2016年01月

2016年01月11日

青い鳥

ベルギー出身のノーベル文学賞受賞作家、メーテルリンク。
彼の代表作と言えば「青い鳥(L'Oiseau bleu ロアゾブルー)」でしょう。

私は、子供の頃に放送されていたアニメの印象が強いのですが、
童話や絵本として記憶されている方も多いかも知れません。
今でも同名の二次創作物や、ブランドが数多く存在してもいます。
兎に角、話の中身はうろ覚えでも、”青い鳥”が幸せの象徴という位は、
きっと誰もが知っている事かも知れません。

貧しい樵(きこり)の家に生まれた息子チルチルとその妹のミチル。
二人はクリスマスイブにベッドの中で目を瞑って、思いを巡らせます。
裕福な家庭では、どんな素晴らしいイブを迎えているのだろうか?と。
貧しさゆえに二人の所にはサンタクロースも来てくれません。

そこに魔法使いのおばあさんが現れて、二人を旅に誘います。
「孫娘の病気を治す為に、青い鳥を探してくれませんか?」と頼みます。
青い鳥を手にする事が出来れば、二人にも幸せが訪れると伝えるのです。

そうして二人は、”思い出の国”や”未来の国”等、様々な国を旅して、
”青い鳥”を見付けますが、持ち帰ろうとすると全て駄目になってしまいます。
残念な事に”本物”が見付からないのです。

旅を始めて一年も経った頃でしょうか、お母さんの呼ぶ声が聞こえます。
「さあ二人共、起きなさい。今日はクリスマスですよ」
一年掛けて様々な国を旅したつもりだった二人ですが、
それは寝て目が覚める迄のほんのわずかな時間の出来事でした。
そして結局、幸せの”青い鳥”を見付ける事は出来ませんでした。

しかしふと顔を上げると、そこにある鳥籠の中に青い羽根が落ちています。
何処を探しても得られなかった”青い鳥”ですが、
二人が飼っている鳥こそが”青い鳥”であった事をそこで知るのです。

”幸せ”は、直ぐ傍にあってもなかなか気付けないものかも知れません。
他人を羨ましく思い、無いものねだりをして、
”幸せ”は、此処ではない何処かにあるものだと思いがちですが、
そんな浮ついた夢ではなく、もっと根差した”幸せ”があるのです。

”青い鳥”の物語は、夢を追い求める前に、
現実の中で生きよ、という示唆ではなかろうかと思うのです。
遠回りをしましたが、二人はそこに気付く事が出来ます。

さてメーテルリンクがこの物語に与えた主題は「死と生命の意味」だそうです。
”思い出の国”では、死んだはずのおじいさん、おばあさんに出会い、
”未来の国”では、生れて来るはずの子供達に出会います。
しかしそれらは全て二人の暮らす”現実”での生き方に繋がっています。
”思い出の国”に行って共にやり直すのでもなければ、
”未来の国”に行って共に歩むのでもありません。
二度と会えない可能性もある遠く離れた場所で暮らす際の、
”現実”の心構えの話でもあるのです。

童話というものは、時に体裁が童話であっても、
対象は、実は大人に向けている、と思われるものも結構存在します。
本当に大切な事は、子供にも大人にも大切な事でなければならない。
そしてそれこそが人として大切な事であるとも思うのです。 

hongaku_ji at 23:44|PermalinkComments(0)

2016年01月05日

この世にも牡丹の花は咲く

この「石橋」に垣間見える教訓は少なくとも二つある様に思います。

先ず一つには、見る側の話。
人は表面的な事に囚われ本質を忘れる、という事です。
実は豪華絢爛な獅子の舞は”前座”の様なもので、
本来招聘する”真打” の登場は、前座が大人しくなってからなのですが、
多くは、なぜ獅子が舞うのか、その本質的な意味を忘れ去って、
前座こそが真打だと勘違いして喜んでいるだけなのかも知れません。
人は例えば、目に見えぬ事は忘れ、目に見える事だけを信じがちですが、
獅子舞が如何に派手で、景気が良く、めでたく思えても、
本当は使いの獅子は兎も角、続く文殊菩薩こそが大事なのかも知れません。

似た様な事では、「徒然草」の中に”仁和寺にある法師”という話があります。
石清水八幡宮に一度も参詣した事のない老僧が、それを情けなく感じ、
一念発起して参詣に向かうも、一人で参った上に詳しく知らなかった為、
麓の神宮寺である極楽寺や、摂社の高良神社だけ参拝して満足してしまい、
肝心の男山山上にある本殿に参拝する事なく帰って来てしまうという話です。
「神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とは老僧の弁。
残念ながら気付けませんでしたが、本意の神は山にこそあったという訳です。
知らない、気付けないという事は、酷く残念な事かも知れません。

その上で、二つには、修行者は”夢”ばかり求める癖があるという事。
まあこれは修行者に限らず、”禅知識”も同じ事かも知れません。
以前「上求菩提、下化衆生(13/10/15)」という話を致しましたが、
これもまた”上求菩提”は前座の様なものだと言えるかも知れません。
先ず自分が救われたいと願うから仏門の扉を叩くのかも知れませんが、
夢見心地の独り善がりの仏道など、取るに足らないと私は思います。

自分さえ救えないのに他人を救える訳もないかも知れませんが、
自分さえ救われればそれで話が完結するという訳でも無いと思うのです。
修行者は夢を追い求めながら、同時に夢から醒めねばなりません。
それは、現実に”生きている”という事を忘れてはならない、
そして離れてもならないという事です。
石橋を渡る必要もなければ、夢の浄土に到る必要もないのです。

文殊菩薩の浄土には、牡丹の花が咲き乱れ獅子が棲むと言われます。
そして到らぬ者は、その場に行きたい、招かれたいとばかり願うのです。
しかしそれもまた欲であり、現実の中では夢でしかないのです。

そしてここで重要なのは、石橋の袂に牡丹の花が咲いている、という事です。
固定化された文殊菩薩と、霊獣としての獅子は向こう側にしかいなくとも、
牡丹の花は、文殊の浄土にだけ咲くのではなく、この世にも咲くのです。
そしてこの世に咲く牡丹の花に誘われて、獅子が舞い、
文殊菩薩が出現するという事になります。

それは夢物語ではなく、
牡丹の花が仏法で、人の「心」が獅子であり、
そして人そのものが文殊菩薩の器たり得るのだとするならば、
実は材料は全て、端からこの世に揃っているとも言えるのです。 

hongaku_ji at 00:30|PermalinkComments(3)

2016年01月01日

あらたかな奇跡

あけましておめでとうございます。
旧年中は更新ままならず大変失礼致しました。
とは言え御蔭様で、一応このブログも600話を越え、
三度目の新年を迎える事が出来ました。
本年も精進して参りますので、宜しければもう暫くお付き合い下さい。

さて、能の演目に「石橋(しゃっきょう)」というものがあります。

嘗て大江定基(おおえのさだもと)を名乗った天台宗の僧、寂昭法師が、
修行の為、中国が唐の時代に海を渡り、各地の仏跡を訪ね歩く中で、
五台山とも言う清涼山の、麓にある石橋に辿り着く所から、話は始まります。
(因みにモデルは、同じ山でも天台山の石橋だとされます。)

清涼山は、古くから文殊菩薩の聖地として信仰され、
目の前に架かる石橋の向こう側の山の中は文殊菩薩の浄土とされます。
石橋は人工ではなく天然のもので、幅は30㎝足らず。長さは10m程。
苔が生え滑り易く、下は3000mはあろうかという深い谷に架かっています。

勿論、それは困難な道程である事を想像させますが、
この橋を渡り、文殊の司る浄土へ到るという事はある意味で、
僧侶が身命を賭してでも望む、最終目標とも言えるかも知れません。
その”夢”を前にして法師も、ある意味安易な気持ちで渡ろうと決意します。

しかし通り掛かった樵(きこり、童子とも老人とも)は、法師に、
人が、尋常な修行で渡る事の叶わぬ橋である事を告げ、思い留まらせます。
或いは、人が人の姿で渡る事の出来ない境地であるのかも知れません。
それは渡れぬ橋であり、渡る必要の無い橋である、という事だとも言えます。
そして暫し待てば、文殊の浄土の”あらたかな奇跡”を拝めると告げ、
樵は姿を消します。樵もまた、単なる樵ではないのでしょう。

やがて法師の前に獅子が姿を表し、
石橋の袂に美しく咲く牡丹の花に戯れ、豪快に舞い狂うのです。
ここで舞う獅子は”野放し”ではなく、あくまで文殊菩薩の使いであります。

そして一般的には、この舞こそが、”あらたかな奇跡”と映るかも知れません。
霊獣に昇華した”百獣の王”と、”百花の王”の組み合わせ。
また勇壮にして華麗なその舞が、めでたさの象徴であり、縁起物であると。
新春やめでたい席で、”石橋”や所謂”石橋物”が演じられるのも、
獅子舞が欠かせない事も、神社に狛犬が鎮座している事も、
ひょっとしたら根っこは皆、同じなのかも知れません。

そして一頻り舞い狂った獅子はあるべき場所に戻ってゆきます。
それは智慧の下、文殊菩薩の足下にこそあるという事なのです。 

つまりこの演目の最後は、目には見えませんが、
文殊菩薩が法師の前に姿を現した、この世に現前した、という事なのでしょう。
本当はこれこそが”あらたかな奇跡”であるのかも知れません。
それは、石橋の向こう側の夢の浄土が目指すべき場所なのではなく、
石橋の此方側の何の変哲もないこの世界が浄土たり得るという事です。

年始という事で、めでたい”あらたかな奇跡”の話をさせて頂きました。
僭越乍ら、この年の皆様の御多幸を祈念致しております。

hongaku_ji at 22:26|PermalinkComments(0)