2008年01月

執筆作業のため、「笑い」についてあーでもないこーでもないとひとりで考えることが多い今日この頃だ。今日は「笑い」や「楽しさ」という点から「成長」という難しい問題を少しだけ考えてみることにしよう。

昨年くらいまでだと、街に出るたびに笑い声が聞こえてきて、フッと見るとその先には若い世代(高校生や大学生)がいた。

しかし、最近、笑い声が聞こえてきてパっと見てみると小学生やもっと年齢が下の2-3歳くらいの子供が目に入ってくることも多い。今まで僕は知り合いの子供でもないかぎり、ほとんど「かわいいなあ」といった感想を持つことはなかったが、最近、もうすぐ子供が生まれてくるせいか、街で子供に目がいき、どんな子供を見ても羨ましく思ったり、「かわいいなあ」と感じるようになってきた。

そして、そんな子供を見ているととにかく笑っていることが多い。僕も30歳を手前にして何人かの友人は結婚し子供がいたりするため、たまには子供と接する機会がある。そんなときに、僕からしてみたらまったくもって面白くないことを子供はずっと笑っている。また、大人の世界では「しつこい」と思うようなことでもずっと笑っているのだ。当然のことながら僕もそうだったはずだ。箸が転げても笑う年ごろなんてことばもあるくらいだから、歳をとるたびに、そうも笑ってられなくなっていくのも確かなのだろう。

そんなことは当たり前のことだろう。だが、僕はそんな当たり前のことに対して「なぜ?」と感じてしまう。こんなことをここ数カ月感じたり、考えたりしているのだが、何週間か前に会った同い年の友人が面白いことを言っていた。

「最近つくづく思うけど、高校や大学のころのように『心から面白いなー!』と思うこととか、ワクワクしたりとか、ドキドキすることがない」

いろいろと話を聞いてみると、例えば、海外旅行に行くとして、大学のころなら、ものすごいワクワクやドキドキがあったり、実際に行ってみたら、自分の予想をはるかに超えたことが発生していたが、今度、もし、どこか海外に行くとしても、予想をはるかに超えることもなさそうだし、もしあっても、自分を興奮させてくれるような何かはなさそうで、冷静な自分がいそうで何だか嫌だ・・・といったニュアンスのことを言っていた。

そもそも様々なことに対し、喜怒哀楽を抑え冷静さを保ったり、様々なことに対し予想ができてしまうことが大人になっていくことなのかもしれない。また、誰かと接したらそれなりに社会的な自分の立場をわきまえなければならないし、相手に対してたくさんの感情を全面的に出すわけにはいかなくなる。社会学者のゴッフマン的にいけば、どんな場でもパフォーマンスが必要だというわけだ。

誰かと旅行に行って「楽しさ」を全面的に出していても、ときにはそれがパフォーマンスであることに気がつくことで、冷めてしまうこともあるだろうし、相手がパフォーマンスだったことに気がつくことで、自分も「楽しさ」から目が覚めてしまうなんて場合もあるだろう。

ゴッフマンは『出会い』の中で様々な人との社会的相互行為をゲームだと考える。ゲームの最中には何らかの「膜」のようなものに覆われていて、その「膜」の中に没頭して本気で臨まないと「楽しさ」は感じない。ときには、膜の外から何かに邪魔されることもあるし、膜の中の自分やその他の誰かがゲームそのものを壊してしまう発言や行動をし、ゲームの「楽しさ」を喪失させることもあるのだ。

こうした考えに従えば、ある程度の年齢までは様々な場でゲームに没頭できることが多いが、次第に年を重ねることでゲームに没頭できない理由などが増えてきて「楽しさ」が得られなくなると考えることもできそうだ。

だからと言って年を重ねても、重ねたなりの楽しみ方もある。僕にも上で紹介した友人のような面がだんだんと増えつつあることも事実だが、その友人に対し「何らかか目標設定がないから楽しめないんじゃないの?」と指摘した。僕自身には今のところたくさんの目標があったりもするし、刺激も達成感もある。

だが、こうして「楽しさ」について、まとまりがないながらも一生懸命考えてみると、幼いころにあったであろう何かが現在の僕から欠落してしまっているような気もして、さびしさや虚しさも感じる。

こうしたことをおそらく多くの人は「大人になったから!」ということばだけで片づけてしまっているのかな・・・大人になり社会的な人間と化し、たくさんの障害物が増えるからゲームに没頭できない・・・現時点での僕の考えではそれが、「幼いころには感じていたワクワクした『楽しさ』」を失っている理由だ。でも、きっと他にもたくさんの理由があるのだろう。

僕の関心は、大人としての「楽しさ」の獲得方法ではない。なぜ、幼い頃にあったと現時点で考えられる「何か」が、次第に喪失していくのかという過程やその原因にある。きっと現時点の幼いころの回想だから、ノスタルジーという面もあるのだろう。本当は対して変わっていないのかもしれない。あるいは、本当は自己は一貫していないのに、現時点で「自分は一貫している」と考えるから「何かが喪失した」と僕は考えてしまうのかもしれない。だとすれば、何も喪失していないのだろう。でも、「成長」とはいったいどんなことを言うのかということを考え始めるとかなり難問であった。

もう少しすっきりしたいが、僕が今日考えられることは限界のようだ。まずは、関心のある「楽しみ」について、家にずっとほったらかしになっている案外高額なM・チクセントミハイの『楽しみの社会学』でも読んでみることにしよう。

拙著『笑いの教科書』がボチボチと本屋に並び始めたそうだ。まだAmazonには載っていないがグーグルで検索をかけると、Yahooやlivedoor、セブンアンドワイ、楽天、紀伊国屋などではネットで購入できるようだ。

本日は日野市にて笑いは世代をつなぐコミュニケーションになりうるのかという講演。中高年の方40名くらいに学生10名くらいの人が集まっていたのだが、たくさんの意見や質問も出て世の中の笑いへの関心度を感じた。

妻が里帰りをして一週間。一週間会わないと数年前の妻なら相当怒っていたと思うが、なぜか機嫌も良さそうだ。僕も一週間に一回くらいは行こうと思っていたが、まったく行っていない・・・そろそろ行かないとな。もう2−3週間で生まれるのかな。まだ名前も悩んでいる。いくつか候補もあるが、念のためにと姓名判断などをネット上でしてみると、気に入っているものに限ってあまり良くないと判断される。

僕は占いなんてまったく信じていないし、どうでもいいのだが、妻は「子供が将来、自分で自分の名前の姓名判断をして結果が悪いと悲しむかもしれないから、それなりにいいのを選ぶように!」と注文してくる。あーだーこーだとそんな意見に反論してはいるものの、命名の難しさに悩まされる今日この頃だ。

追記
検索エンジンでまだひっかりにくいようなのでリンクを貼っておきます。

「笑いの教科書ブログ」 http://warainokyoukasyo.blog88.fc2.com/
「笑いの教科書掲示板」 http://jbbs.livedoor.jp/movie/8338/

今週の土曜日に「世代をつなぐ笑いコミュニケーション」と題した講演を行う。本日、その宣伝のため、FM多摩のラジオ出演をしてきた。吉本時代に何度かラジオには出演したことがあったが、本日は生まれて初めての生放送ということもあって、「沈黙を開けないようにしなきゃ・・・」とか、「かまないようにしなきゃ・・・」とか、今思い出してみると結構、緊張してしまった。

出演時間は15分くらいで、2人の女性のパーソナリティーに講演に関する質問を受けたり、自己紹介などをしてきた。とにかくパーソナリティーのしゃべりのうまさに驚き、盗みたい技術がたくさんあった。

先日の結婚式のMCでの感想でも書いたが、自分自身のすぐに使えるボキャブラリーや落ち着いたしゃべり方と勢いのあるしゃべり方の緩急、的確でコンパクトな質問の仕方など日常会話でも意識して自分の悪いところを修正していきたいなーと思わされ、とても貴重な経験ができた。

昨日は大学時代の友人の結婚式だった。披露宴の締めくくりの新郎の挨拶の際に、普段はそうそう泣くことのない友人の涙の背後にあるものは何だったのかと少し考えさせられた。

自分ために集まってくれた人たちへの感謝の“表現方法”や”コミュニケーション”としての涙、舞台装置(昨日の場合だと、新郎の父の涙、司会者の感動を誘発する発言、参列者の視線、結婚式の豪華な飾りや照明などなど)の演出から派生した涙、・・・こうした自分の感情が主体ではなく、自分の外部に要因があるからこそ泣いたという考え方もできれば、もちろん自分を主体において、“自分が嬉しいから、感極まったから泣いた”や、それなりには労力や費用を払い作り上げた自分の式への達成感や満足感からの流れた涙・・・とも考えることもできそうだ。あるいは、普段、例えば、友人たちに何気なく感じている感謝は、多くの場合恥ずかしくて日常生活では言葉にできない。だが、結婚披露宴では、それを言葉にし、そこから生じる恥ずかしさが強烈過ぎるから泣いてしまうのかもしれない。正確に分類することはできないが、主体が何かを感じたから泣くという考え方だけではなく、泣いたから主体が何かを感じるということもあるはずだ。

心理学ではラング−ジェイムズの法則というのがあり、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」とか「腹が立つから殴るのではなく、殴るから腹が立つ」なんて考え方もできる。昨日の新郎の涙は決して悲しいからではないが、泣いたからこそ嬉しかったのかもしれないし、泣くことで嬉しさを得たかったのかもしれない。あるいは、社会学的にいけば、泣かざるを得ない権力が結婚式の締めくくりに行われる新郎の挨拶では発生している可能性もある。

僕自身も自分の結婚式では最後の挨拶で泣いている。自分の結婚式の感想では、集まってくれた人への感謝の思いや、普段の日常生活では実際に見ることができないが、結婚式では参列者が実際のその場にいるため「これだけ多くの人に自分は支えられているんだ」ということが認識できたり実感できるからこそ泣いてしまっとも考えられる。

結婚式の主人公たちの涙の背後にはたくさんの理由があるのだろうが、じっくりと考えてみるとなかなか面白いものだ。もちろん、招待された友人の涙なんて面も興味深い。なぜ、友人は結婚式で泣くのか。しかも、親友であればあるほど泣く気もする。友人の場合、特に、女性の場合かな・・・まあ正確には分からないが、これも考えてみる価値がありそうだ。

もう一点は新郎の友人のスピーチ、「結婚式でのスピーチだから新郎を褒める」という点を差し引いても誰のスピーチでも「いろいろなことをじっくりと考えていて、新郎はやさしい」ということは一貫していた。世の中のこととか、社会のことをじっくりと考えていることに関しては僕にも普段、新郎が見せてくれる顔であり、共感できたと同時にキャラがどこにいっても一貫していることに感心したが、彼のやさしさに関しては僕はほとんど感じたことがない。他の友人や両親、妻や恩師にはときどきそういうやさしさを感じることがあるのだが、彼にはほとんど感じない。同じ大学の仲間の何人かに、彼はやさしいのかこっそりと聞いてみたが、「やさしいところもあるよ」と言う。

本日、新郎から「昨日はありがとう」という電話をもらったついでにそれを言ってみたが、「みんなやさしさでひとくくりにしているだけな気もする」と言っていた。彼の自己分析が正しいのか、友人たちの彼へのレッテルが正しいのか、僕の彼へのレッテルが正しいのかは分からないし、場、状況、相手によって彼も顔を多少なりとも変えたりしているのだろうから、判断するのは困難だが、僕が普段誰かとのコミュニケーションで感じることのできる「やさしさ」には何か偏りのようなものがあるのかもしれない。

さて、もう一点、本日このブログに書きたいことは自分自身の二次会での司会のことだ。次々と「こういうセリフ・プログラムを追加してくれ!」と言う要望に完全にテンパった。台本や準備をほとんどしない割にはうまくできたが、反省点も多々ある。

最も僕が反省したいのはボキャブラリーにある。勢いやノリ任せの司会は吉本時代に培ったものが発揮できたし、人前でしゃべるということにも大学の講義のおかげであまり緊張することもなくなってきた。また、あたりを見渡しながらしゃべったり、多少なりともオーディエンスとの呼吸合わせみたいなところも大学講義で学んだことが発揮できたと思っている。しかし、ちょっと気の利いた単語やそれを引き立てるであろう修飾語のボキャブラリーのなさを痛感した。もっと小説を読んだりする必要があるのかな・・・

司会を引き受け、得たこともあったし、今後もっと勉強しないとならないことにも気付くことができ、それを任せてくれた新郎新婦に感謝したい。

最後は親しい大学の仲間たちとの新年会となった三次会まで12時間以上のかなりの長期戦だったが、とても楽しく充実した時間を過ごせた。

とても素晴らしい結婚式だったと思います。また、新婦ができる人だなーなんて感想を持ちました。2人に幸あれ。

本日で勤務校の後期の講義が終了した。40名くらいの学生たちであったが、どの学生も社交的だったし、挙手や発言もそれなりに出て毎度講義は盛り上がったのではないかと思っている。

4月まで講義はないが、来年度の予習もあるし、とにかくフィールドワークに没頭しなければならない。ゼミの後輩と戦後の日本の歴史、特に、人々の暮らし方の勉強会を行おうなんて話もあるし、有意義な春休みになるようにしたい。

また、本日より妻が里帰りをした。おそらく持って帰る必要のないものまで持って帰っていたが、それはそれで良しとしよう。「3日に1回は来るように」と言われているが、往復3時間の道のりを考えるととても無理な気がする・・・

明日は大学時代の友人の結婚式。二次会の司会を任されている。吉本的なノリでがんばらなければならないが、100人もいるそうなので、一体感もなにも持たせられるような自信はない。久しぶりに会う友人たちも集まりそうでそれなりに楽しみだが、テンパりそうな気もしている。

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