前回創立者の理想という論文を紹介しました。まだまだ紹介したい論文はありますがまた後の機会に。


今回は「書道の可能性」について考えてみたいと思います。


まず最初に、私達堀野書道学校は「日本書法芸術院」(以下芸術院と称す)という会の会員が堀野書法を広く伝えるために協力して作り上げた学校です。関係者はこの芸術院の掲げた理想を達成するために活動していきます。芸術院の最終目的は書道を教える先生を海外につくり、書道を世界の人々に知ってもらい、世界平和に役立てることが目的ですので、有名になって名声を得る「大先生」と呼ばれる人を排出することではありません。

創立者がアメリカで日本人として初めて書道のデモンストレーションをおこなったり、中日友好協会本部、中国書法家協会との交流など、海外に書道を紹介するために様々な活動を行ってきましたが、まだまだ十分とは言えません。

現在、東京校にロシア人の留学生が書道を習いに来ていますが、日本に来るまで「書道」という文化があると聞いたことはあったが、どんなものかまでは知らなかったとのことで、海外にはほとんど認知されていないのが現状です。けっしてロシアが最も遠い隣国と呼ばれているからではなく、日本人自体が自分たちの文化を理解せず海外に伝える努力をしてこなかった結果の現れだと思います。


芸術と呼ばれるものは世界に無数に広まっています。彫刻しかり、油絵しかり、音楽だってそうでしょう。では書道は??前述のように芸術なのにほとんど知られていません。彫刻、絵、デッサン、音楽を教える先生は世界に溢れているのに、書道を教える先生は世界にはいません。
これは企業に例えるならば競合他社が全くいない分野と考えてもよいでしょう。その未知の分野の可能性は無限に広まっていると思いませんか?

書道なんて古臭い。そういわれる方がいます。その古臭いという考え方自体が古臭いのです。井の中の蛙的考えです。私達日本人からしたら大昔からあるから古臭いとなるのでしょう。では全く知らない外国人にしてみたら?それはとても新鮮で目新しいものなのです。彼らは興味を示したことには夢中になってとりかかってくれます。古臭いと考えるのは島国根性の身についた日本人となってしまったからです。

グローバル化と叫ばれて久しいですが、書道もグローバル化するべき時期に来ています。ではグローバル化とは何なのでしょうか?持論は様々あると思いますが、大半の日本人は「まずは英語を覚えること」と考えているのではないでしょうか。確かに重要です。確かに重要ですが、何か違うのでは?

英語を教える先生はアメリカ、イギリス人などが一般的です。彼らは生まれた時から英語を耳にし、その先祖代々も英語を使い続けていたでしょう。小さい時から培ってきたものを全く知らない人に教えていることで先生業が成り立っています。ここに「教える」と「教わる」という「上下関係」が成り立ちます。
そこから脱却するためには、英語を「教わった」お返しに日本に古くからある独自の伝統や文化を「教える」ことで、はじめて対等な関係が築けるというものではないでしょうか?
ただただ英語を教わるばかりで自分たちの昔から持っているものを古臭いと捨て去り、教え返すものが何も無いということは、永遠に主従関係から抜け出せない、対等な立場を築くことを自ら捨てているということになりませんか?それをグローバル化と言っていいのでしょうか??

今やパソコン一つで世界の情報が簡単に手に入る世の中です。その中で日本人の精神分野に関して興味を示す外国人は非常に多いです。書道は心を鍛える分野でもありますから、外国人に正しく伝え、理解させることができれば、グローバル化の先駆者となることもできるのです。

外国人に理解してもらうには「誰にでも理解できる説明」ができることが絶対条件です。それを我々は「科学的指導法」として萬人に理解できる方法を考えだし実践しているわけです。

書道を教える先生が海外にいれば、墨、筆、和紙などの伝統工芸品の輸出ができる。経済的自立が可能となるため職人の後継者が増える。書作品を飾る表装の技術を教えることができる。興味を持った外国人に教えて、弟子にすることもできる。結果書道人口が世界単位で増える。


こう考えると書道の未来は非常に明るい。無限の可能性が広まっています。
そのためには、まず日本人自身が本物の書道を知ること。そして人に教えられるようになること。一人では不可能なことも集団となれば可能となるはずです。
私たちは先祖が作り出した独自の文化を持っています。これは世界に二つとありません。狭い殻に閉じこまらず、自分たちの足元を見つめなおし、一致団結して外に飛び出す時です。書道は古臭いんじゃない。可能性の塊なんです。