本間舜久のガラクターズ・カフェ

カクヨムで小説を書いています。 「かきっと!」で本のレビューなどを書いています。

刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(5)

sky-690293_640


承前
 1話目は、『嫌われる勇気』に出てくる「刹那」を小説を書く楽しみにあてはめてみました。
 2話目は、山のカタチから入って、作家の神秘性について考えはじめました。
 3話目は、いまの時代に作家にとって、商業性を求められる重荷について考えました。
 4話目は、重荷の中身を考えつつ、商業出版への挑戦のよさと同時に失うものを考えました。

 セルフパブリッシングでは、誰もが個人で自由に出版できる、しかも費用は最小限。ぜんぶ自分でやれば無料。

 今回、いいタイミングでニュースがありました。

 元の記事は、こちら↓
  2018年09月20日
  Amazonで自費出版した本が文学賞候補に選ばれたことにフランスの書店団体が抗議の声を上げる


 この記事によれば、そもそも出版社がどこも出版してくれなかったことが発端です。実績のある人でさえも、こうした事態は起こり得ます。売れる売れない以前に、差別であるとか、政治的判断とか、批判を恐れるなどさまざまなことを出版社は考えますので、お断りすることだってあります。

 日本でも、「出版できなかった」という話は山ほどあります。名のある新聞系媒体に長く連載していたコラム。当然、その新聞の系列の出版社から出版されると思っていた著者は、「売れないから出せない」と断れる。そういうことは、もうほんと、腐るほどあるのです。
 著者が努力して出版社を見つけて、同様の原稿を使って出版したら、ベストセラーになった、とか。「出版社の目は節穴なのか!」と著者は怒るでしょう。ですが、みなさんもご存じのように、組織の判断は、合理的であるとは限らないのです。

 だったら、セルフパブリッシング。

 上記の記事でとくに重要な部分を引用させていただくと「彼らは、私が書いた内容について関与しません。彼らは私に出版のための金銭を要求せず、本が売れたときにマージンを受け取ります。私がこの状況について不平を言う必要がありますか?」。

 すべての本が出版社から取次を通って書店に並ぶ、というのはそもそも幻想です。アマゾンが登場する前から、自主制作の本は存在していました。自費出版をする著名な書き手もいました。それがいま、アマゾンをはじめとして、いくつかのお手軽な出版方法が確立されている。

 この本は出版社から、この本はアマゾンから、この本は私家版で自費のみで、といったチョイスはいまの時代、とてもやりやすい。

 出版社からの本だって、すべてが書店に並ぶわけではありません。それはムリですから。

 私の負け惜しみ「商業出版の作家になれなくてよかった」と思う理由の1つは、上記のマルコ・コスカス氏の言葉があると思っています。

「このままでは出版できません」とか「うちから出すなら、ここを直すしかない」とか「こういう部分をもっと膨らませて」または「ここは削除して」といった要望を無視できます。

 このプレッシャーというかストレスは相当なもので、とても金銭的な見返りとは釣り合わないものだと思います。

 たとえば、名のあるレストランで、その名を借りて料理を出すには、当然、こうしたプレッシャーをクリアした品質が求められます。
 だけど、おいしい料理を作るのに、そんなプレッシャーはいりません。

 名のある出版社から本を出すには、この程度のプレッシャーは当然なのだ、それで品質が保たれているのだ、という声もありますし、それは私も否定しません。
 だけど、誤字脱字だらけで読みにくいガリ版刷り(さすがにわかる人は少ないか)でも、おもしろいものは、おもしろい。

 おもしろさ、という点においては、必ずしも看板は必要ない。看板の求める品質もあればあったでいいけど、ないからといってダメということにはなりません。

 少なくとも、自分のやりたい表現に集中したい人にとっては、不要なプレッシャーやストレスがなくなるだけでも、大きなメリットではないかと私は思います。

 出版社はダメだと言ってるわけではありません。三つ星レストランを頂点としたヒエラルキーを私は否定しません。そこで懸命に修業して味を探求している料理人は尊敬に値します。それと同じで、出版社から次々と本を出している著者と、それをサポートしている出版社という仕組みを否定する気はまったくないのです。

 少なくとも、私は自分の好きな素材で好きな料理を作りたい。ただ、それだけです。そういう点では、これまで、そのように書かれたものが多くの人の目に触れることはなかったのに、いまではやりようによっては、多くの人に読んでいただける。可能性がそこにはある、と思っています。

 といったところで、このテーマのコラムはいったん、終了といたします。

それが来るまで、書かない。いつ、それが来るかはわからない。

IMG_20180907_161918

 私が年齢を経て、いま、カクヨムで小説を書いたりしているわけですが、ぜんぜん更新されない、という状況が続いています。
 一方で、いくつかの本の出版に携わっていて、それはきちんと締め切りがあって、プロフェッショナルな人たちが作っていく世界に住んでもいます。

 書けないということはありません。間違いなく書けます。

 だけど、カクヨムには締め切りはない。自分だけで作る世界です。

 だから、「それ」が来るまでは書かないことに決めています。
「ねこのおやつ」は、当初、あっという間に完結する予定でしたが、書いているうちに、その世界が意外にちょっと広いことがわかってきて、それを表現できなければ続きは書けません。

 この短い、無関係なように見える文章たちは、それぞれに関連を持っています(少なくとも私の中では)。その関連を描くことは作品の目的ではありません。だから、種明かし的なものや、伏線回収的なものを期待されても、それが目的ではないのでちょっと困ります。

 また、笑いを必ず入れるような、いわばショートコントのようなものでもありません。結果的に笑えた場合があったとしても、次の文章を読むと、まったく笑えなくなる。むしろ、「さっきの笑いはなんだったのか」となる。そんな作品なのです。
 説明が難しいですが、そもそも説明の必要な作品でもありません。

 問題は、なかなか更新できないこと。

 このところ、ちっとも「それ」が来ないからです。

 少なくとも「ねこのおやつ」を書きはじめたときには、それが来ました。この作品は、私がなにかの目的(賞に応募するとかなんとか)で書きはじめたのではないのです。

 書かざるを得なくなったので、書きました。

『倫々爛々』も同様です。登場人物たちとその境遇は、計算して組み立てたものではなく、ストーリーも最初からできあがって、私のところにやって来たのです。だから、書けたのです。

「へえ、そうなんだ」と私は書きながら、彼女たちの心情を理解しつつ、それでもよくわからないところもありながら、作品にしていきました。

 そして、こちらが計算したわけでもなく、ちゃんと終わりました。

 ですから、「ねこのおやつ」も、いずれ完結するはずです。それが来るのを、いまは待つ。待っている間はほかのことをする。それしかないなあ、という気がしています。

 7月頃、私は簡単に終わらせてしまおうと、意図的にエピソードを書こうとしました。実際、書きました。だからそれをアップすれば、完結だと言えます。
 でも、それは私が求めたものではないし、いまやるべきことでもないのです。

 だから、いつ来るかはわかりませんが、それが来れば、ちゃんと更新いたします。

刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(4)

a2bd9a4928d81756701ab344df009b69_s


承前
 1話目は、『嫌われる勇気』に出てくる「刹那」を小説を書く楽しみにあてはめてみました。
 2話目は、山のカタチから入って、作家の神秘性について考えはじめました。
 3話目は、いまの時代に作家にとって、商業性を求められる重荷について考えました。


 商業出版をメインとしない作家の生き方を考えてみましょう。

 私はいまの時代、そのほうが人生をより豊かに生きられるような気がしてなりません。

 いま、私たちはストレスによって死に至るわけですが、商業出版をメインとしないと決めたときに、ストレスは何百万分の1になります。半分とか3分の1とかじゃないです。何百万分の1です。

 この「何百万」は、あなたが希望している年収と考えてもいいです。

 たとえば年収1000万円ほしいとしましょう。100円の印税の本なら、10万部を毎年売れば達成できます(税金のことは考慮していません)。

 簡単ですか? 簡単だと思うなら、やってみてください。

 さきほどは税金を考慮しませんでしたが、現実には税金は重いものです。100万部のベストセラーを出したとき、どれぐらい課税されるでしょうか。1億円の印税。だいたい半分は税金となります。翌年には多大な住民税もきますし、社会保険もすべて上限いっぱいを払うことになるでしょう。

 もっとも、それは作家に限らず高い年収を得たときには誰でも同じような状況に直面します。

 商業出版の最大のよさは、「いま読者が求めているであろう作品」を編集者たちと考えながら、内容をもっともいい状態にしていくことができるのではないか、という希望です。
 正直、私は、個人で、商業出版レベルの本を出すことは極めて難しいと感じています。よく言われるように、校正・校閲の問題だけではありません。「餅は餅屋」と言うように、多くの本に接しているプロフェッショナルたちは、それぞれの勘や見識があり、それは同じデータを見たとしても、アウトプットが変わってくるという意味もあるのです。

 一般的には見過ごされるような部分から「よさ」を発見し、そこを伸ばすようなアドバイスができる。リスクのある表現にいち早く気づき、どうすればいいか的確にアドバイスできる、などなど。

 商業出版で生まれてきた名作は、とてもレベルの高いものとなるでしょうし、長く読み継がれるであろうと期待され、文化的な価値も高いはずです。

 それは正論ですが、誰もが村上春樹ではない。
 商業出版では、作家の才能に負うところが大きい。それは、才能が世界クラスであればあるほど、ハイレベルなプロが集結し、編集、校正・校閲、装丁、営業、プロモーションと淀みなく展開されていくのです。

 だからといって、誰もがその恩恵を受けるわけではありません。
 商業出版で、1つの才能に、多数のプロたちが集結する理由は、商業的な成功のレベルが大きいからだとも言えます。「そこにどれだけの費用をかけてもいいか」と考えたとき、ハイレベルにかけられる一握りの才能があり、そしてそんなに費用はかけられないそれ以外の大勢の才能があります。
 
 つまり、それほどの才能とは認められない作家の場合、編集、校正・校閲、装丁、営業、プロモーションのどの段階でも、かなりの衝突が考えられます。
 それは、当人の才能の問題もありますが、そこに集められたプロのレベルにも問題があります。誤解なく伝えるのは難しいですが、超一流のプロが参加していたとしても、その人が、全身全霊をこめて打ち込むかどうかにもよります。

 商業出版は、個人の才能を核とはしていても、チームワークによる出版です。プロのスカウトが見に来る選手が1人いたとしても、甲子園で優勝できるわけではありません。

 この点で、勝てるチームを持てるか、作れるか、も商業出版においては、とても重要な要素となるのです。ベストセラーを次々と出している作家には、たいがい、チームの存在があります。運とか縁とかで表現されやすいことですし、見過ごされやすい部分ですが、疎かにすれば確実に大きな影響が出てしまうのです。

 このチームを結集させる求心力、そして経済的な面での期待値の高さは、そのまま作家の年収になっていきますが、同時に重荷にもなるわけです。

 当然、私はこの商業出版で最高のチームをつくってベストセラーを出すことに、挑戦し続けることは意味のあることだと思っています。しかも、年齢制限はないわけですから、1度や2度の失敗で諦める必要はまったくありません。

 まして、若く、知力、気力、体力にあふれているのなら、挑戦しがいのある世界だと思います。うまくいけば、大成功できる可能性があるのですから。

 ですが、それによって失われていくものもあることは自覚しておきたいことです。時間、人生などなど。

 一方。

 商業出版をメインとしない作家の生き方はどうでしょう。

 ストレスフリーの世界。ただし年収は何百万分の1になる世界。

 たとえば、セルフパブリッシングです。

 いま、とっても元気がいいのは、セルフパブリッシングの世界であって、商業出版ではない。たまたまかもしれません、一時的、過渡期といったものかもしれません。でも、かれこれ6年以上続いています。同人の文化を加えれば、1970年代からとできなくもないですが、コミケが晴海で開催されるようになった80年代を基点としても、40年近く続いているのです。

 KDP(キンドル)やKoboが日本で稼動してからと考えれば2012年からですから、2018年で6年というわけですね。これは、個人で出版する流れの氷山の一角だ、と言えるわけです。
(つづく)
最新コメント
ギャラリー
  • 刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(5)
  • それが来るまで、書かない。いつ、それが来るかはわからない。
  • 刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(4)
  • 刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(3)
  • 刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(2)
  • 刹那の物書き 負け惜しみ的商業出版の作家になれなくてよかった論(1)
  • 創作力はライターに必要か?
  • 脱小説・脱作家 そこにしか突破口はない
  • 最新刊『日銀特務室FR班: ― 五月の六日間 ―』
  • ライブドアブログ