>
 黒による白の分割であって、多数に出来るわけであるが、これのヒントを得る場合は次の二つがある。
人生と書道図

ヽ鯵Δら・・・自然界や自己の対象物一切からヒントを得る
    <例>樹木と鳥 図



人生と書道図
⊃款櫃防舛・・・一文字或いは団の形を心に描く
 図


<卒意の表現>
 意識作用を超えた自由の表現である。
勿論既往において意図や表現方法や形式その他が考察され経験されて後にこの卒意の表現となるわけであるが、中には充分かかる経路を辿らないでの卒意の表現もありえよう。
 常に新しき作品を創作するためには新しき目標の樹立と方法と形式及び材料と環境などが緊要である。これ等に関して充分意識作用が行なわれ、修練が為され、最後に超潜在意識による作品を一応完成する。

 卒意の表現は端的であって、既往の経験を基盤としていることに間違いはないが、新目標を常に掲げてそれに即する方法、材料、形式等による謂わば飛躍的なものを求めているか否かの二つに分かれる場合もある。
 常に新目標を掲げての作品の場合は次々と新鮮味あるものが生まれ、しからざる場合は概念化する。されば卒意の表現は結果であるという立場からこの二者の観点から打診する必要があろう。

 卒意の表現においてその内容が常に固定化し飛躍性が乏しく、更に飛躍に時間的にずれが大であるとすれば私は極力これを避けたい。
 一般に言われる卒意とは浅い意味にも解しうるが、真の卒意なるものは表現の諸要素をまとめ、ぎりぎりに短縮したものでありとすれば深遠である。と同時に次々と内容的に如実に変わる作品の端的表現が真の卒意の表現ではあるまいか。

<表現の主体性>
 一文字における場合に扁や旁とか、上・中・下部に主体性をもたせて表現する。また点や線、団、全形関係においても勿論である。
主体性の強調における場合他は自然副的なものとなる訳である。
 主体性は点線の太細、長短、方向、数量、粗密、墨量、濃淡、潤かつ、墨しぶき、形、貫通、分割などである。

<作品形式と内容>
 形式には色紙、短冊、扇面などの小なるものから、半切、全紙の幅、二曲・4曲・六曲屏風の如く大なるものがあり、額面にも縦横の形式で大小種々ある。
 尚、木材、石、金属、陶器、布等と範囲は広い。
また実用面における葉書、手紙などもあるが、実用面においては用に足る表現が主である。
 作品の表現内容は形式および環境に調和しなくてはならない。
表現内容の主体性の大別は
時間的にリズムに載るもの。
構成を主眼にするもの。
両者を兼備するもの。
 細部にわたっては前述するものと照合関連させればよい。

<遠心と近心>
 「基本81本」に於いて考察するに、固定された中心点 O からの距離の大小により遠心と近心は決定するがこれは比較のものである。
次に中心点 O が移動する場合が当然考えられる。されば中心点が固定する場合と移動する場合にわたって遠心、近心に論及する。

 具象的に遠心運筆の結果は線(点)において拡大される。また虚線も同じである。近心運筆はこの反対に縮小される。
自由なる運筆はこの中心点の固定と移動によって近心的に或いは遠心的に為されるのである。
 運筆が自由になれば手元が決定して正確となり安定感をもつことができる。なお加えるに間架結構や配置の変化が多様になされれば統一あってしかも変化ある理想的作品が続出するわけである。

<理想と現実>
 書は芸術性と実用性の二面を具有することについては前述したが、精神的方面からすれば遠心の場合は眼を遠方にそそぐことであろう。近心の場合は脚下を注視することであろう。脚下を地とすればそれは現実であり、上方を天とすればそれは理想であって人間はこの両者を持っている。

 天と地の限界は地平線が決定し、空と海の限界は水平線が決定している。この厳然たる事実は視覚において一目瞭然たるものである。地平線とか水平線は確固たる決定線である。
 ところがこの線をキャッチすることは出来ないし、それに近づけない。しかし理想の天と現実の地はある。人間の衣食住は現実であり、更に高度なる精神生活を求めることは理想である。
 人間がこの両面にわたって高次なものにたどるのを宿命とすれば、この両面は限りなく高く、深くなければならぬ。それは大自然が存在するが如くに。
 こうして書においての芸術面と実用面もまた合一されねばならない。この例を空海(弘法大師)や王義之の書翰にみることが出来る。


<人間と環境>

(視る)=眼(識)                   眼(根)=視覚       色(境)

(聞く)=耳(識)                   耳(根)=聴覚       声(境)

(嗅ぐ)=鼻(識)                   鼻(根)=臭覚       香(境)
       【識】=六識ー【人間】ー六根=【感覚】  <主観>    六境<客観>
(味う)=舌(識)                   舌(根)=味覚       味(境)

(触る)=身(識)                   身(根)=触覚       触(境)

(認識)=意(識)                   意(根)=知覚       法(境)
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図配置






図




図




・起筆と送筆と終筆……点(線)はこの三部分からなる。
 人生と書道図.jpg









起筆と送筆における運筆(用筆)の状態に、速度a,b,cを加えると図阿里茲Δ砲覆襦
 図において結ぶ線は速度a であるから、b,c を加えれば計24本である。
,魯后璽辰汎り、スーッと抜く。
△楼貪抻澆瓩峠筆にて止める。
はAからBに移動するのに、その逆の運筆が平面にも描かれる。
又B点からの折り返しも当然平面状に活動する。
以上の´↓の場合、いずれの方向にも運筆は適用される。
・穂先の方向……之もまた平面においては360度が限界である。


図院治図院檻院帖直錣吠羸茲外向きの円







図院治図院檻押帖鎚羸茲外中内に変化する円







図院治図院檻魁帖鎚羸茲上中下斜め移動の横線
  
 


故に運筆の場合、意識すると無意識とにかかわらず、平面上に働く穂先は360度内にある。

・間架結構……構成に関して次の四つがある。
 ‥誓の巾、長さが同じ場合
 点線の巾、長さが異なる場合
 6間が等しい場合
 ざ間が不等なる場合

なお構成の方向には次の三つがある。
 〆険Α  ´⊂絏次  ´斜め

・技術表現の順序

…樟主体のもの
例=唐代欧陽詢の書・九成宮禮泉銘



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