honjisuijyakuのブログ

歴史は何処まで信用すればいいのか?それを確かめるため古代史から紐解きたい。なぜなら古代の時代の素朴さにあり、自然を中心に生きた人間は正直ものと信じたいからだ。古代を研究することは今の生き方を考えることに繋がると信じてるからです。歴史は弱者の意見を切り捨てている。だから歴史は半分しか正しくない。人間とは、日本人のよさとは、そして如何に生きるかを考えたい。御意見頂ければ幸いです。tadao.amaterasu@gmail.com

kurasige@gamma.ocn.ne.jp
歴史を正しく理解するには勝者の綴りだけで無く弱者の声を反映させなければならない。歴史を紐解く基本原則です。
日本と何時から名乗ったか、何故日本と書いたのか、日本と書いてヤマトと呼んでいた、しからrば何時から日本とかいて『にほん』と言ったのか。日本人であれば正確に知りたい。

神仏習合

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高幡不動尊の近くに住んでいます。朝の散歩秋が最高!
不動明王。山之内八十八所巡拝できます。
毎年紫陽花祭りが開催され参道や拝道(八十八所)にはアジサイの群生
がみられ素晴らしいです。俳句、短歌祭りがあります。
  『月読みに、光る御堂か、額紫陽花』(自作入選)
大日堂、五重塔もあり寺院全体が豊な自然に囲まれています。
京王線高幡不動:特急下車1分。
本地垂迹(大日如来:天照大神)

ふるさとおこしの歴史活用法ー2

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歴史書は偽書になりやすいのは、時の政権に影響されるからです。


今でもそれは変わりません。しかし偽書だからと言っても歴史をひも解くために必要不可欠なものです。例えば古事記は日本最古の歴史書と言われますが偽書と言えば偽書になりますがそこから真実が見えてくるのも事実です。古事記には女王卑弥呼の事実を隠蔽していますが卑弥呼の代わる事実を人物や年代を変え表現しています。郷土史のひも解きもこれと同じです。このひも解きをしていかなければ真の歴史は見えてきません。世界史、日本史、近隣地域等の関連からひも解いて下さい。必ず時代のヒーローやターニングポイントになった人物を特定することができます。これがふるさとおこしでの歴史発掘のポイントです。


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ふるさとおこしの歴史活用法ー1

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日出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。恙無きや』


蛮夷の書は儀礼をわきまえていない。二度と奉上しないように(隋の皇帝鰑帝の怒り)607年の出来事でした。更に独立の書簡を送ります。


『倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時出でて政を聴き、日出ずれば直ちに事務を停め、弟に任す』


明らかに挑戦文です。独立を意識した瞬間です。日本が倭として中国の属国から脱却したのです。対外的に倭から大和(ヤマト)になり日本(最初はヤマトと呼んだ)となり、日本の独立が開始されます。これと同じことが各地域で興っています。そこを郷土史から発見して下さい。そこから今日まで時系列的にひも解く必要があります。ふるさとには長い悠々とした流れがあるのです。

新しいホームページです。

忠男小樽


http://furusatookosi.jimdo.com/

ふるさとおこしのホームページです。
是非ご覧下さい。

今年一年、お世話になりました。良いお年をお迎え下さい。

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http://kurasige.info/
ホームページです・倉重

春の花

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月が消えた??

携帯h20年7月 186
しばらく月を見てない!ツキユミも消えた!
5月4日満月です
土間にいます。

寒いから

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梅に逆戻りですね!

新刊三冊です

wagakokoronotabi hyousi-1万葉歌の謎吾心表紙

新刊三冊です。
現在4冊目作業中です
下記URL変更しました。

ホームページURLです。http://kurasige.info/

メールアドレスです。 kurasige@gamma.ocn.ne.jp

2014年は三冊出版しました。

1.『吾、心の旅』副題飛鳥・奈良時代の大和路を行く
吾心表紙



2.女帝から見た古代史の真相
女帝の写真2



3.万葉歌の謎
万葉歌の謎

詳しくは下記URL参照下さい。
株式会社PH総研
http://www4.ocn.ne.jp/~kurasige/
http://blog.livedoor.jp/honjisuijaku/

鵜野讃良(持統天皇)と鏡王女の二人が歴史を変えた−28

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  万葉集2巻93(鏡王女)・94(鎌足)(669年作)
(鎌足と鏡王女の微妙な関係)
原文;玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳
作者;鏡王女(669年作)
私訳;玉櫛笥を開け、夜を共にしたかったが、貴方はどこかに行った。朝方帰るのは、貴方は良いでしょうが、私の自尊心が傷つく。

原文: 玉匣 将見圓山乃 狭名葛 佐不寐者遂尓 有勝麻之自
作者: 藤原鎌足(669年作)
私訳;玉櫛笥を開けてしまえば、三輪山の狭名葛のようにねじれ重なり合いし寝たいけど、そうした気持ちは抑えきれないですよ。それでもいいですか?

 天智天皇の最も信頼する中臣鎌足に一人の采女をさし与えた。乙巳の変、と有馬皇子殺害の報償である。采女は身ごもって嫁ぎ、その子供は産まれた(659年)。身籠って生まれtた子が不比等である。後に統天皇と不比等とは運命を共にすることになる。鎌足はこの采女とは、その後、子供は持たなかった。不比等を生んだのは采女(鏡王女)であるとの意味合いを残す為である。鎌足は、不比等を天智天皇の子供だと言う事をあえて含ませたのかもしれない。不比等659に生まれで、この時、鏡王15歳として644年生まれ、644〜683年の生涯で鎌足を補佐し、重要なパートナーとなる。皇室以外に采女は通常嫁ぐ事は無い。天智天皇は歴代天皇の掟を破ってまで鎌足を重要視した。天智天皇は孕んだ子が女の場ありは自分が引き取るとした。女性は政治的に仕えると判断したのだ。しかし生まれた子は男子で鎌足の子としたのである。やがて生まれた子はいつの間にか重臣になり確実に成長していた。立派に成長した不比等は後に持統天皇と運命的出会いをし、天下を治めるまで成長することになる(日本書記では不比等は鎌足の子としている)。不比等を産んだ鏡王女は万葉集にあるように気品とプライドを持った采女であった。その気質は不比等に継がれた。丁度そのころ鵜野讃良(持統天皇)は天皇在位の694年〜702年まで二人三脚することになる。
不比等の天才的政治力で藤原京そして平城京と遷都し飛鳥・奈良時代の礎となる。
参考;鎌足614年〜669年、 不比等659年〜720年
★ここから先は著書でお会いしましょう
詳しくはホームページで;http://www4.ocn.ne.jp/~kurasige/
女帝の写真2女帝の写真

額田王女を諦め切れなかった大海人皇子(天武天皇)-27

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 額田女を愛し続けた大海人皇子(天武天皇)の万葉集歌と反歌
-20・21(668年作)
・額田皇女万葉歌
原文: 茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流
 (標野は滋賀県蒲生町あたりの近江宮管轄の狩場・668年作)

私訳;茜色の光が指す、標野は紫に輝いている。紫が満ちた中を貴方は手を振っている。私もお返ししたい気持ちだが、野守が見ていますよ。

・大海人皇子(後の天武天皇)の反歌
紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
私訳:紫の匂える貴方を憎い筈はない。人妻故に私の心は揺れ動いている

二人の天皇に愛され額田皇女は複雑な人生を歩むことになる。その流れを鵜野讃良(後の持統天皇)の目線で考察して行きたい。鵜野讃良(持統天皇)645年、生まれで、乙巳の変の年である。父は天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の孫になり、同じ父母で姉の大田皇女がいた。姉妹は揃って父天智の弟、大海人皇子に嫁いでいる。姉妹は天智対天武、兄弟の戦いの中生き抜いた。姉は大津皇子を、妹は草壁皇子を産み、この子供の二人が歴史に中で、皇太子争いを展開することになる。万葉集才女の額田王女を妹鵜野讃良は愛おしく思ったのか共に波乱を生き抜く女として憐れんだ。大海人皇子が額田王女を愛してることを理解しても嫉妬心が強く心に感じ生きていく自分を冷静みていた。父、天智天皇に嫁ぎ、母から離された十市皇女(父は大海人皇子)を憐れんだ。この時代の女の宿命を理解しながら夫、大海人が愛するのは自分でなく、額田王女であることを万葉歌で思い知らされた。

 

天智天皇の言い分−26

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万葉集1巻13 中大兄皇子(後の天智天皇)(661年作)

原文:高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

私訳: 香具山は 畝火(うねび)を愛おしいと 耳成(みみなし)と 相(あひ)争った。神代よりそうだった。 古(いにしえ)も そうだったように今も変わらず 妻を争うらしい。

 中大兄皇子は、白村江の大敗退で、国内に砦、侵入者対策を考えた。667年、大和と堺の境界に高安城を砦として立てた。大阪湾からの侵入で飛鳥を防ぐためである。それでも、天智天皇は弟の大海人皇子(後の天武天皇)を最大の敵と考えだした。自分が生んだ女の子は、全て弟の妻として与えた。まと弟の産んだ娘は自分の夫人とした。こうすれば安全と考えたが、これだけでも異常なことだ。又妹、間人皇女を愛し続けた、嫁の存在として他人が入ることを控えた。この時代でも近親相姦は許されない。彼は天皇にならず愛し続けたことになる。それとも自分は百済の血であるとしたのか?(この場合間人皇女は舒明の子かもしれない)。 さらに、大海人皇子の最も愛する妻・額田王女(大海人との間に十市皇女を生んでいるが)を横取り(世間的には人質として)し愛した。そうすれば弟は謀叛を犯さないと考えたのだ。その後妹の間人皇女を無能の孝徳天皇に預け、皇后として君臨させ、自分が皇后をコントロールした。皇后に妹を据えることで、政局を利用しまた天皇を操った。いよいよ自分が天皇になる時が来た。皇后が必要で、倭姫(天智に殺された古人大兄皇子の娘)を形式的に皇后とした。倭姫は父を殺した人に嫁ぐ破目になった。孝徳天皇を灘宮に置き去りにし、中大兄皇子は飛鳥に妹(皇后)をつれ戻し、すべての要人を飛鳥に移し遷都した。その後孝徳天皇は灘宮で一人悲しく崩御した。兄に翻弄された間人皇后は間も無く亡く飛鳥でなった。ふん切りがついたのか667年、ようやく中大兄皇子は天智天皇として君臨し、近江宮に遷都した(668年)。山背大兄王(聖徳太子の子)、古人大兄皇子、有馬皇子を殺害し、有馬の父、孝徳天皇を黙殺し、更に大海人皇子(弟)までも吉野で殺すことを図った。余りにも周りの人を、敵と感じた、すべて殺し、謀叛を企て抹殺させた。なにがなんでも長子、大友皇子を天皇にするまで、俺は天皇になると考えた。また息子を天皇にするには自分が天皇にならなければならない。息子は日本人の血をもつ母親を持ち、且つ父親は天皇だ。大友皇子の周りを皇室出身で固めれば、大友皇子は日本の天皇になれる。俺はそれまでの天皇だ。648年生まれの大友皇子の天皇即位を考えていた。弟大海人皇子はどう反撃するのか?

斉明の子、兄弟で決戦の始まりと額田王女の心情ー25

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641年舒明天皇が崩御直ぐに天皇になるべき人、中大兄皇子はその後28年間在位を断わり続けた。その理由な誰にも判らない。その彼が668年天皇宣言したのだ。自分の年齢56歳(日本書紀は46歳)と長子、大友皇子(648年生まれ・後の弘文天皇)は既に20歳になっている。在位年齢と言えるが大友皇子の身分が整っていいない。しかし天智天皇の考えは単純であった。倭姫王(天智に殺された古人大兄皇子の娘)を皇后に据え、皇太子に大友皇子を成立させた。又大友皇子に十市皇女(弟と離婚させ天智の夫人とした額田王女の娘)を正妃とした。周りを皇室詰めにすることで大友皇子の正当化を図ったのである(大友皇子の母親は采女)。こうすれば大友皇子は天皇の資格があるとしたのである。弟大海人皇子の娘を悉く天智は自分の夫人にしているので天武系を嫌った。でもこのころから、急激に兄弟(天智と天武)の中違いがは出だした。国外に気を取られている天智天皇に中臣鎌足は弟を警戒するよう忠告したからだ。妻を人質にとれ、皇太子大海人皇子は悩んだ。

万葉集1巻18 額田王女(667年作)

原文:三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳情有南畝 可苦佐布倍思哉
私訳:三輪山を 心知らず隠すのか 雲にも こころあるなら せめて隠さないで私の気持ちを判って欲しい。  

 天智天皇の6年(667)に都が飛鳥から近江の大津に遷都。同時に額田王女を弟から奪い取った。その近江に向かう途中、額田王が詠んだ歌です。往時の世相で人妻、しかも弟の愛する女を人質に取ることは常識的にあり得えない。この結果、政権の流れは一転することになる。飛鳥の三輪山から日が上り、西の二上山に沈む光景を日々眺めながら生活していた十市皇女と、額田と天武の三人が暮らしていいた。その山の思いで、せめて、その山を心に刻んでおきたいと願って、雲が邪魔しないで欲しいとの心情を詠って最後の決別をした額田王女の歌である。この心情を痛いほど理解した大海人皇子(天武天皇)はある決断を心に刻んだ。 

持統天皇の野望と、聖武天皇の母、宮子との壮絶な戦いー42

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聖武天皇は701年12月に生まれた。同じ日に光明子も生まれた。10月10日前と言えば持統上皇と文武天皇が和歌山に行幸していた時期である。持統上皇は曾孫、首皇子(聖武天皇)の生まれを確認し安らかに永遠の眠りのついた。草壁皇子の妻(元明)とその子供で姉の元正天皇、弟文武天皇と繋ぎ、724年、聖武天皇は若干24歳で即位したが、実質の権限は藤原四兄弟で動かされていた。聖武天皇は不比等を失い(720年)、727年長子基皇子を毒殺されている(犯人は藤原四兄弟)。橘三千代と長屋王が頼りだったが長屋王は策略で自殺した(729年)。当時、光明皇后は藤原四女として、藤原家のスタンスでの言動が強かった。元明天皇も(712)亡くなっていたが、元正天皇(文武天皇の姉)は748年まで聖武天皇を補佐し、精神的で支援した。又橘諸兄(三千代の元夫との子)も左大臣として756年まで天皇を補佐した。738年の長屋王も藤原四兄弟の謀りごとと判りつつも沈黙を保った。だが、737年藤原四兄弟は突然天然痘で一気に四人とも亡くなったことで事態は一転した。その翌年の738年であった、邪魔者がいなくなったと待ち受けたように、宮子が実に38年ぶり聖武天皇の前に現れ。劇的な親子再会を果たした。まるで取り囲んでいた藤原四兄弟が無くなるのを待っていたかのように宮子が人前に出て来た。宮子夫人は38年間、精神病だったとするが如何にも不自然だ。軟禁の間、文武天皇も生きていたが気遣う行動や直接合うと言った状況の記録がない。天皇の母親を、封じ込めたのは当時の実力者不比等だった。なぜ軟禁したかは彼自身だけが知っている。その真実には大きな謎が漂う。宮子は息子(聖武天皇)に逢ってどんな話を打ち分けたのか?精神病とされた人間が38年後に、正常に戻ったとはありえるのか、ここが最大の謎解きである。真相を母、宮子から聞かされた内容はどのようなものだったか誰も知る余地はない。そこで仮説に基づき推理してみたい。 まず宮子が何故精神病にかかってしまったかである。想像するに強いショックが宮子を襲ったと考えるのが通常であろう。そこで思い切った想像で推理したい。(私的な推理)。
<第一の仮説>
それは701年の2月20日から27日に出来事である。上行天皇(持統天皇)が吉野の行幸があり、文武天皇は一人で同行し、宮子をつれることはしなかった。9月の和歌山行幸も一人であった。万葉歌1巻74で文武が『今日も一人で寝る』(先に万葉歌で説明済み)とある。行幸時は、藤原家が中心で宮中の体制固めした。上行と天皇(文武天皇)がいないため厳重な警戒体制であり、他の者は境内には侵入出来なかった。そういう中で、突如養女宮子に何者かが襲った。後日宮子は身籠った。このショックに宮子はパニックになった。不比等は平然に答えた。『俺と同じ運命を辿れ』。まさに不比等は事もあろうに天皇に胎ました女を後日、文武天皇に戻した形になる(697年宮子は宮中入り)。自分は天智天皇が孕ませた采女の子で、鎌足の子ではないと宮子に告白した。不比等は宮子に、養女にした事の意味を説明した。不比等はある意味で皇室に対し怨みをもっていた。母親の理不尽な背景を宮子に話、自分の行為は天皇に対する強い復習だとまで言い切り、宮子に理解を求めた。ショックのあまり宮子は悩み続けついには鬱病に入ってしまった。同時に不比等は娘の誕生にその日から三千代を愛し続けた。そしてその年の12月X日に首(おびと・聖武天皇)と光明子が誕生した。天皇家に我が娘である光明子を嫁がせたら藤原家は永遠に安泰だと不比等は満足した。これはあくまでも推理の域ではあるが、歴史的記述を総合すれば可能性は十分あり得る。それから、不比等は我が子と当然のように宮に隣接する我が家で首(聖武天皇)の成長を見守った(平城京東院庭園の側に不比等邸がある)。また藤原四兄弟も本件を確実に見定めていた。ちなみに藤原四兄弟の701年時の年齢等を記しておく。
藤原武智麻呂;680年〜737年、母、蘇我蓮子の娘
藤原房前  ;681年〜737年、母、蘇我蓮子の娘
藤原宇合  ;694年〜737年 母、藤原蓮子の娘
藤原麻呂  ;695年〜737年 母 不比等の異母娘
不比等は文武天皇に子を産む可能性が無いと判断した。その仮説にある実行をしても、若き18歳の青年天皇を騙すのはいとも簡単だった。それと文武天皇自身、子づくりに関心が無かったこと、また我が子にも余り関心を待っていないこと、更に文武天皇自身が宮子に全く関心がなかったことが挙げられる。記紀や万葉集に子の誕生詩や自分に子に対する想いの記録が全く無いことでも頷ける。

<第二の仮説>
 今一つの仮説がある。それはすり替え説である。光明子と首皇子とをすり替える説だ。聖武天皇と光明子の生まれが同年同月である。何故か記紀には誕生月があっても日の記載がない。無いのはそれなりの理由がある。1300年前の藤原京の中での宮の環境は、月星の明かりがある以外は暗闇である。ここで影の立役者は橘三千代で彼女の力が加われば密室の故意が成立する。同じ藤原京内で、同年同月にうまれた男児と女児。皇室には絶対に男子が必要だ。不比等が男、文武が女としたら当然の如くすり替えるだろう。これには橘三千代が大きく関与していた筈だ。三千代の影の力がなかったら、仮説も成立しなかった。その意味で三千代に果たした役割が甚大であった。それだけに晩年は罪と罰に悩まされた。

 また第一、第二の仮説を裏付ける別の視点からのデータがる。
草壁皇子27歳、文武24歳、聖武天皇55歳と伯父と父と自分の寿命で判断した場合不自然さが残る。一方天智45歳(仮説では55歳)、不比等61歳、聖武天皇55歳となると妥当と判断できる。往時にこのような判断は無かったであろうが、今の時代の判断では24歳、27歳の叔父と父親の血筋から往時では子が急に55歳代まで生き、かつ身体が丈夫な子が生まれる可能性は低いと言わざるをえない。草壁も文武の病弱だが聖武天皇は頑健であの天然痘大流行で藤原四兄弟が一気に亡くなった時も生き延びた。さらに不信感が広がる。それは文武天皇が亡くなり7年目の713年突然文武天皇と嬪の間に生まれたとする広成皇子、広瀬皇子とが母親嬪とも皇室から追放(罠があったとされているが)れている。元明天皇時であるが実質不比等が政権を握っていた。しかも天皇が崩御し、直系の後継ぎ誕生したことで役割ご免とばかり、切り捨てられている。少なくても文武の子ではないのか?天皇の子でないとすれば、追放した方がすっきりする。日本書紀では宮子に気をつかったとするがこれは可笑しい、何故ならばこの時点で宮子は隔離状態で気の使う必要はない。但し二つの仮説が無い場合のみ嬪の子の存在が必要になるし最悪の場合、嬪の子を、光明子と聖武天皇の子とすることは可能だった。この意味で、賓を設けた意味合いは充分理解できる。もし文武天皇が子を生む体質で無いと判断し、嬪をすえ、その嬪にまず男子を産ませ文武天皇の子とすればよい。また嬪に子供が出来たことは、文武には産む身体的能力があることを、証明(カモフラジュー)でき、嬪の必要性があった。あえて言うなれば采女では、それば身元がはっきりし危険でかつ漏れる恐れがある。何処の誰とも判らない嬪であらねばなかったのである。先の仮説での、聖武天皇が不比等と宮子の子でないとすると、文武天皇は18歳で宮子を孕ませ、24歳の若さで亡くなったことになる。だがこの間、夫人宮子と子との生活の記録や子供の誕生を喜び、また歌や対話する記録が全く感じとれる資料がないことは疑念が残る。文武天皇が我が子の誕生に対し期待すすることは病弱だけに大きい。これの記事や喜びの記録や万葉歌に残されてないのは不自然だ。さらに文武が崩御時も宮子夫人の隔離状態は続いた異常な状態であり、皇后の立場でもある宮子の弔いの配慮は全く皆無だ。しかも子が生まれた701年から38年宮子は間閉ざされていたことになる。その間、宮子が不比等に合うことを嫌っていたとする記述がある。とすれば第一仮設が有力になり、聖武天皇は不比等の子となる。720年に不比等が亡くなり時、宮子は精神病者で余り気にする存在ではないと判断したのか、また藤原四兄弟も宮は軟禁状態で父が無くても続けていた。だが天はこれを見逃すことは無かった。それは突然やってきた。四兄弟が天然痘で全員亡くなったのである。亡くなったことを天の裁きと判断したのか橘諸兄は、左大臣の立場で、開放を決断した。また宮子もじっとその時を耐えに耐え、待ったことになる。逆に宮子こそ精神病と偽り生き伸びたのではないか?720年に不比等が亡くなった時、不比等自身精神病の宮子は永遠に治らない、殺す必要はないと判断したのだ。宮子は全ての邪魔者が消えさり、時期到来と判断し諸兄に伝えた。宮子は38年ぶりに息子の聖武天皇に劇的な対面を果たした。宮子は聖武天皇にどんな内容を話したのだろうか?真の父親は不比等だと告げたのか?最大の謎解きはここにある。推理としては、父親が不比等であるが母親は宮子であるとしたのではないか。全てを聞かされた聖武天皇は悩み抜いてある行動に現れた。その決断は聖武天皇に取って譲れない結論であったのだ。母宮子を開放し精神的悩みと今まで絶えて来た苦労に報いるため、母の願いを聞いた。その宮子の願いとは、『あまねく一斉を光り輝くルシャナブツ』建設だった。すっきりした宮子は息子に懺悔し謝罪した気持から建立を願った。現状では財政に不安、特に金の調達及び建設に関わる人手を如何に確保するかであった。 聖武天皇は母の願いを叶えるべく行基に託した。行基(668年〜749年)も又自分の望みをすべて呑む形(建築に関わる全てを僧侶にすることが条件だったが)で交渉は成立した。さらに聖武天皇は、我が子として育ててくれた父親、不比等には感謝するも、母を監禁してきたことは許せなかった。又事実を知って自分に反感的に振舞っていた藤原四兄弟やその子達に猛烈な復讐を開始した。ついに聖武天皇は今までの政策を急転換し、藤原家を遠ざける行動に出た。父不比等に育てて貰ったことに感謝するも、藤原家の罠を許せなかった。そう感じた聖武天皇は、信じられない作戦に出た。歴代の天皇が全く発想もしない、四回の遷都を繰り返すと言う異例の陽動作戦にでたのだ。遷都は、藤原体制を度に大きく揺さぶり、四兄弟の息子達(仲麻呂・弘嗣・百川等)藤原家の結束は徐々に崩れ、聖武は天皇の立場を完全に取り戻した。また四回に遷都は、結果的に環境をリセットし天然痘の一掃に役だった。恭仁京、灘宮、紫香楽宮、そして745年に平城京へ戻る、政権を維持し藤原家の勢力分散に成功した。38年ぶりに親子対面が実現したのは時の権力者橘諸兄であったのも幸いした。橘諸兄も天皇に味方に決断したのは、宮子と面会させることは諸兄皇子にとってはメリットが大いと判断したからだ。聖武天皇は、藤原家の攻撃作戦を起こすにあたって、唐帰りの吉備真備(696〜775年)をサブに抜擢した。彼は唐で学んだ、強烈な兵法の戦略を心得ていた。綿密に組み立てられた戦略と戦術は見事に藤原勢力に対し強烈な先制しパンチとなり、聖武天皇は見事に勝利し母親に報いた。そして745年、母の願いを叶える為、これまでの一切の穢れをはらう念で『ルシャナブツ・奈良大仏』の建立を決断した。聖武天皇は僧侶の質を向上させ教育し(唐から鑑真招来)、人手を行基が確保した。聖武上皇は752年の完成を急がした。橘三千代は仮説通りであれば罪深い人間である。彼女はそれを祓う為に法隆寺に駆け込んだ。東院伽藍は、聖武天皇が聖徳太子の怨念を鎮める為に建立したものだ。そこで三千代は、自分に怨念がかからないよう阿弥陀如来三尊を厨司入りで建立した。自分の持てる全ての仏像を法隆寺に寄贈した。罪を認め懺悔したい一心での行動である。また念持仏をもち、生涯の懺悔とした。寺院に皇族以外の人物が、自らの仏像や念持仏を設けることは異例の事だ。三千代が仮説の主役だからこそ弔いし懺悔したかったのかもしれない。
聖武上皇は、仏教伝来200年祭に合わせ752年に合わせを完成させた。式典は752年、往時として世界最大のイベントとなった。1万人以上の国内外の要人が集まり、『ルシャナブツ(奈良大仏)』に眼が入れられ、菩提僊那(インドの僧侶)が開眼供養し、平和と国家の安泰を願った盛大の祭りが執り行われた。このイベントに行基はいなかった。(749年亡)。聖武天皇は754年、唐から鑑真を招来し、行基の僧侶等の教育に取り組み、弔った。749年娘の皇位を譲り、先行きを静か見守った。娘に対し、貴方は文武天皇の娘として天皇にならなければいけないと諭した。だが自分こそ真の天皇で、人々を代表して神(アマテラス)にお祈りすると誓った。血筋で天皇が決まるわけではない。民の為に、『ルシャナブツ』に仕えていると確信した。そして『あまねく光輝くルシャナブツ』に深々と拝礼した。754年母、宮子が亡くなった2年後の756年聖武天皇は奈良時代を生き抜いた立派な天皇として静かな眠りについた。
 
 鵜野讃良は天智天皇の娘で、父の弟大海人皇子の正妻になり、父を裏切り吉野に天武天皇と逃げた。天武天皇が崩御し四年間喪がりと称し天皇不在を続けた。草壁皇子の子を文武天皇として在位させた。しかしその文武天皇自体父親の草壁皇子と同様短命に終わることを予感し、文武天皇の子、首皇子(聖武天皇)を後継者の道筋を不比等との密約で方向づけ702年に崩御した。不比等と三千代夫人とで天空の闇夜でトリックで持統天皇との密約を実現した。この推理が正しいk否かはこれからも検証しなければならないが女性と言う立場で歴史を洞察し、弱者の論理で見たこのドラマも正解とは言わないまでも、男性の勝者の論理を合わせ歴史を紐解く事が肝要であると今回の検証で実感し古代史から学んだことである。

持統天皇の奇策を実行すると不比等は動いたー41

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万葉集 7巻1096・1126(作者不詳)
平城京遷都・710年

原文; 昔者之 事波不知乎 我見而毛 久成奴 天之香具山
私訳;昔のことは詳しく知らないが、自分からみても 神が降臨したと言う、天の香具山は随分遠い存在になったものだ

原文;年月毛  末經尓  明日香川 湍瀬由渡之  石走無
私訳;そんなに年月が経てないのに 明日香川の瀬から瀬を渡り(飛石を渡り) 愛する人に会ったあの飛石も ここには無く懐かしく思はれるものだなぁ

710年、元明天皇は、四神相応の地として藤原京から平城京に遷都した。唐の都に見習った決断だ。奈良時代最後の京であり、国際的視点での立地に相応しい選定でもあった。712年、古事記が編纂され元明天皇へ太安万侶が献納した。しかしこの記述は日本書紀にも続日本記にも無い。30年前天武天皇が稗田阿礼に命令したとされるが、日本書紀には川島皇子・忍壁皇子等に旧辞・帝紀を正す記述があるだけで、阿礼や太安万侶の記述は無い。その後元明天皇が太安万侶に催促し、この年に奉納されたが、続日本(日本書記は持統天皇迄)元明期にその記述は無い。そして、持統上皇が702年12月に、707年6月文武天皇が崩御した。政権は元明天皇(草壁の妻・天智の4女)に委譲された。元明天皇715年まで在位した。更に715年から724年元正天皇(草壁皇子の娘)が在位した。その間日本書紀も完成した。女帝が三代続く中で政局は藤原不比等が急浮上しその手中に落ちた。
≪万葉集8巻1601石川広成乃(文武天皇の皇子)歌(713年作)≫

原文: ;目頬布 君之家有 波奈須為寸 穂出秋乃 過良久惜母
私訳;久しぶりに 君の家の前を歩いていた。花薄が丁度よく穂に、綺麗な花が付いていていた。深み行く秋と同じに、私もここから去り行かなければ、いけないのかなぁ。
参考;目頬布(めずらしき・久しぶりに)
石川広成の父は文武天皇、母は嬪の石川刀子娘である。

 不比等は720年8月3日に崩じた。その際元正内天皇は、容を問わず全ての罪人を許し、京の48寺に対して一昼夜の薬師経を読ませた。まるで天皇並みかそれ以上も扱いで不比等の死を弔った。恩赦として、民の罪を全て赦すことは不比等の罪をも許すことだ。裏返せば不比等が如何に罪深い悪質性を持っていた人と言うことになる。当時天皇の元正天皇であるが不比等が実権で藤原家が握っていた。問題はここからだ、この万葉歌の石川広成乃は文武天皇の子である。母方が低い身分(嬪)であるにしても何故か、この713年に皇室から母子とも追放している。文武天皇崩御7回忌に当たる、記では宮子夫人に対する配慮としているけれど、それでは説明がつかない。何か他の理由がある筈だ。天皇の実の子を皇室から追放することだけの理由がある筈だ。天皇は元正天皇で、母元明天皇の娘で全てを引き継ぎ天皇になった。当然首皇子(後の聖武天皇)の時間繋ぎであるが実質権限は不比等にあった。また橘三千代も夫,不比等と行動を共にし、深く誘導した。
そこで不比等の行動と年表を照らし合わせ考えてみたい。
”堡翕659年〜720年・・・61歳と往時としては長寿
694年藤原京遷都
694年美努王大宰府赴任)(当時の赴任は一人で行き命令が無くもどれない)
696年不比等、政権中枢に参画
697年橘三千代宮中入り・不比等と結婚
697年持統天皇、天皇譲位し退く
697年文武天皇即位
697年宮子(不比等の娘)文武天皇の夫人(実質の皇后)
698年藤原の姓を受け賜る(文武天皇期)
699年弓削皇子死去
701年大宝律令制定
701年首皇子(後の聖武天皇)誕生
701年光明子(後の光明皇后)誕生
702年持統上皇崩御
705年忍壁皇子死去
707年文武天皇崩御
※この時点で誰に天皇継承権があるか?候補は五人いる筈だ。
文武天皇の子 首皇子6歳(この年では天皇になるのは無理)
         ・広成皇子(母が697年文武の嬪になり推定10歳)
         ・広世皇子(広成の弟、推定9歳)
         ・志貴皇子(668〜729・39歳)父;天智天皇、母;采女
         ・長屋王(684〜729年・23歳)父・高市皇子、妃吉備内親王(草壁・元明の子)
ところで誰が天皇になるべきか?吉野同盟では志貴皇子になるがこれには有効性がない。身分的には長屋王、そして天皇の皇子としては広成皇となる。しかし完全に無視されて阿閉皇女(後の元明天皇・夫は草壁皇子)が即位した。
707年元明天皇(草壁皇子の妃)即位(橘三千代を絶対的信頼を持つ)
707年不比等右大臣に任命
708年和同開珎発行
710年平城京へ遷都
不比等は、720年古事記を完成し見届けるよう一生を遂げた。偉大な政治家であったことは間違えない。しかしその陰で無念の遺恨を持つ者も多い。石川広成はその典型だ。真実であれば文武天皇の実の息子である。天皇の子供を一介の官人(皇室でない)がここまでできるか?皇室追放は713年11月5日突然の発表であった。 文武天皇の皇子と嬪の全ての身分を剥奪とするとした。何故この時期で母親の嬪の位を剥奪し皇子も同様皇子の位を剥奪したのか?宮子夫人の配慮としているが(続日本記)が、宮子が正常の状態には成っていない。精神病として隔離された状態だ。謎が深まるだけだ。
そこで、もし文武天皇の子ではないとすれば頷ける。文武天皇の子では無い事を知っているのは不比等であるが、大伴旅人と蘇我家の誰かがその事実を知っていた可能性がある。なお大伴旅人は718年中納言に抜擢された。天皇の子を皇室から追放しその子が万葉集で自分は平民だと理解しているかの如くの万葉歌だ。つまり文武天皇の子ではないので納得の人事だと理解した感じする歌だ。では何ゆえ二人の男子が必要だったのか?男子はカモフラジューである。文武に子が出来ない身であることが知られない対策で暗黙の事実を創る事が狙いだ。一人だと疑われるので二人にした。それでは誰の子何かが問題になる。おそらく不比等が関わっている筈だ。又二人の父親が不比等の子であれば母親は一介の平民であった方が都合よい(万一の場合首にできる)しその情報が漏れない。そうなると聖武天皇は本当に文武天皇の子なのか妖しくなる。もしかすると不比等の子であるとの疑念が生じる。同時に光明子が誰の子なの問題が生じる。さらに誰と誰かをすり替えるという可能性も出てくる。持統上皇との密約とはこの事なのか?となれば真実は誰も判らないがその後の聖武天皇に行動にそのヒントが隠されていた。

持統天皇は自分の望みを橘三千代に託した−40

携帯h20年7月 186

万葉1巻78元明天皇作(710年・夫は草壁皇子)

原文; 飛鳥 明日香能里尓 置而伊奈婆君之当者 不所見香聞安良武
私訳; 飛ぶ鳥の明日香の里に 君(夫の草壁)を置いて行くことば 君との思いが消されるだけでなく、飛鳥で夫(草壁)と過ごした思い出や君の香りやささやまでも置いて行くことになり悲しいことである。
<君之当者>をキミガアタリハで、それが表現されている。

 697年持統天皇は自分が亡くなった後の継承者について、文武天皇の子を何が何でも男子を望み、その子と不比等の子供とを夫婦にすることで解決せよと不比等と話し、奇策を伝授した。702年持統天皇は草壁皇子の孫の秘策を見届けて702年に崩御した。密約を実行すべき不比等は動き出した。707年25歳の若さで文武天が崩御してしまった。宮子がどうなっているかが不安である。710年、文武天皇の後を、持統上皇との密約通りに、阿閉皇女を元明天皇として即位出せた。万葉歌は元明天皇は詠んだものである。生まれ育ち夫草壁と過ごした飛鳥をはなれ、さらに藤原京から平城京へ遷都したがこの時の歌である。元明天皇は遷都に乗り気でないことが判る。平城京は四神相応の地として唐に見習った本格的な京宮併用型で、しかも不比等の在家は今の東院庭園のすぐそばで、首皇子に寄り添い、見守るポジションにある。歌で判るように元明天皇自身が遷都に積極的でなかった。不比等の独断である『藤原京』(俗称で日本書紀では、『新益京』としている)からさらに飛鳥が遠くなる平城京へと遷都した。701年制定の大宝律令への移行と合わせ何もかも変わり行くことの不安を感じさせる歌である。元明自身が天皇になる資格があるのか、不安であった。持統が皇后にあって、天皇になったのとは違い夫、草壁皇子は皇太子の身分だ。その引け目は、当然不比等の独裁を許すことになる。平城京の設計者は不比等であり、宮の近くに自宅を設けている。このことが後に最大の謎に発展して行く。大宝律令は名ばかりで一割位しか実施されていない状況で如何に律令を理解させ、実行の移していく体制の確立が急務であった。官人の律令内容に理解と実行、さらに進捗程度の把握と言った事項が最大の課題になってきた。律令作成者不比等に全て任せるしかなかった
701年首(オビト・後の聖武天皇)が生まれた。宮子は行幸で身籠っていないし同伴していない。万葉歌に文武天皇も持統上皇の喜びの歌がない。鎌足もしかりで、女の子誕生の歌が無い。行幸の間、不比等は何処にいて何をしていたのか謎が謎をよぶ。気になるデータがある。文武天皇が即位したのは、697年15歳の若さである。当然、持統天皇と不比等が政局を預かっていた。同時に橘三千代(665〜733)宮中入りをしている。不思議なことに不比等と婚姻を結んでいる。態々、夫美努王と強制的に離婚させ(二人には葛城王・後の橘諸兄・他に二人がいる)での宮中入りだ。夫、美努王は大宰府に単身赴任させられている。当時としては一生命令がなければ戻れない最後通告である。何故そこまでしなければならないか。三千代を何故不比等の妃に添えたか、三千代を 何故必要だったのだ。なぜか不比等と婚姻関係後急激に力を持つことになる。それは不比等(子は皇子資格あり)と三千代(子は皇后資格あり)の子供が皇室に相応しい身分となると持統上皇と不比等が交わした密約である。
その後不比等に待望の子が生まれた。光明子(後の光明皇后)である。不比等は、養女を文武天皇の夫人とし、娘を首皇子に嫁がせると言う離れ業を成し遂げている。しかし疑問が残る。 続日本記には701年12月27日に記述の後に月日なしで『この年宮子は首皇子を生んだ』とあるだけ?何故『この年』の表現になったのか。この謎解きが鍵となる。こんな離れ業が可能なのか?不比等と持統の密約に何があったのか?何かの代償に、不比等の政局に成らざるを得なくなったのではないか?。持統上皇はあくまでの草壁皇子の孫が天皇になる恐るべき密約を交わしていたのである。

持統天皇の後継者の恐るべき対策とはー39

吉野山4月8日

万葉集1巻74文武天皇(701年作)

原文;見吉野乃 山下風之 寒久尓 為当也今夜毛 我独牟
私訳;神聖な吉野宮で嵐の吹く夜は寒く、はたして今宵も一人で寝るだろうか、そうしたい。
行幸に引率させられ、子こづくりかを期待されたのか?この時、文武天皇,19歳。宮夫人は(不比等の娘)と一緒ではない。宮子は軟禁状態なのか、外に出られない状態であると思える。宮子は697年に文武天皇の夫人として宮廷入りしているのに、この行幸に同行してないのが可笑しい。もともと和歌山の海女で、不比等の養女となり嫁いでいる。真相は判らないが、鎌足と橘三千代との子ではないのは確かだ。宮子の生誕の地では現在でも宮子姫祭りがあると言う。この万葉歌は、701年2月、吉野行幸で、持統上皇に同行した文武天皇の歌である。歌で『一人で寝る』とあり、疑念がのこる。なお文武天皇の第一子は、その年の12月末日で、後の聖武天皇(701年12月末日)であるが、他の夫人にも2人の子供を生むとある。この皇子はどうなるか気になるが注目して行きたい。万葉歌であえて、一人寝ると詠っているだけ、宮子の同伴で無いのが不自然判るし、あまり子づくりに積極的でない様子が伺える。何故宮子夫人が同伴しないのか?文武天皇は果たして子供をつくる体質であったのか?夫人以外で嬪との間に男二子が生まれているが、本当に文武天皇の子なのか疑わしいことが次々と起きている。子づくりとは別だが、在任中の697年、文武天皇として君臨し、大宝律令を完成させる大事業を成し遂げている。(実際は不比等が作成)表向きには大事業の完成での静養を兼ねた行幸だったのか。しかし文武天皇は病弱の身でそこが持統上皇の不安でもある。この時点で宮子との間に、いまだ子供が生まれていない。そうすると、高市皇子の存在が最も気になるが、彼は、696年8月13日に死去している。従って、702年12月まで持統天皇は、文武天皇の子(後の聖武天皇)を確実に天皇にしなければならない。皇太子候補、弓削皇子(天武天皇の子)も699年7月21日に亡くなっている。唯残るのは長屋王(天武の子)の存在が気になるところだ。皇室での継承争いはそろそろ佳境を迎えたようだ。

持統天皇最後の願いー38

https://livedoor.blogimg.jp/honjisuijaku/imgs/a/b/ab34233e.jpg" title="DSC01380" target="_blank"> 私訳;藤原の地の、新益京(あらまし)に仕える為に生れて来た乙女立ちは何とも幸運な身分と聞くが羨ましいいなぁ。

自分の子供もそうありたいと羨んだ歌である。
藤原京は、京と宮の一体型の都で、始めて京の中で官臣や僧侶たちが住み着いた。もちろん、一般の民は望み叶わぬことであった。東西に市場が設けられ商人等限られた身分の人は京内で商業活動ができた。東西南北それぞれ5.3k屬乃椶鰐鵤k屬任△襦5椶脇睥◆聞諜錙法大極殿、朝堂院、朝集院が一直線に並ぶ(南北)。京の広さはヤマト三山(畝傍山・身成山・香具山)を取り込み平城京や平安京を凌ぐ規模とされている。不思議に、不比等邸宅は京内で香具山の北側(鎌足の生地でもある)あたりで、内裏と近い距離にある。何故天皇の宮と接近し君臨出来たのか。まるで宮の総監督的位置にある。一介の官僚がここまで何故のし上がってきたのは、不比等が鎌足の子ではなく、天智天皇の子供と持統天皇が知っていたからである。不比等が重要ポストに就き表舞台に出るのは697年、娘(養女・宮子)を文武天皇夫人に差し出してからである。701年には中納言、702年に大納言、709年右大臣とエリートコースを掛け上っている。更に717年左大臣、石神麻呂が亡くなると左大臣職を廃止し右大臣の不比等が実質最高権力を握り取っている。これだけの異例とも言える出世の背景にあるものは普通に考えても可笑しい。何か謎がありと、考えるが当然で、不比等は皇子を継承できる身分である事を意味している。万葉歌にある藤原京に遷都したのは、694年で、軽皇子はまだ11歳。草壁皇子と同じく体は弱い。草壁は27歳の若さで世を去った。もし軽皇子が15歳までは生きるとして、その時点で若くても天皇にしよう。そして一日も早く子を産ませたい。その子(首皇子)を天皇にする道筋だけは着けたい。持統体制の強化と道筋を、吉野宮で不比等と話し、690年皇后の立場で持統天皇として君臨した。この時点で吉野会盟の六皇子の高市皇子、忍壁皇子、志貴皇子がいるが吉野会盟を自ら違反し吉野会盟を事実無根のものにしての即位である。そして四年後の694年、藤原京で新体制を築いた。更に三年後の697年にわずか15歳の若さで、文武天皇が生まれた。万葉歌の羨ましいとはどんな意味を含むのか?こんな歌は何だかのメッセージだと考える。そのメッセージとは。そこで万葉歌の持統天皇作、春過ぎて〜を先に解説したが、本当の訳はこの万葉歌で伺える。天武系の皇子を悉く抹殺し、我が子と我が蘇我の血を引く娘(持統の母が蘇我の娘)としての野望を感じる。しかもここでの万葉歌の『羨ましい』が気になる。それは後の光明皇后の生まれを意味しているのではないか。同じ京の中で同じ年の同じ月、二人とも、日の記録が無い。このことは、首皇子(後の聖武天皇)は誰の子かと言うことを示唆したものである。

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持統天皇が動きだしたー37

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葉集1巻28 持統天皇(694年作)
藤原京の勢いを確かめている持統天皇 在位690〜697。

原文: 春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
作者: 持統天皇(じとうてんのう)

私訳;藤原京に来て初めての春が来たと思ったらもう夏がやってくる。新たな気持ちで国見をしたいので。家具山に登り、藤原京を眺めた。山頂にあがり、白妙が見事に映えている。まさに藤原京が盛んになっていることが白妙の数で確認できた。
天香具山からの藤原京を望み、平和を祈る白装束は僧侶や宮人、官人の普段着。白装束の勢いはそのまま宮中の勢いとして感じた筈である。682年壬申の乱で勝利した夫、天武天皇は近江宮から飛鳥浄御原宮に遷都したのは、683年1月であった。686年天武天皇が崩御し、皇后は690年に持統天皇として即位した。そして、694年に飛鳥浄御原宮から藤原京(新益京)に遷都した。天武天皇が崩御してから、4年間、天皇不在が続いての決断だった。その間、大津皇子の死去(死罪)で草壁皇子を天皇にしたかったが叶わず、草壁の子(後の文武天皇と元正天皇)である二人の孫を、天皇にするために必死だった。その拠点ができ自分が即位してバトンタッチするべく藤原京が完成した。吉野会盟は反古され、六皇子に機嫌をとる必要も無くなった。さぁ私はバトンタッチするまで頑張ろう。

<春過ぎて・を天武、夏来たら市を・持統天皇に置き換えて見ると>
(深読み)
春過ぎて(天武による時代は過ぎた)、夏来たらし(わが世が来た)、白妙(軍備力)干したり(示したり)、天の香具山(神が降臨した山)で宣言する。ここから自分(持統天皇)の天下であり、孫に継承して行く道筋を確立したい。それを確かめたく、神が降臨したという天香具山で確かめたく登った。この歌、そう言いたかったのでる。
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