堀野書道学校スタッフブログ

堀野書道学校の事務員が運営するブログです。記事や写真を交えて、どのような学校であるか?また、書道を身近に感じてもらえるようなブログにしていきたいと思います。

カテゴリ : 書道コラム

書道で使う半紙は大まかに分けて機械で作る「機械漉き」と全てを手作業で行う「手漉き」に分けられます。

当然手作業の方が値段も高いですが、機械漉きとは比べ物にならない書き味です。

紙の原料としては、パルプ・三椏(みつまた)・楮(こうぞ)・雁皮(がんぴ)などがあげられ、昔は国産の物がほとんどでしたが、今は輸入物に頼っているそうです。

そこに加え、原油や原材料の高騰など職人さんの頭を悩ます問題が多いのが現状です。


書道は基本紙を使って練習をします。(壁や土に書いて練習した苦学の能書家もいましたが)

この紙は職人さんがコストや原料の変化などに対応し、苦労しながら作り上げたものです。原料の輸入先が変わることで全く同じ物を作れないというのが難しいところであり、また味わい深いところでもあります。


何枚書いた、とおっしゃる方がいますが、何枚書いたかは重要ではありません。


一度書いた紙でも余白があればそこに練習できます。表に書いたのであれば裏を使ってまた練習できます。使い切った紙は反故紙(ほごし)として硯の掃除に使えます。


紙は貴重なものです。一枚も無駄にすることなく使い切ることを心がけたいものですね。これは物を大事にするという書道を通した教育にもつながることだと思います。

時代の移り変わりによって、生活環境、労働条件も激しく変化している昨今です。


準本科、予約通学クラスなど昔は無かったコースが増設されてご好評いただいておりますが、これも時代に合わせたものを用意しなければとの考えからでした。


どの程度通えそうか?無理のない程度に。と入学希望者にはお話していますが、最も大事なことは一つの区切りまで続けること、とお話しします。


例えるなら、リアカーを引いて坂道を登り始め区切りとなる場所まで行こうとしているのに、途中で押すことをやめてしまうと、坂道で手を放して止まるようなものです。当然バックを始めてリアカーはスタート地点まで戻ることになります。


労力と時間の無駄で骨折り損のくたびれもうけです。


対して区切りまで続けた方は、たとえそこから少しお休みしたとしても、坂の途中ではありませんからバックを始めません。多少埃をかぶって錆びついていたとしても、少しの運動で元に戻り、また高い位置からリスタートできます。(創立者談)


数回料理教室に通っただけで、一流のシェフにはなれません。数回野球教室に通っただけではプロ野球選手にはなれません。ピアノ教室、整体、ボーカル、陶芸・・・。どんなジャンルでも続けることが、本当にそのものを楽しむ心理まで持ち上げてくれます。


成長した自分を楽しみに、続けることの大切さを心に留めておきましょう!


気になる記事を見つけましたのでご紹介します。

http://www.excite.co.jp/News/column_g/20140218/Postseven_241847.html


文字は読む・書く・記憶する・意味を覚える。と一つで4種類もの学習をしなければなりませんが、文字を書くことと記憶すること、意味を覚えることはそれぞれ使っている脳機能が違います。小・中学校で行われている教育はこれらをすべて一括して教えるため効率が悪いのです。

ただ文字を綺麗に形どるのであれば、美しく見える法則にしたがって手に記憶させてしまえばよいのですが、文字にはひとりひとり違った雰囲気を持った個性が現れます。

この個性にも長所と短所があり、書く人の性格や生活環境によって変わってくるため、書かれた字を見て長所を伸ばし短所を矯正していくことが書道教育の課せられた使命だと私たちは考えます。

創立者は「習字」ではなく「修自」(字を見つめなおし己を高めること。すなわち自分を修めること)という名称にしたほうがよいのではないか?と考えていたようです。

社会にもルールやマナーがあるように、文字にも美しく書くルールと法則が存在します。その範囲の中で表現するからこそ個性が存在するのであって、ルールを無視して自由に書きなぐるのであれば、「無法者」と同じことになってしまいます。

古来、文字を落ち着いて書くことは精神修養につながる。と日本人は考えてきましたが、今ではインドがそこに重点を置き教育をおこなっているようです。我々が持っていた良いものをもう一度見つめなおして教育を行うべき時が来ているのではないでしょうか。

何かの記事で読んだことですが、世の中が混沌として辛く悲しいことが増えてくると、人間はただひたすらに楽しいことのみを求める傾向にあると。


ただ楽しければ良いので、自分の成長につながるだとか、世の中のためになるだとか、そういったことは全く関係ない(眼中にない)そうです。


「楽」という字は元々、神を楽しませるための舞楽のときに使った手鈴の形が字となったものですが、現在では「面白い」とか「愉快」といった意味合いで使われています。


困った時の神頼みと言いますが、もしかしたら、苦しい状況を打開して欲しいがために神のご機嫌を取ろうとして舞をささげていたのかも知れませんね。


舞を踊る人間は自分たちの生活がかかっていますから、楽しい(愉快)どころか緊張しながら踊っていたのかもしれません。


つまり、舞を見ている神は楽しい(愉快)であったかもしれませんが、楽しいことをしている踊り子(巫女)は必死に頑張っていたのだと思います。


そう考えると、「楽しいことをする人間は真剣に頑張ること」と意味づけられるかもしれません。


ただただ愉快になることだけを求めて頑張ることを忘れては、世の中はどんどんダメになると思います。。


「楽しい」=「頑張ること」


こうあって欲しいと思いながら、日々精進を続けていきたいものです。



まとまりの無い記事となりましたが、今回はこれにて。

何事でもそうだと思いますが、目的や目標も無いのに何かを始めることほど無謀なことはありません。
漠然とでも良いので、何か進むべき方向を決めてから歩き始めないと、労力も時間も無駄にすることになってしまいます。人の人生は限られた時間しかありませんから、時間を大切に。



「企画の盲点」

 何事でもこれから着手せんとする場合手順を考えねばならない。途中を引き抜くと、その物も痛めるし、束のものは締りが無くなる。たててあるものは横倒しになり、不安で見苦しい。

仕事の内容だけを調べて企画を建てる方もあるが、永続性を考えると充分とは云えぬ。まず書道の事で考える事にいたしましょう。



1、趣味 2、精神修養 3、実用対象 4、教育対象 5、芸術対象



1、趣味の場合上手になるとか美しいとかが条件ではない筈、その人がその事に従っているだけで慰められる事である。筆の性質を調べたり味わったり変化を楽しんだり、政治、宗教、芸術家とか各々変った方の筆使いや特長を調べてみたり、性格や共通点を調べたり、時代時代の息吹を調べたり、金石文を調べたり、書体、書風を調べる。



2、精神修養とは筆を持って文字に写る自己の欠陥を矯正して行き、神人一如の境地を造ることを研究するので、世間から見た美醜は対象にならない。



3、実用の対象は範囲が広い。事務関係の文字から、日常の通信文、届もの、掲示用の物、看板、広告、印刷物用のもの、商品関係のもの等々である。



4、教育が対象であるから、対者より数等技能が優れて居なければならない事は当然の事であるが、対者を個人指導か、団体指導かで指導方法が異なりますが、どう指導することが一番良いか、こうなると単に文字が上手に書けるから塾を開くということは許されぬ。指導出来るかどうか「教育すること」である。教育となると、文字だけの世界だけを何程研究しても、これは指導の一部であって全体ではない。世界の動勢、学校の教育方針、現社会の在り方、将来の見通し、対者個性や環境に精通せねばならない。



5、芸術対象は、純粋なる書家であって、指導する事は、害こそあれ、益せぬもの、経済観念が供なっては純粋とは云えぬ。日展に入選するとか特選になったからといって芸術家として認める事は早計である。何故と云って、何%かは金の力で動いている。又経済力乏しく出品するに用具代や時間の無い方の中にも立派なものが多い。日展運営に不満組の者もかなり多く、脱退している者もある。尚近来の日展の傾向として、個性に富めるもの、個性の強いものが採用されるので、先生が落選、門人が入選すると云った状態なので、現在政治手腕というか勢力ある者が運営している芸術界は、今の時代に人気はあるが、人気があるから立派とは云えない。

 映画、歌謡曲の様なものでもニューフェイスが人気があって、芸術が磨かれて立派な内容が出来た頃、芸は師匠でも演出の時は脇役である。同様に人気と芸術とは必ずしも並行しない。従って芸術家が人気を対象にしたら芸は下である。



○何を対象に研究するか。

書き方。習字。書法。書道。

何れも筆を持って字を書くのですが「内容」は全然異なっている。この事は申上げた事がありますから省略します。只漠然と手本を見て稽古することは、習わぬよりは良い程度で単なる暇つぶしに終る。そこでハッキリ対象を決める事である。

 

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