2019年09月12日

美しき調和

日本という、ある種の枠の中で暮らす人間にとって、
”令和”という新しい時代が始まって4ヶ月と半分。
同じ日本人であっても、同じ日本で暮らしていても、
その感覚は人それぞれでしょうし、同じではないと思っています。

元号が変わる事が、大きな意味を持つと思う人もいるでしょうし、
逆にそれに意味を見出せない人も大勢いる様です。
また元号が変わった当初は強く意識出来て大騒ぎしても、
それが僅か4ヶ月で色褪せ、当たり前になる事もあるのだと思います。
勿論、それとは逆に、今は分からなくても、
いずれ何か大切な事に気付く日が訪れるかも知れません。

以前「意味を与えているのは人間(13/10/21)」という話をしました。
だからこそ、虚無を暴いてそれが答えだと思い込む人もいれば、
意味を与え損なう人も生まれるものだと感じています。
肝心な事は、そこに人間のどの様な願いが込められているのか、
改めて見出し向き合っていく事なのではないでしょうか?

外務省は、命令という国際的な印象を払拭しようと、
”令和”をBeautiful Harmony(美しき調和)"と英訳した様です。

”和”というものも、必ずしも素晴らしいものばかりではありません。
人の陥りがちな姿として礼記出典の”付和雷同”という諺もあれば、
あるべき姿として論語出典の”和而不同(和して同ぜず)”もあります。
時に、悪意を持った”和”には敢然と立ち向かう必要もあります。
だからこそ”美しき”という指示が態々付け加えられるのでしょうか。

人間は二人いれば諍いが起こるという事も一つの真理です。
と同時に、二人いれば助け合い、共生する事も可能です。
どちらを選ぶかは例えばあなたの自由ではあるのですが、
後者を選んだとしても、美しき調和を実現する為には、
生き方を厳しく問い続ける必要があります。
でなければ人はただの傀儡に過ぎないのです。 

hongaku_ji at 14:17|PermalinkComments(0)

2019年04月26日

御代の遷りに際して

一月往ぬる、二月逃げる、三月去ると申しますが、
あっと言う間に四月も過ぎ去ろうとしています。

人の命がいつまであるかは誰にも分かりません。
高齢でもまだまだ長生きが出来るかも知れませんし、
逆に若くとも、残念ながら最期は迫っているのかも知れません。
どちらも油断する事なく今を生きる事が最善なのだと思います。

私の命もいつまであるかは分かりませんから、
ブログを書く事が日常である様にそろそろ戻したいと思っています。

さて、あと数日で「平成」から「令和」に御代が遷ります。
天皇陛下は、昨年の御誕生日の記者会見で、次の様に述べられました。

「平成が戦争のない時代として終わろうとしている事に心から安堵している」

私には、その御言葉に緊張感というものが感じられるのです。
その平和は、楽々と成し遂げられた訳ではなく、
もしかしたら不断の努力に因る奇跡の様なものなのかも知れません。
 
油断をすれば簡単に愚かな戦争は始まってしまう。
たとえ天皇陛下でも、御一人の力でどうにかなるものではありません。
世論は時に誘導されますし、時代の趨勢も変え難いものです。
だからこそ陛下は、多くの国民に感謝されるのかも知れません。

今、戦争を避けたい気持ちは誰でも同じだと安易に言う人もいますが、
「二度と絶対に過ちを犯すまい」という戦争経験者の覚悟と、
「無いに越した事はない」「 出来れば避けたい」という曖昧な都合は、
似ている様で、全く違うと私は思います。

売られた喧嘩は買うべきだ。目には目を、歯に歯を。
もう既にその侵食が、至極当然な顔をして始まっているのです。

次なる時代に期待だけしていても良くなる事はないかも知れません。
流されぬ様に、見失わない様に、一人一人が強く覚悟を決めなければ、
過ちは繰り返されて不思議はないのです。 

hongaku_ji at 21:46|PermalinkComments(0)

2018年12月31日

目に頼る判断

病気が理由とは言え、此方を放置状態で申し訳ありません。
おかげ様で一時よりはだいぶマシになりました。
一年に全く更新しないのも気持ち悪いので大晦日に一話だけ更新します。

皆さんは、”ヘルプマーク”や”ヘルプカード ”というものをご存知でしょうか?

世の中には、外見では判断出来ない、配慮や援助が必要な人達がおられます。
それは別に珍しい事ではありませんし、至って普通の事です。
この世の中が全て目に見えるのであれば苦労はありませんが、
目に見えぬ事が多いからこそ、その総合的な現実に驚くのです。

例えば公共交通機関等で席を譲るとしたら、あなたは何で判断するでしょう。
大抵は、その判断は目に見える部分に頼り過ぎなのでは無いでしょうか。
しかし実際は、老齢でも元気で「年寄り扱いするな」と反発を招く事もあり、
一方、事情があって若くても立っていられないほど疲れている事もあります。
当り前ですが、病院を必要としていないお年寄りもいれば、
薬を手放せない若者もこの世には存在するということです。

ところが人間は、そんな当たり前の事を見過ごしがちです。
目に見えるからこそ、そしてそれを過大評価するからこそ、
反発されれば、憤慨したり後悔したりするかも知れませんし、
見抜けなければ、言い訳したりこれまた後悔したりするでしょうか。

例えば相手が病気だと分かれば優しい気持ちになれる、
そんな人もこの世には大勢いるとは思うのですが、
思いが至らず、厳しい目を向けてしまうのが自己中心的な自我なのです。

ヘルプマークは要は、その橋渡しとなる目印です。
東京から始まった取組が今、各自治体にも広がりを見せている様です。

しかしある意味でこれは苦肉の策と言えるのではないでしょうか。
人間がそれぞれに思い遣りや気遣いを発揮させる事が出来るのならば、
本来、そんな目印は必要がありません。
人間が自分中心でしか世界を見る事が出来ない、視野狭窄に陥るからこそ、
事実との齟齬の是正の為に、自己アピールして貰う必要に迫られる訳です。

目に見えないものを目に見える様にする工夫。
それは分かりやすくなった反面、 
目に頼る判断を下す人間の心を些かも省みさせる事がないのです。

そして少なくとも私は、目に見えない事を目に見えないからと、
言い訳する事なく、この世界を純粋に見る努力が出来る人間でありたい。
そう思うのです。 

hongaku_ji at 21:05|PermalinkComments(1)

2017年12月31日

問題は常に己、他に非ず

ご無沙汰しております。
時が過ぎるのは早いもので約1年半ぶりの更新になります。

その間、怠けて居たのだろうと言われれば確かにそうかも知れませんね。
それぞれの事情なんて、第三者には知る由もない事ですし、
大抵、人は自分には甘く、そして一方で他人には厳しいものです。
その匙加減と云うものは、結局は自分自身にしか分かりません。

この1年半は、私には必要な”息継ぎ”みたいなものでしたが、
他人が見たらそれは言い訳にすらならないのかも知れません。
そしてそれは仕方の無い事で、最終的に諦めざるを得ない事でもあります。

分かって貰えない事を嘆く気持ちは私にも勿論よく分かるのですが、
諦めさえすれば割り切れる話なんじゃないかと思います。

まあ、それとは関係無く、自分自身の問題として、
私事で様々な事がこの何年かの間に生じ、おそらく容量を超えました。
お医者様にも原因が分からないストレス性の体調不良に陥りました。
近しい人間からは「男性更年期が原因では?」と指摘されましたが、
その様な気もするし、かと言って確信もないと云う様な感じでしょうか。

私は元々身体が丈夫な方でもないので、これまで色んな病気を経験しました。
自分の事ゆえですが、病気というものは面白いもので、
本人はそれほど辛くなくとも、周囲には非常に心配される様な病気もあれば、
本人は非常に辛いのに、周囲にそれが伝わらない病気というものもあります。

そして優しくされれば甘えてしまう事もあるかも知れませんし、
理解されないからこそ強くなれる事もあるかも知れません。
しかし幾ら強くなっても身体の不調は変わる事はありませんから、
他人には理解されなくとも自分はその事に向きあっていく必要があります。

他人から誉められてもそれに胡座をかいていたんでは己に負けており、
他人から幾ら謗りを受けても、それが本当に必要な事ならば実行せねば、
やはり己の問題を避けているのではないでしょうか。

問題は常に自分自身にあり、誠実にそれに向き合う必要があります。
いつ如何なる時も、その事は実は変わらないのだと思っています。

hongaku_ji at 23:29|PermalinkComments(2)

2016年07月31日

厳しい責任、甘い憂い

人間釈迦がそうであった様に、事実の確認をする者は出来れば必要です。
それは大局を見渡す者であり、今、本当に何をすべきかを知る者です。
人間が知り得る事実も、人間が知り得ない事実も、共に事実を知った上で、
人が進むべき道を照らし出せる者がいれば、求める者もまた多いでしょう。

事実というものは容赦がありません。或いは拒絶反応を起こす人もいます。
一方で何をすべきかは単純です。すべき事自体は難しくはありません。
しかしそれを成し遂げる事が、簡単な様で実は非常に困難であるのです。

人は素のままでは、烏合の衆に過ぎない存在だと思います。
烏合の衆は、目先の事実を重要視し、逆に生きる事の大切さを軽視します。
それはまた、目先以外の事実を軽視しているからこそ引き起こされます。
自分勝手に生き、思い通りにならず、当てのない責任転嫁をし、苦しむ。
勿論、それも勝手ではあるのですが、もし仮に改善を望むなら、
事実の確認をした者は、正しい道筋を伝える事だけは出来る訳です。

皆さんは、例えば”将棋”を指した事がおありでしょうか?
まあ将棋に限らず他のゲーム、例えばオセロでも囲碁でも同じでしょうが、
上手は二手三手と言わず先を見据えて一手を指すものだと思います。
それは所謂”戦術”と呼ばれるものである訳です。
一方で、下手はどうしても目先の駒に捉われてしまうものです。

シンプルなルールのゲームでも、多種多様な打ち方があり、
そして必ず勝てる方法論等というものもありません。
そしてそれは”人生”も、何も変わらず同じ事なのではないでしょうか?
人生ならば、更に複雑な選択肢があると想像出来ますが、
烏合の衆は、ただ目先の事に執着して一手を指している様なものでしょう。
そして目先の事とは、己の都合であったり欲であったりする訳です。

その上で、ゲームを楽しむ為、少なくとも善戦する為には、
やはり学ばなければならない事があり、己を制御する必要があります。
そこに、他人と比較する勝敗よりも重要な自分との戦いがある訳です。

”道具”が間違った扱われ方をする事は、珍しくもなく日常茶飯事です。
宗教もまた間違って扱われ、争いの原因だと勘違いされる事も多いでしょう。
しかしそれは大義名分として使われているだけで実は、原因ではありません。
原因は常に道具を扱う者であり、人の弱さである事は抗い様のない事実です。

折角、事実を正しく確認した上で伝えられる教えという道具も、
教えを受けた側が己の弱さに打ち克つ事が出来なければ、
捻じ曲げて間違って扱う事が容易に出来るという事も知らねばなりません。
所詮、それは道具に過ぎないのですから。

事実を知る者にも、教えを学び生きる者にもそれぞれに責任があります。
事実を知ったからと言って自分が知っているだけでは意味は限定的です。
教えを学んでも、これもまたただ知っているだけでは意味がありません。
道具を生みだす者、扱う者、各々に人任せに出来ない責任があるのです。

他人の事を憂えている余裕等、実はあるはずもないのですが、
己の問題より、他人の問題の方が重く思えてしまうのは現実逃避でしょうか?
心は甘く嘗めてかかるのですが、事実は変わらず厳しいものです。

hongaku_ji at 23:49|PermalinkComments(9)

2016年06月09日

難しい理屈と簡単な操作

私は、禅や仏教は、”事実の確認”と”逆に生きる示唆”だと考えます。
少なくとも人間釈迦の辿り着いた答えは、両方なくては成立しません。
どちらが欠けても、それは禅でも、仏教でも無いと思うのです。

”事実の確認”とは、言ってみれば哲学や科学の得意分野かも知れませんし、
”逆に生きる示唆”とは、道徳や倫理の得意分野でもあるかも知れませんが、
それらが切っても切れない関係で結び付くのが、禅や仏教の担当分野です。
ですから禅や仏教は、哲学的側面と道徳的側面を同時に持つ訳です。
その意味では哲学的解釈や道徳的解釈はあって当たり前かも知れません。

”事実の確認”抜きに進むべき方向性が判断出来る事などありませんし、
”逆に生きる”事抜きに事実だけ重要視すれば、そこに人の心はありません。
哲学や科学も、倫理や道徳も、それだけでは実はとても中途半端なもの。
残念な事かも知れませんが、人間が捉える事実には限界があり、
その諦め(明らめ)の先にあるものが本来の禅や仏教であると思うのです。

そして逆に生きる事、つまりは人として正しく生きようとする事は、
本人が望めば誰でも目指す事が出来るかも知れませんが、
”事実の確認”は、哲学や科学がそうである様に、得意、不得意を選びます。

例えば「テレビを部品から作り出せ」と言われたら、
出来る人と、出来ない人が存在する事に疑う余地はありません。
しかし仕組みが分からなくてもテレビという機械を正しく扱う事は、
多くの人が出来るのではないでしょうか?
難しい理屈が分からずとも、スイッチを押して利用出来ればそれで良い。

難しい理屈は、得意とする人もいれば、
耳にするだけで拒絶反応を起こす人もいます。それはそれで良いのです。
しかし拒絶反応を起こす人がいても、哲学や科学が不必要とは言えません。
仮初めの法は、事実の上にあって初めて意味があるものだと思うのです。

人は素のままでは身勝手なものです。
ここでは、人間の都合ではない本来の事実を確認した上で、
人として正しく”どう生きるべきか?”という事を問題にしている訳です。
理想と現実の開きを確認した後に、退廃的になる為でも、
開き直って素の自分を正当化する為でもなく、です。

そして禅や仏教に限らず、本来、宗教とはそうあるべきなのです。
心を制御せず素に苦しむ事には、何の教えも必要ないからです。
つまりそれでは宗教の存在意義は全く無いと言って良いでしょう。
教えが必要になるのは、それが敢えて進まなければならない道だからです。

その事を重要視しなければ、”道具”は間違った使われ方をするのです。

hongaku_ji at 19:16|PermalinkComments(0)

2016年06月05日

逆の生き方

例えばそれが善意であれ、悪意であれ、浮気であれ、本気であれ、
どの様に生きても構いませんが、それでどの様な結果が訪れてもそれは、
意識せずとも、”あなたが望んだ結果である”のではないでしょうか?

幾らその責任から逃れようとしても結局、その責任を負うのは自分自身です。
仮にその場は逃れられたとしても、責任というものは付いて廻ります。
そして想像以上にその責任は重いものであるかも知れません。
それだけにその覚悟は必要になって来る訳です。

望んだ結果は、日々の積み重ねによって訪れる事になります。
最善の結果を求めるなら、常に最善の生き方というものがあるのです。
手を抜けば手を抜いただけ、人生の味は落ちる事になるかも知れません。

最善の結果も、あなたが掲げる無制限の夢とは程遠いと思いますが、
これは、夢物語の話ではなく、現実を生きる話であります。
手に入れた材料を元に、最善が尽くせたか?という事に尽きるのです。

好き放題生きて、それで最善の結果だけ求めても、それは詮無き事。
言い訳は何の意味もありませんし、後悔も何の役にも立ちません。
突き詰めれば誰かの評価も不要と言えば不要なのではないでしょうか?
己に与えられた材料を、役立てようが、台無しにしようが、自分次第なのです。

先天的な事も、他人の事も、どうにもならない事はどうにもなりませんが、
己の領分でどうにかなる事をどうにかしようとしなかった、という事なのです。
仕組みを知らず考えが及ばなくとも、或いは勝手な期待や都合が先んじても、
それはそれで仕方がありませんし、リセットも再スタートも多分ありません。
なかった事にはなりませんし、初めからやり直す事も出来はしません。

例えば花は、綺麗に咲く為に、分不相応な夢を掲げる事はないでしょう。
勿論、自分から「枯れよう」等とも思わないのではないでしょうか。
頃合いが来れば咲き、また頃合いが来れば散る。
それはただ鮮やかで、潔く、そして見事だと私の目には映ります。
己に与えられた材料を活かし切った姿がそこにある様に思えるのです。

場合によっては咲かずに散る事もありますが、それも仕方のない事。
おそらく言い訳も後悔もないのではないでしょうか。
ありのままの事実に逆らう事がありません。
そして勿論、境遇で生き方が変わる事もありません。
しかし人間にはその選択肢があり、夢を見るのかも知れませんし、
そして夢と現実を混同し、曖昧模糊とした姿が生じるのかも知れません。

「人間釈迦(14/12/10)」というお話でも言及致しましたが、
人間は、どうにかなる事なのに放り出し、
どうにもならない事をどうにかしようと足掻きがちです。
しかし本来、人間がすべき事は、全くその逆なのではないでしょうか?

己に流されるのは簡単です。自分の心の言いなりになるだけです。
しかしそれで現実との齟齬に苦しむのが己であり、自分の心です。
流される事は楽ですが、行く着く先に苦しむ事にはなる訳です。

行く着く先に苦しまぬ為には、やはりある種の逆の生き方が、
私達人間には必要になるのかも知れません。

hongaku_ji at 23:00|PermalinkComments(0)