執筆作業のため、「笑い」についてあーでもないこーでもないとひとりで考えることが多い今日この頃だ。今日は「笑い」や「楽しさ」という点から「成長」という難しい問題を少しだけ考えてみることにしよう。
昨年くらいまでだと、街に出るたびに笑い声が聞こえてきて、フッと見るとその先には若い世代(高校生や大学生)がいた。
しかし、最近、笑い声が聞こえてきてパっと見てみると小学生やもっと年齢が下の2-3歳くらいの子供が目に入ってくることも多い。今まで僕は知り合いの子供でもないかぎり、ほとんど「かわいいなあ」といった感想を持つことはなかったが、最近、もうすぐ子供が生まれてくるせいか、街で子供に目がいき、どんな子供を見ても羨ましく思ったり、「かわいいなあ」と感じるようになってきた。
そして、そんな子供を見ているととにかく笑っていることが多い。僕も30歳を手前にして何人かの友人は結婚し子供がいたりするため、たまには子供と接する機会がある。そんなときに、僕からしてみたらまったくもって面白くないことを子供はずっと笑っている。また、大人の世界では「しつこい」と思うようなことでもずっと笑っているのだ。当然のことながら僕もそうだったはずだ。箸が転げても笑う年ごろなんてことばもあるくらいだから、歳をとるたびに、そうも笑ってられなくなっていくのも確かなのだろう。
そんなことは当たり前のことだろう。だが、僕はそんな当たり前のことに対して「なぜ?」と感じてしまう。こんなことをここ数カ月感じたり、考えたりしているのだが、何週間か前に会った同い年の友人が面白いことを言っていた。
「最近つくづく思うけど、高校や大学のころのように『心から面白いなー!』と思うこととか、ワクワクしたりとか、ドキドキすることがない」
いろいろと話を聞いてみると、例えば、海外旅行に行くとして、大学のころなら、ものすごいワクワクやドキドキがあったり、実際に行ってみたら、自分の予想をはるかに超えたことが発生していたが、今度、もし、どこか海外に行くとしても、予想をはるかに超えることもなさそうだし、もしあっても、自分を興奮させてくれるような何かはなさそうで、冷静な自分がいそうで何だか嫌だ・・・といったニュアンスのことを言っていた。
そもそも様々なことに対し、喜怒哀楽を抑え冷静さを保ったり、様々なことに対し予想ができてしまうことが大人になっていくことなのかもしれない。また、誰かと接したらそれなりに社会的な自分の立場をわきまえなければならないし、相手に対してたくさんの感情を全面的に出すわけにはいかなくなる。社会学者のゴッフマン的にいけば、どんな場でもパフォーマンスが必要だというわけだ。
誰かと旅行に行って「楽しさ」を全面的に出していても、ときにはそれがパフォーマンスであることに気がつくことで、冷めてしまうこともあるだろうし、相手がパフォーマンスだったことに気がつくことで、自分も「楽しさ」から目が覚めてしまうなんて場合もあるだろう。
ゴッフマンは『出会い』の中で様々な人との社会的相互行為をゲームだと考える。ゲームの最中には何らかの「膜」のようなものに覆われていて、その「膜」の中に没頭して本気で臨まないと「楽しさ」は感じない。ときには、膜の外から何かに邪魔されることもあるし、膜の中の自分やその他の誰かがゲームそのものを壊してしまう発言や行動をし、ゲームの「楽しさ」を喪失させることもあるのだ。
こうした考えに従えば、ある程度の年齢までは様々な場でゲームに没頭できることが多いが、次第に年を重ねることでゲームに没頭できない理由などが増えてきて「楽しさ」が得られなくなると考えることもできそうだ。
だからと言って年を重ねても、重ねたなりの楽しみ方もある。僕にも上で紹介した友人のような面がだんだんと増えつつあることも事実だが、その友人に対し「何らかか目標設定がないから楽しめないんじゃないの?」と指摘した。僕自身には今のところたくさんの目標があったりもするし、刺激も達成感もある。
だが、こうして「楽しさ」について、まとまりがないながらも一生懸命考えてみると、幼いころにあったであろう何かが現在の僕から欠落してしまっているような気もして、さびしさや虚しさも感じる。
こうしたことをおそらく多くの人は「大人になったから!」ということばだけで片づけてしまっているのかな・・・大人になり社会的な人間と化し、たくさんの障害物が増えるからゲームに没頭できない・・・現時点での僕の考えではそれが、「幼いころには感じていたワクワクした『楽しさ』」を失っている理由だ。でも、きっと他にもたくさんの理由があるのだろう。
僕の関心は、大人としての「楽しさ」の獲得方法ではない。なぜ、幼い頃にあったと現時点で考えられる「何か」が、次第に喪失していくのかという過程やその原因にある。きっと現時点の幼いころの回想だから、ノスタルジーという面もあるのだろう。本当は対して変わっていないのかもしれない。あるいは、本当は自己は一貫していないのに、現時点で「自分は一貫している」と考えるから「何かが喪失した」と僕は考えてしまうのかもしれない。だとすれば、何も喪失していないのだろう。でも、「成長」とはいったいどんなことを言うのかということを考え始めるとかなり難問であった。
もう少しすっきりしたいが、僕が今日考えられることは限界のようだ。まずは、関心のある「楽しみ」について、家にずっとほったらかしになっている案外高額なM・チクセントミハイの『楽しみの社会学』でも読んでみることにしよう。
昨年くらいまでだと、街に出るたびに笑い声が聞こえてきて、フッと見るとその先には若い世代(高校生や大学生)がいた。
しかし、最近、笑い声が聞こえてきてパっと見てみると小学生やもっと年齢が下の2-3歳くらいの子供が目に入ってくることも多い。今まで僕は知り合いの子供でもないかぎり、ほとんど「かわいいなあ」といった感想を持つことはなかったが、最近、もうすぐ子供が生まれてくるせいか、街で子供に目がいき、どんな子供を見ても羨ましく思ったり、「かわいいなあ」と感じるようになってきた。
そして、そんな子供を見ているととにかく笑っていることが多い。僕も30歳を手前にして何人かの友人は結婚し子供がいたりするため、たまには子供と接する機会がある。そんなときに、僕からしてみたらまったくもって面白くないことを子供はずっと笑っている。また、大人の世界では「しつこい」と思うようなことでもずっと笑っているのだ。当然のことながら僕もそうだったはずだ。箸が転げても笑う年ごろなんてことばもあるくらいだから、歳をとるたびに、そうも笑ってられなくなっていくのも確かなのだろう。
そんなことは当たり前のことだろう。だが、僕はそんな当たり前のことに対して「なぜ?」と感じてしまう。こんなことをここ数カ月感じたり、考えたりしているのだが、何週間か前に会った同い年の友人が面白いことを言っていた。
「最近つくづく思うけど、高校や大学のころのように『心から面白いなー!』と思うこととか、ワクワクしたりとか、ドキドキすることがない」
いろいろと話を聞いてみると、例えば、海外旅行に行くとして、大学のころなら、ものすごいワクワクやドキドキがあったり、実際に行ってみたら、自分の予想をはるかに超えたことが発生していたが、今度、もし、どこか海外に行くとしても、予想をはるかに超えることもなさそうだし、もしあっても、自分を興奮させてくれるような何かはなさそうで、冷静な自分がいそうで何だか嫌だ・・・といったニュアンスのことを言っていた。
そもそも様々なことに対し、喜怒哀楽を抑え冷静さを保ったり、様々なことに対し予想ができてしまうことが大人になっていくことなのかもしれない。また、誰かと接したらそれなりに社会的な自分の立場をわきまえなければならないし、相手に対してたくさんの感情を全面的に出すわけにはいかなくなる。社会学者のゴッフマン的にいけば、どんな場でもパフォーマンスが必要だというわけだ。
誰かと旅行に行って「楽しさ」を全面的に出していても、ときにはそれがパフォーマンスであることに気がつくことで、冷めてしまうこともあるだろうし、相手がパフォーマンスだったことに気がつくことで、自分も「楽しさ」から目が覚めてしまうなんて場合もあるだろう。
ゴッフマンは『出会い』の中で様々な人との社会的相互行為をゲームだと考える。ゲームの最中には何らかの「膜」のようなものに覆われていて、その「膜」の中に没頭して本気で臨まないと「楽しさ」は感じない。ときには、膜の外から何かに邪魔されることもあるし、膜の中の自分やその他の誰かがゲームそのものを壊してしまう発言や行動をし、ゲームの「楽しさ」を喪失させることもあるのだ。
こうした考えに従えば、ある程度の年齢までは様々な場でゲームに没頭できることが多いが、次第に年を重ねることでゲームに没頭できない理由などが増えてきて「楽しさ」が得られなくなると考えることもできそうだ。
だからと言って年を重ねても、重ねたなりの楽しみ方もある。僕にも上で紹介した友人のような面がだんだんと増えつつあることも事実だが、その友人に対し「何らかか目標設定がないから楽しめないんじゃないの?」と指摘した。僕自身には今のところたくさんの目標があったりもするし、刺激も達成感もある。
だが、こうして「楽しさ」について、まとまりがないながらも一生懸命考えてみると、幼いころにあったであろう何かが現在の僕から欠落してしまっているような気もして、さびしさや虚しさも感じる。
こうしたことをおそらく多くの人は「大人になったから!」ということばだけで片づけてしまっているのかな・・・大人になり社会的な人間と化し、たくさんの障害物が増えるからゲームに没頭できない・・・現時点での僕の考えではそれが、「幼いころには感じていたワクワクした『楽しさ』」を失っている理由だ。でも、きっと他にもたくさんの理由があるのだろう。
僕の関心は、大人としての「楽しさ」の獲得方法ではない。なぜ、幼い頃にあったと現時点で考えられる「何か」が、次第に喪失していくのかという過程やその原因にある。きっと現時点の幼いころの回想だから、ノスタルジーという面もあるのだろう。本当は対して変わっていないのかもしれない。あるいは、本当は自己は一貫していないのに、現時点で「自分は一貫している」と考えるから「何かが喪失した」と僕は考えてしまうのかもしれない。だとすれば、何も喪失していないのだろう。でも、「成長」とはいったいどんなことを言うのかということを考え始めるとかなり難問であった。
もう少しすっきりしたいが、僕が今日考えられることは限界のようだ。まずは、関心のある「楽しみ」について、家にずっとほったらかしになっている案外高額なM・チクセントミハイの『楽しみの社会学』でも読んでみることにしよう。