本間舜久のガラクターズ・カフェ

カクヨムで小説を書いています。 「かきっと!」で本のレビューなどを書いています。

創作力はライターに必要か?

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 久しぶりのブログ更新です。
 私はライターの仕事もしています。
 以前は雑誌の記事が中心でしたが、いまは書籍が中心です。
 いわゆる「ゴースト」というのではなく、著者と編集者と協力して書籍をゼロから作り上げるという意味でのライターです。通常は「編集協力」などとクレジットされます。

 以前は、創作とノンフィクションのライティングは、別の脳で処理していました。ですが、ある時期から「私は作家だ」と決めたので、以後、区別をつけなくなってきました。

 もちろんノンフィクションにフィクションを混ぜるようなことはしません。

 ただ、フィクションでは自由度がノンフィクションに比べると圧倒的に幅広いので、その幅広さを活用するようになりました。

 たとえば、構成。

 ノンフィクションで求められることは、完結に論理的に組み立てていくことで、結論なり主張を明確にすることと、読者層に合わせた「わかりやすさ」です。

 論理的な文章の最大の欠点は、退屈で、下手をするとお説教や自慢になっていくことです。

 例

 私はこうして成功した→素養プラス経験プラスひらめきプラス偶然

 このうち、経験については本にできない内容も多く、また偶然については、「偶然成功しました」とは書けないので、説得力あるエビデンスが必要になります。ここをフィクションにしたら、ノンフィクションはアウトなので、ここは混ぜてはいけません。

 ですが、説得力あるエビデンスが乏しい(まったくないわけではないけど2ページぐらいで終わるみたいな)ときには、全体の構成で説得力を生み出す工夫が必要になります。

 よくわからないけど、納得してしまうことは世の中に多数ありますし、事実をすべてつまびらかにしたにも関わらず不可解なことも多数あります。

 書籍では、そのどちらも扱うので、後者の要素も必要ですし、前者の要素も必要になります。

 こうなると、「著者が言うことをただ書いて並べた」では成立しないことは明らかです。

 フィクションで鍛えている構成力からは、「なにが足りないか」が見えてきます。そのうち、ないものねだりの部分をどう処理するかは、ノンフィクション的アプローチよりも、フィクション的アプローチのほうが有効です。

 つまり、細部はよくわからないけど、納得性は高くできる。

 もちろん、これはCMなどでもやられているイメージ操作に通じるので、とても危険な作業ですが、著者の活動という目に見える実績がある限り、デタラメにはならないので、書き手としてどこまでやれるかを慎重に考えながら構成を考えていけば、ある程度は本になっていくはずです。

 ただし、こうやったからといって、「おもしろい本」になるという保証はまったくありません。
 とはいえ、「事実のみを整理して論理的に書く」アプローチに加えて、「足りない部分をカバーしておもしろくする工夫」ができるようになれば、可能性としては、よりおもしろくなるはずです。

 フィクションと違い、ノンフィクションは最終的に出版社の編集、営業が納得できなければ出版に至りませんし、なによりも著者が納得し、おもしろがってくれなければ進みません。

 こうした取り巻く関係者(ステークホルダー)の納得性を高めて、おもしろさをみんなが共有できるようにしていくことも、ライターの役割の一つだと思います。自分が「おもしろい」というところだけではなく、ステークホルダーたちが感じている「おもしろさ」を汲み取って、表現していくことになります。

 というわけで、ライターをやるなら、創作力は必須だと私は思っています。それは、レシピ通りに料理を作るところから少し離れて、創作料理に発展させていく過程にも似ているかもしれませんね。
 フィクションでは、材料の仕入れからやるところを、ノンフィクションでは材料が予めほぼ出そろっている点が大きく違うのと、材料の鮮度や質が悪くても使わなければならないこともある点が、大きく違いますけど。
 

脱小説・脱作家 そこにしか突破口はない

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  こんにちは。  今日(2018/02/17)は自分にとっての転機の日になります。その宣言です。

 これまで自分が求めていたものの先に、それはない、と気づいたとでも言えばいいのでしょうか。

 自分はいままで、「のよう」にしてきました。「作家のよう」とか「小説のよう」とか。

「のよう」の先には、それはない。つまり、「登山のように歩く」としても、それは登山ではないので、山には登れない。当たり前のことですね。

 だけど、「ごっこ」の楽しさもある。それは間違いなくあって、それによって日々の生活は大きく変わることもあるでしょう。私は実際、それを長年、享受してきました。お釣りが得られるほど、それは幸福な時代でした。

 それはそれでいい。

 でも、過ぎたことです。

 これからは違う。

 私は今後、作家のように書くことはしない。小説のような小説は書かない。

 つまり、脱作家、脱小説です。

 それでなければ満足できない自分に気づいてしまったのです。

 一例をあげるとすると、私は「物書き」の端くれで、お陰様でそれで食べて来ました。物書きであり編集者でもありました。それはまぎれもなく、「のよう」ではなく「ごっこ」でもありません。いや、最初はそうだったかもしれませんが、結果的には違うのです。私は物書きとして仕事をしお金を得て生活をしました。私は編集者として仕事をしお金を得て生活してきました。ただし別に「優秀な」はつきません。優秀な物書き、優秀な編集者と呼ばれたことはないし、そこを求めたこともありません。仕事として純粋におもしろいから続けてこられたと思います。

 そして、この流れの反対側にある別の流れがあるのです。

 仕事にする⇒お金を貰う生活する

  この流れの横には、こういう流れもあるのです。

 情報が来る行動する仕事になる

 生活によって得られる情報、仕事によって得られる情報のうち、行動に結びつくものは、仕事になります。変な話ですが、実際、そうやって生きている限り、それは「ごっこ」ではなく本物です。

 というのは、そこからまた、仕事にするお金を貰う生活するの循環がはじまるから。

 これが「のよう」であるうちは、循環が生まれにくい。「ごっこ」は循環を生みにくい。どちらもその「状態」を楽しむものだからではないかと私は推測します。場のようなもの。洒落たバーでお酒を飲む、立ち飲みでホッピーを飲む、どちらもアルコールの摂取は似たようなものでも、楽しみはかなり違いますよね。

「のよう」や「ごっこ」は、これと同じで、場を楽しむこと。場から出れば、いつもの循環がはじまるけど、そこから少し離れて楽しむ。それはとても重要で貴重で、とくに心にとっては大切なものだと思います。

 ただ、循環がうまく産まれないと、その場はやがて陳腐化しさびれていくのではないでしょうか。先日書いた「コミュニティー内の評価が力になる……といいよね」で気づいたのです。このコミュニティの問題点であり同時にとてもいい部分は、「場」を共有することです。同人とかサークルとか、同好の士であること。
 生きて行く上で、こうしたコミュニティーの力はとても強く、とても大切です。ありがたいです。

 だけど、ここでは、上記のような循環は滅多に生まれないのです。あるとすれば、たまたまコミュニティーで知り合った人から、仕事を紹介されたり、一緒に仕事をすることになった、といった場合でしょう。そう、私はなぜかいま、仕事にこだわっています。それが仕事かどうか。これはとっても大きな差があって、仕事にすると、それがどんな仕事であれ、仕事に関する情報に接するようになるのです。キャバクラで働けば、キャバクラの事情を知ることになります。弁当屋で働けば弁当について無関心ではいられません。
 それはもうただの「場」ではなく、循環です。
 場は、循環を生み出すきっかけとしてはとてもいいのですが、場を楽しむだけのときには、この循環は邪魔で面倒なものになりがち。なぜなら、自分は別の循環をすでに持っていて、それが忙しいから、場を大切にしているわけで……。極論を言えば「場は停止してくれたほうがいい」。

 ですが、その結果、場に満足できなくなっていく。そのときには、黙って去るだけ。

 そもそもの自分の人生の循環とは別のところにある「場」だったら、そこから去って、別の「場」へ行くことはまったく問題がないばかりか、心にもいいでしょう。テニスサークルをやめてスキーサークルへ行く、といった感じ。

 ただ、循環が欲しくなったときには、それではダメです。

 もっとも循環は自分で作り出せるものはとても小さくて、目立たないものです。社会に対する影響力もない。自分でもよくわからない。ただ、自分だけの循環です。理解されないかもしれないけど。

 それは、「のよう」を徹底的に排除していく作業になります。(ここはちょっと飛躍していますね)

 小さな山でも自分で登る。自分のルートで登る。人の作った道を避ける。誰もが行く山へは行かない。などなど、いろいろと注意深く行動しなければなりませんが、この小さい循環を自分の大きなメインの循環にくっつけていきたいのです。それは、心の拠り所としての「場」を維持したり、ただ「場」を享受することから離れることでもあるでしょう。

 こうして行動を変えていくことによって、情報が来る行動する仕事になる へとつなげていこうと思っています。「仕事」といっても、それが大きなお金を生むとは限りませんし、そこで大金を稼ぐことを目指しているのではありません。自分の持つ循環とコミットさせていきたいのです。

 結果的には、何者かになることではなく、自分自身になることなのでしょう。他人のようになるのではなく、自分自身になることです。

 小説のようなものを書こうといくら努力しても、小説にはならない。
 作家のようなものになろうとしても、作家にはなれない。

 自分自身になること。そこから目を背けないこと。

 とりあえず、今後の作品は、これまでの作品と明らかな差はないかもしれませんが、自分の心構えとしては少しずつ変わっていくのだろうと思っています。

 というわけで、本日、転機となりました。

コミュニティー内の評価が力になる……といいよね

 ま、否定的にではなく、肯定的に書きたいわけですけど。
「この指とまれ」とやって、そこに集まった人たちの集団は、個々にまったく考えの違う人たちであるにもかかわらず、しだいに篩(ふるい)にかけられるようにある種の共通の価値観に染まりやすい。
 それも、悪いことではないのです。
 悪いことではないけど、私は好きじゃない。
 私はけっこう迂闊なので、自分がそこに染まっていることに、かなりあとになって気づく。そして恥ずかしいと感じることを繰り返してきた。だから、できるだけ、そうした集団に直接関わることに慎重になっているのです。自分ではね。

 ただ、1人だけでなにかをやっている虚しさ、寂寥感から脱するには、こうした集団(たとえ仮のものであっても、一時的なものであっても)における「同じ釜のメシ」的な価値観の共有は必要なこともあると思います。

 そして、必ずこうした集団から1人ぐらいは抜けだして、広い世界に認められることが起こり得る。これも事実なので、それは無数の精子が卵子に向かっていく旅のような淘汰の一つでもありつつ、「同じ釜のメシ」価値観を心の糧にして消滅していく楽しみ(あえて、楽しみ)でもあるので、全面的に悪いことではありません。

 このような一種の村での評価は大きく2つに分かれます。

 1つは、村の外から見ても評価できる場合。
 もう1つは村の中でしか評価できない場合。

 前者は、村から出て一人で世界に向かって行けるでしょうが、後者は村に留まることになります。

 この後者がやがて、前者が出ないような方向に突き進む可能性もゼロではありません。後者たちからすれば、前者は怨嗟、嫉妬の対象であり、「そもそもおれたちとは違うヤツ」という「烙印」でもあったりします。この段落は悪意から見て書いていますけど。

 こうした悪意が表面化しない村なら、快く「がんばれ」と送り出すでしょう。

 ただ、自分たちがいま属している村が、いつまでも善意の村である保証はなく、さらにどうすれば悪意が表面化しない村でいられるのか、そのためになにができるのかも複雑すぎてわかりにくい場合、結局は、そっとその村から離れていくしかないこともあり得ます。

 よくあるのは、「この村で評価されれば、外からも当然、高い評価をされる」的理屈です。ですが、これは必ず成立するわけではありません。さまざまなスポーツ、国際情勢、宗教団体などを見ればわかるように、村の評価と外部からの評価は、なんらかの摺り合わせをしない限り、一致しないのです。

 ですが、村の中にいる評価者は、自分たちの価値観を重視するあまり、外部評価との摺り合わせを嫌う傾向がありますし、場合によっては敵視することもあります。

 私たちは短い人生の中で、村の評価だけに頼って生きていいものでしょうか。そして外部の評価だけに期待して生きていいものでしょうか。

 外部の評価もまた絶対的なものではなく、村の中から見れば「無責任な評価」とか「冷たい評価」と見ることもできます。

 だけど、私たちに残された時間はそれほど多くはないのです。村も外部も、人が入れ替わり立ち替わり継続していくでしょうが、私の持ち時間は限られています。

 要するに、自分の持つポテンシャルであったりパワーを、どこに注ぐのか。
 村の中でがんばるか、外部からも評価されたいのか。

 ある時に、必ず突きつけられるテーマではないかと思います。

 私は基本、アウトサイダーの立場ですが、村での価値観をある程度は理解しつつ、勝手に外から評価しますので、村内で「あたりまえ」ということも知らずに、まったくトンチンカンなところを評価することもあります。一致することもあれば、まるで正反対になることもあります。
 ただ、村人ではないので、そのことで村人から非難される立場ではありません。通りすがりの人間です。非難されても、気になりません。関係ないから。ただ、少し寂しいけど。

 言えることは、価値観を持つことが大事ですし、コミュニティー内の価値観を共有することも大事ですが、そこに特化するのにはリスクが大きすぎる(人生は短すぎる)。

 自由に出入りして、さまざまな価値観の下でやってみるのも、いいのではないか。

 なんか、そんなことをちょっと思ったりもしたのでした。

 

 
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