Koushun Matsumoto

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2016年07月31日

厳しい責任、甘い憂い

人間釈迦がそうであった様に、事実の確認をする者は出来れば必要です。
それは大局を見渡す者であり、今、本当に何をすべきかを知る者です。
人間が知り得る事実も、人間が知り得ない事実も、共に事実を知った上で、
人が進むべき道を照らし出せる者がいれば、求める者もまた多いでしょう。

事実というものは容赦がありません。或いは拒絶反応を起こす人もいます。
一方で何をすべきかは単純です。すべき事自体は難しくはありません。
しかしそれを成し遂げる事が、簡単な様で実は非常に困難であるのです。

人は素のままでは、烏合の衆に過ぎない存在だと思います。
烏合の衆は、目先の事実を重要視し、逆に生きる事の大切さを軽視します。
それはまた、目先以外の事実を軽視しているからこそ引き起こされます。
自分勝手に生き、思い通りにならず、当てのない責任転嫁をし、苦しむ。
勿論、それも勝手ではあるのですが、もし仮に改善を望むなら、
事実の確認をした者は、正しい道筋を伝える事だけは出来る訳です。

皆さんは、例えば”将棋”を指した事がおありでしょうか?
まあ将棋に限らず他のゲーム、例えばオセロでも囲碁でも同じでしょうが、
上手は二手三手と言わず先を見据えて一手を指すものだと思います。
それは所謂”戦術”と呼ばれるものである訳です。
一方で、下手はどうしても目先の駒に捉われてしまうものです。

シンプルなルールのゲームでも、多種多様な打ち方があり、
そして必ず勝てる方法論等というものもありません。
そしてそれは”人生”も、何も変わらず同じ事なのではないでしょうか?
人生ならば、更に複雑な選択肢があると想像出来ますが、
烏合の衆は、ただ目先の事に執着して一手を指している様なものでしょう。
そして目先の事とは、己の都合であったり欲であったりする訳です。

その上で、ゲームを楽しむ為、少なくとも善戦する為には、
やはり学ばなければならない事があり、己を制御する必要があります。
そこに、他人と比較する勝敗よりも重要な自分との戦いがある訳です。

”道具”が間違った扱われ方をする事は、珍しくもなく日常茶飯事です。
宗教もまた間違って扱われ、争いの原因だと勘違いされる事も多いでしょう。
しかしそれは大義名分として使われているだけで実は、原因ではありません。
原因は常に道具を扱う者であり、人の弱さである事は抗い様のない事実です。

折角、事実を正しく確認した上で伝えられる教えという道具も、
教えを受けた側が己の弱さに打ち克つ事が出来なければ、
捻じ曲げて間違って扱う事が容易に出来るという事も知らねばなりません。
所詮、それは道具に過ぎないのですから。

事実を知る者にも、教えを学び生きる者にもそれぞれに責任があります。
事実を知ったからと言って自分が知っているだけでは意味は限定的です。
教えを学んでも、これもまたただ知っているだけでは意味がありません。
道具を生みだす者、扱う者、各々に人任せに出来ない責任があるのです。

他人の事を憂えている余裕等、実はあるはずもないのですが、
己の問題より、他人の問題の方が重く思えてしまうのは現実逃避でしょうか?
心は甘く嘗めてかかるのですが、事実は変わらず厳しいものです。

hongaku_ji at 23:49|PermalinkComments(3)

2016年06月09日

難しい理屈と簡単な操作

私は、禅や仏教は、”事実の確認”と”逆に生きる示唆”だと考えます。
少なくとも人間釈迦の辿り着いた答えは、両方なくては成立しません。
どちらが欠けても、それは禅でも、仏教でも無いと思うのです。

”事実の確認”とは、言ってみれば哲学や科学の得意分野かも知れませんし、
”逆に生きる示唆”とは、道徳や倫理の得意分野でもあるかも知れませんが、
それらが切っても切れない関係で結び付くのが、禅や仏教の担当分野です。
ですから禅や仏教は、哲学的側面と道徳的側面を同時に持つ訳です。
その意味では哲学的解釈や道徳的解釈はあって当たり前かも知れません。

”事実の確認”抜きに進むべき方向性が判断出来る事などありませんし、
”逆に生きる”事抜きに事実だけ重要視すれば、そこに人の心はありません。
哲学や科学も、倫理や道徳も、それだけでは実はとても中途半端なもの。
残念な事かも知れませんが、人間が捉える事実には限界があり、
その諦め(明らめ)の先にあるものが本来の禅や仏教であると思うのです。

そして逆に生きる事、つまりは人として正しく生きようとする事は、
本人が望めば誰でも目指す事が出来るかも知れませんが、
”事実の確認”は、哲学や科学がそうである様に、得意、不得意を選びます。

例えば「テレビを部品から作り出せ」と言われたら、
出来る人と、出来ない人が存在する事に疑う余地はありません。
しかし仕組みが分からなくてもテレビという機械を正しく扱う事は、
多くの人が出来るのではないでしょうか?
難しい理屈が分からずとも、スイッチを押して利用出来ればそれで良い。

難しい理屈は、得意とする人もいれば、
耳にするだけで拒絶反応を起こす人もいます。それはそれで良いのです。
しかし拒絶反応を起こす人がいても、哲学や科学が不必要とは言えません。
仮初めの法は、事実の上にあって初めて意味があるものだと思うのです。

人は素のままでは身勝手なものです。
ここでは、人間の都合ではない本来の事実を確認した上で、
人として正しく”どう生きるべきか?”という事を問題にしている訳です。
理想と現実の開きを確認した後に、退廃的になる為でも、
開き直って素の自分を正当化する為でもなく、です。

そして禅や仏教に限らず、本来、宗教とはそうあるべきなのです。
心を制御せず素に苦しむ事には、何の教えも必要ないからです。
つまりそれでは宗教の存在意義は全く無いと言って良いでしょう。
教えが必要になるのは、それが敢えて進まなければならない道だからです。

その事を重要視しなければ、”道具”は間違った使われ方をするのです。

hongaku_ji at 19:16|PermalinkComments(0)

2016年06月05日

逆の生き方

例えばそれが善意であれ、悪意であれ、浮気であれ、本気であれ、
どの様に生きても構いませんが、それでどの様な結果が訪れてもそれは、
意識せずとも、”あなたが望んだ結果である”のではないでしょうか?

幾らその責任から逃れようとしても結局、その責任を負うのは自分自身です。
仮にその場は逃れられたとしても、責任というものは付いて廻ります。
そして想像以上にその責任は重いものであるかも知れません。
それだけにその覚悟は必要になって来る訳です。

望んだ結果は、日々の積み重ねによって訪れる事になります。
最善の結果を求めるなら、常に最善の生き方というものがあるのです。
手を抜けば手を抜いただけ、人生の味は落ちる事になるかも知れません。

最善の結果も、あなたが掲げる無制限の夢とは程遠いと思いますが、
これは、夢物語の話ではなく、現実を生きる話であります。
手に入れた材料を元に、最善が尽くせたか?という事に尽きるのです。

好き放題生きて、それで最善の結果だけ求めても、それは詮無き事。
言い訳は何の意味もありませんし、後悔も何の役にも立ちません。
突き詰めれば誰かの評価も不要と言えば不要なのではないでしょうか?
己に与えられた材料を、役立てようが、台無しにしようが、自分次第なのです。

先天的な事も、他人の事も、どうにもならない事はどうにもなりませんが、
己の領分でどうにかなる事をどうにかしようとしなかった、という事なのです。
仕組みを知らず考えが及ばなくとも、或いは勝手な期待や都合が先んじても、
それはそれで仕方がありませんし、リセットも再スタートも多分ありません。
なかった事にはなりませんし、初めからやり直す事も出来はしません。

例えば花は、綺麗に咲く為に、分不相応な夢を掲げる事はないでしょう。
勿論、自分から「枯れよう」等とも思わないのではないでしょうか。
頃合いが来れば咲き、また頃合いが来れば散る。
それはただ鮮やかで、潔く、そして見事だと私の目には映ります。
己に与えられた材料を活かし切った姿がそこにある様に思えるのです。

場合によっては咲かずに散る事もありますが、それも仕方のない事。
おそらく言い訳も後悔もないのではないでしょうか。
ありのままの事実に逆らう事がありません。
そして勿論、境遇で生き方が変わる事もありません。
しかし人間にはその選択肢があり、夢を見るのかも知れませんし、
そして夢と現実を混同し、曖昧模糊とした姿が生じるのかも知れません。

「人間釈迦(14/12/10)」というお話でも言及致しましたが、
人間は、どうにかなる事なのに放り出し、
どうにもならない事をどうにかしようと足掻きがちです。
しかし本来、人間がすべき事は、全くその逆なのではないでしょうか?

己に流されるのは簡単です。自分の心の言いなりになるだけです。
しかしそれで現実との齟齬に苦しむのが己であり、自分の心です。
流される事は楽ですが、行く着く先に苦しむ事にはなる訳です。

行く着く先に苦しまぬ為には、やはりある種の逆の生き方が、
私達人間には必要になるのかも知れません。

hongaku_ji at 23:00|PermalinkComments(0)

2016年05月26日

無法の上に築いた仮初めの法

その上でどの様に生きて行くかは本来ノールール、つまり”無法”であります。
相手が好意を持ってくれる事を期待しなければ、どんな料理を作ろうが勝手。
また全てを含めて己がそれで満足ならば、此方は何も言い様もありません。
本人が、開き直って迷い続ける事を望むなら、それはそれで自由なのです。

ただ、普段人間が考える”都合の良い自由”等という甘っちょろいものでなく、
それは、誰もが限定されない”傍若無人な自由”と言えるだろうと思います。
或いは”自由の底無し沼”とでも表現してみましょうか。
そして本人が幾ら拒否しても、必ずその責任は付いて廻ります。

他人には束縛が必要だと考え、それによって約束された安全の中で、
ぬくぬくと保証されながら、己だけ束縛を嫌い、身勝手な自由を求める事は、
卑怯者であるという以上に、自動的に社会を敵に回す事になります。
結果、我を通せば通すほどに、期待通りに物事は進まないかも知れません。

「なぜ自分の思い通りに進まないのだ?」
「自分を受け入れない世界が悪いのだ」
そんな自分勝手な怒りを感じている人間は意外と多いのかも知れません。
しかしどんなに怒ろうが、自分が変わらなければ事態は決して好転しません。

自分の自由は過ぎれば他人の自由を阻害し、それは逆もまた然り。
様々な人々の傍若無人さに、自身の自由は脅かされ続ける事になります。
結果、それは誰にとっても不自由な世界という事になるかも知れません。
皆が皆、傍若無人に振舞えば、混沌の世を生み出すだけです。

だからこそ先人達は、絶えず試行錯誤しながら秩序を積み重ねて来ました。
仮に派手に天下を獲っても、それは単に始まりに過ぎません。
そこから天下を平定し続ける為には、誠に地味な作業が必要であり、
誰が天下を獲るか?を問題にしなければ、
この地味な秩序立てる事こそが重要な事柄である事は間違いありません。

そしてそれでも本質が”無法”であるという事実は変わりません。
法や秩序は、人工的に作り出された、謂わばゲームに過ぎないのです。
だからこそ後付けされたルールを破る事は簡単です。
本人に守る気がなければ誰でも自由に破れてしまう訳です。

正しい生き方は、無法の上に築いた仮初めの法であるという事。
開き直って迷い続け、その責任を転嫁する者達も、
法や秩序が乱される事に驚き、その理由が理解出来ない者達も、
その事実を知らないだけかも知れません。

hongaku_ji at 22:56|PermalinkComments(0)

2016年05月18日

自分をどう料理するか

己に与えられた現実の中で、どの様に生きるか?という事こそが問題です。
それはつまり、自分をどう活かしてゆくか?という事であり、
材料としての自分をどの様に料理するか?という事です。

以前「不平等の行き着く先(15/2/19)」という話で申し上げた通り、
人間は、生に於いて全く不平等であると言えるかも知れません。
親も違えば、性別も違う。才能も違えば、環境も違う。
命の時間も違えば、出合える縁も異なります。
それは”仕入れる事の出来る材料”は常に一定ではないという事実です。
料理をしようとする時に、いつでも望む材料が手に入る訳ではありません。

そしてそれは根本的には、仕方のない事なのです。
これは社会的な差別(さべつ)とは別の、仏教観的差別(しゃべつ)であり、
それぞれには、それぞれの個性が存在するという客観的事実であります。

そこに人間視点で優劣を加えて、
自分勝手な肯定と否定を生み出すものが差別(さべつ)ですが、
それを問題視する余り個性まで否定したのでは、それも事実とは異なります。
ないものねだりに陥らず、晴れる日もあれば、雨の日もある様に、
人間が望む材料が手に入る時もあれば、それが難しい時もあるという事です。

そして卓越した料理人が技を振えば、何でも”それなり”に美味しいでしょう。
一方でどんなに素材が素晴らしくても、台無しにする事なんて簡単です。
下手な人間が扱えば、どんな素材も関係無く不味い料理に化けるでしょう。
そもそも料理とは呼べない代物だって出来上がって来るかも知れません。
材料の違いは、結果を決定付ける程、重要な要素ではないのです。

目の前の材料で最善を尽くすのが料理する人間の責任ではないでしょうか?
贅沢を言えばキリがありませんが、材料で全てが決まる訳でもありません。
素材の味を活かす事も大事な事ではあるかも知れませんが、
素材で全てが決するというのなら最早、料理する必要すらありません。

人は、与えられた材料に不満を感じ、改善を望むかも知れません。
「素晴らしい料理を提供する為には、材料こそが重要だ」と。
誰かが持っている材料に妬みや僻みが生まれる事もあるでしょう。
湧き出る感情というものはこれはこれで仕方がありません。
問題は、その感情に自分自身でお墨付きを与えてしまうかどうかなのです。

そして一見、才能がないと思えてしまう事も、逆の才能であるとも言えます。
たとえ望まなくとも苦労をするからこそ、得られる対価もあるからです。
苦労に見合わぬ対価は、意外と底が浅いものです。
例えば大金を手にしてもそれで幸せになれる訳ではありません。
傍から見れば大金でも、まだ足りないまだ足りないと嘆き続け、
結局、反って身を滅ぼす結果になる事もあります。

「金がないから何もできないという人間は、
金があってもなにもできない人間である」
そう語ったのは阪急東宝の創業者、小林一三(いちぞう)だったでしょうか。

幾らあっても要は使い方。それは素材もお金も個性も同じなのです。
そして使い方とは、生き方であり、姿勢という事になります。

hongaku_ji at 15:38|PermalinkComments(0)

2016年05月06日

求められる覚悟

行く末に迷い、過去に迷い、常に迷いがちなのが人間です。
現実を前に、迷う事なくただ粛々と生きてゆく事はこんなにも難しい。
寧ろ迷いの中で苦しみ続けるのが本来の人間らしさであるかも知れません。
それは持て余すほど大きな心を、人が持っているからに他なりません。

そしてその上で、おそらく選択肢は二つあります。
開き直って迷い続けるのか?
或いは、その迷いを制御して行くのか?です。
迷いの原因は、己の心にこそあるのですから、
それは己の心に操られるか?己の心を制御するか?という話でもあります。
ひょっとすると、多くの人は生き方を決めかねているかも知れませんが、
それでも結果的に自ずと生き方は振り分けられる様に出来ています。

さて、人は、何か予想外の事が起こる度に、考え方まで右往左往します。
それは普段、慢心が己の心を蝕んでいる、という事の現れでもあるでしょう。
”当たり前”に胡坐をかいて、”有難い”事実を忘れているのです。

そして有難い事実のあまりの衝撃は、人を目覚めさせる事もあるでしょうし、
反って更なる迷いの中に叩き落とす事もあるのかも知れません。
後遺症の様に、延々と迷い続ける人もやはりいる様に思います。

或いは「自分は粛々と生きているのに何かが邪魔をしている」と感じるなら、
”粛々と”を勘違いして、我を押し通す事だと思っているのかも知れません。
しかし残念ながら、ただ強引に推し進める事は”粛々”ではありません。
厳”粛”な事実を前に、自己を”粛”正する事こそ”粛々”だろうと考えるのです。

人間には、それが神の業であろうが、自然の摂理であろうが、
世間法だろうが、隣の人であろうが、ある程度抗えない相手が存在します。
そのあくまでも厳粛な事実の下でしか己の営みを行う事は出来ないのです。
それに逆らってゴリ押しを試みたとしても、事実は決してねじ曲がりません。
そして、それが所詮ゴリ押しに過ぎないからこそ、結果に失望する訳です。

何が起こっても想定外等と騒がず、動じる事なく悠然と構える。
あらゆる可能性が起こり得る事実というものを弁えて、それに抗う事なく、
その上で自分の出来る事を誤魔化さず、真面目に向き合って行く。
求められているものは、常にその覚悟であると私は考えています。

そして勿論、開き直って迷い続けるにしても同じく覚悟は必要です。
つまりどんな生き方を送るにしても、必ず覚悟は必要だという事です。
仮に決めていなくても、求められるのが覚悟というものなのです。

hongaku_ji at 19:09|PermalinkComments(0)

2016年05月02日

もう会えないかも知れない可能性は常にある

私は、幼い頃に死にかけた事がある所為か、
それ以来、何となく自分の周囲が、特に壊れ易いものの様に感じていました。
それは、自分の世界が崩れてゆく予感という感じでしょうか。
自分が消えてしまうにしろ、或いは周囲の側が消えてしまうにしろ、
それは結果的には、二度と会えないという、同じ事を意味しています。

例えば学校から帰って来て、友達と遊びに出掛けようとした時、ふと、
「出掛けている間に家族が消えてしまうかも」という不安を常に感じていました。
自転車に乗って、一度は元気良く遊びに出掛けてみたものの、
払拭出来ない不安が大きくなり、来た道を引き返した事も何度かありました。
勿論、結果的には何も起りはしませんでしたが(苦笑)
考え過ぎと言えば考え過ぎ。神経症気味と言えばそうだったかも知れません。

ただそれでも、可能性としては充分あり得た話だと思うのです。
人と一旦別れる、という事は二度と会えない可能性も十分、含んでいます。
あれが最後になるとは思わなかったという別れは、普通に世に溢れています。
そして事前にそれが分かっていればと悔やむ事も多いかも知れません。
しかしそうなる可能性がある事を想像する事位は出来たはずです。
人は、十分起り得る可能性を見て見ぬふりしているだけだという事なのです。

事実を受け入れる事は決して容易い事ではありません。
それが、何の心の準備も出来ていない状態で、突然であればある程に。
考え過ぎるのは良くないでしょうし、神経症になってはいけませんが、
心構えを持つという事は、実は常に必要な事なのかも知れません。
その上で、後ろ髪引かれる思いで、別れなければならない時もあれば、
一緒にいる事の喜びを味わう事が出来る時もあるはずだと思うのです。

よく考えてみれば私に限らず、小さい子供は大抵、別れを嫌がります。
「また会えるから」と諭してみても泣き止んでくれなかったり、
子供の割に強い力でギュッと抱き着いて来たり、面白いものです。
それは経験上得られる、”また会える”事を繰り返していない所為でしょうか。 
子供は、とても純粋な状態で”別れ”を認識しているのかも知れません。

対して大人は、経験して得られる”また会える”機会の多さに、いつしか酔い、
”また会える”事が自然な事だと勘違いしてしまうのだと思うのです。
しかしそれは幻想に過ぎない事を実際に失くして痛烈に気付かされる訳です。

勿論、心得ていたとしても、実際に失えば辛い事に変わりはありません。
それでも幾許かの慰めにはなるかも知れないと考えています。 

さて、隣にいる人は、いつでももう会えない可能性を宿しています。
本当に大切な人ならば、その事を忘れてはいけないのではないでしょうか? 

hongaku_ji at 17:33|PermalinkComments(0)