会社などで接待というと決まって料亭で行われ、二次会はクラブかバーと決まっている。
 ところが「やぶにらみ」の経験では、海外での相手側の接待は相手の家庭で行われるのが普通で、特定の料亭でと言うことは、まずなかった。

 大体、日本人は宴会といえば街に出てゆく。外国のように、家庭で人を呼んでパーティーというケースは少ない。そして不慣れである。何故なのだろう?
 社用族にとっては、経費の問題もあるが、この点は今回除外して考える。
 ある本にこんなことが書かれていた。日本人の社交は押しなべて、外で行われる。そして、その伝統は、実のところかなり古い。

 たとえば、立会茶屋というのは、江戸時代の中期から上方(かみがた)を中心にして盛んになり、もっぱら、各藩の勘定方の武士などが町人と会うのに使われた。談合の内容は、言わずと、しれた借金の相談。
 まさか、町の金貸しに正面から藩邸を訪問してもらうわけにもいかず、さりとて武士が町家に頼みに行くというのも許されない、ということになると、武士と町人が平等の存在として、付き合える場所を考え出さねばならない。

 立会茶屋というのは、そういう一種の緩衝地帯のようなものとして、発明されたのである。そして、後世「待合」という名で知られるようになった。

 一方、一般庶民のほうでも、外の付き合いというものを開発した。今日(こんにち)の喫茶店の原型ともいうべき水茶屋は江戸でも大阪でも大繁盛であった。要するに日本人は江戸時代から自宅ないし家族を離れて、独自の社交スタイルを形成していたのである。

 外国のように家庭パーティー主体というのも、私達の感覚からいうと、どうもピンとこないし、接待される方も丁重なもてなしを受けたような気にならないのではあるまいか、と思ったりする。こんな気持ちになるのも、永い伝統のしからしめる所なのか?

 すべて家庭パーティー主体ともなれば、家庭の奥方は、さぞかし大変であろうし、男共も、それに比例して何かと忙しい思いをさせられることは間違いない。やはり外でのほうが手っ取り早くてよい。
 また日本で接待が全て家庭パーティーとなると、日本の無数にある料亭、バーなどがつぶれて、女性の失業者が巷にあふれるかもしれない。そうなると、之は社会問題である。日本の女性就労人口の三分の一が、いわゆる水商売の従業員である、といわれている。

 ところで、このような現象が外国人の目にどのように映っているのであろうか?と思っていろいろと読み漁ってみたが、仲々見当たらない。たしかに、日本のこのような現状をよく知った人でないと評論でき難いのかもしれない。
 こんなことを言った外国の女性がいる。
 「日本の男性はすばらしい。だけど私は、日本の男性と結婚したいとは思いません。なぜなら、日本の男性は結婚してしばらくすると、男同士だけの付き合いに熱中するから…」

 日本人で外国人と結婚した胡暁子さんという人が『国際人へのパスポート』という本を書いている。ずいぶん昔で、まだ日本がGNP第二位になったといわれていた頃のものであるが今読んでも、現在の日本をみせつけられている思いがする。ひさしぶりに本箱から引き出して詠んで、十数年、日本人があまり国際人として成長していないのを感じさせられた。

 そのなかに、
 「日本の男性は、芸者、ホステスなどの女性との付き合いの方が、奥様方と付き合うより気が楽だと考えているし、また機会も多いせいか、一般主婦との交際方法に不慣れである。外国の男性は、家庭の女性と話をするのに慣れているから、会話がとても上手である。
 日本の男性は、ジョークを言うにも、野暮ったいし、幼稚なことを話す人が多い」
と書いてある。

 しかし、一方、女性の方はというと、私ごとで申し訳がないが、「やぶにらみ」の家内などは、「いつ、いつ人を招待する(よぶ)よ」となると、先ず料理をどうしょう、何を作ればいいんだろうと大騒ぎをする。そして、キッチンと客間を往復して、酒、料理の運搬にひたすら専念し、後は、キッチンで待機の姿勢となる。

 ところが、外国ではゲストを招待する場合、主婦が最も苦心するのは料理もあるが、そのときの話題の選択であるという。
 私は、外国出張で、相手のご家庭に招かれたりなどしたが、招待された家庭では料理はもちろんであるが、主婦は、席上での楽しい会話で、雰囲気を盛り上げるのが、招待側の女性の大きい役目の一つなのである。

 一方、接待側の男性は、事前に主婦が作った料理をキッチンと客間を往復して運ぶのに大わらわである。
お客との会話などは、最初しばらくは主婦任せで余りゆっくり話す余裕もないように見受けられた。

 一度オーストラリアで家庭に招待され、美味しい料理と面白い話題に花が咲いた頃、私は昼を沢山食べ過ぎていて、折角の料理に余り手が付いてなかったのを接待側の奥様に見付けられ、「私の料理が気に入らないのかしら?」というような顔をされ、いや美味しいのだがお腹がいっぱいで云々と弁解に苦労した事がある。
 主婦はホステスといして会話を盛り上げるが、その傍らお客の料理に対する態度もそれとなく見ているのである。之は馴れない日本人にとってはしんどい!

 日常から話題の乏しい日本の家庭の主婦(違う方もおられると思いますが)には、このような技は難しいことである。もっとも、日本には、家庭を守る夫人は表面に出ないことを美徳とする思想もあるが。
 とすれば、結局、日本人の主婦たるもの家庭パーティーなどでお客とともに会話を楽しむというような事は出来るわけがないのである。しかし、最近は少し変わってきている様にも思う。

 今の状態が続けば、よほど、世の男性、女性の意識改革でもしない限り、日本の料亭、クラブなどは安泰であろうと思う。
 とはいえ、最近は料亭やクラブなどの専門の女性でも、話題が乏しくなり、ややもすれば、やたら酒ばかり注いだり、カラオケに逃避したりする連中が多くなった。

 かって、「やぶにらみ」が北海道勤務の時、「すすきの」でよく使うクラブの女将と親しくしていたが、彼女は、毎日、朝食後に主要新聞三紙くらいを隅から隅まで読んでから、美容院に行き、昼過ぎからおもむろに出勤し、ミーティング他打ち合せをするのが毎日だと言った。

 「やぶにらみ」は感心したが、政治、経済から社会の出来事全てかなり広く知識を持つのがホステスの基本だとも言った。
 彼女のクラブに家内を連れて行ったとき、彼女の脇に若いホステスが一緒に席に着いた。若い方が家内に「奥さん」と言った。彼女は毅然として「奥様とおっしゃい!」と叱った。
 「やぶにらみ」は感心して見ていた。今時そんな気位を持ったホステスは、もういないだろう。

 「やぶにらみ」は、自分がよく使う料亭やクラブには一度は家内を連れて行く。仕事柄、緊急の場合の連絡場所、方法を知っておいて貰うためである。
 しかし、之はやぶ蛇でもある。そのうち必ず女将達と家内は親しくなる。そうなると、こちらの行動は、常に筒抜けになる危険性が出てくる。しかし、職務上絶対に必要な対応なので仕方が無い。
酒
 さて本題に戻るが、日本全体が“楽しい酒席の会話”に関して、砂漠化しているのではなかろうかと思う。
 ある新聞に面白い記事が載っていた。それによると最近良く使われるシンポジユームという言葉の語源は、一緒に酒を飲むこと、すなわち、宴会を意味するギリシャ語だそうである。食卓で酒を酌み交わしながら、古代ギリシャ人は、大いに論じ合って楽しんだのであろう。

 私達の酒席も、会話を豊かにして……と考えると、こりゃ、まだまだである。然し、シャッチョコ張って会話がどうの、話題がどうの、といっていたのでは肩が凝り、楽しくない。

 やはり日本人同士であれば、やりたいようにやるのが一番である。永い習慣は一度には中々、変えられない。相手も私達と同じ環境に育ったものであれば、なお更のことである。
 アフターファイブに気の合ったドウシが、盃片手に上役の悪口を言い合う酒も、また旨いものである。いや、今は暑いからジョッキーかな?

 時折り、「やぶにらみ」のこの話でも思い出して、酒席の話題の一助として、取り上げていただければと思ったりする。