本間舜久のガラクターズ・カフェ

カクヨムで小説を書いています。 「かきっと!」で本のレビューなどを書いています。

『猛チュールの惑星』に2本、書き下ろしました!

猛チュールの惑星』 国際ネコネットワーク(INN)著

 BCCKSで無料でお読みいただけます。
 EPUB形式でダウンロードし、Google PlayなどのEPUB対応アプリで開くと、小さい端末でも快適にお読みいただけると思います。
 本間舜久は、「右腕」「猫の道」の2本。どちらも1万字ほどの短編です。
「右腕」は、自分の右手が猫化した人の話。コロナ禍で私たちが体験したようなあれやこれやが影響したストーリーです。
「猫の道」は、ほとんどSFらしさはありません。3つのパートからなり、すべてを奪われた女性が薬物で自殺を図るところに現われた水色の瞳をした猫の話ではじまり、彼女の視点がその猫に移って、自分を捨てたケンジの末路を見に行く話。最後は、ケンジの仲間で組織を裏切ったケンジを始末屋に引き渡す役目を負った男が見た、猫とケンジの行く末です。
 お楽しみいただければ幸いです。


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刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(5)

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承前
 1話目は、『嫌われる勇気』に出てくる「刹那」を小説を書く楽しみにあてはめてみました。
 2話目は、山のカタチから入って、作家の神秘性について考えはじめました。
 3話目は、いまの時代に作家にとって、商業性を求められる重荷について考えました。
 4話目は、重荷の中身を考えつつ、商業出版への挑戦のよさと同時に失うものを考えました。

 セルフパブリッシングでは、誰もが個人で自由に出版できる、しかも費用は最小限。ぜんぶ自分でやれば無料。

 今回、いいタイミングでニュースがありました。

 元の記事は、こちら↓
  2018年09月20日
  Amazonで自費出版した本が文学賞候補に選ばれたことにフランスの書店団体が抗議の声を上げる


 この記事によれば、そもそも出版社がどこも出版してくれなかったことが発端です。実績のある人でさえも、こうした事態は起こり得ます。売れる売れない以前に、差別であるとか、政治的判断とか、批判を恐れるなどさまざまなことを出版社は考えますので、お断りすることだってあります。

 日本でも、「出版できなかった」という話は山ほどあります。名のある新聞系媒体に長く連載していたコラム。当然、その新聞の系列の出版社から出版されると思っていた著者は、「売れないから出せない」と断れる。そういうことは、もうほんと、腐るほどあるのです。
 著者が努力して出版社を見つけて、同様の原稿を使って出版したら、ベストセラーになった、とか。「出版社の目は節穴なのか!」と著者は怒るでしょう。ですが、みなさんもご存じのように、組織の判断は、合理的であるとは限らないのです。

 だったら、セルフパブリッシング。

 上記の記事でとくに重要な部分を引用させていただくと「彼らは、私が書いた内容について関与しません。彼らは私に出版のための金銭を要求せず、本が売れたときにマージンを受け取ります。私がこの状況について不平を言う必要がありますか?」。

 すべての本が出版社から取次を通って書店に並ぶ、というのはそもそも幻想です。アマゾンが登場する前から、自主制作の本は存在していました。自費出版をする著名な書き手もいました。それがいま、アマゾンをはじめとして、いくつかのお手軽な出版方法が確立されている。

 この本は出版社から、この本はアマゾンから、この本は私家版で自費のみで、といったチョイスはいまの時代、とてもやりやすい。

 出版社からの本だって、すべてが書店に並ぶわけではありません。それはムリですから。

 私の負け惜しみ「商業出版の作家になれなくてよかった」と思う理由の1つは、上記のマルコ・コスカス氏の言葉があると思っています。

「このままでは出版できません」とか「うちから出すなら、ここを直すしかない」とか「こういう部分をもっと膨らませて」または「ここは削除して」といった要望を無視できます。

 このプレッシャーというかストレスは相当なもので、とても金銭的な見返りとは釣り合わないものだと思います。

 たとえば、名のあるレストランで、その名を借りて料理を出すには、当然、こうしたプレッシャーをクリアした品質が求められます。
 だけど、おいしい料理を作るのに、そんなプレッシャーはいりません。

 名のある出版社から本を出すには、この程度のプレッシャーは当然なのだ、それで品質が保たれているのだ、という声もありますし、それは私も否定しません。
 だけど、誤字脱字だらけで読みにくいガリ版刷り(さすがにわかる人は少ないか)でも、おもしろいものは、おもしろい。

 おもしろさ、という点においては、必ずしも看板は必要ない。看板の求める品質もあればあったでいいけど、ないからといってダメということにはなりません。

 少なくとも、自分のやりたい表現に集中したい人にとっては、不要なプレッシャーやストレスがなくなるだけでも、大きなメリットではないかと私は思います。

 出版社はダメだと言ってるわけではありません。三つ星レストランを頂点としたヒエラルキーを私は否定しません。そこで懸命に修業して味を探求している料理人は尊敬に値します。それと同じで、出版社から次々と本を出している著者と、それをサポートしている出版社という仕組みを否定する気はまったくないのです。

 少なくとも、私は自分の好きな素材で好きな料理を作りたい。ただ、それだけです。そういう点では、これまで、そのように書かれたものが多くの人の目に触れることはなかったのに、いまではやりようによっては、多くの人に読んでいただける。可能性がそこにはある、と思っています。

 といったところで、このテーマのコラムはいったん、終了といたします。

それが来るまで、書かない。いつ、それが来るかはわからない。

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 私が年齢を経て、いま、カクヨムで小説を書いたりしているわけですが、ぜんぜん更新されない、という状況が続いています。
 一方で、いくつかの本の出版に携わっていて、それはきちんと締め切りがあって、プロフェッショナルな人たちが作っていく世界に住んでもいます。

 書けないということはありません。間違いなく書けます。

 だけど、カクヨムには締め切りはない。自分だけで作る世界です。

 だから、「それ」が来るまでは書かないことに決めています。
「ねこのおやつ」は、当初、あっという間に完結する予定でしたが、書いているうちに、その世界が意外にちょっと広いことがわかってきて、それを表現できなければ続きは書けません。

 この短い、無関係なように見える文章たちは、それぞれに関連を持っています(少なくとも私の中では)。その関連を描くことは作品の目的ではありません。だから、種明かし的なものや、伏線回収的なものを期待されても、それが目的ではないのでちょっと困ります。

 また、笑いを必ず入れるような、いわばショートコントのようなものでもありません。結果的に笑えた場合があったとしても、次の文章を読むと、まったく笑えなくなる。むしろ、「さっきの笑いはなんだったのか」となる。そんな作品なのです。
 説明が難しいですが、そもそも説明の必要な作品でもありません。

 問題は、なかなか更新できないこと。

 このところ、ちっとも「それ」が来ないからです。

 少なくとも「ねこのおやつ」を書きはじめたときには、それが来ました。この作品は、私がなにかの目的(賞に応募するとかなんとか)で書きはじめたのではないのです。

 書かざるを得なくなったので、書きました。

『倫々爛々』も同様です。登場人物たちとその境遇は、計算して組み立てたものではなく、ストーリーも最初からできあがって、私のところにやって来たのです。だから、書けたのです。

「へえ、そうなんだ」と私は書きながら、彼女たちの心情を理解しつつ、それでもよくわからないところもありながら、作品にしていきました。

 そして、こちらが計算したわけでもなく、ちゃんと終わりました。

 ですから、「ねこのおやつ」も、いずれ完結するはずです。それが来るのを、いまは待つ。待っている間はほかのことをする。それしかないなあ、という気がしています。

 7月頃、私は簡単に終わらせてしまおうと、意図的にエピソードを書こうとしました。実際、書きました。だからそれをアップすれば、完結だと言えます。
 でも、それは私が求めたものではないし、いまやるべきことでもないのです。

 だから、いつ来るかはわかりませんが、それが来れば、ちゃんと更新いたします。
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