執筆中の本の第4章か終章で「感情」についての話をします。そこが何せうまく考えることもできなければ、うまく表現することができずに悩んでいます。

流れは省略するとして、私たちは自分の中で重要なものとして「感情」「気持ち」「感覚」などに確固たる「自分らしさ」を求めがちです。現代ではこれらのものは自己の内側にあるものだと解釈されることが多いと考えています。また、もちろん「感情」は自分のモノだと解釈されているのが社会的なスタンダードだと思います。

ただし、このあたりも社会学的に考えていくと「感情」「気持ち」「感覚」が社会の影響を受けていることが分かります。もっと砕いて言うのであれば、「感情」は社会によって操作されるもので、自分たちが考えているほど確かなものでもなければ、自分たちが普遍的なものと思っているほどのものでもないということです。例をあげながらもう少し詳しく話していきましょう。

例えば、とある男性が、女性を好きになったとします。告白に至るまでは、相手の様子も見たいですし、内心に好きな気持ちを隠しながら行動することがあるはずです。つまり、相手が分かる感情を自分で操作しながら隠すということが行なわれているはずです。こういうことは日常生活でしばしば発生します。大嫌いな上司に会ったとき、内心は嫌いでもその感情を隠し接する、嫌なことがあって落ち込んでいるけど、街で偶然、中学のときの同級生に会った、悲しい感情は隠すはずです。このような例が教えてくれることは私たちの感情には2通りの「他者に表出する感情」と「自己の内側にある感情」があるということです。

私たちはおそらく、「自己の内側にある感情」を指して確固たるものだとか、「自分らしさ」を感じているように思うのですが、「自己の内側にある感情」は操作されないのでしょうか。こちらも例をあげながら説明していきましょう。

例えば、またまた男女の話であれば、数年付き合って、もうその人のことを好きではないにも関わらず、何とか好きだと「自分の内側の感情」に言い聞かせようとしたりすることもあります。もっとふさわしい例であれば誰かあまり仲の良くない人の葬儀に出席した場合、「自分の内側の感情」にも「今は悲しいんだ」と言い聞かせるなんてこともあるのではないでしょうか。もちろん、人によって意識できるできないの違いはあると思いますが、日常生活の「場」によって私たちは「自分の内側の感情」をも操作しようと試みることがあるはずです。

私の考えでは、ここには何らかの社会的な力が働いています。葬儀であれば伝統的に「悲しい場なのだから・・・私の感情も悲しいはずだ」とか、カップルの方は難しいですが、ここにも何らかの社会的な力が左右しているはずです。

と、このように確かだと思っている私たちの「内側の感情」も案外、操作されたり、社会的な影響を受けています。「何かを感じた」、例えば「あの男性に一目ぼれ」とか「この音楽にしびれた」などですが、こういう感情にもきっと社会的な影響は大いに関係しているのではないでしょうか。

では、ここからは非常に難しいんですが、「内側の感情を確固たる自分のものだ」と「信じなければならない」という「内側の感情」にも何らかの社会的な力が働いているのではないでしょうか。

今のところ考えられるのは「その内側の感情を信じないと“人”としてやっていけない」という社会的な力とか、「感情は素直なものなんだよ。感情を信じて生きなさい」とか、「感情は“本物”なんだ」などです。

でも、こういう力が実際に働いているとしても、「社会的に作られた自分の内側の本当の感情」の更に内側にも「感情」がありそうな気もしてしまいます。もちろんその感情にも社会的な力が働いているのですが、際限なく続いていってしまいます。いちいち「更に更に更に」と考えることはないですが、こういうことは「感情なんて嘘だ」って結論付けていいものか、どうかも分かりませんし、際限ない社会と感情の関係は「ある」という結論にも至ります。難しい・・・

G・H・ミードは、I(主我)とme(客我)という概念を用いて、自己の二面性を説明しています。「客我」は他者の中に認識される客体で、主我は認識する主体という意味なんですが、私の考えをもとにすれば、際限なく社会的に生成される「客我」を認識する「主我」ということです。で、この「主我」が本当にあるのかどうか・・・という話なんですが、悩んでいます。本ではこれを簡単に書かなければなりません。このブログでも何とか私の疑問が伝わればと思い、がんばってみましたが、難しいですかね・・・

では、ここは後回しにして、違う部分の原稿に戻ります。