Nさん、という画家のお客様が来られたので、例の盗作騒動についてお話を伺ってみた。

曰く、「作者以前に、どう考えても、選考委員・選考方法に問題がある」とのこと。

一般に開催されているコンクールなどでは、上手い下手よりも
「既視感があるかないか」「オリジナリティーがあるかどうか」が選考の一番の要素で、
少しでも「こういうのはあるな」という印象があると選出されることはありえないのだという。

ひも付きや、宣伝が主目的の場合は、主催者側の意向が選考結果に反映する場合もあるが、美術・芸術としての評価としては、その世界では認められないことがほとんどだという。

よく、映画などでオーディションは形だけだったのかなと感じたり、優勝者よりも準優勝者のほうが後に売れたりするのに似ているのかもしれない。

今回のように「素人が見ても同じに見えるもの」を選んだ選考委員たちが作者ほど叩かれていないのは、お役所仕事だから「犯人=責任者」を出したくないのだろう。

それにしても、元は作者の常識のなさが招いた事態。

実際、他者の作品を模写する画家は多い。
しかしそれは技術の探求が主眼(ゴッホの絵をモネのようなタッチで模写する人もいるという)で、作品として発表してはいけないものである。

模写も含め、さまざまな技術の探求を通して、画家は自分の中にある「線」を正確にキャンバスに投影する術を模索するのだ。

ピカソやブラック、ダリなどが、若いころに精緻なデッサンを残していることを、
「若いころはちゃんとした絵も描いていた」
のように理解してしまうが、
「ちゃんとした絵」どころか彼らの頭の中には昔から「抽象的なイメージ」が存在していたというのが事実のようだ。

精緻なデッサンは、彼らの頭の中にある「線」を寸分なく描くためのプラクティス、時代時代における表現の変節も、根源的イメージを表現するための模索、あの複雑なキュビズムやシュールレアリズムも、それが発表されるずっと以前に、彼らの頭の中に存在した実体だった。

目に見えるものを正確に描写できなくて、どうして頭の中のものを実体化させることができるだろう。

まさに「目から鱗」

「Nさんすごいよ」と思わず言ってしまった。

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